98、音楽とパトロン

「パトロン」などと言うと、「援交(援助交際)」という語句が流布される遥か以前から、異性交遊関連の語句のイメージで捕らえる人が少なくありませんでした。それは世界的規模で、第二次世界大戦以前と以後で大きくその意味合いが変化したからに他なりません。 つまり、より正確な意味合いでの「パトロン」は、戦前の「アンシャン・レジューム(旧体制)」の崩壊と共に消失した、言わば「滅んだ概念」ということなのです。

私がすべき仕事ではないのに、黙って見ていても誰もしないので、やむなく説かねばならないことが少なくありませんが。ここで、「パトロン」「スポンサー」「援交(援助交際)」の語句の意味合いを再確認せねばなりません。

簡潔に言えば、「パトロン」は「見返り」の要素が「在っても50%である」と言うことが出来、「スポンサー」は、ほぼ100%でありますが対象者を選びます。「援交」に至っては、その「見返り(目的)」が不埒・不道徳であるばかりでなく、対象者を選ばない(ほぼ誰でも良い)ということが本質、と定義することが可能です。

なので、この三種が、「似たり寄ったり」に解釈されたり、「誤用」されることなど、本来あってはならないことなのです。

尤も、バブル経済期に、世界中から「儲け過ぎだ」と批判された日本経済界と大企業が、こぞって「企業メセナ」を実施しましたが、穿った見方で悪く云えば「売名行為的な宣伝行為」とも言えなくもないかも知れません。何故ならば、その後不景気になれば、簡単に中断してしまうからです。

一方、江戸時代、明治時代迄の「パトロン」は、急に羽振りが悪くなろうとも、密かに慎ましい食事に切り替えて迄も、支援者を支援し続けたという話しは幾つもあります。

勿論、総体的に言えば、「パトロン」も「企業メセナ」も、「見返り」は充分にある訳です。それは「アカラサマな売名行為・宣伝行為」や「余った資金の好評価を得る使い道」から、「人知れず密かに支援する」迄様々であり、言わばグラデーションであり、それらの「何処からがイヤラシい売名・偽善行為」であり、「何処迄が、純粋な社会貢献・文化芸術支援」であるか?は、誰も線引きは出来ない筈です。

「人知れず密かに支援する」といった、明らかに「売名行為ではないだろう」というものでも、その人自身がそれで精神的な満足が得られ、それが或る種の自己実現である以上、「見返り/メリット」が無いとは言えません。

ヴェーダ時代に「古代インド科学音楽」を探究したバラモン僧たちもまた。研究に専念出来るだけの「お布施」を得ていたのでしょう。中世イスラム宮廷音楽、及びヒンドゥー藩王国宮廷音楽もまた、王(シャーやマハラジャ)、太守(ナワーブ)、及び、その下の貴族の「お抱え楽士」となることで、「芸を究める」「伝統を守る」ことに専念出来たのです。

これは、西洋クラッシックのバッハ、モーツァルトからベートーヴェンなどと全く変わりませんし、アラブ、トルコ、北アフリカも同様であり、マレーシア、インドネシア、タイ、ウイグル、ウズベク、そして、アフリカ各地も同様です。

即ち前述で、「パトロン」「スポンサー」「援交」に於ける「見返りの有無と対象者の限定の違い」というのは、厳密に言えば「遠からずとも当たらず」とも言えます。

ところが、「パトロンに於ける自己満足的な見返り」と、「スポンサーや援交の見返り」に、はっきりとした大きな「線引き」を着けることも一方で可能かも知れません。

それは「大衆迎合性の有無」です。

「スポンサー」は、支援対象の社会的な活躍や売れること。つまり「多くの人々に歓迎されること」がなくては、出資の意味を失います。明らかに最も「大衆迎合性が強い」関わり方であると言えます。「援交」に直接的な「大衆迎合性」を見ることは出来ませんが、それが性欲を満たすだけであり、対象者の人格や信念・理念を選ばないのであるならば、極めて俗的であるという意味では「大衆性以下」である訳ですから、言わば「論外」とも言えます。

ところが、「(戦前の本来の意味の)パトロン」の場合は、出資者が「売れるか売れないかは分からない(どうでも良い)」「だが、俺はこの仕事(創作者の創作や研究者の探究)には価値(その国の文化などに於ける価値や人間的・人類滴な価値など)があり、それを支援することには深い意味があると信じるのだ」というような信念があった訳です。結果論として、極めて「非大衆的」であり、極めて「非商業的」だった訳です。

結果として、晩年や死後に、その創作が社会~世界から高く評価された創作者(研究者)はおびただしく存在します。勿論、もしかしたら人間社会、及び自然界や地球にとってより価値の高いものが、遂に「パトロン」を得られないまま、道半ばで潰えたものも無数にあることでしょう。

現実、今日私達が聴くことが出来る「インド古典音楽」もまた、「非商業的なパトロンの支援」と、その後の「メインストリームに於ける成功」によって「生き残ったものだけである」ということも出来る訳です。

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97、季節と一日の時間帯

「意識」が抱くイメージと「心と体」に伝わるものの違い
インド古典音楽の旋法:ラーガには、その用いる基本音列(所謂『音階』にほぼ同義)の音によって、「演奏すべき時間帯」や「季節」が定められています。

当コラムでも前述しましたが、これこそ「極めて形而上学的な側面のひとつ」と言えます。何故ならば、この概念に於いては、私達が感じる「時間や季節のイメージ」と「音を聴いて感じるもの」などが全く無視されているからです。

そもそも日本人とインド人では、「時間帯」や「季節」に対するイメージは大きく異なるでしょう。日本人は、怪談などで「草木も眠る丑三時」などのフレイズによって、「夜は怖い・物騒だ」という感覚がありましょうが、インド人(ヒンドゥー教徒)の場合、「神々の宴の時間帯」的なイメージもきっと強いと思われます。つまり日本人が「幽霊が出る」と恐々とする深夜の闇に、インド人は、神々や妖精をイメージするかも知れないという大きな違いがあるのです。

余談ですが、幽霊と言えば、或る時インド人の友人と「日印幽霊怖さ比べ」をしたことがあります。私が「日本の幽霊は足が無いんだぞ! どうだ怖いだろ!」と言ったら、友人は、「無いのか?!」「なら全然怖くないさ!」「なにしろインドの幽霊は、踵が前でつま先が後ろなんだぜ」「それ以外は全く普通の人間のように思って話しをして居て、良く見れば!」と返されました。
確かに言われてみれば、日本の幽霊に勝っているような気もしました。

このように、人種や民族、個人によって多様に変化する「感覚(Ahamkara)」やイメージ、固定観念や常識を遥かに超越した「不偏で普遍的な(しかも、内面的で本質的な))関連性」が、「音と時間帯/音と季節」の関係性である訳です。

一方、単に全てが「形而上的」ではなく、極めて「現実的な側面」もあります。

アーユルヴェーダに少し詳しい方ならご存知のことですが、一般に「元凶」的な解釈に偏っているきらいもあります「Tri-Dosha」(この名称の字義自体が元凶的なので、しかたがない部分もありますが)と「時間帯」の関係との「ラーガ(旋法)」とその「音」との関わりです。これは極めて現実的な概念であり、科学であるということが出来ます。

「Tri-Dosha」の三つの要素は、良く言って「燃焼・活性」「運化(運搬・代謝)」「鎮静・熟成」ですが、悪く言って(バランスが壊れた場合)「活性過剰・亢進」「流れ過ぎる」「固まる・滞る」でもあります。

つまりあくまでも「バランス」であると同時に「タイミング」なのです。更にそれらの「バランス」と「タイミング」は、「消化・吸収・代謝・還元・解毒のサイクル」という大きな流れと、そのスケジュールの上に成り立っています。

そして、これらは「天体の一日と一年の動き」とも当然のごとく、深く関わっています。古代インド科学音楽では、それらの「自然の摂理」の上に成り立った「大きな流れとサイクル」に基づいて、その「ラーガ(旋法)」とその「音」との関わりを説いています。

従って、生命体の外側(Annamaya-Kosha/食物鞘)の動きの一日の中での変化「働く~休む」といったものについてだけの単純で安直な解釈ではなく、体の奥底で、夜間も地道に繰り広げられている「働き」に応じて、「旋法;ラーガ」の、より相応しい音が「時間帯や季節」に対応して定められているのです。しかもそれは、生命体の「外側から三番目の層:Manomaya-Kosha/意思鞘」及び、更にその内側に直接的に作用すると共に、「外側から二番目の層:Pranamaya-Kosha /生気鞘」に対しても「二番目の層」を介して間接的に働き、後述します「臓器や酵素等の様々な『作業現場』のそれぞれに、順に作用するのです。

東洋医学専門家も陥る大誤解

アーユルヴェーダ・インストラクターさんの中には、誤解?説明不足?も少なからず見られますのが、この「タイミング」の解釈です。

例えば「食物の摂取→消化吸収→代謝活用」の流れの中で、多くのインストラクターさんが、「生命体の三つのステージ(現場)」のご説明と、「時差」についてのご説明に大きな不足か考え落ちがあるようです。つまり、「朝起きて仕事をし、夜休み、睡眠を取る」という「人間の社会的(対外的)な行動のサイクル」と、「体の内部の働き(作業)のサイクル」を分別出来ず、混同して説明していることの問題です。

「三つの現場(ステージ)」は、「胃腸」「小腸・肝臓・腎臓」「腸内細菌と代謝回路」ですが。まず、食物は、言う迄もなく、「胃腸」で「栄養素の塊」に変化されます。これには、健康で元気な者でも二三時間要します。その後、「小腸・肝臓・腎臓」に於いて、「利用可能な栄養素」に「変換(第一次的な代謝)」が為されます。ここでも二三時間、またはそれ以上の時間が必要です。

その後、同じ栄養素が、幾つかの「代謝回路」によって、様々な「部品(素材)的な栄養素」に細かく変換され、各部署に運ばれ、そこでの過不足に応じて、更に「再加工(再代謝)」されます。これには、第一陣でさえも二三時間必要で、その後の「再代謝」は、その後も続いてくり返されます。

恐らく、現代医学(現代西洋系)も、現存(現代解釈)の東洋医学でも、ここに存在する「生命体の基本的な大矛盾を見逃している」か? もしくは、「そもそもの不理解」があります。

それは、「殆ど全ての生命体が、太陽の動き(日中と夜間)の24時間に合わせて活性している」という大原則と。しかし「現実的には、上記の消化吸収・代謝には、最低でも九時間・十時間必要である」という大矛盾・大問題です。

更に加えて、何らかの不調や病気、精神的な弱さを持っていれば、当然この「ギャップ(自然のサイクルに対する消化吸収・代謝還元の作業能率の隔たり)」はより大きくなります。

言い換えれば、「Tri-Doshaの偏り」もまた、その「ギャップの問題」がより根底にあり、更に大きな問題は、その「ギャップを作り出してしまった原因」に在る、ということが出来る筈なのです。

故に、現在のアーユルヴェーダの主流である、「Tri-Doshaのバランス改善・是正」もまた、「現代西洋化学対処療法」的であるとさえ言えるのです。

つまり「健康で長生き」を目指すのであるならば、「一日三度の食事を改める」か、七時間・八時間で負担無く吸収出来るような「食物の質と消化吸収代謝の効率向上を計る」が大前提の基本である訳です。

しかし、この理解と意識で説いている専門家を、私の知る限りでは日本でも現地でもほとんど見ることがないのです。

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96、音楽会議の頓挫の訳は



全国音楽会議の実施と頓挫

奇しくも20世紀の前半の同じ時期に、インドとアラブ諸国で「音楽会議」が開催されました。しかし、いずれも数回・数年で頓挫してしまいました。

インドは、ご存知のように州単位で主要言語と文字が全く異なります。英語とスペイン語では、文字は二三しか違わないのと比べて、同じ国なのにそれ以上の違いがあるという感覚です。結果的に、同じ古典音楽の同じ旋法:ラーガが、地域によって名前は勿論、その内容(主音、副主音の解釈など)から基本の音階さえも異なったりするのです。

ところが、インド音楽数千年の歴史の中で、インドの音楽家がこのことを理解したのは、つい最近(20世紀初頭)のことなのです。基本的に異なる流派・異なる師匠を渡り歩くような不埒な生徒は居ませんでしたので、各流派、各地域の音楽家は、自分たちの流儀以外を殆ど知らないし興味がない。演奏会などで他流と同じ舞台になったとしても、そこから何かを学ぼうとはしなかったのです。

これはインド音楽に限らず、世の中のあらゆる物事に通じる「収斂収束系・血が濃くなる」という方向性が持つ必然的で、或る種切ない負の要素です。

勿論、この連載でもお話致しましたように、13世紀のアミール・フスロウとゴパール・ナヤック。16世紀のターン・センとバイジュ・バウラ。18世紀のハッドゥー・ハッスー兄弟とムハンマド・カーンなどの、「王が余興に求めた歌比べ」などのような場面で、「密かに相手の手の内を事前調査すること」はありました。

結果的に、他流の良いところを部分的に盗み取り、我流に変換させることで得られる新陳代謝もありましたが、精神性としては「他流に学ぶ=他流に対する敬意」という感覚ではない場合が主でした。

これは「我が流儀こそは最高である」という「誇りと自尊が入り交じった」感覚によって、一層頑強なものになっていたのです。

私が現地修行をした1980年代は、宮廷楽師の父親の姿を知る戦前生まれの巨匠に学ぶ事が出来た最後の時代ですが。その頃でさえ、師匠(及びその弟子達)によっては、私が「○○派ではこう言っていますが」などと言うと不機嫌になったり「あり得ない!」と感情的になったり、「だからあそこはインチキだと言うのだ!」的な言葉を臆さない人が少なくありませんでした。

勿論、「何かが正解で、それ以外は間違い」ということではない筈です。音楽の理論や解釈がそう変わったからにはそれなりの理由があり、それらが何百年もの間継承されて来たのですから、いずれも尊敬に値する確固たる伝統である筈です。

つまり、「自尊が入り込まない純粋な誇り」があれば、「違い」や「特殊性」が明らかにされたとしても、そこには一切の「恥」も「劣等感」もなければ、「勝ち負け」もない筈なのです。むしろ「違い」を学び合い、それぞれの「共通項」はより高め、「違い」こそは「その流派の歴史的財産」として、未来永劫に大切にする意識が強まってしかるべきでしょう。

インドでもアラブでも紛れも無く。「音楽会議」を提唱し主催した人々の情熱と主旨もまた、これと同じだった筈です。そして、それに参加する為に、場合によっては数日の長旅を強いてインド全国各地から。アラブに至っては、地球の四分の一周近くも旅したかも知れません。そのような各地の高名な音楽家、各流派の代表者の多くもまた、参加意欲と情熱は純粋だったに違いありません。

しかし、その一方で、「俺様の実力を誇示してやろう!」「我が流派の素晴らしさを痛感させよう!」「あの流派を辱めねばならん!」「これで白黒決着が着くだろう!」という感覚もまた、人間からは中々取り除けないものなのでしょう。

勿論、そのような意識が、全て「音楽の実力」で為された場合には、ある程度容認せざるを得ないとっころがありますが、演奏家列伝の項でお話ししましたように、実力で負けた腹いせに「タントラの呪文」で仕返しをした18世紀の話しもありますから、何時の時代でも「枝葉の感情」に支配される人間は尽きないのでしょう。

数百、千数百年の伝統の歴史を背負い、常に数十・数百の弟子を抱える巨匠であっても、必ずしも「人格者」とは限らない。

これは私が父の代から二代に渡って「心の仕事=芸術」を生業として来たからこそ痛感するものです。

やはり「芸術」は、明らかに「枝葉の領域」にのみ存在します。それは、その時代、その瞬間に、その時代に生きる人間の心に届く為には不可欠の立ち位置に違いありません。

しかし、「太枝や幹」という「伝統とその歴史」「先人たちの厳しい教え」から逸脱し、安直に「ウケれば良し」であったり、その時その場の「地位、名声、財産、評判」や「嫉妬、妬み、不平不満、損得や勝ち負け意識」に負けてしまえば、あっと言う間に「太枝・幹」からの滋養が滞ってしまうのです。

古今東西で、その過ちに陥った芸術家は驚く程多く存在します。
その様を見て、昔の心ある人々は「芸が荒れた」とか「陳腐になった」と直ぐに分かったものですが、近年ではそのような厳しい批判に繋がる「心の目」を持つ人は少なくなってしまいました。

「音楽会議が頓挫した、学術的(表向き?)な理由」は、「インド音楽会議」でも「アラブ音楽会議」でも不詳のままです。

良さ気に言いたい人は「やってみて良かった!」「実に多様であることが良く分かった!」と言い。けなしたい人は「あまりの多様性の為に、全ての音楽家が、自らが根を張る大地そのものが揺らいだ気がしたに違いない」と辛辣に言いました。

残念ながら、それらの「違い」を乗り越えてまで、その先にある領域にまで自らとその背負った伝統を導かんとする程の芸術家・人物は、必ずしも優勢ではなかった、ということなのでしょう。

今回の写真は、1956年の、恐らく公平で不偏的な最後の会議の際の記念撮影のものです。 ネット上では誤って1948年としているものもあります。

今日ではネット上で自由に見ることも入手することも出来ますが、私がこの写真を入手した1981年当時は、インド政府と写真の音楽家の一族しか持っていなかったもので、私の師匠、故Ustad Ilyas Khan師は、なんと私にその貴重な一枚を「日本にもって帰って質の良い複製を作って来てくれ」と託してくれたのでした。

最前列には、当時の首相を中心に、まだ声楽が最も高尚と言われた時代の名残を感じさせる、各声楽流派のお歴々が座ります。その中で、サロードのアムジャット・アリ・カーン氏の父親、ラヴィ・シャンカル氏の師匠(義父)が座っています。この二人と共に、当時「サロード三羽烏」と呼ばれた私の師匠の父、Ustad Sakawat Hussein Khanは、残念ながら前年に逝去しており、ご健在だったならば並んでいたに違いありません。後継であり、私のサロードの師でもあるUstad Umar Khansahebは当時、コルカタの太守の音楽教師をしていて、重要な演奏会の為にデリーに行けなかったのでした。

声楽家に並んでサロード奏者が座り、同時代のシタール奏者が居ないことも、サロードの格を示していますが、この後、ラヴィ・シャンカル氏の世界的な活躍によって、シタール人気がサロードを上回ったのでした。

二列目は、20世紀後半の巨匠達の若かりし頃の姿です。言う迄もなく、今日の巨匠・長老の親・先代です。

最前列の中央の白い帽子の首相の右上に、ラヴィ・シャンカル氏が。その右隣には義弟アリ・アクバル氏が、言ってしまえば、いささか「ふてぶてしいほど堂々とした腕組み」をしています。その右のヴィラヤト・カーン氏が寡黙に見えます。シャンカル氏の左二人、年配の声楽家と、斜めにポーズを取ったタブラ奏者の更に左で、他より背が高く、ニコニコと笑っているのは、「シャーナイ(インド・オーボエ)」を古典音楽の領域に至らしめた、ビスミラフ・カーンで、その左で、小柄な上に体を捻らせピントもずれてしまっているのが、私の師匠:Ustad Ilyas Khan師です。

なんとシャッターの瞬間、何を思ったか?ビスミラフ・カーンは私の師匠の横腹をつねり、師匠は体を捻らせてしまった。ビスミラフ・カーンは、「してやったり」の笑顔なのです。しかし、これがラヴィ・シャンカル氏だったら、つねられても微動だにしなかったに違いなく。そもそもそんなことをさせないオーラとバリアーに満ちていた筈です。

無理に穿った見方をせずとも、記念撮影でさえ、或る種の「勝負」のような「音楽会議」だったこともまた、この貴重な写真から伺い知ることが出来るのです。

この政府主催の音楽会議の後、今日に至る迄、様々な「音楽会議」を称するプライベート(非政府の意味での)・イベントが行われていますが、表裏とも純粋且つ、高尚な意義を持ち、派閥闘争や政治の絡みを拒絶・排除したものは、残念ながら行われていません。

「ヴェーダの土壌」に至る迄の「太枝・幹」にその意識を回帰させることをしなくなり、「枝葉の違いの自尊」の精神性に陥ったことよりも、より深刻な問題は、「表立って他流を批判しなくなった」ということでしょう。

当然、文化人、有識者、評論家も、人脈・政治絡みだったり、当たり障りのないことしか発言しなくなり、裏では散々陰口・悪口を叩きながらも、表立って「正々堂々と音楽論を闘わせる」という風潮が無くなったということです。

その結果、今日では、ネット上で、「言った者勝ち」「言いたい放題」を許してしまう。これは取り立ててインド古典音楽に関してのことではないのでしょうけれど。

まるで「苛めは良くないよ」などと言うと、逆に袋叩きの目に合う事と同じように、「それは間違っている」などとは決して言わせない風潮。最早、これは文化のあるべき姿とは言えないのではないでしょうか。

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95、Tri-Doshaと七つの楽音 図完、

今回の私が作成した図の中心の円は、「Tri-Dohsa」を示し、その回りは、「Pancha-Bhuta(この場合は、五元素)」です。ご覧のように、「Kapha-Dosha」は、五元素の「土/Prithvi」と「水/Jalaの半分」の「1.5Bhuta」と関係し、「Pitta-Dosha」は、「火/Agni」と「水/Jalaの半分」の「1.5Bhuta」と関係し、「Vata-Dosha」は、「風/Vayu」と「空/Akasha」の「2Bhuta」と関係すると説かれます。

その回りの円は、科学音楽の「七つの楽音」で、「S、R、G(サレガ/ドレミ)」の三音が、五元素の「土/Prithvi」と関係し、、必然的に「Kapha-Dosha」と関わります。「M(マ/ファ)」は一音で、五元素の「水/Jalaの半分」と関係し、「Kapha-Dosha」と「Pitta-Dosha」に関わります。「P(パ/ソ)」も単音で、五元素の「火/Agni」と関わり、「Pitta-Dosha」と「Kapha-Dosha」に関わります。
「D、N(ダニ/ラシ)」もまた、それぞれ「風/Vayu」と「空/Akasha」に「一対一」で関わり、双方とも「Vata-Dosha」と関わります。

ここで大切なことは、「関わる/関係するとはどういうことか?」を普遍的に理解すべきであるということです。極めて基礎的で重要なことですから、「分かった気になる」「文字的には分かった」では駄目ということです。

「関係性の概念」に関しては、「中医・漢方弁証論治」の方いささか長けているところがあります。「漢字」の共通性によって、日本人にも分かり易いということも含めて借用して来ますと、「関係性」には、「相生=互助相乗効果」「相剋=闘う」「相殺/相悪=打ち消し合う」「相反=想定外の結果(多くの場合副作用)が生じる」などがあります。

つまり、「七つの楽音」と「五元素、3Dosha」との関係性も単純ではない、ということです。加えて、「Dosha」は、その字義と近年のアーユルヴェーダ専門家さんの多くが言うような「元凶」という負のイメージではなく「あくまでもバランスの上で考えるべき、むしろ必須の要素」で或る訳です。更に、「Dosha」は、仮に「最も良いバランス(Sattuva)」の場合でさえも、「一日の時間帯」によっても「季節」によっても大きく変化します。なので、「○○には○○が効く」といった類いの単純で短絡的な謳い文句のようにはならない訳です。

例えば、同じ「生命体の各種機能の維持に欠かせないバランス機構:恒常性」の代表格のひとつ「pHバランス」に関して西洋科学(医学)でも常識になっている筈のことを例に挙げれば。例えば「ストルバイト結石(膀胱や尿道を傷つけ、最悪尿路閉塞となる)」が怖いからと言って「尿pHを下げましょう」の謳い文句に釣られてしまうと、下げ過ぎれば、「蓚酸カルシウム結石」というより重大な(閉塞したら手術しなない)問題に至る場合もありますし、そもそも「pHが低い状態が長く続く」と腎臓にはかなりのダメージです。

ところが、胃袋に食物が入っていれば、「胃酸製造」の為に、体内から「酸」がごっそりかき集められますから、血中、尿pHは当然下がります。しかし、その後、小腸で吸収されるころには復活します。また、全力疾走でもすれば,数分でpHがガクンと下がるとも言われます。このような働きを「pHを上げよう!下げよう!」の謳い文句に乗ってどうこうすることが、そもそも「出来るのか?」「して良いのか?」ということです。加えて言えば、そのような要素も含めて「貴方の体質です」と決めつけてしまうことにももっと熟慮が必要なのでは?と思う訳です。

これらのことを総合して、「科学音楽の楽音とDoshaの関係」を、大まかに申し上げますと。まず、当連載コラムの前回の私の「Doshaバランスの9パターン図」の左側、「何かひとつのDoshaが亢進し過ぎている場合」で、「そのDoshaが普遍的に活性する季節と時間帯」には、明らかに、「即効的にそのDoshaの働きを押さえる音を聴かせるべきである」と言えます。

逆の発想で、「明らかに、そのDoshaの亢進によって、既に症状が出ている場合」も当然です。しかし、これこそは「現代西洋医学の局所対処療法」的であると戒める必要があり、これと比較して、前述した考え方は、「予防医療」であると言えます。
しかし「中医・漢方弁証論治」でも、「標本緩急」という概念があり、「急の場合は、本来の『全身・根治療法=本治』に、『局所対処療法=標治』を優先する」とされます。分かり易く「先表後裏」とも言われます。

次に、何か「2種のDoshaが亢進している場合」は、「その2種を抑える」という「順手」の他に、「残され衰退した1種をサポートする」という「逆手」が考えられ、「科学音楽」では、「同時進行」する場合があります。

「中医・漢方弁証論治」でもこれは最も難しいテーマで、中級以上分かっている漢方薬局薬剤師さんでも、「証の看たて」を誤ることがあるようです。基本は「虚補瀉実」で「弱いものを助け,過剰を削ぐ」ですが、その際に、「虚則補其母、実則瀉其子」という、「側手」があります。即ち、「虚(衰弱している部分)」のみならず、その「母(相生関係にある親的存在)」を優先して助ける。「子が実(亢進)の場合は、その子を瀉して母を助ける」という手法です。

これを人間の「母子」に置き換えるとかなり過激です。「子が弱まった結果で母子が苦労している時は、子を指導するのではなく、「母親に元気・激励・栄養・休息・義援金を与えよ」であり、「子が暴れまくっている結果」の場合、「直接その子を叩け!」ということです。過激なようで「理に叶っている」とも思えます。

一方、「アーユルヴェーダ生薬」にも「中医・漢方生薬・方剤」にも、「インド科学音楽」にも、大別して以下の基本要素があります。
「何かを抑えるもの=瀉薬/抑薬」「何かを助けるもの=補薬/益薬」「何かのバランスを保つもの」

三番目の存在は、「ガチガチの現代性要医学のお医者さん」が最も「認めたがらない」ものでしょうか。例えば「下痢と便秘に効く」「高血圧と低血圧に効く」などです。しかし、実際多くの存在が太古から語られています。尤も私の経験では、やはり「即効性」には欠けるようで、「局所対処療法」には不向きで「予防医療」や「慢性症状の体質改善」なのかも知れません。

私の作図の最も外側の円には、具体的な「ラーガ(旋法)とひとつ内側の3Doshaとの関係」が書かれています。しかし、これが極めて難解かつ重要なテーマですが、「ラーガを正しく弾く」ということは勿論の最重要課題ですが、インドの今日の「音楽療法士」を自称する人でさえ、「あやしい」場合が少なく在りません。

加えて、前述の「Doshaのバランスに応じて、同じRagaを正しく弾きつつも、音のバランス(Bahutuva)を加減する必要」がある訳ですから、そこ迄分かっている療法演奏者となると、かなり厳しいというのが現実と思われます。

何故ならば、ひとつ内側の円で「Doshaと関わる音(単音~3音)」を示しましたが、外側の円のRagaで用いられる音を全て書き出すと、いずれも「12音楽の全て」が登場してしまうのです。

この難しさは「中医・漢方生薬・方剤」や西洋、アーユルヴェーダHerbのブレンドの難しさと全く同じです。厳密に考えれば、「古来からのレシピ」の経験を重んじつつ、何かを加減する必要がある、ということなのです。私の場合、八件目で、やっとその「加減」に快く応じてくれる「漢方薬局」さんに巡り合いました。「そこまで厳密でなくても」と言われそうですが、利き目が全く違いますし、副作用も変わりますから、或る意味、基本的な大問題でもあります。

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(文章:若林 忠宏

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若林忠宏氏によるオリジナル・ヨーガミュージック製作(デモ音源申込み)
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94、インド古典音楽の概念

インド古典音楽は、「極めて理論的」ですが、その理論は、決して難しいばかりではありません。何故ならばその理論は極めて「論理的」に整理整頓されているからであり、それは「アーユルヴェーダ」や「Yoga」同様に、「Vedaの叡智」に基づいているからです。

しかし、そもそも「概念」という言葉やその意味するところが、現代人の多くが理解出来なくなっています。その証拠に、彼のNHKのアナウンサーやキャスターは元より、解説委員さえもが、しばしば「固定概念」などというあり得ない言葉を平然と発しています。

この様は、所謂「Q&Aサイト」等をご覧になると「概念と観念の違いを教えて!」が結構あることでも分かります。また私の見た限りでは「固定観念と固定概念の違いは?」の中で、「固定概念などと言う言葉は無い」と、幸いにも明確に答えている人もいました。ところが、他に「固定概念=古くから確立した概念」などと珍妙な答えを御自身で創造(想像?)されている方が居て、これもまた「概念の崩壊→観念主義の時代」を証明する事例かと、哀しくも呆れた次第です。

先ず「観念」は、「地域、民族、宗教、思想、社会、時代」に則しており、同じカテゴリーでも変化し得るもので、「辞書サイト」によれば「固定観念」は、「間違いと批判されても頑固に変えようとしない個人的な考え方」であるとされます。つまり「観念」は、「流動的」であることで、何らかの価値と意味を持つのでしょうが、それを「変えようとしない」即ち、依存・執着している姿が「固定観念」という解釈のようです。

喩えるならば「執着・依存」は、「浮き袋を手放せない」状態のようであり、「観念」としては「海やプールでは、自分の命を守るのは浮き袋しかない」というものが相当します。そして、「波打ち際」か「幼児用プール」で、間違いなく足が着き「溺れる方が難しい」ような場所でも「浮き袋を放さない」ような時の「浮き袋」を「固定観念」と言う訳です。

他方の「概念」は、「歴とした存在事実」を、淡々と、無感情に述べているだけであり、「地域、民族、宗教、思想、社会、時代」によって「変わりようがない」ものでありますから、「固定概念」と言う言葉は、無用な訳です。ましてや「確立した概念」として言う必要もないのです。

従って、本来「観念と概念」は、同一の机上では論じられないものですが,無理矢理「浮き袋」に関して言うならば、「浮き袋という道具」「浮力という物理」「溺れるという状態」の説明と認識が「概念」であり、そこに「安全、安心、実は危険、使いようによっては危険、自由な泳ぎが出来ない」などの主観に至り易い事柄さえも含まれないのが「概念」です。

そもそも「概念が何故生まれ必要だったのか?」は、人間による「違いを乗り越えるため」に他なりません。例えば、「犬」という生き物について、或る民族では、「美味しい重要な食材」という観念が固定しているとします。ところが別な民族では「忠実で従順な狩りの友」であり、ある民族や個人にとっては、「害獣や泥棒に対する番人」「可愛い癒されるもの」でありますから、「統一見解」が生まれようがありません。

このようなものが「生き物や物体」でない場合、「計測でも規約・規定でも共有出来なくなる」場合が多いですから、「概念の共有」が極めて重要になるのです。しかし、人間は時代と共に、特に19世紀の後半に、この「概念」を世界的に遠ざける方向性が生まれました。入れ替わりに、「現実主義・合理主義・印象論・個人主義」が台頭し、それらを「個別の民族、社会で統制する為」に「観念論」の価値・必要性が高まり、より一層「概念」が駆逐されたと言う経緯があります。

例えば、音楽の「音階」には、「長調と短調」がありますが、私の数百人の生徒・弟子の経験、及びその中にイタリア系アメリカ人、ポーランド系アメリカ人、イギリス人、ドイツ人も居て、アジア各国の友人、アフリカ・中南米・太平洋を含む師匠たち、と言った世界中の千人前後の様々な民族の人々との向い合いでの体験即では、いずれもが「長調は明るい」「短調はもの哀しい」と感じるようでした。

しかし、話しがここで終わってしまえば、それは「観念」であり、「ほぼ世界中に通じる」とは言っても、「極めて普遍的な観念」に過ぎないのです。

ところがインド科学音楽の場合、「何故、地域、民族、宗教、思想、文化、習慣、環境を越えて同じ意見になるのか?」ということを科学的・論理的に解明せんとしたのです。
従って、結論を言えば、「概念が構築されなかったもの」も多く存在してしまったのです。
つまり、それは言わば「論理の隙」であり、「観念論」が入り込む落ち度である訳です。

加えて、論理的な理論がほぼ完璧であろうとも、意図も簡単に「観念」に負けてしまう場合もあります。
この連載コラムの前々回で述べました「アーユルヴェーダ薬学に於けるRasaとVipaka」がその典型的な例です。Rasaは「現実的(形而下)な意識(Ahamkara)が感覚(Indriya)で認識する味)」であるのに対し、「Vipaka」は、「消化吸収後の味」と言われます。即ち、「臓器や細胞にとっての味(意味・価値・効果効能)」と説かれます。同じように、インド古典音楽の「Raga(ラーガ/旋法)」にも「RasaとVipaka」があるのですが、「Vipakaの概念」は中世以前に廃れてしまい、「Rasa」だけが残り,むしろ中世の「観念論的なインド古典音楽の改編」の主軸となりました。

本来「Rasa」は、「概念が完成しなかった準概念/非概念」であり「極めて観念に流され易いもの」なのです。

ところが一方、「Rasa」と同時期にインド古典音楽で取沙汰された「概念風な理論」の中の「音やRagaと時間の関係」の方は、逆に「観念」にとっては入り込む隙が無く「概念」の天下となりました。何故ならば、「ラーガの時間帯(その時間帯に演奏するのが正しい」は、「朝(午前)、昼、午後、宵(夜)、真夜中、夜明け前」の古くは六種、後世では、括弧を独立させた八種に、「境目の時間(Snadhi-Prakash)の「夜明け/日没」を加えた「8~10の時間帯」で、「12の半音の何を使うか」を定めたものだからなのです。

なので、Ahamkaraが「朝のイメージだ!」と感じようが「いいや!真夜中」もあり得るばかりか、極めて規則的ですから,対角線での共通項が半数を超えます。具体的には、「朝のラーガの構成音と対角線の宵のラーガの構成音は半数以上が共通する」などです。
言い換えれば、この「ラーガの時間帯(Gayan-Smae)」は、「非Ahamkara的」であるという意味で「Vipaka-Samae」であるということが出来、幸いに、「Rasa-Samae(人間の情感に合わせた時間帯)」を考え主張し並列させることをしなかった希な例なのです。

しかし「薬味」ともなると、「Rasaが苦い」と感じているものを、「Vipakaでは甘いなのだから、その苦さを甘い!と認識しろ」という訳には行きません。
つまり、「アーユルヴェーダ医療」も「古代インド科学音楽」も、「ヴェーダの叡智」は、決して「観念」や「個人的情感」を否定している訳でも卑下している訳でもありません。

ただただひたすらに「味(や音の印象)は、Ahamkaraが感じるRasaだけでなく、Ahamkara以外の体の内面や心、魂、純正意識などが感じるVipakaがあるのだ」と説いているのです。

しかし、「論理と概念」が、「情感、印象」を否定せず、むしろ認めつつも「答えはそれだけではない」と説いているのにも関わらず、「観念、印象、感情」とその「至上主義感覚」は、「Rasa(Ahamkara)こそ事実(=信じれる事実=真実)」として譲らない場合が極めて多く,現代年々その傾向が高まっているのです。

つまりAhamkaraが「苦いRasa」と感じれば、「Vipakaの甘いなど知らん、関係ない、何の意味があるのだ?」という感覚です。

近年、年々その傾向が強くなる」と述べたのは、そもそも「SNS」が成り立つ基軸が、「AhamkaraのRasaの共有(共感・連帯感)」だからです。勿論,それを二の次にして,あくまでもビジネス上の利で、連帯するものもあります。ですが、逆に、「Vipakaで連帯するSNS」や「SNS内のグループやサークル」は、まずありません。

例えば、私が「インド音楽の今日の理解の間違いについて問題意識を持つ人集まれ」としても良くて二三人。しかし「インド音楽好きな人、興味が或る人集まれ」は、数万人、数十万人になるでしょう。同様に、「猫に癒されたい」も数十万人。ところが「猫に癒される間違いについて語り合おう」は、もしかしたら皆無かも知れません。
同様に、「アーユルヴェーダ」が今よりもっと普及したとしても、「Rasaに捕われず、Vipakaを主体にした薬膳を考えよう」で募っても、中々難しいのではないでしょうか?

更に重大な問題が、この「観念論」及び「印象論」による「概念の淘汰」は、「樹を見て森を観ない」感覚を認め増長させ、「Vedaの叡智」のみならず世界の様々な伝統文化を崩壊、もしくは変質させ、社会を荒廃させ、最終的には、生き残った人間であっても、個々の人間の「心と体の健康」を蝕むことです。

大袈裟なようですが、前述した「犬」の例で見ても、「忠実で賢い狩りの友」という「観念」では、極端な最悪の場合、「お馬鹿で、鈍足で我が儘な子」は「お前なんか犬じゃない」となってしまうのです。しかし「概念の犬」は、「ネコ目・イヌ亜目・イヌ亜科・イヌ科の生き物=命」として、賢かろうとお馬鹿であろうと、狩りが上手でも下手でも、「存在は平等」なのです。もうお分かりと思いますが、この「概念」を駆逐し、「観念」至上どころか「利害や印象」を最優先することは「差別、不平等、虐め、排他主義」を台頭させるに違いないのです。

また「個々の人間の心身を蝕み、変調がこうじて歪な生き物になる」と言う根拠は、「右脳左脳・自律神経・各種ホルモンの活性・亢進・衰退」と、最終的には「自律神経失調~恒常性破綻~多臓器不全・精神障害」に至るからです。その前に「重度の依存症」も訪れます。

従って、最悪な極論を言えば「樹を見て森を観ない個人主義」が台頭すれば、「枝葉を括るような全体主義」でしか「統率」がとれなくなり、現実、それに似た社会現象に、「依存症」が加わった「民族主義・保護主義・排他主義」が世界的に台頭しています。それに夢中になり邁進する人々の多くは、既に「右脳左脳・自律神経失調」に至っているかも知れず、その場合は「固定観念を改めよ」などは最早手遅れであり、全く「聞く耳」を持たないだろうと考えられるのです。

このように、時代は最早「ヴェーダの叡智を正しく理解する」どころか、「健康な心身を維持すること」すら難しくなりつつあるのかも知れません。

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93、万物の五元素と七つの楽音 図完、(五元素とTri-Dosha)

私の作図の今回の図版は、中央の円が「中医・漢方弁証論治」、中間の円が「アーユルヴェーダ」外側の円が「インド科学音楽」のそれぞれの「万物の五元素と生命体の臓器や機能の関係」を示しています。 いずれの「五元素」も、単純な「現実・結果・現象論」ではなく、或る種の「象徴的なもの」であります。

例えば「中医・漢方弁証論治とアーユルヴェーダ」双方に共通する「土」は、「有機的なもの、微生物、発酵、混合物、生命の温床」などを象徴し、「混じり合う」性質を持つと共に「吸収する」「留め置く」から「不活性的」な要素をも意味します。従って「土」が亢進し、「安定」の度を超してしまうと「停滞:何も起らない、動かない」ということを意味し、生命体の新陳代謝を阻害し、「気」及び「Purana」「血」「リンパ液」の流れを停滞させます。

同じく「中医・漢方弁証論治とアーユルヴェーダ」に共通する「火」は、他の物質にとっての「仲介・触媒」的なものであり、実質的には「エネルギー」です。同時に「化学反応」であり、物質と物質を単純な融合・合体を越えた次元で変化させ得る力を持っている訳です。言い換えれば、そのもの自体には「何かを作り出す力」は無い訳です。また、「常に変化させる力」ですから、亢進してしまうと、「維持の為のバランス」を阻害し、その手前では、回りの物質や要素を過度に刺戟して疲弊させてしまいます。

これも同じく「中医・漢方弁証論治とアーユルヴェーダ」に共通する「水」は、「潤い、命、運化(運搬)、伝達、維持」及び「貯蓄、熟成」などの働きの象徴であり、部分「触媒」の役割も含みます。「源であるとともに、還るところでもある土」「ひたすら触媒(刺戟)の火」だけでは、「新たな創造(新陳代謝)」も「消化吸収・代謝」も出来ませんし、それらを「生命体の体の隅々に行き渡らせ、潤すことは出来ませんから、「水」に象徴される存在、現代科学(医学)的に言えば「血液、リンパ液、その他の体液、粘液、一部の粘膜」であると言え、恐らく未だ解明されていない「水分とエーテルなどの中間的なもの」も含まれるのでしょう。

「中医・漢方弁証論治」に於ける「木」は、「土」から生じ「火」のエネルギーも持ち、蓄え、「水」の潤いも吸収する、或る種「二次的な生産物」即ち、より「命」に近い具現された存在の象徴です。同時に、「育つ、上に伸びる、横に広がる」という、「土、火、水」には無い「意志と目的や摂理」を持った存在たちの象徴でもあります。更に「全てを受け止め、包み込む」という詩質は「土」とも似ていますが、それらを「生かす・活かす」という点が特徴と考えられます。

この「中医・漢方弁証論治の木」は、「アーユルヴェーダ」では、「風」に当たりますので、「分かりにくい」と思われる方は少なくない筈です。そもそも「アーユルヴェーダ」の「風と空」の概念自体が分かりにくいに違いありません。

「風」は、「生まれては消えて行く」「時間が包括される」とともに「時間を抹殺する」というような力を持つものの象徴です。「水」も、生命体の体内では「川の流れ」のようであり、「滞ること」は大変危険ですが、それも「風」に象徴される物質や機能、作用によって「涼、流れ、乾燥、運化(運搬)」の力を得て「滞り」から解放されます。

つまり「源であり、或る種墓場でもあり、微細な生命のカオスでもある土」「触媒でありエネルギーである火」「運化(運搬)であり、貯蓄である水」は、「風」の力によって「制御(コントロール)される」と共に、「流れ・動き」を得ると考えるべきではないでしょうか。具体的には「気やプラーナ、及び波動」であり、「酸素や二酸化炭素などの気体」であり、「火のような熱を持たずに物質・機能・作用」を「作動させる力」であると言えます。それらを総合すると、「木」との共通点は大きく理解されます。が、「木」には動きが乏しいことも分かります。

もうひとつの「アーユルヴェーダ」に於いて分かりにくいと思われる「空」は、「体積を変え得る空間」であると考えられ、これは極めて「宇宙的」であるとともに、非常に高度な叡智を示唆しています。言わば「流石『何も無いことが在る=ゼロの発見』のインド」といった感じです。何故ならば、ご存知のように、宇宙空間でも、重力バランスによって、「空間」は、極めて濃厚な極小単位(ブラックホールなど)から、極めて希薄な「無限空間」迄様々に存在します。「SF宇宙もの」などの「ワープ航法」などは、これを利用し、「光の速度で数万年」の距離を「数万分の一以下」に縮めてしまう訳です。

この「アーユルヴェーダの空間の概念」は、「中医・漢方弁証論治」では「金」に相当しますが、「金」は、「GoldやMetal」とは限らず、極めて純粋なものの象徴です。化合物、混合物の場合でも、極めて正確なバランスによって維持・存在されるものたちの象徴です。従って「金」の概念から見れば「土」は「動かない(動きの鈍い)重たい混合物」であり、「水」は、「良く動く(落ち着かない、とめどもない)比較的軽い混合物」と言うことさえ出来ます。従って「土と水」にない要素「様々な重さ(物質や機能・作用の対峙に於いては互いの比重関係は大きな意味を持ちます)があるが、それ自体は安定している」というものたちを象徴(総称)した「金」の存在は、時には極めて重要且つ不可欠な「絶対条件」になり得る訳です。その意味では、アーユルヴェーダの「空」と極めて似た意味合いを説いていると言えます。

このように、論理的解釈を深めれば、「アーユルヴェーダ」と「中医・漢方弁証論治」で述べている「万物の五元素」は、必ずしも「遠くない」ことが分かるのです。これは「観念至上主義」や「印象至上主義」では至らない領域です。

しかし、その一方で、「五元素と臓器の関係性」に関しては、「アーユルヴェーダ」と「中医・漢方弁証論治」では、その相違はより顕著にも見えます。尤も古代に於ける「腎、肝、脾」などは、近代の認識の「腎臓、肝臓、脾臓」の範疇と全く同じではなく、より広域に関連する臓器や機能・作用を含んでいますから、単純な比較は出来ないことは言う迄もありません。

最も差異を感じるのが「中医・漢方弁証論治」に於ける「火=心」に対し、「アーユルヴェーダ」では「火=胃、肝、胆、脾」であり、「心」は、「肺」と共に、「風」の領域であり、「中医・漢方弁証論治」では、その領域は「木」であり、関連は「肝」であるということです。

私達日本人の感覚では、特に「中医・漢方弁証論治」の影響を受けずとも「Heart=火」と考えそうですが、「アーユルヴェーダ」に於いて「火」は、「消化・代謝のエネルギー」ですから、「胃、肝、胆、脾」になる訳です。そして「心」と「肺」がセットになっていることは、「中医・漢方弁証論治」でもある程度認識しています。しかし、その認識に於いて「心系統と肺系統は、互いに「相剋」の関係と説きますから、両者が結びつくということは、病状が劇的に悪化する場合を意味します。つまり「中医・漢方弁証論治」に於いての「心・肺」の関係性は、極めて緊張したものである訳です。それに対し、「アーユルヴェーダ」では、むしろ「相生・互助」のようにも思えます。

恐らく、この相違は、「中医・漢方弁証論治」に於いては「病邪」の侵入と病状の悪化と言う次元に於ける解釈に偏り、「アーユルヴェーダ」に於いては「健康維持のバランス」という観念に偏った説明であるということが出来る筈です。その結果「アーユルヴェーダ」に於ける「心と肺」は、「動脈・静脈=新旧の血液と酸素・二酸化炭素」の「運化(運搬)」に意味合いが集中し、「運化の元素=風」との関係性を強調しており、「中医・漢方弁証論治」では、「火=心」と「金=肺」は比較的独立していることが強調されていると読み解くことが出来ます。

外側の円で示しました「インド科学音楽」の場合、「七つの楽音」と「七つのChkra」との関係性の中で、「五元素」との関係が説かれます。
ドレミの順で言うと、「Sa、Re、Ga、Ma、Pa、Da、Ni」と並ぶ楽音は、体の下方のChakraと順に対応し、七種の最後のふたつは五元素を越えています。

古代インド・ヴェーダ科学は、古代ペルシア、及び古代ギリシア科学とも非常に深い関係がありますが、ここでは、その中の「テトラコルド(古代ギリシア音楽理論用語)」の観念が古代インド科学音楽にも存在することをご記憶下さい。

古代ギリシア語の「Chord」は、文字通り、「ギターのコード」「電線のコード」と同じで、字義は「紐」です。ピタゴラスなどが箱に弦を張って、重りで張力を変え音程を具現して見せたことから、「紐=弦=楽音」という観念になりました。「テトラ=4」ですから、オクターヴが「ドレミファ」と「ソラシド」に分けることが出来るという考え方です。

実際、古代ヴェーダ音楽に於ける「楽音」の起源。即ち、ヴェーダ詠唱の「三つの音」が「七音」になる為にも、この「テトラコルドの概念」は、不可欠です。大雑把に言うと「ヴェーダ詠唱の三音」は、下のテトラコルドで「ドレミ(シドレ)」上のテトラコルドで「ソラシ(ファソラ)」が転写的に得られ、後に、その中間音「ファ(ミ)」を加えて「七楽音」が生まれた」という考え方です。

古代には、もっと難しい名称が在ったと思われますが、中世以降のインド古典音楽では、「下のテトラコルド=プーラブ・アング(字義は東部)」「上のテトラコルド=ウッタル・アング(字義:北部)」と呼ばれます。

そして、「サレガマ(ドレミファ)のプーラブ・アング(プーラバァング)」は、最下方のChakraから「心・肺」のChakraに至り、これは「中医・漢方弁証論治の三焦」に於ける「下焦と中焦」に符合します。そして、インドでも中国でも、この領域は「生命力・精力・臓器の原動力・消化吸収代謝」という生命活動の根幹が存在します。

「上のウッタル・アング(ウッタラング)」は、喉のChakraから、登頂部(体外とも言われる)の七番目のChakraに至り、「三焦」の「上焦」に符合します。この領域は「外気の取込みと内気の排出」「感覚・知覚器官」「思考、霊感」などがあります。

私達の日常の体験で、「(下方の)胃を痛めると(上方の)肌荒れや口角炎・口内炎に出る」などの自覚症状がありますが、実際「アーユルヴェーダ」でも、及び「中医・漢方弁証論治」ではより一層、「体の下部と上部の関係性」を深く説いています。これは「インド科学音楽」でも極めて重要な概念です。

と、言うのも、「プーラバングの音の構造」は、「ウッタラングの音の構造」に、極めて多く「転写、転用、対句、鏡像的」に反映されているからです。

このように、「五元素」と「生命体の身体構造・働き」と、「波動」は極めて深い関係にあるのです。「万物が五元素だなんて、科学を知らない時代の無知な発想だ」と揶揄する人も少なくないかも知れませんが、「文字通りの安直で幼稚な解釈」では、確かにそうかも知れませんが、「論理的」に考察すれば、それらは極めて深いテーマを示唆しているのです。

しかし、これも近年の「合理主義的・結果論的・末梢的・近視眼的」な「樹を見て森を観ない」感覚・価値観の中では、単なる「昔の理屈」的にしか紹介されていません。その傾向は、私の印象では年々顕著になっていると思われます。

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92、音楽の科学と演奏家の関係

古代インド科学音楽とインド古典音楽の演奏者との関係をより正しく認識し理解することは、今日と将来に於ける「インド科学音楽」もしくは「インド古典音楽の科学性」の可能性と懸念をより正しく理解することに繋がります。

また、今世を生きる私達にとって、どのような音楽がより体に効果的に働き、どのような音楽が効果が薄く、場合によっては弊害さえあるのか?を知る手だてにもなる筈です。そして、願わくば、その審美眼が宿ることによって、今まさに目の前で滅びつつある「科学音楽により近い、より本物の芸系」を途絶えさせない努力や発言、行動を取ることが出来れば。少なくとも逆の音楽にまんまと騙され「偽物・本物が見抜けない鈍感な感性」に至らないようにすることの為にも大きなきっかけと力になる筈です。

「古代インド科学音楽」は、その数千年の歴史の中で、幾度も「危機」を迎え、「変革」を余儀なくされて来ました。それはそもそも、「ヴェーダの叡智(ブラフマン教)」が衰退し、仏教が隆盛した後、ヒンドゥー教に取って代わられた段階で、多くの叡智と、基本的な論理性がかなりズレてしまったことに端を発します。

極論で言いますので語弊も誤解を招く要素も多々ありますが、「ヴェーダの叡智(ブラフマン教)」の時代は、圧倒的に「神々の時代」で、人間の存在は二の次三の次ぎだったのです。より正確に言えば、かねがね私が「私達の意識・認識など、独裁国家の独裁元首のようなもので,国民(体内の細胞や細菌)や自然環境(健康な心身)のことなど大して考えちゃいない」と言っているように、「ヴェーダの叡智(ブラフマン教)」で「二の次、三の次ぎ」とされるのは、「勉学も修行も理解も悟りも希薄な一般的な意識(Ahamkara)」であり、論理を重んじ知識・研鑽を積んだ「純粋な意識(Chaitaniya)」のことを言ってはいません。

しかし、今日より精神性が高く(物質至上主義ではないだろうから)、敬虔な信仰心を豊かに持っていたであろう数千年前の人間とは言っても、一般人には「ヴェーダの叡智(ブラフマン教)」はやはり「難しい、厳しい」と感じられたのでしょう。「仏教」の救済の側面、包容力に一気に人心が流れる訳です。しかし、「仏教」にも面子があるのか? その聖職者に求められる狭義や理論は、「ヴェーダの叡智(ブラフマン教)」に負け時、ましかしたら、それ異常に複雑です。結果的に、解釈は若干異なれど、「仏教」は、それ以前の「ヴェーダの叡智(ブラフマン教)」の殆どを、より綿密に分析・整理して継承している部分が多く見られます。

しかし、全体を見たり、一般庶民の生活を見る限りには、その時代のインドは、数百年に渡って「混乱の時代」を体験します。この時代に「科学音楽の叡智」の多くが奪われ、音楽理論の解釈もかなり変化しました。しかし、そこにある「論理」を掴めば、その時代の後の情報をより正しく翻訳することは可能です。まだ誰も説いていないようですが。
その混乱の時代に、或る種「政治的・覇権主義的」に勢力を伸ばした宗派が、後の「ヒンドゥー教・シヴァ派」と「同・ヴィシュヌ派」で、争いと和合をくり返しながら「ヒンドゥー教」という全体像を数百年掛けて作り上げます。「ヴェーダの叡智(ブラフマン教)」は地下に潜み「密教」となったり、「サラスワティー派」の姿に宿したりしたようです。また、過渡期の鍵期な宗派は、「ドゥルガー派」「シャクティー派」「カーリー派」などに変遷しました。 これらもいずれは、大きな「ヒンドゥー教」の総体に組み込まれて行きます。が,地域では今でも古来からの神を、言わば偏りを持って専門的・優先的に信仰している人々が多くいます。

この時代の混乱は、「インド科学音楽」にとっては、後の「イスラム教支配の時代」よりも苛酷なものだったのです。音楽理論を表面的に見てしまえば、それ以前とそれ以後とでは「全く異なる音楽理論体系」とさえ思えてしまいます。なので、世界の専門家・研究家。勿論、現地インドの研究者も皆、この時代とそれ以前のことは避けて通っています。その結果、この時代に起ったことは、後々、様々な研究者によって、自在にねつ造され得た訳で、実際かなりの「ねつ造(恣意的に歪められた歴史)」が数多く語られています。

この「政治的・覇権主義的」な宗教に反発をしたのが、中世前期に興った「Bhakti(献身)運動」と考えることも出来ます。より正確には、「既存のヒンドゥーに反発した思想・宗教家」と、「既存の宗派の中から生まれた現場(庶民)第一主義の派」が混在して世紀をまたいで長く大きくうねった社会現象と言うべきでしょう。
後者の中でさえも、「為政者・権力者子飼いで、権力者の恣意を巧みに芸能に組み込んだ大衆煽動派」も居れば、純粋に「既存のヒンドゥーに疑問を持った宗徒」も居ます。

この「Bhakti運動」は、「インド科学音楽」に対し「功罪」二つの側面を与えます。それは主に後に「Raga-Mala/Raga-Malika(いずれも字義は、ラーガの花輪)」として総合的な観念に至る、「ラーガ(旋法)を擬人化した観念論」によってです。まず、前述の時代変遷の中で、統一音楽理論を失ってしまった科学音楽で生まれた様々な「楽派」と「様々な新興ラーガ」を統一して整理整頓する為に「Ragaを夫、その妻をRagini、子をPutra」として家族分けをしたことが基本にあります。

その後、それを「絵画で表す」「詩で表す」ということを通じて、極めて「現象的な存在」にしてしまったのです。勿論、古代科学音楽に於いても、「ラーガは精霊」とされていましたが、中世のそれは「(その時代の)人間の感性で擬人化したもの」であり、必ずしも「ラーガの本質(Prakriti)」を理解しているとは限らないのです。

例えば、「アーユルヴェーダ薬学」では、「常人の普通の意識(Ahamkara)に支配された味覚(Rasa)」と「消化後の味(Vipaka)」を区別しています。「現実・現象論」では、後者は理解されません。後者は、言わば「体と心(意識ではなく)、そして臓器・細胞が感じる味」というもので、「意識(Ahamkara)」を「独裁者」に喩えるならば「(本当の)国民、庶民の意識(それを感じれる自我意識がChaitaniya)」が感じる「味(効果効能/有難さ)」です。

以前にもお話しましたが、私は思うことがあって、体重を二ヶ月で20kg落とした時期があります。(このSita-Ramaさんのコラム執筆者でYogiとJotyshの専門家のGanesha-Giriさんに褒められたこともあります) その後の二三年も、コンビニ食・ほか弁・砂糖を完全に断っていました。(その後は引っ越しの大騒ぎで、贅沢を言ってられなくなりましたが)

その頃に、福岡で「双璧」と賞される板前さんの「和食」を頂いたのですが、「喉を通る実感」の後、胃に溜まった(腹が満たされた)実感どころか、「胃に入った実感」さえも感じないまま、喉の途中から「体中に運ばれた感覚」を初めて体験しました。
科学的に言えば、その料理には「砂糖の味」が皆無でした。数年後に頼み込んで秘技を伺えば、やかり「素材の自然な甘さと、特注の味醂のみ」とのことでした。
ところが、そのお店を案内してくれた友人は、毎朝マック・モスの人で、後日別な店を案内してくれて、「私はこっちの方が好き」と言っていましたが、明らかに上白糖の味がしました。その時期、私の「Rasa」は「Vipaka」を感じられたのでしょう。
しかし、その為には、或る種の苛酷な数年の修行が必須だったのです。

「Bhakti」の時代に、「庶民に分かり易く」ヒンドゥーを説き、科学音楽をヒンドゥー教徒に取り戻す動きは、必然的であり必要なことではあった筈ですが「啓蒙と口説/大衆迎合と大衆煽動」「その功罪/必要性と危険性」の「線引き」は、誰にも容易に出来ることではありません。

私は何故か子どもの頃からコメディアンの小松政夫さんが好きでした。比較的最近になってご著書を出されていることを知り古本を買い集め熟読しました。後に小松さんのラジオ番組にゲストで呼ばれた際にお話したら「僕も今は全部持っていない」と感動してくれました。ご著書を読んで、「何故子ども心に惹かれたのか」が良く分かりましたが、最も感動し学んだ話しが、クレイジー・キャッツの植木等さんの付き人時代、師匠植木さんに厳しく教えられたことについてです。

それは「笑いの芸は、『バカのギリギリ手前』『下品のギリギリ手前』を命掛けで守り挑むことだ(要約)」です。「一線を越えることは容易」「ギリギリを狙い守り通すことは、至難の業であるし、神経をすり減らし,寝ずに考え、自分に厳しい修行を課し、命を削る」という話しです。

その文言を読んで、同じく少年期に「何故か得も言われぬ感動をした映画」、スティーブ・マックイーンが活躍する「大脱走」の名場面を思い出し、「その何故?」も解決しました。
マックイーンは、他の脱走兵の為にドイツ兵を引っ張り回し時間を稼ぐ役目を負って、得意のバイクで、でこぼこの丘陵地帯の国境の柵の手前を猛スピードで走り回るという場面です。最も楽な場所を見つけて一直線に柵を越えることは、彼にとっては簡単なこと。ところが、ドイツ兵に側面を見せて銃弾を掻い潜りながら、柵に激突せずに猛スピードで走り回ることは、超絶技巧に他なりません。

恐らく,日本の「笑い芸」の多くは、1970年代後半に、クレイジー・キャッツの時代から次世代に代替わりした頃に、その「命掛けのギリギリ」の哲学・思想を失ったのでしょう。同じく日本のポピュラー・ミュージックも、様々な芸術も、文化全体も同様に思います。

「アーユルヴェーダ薬学」に於ける「Rasa(舌とAhamkaraが感じる表面的・現実的な味)」と「Vipaka(細胞・臓器・心・魂・Chaitaniyaが感じる意味的味」と同様に、「Raga-Mala(Malika)/Raga&Ragini」の時代に、ヒンドゥー教徒音楽家主導のインド古典音楽では、「Nava-Rasa(九つの感情)」の観念に基づく庶民・文化人への啓蒙が全面的に押し出され、画家や詩家がこぞってそれを取り入れました。

しかし、問題は、その時に「ラーガのVipaka」については誰もその意味深さ、重要性を説かなかったのです。ならば、「人(音楽家や聴衆)それぞれで色々な聴き方をするだろう」という言い逃れは通用しないのです。すでに「人間の(しかも短絡的になりがちなAhamkara)感覚主体の印象論」で「ラーガ(旋法)」を説いてしまった訳です。
難しく言えば、「形而上の価値を歪め、形而下の分かり易さに落とした」と言っても過言ではないかも知れません。少なくとも「ギリギリのライン(柵)」は容易に越えられるようになってしまったのです。

ところが、一方、当時の宮廷音楽の圧倒的な主流派であった「イスラム教徒の音楽家」は、そのような「ヒンドゥー至上主義」が入り込み易い「Bhakti」関連の「Raga-Mala/Raga&Ragini」の観念に全く無関係だったのです。

その「中世イスラム宮廷音楽の最高峰」は、13世紀ではHazrat Amir Khsrawが挙げられ、16世紀ではMiyan-Tan-Senが挙げられますが、両者とも「イスラム系神秘主義」の師匠を持ち、ターン・センは同時に、ヒンドゥー聖者Swami Haridasをも師と仰ぎました。Haridasは、当時のヒンドゥー宗教界に背を向け、ブリンダーヴァンの森で隠匿生活を送った言わば異端児ですが、後世の評価は最も高い聖人のひとりです。

即ち、イスラム宮廷音楽を牛耳って支配する最高峰の音楽家が、幸いにも、「ヒンドゥー教の堅物の弟子」であり、「神秘主義者の弟子」であったことで、19世紀の末頃迄は、極めて「芸術的かつ科学的」「神秘的かつ精神的」な高度な音楽が求められ評価されて来たのです。「奇しくも」と言うか「皮肉にも」と言うか、中世に於ける科学音楽の真髄は、ヒンドゥー教徒音楽家の大半には歪められ、むしろイスラム教徒音楽家の厳しい世界で守られ継承されたということなのです。

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(文章:若林 忠宏

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91、インド科学音楽の将来: 樹を見て森を観ない「変質しつつある東洋医学(3)」

「近視眼的」になるには、理由がある
「私は猫を先生ほど愛せない」「猫絡みのこラムは……嫌いな人も少なくないし」「沢山の音楽と楽器を演ってるなんて、全部適当か広く浅くだろう」というお言葉は、恐らく「全て『枝葉=個人=個性=感性偏重(至上)主義」に偏った(殆ど?)タイプの感覚(思考性/価値観)の人の「誤解」であろうと思われます。それに対し、「剣道の名手の『遠山の目付』の技」「検査技師の『何気なく愚感する』必要性」「昔の火の見櫓の番人」は、「樹に捕われず森を観る」タイプであると言え、「宇宙~地球~様々な生き物~人間~個人~個性・感性」という「繋が・閨vを、「言葉だけでなく体感・実体験・実践している」と言うことが出来る筈と思います。

その一方で、前回敢えて「不愉快にお感じになるだろう」と前置きして「近視眼的」と申しましたが、そういった(上記の前者の)タイプの人をフォロー(弁護)する言葉やすべきこと、理解すべきこともまた沢山あります。端的に言ってしまうと、「とても真面目な人々」なのは間違いないことです。

またしても私事で恐縮ですが、私は小学校の六年間の殆ど「教師も呆れ匙を投げる」どうしようもない子で、今日の認識では、明らかに「学習障害児でPTSD」でした。何しろ殆ど授業を聞いておらず、黒板も教師も見ちゃいない。窓の外を「ぼーっ」と眺めて居る。「あっ!野良犬が侵入した!」「あっ!あの子早退か?どうしたんだろう」などと。
なので、或る教師は「あいつは座敷童と思え」と級友たちに言っていたほどです。

「無関心」なだけならば、成績が悪くなるだけで「自業自得」で、先生にしてみれば、「ほら見たことか!」となるのですが、興味のある科目は、三段階(でした)の「Aだったりするから厄介で、しかも、しばしば事業中に突然「先生!そのお言葉は、先ほどのお話に矛盾します!」などとくって掛かったりするものですから、始末に追えない。放って置くだけでは済まされない。教師にしても何らかの体裁を保つ反論をせねば恰好が着かない。
「大概真面目に聞いてないなら、全く聞くな!授業の邪魔をするな!」とは言い返せない。
なので、以後何らかの口実を見つければ、「廊下に立っていろ!」と早々に閉め出す教師も少なく在りませんでした。

そんな「駄目少年」から比べれば、他の生徒はどれほど「素直」で「真面目」であったか?
まずこの基本がひとつ或る訳です。

インドに於いてのインド音楽のレッスンでさえも、そのような「真面目さやひたむきさ」から、むしろ「師匠が黒と言えば白も黒だ!」に近い師匠は少なくありません。幸いにして、インドに限らず、世界中の数十人の師匠たちの半数は、私もしばしば唖然とするほど、私以上に突拍子もない人物が多く、洋の東西を問わず、その国の音楽家の中でも「異端」でしたが。

次に、若干面倒な話しになりますが、「樹に捕われず森を見る」という感覚は、西洋に於いては19世紀後半に、ドイツ哲学が次々に失態を見せ、生き残りに邁進し、その質ばかりか、基本理念を見失った後、英国哲学の「権力者子飼い」の専門家が台頭し、急速に「現実論」が主流になったと言う事情があります。

「哲学」と聞くと「訳が分からない」と思う方が多いように、或る意味「非現実的で難解で面倒臭い」からこそ「哲学」なのですが、それが「現実的」になってしまう、ということは、「本末転倒」「魂を抜かれた」ようなものです。
奇しくもその英国の植民地であったインドでは、英国留学も果たしたエリート層の中から「樹に捕われず森を見よ!」「それはヴェーダの叡智への回帰・再評価である」という運動が興りました。おそらく、インドの哲学家・思想家・宗教家(本来インドでは同源同義)にとってみれば、同時代の英国哲学は「幼稚」に思え、その「嘘」も簡単に見破れたのでしょう。

しかし、第二次世界大戦とその直後の分離独立などのゴタゴタの中で、前述しましたように「極端な保護主義・民族主義・ヒンドゥー至上主義者」によって、彼らに都合良い「一元論」にねじ曲げられたまま、本来の真意は、廃れてしまいました。

そして世の中は、20世紀に入ると、英国哲学の「現実主義」から遥かに飛躍した米国哲学の「合理主義・結果論」が主流になってしまうのです。

即ち「受容性と柔軟性が豊富な真面目で謙虚な態度」に、「結果主義、合理主義、現実主義」が加われば、「森をぼーっと俯瞰する」というようなことは殆ど忘れ去られてしまい、ましてや「それが大切なのだ」などとは誰も説かない時代になってしまうのです。

そして、世界中が苦難と悲しみの辛酸を味わった「第二次世界大戦」と「戦後復興」が、この基礎に決定的な「歪んだ結論」をあたえます。
それは「共感・連帯感の間違った解釈=誤った共感・連帯感」の流布です。

第二次世界大戦の敗戦国「日本、ドイツ、イタリア」は、何れも「全体主義(ファシズム)」(本来ファシズムは結束主義ですが、ここでは慣例に従います)と「軍国・拡張主義」が一体化したとして世界から非難され、「日本、ドイツ、イタリア」のいずれの国民を「そう思う」となってしまいました。

つまり、国民の殆どにとって「樹に捕われずに、森を見る」というのは、「戦前の全体主義」そのものであり、それは、「個人主義の否定」であり「個人の人格や命さえも投げ出して『お国の為』に捧げる」というような意味合いである、と、理解しようがしまいが、言葉に置き換えようが置き換えまいが、ほぼ殆どの人々が「そう感じてしまった」のです。

全くの大誤解です。

今回の図で示したように、本来の「森」は、それ以前に「一本の樹」が、一本の幹から無数のように出た枝葉に分かれようとも、「幹と根っこ」で「大地」に繋がっており、全ての樹が同じ森の大地で繋がっているのが、本来の「宇宙~地球~生命体~細胞」の繋がりと同義なのです。言わば「縦の関係性(枝葉~幹~大地)の自覚」が根幹ということです。

しかし「全体主義、ファシズム、個人主義の否定」は、写真の右上のような「樹木を縄で束ねた」ようなものであり、「縦関係」をほとんど無視しているのです。事実、戦中の日本は、「日本固有の伝統」を重んじているように見えながらも、軍国に都合の良いものばかりで、それ以外の伝統文化は排斥されました。ドイツ、イタリアはもっと酷かったですし、その後のソ連の社会主義や今日の北朝鮮に於ける「伝統文化」の弾圧と崩壊は、悲惨です。カンボジアの社会主義政権は殆どの伝統を葬り去りました。

また、今日の欧米の「保護主義・民族主義・自国優先主義」と、欧州の「EU崩壊の危機」もまた、「束ねただけのこと」に対する「反発・反動」と見れば、或る意味当然のことです。

「地に根を張らず、幹から切り離され、束ねただけの枝葉」は、写真の「薪(たきぎ/まき)」のようなものです。「大誤解」というより、むしろ「大地~根っこ~幹~太枝~枝葉」という概念にとって、「全く逆の感覚」であると言わざるを得ません。
しかし「枝葉(個人・個性・価値観)」に執着(依存も少なくない)する傾向が強い現代人は、「縦の繋がりの意味」が理解出来なくなっているので、「薪のように括られること」との大違いが分からなくなっているのです。

「括られること」を由とする人々は「モラル(道徳)」「思いやり」「客観性」を説きますが、「個人主義」に依存している人々は、既に辟易としているようでもあります。反論・反発を覚悟で言ってしまえば、「幹から見て感じること」が出来るならば、「モラル、思いやり、客観性」などはいずれも「言う迄もないこと」な筈なのです。

例えば、「天道虫」のように、幹から「上へ上へ」と昇って行く時、或る二手に別れた枝葉などは、いずれも同じ価値である筈で、「たまたま右を選んだ」ならば、「左を選んだかも知れない」訳であり、右の枝葉から見た左の枝葉は「実在しなかった自分のもうひとつの歴史」「双子の兄弟」のようなものです。その理解の方向性の中では、「モラル、思いやり、客観性」などは、要求されずとも、自然に「共感・共存感・連帯感」が生まれるに違いないのです。

「東洋医学」に与える危機的な弊害
この、殆ど問題にもされず,殆ど説く人の居ない、しかし重大且つ明らかな傾向とその問題は,「東洋医学の基本精神」を歪めかねない重大な危機的状況に至っています。

もし、より正しく「常に大地~幹から考える」のであれば、「枝葉の違い」は、何時でも常に入れ替わり得ることです。

例えばアーユルヴェーダに於いて、「貴方の体質はPittaですから」のような診断を得たとして、もしかしたら、何かのきっかけで、別なDoshaに転じるかも知れないのです。

そもそも、前述しましたように「Tri-Doshaの解釈」が多くの場合、「遠からずとも当たらず」的に微妙にズレています。勿論、基本的なことをしっかりおさえている専門家は、「Vata、Pitta、Kapha」のいずれも、「生命維持」に必要な「要素であり、働きである」とし、「しかし、もしそれらがバランスを崩した場合、それらは様々な不調・偏重・病気の元凶となり得る」と正しく説いています。

しかし、決して少なくない割合で、上記の話しの後半だけが強調されています。これは、元々の「Dosha」の字義に、良からぬものが多いからもあります。つまり、古代インドのアーユルヴェーダの叡智に於いては「過ぎたるは及ばざるが如し」以上の「警戒感」を持って「過ぎたるは、極めて危険な有害因子の如し」と言っている訳です。しかし、これも「幹~太枝~枝葉」から考えてみれば、そのニュアンスはかなり変わる筈です。

アーユルヴェーダが説いた「本来の正しいバランス状態」は、「Tri-Dosha」がほぼ均等にある「純粋な性質=純性(Sattva)」でありますが、例えば「幹はSattva」であったとして、その先の「太枝」の或る一本が、何らかの障壁によって歪められて「バランス不調(異変=Vikrit)」が起きたとして、それは「過渡期の状態=プロセス」です。従って、「元凶(犯人探し)」をするならば「太枝」にある訳で、「幹(基/原因)」は、元凶ではありません。

そして、その先の小枝は、太枝のアンバランスを受けて、「順列組み合わせ的」に「Pitta亢進」「Vata亢進」「Kapha亢進」の三種の症状が出得る訳です。そして、その先の「枝葉」に至ると、「小枝」の「三っつの偏重」に、「PittaとVataが亢進」「PittaとKaphaが亢進」「VataとKaphaが亢進」が加わった「六種」や、亢進の二種に差があるものを加えた「九種」もおのずと生じて来る訳です。
私の作図のふたつめの「棒グラフ的な図」と「円グラフ的な図」は、それぞれ「複合Dosha体質の9パターン」と「中医・漢方弁証論治の八綱弁証図」です。

しかしここに幾つかの大きな問題(落とし穴)があります。、まず、このような「順列組み合わせ的に考え得るパターンを統べて挙げる」という感覚は,古代インド・ヴェーダ科学の最も基本的な「論理的考証」のひとつの形に過ぎない。つまり、ヴェーダの論理にとっては基本中の当たり前のことである、ということです。当然のように「古代科学音楽」の旋法:ラーガの音の組み合わせも、この感覚が基本になっています。

次の問題は、そのような「基本的な構造」を、「現実論、結果論」に当てはめてしまうということ自体の「枝葉偏重論の誤り」に対する疑問を説く人が殆ど皆無である、ということです。そして、前述したように、そもそも「枝葉の状態は結果」である場合が殆どであるにも関わらず、より根源に近い「中枝」について考えないということは、より深刻な問題である筈です。

この問題は、「中医・漢方弁証論治」の現状にも見られます。「中医・漢方弁証論治」の場合は、「現代アーユルヴェーダ」のような「固定的な体質」という解釈に偏ることはしていません。あくまでも「結果論」は、何らかの病気・不調の結果であると考えるからです。これが「中医・漢方弁証論治」に於ける「証(状態)」です。

そして、その「より内面的な原因」を様々な看たてによって検証を進め「表=表面的に現れた急性症状」「裏=潜在する慢性病因」「実(亢進状態)/虚(衰退状態)」「熱(実の結果論)/寒(虚の結果論)」の組み合わせを「順列組み合わせ」的に分類します。しかし,近年「実=体力がある人の症状/虚=体力が無い人の症状」のような「現象・結果論偏重」のような「遠からずとも当たらず」の解説が、殆ど懐疑されずに、ネット上(漢方薬局を含む)に横行しています。

例えば「アレルギー疾患」と「自己免疫疾患」は、「免疫機構の誤作動である」という次元では、極めて近い関係にありますが、西洋医学では、前者を「体力があって免疫力が強過ぎる」と誤解し、後者が、しばしばかなり衰弱していることもあって「体力がない人の免疫機構の自虐的誤作動」のように解釈されることが多く見られます。さしずめ「現代アーユルヴェーダ」ならば,前者は「Pitta亢進」とされ、後者は、「Kapha亢進」とされるのでしょうが、これらもまた「遠からずと当たらず」です。

勿論、全身的な体力が衰弱すれば「免疫機構」全体が衰退し、「アレルギー」も「自己(攻撃)免疫」も衰退しますから、「体力」と無関係ではありません。しかし、瀕死の重傷を負った獣が追いつめられた時に見せる「過剰防衛」とも思える勢いや威嚇の様を「体力が有る」と判断するような感覚は、如何なものでしょうか? 同じ状況の獣がひっそりと岩の隙間に身を潜めることもあり得、その違いは、後天的な経験や知恵の違いが作用する部分も多い筈です。言い換えれば、後者の「潜んで居た獣」が発見され「追いつめ」られれば、前者になりえる訳ですから・A「証の虚実もPitta・Kaphaも」簡単に逆転しかねないのです。

より具体的な、西洋医学で立証された理論も踏まえて言うならば。「免疫機構」は、自律神経の二系統によって、言わば「正規軍と武装警察」のような役割分担をしています。最終段階的に体力が弱まれば、どちらの武装集団(免疫系統)でも兵糧が尽きたような状態になります。しかし、そもそも「軍」と「公安」は命令系統が異なりますから、現場の「武装集団」をなだめたり、武装解除を強制したりすることは、「火急的な一過性のもの」に過ぎず、命令を下している大元を変えない限り、第二第三の武装集団が送り出されることは必至なのです。これが「局所・対処療法」と「全身・根治療法」の考え方の根本的な違いです。

つまりこのテーマは、東洋医学を代表する「アーユルヴェーダ」と「中医・漢方弁証論治」のいずれもが、西洋現代医学のような「現実論・結果論」に偏って、「局所対処療法」的な考え方をし始めて居るということの現れなのです。これは極めてゆゆしき事態と言わざるを得ません。何故ならば、「東洋医学」がその最も基本的な在り方と価値を自らで失い掛けているということだからです。

東洋医学の最も基本的で、最も重要な論理は「全身医療、予防医療、自然治癒力サポート、根治療法」であることは言う迄もありません。

しかし「枝葉という結果論に局所的に対処することに偏る」というのでは、「全身医療」でもなく、「根治療法」でもないのです。

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(文章:若林 忠宏

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90、インドのポピュラー音楽の現代と未来

今から30年40年前、日本の数少ない民族音楽学者の高名な先生や、インド哲学、インド文化、語学の教授先生たちの何人かが、「異口同音」に次のように述べていました。

「インドには所謂Love-Songというものが存在しない」「これはLove-Songか?と思って聴いていても、良く良く歌の中身を学べば、恋人に歌っているようでいて、全ては神に対してであった」と。

確かに第二次世界大戦後のパキスタンとの分離独立前と同時に生じた「宮廷音楽の終焉」「イスラム藩王国、ヒンドゥー藩王国の終焉」までは、この話しもまんざら嘘ではありませんでした。しかし戦後ともなると、いささかこの話しは「思い込み」と言わざるを得ない訳です。

戦前迄の音楽の在り方の基本には、「宮廷楽師=古典音楽」「花柳界楽士=世俗歌謡」がありましたが、後者では10世紀から「Love-Song」が歌われていたのです。

後者の音現場は、イスラム藩王国のカスバでしたが、「歌姫」は、殆どヒンドゥー娘でした。なので、学者先生がおっしゃるように、「恋人に準えた神々」だったかも知れませんが、全てがそうとも言えない訳です。

また、同時代、階級が無い筈のイスラム教でも、イスラム娘の芸者さん舞妓さんは存在しました。彼女たちの歌の場合は、「神々へ」ということはほぼ皆無だった筈です。

しかしその一方で、1980年代に来日コンサートをも実現したベンガル地方の「音楽教」とも言える、神秘主義系の「Baul」の有名演奏家の歌にも「恋人に準えた神への歌」もあります。「Baul」の歌のジャンルでは「Prem(愛)-Tattuva」とさえ言われますが、この「愛」は、全て「神」に対してのものです。(Baulは言わば一神教です)
勿論この「恋人に対してのように神々に歌う」は、中世の「献身歌:Bhajan」と同時進行した、「神々への恋歌」の流れもありますが、根強く継承されていることも事実です。

中世の花柳界に既に存在した「宗教を離れた恋歌」は、戦後の共和制になる以前にも「Madhuru-Sangeet」として或る種の確立を見せていました。
そして戦後、日本同様に庶民の希少な娯楽であった映画の主題歌で、「恋歌」は一気に膨大なスケールに至るのです。しかもご存知のようにインドは世界有数の「映画生産国」ですから、或る意味「ポピュラー・ミュージック」の生産もまた、世界有数ということが出来るのです。

当連載前々回で述べましたように私は、そもそもポピュラー・ミュージックであろうと、洋楽であろうと、インドの伝統音楽に絡みこそはすれども、「その本質を浸食することはないだろう」という楽観を抱いています。

しかし、問題は、その伝統音楽と向い合う人間の「精神性/心」であることは否めません。喩えるならば、「仏像」自体は、古いものでは、飛鳥・奈良の時代から「何も変わらず、私達人間と向い合っている」としても、それと向い合う私達の意識は大きく変わっているであろう、と同じ話しです。

逆に、ポピュラー・ミュージックは、何時の時代でも向い合う人間を肯定し続けて来ました。しかし、何故か流行が過ぎると古臭く感じ、かと思うと、十年二十年経つと得も言われぬ懐かしさを感じる。しかしその時、「懐かしさ」と或る種の「淋しさ」は感じるけれど、それらは「今の自分」を必ずしも肯定してくれない、そんな感慨を禁じ得ない人は決して少なくないのではないでしょうか。

言わばポピュラー・ミュージックは、「留まること」も「逆戻りすること」もない、長距離列車を向かえる各駅の歓迎楽団の音楽のような感じです。その時々、感激・感動し、良き想い出となったとしても、人はまた列車の発車と共に乗り込んで「先へ先へ」と進んで行く。通過駅のことは、「旅の記念アルバム」としてだけ振り返るのみ。
その一方で、「長距離列車」から、或る種の勇気を奮って下車し、「Uターン/Iターン」で過疎の村で農業を「一から始める」という人々の話しも聞きます。

唐突な横道の話しですが……。近年、歴史或る寺社の施設を「落書き」や「油?」で損傷を与えたり、猫に対しての虐待、お年寄りや障害者、幼い子どもに対する虐待や痛ましい事件が多く報道されます。

勿論、マスコミの報道は必ずしも冷静且つ中立とは言えず、ことさらに誇張して「作られた時勢のイメージ」を増長する傾向は昔からあり、近年その「大衆迎合性・煽動性」は、タブロイド雑誌のごとくでもありますから、「そのような事件が増えている」と言う印象操作は正しくないかも知れません。

しかし、それが何時始ったにせよ、「狂った人間の蛮行」と単純に処理してしまう前に、「はたっ!」と気付けば、何れも、長年「守るべき」とされていたものや「弱者」への残虐な行為であるということです。「言う迄もない」と言われそうですが。
そして、これは決して、事件の犯人を弁護するものでは毛頭ありませんが、「どうでも良いもの」に対してではなく「守るべきもの」や汚してはならないもの」に対しての行為には、何らかの「叫びのような訴え」の深層心理があるのではないか?というテーマです。要するに「幼児的な逆説心理」ということです。

幼い子どもの親ならば、誰しも、子どもが喜ぶ「玩具」や「お菓子」を買ってやりたいものです。喜ばせたい、喜ぶ顔が見たいと言う純粋な思いで。しかし、しばしば「仕事が忙しくて構ってやれない」などの「負い目」があると、「玩具」や「お菓子」で「穴埋めしよう」「許して貰おう」としてしまいがち。そして何時の間にか、それでも子どもが不満そうだったり、淋しそうだったりすると、自責の念に耐えかねて、それをプレッシャーと感じ「玩具」や「お菓子」を「買ってあげたじゃないか!」となってしまい、「純粋な思い」から随分と隔たってしまうものです。

子どもは、それを敏感に感じ「言葉の論理」では整理出来ずとも、感覚的にそれを察知しますから「玩具」や「お菓子」に対する有り難みが急速に薄れ、しばしば「憎たらしい」「腹立たしい」ような気分さも内在することが考えられます。
そして親がくたくたになって深夜近くに帰宅すると、「玩具」は壊して散らばって、「お菓子」も少し食べては止めて部屋中にバラ撒いていたりします。中には、「玩具」や「お菓子」を巧みに利用して、近所の友達や年下の子を子分にしたりする賢い子も居ます。

いずれにしても問題は、「玩具」や「お菓子」に対する「有り難み、感謝、素直な喜び」が失せることです。

ポピュラー・ミュージックは、何百年も前から古今東西で、その時代を反映し、その時代に懸命に生きる人間の心情を代弁したり、励まし、癒して来ました。ところが、1970年代の後半位から世界的に、それ迄とは桁違いな「商品化」が急速に進みました。勿論、その反動の音楽も常に生まれましたが、それらもやがて商業主義に飲み込まれて行きました。そして、「粗製濫造」とは言わないにしても、1980年代1990年代には,ポピュラー・ミュージックの歴史の中で、昔の人間にとって眼がくらむほど、信じられない程膨大に大量生産されました。

こじつけ的に思われるかも知れませんが、その様は、「人間が自分たち人間やそれ以外の生き物や自然、守るべき人間の伝統などに対する、無意識に近い何らかの負い目が在り,自らで自らに大量に「玩具」や「お菓子」を買い与え、結局はその価値を下げた姿である」という論法が成り立つのではないでしょうか。

ところが、ことインドのポピュラー・ミュージックともなると、必ずしも「生まれては消えて無くなる消費物」とも言えないのです。いや、正確には、やはり商業音楽ですから、時間が経てば「賞味期限」が来ますし、数年後に「懐かしい」と思われるのは大量生産されたものの極1%にも満たないかも知れません。

ですが、インドの場合、そもそものポピュラー・ミュージックが、タイやフィリピン、シンガポール、香港などと比べると、「インド的」というか、世界のポピュラーミュージックの最先端と、必ずしも張り合ったり真似たり、パクったりをしていない気がするのです。妙な「自信」と「誇り(自尊心ではなく)」が感じられると思うのは、インド音楽歴47年ということだけでなく、今も一介のインド・ファンである私の「贔屓目」でしょうか。

例えば、当連載の前々回び「ヒンドゥー寺院」をご紹介しましたビルラ財閥傘下の国産車「アンバサダー」の公式サイトをご覧下さい。驚かされます。
何しろ「最新型」なのに、数十年前と対して変わっていなくて、そもそも、もの凄く「レトロ」なデザインなのです。頑丈な作りは窓枠なども太く、決して視界は良くない。しかし,相変わらずのインドの交通事情では「気取っていたらアウト」です。それを逆手に取って、優しい丸みを帯びたカーブに仕上げるので、嫌が応にもレトロなのです。

しかし、決して「野暮ったい、古くさい、ダサい」とは感じない何かがあるのではないでしょうか?

同じことがインドの最新のポピュラー・ミュージックにも大いに感じられるのです。例えばコンピューターの打ち込み音源を用いてさえも、その基本に数百数千年続く伝統民謡のビートを見出すことが出来ます。

流石、古今東西ありとあらゆる要素を取込んで、ひたすらその質(質量)を高めて来たようなインドならではの「カオス」のようでいて、滅茶苦茶ではない、多種多様が混在共存している姿が、ポピュラー・ミュージックに如実に現れていると思えてなりません。

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(文章:若林 忠宏

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若林忠宏氏によるオリジナル・ヨーガミュージック製作(デモ音源申込み)
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89、インド科学音楽の将来: 樹を見て森を観ない「変質しつつある東洋医学(2)」

アラブ留学経験がおありの十年前の生徒さんが当時、と或ることで悲しみに在った時に、SNSで「我が家の猫にもそういうことがある」などで励まし感謝のお言葉を頂いたことがありました。それをこの度「個人の違いを理解して欲しい。認めない訳でも誤解している訳でもなく、共感出来ないことがある(例えば猫に対する想い)ということ」というテーマに於いて「実はあの当時、感謝の念の他に『私は猫じゃない!』という想いもあった。それも『猫に対する想い』が違うからだ」とおっしゃいました。「ごもっともの常識的正論」です。

また、私がここ七年以上、西洋化学製剤療法では改善しない様々な猫の病気を中医・漢方弁証論治と西洋ハーブ、そしてアーユルヴェーダの叡智と生薬で治して居ることについての「コラム原稿」を様々なインド文化関連、アーユルヴェーダ関連のサイト管理者さんに採用のお願いをしましたが、ことごとく却下されました。「猫が嫌いな読者も少なくない」「猫に偏っている」ということでした。

確かに、元生徒さんがおっしゃった「私の枝葉は『猫が好きじゃない』人間の枝葉」であり、「先生(筆者の私)の枝葉は『愛猫家』の枝葉」という解釈に間違いはありません。同様に「アーユルヴェーダの枝葉」「ヒンドゥーの枝葉」などなどが無数にある訳です。

また、或る時、私の音楽を高く評価し「大先輩」とおっしゃった若者が、西アフリカ太鼓「ジェンベ(彼らはジャンベと言いますが)」にハマった後、現地修行も頑張ったのですが、或る時「先輩(私のこと)がしばしば本に書き、語る『ジェンベのルーツはアラブ・ペルシアの……..』の言葉に正直「カチン!」と来ている」とおっしゃいました。「ジェンベはジェンベ!」「理屈や歴史はそうかも知れないけれど」と。

「猫への想いの話し」「猫アーユルヴェーダ治療のコラムの不採用」「ジェンベのルーツの話し」「国際交流基金講座でのご感想」などなどの全てに共通していることが、「枝葉=個性=個人の感性=それを守り発表・主張する自由」が至上的・偏重しているというテーマであることと、「中枝・太枝では一緒。ましてや幹はひとつ」という「連帯・・共感論」は、前者「個人主義とその自由と権利」を「脅かすものである」かのような誤解~違和感・反発感を抱かれ易い、というテーマがあることです。

一足飛びに後者の仮説を受け入れ認めることは、中々出来にくいかも知れませんが、少なくとも「中枝は一緒、幹はひとつ」ということが「言葉では分かる」「頭では分かる」だがしかし「心や気分・感情は動かない」。つまり「観念にもなっていない」ということは言える筈で、ご理解頂けると思います。あたかも「絵に描いた餅」「仏作って魂入れず」のようなものです。

「森を観る」ということ
奇しくもこのテーマが、2017年4月26日放送のNHK「ガッテン」の主題として登場しました。それは、「いねむり運転ではないのに起る事故の原因」に、連続的で単調な動きや景色が続くと「網膜の周辺視が休止し、異変に気付かない」。それどころか、「中心視」は、「スピードが遅く感じる(見える)」からだ。というものでした。

逆に紹介されたのが「周辺視の使い方が卓越している例」でした。「周辺視」は、「動体視力に長けますから、「スピードや違和感」を鋭く察知するのです。

具体的な例として紹介された剣道歴50年の七段名士の場合、「(アイカメラで測定しても)中心視が動かないのに相手の動きを全体的に把握して察知出来る故に、無敵の強さを誇る」というもので、卓越した精密機械の部品をチェックする「検査技師」も同様であると紹介されました。本人弁として、後者は「一生懸命見るのではなく、何気なく見る中で違和感を感じる」と言い、前者は「遠山の目付」という伝統的な言葉を上げていました。

これは正に昔の「火の見櫓の番人の観方」に他なりません。言い換えれば「樹を見て森を観ない」習慣が強い人々は、或る種「近視眼的」と言わざるをえないのです。
ご不愉快に感じられる方も居るだろうと覚悟の上で極論的に呼称して、以下「樹を見て森を観ないタイプ」は、「近視眼的である」とさせて頂きます。そして逆の「連帯・共感力が高いタイプ」は、「俯瞰力・全体把握力・洞察力が高い」という意味で「視野が広い」とさせて頂きます。

ここに二つの問題が浮上します。そのひとつは「近視眼的」なタイプは、「視野が広いタイプ」の感覚や意見を中々聞き入れないというやっかいな問題です。「ガッテン」の番組でも、「安全運転歴に自信がある」という(前日充分に睡眠を取った)人が数名登場し、「シュミレーター・カー」を運転して事故を起こしました。逆に、「広い視野」を基本にしている人は、「違和感・異変」に気付けば、その「一点」にズーム・インして凝視することは日常的に行っていますから、「近視眼の問題性・危険性」は熟知しているのです。

例えは「視覚」という「或るひとつの感覚機能(Gnyana-Indriya)」の話しでしたが、それにこのような「特性(或る意味落とし穴)」がある以上、「近視眼的なタイプ」の人々は、必然的にその「認知機能」も同様であり、さすればその「思考も同様である」ということになる筈です。
そうなりますと,或る意味「当然」のように、「森を観る」という概念は、観念にもならない「言葉上のもの」「有名無実なもの」に陥ってしまうのでしょう。

図について
私が作図致しました今回の図は、「Ayurveda」と「インド科学音楽療法」そして「中医・漢方弁証論治」を大雑把にまとめたものです。いずれもかなり複雑な理論体系を持ち、更にかなり高度な「論理的理解」を求めるものですが、逆に「森全体を観る」感覚で俯瞰することによって、「本質的特徴」も見えて来る筈です。

例えば、最近でこそ、「ヨガに興味ある人がアーユルヴェーダにも関心を抱く」とか、「アーユルヴェーダがきっかけでヨガやインド占星術(Jotysha)にも興味を持った」などが増えて来ましたが、古代に於いていずれも「同時進行(同源同価値)」していたものが、日本では長年「分化」した感があります。少なくとも「体に入る食物など」には関心が高まっても、「心に入る言葉や音楽」に関してはまだまだ関心も理解も低いと言わざるを得ません。そのことからも、「総合的な科学」の本来の姿とはいささか隔たっていることは事実でしょう。
図の中程に示しました、「インド科学音楽」は、今回迄の数十回の連載でお分かり頂けたと思いますが「鑑賞音楽」ではない、と言い切れる程に「治療と精神修行」の為の音楽である訳です。当然、「季節や時間、環境、自然」の影響も大きく受けている筈ですが、「規定」は伝承されてはいても、その論理的概念は,殆ど廃れてしまっています。結果、「音楽」としてのみ、「聴いて受け止める」ということに偏ってはいます。

一方、「中医・漢方弁証論治」の場合は、「アーユルヴェーダ・ヨガ・瞑想・占星術」以上に分化が進んでいます。例えば「自然環境との関わり」に関しては、「中医・漢方弁証論治」とは、ある程度距離があるか、人によってはかなりかけ離れた感が否めないほど「風水」や「気功」に委ねてしまい「中医・漢方弁証論治」で関係させて語られることは殆どありません。

このことから分かるように、「中医・漢方弁証論治」の場合、少なくとも近代以降、「外部との関わり」は、もっぱら負の要素、つまり「外部から侵入する病気・病淫・病邪」に偏っており、逆の「有効なもの,治療に役立つもの」については殆ど語られません。

これは、「近現代のアーユルヴェーダ」も同様で、薬効に関しては「陰陽20種のGuna(薬味)」が語られているのに、「風景や森林浴、動物との触れ合い、新鮮な草木の香り、心地よい風」などは、20種の内のもっぱらたったひとつ「癒し」ばかりが取沙汰されています。

「医食同源」の意識によってようやく、「良薬口に苦し」も我慢・納得して摂っても、「言葉、音楽、風景、生き物」に関しては「甘いものばかりを求める」という偏りに、問題が無い筈はありませんが、それを説く人は殆ど居ません。

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