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雑記帳

現象世界の果て

感覚器官や思考機能が働く肉体をまとった私たちは、感じることから考えることまで、どんな時も行いを止めることはできません。そしてその過程で、好きや嫌い、痛みや心地よさといった現象を経験するのは避けられない事実です。
しかし、二元論を下に考えれば、それらをただ静かに見つめる存在が必ずあり、それこそが私たちの真の姿です。その純粋な意識とも言えるとても崇高な存在は、誰しもの真の姿であり、そして既に悟った存在だと、今、あるスワミジがこんな話をしてくれたことを思い出しています。
例えば大昔、人々がただ自然のサイクルに従い生活を営み精神性が研ぎ澄まされていた時代、夜の眠りに落ちた人々は、翌朝太陽が昇ろうとしていることに全く気がつかなくとも、その光と暖かさを実感したとき、日が明けることを理解し目を覚まします。
今のこの日常の生活の中でも同じです。日々の出来事に追われ疲労困憊しきった夜、どんなに深い眠りに落ちていようと、大きな物音や何かしらの衝撃が加われば人々は確実に目を覚まします。
私たちは完全な無意識の状態にあるわけではありません。純粋な意識は誰しもの真の姿であり、スワミジの言葉を辿れば、私たちはただこの現象世界という深い眠りに落ちているだけなのだと考えられます。そして、さまざまな方法でその眠りから目覚める術が語られる中、この日々の生活を生きる私たちにできることと言えば、行いのヨーガに他ありません。
カルマヨーガと呼ばれるその行いの中で、考えることから感じることまであらゆる行いを崇高なものへの捧げものとする時、私たちの行いは物質の次元を超えて行きます。自分のために何かを得るのではない、自分は何かを得るために存在しているのではない。その心からは好きや嫌いも、痛みも心地よさも生まれることはありません。それが、この現象世界を超越していくことです。
バガヴァッドギーターの中でも、クリシュナ神は繰り返し述べています。「行いは自分によってなされるのではなく、それは全てグナ(3つの性質)の作用にすぎない。その上の崇高な存在を理解する時、私と一体になる(14章19節)」と。
それは既に目覚めている自分自身の真の姿と出会うことでもあるに違いないと、スワミジの言葉と共に、その真実を一瞬一瞬に見出しながら今ここで日々の生活を努めています。
(文章:ひるま)

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