154、アーユルヴェーダ音楽療法入門15(そもそも精神世界とは?-その3-)

1、世界一用語が混乱している日本
「精神世界の語彙」のみならず、そもそも日本は世界で一番「現地専門用語のそのまま使用」が多く、そして混乱している国ではないでしょうか?

例えば昭和30年代生まれの私の子どもの頃は、お医者さんはほぼ全ての人がカルテをドイツ語で書いていました。「何故ドイツ語で書くの?」と訊けば「患者に分からないように」と正直に答えたお医者が居たそうな。まだインフォームド・コンセントの観念が普及していない時代のことで、むしろ逆に「秘密主義」的な姿勢が強かった時代です。そこで、「ではドイツのお医者は?」と訊けば「そりゃあドイツ語に決まってるだろう」という呆れた返答だったと言います。おそらく昔からイタリアのお医者、スペインのお医者は母国語でしたでしょう。「世界で日本だけが」の典型例です。

ところが、クラッシック音楽用語に関しては西洋でも、日本の「カルテはドイツ語」と同じ状況(音楽用語はイタリア語)があったようで、バッハ(独)、モーツァルト(墺)の時代(18世紀前半)はイタリア語を用いていたようです。中世~ルネサンス~バロック時代を通じて、長らく「イタリアは、西洋クラッシック音楽の発祥の国でありリーダー」と考えられていたからと言います。それがベートーヴェン(独)の時代(18世紀後半)まで続き、徐々に母国語を用いる(加える)ようになり、19世紀後半のマーラー、ブルックナー(墺)、ドビュッシー、ラベル(仏)の時代になると母国語の比率が増したと言われます。

必然的に明治以降の日本に於ける西洋クラッシック音楽教育では、イタリア語の楽語を完全に記憶していなければならず、ドイツ・オーストリア人の作品、フランス人の作品を学ぶときには、ドイツ語、フランス語の音楽用語も覚えなければならなくなってしまったのです。
ところがアメリカの交響楽団などは、早々に全てを英語に換えたとも言われます。そもそも各国の母国語の音楽用語の大半は日常用語なのです。ところが、合理主義に徹したアメリカのように「ならば母国・日常語で良いじゃないか」とならないのが日本なのです。

インド古典音楽の楽語の場合、今では日常用いられなくなったサンスクリット語の用語が3割程度で、中世イスラム王朝宮廷音楽時代のペルシア語、トルコ語、アラビヤ語が3割、今日日常も通じるヒンディー語が2割、今日も通じる筈ですが、「かなりかしこまった言い方やハイソな言い方、古臭い言い方」のヒンディー語が2割、といった感じです。

インドのリキシャ(人力車が伝わり現代はもっぱら自転車リキシャやオートリキシャ)ワラ(人夫)に、「ダヤン!(右)、バヤン!(左)、(いずれもインド古典太鼓タブラ・バヤンの左右の太鼓の名称と同じ)」は通じました。「Drut!(音楽用語の「早い」)」は、日常語でも「スピーディー、早い」ですが、人夫によっては通じませんでした。(通じないフリもありましょうが) 対語「Vilambit(Slow)」はより通じないでしょうし、使い時もないので試していません。しかし、これも音楽だけの言葉ではありません。

2、多国語が入り乱れることの功罪
今もドイツ語でカルテを書いている(随分少なくなったとも聞きます)お医者さんには嫌われるかも知れませんが、その習慣には「(昔の日本の医師に抱かれた)ドイツ語で書くことのステイタス」と「むやみに患者に医者の所見を明かさない(良くも悪くも)」という二つの性質があったと思われます。前者は、その習慣が薄れ、後者は「インフォームド・コンセント」の時代になって覆されました。私見としては、近年のあらゆる事柄に関する「平等・公開・権利保護」の風潮には、「やり過ぎ」と「それによって失われる大切なもの」も思わざるを得ないのですが…………………….。

音楽用語に関しては、今も相変わらず「イタリア語、ドイツ語、フランス語、英語」で全てを覚えなければならないだけでなく、「調名」に関しては未だに「変ホ長調」などと、明治に創案された日本語の「ドレミ=ハニホ」が使われています。かと思えば、実際の現場で「ドレミ」などと言うと「素人臭い」とされ「ドイツ語のツェー、デー、エー、エフ」が好まれるとも言い、ポピュラー・ミュージックでは「英語のシー、ディー、イー、エフ」ですが、バンドマン(まだ居るのか?※)の「業界用語」では、「おい!こないだ立て替えたゲーセン(G千円=五千円)何時返してくれるんだい!?」のように「ドイツ読み音名」が隠語になっています。
(※)私が洋楽で最初に仕事をしたのが19歳の時の「キャバレーバンド」でした。

これらの混乱の原因に見られる性質には、「郷に入っては郷に従う」的な、日本人が得意な「適応性」の素晴らしさと、「形から入りたがり、形で満足し、形で終わる(仏作って魂入れず)」の欠点が併せ持たれていると考えられます。

かく言う私も「インド古典音楽」を学び、教える時には、前述のような「現地の専門用語」を用います。手持ちのレコードやCDの資料リストを作る時でも、欧米盤のライナーに「Raga Yaman-Kalyan Slow-Tempo-Composition in 16Beats Teental」などと書かれていれば「Raga:Yaman-Kalyan Vilambit-Gat:Trital」に書き直します。リストの全ての情報が、統一された書式・用語で整理されていないと、一目で確認や比較が出来ないからです。

ちなみに、そのようなCDが日本盤で出ると、私のようにインド語に徹底することがないのは勿論、日本語にも替えず、英語のままなのです。「ゆっくりな器楽」と日本語で書いてしまうと「なんだか興ざめする」ということでしょう。

しかし、ここにも「語彙が混乱する」原因のひとつがあります。日本人は外来文化に関するものを「日本語にしたがらない」ということと、欧米以外の文化に関しても「英語」を好むという、明らかに「コンプレックス」が存在する風潮です。ヒンドゥー関連に関しても「Veda賛歌」を「Vedic-Chant」と言いたがる。「インド占星術」に至っては、正しくは「Jyotish(ジョティーシュ)」なのに、一旦アメリカナイズされたものをそのまま使いたがるので「ショーティッシュ」と思い込んでいる専門家が少なくない。同じことで昔から憤慨しているのが、「猫の学名」。学名=ラテン語なのですから「Feline=フェリーネ」でしょうに、「知ったか連中」は、英語化した「フィーライン」を用います。

私は、同じく、ペルシア音楽、アラブ古典音楽、トルコ古典音楽、ギリシア…………ブルガリア…….キューバ、ヴェネスエラ音楽…………でも、それぞれの現地の音楽用語を頭に叩き込みました。そのような実体験から、明治以降の日本のクラッシック音楽の担い手たちが、「憧れとより深い理解の為」に、現地用語を懸命に覚え活用する気持ちはとても良く分かり、それらを無下に「形から入る」とは言い切れない思いです。

ただ、どんな音楽ジャンルにも言えることですが、「専門用語や演奏家、楽器職人など」の音楽ファン~マニアが知らないことを「ひけらかす」ようなタイプの人間も少なくありません。そのような人々は、極めて限られたジャンルや地域の情報に執着しており、関連の情報には全く目もくれないという特性があり、そこには比較も全体把握も全く価値を感じていないかのようです。(音楽だけのことではないかも知れませんが)

この場合の「現地専門用語」は、「形から入って形で終わるの姿がある」と感じざるを得ません。「何かを理解する」ということが、「一点集中でより詳しい情報を得ること」だと思っているのは、世界で日本人だけだからです。しかもその感覚には「探究心の結果」というよりも「ステイタス・自尊心の道具」と感じされるものが多いのですから尚更です。

幸いにアーユルヴェーダ関連の専門用語と理論は、並みのインド古典音楽用語より膨大に多い上に難解なので「調べたことをネットに並べる」のが精一杯なのでしょう。その解説も「分かっているように見せている」ものばかりで、いろいろ落ちや矛盾がありますから「ひけらかし」に至ってもいない感じです。
(ただ、深刻な問題は、読者も「分かった気になりたいだけ」の人が増えたので、むしろ「分かってもいないけれど、分かった気になっている人の解説」の方が好まれる方向性があることです。)

しかし「精神世界の語彙」に関する問題は、これらのこと以上に深刻なものがあります。
「現地音楽専門用語や思想、哲学、文化用語を、日本人が様々に受け止め活用しているか?」としても、いずれも現地ではその「意味・価値」が確定しており、「人によって解釈が異なる」ということはありません。ところが「精神世界の語彙」に関しては、より詳しい専門的な用語は普遍的ですが、最も基本的な「気分・感情・思考・心・魂」の定義と「感じた・思った・考えた・想った」の解釈と語法さえもが「(世界中で)人それぞれ好き勝手」なのです。それでは、その先の「専門的な理解」も幾ら詳しく学んでも大きく異なってしまいます。

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153、アーユルヴェーダ音楽療法入門15(そもそも精神世界とは?-その2-)

西洋でも同じような曖昧と誤用が重ねられて来た。

前回、私たち庶民のいささか姑息な「大げさや美化の習慣」と、「権力者の恣意」が対立せず。都合よく相互作用をもたらして、「精神世界に関する大切な言葉を曖昧にし、互いの誤用を許し合う」という歴史を重ねて来た、と述べました。

同じことが西洋(とりあえず英語を例に)でも言えます。
元々英語では「魂=Soul/心=Spirit/思考=Mind/感情=Heart/気分=Feeling」ですが、日本人にとっての日本語の語彙と同様に、「より深い→より浅い」という普遍性はあります。しかし、その基準も定義も同様に存在しません。日本もそうですが、より昔の人は、より分別出来、近年に近いほど曖昧や誤用が目立つ、ということも特徴です。それでも、例えば「Soul-Music」などは、現在に生きる個々の黒人の音楽的好み・嗜好性よりも、深く広い「民族のルーツ」と繋がっているイメージを持っています。
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余談ですが、そもそもこのような言葉は、日本でも欧米でもレコード会社が「売らんかな」で創作した言葉です。「Soul-Music」の前(一部では後も)の「売り文句」は「Black-Music」で、後に「差別用語」とされましたが、黒人人権運動家がむしろ誇りを持って「Black」を使った影響もあります。その前(時期は重なりながら)に至っては、後の時代では考えられない「Race-Music(人種音楽)」で、実際は、南部プランテーションで開放され北部大都会で工員などで給料を得たが、家土地は買えないので、酒とジュークボックス代に(白人以上に)金を使った層を対象にしていました。当時の黒人たちは、その「売り文句」を「おっ!俺たち向けの音楽だな」とむしろ歓迎していた訳です。
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他にも「Mind-Control」などは、1950年代の中国共産党が「再教育・洗脳」で用いたとか、ヴェトナム反戦の時代のアメリカの新興宗教の様相にて言われた、などとされ。必ずしも日本人の造語ではないようですが、「思考回路・思考性に強い影響を与え制御する」という意味では、正しい語法と言えます。

しかし、もしかしたら英語圏は、日本よりも「誤用・好き勝手な解釈」が氾濫しているかも知れません。例えば、前述の「Soul-Music」の範疇で、私が大好きな曲で、私のBlues-Bandの十八番でもある曲「Trouble in Mind」も、詩的には、「心の悩み」のような感じですが、正しい解釈では「思考内のトラブル」ですから、「そりゃあ君個人の問題だ」となり歌にはなり得ない。ところが、そもそも「心の悩み」は、前回述べたように「心=内面世界の子供」を悩ませている「駄目親(感情領域と思考領域が駄目)」な訳ですから、全てを正しくして曲のタイトルにするならば、「感情の乱れ/Trouble in Heart」な訳です。しかし、これでは詩的でないので売れません。

言い換えれば、英語圏の人々もまた、「Heartは、常に清純で暖かく美しくあると思いたい」「あれこれ悩むのは、むしろMindだと思いたい」という「すり替えと美化」が習慣的に定着している、ということなのです。
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余談ですが、私のサイケデリック・ロックバンドで必ずオープニングで演奏するのが、ヤードバーズというバンドの「Heartful of Soul」です。内容もどうでも良いような歌詞ですが、タイトルは全く意味不明。「雰囲気」でつけた感じです。
このようにして、英語圏でも日本人と同じような恣意や習慣によって「精神世界の語彙」は、かなり曖昧で好き勝手にされていると言えます。
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ちなみに、「Mental」は、ラテン語由来らしく、スペイン語とイタリア語で共通して「Mente=Mind=
思考」です。この2、30年スポーツの世界で「メンタル面の強化」などと言いますが、「雰囲気に呑まれたり、感情制御が出来ないことで力を出し切れないことを防ぐ為」というおおよその普遍性があります。しかるに「気分感情を制御する=思考力=思考性に権限を置く」という意味で「メンタル」は、珍しく「正しい語法」で浸透しているとも言えます。」

(※)「おいおい!ラテン圏まで話がズレると、インド音楽療法から脱線し過ぎだ」と叱られそうですが、インドの歌の歌詞から、庶民にとっての「精神世界の語彙」を考える時、「ペルシア語~ラテン語」をかなり学ぶ必要があることも痛感しました。

私がインド~中近東・中央アジア音楽の次に年月と想いを込めて取り組んだ、カリブ海(主に西語圏)で歌に歌われる言葉は、もっぱら「Corazón」です。この「Corazón」もまた英語の「Heart」同様に、様々な意味合いで歌に好まれて用いられますが、カリブ海では、特に「意味合い」の深みと幅が豊かな印象があります。基本的に「感情=心」という点では誤用なのですが、「あの人はコラソンを持っている」などと(キューバなどで)言う場合、かなり深みが感じられます。
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かつてキューバに於ける「Musico」の意味合いを聞いた時に感動したのですが、それと同様の豊かさを感じるのです。「Musico」は、訳せば「音楽家」ですが、誰も彼もではなく「本物に限る」ということでした。では、「イマイチや偽者は?」と聞けば、「Musicoなどとは呼ばないし、どうしても言わねばならない時は(皮肉を込めて)Musicianと言うね!」という答えでした。英語圏の音楽家に対するキューバ優位の自尊もあるのでしょうけど。
キューバ贔屓かも知れませんが、これを合わせて考えると「Corazón」の数多くの誤用も、単なる「大げさ」や「美化」ではなく、(むしろキューバではいまだにそれらは馬鹿にされると思いたい。※)「(深みと本物志向を持った)洒落っ気」と思えてなりません。

(※)否、むしろラテン圏は「大げさ」は得意。しかし何か微笑ましいし凛々しい。日本のようなハッタリや姑息さが感じられない気がする。
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「それに対して日本人と来たら、もっぱら『大げさと美化』なのだから」と迄言ったらキューバ贔屓も度が過ぎると叱られそうですが、実際、日本人の語法で「より深くなった」というものがあまり思い当たらないのも事実です。そこに加えて、「別系統だが同じように誤用・好き勝手がまかり通る英語」を、正しく直すなどということがなく、更に「誤用・好き勝手」に訳して混用するものですから、日本に於ける「精神世界の語彙」は、世界で一番混沌としているかも知れません。
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尤も、私の「キューバ・ソン音楽」の十八番である「Corazón de Chivo」の「Chivo」は、「仔山羊」ですが、私が子どもの頃日本でも流行ったチャチャチャの名曲「Corazón de Melon」が「メロンの気持ち」なので、初め「仔山羊の気持ち(心)か」と歌っていました。私は世界中の曲で、まず歌詞をローマナイズで学び、数年歌い込んでから「単語の意味~歌詞の意味」を詳しく学びます。日本語の意味を早々に聞いてしまって、「意味も知らずに聴いた時の第一印象」を(日本語の観念で)壊したくないからです。
「仔山羊の気持ち」の歌詞を聴いてびっくりしました。
なんと「俺の親父が生まれ育った東部にや、いまだに音楽だけは勝てないね!。だけど親父たちの飯の趣味は頂けないぜ!仔山羊のハツの煮物なんか喰ってみろよ、ありゃあ喰いもんじゃねえ」という歌詞です。数年歌い込んだ後でしたから、今更歌い方も変わらず。むしろ「西の外れの首都で、東部産の音楽『ソン』を演っているフリークたちの心情」が分かってノリも一層よくなった感じでした。その代わり、それ迄「Corazón」という言葉を聴いたり歌ったりしている時、思わず「うっとり気分」だったのが、すっかり冷めましたが。

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152、アーユルヴェーダ音楽療法入門14(そもそも精神世界とは? -その1-)

「精神世界」という言葉は、いったい何を意味しているのか? 極めて多種多様な解釈があります。しかし、最も基本的な解釈が「人間の内面世界(心と思考)と、それに関わる形而上(宇宙や自然の神秘、神々のことを含む)のテーマの総称であり、フィールドである」である、ということには異論はないでしょう。
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1、「精神世界の語彙」の問題点
精神世界関連で用いられている言葉は、宇宙、神々、自然、人間、その心・思考・精神を分かる上で、極めて重要な言葉たちです。にも拘わらず、いずれも論理的な定義=概念が定まっていないため、「人によって解釈がまちまち」というトンデモないことが当たり前のように(百年以上?)続けられて来ました。以前にも述べましたが「感じた、思った、想った、考えた、悲しい、哀しい」の区別が無い人や誤用している人が現代社会人の大半を占めてしまった原因のひとつにもなっていると考えられます。
ところが、「心の琴線に触れる」「心に響いた」「心が折れそう」「魂の叫び」「腑に落ちた」などは、人それぞれの解釈で用いられているにも拘らず、「深み・重み」は、ほぼ共通の感覚で感じていることは明らかで、通常よりも大げさに言いたい時に「心」を持ち出し、「魂」は、その最上級でありながら、何処かで「日常的な感覚(自覚や意識)=Ahamkara」とは距離があることを示唆しています。「魂」に感じる距離感は、「意識出来る自分の人格とは少し別なもの」と、まるで正解が分かっているかのようでもあります。つまり、殆どの人が「なんとなく分かっている」のです。そして、洋の東西を問わず、より昔の人は「より正しく分別していた」ということは様々な文言から察することが出来ます。
では、何時頃どのようにして、この重要な定義が曖昧にされ、各自の好き勝手や誤用が生じるようになったのでしょうか。
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2、「精神世界の語彙」の誤用の例 (権力者の恣意?)
今回の図の中心にならぶ二つの「四重円」は、何度もご紹介しているもので、右が「元来の人間の精神構造」で、左が「現代人の多くに見られる精神構造」です。今回はそれに対し、昔からよく言われる言葉が何をどう意味・意図しているかを示しました。

まず、左端の「Frontier Spirits」は、日本では「開拓魂」と訳されますが、直訳では本来「開拓心」と訳すべきものです。
そもそも、古今東西で言われる「心は本来純真で無垢なもの」という観念を基本に考えれば「開拓心」という語法はおかしなもので、それを言うならば「向上心・克己心・自制心・疑心、愛国心、探究心、などなど」もほぼ誤用と言えます。何故ならば、「心=純真で無垢」という観念と「社会性」は、或る意味相反するからです。
従って、「向上心・克己心・自制心・疑心」などは、「向上志向・思考/克己志向・思考/自制志向・思考/疑い志向・思考」と言うのがより正しく、「Frontier Spirits」もまた、正しくは「開拓志向・思考」とすべきなのです。勿論、私とて、今更そう言い直したりはしませんが。
言い換えれば、「本来(誰もが大人になっても)純粋で無垢で子供のようであるの『心』」に対し、「理性・理念・道徳」という社会的圧力が掛かり、「心かくあるべき」的な観念が強要されている、と見ることが出来るのです。
分かり易く言えば「為政者(権力者)は、民衆の意識を操作したい時に『心』を用いて洗脳する」ということです。その証拠のひとつに「疑心」は、例外的に存在しますが「厭世観、劣等感、優越感、満腹感、不信感」などは、「厭世心、劣等心、優越心、満腹心、不信心」には変えられて来ませんでした。
その理由は、それらの語彙がいずれも「アテにならない、一過性の場合も多い、社会の制御に役立たない、個人的過ぎる」などであることは明らかです。
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同じような恣意を見るならば、「魂」に関しての慣例はより一層顕著です。まず、「Frontier Spirits=開拓心」を日本では「開拓魂」と訳します。これを「大和魂」と並べて論じると、集団のリーダー(開拓団のリーダーから国家の最高権力者まで様々な)の恣意がかなり見えてきます。「開拓心」や「大和心」とすると、なんだか「移ろい易い」「アテに出来ない」感じがしますし、「個人的」であり「個々で異なる」可能性が感じられ、「大儀の為に我心を捨てて団結し奮闘すべし!」という時には不向きだからです。
もし古今東西の人間たちが、「自らの心・精神世界を大切に思い、常に向かい合い。それらに対する外界のよからぬ作為に対しては毅然と立ち向かう。その判断をより正確にするための論理的思考を鍛えている」ならば。
「『向上心・克己心・自制心』??なんだそれは!? 『心』は誰にもあれこれ言われず手出しをされない俺様の(子供の頃から何ひとつ変わらない)純粋で無垢な宝物だ! それを言うなら『向上志向・思考、克己志向・思考、自制志向・思考』と言え!喜んで持ち、高めて見せるさ!」
「『大和魂? 開拓魂?』??なんだそれは!?『魂』は、神から預かった「前世の心」だ!それを集団とその目的の為に同一化・統一するなんて、あり得ない!」それを言うなら「大和志向・思考」「開拓志向・思考」と言え! 喜んで持ち、尽力してやるさ!」
のような根性があれば、みすみす「心かくあるべき」「魂の共有」などという狂った観念(単なる語法としてであっても)を刷り込まれることはなかったのです。
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その一方で、私たち一般庶民が「精神世界の言葉」を誤用してしまうこともあります。

例えば、良く言われる「素直な心」「心にしみる」「心が折れる、折れそう」など、加えて「心が荒む」「心が乱れる」「心がざわつく」「心から願う」「心から詫びる」はいずれも、「遠からずとも当たらず」です。
何故ならば、「純粋で無垢な心」は、「私たちの中に今も居る子供の時の自分」であるとするならば、その「外側」にある「論理的思考領域の私」と、更に外側に居る「気分・感情領域の私」は、「奥底に居る子供の私」の両親のようなものだからです。
従って、「社会や外因との対峙」は、基本的に両親が行い、そこでの「世知辛さ」「面倒事」「喜怒哀楽」は、子供にまでそうそう届かない筈なのです。しかし現実世界でも「親が不在」「居るけど頼りない」などの場合、子供に直接利害が及ぶことがあるように、「精神世界」でも同じ様なことが起こり得る訳です。故に「遠からずとも当たらず」なのです。
言い換えれば、「本来子供(心)に不要なもの、害なものを届かせるようでは駄目親だ」と考えれば、「心が折れる、折れそう」「心が荒む」「心が乱れる」「心がざわつく」などは「駄目親」を吹聴しているような言葉ということになります。
一方で、「心から願う」「心から詫びる」は、「子供の願い、侘びか?」というと、流石にそうではなく「純粋に無垢に、本当に」という意味で、確かに成り立ち得る語法と言えます。ただ、基本的に前述したような「駄目親的な『気分感情』と『論理的思考性』の人」の「心から願う、詫びる」は、如何なものか?とも言えますが。

感情領域と思考領域が駄目親的であってもなくても。いずれにしても私たち庶民は、とかく「大げさに言いたがる」とか「美化したがる」傾向にあります。
その結果「感じた」よりは「思った」の方が、「思った」よりは「考えた」や「想った」の方が、より深い・真面目・本当っぽい、を習慣的に選択しかねないのです。
尤も最近では「とうとう居直ったか?」と呆れを通り越し恐怖さえ感じさせる若者も現れ始め、およそ全てを、むしろ「感じた」で済ませる、ある意味正直ですが、(駄目親を恥じないどころか、思考しないことさえ恥じず)臆さない姿が見られます。
いずれにしても、私たち庶民のいささか姑息な「大げさや美化の習慣」と、「権力者の恣意」は、対立せず。都合よく相乗効果をもたらして、「大切な言葉を曖昧にし、互いの誤用を許し合う」ということを何十年、何百年続けて来たということなのです。

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151、アーユルヴェーダ音楽療法入門13(宇宙からの音)

スピリチュアル・インド雑貨のお店:シターラーマさんのご好意で連載させていただいております、このコラムの記念すべき第一回目で概略をお話しましたのが、「インド科学音楽(Shastriya-Sangit)では、楽器の音も人間の声(声楽)も、全ては『宇宙の波動:Nada』を受信したものである」という絶対的な基本についてでした。今回は、連載第一回目より一歩掘り下げたお話をしたいと思います。
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今日でも、インドの音楽院などで「インド音楽の楽理や歴史」を学ぶと、必ずこの話「楽器の音も人間の声(声楽)も、全ては『宇宙の波動:Nada』を受信したものである」が最初に登場します。
しかし「口先だけの空論」と言っては叱られますが、実際のところ、数千年の間に、インド古典音楽は「科学音楽」から「芸術音楽」に徐々に変貌し、後者に於いて「人間に聴かせる」という観念が台頭するに従って、「音楽=宇宙との対話」という観念が廃れて行きました。従って、音楽院などでのレクチャーは「お決まり・通過儀礼的・有名無実な話」と言わざるを得ないところもあります。
しかし、「鑑賞芸術音楽としてのインド古典音楽」ならばいざ知らず。「音楽療法」の場合、この基本から見直さない限りは、やはり「本末転倒・仏作って魂入れず・実も蓋も無い」ものになってしまいます。何故ならば、「宇宙との対話」の中で得た叡智は、「聴衆との対話」の中では、殆ど活用されない。それどころか、むしろ「邪魔な知識」になるからです。
………………………………………………………………
古今東西で、心ある音楽家にとって、「自分の信じる音楽・目指す音楽」と「聴衆の評価(好反応・盛り上がり・素人ものさしの批評)」は、得てして「諸刃の剣」で、前者を優先すると(最高レベルの音楽家のことですから、単なる「独りよがり」のレベルではないことは言う迄もありません)聴衆が引く・ノラない・冷める・しらける。後者を優先すると「その場の満足や楽しさ」は、聴衆のみならず音楽家自身も得るでしょうけれど、何処かに「後ろめたい・罪悪感や自己嫌悪」のようなものが拭い去れないものです。ある種「芸術家の永遠のテーマ」とも言えます。
これを「心ある音楽家」と述べたのは、昔(戦中=即ちインドの場合王国時代生まれ)の音楽家の場合、「後者に偏った演奏=大衆迎合=恥ずかしい、みっともない、下品、せこい」という「プロの目(評価)」があったからです。それをせず慎むのが「心ある音楽家」であり、「伝統、流儀、品格、重み、そして『音楽の在るべき姿』を守ることを優先している姿です。そうでない音楽家は「利己的・自分の俗的名声を欲し、守るべきものを遺棄する姿」であり、大いに軽蔑されたものです。
しかし、彼のインドでさえも、1980年代辺りから急速に変貌し始めました。そして、今日では、世界中でおそらく誰もがそう思って疑わない(かも知れない)「音楽って楽しむためや癒されるためのものでしょ?」という価値観が定着しつつあります。よって、最早今日、前述した「後ろめたい・罪悪感や自己嫌悪」などの感覚を「全く抱かない」音楽家ばかりかも知れません。
もしかしたら世界で「そうじゃないんだ!」と説いているのは、このシーターラーマさんでの私のコラムだけかも知れません。
(『西洋クラッシック音楽は違うだろう!』と思いたいところですが、有名なショパン・コンクールなどでも、日本人が上位入賞する頃から、「表面的な技巧が優先されるように変貌して来た」と嘆く人(海外に多い)も居ます。)
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しかし、「アーユルヴェーダ音楽療法」に於ける音楽は、そのような「楽しみ・癒し」の音楽では決してないのです。そう言い切ることが出来る根拠は、「体のアーユルヴェーダ」の「薬学」に於いて明言されていることが「心のアーユルヴェーダ(Mantra/Yantra/Shastriya-Sangit)」に於いて「無関係」の筈がないからです。(むしろ「全く同じだ」と言いたいですが、日本でも増えつつあるアーユルヴェーダ関係者でそう言っている人は皆無のようにも思えます。)
「体のアーユルヴェーダの薬学」に於いては、「薬(生薬)」の「味と効能」は、「通常意識=Ahamkaraの味覚(舌先で感じる味)」と「体(臓器や細胞)が感じる味」は「全く別物である」という基本があります。それはアーユルヴェーダ以外の東洋医学でも、アジア・アフリカ・アメリカ大陸(先住民族)の民間療法でもある程度は共通して言われています。(アーユルヴェーダ程論理的な体系を構築していませんが)
例えば、「夏野菜」の多くは、暖めようが、油で揚げようが「体を冷やす効果」があるような話しです。もちろん、実際に冷たいもの(カキ氷など)を食べれば、「口先~食道~胃」を通る間に一時、体は冷やされます。しかし「アーユルヴェーダ薬学」などで説いているのは、その成分が「消化吸収・代謝」された際に「どう効果するか?」というテーマです。これは「暖める・冷やす」のみならず「pHの上げ下げ」「対峙する二系列の自律神経系への作用」などもあります。
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本題の、「インド科学音楽(Shastriya-Sangit)では、楽器の音も人間の声(声楽)も、全ては『宇宙の波動:Nada』を受信したものである」という絶対的な基本には、実は、しっかりと論理的に考え理解すべき二つの大きな課題があります。
ひとつは「宇宙の波動」は、それこそ「無限」とも言えるだろう程の種類、バリエーションがあり、それには「有害なもの・無害なもの・有益なもの・無益なもの」などが混在している、ということです。それは、宇宙のほんの一惑星に過ぎない地球上にさえ、膨大な種類の生き物が生息していることと同様の神秘的なテーマの「宇宙サイズ」の話です。
そして、この「有害なもの・無害なもの・有益なもの・無益なもの」は、「受信者の日々の体調変化によっても作用・結果が異なる」ということがあります。従って、「Ahata-Nada(宇宙の波動:Anahat-Nadaを受信して、楽器や肉声から発せられる音。動物や鳥は自然に最善のそれが出来るらしい)」の達人でさえも、日々、瞬間に異なる「宇宙の波動」や「その乱れ」の中で、「最善のものを最適に」受信し変換することは極めて困難な技である、というテーマです。
もうひとつの課題は、この「宇宙の波動Nada」がヨガと瞑想でも語られていることとの照合です。ヨガと瞑想では、「宇宙の波動」は「Purana(気)」と呼ばれますが、本来は「Nada」であったことは、「体の中の経絡をNadi(Nadaの通り道)」と呼んでいることでも明らかです。「波動・気」を取り込むことの関連とも言えなくない「呼吸法(Puranayama)」との混同や説明の便宜上、何時しか「プラーナ」の呼称が一般化し、またその取り込みも(分かり易い)「呼吸」に限定される方向に至ったのでしょう。
同時に、「宇宙の波動の享受」も、「チャクラを通し第七チャクラで宇宙と連結する」という「個々の人間本意」のイメージに偏り、宇宙から常にあらゆるものに降り注ぐ「波動」を「如何にして受け止めるか?」というテーマが希薄になっています。
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実は、この二つの問題は同源同義でありながら、互いにそれぞれの理解を阻害している面もあります。前者(科学音楽に於ける宇宙波動の享受)の問題点は、「何故直接受け止められないのか?」という点であり、後者(ヨガ・瞑想に於ける宇宙波動の享受)の問題点は、「何故チャクラを開かないと繋がらないのか?」という点です。
後者を言い換えれば、「人間は普通にしていても、正しく波動を受け止めることが出来ない」ということであり、そもそも「波動は人間のどの器官(Indria)で享受するのか?」ということが謎のままなのです。
それは単純に第七チャクラではないことは明らかです、「七つのチャクラ全てが開き・滞りなく通じること」が不可欠だからです。つまり「稲妻」のようなもので、「七つのチャクラが開き、全てのナーディが滞りなく通じている」ことの他に、第一チャクラで地面の電極に接していなければ通電しない、かのような話です。
チャクラを整えることで体中のNadiとチャクラが立派な受信器官となるのですが、ヨガや瞑想は、そのテーマやその先のテーマをほとんど説かず「意識を宇宙と繋ぎ・宇宙に飛ばす」というような「現世からの逃避」的なテーマに大きく偏っています。(ヴェトナム反戦運動時代から定着した感があります)。これは極めて深刻な問題で、私の心の師(間接的には孫弟子とも言えますが)ヴィヴェカナンダ師が言い続けながらも、側近や共鳴者さえも充分に理解していない(理解しているからこそ歪曲した人も含め)テーマでもあるのです。
私が特筆したいヴィヴェカナンダ師の言葉は「論理は信仰の敵ではない。むしろ最大の味方である」というものです。これは私が何度となく図解(Yantra)で説いています「精神世界の構造」と「樹木に喩えた精神性」と同じテーマです。「論理的であること」は「理屈っぽい」でも「理性的」でも「理論的」でさえも全くなく、「樹木の幹~根っこの視座で物事の全体像を俯瞰し、より深く理解すること」に他なりません。それによって精神的に「地に足が着く」「大地に根を張る」ということが可能になるのです。
「地に足が着く」「大地に根を張る」という言葉を臆せず語る人は少なくありませんが、「枝葉感覚・価値観」と決別していたり、決別せずとも制御出来る論理的思考力を持った上でおっしゃっている方に、残念ながらまだ出会えていません。(意外にTVによく出ている老(という程でもないが)若男女で三名ほど、「あっ!この人は素質あるかも!」という人が居ますが。)
「論理的思考力の構築によって地に足が着く・大地に根を張る」ことに、ヨガによる「体のゆがみの修正と呼吸法の改善」が加われば、私たちの体は、まるで「避雷針」のように、「天と地(BrahmaとPritvi)」が通電した中に置かれ、立派な受信機となる訳です。
この段階に至れば、「波動を受け止める人間の器官は何処か?」は、最早愚問に至ります。宇宙(天)から降り注いだ波動が私たちの頭頂部の第七チャクラから下方へ進み、第一チャクラから地に至るであろうと、逆であろうと。
そもそも私たちの体から大地(地球)に抜けた(通じた)後、それは地球を貫通して行くのでしょうから。
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しかし、それでも尚、「無限の種類の波動をどう選択するのか?」という課題と、前述した「避雷針のようなチャクラ・ナーディ受信機」で体(無論心・精神もですが)を貫通させただけで、「心と体」にどんな効果効能があるのか?という課題が未解決です。
そこで「同じNada」を科学音楽(Shastriya-Sangit)がどう解釈し説いているか?が重要な鍵となるのです。詳しくは、このテーマの第三弾(一二年後?)になりますが、搔い摘んで述べますれば。
科学音楽にのみ存在する論理性(古典音楽にも片鱗はありますが、論理的には理解されていないことがほとんどです)によって、「波動を選択する」ことと、「論理的思考のフィルターによって心と体の必要部位に届けられる」ということによってのみ、前述の「未解決の課題」が理解(納得)されるのです。

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150、アーユルヴェーダ音楽療法入門12(ヤントラと音楽療法1)

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視覚に訴える叡智
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ヤントラは、図象ですが、ある一定の法則に則ったパターンが応用されています。
マントラが、そもそも「考える」がテーマであったように、ヤントラもまた「見れば良い」ということではありません。

ヤントラもまた、「視覚~直感領域~運気」だけでなく、「視覚~論理思考領域~消化吸収代謝」でも受け止めているのです。良く言われることに「目をつぶって、ヤントラの残像が残るくらいに見る」ということが大切であるとともに、「剣道」と一部の「碁や将棋」で言われる「遠山の目付」の感覚も不可欠です。

この叡智は、西洋にもありますから、ヒンドゥー教より古いことは勿論、ブラフマン教よりも古くから存在した叡智だと考えられます。

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大切なことは、「論理思考による理解」と「論理思考的な直感による享受」が揃っていることとバランスがとれていることです。

前者は、一見しただけで、「何処にどのような色が用いられており、その定型の意味は何か?」「三角形と四角のバランスはどうか?」「蓮の花弁の数は幾つか?」というものが、厳密に見ずとも「頭に入る」ような感覚です。「論理思考」は、「難しく考える」ということでは決してありません。

後者は、前者に似ていますが微妙な違いが大切です。それは前述の「遠山の目付」のような感覚で、「全体把握能力」で、受け止めるものです。

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インド文化ファンやヒンドゥー教に強い関心がある人でも、古代インドの叡智が極めて論理的であることを充分に理解している人は、残念ながら少ないと想わざるを得ません。

そう判断する根拠は沢山ありますが、それはさて置き、
古代インドの叡智が何故「論理の塊のようであるか」ということについて、改めて述べたいと思います。

ひとつには、「用語が極めて多いこと」にあります。これはひとつ音楽をとってみても、古代インド音楽と、源流を同じくする古代ペルシア音楽とその後継者たち(アラブ古典音楽とトルコ古典音楽)ほど、音楽理論用語が多い音楽は世界に類を見ません。
西洋クラッシック音楽も、バロック時代の音楽や、バッハなどは極めて論理的ですが、中世に伝わったアラブ古典音楽の論理面を継承している要素が多く認められます。

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異なるジャンルが不思議にリンクする訳
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もうひとつが「ヤントラ」に大きく関わることですが、ひとつの物を説明する時に、世界の他の文化ではまず語らない全く異なる次元のものを組み合わせることです。

音楽でいうならば、「ドレミ(SaReGaMa)のド(Sa)の音は、孔雀の鳴き声から生まれ、人間に喩えると老人であり、色はピンク」といった具合です。

世界でも神話的に「生き物の声から」位迄は、語るところもあるかも知れませんが(それさえも無いかも知れません。私の寡聞かも知れませんが)「色は○○」「人間ならば○○」は、常識的に考えても「意味不明」と想う人が多くて当たり前でしょう。

しかし、古代インドの叡智は、よろずに関してこの様子なのです。これは中国にも伝わり、インド産の叡智をことごとく自己流に変換してしまいがちな中国では珍しく継承されていると思われます。

現代では、中国人の生薬薬剤師さえ理解出来ていないとも言われますが、そもそも中国医療の根幹は「弁証論治」であり、これを学ばんという人は、「論理学」を徹底的に習得しないと訳が分からない代物です。

その結果、今日ネット上に溢れる漢方薬局のサイトでは、殆ど中医・漢方弁証論治を無視して「○○に効きます」と、まるで「西洋医学・局所対処療法」のように謳って、売らんかなです。

「ドレミのドの音はピンク」という感覚は、「論理」の他に「悟性学」を学ばないと納得の域には到達出来ません。

故に、インド現地の音楽家も、自称アーユルヴェーダ音楽療法師も、「ピンクである根拠」は説明出来ませんし、しつこく尋ねれば「そう言うもんだ!」「それを問うならば、お前の名前の根拠は何なのだ!」と問い返されるか、かなり機嫌が悪くなることは必至です。

しかし、人間社会は、その歴史の中で、特に西洋では「悟性」は、中世以前に葬り去られ、キリスト教の理性に置き換えられ、論理の賜物である概念も、近代の合理主義と結果論によって淘汰され、観念論に置き換えられてしまいました。

中国は、前述のように、「大概のものを後に自己流に替えてしまう」とは言え、唐代頃は、極めて正確に朝鮮半島と日本に伝えていました。なので、日本の伝統的なものの中には、インド由来の論理に富んだものが少なくありません。

しかしながら、現代人の多くは、前述しました「感じた/思った/考えた」の区別をしないだけでなく。漢字の「悲しい/哀しい」が区別出来ない・しない。「嫌いの反対語を好きだと思う」などがまかり通っています。

かつては漢字の多くが「表意文字」で、それらはいずれも極めて論理的だったのですが、近現代中国では全くその面影さえなく、朝鮮半島はハングルになってしまいましたから、激減したとは言え、日本が最もその伝統を継承しているとさえ言えます。

驚いたことに「ゆとり世代」の私の受講者の或る人たちなどは、「貴方のおっしゃる『哀しい』は、『悲しい』ですね!」と言えば「何でそんなこと!誰が決めたんですか!」と言う人が居るかと思えば「私は私の使い方で使っているんです!」とか「悲しいの字は嫌いだけれど、哀しいは嫌いじゃないから」と平然と言う人が少なくないのです。

そのような人に「悲しいはブルーだが、哀しいはグレーやオレンジ」などと言っても「それは先生の感覚でしょ?」としか思われないことでしょう。

この叡智の源泉であるインドでも、サンスクリットの段階では、「寛容的な発音が原点」の文字・言葉のみならず、論理的な意味で、同源の文字を踏襲して用いるなどが多く見られましたが、近現代では、ヒンディー語風に替えられているものも少なくないようです。

いずれにしても「ヤントラ」を目に焼き付け、脳裏に焼き付ける時には、その形の他に、色彩の微妙な違いまでも、悟性で理解し摂り込むことが不可欠なのですが、近年、それを説明出来るインド人も激減しているだろうことが懸念されます。

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149、アーユルヴェーダ音楽療法入門11(マントラと音楽療法1)

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Mantra・Yantra・Tantra
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このシーターラーマのファンの方々には、今更言う迄もありませんが、ヴェーダとその関連の叡智には「Mantra」「Yantra」「Tantra」といった似た様な言葉があります。
大雑把に言えば「Mantra=耳で聴く叡智」「Yantra=目で見る叡智」「Tantra=秘技・科学」というような感じですが、勿論深く突き詰めれば極めて奥が深いことも言う迄もありません。

Vol.145で用いた図を今回も引用しますが、
「音楽・芸術」などは、「直感領域」で受け止め、そのまま、「個々の人間の精神世界(分野)」の「運気の流れ」を円滑・潤沢にするとともに、その流れに乗って「心と体」を巡って行きます。

勿論「論理的思考」を介しませんが、
これ迄に述べて来ましたように「気分感情領域」「論理思考領域」「心の領域」が
明確に分別された「本来の健康体」でなければ、

「直感領域」もまた、極めて病弱であることが少なくないので、
「正しく運気を促し、曲がれて行く」ことが望めないことも言う迄もありません。

それ以上に、そもそも「病んだ直感」に正しい審美眼がある筈もなく、
胃潰瘍のなり掛けに逆に刺激物を欲しがる(痒い時に掻きむしりたくなると同源同義)
という最悪の行為をしてしまうことと同じように、

「安直で短絡的で幼稚な大衆迎合芸能」を
「感動した」などと感じてしまうことは良く見受けられます。

他方、「文字、文章、言葉」は、
「言霊」として、上記の「直感領域」でも受け止めますが、

「体の臓器」に喩えるならば「胃腸」に相当する
「個々の人間の精神分野」の組織で受け止められ
「読解力の胃の力で細かく砕かれ」「整理・分析の小腸で選別されながら吸収し、
論理分析の肝臓で消化され」る方向に進みます。

つまり「精神分野の胃腸と肝臓、そして腎臓」は、
紛れも無く「論理思考領域」に存在するのです。

このことは、「Mantra」の字義にも明確に現れています。
異説もありますが、一説には「Man=考える+Tra道具」とも言われ、

単純に「聴けば御利益がある」というものでもないのです。

これが、現代人には中々説明しづらいテーマですが、
前述の「直感領域」で受け止めるべきものであっても
「論理思考のフィルター」が健康な人とそうでない人とでは、
大きく異なる事実と同様に、

「言霊」として受け止めても、
フィルターが不偏的で正常に働かない限りには、
「運気」の流れに潤沢に乗ることは出来ない訳です。

……………………………………………………………………………………………….
マントラの不思議
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また、マントラの基本である「OM(真言)」は、一文字でも示されます。

同様に七つのチャクラのシンボル(アイコン)も、
ヤントラとの或る種の境界領域にある「目で見る文字・象徴」でもあります。

そして、マントラで最も重要なことは、その音(発音)と意味が一体化した力が、著間領域のみならず論理思考のフィルターを通って「消化吸収」されることにあります。

ただ、このような話しを懐疑的に聞く友人などは「そりゃあインド人にはインド語だから意味があるのだろうが、日本人や欧米人には異言語なのだから意味も効果も無い筈だ」と言います。ところが、不思議なことに、マントラは異言語の人間にも同様の意味と効果があるようなのです。

科学的にこじつけようとするならば、それは「独特な周波数」かも知れませんし、
そもそも「特別な力を持つ言語」は、異民族にも同様の力を持ち得るのかも知れませんし、言語の源流から考えると、少なくともヨーロッパ人と日本人には効果があるかも知れないのです。

この最後の仮説(と言う程のものではありませんが)は、不思議なことに中国人、アラブ人には「通じないかも知れない」という理屈にも通じます。

……………………………………………………………………………………………….

そもそも「日本人と言葉」は、明治維新以降信じ込まされて来た「音/発音」では理解し切れないものがあります。

日本語は、「ん」以外の子音は、全て母音を伴う、と教え込まれますが、
学生時代の親友は山形弁が抜けない人でしたが、彼に教わった郡部の発音には目の鱗が落ちました。

「これを食べなさい」を「こえずくえず」と言うのですが、「こえ」と「これ」は、東京もんには殆ど同じに聞こえるのですが「こ」の子音は全く異なるものなのです。
つまり「母音の無い発音」であり、「子音もカ行だけではない」ということです。おそらく「こ+え」という子音と「こ+れ」という子音なのです。
強いて言えば
「こえずくえず」は「Qoe(という子音で母音無し)+Zu Kue(という子音で母音無し)+Zu」
だろうということです。

また、意外に言われていないことですが、
関西人の「カ行」は、「K」より「Q」の発音に近い筈です。

その根拠は、「Milk-Tea」の発音で分かります。
関東人は「Miluk-Tii」と発音しますが、関西人は、「Miluqu-Tii」と発音しています。

福岡に移転して、直ぐに気付いたのが、「ね」と「に」の間の発音でした。
おそらく九州人の殆どが気付いていないと思いますが、
「暑いですねー」が「暑いです(ね+に)ー」になる地方の人が居るようなのです。
(まだ何処の地方か判定出来ていませんが)

このように、
そもそも日本語も52音ではない上に、「母音を伴わない(まるでインド・ヨーロッパ語属のように)発音」もかなりあるのだとしたら、

「本来の聴覚と感受性」に於いては、サンスクリット語も決して異なるものではなかった可能性が考えられるのです。

ただ、繰り返し言いますが「論理思考のフィルターが無い」「気分感情領域と思考領域と心の領域に境目・分別がない、「機能が破壊されている」などの場合で、

上記の「ミルクティー」の違いに「気付かなかった」「同じだろ!?」とか、
「どうでも良い」「心地良く癒されればそれで良い」というような人には、

マントラもまた、耳障りの良いイージー・リスニングに過ぎないのかも知れません。

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(文章:若林 忠宏

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148、アーユルヴェーダ音楽療法入門10(瞑想と音楽療法3)

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人間の三つのタイプ
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今回は、前回も図だけご紹介した「人間の三つのタイプ」の解説から始めます。

それぞれに共通する薄い黄色の縦楕円とその中の構造は、私たちの「生命と存在(実在)」を支える「臓器・経絡・細胞・有用細菌たち」を現しています。

それぞれの左肩にある二重円は、「魂と心」であり、それは「思考と気分感情」とは別物です。今迄に紹介した図では、後者は前者の回りを取り囲み、「論理的思考があればこそ、心と魂は外因に反応した気分感情の悪影響を受けずに守られる」と説いて来ました。

本図では、
その「論理的思考の外堀(城壁)」が欠落している左右図に派描きませんでした。

左右のタイプでは、「気分感情」は、「体の実存」と「魂と心」から分離して、それぞれ上方に描きました。

左のタイプは、「論理的思考」が殆ど退化してしまい、全てが「気分・感情」になった人の様相です。

かねてから「独裁国家の元首のようだ」と説いて来たように、明らかに「臓器・経絡・細胞・有用細菌たち」の存在によって、頂点(体の最上部)に君臨し、自覚出来る意識を持って居るに過ぎないにも関らず、

、「自我意識=自分の全て」と勘違いしている「独裁君主」そのものです。

従って、独裁君主が国民を顧みないと同様に、そのような意識(Ahamkara)は、「臓器・経絡・細胞・有用細菌たち」のことを真面目に考えているとは言えません。

幾ら「無農薬、無化学添加物、良質の食物や水」に執着したとしても

「文字、文章、言葉、音楽や芸術」にもそのこだわりを適用していない以上、
中途半端と言わざるを得ません。

中央のタイプは、上記で「魂と心を守る城壁」としました「論理的思考」が、
「体全体・心精神全体をも守っている」ことを示しています。

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実存を否定する危険な「瞑想法」
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より深刻な問題・状態は、右のタイプです。

元々は、左のタイプだった人が、何らかの方法で、或る種の瞑想を続けた結果、「個性」は勿論、「自我」のみならず、「実存」さえも失ってしまった状態です。

これは第七チャクラのひとつの機能に「Spiritual領域」があり、それが「実存」を支配してしまう状態です。その状態の手前の「実存からの逃避の過渡段階」も大いにあり得ます。

これは「アパシー」や「鬱病」が、外界との関わりを遮断するのと同じ「自己防衛」が異常に亢進した状態であるだけでなく、自らの「臓器・経絡・細胞・有用細菌たち」とも乖離してしまうもので、或る意味「意識の死=脳死」と同等の状態です。

かれこれ30年以上前のことですが、私のかなり親しかった友人が、或る種の瞑想を試みて、この段階に至ってしまい、アルコールもドラッグも用いないのに、突然冬の真夜中に井の頭公園(都下吉祥寺の恩賜公園)の池の回りを走り出し、「熱い」と言い出し全裸になり、やがて「寒い」と言って最寄りの民家に押し入って「寒い!」と言って警察を呼ばれた人が居ます。

同じ頃、私も「準臨死体験」を経験しました。Ahamkaraが殆ど消滅する朦朧とした中で、「なんだ、人間って簡単に死ねるんじゃないか」と知ったことだけを記憶しています。

この第七チャクラの或る機能は、言わばミトコンドリアの中のアポトーシスのスウィッチのような自爆・自沈装置なのかも知れません。

何年もの間、正しい指導による正しい修行を段階的に積み重ねて、アシュラムのような場所で、他のヨギの見守りの中でなら、
(もしくはどうなったとしても回りに誰も居ない森林や山頂でなら)まだしも、

社会人として存在する人が、社会の一角でこれを行う意味があるのか?
そもそも目的は何なのか? を厳しく自壊すべきです。

問題は、この特殊な瞑想法には、都合の良い「中途半端な過渡期」がある、ということです。

しかしそれも90年代に様々な事件を起こした新興宗教団体のように、自我意識を破壊されながらも実在が残り、その実在が様々なことに利用されるという哀しいシステムに組み込まれるのが殆どの末路です。(所謂マインド・コントロール)
……………………………………………………………………………………………….
そもそも、何故、海外の多くの著名人が「瞑想の効果」を高く評価するのか?

それは、特殊な「瞑想法(とその疑似体験)」を除いて、一般に指導されているものの殆どは、前回(Vol.145)述べたように「まとわりついた外因由来の気分・感情領域のリセットや除去」を目的としているからに他成りません。

図の右側のタイプの人の場合、「危険な瞑想法」だけでなく、それの中途半端ものも、その他の「瞑想法」も「自己逃避願望」が少なからずある場合、それは左のタイプよりも質が悪いと言えます。

その根拠は、左のタイプの場合、
或る意味「苦しみ」と常に向い合わせであり、

もしかしたら、その「苦しみの内容・愚かさ」に気付けば、
「苦しみからの開放」と同時に、「我が身(実存する臓器、細胞たち)」を真の意味で慈しむ人間に改められる可能性があるからです。

しかし、右のタイプの人間の意識は、「逃げる方向性」か「開放されてしまった」かであって、その先に、「自己」を取り戻したり「実存」と向い合うことはおそらくあり得ないからです。

……………………………………………………………………………………………….
左のタイプの人の「苦しみ」とは何か?
……………………………………………………………………………………………….

それは、Vol.145~146で述べたように「まとわりついた外因由来の気分・感情領域」それ自体に、当人が認識しているか否か?は別として、認識していなくても「苦しい」筈だからです。
それを説明する為に、今回もVol.145の四つの図を用います。

図の左上のタイプの場合、「自らの感情」である筈が、下二種のような「内発的」なものではなく、外因に反応する度に「喜怒哀楽」「一喜一憂」を感じなければ成らず、

突き詰めれば
「何処に私があるのだろうか?」「私とは何なのだろうか?」
と苦しまねばならないからです。

左上の赤い矢印と、下二図の青い矢印は全く逆の性質です。

実際「生き辛い」と漠然とした感情を常に抱いている人の殆どの原因がこの「反応で生きることの苦しみ」です。
私のセラピーの受講者のほとんどもこれが元凶にあります。

その結果、多くの「瞑想法」が、その「外因反応によって作り出されたHeart」を一時期的に忘却させることを目的としているのです。

確かに、「悩み・苦しみの原因」が取り除かれたような気になります。

しかし、「瞑想」のみならず、今日の多くのセラピー、カウンセリングがそうであるように、数ヶ月、半年で、まだ「苦しみ」がぶり返します。
人によっては、同じ方法では中々楽にならない場合も少なくないのです。

これは、「人間の体の炎症反応・アレルギー反応」と全く同じです。
健康体ならば、適切に「中和=無毒化」出来るものが、「外敵」として、執拗に攻撃し、炎症の飛び火、流れ弾が自らの細胞迄攻撃してしまい「自己免疫疾患」や「アレルギー」となってしまうのです。

それを解決する為に「ステロイド」という化学物質を用いて
「抵抗(攻撃)反応の力そのもの」を削ぎます。

一時は劇的に解決しますが、次第に利き目が悪くなるばかりか、
「自然な機能を破壊」し、様々な深刻な基本的な病気(変調)を来たしますし、
「化学物質の弊害」も深刻です。

しかし、現代の精神的疾患の分野では、
この基本的な仕組み(心関係の問題は体関係の構造と大して変わらない)ということを全く無視しているのです。

「瞑想」や「セラピー、カウンセリング」の場合、
化学製剤を用いない点で、ややマシかも知れませんが、
「機能(自然治癒力)」を駄目にするという点では見過ごせません。

私が敬愛する、彼のヴィヴェカナンダ師が、
「論理は神性・霊性の敵ではない。むしろ不可欠な道筋である(要約)」と説いていた理由もここにあります。

このような実状に於いて、唯一の救いかも知れないのが、
正しい理解をしている施術者による「ラーガ療法」です。

インド科学音楽のラーガの中には、正しく演奏すれば、「論理性」即ち図の右上のピンクの部分「Mind」を活性化するものがあるからです。

そして、この問題をきちんと理解している指導者による「瞑想法」も、
「アサギ色の気分感情領域」の内側にある「意識」との向い合いを促します。

しかし、四図の左上や下二図のように、「論理思考領域(Mind)」のみならず「心(Sprit)」の領域さえもが「(外因反応由来の)気分感情」に浸食されてしまっている場合、「内なる自分」を見たところで、「空洞」かも知れないのです。

従って、現代人の理想的な「正常機能の取り戻し方法」は、この三つ「正しいラーガ療法」「正しい瞑想法」「論理思考力復活」をセットで、入れ替わり立ち替わり行うべきであると言えます。

そして、次第に「論理的思考力」が再生されて来た場合、

「マントラ(言霊と意味)」「ヤントラ(視覚と思考)」の助けを借りれば、
急速に「本来の健康な精神」の再構築が期待出来るのです。

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147、アーユルヴェーダ音楽療法入門9(瞑想と音楽療法2)

今回も、前半の話には前回の図が必要です。

様々な目的と方法の「瞑想法」の殆どは、まず第一に左図の外側の浅葱色(アサギ色)の部分「外因に反応している気分感情意識AhamkaraをOffにすること」から始ります。

次の階層「思考領域」は、思考が正しく論理的であれば、「正しい行為(正しい瞑想)」はフリーパスで「心の領域」にむしろ誘うことでしょう。しかし、「思考領域」が「気分感情」に穢されている場合、かなり厄介なことになります。単純に考えても、ここでもまた、強力な瞑想法が必要になってくるからです。

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このことは「詐欺問題」と極めて類似しています。と言いますか、「同源・同義・同質」なのでしょう。

例えば、
(「詐欺」ではありませんが)「催眠術」などは、「子どもや素直な人が掛かり易い」と言います。逆に「掛かりにくい人」は、不思議にも「詐欺の被害に合い易い」と言われます。明らかに図の左側のような状態であることを示しています。

「詐欺被害に合い易い」ということは、詐欺師に言わせると「掛け易い人」で、

そのような人は、「内心に利己が強く、良い人間と思われたい自意識が過剰」なのだそうです。(1980年代私の店の常連さんに「自称詐欺師」という人が居て、いろいろ学びました)

これも左図のタイプに現れる典型的な性格です。

論理思考は、不偏的で不変的で、真の意味で普遍的なものですから、「Ego」を否定せずとも超越した感覚がある筈なのです。これは「理性」も超越しています。

つまり、「論理的思考」は、既に「忘我」の領域なのです。

不思議なことに、私は子どもの頃から「浮かれ易い」「連られ易い」性格で、自分の被害や苦しさ・悲しさでは決して泣きませんでしたが「もらい泣き」はしょっちゅうでした。

(自転車の二人乗りで、後ろに乗ってスポークにサンダルの足を挟んで爪が根元から剥がれた時でも泣かなかったことは何故か憶えています)

なので「詐欺師の格好の標的だろう」と思って訊けば

「君は一番やりにくいタイプだ」と言われました。

福大医学部の精神科医にも
「君は鬱病にはなりたくてもなれない」と言われたのと同じ意味かも知れません。

「詐欺師の格好の餌食」になり得る左図のタイプの人は、
第一に論理的思考力が極めて枯渇していることにあります。

「論理的思考」が堅固であれば「疑う」も「信じる」も、極めて論理的に考えられるので、「舞い上がってしまう」ということはないのです。

逆に、「本当の感動」などでは、素直に心が躍りますし、気分感情も盛り上がります。
「論理的思考」は、まるで生薬のように、「宿主(生命体の体と心)」にプラスのことはフリーパス。危険なことはブロックしてくれて守ってくれるのです。

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ところが、その城壁が崩れてしまっている人は、「感じる」と「思う」「考える」が区別・分別出来ない「総合体」で、懸命に「疑ったり」「こだわったり」「ころっと騙されたり」してしまうのです。

その「判断の根拠(ものさし)」には一貫性が全くないので、恐らく詐欺師にしてみれば「何度でも騙せるし、騙せば騙す程楽になる」のでしょう。

そのようなタイプの人に「嘘が嘘を呼ぶ」ことが多いのも、同源同質です。

内心か無意識にその「危うさ」を感じているのか知っているのか? 

そのようなタイプの人は、「心が休まる」ということは中々難しいのでしょう。勿体ないことです。

なので、危険度が少ない、安心度が高い友人や、仲間を大切にします。

(他者を大切に想うこと自体はとても良いことですが、理由に問題があります)

しかし、それでも心の奥底を見れば、「心底は信用していない」ということも少なくないようです。
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そして、多くの「瞑想法」が、この「本来の思考領域」で、苦難の壁にぶちあたり、

その辺りかその手前で、一過性の「安堵」を与え・味わって終わるこのが多いようです。

本来より正しい瞑想法ならば(危険な特殊な瞑想法を論外として)

「論理思考の領域」をフリーパスで通過して、
その奥にある「子どもの頃から何も変わっていない心」と対話し、
更にその奥の「魂」と出逢うことが出来る筈です。

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「心との対話」の段階では、臓器や細胞の声も聞こえるに違いありません。

そして、「魂との対話」で初めて、「宇宙の波動(Nada)」を聴くのです。

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146、アーユルヴェーダ音楽療法入門8(瞑想と音楽療法1)

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瞑想の意味・目的
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インド・スピリチュアルグッズ専門店の「シーターラーマ」さんのファンの方の中では、「瞑想に興味関心がある」どころか、何年も実践されて来た方が少なくないと思われます。

そのような方々には周知のことですが、「瞑想」と言ってもそのスタイル(方法)には幾つかのものがあります。

総論で分類すれば、現代の「瞑想」の多くは、20世紀後半にインドや欧米のYogiたちが苦心して「如何に現代人の意識を覆っている観念と自我を取り除くか?」と試行錯誤の末に辿り着いた方法論が主であると言うことが出来ます。

一方、中世インドでは、YogiやSwami(出家者/解脱者とする人もいますが)が、出家者ならではの「瞑想法とその究極の領域」も探求しました。

が、それは在家(今世に社会人として生きる私たち)には、果たして「有益」なのでしょうか? 実際「実存・自我の喪失=存在の抹消」の危険さえもあります。詳しくは、次回ご説明します。
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Vol.143でも紹介した、今回の図は、まず、図の右側が、本来人間が持って生まれた「意識と心の構造」です。

勿論科学的な証明派不可能ですが、世界中で古来から同じことが言われています。

アジア諸国では日本語の「気分感情~思考~心~魂」の順に奥深いと考えられ、欧米諸国では英語の「Heart~Mind~Spirit~Soul」の順に奥深いと考えられています。

概念としては確定していないがため。時代や説く者によって解釈は巧妙に替えられてしまいますが。

「魂の叫び」などが最上級の深みであることや、「心に響いた」などが、日常的ではない深い意味合いを持って語られることもまた、世界中に共通しています。
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また、「魂」に関しては、「輪廻転生」を信じないアブラハム系3教と東洋思想・哲学では解釈が全くことなりますが、西洋でもキリスト教の浸透(以外に東欧北欧の一部などは数世紀も遅れていたらしい)以前には輪廻転生を信じる宗教もありました。

「輪廻転生」を信じる場合、或る意味「魂は神からの預りもの」である訳ですから、「精神~心」の領域の外側近くでぶらぶら浮遊している筈もありませんし、頻繁に「魂の叫び」が聴こえる様でも困ります。

そして、現代人の多くが「感じた/思った/考えた」が混乱・混同していることから、気分・感情が内面奥深くにある筈も無ければ、論理的思考が外側の筈もないのです。

このようにして、ひとりひとりの人間の中の精神世界の構造は、自ずと図のような配置になるのです。

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古代インドの叡智:VedaとTantraでは、「配置図:Yantra」こそは明確に示されていない(残っていないだけかも)にしても、その名称「Ahamkara~Vidya~Chaitaniya~Prakriti」とその順番(価値)は明確に説かれていました。尤も、後世様々な宗派が異なる解釈を説いてもいますが。

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現代人の瞑想の問題と限界
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問題は、現代人の多くが何故、「感じた/思った/考えた」を混乱・混同しているのか?
ということです。

それは、外的要因(外因)に反応して生じる「気分・感情」に、「思考領域」が破壊され、「心の領域」迄もが浸食されているからに他なりません。

左図の「浅葱色(あさぎ色/薄い青と薄い緑が混ざったような)」の「気分・感情」に「思考領域」が完全に支配され、「心の領域」迄もが、「青色化」している状態です。

昔から言われる「心が荒む」の状態でもあります。
また近年良く言われるのが「心が折れる・折れそう」は、「心を守る城壁=論理思考」が欠如しているからに他なりません。
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逆に、「心が強い」は、昔の人の場合、論理性を自覚せずとも、確固たる伝統的な観念とリンクした信念や理念がありましたから、「心が強い」は「意志の強さ」であり、「志」を持っていたという意味です。

つまり「心が強い・弱い」は今も昔も語彙の誤用です。

「心は弱くデリケートで当たり前(正しい=健康)」な筈です。

従って「伝統的な観念/理念/信念」を持ちにくい現代人は、「論理思考力」を失えば、当然のように所謂「心が弱い(折れ易い)」のですが、

解決方法は「心が強くなる」ことではないのです。
それこそ「心が荒んでしまう」に違いありません。

不思議なことに、左図のような状態の人の多くに「青系の色が好き」「空を眺めると落ち着く」という傾向が強く現れます。

これは、現代人に限ったことではなく、あくまでも「現代はそのような人が急増している」という意味です。

60年代のフォークソングで、一説には小学校の音楽の教科書にも取り上げられたこともあると言われる「遠い世界に」など、あの当時の歌には「空に憧れる」というテーマが多く歌われました。

社会の行く末が不明瞭な上に、団塊の世代は人が多く就職難。学園紛争で社会を変えるという夢も潰えていた時代で、今日に似ているとも言えます。(今日の就職問題は質が違いますが、先行き不透明は同じでしょう)

しかし、逆に言えば、そもそも「気分・感情」は、外因に反応して当たり前でもあります。

むしろ「枝葉は雨・風・陽射しを受けて自由自在に揺れたなびいてしかるべき」だからです。

その変わり「太枝と幹はブレてはならない」筈ですが、ここが現代人の大きな弱点であり、考え落ちであり、問題点です。当然「大地に根を張る」など望めようもありません。

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145、アーユルヴェーダ音楽療法入門7(意識と音楽療法4)

現代人の深刻な思考性・思考力
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まず始めにひとつめの図、四つの円図で示した「心と体の四種のタイプ」について説明します。

図の右上は、先天的な障害の場合を除いて(※)おそらくほぼ全ての人間が「生まれながらにして持って居る意識~心の構造」です。それに対して左上は、現代人の極めて多くの人々が陥っている状態を示しています。

図の右下は、かつて「高機能自閉症」と呼ばれた分類の代表的なもののひとつ「アスペルガー症候群」の構造です。左下は、同様にかつて「低機能自閉症」と呼ばれた、先天的に知能(思考)障害がある場合の構造です。

まず、この図の根拠を説明します。

左下の「低機能自閉症」の場合、先天的な機能障害で思考力が極めて脆弱です。

左上の「多くの現代人の構造」と似ていますが、左上の場合、「外的要因に反応して気分・感情」が発現するため、一見して「社会との関係性を持っている」即ち「社会性・コミュニケーションは問題ない」とされるのに対し、

左下は、「心と感情の領域と境目が不明瞭」で、その不明瞭な領域から「感情」が発現するため、ほぼ殆ど外因と無関係(勿論、喜怒哀楽の反応はむしろ強くあるでしょうが)であるので「コミュニケーションが取れない、社会性が欠如」とされます。

これに対して「高機能自閉症(アスペルガーなど)」の場合、思考領域は、基本的に「心」に支配されています。ですが、機能が失われていない場合が多いので、療法と指導によって活性化し得ます。

基本では緑色の矢印のように「内発的」に込み上げるものが感情を支配しますから左下図と同様に「コミュニケーションが取れない、社会性が欠如」とされます。

右上の「本来の構造」では、「魂と心」を「論理的思考力」が城壁のように取り囲み守っていますので、純性(Sattva)が保たれます。

思考領域の外側の「気分・感情領域」は、内発の想いも思考の許可を得て発現し得ますし、外因にも自在に反応します。

故に「芸術・文学の創造」も可能ですし、鑑賞による感動も自由自在です。

勿論、人の悪意の行為や、悪意の無い残酷な言葉に傷つくこともあります。が、「論理的思考」によって、「無毒化」されたり「解毒」されます。

そもそも「心と体」は、基本的に同じ様な機能を持って居るのです。

「論理的思考」は、極めてニュートラルで不偏的ですから、正しく「体の恒常性」に一致します。言い換えれば、この「論理的思考」は、感情と心を恒常的にバランスを取っており、それが「守る」の意味合いです。

そして、今日の人間に極めて多い左上図ですが、「論理的思考」が欠落しているという意味では、下段の「精神障害・意識障害・発達障害・人格障害」と殆ど変わらないのです。しかし、前述しましたように、「外因反応」の御陰で「社会性に問題無し」とされるがため「病気ではない」とされているに過ぎません。

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「感じた」「思った」「考えた」の区別をしない人々
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右上図に書かれた英語の名称は、何方も良くご存知と思いますが、日本よりも先に英語圏で既に曖昧になって来ていたことが分かります。
そもそも西洋先進国でさえも、「Soul/Spirit/Mind/Heartの論理的分別(概念)」は存在しないのです。

それでも欧米諸国の昔の人々や日本の昔の人々は「感じた/考えた/思った/想った」を区別して用いていました。しかし、左上図のような現代人の多くが、この区別が出来ません。これこそがこの図の正しさを明確に証明しています。

「感じた/考えた/思った/想ったを区別出来ない」どころか、「感じたを思ったと言いたがる」「思ったを考えたと言いたがる」という無意識の自己美化もこの数十年横行しています。

かと思えば、最近知って愕然としたのですが、まるで「居直った」かのように、全てを「感じた」と(或る意味正直、正しく)表現する人が増えて来たことです。

この左上図のような構造は、様々な問題を内在しています。

赤い矢印の外因の刺戟にくたびれてしまい、「自分の考え」が自覚出来ないことは勿論ですが、「自分の心」さえも分からなくなってしまう。「自分を見失っている」ことに気付いてしまうという問題です。

また、それに疲弊すると、「心と体」は、自然に自己防衛に取り組みます。その結果が「無気力症候群(アパシーなど)」や「鬱病」です。

同様に、左上図の構造の人が、殺人・傷害事件、我が子の虐待、DVなどの事件を起こすことも、構造上極めて自然で容易なことなのです。つまり、「感じた/考えた/思った/想った」を区別出来ない人はほぼ全て、「何時でも犯罪者になり得る」訳です。

それを防いでいるのは「親の教養の御陰の善悪観念」と「刑罰に対する恐怖」でしかないのです。

しかし、この「観念」も極めて危ういものです。
事実「飲酒運転」が減らないのは、外因=雰囲気に呑込まれ「自分に限って事故らないだろう」というような感覚に支配されてしまえば、最早歯止めはありません。

とりわけ「悪気が無かった=悪くない」という観念の人は、自覚しない間に、極めて恐ろしいことをしていることも少なくありません。

便宜上「現代人」としましたが、実際はかなり昔から左上図の人間は多かったのかも知れません。

外からの情報に左右され、反応して「気分・感情」が形成され、またそれに支配される。その結果が戦争中、殆ど全ての人が「鬼畜米英」「欲しがりません勝つ迄は」などのスローガンを心底思い込んで、従わない人が居ればご近所は勿論、親族迄憲兵に密告したり出来たのです。

元々日本人は、欧米人、インド、アフリカ人などと比べると「大勢に流され易い」傾向があったのかも知れません。

その根拠が分かり易く現れているのが「オーケストラ」が有るか否か?です。

欧米には優秀な西洋クラッシック・オーケストラがあることは言う迄もありませんが、同じ欧米系でもラテン諸国(イタリア、スペイン、ポルトガル)は比較的少なく、世界のトップは、ベルリン・フィル、ウイーン・フィルなどです。アフリカやインドでは殆ど聞きませんが、日本は欧米に迫る程です。

それでも1980年代頃までは、欧米では「自分の意見を言えない人間」は軽蔑されていました。

音楽鑑賞や映画鑑賞の後、日本人お得意の「良かった」「感動した」で済ませることは欧米では「意見」とは認められなかったのです。

「何処かどう、何故良かったのか?」とある程度論理的に語れない人間は、「流される・ブレる人間」として信用さえされなかったのです。

ところが、1980年代以降、欧米も急速に日本的に変化しています。日本製製品の普及やアニメの流行でしょうか?

恐らく今や欧米でも「Heart/Mind/Spirit/Soul」の区別が曖昧な人が増えて来ているのでしょう。

しかし、西洋で最も先進的な文明を誇る国々で「Heart/Mind/Spirit/Soul」という語彙がkろうじてであろうとも今日にも存在し、東洋で最も物質文明が先進した日本でも「感情(感じた)/思考(思った~考えた)/心(想った)/魂(得も言われぬ感覚)」という語彙がかつては普通に存在した以上、人間の「心の領域(残念ながら全体を指す語彙は無い)」は、体の構造と同じように多様で複雑であることを知っていた筈です。

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意識や心にも臓器のような領域と役割がある
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今回のもうひとつの図の縦に二種書かれた「人間の臓器などの器官と心の器官」の図について説明します。

図の左側は、医学・解剖学的に周知の「主な臓器や幾つかの経絡」を現したものです。右は、前述したように「心の領域も同様な筈」に基づいた(現代ではまだ誰も説いていない)「気分感情・思考・心・魂の構造と役割」を現したものです。

恐らく現代人の多くが、「不純物毒物が多いのに『甘くて美味しい』とか『皆が食べている評判が良い』『手軽で便利』などと言って偏った食事をしている」が為に、中央辺りに描いた緑色の消化器がかなり疲弊していると考えられます。

同時に、体では「消化吸収代謝と中和無毒化解毒」を司る「肝臓」に相当する思考(脳機能の或る部分)「論理・分析・消化(理解と納得)」の領域と、それを活性化させる「酵素のような応用力(及び推論力、洞察力)」が全く弱体化していることは明らかです。

また腎臓に相当する領域は「不要物のDetox」ではなく、「有益か無益かを正しく選別・判断出来る『真贋見極め』の力と機能」である筈ですが、「耳に優しい=良い話し/耳が痛い=嫌な(悪い)話し」としてしまったり、よろずに「安直で短絡的で表層的なもの=簡潔で分かり易い」「多くの人が『いいね!』をしている=良い話」のような選択眼では、「腎臓に相当する機能」も全く機能していないと考えられます。

そして、近年「西洋化学医療」の従事者されも見直しつつある「腸内環境」は、「第二の脳」とさえいう専門家も現れていますが、実際「健康な腸壁」は、「悪玉菌や毒素、不純物を吸収しない為の幾層ものバリアーがある」のです。

精神面に於けるそれは、正しく「情報を論理的に整理整頓し分析し「論理領域(思考の肝臓のような領域)」に運ぶ重要な機能領域である筈です。しかし、この領域は、真っ先に「偽の良薬(耳に優しく癒される短絡安直なもの)」で痛めつけられている筈です。

最も分かり易い根拠の例として、
「良薬口に苦し」という言葉や「嫌いなもののでも体の為に食べるべき」や「偏食をせずに様々な栄養素を摂るべき」を、「言葉、文字、文章、音楽などの芸術、娯楽」にも偏り無くより正しく行っているでしょうか? を考えてみて下さい。

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