111、歴史の理解力を高めることは、心身の健康に最適・最短の手法 (その1)

「人間は手足の生えたナマコ」である。

学生の頃から、友人の中で「歴史が好き」という人は、五人にひとりくらいだったような気がしますが、近年ではその割合はもっと減ったのではないかと危惧します。その一方で、TVではこの十年、歴史物語が多くなりましたから、歴史に対する思いを新たにした人が増えていて、五人に三人位に増えているのかも知れません。尤も、昭和30年代40年代のようには、「未来」を明るくはイメージ出来なくなって来た所為で、「非日常への逃避的感動」も含めての「歴史ロマン」に一時酔うだけでは何も残らない、何も変わらないかも知れませんが。

逆に、今も昔も「歴史は苦手・興味無い」という人が、半数以上いるのだとして。これは、ひとつに学校教育に於いて、歴史を如何につまらなく教えて来たか、というテーマでもあり、一方では「今に生きる」ということの意味を誤解・極解した、以前も述べました「イマジン病」の所為もあると思われます。「イマジン病」とは、「枝葉執着症候群」の典型的なもののひとつで、たいがい「常識・観念・流行依存症」「向い合い・振り返り・自壊困難症」そして「自意識過剰・自尊過剰が根底にある優劣過敏症」を伴い、重度の場合は「目先過集中・先急ぎ・死に急ぎ・やり過ごし病」となり、最悪の場合「本当の自分」は勿論「かりそめの自分」さえも見失い、外因に対する反応だけに流された「生ける屍」状態に陥ります。

しかし、これもまた、心身の基本的なシステムの異常~誤作動~崩壊方向でありますから、逆なタイプの自負心旺盛な人々が言うような「根性(精神性)問題」ではないのです。

ここは極めて重要なポイントです。

体に取込まれる「空気・水・食物」同様に、「言葉・文字・思い・感情」そして、「音楽・美術」つまり、古代ヴェーダの叡智が極めて重視した「マントラ:音・言葉(ことだま)・音楽」「ヤントラ:文字・象形・図形・オブジェ・美術」「タントラ・論理・思考・科学性・普遍性」に象徴されるものを「正しく消化・吸収・代謝出来ない状態」に近づいている場合に起る、或る種の「心と体がS..O.S.を発している」状態であると言えます。

「正しい消化・吸収・代謝」は、「対峙する二つの要素のバランス」と「滞らないこと」が最優先課題であることもまた言う迄もないことですが、体に関しては、「Detox」ばかり励み、心に関しては「拒絶とスルー」ばかりですが、これでは全く意味も効果も為さないばかりか、むしろ「本来のデフォルトの機能を脆弱にし、やがては破壊する」と言っても過言ではありません。しかし、世界的規模で、そのような状態の人間が増え、その結果、「悪因=犯人探しと排除」のヒステリックな状態に急速に進んでいるのは事実です。それは国際情勢の問題ではなく、国の社会情勢でもなく、個々の人間の「心身の偏った状態」に起因していることは言う迄もありません。

………………………………………………
生命体は或る種の「筒」である
………………………………………………

ヴェーダの叡智は、人間を或る種の「筒」と考えます。ご存知の方も多いと思われます「Taittiriya-Upanishad」などが説いた「Kosha(鞘)論」です。これを「鞘」と訳した方が何処の何方なのか? 当たっているようでいて、ピンと来ないものも禁じ得ません。

いずれにしてもその基本に、ヨガでも、アーユルヴェーダでも、そして「Shastriya-Sangit(科学音楽)」でも説いていることですが、「Nada(Purana/気)」が正しく滞らずに流れる、栄養・酵素・リンパ・ホルモン・神経伝達物質などが行き交う無数とも思える「管」のあつまりが「生命体」であり、様々な臓器は言わばChakra同様の「節(ジャンクション・分岐点)」であるという考え方の有無が極めて重要です。でなくては「鞘がある」「ふーん、そうなのか」では、何の役にも立たないからです。

この考え方では、この私も含め人間という生き物は、ところどころがささやかに進化(?)しただけの「ナマコ」に過ぎないとも言える訳です。

言い換えれば、その「ささやかな進化(手足や五感や思考力)」が正しく機能せず、成長・向上と活用がないのであるならば、「ナマコにも劣る」「ナマコの方が遥かに偉い」とも言える訳です。

更に言い換えれば、むしろ「ナマコ」に成れれば、この世知辛い世の中、海の底でじっとしてやり過ごせれて楽なのでしょう。(私のキューバ歌謡の十八番に、ナマコではなく海老ですが、そんな想いを歌ったPachangaがあります)

しかし残念ながら、正しい手段があったとして、それによって、人間としての五感・手足・思考などを正しく削ぎ落として捨てない限りに、「正しい(健康な)ナマコ」にはなれません。(或る意味。勿論良い意味で「悟り」「梵我一如」は、「正しくナマコになること」なのかも知れませんが)

即ち、「ナマコに無い(余分な)機能」を、「正しく停止させる」「正しく捨てる」方法でもない限りには、それは「壊れた機械を更に壊した」に過ぎないということです。

つまり「瞑想」にしても「悟り・梵我一如」にしても、今更どうしようもなく備わっている私たちの「様々な機能=多数の機械」が、新品同様で良く動作し、良く働き、活用されている状態で電源をオフにしたような状態でなくては、「壊れた機械だらけの崩壊寸前の工場」が遂に「息の根を止めた」状態と同じである、ということです。

論法は唐突のようですが、「歴史を面白く理解する力」を育て鍛えるということは、錆び付き焼き付いた機械をメンテナンスするには、実に効果的な手法のひとつなのです。よって、今回の名題「歴史の理解力を高めることは、心身の健康に最適・最速の手法」ということになるのです。

………………………………………………
Kosha論の正しい解釈
………………………………………………
今回の二つの円で表した図の左が、Pancha-Kosha(5層の鞘)を新たなスタイルで説明したもので、右は、かつてこの連載で説きました、5つの意識と存在(形而上的なものも含む)の図です。(宇宙の意識の象徴であるPurshaは図の円には描かれていません。

おそらく多くの方が、以前ご紹介した私の右図の構造を理解して下さったと思います。しかし、その感覚で「Pancha-Kosha」を理解してしまうと、今回の左図のようになってしまう筈なのです。実際、インドでも日本でも、「Annamaya-Kosha」「Pranamaya-Kosha」「Manomaya-Kosha」「Vijnanamaya-Kosha」「Anandamaya-Kosha」の順に「奥へ」「内面へ」と説いています。

勿論これ自体は紛れもない事実であり、或る意味今回の左図は、「心を閉ざす」とか「殻をまとった」などと言われる姿をも表しているとも言えます。

同様に、「常識や価値観や観念」などや、「共感・気分的(非思考的・非論理的)解釈」そして「動物的(とは言っても不自然な)直感頼りの反応と敏感さ」などに依存してこの世の中をどうにか生き延びようとしている状態をも「堅い殻に隠った・守られた」ということが出来ます。つまり「愛想が良いだけ」の人は少なくなくとも、本当の意味で「心がオープン」という人は、そうそう居ない。ということです。

また、この左図のような構造のままで、外側が「防御の堅い殻」では、「必要なもの」も心や魂には届きません。

尤も、現代人の多くが外堀の「気分・感情(本来は悟性と叡智満ちた知性と感性)=Manomaya-Kosha 」内堀の「価値観や観念(本来は思考・論理)=Vijnanamaya-Kosha」が脆弱になっていますから、外的要因の数々は、ほぼダイレクトに心に影響を与え、心は最早ずたずたなのかも知れませんが。       (つづく)

…………………………………………………………………………………………………..

何時も、最後までご高読を誠にありがとうございます。

…………………………………………………………………………………………………..

また、この度「インド音楽旋法ラーガ・アンケート」を実施致しております。
まだまだご回答が少ないので、
是非、奮ってご参加下さいますよう。宜しくお願いいたします。

https://youtu.be/wWmYiPbgCzg

12月1月も、インド楽器とVedic-Chant、アーユルヴェーダ音楽療法の「無料体験講座」を行います。詳しくは「若林忠宏・民族音楽教室」のFacebook-Page「Zindagi-e-Mosiqui」か、若林のTime-Lineにメッセージでお尋ね下さい。 九州に音楽仲間さんが居らっしゃる方は是非、ご周知下さると幸いです。

………………………………………………………………………

You-Tubeに関連作品を幾つかアップしております。
是非ご参考にして下さいませ。

Hindu Chant講座Vol.1

Hindu Chant講座Vol.2

Hindu Chant講座Vol.3

Hindu Chant講座Vol.4

Vedic Chant入門講座(基本理解編)

Ayurveda音楽療法紹介(基礎理解編)

アーユルヴェーダ音楽療法 (実践編1)

アーユルヴェーダ音楽療法 (実践編2)

アーユルヴェーダ音楽療法 (実践編3)

「いいね!」「チャンネル登録」などの応援を頂けましたら誠に幸いです。

(文章:若林 忠宏

‥…‥…‥…‥…‥…‥…‥…‥…‥…‥…‥…‥…‥…‥…‥…‥…‥…‥
若林忠宏氏によるオリジナル・ヨーガミュージック製作(デモ音源申込み)
‥…‥…‥…‥…‥…‥…‥…‥…‥…‥…‥…‥…‥…‥…‥…‥…‥…‥

110、ドゥルガー女神のラーガ(1) Raga:Durga

……………………………………………………………………..
ドゥルガーのイメージにみるインド人の母親像?
……………………………………………………………………..
商売人に人気なのはラクシュミ女神。音楽・舞踊家の信仰が厚いサラスワティー女神。では、その他の一般の人々にはどの神が人気なのでしょうか? これは多民族国家のインドのこと。地域が異なれば人気の神々も異なって来ます。

主婦であり母である一般のヒンドゥーMrsには、人間の子どもとして生まれたクリシュナに母性本能が掻き立てられると言う人が少なくありませんが、男女を問わず私たちにとっての「母」の存在の女神は、何と言ってもドゥルガー女神ではないでしょうか。

クリシュナの養母:ヤショダを神格化する人々も居ますが、基本的に彼女は人間であるからこその要素が大と思われます。彼女も紛れも無く母性に富んだ存在ですが、もしかしたら、養父:ナンダの父性の方を特筆する人の方が多いかも知れません。(寡聞ながらヤショダのラーガを私は知りませんが、ナンダのラーガは幾つか学びました)

その点では、「マ・ドゥルガー(母なるドゥルガー)」と呼ばれるだけあって、ドゥルガーの母性は、とりわけ信仰が厚いベンガル地方のみならず、インド全土でかなり確立された感じがあります。

しかし、私たち日本人の感覚で言うと、ドゥルガーより、元の姿のパールヴァティー女神の方が優し気に思えます。世界のあらゆる宗教と神話に共通する「天(宇宙)と地(地球)の融和」の創成神話に於いてもパールヴァティーが象徴する「地」は、正に「母なる大地」といった包容力があります。
それに対しドゥルガーは、「たくましい」を通り越して「勇ましい」。否、それをも通り越して「恐ろしい」というイメージさえ抱きかねません。

しかし、「母性の象徴である女神」に「優しさ」を求めるのは、私たちの「甘ったれ根性」の所為であり、「真実の母性」には、「力」と「威厳」そして、しばしば「恐怖」がつきもので、私たちは、甘えるどころか畏怖の念を禁じ得ないのが本来なのでしょう。その意味でDurga女神は、ブラフマン教~ヒンドゥー教の神々の中でも、より古く、より本質的な性質を継承し続けているとも言えます。

神話的に言えば、シヴァ神の妃:パールヴァティーが、悪神の侵攻に対し情けない敗北をくり返す男神を見かねて「私によこしなさい!」と男神達の武器を八本の手に取り、ライオンに乗って闘うとされます。信仰が盛んなベンガルでは虎に乗って描かれることの方が多いようです。そのドゥルガー苦戦した際、怒りに狂った彼女からカーリー女神が現れたとされますが、黒い肌に鉞を持ち、喰いちぎった悪神の血を滴らせる姿には、最早母性は望めません。

また、多くの信者が、パールヴァティー~アンバーマーター~バイラヴィ~カーリ………と繋がる一連の様相(Nava-Druga:九のドゥルガーとしても知られます)の根本に流れる「力」を全ての「力」の源である「Shakti」と考え、地方によっては、「Shakti」も様相のひとつとして具象化されます。

社会学的見地から見れば、各地のアニミズムに自然発生した「母なる大地」の神格化である女神たちを、プラーナ時代の隆盛期にシヴァの妃として統一の流れを構築したのである、となるのでしょう。

しかし、この連載で何度か述べていますように、意外に近い将来、科学的にも解明されるかも知れない「宇宙の波動=気=意志=粒子のような何か」として考えるのであるならば。それは正に「Shakti」と名付けられた或る種の波動であり、それが様々な様相に具象化されるということは、決して矛盾もなければ、おかしなことでもなく。またお伽噺でもないのでしょう。

……………………………………………………………………..
絶対音程の無い真言とドレミのド(Sadaj)
……………………………………………………………………..

「神とは、波動として宇宙を飛び交う何らかの意志である」という話しとは、一見異なるようで、実は深いところで関わっているのが、「真言(Om)と科学音楽と古典音楽の基本中の基本である「音列の第一音=Sadaj」には、「絶対音程/実音的な高さ」が存在しない、ということです。

インド古典音楽に於ける「始まりと終わり」であり、「全ての根源」とまで言いながら、その「ド=Sa」に絶対音程が無いということは、どういうことなのか?

なにやら「嘘臭い?」「まやかし?」めいた気分になる人が居たとしても当然でしょう。しかも、「ドレミのド」に絶対的な音程が無い以上、例えば「Raga:Durga」を説いたとしても、その実態には「絶対的な姿」というものが「無い」ということになってしまいます。

しかし、以前もどこかで述べましたが、「ドレミのド」に関して言えば、「他の音との関係性で、自ずとその絶対性が見出されて来る」ということなのです。

いみじくも人間が最初に見つけ出した「遠距離通信手段」は、「モールス信号」でした。奇しくもそれは「長い(ー)」と「短い(・)」の二つの信号を組み合わせるものであり、有名な「SOS」は、「・・・ーーー・・・」だそうです。これも絶対的な長さではなく、「長い」は、「短い」の存在によって確立され、アルファベットの各音は、その生み合わせによって確立します。

この連載の第一回目でお話しました「宇宙の波動=音楽の音」もまた、「光の波動」同様に、実は無限のグラデーションなのが、大きく捕らえると「虹の七色」「ドレミの七音」のようになり、楽音は、その関係性で「基音=Sa=Om」が導かれる訳です。

今回の図の「彩られた音の帯」で、「Raga:Durga」「Raga:Mohanam(クリシュナ神)」「Raga:Shankara(シヴァ神)」を羅列し比較したものの、最上段に書きましたのが、「西洋音楽のドレミ(CDEFで表した)とインド古典音楽のサルガム(SRGMで表し、大文字が高い方=ナチュラルもしくはシャープ音、小文字が低い方=フラット音)」です。色は、西洋楽音の場合、「自然倍音」の関係性を示しており、インド楽音の場合、「男性音」と「女性音」の分別をタントラ化して示しています。

しかし「Sa音をSaと感じる理由」は、私たちに「絶対音感」があるからではありません。(「私はある!」と思い込んでいる人以外でも、誰もがある程度は「ある」とは思いますが。「移動ド音楽」であるインド音楽には無用であるばかりか、或る意味不向き・弊害があります)
そもそも「Sa自体に絶対音程が無い」のですし。

では、「何故SaをSaと感じるのか?」

それは、「基音持続法」によって、定義付けされるからです。

例えば、きっと一回は聴いたことがあると思われる「津軽三味線の曲(曲芸的な)弾き」が冒頭に「ドドド、ドソソソソソ、ソドドドドドー」と弾いてから「ドミ♭ファ、シ♭ソ、ファファファファ」と始まりますが、実音は何であれ、その冒頭の「基音のド」と「属音(自然倍音の第五度)のソ」が示され、「じょんがらの音階=ド、ミ♭、ファ、ソ、シ♭、ド」が確立することと同じように、インド音楽も、伴奏弦楽器や、シタールなどが自身で持つ伴奏弦などで、「SaとPa」が鳴らされることで、「用いる音階」が確定する訳です。

しかし、ここに大きな「落とし穴」もしくは「トリック」があります。

……………………………………………………………………..
絶対音程の無いことのトリック
……………………………………………………………………..

受けとる側の「絶対音感」も、発する側の「絶対音程」も無いのですから、「基音と完全(自然倍音)五度の属音」と、「基音と完全四度の準属音(下属音)」の区別は着かない筈なのです。

何故ならば、「完全五度の音程(厳密な意味での音の隔たり)」は、「ドからソ迄を数えて5つ(半音7つ)」だから「五度」な訳で、「ドからファ迄を数えて4つ(半音5つ)」だから「四度」な訳ですが、「ファから上のド迄を数えて」も、「5つ(半音7つ)」なのです。つまり「ファ~ド」も「五度音程」なのです。

すると、鳴らされた「ドとソ」が「ファとド」では無い保証は、誰にも立証出来ない筈であり、前述の津軽三味線も、「ドドド、ドソソソソソ、ソドドドドドー」ではなく、「ファファファ、ファドドドド……..」かも知れないのです。

ここで、改めて「三種の神々のラーガの音列比較図」を見て下さい。
Raga:Durgaの「m」、即ち、「サレガマ」の第四音「Madhyam」を「基音」と見立てた、「(便宜上の用語としての)四度上転調」は、色分けした「本来の配分」とは大きく異なることが分かります。

その代わり、「Raga:Durgaの四度上転調」の音列は、なんと「Raga:Mohanam」の音配分と同じなのです。つまり、もしRaga:DurgaのSaの実音が「C(A=440hzの場合、下のCは260hz辺り)」の場合、C=260hzをSaと聴くからRaga:Durgaなのであって、もし、F=350hzをSaと聴けば「Raga:Mohanam」となってしまうのです。(実際は音の動きが異なりますから、上級者には分かりますが、響きの全体印象はそう聴こえます)

Durgaと言えば「シヴァ派・シヴァ屋のおかみ(姉さん)」であり、、Mohanamと言えば「ヴィシュヌ派・ヴィシュヌ屋の若旦那(番頭はRama?)」ですから「同じ」となれば大問題です。

この事からも、何度もお話して来ました「音の動きが重要であり、音階=Ragaではない」ことが明らかになりますが、「オクターヴの12半音から選ばれた音素材=音列(音階)」としては、「同じ」に思えるという「トリック(落とし穴)」があるのです。

その結果、「印象論」で言えば、「Raga:Durga」は、「如何にも優し気な母性の象徴」のような響きである訳が、「優しく可愛らしいクリシュナのラーガと同じ要素」だから、ということになるのです。

「絶対音程が無い」ということは、宇宙から「これがSaだ!」の波動は来て居ないということを意味します。Raga:Durgaに関して言えば、宇宙から届く「波動」は、別の図で「五色のひと帯」で示したものに過ぎないのです。まるで、「モールス信号」や「ゲノム配列」のようなものであり、それは、もうひとつ別の図(惑星と共に描かれた)のように、「連続的に無限に」発せられ、届いていて、「色帯」の「濃いピンク(赤?)」を「基音=Sa」と取るから「Raga:Durgaの基本音列である」、ということになるのです。

勿論、実際は、この「音帯=波動」は、図のような単純なものではなく、忙しく複雑に、しかし特徴的・規則的に「うごめき」ながら、連なって届いて来ますから、「基音」を鳴らさずとも「Raga:Durga」「Raga:Mohanam」が区別出来るのです。

逆に言えば、その「定められた音の動き」を分からずに、「音階感覚」で弾いたり歌ったりしてしまえば、「DurgaとKrishnaが、無作為に混じり合う」という誠に奇妙で不謹慎な音のカオスが生じてしまうのです。実際、昨今の演奏者の多くがこのレベルですが。

ちなみに、比較図のシヴァ神のRaga(とは言っても、前々回の連載で述べたように、私自身Shankara=Shivaとは考えてはいませんが)は、奇しくも、DurgaとKrishnaの双方の要素を兼ね添えながら、独特な厳しさがあることが分かります。

もうひとつご紹介する金色のパネルの写真は、Sita-Ramaさんで通販されている「Durga-Yantra」です。

https://sitarama.jp/?pid=1207473

おなじくSita-Ramaさんが紹介されている「Parwati-Yantra」とも似つつも、歴然と異なるのが、均整の取れた安定感と毅然とした雰囲気でしょうか。

…………………………………………………………………………………………………

何時も、最後までご高読を誠にありがとうございます。

…………………………………………………………………………………………………

また、この度「インド音楽旋法ラーガ・アンケート」を実施致しております。
まだまだご回答が少ないので、
是非、奮ってご参加下さいますよう。宜しくお願いいたします。

https://youtu.be/wWmYiPbgCzg

11月12月も、インド楽器とVedic-Chant、アーユルヴェーダ音楽療法の「無料体験講座」を行います。詳しくは「若林忠宏・民族音楽教室」のFacebook-Page「Zindagi-e-Mosiqui」か、若林のTime-Lineにメッセージでお尋ね下さい。 九州に音楽仲間さんが居らっしゃる方は是非、ご周知下さると幸いです。

………………………………………………………………………

You-Tubeに関連作品を幾つかアップしております。
是非ご参考にして下さいませ。

Hindu Chant講座Vol.1

Hindu Chant講座Vol.2

Hindu Chant講座Vol.3

Hindu Chant講座Vol.4

Vedic Chant入門講座(基本理解編)

Ayurveda音楽療法紹介(基礎理解編)

アーユルヴェーダ音楽療法 (実践編1)

アーユルヴェーダ音楽療法 (実践編2)

アーユルヴェーダ音楽療法 (実践編3)

「いいね!」「チャンネル登録」などの応援を頂けましたら誠に幸いです。

(文章:若林 忠宏

‥…‥…‥…‥…‥…‥…‥…‥…‥…‥…‥…‥…‥…‥…‥…‥…‥…‥
若林忠宏氏によるオリジナル・ヨーガミュージック製作(デモ音源申込み)
‥…‥…‥…‥…‥…‥…‥…‥…‥…‥…‥…‥…‥…‥…‥…‥…‥…‥

109、古代声楽の後継 Dhrupadの流派 (その1)、(シリーズ:インド古典音楽の流派:第一弾)

………………………………………………………….
「インドで最も古い声楽様式」は本当か?
………………………………………………………….
伝統の継承「Parampara」は、インド科学音楽のみならず、ヴェーダの叡智に根ざす様々な科学・文化・芸術にとって、最も大切なものであることは言うまでもないことです。

そもそも、古今東西全ての人間にとって、「自分が属する地域(邦/Des)の伝統文化」に根を生やすことは、「生きる上で最も重要な糧」であることは言うまでもありません。

それに加えて、昔から人間の中には、(たとえばマルコポーロなど)「強く引かれる外国(異邦/Bides)の文化」を徹底的に探求せんとする強い熱望を抱く人が居ましたが、今日のように前者(自国文化に根ざす)をないがしろにして、「国際人」気取りで外国文化没頭に逃避・依存しているような人間は、昔は何処に行っても相手にされなかったものです。

「自国文化に根ざす」こと、

それは枝葉は瑞々しく、太い幹の中も健康でたくましい大樹のひとつの枝葉に生きる意識と感覚の人間、地に足を着け、枝葉の回りの出来事に反応した気分・感情に支配されることはない「あるべき姿」の人間にとって、それ以上でもそれ以下でもない。つまり「不可欠」でありながら「それだけで充分」の唯一のアイデンティティーでもあるのです。

しかし、近現代の人間の「殆ど」と最早言うべきかも知れないほど多くの人々は、「枝葉に執着・依存」し、外界の条件・影響・日々の出来事などに支配され、それに反応した気分・感情に支配されています。「自国/外国」にかかわらず、そのような感覚の人間に「伝統」というものが果たして正しく理解されることはあるでしょうか?

ところが、インドのみならず、世界的な奇妙な現象で、この10年の間に、「(自国の)古い文化のルネサンス」のようなことが多く興っているのです。そして、外国文化に憧れ熱中する人々もまた、現地のその風潮を「最先端」と感じて追従する傾向にあります。

これは、近年一層顕著になった「(偏った・排他的な)民族主義」の隆盛と、その根底にある「強烈なアイデンティティー願望(承認・肯定願望)」と無縁ではないでしょう。

例えば、今回の表題とテーマである、現存するインド古典声楽の中で、「最も古い」とされる声楽様式「Dhrupad(ドゥルパド)」は、私が現地修行をしていた1980年代には、風前の灯火だったのが、ここ数年で欧米・日本人でも演っていると自称する人が現れ、当然のようにインド人演唱(演奏)者も増えて来ました。

しかし、かつて英国人宣教師が世界に初めてインド音楽を大いなる敬意を持って紹介した文献などで「Dhrupadは、牛三頭を引っ張れるような男に歌わせろ」という有名文句を紹介されたように、肺活量は勿論、体力・精神力がかなり求められる難解かつ重厚な声楽様式だったのです。ところが、近年のインド人演唱(演奏)者に至っては、「猫三匹も抱き上げられない上に、難病の世話など『とんでもない!』んじゃないか?」と思うほどの人物が、マイクに頼ってブレス音さえ聴こえさせて演っている、という有り様です。「腹式呼吸」が出来ない声楽家などあり得ませんし、DhrupadどころかKhayal、Thumriは勿論、インド映画主題歌さえ歌うことが出来ない筈です。しかし「出来ている」と思い込む。

かく言う私は、器楽では、SitarでもSarodでも、当然「Dhrupad-Ank」を演らねばならない流派の一員で。同じ師匠が声楽家でもあったので「Khayal」も専門領域であり、ステージで披露することもあります。

しかし「Dhrupad」は、舞台修行の段階であると師が認めてくれていても、「まだまだとても無理」と思うほど、修行が足りません。それでも本気で練習していた頃は、八畳の教室の窓ガラスがビリビリと音を立て、吊るしてある弦楽器が勝手に共鳴してなるようなことが頻繁にありました。

それが近年インド内外で、まるで小唄をやっと歌えるような発声で、(実際小唄は表現が難しいですが)義太夫を吟ずる。しかも免許皆伝であるかのように人前で、がはびこっていますから驚かされます。

…………………………………………….
勿論、そのような「思い上がり」に対しては、古代からインドでも戒めが求められた。と言うことは、何時の時代にも存在したのですが…………………………..。
だから「Narada-Muniの逸話」がある。

「人間で初めて神(Saraswati女神)に師事した」ことで奢ったNaradaが戒められたという逸話です。 日本でも室町時代の雅楽家の残した言葉に「最近の若い演奏者には目を覆うものがある」があると言われます。

しかし、今日に至っての極めて大きく深刻な問題は、インド内外で「苦言を言う」者は愚か「眉をひそめる」者さえも、殆ど居ない状態であることです。完全に「やったもん勝ち」状態です。「バチが当たる」ということさえないのでしょう。

尤も、洋の東西を問わず「バチが当たる」と言われ続けて来ながら、実際「大して当たらない」ことの方が圧倒的に多く。「神頼みしたところで叶えられないし」「神をも恐れぬ輩の方が一生笑って暮らしていやがる」というような状態を百年前から、「どうもおかしいぞ」と気付き始め、とうとうこの10年ほどで、「神は信じない」「アテにしない」「当然『バチ』も当たらない」と考える気運が主流になって来たということなのでしょう。

しかし、もしこれが「自分自身の健康」「自分自身の心と体の正常化」の問題に於ける「健康食品や薬」の問題だとしたら。「より正しい食事や薬」の「より正しい食べ方や処方」を「いい加減で良い」とは思わない筈です。ならば、何故? 自らが熱心に修行し、学び、人に紹介せんと情熱を注ぐ「音楽芸術」に関しても「より本物をより正しく」とは思わないのか?

不思議でなりません。

まず、「Dhrupad」に限らず、インド古典音楽の情報は、ネット情報の殆どが嘘か、幼稚で安直で短絡的な理解や、その引用に終始しており、文献に至っても、最低でも十数冊、しかもより古い文献を検証し、比較して「矛盾する部分に隠された事実(つまり書かれてはいない)」を推測しない限りには、「真実・本物」には近づくことさえも出来ません。

具体的に「Dhrupad」は、「現存する最古の声楽様式」ではありますが、「インドで最も古い様式」ではとんでもないのです。むしろ、並の演唱(演奏)者よりは、Dhrupadから派生したとも言える「18世紀の新様式:Kahyal(カヤール)」の心在る流派の心ある演唱(演奏)者の方が遥かに「伝統的」であり、重厚で格式高く、本物に近いと言える例が幾らでもあります。

加えて、現存するDhrupadのみならず、既に16世紀に「完成した」とされる段階で、かなりにアヴァンギャルドな音楽だったのです。

「伝統とその継承:Parampara」には、「師弟制度と流派」が不可欠です。しかし、それ故の弊害・欠点が、「師匠が黒と言えば白も黒」な「妄信的」な姿が生み出す「疑わないことと思考しないこと」という、安直で短絡的で幼稚な「依存状態」であると言えます。

その結果「師匠が最高」「師匠の流派が最高」と、宣伝員のようなことを自らで義務付けているように見えて、実際は、「地に足も着いていなければ、幹の在り処さえ分からない枝葉人間」が、強い「自己承認願望」の為の「アイデンティティー」に利用しているに過ぎない様子も多く見られます。なので、少しでも「けなされる」と内心孟列に憤慨・拒否反応・反発心が生まれる。

「お前だって似たようなもんじゃないか!」と良く言われますが、おそらくインド人音楽家の数倍は勉強しています。事実、今や巨匠の年齢になったとある有名流派の演奏家が来日した際に色々質問しましたら(互いに20歳代でした)、殆ど返答出来ない。遂に彼はキレて、「お前にこれが弾けるか!」と、父親のフレイズ丸コピーのようなことを弾いてみせて「音楽は理屈じゃない!腕だ!」の捨て台詞を吐いていました。

流石にひとつ「分かってらっしゃる」と感心したのが、「音楽は理屈じゃない!『心』だ!」とは言わなかったところです。何しろ彼の演奏は、何一つ「心に届かない、残らない」のですから。尤も、この問題は、彼の技量・才能・精神性だけの問題ではなく、インド(日本の伝統邦楽もしかりですが)の徒弟制度・流派制度の「やむない弊害」の所為でもあります。これについてはまたいずれ。

………………………………………………………….
Dhrupadは、かなりアヴァンギャルドだった
………………………………………………………….

Dhrupadは、サンスクリットを勉強する方なら良くご存知の、紀元前数百年~千年前から、北インドでも16世紀頃まで、南インドでは18世紀まで大流行した韻文形式「Prabandha」の「末期派生型から発した様式の簡略型声楽様式」です。

「派生型から派生した簡略型」。つまり、今日では誰が聞いても「重厚で難解」な声楽ですが、発生当時の主流の声楽から比べれば、極めて安直な軽い形式だったのです。

このことを理解をせずに「歌う」ことは勿論「分かった」も「知っている」も言えないはずです。

などと言うと、「枝派感覚」の人は「なら、お前は知っている、分かっていると言えるのか!」と返して来ます。「枝葉感覚と幹・根っ子感覚」の決定的な違いは、「論理性である」を言う以前に「分類力の有無」にあると言い尽くせます。

そうお考えになって、ヴェーダ科学に基づく様々な叡智について見回して見て下されば、果てはインドに無数な種類がある、所謂「カレー料理」に至るまで、全てに共通して「分類」が極めて重要であることがわかる筈です。

とにかく、ヴェーダ関連、ヨガ関連、アーユルヴェーダ関連には、「専門用語」が多くありますが、ほとんど全てが、「分類」の為に生じた「分別・区別用語」であるとさえ言えます。

例えば、「カレー料理」に関して言えば、大分類は「宮廷料理系」と「家庭料理系」に二分出来、それらは、「インド各地の準菜食カレー」「沿岸部のペスクタリアン(魚介OK)・カレー」「僧侶階級の純(もしくはそれに近い)菜食カレー」と「アフガン民族がもたらしたカレー料理」の四種に分類出来ます。(と説く料理本も意外にないのですが)

この「分類力」と「分類こそが論理性の第一歩」であることの価値が分かる人は、まず「知識であろうと道具であろうと玩具であろうと」、それを整理整頓する為に必要な「引き出し」の数から思考と分類の準備を始めます。

ところが、「分からない人」は、「目の前にあるもの」を取りあえず、目の前に在る引き出しにしまい込みます。

不思議と言うか、皮肉と言うか、個人的な思考性が、「枝葉」の人でも、コンビニやホームセンターに勤めた場合、極めて「論理的な分類」を強いられます。それは「扱う商品」が決まっていたならば、「売り切れ」たとしても、「その商品のスペースは残されている」という習慣・システムです。「只今品切れ中」の札が陣取って。

しかし、そのような習慣があるにも関わらず、実生活・プライベートでは、かつて1980年代に流行した「路上で勝手に不要物を売る→神社などでのフリーマーケット」のように、広げた布に適当に並べ、売れてスペースが出来れば、鞄から他の物を取り出して置く。というような感覚なのです。全て「情報」も「理解」もこの類い。

その感覚の中では、「Dhrupadのルーツ」などを知る必要は無いのでしょう。しかし、これもカレーに喩えれば、「師匠から出来上がったカレーを貰って、日々小出しに披露している」に過ぎず、自分自身で、「具材とスパイス」から料理出来るとは、到底思えません。

ルーツから理解していれば、「具材」や「スパイス」の配分や、万が一の代用も考えつく筈ですが、レトルトの切り売りでは、それは不可能です。

「Dhrupadを分かる・知る」には、そもそも5世紀以前の「Prabandha」から、どのように「Dhruva-Gana」と「Dhruva-Pada」(いずれもDhrupadの前矩形)が生まれたか? を注視せねばなりません。

その結果、既に5世紀~11世紀の段階で、「Prabandha」が時代と用途、つまり「縦軸と横軸」でかなりのヴァリエイションが生じていたことが分かります。

イスラム文化がかつて無いほど強烈に導入された10世紀の段階で、それまでの主流13種のPrabandhaの内の「最も簡潔(簡単?)な四種」ばかりが演じられるようになっていました。 そして、その内の一種が、取り立てて大流行していましたが、ほどなく、その「重要な6要素」を具現する「4つの楽章」の或る様式の7つのスタイルの内のひとつばかりが頻繁に演奏されるようになったのです。

このこと自体は、何度か説きましたように「宇宙の摂理=自然の摂理=生命体の基本構造」と何ら矛盾しません。つまり「拡散・拡大と収束・収斂はくり返されバランスを保つ」ということです。

Prabhandaは、紀元前のヴェーダ科学音楽の実践であった、「歌曲:Gita」が、拡大して生まれた「収束・収斂」の結果だったのです。 しかし、その後また「拡散・発展」を続け、それぞれに数種のスタイルを持つ、13種(→総数は、100種近い)に膨れ上がり、現実世界では、もっぱら数種ばかりとなって、或る種その他は「自然淘汰」された訳です。

今回作成した図版で、流儀や様式が「拡大:増える」時代と、「収束:減る」時代が、百年二百年単位で交互に現れることや、消失した流儀や様式が如何に多いかが見て取れると思います。

そして、「或る種のPrabandha」つまり、「全体の百分の一」に過ぎない声楽様式をまた、更に「簡潔」にしたのが、「Dhruba-Gana」であり、それを、より実践的に簡潔にしたものが「Dhruva-Pada/Dhrupad」だったのです。

ところが、この「PrabandhaからDhruva-Gana」が生じる、10世紀から16世紀、迄の長い期間には、様々な「舞台」つまり、「用途の違うDhruva-Gana」が生じていたのですが、このことを理解している演唱(演奏)者は、私の知る限りでは皆無に近いと思われます。

ひとつは、カシミール、ヴィジャヤナガル、ヴリンダーヴァン等に於ける「科学音楽Prabandha」を基本とする「ヴェーダ科学音楽系Dhruva-Gana」であり、それと近似(しかも地域がほぼ重なる)ですが、目的と意識が異なる「ヒンドゥー寺院のDhruva-Gana」があり、後者の中の巫女(Deva-Dasi)の舞踊のためのDhurva-Ganaと近似しますが、より大きい意図(ヒンドゥー布教の為の)の「舞台芸術に於けるDhruva-Gana」があり、これを「為政者の宗教への布教」とした場合の「庶民の宗教運動(KirtanやBhajanなどのBakiti:献身歌)から生まれらDhruva-Gana」そして、巷でこれらが流行していることからの求めで開発せざるを得なかった「花柳界のDhruva-Gana」。更に、それらの師匠達である「宮廷楽師のDhruva-Gana」の最低6種の「明らかに異なる精神性と技法」のDhruva-Ganaを理解しなくてはなりません。

つまり「Dhrupadを知っている」と言う限りには、前述の「音楽的異なりの(最低でも)13種」の他に、上記の「舞台(精神性)の異なりの最低6種」の計、19種を「知っている」ことが不可欠なのです。

しかし、前述しましたように、「枝葉感覚」の人には、このことの重要性も価値も、また、「知っている」ということの概念も理解出来ないかも知れません。実際、13種の幾つかは、「総論」だけで、「実例」は、全く情報がないものがあります。しかし「引き出し」は、用意されているべきです。確かに、インド古典音楽は、「理論は極めて論理的であるが、実践は極めて合理的・現実的」であります。だからと言って、前者を割愛してしまうことは、「幹からの滋養」を断つ、極めて愚かなことであることは言う迄もありませんし、そもそも「インドの叡智」にもとるものです。

より詳しい説明と「音楽的な異なり」については、いずれ「その2」でお話しますが、上記の異なりを「Dhali(芸系)」とするならば、この後、この「6種のDhali」の幾つかから、或る種の「ステイタス」が主導し、「芸風が二の次に追い掛けた」感じの「楽派:Vani」が生まれます。定説では、Vaniは四種とされますが、これも誤りです。

そして、「次世代新声楽様式:Khayal」が台頭し、Dhrupadが、或る意味「権威的・象徴的」な存在となった(一部のKhayal流派と器楽流派にはコアな部分が継承されましたが)時代以降、或る意味「生き残り」を掛けた創意工夫と、人脈、言わば政治も絡んで生まれたのが、「次世代音楽の流派の観念:Gharana」に準じた、「Dhrupadの新興Gharana」で、最終的には、1947年の「宮廷音楽消滅」迄の間に、8種+6亜流の14流派がDhrupadに生じました。 (その2)につづく

写真のインドEMI盤LPジャケットは、Dagar-Senior-Bros.の名盤です。Dagar一族のAllah Bande Khan が宮廷音楽最後の時代の巨匠で、その息子Nasiruddin Khanも宮廷と共和国初期に名声を博しました。 Nasiruddin には、四人の息子が居て、いずれも兄弟のデュオで人気を呼びました。
上の兄弟(Senior-Bros)と下の兄弟(Young-Bros)には、取り立てて大きな条件の差があったとは思えません。強いて言えば、幼少期に祖父の姿を心に焼き付けたとは言っても、すでに80歳近い高齢でした。しかし、下の兄弟は、Allah Bande Khan没後に生まれています。恐らく、41歳で急逝した父:Nasiruddin Khanの教えを幼少とは言え十分に得ることが出来た上の兄弟と、二三歳の頃に父を亡くした下の兄弟とでは、結果大きな違いが出てしまったようです。

世界中のファンが、二つのデュオを比べざるを得なくなり、残念ながら「力と魅力が半減した」と上兄弟の一方の早世を惜しみ、嘆きました。

それでもご紹介した、解説も加わった動画
https://youtu.be/XyuFtVOiPB0
では、下の兄弟の往年の素晴らしい歌声が聞こえます。

その他にも、いくつか動画がアップされていますが、著作権問題が無難そうなものが少ない中では、秀作に思います。
尤も、ご紹介の動画にも問題があることが分かりましたら、申し訳ございません。

1950年代から,戦後共和制の新しい時代にもDhrupadが行き続ける可能性を多くの人々に提示した四兄弟ですが、今日の後継者は、末っ子の息子一人のみ。申し訳ないですが、既に中堅を超えた年齢ながら、父親の十分の一ほどの力もありません。これは、分家Ziauddin家の後継(Vina専業で名声を得たものが多い)でも同じことが言えます。

何時も、最後までご高読を誠にありがとうございます。

現在「インド音楽旋法ラーガ・アンケート」を実施致しております。
是非、奮ってご参加下さいますよう。宜しくお願いいたします。
https://youtu.be/wWmYiPbgCzg

11月も、インド楽器とVedic-Chant、アーユルヴェーダ音楽療法の「無料体験講座」を行っています。詳しくは「若林忠宏・民族音楽教室」のFacebook-Page「Zindagi-e-Mosiqui」か、若林のTime-Lineにメッセージでお尋ね下さい。 九州に音楽仲間さんが居らっしゃる方は是非、ご周知下さると幸いです。

………………………………………………………………………

You-Tubeに関連作品を幾つかアップしております。
是非ご参考にして下さいませ。

Hindu Chant講座Vol.1

Hindu Chant講座Vol.2

Hindu Chant講座Vol.3

Hindu Chant講座Vol.4

Vedic Chant入門講座(基本理解編)

Ayurveda音楽療法紹介(基礎理解編)

アーユルヴェーダ音楽療法 (実践編1)

アーユルヴェーダ音楽療法 (実践編2)

アーユルヴェーダ音楽療法 (実践編3)

「いいね!」「チャンネル登録」などの応援を頂けましたら誠に幸いです。

(文章:若林 忠宏

‥…‥…‥…‥…‥…‥…‥…‥…‥…‥…‥…‥…‥…‥…‥…‥…‥…‥
若林忠宏氏によるオリジナル・ヨーガミュージック製作(デモ音源申込み)
‥…‥…‥…‥…‥…‥…‥…‥…‥…‥…‥…‥…‥…‥…‥…‥…‥…‥

108、シヴァ神のラーガ(1)Raga:Shivaranjani

インド古典音楽の旋法「Raga(ラーガ)」には、「ヒンドゥーの神々に因みその名を持つラーガ」「ヒンドゥーの神々に因み、その別名、化身名を持つラーガ」「ヒンドゥーの神々に因み、その物語に関する名を持つラーガ」、そして、ヒンドゥー以外の文化に関わるラーガがあります。

数千のラーガの中では、上記三種のヒンドゥー系の名を持つラーガは、全体の3~4割でしょうか。勿論、10世紀から1945年の宮廷廃止に至るまでの千年近い年月、北インド古典音楽では、イスラム教徒の音楽家がその中心的存在でしたので、彼らにとっては、上記三種のヒンドゥー教の意味合いは、関係ないと言うことが出来ます。

しかし、何度もお話ししていますように、イスラム教徒の高いレベルの音楽家の場合、並のヒンドゥー教徒音楽家より遥かにヴェーダ科学音楽を踏襲し具現している場合が少なくないのです。このテーマもいずれまた、より深く音楽的にご説明します。
…………………………
シヴァ神のRaga:Shivaranjani
…………………………

「Ranjani」の字義は、「Ranj=彩り/Ranjani=彩るもの」ですが、ここでの「Shiv(a)-Ranajni」は、「シヴァ神の効能」即ち「シヴァ神のご加護」のような意味合いと思われます。

この連載の初期に説きましたが、不思議に神々のラーガは、「七音全て用いる=Sampurna(字義は完全な/揃った)」ではなく、「五音音階=Audava」が多いのです。

「Shiv(a)-Ranajni」は、ドレミで言うと、「ド、レ、ミ♭、ソ、ラ、ド」の音階を用います。「ファとシ」が抜かれている、つまり日本の「四七抜調」と同じ構造の「Audava-Audava(上下行とも五音)」の音列(音階のようなもの)を用います。
しかし、「ミ♭」であり短調系か?と思えば「ラ♮」なので、下のテトラコルド(ドレミファの4音/Purab-Ang)では短調。上のテトラコルド(ソラシド/ファソラシの4音/Uttar-Ang)では長調という「二面性」を持っています。

ラーガ(旋法)の約束事は、とかく「形而上の論理」に基づいていますから、形而下の感覚での喩えも推測も正しくはないのですが、奇しくも「シヴァ神の二面性」とも一致します。

ここで言う「シヴァ神の二面性」とは、「創造と破壊の二極性」にやがては関連しますが、直接的な関係性ではない、あくまでも形而下の人間目線の感覚の「たくましく頼り甲斐の在る父性」と「凶暴で冷酷で容赦ない恐ろしさ」の二面性です。
従って、Purab-Angの短調性も、所謂「お涙頂戴」的な情感のそれではなく、実際、極めてクールで整然とした感じが醸し出されます。

この性質は、シヴァ神の極めて重要な性質であると考えられます。より正確に言うと元来古代宗教に於いて「神」というものはそのような「クールさとたくましさ」だったのですが、紀元前数千年も前に世界的にシンクロして、「人間に都合の良い神々」に転換した、という経緯があります。言い換えれば、ヴェーダの神々は、かなりに前者なのですが、ヒンドゥーの時代になると、かなり後者に偏って来たという経緯があります。同様のことは、古代エジプト、メソポタミア、当然ペルシアでも見られます。

実際、クリシュナ神、ラクシュミ女神、サラスワティー女神、ガネーシャ神などはいずれも「優しさ」に満ち満ちていますが、ガネーシャを例外として、シヴァ神ファミリーは、畏怖の念を禁じ得ない神々が多いと言えます。つまり、シヴァ神とその関連の神々は、ヒンドゥーの神々の中でも、根本的で、より太古の感覚に近い神々である、ということが言えるのです。

一方、シヴァ神の「たくましさ/父性的な包容力のある優しさ」は、シヴァ神の南インドに於ける別名とされる「Shankar/Shankara神」の性質であるとも考えられます。
尤も、私の個人的な意見では、「Shiva=Shankara=Bhairaw=Maha-Kala=大黒天」というような図式には大いに疑問・反論がありますが。仮に神話的な解釈で、「強い神が隷下の神を取込んだ(まるで飲み込んだかのように)」としたら、取込まれた神の性質が反映されるのは当然とも言えます。

また、そもそもヴェーダの神々が、「宇宙の様々な意志」を人間が分かり易いために具現化(象徴化)したものであるとするならば。もしかしたら数百年後には、物理・科学でも証明されるかも知れない「波動(や重力波のような)=粒子(素粒子のような)=意志=神々」という図式に至るに違いありません。

そもそも人間感覚で「クール・冷酷・凶暴で、破壊の神」や「たくましい・包容力がある父性的な神」は、上記したような様々な「(素粒子のような)意志」の象徴的な具現化の試みの結果であり、それがヒンドゥーでは、Maha-KalaやShanakaraとなったのであるならば、その要素が他の神にも見られたり、何かひとつが特化したりすることは大いにあり得るわけです。例えば、Shiva神の妃Parvati女神が、男神以上に強烈な力を発揮しShaktiやDurga、更にはKaliへと研ぎすまされて行くのも極めて自然で必然的であると言えます。

この連載の冒頭で、「楽音Swar」は、「宇宙の波動Nada」を楽音として肉声や楽器の音で受信したものである、と説きました。同様に、まるで人気タレントのようにポスターが売られるヒンドゥーの神々も。(私はデリーの問屋で買っていたのですが、とんでもなく大きな店で、数千種類のポスターがあり、並の寺院よりも神秘的な場所でした) 「宇宙の波動(意志)を、人間の姿(多面や多手だったりしますが)にヴィジュアル的に受信したものであるとも言える訳です。故に、それを「言語」で受信(具現)すれば「Mantra」となり、図形・図式・文様で受信すれば、「Yantra」となるのも、極めて摂理的な道理と言えるのです。

そもそもヒンドゥー教、ブラフマン教は、かなりにアニミズム的ですから、、「宇宙の意志」が、山や大樹や、時には岩や石、川、海に集約(結集)したとする古代エジプト、メソポタミアの宗教、アフリカの古代宗教や、日本の神道と同様になるのもまた自然なことなのでしょう。

従って、Raga:Shivaranjaniもまた、「シヴァ神を想って、捧げて奏でる」ではなく、Shiva神の意志を「楽音で受信した結果」と考えるべきであり、「弾いた感じ、聴いた感じ」は、おそらくほとんど無意味に近いのかも知れません。

………………………………………..
Raga:Shivaranjaniの音の構造
……………………………………….

Raga:Shivaranjaniをインド楽器のみならず洋楽器で弾いてみると、当連載コラムのこのシリーズでも後ほどご紹介するクリシュナ神のラーガのひとつである「Raga:Bhupali(Mohanam)」の「長調の四七抜調」の「ミ」を「ミ♭」に替えたような感じがするかも知れません。
しかし、Raga:Bhupali(Mohanam)の主音は、「ミ」で、Raga:Shivaranjaniの主音は「ソ」なので、音の動きは全く異なります。かと思えば、全く異なる音階のラーガで、♭#を変換しただけで「音の動きはほとんど同じ」別なラーガに転換出来たりもします。が、Raga:ShivaranajaniとBhupaliは、そうは行かないわけです。むしろ、ファを基音(Sa)として転調させた場合の擬似的なRaga:Durgaの方が音の動きは近いものがあります。偶然かも知れませんが、流石Shivaとその妃の関係のようにも思えます。

また、Raga:Bhupali(Mohanam)で割愛された四番目と七番目は、「ファ#とシ」ですが、Raga:Shivaranajaniでは、「ファ♮とシ♭」なので、主音の如何に関わらず音の動きは当然異なって来ます。

いずれにしてもRaga:Shivaranajaniには、シヴァ神の「Maha-Kala、Rudra、Bhairaw」的な冷酷で厳しい側面は余り感じられず、全体的に柔らかく、しかし澄んだ感じや瑞々しさが感じられる爽快なラーガです。

写真は、シヴァ神のポスターと、Sita-Ramaさんで販売されているシヴァ神のヤントラです。

何時も、最後までご高読を誠にありがとうございます。

また、この度「インド音楽旋法ラーガ・アンケート」を実施致します。
是非、奮ってご参加下さいますよう。宜しくお願いいたします。
https://youtu.be/wWmYiPbgCzg

11月も、インド楽器とVedic-Chant、アーユルヴェーダ音楽療法の「無料体験講座」を行います。詳しくは「若林忠宏・民族音楽教室」のFacebook-Page「Zindagi-e-Mosiqui」か、若林のTime-Lineにメッセージでお尋ね下さい。 九州に音楽仲間さんが居らっしゃる方は是非、ご周知下さると幸いです。

………………………………………………………………………

You-Tubeに関連作品を幾つかアップしております。
是非ご参考にして下さいませ。

Hindu Chant講座Vol.1

Hindu Chant講座Vol.2

Hindu Chant講座Vol.3

Hindu Chant講座Vol.4

Vedic Chant入門講座(基本理解編)

Ayurveda音楽療法紹介(基礎理解編)

アーユルヴェーダ音楽療法 (実践編1)

アーユルヴェーダ音楽療法 (実践編2)

アーユルヴェーダ音楽療法 (実践編3)

「いいね!」「チャンネル登録」などの応援を頂けましたら誠に幸いです。

(文章:若林 忠宏

‥…‥…‥…‥…‥…‥…‥…‥…‥…‥…‥…‥…‥…‥…‥…‥…‥…‥
若林忠宏氏によるオリジナル・ヨーガミュージック製作(デモ音源申込み)
‥…‥…‥…‥…‥…‥…‥…‥…‥…‥…‥…‥…‥…‥…‥…‥…‥…‥

107-2、誤った「自我」の解釈と実践 (その2)

………………………………………………………………………..
「感覚は、精神性の忠実な出先機関」
………………………………………………………………………..

現代社会では、「便利さと安全(安心)」を得る為に「合理主義・結果論・選択」を受け入れてしまった人々は、「末端・末梢的な枝葉」にこそ「自己を見出そう」と必死になり、SNSなどの「共感空間」で、「印象・感覚」を最も重要なものとして、自己の「反応感覚=気分・感情」に「自己、自我、個性=自分の存在(アイデンティティー)」を見出さんと必死になります。これは、原因を辿れば或る意味「便利病」の怖い症状です。

私が管理しているfacebook-Pageで、アフガニスタンの少年少女の素晴らしい瞳について語りましたが。彼らは、今の時代でも、朝、日の出と共に起きて家事をこなし、山羊・羊を牧場に連れて行ってから、山道を二時間掛けて学校に通う。インフラどころかまともなライフラインさえない。しかし、彼らは不遇とは思っていないし、被害者意識も無い。だから、素晴らしい目線と力と輝きの瞳を持っています。

また、1980年代以降の人々の中に多いのが、知ってか知らずかは別として、ジョンレノンの「イマジン」を極解した「イマジン病」の人も多い。「今に生きる」という観念を都合良く解釈して自分許しを行った結果、「枝葉にしがみつく(依存)」の怖さに気付かないのです。

その結果、「感覚」とそれを司る「気分・感情」は、極めて「利己的、合理的、結果論至上主義的」となってしまいます。

以前もお話しましたが、大分県の山中を車で移動していて、途中休憩で山の上の原っぱで新鮮な空気を吸った時です。東京では出逢えなかったオナガササキリの声がしたのですが、「ほら、ここ」と1mほどで指を差してもドライバーさんは、「聞こえない」と言っていました。逆に「昆虫採集」では、「虫が大嫌い!」という人を無理矢理連れて行くと、私より早く沢山見つけてくれます。「鳴く虫」の場合と同じ性質(心理習慣)が逆に発揮されるのです。このように、「五感」は、、その人の価値観・世界観・精神性に沿った働きしかしないことが極めて多いのです。
「猫が嫌い」でなくても、「面倒」や「過負荷」を嫌う人には、「風に乗った僅かな捨て子猫のSOSの声」などは都合良く聞こえないようです。

………………………………………………………………………..
「板挟みになっている現代人の心」
………………………………………………………………………..
その内側の「心の領域」では、「心」は、「魂と気分・感情」の板挟みになっていて、恐らく一人の人間の中で、最も苛酷な想いをしている部分だと思われます。

「心」は、明らかに、個々の人間が所有する「意識器官」ですが、「魂」は、バトンや鍵や、家宝や伝統のような「預かりもの」なわけですから。私たち個々の人間の所有物ではありません。

樹木の図は、ヴェーダ科学が説いた「個々の人間の本来の姿」を樹木に喩えたものです。「心」は、「幹と根っこ」であり、「魂」は、「大地、もしくは大地と切り離せない根っこや株」のようなものですから、地球上の数億数兆の生き物は、「ひとつの大地」を共有している訳です。

ヴェーダの叡智を学ばずとも、前述のアフガンの山の学校の子どもたちのように、「朴訥としている」とか「素直な」と賞される人間は世界には、まだまだ居てくれると思います。彼らの「素直」の構造は、「大地〜根っこ〜幹〜太枝〜中枝〜小枝と葉、花や果実」が、「真直ぐで、滞りが無い」状態なのでしょう。恐らく、無意識で、あらゆる物事を「根っこから順に優先して考える」。

例えば、「大好きな一頭の羊」を売りに出すこととなった。という時、アフガンの羊飼いの少年は恐らく、無意識に瞬時に、「羊〜家の状況〜両親の想い」の順で「心が動き、思考し」その後に、「自分の寂しさ」を自覚するのではないでしょうか。故に、その「寂しさ」は「哀しさ」に昇華・代謝し、「慈愛」に変換されて、残された羊に注がれる。だから「苦役」とは感じない。

ところが、(先進国の)現代人の場合、その感情経路は恐らく大半が逆。「自分が寂しい、悲しい、不遇だ、不条理だ」で、親はそれを強いた加害者でしかない。「家の事情」を説いたところで、「不遇感、不自由感、被害者意識の肥やし」にしかならない。意識では、「羊が可愛そう」と思っても、果たしてその本質は? その「悲しみ」は、「哀しみ」とは全く縁遠い性質ですから、何かに昇華・代謝しようがない。何時迄も負の感覚で滞るばかり。新たな依存対象と出逢うまでは。恐らくアフガンの山中では「ペットロス症候群」も「アパシー、鬱」も殆ど無いのではないでしょうか。

前回の作図の右下の図、今回蔦の写真と共に描いた図は、そんな様々な「精神的感染症」に於かされた現代社会人を描いたものです。

思考回路は、ほぼ完全に「気分・感情」に支配されています。「論理」が理解出来ない人は、無意識の内に「論理の代替」として、むしろ真逆の性質(自然の摂理からほど遠い、人間社会本意の人工的な)の「観念、常識、理性、理屈、道理」などで、無意識ながらも必死に「思考回路の破綻」と「心の荒廃」を防がんと、堪えている人もとても多いと思われます。が、哀しいことに、何かでその「防御システム」が壊れると、別人のように、豹変したり、自虐に走ることが多くあります。

写真の「蔦」は、「幹」「太枝」「中枝」「小枝」の区別は殆どありません。太くたくましく真直ぐ伸びるような「幹」では、「観念、常識など」にまとわり着く(依存)などしたくても出来ません。対する「蔦」は、目先で出逢った「安心材料」に自由にまとわり着くことが出来ます。しかし、その軌跡を振り返って見ても、自分の始まりなどは、曲がりくねった「弦」の何処にあるかも分かりませんし、他人の「弦」も絡まっていて訳が分からない。その「根っ子」が脆弱であることもまた、言うまでもないことです。

………………………………………………………………………..
「論理的思考は、心の城壁」
………………………………………………………………………..

ヴィヴェカナンダ氏が「正しい理解のために不可欠」と説いた「論理的思考」は、別な意味合いでは「心を守る城壁」でもあるのです。「城壁と門番」が役立たずでは、人間の中で、最も奥に存在するその人間の所有物である「心」は、逃げ場も無ければ、防御力も無く、脆くも敗れ去ってしまうのです。

なので、「心がすさむ」とか、「心を入れ替える」などの言葉は、注意が必要です。「すさむ」はあり得るが故に、安直に用いたくないものです。もし本当だったら、即刻対処しないと手遅れになるからです。「入れ替える」は、「根性」とか「考え」に直した方が良いかも知れません。

そして、とうとう「心」まで「気分・感情」に支配されてしまえば、それは最早「個人(個性/アイデンティティー)」の消滅です。

もしかしたら、「魂」には、「自己防衛機能」があるのかも知れず、「論理思考の城壁」が崩れた頃には、「硬い殻」で、自らを覆って。最早、「心」に教えを伝えることもしなくなって(見捨てる)しまうのかも知れません。

より正しいアーユルヴェーダ音楽療法では、それぞれのラーガ(旋法)の音や幾つかの音の動きの何れが、図のどの円に届き、作用するかを理解していなければなりません。これは「身体(臓器・気管・経絡)」と同様に、今回の図の「意識・思考・心・魂」にも「直接的であるべきもの」は、直接的な作用が望ましいのです。

しかし、前述しましたように、「心までもが感情に支配されている場合」や、それを無意識に守らんとして「観念・常識・理性」などで防御している人には、障壁となって、音(Nada)が届かない、届きにくいということは多くあります。

図版:樹木図、蔦と図、アフガンCD、

……………………………………….

何時も最後までご高読下さりまして、ありがとうございます。

また、この度「インド音楽旋法ラーガ・アンケート」を実施致します。

是非、奮ってご参加下さいますよう。宜しくお願いいたします。

https://youtu.be/wWmYiPbgCzg

………………………………………………………………………

You-Tubeに関連作品を幾つかアップしております。
是非ご参考にして下さいませ。

Hindu Chant講座Vol.1

Hindu Chant講座Vol.2

Hindu Chant講座Vol.3

Hindu Chant講座Vol.4

Vedic Chant入門講座(基本理解編)

Ayurveda音楽療法紹介(基礎理解編)

アーユルヴェーダ音楽療法 (実践編1)

アーユルヴェーダ音楽療法 (実践編2)

アーユルヴェーダ音楽療法 (実践編3)

「いいね!」「チャンネル登録」などの応援を頂けましたら誠に幸いです。

(文章:若林 忠宏

‥…‥…‥…‥…‥…‥…‥…‥…‥…‥…‥…‥…‥…‥…‥…‥…‥…‥
若林忠宏氏によるオリジナル・ヨーガミュージック製作(デモ音源申込み)
‥…‥…‥…‥…‥…‥…‥…‥…‥…‥…‥…‥…‥…‥…‥…‥…‥…‥

107-1、誤った「自我」の解釈と実践 (その1)

この連載の中程から幾度となく私は「現代人の日常的意識(及び気分・感情)」のままでは、アーユルヴェーダ音楽療法の音を本当には理解出来ない」と説いて来ました。それは、東洋医学の薬効に対しても、東洋占星術から、瞑想、ヨガに於いても同じことであるとも申し上げました。

今回は、そのことをもう少し身近に理解して頂く為に。先に図の説明から入りたいと思います。

今回の私の作図の上の円は、ヴェダーンタ学派、ヨーガ学派、サーンキヤ学派などに広く説かれている「宇宙の真理と個々の人間の関係性」を示しています。
今日のサーンキヤ学派などでは、私の図の中にあるものが外側に描かれていますので、一見逆説のように思えるかもしれませんが、説いていることは同じです。

恐らく、内外を反転させた方が、宇宙の真理「Purusha」と近くなるという便宜上のことと、中側(より形而上)の方が、外側(最も外側は形而下)よりも上位であることから、自然に上部に書く習慣なのだろうと考えられます。それと逆さまの私の図の場合、「人間の奥底」に存在するオレンジ色で示した「魂」と「Purusha」が繋がる(転写、同化、観照)時、外側にある緑色、ピンク、アサギ色の輪を突き抜けたように描かざるを得ません。

しかし、実際個々の人間の精神構造・意識構造・心理構造は、私の図のようになっていることは明らかで、古今東西で「心の奥底」「心の内側」「腑に落ちた」「内面心理」「腹の内」「心の琴線に響いた」「深層心理」「無意識」「魂の叫び」などという表現があることでも、太古から人間は、この「多重構造」をその叡智で感じ取っていたことは明白です。

従って、「PurushaとPrakritiの関係性」は、私の図のように、外輪の要素を突き抜けて関係すると表現するしかないのです。

しかし、多くの学派が普遍的に述べている「梵我一如」は、「現世のしがらみから心を宇宙に逃避させる」というような都合の良いものではなく。「宇宙の真理」が、そのままの縮小型で、私たちの心の奥に存在する(小宇宙)、と説いていることに他なりません。

つまり、ここの人間及びその他の生命体は、「内的小宇宙の摂理」に反したり矛盾することなく、図のような「外側の要素」を、順に取り巻かせて、理想を言えば、私たちの自覚意識は、「内外を自在に行き来出来る」ことが賢明であり、健康であるということです。

この考え方は、ヴェーダおよびヒンドゥーの叡智が説く「感覚論(Indriya)」とも「構造論(Kosha)」とも、矛盾しません。また、この図に大きな影響を与えたのが、彼のヴィベカナンダ氏の教えであることも付け加えなくてはなりません。

氏の説いた、極めて重要な話しは、いずれ詳しくお話しするとして。今まで、様々な機会で、今回の図に書かれたような用語に触れた方でも、「中々分からなかった」とおっしゃる人が少なくないので、図を元に、より現実生活で実感出来る説明を試みたいと思います。

実際、今日のヨガやヴェーダ関連の情報では、異なる「論」の用語が交錯しながら同一平面上に産卵していると感じることが多いので、分かりにくいことはやむを得ないことと思います。
………………………………………………………………………..
「構造論」
………………………………………………………………………..
まず「構造論」から言えば、外側のアサギ色の輪は、私たちの体の(実体的な)構造でもあります。これは常に世の中の危険や外敵と接するとともに、誤った思考が求める「依存」や「癒されたい」などの衝動を外部に向けもします。その内側にある思考・精神回路が壊れていれば、その言動・行動は、更に奥にある「臓器・細胞・優良細菌」、そして「魂」の求めを正しく受け止め正しく変換されたものではないことは、言うまでもありません。
………………………………………………………………………..
「感覚論」
………………………………………………………………………..
次に「感覚論」から言えば、外側の「アサギ色」の部分が、私たちが日常自覚出来ている「感覚(Ahamkara)」ですが、その内側にある「ピンク色で示した思考回路・分析・整理整頓力・論理性」が鍛えられている人とそうでない人とでは、「感覚(Ahamkara)」は雲泥の差が在るほど異なります。

例えば「お腹が空いた」という自覚は、「空腹=食べるべき」の場合から、「グルコースだけが欲しい」「水分も同時に欲しい」「何らかのヴィタミン、ミネラルが欲しい」「ただ胃の空腹感を満たしたい」「空腹ではないのに、胃壁が荒れて胃酸がキツいから何かを入れて欲しい」「胃壁のびらんが落ち着かないから」などなど、様々なことを意味しています。最悪「ストレス性」もあり、悪循環の過剰摂取で止めども無くなります。私自身、ヴェーダを学んで二ヶ月で20kgシェイプアップする直前は、80kgを越えていましたから良く分かります。

体(ここでは臓器や細胞や優良細菌)の情報は、上記のように、「胃壁の健康状態」などによっても大きく変わりますが、ほぼ健康な人でも、「化学物質、漂白剤、漂白した人工糖分、刺激物」などを摂ると、「体の要望」は、正しく伝わりません。
………………………………………………………………………..
「意識論」
………………………………………………………………………..
次の、「意識論」ですが、これが最も正しく理解して頂きたいテーマです。
外側アサギ色の「感覚」は、五感が感じたものを「気分・感情」で捕らえるものです。ここで、「五感が感じたこと=事実」のように思っている人が凄く多いことが大きな問題と考えます。何故ならば、「そう思わない人」が居たとしても、多勢に影響され、「五感は事実を感じている」と思う人がどんどん増えるからです。とりわけSNSのような「印象共有・共感至上社会」が拡大するとその悪影響のスピードは止めどもなく早まります。

「心頭滅却すれば火もまた涼し」と言うように、「感覚」は、その情報を享受し整理する「より深い感覚(表層的思考性や精神状態)」によって大きく変化します。

「被害者意識・不遇感・閉塞感」が強く、少しでも暑いとイライラし、汗をかくことが気持ち悪いと感じ、少しでも寒いとこわばり思考回路が停止し「不遇感・被害意識」が亢進する為、直ぐにエアコンで解決することで、自律神経と脳機能を壊した人と、「暑くて汗をかくことが気持ち良い」「寒いとシャキっとして嬉しい」という人とでは、「受けとり方」が大きく異なります。

その内側のピンクの「思考」の部分は、「Vidya(叡智)」「Bhava(洞察と自壊)」「Pramana(様々な次元の実体験)」と、ヴィヴェカナンダ氏が強く主張する「論理的思考」などの、自然で健康で、叡智と悟性に満ちた「正しい思考回路」と「深い思慮」の部分です。

体験には、私たちが普通に理解する「表面的な直接体験(実感的体験/実体験)」の他に、「論理的推論と洞察による体験(或る種の学習)」「魂の記憶の想起やデジャヴュ、乖離的な体験」そして「梵我一如の悟りが得た体験」などがあり、三番目は極めて重要ですが、今日の主流の価値観では極めて過小評価されています。また、これが旺盛だと、今日の精神医学ではいささか異常とされるかも知れません。四番目に関して、多くの宗教家は、「神との一体感」としか説きませんが、「その状態(精神性)での様々な体験」を意味します。

また、ヴィヴェカナンダ氏の言葉は、宗教的逃避願望の強い人々や、歪んだヒンドゥー至上主義や過激思想の人々に都合良く利用される言葉も多いですが。彼が数多のインド思想家の中で突出していると驚かされた言葉は、「論理が信仰の妨げになるという主張は間違っている。むしろ正しい論理は、真実を理解する上で不可欠のものである(要約)」というものです。

彼のガンディー翁の言葉で「貴方がその闘いをするべきなのは、世界を変える為ではありません。貴方が世界に変えられない為なのです」と同様に、ヴィヴェカナンダ氏もまた、単なる祈願・祈祷(宗教的逃避)、や、思考停止した「無我の境地」、及び「社会的習慣に慣れ切ったままの精神性」では真実に近づくことなど、無理なことと説いていました。

その内側の緑色の部分は、「Chaitaniya(純粋意識)」「Hrdaya(慈愛)」などの「心」の領域です。

ヴェーダの叡智を知らない古今東西の人間でも、前述しましたように「心が奥底に在る」という実感は持っているものです。
その一方で、「心がすさむ」とか、「心を入れ替える」などという言葉もあります。これらには、今ひとつ注意が必要です。(詳しくは次回に述べます)

………………………………………………………………………..
「人生論、生命論、死生観」
………………………………………………………………………..
次に「人生論、生命論、死生観」などに於ける説明を試みます。
外側の「感覚と気分・感情」は、流れ流され、移り変わり、入れ替るものです。樹木に喩えれば、「枝葉」であり、季節(外的条件・状況・外因)によって、反応し、変化し、やがては朽ち果てて枯れ落ちます。

しかし、現代社会では、「便利さと安全(安心)」の為に、「合理主義・結果論・選択」を受け入れてしまった人々は、「末端・末梢的な枝葉」にこそ「自己を見出そう」と必死になり、SNSなどの「共感空間」で、「印象・感覚」を最も重要なものとして、自己の「反応感覚=気分・感情」に「自己、自我、個性=自分の存在(アイデンティティー)」を見出さんと必死になります。これは、原因を辿れば或る意味「便利病」の怖い症状です。

写真:Vivekananda氏/三円図
……………………………………….

何時も最後までご高読下さりまして、ありがとうございます。

10月も、民族音楽・民族楽器「無料体験講座」を企画しております。

また、この度「インド音楽旋法ラーガ・アンケート」を実施致します。

是非、奮ってご参加下さいますよう。宜しくお願いいたします。

https://youtu.be/wWmYiPbgCzg

………………………………………………………………………

You-Tubeに関連作品を幾つかアップしております。
是非ご参考にして下さいませ。

Hindu Chant講座Vol.1

Hindu Chant講座Vol.2

Hindu Chant講座Vol.3

Hindu Chant講座Vol.4

Vedic Chant入門講座(基本理解編)

Ayurveda音楽療法紹介(基礎理解編)

アーユルヴェーダ音楽療法 (実践編1)

アーユルヴェーダ音楽療法 (実践編2)

アーユルヴェーダ音楽療法 (実践編3)

「いいね!」「チャンネル登録」などの応援を頂けましたら誠に幸いです。

(文章:若林 忠宏

‥…‥…‥…‥…‥…‥…‥…‥…‥…‥…‥…‥…‥…‥…‥…‥…‥…‥
若林忠宏氏によるオリジナル・ヨーガミュージック製作(デモ音源申込み)
‥…‥…‥…‥…‥…‥…‥…‥…‥…‥…‥…‥…‥…‥…‥…‥…‥…‥

106、インド音楽に於ける保守主義と改革主義

人間にとって普遍・永遠のテーマ
奇しくも、この原稿を書いている今日。世界では、「保守的で排他的な民族主義」が台頭し、日本では2017年10月の衆議院選挙を控え、「第三(四)の保守勢力とリベラル」が三つ巴の様相を呈しています。

ここで、多くの人々が微妙に誤解したニュアンスの印象を抱いてしまっているのが、「保守=右翼」とか「リベラル=革新」ですが、これらは本来の意味合いでは全くありません。そもそも「右翼」とは、20世紀初頭の「社会主義=左翼」の台頭によって「反左翼」的に輪郭が見えて来たものであって、或る意味アンチテーゼの具現であり、その中身は、団体・組織ごとで様々ですから、概念も定義も存在しません。

そして「リベラル」は、正しくは「自由主義」。確かに欧米で、かれこれ百年前後、公民権や男女平等、人種差別の旧態に対して叛旗を掲げて来ました。その結果、「革新勢力」と似たような行動を取ったことも事実です。確かにそれは、「反権威主義・反君主政治」という意味合いでの「革新」であるため、広義に於いては「社会主義」「社会民主主義」ということは出来ますが、所謂実在した「社会主義=共産主義」もしくは「社会主義→共産主義」という図式のそれではありません。尤も「革新」もまた「=(共産主義系の)社会主義」という解釈も論理的にはおかしいのですが。よろず次元の異なる用語が同一平面上に置かれて論じられたり、飛び交ったりで分かりにくい上に、けっこうその混乱を当て込んだ輩も居たりしますから困りものです。

同様に、戦後長らくインドが「社会主義的」であるとか、「社会主義国」であるとさえ言う人が少なく在りませんでしたが、同じように大きな誤解です。確かに一時期中国や旧ソ連と友好的だったこともありますが、それは、「産油国・欧米・パキスタン」との対峙関係。あくまでも政治と世界情勢からの結果であり、インドの戦後政治は、ここ数年までは、ほぼ一環して、「社会民主主義」ではあっても、所謂上記のニュアンスの「社会主義」ではありませんでした。むしろ、インドこそは、極めて「リベラル」な政治を続けて来た、かなり希少な国なのです。これは、根底に「ヴェーダの叡智」と「ヒンドゥー教の柔軟さ、懐の深さ」があることは言うまでもありません。

しかし、この「豊かさ」が、逆に、海外からの誤解を招くばかりでなく。インドの民衆自体も様々な偏った意識の組織・団体の亢進を許して来てしまったという歴史も生みました。これは、紀元前からのことでもあります。
紀元前、「仏教の台頭を許し」「ヒンドゥー各派の対立を許し」。中世~近世には「国内の分離を許し、イギリスの植民政策に利便を与え」。現代では、「国内と隣国とのヒンドゥー対イスラムの対立を許し」。そして、今日「偏ったヒンドゥー至上主義の台頭を許し」と、或る意味「本末転倒」なことの連なりの歴史をも築き続けてきてしまった、とも言えます。

これは、敢えて幼稚な比喩をすれば、「自己管理をして自分で考えて食べなさい」とお菓子を一週間分与えたら「一日で食べてしまった」ようなもの。つまり、「人間は、本質的に欲望を自己管理出来ない」が故「本当の自由を持ち得ない」「結果として、自由からは不自由しか作り出せない」という哀しい性のテーマでもあり。尚一層、人類史の当初からの永遠の課題とも言えます。

大量のお菓子を一日で食べ、胃腸に大ダメージを与えると共に、その月の残りの29日は、不満、不愉快、不条理、被害者意識を感じて過ごす。果ては、まだ食べ残しを持って居る兄弟から奪おうとする。
実際、人間は、「地下資源」「食材=自然の生き物」「自然環境」を正にこの狂った子どものように、むさぼり続けて来ました。

或る意味西洋諸国が、古代ローマから第二次大戦後の植民支配の終了まで、国の内外で蛮行を続けて来れたのも、その基本に「人間の欲深さと愚かさ」を前提にした「愚民政策(愚民対策)」があったからだ、と言うことが出来ます。勿論事実でもありますから、その「上から目線」的な考え方に反感をもつことは、「叱られ駄目だ!と言われてふてくされ、むくれる子ども」レベルの幼稚の極みです。

つまり「君主(恐慌)政治」の「愚民対策」自体ではなく、君主政治につきものの、権力主義、利権主義、汚職・腐敗、実際の不平等・不条理、人権無視などの「副産物」が問われるべきであるということです。言い換えれば、それが「ついてまわる」以上、民衆を愚民として卑下し、利己に走った為政者もまた、愚かの極みであるということであり。「同じレベル」であるならば、身分階級・貧富の差があるのは、「勝ち負け理論」であり、「不条理」であると言わざるを得ない、というのが論理の展開です。

一方インドは、少なくともこの数年前までは、むしろ「人間の叡智」に常に期待して来た(決して愚民政策ではなかった)。世界的にも希に見る「社会主義(理念的な意味での)」「社会民主主義」であった。しかも紀元前数千年前から。ということが出来るのです。
もちろん、それぞれの時代、細かなそれぞれの現場には、勘違いした人物も居たでしょうが。

或る意味、それは「自由主義=リベラル」でもありました。

と言うと、
「カーストがあるじゃないか!」「ダウリーやサティーはどうなんだ!」とか、「ロヒンギャの問題の原点はどうなんだ?」などなどの反論・反感を買うかもしれません。しかしそもそも、是非(善悪)の判断基準を共有出来るか否か? つまり、「近代合理主義・結果論」と「被害者意識」が融合した感覚に対して、論理的な本質論を説くことが可能なのか?という壁、問題という大きなテーマに話しが逸れてしまいますので、ここでは割愛させて頂きます。

…………………………………………………………………………………………..
インド古典音楽に於ける保守主義と改革主義
…………………………………………………………………………………………..
この今回の本題を考える時、長々と前述しましたことが理解されての上であるか否か?では、話しが大きく異なって来ます。

「保守主義」や「伝統尊重」の考え方から、「現状に対する不満、閉塞感」を取り除くことは極めて困難です。むしろ、それらには「(根拠の無い)被害者意識」が多く入り込んでいるからでもあります。近年とくにそれは顕著です。その結果、音楽文化論に、現在の現実社会に於ける論者の「生き辛さ」閉塞感、不平不満が加わってしまえば、「現実論者/追認主義者」たちに「懐古主義・復古主義」と揶揄されても仕方が在りません。

他方、「改革主義」はより一層、「現状や旧態に対する不平・不満・閉塞感」と、より強い「(根拠の無い)被害者意識」がこびりついている場合が多く見られます。

しかし、以前にも述べましたように「改革・改良・改善」は、生命体、とりわけ人間の本能の中でも重要な要素だからです。これを取り除いてしまうと、人間はおそらく簡単に死んでしまうでしょう。

以前も説きましたように、この「本能的衝動」もまた、「恒常性」の上に成立つ「相反する二つの要素」のバランスが保たれているべきなのです。
それは「寛容、受容、適応、順応」の本応的能力と、「改革、改善、創造、創作」の本能的能力です。

これらは、右脳左脳のバランス、自律神経のバランス、オキシトシンなどとアドレナリンなどの対峙する数多のホルモンのバランスが自然に取れている健康な人間の上では、「現状に慣れる、認める、許す、容認する、」と、「現状に飽き足らない、向上、成長、発展、学習、修行」という良い精神性に発揮されます。

しかし、体と思考と精神のバランスが狂っていると、一方だけが亢進し、前者では、「思考しない、諦める、行動しない」とアパシー、鬱に近づく方向性か、「依存体質」に至り、後者では「反発、苛々、閉塞感、被害者意識、ストレス発散、癒されたい、楽しみたい」という方向ばかりに突き進みます。

インド古典音楽を学ぶ者の場合、「伝統の心、重み、深さ」というものと、「伝統を現代人の感性に訴え生きた音楽として瑞々しい活力を持たせる」ということが求められ、そのバランスが保たれている上でなければ、「ラーガの科学」「ヴェーダの叡智」を学ぶ段階には辿り着けません。

しかし、後者を「今の時代にウケる」という表層的・短絡的・安直で幼稚な感覚と解釈で行うことばかりが先行してしまうと、前者感覚の人間が謙遜と実直さと敬意を持って取り組もうとした「伝統の心、重み、深さ」というものは、いとも簡単に崩壊してしまいます。

つい数年前までは、このようなことを言うと。「そんな簡単に壊されてしまうような伝統などは、元から大したことがない証拠だ」とか、「今に生きる私たちが楽しめない伝統等、既に死んでいるに違いない」などという反論が来たものです。

しかし流石に昨今。例えば、自然豊かで水質が良く魚も微生物も生きている川が、簡単にヘドロが溜まり悪臭を放つドブ川に変わった様を、散々見て来た筈です。
汚水を流さないことで辛うじて見た目の良さを作り上げ、かなり酷い水質でも生きられる「鯉」などを放流して「魚が住めるようになった!」というやり口は、自然公園や、○○緑地も同じです。自然の「原っぱ」には、数百種の植物が自生し、数百種の昆虫が住み、多くの鳥や小動物が住んでいます。ところが、管理された公園には、十種前後の植物しか生えず、昆虫も生態系にさほど寄与せず、「宿主(この場合、公園や地域の自然)の行く末など気にせず利己の為にたくましく生きれる種」ばかりが増えてしまいます。

つまり、「作られた嘘の自然」もまた、「表層的・短絡的・安直で幼稚な感覚と解釈」によるものに他ならないばかりか、それらを平然と作り出した社会に於ける文化芸術もまた、ほんの数パーセントの「たくましいもの」しか生き続けられず、後は淘汰されてしまう「勝ち負け」の世界なのです。

この問題は、「改革だ、復古だ」などという次元で論じては間に合わないことは明らかです。

「ヴェーダ科学音楽」及び「アーユルヴェーダ療法音楽」を学ぶ以前の「インド古典音楽」を理解するための前段階としてさえも、このようなテーマと真摯に向い合い、より深く理解し、多くを自壊することは、明らかに必須です。あらゆる事柄に通じる、基本的な摂理というものを理解せずには、専門的に得たものが表層的・形骸的な「情報」でしかないこともまた、言うまでもありません。

これらのテーマもまた、私たち現代人が、「自覚出来る表層意識(Ahamkara)」ばかりに偏ることからの弊害に他なりません。

今回の写真は、私の写真(手前味噌)で恐縮です。
「伝統派と革新派」というテーマで、他の演奏者の例を挙げて揶揄することは、
本連載にはそぐわないと思いました。宜しくお願いいたします。

恩師であり、父以上の存在だったUstad Ilyas Khansahebとの写真、
残念ながら他者が撮ってくれたので、ピントが悪いです。
師は、インド最古のシタールの流派に学びましたが、家柄はサロード最古(創始)の家柄でした。つまり、「最も保守な師匠に学んだ」ということです。
残念ながら、外国人は、人前では弾かないカナダ人の女性がかなり以前に居た程度で、インド人の弟子も音楽院の生徒が居た程度。卒業後も修行した人は居ないようで、サロード、シタール最古の流派は、サロードに現家元 Ustad Irfan Khan師(私の師匠の息子・甥)が居るだけで、私を入れて世界で二人という状況です。

六本木の有名なビートルズ・ファンが集うクラブで、ジョージ・ハリスン追悼ライブにゲスト出演した際の写真。完全コピーのハウス・バンドのジョージ役の人がシタールを弾かなかったので、その曲だけ参加しました。ジョージ自身が弾いたに違いない「Love you too」のテーマの冒頭を完全コピーで弾いた瞬間、会場全体から「おー!」の歓声が沸きました。同曲がここまでウケたのは、この時限り。流石熱狂的なファンは凄いです。

1990年代に、そのビートルズやストーンズのみならず、トラフィック、ジェスロタル、オレゴンなどのシタールを用いた曲の完コピ・バンド。
生徒さんから貰った「胴体が粉々になったシタール」にソリッドの胴を取り付けピックアップを取り付けた自作「エレキシタール」をストラップで吊って立って弾きました。
1990年代初頭、間違いなくインドにはまだありませんでしたが、その後2015年頃から(?)(何処かで私の写真を見た?)同じソリッド・フラットボディーのエレキシタールがインドでも作られるようになりました。
つまり、当時の私がしていたことは、「新しもの好き」のインドよりも先に行っていた、ということです。

何時も、最後までご高読を誠にありがとうございます。

10月も、インド楽器とVedic-Chant、アーユルヴェーダ音楽療法の「無料体験講座」を行います。詳しくは「若林忠宏・民族音楽教室」のFacebook-Page「Zindagi-e-Mosiqui」か、若林のTime-Lineにメッセージでお尋ね下さい。 九州に音楽仲間さんが居らっしゃる方は是非、ご周知下さると幸いです。

……………………………………………………………………….

You-Tubeに関連作品を幾つかアップしております。
是非ご参考にして下さいませ。

Hindu Chant講座Vol.1

Hindu Chant講座Vol.2

Hindu Chant講座Vol.3

Hindu Chant講座Vol.4

Vedic Chant入門講座(基本理解編)

Ayurveda音楽療法紹介(基礎理解編)

アーユルヴェーダ音楽療法 (実践編1)

アーユルヴェーダ音楽療法 (実践編2)

アーユルヴェーダ音楽療法 (実践編3)

「いいね!」「チャンネル登録」などの応援を頂けましたら誠に幸いです。

(文章:若林 忠宏

‥…‥…‥…‥…‥…‥…‥…‥…‥…‥…‥…‥…‥…‥…‥…‥…‥…‥
若林忠宏氏によるオリジナル・ヨーガミュージック製作(デモ音源申込み)
‥…‥…‥…‥…‥…‥…‥…‥…‥…‥…‥…‥…‥…‥…‥…‥…‥…‥

105、Raga-Chikitsa (アーユルヴェーダ音楽療法)

ラーガをどう説明したら良いか?

「ラーガって何ですか?」とか、「ラーガを『一言』で説明するならば?」と問われる時、私はかれこれ40年近く、四苦八苦しながらより分かり易い説明に苦心して来ました。

しかし、最も重要なことが「説明の分かり易さ」ではなく、「問うた人の思考性の問題」であると分かってからは、その説明の仕方も随分変わって来ました。

初期の頃の説明は、既に存在した文献や、学者先生や音楽評論家氏の言葉に倣ったものでした。1970年代のことです。

その中の極めて大雑把で、或る意味いい加減な説明が「ラーガとはインド古典音楽で用いる音階(Scale)の総称である」です。しかしこれは、「同じ音階を用いて複数のラーガが在る」ということで、いとも簡単に崩れさってしまうのです。
なので、やむなく「旋法」という「せめて音階よりも意味が深そうな」用語を用いる訳ですが、音楽のジャンルや音楽家によっては、音階との区別が曖昧ですから、「旋法」もラーガを充分に示しているとは言い難いのも事実です。

例えば、日本の唱歌で最も良く用いられる「四七抜調(ファとシを省く)」と同じ音階のラーガには、「Raga:Bhupali」と「Raga:Deshkar」がありますが、これらは全く異なる音の動きをします。

また、いささか上級編ですが、叙情的な歌で好まれる「Raga:Bhairavi」は、「レとミとラとシがフラット(半音低い)」音階を用います。「レ」がナチュラルですと、西洋の短調と同じになりますが、これはインドでは「Raga:Asawari」が代表格とされています。勿論、この音階を用いても十種前後異なるラーガがあります。

ところが「Raga:Komal(フラット)-Reshav(インド楽音名のレ)-ki-Asawari」というものがあるのです。「レが半音下がったAsawari」という名前ですから、音階としては「Raga:Bhaitavi」と同じになってしまいます。勿論、音の動きは全く異なります。

私は逆に、「ラーガの視座」から日本の「四七抜調の唱歌」を検証した「Raga:赤とんぼ」と「Raga:海」を説明したものをYouTubeに上げています。唱歌の「赤とんぼ」と「海」は、音の動きが全く異なるから「別なRaga」となる訳です。

これらのことは、「Raga-Lakshan(ラーガの身上書)」によって、基本的なことが分かります。そこでは「属するグループ、基本音列、主音、副主音、重要な音の動き、音域、演奏すべき時間帯(や季節)、関連する感情」などが最低明記されています。

実際、この知識レベルで、あとは好き勝手な即興に興じている演奏家は、日本のみならずインドでも多くなって来ました。尤も、その程度の深みしかない「簡易なラーガ」もけっこう多く存在し、そのようなラーガに限って「一般聴衆のウケが良い」ということもあります。

これらをアーユルヴェーダや中国古代医療・漢方の「生薬や方剤」に喩えると、「ほぼ同じ生薬のブレンドだが、その配分比が異なる」と言うことが出来ます。

「生薬方剤」には、「主薬、主薬を助け(効果を高め)る副薬、主薬の反作用を中和する為の助薬、主薬の反作用をフォローする為の助薬」が、数百年数千年の経験で配合されています。しかし、「方剤」と言えば、古代のものばかりと思いがちですが、アーユルヴェーダでも中国古代医療・漢方でも、意外に近代に「飲み易くする為に改良(改悪?)」したものも少なくありません。

有名な「葛根湯」などは「甘くて飲み易い」と人気が高く、実際喉が一瞬楽になったりしますから、ブラセボの助けもあって効いた気がして来ます。しかし、甘味の正体の「甘草」は、本当は注意深く遣うべき生薬です。ところが、もっと怖い(量によっては毒薬ろしても有名)生薬を用いる方剤でさえ今日ドラッグストアーで簡単に売られ、常駐している薬剤師さんも、実に「対処療法的」に「○○だったら、これが効きますよ」と「売らんかな」です。「一般聴衆のウケが良いラーガ」は、さしずめ「葛根湯」のような感じです。幸いに「ラーガ」の場合は、分かっていない人が弾いても「危険」ということはないようです。そもそも「音自体の力」が薄ければ、「薬効が飛んでしまった」ようなものだからなのでしょう。

……………………………………………………………………………….
アーユルヴェーダ音楽療法では、

上記しました「Raga-Lakshan(ラーガの身上書)」は、「インド古典音楽」即ち、「観賞用芸術音楽」に於ける演奏者が、最低限熟知しておくべき話しですが、これを「音楽療法」に用いるとなると尚一層、数十倍も深く理解していなければならないことは言う迄もありません。

私は、町の獣医さんが「予後不良」とおっしゃった猫たちを助け、お医者さんが「奇跡だね」とおっしゃった数例や、画期的に延命を記した例が多くありますが。(勿論力及ばずの哀しい結果もあります)、その自宅での治療・看病では、「西洋ハーブ・アーユルヴェーダ生薬・中医・漢方生薬と方剤」を適材適所に使い分けています。

前二者は、「単味(単体)」を入手し、同時に飲ませたりずらしたりしていますが、漢方方剤は、「良く出来た方剤」でも、適材適所、タイミング良く、短期間(数日)のみ使用し、慎重に用いるべき方剤は、症状に合わせた「配合比」を漢方屋さんに特注します。ここ数年は、単味(単体)で入手し、自分でブレンドすることが主体になって来ましたが、滅多に使わない生薬は、鮮度を考えると「加減特注」が有難いのです。

「Raga-Chikitsa(ラーガ療法)」でも同じように、否、より自由自在にその「配合比」を変えて対処します。つまり、この段階の「ラーガ(旋法)」は、「同じラーガでも異なる性質を持たせる」という領域なのです。

何故に「より自由自在に」と言えるか? それは、基本が即興演奏だからです。しかし、言い換えれば、「アーユルヴェーダ音楽療法」を施術する者の知識・経験・分析力・把握力によっては「効くものも効かない」ということがあるからです。

かく言う私も、東洋生薬による治療を試み始めた初期の頃は、効果を見極める選択眼も、そもそもその生薬の成分や、それらの働きについて良く理解出来おらず、「○○にはこれが効く!」という話しを真に受けて「あれもこれも」という出鱈目な感じでした。「下手な鉄砲数打ちゃ当たる」とでも思ったかのような。

結果として、運良く「同じ成分」が多くの生薬に共通し重複した場合は、充分な量が得られたものもありますが、多くは「最低限必要な量」が得られず、様々な生薬を飲まされる苦痛に反比例して「効果が薄い」という有り様だったのです。

ひとつ言い訳をすれば、人間に対してでさえも、漢方薬剤師さんやハーバリストさんによって処方量が異なることも少なくなく、ましてや猫の場合の前例が殆ど無いので、「どれが正しいの?!」と困惑し、控えめ(少なめ)になっていたこともあります。

そもそも方剤によって、その生薬の品質が異なれば、同じ量でも効果は驚く程変わります。その点では、「特定の成分を抽出した化学製剤」の場合、「量と効果は、与える対象の体重で比較的正確に認識出来る」という安定感(故に信頼感を抱くのでしょう)があります。

人間は、自分自身の考えや行いを美化したがる悪い癖があります。その当時の私は「仮に、各生薬の効果効能が弱くとも、沢山集まればなんとかなる筈だ」と正当化していました。その当時のイメージは、(病気によって)天井が徐々に落ちて来る状態を「棒で支える」というもの。その棒が仮にか弱い細いものでも、「沢山あれば大丈夫だろう」という感じでした。

しかし、事実は「棒の太さの問題」ではなかったのです。

その後により深く理解した後のイメージは、「短い橋ならば、幾ら丈夫でも川に掛けることさえ出来ない」というものです。勿論、「多ければ良い」という考えは、「少なくて効かない」よりも重大な危険を招きます。
そもそも「薬は全て毒」と言っても過言ではないからです。

「Raga-Chikitsa(ラーガ療法)」でも全く同様で、「どの音遣い」をどのように配列させ、強調させるか? によって、やはり効果は覿面に異なります。

今回の二枚(3Shot)の写真は、

中医・漢方の生薬をすりつぶす「薬研(やげん)」と、インドの生薬から家庭料理のスパイスまで幅広く活躍する石のすりこぎ&すり鉢。

「薬研」は、茎・根・穂などを切断しながら細かくすることに長けており、乾燥した生薬に特化している感じです。インドの場合は、「生の植物」を摩り下ろすことに長けています。

保護猫の看病・治療のための西洋ハーブの棚。2割ほどがブレンドなので、生薬120種は優に超えています。が、実際頻繁に活躍するのは四割以下です。それを分かるためには、市販されている殆どを入手し試行せねばなりませんでした。

何時も、最後までご高読を誠にありがとうございます。

10月も、インド楽器とVedic-Chant、アーユルヴェーダ音楽療法の「無料体験講座」を行います。詳しくは「若林忠宏・民族音楽教室」のFacebook-Page「Zindagi-e-Mosiqui」か、若林のTime-Lineにメッセージでお尋ね下さい。
九州に音楽仲間さんが居らっしゃる方は是非、ご周知下さると幸いです。

……………………………………………………………………….

You-Tubeに関連作品を幾つかアップしております。
是非ご参考にして下さいませ。

Hindu Chant講座Vol.1

Hindu Chant講座Vol.2

Hindu Chant講座Vol.3

Hindu Chant講座Vol.4

Vedic Chant入門講座(基本理解編)

Ayurveda音楽療法紹介(基礎理解編)

アーユルヴェーダ音楽療法 (実践編1)

アーユルヴェーダ音楽療法 (実践編2)

アーユルヴェーダ音楽療法 (実践編3)

「いいね!」「チャンネル登録」などの応援を頂けましたら誠に幸いです。

(文章:若林 忠宏

‥…‥…‥…‥…‥…‥…‥…‥…‥…‥…‥…‥…‥…‥…‥…‥…‥…‥
若林忠宏氏によるオリジナル・ヨーガミュージック製作(デモ音源申込み)
‥…‥…‥…‥…‥…‥…‥…‥…‥…‥…‥…‥…‥…‥…‥…‥…‥…‥

104、インド科学音楽の未来 (その1)

未来像のイメージの仕方
欧米人や私たち日本人が、世の中の何かについて「未来を考える」という時、「Positiveなイメージ」と「Negativeなイメージ」のどちらかに偏っている傾向にあります。特に、この十年、二十年、その傾向はより顕著になって来ました。

ところが、流石のインドの場合、「両極端の共存感覚」が旺盛なため、セレブな雑誌「The Illustrated Weekly of India(1980Nov9th)」でさえ、「インド古典音楽は、Arohaか?Avarohaか?」などという洒落たタイトルで今回のテーマと似たことを「取り組み上では平等に」論じていました。

Arohaとはラーガ(旋法)の基本音列の「上行音列」のことで、Avarohaは「下行音列」こと。「インド古典音楽の未来は、右肩上がりか?それとも下がりか?」の比喩であり、少なくとも「特集のテーマ」の上では、「未来は明るい!」に偏った「大衆迎合性」や「追認主義」でもなく。逆に「未来は危うい!」という「啓発」や「危機感を煽る」というやり方で一部のエリートを喜ばせるというような手法でもなかった訳です。

しかし、そのように、何かにつけて「両極端の対峙をまず同一平面上に並列させて論じたがる」インドでさえも、結果としては、「どちらか一方の答え」に近づいてしまうものですし、仮に公平・平等・等分が貫かれたとしても、受け手の方で、一方に偏って読み、理解してしまうものです。

勿論、近年目に余るSNS記事やマスコミ報道のような、「一方をことさらに誇張して、関心を集める手法」のようなことはしていないところは立派だとは言えます。

尤も、SNSやマスコミの情報を受け取る側には、「両極端の意見や情報の両方を渡り歩き、自身の感覚を肯定してくれる意見を広い集める」という人が多いのも事実でしょう。結果として「ネット情報漂流民」のような形になってしまったり、「腸内細菌叢に於ける日和見菌」のように、右往左往してしまう場合も少なくないようです。

私はかなり以前から、このような「日和見的な右往左往」が、思考回路を歪曲させ、偏らせ、様々な「脳・神経系統・ホルモン系統」なども狂わすと警鐘を鳴らし続けて来ましたが。今回ここでは、この懸念に対するひとつの「改善策」の意味も含め、「未来をイメージする時のアイディア」を論じたいと思います。

それは、「現在の状況の分析・理解」から「未来の方向性をイメージする」のではなく、「過去の結果と、そのまた前の過去からの変化」を検証することです。

インド古典音楽の未来は、どのように変化して来たか? (古代と中世の場合)
………………………………………………
まず、古代の「ヴェーダ科学」にとって、仏教の台頭によって蒙った大打撃は、想定も想像も越えたものであったに違いありません。しかし、結果論で言えば、仏教は、信徒にとっては「ヴェーダよりは遥かに優しく分かり易い宗教」ではありましたが、担い手(僧侶)にとっては、極めて難解なものとなっていました。(このテーマは、私の余生最大の重要テーマのひとつですが、そうそうサワリだけを簡略してお話することは難しいです)

僧侶にとって仏典が難解であることは即ち「仏教儀礼音楽」に受け継がれた「ヴェーダ科学音楽」もまた、「演奏者にとっては難解になった」ということですが。実際のところ、僧侶たちは「仏法の理解」に必死で、「音楽の理解」に対してはかなり甘く、おろそかにした感があります。それが恐らく最初の「ヴェーダ科学音楽」の「衰退」という「予期せぬ未来」の到来だった訳です。

ところが、それから千年二千年の後、10世紀にイスラム勢力が侵入した後。インド科学音楽は、思いがけない形で「復興」するのです。

仏教の弾圧を受け、ちりぢりに分裂した「ヴェーダ科学音楽の叡智と理論」は、「仏教に於いて、湾曲されながらもかなり高度で難解なものとして取込まれた(しかし殆ど実践されず、理論も大半が失われた)」ものの他に、「密教(タントラ仏教)に於いて継承され残ったもの」がありました。同時に、「ヒンドゥー教各派に残されたもの」「各地の辺境のヒンドゥー教勢力や寺院、宮廷が継承したもの」などがありました。

そうした各地各派の名音楽家が、その一族の存続を掛けて宮廷楽師にならんとした結果。それらのほぼ全てがイスラム宮廷古典音楽に集合し、次第に統合されたのです。

………………………………………
加えて、イスラム宮廷古典音楽は、13世紀のアミール・フスロウ、16世紀のミヤン・ターン・センといった改革者であり、数百年続く主流派の創設者のいずれもが、イスラム系神秘主義にも傾倒していたことがあり、「論理的かつ理論的な古典音楽体系」は、宗教の違いを越えて好まれかつ重用されたのです。

言い換えれば、統合された音楽環境が「楽しむだけで良い」という価値観であったならば、ヴェーダ科学音楽は勿論、インド古典音楽さえもその時代にほぼ滅んでいて、世界各国の宮廷宴会音楽のレベルに墜落していたに違いありません。逆に、19世紀の南インド古典音楽や、近代のパミール高原タジク音楽のように、偏った宗教上の至上主義・原理主義が台頭すると、極めて強い排他性を持つと同時に、その偏りは著しく論理性に欠けますから、ヴァーダの叡智は、むしろ淘汰される訳です。

近代のインド古典音楽消滅の危機
……………………………………………………………………….
次に(ヴェーダ科学音楽を内在する)インド古典音楽が遭遇した巨大な危機は、1945年のインド・パキスタン分離独立と共和制(宮廷の崩壊)でした。

厳密には、18世紀の末から「新古典音楽」が台頭していました。ヴェーダ科学音楽にとっては、新古典音楽は、「ラーガ(旋法)の深みに欠け、芸術性に偏る=娯楽性の方向性」であり、加えて「より安易で軽いラーガばかりを選ぶ」という性格が濃厚であったことも「危機」のひとつではありましたが、前回の記事でもお話ししましたように、それらを「サブ・カルチャー」とするならば、結果論で言えば、その時点ではまだ「メイン・カルチャー」が元気に健在しており、むしろ触発され一層「理論的」な方向に至っていました。

また「新声楽:Khayal(カヤール)」は、奇しくも「より安易で娯楽性の高い方向」には、進みませんでした。むしろ、「古声楽Dhrupad(ドゥルパド)」をより多く吸収し、より重厚な方向性を各派で競ったのです。

これも或る意味では「想定外」だったかも知れませんし、「危機ではなくなった」とも言える反面、逆に「深刻な状況」とも言えます。が、宮廷音楽の裾野を広げ、ピラミッド型の土台を、より一層強固なものにしたことは事実です。

ところが、共和国独立と共に、インドにも多くのイスラム教徒が残り、むしろ古典音楽演奏家はイスラム教徒の方が圧倒的に多いにも拘らず、「ムスリムはパキスタン」「インドはヒンドゥー」のイメージやプロパガンダが隆盛し、結果として「ターン・セン以降の宮廷古典音楽の伝統」は、急速に崩壊への路を辿るのです。

戦直後の日本でも、クラッシックの名手や音楽論の大家が、「米軍キャンプやキャバレーでの演奏」で喰い繋ぎ生き伸びたのと同様に。インドでも富豪の宴席や映画音楽で、非科学的の極みの「古典音楽風演奏」をせねばなりませんでした。

それでも音楽家・演奏家は、辛酸を味わいながらも、心に伝統音楽や科学音楽をしっかり携えておればどうにか生き伸びられますが。切実にその生命線を断たれたのが、「楽器職人」でした。「売れる売れない」は元より、「明るい未来は来ない」ことが明らかになったのです。その結果、「後継者」が皆無に近いほど居なくなって、急激に衰退してしまったのです。

勿論、宮廷楽師の子息でサラリーマンに転じた者が、「趣味や教養」として「伝統音楽」を継承することは可能です。しかし「楽器職人」は、「買い手も居ないのに、趣味で楽器を作り続ける」ということはあり得ません。

日本の神社が、江戸時代以前から今日に至る迄、二十年前後で、大巾な改築を共なって、敷地内を移動する「式年遷宮」を行うのは、二十年が「特殊工法・特殊技能が絶えないギリギリの期間」だと言います。その間、日々何らかの大工仕事を続けて基本技能を維持している「宮大工職人」でさえ、特別な技能は失われる危険を感じてい訳ですが、「楽器職人」はそうは行きません。

宮廷トップクラスの演奏家に納める最高級の楽器は愚か、趣味の為の普通の楽器を作る後継者も技術も絶えて行く方向性にあったのです。
実際、私の師匠の代(幼少~少年期に共和制を迎えた)迄は、存続していた有名楽器職人の幾つかがこの時期に消えて行きました。トップクラスで半減しているのですから、巷では激減した訳です。

インド古典音楽を救ったのはヒッピー?
…………………………………………………………………………………….
ところが、戦後二十年ほどして状況は一転しました。それは演奏家も楽器職人も、古典音楽ファンも想定も想像もしなかった事態の到来です。古典音楽の流派としていはモダン派に属します彼のPt.ラヴィ・シャンカル氏がビートルズの師匠となったことで、世界的にインド古典音楽が脚光を浴びたのです。言わば「インド大ブーム」のようなものです。

ブームは実に幅広く、層が厚く、しかも十年以上続きました。
ラヴィ・シャンカル氏も、欧米公演の初期の頃は、理解を得ることに苦労したと言いますが、むしろ戦後のインドの聴衆に対する苦言の方が多かったとも言います。

インド古典音楽の演奏家にとって、欧米の聴衆に「ラーガ(旋法)の深み」を理解させることは至難の業。それでも「比較的安易なラーガと超絶技巧」は「ウケた」。ところが、日本の聴衆は、「静か過ぎ」て「海外では最もやりにくい連中」と言われていました。

ところが、戦直後のインドの聴衆は、「ラーガの精霊との出逢い」など求めておらず、セレブな連中が「知的好奇心」と「博学振りの誇示」の為に集まるのが本音で、しかも「インド時間」ですから、開演してからも次々に遅れてやって来ては「あ~ら!○○社長と奥さま!お久しぶり!」を客席のあちこちでやっている。ラヴィ・シャンカル氏は何度もインドの聴衆に対して、演奏を止めて苦言を放ったと言います。
そのような苦労もあって、次第に「より真剣に伝統音楽を愛好する人々」が増え始めたのです。

しかし、一方街では、「(ビートルズなどのロック)+ヴェトナム反戦=ヒッピー」という図式で、欧米各国からバックパッカーが大挙インドを訪れ、真っ昼間から酒やマリファナに興じながら、シタールやタブラを買って、好き勝手に出鱈目に演る姿が、聖地バラナシのガート(沐浴場)でも日常的に見られたと言います。

しかし、上は「知識層の愛好会」から、下は「ヒッピー」に至る迄の「層の厚さ」と、「世界的規模」の幅の広さの御陰で、明らかにインド古典音楽(伝統音楽/旧宮廷音楽文化)は、「世界が興味関心を抱く新鮮な音楽」として、「再スタート」を切った訳です。

これは流石に誰も予想出来なかった。

勿論、そうなっても尚。むしろ「こんな低俗な流行で存続しても未来は知れている」と、僅かな本物の演奏家の楽器の修理などの薄謝で糊口を潤しながら、細々と耐えて来た「名匠・名工」が、「世界的ブーム」の到来を期に店じまい(息子たちに別な職に進ませる)をした実例が幾つかあります。

ところが、1960年代の「ビートルズ、ラヴィシャンカルそしてヒッピー」によるインド古典音楽の想定外の復興も、1980年代には再び危機を迎えます。
しかし1990年代、欧米と日本で「ワールドミュージック・ブーム」が興ります。それまでの10年を乗り切れなかった楽器匠や音楽流派は、決定的な状況となったのです。

2017年の今日。果たしてインド古典音楽の現状は如何に? 今回述べましたような歴史の転換を検証するに、その未来派如何なるものになるのか? 
滅び行く伝統や、ヴェーダ音楽に不可欠の論理的思考を救う、新たな「想定外の出来事」が興るでしょうか。

今回の図版は
「インド古典音楽の未来は?」の記事があるインドのハイソ系雑誌。
その他にも古典音楽の特集が組まれていました。
1980年代、再び一般の関心が低くなり、知識人古典音楽ファンの中からも危機感を訴える声が高まった頃の貴重な特集でした。ボリウッドの「踊るマハラジャ系軽音楽」も台頭していました。

二枚の写真は、
インドのシタール工房(シタール屋)と太鼓工房(タブラ屋)。

シタール工房では、親子代々伝統的な工法でシタールを製作しつつ、壁にはブルースリーのポスターが貼られているところが1980年代の雰囲気を彷彿とさせます。先代の写真や、インド音楽史に輝く楽聖の肖像画などを貼るような店は、ごく一部になっていました。

太鼓屋で、主が自慢気に見せているのは、ドゥルパド音楽の伴奏に用いるパカワージ。珍しく装飾があるので目に留まりましたが、翌年同じ店に行けば未だあるのです。
「おやじさん!一年掛かってもまだ仕上がらないのかい?」と言えば、
「馬鹿言ってるんじゃねえよ!毎年この時期にメンテに来るのさ。お前さんみたいにね」と返されました。

生活が豊かになるにつれ、生活品もモダンになり値が上がる。馴染みのお得意さん(演奏家)の楽器のメンテだけでは楽器匠もやって行けないのです。

何時も、最後までご高読を誠にありがとうございます。

10月も、インド楽器とVedic-Chant、アーユルヴェーダ音楽療法の「無料体験講座」を行います。詳しくは「若林忠宏・民族音楽教室」のFacebook-Page「Zindagi-e-Mosiqui」か、若林のTime-Lineにメッセージでお尋ね下さい。
九州に音楽仲間さんが居らっしゃる方は是非、ご周知下さると幸いです。
……………………………………………………………………….

You-Tubeに関連作品を幾つかアップしております。
是非ご参考にして下さいませ。

Hindu Chant講座Vol.1

Hindu Chant講座Vol.2

Hindu Chant講座Vol.3

Hindu Chant講座Vol.4

Vedic Chant入門講座(基本理解編)

Ayurveda音楽療法紹介(基礎理解編)

アーユルヴェーダ音楽療法 (実践編1)

アーユルヴェーダ音楽療法 (実践編2)

アーユルヴェーダ音楽療法 (実践編3)

「いいね!」「チャンネル登録」などの応援を頂けましたら誠に幸いです。

(文章:若林 忠宏

‥…‥…‥…‥…‥…‥…‥…‥…‥…‥…‥…‥…‥…‥…‥…‥…‥…‥
若林忠宏氏によるオリジナル・ヨーガミュージック製作(デモ音源申込み)
‥…‥…‥…‥…‥…‥…‥…‥…‥…‥…‥…‥…‥…‥…‥…‥…‥…‥

103、インド科学音楽の即興演奏(大樹か?あみだか?しりとりか?)

筆者は、保護猫の看病が忙しくなる迄、東京に月二回通い音大付属研究所の社会人講座の他に、音楽療法士を育て、資格も与えていた音楽院で「即興演奏」の講師をしていました。

基本には、中学二年の頃からの50年近いインド音楽修行があり、とりわけ北インド古典音楽が即興演奏が主体であったことが大きく寄与してくれています。更に、「コラボ」などという流行語が出来る遥か以前の1970年代から様々なジャンルの演奏家や音楽以外との共演が、延べで数百回ありますので、音楽人生の大半は「即興」だったとさえ言えるかも知れません。

(とりわけ、精神科医や脳科学者のプロデュースによる、発達障害児童や、統合失調症の大人数人との数回のコラボは、自分のセラピー&カウンセリングの大いなる学びでした。)

むしろ、20代後半になって「はたっ!」と考えれば、「自分は譜面通りの音楽を殆どやって来ていない」とか「自分は同じ旋律を二回以上弾いたことが無いのでは?」と気付き。「果たして、これを音楽家と言って良いのだろうか?」と自壊したのが、インド古典音楽から、インド民謡、叙情歌、宗教歌、更にはインドからパキスタン、アフガニスタン、ウズベク~西アジア~東欧~南欧~アフリカ~カリブ・中南米~太平洋という民族音楽修行に取り組んだきっかけのひとつでした。

逆に、音楽療法学院では、殆どの生徒さんが幼少からピアノなどを習って来ていたり、中学からブラスバンドだったりで、「楽譜があって、楽譜通りに演奏するのが音楽」という常識から、「如何に解き放たれた即興を繰り広げるか?」にかなり苦労しているのを目の当たりにして、自分が極めて珍しい「音楽の道」を歩いて来たことを改めて痛感したのでした。

勿論、音楽療法学院で教える十五年前から、私自身が主宰する民族音楽教室で、インド古典音楽、アラブ・トルコ古典音楽を教えて来ました。しかし、実際延べで数百人に教えて来ましたが、殆どの人がまず楽器の魅力から入り、楽器が弾けるようになった頃には満足してしまい、自在に即興を繰り広げられるところに至る迄レッスンを続けた人は、一人二人居るか居ないか。

途中で、「日本人よりインド人の方が本物だろう」と、インドに行ってしまい、運良く「インド人の生徒より日本人の生徒の方が嬉しい(が本音の)」類いの先生に出逢って、表面的な技術やギミックを学んでセミプロの資格を得たと考えるようになる人がもの凄く増え始めた頃には、アフリカ太鼓やラテン・パーカッションなども教えるようになったので「そんな人にインド音楽を学びたくない」と生徒さんが激減して行ったという侘しいいきさつがあります。

ところが、この私自身、インド音楽修行歴50年弱の30年目あたりから、随分考え方も理解も変わって来ました。上記のように、20代後半で「再現音楽(即興の反対語で、楽譜があり得る音楽)」にも取り組み、世界中の音楽をむさぼるように学んだ後も、相変わらずインド古典音楽では「同じフレイズを殆ど二度以上弾かなかった」のです。

より正確に言うと、同じ時期に平行してインドで師匠と出逢い、実の父親以上の付き合いをさせて頂くようになったのですが。師匠のレッスンでは、「同じフレイズを何度も何度もくり返し弾き、憶えるだけではなく、師匠のニュアンスにどれほど近づけるか?」という修行をしていました。それ迄の独学シタールとは全く逆にです。

しかし、例えば「と或るラーガ」を師匠から学び、日本のライブやコンサートで弾くとなった時、「師匠から学んだ部分(師匠と同じに弾けるように、師匠がそこに居らず聴いていないとしても変化させない)」と「自分勝手な即興の部分(同じフレイズなど二度と出て来ない)」のパッチワークのような音楽を演っていた訳です。これには、後々「我ながら酷いもんだった」と呆れました。

尤も、その当時の録音を今聴いても、むしろ「同じフレイズが二度と出て来ない、その場限り、その時々のあらゆる状況・条件が『弾かせたような』即興演奏」は、(我ながら)実にスリリングであり、研ぎすまされた部分もあります。その片鱗はYouTubeに上げた「インド国営放送出演時の演奏」でも確かめられます。

勿論「全くの出鱈目」ではなく、知識・情報として得られる「ラーガの規則」は、しっかり遵守していました。その意味では日本人のレベル以上であることは勿論、現地の並みのレベルには到達していた筈です。

しかし、私の師匠が継承したレベルの「インド古典音楽の即興」としては、決して充分ではなかったのです。

,,,,,,,,,,,,,,,,,,,,,,,,,,,,,,,,,,,,,,,,,,,,,,,,,,,,,,,,,,,,,,,,,,,,,,,,,,,,,,,,,,,,,,,,,,,,,,,,,,,,,,,,,,,,,,,,,,,,,,,,,,,,,,,,,,,,,,,,,,,,,,,,,,,,,
そもそも「即興演奏・音楽」とは?
,,,,,,,,,,,,,,,,,,,,,,,,,,,,,,,,,,,,,,,,,,,,,,,,,,,,,,,,,,,,,,,,,,,,,,,,,,,,,,,,,,,,,,,,,,,,,,,,,,,,,,,,,,,,,,,,,,,,,,,,,,,,,,,,,,,,,,,,,,,,,,,,,,,,,
そもそも「即興演奏」や「即興音楽」というものについて、世界的にも「基本的・不偏的な概念」は存在しません。

大まかに大別すると、「何らかの法則(音階やリズムやその他の)を守った上での即興」と「全くのゼロから、何の制約も決めない即興」があり、前者は、ジャズやブルースでお馴染みで、カリブ音楽でも重要視されています。後者は、特に「Free-Music」とか「Free-Improvisation」とも呼ばれます。「Free-Jazz」もこの範疇です。

後者の極端な例では、主に複数の演奏者で共演しますが、誰かが「同じパターン(やフレイズ)をくり返した」とか「在り物のパターン(やフレイズ)を弾いた」とか、「リズム・パターンが生じた」や「スケール感や和声が生じた」途端に、他の演奏者がそれを「壊す」というストイックなものもありました。

これはこれで価値の高いもので、私たちが如何に「習慣的=惰性的=慣れや惚けで音を出している」ということを思い知る意味合いがあります。別な意味では「音楽は楽しむためだけではない」ことを教えてくれる好例でもあります。

また、「即興演奏(音楽)」は、「Adrib」と「Improvisation」の二つで言われますが、単にラテン語系/英語系の違いもありますが、(世界中の音楽を俯瞰した)総論的に言えば、「Improvisation」には「音楽的意識・姿勢・哲学・信念」が基本にあり、しばしば「一曲の冒頭から最後迄」貫かれます。対する「Adrib」は、そのような精神性は求められず、「曲の部分」であることが多く、一曲を通してのアドリブ、ということはあまり言われません。
(勿論英語圏では、全てをImproと呼ぶ人も多いです。上記のように『普遍的な概念』は存在しないので)

また、Jazzやカリブ音楽やインド古典音楽のように「テーマとインプロ」のメリハリで曲が構成されている場合もあります。

更に、トルコ、アラブ音楽や、東南アジアの音楽のように、「作曲されたものの再現演奏」なのですが、各楽器が、それぞれの楽器特性(アーティキュレイション)で「装飾を過分に加える」ことをした結果、「各自が勝手に演っているかのようだ」や「どれが本当の旋律なのだ?」と驚かされるものもあります。しばしば太鼓さえも基本パターンを逸脱する場合があります。この場合、その「装飾」は、極めて「即興的」に着けられますが、全体は、「作曲の再現」であり、故に「各自の勝手」が可能な訳ですから、「即興的な装飾法」ではあっても「即興音楽」とは言い難いところです。
この感覚を言うのであるならば、恐らくショパンやモーツァルトも、生演奏では、しばしば「アドリブ的」なことをしていたのだろう、と思われます。「作曲と再現音楽」が確定したのは、西洋の印刷技術の進歩と「出版産業」の台頭が寄与したところも大きいのです。

また、同じインド古典音楽でも南インド古典音楽は、19世紀イギリスの巧みな分割(植民)統治の技に後押しされた「反イスラム宮廷文化・ヒンドゥー主義文化運動」よって、作曲が主体でインプロは、定められた楽章でのみ演奏されるようになりました。対する北インド古典音楽は、古代科学音楽のまま「即興」が主体で、節目節目に「作曲された主題群」を挟むと言う手法です。

,,,,,,,,,,,,,,,,,,,,,,,,,,,,,,,,,,,,,,,,,,,,,,,,,,,,,,,,,,,,,,,,,,,,,,,,,,,,,,,,,,,,,,,,,,,,,,,,,,,,,,,,,,,,,,,,,,,,,,,,,,,,,,,,,,,,,,,,,,,,,,,,,,,,,
インド音楽修行50年の後半の大きな変化
,,,,,,,,,,,,,,,,,,,,,,,,,,,,,,,,,,,,,,,,,,,,,,,,,,,,,,,,,,,,,,,,,,,,,,,,,,,,,,,,,,,,,,,,,,,,,,,,,,,,,,,,,,,,,,,,,,,,,,,,,,,,,,,,,,,,,,,,,,,,,,,,,,,,,
私のインド音楽は、師匠から学ぶようになってもしばらくは、「師匠の教えの部分」と「旧来の好き勝手な部分」が混在していました。
しかし、或る頃から、それらは大きく変化したのです。

昔から、演奏会のMCや教室で「インド音楽の即興演奏は日本の落語にそっくりだ」と言って来ました。

つまり、「大筋のストーリーと、重要な言葉とオチはいじってはならない厳格なもの」であるけれど、「教わった通りを丸暗記して再現」しても、聴衆の感動やウケ(笑い)は得られないという点で全く一致するのです。

この連載の前半でお話ししました、「インド音楽の即興性についての小咄」でも、この点に触れています。

師匠立ち会いの演奏会で免許皆伝の試験でもある演奏をした。ところが演奏後師匠は凄い剣幕で「あれは何だ!、好き勝手な出鱈目を演りやがって!あんなことは教えてない筈だ!」と完全否定。頼み込んでもう一回チャンスを貰い、猛練習で「習ったことのおさらい」をした。「今度こそはOKだろう」と思いきや、演奏後「あれは何だ!教わったことばかりを丸暗記したような音楽で全く駄目だ」となった。という話しです。

この場合のテーマは「何が不変の大事な部分」で「何がその場で(即興で)臨機応変に変化すべき部分」であるかを「分かっていなければインド古典音楽演奏家ではない」というものでした。

つまり、師匠に師事した後の私の演奏は、上記小咄の二種の演奏が、「毎曲毎回入れ替わり立ち替わりちりばめられて組み合わせたようなものだったことに気付いた」、という話しです。故に、「不変であるべき部分」も「即興であるべき部分」も無作為に並んでいたのです。

その結果、古典落語同様に存在すべき「ラーガの物語」の存在も希薄だった訳です。

これに気付いてからは、「ラーガの物語」「ストーリーの全体像」を俯瞰しながらの即興演奏に大きく変化したのです。

「大きく変化した」と自覚出来る根拠は、「かつての自分の有り様がよく見える・分かる」ということに尽きます。以前の即興は「行き当たりばったり」の「あみだクジ」のようなものだったのです。

より具体的にインド音楽ソルフェージュで表すならば、「NRG—-」と弾いた後、「MDP」なのか?「NRS」なのか?を瞬時に選択するような「高速あみだクジ即興演奏」です。「あみだクジ」の、既に線が引かれており、常に択一しか許されていないところが「ラーガの理論を守っている」部分です。例えば「NRG—-」と弾いた後には「NSRG」の選択肢は無いのです。何故ならば、この二つを並べてしまうと、いずれの価値・存在理由が相殺されてしまうからです。

このスタイルは、「しりとり型即興演奏」ということも出来ます。繋がり合うフレイズには何らかの必然性があるからです。しかし、ひとつ隔てたフレイズ同士には脈絡が無くなることが大いにあり得るのです。「思い付き即興」と揶揄することも出来ます。

これに対し「気付いて大改革」をした後の「インド古典音楽即興演奏」は、「あみだクジ」が、「迷路のような細かな路」に変化しました。遠くには「目的地」の「丘の上のお寺」が見えているのです。なので、「ここで右に曲がって、その先の何処かで左に曲がれば」のような「先行き」もイメージ出来、右に曲がった後、しばらく左へ曲がる路が無かろうと、困惑することもないのです。

この頃には、最早「落語に似ている」とはあまり言わなくなりました。強いて言ったならば「碁に似ている」だったかも知れません。

ところが、それから程なくして、別な動機から、「より古い音楽」を探求するようになり、遂に「ヴェーダ時代の科学音楽」の存在を、膨大な文献の懸命な解読の後に辿り着くと。「ラーガは精霊である」という或る種の「擬人化」が理解出来るようになったのです。

そうなってくると、「丘の上のお寺の目印があるから迷わない迷路」でもなくなってしまったのです。15年ほど前の或る時期に突然のことでした。

以後は、お客さんを前にした舞台での演奏であろうと、まずは「ラーガとの対面」が始まり、「ラーガに対してのインタビュー」に発展します。より熟知したラーガの場合、「(気分良くなった)ラーガが勝手に語り始める」という域にも到達しました。

「お寺を目指す迷路の道行き」の段階で既に、「同じフレイズは二度と出て来ない」は180度逆転し、「まずは何時ものフレイズから始まり、既に何度も弾いて来た様々なフレイズの選択」に進化していましたが、その後は、それさえも「随分無駄な道行きだ」「散歩なだまだしも、目的があるなら、一直線に行けば良いじゃないか!」と自壊したものです。

「ラーガに語らせる」という域に至ると、自分自身は、「より良い訊き手」や「司会者」のような存在でラーガと共に舞台に上がり、「それではラーガ○○さんの生い立ちとご家族についてお話下さい」と始まり、「では次に思春期に抱いた夢と挫折について」などに発展して行くのです。

こうなってくると、並のタブラ(インド太鼓)奏者では「むしろ居ない方がありがたい」ということになってしまいます。実際この十年でも、インドからの来日タブラ奏者と演奏することが何回かありましたが、「かつての自分がよく見える」と同じに、彼らが「ああ、あみだクジ的な反応演奏(行き当たりばったり)だ」な様が良く見え、「同じお寺の目標」さえ共有出来ないのです。当然、「ラーガさんに訊く」ようなことは全く望めません。

勿論、タブラ伴奏者は、旋律奏者や声楽を追従する立場ですから、「先導するこちらがしっかりしていれば良い」という考え方もあります。或る意味「漫才」に似ていて、タブラは「つっこみ役」です。 しかし、あまりに意識が異なるのは辛いものですし、こちらの旋律には、前述したような「重要な部分と繋ぎの部分」が或る訳ですが、「意識も目的地も共有出来ないタブラ奏者」の場合、何に対しても「つっこみ」が来たり、逆に何に対しても同じ「つっこみ」だったり、突っ込んで欲しい時に流されたりすれば、「ほんとにこちらの音楽が分かっているのか?そもそも聴いているのか?何を聴いているんだ?」となってしまうのです。

言い換えれば、十代の頃の「ほとばしる即興演奏時代」や、二十代の「パッチワーク時代」は勿論、その後の「目的地がある道行き即興(あみだクジ・しりとり型)」でさえも「何が言いたいのか分からない(物語が見えない)」と振り返るに至ったのです。
ところが、近年のインドに於けるプロの演奏でさえも、今やその感じなのです。

今回の図版のカラー写真は、「バテカンデ国立音楽院器楽科主任教授」だった当時の師匠: Ustad Ilyas Khansaheb。右隣で伴奏弦楽器:Tampuriを弾くのは、今日の家元(Karifa)のUstad Irfan Khansaheb。

グラフの様な図版は、前々回にLPジャケットをご紹介した、Raga-Darbariの「作曲された主題群と即興演奏の入れ替わり立代りの様子」を現したものです。
インドEMI現地盤を直輸入販売していた頃に(未だに在庫がありますが)1989年に作成した特製解説書の一部を今回データに変換したもので。
まずアムジャッド氏の演奏を「完コピ」した後、縦軸が音の高さ、横軸が拍節法ターラで、正確に音程を記しつつ、線の太さで音量、曲線の形でニュアンスなどを記した世界初の表現法です。
「vの字」のようなものは、サロードのみならずシタールにも標準装備の「リズム弦」がはじかれた場所で、声楽の「息継ぎ」を正しく器楽に転写したものです。
太鼓タブラはこの図の時間は、伴奏(基本パターン)に徹していますが、この図の前後でソロを取った時には、「青で表記した音」は、めまぐるしく変化し、逆に旋律弦楽器サロードは、「緑色で記した主題」を繰り返しています。

何時も、最後までご高読を誠にありがとうございます。

10月も、インド楽器とVedic-Chant、アーユルヴェーダ音楽療法の「無料体験講座」を行います。詳しくは「若林忠宏・民族音楽教室」のFacebook-Page「Zindagi-e-Mosiqui」か、若林のTime-Lineにメッセージでお尋ね下さい。
九州に音楽仲間さんが居らっしゃる方は是非、ご周知下さると幸いです。

You-Tubeに関連作品を幾つかアップしております。
是非ご参考にして下さいませ。

Hindu Chant講座Vol.1

Hindu Chant講座Vol.2

Hindu Chant講座Vol.3

Hindu Chant講座Vol.4

Vedic Chant入門講座(基本理解編)

Ayurveda音楽療法紹介(基礎理解編)

アーユルヴェーダ音楽療法 (実践編1)

アーユルヴェーダ音楽療法 (実践編2)

アーユルヴェーダ音楽療法 (実践編3)

「いいね!」「チャンネル登録」などの応援を頂けましたら誠に幸いです。

(文章:若林 忠宏

‥…‥…‥…‥…‥…‥…‥…‥…‥…‥…‥…‥…‥…‥…‥…‥…‥…‥
若林忠宏氏によるオリジナル・ヨーガミュージック製作(デモ音源申込み)
‥…‥…‥…‥…‥…‥…‥…‥…‥…‥…‥…‥…‥…‥…‥…‥…‥…‥