若林忠宏:論理とスピリチュアル:新連載 Vol.12 バガヴァド・ギーター:第二章・第11節 ④

バガヴァド・ギーター:第二章・第11節 ④

クリシュナは語った。
貴殿は嘆くに当たらない人間に関しても嘆く。しかも、一見聡明な言葉を語る。
しかし、賢者は、死者や生者について嘆くことはない。
………………………………………………
この文言は、極めて示唆に富みながらも、実にごちゃごちゃしていて分かり難い言葉でもあります。
何故ならば、

A:人間は、価値ある者とそうでない者が在り、それを分別すべきである。
B:人間は、しばしば「一見聡明な言葉」で、自分(のみならず他人)を騙し誤魔化ししてしまう。
C:生死に関して嘆いていると、その本当の意味・価値を理解出来ない愚者から変われない。

加えて第二章第2節のクリシュナの言葉も加えれば、
D:愚者は永遠に愚考と愚行を繰り返すばかりで、それらは社会の道理に反するばかりか、地球・宇宙の道理に反する。
E:それでは、正しく宇宙の摂理・波動と繋がらない。それこそ「嘆かわしい」ことに他ならない。

などが、言葉も説明も足りないまま、たったの二行に押し込められているからです。

先にご紹介した「第一章第40節」に現われているアルジュナの苦悶の様子には、
「同族を滅ぼしてしまえば、私たちもその伝統を失う」
「しかし、悪に負けてしまえば、善が滅んでしまう」
というものでした。

私はそこで、「宇宙の原理とも共通する生命体の基本原理」を挙げて、「相対悪・相対善」によって誤魔化され見失いがちな「絶対善と絶対悪」についてのブラフマン・ヒンドゥー思想を説明しました。

これらと関連させて、この第二章第11節を考察すれば、その混雑ぶりは、幾らかは解消します。

つまり、
先の連載Vol.10で述べた「桜切る馬鹿、梅切らぬ馬鹿」は、「樹を切るなんて可愛そう」とか「自然の生き物は人間が手を加えずとも自然に生きていた筈だ」などの「詭弁」によって「真実・真理」を見失い。逆に「手を加えてやらねば」と「なんでもかんでも、剪定鋏を入れたがるのもお馬鹿」であり、「摂理・道理」を見失っている。そもそも見ようとさえせず「自分の感覚が宇宙の中心であるかのような愚者」であることを示唆しており、大げさにこじつければ、

日本の名言「桜切る馬鹿、梅切らぬ馬鹿」の原点は、「バガワドギータ第二章・第11節である」
とさえ言いたい・言えるのです。

あながち冗談ではないと思われるのが、
ゾロアスター教などの遥か以前にペルシア・シルクロードに存在した宗教から、ブラフマン教が分離していますが、その母体(土壌)からは、中世にイスラム教神秘主義スーフィーも生まれています。

奇しくも私の「スーフィー・ソングの十八番」でも、「サクランボウ」と「枝を切る」が歌われています。

その一節は、
「サクラの実を得ようとして、誤って枝を折ってしまった」というもので、
「桜切る馬鹿、梅切らぬ馬鹿」を知れば、「枝位折ること程度は、誰にもあり得るだろう」では済まされない話であり、これは、「米初代大統領:ジョージ・ワシントンの桜の枝折」にさえ通じるのです。

クリシュナが語ったこと、
「切ってはならないものを切るな!」「切るべきものをためらうな!」
は、
「捨てるべきもの、守るべきものの分別」「捨てると守るの道理・摂理・真理」
を説くものであり、

ひいては、
「その分別が出来ない愚者の人生は、『死にたくないから生きている』に過ぎず」
「生きる・活きることの必然性・宿命が分かっていない愚者であり」
「それは、人間本位の世の中に蔓延する『良さ気な言葉の詭弁』に惑わされているに過ぎない」
というような次元で、

決して「ごちゃごちゃ詰め込まれた分かり難い文言」ではない、
に至るのです。

(つづく)

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若林忠宏:論理とスピリチュアル:新連載 Vol.11 バガヴァド・ギーター:第二章・第11節 ③

バガヴァド・ギーター:第二章・第11節 ③

クリシュナは語った。
貴殿は嘆くに当たらない人間に関しても嘆く。しかも、一見聡明な言葉を語る。
しかし、賢者は、死者や生者について嘆くことはない。
………………………………………………
私は、或る有名なTV番組に3人の音楽家のゲストの一人として出演した時、その
司会者がリハーサル現場に入って来た時の目つきに非常な恐怖を覚えました。 それは「瞬時に敵味方を識別する鋭さ」に満ちていると思えたからです。その時迄の数十年、私はその人物を好きでも嫌いでもなかったのですが、「何処か胡散臭い」とは思っていました。それが一気に「恐ろしい人物だ」に至ってしまったのです。

それから程なく、九州に通って音楽活動をするようになり、その人物の博多座公演が大人気で直ぐにチケット完売することを知って、人気の秘訣である「とても良いことを言う」の評判をファンを自称する知人から聞いて、「おぞましい」と思いました。

それは、「人という字は、人間が互いに支え合っている姿を示している」というもの。

私は、
「冗談じゃない!」「どこが『互いに』なんだ!」「どう見たって一方が他方に寄りかかっているじゃないか!」と、独り憤慨しました。

私には、どう見たって「人間が自分の力で、留まることなく前に向かって歩いている様子」にしか思えませんでした。

なるほど、流石のあの人物は、実際は、他者を利用して地位を得るようなことを、言葉巧みに美化し誤魔化し、或る意味「天才的だ」とも思いました。

正にクリシュナが言った
「一見聡明な言葉を語る。」の典型ではないでしょうか。

そう思って振り返れば、世の中は「一見聡明な言葉」の欺瞞に満ち溢れています。

「野良猫捨て猫保護活動」を批判する人の多くの常套句に
「だって、全ての野良を保護出来ないでしょ?なら偽善・自分を良い人間と思いたいだけじゃない!それの為にむしろ猫を利用している!」がありますが。

これに感化される人も物凄く多い。

しかし私は反論したい。(実際は、そのような言葉を平然と言う人に言っても馬耳東風ですが)

「ならば貴方は、生涯恋人も伴侶も求めないのですね?」
「その理屈によれば『世界中の独身者とは付き合えませんから』となりますから」

(つづく)

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若林忠宏:論理とスピリチュアル:新連載 Vol.10 バガヴァド・ギーター:第二章・第11節 ②

バガヴァド・ギーター:第二章・第11節 ②

クリシュナは語った。
貴殿は嘆くに当たらない人間に関しても嘆く。しかも、一見聡明な言葉を語る。
しかし、賢者は、死者や生者について嘆くことはない。
………………………………………………
私は、十代の頃から、「依存・執着の善悪、正誤の境目」を捜し求めて来ました。その動機には「愛と依存・執着の境目」をもどうしても分かりたかったから、と。それらを「さも悟ったかのような大人」がしゃくでならなかったからでした。
しかし「依存執着は駄目なことだが、信頼依頼は良いことではないか?」などという迷いに苦悶するばかりで、十年以上も成長がないままだったのです。
そして、ようやく40代のある時、
聖者さえ含めて、「何にも依存しない、何にも執着しない人間など存在しない」という結論に達し、最も健全で聡明な依存・執着は、「論理に依存すること」であると気づきました。「論理は森羅万象を俯瞰すること」ですから、言わば「何かに依存する」のではなく「全てに依存する」であり、それは、或る意味「何にも依存しない」であり、「依存からの自由(解放)」であった訳です。

それから「論理」の猛勉強と、より多くの人々に通じる、理解され得る説明を求めて日々研鑽を重ねるようになるのですが、更に20年経ても尚、まだまだの感が否めません。

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ところが、論理を学ぶきっかけは、実に平凡な、しかしその時まで聞いたことのないある文言でした。

「桜切る馬鹿、梅切らぬ馬鹿」

サクラという樹は、感染症に非常に弱く、切り口を消毒し、雨水が入らないように防湿防腐剤などを塗って保護しないと樹全体が犯され疲弊し、その年は「花が咲かない」ことが良くあり、最悪枯れてしまうのです。ところが、ウメという樹は、頻繁に小枝が生え、何故か「良い隙間」を見つけずに、ひたすら真上に伸び、適度に人間が手を入れて「剪定」しないと、新小枝同士が互いに干渉しあって疲弊してしまうのです。

借家の庭にウメとサクランボウが生えていたのですが、この13年でどちらも枯れてしまいました。
その原因を作った犯人は、私でした。何故ならば、「大家さんの持ち物だから手を入れられない」という口実で、楽器修理や保護猫の世話の忙しさから「他人の樹の世話などしている暇がない」を正当化し続けていたからです。

そもそもサクランボウは、しばしば「全く花が咲かず、実もならない年」がありました。それもあって、「きっとまた、来年は突然咲くのだろう」と都合良く楽観していたのです。

また「そもそも樹木を切ったり・張ったりはしたくないものだ」という「生き物愛護の精神」的な考えも、都合の良い正当化に利用していました。

後に、先の「言葉」をきっかけに、樹について「もっと分かっておくべきだった」と反省した時には、ウメは既に枯れており、サクランボウは、「咲いたり咲かなかったり」が分からないまま、程なく枯れてしまいました。その時になって、私は「自らの愚かさを嘆いた」のです。

そして、後にシーターラーマさんのブログで、バガワド・ギータの第二章・第11節のクリシュナの言葉を知って愕然としたのです。

「サクランボウはどのような状態で健康なのだろうか? どうしたら良いのだろうか?」とか「梅の樹がきゅうくつそうだ。なんだか元気が無くなって着たが、どうしたら良いのだろうか?」などなどと、心配しつつも、そのことから逃げて、言い訳だけはしっかり考えていた自分の、「愚かさ」「姑息さ」によって、どちらの命をも守れなかった、見殺しにした罪を痛感したのです。

これは「戦いから逃げていた頃のアルジュナ」そのものだったのです。

(つづく)

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若林忠宏:論理とスピリチュアル:新連載 Vol.9 バガヴァド・ギーター:第二章・第11節 ①

バガヴァド・ギーター:第二章・第11節 ①

クリシュナは語った。
貴殿は嘆くに当たらない人間に関しても嘆く。しかも、一見聡明な言葉を語る。
しかし、賢者は、死者や生者について嘆くことはない。
………………………………………………
第二章では10節迄は、ほぼアルジュナの葛藤と嘆きがしつこく繰り返します。そしてこの11節でようやく、クリシュナの二言目が発せられます。

この11節の驚くべき示唆に富んだテーマは、「嘆くに当たらない人間」「一見聡明な言葉」「賢者は生死を嘆かない」という、この節の全ての文言に見られます。

ただ、この「三つのテーマ」が互いにきわめて密接な関係にあり、その順番を取り違えるとトンでもない誤解・誤った解釈に至ってしまうことは重々注意すべきです。

おの「三つのテーマ」は、総合的・俯瞰的に、「アルジュナの常識的な解釈に対し、クリシュナは宇宙原理で以ってそれを一蹴している」に重きを見出だすべきでしょう。

また「三つのテーマ」それぞれを格言に至らしめるには、それぞれの不偏的な「ものさし(判断基準)」を読み取らねばなりません。

「嘆くに当たらない人間」は、誰のどんな物差しによって「嘆く価値もない」とされるのか?
クリシュナの価値観か? 宇宙原理・真理照らしてか?それとも賢者の物差しで計ってなのか? それともアルジュナ達、人間の中の、権力を争い国と伝統を存続させる命題を抱く者たちにとってなのか?
「一見聡明な言葉」は、流石にクリシュナにとって、宇宙原理にとって、賢者にとって、はないでしょう。しかし、「どのような人間が聡明と感じるのか?」には幅があります。

「賢者は生死を嘆かない」は、物差しの所在・価値観の次元を「賢者」に特定しています。しかし「賢者」という存在は、果たして「どのような物差し」によって認定されるのでしょうか?
ある意味、逆説的に
「静止を嘆かない者=賢者」という解釈も出来、古代インドの文言には、そのような言い回しは多く見られます。

しかし、ここで重要なことは、シーターラーマさんの詳細なサンスクリット語の解説で明示されているように、本節に於ける「賢者」は、「Pandit(学者、ドクター、専門家、ヒンドゥー教徒の音楽の名手にも冠する)」であり「聖者(スワミやバグワン、リシ)」などではないことです。

私は、「みっつのテーマ」のひとつ「一見聡明な言葉」に、とてつもなく驚かされました。
これは、
「一見聡明な言葉」の他に、「一見優し気な言葉」「一見正しい言葉」「一見乱暴な言葉」に始まり、「一見立派な姿」「一見みすぼらしい姿」「一見立派な仕事」「一見卑しい様子」などなど、あらゆる事象に通じます。

つまり、その時々・時代の「通俗的で常識的な価値観(ものさし)」に於ける「一見」を意味しているのです。さすれば「嘆くに当たらない」は、おのずと「非凡・非常識な価値観」で判断した場合となります。しかしながら、その価値観は、必ずしも「賢者の価値観」と同一ではないのです。

しかし、いずれにしても、この現代社会にも完璧に通じることをクリシュナが述べた。
しかし、それは「宇宙真理」を述べたのではなく、「凡人から賢者に至る、人間社会の問題性」として述べていることに驚きを禁じ得ません。

従って、バガワドギータそのものも、クリシュナの言葉そのものも、やはりこの新連載の冒頭で私が述べましたように、極めて人間的・人間目線・価値観に沿いながらも、その過ちを説かんとしている、「人間世界・人間人生の教本」としての「聖典」である、ということが明白になります。

言い換えれば、「通俗を認めながらも、通俗の中に在ろうとも、精神性を下げてはならない」という厳しい教えである、ということです。
(つづく)

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若林忠宏:論理とスピリチュアル:新連載 Vol.8 バガヴァド・ギーター:第二章・第2節 ④

バガヴァド・ギーター:第二章・第2節 ④
近現代西洋医学と、古代中世東洋医学の大きな違い
……………………………….
クリシュナは言った。
危機に於いて、この弱気はいったい何処から貴殿ににじり寄ったのだ!
それは貴殿にそぐわず、天界に導きもせず、不名誉をもたらすものだ。アルジュナ

……………………………….
近現代の西洋医学基本は、「症状が出現してから、それに対する対処療法を化学製剤で行う」というものです。例えば「高血圧には血圧を下げる薬」「低血圧には上げる薬」の投与です。
これに対し「東洋医学の生薬」は、「血圧を安定させる生薬」を投与します。西洋化学製剤のような即効性が乏しい場合も少なくありませんが、極めて安全で理に叶っています。

そもそも生命体の恒常性は、「相反する要素」のバランスを保つ「何らかの神秘的システム」が働いて成り立っているのですが、ほぼ総ての病気の原因は、このシステムの不調にあるのです。東洋医学や西洋の古代民間療法に原点を見出せる「西洋生薬=ハーブ」などは、恒常性関連の不調・偏重には、その「何らかのシステム」自体をサポートする、言わば「気本論・根源論」なのです。
ところが近代西洋医学は、結果から逆算して対処する、言わば「結果論」に偏重しているのです。東洋医学でも、状況のあまりの偏重に対し、応急処置として「無理やりバランスを変える」方法を取りますが、あくまでも一過性・一時の強硬手段に過ぎません。

保護猫活動をしていた私は、「猫の喧嘩の仲裁」でも、これに関連する幾つかのことを学びました。
日ごろは、仲の良い猫同士が、窓ガラスの向こうの庭に現われた野良猫と激しい睨み合いをしていた時です。誰かが、棚から足を滑らしたか何かで、想定外の音や動きを見せ「一触即発の緊張」の中に大きな刺激を与えてしまった時です。 根っから「群棲性の譲り合い」の感覚を持たず「自分の感覚が主体(総て)」の「孤独棲・単独棲性」の猫は、仲良しだった筈が、何かのきっかけで大喧嘩に到ってしまうことがままあるのです。

そんな時、慎重に手を出して仲裁しようとしても全く無駄です。手を出して止めようとした結果、数針縫う怪我を負わされたことも何度もあります。そんな経験を経て、最近では、双方の間に足を、少し乱暴に蹴り入れて、双方共が怯む新たな攻撃を与えねばなりません。不思議にそれによって一瞬「正気」が生まれる。否、「新たな方向に対する注意力」が生まれ、或る種の冷静さを取り戻すのです。幸いに人間の足の方が、猫同士の「爪や牙」ほどのダメージを与えません。

極端な言い方ですが、「偏った作用を促すことで対処しようとする近代西洋療法」は、何時までも喧嘩の猫たちを蹴り続けているようなものなのです。

その結果、喧嘩(表出した病状)は収まるかもしれませんが、蹴られたダメージと同じことが、猫たちの肝臓、腎臓に深刻な新たな問題を刻んでしまうのです。
(つづく)

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若林忠宏:論理とスピリチュアル:新連載 Vol.7 バガヴァッド・ギーター:第二章・第2節 ③

新連載のバガヴァド・ギータの文言は、数ある紹介の中でも最もご誠実で丁寧で分かり易く説かれたとお奨めする、シーターラーマさんブログから引用させていただきますので、文言それぞれの詳しい解説は、公式サイトのブログで学んで下さい。
(本連載では、一部、著者の要約に代えさせていただいておりますことをご了承ください。)
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バガヴァッド・ギーター:第二章・第2節 ③

クリシュナは言った。
危機に於いて、この弱気はいったい何処から貴殿ににじり寄ったのだ!
それは貴殿にそぐわず、天界に導きもせず、不名誉をもたらすものだ。アルジュナよ。

前回、ブラフマン教~ヒンドゥー教では、「相反する二者」は、生命体の原理であり、宇宙の原理でもあるのだから「どちらが善でどちらが悪」などという解釈はあり得ない(要約)と述べました。その一方で、この「拮抗のバランスを崩さんとするもの」は、明らかに「絶対悪」であると述べました。

アルジュナは、第一章の末で、
「美徳が滅びれば、まさに悪徳がすべての一族を支配する」と、「絶対悪」と「絶対善」の存在の事実を明言しつつ、しかし「それらは元々同族である」ことに加えて、「古来の伝統が滅びる」とも述べ、その葛藤を露にしていました。

これは、極めて深い意味を持っています。

つまり、
「AとBという相反する存在が拮抗して存在するABによって(或る意味平和的に)存続した慣習・伝統」が、「AがBを」または「BがAを」滅ぼしてしまえば、「A」か「B」に帰してしまい、「ABの総ての伝統は滅びる」という不可避の結末を意味しているのです。

「AB」だ、「A」だ「B」だ、などと言うと、血液型を思い起こしますが、あながち的外れではないかも知れません。私は、生薬・ハーブに関して、血液型の輸血適合性に通じる理論を持っていますが、またの機会にお話出来たらと思います。

かつての日本は、平安時代頃から明治維新迄の長きに渡って神道と仏教をごちゃまぜにする政策「神仏混淆」を取っていました。その弊害や無理も多くありますが、「明王信仰」「権現信仰」などは、混交・混淆・習合を超えた「融合の神」とも言えます。ところが、明治維新では、仏教弾圧の性格も持つ「神仏分離(神仏判然令)」によって「習合」は、権力によって無理やり引き裂かれました。同時に、一部で仏教弾圧「廃仏毀釈」の動きさえ見られました。 その結果、日本は、社会主義国並に「無宗教・無心論者(が圧倒的多数の)」の国になってしまいました。

つまり、「神道と仏教を合わせた信仰感」に、「区別」を強要した結果、バランス崩壊はもとより、双方とも廃れ、信仰心そのものを失ってしまった、ということです。

これなどは、クリシュナとアルジュナの問答、とりわけ第一章から第二章に掛けてのテーマにより相応しい喩えの例かも知れません。
(つづく)

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若林忠宏:論理とスピリチュアル:新連載 Vol.6 バガヴァッド・ギーター:第二章・第2節 ②

※ 尚、新連載のバガヴァド・ギータの文言は、数ある紹介の中でも最もご誠実で丁寧で分かり易く説かれたとお奨めする、シーターラーマさんブログから引用させていただきますので、文言それぞれの詳しい解説は、公式サイトのブログで学んで下さい。
(本連載では、一部、著者の要約に代えさせていただいておりますことをご了承ください。)
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バガヴァッド・ギーター:第二章・第2節 ②

クリシュナは言った。
危機に於いて、この弱気はいったい何処から貴殿ににじり寄ったのだ!
それは貴殿にそぐわず、天界に導きもせず、不名誉をもたらすものだ。アルジュナよ。

私は、先週の拙稿で、
「苦悶するアルジュナは、(苦悶の自問自答の)最後に『大いなる矛盾』について述べた」「それは『同族同士の戦いの空しさ』と『絶対善と絶対悪』という矛盾するテーマであった」(いずれも要約)と述べました。

クリシュナは、その言葉を待っていたかのように、アルジュナの葛藤を諌め、決断を迫る言葉を執拗に述べています。

この点が、第一章と第二章の前半の大きなテーマなのではないでしょうか。
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「敵」とは何か? 「善悪」とは何か?
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バガヴァドギータは、戦記ものの二つのパターン「永遠のライバル同士の骨肉の戦い」「同族・同血統の悲惨な分裂(仲間割れ/後継者争い)」の後者の典型です。日本の歴史でも、「両統迭立」と言われ、飛鳥時代から何度か繰り返されています。

私は、先週の拙稿で述べたように、これは生命体の中の「恒常性」から宇宙の原理にも通じる「拮抗・バランス・対峙の原則」を示唆していると考えます。
それと同時に、ブラフマン教~ヒンドゥー教の基本に「バランスを崩さんとするもの=絶対悪」であり、「それを淘汰するもの=絶対善」があると見ます。

ここで一旦、話の筋を逸らします。
……………………………………………..
スピリチュアルに関心の高い読者の皆さんは、今までに色々な宗教についても学んだり、考えたり、悩んだりして来られたのだろうと思います。

改めて、その学びを、或る哲学を軸に振り返ってみて下さい。
それは「善悪の定義」という軸です。
ブラフマン教~ヒンドゥー教以外の、例えば、ユダヤ教、キリスト教、イスラム教の主流派や、仏教諸派の多くは、善悪を説く時、自らの教義(教え)を唯一正しいものとして、それ以外に対する排他性が強い場合が多く見られます。そう思われた方もきっと少なくないはずですし、これによって「だから宗教はイマイチ納得出来ないのだ」と考えて来られた方も少なくないと思います。

多くの宗教が説く「善悪」は、単純に考えれば、「A教に於いてA=善」は「B教に於けるB=善」とは別物である結果、それぞれは、他者の「善」を「悪」とせざるを得なくなってしまいます。私の語彙では、これらはいずれも「相対善であり相対悪である」と整理しています。しかし、宗教は、教義を「絶対的な教え」とするのが当たり前です。その結果、世界には様々な、しばしば相反する「真実・正義・善悪」が同時に存在してしまうのです。

しかし、ブラフマン教~ヒンドゥー教では、「相反する二者」は、共に「摂理(真理と言えるかも知れない)」に於いて不可欠の存在なのです。そのどちらが欠けても、僅かにバランスが狂っただけでも、「総てが崩壊する道を進んでしまう」のですから、「相反する二者」は善悪を超越しています。故に、「善にとって他方は悪だ」などを言う必要さえもないのです。
その一方で、「主旨=バランス=存続」を狂わすもの(状態・意図・意思・行為)は、紛れも無く「絶対悪」であり、それを淘汰せんとするものは「絶対善」という基本があることが、様々な経典・聖典・文献に多く見られるのです。
(つづく)

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(文章:若林 忠宏

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若林忠宏:論理とスピリチュアル:新連載 Vol.5 バガヴァッド・ギーター:第二章・第2節 ①

※ 尚、新連載のバガヴァド・ギータの文言は、数ある紹介の中でも最もご誠実で丁寧で分かり易く説かれたとお奨めする、シーターラーマさんブログから引用させていただきますので、文言それぞれの詳しい解説は、公式サイトのブログで学んで下さい。
(本連載では、一部、著者の要約に代えさせていただいておりますことをご了承ください。)
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バガヴァッド・ギーター:第二章・第2節 ①

クリシュナは言った。
危機に於いて、この弱気はいったい何処から貴殿ににじり寄ったのだ!
それは貴殿にそぐわず、天界に導きもせず、不名誉をもたらすものだ。アルジュナよ。

先の第一章40節のアルジュナの葛藤に対しクリシュナは、この第二章2節と続く3節で、厳しくアルジュナの弱気を責めます。単純に解釈すればこれは、戦記ものに於いて、戦うことを鼓舞する、如何にも武士本意の物語に思えてしまいます。
古今東西で、「決戦に臨み否応が無しに襲い掛かる不安・哀しみ・矛盾と葛藤」に対し「軍神の強い激励を受けて立ち向かって勝利した」という物語は、ありふれて存在します。果たしてバガバド・ギータをそのようにつきなみに読んでしまって良いのでしょうか?

実際インドに於いても、そのような解釈が主流かもしれません。しかしクリシュナは軍神でしょうか? 軍神と言えば、ブラフマン教の軍神:スカンダが居り、ヒンドゥー教の時代になると、いささかその扱いに困ったのか?その縁起に関しては様々な説が交錯しています。
ヒンドゥーの幾つかの派は、スカンダ軍神に代わり、ヴィシュヌの化身でありながら、シヴァの弟子であり、マハーバーラタの英雄の師でもあるパラシュ・ラーマを軍神と崇めます。
また、そもそもクリシュナやラーマも、常に博愛ではなく、戦うべき相手には、手加減を見せません。しかし、決して好戦的であるとは語られておらず、常に「弱者救済」や「悪を懲らしめる」という姿が強調されています。

私は、第一章で、アルジュナが「眼前の敵もまた同族である」という苦悶を語ると共に、先の40節で「絶対善と絶対悪」について述べて、決断が揺れている姿を見せていたことに着目します。

この葛藤は、ほぼ全ての生命体と、そもそも宇宙で、常に繰り広げられている紛れも無い事実を表現していると考えます。
地球は、太陽に対する「求心力」と、離脱せんとする「遠心力」の拮抗で太陽系に存在し続けていますが、対峙する力のどちらか一方が優った瞬間、地球はその存在を失い、他の太陽系の惑星に甚大な影響を与え、恐らく太陽系事態が滅んでしまうでしょう。

同じように、生命体のあらゆる機能も、対峙する要素の拮抗(恒常性)によって成り立っています。つまり「総て(全体)が存在するために存在する相反する二大勢力」が、善悪の次元を超えて存在しているのが「当たり前=デフォルト」なのです。

しかし、腸内細菌叢(善玉菌、日和見菌、悪玉菌)、(ある一部の)免疫機能の暴走(サイトカイン・ストームや自己免疫疾患、アレルギー)、変異細胞の暴走(癌細胞)という、「全てを破壊してしまう、拮抗(恒常性/バランス)に関わらない何か(力/指向性・方向性/価値観/意図・意思)」は、ほぼいずれも「同族(同胞)」が、その判断を誤って、「絶対悪(総てを滅ぼす指向性=己も滅びる)」の道を選択した結果なのです。
(つづく)
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若林忠宏:論理とスピリチュアル:新連載 Vol.4 バガヴァッド・ギーター:第一章・第40節 ①

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新連載Vol.4
バガヴァッド・ギーター:第一章・第40節 ①

一族が滅亡する時、一族古来の慣習が滅びる。
美徳が滅びれば、まさに悪徳がすべての一族を支配する。

私は、高校生の頃、恐らく日本で最初に翻訳されたバガヴァド・ギータと出逢いました。その尾頃の私には、第一章は、単なる古代戦記ものとしか理解できませんでしたが、それから40年経た頃、十頭以上もの保護子猫を何人かの人から預かってしまい、挙句には預け主に逃げられるという失敗をしてしまった後、アーユルヴェーダ、中国古代医療、漢方弁証論治などを必死に学び、その後に「論理」を学び、その学びと命との向かい合いの一喜一憂の日々から、バガヴァドギータの「戦い」の意味が異なって考えられるように大きく変化しました。

第一章では、正に戦いの火蓋が切って落とされる直前に、同族でもある敵軍に攻め入ることの是非を、クリシュナに向かってぶつけるように問い掛けるアルジュナの苦悶が描かれています。
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示唆に富んだ第一章第40節
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第40節は、一見して、ごく当たり前のようなことを述べているように見えて。上記のような経緯・経験を経た後、此度のパンデミックを体験すると。更に大きく異なる印象を感じてしまいます。

此度のパンデミックに関して、感染症と免疫学の専門家が、様々なことを述べ、毎月のように新しい解釈や認識、発見が報道されていましたが、この秋からは「ワクチンで全て解決」であるかのように、多様な解釈も、新たな認識もすっかり出てこなくなりました。何故でしょうか? そもそも「ワクチンで全て解決」なのでしょうか?

私は、此度のCOVID-19パンデミックで、スーリア神の聖なるチャクラをウィルス名にした発見者(命名者?)の軽率と人間本位を恨みつつ。改名を訴え、孤軍奮闘しています。なので、この連載では、「COVID-19」を「Spike-Virus(SV)」と称することをご理解下さい。

そもそもSVは、遺伝子配列が変化(マイナー・チェンジ)し易いことは、かつてから言われていましたが、基本的な病態・機序は、既に10年前に猫に於いて「FIP」として知られており、当初私も、生後一年に満たない子を十頭も、数ヶ月の死闘の末看取る哀しみを味わいました。が、その後、十数頭を生還させることにも成功しました。しかし、獣医師は異口同音に、「死ねばFIP、死ななければFIPじゃなかった」と認めてはくれませんが。

「FIP」は、此度のSVの重症化例の基本である「免疫の暴走=サイトカインストーム」と全く同じ機序なのです。つまり、当人を死に至らしめた犯人は、当人の免疫機能なのです。SVは、複雑な免疫機能の幾つかを、姑息で巧妙に「そそのかす」のです。
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一族が滅亡する時、一族古来の慣習が滅びる。
美徳が滅びれば、まさに悪徳がすべての一族を支配する。

解釈は、色々ありましょうが、奇しくもこの度、この時期に、この一文を改めて説くことの宿命に感無量を禁じえません。

アルジュナは、ごく当たり前のことを述べているようで、「同族が同族に刃を向ける」まさにサイトカイン・ストームの哀れと愚かさをクリシュナに訴えています。
そして、
この第40節のアルジュナの言葉の後半は、この世の「絶対善」と「絶対悪」の解釈をクリシュナに問うている点でも、文言の示唆の大きさを感じるのです。

果たして、クリシュナは、どのようにアルジュナの苦悶の問いに答えるのでしょうか。
(つづく)

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若林忠宏:論理とスピリチュアル:新連載 Vol.3 クリシュナの言葉に学ぶ・現代人はどう生きるべきか ③

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ご無沙汰しております。
昨年末から年始に掛けての、人生初の重度の気管支炎の後、パンデミックで、演奏活動・教室が大打撃を受け、連載コラムの長いお休みを頂いてしまいました。今も変わらぬ厳しさですが、人生のラスト・スパート、起死回生の意欲で峠を乗り越えんと奮起いたしました。
この間、シーターラーマ社長様には、言葉で書き切れない励ましを頂きました。また、私の連載記事の読者さんからfacebook-friendさんになって下さった方にも大変励まされました。この場を借りて御礼申し上げます。ありがとうございました。
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新連載に際しまして、読者のみなさまにお許しを請います。旧連載のシリーズの多くが中途であることを一旦お許し頂き、新連載では、今までお話した様々な論理を応用して、パンデミックの時代の人々により具体的に励ましとなるようなテーマを、ご提供させていただきたいという我がままです。
何卒、よろしくお願い致します。
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私たちは、バガヴァド・ギータで文字化されたクリシュナの教えから、人間が、数千年も前から外の敵と内なる敵との対峙を余儀なくされていたことを思い知らされます。バガヴァド・ギータを「古代の戦記」と読むのは容易ですが、だとすると、登場人物と要衝の地名があまりにも複雑ですし、数千年もの間、あまたの聖者が哲学として学んで来た理由も分かりにくくなります。そもそも「人間の生まれてから死ぬまで」に深く関わるヴィシュヌ神の化身の中で、最も人間に寄り添ったクリシュナの示唆が、軍人・武士階級の為だけであろうはずもないことです。そもそも、或る意味世捨て人でもある聖人聖者にとって、或る意味、人間と社会の最も醜い欲深い行為の最たるものである「戦争」が、重要な教本になろう筈もありません。つまり、バガヴァド・ギータの全ての文言は、極めて広く、深い世界観・生命観を戦記に擬えて隠したものに他ならないのです。

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バガヴァッド・ギーター第3章第34節(3)
各感覚器官には、対象に対する愛執と憎悪が定められているが、
人間はその両者に支配されてはならない。なぜなら、それらは彼の敵であるから。
…………………………………………………………………………………………………………………………ここで一旦、あえて結論を急ぎますと、
本節では、
「愛であろうと、憎悪であろうと、それに支配されてしまうと、それらは人間を苦しめる敵となる」
と説いていると「強く仮定する」もしくは、「殆ど決定する」とします。それによってどれほどの矛盾や無理があるか?を検証する、という論理思考です。

本節は、以下のように分かり易く書き換えることが可能です。

人間は、あらゆる外からの情報に対して「享受か拒否」で反応しがちであるが、それは、そもそも「享受・愛」と「拒否・憎悪」が、全ての感覚器官にデフォルトで設置されているからである。だからと言って、人間は、そのどちらかに偏って執着しがちであるが、これは危険であり、人間を苦しめる敵性な要素である。

ところが、「相反する要素が定め置かれている」という部分は、全体的な主旨から考えると、必ずしも必要ではないのです。すると、本節のより深い意味は、その「わざわざ書き加えた部分」にこそある、と考えることが可能であり、それをしないならば、おかしな文言ということになってしまうのです。

わざわざ書き加えられたものを省くと。

人間は、あらゆる外からの情報に対して「享受か拒否」で反応しがちであると共に、そのどちらかに偏って執着しがちであるが、これは危険であり、人間を苦しめる敵性な要素である。

となり、充分筋が通っていますし、古今東西で同じ教えは沢山ありましょう。

ところがバガヴァド・ギータでは、こうは述べていないのです。
その、わざわざ書き加えられたものだけを引き抜くと、

そもそも「享受・愛」と「拒否・憎悪」が、全ての感覚器官にデフォルトで設置されているからである。

ですが、ここには、
「相反する二つの要素がセットで定め置かれているもの」という事実を、この一節は、主旨の最前提に据えています。

同じく、この最前提を「核」とすれば、様々な置き換えの文言が見出されます。
例えば

あらゆる生物が天敵や同族と戦う時、そこには「勝ち負け」が生ずる。
それは、そもそも「勝ち負け」があらかじめ定められているからである。
その結果、人間は、「勝ち負け」にこだわり、執着し、勝敗を決定付けなくてはならないと
考えがちであるが、人間以外の生物は決してそうではない。何故ならば、完全に敵を滅ぼしてしまえば、生態系が狂い、自らも滅亡してしまいかねないことを、生き物は知っているからである。

とか、

人間の周りの自然の生き物には、人間にとって「有益」なものと「有害」なものがある。
それは、そもそも「益と害」があらかじめ定められているからである。
しかし、「有益なものを摂り過ぎることの弊害」もあれば、「有害なものを少量用いることの利益」もある。前者は「飽食のリスク」「酒に溺れる」であり、後者は「毒でもある薬の正しい処方」である。

などなど、挙げればキリがないことでしょう。

こう検証すると、
「あらかじめ定め置かれている、愛は、愛執となった時、人間性にとって害であり敵となり」
「憎悪は、それを制御することによって、対象の中の憎悪を知ることが出来る唯一の物差しとなる」
を本節から抜き出すことが可能になります。

実際、生命体の中の「相反する要素」は、常に本節が説いている摂理によって存在し「恒常性」を維持しています。

例えば、胃潰瘍は、人間が内蔵している「それがなければ、食物の消化が始まらない「塩酸(及び体中の酸を集める機能と塩酸を合成する機能)」を猛毒として存在させてしまった結果でもあります。

また昨今のパンデミックで重症化して死に至らしめる「サイトカイン・ストーム」も、そもそも「ふたつの別系統の免疫システムの一方だけが亢進した結果」です。ウィルスは、それを刺激し、狂わせ、エスカレートさせる知恵と力を持っているのです。 

最後に、本節に対する、私の個人的見解で、最も重要と考えている主旨を書かせて下さい。「個人的」としましたのは、本節の語だけでは、論理を持ってしても、導くのには若干無理があるからであり、決して思いつきで考えたことではありません。

それは、ここ三編に渡って述べた論理的検証でも少し登場しました、「愛と憎しみ」について、「二元論」=「相反する逆の別もの」であるか?「一元論」=「同源同質の表裏」であるか? というテーマです。

一応、本節は、前者の解釈で、考え得る全ての解釈が成り立ちますが、先に述べたように、文言全体を検証せず、部分を取り出したり、部分を黙殺して、「都合の良い解釈」を抜き出した典型例である「愛でも憎しみでもない無我無関心の境地こそが悟りである」というものは、間違いに他ならないということがひとつ。

では、どうすれば本節の主旨に沿うのか?
それは、「愛と憎しみを常に偏らずに感じること」具体的には、
「以下に愛として美化しようとも、バランスを崩したら、それは憎しみに変質するであろう」というこを、決して忘れてはならないという考え方です。

これは、「生命体の恒常性」「薬は毒でもある」という摂理に矛盾しないどころか、そのものを述べています。それに対し、「間違った解釈の無我」は、「人間性の否定」に他なりません。

強いて加えれば「憎しみも、それだけでは、いくら「相手が悪いからだ」と強く主張しても、その人の心と体には、害・敵でしかないということです。下世話で幼稚な例で恐縮ですが「罪を憎んで人を憎まず」のように、「相手を憎むのは、自分に愛があるからであろう」とか「相手を憎む時、愛を完全に捨ててしまえば、それは自分にも弊害がある」ということです。

私は、クリシュナは、これを伝えたかったのだと、思えてなりません。
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