愛のためのカーマデーヴァのマントラ

人生で恋愛ほど祝福に満ちたものはありません。人生は恋愛と結びついてこそ、実りあるものとなります。それはこころを和らげて美しくし、またあなたの魂を本来のあるべき場所へと導きます。この世の音楽で、天使たちのいる天界へと届く音楽は、愛の賛歌を奏でたものです。

この世の幸福の中で、夫婦間で信頼し合い、仲良く生活できることほど幸せなことはないと、H.ガイルズ博士は述べています。意中の異性に惹かれ、また互いに深く愛し合うことは、間違ったことではありません。近い魂がお互いに惹きあい、自然と互いの愛が形となることは、宇宙の創造主がつくりだした創造原理です。しかし、このような真理を知らないで、人々は恋人や夫婦の仲を永く保つことができず、結果として離別がおとずれ、気落ちすることになります。

インドには、魂の幸福な結合に関する古代文献から、サンスクリット語の天界に響く音の波動を通じて、愛情の念を成就させるマントラが伝わります。深く集中して耳を傾けて、サンスクリットの音の波動を吸収することで、この波動がさまざまな方法によって感覚器官と魂を揺さぶり、2つの魂が互いに惹きつけられるようになります。

愛のために唱えられる数あるマントラの中に、愛の神であるカーマデーヴァのガーヤトリー・マントラが伝わります。愛の感情を支配することで知られるカーマデーヴァを崇拝することは、熱意と活力をもたらし、人々を惹きつける魅力をもたらすと信じられています。愛に満ちた生活のために広く崇拝されるカーマデーヴァと妃であるラティは、男性と女性の魅力を映し出す美しさの典型としても考えられています。

ヨーガ・スートラ第3章第5節

Hindu God Yoga Sutra of Patanjali Statue on Exterior of Hindu Temple


तज्जयात्प्रज्ञालोकः॥५॥
Tajjayātprajñālokaḥ||5||
タッジャヤートプラジュニャーローカハ
その達成により、智慧が輝き出る。

簡単な解説:前節において、ヨーガの内的部門である凝念、瞑想、三昧とは、同一の対象に対して行われることから、総称して綜制と呼ばれると説かれました。本節では、その綜制を達成した時、智慧が輝き出ると説かれます。

ヨーガ・スートラ第3章第4節

Hindu God Yoga Sutra of Patanjali Statue on Exterior of Hindu Temple


त्रयमेकत्र संयमः॥४॥
Trayamekatra saṁyamaḥ||4||
トラヤメーカトラ サンヤマハ
三つは一緒にして、綜制と呼ばれる。

簡単な解説:前節において、三昧とは瞑想の対象のみが輝きとして現れ、自分自身はあたかも空っぽのようになる境地であると説かれました。本節では、これまでに説かれたヨーガの内的部門である凝念、瞑想、三昧について、同一の対象に対して行われることから、総称して綜制と呼ばれると説かれます。

自分のムドラーが降りてくる幸運な人

形の科学であるムドラー(印契)は、インドの精神文化において音の科学(マントラ)と同じような重要性と深みを持っています。
占星術の知識がある方であれば、それぞれの指と惑星とに密接な関係があることをご存知でしょう。
ムドラーは、惑星の力と神々の力を内包し、それらと繋がれる素晴らしい叡智なのです。
ご自身に合った様々なムドラーを学び、長い年月修練していく中で、ある時自分なりの特別なムドラーが出来上がることがごく稀にあります。(両手の指を使うものですので、マントラのような音の組み合わせより選択肢が少なく、自分なりのものが出来上がりやすいのかもしれません。)これらは、頭で考えてつくったムドラーとは根本的に異なります。
長い修練の後に得たものは、特殊な意識状態の中で降りてきたもの、とも考えられます。
このような形でムドラーを得た場合、それが後に既存のものでることがわかったとしても(大抵は太古の聖者たちが既に感得したものだと思います)、あるいはそうでなくてもその力は尋常ではなく、霊的世界のみならず物質界に大きな現象を起こせるものである可能性があります。
このような幸運に与る方は、相当な霊的修練を積まれた方でしょう。もしかしたら元々グル(グールー)としての性質をお持ちの方かもしれません。
降りてきたムドラーにどのような性質があり、どのように作用するのか、見極めることが肝要だと思います。さらにグルをお持ちの方は、アドヴァイスを受けられるのが良いと感じます。

もちろん、地球上のほとんどの方は、残念ながらそのような幸運には恵まれないでしょう。そのような場合でも、伝統的なムドラーを正しく学び、実践を積むことで、同じように素晴らしい霊的ゴールに至ることができると考えております。

マントラも12万回ですとか、100万回唱えるのは、霊的修練を積まれる方の中ではそれほど珍しいことではありません。ムドラーも同じように何十万回もしくは何十年も組むことにより、隠されたその秘密を手にすることができるのかもしれません。

(文章:ガネーシャ・ギリ)

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ガネーシャ・ギリ氏共著 『インド占星術と運命改善法』

ガネーシャ・ギリによるインド占星術鑑定

ガネーシャ・ギリによるヨーガクラス
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シャイラプートリー女神の恵み

女神を讃える夜が9日間続くナヴァラートリー祭では、ドゥルガー女神の9つの姿である「ナヴァドゥルガー」が1日ずつ礼拝される習わしがあります。
そんなナヴァドゥルガーの中で、最初の女神として崇められるのがシャイラプートリー女神です。

シャイラプートリー女神は、シヴァ神の最初の妃であるサティーの生まれ変わりと信じられ、霊性修行を行う中で、まず初めに礼拝されるべき存在として崇められています。
その名前には、「山の娘」という意味があります。

空を突き破るように高く隆起する山々は、インドでは古代より、偉大なエネルギーの象徴として崇められてきました。
この地の本質として、あらゆるものを宿すと考えられてきたそのエネルギーは、私たちを育む、慈しみに満ちた存在です。

そんなエネルギーの象徴であるシャイラプートリー女神は、私たちの身体において、第1番目のチャクラであるムーラーダーラ・チャクラに眠っていると信じられます。
ナヴァラートリー祭の最初において礼拝されるシャイルプートリー女神は、霊性修行において、私たちがまずこの偉大なエネルギーを呼び覚ます必要があることを伝えています。

シャイラプートリー女神は、シヴァ神と同じ雄牛を乗り物とします。
内なる世界で彼女が目覚め、雄牛に乗って霊的な旅を始める時、私たちのエネルギーは、頭頂で待つシヴァ神に向かい始めます。

春と秋の2回、季節の変わり目に祝福されるナヴァラートリー祭は、世界を動かすそんな女神のエネルギーが活発になる時です。
このナヴァラートリー祭を通じて9日間に渡る断食や霊性修行を努め上げると、そのエネルギーはシヴァ神に結びつくと信じられてきました。

大自然のさまざまな動きが神々として崇められてきたインドにおいて、高くそびえる山々ほど、この地が生み出す偉大なエネルギーを覚えることはありません。
そのエネルギーは、私たちの内なる世界にも存在しています。
自分自身の努力によって、そのエネルギーを呼び覚ますことで、やがて限りのない至福にたどり着くことができるに違いありません。

もっとも神聖で、吉兆の日であるといわれるナヴァラートリー祭の始まりに、皆様にもシャイラプートリー女神の大きな祝福がありますよう心よりお祈り申し上げます。

(文章:ひるま)

春のナヴァラートリー祭2018

ナヴァラートリーとは、ドゥルガー、ラクシュミー、サラスワティー女神をお奉りするヒンドゥー教の三大祭典のひとつです。「ナヴァ」はサンスクリット語で9をあらわし、「ラートリー」は夜を意味します。したがって、ナヴァラートリーとは、9日間の夜となります。この祭典は、春と秋の年2回、9日間にわたって行われます。ヒンドゥー教のカレンダーでは、月齢にしたがっているために毎年開催時期が多少前後しますが、2018年は3月18日から26日まで行われます。

ナヴァラートリーの9日間は、礼拝する神さまに応じて、3日間ずつに分けられます。はじめの3日間は、わたしたちの心の中に潜む不純物や悪徳、欠点を破壊するため、強力な戦士でもあるドゥルガー女神を礼拝します。次の3日間は、すべての帰依者に尽きることのない富と幸福を授けるといわれるラクシュミー女神を礼拝します。そして、最後の3日間は、創造主ブラフマーの妻であり、学問と芸術、そして叡智を授ける女神であるサラスワティー女神を礼拝します。わたしたちは人生のさまざまな局面で、神々からの祝福を求めて、3つの側面をもつそれぞれの女神さまにお祈りを捧げます。そのために、この祭典には9日間が費やされます。

ナヴァラートリーの期間中、真摯な帰依者の中には、断食をしながら、健康や繁栄を願って祈りを捧げる人々もいます。じぶん自身の日々の生活を見つめ直して、人生の向上につながる新しい習慣をはじめるには、昔からナヴァラートリーはこの上ない吉祥の日であるといわれています。

9日間を通じ、女神の様々な姿を見つめ自身の心と向き合った後、訪れるのがラーマ・ナヴァミ、ラーマ神の降誕祭です。ヴィシュヌ神の化身でもあるラーマ神は、正義や美徳の象徴であり、悪を倒す為に弓を持ち戦いに赴きます。9日間の夜を通し自身の内に気づきという光を灯すことによって、人は無知である暗闇、悪を倒します。そして、この正義の誕生という日に盛大なる祝福を捧げます。

ナヴァラートリーは、自身の内面に潜む不浄な傾向を克服するために、非常に重要な期間とされています。この神聖な期間を活かして、かつてラーマが悪鬼ラーヴァナに勝利したように、わたしたちの内面に潜む悪魔を討ち滅ぼすことができるよう日々を過ごされてみるとよいでしょう。

参照
[1] “Navaratri” from Wikipedia, Free encyclopedia, http://en.wikipedia.org/wiki/Navratri

第17回グループ・ホーマ(トリヴェーニー・ガート)無事終了のお知らせ

第17回グループ・ホーマにお申込みいただきました皆様、誠にありがとうございました。

第17回グループ・ホーマ(トリヴェーニー・ガート)は、2月13日に無事に終了いたしました。

プージャーの写真と動画を以下に掲載させていただきます。

神々の祝福と、より良い体験がありますよう、心よりお祈り申し上げます。

第17回グループ・ホーマ(シュリー・サナータナ・ダルマ寺院)無事終了のお知らせ

第17回グループ・ホーマにお申込みいただきました皆様、誠にありがとうございました。

第17回グループ・ホーマ(シュリー・サナータナ・ダルマ寺院)は、2月13日に無事に終了いたしました。

プージャーの写真を以下に掲載させていただきます。

神々の祝福と、より良い体験がありますよう、心よりお祈り申し上げます。

121,ラクシュミ女神のラーガ (1) Raga:Shri

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たくましい女神:ラクシュミ
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インドの飲食店や様々な雑貨屋から煙草屋に至る迄、およそ商店には必ずと言って良いほどそのポスターが飾られている「商売繁盛の女神」でもあるラクシュミ女神。

日本では「弁才天」が「弁財天」となってしまったので、かぶってしまった感があります。また、ラクシュミの日本での姿「吉祥天」は、四天王の一柱「毘沙門天」の妃とされます。しかし、「毘沙門天=クベーラ」は、ヴェーダ・ブラフマン教の中でも比較的後期の経典とされるアタルヴァ・ヴェーダで言及されているとしても、ブラフマン教の神であることには違いはありません。

シヴァと友好関係を結びカイラースにてヤクシャ(夜叉)、ガンダルヴァ(乾闥婆)、ラークシャサ(羅刹天)などの「下級神」と共に暮らすとされます。
仏教でもそれらは下級神ですし、そもそも四天王もしかり。本来は滅ぼされるところ、仏の慈悲を乞い、仏典の守護を誓って武神として存続したとされます。

これらのことから、吉祥天(ラクシュミ)も、かなり古いヴェーダの女神であったであろうことは容易に推測出来ます。サラスワティーも同様ですが、女神は比較的厚遇されているのか、ヴィシュヌの妃という高い地位を得て存続し、むしろ数多の神々の中でも最も庶民に愛される存在になっています。 ちなみに吉祥天の母は、「鬼子母神」とされ、「鬼子母神」は、Yakshini、すなわち「夜叉」の女性形ですから、やはり本来は下級神です。

ラクシュミの別名も多数ある中で、インド古典音楽のラーガ(旋法)の名前に起用されている「Shri」は、ラクシュミの多様な側面を総括したような、女神としてはかなり重たく深い存在感があると思われます。そして、ラーガ:シュリーもまた同様で、かなり修行を積まないと表現し切れない重く重要なラーガのひとつです。

一方意外で面白いと思ってしまったのが、何処の地方の呼び名なのか、「Chanchal」という別名です。「チャンチャル」は、「すばしっこい」「あちこち飛び回る」などのイメージがある言葉で、これをインド古典音楽の太鼓:タブラの腕前に用いる時には、とても良い「褒め言葉」になり、本名かどうか?Chanchal Khanという演奏者もいました。

ところが、チャンチャルには、別な悪い意味もあり、女性に用いる時は公然とは決して言えない陰口・悪口で、はっきり言って「尻軽女」でしかないのです。
まさか、ヴェーダ・ブラフマン時代から、苦労して今日の高い地位に登り詰めたラクシュミのたくましさを褒めつつ、前述しましたような時代時代のトップクラスの神の妃となった遍歴から来ているとしたら凄い話しです。何方かご存知でしたら教えて下さい。

しかし、そのようなことも含めて、パールヴァティー・ドゥルガーなどの圧倒的な神力を誇る女神と比較して、魔神・鬼神を滅ぼすような力は発揮せずとも、ラクシュミも、かなりたくましい女神ではないでしょうか。

別な視点から言いますと、「幸運や金運をもたらす」ということを、ご利益宗教的感覚ではなく、もっと深い意味合いで分かろうとした時、そこには、「運気の乱れ・滞りを正す力」があることに辿り着きます。つまり、「ナーダの流れを潤沢にする」「ナーディーの詰りをクリーンにする」ことも含め、「運気」のみならず、「経絡」そして「思考」に於いても、「体・気・思考」の三位に対してバランス良く「滞りを解除し、乱れを取り除く」ということに他ならないのです。

実際、アーユル・ヴェーダ音楽療法でも「Raga:Shri」の重要な効能にそれが挙げられています。

逆に言えば、自身の「体・気・思考」特に、「思考」についてが無頓着であったり削除されがちですが、自身で出来る努力を惜しみ、ご利益を乞うようでは、果たして如何なものか?と思わざるを得ません。

尤も、このテーマ「自力本願と他力本願(※)」は、インドでも昔から議論されているところです。いずれ近々、しっかりお話し出来たらと思います。(※)本来の仏教用語の意味であり、慣用句の意味ではありません。

「滞り」の最も質の悪い「原因」が、「執着」と「依存」です。だからと言って、近年流行の「断捨離」や「Detox」をすれば良いということではなく、「心と思考」に潜み、こびりついている「執着と依存」をクリーンにせねば何の意味も持たない、ということです。

ところが哀しいことに、むしろ心と思考にその問題を抱えている人に限って、より一層「人間関係」や「身の回り(目の前の物)」を「すっきりさせないと過負荷を強く感じる」ものですから、結果として、内面的な問題をむしろ温存する為かのように、外因を解決させようとしてしまいがちです。勿論、無意識に。

しかしこれは、極めて危険な発想であり行為であることは紛れもないことです。

勿論、様々な物事が「カオス状態」になっていることを由と言っているのではありません。大切なことは「整理整頓」であり、良いものをより深く吸収し、より正しく消化することと、害のあるものを、より初期にその侵入を防ぐこと。そのために、デフォルトの機能を正常に戻すことが大切であり、それが「生命力」であり「体力」であるという考え方です。

その基本をないがしろにして、局所対処的に、表面や気になることだけを解決しても、一時凌ぎとしては有効でも、長く続ければ弊害の方が大きい、ということなのです。

つまり、ラーガ:シュリーの名演奏に運良く巡り合わせたとしても。自らで「滞りと乱れの原因」を温存しているようでは、その「清らかで果てしなく解き放たれた自由な流れ」を感じ取ることは出来ないだろうとも言えます。
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Raga:Shriの素晴らしい構造
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Raga:Shriは、数在るラーガ(一説には34,776種とも)の中でも、格別な地位を持って居る、現存するラーガでは最も古い部類に属するものです。しばしばShri-Ragaとも呼ばれ、その場合は、Raga:Shri-Ragaとは言いませんが、そのようなラーガは、唯一かも知れません。

Raga:Shriがラクシュミに因んだものであることは間違いないのですが、中世前期にヒンドゥー教徒音楽家の間で流行した「Raga-Ragini」という分類法では、なんとShri-Ragaは、「夫ラーガ」なのです。

同分類法では、ラーガ観念が確立する以前からの古いShrti旋法、Grama旋法、Murchchana旋法などの生き残りのラーガを「六大Raga」とした結果、古いShri-Ragaは、それに含まれてしまったのです。

「夫ラーガ」は、それぞれ「六つの妻:Ragini」を持ち、36種が整理されました。その後も増え続け、「息子」のみならず、「息子の嫁」まで至ったのですが、「古い主要ラーガ=六大夫ラーガ」以外は、何故に「Ragini」なのか、息子なのか?嫁なのか?の音楽的・構造的な概念は確立していません。従って、Shri-Ragaが「男性旋法である」という根拠は、論理的にも理論的にも存在しないのです。

図に示しましたように、Raga:Shriは、レとラがフラットし、ファがシャープの「Purvi」という代表音列の引き出しに整理され、主音はフラットの「レ」、副主音は「ソ」です。
上行音列は、ミとシを割愛した五音音階で「ドレファソシ」となり、下行音列は、七音使いますが、かなり複雑に「ジグザグ(Vakra)」進行することが定められています。

例えば、オクターヴ上の「ド(Sa)」は、上行音列で辿り着いたと思ったその音が「Vakra」なので「ドシラソ~」と降りては来れないのです。なので、一歩引いて「上のレ」に行き、「ド」を飛び越えて「レシラ~」とせねばなりません。

下行音列に於ける「ソ」は、このラーガ独特の「半Vakra」のようなもので、その解釈・説明はいささか難解です。

純然たる「Vakra」ですと、「その音にぶち当たったら、一歩引いて(助走を付けるようにして)その音を飛び越して行く」のですが、

このラーガでは、一旦「シラソファ」と普通にソを経由してしまいます。ところが、まるで思い出したように、「ソラ」と戻り二度目には「ソ」を飛び越えて「ラファミレ」と進むのです。

「半Vakra」と述べましたのは、この「半Vakraの壁」が、通常の「Vakraの壁」のように、「助走を付ければ飛び越えられる高さだか、普通に歩くならば、頑強な上にまたぐのは無理」とは異なり、まるで、「ゴムロープ製」かのように、「シラソファ」とファ迄は行けてしまうのです。が、そこでゴムロープの力で「ミ迄は行けない」のです。なので、戻って、ちゃんと「飛び越えて」「ミレド」に行くしかない、というものです。

私たち演奏者は、「シラソー」と弾いた段階で、「しりとり」的に、次のフレイズ「ファソラファミレー」が反射的に出てしまうと言いますか、「そう弾きたくなる」という感じです。

その他にも、「Pakad(特徴的なフレイズ)」では、「ドレファソ」の他に、「シレファソ」と、「ミ」の他に「ド」も飛び越え(割愛)たりします。
また、高音域の「レドレー」のような、「Vakraのド」を越えて「シ」には進んでいないのですが、「Vakraのド」を強調するようなフレイズが幾つかあります。

また、上記の「半Vakra」の超法規的フレイズですが、「ソからの下降」の前に「ソファソラ」のフレイズを弾くと、「半Vakra」も解除され、「ソファミレ」と進むことが可能なのです。また「ファラファミレ」のように、まるで「ソ」を嫌ったかのようなフレイズも頻出します。

「ド」と「ソ」の割愛をよりキツくすると。基音伴奏楽器や、シタールなどに付属の伴奏弦の音が聴こえていても、一瞬「シが基音」のように聴こえる効果が得られます。
すると、「レ・フラット、ファ・シャープ」のおどろおどろしい雰囲気が消え、「短二度、短六度、短七度」の所謂「短調」に聴こえたりするのです。が、そこに「意図的に隠し(Tiro-Bhav)ていた基音(ドやソ)」が突如現れると、「錯覚から現実に戻された」大きなインパクトが与えられるのです。

このように、「Raga:Shri」は、流石の神のラーガ、ラクシュミのラーガだけあって、「単純でシンプルな面」と「複雑で頑固な面」、「畏怖の念を抱かせる面」と「平穏で安心で優しい面」を併せ持ち、それが神出鬼没的に現れるということで、聴くにしても奥が深く、弾くにしても難解で重たい、というラーガ(旋法)であることが分かると思います。

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何時も、最後までご高読を誠にありがとうございます。

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また、現在実施しております「インド音楽旋法ラーガ・アンケート」は、まだまだご回答が少ないので、
是非、奮ってご参加下さいますよう。宜しくお願いいたします。

https://youtu.be/wWmYiPbgCzg

1月2月も、インド楽器とVedic-Chant、アーユルヴェーダ音楽療法の「無料体験講座」を行います。詳しくは「若林忠宏・民族音楽教室」のFacebook-Page「Zindagi-e-Mosiqui」か、若林のTime-Lineにメッセージでお尋ね下さい。 九州に音楽仲間さんが居らっしゃる方は是非、ご周知下さると幸いです。

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You-Tubeに関連作品を幾つかアップしております。
是非ご参考にして下さいませ。

Hindu Chant講座Vol.1

Hindu Chant講座Vol.2

Hindu Chant講座Vol.3

Hindu Chant講座Vol.4

Vedic Chant入門講座(基本理解編)

Ayurveda音楽療法紹介(基礎理解編)

アーユルヴェーダ音楽療法 (実践編1)

アーユルヴェーダ音楽療法 (実践編2)

アーユルヴェーダ音楽療法 (実践編3)

「いいね!」「チャンネル登録」などの応援を頂けましたら誠に幸いです。

(文章:若林 忠宏

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若林忠宏氏によるオリジナル・ヨーガミュージック製作(デモ音源申込み)
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ヨーガ・スートラ第3章第3節

Hindu God Yoga Sutra of Patanjali Statue on Exterior of Hindu Temple


तदेवार्थमात्रनिर्भासं स्वरूपशून्यमिव समाधिः॥३॥
Tadevārthamātranirbhāsaṁ svarūpaśūnyamiva samādhiḥ||3||
タデーヴァールタマートラニルバーサン スヴァルーパシューニヤミヴァ サマーディヒ
それが対象だけの輝きとして現れ、自分自身はあたかも空っぽのようになるのが、三昧である。

簡単な解説:前節において、ヨーガの8つの部門の中の瞑想について説かれ、それは、凝念の時と同一の場所を対象とする想念が、途切れることなく、一方向に伸びていくことであると説かれました。本節では、ヨーガの8つの部門の最後にあたる三昧について説かれ、それは、瞑想の対象のみが輝きとして現れ、自分自身はあたかも空っぽのようになる境地であると説かれます。