85、宇宙→地球→生命体 (森羅万象との繋がり)

そもそも宇宙は「果てしなく無限」でありますから、宇宙には一体どれほどの天体があり、未だ解明されていない物質が、果たしてどのように存在し飛び交っているのでしょうか?  私達が属する「銀河系」だけでも、約二千億もの「恒星」が存在すると言われますから気が遠くなる世界です。

そして、「無数に在るだろう○○系」のひとつに過ぎない「銀河系」の中の、そのまた約二千億のひとつに過ぎない「太陽系」の十数個(今現在も確定していない)の惑星・準惑星のひとつに過ぎない「地球」には、動物だけで約137万種。確認されただけも870万種の生物が共存していると言われます。

一方、私達人間及び様々な生命体の体内には、無数とも思える細胞と、善し悪し日和見、様々な細菌が共棲・共存しています。人間の場合、細胞の数は、37兆と言われ、腸内細菌だけでも40兆とも言われます。

もし私達人間ひとりひとりが、この「宇宙→地球→生命体→細胞や細菌」という感覚を実感出来たならば。もし私達人間ひとりひとりが、自分を「870万種の生物のひとつ」であり、「早いものでは数ヶ月で死んで入れ替わる37兆の細胞や40兆の細菌のひとつ」であることを「擬似的」であっても「共感」することが出来たならば。

「870万種の生物のひとつ」にしては、「随分身勝手で自分本位で我が儘だ」と考えられ、「37兆の細胞のひとつ」にしては、「随分と恵まれており、面白い学びや楽しい文化が溢れていて幸せな人生だ」と考え、「なのに、今迄は『虐められて悲しい』だとか、『虐めて気分爽快』だとか、『誰々が好きだ嫌いだ』『食べ物の好き嫌い』など『どうでも良いこと』で頭や気持ちが一杯になっていたものだ」などなどと思えるのではないでしょうか?

もし私達人間ひとりひとりが、このようなこと(感覚やテーマ)を本気で、真剣に本当に感じて考えられるのであるならば。世の中はあっと言う間に大きく変わる筈です。

果たして、これは「理想論」「机上の理論」「夢想論」でしょうか?

ここで一旦、「先の問い掛けの答え」は置いておき、逆に「もし私達人間ひとりひとりが、この「宇宙規模・地球の生物・生命体の細胞単位の連帯感と共存感」を「抱けない・抱かない・抱きたくない」場合とは? 果たしてどのようなものか?を考えてみる必要があります。

このどちらかの作業。つまり「連帯・共存感を抱く」「抱かない」を真剣にスィミュレートするかしないか? そして、この「連帯・共感力(仮称)」があるか無いか? で、インド科学音楽は勿論、アーユルヴェーダ、ヨガ、瞑想の理解と実践の全てが大きく変わって来ることは紛れもないことなのです。それどころか、一人一人の人間の「人間力・生命力・思考力・発想力」の全てが変化し、当然のごとく、臓器や細胞の活性も大きく変わって来るに違いないのです。

まず、「逆の検証」をしてみて下さい。例えば「銀河系」の中の「一惑星」の生物としての我々人間は、SFの「エイリアン(やインベーダー)」のように、「グロテスクで残酷で身勝手」で、「他の惑星を占領し、そこの生物を殲滅せんとしている」のでしょうか? 幸いにして、その答えは「No!」です。しかし「グロテスク」であるかどうか? は、「地球の生物の審美眼」では計れません。それどころか、同じ地球の生き物でも、海老、蟹や蛸、イカから見れば「人間は、手足が四本でグロテスク」かも知れません。

では、同じ「地球上の生物」としてはどうでしょうか? 都市部の同じエリアのたかだか50年前の航空写真と今日を見比べれば、その「自然の森や野原」の面積はとんでもない程に縮小しています。

しかし、ここに大きな「落とし穴」的な「免罪符」があります。それは「悪気は無い」というやつです。「別に憎くて樹木や草木や川の生き物を殺したり、行き場を奪った訳ではない」「私達人間が生きる上で仕方が無かったのだ」という台詞です。

しかし、その「新旧二枚の航空写真」を私達一人一人の「脳(や腎臓、肝臓)のMRI画像だと,真剣に本気で本当にスィミュレーション出来たならば。足下がぐら付き、冷や汗が出、目眩がするほどに驚愕し,恐れ、絶望的に感じるに違いありません。

そして、「このような状態にした原因(犯人)は何なんなのだ!」というテーマに至ったとして。「犯人は○○という細菌、ウィルス、悪性細胞、悪玉菌、有害物質である」と言う答えが返って来たとして、私達人間のひとりひとりは、一体何をどう感じるでしょうか?

そして、その「○○」が「人間という種族である」と判明した時にもまた。「生きるために仕方がなかった」と思えるのかどうか? そう思えるのであれば「細菌、ウィルス、癌細胞、悪玉菌、有害物質、害虫、害鳥、害獣」にも同じことが思えるのか?

もし「思えた」場合、その人の「人間力・生命力・思考力・発想力」の全ては、「かなりに健全で豊かである」と言うことが出来る筈です。そして、もし「思えない」場合、は、「細菌、ウィルス、癌細胞、悪玉菌、有害物質、害虫、害鳥、害獣」に「より近い」と言わざるを得ない筈です。

しかし、この課題は、そんな単純な話しではありません。

ここには、「ふたつの大きなテーマ」が存在します。ひとつは、この「人間力と連帯・共感力(地球・宇宙を感じる力)が豊かであること」と、「豊かでなく、有害生物にほぼ近いこと」の違いは「人間社会」とその「規範(モラル、マナー、思いやり、慈しみ)」の物差しでは「問われない」ということです。

それどころか、むしろ「自然保護や動物保護・愛護」に真剣な人々を、「偽善者」「理想論者」と揶揄する感覚の人々の方がやや多数であることも恐らく事実です。また、そういった「正しい行為」をしている筈の人々の中にもまた、「正しい行為=自分は正しい人間」という「思考回路」に「依存(執着、ハマっている)」している場合も決して少なくないこともまた事実かも知れません。

そして、もうひとつは、「現代社会の規範や感覚」を必ずしも投影してはいない筈の、古代インドの叡智である「アーユルヴェーダ、ヨガ、瞑想、科学音楽」に対し、深い憧憬の念を抱き,強い関心、探究心を抱くことにもまた。この「連帯・共感力⇔自分本位な有害生物性」のテーマや「力」が殆ど「問われない」ということです。

つまり、「自然保護を真剣に考えようが考えまいが」「動物愛護で行動しようがしまいが」「インド科学音楽を真剣に学ぼうが学ぶまいが」「ヴェーダの叡智を知りたいと思おうが思うまいが」いずれの場合も、「現代社会人の感覚」というスタンスから考え語られているということであり、そこでは「普遍的なより純粋な意識(や価値観)」は「問われない」ということなのです。

この原稿を書いている今日。アメリカの「トランプ大統領」のみならず、「フランス大統領選挙」でさえも、「移民排斥、自国と自国民族第一」という「極端な保守主義」の風潮が吹き荒れています。ただ、間違ってもここで私はそれらを批判する意図も、「間違っている」という意味合いも一切持っていません。

何故ならば。この「宇宙~地球~生命体~細胞」で言う「連帯・共感力」とは、単なる「人間という同種族間のもの」ではないからであり、その基本は「常に置き換えて考えることが出来る連帯・共感力」であるべきだからです。

その意味に於いては「外国人労働者」が「我が国の伝統的な文化・風俗・風習や感性を重んじず(郷に入っても郷に従わない),自分たちの感覚と流儀を押し通そうとし、それどころか我々の職場や環境(住居や公共の場)を奪わんとしている」と考え、更には「外来の細菌、ウィルス、悪玉菌、有害物質」を体内からデトックスすることと同じだ」と考えることを単純に「おかしい」「間違っている」とは、言えない筈だからです。

「では、どっちも正しいのか?」「お前はどっちの味方なのだ?」と言われてしまいますが。「宇宙→地球→生命体→細胞や細菌」を感じられる(感じようとする)「連帯・共感力」に於いては「答えは明確」なのです。

結論を一言で言えば「どっちが正しく、どっちが間違いであろうと、人間というたったひとつのちっぽけな種族の中でのいざこざであり、それは、或るたった一種の
悪玉菌の仲間割れのようなものである」ということであり、事の善悪・正誤は「宿主の健康を脅かすか?否か?」に尽きる訳です。

しかし、それでは「問題の解決は宇宙の彼方」に放り出されたようなものです。

ひとつに「他国の領土に侵入し、そこにあった歴史ある文化・伝統・風俗・感性」を学ばず「ただただお金が欲しい、働きたい」であり、それどころか、自分たちの自国の「文化・風俗・価値観」のテリトリーを確保し、結束し、広げんとするならば、明らかに「或る種の癌細胞」の様であると言わざるを得ません。しかし、問題は「全ての外国人がそうではない」ということです。

「悲しみや辛さ」といった、極めて「主観的」なテーマを他者と比較する程愚かしいことはありませんが、敢えて言うならば、「郷に従わない傍若無人な侵入者的な外国人の存在」を「最も憂い、哀しんでいる」のは、何年も何十年も、何代かに渡って、日本とその一地域に溶け込み、地に足を着けて根を生やさんとして来た「むしろ同国人」たちであることは言える筈です。

過去30年近く、アジア・アフリカ・中南米の在日人協会や大使館数十で、その国の民族音楽を演奏し、その国の人々に大きな讃辞と励ましを頂いて来た私の経験では、1990年代迄は、「郷に従わない○○国人」はほんの一部でした。私のインド人の兄貴分のひとりは、日本語も達者で、「心はインド人だが、胃袋は日本人だ」とさえ言っていました。

事実、近年、そのような「郷に従う」外国人は比率的には劣勢かも知れません。しかし、それらをも含め「出て行け」と言う単純な発想では、「精神性としては同格だ」と言わざるを得ません。

そして、次なる重大なテーマは、「何故彼らは、外国で傍若無人を働くのか?」ということを考え、それに対する最善策を私達一人一人が真剣に取り組むべきであろう、ということです。

確かに、所謂「第三世界」の中の、都会から隔絶された地域では、インフラは元より、病院も学校も乏しく、教科書・ノートも薬も買えないという「確かな貧困」がとてつもなく多く存在します。しかし、その一方で、同じ国の人々が、その国の大都会で、地方の貧しい人々の数十倍も稼いで、数十倍も生活維持費を支払って居ます。要するに「経済のカラクリ(まやかし)」であり、「矛盾」です。

これを作り出し,手本を見せて来たのは、戦後驚異的な「物質的繁栄の復興」を見せた日本を筆頭にした所謂先進国なのですが、私達は彼ら「途上国」と呼ばれる国々の「都会の人間」にも、「地方の人間」に対しても「では、何が正しい道であったのか?」を示すことが出来ていません。それは「自然を守り、物を大切に使って長持ちさせ、伝統・文化・感性を守り、自尊ではない『誇り』を抱き、それを『幸せ』であり『義務・責務』であると感じる」という、本来当たり前の姿(手本)です。

「インド科学音楽に関係ないじゃないか!」とお思いの方も居るのでしょうか? だとしたら、それは全くの誤解・不理解です。実に深く関係しているのです。そもそも言い換えれば、その「関係性を見出せること」と「連帯・共感力」は明らかに比例するのです。

図について、
右下のChakra図に在ります,七つのChakraそのそれぞれを象徴するデザインは、各Chakraのものですが、その中の文字は、「Chakraの象徴韻」ではなく、科学(古典)音楽の「七つの楽音」です。

最後までご高読下さりありがとうございます。

You-Tubeに関連作品を幾つかアップしております。
是非ご参考にして下さいませ。

Hindu Chant講座Vol.1

Hindu Chant講座Vol.2

Hindu Chant講座Vol.3

Hindu Chant講座Vol.4

Vedic Chant入門講座(基本理解編)

Ayurveda音楽療法紹介(基礎理解編)

アーユルヴェーダ音楽療法 (実践編1)

アーユルヴェーダ音楽療法 (実践編2)

アーユルヴェーダ音楽療法 (実践編3)

(文章:若林 忠宏

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若林忠宏氏によるオリジナル・ヨーガミュージック製作(デモ音源申込み)
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