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雑記帳

否定の先の幸福

この地に足を踏み入れることは、ある意味で、自分の中のあらゆるものを消し去っていく作業のように思うことがあります。それは、ウパニシャッドの代表的な哲人、ヤージニャヴァルキャが述べる、「アートマンは否定的な概念でしか捉えられない」という言葉を、一つ一つ実践していくようなものかもしれません。
一般に社会で生活を営む中で、自分の役割はそれぞれの場面によってさまざまな顔を持ち合わせています。家庭では父親であったり、母親であったり、息子や娘として、外に出れば、勤め人であったり誰かの友人であったりと、私たちはひと時もその役目を終えることはなく、心もまた忙しなく動き続けています。
自分自身を定義するそれらのものを否定していくことは、ヨーガの修練の中で偉大なものとの合一に至るために欠かせない作業の一つです。肉体というものがただこの魂を覆うものに過ぎず、そして感情や思考が自分の姿ではないということを強く覚えさせられる修練の数々を通して、人々はここで常に至高な存在との一体を求めています。
地位や名声、立場という自分の存在や価値を見出すための手段を手放すことは、多くの恐れや不安を伴います。しかし、ここでの人々の姿が物語るように、信じるものと強い信仰があれば、自分自身が失われるような恐怖に陥ることは決してありません。
必要のないものを手放しこの地に赴き、自分は何者でもないと否定しながら、ただ偉大な存在の下にヨーガを捧げる者としてその修練に入る時、そこには、自らを解放し自由になるための、そして何者でもないただ自分の内にある偉大な存在に気づくための大切な瞬間との出会いが溢れています。
「欲しいものをどれだけ手にしても永遠に満たされることはないと気がつけば、後はそれらを恐れずに手放していくだけです。」あるスワミジの言葉が物語るように、あらゆるものを放ち否定し続けた後に最後に残るものは、どんなものにも条件づけられない永遠に不変の至福だけに違いありません。
社会の中で全てを否定することが困難であるとしても、この肉体が、そして感情や思考が自分自身ではないということ、そして、奥深くにある誰もが持つ永遠の至福にいつの時も気づいていられるよう、少しの静寂がどんな人のもとにも訪れることをここで願っています。
(文章:ひるま)

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