歩む静寂

非暴力と不服従を基にインドの独立を率いたマハトマ・ガンジーは、どんなに忙しくても、日々の生活の中で歩くことをやめなかったと伝記が伝えています。ガンジーにとって、物理的な忙しさの中で歩くことは、精神的な余裕を生み出す術だったのだと言います。
ガンジーは、イギリスの支配の下での塩の専売に抗議するために、その歩みをとって「塩の行進」を実行します。そして、誰をも傷つけることがないその確かな歩みが人々の心を震わせ、インドの独立に向けて確かな礎を築きました。
歩むという行為は、古くから瞑想として取り入れられるほど、深い意味のある行いの一つです。例えばここで、人々が抱える喜びや悲しみ、その全てを一つに受け入れ静かに流れるガンジス川の側を歩く時、その川が人々の精神を深く静めるように、歩くという行いに集中した意識がいつしか体と心を結びつけ、自分の中に存在する静寂に深く導かれる感覚に包まれていきます。
容易に思えてなかなか難しいただ座るという瞑想よりも、もっと手に取りやすいものだと言われる歩く瞑想は、その単純な体の動きに意識を集中させていくだけで、散漫な心の動きが落ち着きを取り戻し、あるがままの事実に気づく精神を培っていくのだと伝えられます。掴みがたい心の動きと体の動きとを結び付けることで、精神は本来の静寂の中に落ち着くに違いありません。
そして、この神聖な地にはいつの時もその歩みを続ける人々の姿があります。神に近づくために巡礼を続ける人々の姿をここで目にする時、暑さや寒さ、喜びや悲しみに惑わされることがない、その確かな足取りに、人々の揺るがない強い精神を垣間見ます。それは、抱き続ける神への想いと共に、歩くという行為が確実に自分の中に空間を生み出し、そこで神との一体を経験しているのだと感じるほどです。
歩みを続けることは、この流れ続ける人生の中で、自分の存在を十分に、そして強く確認していく方法の一つなのかもしれません。ガンジーの歩みが大国を独立に導いたように、歩くという決して特別ではない小さな行いが、人々の意識に働きかける作用は偉大なものであり、深い瞑想は、この日々の行いの中に存在しているものでもあると、今ここで実感しています。
(文章:ひるま)