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インド音楽

宇宙の律動 「ターラ」のリズムサイクル

Drummer

インド科学音楽のリズムは、「Tala(ターラ)」と呼ばれます。科学音楽は、「Raga(ラーガ)」と「Tala」と「演奏法」の三本柱で構築されており、「Tala」の規則性は、「Raga」にも増して厳格であり、科学音楽の「科学」たる性格を強力に示しています。

「Tala」の字義は、「手拍子」です。今日でさえ、この「Tala」の規則を教え教わる時には、師匠も弟子も「手拍子」でそれを学びますが、インド科学音楽の場合、宴会のお囃子やコンサートの聴衆がするような単なる手拍子ではなく、規則に則ったもので、「手を打つ」だけでなく「手のひらを返す」も重要な所作となっています。これも理論的に厳格なインド科学音楽ならではのことで、そのような例は世界に他にみることはありません。「所作」という意味において、ヨガや、舞踊・演劇の「Mudra(ムドラー)」に通じる感覚が感じられます。

「Tala」の規則には、「リズムサイクル」という形態を厳守する、「付加リズム」である、「太鼓の基本パターンの規則が厳格」である、という三っつの大きな特徴的な要素があります。

「リズムサイクル」とは、一定の拍数のサイクルを曲の最中ずっと継続し、決して合間、空白を持たせない手法で、ペルシア,アラブ、トルコ音楽(オリエント音楽三兄弟)とフラメンコ音楽、西アフリカ音楽などに見られます。オリエントの音楽に見られるのは、インドとも関係が深かったヘレニズム時代に共有した概念であることを示唆しますが、古代ギリシアではさほど厳格に守られず、後の西洋音楽でもほとんど重視されていません。
それに対して、北アフリカから西アフリカにかけてのイスラム文化圏では、近年日本でもファンの多いギニア、マリなどの太鼓「Jembe(ジェンベ)」の音楽でさえ「リズムサイクル」は厳格に守られています。また、イスラム王朝時代のスペインも同様ですが、やはりピレネー山脈を越えて西欧にまでは普及しなかったようです。

インドを故郷とし、シルクロードを旅し東欧そしてスペインに至った「ジプシー」のスペインでの音楽であるフラメンコにあるのは、言わば当然と言えましょう。
同様に、西アフリカの人々が奴隷として連行されたカリブ海で、スペインの支配を受けた後に生まれたカリブ海のラテン系音楽にもリズムサイクルが厳守されているのも当然と言えます。
フラメンコでは、リズムサイクルを「コンパス」と呼び、如何に超越技巧が見事でも聴衆の喝采が大きくても、「コンパス」が甘いと玄人からは酷評を受けます。同様に、キューバ音楽では、拍子木「Claves(クラヴェス)」で叩く「Clave(クラーヴェ)」と呼ばれるリズムパターンで2小節単位のサイクルが厳守され、何らかのブレイク(空白)があっても、その間にも頭の中でクラーヴェが鳴っているかのように厳守され、それを間違えることは決して許されません。

実は、世界の音楽は、とりたてて「リズムサイクル」の概念を持たずとも、大概そのようにはなっているのです。日本の唱歌でさえも、例えば、「チューリップ」や「もみじ」なども、「四分の四拍子四小節単位」で出来ています。つまり、この「リズムサイクルの感覚」は、世界的に共通する人間の本能的なものであると言えるのです。
しかし、唱歌「さくら」は、四小節で一行歌われた後、二行目は二小説しかありません。そして、これを例外とか、逸脱したものであるという認識はありませんし、リズムサイクルを厳守している「チューリップ」や「もみじ」にも、その規則性を示す言葉はありません。言わば「自然にそうなった」であり、悪く言えば「たまたま」ということです。

日本の唱歌や西洋音楽の「たまたま」に比べれば、オリエント、西アフリカ、カリブの「リズムサイクル」はかなり厳格と言えます。しかしそれでも例外が全くないわけではありません。また、規則があるところには、ごく稀であっても、必ず「違反」がある種のアンチテーゼ、遊び、洒落として生まれます。洒落の場合「○○崩し」などと言ったりします。

ところが、インド科学音楽~古典音楽では、それらは一切許されません。インド以外の地域のリズムサイクルは、「人間が作り出したもの=社会的な規則」であるから、意図的な逆説もあり得るのでしょう。逆に言えば、その様な反骨もまた、人間の人間らしい姿と言えますし、社会に属しながらもちょっとふてくされた様子は、いつの時代でも「何か格好良い」と思われたようです。

ところが、インドのそれは人間が作り出したものではなく「宇宙の摂理」なのです。大げさに言えばそれに背くということは、その人間は「宇宙に存在しない」ということであり、自らで存在を否定する行為なのです。勿論人間ですから間違いはありますが、あくまでも間違いと思うから許されるのであって、「格好付け」は完全に否定されるわけです。と言いますか、人間社会が許そうとも、これこそ「天罰が下るだろう」という感覚なのでしょう。

現代でもインド古典音楽のコンサートでは、数時間の名演奏が行われ、演奏中にも盛大な拍手や喝采が起き上がっても、もし、最後の曲の最後でリズムサイクルを間違えでもしようものならば、全ての聴衆は「あーあ」の表情で、拍手もせずに退場してしまうのが本来の姿です。

(文章:若林 忠宏

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若林忠宏氏によるオリジナル・ヨーガミュージック製作(デモ音源申込み)
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