自分のムドラーが降りてくる幸運な人

形の科学であるムドラー(印契)は、インドの精神文化において音の科学(マントラ)と同じような重要性と深みを持っています。
占星術の知識がある方であれば、それぞれの指と惑星とに密接な関係があることをご存知でしょう。
ムドラーは、惑星の力と神々の力を内包し、それらと繋がれる素晴らしい叡智なのです。
ご自身に合った様々なムドラーを学び、長い年月修練していく中で、ある時自分なりの特別なムドラーが出来上がることがごく稀にあります。(両手の指を使うものですので、マントラのような音の組み合わせより選択肢が少なく、自分なりのものが出来上がりやすいのかもしれません。)これらは、頭で考えてつくったムドラーとは根本的に異なります。
長い修練の後に得たものは、特殊な意識状態の中で降りてきたもの、とも考えられます。
このような形でムドラーを得た場合、それが後に既存のものでることがわかったとしても(大抵は太古の聖者たちが既に感得したものだと思います)、あるいはそうでなくてもその力は尋常ではなく、霊的世界のみならず物質界に大きな現象を起こせるものである可能性があります。
このような幸運に与る方は、相当な霊的修練を積まれた方でしょう。もしかしたら元々グル(グールー)としての性質をお持ちの方かもしれません。
降りてきたムドラーにどのような性質があり、どのように作用するのか、見極めることが肝要だと思います。さらにグルをお持ちの方は、アドヴァイスを受けられるのが良いと感じます。

もちろん、地球上のほとんどの方は、残念ながらそのような幸運には恵まれないでしょう。そのような場合でも、伝統的なムドラーを正しく学び、実践を積むことで、同じように素晴らしい霊的ゴールに至ることができると考えております。

マントラも12万回ですとか、100万回唱えるのは、霊的修練を積まれる方の中ではそれほど珍しいことではありません。ムドラーも同じように何十万回もしくは何十年も組むことにより、隠されたその秘密を手にすることができるのかもしれません。

(文章:ガネーシャ・ギリ)

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ガネーシャ・ギリ氏共著 『インド占星術と運命改善法』

ガネーシャ・ギリによるインド占星術鑑定

ガネーシャ・ギリによるヨーガクラス
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シャイラプートリー女神の恵み

女神を讃える夜が9日間続くナヴァラートリー祭では、ドゥルガー女神の9つの姿である「ナヴァドゥルガー」が1日ずつ礼拝される習わしがあります。
そんなナヴァドゥルガーの中で、最初の女神として崇められるのがシャイラプートリー女神です。

シャイラプートリー女神は、シヴァ神の最初の妃であるサティーの生まれ変わりと信じられ、霊性修行を行う中で、まず初めに礼拝されるべき存在として崇められています。
その名前には、「山の娘」という意味があります。

空を突き破るように高く隆起する山々は、インドでは古代より、偉大なエネルギーの象徴として崇められてきました。
この地の本質として、あらゆるものを宿すと考えられてきたそのエネルギーは、私たちを育む、慈しみに満ちた存在です。

そんなエネルギーの象徴であるシャイラプートリー女神は、私たちの身体において、第1番目のチャクラであるムーラーダーラ・チャクラに眠っていると信じられます。
ナヴァラートリー祭の最初において礼拝されるシャイルプートリー女神は、霊性修行において、私たちがまずこの偉大なエネルギーを呼び覚ます必要があることを伝えています。

シャイラプートリー女神は、シヴァ神と同じ雄牛を乗り物とします。
内なる世界で彼女が目覚め、雄牛に乗って霊的な旅を始める時、私たちのエネルギーは、頭頂で待つシヴァ神に向かい始めます。

春と秋の2回、季節の変わり目に祝福されるナヴァラートリー祭は、世界を動かすそんな女神のエネルギーが活発になる時です。
このナヴァラートリー祭を通じて9日間に渡る断食や霊性修行を努め上げると、そのエネルギーはシヴァ神に結びつくと信じられてきました。

大自然のさまざまな動きが神々として崇められてきたインドにおいて、高くそびえる山々ほど、この地が生み出す偉大なエネルギーを覚えることはありません。
そのエネルギーは、私たちの内なる世界にも存在しています。
自分自身の努力によって、そのエネルギーを呼び覚ますことで、やがて限りのない至福にたどり着くことができるに違いありません。

もっとも神聖で、吉兆の日であるといわれるナヴァラートリー祭の始まりに、皆様にもシャイラプートリー女神の大きな祝福がありますよう心よりお祈り申し上げます。

(文章:ひるま)

春のナヴァラートリー祭2018

ナヴァラートリーとは、ドゥルガー、ラクシュミー、サラスワティー女神をお奉りするヒンドゥー教の三大祭典のひとつです。「ナヴァ」はサンスクリット語で9をあらわし、「ラートリー」は夜を意味します。したがって、ナヴァラートリーとは、9日間の夜となります。この祭典は、春と秋の年2回、9日間にわたって行われます。ヒンドゥー教のカレンダーでは、月齢にしたがっているために毎年開催時期が多少前後しますが、2018年は3月18日から26日まで行われます。

ナヴァラートリーの9日間は、礼拝する神さまに応じて、3日間ずつに分けられます。はじめの3日間は、わたしたちの心の中に潜む不純物や悪徳、欠点を破壊するため、強力な戦士でもあるドゥルガー女神を礼拝します。次の3日間は、すべての帰依者に尽きることのない富と幸福を授けるといわれるラクシュミー女神を礼拝します。そして、最後の3日間は、創造主ブラフマーの妻であり、学問と芸術、そして叡智を授ける女神であるサラスワティー女神を礼拝します。わたしたちは人生のさまざまな局面で、神々からの祝福を求めて、3つの側面をもつそれぞれの女神さまにお祈りを捧げます。そのために、この祭典には9日間が費やされます。

ナヴァラートリーの期間中、真摯な帰依者の中には、断食をしながら、健康や繁栄を願って祈りを捧げる人々もいます。じぶん自身の日々の生活を見つめ直して、人生の向上につながる新しい習慣をはじめるには、昔からナヴァラートリーはこの上ない吉祥の日であるといわれています。

9日間を通じ、女神の様々な姿を見つめ自身の心と向き合った後、訪れるのがラーマ・ナヴァミ、ラーマ神の降誕祭です。ヴィシュヌ神の化身でもあるラーマ神は、正義や美徳の象徴であり、悪を倒す為に弓を持ち戦いに赴きます。9日間の夜を通し自身の内に気づきという光を灯すことによって、人は無知である暗闇、悪を倒します。そして、この正義の誕生という日に盛大なる祝福を捧げます。

ナヴァラートリーは、自身の内面に潜む不浄な傾向を克服するために、非常に重要な期間とされています。この神聖な期間を活かして、かつてラーマが悪鬼ラーヴァナに勝利したように、わたしたちの内面に潜む悪魔を討ち滅ぼすことができるよう日々を過ごされてみるとよいでしょう。

参照
[1] “Navaratri” from Wikipedia, Free encyclopedia, http://en.wikipedia.org/wiki/Navratri

第17回グループ・ホーマ(トリヴェーニー・ガート)無事終了のお知らせ

第17回グループ・ホーマにお申込みいただきました皆様、誠にありがとうございました。

第17回グループ・ホーマ(トリヴェーニー・ガート)は、2月13日に無事に終了いたしました。

プージャーの写真と動画を以下に掲載させていただきます。

神々の祝福と、より良い体験がありますよう、心よりお祈り申し上げます。

第17回グループ・ホーマ(シュリー・サナータナ・ダルマ寺院)無事終了のお知らせ

第17回グループ・ホーマにお申込みいただきました皆様、誠にありがとうございました。

第17回グループ・ホーマ(シュリー・サナータナ・ダルマ寺院)は、2月13日に無事に終了いたしました。

プージャーの写真を以下に掲載させていただきます。

神々の祝福と、より良い体験がありますよう、心よりお祈り申し上げます。

121,ラクシュミ女神のラーガ (1) Raga:Shri

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たくましい女神:ラクシュミ
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インドの飲食店や様々な雑貨屋から煙草屋に至る迄、およそ商店には必ずと言って良いほどそのポスターが飾られている「商売繁盛の女神」でもあるラクシュミ女神。

日本では「弁才天」が「弁財天」となってしまったので、かぶってしまった感があります。また、ラクシュミの日本での姿「吉祥天」は、四天王の一柱「毘沙門天」の妃とされます。しかし、「毘沙門天=クベーラ」は、ヴェーダ・ブラフマン教の中でも比較的後期の経典とされるアタルヴァ・ヴェーダで言及されているとしても、ブラフマン教の神であることには違いはありません。

シヴァと友好関係を結びカイラースにてヤクシャ(夜叉)、ガンダルヴァ(乾闥婆)、ラークシャサ(羅刹天)などの「下級神」と共に暮らすとされます。
仏教でもそれらは下級神ですし、そもそも四天王もしかり。本来は滅ぼされるところ、仏の慈悲を乞い、仏典の守護を誓って武神として存続したとされます。

これらのことから、吉祥天(ラクシュミ)も、かなり古いヴェーダの女神であったであろうことは容易に推測出来ます。サラスワティーも同様ですが、女神は比較的厚遇されているのか、ヴィシュヌの妃という高い地位を得て存続し、むしろ数多の神々の中でも最も庶民に愛される存在になっています。 ちなみに吉祥天の母は、「鬼子母神」とされ、「鬼子母神」は、Yakshini、すなわち「夜叉」の女性形ですから、やはり本来は下級神です。

ラクシュミの別名も多数ある中で、インド古典音楽のラーガ(旋法)の名前に起用されている「Shri」は、ラクシュミの多様な側面を総括したような、女神としてはかなり重たく深い存在感があると思われます。そして、ラーガ:シュリーもまた同様で、かなり修行を積まないと表現し切れない重く重要なラーガのひとつです。

一方意外で面白いと思ってしまったのが、何処の地方の呼び名なのか、「Chanchal」という別名です。「チャンチャル」は、「すばしっこい」「あちこち飛び回る」などのイメージがある言葉で、これをインド古典音楽の太鼓:タブラの腕前に用いる時には、とても良い「褒め言葉」になり、本名かどうか?Chanchal Khanという演奏者もいました。

ところが、チャンチャルには、別な悪い意味もあり、女性に用いる時は公然とは決して言えない陰口・悪口で、はっきり言って「尻軽女」でしかないのです。
まさか、ヴェーダ・ブラフマン時代から、苦労して今日の高い地位に登り詰めたラクシュミのたくましさを褒めつつ、前述しましたような時代時代のトップクラスの神の妃となった遍歴から来ているとしたら凄い話しです。何方かご存知でしたら教えて下さい。

しかし、そのようなことも含めて、パールヴァティー・ドゥルガーなどの圧倒的な神力を誇る女神と比較して、魔神・鬼神を滅ぼすような力は発揮せずとも、ラクシュミも、かなりたくましい女神ではないでしょうか。

別な視点から言いますと、「幸運や金運をもたらす」ということを、ご利益宗教的感覚ではなく、もっと深い意味合いで分かろうとした時、そこには、「運気の乱れ・滞りを正す力」があることに辿り着きます。つまり、「ナーダの流れを潤沢にする」「ナーディーの詰りをクリーンにする」ことも含め、「運気」のみならず、「経絡」そして「思考」に於いても、「体・気・思考」の三位に対してバランス良く「滞りを解除し、乱れを取り除く」ということに他ならないのです。

実際、アーユル・ヴェーダ音楽療法でも「Raga:Shri」の重要な効能にそれが挙げられています。

逆に言えば、自身の「体・気・思考」特に、「思考」についてが無頓着であったり削除されがちですが、自身で出来る努力を惜しみ、ご利益を乞うようでは、果たして如何なものか?と思わざるを得ません。

尤も、このテーマ「自力本願と他力本願(※)」は、インドでも昔から議論されているところです。いずれ近々、しっかりお話し出来たらと思います。(※)本来の仏教用語の意味であり、慣用句の意味ではありません。

「滞り」の最も質の悪い「原因」が、「執着」と「依存」です。だからと言って、近年流行の「断捨離」や「Detox」をすれば良いということではなく、「心と思考」に潜み、こびりついている「執着と依存」をクリーンにせねば何の意味も持たない、ということです。

ところが哀しいことに、むしろ心と思考にその問題を抱えている人に限って、より一層「人間関係」や「身の回り(目の前の物)」を「すっきりさせないと過負荷を強く感じる」ものですから、結果として、内面的な問題をむしろ温存する為かのように、外因を解決させようとしてしまいがちです。勿論、無意識に。

しかしこれは、極めて危険な発想であり行為であることは紛れもないことです。

勿論、様々な物事が「カオス状態」になっていることを由と言っているのではありません。大切なことは「整理整頓」であり、良いものをより深く吸収し、より正しく消化することと、害のあるものを、より初期にその侵入を防ぐこと。そのために、デフォルトの機能を正常に戻すことが大切であり、それが「生命力」であり「体力」であるという考え方です。

その基本をないがしろにして、局所対処的に、表面や気になることだけを解決しても、一時凌ぎとしては有効でも、長く続ければ弊害の方が大きい、ということなのです。

つまり、ラーガ:シュリーの名演奏に運良く巡り合わせたとしても。自らで「滞りと乱れの原因」を温存しているようでは、その「清らかで果てしなく解き放たれた自由な流れ」を感じ取ることは出来ないだろうとも言えます。
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Raga:Shriの素晴らしい構造
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Raga:Shriは、数在るラーガ(一説には34,776種とも)の中でも、格別な地位を持って居る、現存するラーガでは最も古い部類に属するものです。しばしばShri-Ragaとも呼ばれ、その場合は、Raga:Shri-Ragaとは言いませんが、そのようなラーガは、唯一かも知れません。

Raga:Shriがラクシュミに因んだものであることは間違いないのですが、中世前期にヒンドゥー教徒音楽家の間で流行した「Raga-Ragini」という分類法では、なんとShri-Ragaは、「夫ラーガ」なのです。

同分類法では、ラーガ観念が確立する以前からの古いShrti旋法、Grama旋法、Murchchana旋法などの生き残りのラーガを「六大Raga」とした結果、古いShri-Ragaは、それに含まれてしまったのです。

「夫ラーガ」は、それぞれ「六つの妻:Ragini」を持ち、36種が整理されました。その後も増え続け、「息子」のみならず、「息子の嫁」まで至ったのですが、「古い主要ラーガ=六大夫ラーガ」以外は、何故に「Ragini」なのか、息子なのか?嫁なのか?の音楽的・構造的な概念は確立していません。従って、Shri-Ragaが「男性旋法である」という根拠は、論理的にも理論的にも存在しないのです。

図に示しましたように、Raga:Shriは、レとラがフラットし、ファがシャープの「Purvi」という代表音列の引き出しに整理され、主音はフラットの「レ」、副主音は「ソ」です。
上行音列は、ミとシを割愛した五音音階で「ドレファソシ」となり、下行音列は、七音使いますが、かなり複雑に「ジグザグ(Vakra)」進行することが定められています。

例えば、オクターヴ上の「ド(Sa)」は、上行音列で辿り着いたと思ったその音が「Vakra」なので「ドシラソ~」と降りては来れないのです。なので、一歩引いて「上のレ」に行き、「ド」を飛び越えて「レシラ~」とせねばなりません。

下行音列に於ける「ソ」は、このラーガ独特の「半Vakra」のようなもので、その解釈・説明はいささか難解です。

純然たる「Vakra」ですと、「その音にぶち当たったら、一歩引いて(助走を付けるようにして)その音を飛び越して行く」のですが、

このラーガでは、一旦「シラソファ」と普通にソを経由してしまいます。ところが、まるで思い出したように、「ソラ」と戻り二度目には「ソ」を飛び越えて「ラファミレ」と進むのです。

「半Vakra」と述べましたのは、この「半Vakraの壁」が、通常の「Vakraの壁」のように、「助走を付ければ飛び越えられる高さだか、普通に歩くならば、頑強な上にまたぐのは無理」とは異なり、まるで、「ゴムロープ製」かのように、「シラソファ」とファ迄は行けてしまうのです。が、そこでゴムロープの力で「ミ迄は行けない」のです。なので、戻って、ちゃんと「飛び越えて」「ミレド」に行くしかない、というものです。

私たち演奏者は、「シラソー」と弾いた段階で、「しりとり」的に、次のフレイズ「ファソラファミレー」が反射的に出てしまうと言いますか、「そう弾きたくなる」という感じです。

その他にも、「Pakad(特徴的なフレイズ)」では、「ドレファソ」の他に、「シレファソ」と、「ミ」の他に「ド」も飛び越え(割愛)たりします。
また、高音域の「レドレー」のような、「Vakraのド」を越えて「シ」には進んでいないのですが、「Vakraのド」を強調するようなフレイズが幾つかあります。

また、上記の「半Vakra」の超法規的フレイズですが、「ソからの下降」の前に「ソファソラ」のフレイズを弾くと、「半Vakra」も解除され、「ソファミレ」と進むことが可能なのです。また「ファラファミレ」のように、まるで「ソ」を嫌ったかのようなフレイズも頻出します。

「ド」と「ソ」の割愛をよりキツくすると。基音伴奏楽器や、シタールなどに付属の伴奏弦の音が聴こえていても、一瞬「シが基音」のように聴こえる効果が得られます。
すると、「レ・フラット、ファ・シャープ」のおどろおどろしい雰囲気が消え、「短二度、短六度、短七度」の所謂「短調」に聴こえたりするのです。が、そこに「意図的に隠し(Tiro-Bhav)ていた基音(ドやソ)」が突如現れると、「錯覚から現実に戻された」大きなインパクトが与えられるのです。

このように、「Raga:Shri」は、流石の神のラーガ、ラクシュミのラーガだけあって、「単純でシンプルな面」と「複雑で頑固な面」、「畏怖の念を抱かせる面」と「平穏で安心で優しい面」を併せ持ち、それが神出鬼没的に現れるということで、聴くにしても奥が深く、弾くにしても難解で重たい、というラーガ(旋法)であることが分かると思います。

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何時も、最後までご高読を誠にありがとうございます。

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また、現在実施しております「インド音楽旋法ラーガ・アンケート」は、まだまだご回答が少ないので、
是非、奮ってご参加下さいますよう。宜しくお願いいたします。

https://youtu.be/wWmYiPbgCzg

1月2月も、インド楽器とVedic-Chant、アーユルヴェーダ音楽療法の「無料体験講座」を行います。詳しくは「若林忠宏・民族音楽教室」のFacebook-Page「Zindagi-e-Mosiqui」か、若林のTime-Lineにメッセージでお尋ね下さい。 九州に音楽仲間さんが居らっしゃる方は是非、ご周知下さると幸いです。

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You-Tubeに関連作品を幾つかアップしております。
是非ご参考にして下さいませ。

Hindu Chant講座Vol.1

Hindu Chant講座Vol.2

Hindu Chant講座Vol.3

Hindu Chant講座Vol.4

Vedic Chant入門講座(基本理解編)

Ayurveda音楽療法紹介(基礎理解編)

アーユルヴェーダ音楽療法 (実践編1)

アーユルヴェーダ音楽療法 (実践編2)

アーユルヴェーダ音楽療法 (実践編3)

「いいね!」「チャンネル登録」などの応援を頂けましたら誠に幸いです。

(文章:若林 忠宏

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若林忠宏氏によるオリジナル・ヨーガミュージック製作(デモ音源申込み)
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ヨーガ・スートラ第3章第3節

Hindu God Yoga Sutra of Patanjali Statue on Exterior of Hindu Temple


तदेवार्थमात्रनिर्भासं स्वरूपशून्यमिव समाधिः॥३॥
Tadevārthamātranirbhāsaṁ svarūpaśūnyamiva samādhiḥ||3||
タデーヴァールタマートラニルバーサン スヴァルーパシューニヤミヴァ サマーディヒ
それが対象だけの輝きとして現れ、自分自身はあたかも空っぽのようになるのが、三昧である。

簡単な解説:前節において、ヨーガの8つの部門の中の瞑想について説かれ、それは、凝念の時と同一の場所を対象とする想念が、途切れることなく、一方向に伸びていくことであると説かれました。本節では、ヨーガの8つの部門の最後にあたる三昧について説かれ、それは、瞑想の対象のみが輝きとして現れ、自分自身はあたかも空っぽのようになる境地であると説かれます。

断食を行う理由

シヴァ神を讃えるもっとも神聖な夜であるマハー・シヴァラートリー。
この夜、多くの人々は断食を行い、シヴァ神への祈りを捧げ、プージャーを執り行います。
インドでは、こうした祝祭やプージャーを受ける際、一般的に断食を行うことが勧められます。
この断食を行う理由には、宇宙の生み出すエネルギーを享受するための深い意味が秘められています。

インドの祝祭の多くは、主に太陽や月といった天体の運行に基づく暦法によって決められ、毎年の日付が多少前後します。
そうして計算される祝祭は、宇宙全体が喜びのエネルギーを放つ瞬間に他ありません。
神々のエネルギーを呼び覚ますプージャーが行われる間も、同じように吉兆なエネルギーが生み出されます。
断食は、そうして放たれる宇宙の幸福に満ちたエネルギーを最大限に吸収するための大切な方法として捉えられてきました。

私たちの身体において、消化や吸収といった代謝を司るのは、マニプーラ・チャクラであると伝えられます。
臍のあたりに位置するマニプーラ・チャクラでは、消化の炎が燃え盛り、黄色の太陽のように輝いているといわれます。

食事を行うと、マニプーラ・チャクラでは食物をエネルギーに変換するための消化の活動が始まります。
一方で、断食や節食をする時、私たちは神々のエネルギーを吸収することに集中できるようになります。
そうして、祝祭やプージャーにおいて生み出される、宇宙の幸福に満ちたエネルギーを最大限に吸収することができるのです。

この他にも、断食は身体の浄化を助けるなど、多くの恩恵が伝えられます。
何より、食欲という欲望を克服することは、感覚の制御を成し遂げることに他ありません。
感覚が制御されると、意識は解き放たれ、より崇高な力を呼び覚ますことが可能となります。

祝祭やプージャーを受ける際、断食や節食をして、心と体の調和をとってみるのも良いかもしれません。
宇宙が放つ偉大なエネルギーを享受し、その大きな恩恵を感じられることと思います。

(文章:ひるま)

2018年マハーシヴァラートリーにおけるニシータ・カーラ・プージャー時間(東京)

2018年は2月13日(国内では14日)に、シヴァ神を讃える一年でもっとも吉兆なマハーシヴァラートリーを迎えます。

この日は、夜通しバジャン(讃歌)を歌ったり、マントラを唱えたり、瞑想やプージャーを行って過ごすことが勧められています。

この日の夜でも、もっとも神聖な時間帯は、ニシータ・カーラ(निशीथ काल niśītha kāla)と呼ばれています。
ニシータは「真夜中」、カーラは「時間」を意味し、このニシータ・カーラの時に、シヴァ神はシヴァリンガとして地上に顕現すると考えられています。

2月14日、東京におけるニシータ・カーラ・プージャー時間は、23時28分〜24時21分(15日午前0時21分)となります。

仕事のために、夜通しシヴァ神を讃えることができなくても、この時間帯にシヴァ神に意識を向け、讃えることで、シヴァ神の大きな祝福に恵まれると考えられています。

シヴァ神の祝福に満ちたマハーシヴァラートリーを迎えられますよう、心よりお祈り申し上げます。

参照:https://www.drikpanchang.com/festivals/maha-shivaratri/maha-shivaratri-date-time.html?l=11960&year=2018

120,VedaからRagaへの道のり(1)Sama-Veda

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Vedaの進化
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前回、Vol.119でも少し述べたように、ヴェーダ詠唱は、それぞれ数百年掛けて変遷したのかも知れない、極めて儀礼的な発展を遂げていました。
それは「単音での詠唱」から「二音での詠唱」そして「三音での詠唱」です。

しかし、前回述べたように、僧侶が寺院で経典や讃歌の詠唱を、定められた方式で厳しく地道に実践している間に、街では物売りが歌のように声を上げ、花柳界では艶歌が歌われていたに違いないのです。(その根拠のひとつに、最古のヴェーダであるRig–Vedaに、「女性専用の弦楽器」が幾つか記されていることがあります)

 実際、「音楽の起原はヴェーダである」と説き始めたのは、意外に後世ですから、紀元前のヴェーダ祭官たちは、「一音から二音、そして三音……….やがて七音になり、サレガマ……………….(ドレミファソラシ)が生まれた」とは、誰も考えてはいなかった筈です。

逆に言えば、ヴェーダ詠唱の「音数の限定」には、深い意味と価値があったに違いなく、そもそも経文・経典の詠唱には、音階や旋法に進化する理由も必要性もなく、そもそもそれを「進化」とも考えていなかった筈なのです。ところが後世、何の張り合いか? 威信の誇示か? 「全ての音楽の起原はヴェーダ詠唱である」とせねばならなかったらしいのです。

しかしそれは、むしろ弊害の方が大きかったのです。まず、それによってヴェーダの格や威信が高まったか?というと決してそうではなく、前述のような無意味な張り合いの結果、むしろ威信を傷つけたかも知れないのです。また、日々(年々?)隆盛し巨大化して行った「Gandharva音楽」に対する牽制の意味と目的があったにせよ、同じヴェーダの叡智に基づく、「科学音楽/Shastriya-Sangit」の立場をも危うくするような行為であったとも言えます。

 少なくとも、前回述べましたように「Gandharva音楽は、ヴェーダ詠唱から生まれたヴェーダ音楽を基礎にしている」と言い出した段階で、意図や恣意があろうとなかろうと、それは「Shastriya-Sangit」を黙殺したことに他ならないのです。勿論、「Shastriya-Sangit」の担い手たちにとっては、そんなことは「どうでも良いこと」だったかも知れません。

しかし、事実その数百年、数千年後、「Shastriya-Sangit」の継承が急激に先細ってしまった頃、最早インド音楽・古典音楽を志す者たちにとって、「Shastriya-Sangit」の存在は殆ど形骸化してしまったのですから、「Shastriya-Sangit」の担い手たちも、数百数千年後のことを見据えて、何らかの対抗手段(要するに反論や宣伝ですが)を取っておくべきだったとも言えるのです。

具体的には、常に複数居た「Bharatha」の中で、少なくとも半数は、「Shastriya-Sangit」の純性(Sattva)を堅持しつつ、「Gandharva音楽」を正しい「芸術音楽」に導くことを使命とする「Shastriya-Sangit」側の人間が居てもおかしくなかった筈です。さすれば、一部の「Sama-Veda–Gan」系の司祭の企てを阻止したり、修正したりも出来たのではないでしょうか。

つまり、すでに「Shastriya-Sangit」は、ヴェーダ詠唱が、まだ「一音だ二音だ」と言っている頃から、「オクターブを22の微分音(Shurti)に分割する」という「音律概念」を構築していた筈なので、「ヴェーダ詠唱から七音音階が生まれる」という話しは、或る意味滑稽とさえ言えます。(勿論、この物語は、ヴェーダ詠唱者から出たものではないですし、後世のねつ造ですが、今日未だにこれを説く研究者や音楽家も居ます)

そもそもヴェーダ詠唱/讃歌(Rig-Veda)が、三音に至った段階で、ヴェーダ祭官の側では、その三音の関係性を論理的には説明出来なかったことは、前述の「Shuruti」の記述が、VedangaでもBrahmanaでも決定的に欠如、または不足していることで明らかです。
 勿論、後世には記述がありますが、Rig-Vedaが三音に至り、Sama-Vedaに至っては七音唱法も確立していた後のことです。

 つまり、「Rig-Vedaが三音唱法に至った後の解釈」と、「それからSama-Vedaの歌唱法及び七音唱法」を導くには、「Shastriya-Sangit」の理論の助けを得なければならなかったのです。
 
ところが事実、各種のヴェーダ文献に当時の「Shastriya-Sangit」から学んだ理論を記述したものが皆無に近いのです。同時に、何故か「Shastriya-Sangit」側も文献を残さなかったのです。Upa(副)Vedaのひとつに上げられている「Gandharva-Veda」がそれだと言い張る人も居ますが、とんでもなく。おそらく、紀元後、AD5世紀以前ではないだろう「Gandharva-Veda」は、前述しました「Gandharva-Sangit」自体の有り様といきさつから考えても、かなりの「眉唾もの」と考えて掛かった方が良さそうな代物です。

 勿論、古今東西、そのような「眉唾、嘘だらけ、偽書」の類いに、意外にも「隠せなかった真実」「話しの辻褄合わせでつい本当のことを書いてしまった」を読み取ると、「声も筆も持たない本物や真実」を充分に代弁していたりしますから、むしろ私は「眉唾もの」は、極めて重要な文献と考えています。

 実際のところ、Rig-Vedaの三音も、例えば「シドレ」だとして(ドレミだと説く専門家が未だに居ますが)、慣習・慣例的に「シ♭ドレ♭」で歌いますが、それが「オクターブの22の分割の何なのだ?」は、気にしても居ないかも知れませんし、考える必要もないかも知れないのです。
 その延長線上にあるSama-Vedaもしかりで、言わば「三音が七音に進化」したならば、問題の深刻さも「二倍以上」と言えますが、ヴェーダ詠唱者側からは、何ら問題意識が生じていないのです。

 実際彼らヴェーダ詠唱者にとっては、「どちらを優先、何を優先」という観念はきっと無いのでしょうが、「韻律、語彙の発音、発声法、韻の長短、間の取り方」の方がかなり難解で厳格ですから、それで精一杯となってしまっているのかも知れません。実際、体のあちこちを叩いたり触ったり、指を独特で厳格な決まりに従って用いて憶えるので必死だった? とも思えます。
 勿論、後者は、「ムードラ/アーサナ」の意味合いもありますが。

 言い換えれば、ヴェーダ詠唱者側は、楽理とその論理・概念に関しては「Shastriya-Sangit」にひたすら頼るばかりだった、ということなのでしょう。

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音楽様式の地位の時代変遷の普遍性
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今回の図は、世界的にもかなり画期的なものと自負致します。
奇しくも古代~中世のほぼ同じ時期に、中国宮廷雅楽の内容の変遷と、インド寺院及び宮廷音楽の内容の変遷が、似たような歴史的推移、政治や国際状況の推移の影響を受けながら、同じような、と言うより「普遍的な」二つの摂理のようなものを示しているのです。
 
そのひとつは、何度か述べています「発展・拡大・拡散・多様化」と「整理・収束・収斂・統合化」の、生命体の体の中で行われている「相対する両極が交互に繰り返される法則(恒常性の基本でもある)」と全く矛盾しない作用が、文化・芸術面の大きな流れにも見られることです。

そして、もうひとつが今回のテーマに於いて非常に重要なものです。

まず、図の全てに渡って、「縦軸」は、上が「より高尚・高貴・重要・上格で論理的・理論的・厳格な音楽形態」であり、下に行くに従って「より低俗・大衆的・軽薄・下級で非論理的で理論体系が希薄な音楽形態」です。

ところが、中国でもインドでも、「前時代の下級音楽が、次の時代に格上げされている」ことが明らかなのです。

また、図では、例えば中国の「祭禮楽」は、左から右に一貫して「同じような規模」に見えますが、実際は、例えば秦代に数十曲あったものが、随・唐代では二三曲、のように明らかに大衰退しています。しかし、「先祖廟礼拝音楽」などのような、無くす訳には行かない音楽として、常に最高位に置かれていますが、言わば「儀式化(形骸化)」した音楽なのです。

勿論、インドの場合「Sama-Gan(Sama-Veda詠唱)」が「形骸化」ということはありませんが、担い手の数は、時代毎に激減していることは明らかでしょう。

図で読み取る重要なことは、花柳界音楽や外来音楽は、常に新しいものが生まれていたこと。それを宮廷や寺院の宴楽が遅れて吸収したこと。それに押し上げられるかのように、かつての宴楽は、当然「古臭く」なりますから、一部を残して格上に組み込み、他は遺棄されたのです。

言い換えれば、常に下級音楽は、「多様で豊富」であるのに対し、まるでピラミッド型のように、上級音楽は、曲数も演奏機会も少ないのです。まるで、「年功序列」の「会社組織」のようでもあり、「宮廷・寺院内」が「管理職」で、「城外」が、平社員や派遣のような感じでもあります。

ちなみに、この「置き換え/比喩」によって「普遍的な性格(或る意味Prakriti)」を見出すことも、ヴェーダの叡智ではきわめて重要な「Samanyato-Drishta (普遍性の導き)」であり、これを経ない「枝葉体験・実感至上主義」的な価値観は、決して正しい「Pramana(認識)」を経た、正しい「Vidhya(知識)」とは認められていません。

加えて、図から分かる、或る意味驚愕の事実は、「下級音楽が時代毎に格上げされる」ということは、とりもなおさず「上級音楽の質の低下」に他ならないのです。

これが、シンクロニシティー的にインドと中国で起っていたのです。
西アジアは、基本的に「歌舞音曲好ましからず」の不文律によって、宗教と音楽が完全に切り離されたイスラム教以降、若干の構造の平坦化、簡素化が見られ、時代もかなりずれますが、スーフィー神秘主義音楽との関わりなども含めた全体像を俯瞰しますと、「同じ構造」は、やはり紛れも無く普遍的に見られます。

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(文章:若林 忠宏

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