78、世界に知られた:Sitar (1)

後に、インド音楽の代名詞のように世界的に有名になるシタールが、北インド古典音楽、即ち当時イスラム宮廷音楽で用いられるようになったのは、サロードの発明と古典音楽界への登官に遅れること100年後の19世紀中頃でした。しかしその100年後にはサロードは愚か、インド三千四千年の歴史ある楽器や音楽がなし得なかった世界制覇を成し遂げるのです。
それはインド音楽史上最高の営業手腕を発揮したラヴィ・シャンカル氏と、彼を師と仰いだビートルズのジョージ・ハリスンの功績に他成りません。
この二人の名コンビの前には、1960年代の中頃のアメリカのジャズ・ギタリストの1〜2名と、イギリスのフォーク&トラッド界で1〜2名がシタールに挑戦していました。日本のフォーク界でも5年程遅れ、やはり1〜2名がチャレンジしていました。英米のシンクロな状況は、アメリカに於ける「ヴェトナム反戦→ヒッピー&フラワー・ムーブメント(詩人ギンズバーグなどがインド文化に傾倒)→マリファナ&インド旅行(バックパッカー)ブーム→野外大ロックフェス(後にジャズフェスも)」の流れの中で、インド旅行でシタールを買って帰る若者が多く居たことに起因します。もちろん、第三世界の民族音楽は、古くはパリ万博(1889年の第三回目)で見聞きした西洋クラッシクの作曲家がインスパイアーされたことをはじめとして、1950年代後半にはアメリカの映画音楽作曲家マーティン・デニーがかなり良い雰囲気で取り上げた御陰で、欧米の人々は耳に慣れ親しんではいました。

当時のベナレス(ヴァーラナースィー)を振り返って何人かのインド人音楽家は、「酷い有り様だった」と語ってくれました。何しろ朝から晩迄ガンジャ(マリファナ)浸けで、屋外では演奏しないシタール、タブラ(太鼓)を路上で演奏し、二個セットのタブラ(&バヤン)を二人でボンゴのようにぶっ叩くはあちこちで日常的。挙げ句には、干瓢が割れたシタールの胴に頭を突っ込んで歩く姿には激怒を通り越して卒倒しそうだった、などなど、思い出しても怒りが込み上げるような有り様だったと言いました。

インド旅行ブームは、日本では5年〜10年遅れて来ますが既にシタールは知られていた上に、「ジョージ・ハリスンは断念したそうだ」の話しも伝わっていましたので買って帰る人は僅かでしたが、そのような人々にせがまれて教え始めたのが私の教室の始まりでした。

実際ジョージ・ハリスンが最初にシタールを起用した「ノルーウェーの森(本当は家具、壁か床材のことらしい/1965年)の段階ではロンドンの骨董屋で買い、独学かインド料理店主にイロハを習った程度ですから、調弦もダルダルでした。ジャズ・ギタリストのガボール・サボもしかり。「ノルウェー」の前年の映画「ヘルプ」では、在英のインド人グループが演奏し映画にも登場していますが、なんと前回ご紹介した「スール・バハール(ベース・シタール)」も用いています。ジャズの世界でもイギリスのジョン・メイヤー&ジョー・ハリオットも、在英インド人音楽家のシタールとタブラを起用しています。

同じ頃イギリスのフォーク&トラッド・グループの「ペンタングル」は結構本格的に使っていました(メンバーではなくスタジオ・ミュージシャンですが)。
そして、1965年以降「猫も杓子も」シタールやインド音楽風、ラーガ風が欧米で大流行し、日本のレコード会社は急遽勉強会を開いて対応に苦慮したとのことです。何しろ「ラーガ・ロック」というジャンル迄生まれました。
なので、「えっ彼までもが?」というミュージシャンも「ラーガ・ロック」を録音しています。個人的にはジェフ・ベック(もちろんギター演奏です)が最も高水準に達していたと思っています。因にジミー・ペイジ(レド・ツェッペリン)が「俺の方がジョージより先にシタールを弾いた」と言ったことは良く語られています。
踊りながら歌うミック・ジャガーに蹴られそう踏まれそうになりながら胡座をかいてシタールを弾いたブライアン・ジョーンズは、それ程本気で取り組みはしなかったようです。亡くなる前はモロッコ音楽にハマっていました。

ところがそのジョージは翌1966年、ヘルプのミュージシャンから吸収したのでしょうか、かなり本格的になった「ラヴユートゥー」を発表し、翌1967年には既にラヴィ・シャンカル氏の弟子になり師のアレンジで「ウィズインユー・ウィザウトユー」を発表します。この頃にはもう自分ではシタールを弾きません。後半のインスト部分は10拍子です。録音メンバーにはシャンカル氏の天才的だったにも拘らず早世した息子も参加しています。
翌1968年のシングル盤B面「ジ・インナーライト」では古典音楽への興味を卒業し西インド民謡のスタイルを起用しています。その後ももちろんシャンカル氏との共演は続き。様々なフュージョン音楽で、今日のインド古典音楽界の巨匠の親たちの若かりし演奏が録音されています。

しかしご存知のように1970年代に入ると、ジミー・ペイジのハードロックによって、欧米ではアコースティック系が全く出番がなくなり、一気に下火。日本でも「めんたいロック」に始まり「日本のロックを世界水準に」の方向性に至って、むしろ和楽器などを起用しましたがパッとせず。フォークブームも到来しましたが、インドの香りは一切ありませんでした。個人的には「反戦」と結びついたイメージが安田講堂、あさま山荘事件を境に、反戦・ヒッピー系サブカル全体を「忘れよう」のスウィッチが入ったのではないか、と思っています。

(文章:若林 忠宏

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若林忠宏氏によるオリジナル・ヨーガミュージック製作(デモ音源申込み)
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