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インド音楽

標題音楽と絶対音楽

singing bowl made of seven metals surrounded of colorful autumn

世界の音楽は、その表現形態の違いで「標題音楽」と「絶対音楽」の二種に大別されますが、インド科学音楽・古典音楽は、後者の代表格です。
「標題音楽」はさらに、実在する何らかの風景や物を描写するものと、人間の情感や出来事を表現すものの二種に分類できます。一方の「絶対音楽」は、音の動きそのものの個性を創りだし鑑賞するものですが、いくつかのバロック音楽のように、その多くは複雑な形式やシステムが先行していると言えます。インド科学音楽も、厳格な形式やシステムがありますが、それ以上に音や旋法の存在感(命)を高く認識しています。

これらを他の芸術に喩えて説明するとむしろ分かりにくくなりますので、あえて料理に喩えます。

「風景などを表現する標題音楽」は、素材の持ち味を生かし、味付けや盛りつけに料理人の技と個性を見せる料理のようなもので、ある程度食材を加工しますが、加工食材は用いません。「情感を表現する標題音楽」は、料理人のオリジナリティーを表現するものであり、個性が際立てば、伝統性や技術はさほど問われず、加工食材でも可能な料理のようなものです。一方の「絶対音楽」は、新鮮な旬の素材を極力そのままの形で調理する刺身や活け造りのような料理であり、料理人の包丁さばきの技で、その鮮度と歯ごたえ風味を引き出す料理に当てはまります。

その昔、味噌や佃煮、高野豆腐、ハム、チーズなどの加工食品は、保存や輸送の設備技術が無かった時代、自然の恵みに恵まれなかった地域で発展した人間の叡智の産物です。ところが、愚かな人間は、自然環境を破壊し続けていますから、さほど遠くない未来に、食材のほとんどが加工食材となり、やがては、ほとんどが化学物質をペースト状やゼリー状にして食する時代に至るかもしれません。

音楽の世界も同じように、「絶対音楽」は、時代が変わる毎に廃れ、「風景などの標題音楽」さえも廃れつつあり「情感を表現する標題音楽」ばかりになりつつあります。これは食材・料理の場合と同じ人間のエゴと愚かさがそうさせていると考えることが出来ます。
何故ならば、「医食同源」という言葉があるように、食物は、「食べたいからたべる」「美味しい、好きだから食べる」だけでは駄目だったはずです。同じ様に、「アーユルヴェーダの音楽療法」などの考えでは、音楽も「好きなものを聴く」「楽しむために聴く」だけでは駄目だったはずですが、今の時代、そんなことを言っても誰も耳を貸さないのではないでしょうか。

また、自然の素材を生や姿のまま食することからは、「命をいただく」という意識が常につきまといました。しかし加工食材で作った加工食品には「いただく」という意識はさほど必要ありません。ゼリー状ペースト状になればなおのことで、化学物質になれば、何から抽出したのであろうと、最早「有り難み」さえもなくなるかもしれません。音楽も同じように、音や旋法の命や魂をこの世に呼び寄せる感覚であったものが、いつしか自己表現の道具のようになってしまい、楽しみや癒しの為に消費されて当然なものになってしまっています。

食事と料理の世界では、近年になって「スローフード、マクロビオティック、ローフード」などが提唱され、原点回帰のような考え方や、その土地、地域の伝統的な食文化が見直されて来ています。
インド科学音楽は、音や旋法そのものが「生きている」という、古今東西の「絶対音楽」の中でも、最も厳格な考え方ですから、豆の弦(つる)を切り捨てたり、魚の尻尾を切り捨てたりさえしません。また、後に詳しく述べますが、旋法「Raga(ラーガ}」には演奏すべき時間帯や季節が定められていました。つまり「旬」さえもあるわけです。
インド科学音楽は、言わば音楽における「究極的なスロー、マクロビ、ローフード」とさえ言えるのではないでしょうか。

(文章:若林 忠宏

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