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インド音楽

49、ヤントラの犠牲? Basat Khan

illustration: OM symbol,amulet from Nepal,universe.

Umrao Khanとほぼ同時代に、Seni派のもう一方、Rababiya派には、Pyar Khan、Zafar Khan、Basat Khan三兄弟というSeni派の歴史に名高い名手が居ました。

この三人は、Tan Sen Rababの中興の祖と言うべき演奏家であり、長男と次男は子宝に恵まれず、わずかな弟子を持った他、もっぱら自らの音楽探求と演奏に集中しました。逆に、三男Basat Khanは、訳あって演奏活動よりも弟子の育成に務め、自身とその三人の息子からは、膨大な人数の弟子が育ち、いずれも後の巨匠格に君臨しました。

Basat Khanのその「訳」とは、Haddu Khan以来の伝説的な「腕比べ」のせいであると言われます。

Basat Khanの「腕比べ」は、例による王の無理難題ではなく、Mridang奏者の「道場破り」によるものでした。

長男、次男は他の宮廷に登官していたので、ラクナウ宮廷の楽師は皆ことごとくそのMridang奏者の超絶技巧に敗退し、トリに手合わせをしたBasat Khanは、見事にそのMridang奏者を打ち負かしたのですが、なんと、そのMridang奏者は、腹いせにヤントラを仕掛け、Basat Khanの右腕を不随にしてしまい、若くしてRababを弾くことが出来なくなり、その後はDhrupad声楽と、後進の育成に務め、高い評価を受け続けたというのです。

実は、私のSitarの師匠とSarodの師匠は兄弟で、兄が継いだSarodの家系こそは、RihilKhandのアフガン系音楽家で、Sarodの発明者でした。

私の師匠の父親と祖父、叔父はBasat Khan三兄弟の弟子だったので、この逸話について訊いてみたことがありますが、否定も肯定もしませんでした。これがヒンドゥー教徒の師匠だったら、どっちの肩を持つ人であろうと「そんなんだよ!」と熱く語ってくれたかもしれません。「ヤントラ」の話をイスラム教徒の師匠に語った自分の無粋を恥じたものです。

ところが或る日、Sitarの師匠から思いがけない言葉が飛び出しました。

器楽Gatは、19世紀に入ると声楽流派の門下出身のSitar奏者たちによる声楽の模倣が流行し始めるのですが、Sitar最古の二流派の巨匠たちは、それに反発し改めてDhrupadの奥義を取り込み、器楽のアイデンティティーを高めたのです。

奇しくも私の師匠は、初めに師事した師匠が亡くなった後、二人目の師匠に着き、結果その最古の二流派を学ぶことのなったのですが、師匠曰く、「器楽でしか出来ない我々の流派の音楽は、極めて理論的で科学的な音楽なのだ」と言うのです。そして、その音楽は、当時の楽壇で高く評価され「Tantra-Baj(様式)」と呼ばれるようになったのだと言うのです。まさか、イスラム教徒の師匠から「タントラ」の言葉を聞くとは想いもしませんでしたし、古代科学音楽が、あるべき形でしっかりと継承されていることを、イスラム教徒の音楽家が証言してくれたのです。驚きと感動の瞬間でした。

「恨みのヤントラ」の逸話は、比較的ヒンドゥーよりの複数の文献にありますので、恣意的に悪く描いたのではないと思われますが、やはり「ヤントラを悪用した悪者」のイメージは拭えません。しかし、この闘いの根底には、やはり科学音楽の伝統を守らんとする者と、アヴァンギャルドでハイブリッドな音楽との対立があります。

Mridangという太鼓は、古代から主流であった音楽の象徴のひとつでもあります。一方、ラクナウ宮廷は、最高位にはRababiyaたちが君臨していたとは言え、大勢は、「新音楽」の先鋒たちでしたから、Muridang奏者にしてみれば、敵の本丸でもあったのでしょう。

しかし、何故、同じDhrupadiyaを標的にしたのでしょうか? ムスリムだから? 新音楽の弟子を多く育てたからか?

何時の世にも、志が高じた挙げ句、過度に教条主義的になり、時に過激な行為に至る人間が居ます。さりとて、身の回りの安泰を良しとして、見て見ぬ振りの人間が多くなると、百年千年の視野で気づく大きな過ちや損失を招いてしまいます。インドの精神世界の根底にあるだろう「二元性と両極端の共存」は、単に「どっちもOK」でもなく、雑然と混在していて良いということでもないはずです。

人間の健康を維持している「恒常性」は、血液のpHや血糖値が上がれば下げる、下げれば上げる。そのためには、「上げる力」と「下げる力」という相反する力が均等に備わってなければなりません。

つまり、「相反するもの」は、常に正しく整理整頓され、あるべき処に安置保管され、何時でも発揮出来るようになっていなければ、単なる玉石混淆に過ぎません。それどころか、「消火用水」にガソリンが混じっているようなものです。

アーユルヴェーダでも中医・漢方弁証論治でも、その「相反するものの均衡」が崩れる時に「病気」になると説いています。すなわち、「両極端」の双方を司る「恒常性」の意思(命令系統)が失われた状態自体が、既に「病気」なのです。

しかし、人間の歴史を見てみると、常に争いの勝敗で世の中、社会が変貌してゆくばかり、「恒常を司る意思」の存在を無視しているのか? 知らないのか? 分からないのか? 切なくも果てなき課題です。

(文章:若林 忠宏

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