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インド音楽

31、五音音階や六音音階

old sitar on red background - ancient indian instrument

古代インド科学音楽~古典音楽では、1オクターヴを12の半音(古くは22)に分け、それから七音音階を順列組み合わせ的に見出しました。これを、「全て揃った」という意味で「Sampurna(サンプールナ)-Jati(ジャーティー/型)(以下略してSJ)」と呼びます。

このSJを基本にして、七音から1~2音を割愛(Vorjit/ヴォルジット)して、「六音音階(Shadava-Jati/シャーダヴァ・ジャーティー)(ShJ)」「五音音階(Audava-Jati(アウダヴァ・ジャーティー)(AJ)」をさらに見出したのです。

例えば、以前にも引用しました日本の唱歌「赤とんぼ」と「海」の「ソレミソラド」の音階は、日本でも「四七抜調」と呼ばれる様に、「四番音=ファ」と「七番音=シ」を割愛して見出された五音音階という考え方です。

数千年経たであろう今日も継承されている、Veda-Mantra(ヴェーダ・マントラ:様々なヴェーダ経典から見出されたマントラ)から得られた様々な讃歌の中には、例えば
「Stotra(m)/ストータラ(ム)」や「Shatka(m)シャトゥカ(ム)」のより古いものは「Audaba(AJ)/アウダヴァ=五音階」を用いて詠唱されています。

さらに、インド科学~古典音楽で音階は、「上行音列(Aroha/アーローハ)」と「下行音列(Avaroha/アヴァローハ)」が異なる観念で理解され、上下行とも同じ音階とは限らない、という考え方に発展しました。

これもまた世界で希に見る現象であり、「音階が上昇して行くことと下降して行くこと」は、「森羅万象」総てのものごとに通じて、「上昇と下降」「発展と衰退」「興奮と落ち着き」「出掛ける(行く、旅立ち)ことと帰る(戻る)こと」といった「相反するが対になっている原理/二元論」を象徴していると言えます。

その結果、音階は、「SJ~SJ(上下とも七音)」「AJ~AJ(上下とも五音)」「ShJ~ShJ(上下とも六音)」の三種の上下同一の音階の他に、「SJ~AJ(上行七音で下行五音)」「SJ~ShJ(上行七音で下行六音)」「AJ~SJ(上行五音で下行七音)」「AJ~ShJ(上行五音で下行六音)」「ShJ~SJ(上行六音で下行七音)」「ShJ~AJ(上行六音で下行五音)」の上下で異なる六種の上下異音階の合計九種の「型(Jati)」が在る(在り得る/在るべきだ/在るはずだ)、と考えられたのです。

ところが、何回か説明していますように、論理的に考察した後は、突然実践的になるのがインド音楽の不思議なところで、上行が五音や六音で、下行では七音という音階を用いるRagaはかなり多いのに対し、上行が、七音や六音で、下行がそれより少ない六音や五音という音階のRagaは、滅多に見られない(あまり演奏されない)のです。これは北インド古典音楽では「ほとんど無い」と言えます。

これは、駅の階段を駆け上がったり、駆け下りて猛烈に急ぐ時のことを思い浮かべて頂ければ直ぐに納得できることでしょう。
駆け上がる時には、一段飛ばしてもそんなに苦じゃない上に、むしろそうしたいかもしれない。しかし、駆け下りる時は、比較して危険だし怖い。
つまり、下行音列が少ないと、それが与える印象(および体や心に与える影響)の方が際立ってしまい、各音の命や、旋律の形の法則の効果効能を阻害してしまいかねない、ということなのです。

しかし、このことをより正確に言うと、現在でも、ヒンドゥー宗教音楽の性格が強い南インド古典音楽と、北インド古典音楽の古い時代に主要であった旋法には、「上行音列が六~七で、下行音列が上行より少ない、五~六」という、上記の「階段の喩え」で言うならば「不自然」なものが少なくないのです。
つまり、「時代とともにより人間感覚に偏った」ということが言え。それには「音楽に宗教を持ち込まない」イスラム教徒のヒューマニズムの影響も考えられると言うことだと思われます。

なお、Ragaによっては、「フラットのミ(もしくはシ)」と「ナチュラルのミ(もしくはシ)」または、「ナチュラルのファ」と「シャープのファ」のふたつともを用いることがあります。

この場合、ほぼ全ての実例において、「上行的モチーフにおいては高い方を選択し、下行的モチーフにおいては低い方を選択する」という規則的な習慣があります。これはオリエント音楽やギリシアのオリエント系音楽にも見られます。

上行的モチーフでは、高い方が気分が高揚し、下行的モチーフでは低い方が物悲しさが強調される。逆だと意味不明で気持ち悪い、というこれもまた極めて実践的かつ情感的な理由であろうと思われます。もちろん論理的には、その逆も確かに存在することを忘れてはならないのですが。

しかし、これら「ふたつの音」を用いる場合音数が七を越えようとも、「七音音階」という認識(解釈)は変わらないのです。例えば「ドレミファソラシ(フラット)ラシ(ナチュラル)ド」という実際的には八音用いている上行音列のRagaであろうとも、やはり七音音階なのです。

それは、「フラットとナチュラル」「ナチュラルとシャープ」は、「同じ音の変化」であるからであり、ドとソ以外の変化し得る音は、それぞれ命と人格に匹敵する性質を持っていると考えているからに他なりません。

これは、いずれお話する予定であります、「RagaとChakra」の関係とも関わります。幾つかの学派では、幾つかのChakraには、同じChakraの左右の系列が説かれており、Ragaの同じ音の「フラットとナチュラル」もしくは「ナチュラルとシャープ」が、左右のChakraとセットになるのです。

おそらく、これらの感覚は、「陰陽や相反するもの対峙」ほどは厳しくはっきりしたものではないと思われます。

ヒンドゥーの神々の中にもしばしば「二神一体」があったり、例えばGanesha神の鼻の曲がる方向に左右があったりのような、「置き換え、代理」的な感覚であろうと考えられます。
神々の「Avatara(アヴァターラ/化身)」と「Murti(ムールティー/相)」との違いにも通じるものがあります。

いずれにしても、他の国の文化では考えられない深さと微妙さを物語っているインド独特の感覚であると言えます。

(文章:若林 忠宏

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