古代インドの総合芸術

Beautiful clay dolls of miniature folk musicians performing in a band of classical Indian music

インド古典音楽についての記述が見られる最古の文献は、「Natya-Shastra(ナーティア・シャストラ)」であるとされます。ところが、本文献は、タイトル「Natya(演劇)のShastra(科学)」にあるように演劇書であり、舞踊書であり、音楽に関しては関連して述べられているに過ぎないのです。しかも、諸説ある成立年代の最も遅い説では8世紀、早くてもB.C.5世紀ですから、「科学音楽」が成立し、最も充実していたであろう時代より、優に千年、もしくはそれ以上後世の文献なのです。
そもそも古代インドにおいて、演劇と舞踊と音楽は、芸術はひとつの「芸術」、すなわち現代感覚で言うと「総合芸術」であったわけで、「Natya-Shastra」の時代には、分けて論じる観念が無かったとも言われます。

実は、この件に関する今迄の研究者の説明には考え落ちがあるように思えます。
まず、Natya-Shastraにて説かれている「総合芸術」が如何にして存在したか? 一言で言えばそれは、庶民に対する教育・啓蒙のためであったと考えます。

そもそも「科学音楽」以外の寺院音楽と舞踊は、一般大衆に見せる芸能ではなく、神々にささげる供養楽、供養舞であったのです。現代でも寺院で演奏されるBhajanなどの讃歌は、しばしば演奏者は聴衆に背を向けて神棚に向かって演じます。近年でこそ、信徒の方を向いて演じられるようにもなりましたが、その場合は、ある種の「説教」なのです。そうとは知らず見事な歌と演奏だったので、一曲終ったところで私独り思わず拍手をしてインド人聴衆(信徒)たちに笑われたことがあります。
演劇は元々、供養劇の要素よりも、庶民への啓蒙・教育の要素が強かったであろうことは想像出来ますが、これに舞踊、音楽を加えた「総合芸術」のプログラムもまた、ヒンドゥー神話の普及、布教的要素が濃かったと考えられるのです。さすれば、自然と「Performing-Art」の性質を帯びて来るに違いありません。

つまり、古代インドで音楽は、ヒンドゥー科学の実践としての「科学音楽」と、ヒンドゥー布教のために聴衆に向けて演じられる「総合芸術」の伴奏音楽と、宮廷儀礼音楽や宴楽、などの異なるジャンルがあったということです。
それらの複数を兼業した演奏家も居たかもしれません。古典的な音楽の場合、その理論や技法は、「科学音楽」に根ざしていたに違いありません。
さすれば、全く目的が異なるそれぞれのジャンルは、どのようにしてその精神性、意識を分別、けじめたのでしょうか。

古代中国、とりわけ唐代では、異なるジャンルが入り交じることを必死に防ごうとした様子が見られます。ところが、インドの場合、元々が多民族国家の中で育まれた多様な複合文化であったことや、その上で比較的頑強なヒエラルキーが構築されていたこと、本質的に、厳格な論理の幹があれば実践の枝葉は柔軟で由のような懐の大きさ、などなどで、芸術文化のジャンルの線引きやけじめが極めて曖昧であったのです。

言わば、免疫機能、拒絶反応、アレルギー反応のいずれも生じないかのごとくです。その結果、10世紀以降のイスラム文化圏からの音楽の流入に対しても、実にすんなり受入れ、吸収しました。それと同時に、内部、すなわちヒンドゥー文化の担い手の中での精神性の変化に対しても寛容であったのです。

結論的に言えば、その結果、古代インド古典音楽は、常に活き活きと発展し続けて来たと言える反面、その精神性は、決定的な変貌を遂げてしまったと言えるのです。

(文章:若林 忠宏

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