87、インド科学音楽の将来: 樹を見て森を観ない「変質しつつある東洋医学」(1)

「着かず離れず」によって生きている
「太陽」が「恒星」と呼ばれる所以は、圧倒的な質量によって、惑星を引付けており、その結果、「惑星」からみれば「動いていない」ように見える。少なくとも、「惑星」のように「恒星」の回りを「着かず離れず」周回しているようには見えないからに他なりません。つまり「太陽系」という次元・領域に於いては、「太陽」の存在は絶対的に格が違うのです。

その「太陽の子たち」とも言える「惑星」は、「離れたいけれど離れられない」「寄り添いたいけれど寄りそえない」という「拮抗する力」によって「生き永らえている」と言っても間違いない筈です。何故ならば、太陽への求心力よりも遠心力が増せば、「惑星」は軌道を逸脱し飛び出してしまい、止めども無く宇宙を彷徨うことになるからです。「全ての生命体」は離脱の数秒後には全死滅してしまうでしょう。逆に「遠心力が求心力に負けて太陽に引付けられる」とやはり数分後(?)には、惑星上の全ての存在が焼けてしまい、やがて太陽に激突して吸収され・トしまうでしょう。

即ち、「地球」を含む全ての「惑星」は、「求心力と遠心力=収束(収斂)と拡散(離散)」の力の「拮抗(対峙)のバランス」の上に成立っているのです。あらゆる生命体の体の中身が「相反し対峙する要素の拮抗のバランスによって保たれている」という「最大原則」もまた、そもそもこの「地球という惑星の存在維持の摂理」と無関係ではない筈です。

同様に、私達人間が「集団(群れ)」に依存して生きながらも、「独立心やエゴ」というものを自覚し、許されなければ生きて行けないという「矛盾」もまた、「相反する二元の原理」の賜物とこじつけることも可能かも知れません。少なくともその姿を単純(素直)に見れば、「太陽と地球の関係」と同じです。「親や兄弟、家族と自己・自我」の関係もまた同様と言えるでしょう。

従って、現代人の多く(半数?)が、「自由気まま」「束縛からの自由、閉塞感からの解放」ばかりを願うという傾向は「遠心力(発散・離散)」の方向に偏っており、「恒常性バランス」の面では「病的」であるということが出来るのです。

逆に、残りの半数(?)は「正しいのか?」と言うと、その殆どには、様々な依存が見られます。「親の子依存(過保護・過干渉)、子の親依存や共依存」「ペット依存」「仕事(ワーカー)、薬物、アルコール、ギャンブル、SEX、物欲、支配欲、権利欲、名誉、自尊心、アイデンティティー、宗教、思想、観念、常識」などの他、重度軽度を問わず様々な「依存」は、ある意味「無意識に求心力を求めた結果」とも言え、「そうやって自分を留め置きてやっと、自分の存在を確かめ安心する」という、或る種の「本能的な欲求」とも言える訳です。

しかし、ここには私達の「心と体を蝕む、幾つかの大きな問題」が横たわっています。上記の話しを単純に鵜呑みにすれば「なるほど本能か!ならば私のこのもどかしい想いも自然体ということだな」と安心してしまうかも知れませんが、そこには幾つかの落とし穴や考え落ちが存在します。

「精神的には、既に宇宙の彼方で死滅している」もしくは、逆に「何かにしがみついて辛うじて生きている」のどちらにしても「不自然で病的な、しかし圧倒的多数の現代人」の「姿」であるとして、それを作り出した「要因」の最たるもののひとつは、「宇宙→地球→個々(自己)→数十兆の細胞や細菌」という「連鎖的、リンク的な共通構造の概念」が生み出す筈の「より正しい連帯・共存観」というものが「頭(知識や理解)では分かっては居ても、実感(や感情や心)では分かっていない」ということに尽きます。

「樹を見て森を観ず」は「良くない」と言うけれど
古代インドの叡智が仏教として東斬し、中国で漢字を得て日本に伝わったもののひとつ「森羅万象」という言葉は、奇しくも「森」という言葉を用いており、それは「実際の森のようでもある」と共に「そもそも『森』とは、様々な種類が共存する世界を意味する言葉なのだ」とも言えますので、「宇宙の森、地球の森、生命体の体という森」という理解が出来る筈です。

また、この「森」は、「一本の樹木の枝葉」に見ることも出来、その方が、古代インド「Vedaの科学」の「二元が一元に至る」ことに近い比喩とも言えます。何故ならば「樹木」の多く(殆ど?全て?)は、「二手の枝葉」に別れて成長すると共に、拡散・拡大して行きますが、大元の「幹」は「一元的」です。

19世紀の末のインドの聖人ラーマ・クリシュナ氏の高弟のひとり、ヴィヴェカナンダ氏が、師の教えを充実させた「ヴェーダの普遍的な論理性への回帰(再評価)」は、その後インドの或る種の「右翼的・保守・保護主義者」「ヒンドゥー至上主義者」たちによって、かなり歪められた「一元論」として、「思考停止した神秘性」と「逃避願望によって裏付けられた解脱と梵我一如思想」に変形されてしまった感が拭えませんが、ヴィヴェカナンダ氏の思想の根幹にあったものは「論理は宗教とは対立しない。むしろ宗教を正しく理解するために不可欠である」というものでした。

ヴィヴェカナンダ氏は、当時乱立した様々なヒンドゥー思想や,復興ヴェーダ学派、ヨガ学派の対立と争いを終わらせるべく、その全てを深く学び理解し尊重しつつ、「インド・ヒンドゥー・ヴェーダ文化とそのそ伝統と叡智」を総体化させることに努めました。

それは正に「ヴェーダ」という一本の「幹」から別れ出た「様々な枝葉」の全てを愛でる意識であり、「薪のように、単純に枝葉を束ねる」といった「全体主義やグローバリズム」とは全く次元が異なります。そして、そこには「相反するものの対峙によって全ての生命が維持される」という「恒常性の基本」に則った「自然の摂理」を重んじる「二元論」が確かに存在した上での「大元はひとつの幹」としての「一元論」を説いたものでした。

つまり「誰よりも幹こそは、枝葉の存在を認め愛で」「誰よりも枝葉こそは、その一本の幹を認め愛でる」という有り様です。彼のこの真意が正確に伝わり広まっておれば、長年の「二元論と一元論の対立」は言う迄もなく、「様々な学派の対立」も、ヒンドゥーの領域を越えた「民族、宗教対立」もまた、安直で短絡的な方向には進まなかった筈です。しかし実際のインドでは、アメリカの「トランプ政権」の十年も前に、ヒンドゥー至上主義・右翼・保護主義が台頭しています。

「言葉の上」だけの「森羅万象」
「宗教・思想・哲学」のみならず、「政治・社会」から「庶民生活」に至る、これらの全ての問題の元凶はいずれも、現代人の「森(一本の樹)」を「頭(知識)で分かっていても、感情・心では実感していない」ことに尽きます。

私事で恐縮ですが、例えば先日のことです。十数年前にお教えした生徒さんと久しぶりにメッセージのやりとりをしたのですが、近況報告と共に最近取り組んでおられるとても良いお仕事の話しを伺い、この十年の成長振りをお褒めしたのです。ところが、ひとつ大きな問題が変化していないことを見逃すことが出来ませんでした。それは「個人・個々の感性・価値観の違い」についてでした。

まず、極めて多くの人(受講生のみならず友人知人も含め)が、私という一人の人間が言うことは「一人の者の意見=個人の意見」としか考えない傾向が強いということです。そのような傾向の中で「森羅万象」を説いても、「樹を見てばかりで森を観ないのでは、分からない」と説いても「個人の意見」で終わりにされてしまうのです。

そして、もうひとつの問題。これこそは今の世の中、インド、日本を問わず世界的な大小の問題の根源かも知れないと思うのですが。「横の関係性」ばかりを考え(大事に考えたり、気にしたり、気に病んだり)替わりに「縦の関係性」は、ほとんど考えないし、感じることが出来ていないという問題です。

勿論、ここ(インド科学音楽=Vedaの叡智)で言う「縦の関係性」は、近現代社会の「縦の関係」とは全く無関係のものです。

この「縦」とは、「樹木の根っこ→一本の幹→太枝→中枝→枝葉」のことであり、上記しましたように、これは「宇宙→地球→生命体→生命体の体内」とも通じる(転化出来る)ものです。

その十年前の生徒さんは「例えば、私は先生のようには猫を愛せない」と言う例えをおっしゃいましたが、仮に「私は犬派だ!」だとか「人間とペットは違う!」という「個人の異なり」もまた「枝葉の違い」に過ぎないのですが、一段大元に戻って「命という太枝」に立ち返れば、その違いは無い筈なのです。

そもそも、同じ人間がインド音楽、トルコ音楽、アラブ音楽どころか東欧,アフリカ、キューバ、メキシコ音楽も演ること自体「違いが分かっていなくて出来るのか?」と言える筈ではないでしょうか。 敢えて「偉そうで感じ悪い言い方」をするならば、「その意味では非常識な程に非凡で希少な『この私が、まるで個性(個々の違い)を理解しようとしない』と誤解したり思い込むことなどあり得ないのではないか?」と申し上げたいとさえ思った次第です。

尤も、民族音楽ファンやマニアや、第三世界文化に関心の高い人々の多くもまた、私に対するこの誤解を強く抱いているようで、国際交流基金のイベントでアラブ音楽のレクチャー&コンサートをした時、終演後,多くのお客さんがステージに来てくれて嬉しい感想を下さいました。その中で、或る方がとても正直に「一人で数百の楽器や音楽を演るなんて、広く浅くどころか、皆若林流(つまり全てインチキ)なんじゃないか?と思ってましたが違いました。全くのアラブ音楽で感心しました。」と言って下さったのです。

この話しは、自尊心からの自己賛美では毛頭なく、如何に現代の人々が「横の関係性に偏ってこだわり,縦の感覚が分からなくなっているか!」というテーマに他なりません。失礼ながら「ひとつにこだわらないこと」の意味や価値が分かりにくいとお感じになったとしたら、その傾向(危険性)が少なくないかも知れません。

奇しくも、十年ぶりの生徒さんは、アラブ留学体験者さんで、十年前、私のアラブ音楽は「本物だ。アラブの土と風を思い出す」というようなことを言ってくれた人です。つまり「○○の専門」は「枝葉にこだわる」ばかりで、実はその「○○」自体も良く分かっていない場合が少なくない、ということです。

実際、昔の日本の三味線各流派の師匠たちは、見込みのある弟子には、一時期意図的に外に出して、他流(他の枝葉)も学ばせたものです。それも良い考えですが、一人の人間が、「他の枝葉も」とやるのは大変な労力と時間が必要です。私の場合は中学生からでしたから47年掛かっています。しかし,意識を「縦=一本の幹→大地→世界→地球→意識」という風に持って行くことが出来れば、全ての「枝葉」を実体験せずとも「一を聞いて十を知る」的な「共感感覚」というものが育ってくるものです。

図について
私が作図致しました今回の図は、中央の三分割された円が、アーユルヴェーダ・ファンに有名な「Tri-Dosha」という「三っつの体質」で、外側が、「万物の五元素(Bhuta、及び生命体の基本構造:Dhatu)」です。ご覧のように、「Kapha」は、「Prithvi(Bhumi/土、大地)」と「Jala(Apa/水、川・海)」との「1.5要素」、「Pitta」は、「Agni(Terjas/火)」と「Jala」の「1.5要素」で、「Vata」は、「Vayu(風)」と「Akash(空/空間)」の「2要素」を有するなどで対応しています。

即ち、「Tri-Dosha」は、生命体の存在と維持に不可欠な要素なのですが、近年の日本のアーユルヴェーダでは、「Pitta(Vata、Kapha)の亢進が○○の不調の元凶」と、極端な場合「まるで元凶(仇)のような扱い」で説き、「貴方は、そうなり易い体質」と決めつける傾向にあります。が、これは「遠からずとも当たらず」。もしくは或る意味「大きな危険を含む誤解を招く表現・解釈」と言えます。勿論「Dosha」という語の字義の所為もありますが、解釈は異なってしかるべきです。 言い換えれば、これもまた「樹を見て森を観ない傾向」によるところが大であると言わざるを得ません。 (Doshaについて詳しくは、後日この連載で述べます)

最後までご高読下さりありがとうございます。

You-Tubeに関連作品を幾つかアップしております。
是非ご参考にして下さいませ。

Hindu Chant講座Vol.1

Hindu Chant講座Vol.2

Hindu Chant講座Vol.3

Hindu Chant講座Vol.4

Vedic Chant入門講座(基本理解編)

Ayurveda音楽療法紹介(基礎理解編)

アーユルヴェーダ音楽療法 (実践編1)

アーユルヴェーダ音楽療法 (実践編2)

アーユルヴェーダ音楽療法 (実践編3)

(文章:若林 忠宏

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若林忠宏氏によるオリジナル・ヨーガミュージック製作(デモ音源申込み)
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