46、リベンジ他流試合:Sadarang

drums

Sadarangの生没年は不詳ですが、ムガール帝国12代皇帝Muhammad Shah(在位:1719〜1748)の宮廷楽師の頂点に居た声楽家のひとりで、16世紀の楽聖Tan Senの娘と婿の系譜「Vinakar派」の10代目でもあります。Sadarangの逸話にもまた、「腕比べ」の話があり、それは彼の音楽人生と、インド古典音楽の歴史を大きく変えたものでした。

Sadarangはタイトルで、本名はNiyamet  Khanです。前述しましたように、高名な音楽家は、むしろ本名よりタイトルで呼ぶことが礼儀であり名誉であったのです。

しかし、このSadarangのタイトルには、他に特別な意味がありました。

それは時の皇帝の無茶苦茶な「Jugal-Bandhi(競演)」の要望が原因でした。皇帝Muhammadは、Niyamet KhanのVinaと、当代随一と言われる弓奏楽器「Sagangi(サーランギ)」奏者とのバトルを命じたのです。しかし、Dhrupadと、当時はまだ花柳界の歌姫の伴奏楽器だったSarangiとでは雲泥の格差があります。

当然Nyamet Khanは、皇帝Muhammadの命を拒否し、皇帝は、彼を宮廷から追放し、放浪の挙げ句に、東方の藩王国の楽師に落ちぶれたのでした。

古今東西で、誤解や一時の感情のもつれで絶縁した縁や関係を、何らかの特別な努力によって修復する物語の美談が語り継がれていますが、インド人はことのほかそのような話が好きなようです。しかもインド人は、あえて「相手の土俵で相手のルールで闘い勝つこと」を「粋」「誇り高い行為」と考えているように思います。

Niyamat Khanにとってのそれは、Sarangiが属する花柳界の歌姫の音楽でした。もちろん自らの本道は、科学音楽の末裔であるDhrupadに他なりませんから、彼自身が花柳界の音楽を演奏する訳にはいきません。

そこでNyamet Khanは、東方の藩王国で、花柳界の歌姫に新しい作風の歌を創作し仕込みました。それが後に宮廷古典声楽の主流の座を獲得する「Khayal(カヤール)様式」で、たちまち東方で大流行し、やがて西のデリーの花柳界でも流行し、皇帝Muhammadの耳にもその評判が届いたのです。

インドに限らず当時の歌は、ジャンルを問わず歌詞の中に作者の雅号を織り込む風習がありました。Nyamet Khanはその雅号を「Sadarangile Monmad-Shah」としたのです。「Monmado」や「Momo」は、ごく親しい者だけに許されたMuhammadの愛称ですから、「愛しのMuhammadの僕Sadarang」のような雅号なのです。

Nyamaet Khanの願い通り、とは言っても数年十年掛かりのことですが、皇帝Muhammadは、その雅号が気になってしかたがなくなり、「その者を探して連れて来い」ということになったのです。

一時の酔狂に過ぎない「腕比べ」をしてみるまでもなく、Niyamat Khanの実力は明らかであったと証明され、皇帝のメンツも立った訳です。

そればかりでなく、それを期にこの新しい声楽様式は、宮廷音楽の舞台に上がることが許され、歌姫の男兄弟のSarangiも太鼓Tablaも、その伴奏で宮廷に上がることができ、花柳界楽士の大出世にも繋がった訳です。

そして、これによって、この後数十年から百年掛かって、それらの「新音楽」が、宮廷楽壇の主流になって行くのです。

だからといって安直に「SadarangはKhayalの創始者である」というのは乱暴です。何故ならば、Khayalに至るまでにも幾多の物語があるからで、地位と名誉は歴史に遺る偉人に至らずとも、崇高な魂、精神性を持ち、寝食を犠牲に心血を注いだ人間が存在したはずだからです。

(文章:若林 忠宏

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