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雑記帳

シルディ・サイババの誕生日はいつ?

9月28日(あるいは27日)は、シルディ・サイババの誕生日であるといわれています。日本人がサイババと聞くと、まずサティヤ・サイババを連想する方が多いと思いますが、インドでは、サイババというと普通はシルディ・サイババのことを指します。
しかし、実はこのシルディ・サイババの出生は謎とされていて、シルディ・サイババ寺院などでも、シルディ・サイババの降誕祭などが催されることは現在もありません。
ではなぜ、9月28日(あるいは27日)がシルディ・サイババの誕生日として広まったのでしょうか?
それは、シルディ・サイババの生まれ変わりといわれるサティヤ・サイババが、その講話の中で、シルディ・サイババの出生の秘密を詳細に述べたことからはじまります。シルディ・サイババ本人でないとわからないようなことにも言及していることから、サティヤ・サイババがシルディ・サイババの生まれ変わりであると広く受け入れられるようになりました。
この根拠のひとつに、シルディ・サイババが、「私は8年後に再び生まれ変わる」と預言してその生涯に幕を閉じ、そのちょうど8年後の1926年にサティヤ・サイババが誕生したことがあげられます。
しかし、シルディ・サイババ信者からしてみれば、サティヤ・サイババが自らをシルディの生まれ変わりと称していることに大変ないらだちを感じる人も少なくありません。2005年11月、サティヤ・サイババ生誕80周年記念式典に並行して計画されていたシルディ・サイババの降誕祭をきっかけに、シルディ・サイババの信者たちがサティヤ・サイババの信者を訴えたという記事があります[1]。その後も、シルディ・サイドは、サティヤ・サイドにシルディの生まれ変わりと称さないよう要求しています。
シルディ・サイババも、サティヤ・サイババも、ヒンドゥー教の世界観に基づいた普遍的真理を説いているにもかかわらず、それを信仰する人々との間で対立が絶えることがありません。また大局的にみても、同じ真理を説いているにもかかわらず、宗教間での対立が絶えることはありません。そこに宗教すなわち神を信じることの難しさが潜んでいるようにも思えます。
宗教では、同じ文献を参照しても、解釈する人々の意識により、その意味はどのようにも理解することができます。真に正しい解釈は、まさに「神」のみにしかできないでしょう。
それとは逆に、すべての人々が同じ解釈に達することができるのが、現代の自然科学です。さまざまな解釈や仮説が提案されることはあっても、幾多の議論や実験を通して理に適わないことは排除され、最終的には共通の真理のみが受け入れられます。
自然科学的な真理は、わたしたちの生活の中でも大いに活用されていることから、この真理を否定できる人はいないでしょう。
しかし、どちらの「真理」も、偏りすぎることで真理ではなくなってしまいます。
宗教的な「真理」についてみれば、聖典を解釈する意図、目的、意識によって、真理がゆがめられる可能性があります。たとえば、信者を獲得しようとする意図があれば、教祖は聖典を自分に都合のよいように解釈しないとも限りません。
また自然科学的「真理」については、物質論的な観点ではその右に出るものはありませんが、物質主義に偏りすぎることは、思考に偏りを生じる原因ともなり得ます。この偏りをどう捉えるかにもよりますが、数の原理、損得の原理にとらわれすぎると広い意味での真理がゆがめられることになるでしょう。
サティヤ・サイババは、その講話の中で、シルディ・サイババの誕生日について言及しています。1990年に行われた講話の中では、シルディ・サイババは、1835年9月28日に生まれたと述べています[2]。しかし、1992年9月27日に行われた講話の中では、シルディ・サイババは1838年9月27日に生まれたと述べています[3]。
このような論理的矛盾を巧みに突くことで、サイババは「真理」を述べていないと主張することも可能です。しかしそのような主張にも、なんらかの偏りを感じずにはいられません。
ヒンドゥー教では、火の神アグニ、風の神ヴァーユなど、自然の摂理を人格化し、それを神として崇める習慣があります。その神々は、多種多様な人格をもち、わたしたちの感覚でみても必ずしも完璧な人格の持ち主であるともいえません。しかし、インドでは、そのような必ずしも完璧でない人格の神々を、真心を込めて崇拝します。それはわたしたち日本人が、自然の中に神を見出す感覚に優れているのと同様に、インド人は多種多様な性格をもった人格の中に神を見出す感覚に優れている証でもあります。
「すべてのものの中に神が宿る」−これはヒンドゥー教の聖典に共通して述べられている言葉です。神は善人に多く存在するものでもなく、邪悪なものに存在しないということでもありません。すべてのものに共通して神が浸透しているということを意味しています。この言葉の真意を理解することができれば、宗教間の対立、個人の争い、または論争の種をまき散らすようなことはなくなるでしょう。
わたしたちの視覚、聴覚、味覚、嗅覚、触覚の五感、または知性で感じ得られるものに絶対の真理を投影しようとすると、そこにはなんらかの矛盾が生じます。本当の真理は、わたしたちの五感では悟り得ないところ、知性を超越したところに存在しているのかも知れません。
ダシャラー(ヴィジャヤーダシャミー)の祝日
本日はナヴァラートリ10日目にあたるダシャラー(ヴィジャヤーダシャミー)の吉日になります。
ダシャラー(Dussera)はダサラ(Dasara)と混合してしまいがちなのですが、ダサラ(Dasara)祭は、前回のブログで紹介したナヴァラートリとも呼ばれる、10日間のヒンドゥーの祭典のことを指します。ダシャラー(Dussera)は、そのお祭りのクライマックスである10日目の祝日を指します。Dasaraをダシャラーと読んだり、Dusseraをドゥッセラーと読んだり、読み方が統一されていないためにどの読みが正しいのか不明確ですが、学術的な辞典を参照するとDusseraの読みがダシャラーとなっていますので、ここでは、Dusseraをダシャラー、Dasaraをダサラとして区別することにしました。
今日ダシャラー(ヴィジャヤーダシャミー)の吉日に、お祭りは最高潮に達し、悪魔ラーヴァナの像が各地で燃やされ、善の勝利(ヴィジャヤ)がお祭りされます。ぜひこの吉日を祝して、日々、心の中で行われている善と悪の戦いの中で、善が勝利を収められることができるように、心を律してみるとよいかもしれません。
[1]Sai Baba Exposed
http://saibabaexposed.blogspot.com/2006/01/sai-baba-devotees-sued-by-sai-baba.html
[2]Sai Baba Discourse on 1990.Sept.28
http://www.sssbpt.info/ssspeaks/volume23/sss23-28.pdf
[3]Sai Baba Discourse on 1992.Sept.27
http://www.sssbpt.info/ssspeaks/volume25/sss25-31.pdf

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