163、アーユルヴェーダ音楽療法入門25(心から発する-その2-)

1)論理思考は気分感情の状態を見て開門する。
当連載コラムの前々回(Vol.161)と、前回(Vol.162)で、「心を守る城壁:論理的思考領域」は、外部からの情報(雑音・雑語・刺激)を分別して『開門』し、「(より内面に在る)心(の領域)に必要かつ有効的なものだけを」を届けると共に、「心からの発信」に関しては「(外部の)届け先と梱包(音や言葉の使い分け)」を吟味してから『開門』する、と説きました。
例外的に「相手が誰であれ、選ばずに発信・述べねばならないこと」もある、と述べました。
しかし、むしろこれこそは「論理的思考」が極めて慎重かつ吟味した「理念・信念」に基づくものに他なりません。

続編の今回は、このテーマを「外因反応ではない、内発・自発的な心からの発信」という意味に集中しつつ、「論理的思考力」の衰えが、どのような展開を作り出すか?についてご説明します。
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2)自閉系を含む四つの円図の説明
今回の図もまた、かつてご紹介したものですが、
上段右の円図は、「人間の(健康的な)本来の精神構造図」で、左が「現代人の病んだ精神構造図」です。
左の図では、赤い矢印で示した「外部からの刺激」に対して、反応することに辟易としながらも、休む間もなく。休んだとしても「現実逃避的な『ストレス解消』や『癒され』ばかり」な結果「論理思考領域の城壁」が崩れ、「心の領域」迄もが「気分感情と同様の反応領域」に変質してしまっている状態を示しています。
その結果、このような状態の人間は「本当の自分の意思・感情は何なのだ?」「自らこみ上げて来る想いはあるのか?」と日々悩むことでしょう。そして、遂には、その「悩むこと」からも逃避し、『考えないように』して、さらに「消え掛かった思考回路の余力・片鱗」さえも崩壊させてしまうのです。

無論、「本来の健康な精神構造」でも、「何らかの刺激」によって「内発する」ことはあります。
例えば「お腹が空いた」「眠い」など、個人の内面から発したとしても、それは「心・思考・気分感情」にとっては「与えられた刺激に対する反応」に過ぎません。
この意味では「全く反応ではない発信・発現は存在し得ない」とも言えますが、
「病んだ精神構造」と「本来の(健康な)精神構造」とでは、「反応の意味・種類」と「自主性・自発性・ヴィジョン・筋道・脈絡の有無」が全く異なります。
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一方、図の下段は、「別な意味・次元で問題のある精神構造」です。
下段左図は、かつて「低機能自閉症」と呼ばれた人格の精神構造で、何らかの医学(病理学)的障害によって、「論理的思考領域」の機能不全はもとより、「気分感情領域」に於ける理性、感情制御もままならない場合で、同時に言語の理解も厳しいために「低機能」と呼ばれた障害です。
下段右図は、かつて「高機能自閉症」と呼ばれた人格の精神構造で、低機能に対し「言葉がある程度理解出来る」他、何らかの限られた分野に於いて、むしろ常人を上回る才能を示したりする人格です。エジソン、アインシュタインや芸術家に多く見られます。
「低機能/高機能」が「差別的」という奇妙な解釈が発展し始めた頃、後者は、「アスペルガー症候群」という呼び方に改められましたが、程なく、全てを総括して「自閉症スペクトラム(Autism Spectrum Disorder:ASD)」や「発達障害(Developmental disability:DD)」などに改められました。
更に「注意欠陥・多動性障害(Attention-deficit hyperactivity disorder:ADHD)」などの呼称も加わり、昨今の「人権問題・差別問題・社会的包摂観念・障害者福祉」の観念の改善・浸透を受けて、一般への紹介や理解もかなり発展しています。
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自閉系が世界を救う?
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自閉系についての考察は、次回により詳しく述べますが、ここでは本旨の「音楽や言葉の発信について」おおよその結論を述べます。

結論から言えば、「自閉系には大きな問題が内在されているが、大きな可能性がある」「自閉系は、社会の大半を占める『非自閉系の病んだ(ほとんどの)人間』を救う可能性さえある。ひいては、それは『社会を救う』ことに他ならない」ということです。

まず、四つの図を見ていただければ明白ですが、
上段左の『世の中の圧倒的多数である非自閉系の病んだ(ほとんどの)人間』は、主に「外部からの情報・刺激」に疲弊し切っており、「アパシー症候群」や「うつ病」もその発生率を上げています。私は、(まだ裏づけが不充分ですが)「アレルギー」「癌」「認知症」もこの関連から発症率が高まっているとさえ考えています。
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「自閉系」も「本来の健康な人間」も、もちろん「何らかの情報・刺激」によって、その「内発感情・思考」を作り出しますが、「現代の多くの病んだ人間」との大きな違いは、「その自主性度合い」です。

その結果、
「自閉系」と「非自閉系」とでは、「発信された『音』や『言葉』には、大きな違いが生じる」ことは間違いがないことです。

その根拠のひとつに「反応思考が主な非自閉系」には、決定的に「時系列の整理が出来ない」「自分の行動の根拠を認識出来ない」「自らの行動・思考に脈絡がない」という大問題があります。幼稚な例えで言えば、「民法のTVをだらだらと眺め、次々に脈絡なく飛び込んで来るCMに対し、『好きだ・面白い・楽しい・興味ない・嫌だ』を認識する生活」に慣れ切ったようなものです。

次々に繰り出される「TV-CM」同士には、当然「脈絡」がありません。
当然、より根源的な「幹」や「太枝」を想わせる、思考させ、気づかせ、学ばせる要素は皆無に等しいといえます。当然、「地に足が着いた」とか「大地に根を張った」などからも遥かに乖離した「感覚世界・印象世界」です。

それどころか「TV-CM(ネットの様々な広告もしかり)」は,個々個人が「アイデンティティーを認識している立ち位置(ひとつの枝葉)からさえも遊離した世界」を、次々に見せられる訳です。

「自分の枝葉にしがみつきながらも」「視覚聴覚は、とんでもなく乖離した様々な枝葉を見せられる日常」なのです。しかもそれらには、一切の「脈絡・根拠」もなければ「関連・リンク」さえもありません。
にも拘わらず、「アンテナを張る」などという全く逆のことを推奨してしまえば、現代人の「脳機能・精神構造」は、痛めつけられおかしくなって行くばかりです。

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そのような日常に疲弊し・慣れさせられた人間が発する「音や言葉」に、深みが在り得るでしょうか?

明白なことです。

「いや俺様は、『発信』に関しては、深みがあるぞ!」とおっしゃる人が居たならば、
そこには、極めて「論理的な根拠」がある筈です。
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一方、自閉系の人々の中に、常人にはないすばらしい芸術・文化の才能を持っていることは昔から良く知られています。

その他に、近年では積極的に「発達障害者」を雇用し、常人にはない「集中力・発想」を活かす企業が増えていることも頻繁に報道されています。

それは、
「きっかけ」は、「外部からの刺激・情報」があったとしても、「発信する動機」は、内面から湧き上がったものであるからに他なりません。

ただ、問題は、「深みのない音や言葉」を発することに慣れた「非自閉系」の人々に、そもそもの「深み」が感じられない人、本能的に分からない人、求めない人、も急増し始めたことです。

「結果と現象が重視される企業(や職場)」の場合、上記のような試みが評価されつつあるとしても、日常のプライベートな価値観に於いて「良さが分からない」のでは、「自閉系の人々の才能」が、受け入れられ、選ばれ、喜ばれ、求められる可能性は、一気に激減すると考えられる問題があります。

加えて、既に「プロを自認する、非自閉系音楽家・文筆家・評論家」には、恣意的から無意識までグラデーションで差を持ちながら、「自閉系の才能」を、黙殺するのみならず、不当な過小評価・巧みな取り込みによって利己に利用し、ひいては根絶やしにしてしまおうという人間も存在します。その動機・理由は様々です。
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「好き嫌い」の問題や、「自然食や添加物云々」を抜きにして、
ファミレスなどに行ってみれば、良く分かることでしょう。

「論理思考領域」を鍛え、日々活用し、「気分感情領域の思考」と即座にスウィッチを切り替えられる人は、ファミレスの周囲の会話に全く邪魔させず「自分の世界」を保つことが出来ます。

が、そのような人でも、スウィッチを「気分感情領域」に入れれば、周囲の会話は辟易とするほど不条理に飛び込んで来ます。故に、他方の「論理思考領域」を痛めてしまった人の場合は、さぞ「落ち着かなく不愉快な気分」でありましょう。

そのような場でのテーブルごとの「仲間・グループ」の会話に、「知人、職場の同僚、上司などの悪口」のなんと多いことか。
これなどは、典型的な「込み上げる思い(誰かに言わずに居られない)」に他なりませんが、「発信源」が「気分感情領域」なのです。
「論理的思考領域からの込み上がって来る想い」があるとしたら、時勢や状況・環境に拘わらず、長年抱いて来た「文化・芸術への想い」や「人生論」「人間論」などの類でしょう。
稀に「処世術」のような話を、あたかも「人生論・社会論」のごとく熱弁している人も居ますが、殆どが「個人的経験論」の域を出ないことで「論理的思考領域」からの発信ではないことが分かります。
「経験論」に普遍性(置き換え・応用性)が見出されない限り、そこには論理性は希薄だからです。

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(文章:若林 忠宏

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162、アーユルヴェーダ音楽療法入門24(心から湧き上がる想い・言葉や音楽-その1-)

前回説明しましたように、古代インド「ヴェーダ科学・タントラ」でも「Kosha(鞘/人間の階層)論」で説かれている「本来の人間の精神構造」の「第二の階層:心を囲み守っている論理的思考回路」は、その人間の心身が「健全(Defolt)」である限り、それ自体が、極めて論理的な「思考領域」であるばかりでなく、極めて聡明な「フィルター器官」でもあるのです。

その結果、外部からの刺激や情報(音楽や言葉、文字、象形を含む)を適切に選択して遮断することが可能なのです。これによって「心」が守られているのです。

音楽の場合、「雑音を遮断する」ばかりでなく、より正しい音楽(フェイク・ギミック・ハッタリ・表層的な技至上主義・大衆迎合性、などを極力排除した音楽)であると判断した場合、「城壁の城門を開く」がごとく、その音楽を「心に届かせる」働きをすると考えられます。
するとその音楽は、自在に「心と感情が融和した領域」に漂い、その効果は心に深く刻まれると共に、思考も記憶もそれをしっかり留め保管します。
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洋の東西を問わず、名演奏家と称された人々は、子どもの頃から修行時代を通じて、聴くべき音楽家の演奏に触れて、ただ「ぼーっ」と「楽しい・癒される・面白い・格好良い」と聴くだけでなく「何故だ?トリックがあるとしたら、それは何だ?何処に隠し味があって、何がつなぎで何が本領か?」などを無意識に猛スピードで分析していたに違いありません。

「論理云々」の知識も興味関心もなくても行える、この作業自体が論理的分析なのです。(言わば「探究心の賜物」です)
料理家も同じでしょう。物つくりのプロは大概皆そうなのでしょう。従って「気分感情領域」で漠然と感動するのでもなく。心に届かせるだけでもなく。論理思考領域も大いに活性化して受け止めているのです。
逆に「聴くに値しない音楽」は、気分感情領域で「まぁ、悪くはないんじゃない」程度に適度に付き合って、論理思考領域の手前でブロックしている。おそらく途中から、気分感情領域でも大して聴いちゃいない。
また、「音と音楽が氾濫する現代社会」で「深い感性」を保つためには、むしろ「ブロック」よりも強力な「耳に入れないフィルター機能」が発達しているのかも知れません。
…………………………………………………………………………………………………………………….今回の主旨は、その機能の逆パターンです。つまり「心の叫び」とか「心から願う、愛す」ような衝動。こみ上げる思い。はどのように外に向かって発せられるのか? ということです。
それもまた実に単純で、前回の図でしめした構造の、逆方向に過ぎません。
今回の図のように、「論理思考の城壁」の門番が門を開けて、「こみ上げる心の想い」が感情領域にほとばしるのです。

この時、「論理思考領域の論理的思考」は、「ほとばしる心からの音(や言葉)の行き先・届け先」をしっかりと見極めます。言い換えれば、「その目的地が在ってこそ、開門される」とも言えます。
それらは、図の「愛すべき対象」です。
逆に、図の左上で赤い丸で示したような世俗的な満足などの為には、論理的思考の関与など不必要であり、当然「心からの音(言葉)」である必要もありません。
言い換えれば、「論理的思考を有するプロ・ミュージシャン」は、気分感情領域で思考(工夫)した音(聴衆・大衆に受け入れられる音/売れる音楽)を巧みに発して届けさせることが出来るのでしょう。

勿論、全く別な次元で、「相手を選ばず・方法(手段)を選ばず発するべき時と場合」もありましょう。それは「論理的思考」がその信念(宿命的責務)を強く抱いた時です。
「何処の誰にどう受け止められ、どう理解されようとも、発せねばならない音、言わねばならない言葉」などです。
ある意味「目的も到達点も無い音や言葉」ですから、「虚しさ哀しさ」は付きまとうかも知れません。しかし、逆に言えば、「目的がある発信=受け入れられることが分かっている=打算的」とも言え、この「虚しく哀しい発信」こそは、より純粋ということも出来るかも知れません。

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私事で恐縮ですが、
私は幾つかの理由があって、我が娘が乳幼児の頃から「赤ちゃん言葉」は、一切使いませんでした。
ところが、保護猫たちにはついつい幼稚な言葉も使ってしまうことがあります。無論「でちゅね~」などはありえませんし、90%以上は、普通の言葉、むしろ他人が見たら驚くような真面目な話、論理的な話をしていますが。「良い子だね~、頑張ったねぇ~」と褒めたり、叱る時も「駄目じゃん」などとオブラートに包むような言い方をしています。

これらはある意味、「気分感情が発する言葉」を「一旦論理思考(ある種の冷静さ)で吟味してから」、相手が受け止め易いように修正して伝える。というプロセスと考えます。

私の場合、(殆どの人がその価値を理解しない)1970年代から民族音楽を研究し紹介して来ました。
その為、多くの人々が「良く知らない、興味が無い」というテーマのものを「聴いてみようか」と思って貰えるように、或る意味「手を換え品を換え」て伝えることが「癖」になっていて、「これが駄目ならこれではどうだ?」と、「表現方法は何でも良い」「常に沢山の表現方法を用意しておくこと」が基本になってしまっていると考えられます。

逆に30歳代、「言葉の表現・選択」に関してかなりストイックになっていた頃、「音楽表現」にも深く関わることですから「ニュアンスの問題」というものを重視していたことがあります。お弟子さんの何気ない言葉にしばしば執拗につっかかったものです。奇しくも(不運にも?)時代は全く逆行しており、「ニュアンスの問題」でスルー、逃げ切ることが主流になり始めた時代です。

この風潮は今日でも全く衰えることがなく、むしろ完全に定着しています。「相手に通じない」という事態に至れば、極めて多くの人が「言葉足らずでした」とおっしゃる。

まさか今日この歳になって、30歳代の時の様に「足らず?なら足らしてみなよ」などとは申しませんが。仮にそうお願いしたところで「補足出来る人・言い直せる人」は極めて少ないと考えられます。
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今年の夏に出ました新著は、昨年の11月からの作業でしたが、年末年始に一旦「打ち切りか?」というほどの事態に至りました。幸いに編集会社の社長が出来たお方で、問題を見事にクリアーにして下さり担当さんを替えて下さってからは、万事順調に進んで良い本・良いお仕事に至りました。

前任者さんは、ごく普通の何も悪気も無い人でしたが、肝心なところで「曖昧な表現」がどうにも無視出来ないことが重なったのでした。

これらは現代人と現代社会の極めて重大な過失と考えます。

乳幼児やペットなど「愛すべき存在」に対して、「相手が受け止め易いように」と「自らの気分感情も穏やかにする」両方の効果が得られる「感情領域で発した言葉を一旦思考領域で吟味修正して発する癖・習慣」は、多くの方が自然に行う、良い手段と言えます。

ところが、或る意味より慎重に丁寧であるべき「仕事上でのやりとり」で「曖昧言葉・慣用句」でやり過ごそうとするのです。

それらは、「誤魔化し言葉」に他ならないに止まらず、最も否定されるべき点は「実は相手を選んで言葉を選んでいない」という点にあります。

前述の編集会社の後任担当者さんは、当初恐々としながらも、「間違った時は、誤魔化さずに素直に謝罪し訂正すれば良いのだ」と分かってくれた後は、むしろ「仕事・営業モード」よりも自然体で冗談や軽口を言いながら充実したやりとりを重ねてくれました。

つまり、現代社会の「営業用語」は、「相手が誰であれ、どう展開したとしても融通が利くようなズルい曖昧さを持たせている」ということなのです。

そして「問題(誤解、行き違いなど)が生じた場合」。「言葉足らずでした」とか「ニュアンスの問題だ」などの「二三種類の乏しい語彙を、相手に応じて使い分ける逃げ言葉」ではぐらかす訳です。

このような「発言方法」が「癖」になってしまえば、「一旦思考回路で吟味する」などということは全く不要になってしまいます。

現代社会は、ありとあらゆることに於いて、思考回路を駄目にする要素に満ちていると、痛感させられます。

哀しみを超えて、恐怖の念さえ覚えるのが、
音楽に於いてもまた、この調子で「音や旋律、リズムが発せられている」ということです。

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(文章:若林 忠宏

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161、アーユルヴェーダ音楽療法入門23(心に届く音)

古今東西で、「思い、想い、心、魂」のあり場所は、「心は気持ち(感情)より深いところにある」など、おおよその定義はあれど、日常的・習慣的にはかなりいい加減に用いられています。その理由や実態について、この連載のVol.152~157で「恣意作為論」「精神論」などを元に解いてきました。

ここで、今一度一般的な語法に見られる「おおよその観念」を、特に「音楽と言葉」に焦点を当てて振り返ってみます。
音楽も言葉も、今の時代でさえ以下のように表現されます。
「心に届く(音楽/言葉)」「心に響く(音楽/言葉)」「心に染みる(音楽/言葉)」「心からの(音楽/言葉):感謝、謝罪、労い、弔い、など」。

また、古い言い回しでも「心の琴線に触れる」などと言います。
ちなみに、同様の古い言葉の「心頭滅却」を近年では、「心と頭(感情志向)を滅却すれば『火もまた涼し』」と解かれますが、正しくは「心と頭の中で、火(暑さ~痛み・苦しみ)を滅却すれば、涼しい心持に至る」であるとも言われます。この言葉の出典に関しても諸説あるようです。が、いずれにしても明治時代以前のようでもあります。
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予断な上に私事で恐縮ですが、
福岡に越してから、母屋は丘の上で日当たりが良い上に古い建物で壁に断熱材が無く、少し離れたシェルターは、四六時中様子を見れないので、保護猫のための冷暖房は節約したくても出来ない辛さがありますが、都下吉祥寺の借家では、三年以上、真夏も真冬もエアコンを使いませんでした。

勿論、真夏の35度前後の日は、流石に意識も朦朧と仕掛けましたが、「自己暗示」で、真冬をイメージしたり、真冬の寒さを思い出して「それと比べれば何と暖かく在り難いことよ」と思い込ませて乗り切りました。「気の持ちよう」で5度は優にコントロール出来ると実体験したものです。

逆に、そのような生活の後に、季節の巡り代わりで早々にエアコンや電熱毛布などを用いると、「寝覚めが物凄く悪い」ということを強烈に体験しました。
心身の内側からの「対応作用」が働かず、外の世界(心身の側近の環境)で問題を解決してしまうことで、人間が本来持っている機能が変調する怖さを思い知ったのです。

これは「化学製剤による対処療法」から、「言葉や音楽のより好み」にも通じる、この連載で最も訴えたいテーマに深く関わることと考えています。

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「心に関する語彙」に話を戻しますと、
近年の若い人々は、古い言い回しを殆ど知らなかったり、自分たちで勝手に語法を解釈していることが少なくありません。
私のカウンセリングで、思うように効果が得られない人の殆どに、この「語法の誤用」が顕著に見られます。それに始めて気づいた二十年ほど前。「その語法はおかしいよ」と言ったら「私にとってこの言葉は、そういう意味なんです」と返されて愕然としました。

しかし、そのような世代でさえも、「心に刺さる(音楽/言葉)」などと言い。「心は気分感情・気持ちより深いところにある」と認識していることは明らかです。

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今回の図では、
「本来の人間の精神構造」と「近現代の人間の変調した精神構造」を比較しながら、「雑音(雑言)」と「楽音(良語・格言)」がどのように「心や論理思考領域に届くか?」を示しています。

変調した人々の場合、「気分感情領域/論理思考領域/心」の境界(Kosha)が、破壊されつつあるため、本来三分されている領域が混沌と交じり合ってしまいかねない傾向にあります。
つまり「心に届く」も「心から発する」もなく、「心と気分感情」を、そもそも分別・自覚出来ないということです。その結果が「悲しいと哀しい」「思うと想う」などの多くの語彙を混同・誤用するに至る訳です。「観念と概念の混同・誤用」も同様と言えます。

その結果、
「雑音(雑言)」は、「境目を失い混沌とした気分感情・思考・心の領域」を自在に巡り回り、いやおうが無しに「負担で苦しいもの」になるのは当然です。

一方、「本来の精神構造」を保っている人の場合は、「雑音(雑言)」は、気分感情を掻き乱したとしても、論理思考領域のフィルターで排除、または解毒されますから、「心を痛める」ことさえないのです。
それどころか、そもそも「論理思考領域」の最も外側で遮断されますから、「論理思考」の邪魔にさえならないのです。

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これを誠に端的に示す事例であり、皆さんが簡単に体験し納得出来る事例が、
「今考え事をしているんだから、静かにして!」という、ありふれたことに見ることが出来ます。
この言葉(意識)によって、
その人は「気分感情領域で思考していることが習慣になってしまっている」ことが明らかになります。

逆に、「論理思考領域で思考することが出来る人」は、「雑音(雑言)」に思考が邪魔されることはないのです。
私のカウンセリングで実践している訓練法は、「論理思考が求められるテーマ」を、あえてTVやラジオを着けっ放しにして行う、というものです。かなり精神構造が壊れた人でも、丹念に頑張ると、かなりの効果が見られます。

予断ですが、私がこの力を鍛えられたのは、保護猫たちの存在のお陰と思われます。
今、この原稿を書いている最中でも、「サカリのメス猫」が、ケージから「出せ出せ」と鳴き続けています。
しかし、それに呼応したように思える他の子の声に、「少しでも異なるニュアンス」を感じた時は、即座に手を止めて様子を見ます。「トイレを綺麗にして欲しい!」「お水が無い!」だったりがあるからです。

つまり、原稿を書くのは、殆ど「論理思考領域」でありながら、常に「気分感情領域」で、猫たちの声を理解しているのです。

この精神構造の原点は、中学二年生の時、「深夜放送を聞きながらの受験勉強」で培ったものかも知れず、それは多くの人に経験があるに違いありません。私の場合、程なく深夜放送からインド音楽に変わり、その結果、「職員室に呼び出されて担任に説教される」に至りました。ひと夏で偏差値を20近く上げてしまい「受験指導する教師が困惑させられて迷惑だ!どうせ気まぐれだろ!?」と言われたのです。

つまり、殆どの人々が。もしかしたら、まだ中学生位ならば、デフォルトが維持されているからでしょう。「深夜放送を気分感情領域で聞き、教科書参考書を論理思考領域で理解し記憶する」ことが出来た筈なのです。言い換えれば、「論理思考領域を分化活性化するために、気分感情思考が出来ない状況に追い込む」ということでしょう。

従って、
「今考えごとをしているのだから!静かにして!」は、言語道断であり、むしろ
「今考えごと(論理思考)をしたいから、その辺りで騒がしくしてくれる?」が本来なのです。

しかし、この一方で、
現代社会からは比べようがないほどの静寂と自然音の世界であったであろう、紀元前のウパニシャドの時代にも「森林書」と言われるように「山篭りで悟る」ということが行われて来ました。

今回述べたことは、「外の世界の音や言葉」をどう受け止めるか?がテーマでしたから、前述のような話になりますが、ウパニシャドの話は、(宇宙とリンクした)魂・心の声(音)を聞く」という内面からのものを受け止め覚醒するということですから、必然的なのでしょう。

言い換えれば、「外からのもの」を上手く受け止められない人間が、果たして「内からのもの」を上手く受け止められるのだろうか? というテーマでもあります。

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(文章:若林 忠宏

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160、アーユルヴェーダ音楽療法入門21(そもそも精神世界とは?-その9-)

Kosha(鞘)を鍛えるには?
1、本来「心」と「魂」には、境界線は不要かも知れない

奇しくも紀元前のヴェーダ科学「Kosha論」と同じだった、私が膨大な資料と検証から確信に至った「精神構造図」ですが、強いて言えば、今回の図のように、一部修正が必要でした。僅かなことですが、それは、図のように「心」の外輪と「魂」の外輪の黒線は不要ということです。
何故ならば「心」は「論理思考」と言う「城壁」に守られているのですから不要です。また、「魂と心の境界線」は、確かに存在しつつも、古代「Kosha論」の時代の人々のように、既に「同化」している場合も考えられるからであり、そうでなくとも「論理思考の城壁」がしっかりしていれば、「心と魂」は、安心して影響し合えるということです。
でなくては「魂に今生の想いや記憶が染み込むこと」も、「魂の記憶が心に訴え、思考に届かせること」も不自由というものです。
また、「心が健全」であれば、「心」が「魂という預かりものを守る器」にもなるとも言えます。「心が城壁になる」というよりは、柔らかなクッションやゼリー状の保護域で、魂はその中に安置されている感じです。
……………………………………………….
逆に「外因反応的な気分感情に支配され、思考領域も侵食され思考機能も城壁機能も失われ、心さえも感情に犯されつつある、多くの現代人」の場合、「魂」は、最後のバリアーを張るかも知れません。
その姿はきわめて哀れです。言ってしまえば、Vol.144(18年8月2日Up)で紹介した様々な細胞や腸内細菌の図の「癌細胞」のように、「細胞が全て癌化し、『魂』は、幽閉され風前の灯のミトコンドリア」の様子に極似してしまいます。
また、自らの愚かさで地球の自然環境を破壊した結果、人間が住めるところが無くなり、多くが滅び、ごく一部の人間が寄り集まって「宇宙へ脱出する」直前の様子にさえ見えます。やがて実際に、「魂」は、「宇宙」に呼び戻されるのでしょうか。
そもそもこの状態で「梵我一如:不二一元」を望むのならば、「何故生まれて生き続けて来たのか?」という話です。やはり人間も、その他の生き物も「本来の姿」に戻らないことには、「地球の細胞」としての役割を果たすことは出来ないのではないでしょうか。
2、Koshaを鍛えるためには、
「Kosha論」で「何故それぞれの領域自体が『鞘』とされ、境界線(城壁)がない『領域』なのか?」は、意外に重要なポイントかも知れません。前述したように、「論理思考(自体)は心を守る城壁」であり「心(自体)は、魂を安置する器」であるならば、「それ自体が『鞘』の役割を担う重要な要素である」ことを示唆していると考えられるからです。
………………………………………………………
現在のヨガ・瞑想・アーユルヴェーダ関係の人々は、この点を明確に説こうとはしません。
そもそもヴェーダ関連の用語の奥深い意味を、直訳のまま説きますから「分かった気になる」で終わってしまいます。例えば、「Kosha論の最も中心(奥深い)のAnandamaya-Kosha」は、「Ananda」をそのまま訳せば、確かに「至福・歓喜」ですから「歓喜鞘」とおっしゃる。「心と魂がほぼ一体化したような、梵我一如の領域=理想的な人間像」と説いてからやっと「至福・歓喜」が導かれる訳であり、「どんな人間でも、その中心には『至福・歓喜』が宿っている」という「性善説的」な誤解を与えては「現代人の破壊されつつある精神構造」に警鐘は鳴らせません。(そんなつもりは無いという人がほとんどでしょうけれど)
同様に「Vijnanamaya/-Kosha(理知鞘/論理思考領域)」については「5-Indriya(五つの力)、6-Pramana(六つの認識)、16-Padartha(十六の検証)」を駆使せねばならないことを説かねば、まるで「誰にも理知的な部分があるそうだ」で終わってしまいます。
現代人の精神構造の大半を占めている「Manomaya-Kosha(意思鞘・気分感情領域)」でさえも、「Ahamkaraの脆弱さ」を説き、「外因反応ばかりでは駄目だ」と説かない限り、「健康なManomaya-Kosha」とは言えません。
万事がこのような調子なので、「古代インドでは人間は五つの鞘で出来ていると説きました」「へー」で終わってしまうのです。
……………………………………………………..
ちなみに最後に述べた「Manomaya-Kosha」のことですが、日々「外因・外的刺激に反応」したのと同じ(質的な量)だけ、「内因で感じる」必要は最低限ある筈です。例えば「事件の話を聞いた、SNSで人々のコメントを読んだ」と同じだけ、「論理思考や心が内発するものを喜怒哀楽で感じる」べきというものです。勿論、この「内発的な刺激」も、きっかけは外因である場合も多く、それが駄目ということではありません。
例えば、空を見上げて鳥が数羽飛んでいたとして(外的情報・刺激)。それを見て「何も考えない・想わない」ではなく、「どうやって互いの距離を維持しているのだろうか?」などと考えたり、夢想したりするような時間・量・質が、「知人の誰々が言ったあの言葉の意味は何だろう?」と同じ位必要だ、ということです。
尤も、言われなくても人間は、自然に「自己治癒能力」がありますから、「感情支配」の人には意外に「夢想家」が多かったりしますが、そこに「論理思考」が加わらない。それでは「感情の息抜き」にしかならず。「鞘を鍛える」ことには繋がりません。
…………………………………………………
「Koshaを鍛えること」について「簡単に安直に短絡的に分かり易く」説明することなど出来る筈もないことですが。(そもそもその悪慣・価値観を変えることが最優先ですし)
極めて大雑把に説けば、以下のようになると思います。
3、Koshaを鍛える具体的なステップ
第一段階 目的:外因反応に偏る感情の支配の改善
1)ボディーヨガと呼吸法の改善 体が整うことは精神改善に大きな助けです。
2)マントラを聴く。ヤントラを見る。 同上に、初動時に大きな助けとなります。
3)瞑想 同上
しかし、ここで満足してしまって終わってしまえば、前回ヨギのひとりが述べた言葉を紹介しましたが「何も変わらない」に至るだけです。
同様に、昨今流行の「Detox」もしかり。「無毒化させる機能」が衰えたままでは、また「毒が溜まる」を繰り返すばかり。それを商売にしている人は、その方が良いのかも知れませんが、自分の「体と心」を大切に想うならば、考え直さねばなりません。

第二段階 目的:感情思考と論理思考の分別
1)自らで多くの「禁句」を考え実行する。
現代人の多くは、日々、言葉で思考力の悪習を維持させてしまっています。
2)自らで日々数回「唱える言葉」を考え実行する
これはかなり有効です。
ちなみに「TVを見ない・大衆誌を読まない」は、「Detox」と同様に「一過性・その場しのぎ」でしかなく。初期(第一第二段階)では有効ですが不可欠ではありません。むしろ「TVのくだらない会話が煩い」ような環境でも、「平然と論理思考が出来る」ことが唯一重要なことなので、「静かにしてくれないと考えがまとまらない」は「感情思考(非論理思考)」であることの証です。

第三段階 目的:論理思考の入門段階
1)論理的な文章を自らで分析・解析する
2)非論理的文章を分析・解析し、何ゆえに「非論理的」であるかを理解する。

第四段階 目的:ヴェーダの科学の享受
1)正しく理解しているインストラクターが選択した「Mantra」「Yantra」と向かい合う。
2)同様に、「よりピュアーな科学音楽」を適時に聴きながらの瞑想
3)同様に、「よりピュアーな科学音楽」を適時に聴きながらの論理思考

このようなステップが、10~12段階あり、それは「Koshaの脆弱度・破壊度」によって異なります。
しかし、このような「誰でも出来ること」が極めて重要で、第三段階までは、「自分で実行する(他者の力を借りない)」ことで「内発性・自発性」を高めるのです。そうでない限り、「Defaultの精神構造」は、決して復元されません。私のカリキュラムでも、「例えば」は沢山提示しますが、提示されたもの以外を自分で考え(思いつくのが一番良い)決めて実行して貰っています。
尤も、「心や体の病気のなりかけ」や「幼い子供が居る」「家族の雰囲気が良くない」などの場合、けっこう急ぐべき時もあって、「自発的が肝心」とは言え「マイペース」では間に合わないこともありますが。

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159、アーユルヴェーダ音楽療法入門21(そもそも精神世界とは?-その8-)

日本に於ける精神世界文化の始まり-後編-
3、「形から入る日本人」の「形」の定義とは?

よろず「形から入り、形にこだわり」そして「形だけで終わる」ことが多い日本人。

それでも、インド文化以外では、かなり複合的なカルチャー取り込みの姿を見せていました。

例えば1960年代のサーフィン・ブームでは、単にサーフィンに興じるだけでなく、ファッションから聴く音楽、食べもの、飲み物迄かなり統一されたこだわりがありました。70年代前半のハード・ロック全盛の頃は、食べもの、飲み物迄には至りませんでしたが、髪形・服装はかなり大事な要素でした。(この私でさえユニオンジャックのロンドンブーツを履いて居た)

ところが、70年代後半から一気に流行した筈の「精神世界ブーム」では、書店でブックフェアーが開催される割には、菜食主義の割合も低く、音楽に至っては、「インド音楽である必要」さえも全くなく。(まだヒーリング・ミュージックもさほど出回っていなかった)。老舗のヨガ教室さんとは70年代からお付き合いがありますが(BGMを担当させて頂いたところもある)、「精神世界ブックフェアー」以降、急激に生徒が増えた、ということでもなかったのです。

そして、2000年以降の「第二次ブーム」でも、音楽は相変わらずの「ヒーリング系合成音楽」で、電子音、金属音でもおかまいなし。アメリカ系の素材に飛びつく傾向も、大昔と変わらない。
何故か、「サーフィン・ブーム、ハード・ロックブーム」の頃の「形にこだわる」ことさえないのです。もちろん、同時代に隆盛した「価値観の多様化」「人それぞれ観念」の影響もありましょうが、何かもっと根本的なことが欠けている(ズレている)ように思えてなりません。

4、ラジニーシの言葉
wikipediaは、便利だけれど「誤情報も多い」という話もあれば、「世界が監視しているのだから、そこそこまともだろう」という意見もあります。実際「一般の最低限の基礎情報」として確認する価値があろうとしても、「肝心なこと」は、分からないことは事実です。が、それを言ったらネット情報で「肝心なこと」は、ほぼ全く得られないのも事実ですが。それでも時々「ほう!」と思わされる(千に一程度かも知れませんが)ことがwikipediaでもあります。

wikipediaが紹介している、前述の私の店でも売っていた、バグワン・シュリ・ラジニーシの言葉には、「なるほど」と思わされました。彼が、インド思想家の大先輩たちと、当時の世界のフリークたちを、淡々とながら、痛烈に否定している文言です。

それらの中から、まるで昨今主流のの枝葉意識のように「都合のよい部分」だけを抜き出して要約して挙げてみます。

「情報・知識を欲しがるのは、エゴイズムの餌だから」の言葉には、「言ってくれたね!」とさえ思いました。

世界で活躍し、インドでも評価を得ていた著名なヨギのラーマ・クリシュナ(Shri Ramakrishna Paramhansa/1836~1886)に関しては、「多くの人たちが感動し、歓喜の涙を流した。だが、それが彼らを変えることはなかった」と述べ、ジッドゥ・クリシュナムルティ(Jiddu Krishnamurti/1895~1986)に関しては「多くの人が40年以上にわたって彼の言葉に耳を傾けてきたが、彼らの意識にはなんの変化も起きていない。クリシュナ・ムールティは知識人の玩具になったに過ぎない。人々は、クリシュナ・ムールティから仕入れた知識によって愚かさを隠すことができるようになっただけである」と強烈なことを言ってのけています。

興味深いのは、クリシュナ・ムールティが「人々の知性に訴えた」と評したのに対し、シュリー・ラマナ・マハルシ(Shri Ramana Maharshi/1879~1950)は、「人々の感情に訴えた」と分別しているところです。ラマナ・マハルシの方が20歳先輩ですから、先ず「Heart:Manomaya-Kosha(気分感情領域)に訴えた」ということになります。しかし「何も変わらなかった」。
そしてクリシュナ・ムールティは「Mind:Vijnanamaya-Kosha(論理思考領域)に訴えた」しかし、それは「まるで玩具遊びで終わった」というのです。

つまり、この時代(20世紀初頭)既に、大衆の「Mind:Vijnanamaya-Kosha(論理思考領域)」は、ほとんど「Manomaya-Kosha(気分感情領域)の感情系循環思考」に侵食されていた、ということでしょう。でなければ、クリシュナ・ムールティほどの聖者が、「Herat(感情)とMind(思考)」を見間違えることは考えられないからです。

かく言うラジニーシ氏は、「どのような手法」を試みたのか? そして「(彼の言う次元に於ける)変化を与えることは出来たのか?」。

先人たちの努力の虚しい結果について、「瞑想、意識をはじめとする多彩なテーマについてこと細かに議論する。とても有能で利口になっている。だが、あい変わらず凡俗であり愚かである」と言い切り、「変えられなかった理由」について、「彼ら(聖人たち)はあえて人々の人生に踏み込もうとしなかったからだ」と述べています。
その一方で、ラジニーシ氏自身は、「踏み込む」という手法であったことを示唆しています。同時に「人を形作っている多くの部分を削り落とす必要がある」「それにはハンマーを使わなければならない」という過激なことも述べています。

5、自発性・内発性以外に道はない
自分の店で20年販売していた位ですから、ラジニーシ氏の書籍やヴェーダーンタ文庫のナラーヤン内垣氏が要約したバガヴァドギータなどは、読むべき書籍と今も思います。しかしラジニーシ氏自身が述べているように、「読んで感動した」だけでは「知識・情報の玩具を与えられ満足するだけで『何も変わらない』。否、唯一変わったところがあるとしたら『知識情報で己の愚かさを隠す知恵・技』を身につけたことだろう」で、むしろ以前より性質が悪いとも言えます。

具体的な手法はともかく、そこでラジニーシ氏は、「規制の精神性・観念を打ち壊す」必要を説いているのです。

しかしこの考え方は、数年遅れて、日本で急速に成長し、後に大量殺戮事件を起こす教団も同じことを説き、過激に信者の人格を破壊しました。そのことの是非を「社会的結果論」や「社会的評価」に則ってこのコラムで述べるつもりは毛頭ありません。しかし、このテーマは、精神世界の長年の大きな課題でもあったことは事実です。

ラジニーシ氏ほどではないとしても、その前から、往年の聖者たちは異口同音に「知識だけで終わって何も変わらない」ということは説いて来ました。そして、多かれ少なかれ「個々の人間の人生観・生活観に入り込む必要性」と「既成の観念や常識」及び「依存している観念や理念」との「決別」。ある種の「それらの破壊」も説かれて来ました。

しかしそれらの考え方・やり方が「反社会的」として弾圧される以前に、それら自体が「成果」を見出せなかったことも事実です。その結果、それらのやり方は、「成果が得られない理由・原因=犯人」を更に「社会」に求め、より一層「反社会的様相」を色濃くして行ったのも普遍的事実です。

しかし、根本的な原因は、個々の人間の「依存気質」にあることは明らかです。往年の聖人の説法が、「表層的な知識・お飾り」で終わるのは、人間が「既成観念」に執着依存しているからに他ならないのです。ところが、それを「引き剥がす」とその人間は「無個性(非自立性・非自律性)」になってしまい、社会の規則に反するか否か以前に、既に「現世の社会人」としての存在感を失っているのです。
これは果たして「悟り」なのか? 単なる「逃避の果ての虚脱」なのか?もまた長年の課題です。

今回特に申し上げたいことは、ラジニーシ氏が述べた「何も変わらない(むしろ悪くなった)」というテーマです。これは「個々の人間の個人的結果論」としては、重要なテーマな筈です。

「宗教や信心」と「社会的全うな人間像」との「せめぎ合い・諸刃の剣」の課題に加えて、「個性ある人間像」と「社会的普遍性」もしくは「宗教的無個性」の「せめぎ合い・諸刃の剣」の課題もあります。しかし、それらを超越した「解決策」があるはずです。

例えば、ヴィヴェカナンダ師が説いていた「論理の助けによって、自分と向かい合う」という手法は、別な結果に至れる可能性が高いそのひとつに違いないのです。
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ラジニーシ氏がヴィヴェカナンダ師をどう評価したかの文言には未だ辿り着いていませんが、ヴィヴェカナンダ師の晩年で既に、その思想を曲解する門弟や取り巻きも現れていましたから、ラマナ・マハルシ、クリシュナ・ムールティーと同様の結果であったことは容易に想像がつきますし、そもそも「論理思考を失う人間」が、20世紀~21世紀に急増していること自体、ヴィヴェカナンダ師の主旨が曲げられて広められたことは明らかです。

また、問題は、「Anandamaya-Kosha(歓喜鞘)」の解釈と取り扱いにもあります。そもそも紀元前の「Kosha論」では、人間は、「健全な5鞘」を備えてなければならず、19世紀の「ヴェーダーンタ論」の「梵我一如=不二一元論」も、その基本が絶対な上でのことです。

しかし民衆の「厭世観・責任転嫁」は古代から執拗で顕著なのでしょう。「5鞘の健全さ=我の鞘は健全であるか?」という「自分との向かい合い」と「鞘(城壁、言わば殻)の強靭さ(同時に利害・善悪を見極めた門戸開放やブロック機能)の鍛錬」などという自分自身の努力よりも、「他力本願(俗的な語法としても仏教本来の意味としても)」に頼り「安直な楽・開放」を求めるのが常だった訳です。

それが20世紀に至り、戦後はより一層、とりわけ1980年代以降、「鞘(殻)など要らない」という観念が決定的になってしまえば、古代からの人間の性(特に何かに依存しようとする志向)は、「はばかることを知らない・恐れを知らない」ほどに隆盛してしまって当然だったのです。
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奇しくも「あの人は心に殻を作っている」とか「殻の中に閉じ篭っている」などと、良くないことのように言い「オープン・マインド(※)が素晴らしい」などという風潮も1980年代に隆盛し90年代に確立したのです。

(※)一見「美しげな言葉」ですが。語彙的には実にクレイジーな言葉「オープンマインド=解放された思考」=正に「あっぱらぱー」に他なりません。

「ヴェーダーンタ論の梵我一如=不二一元論」も、ラジニーシ氏が述べた「何も変わらない」という問題も、非社会的教団が破壊した「人格」も、いずれも「二足歩行」ではなく、「一足歩行」のような無理・無茶があるのです。

その「二足」とは、言うまでもなく「鞘(殻)の強化・領域毎の機能活性」があった上での「ヴェーダーンタ論・梵我一如=不二一元論」に他なりません。

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158、アーユルヴェーダ音楽療法入門20(そもそも精神世界とは?-その7-)

日本に於ける精神世界文化の始まり-前編-
1、様々なサブカルチャーが一気に噴出した1970年

私は、中学二年の時にインド弦楽器シタールを始め、中学卒業と共にプロダクションに入りプロになったので、1970年代初頭の様子は、どっぷり当事者として実体験しています。
時は、日本の草分けの方々の時代。まだ純粋な中高生だった私は、ずいぶんと可愛がられ、様々な機会でシタール演奏をさせて貰いました。

しかし、日本語に訳されたヨガ(所謂Body-Yoga)の本は当時一冊しかなく、瞑想センターも東京西荻窪と京都、大阪にひとつずつある程度でした。
それでも、西荻のセンターには何度か呼ばれ、大阪にも一回呼ばれました。「チベット死者の書」の確か日本語の最初の訳者先生の講演会でも十数回演奏しました。しかし、いずれも、聴衆全員がステージの私に向かって瞑想している。高校生の私には「どうしたものか」と思っていたのも正直なところです。

1972年頃になると、街にはジョージ・ハリスンがサポートした「ハレ・クリシュナ教団」が繰り出し、遭遇すれば一時間は追っかけていました。当時の「両面太鼓:Khole(Kirtan-Mridang)」は未だ素焼製でした。私はその太鼓の独学の腕を試し、さらに成長させるために彼らの仲間に入って太鼓担当になろうと思ったのですが、布教にのみ熱心な姿には、やはり取り付く島を見出せませんでした。

所謂「団塊の世代」の先輩音楽家の中には60年代にシタールを弾いていた人も居ますが、インド音楽ではありませんでした。私が独学の最中に少しレッスンを受けた先生は、芸大卒の方で、瞑想やヨガとは距離を持たれ。半年か一年先輩の兄弟子は、決して人前では弾こうとはしませんでした。1970年代初頭、インド音楽としてシタールを弾く者は、東京では、私を含めこの三人(大阪に一人)しか居なかったのです。
結果として、ライブハウスやヨガの集いで弾くのは私だけだったので、インド文化・瞑想・ヨガ関係者の間に次第に知れ渡り、1970年代初頭の日本の「精神世界の最先端」で、イベントのBGMを一手に引き受けていたのです。
……………………………………………………….
2018年の今、振り返って見て1968年から1972年の四年間は、世界的に大改革・維新の時代だったと思います。もちろん、その後ほどなく訪れた1980年代の「大崩壊の時代の始まり」も後々人類史に語られるでしょうが、後者は、「大切なものが次々と削げ落ちる時代の始まりを象徴する」のに対し、70年代は「始まりを象徴した時代」だったと痛感します。

もちろん世界は、シヴァ神の摂理に反せず「崩壊と新設(終焉と誕生)」を活性的に繰り返していますから、60年代末~70年代初頭に終わったものも多い。とりわけ学園紛争の終焉は、小学三年生で「三里塚大集会」「晴海20万集会」にも自分の意思で参加した私にとっては他人事ではなく、ショックは大きかった。(何処かで予期してもいましたが)
その時期は、「戦後の終わり」も象徴していました。世間は大阪万博に浮かれ、高度成長期の真っ只中でした。

1971年に民族音楽探求を始めた私は当時中学二年の終わり頃。「民族音楽は生涯の学び。生活はどうする?そうだ!ロック・ミュージシャンになろう!」と幼稚な計画を立てます。
(挫折回り道は多けれど、基本的な道はとうとう変更せず生涯を送るのですが)
その矢先に「ハード・ロックの誕生」を見届けます。

同じこの時期に、所謂「ビートルズ・エイジ(団塊の世代)/日本型ヒッピー(フーテン)/学園紛争の挫折者(※)」の残党は、「バック・パッカー」となって世界に旅立って行きました。

(※)「挫折者」と言うと駄目っぽいですが、多くの若者が賢く掌を返したように社会適合者に変貌し「ちゃっかり就職」したのに対し、切り替えが出来なかった真っ正直な人々です。私には、強い影響を受けたそんな先輩が多くいます。

「日本型ヒッピー」は、欧米のそれとはかなり性質と時期が異なりました。欧米では60年代前半に「ドラッグ・ノンアルコール・瞑想・BP旅行・インド・サイケデリック・大ロックフェス」がほぼセットになっていたのに対し、日本ではドラッグの蔓延は次世代・次々世代の方が中心で、アルコールは特に嫌われず、瞑想もインドへの憧れも全体には広がらず、旅行も60年代後半からであり、音楽は学園紛争前からのカレッジ・フォークを引き摺りながら、吉田卓郎、高田渡さんたちにハマっている人が主流でした。ロックフェスは、音楽産業が画策した商業主義的なものが主体となり、かなり後に隆盛します。
70年代後半になると、私の世代(狭間世代)がインド旅行にハマります。この世代は、幼児幼少の頃に「飢え」さえ体験せず、「学校給食」でむしろ腹一杯食べられた世代です。その中でも、突然ドロップアウトしてインドに行ってしまう人は、むしろ良家のエリート少年少女が多かった。

日本では欧米の「セット感覚」などは全く定着せず、人それぞれで、「セットメニューの部分」を、より好んでひとつふたつ選択するような形でした。

そのような、日本に於ける「60年代末~70年代初頭」の「サブ・カルチャーの誕生」は、実際のところ「形骸的」「仏作って魂入れず」だったと言わざるを得ないのです。

逆に言えば、私の座右の銘である、ガンディーの言葉通りの人生を選択したとも言えます。

「貴方がその闘いを(どんなに苦難であろうとも)続けなければならないのは、
貴方が世界を変える為ではありません。
貴方が世界に変えられない為なのです」Mhaatma Gandhi
…………………………………………………………………..
学園紛争の終焉を目の当たりにし、ちゃっかり授業に戻って卒業し、企業に就職した大半の仲間を尻目に、元祖フリーターになりつつ、インドに旅をする。そんな彼らは、後に言う「負け組み」であることをむしろ自認していた感さえあります。その選択こそが「自分に正直」ということだったのでしょう。

しかし、そこには将来のヴィジョンはほとんど感じられない。高校生の私がシタールとタブラで参加した(後に有名推理小説家になる)ロック・バンドのメンバーも皆、「音楽で世の中を変える」などとはとうに思っていなかった。唯一社会に名が知れた小説家も、私が出会った当時は美大生だったので、後に美術、音楽とは全く違うジャンルで社会に認められた訳です。

2、日本に於ける「精神世界カルチャー」の曙
1978年に吉祥寺南口駅前に、日本初の民族音楽ライブスポットを開店(1999年まで20年続けました)してからは、当時の日本の精神世界の出版物のほとんどを店の一角で販売していました。
後に事件を起こす教団の書籍も営業に来ましたが、何故かそこだけは直感が抵抗してお断りしました。
その他の「めるくまーる舎(当時の呼称)」「バグワン・シュリ・ラジニーシ」「ヴェーダーンタ文庫」などの書籍などは全巻揃えていました。都心にもう一軒専門書店がある程度の時代、それなりの役割を果たしていた筈です。

日本で「精神世界」という言葉が言われ始めたのは、私がインド音楽から民族音楽探訪の人生を始めた1970年代初頭から暫らく経った1970年代後半。
一説には1977年に平河出版が雑誌「メディテイション」を発刊し、翌年にはあの紀伊国屋書店で「インド・ネパール精神世界の本・ブックフェアー」が開催されたのが発端と言われます。
1970年代には、前述の「めるくまーる舎」「ヴェーダーンタ文庫」が数々の書籍を発刊しており、70年代前半は「より多くの人々に知って欲しい」という思いはあれど「売らんかな」の勢いはなかったと記憶します。それが70年代後半から一気に「ひそかなブーム」「サブカルっぽい流行」的に煽る者もあれば、ちょっと高尚な「先を行く、非凡な感性を自認・自尊する」ような雰囲気も漂い始めていました。

私が日本初の「民族音楽ライブスポット」を都下吉祥寺に開店し(99年初頭迄20年続けました)てからの三年(1978~80年)、これも日本初の試み「ヴェジタリアン・ソサエティー」を立ち上げ、会員募集とともに「協賛店」を都内に数百店目指してチラシを作り数十の駅前商店街を回ったのですが、会員も協賛店も全く得られませんでした。これもまた、日本に於けるインド文化、精神世界文化に「セット感覚が欠如していた」ことの表れなのでしょう。

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157、アーユルヴェーダ音楽療法入門19(そもそも精神世界とは?-その6-)

ここまで、5回に渡って「そもそも精神世界とは?」について述べさせて頂きました。

(その1)では、「魂」という言葉の誤用は、権力者の恣意の可能性があり、「心」という言葉の誤用は、庶民の「大げさ、美意識」が原因と述べました。

(その2)では、同じようなことが西洋でも行われていること。しばしば「歌の世界」では、日本に於ける「心の美化的誤用」のように、「詩的を言い訳にした美化」があり、レコード会社の「売らんかな」も加味されている話。一方スペイン語の「Corazón」の場合、むしろ「多様な意味」を意図的に持たせた様子があり、これは「誤用」とは意味が異なるなどと述べました。

(その3)では、昔のお医者の「カルテのドイツ語」、未だにクラッシック音楽の世界で行われている「多国語の混用」。それらに見られる日本人の日本語と英語に対するコンプレックス。「現地専門用語」を用い続けることの「謙虚さ・憧れ」と「ひけらかす自尊心」のせめぎ合いについて述べました。

(その4)では、「精神世界(領域)」の語彙は、(その1)~(その3)の元凶に加えて、そもそも「感情、思考、想い、心、魂」が世界の何処でも「論理的な概念・定義が為されていないこと」。しかし、私がこの連載で何度も説明しているように、その構造は確かに定義することが出来る。しかし、それを「ひとつの意見」として聞き流したい心理があるのだろう、と述べました。

(その5)では、私がクレイジーなほど多岐に渡る考察から得た「精神構造図」は、奇しくも古代インド・ヴェーダ科学ですでに説かれていた「Kosha論」とほぼ一致していたことを説明致しました。
しかし、その「Kosha論」にも、いくつかの問題があり、特に紀元前のインドと現代社会人の場合では、根本的な違いを「本来のあるべき姿」にも見出すべきだろうと述べました。

………………………………………..
これらすべてを総合すれば明らかなことですが、「古今東西で、心と感情や気持ちと想いなどは、どちらが深いところに在るかは、ほぼ同じようなことを言っているが、微妙に一階層ずれたりする。しかしそこには『そうしたい恣意』がある」「古代インドには、著者の『精神構造図』と全く同じことを言っている理論が存在した」という事実があるのです。
…………………………………………………..
これらのことをまとめると、おおよそ次のようになります。いずれも古今東西で共通しています。

1)精神構造は、「気分・感情(Heart)~論理思考(Mind)~心(Spirit)~魂(Soul)」の順に、
より「深い(奥)」領域に存在する。

2)「論理思考領域」を荒涼としたものにしてしまい、もっぱら「気分・感情領域」で
思考する人間は古代から存在した。しかし戦後急増し、日本の場合、1980年代以降
庶民の大半を占めるようになった。(※)遅れて1990年代、急速に世界中に広まった。
もしかしたら日本の「ゲーム・アニメ」の世界的流行・浸透と符号するのかも知れない。

3)古今東西で、「より深い領域」であるかのように「大げさ・美化」したがるものである。

4)「気分・感情(Heart)」を「美しく純粋」であると思いたい人間は極めて多い。
その結果「気分・感情(Heart)=心(Spirit)」としたがる傾向が強い。

5)殆どの思考が、「気分・感情(Heart)」にて「外因に反応して」生じるにも拘わらず、
「より深いところで考えたと思いたい」が為に「心=Mind」としたい人が極めて多い。

6)「魂(Soul)」は、「輪廻転生」を信じる場合、「神からの預かりもの(個人の所有物ではない)」
と言ってもさしつかえない筈だが、権力者(為政者)は、しばしばこれを「民族(社会/集団)」の共有物
と偽り、民衆を扇動する。民衆の側にも「群生本能的な共感」で安心しようという意識がある。

7)権力者の恣意と同様に、プロ歌手・レコード会社・出版社は「売らんかな」で、「精神世界語彙」
を好き勝手に解釈し民衆に迎合しつつ扇動し、より混乱を深める。

8)これらの結果、世界中で殆どの人々が、
「気分・感情(Heart)~論理思考(Mind)~心(Spirit)~魂(Soul)」を好き勝手に解釈し誤用している。

9)近年では「気分感情思考」を「感じた」と表現し、臆さないどころか誇らしげに言う人も急増。

10)そのような「感覚(認識・価値観)」の仲間同士で共感・連体し、反する感覚を排除したがる。

11)「ものごとを深く考えない」結果、「論理的思考力」は深刻なダメージを受け衰退する。
代わりに「気分感情領域での循環思考」が活性化し、常に「頭は混乱」寸前となり、
自らで過度のストレスを作り出すこととなる。

…………………………………………………….
私が、このようなことを「嫌われる」ことを覚悟で述べ続けているのは。
ひとつの「目先の問題」として、このような「精神構造」では、「音楽療法」が「暖簾に手押し」であり、「利くものも利かない」からです。

しかしそれとは別に、極めて重要なテーマは、「ヴェーダの科学」「神々の力」は、確かに存在するにも拘わらず、このような「精神構造・思考回路」では、それに辿り着けないと思うからであり、これほどもったいなく哀しいことがない、と思うからです。
………………………………………………………..
斯く言う私とて、17年前保護猫の世話をするようになった当時。論理を真剣に学ぼうとしていなかった頃。愛猫の持病の一進一退に一喜一憂し、「病気と闘ういたいけな猫」の頭上で、獣医さんと戦っていました。「あっ!解熱剤はまだ待って下さい!」「えっ!どうして利き始めたかも知れないのに抗生剤を替えるんですか!」「今の薬は何ですか?!」などなどと。

一二年後、その過ちに気づき。「お医者が何をするか」に関しては、ひたすら「神頼み」となり。自分に出来るフォロー(抗生剤やステロイド剤のリスクを軽減する生薬や食事、環境を改善する務め)に邁進しました。その頃には「病魔が敵なのに、投薬との闘いになっていた子」に「心が通じる」ようになりました。(病魔優勢の頃は難しい時も少なくありませんが)
或る意味猫たちは、私の「最大最強の論理の師匠」とも言えます。
……………………………………………….
そして、「命と向き合い」「気分感情(と心の共同体)で最大限の励ましを送り」つつ。「やるべきこと」は論理的に、ブレずに粛々と遂行して行くと。年々、「神々の領域」の存在が大きく・深く感じられるようになってゆくのです。

まさに私の心の師 二人の偉人の言葉通りに。

「論理は信心の敵ではない。むしろ最大の味方である」 Swami Vivekananda

「貴方がその闘いを続けるべきなのは、
貴方が世界を変える為ではありません」
「貴方が世界に変えられない為です」 Mahaatma Gandhi

……………………………………………………………………
Vol.152の図で、様々な言葉の検証を示しました。それには書きませんでしたが、一般に深く浸透している語法に「自分の気持ちに正直に」と「自分の気持ちを裏切れない」というのがあります。
これは明らかに誤用です。しかし、無下に否定出来ない想いもあります。

例えば、猫保護の話ですが、
(※)猫に興味が無い人や、むしろ嫌い・苦手という人は、「原発問題」「憲法問題」にでも置き換えて読んで下さい。尤も、「論理的思考領域」が失われつつある場合「置き換えて考える」ということが苦痛かも知れません。その場合はやむを得ませんが。

かつては「強烈な愛猫家」で、保護活動もしていた人が、或る出来事をきっかけに「間逆」の人格・考え方に変貌してしまいました。

その人の「或る出来事」というのが、立て続けて「酷い里親に渡してしまった」ということでした。詳しい事情はともかく、それによってその人は「子猫を殺してしまった罪の呵責」を重く感じました。

しかし、人間(の気分感情領域の循環思考)は「苦痛からの逃避」の為に、様々なことを凄まじく思考し、「活路(逃げ道)を探し出さん」とするものです。

その人は、ほどなく「愛猫家」の殆どを嫌い、否定するようになりました。「自分が癒されたいだけ」「保護猫を引き取って良い人間だと思いたいだけ」と。そして「猫保護活動」さえも嫌い・否定し、私にもずいぶん誹謗中傷を述べるようになりました。かつては「若林さんのような考え方ややり方の人は見たことも聞いたこともない。素晴らしい」と言っていたのに、間逆の評価です。

更に「公園などで餌付けをしている人」を止めさせるために区役所にクレーム電話をしたり、と酷く執拗に「逆の行動」をするようになったのです。まるで「禁煙した途端に、物凄い嫌煙家になる」「ダイエットに成功した途端、太っている人を蔑視する」人々と同じように。

もうお分かりと思いますが、その人は「心(※)に深い傷を負い」その「原因の追究(犯人探し)」と「子猫の敵討ち」が混同・融合してしまったのです。

しかし、「余りに強烈な自戒・自責の念」が、むしろ最もその人を苦しめている正体であり、それを「内心(※)では分かっている」かのように、「別な犯人」を必死に探さずには居れない状態に至っていたのです。

そうなってしまった後のその人の口癖は、「自分の気持ちを裏切れない」「自分の気持ちに正直であり続けたい」でした。

果たして、その人の場合、その人が言う「気持ち」とは、何処の領域のことなのでしょうか? いみじくも「心」とは言わなかった。

上記の(※)では、敢えて「一般に普通に用いられている語法で書きましたが、実はいずれも「確かに『心』の領域」に他なりません。

その人は「確かに『心』に深い傷を負った」ですが、その「傷」の本質は、「心の何処か(内心/というより心そのもの)では、気分感情領域が暴走した自虐からの逃避願望が、最も大きな苦しみの元凶であることを分かっている」なのです。

従って、「自分の気持ちを裏切れない」は、正しくは「自分の気分感情を裏切れない=気分感情の支配から逃れられない=気分感情を制御出来ない」であり、「自分の気持ちに正直であり続けたい」は、「気分感情を制御出来ず支配されている自分を許したい=何故ならば悪いのはあの里親であり、身勝手で自分本位な自称愛猫家たちなのだから」が、正直なところなのでしょう。

しかし、本当の「心」は、どう想い、どう感じているのでしょうか? 本当に「心を裏切ること」になるのか? それともむしろ変貌こそが「心を裏切っている」のか。

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156、アーユルヴェーダ音楽療法入門18(そもそも精神世界とは?-その5-)

「Kosha論」の解釈に於ける注意点

実際この「Kosha論」の基本は、ウパニシャドの中でも比較的古い(信憑性の高い)もので説かれていると言います。しかし、その後、一旦大きく廃れ、近代になって復興サンキャー学派などが脚色を加えて説いた結果、インド全体では基本的な価値には至っていないかも知れません。と言うよりも、そもそも数十年前までは、流石のインドには「心と感情を混同する」ような人は少なかったのでしょう。「Kosha論」は、言わば「当たり前のこと」として価値を見出さなかったのかも知れません。

尤も、その時代でも、それ以前でも、今日でも。「Kosha論」を知って「へー」とか「なるほど」で終わってしまうならば、価値も意味も見出せません。そこで説かれていることの意味と、現代人がどれほどズレているか? その理由は何なのか? を論理的に思考せねば、何の意味もないのです。
しかし実際は、残念なことに「へー」で終わる。「だから?」の域を超えない解説が、ヨガ関係やアーユルヴェーダ関係に少なくありません。(そもそも「Kosha論」を語るもの自体が極めて希ですが)
それは説いている人自身が「へー」の域を超えて、この「Kosha論」を理解していないからであろうと思わざるを得ません。
…………………………………………………………

「Kosha論」では、最も外側から「Annamaya-Kosha (食物鞘=肉体)」「Pranamaya-Kosha (生気鞘=気・活力・経絡など)」「Manomaya-Kosha (意思鞘)」「Vijnanamaya-Kosha (理知鞘)」「Anandamaya-Kosha (歓喜鞘)」の順に説かれます。「鞘(Kosha)」という観念で説いているのですから、それらはまるでロシヤ民芸の「マトリューシカ」のようなもので、明らかに「外側と内側」を分別しています。そして、それが私が説明している「精神構造図」と全く同じなのです。

「Manomaya-Kosha (意思鞘)」「Vijnanamaya-Kosha (理知鞘)」「Anandamaya-Kosha (歓喜鞘)」の三層は、私の図解の「気分感情領域(Heart)」「論理思考領域(Mind)」「心と魂の領域(Spirit/Soul)」と全く一致します。しかも「論理思考領域」を「理知鞘=理知層(領域)」としており、「意思=常人が常時自覚出来る意識(Ahamkara)=気分・感情と、それらが思考する領域」と区別しており、後者が外側にあり、前者が「心・魂」に近いところにある、と説明している点も全く同じです。
………………………………………….
違いは、「身体領域(精神領域と区別して)」を外側に二層説き、その二層目「Pranamaya-Kosha (生気鞘=気・活力・経絡など)」が「精神領域」と重なる部分もある点。最も内側のAnandamaya-Kosha (歓喜鞘)」で「心と魂」を区別していない点位です。
…………………………………………………..
この相違には、全て意味・理由があります。
相違点の前者は、「ヴェーダ科学」の「ひとつの大きな欠点」でもある「肉体論と精神論の混同」に原因があります。これだけで「分厚い論文」が書けてしまうテーマですが、搔い摘んで言うと。

「ヴェーダ科学の真髄」に於いては、「肉体論と精神論は、表裏一体であり同源同義」が結論なのです。ところが、インドの叡智に常に付きまとう性質ですが、「論理的には同源同義だが緒論に於いてはしばしば分別すべきである」という「矛盾」が理解出来ないとアウトなのです。

これは、何度もご説明している「樹木」の有様と同じです。「枝葉はそれぞれで別物」ですが「同じ一本の幹に繋がっている」という姿そのものの話です。「枝葉論」では「違い」がメインになり、「幹論」では、「同源同義」がメインになります。しかし互いに異なる次元の論理から切り離されることもアウトです。

ヨガ・アーユルヴェーダ関係者さんでもこれを分かっている人は殆ど居ないようで。「インドでは肉体と精神は同じ物質」などと仰っていたりも多く見かけます。「遠からずとも当たらず」です。

相違点の後者は、おそらくタイッティリア・ウパニシャドの段階で既に「梵我一如」の観念が在って「心=魂(更に=Pursha:宇宙原理)」である、と説いてしまっているからであると共に、「個々の人間の個人所有物である心」は、その外側の)「Vijnanamaya-Kosha (理知鞘)」に含まれるか、もしくは「論理思考と同一」であると説いているからです。それはそれで凄いことで、例えば、以下のような例題で考えてみて下さい。
………………………………………………..
ファミレス・メニューの場合:
Manomaya-Kosha (意思鞘)の選択 → その時々の気分と直感で「食べたいもの」を選ぶ。
Vijnanamaya-Kosha (理知鞘)の選択→ その時の体調や前後の栄養バランスを考えて選ぶ。
Anandamaya-Kosha (歓喜鞘)の選択 →滅多な事では関与しないが、強いて言えば同上。

というのが「Kosha論」の時代の「人間の自然な姿」だったということです。

ところが現実は、
気分・感情の選択  → その時々の気分と直感で「食べたいもの」を選ぶ。
時間・金額や写真での印象や、同伴者の動向に左右される。[
思考領域 → 体調や前後の食事のことを加味して考える。
の二種でしばし「悩む」

捨て子猫と遭遇した場合:
気分・感情の選択  → 直感的に「可愛らしい」「可哀想」などを感じるのみ。
気分・感情思考の選択  → 「どうしよう」と循環思考するが、答えは既に出ている。
(人によって保護する場合もしない場合もそれぞれ)

これが「本来の人間」の場合、
論理思考の選択  → 「言い訳・屁理屈」は遺棄し、「すべきこと」を行動する。
ここに「可愛い・可哀想・放って置けない」の感情は不要

もし「心・魂」が選択に意見を述べられるのであれば
心の選択    → 「放って置けない」それしかない。
魂の選択    → 「放って置けない」それしかない。
………………………………………………
「捨て子猫」の場合、もっぱら「気分感情領域の循環思考」の人では、
「職場への道中だ。遅刻は出来ない→どうせアパートはペット不可→そもそも私は猫毛アレルギー→もっと良い人が拾ってくれるだろう→そうだ!ここで私が保護したら、そのチャンスをこの子から奪うことになる→「頑張ってね!きっと良い人が助けてくれるから」と声を掛ける(単に見捨てた訳じゃない)」のようなことを「猛スピード」で思考する能力に長けているようです。

「論理的思考領域」での答えでは、「ペット不可」「アレルギー」「もっと良い人」などは、「保護しない理由」には全くなりません。とにかく保護し、安全を確保し、健康に戻した後に幾らでも解決策があるからです。故に「答えは既に出ている」とした訳です。

最近では「鳴き声に気づいても『気のせいだろう』と判断する能力」さえ身につけている人も増えた気がします。いずれ「本当に聞こえない」人も増えることでしょう。
……………………………………..
「論理思考領域での思考」は、「論理的」であるが故に、その「思考構造」は、極めてシンプルで、「枝葉状=系図的」になっていますから、「思い通りに行かない場合」「分岐点」に戻って「別の選択」を試みることが出来ます。「思考」している間に、「気分・感情」が「焦ったり、悩んだり」は殆どありませんし、そもそもがシンプルですから「負荷」が少ないので、その分「判断と行動」に余裕が生まれます。

ところが「気分感情領域での思考」は、前述したように、「あれこれ色々考える」上に、「焦る・悩む」。そして、人によっては「どうするのが正しい?」「罪の呵責」なども加わって、実に「すっきり」しません。

事実の話ですが、昔の生徒さんで、循環思考であれこれ膨大に考えた挙句、逆に「或る種の無思考状態」に陥り、「動物の保護→行政の動物管理センターに相談しよう」に至ってしまった人が居ました。
直前で「殺処分」であり、それはトンデモ無い「本末転倒・矛盾の極み」であると、薄々感じながらも、循環から抜け出せずに子猫をセンターに持ち込んでしまい。しばらくして自分のしたことを理解して、それから20年近くも「心の重荷」にしていると、話してくれた人が居ます。

…………………………………………………………..
これは「学童のいじめ問題」でも同じ構造が見られます。
「いじめを目撃した」は、「捨て子猫と遭遇した」と全く同じ現象。ところが「見て見ぬフリをした人も、罪の呵責で苦しんだんだ=被害者の一種=加害者ではない」という理屈まで思考する人も少なくありません。

同じく事実の話ですが、私が二十歳になった頃。突然小学校の同級生から電話があり。「あの時、君に対するクラス中の苛めに、『苛めたくない』と思いながらも後戻り出来ずに加担してしまった」と詫びられたことがあります。彼はそれから7~8年、ずっとそのことが「心の何処かで重荷になっていた」というのです。
「ご苦労な話だ」と言ったら無礼ですが。当の私は小学校時代、それに思い悩むこともなく。「ああ、そうかあれが苛めなのか」と理解したのは中学二年になった頃でしたから、正直「ご苦労さま」としか思いようがありませんでした。私は、小学校二三年に「役者の子・川原乞食」とクラス中から石を投げられるなどの苛めを受けていましたが、毎度その日の内に忘れたかのように、翌日はまた「給食目当て」でまた学校に喜んで行っていました。

……………………………………………..
もし、「Kosha論(Taittiriya-Upanishad)」の時代に「捨て子猫」と遭遇したら?
その時代でも「他の動物に喰い殺される」と心配することは在り得たでしょう。

Manomaya-Kosha (意思鞘)の選択 → その時々の事情・状況・条件で悩むことはある。
Vijnanamaya-Kosha (理知鞘)の選択→ すべきことを即行動する
Anandamaya-Kosha (歓喜鞘)の選択 →滅多な事では関与しないが、強いて言えば答えは同上。

でしかない、と説いているのです。

つまり、「心が含まれているかも知れないVijnanamaya-Kosha(論理思考領域)」は、論理的であるが故に「個人差が無い」のです。もし「心は魂と同一」であるならば、尚更です。

つまり「個人=個性=個別の感性」は、最も外側の「Manomaya-Kosha」でしかなく、それが出した答え(選択)ばかりで生きている人間は、明らかに「下等」と考えられていた訳です。

そのような人が、自らの「閉塞感・不遇感・生き辛さ」などから「梵我一如」を望むなど、そもそも在り得ない、ということも言うまでもないことです。

逆に、「Vijnanamaya-Kosha」で選択した人は、その最中「あらん限りのManomaya-Koshaの思い」で、子猫を愛で、励まし、世話をするに違いありません。そこには、歴としたその人の「個性」が現れてしかるべきです。(例えば、人前では照れて「なんてことない」素振りでも、猫とふたりっきりだと目じりが下がりっぱなし、など)

つまり、私の「精神構造図」は、流石に「Kosha論(Taittiriya-Upanishad)」の時代の人間をデフォルトとして説いても非現実的過ぎますから、「梵我一如」の如何は別にして、「心の領域」を個人の所有(管轄)として説いている訳です。

このような話を説くと、
「なんだ!捨て子猫を保護することだけが正しいなんて、どうして決められるんだ!」という感覚から抜け出せない人に激怒されることが少なくありません。「そんなことは人それぞれの生き方、価値観、考え方であり、それは自由な筈だ!」ともおっしゃります。

哀しいかな。全てはそのお言葉に見事に証言されています。

おっしゃる通りに、「気分感情領域・樹木の枝葉領域」は、「外因(枝葉にとっての雨風陽射しや害虫、他の枝葉との衝突)によって影響を強く受け・ひたすら反応する」のが「当然(自然・正しい)」に決まっています。ゆえに「枝葉は自由に揺れ・折れないように良くしなる」べきなのです。
故に、
おっしゃる通りに「人それぞれで自由」なのです。

しかし、「それが全て(それで全て)」ということは、「太枝も幹も、根っこも無い(脆弱・希薄)」ということです。

従って、そのような人は、
Manomaya-Kosha (意思鞘)しか「自覚(意識・認識)出来ない」状態になっており、Vijnanamaya-Kosha (理知鞘)Anandamaya-Kosha (歓喜鞘)と「意識・認識」の通い合いが、「同じひとりの人間の内面であるにも拘らず、不能になっている」と言わざるを得ないのです。

……………………………………………………………………………………………………………………
極めて重要な問題は、そのような「気分感情領域の思考」ばかりで「論理思考」を殆どしない人は、日々物凄い思考と悩み、焦り、ストレスを感じているのですから、大変なことです。故に「Detox」や「自然食」などに懸命になるのでしょうが、「精神構造を元来の状態(健康)戻す」だけで、人間がどれほど健康になれるか。

私事(恐縮ながら)、
「ファミレスの食事など体に悪い」とおっしゃる人も少なくないかも知れませんが、(そもそも経済的理由で、自転車で五分のところにありながらこの七年年に一回も行けませんが)
40年前の二年間「Vegan」で、その後今日まで「Pescetarian」なので、ファミレス・メニューで選ぶもなにも、一種類位しかありません。思考も同様で、40年前までは、物凄く頭が疲れました。その後も論理を学び・習得修行をする前と後では、頭の疲れ度合い、疲れの質が全く異なります。今でも、手作業の種類によっては、例えば「掃き掃除中」の論理思考は疲れますが、「拭き掃除中」は、相乗効果が上がる、など脳機能に適した同時進行をせねばなりませんが。

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155、アーユルヴェーダ音楽療法入門17(そもそも精神世界とは?-その4-)

精神世界(領域)の構造について
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既に何度もご紹介している、最も奥底から「魂~心~論理的思考域~気分・感情領域」であるとした「精神構造図」を、「貴方(私=筆者)のお考えでしょ?」とか「まぁひとつの考え方としては面白いかもね」などとお考えになる方は、「精神世界・瞑想・ヨガ」を長く学んでいる方には居ないと思いますが、一般の評価では、これが最も多く寄せられると思います。

この「貴方の意見だ」「ひとつの考え方に過ぎない」という受け止め方は、1980年代から急速に蔓延し、90年代には完全に定着したと認識しています。「価値観の多様化」とか「人それぞれ」「物事に正解・不正解など無い」などという風潮も同じ時代に蔓延しました。それらが相乗効果で、結局「学び~理解~消化・吸収~応用~実践」という機能が激しく減衰し「表層的な情報の収集」の時代に突入してしまったのです。
それと同時に論理的思考力も極端に衰えて行った姿が見られます。どんな生き物でも「使わない機能」は衰えてゆくのが当たり前です。

例えば「ひとつの考え方に過ぎない」とした人に、「では『別の考え方』を並べて、それぞれを論理的に検証したことがあるのか?」と訊くと、全く無いようなのです。ならばその姿は、まるで「ファミレスのメニュー」との向かい合いのようなものです。

「ひとつの考え方に過ぎない=数あるメニューのひとつに過ぎない」と同じであり「全てのメニューを食べて見なきゃならない筋合いはないだろう」「パッと見て、その時々の気分で『これだ!』と思ったものを選べば良いに決まっている!」ということ(価値観・思考性・志向性)です。

まだ食物の場合、幾らファミレス・メニューであってもある程度の栄養はあるでしょうが、これが「情報」の場合どうでしょうか? そこから「学び」が無く、ただ取り込んで置いておくだけでは、チラシを集めてきただけと同じではないでしょうか?
………………………………………………………………………………….
私の「精神構造図」の元となったものは、それこそ45年の学びが基本にあり、インド文化・思想に限らず、世界中の文化・思想で言われていることや、世界中の神話や言い伝え、神秘主義から世俗歌謡に至る音楽・歌の世界で語られていること。そして、膨大な文献、ここ十年、二十年の日本内外のスピリチュアル・ヨガ・瞑想のweb情報などのとてつもない資料の、更にとてつもないクレージーな分析・検証から自ずと醸し出されたものなのです。

例えば音楽に関して、私よりテクニックがあり、格好良く、売れている人は世界に数十万居るでしょうが、「楽器の数、ジャンルの数」となると数人(私もうっとりさせられる心ある名演奏家も二三人居ますが)に過ぎません。世界規模でたったそれだけ、というのは明らかに「少数派=非常識=クレイジー」です。その二三人も私の楽器の数・ジャンルの数の百分の一かも知れません。それでも私とて、「音楽とは?」「人間とは?」「心とは?」を「分かりきった」などとは到底言えないのです。

楽器の数は、この十年でだいぶ手放しまし、保管料未払いで失ったものも多数ありますが、一時、リストを作り掛けた頃3千点を超えました。その後「滅んだユーラシア弦楽器の復元製作」をこの20年していますが、「作って奏でてみなければ分からない楽器は500点前後」。また200点しか出来ていません。手放した数より多いかも知れません。
復元製作に関しては、世界でも十数人がそれぞれ2~5点程度です。残念ながら「凄い正確(ツボを押さえている)だ!見事だ!」と思える復元にはまだ殆どお目に掛かっていません。私自身、百点作った時点と、二百点になった時点では、理解も納得も桁違いなのですから、2~5点で「楽器~音楽~人間~心」を語ることなど到底無理と思います。
………………………………………………………………………………….
私の数十倍クレイジーな僧侶たちが、紀元前からの五千年、少なくとも二千年、数百人が叡智を積み重ねて来たヴェーダの科学が、現代社会人が五年十年で学び、理解出来る筈もないことですが。
一度「世界中の音楽のほぼ全てをかじってみよう。世界中の楽器の大半を奏でてみよう」と試みると、それ迄の感覚・観念は決定的に覆され、全く新しい世界に突入します。勿論45年掛けても(回り道や無駄な時間も多かったですが)、「学ぶべき音楽・実際に奏でてみるべき楽器」は、まだ数十残されていますが。
………………………………………………………………………………….
「広く浅く」か「狭く深く」か? というテーマもまた、洋の東西を問わず、永遠のテーマでもあります。しかし「広く浅く」も、数十年も続けていると、自ずと深みも増すもので、何よりも「ひとつに執着」していることで「見失うもの」のリスクの方が遥かに大きいことも痛感しました。

今回の図は、私の「精神構造図」と「Taittiriya-Upanishad」で説かれている「人体5層論=Panch-Kosha(5層の鞘)」を照らし合わせたものです。様々な情報の執拗な分析から自然に醸し出された「構造図」が見えた、数年後に「Kosha論」を知った時「やっぱり!なるほど!」と思いました。

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(文章:若林 忠宏

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若林忠宏氏によるオリジナル・ヨーガミュージック製作(デモ音源申込み)
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154、アーユルヴェーダ音楽療法入門15(そもそも精神世界とは?-その3-)

1、世界一用語が混乱している日本
「精神世界の語彙」のみならず、そもそも日本は世界で一番「現地専門用語のそのまま使用」が多く、そして混乱している国ではないでしょうか?

例えば昭和30年代生まれの私の子どもの頃は、お医者さんはほぼ全ての人がカルテをドイツ語で書いていました。「何故ドイツ語で書くの?」と訊けば「患者に分からないように」と正直に答えたお医者が居たそうな。まだインフォームド・コンセントの観念が普及していない時代のことで、むしろ逆に「秘密主義」的な姿勢が強かった時代です。そこで、「ではドイツのお医者は?」と訊けば「そりゃあドイツ語に決まってるだろう」という呆れた返答だったと言います。おそらく昔からイタリアのお医者、スペインのお医者は母国語でしたでしょう。「世界で日本だけが」の典型例です。

ところが、クラッシック音楽用語に関しては西洋でも、日本の「カルテはドイツ語」と同じ状況(音楽用語はイタリア語)があったようで、バッハ(独)、モーツァルト(墺)の時代(18世紀前半)はイタリア語を用いていたようです。中世~ルネサンス~バロック時代を通じて、長らく「イタリアは、西洋クラッシック音楽の発祥の国でありリーダー」と考えられていたからと言います。それがベートーヴェン(独)の時代(18世紀後半)まで続き、徐々に母国語を用いる(加える)ようになり、19世紀後半のマーラー、ブルックナー(墺)、ドビュッシー、ラベル(仏)の時代になると母国語の比率が増したと言われます。

必然的に明治以降の日本に於ける西洋クラッシック音楽教育では、イタリア語の楽語を完全に記憶していなければならず、ドイツ・オーストリア人の作品、フランス人の作品を学ぶときには、ドイツ語、フランス語の音楽用語も覚えなければならなくなってしまったのです。
ところがアメリカの交響楽団などは、早々に全てを英語に換えたとも言われます。そもそも各国の母国語の音楽用語の大半は日常用語なのです。ところが、合理主義に徹したアメリカのように「ならば母国・日常語で良いじゃないか」とならないのが日本なのです。

インド古典音楽の楽語の場合、今では日常用いられなくなったサンスクリット語の用語が3割程度で、中世イスラム王朝宮廷音楽時代のペルシア語、トルコ語、アラビヤ語が3割、今日日常も通じるヒンディー語が2割、今日も通じる筈ですが、「かなりかしこまった言い方やハイソな言い方、古臭い言い方」のヒンディー語が2割、といった感じです。

インドのリキシャ(人力車が伝わり現代はもっぱら自転車リキシャやオートリキシャ)ワラ(人夫)に、「ダヤン!(右)、バヤン!(左)、(いずれもインド古典太鼓タブラ・バヤンの左右の太鼓の名称と同じ)」は通じました。「Drut!(音楽用語の「早い」)」は、日常語でも「スピーディー、早い」ですが、人夫によっては通じませんでした。(通じないフリもありましょうが) 対語「Vilambit(Slow)」はより通じないでしょうし、使い時もないので試していません。しかし、これも音楽だけの言葉ではありません。

2、多国語が入り乱れることの功罪
今もドイツ語でカルテを書いている(随分少なくなったとも聞きます)お医者さんには嫌われるかも知れませんが、その習慣には「(昔の日本の医師に抱かれた)ドイツ語で書くことのステイタス」と「むやみに患者に医者の所見を明かさない(良くも悪くも)」という二つの性質があったと思われます。前者は、その習慣が薄れ、後者は「インフォームド・コンセント」の時代になって覆されました。私見としては、近年のあらゆる事柄に関する「平等・公開・権利保護」の風潮には、「やり過ぎ」と「それによって失われる大切なもの」も思わざるを得ないのですが…………………….。

音楽用語に関しては、今も相変わらず「イタリア語、ドイツ語、フランス語、英語」で全てを覚えなければならないだけでなく、「調名」に関しては未だに「変ホ長調」などと、明治に創案された日本語の「ドレミ=ハニホ」が使われています。かと思えば、実際の現場で「ドレミ」などと言うと「素人臭い」とされ「ドイツ語のツェー、デー、エー、エフ」が好まれるとも言い、ポピュラー・ミュージックでは「英語のシー、ディー、イー、エフ」ですが、バンドマン(まだ居るのか?※)の「業界用語」では、「おい!こないだ立て替えたゲーセン(G千円=五千円)何時返してくれるんだい!?」のように「ドイツ読み音名」が隠語になっています。
(※)私が洋楽で最初に仕事をしたのが19歳の時の「キャバレーバンド」でした。

これらの混乱の原因に見られる性質には、「郷に入っては郷に従う」的な、日本人が得意な「適応性」の素晴らしさと、「形から入りたがり、形で満足し、形で終わる(仏作って魂入れず)」の欠点が併せ持たれていると考えられます。

かく言う私も「インド古典音楽」を学び、教える時には、前述のような「現地の専門用語」を用います。手持ちのレコードやCDの資料リストを作る時でも、欧米盤のライナーに「Raga Yaman-Kalyan Slow-Tempo-Composition in 16Beats Teental」などと書かれていれば「Raga:Yaman-Kalyan Vilambit-Gat:Trital」に書き直します。リストの全ての情報が、統一された書式・用語で整理されていないと、一目で確認や比較が出来ないからです。

ちなみに、そのようなCDが日本盤で出ると、私のようにインド語に徹底することがないのは勿論、日本語にも替えず、英語のままなのです。「ゆっくりな器楽」と日本語で書いてしまうと「なんだか興ざめする」ということでしょう。

しかし、ここにも「語彙が混乱する」原因のひとつがあります。日本人は外来文化に関するものを「日本語にしたがらない」ということと、欧米以外の文化に関しても「英語」を好むという、明らかに「コンプレックス」が存在する風潮です。ヒンドゥー関連に関しても「Veda賛歌」を「Vedic-Chant」と言いたがる。「インド占星術」に至っては、正しくは「Jyotish(ジョティーシュ)」なのに、一旦アメリカナイズされたものをそのまま使いたがるので「ショーティッシュ」と思い込んでいる専門家が少なくない。同じことで昔から憤慨しているのが、「猫の学名」。学名=ラテン語なのですから「Feline=フェリーネ」でしょうに、「知ったか連中」は、英語化した「フィーライン」を用います。

私は、同じく、ペルシア音楽、アラブ古典音楽、トルコ古典音楽、ギリシア…………ブルガリア…….キューバ、ヴェネスエラ音楽…………でも、それぞれの現地の音楽用語を頭に叩き込みました。そのような実体験から、明治以降の日本のクラッシック音楽の担い手たちが、「憧れとより深い理解の為」に、現地用語を懸命に覚え活用する気持ちはとても良く分かり、それらを無下に「形から入る」とは言い切れない思いです。

ただ、どんな音楽ジャンルにも言えることですが、「専門用語や演奏家、楽器職人など」の音楽ファン~マニアが知らないことを「ひけらかす」ようなタイプの人間も少なくありません。そのような人々は、極めて限られたジャンルや地域の情報に執着しており、関連の情報には全く目もくれないという特性があり、そこには比較も全体把握も全く価値を感じていないかのようです。(音楽だけのことではないかも知れませんが)

この場合の「現地専門用語」は、「形から入って形で終わるの姿がある」と感じざるを得ません。「何かを理解する」ということが、「一点集中でより詳しい情報を得ること」だと思っているのは、世界で日本人だけだからです。しかもその感覚には「探究心の結果」というよりも「ステイタス・自尊心の道具」と感じされるものが多いのですから尚更です。

幸いにアーユルヴェーダ関連の専門用語と理論は、並みのインド古典音楽用語より膨大に多い上に難解なので「調べたことをネットに並べる」のが精一杯なのでしょう。その解説も「分かっているように見せている」ものばかりで、いろいろ落ちや矛盾がありますから「ひけらかし」に至ってもいない感じです。
(ただ、深刻な問題は、読者も「分かった気になりたいだけ」の人が増えたので、むしろ「分かってもいないけれど、分かった気になっている人の解説」の方が好まれる方向性があることです。)

しかし「精神世界の語彙」に関する問題は、これらのこと以上に深刻なものがあります。
「現地音楽専門用語や思想、哲学、文化用語を、日本人が様々に受け止め活用しているか?」としても、いずれも現地ではその「意味・価値」が確定しており、「人によって解釈が異なる」ということはありません。ところが「精神世界の語彙」に関しては、より詳しい専門的な用語は普遍的ですが、最も基本的な「気分・感情・思考・心・魂」の定義と「感じた・思った・考えた・想った」の解釈と語法さえもが「(世界中で)人それぞれ好き勝手」なのです。それでは、その先の「専門的な理解」も幾ら詳しく学んでも大きく異なってしまいます。

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何時も最後迄ご高読をありがとうございます。

福岡市南区の自宅別棟楽器倉庫の教室では、インド楽器とVedic-Chant、アーユルヴェーダ音楽療法の「無料体験講座」を行っています。詳しくは「若林忠宏・民族音楽教室」のFacebook-Page「Zindagi-e-Mosiqui」か、若林のTime-Lineにメッセージでお尋ね下さい。 九州に音楽仲間さんが居らっしゃる方は是非、ご周知下さると幸いです。

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是非ご参考にして下さいませ。

Hindu Chant講座Vol.1

Hindu Chant講座Vol.2

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Vedic Chant入門講座(基本理解編)

Ayurveda音楽療法紹介(基礎理解編)

アーユルヴェーダ音楽療法 (実践編1)

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アーユルヴェーダ音楽療法 (実践編3)

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(文章:若林 忠宏

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