70、禁断のRaga

Sri Maha Mariaman Hindu Temple

はたして、インド古典音楽には、Raga(ラーガ/旋法)はいったい幾つあるのでしょうか?
結論から言うと、「誰も言えない」「誰も知らない」なのです。
一説には、「34,848である」と言われていますが、私はまだ全てを列記した資料と出逢えていません。

そんな、「計り知れないインド」のことですが、「禁断のRaga」という特殊なRagaは、そんなに多くはありません。
そもそも「禁断のRaga」という感覚は、インドに興味が無かったり、全く知らない人にはほとんど理解できない話かも知れません。
先ず、これを理解するには、「インド人の不思議な習慣(癖)」を理解する必要があります。

そもそも「机上の理論」で考案されたRagaですが、これは極めて「論理的」です。「論理」と聞くと現代人は、「理屈っぽい、融通が利かない」と敬遠しますが、全くの誤解です。

「論理」の基本は「考えられるだけ挙げる」ことです。故に「感性、好み、生い立ち、人生観、生活感、宗教観、思想の違い」から「思考性、指向性、理科系、文系、体育会系」そして、「大人、子ども、男、女性、障害者、高齢者」などあらゆる人々から、人間に限らぬあらゆる生き物や、石ころから大海に至る自然物に対しても「平等な考え方」なのです。

私はこれこそが「古代インドの科学」も最も誇らしい素晴らしい人間性溢れる叡智であると強く理解しています。
これこそが「森羅万象」であることは言う迄もありません。

ところが、そのインド人は、「論理的に考え挙げ出したもの=机上の理論」を実際、Raga演奏をする段になると「○○はつまらないから演らんで良い」と極めて「現実的、感覚的、情感的、慣例的」に判断を下すのです。大いなる「矛盾」と言わざるを得ません。

しかし、「最後で最年少の宮廷楽師」であった私の師匠の世代までは、これは「矛盾」ではなかったのです。樹木に喩えれば、「幹〜太枝〜中枝」と基礎を積み重ね、充分な理解と認識、分別を持って居れば、「全ての枝葉を実見聞する必要はない」ということに他なりません。

これに対し、インド人も含め、現代人は「樹を見て森(森羅万象)を見ない」。自分が選択を繰り返し歩んで来た「今居る枝葉」でしか物事を理解しない。故に「争いや誤解、決めつけ」が無くならない。「虐め」もしかり。

つまり、昔のインド人の場合「実見聞しなかった枝葉」も実体験したものと同価値があって「存在する」ことを忘れてはいなかった。なので「一を聞いて十を知る」というセンスに長けていたのです。
しかし現代人は、西洋的な「合理主義、現実主義、結果論」に固執して、「今を生きる」と素敵に言いつつ、「自分の枝葉のことしか考えない、理解しない」訳です。

そもそも、この感覚で弾くならば、あらゆる「Raga」が「Raga」ではない、とさえ言えるのではないでしょうか?だとすれば、既にそれは「禁断のRaga」であるとも言えます。

私の40年近くの教師人生で最も哀しいと思ったことは、延べ数百人の生徒さんやお弟子さんの殆どが「間違いを恥じる」ことでした。
私が「インド音楽の論理性」の話しを何度しても、「間違いこそは、森羅万象」という教えを理解してくれないのです。「何故間違ったのか?」に様々な学びの「豊かな源泉」「無尽蔵の金山」のような豊かさがあるのにも拘らず。「間違ったってことは分かってます」「そんなに追求しないで下さい」が本音だろう、という人が多いのです。

入門から一人前になる迄の「修行」は、「間違いが多い程豊か」であり、「正しい一音」に至った時に、その「一音」に深み、豊かさと優しさが溢れます。言い換えれば「正しい一音」とは、「様々な(間違いの)音の代表」の自覚がある「一音」なのです。
更に言えば、「修行とは、間違いをより多く体験出来る唯一のチャンス(時期)である」とさえ言いたい程です。
ところが、「間違い=忘れよう=忘れてくれ=追求なんてしないでくれ」という感覚では、悪く云えば「正しい一音は、様々な間違った音を淘汰(撲滅)させて生き残った一音」ということになります。なので、多くの人が「修行とは正しいことを知る過程である」という感覚なのでしょう。

私は生徒さんそれぞれが、「とっても素敵で面白い間違え方」「戸惑い方」「つっかかり方」「こだわり方」「引きずり方」をするのが、お教えする度に楽しくてなりません。「人間もまた、本来は森羅万象の中に散らばる、様々な姿なのだ」ということを充分に満喫出来ます。

ところが、習う方は「間違い=恥ずかしい」としか感じない。「今の間違いはとてもユニークで興味深い」などと言えば「意地が悪い」と感じてしまう人さえ少なくない。

しかしそうやって得た「正解」というものは、少なくとも私の信じる「Raga音楽」としては、「正しい」とは思えないのです。
さすればそれは、「正しい時間帯」に「間違えずに弾いても」正しいとは言えない場合がある、ということです。

表題に関して数行になってしまいましたが。インドで所謂「禁断のRaga」と呼ばれているものは、「正しく演奏すると身体が燃えてしまうから」という理由の「Raga:Depak(北インド)」と、「教え教わりすると師弟共に縁起が悪いので教え教わりせず、聴いて学ぶ(盗む)べきである」とされる「Raga:Shri(南北)」「Raga:Varali(南インド)」です。

「Dipak」と「Shri」は、恐らく近年後付けした感がありますが、「Varali」は、かなり昔から言われていたようです。

勿論、聴いた感じは不気味でも難解でもないのです。科学音楽としての理論的な根拠ではなく、神話の神々でさえも「トラウマ」を引きずるインドのことですから、人々が原典を忘れてしまった「何か」があって、ただただひたすらに「縁起が悪い」ということだけが残ってしまったのだろうと思われます。
ただ、理論から考えれば「根拠は無い」ということであり、「間違った習慣」ということになります。しかし私は、そのような、昔は日本にも多くあった「こだわり」や「言い伝え」も愛すべき学ぶべき習うべきものと感じます。何故ならば、そもそもそれらは「非合理的」であり「非科学的」であるからです。

何時も最後迄、ご高読ありがとうございます。

(文章:若林 忠宏

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