91、インド科学音楽の将来: 樹を見て森を観ない「変質しつつある東洋医学(3)」

「近視眼的」になるには、理由がある
「私は猫を先生ほど愛せない」「猫絡みのこラムは……嫌いな人も少なくないし」「沢山の音楽と楽器を演ってるなんて、全部適当か広く浅くだろう」というお言葉は、恐らく「全て『枝葉=個人=個性=感性偏重(至上)主義」に偏った(殆ど?)タイプの感覚(思考性/価値観)の人の「誤解」であろうと思われます。それに対し、「剣道の名手の『遠山の目付』の技」「検査技師の『何気なく愚感する』必要性」「昔の火の見櫓の番人」は、「樹に捕われず森を観る」タイプであると言え、「宇宙~地球~様々な生き物~人間~個人~個性・感性」という「繋が・閨vを、「言葉だけでなく体感・実体験・実践している」と言うことが出来る筈と思います。

その一方で、前回敢えて「不愉快にお感じになるだろう」と前置きして「近視眼的」と申しましたが、そういった(上記の前者の)タイプの人をフォロー(弁護)する言葉やすべきこと、理解すべきこともまた沢山あります。端的に言ってしまうと、「とても真面目な人々」なのは間違いないことです。

またしても私事で恐縮ですが、私は小学校の六年間の殆ど「教師も呆れ匙を投げる」どうしようもない子で、今日の認識では、明らかに「学習障害児でPTSD」でした。何しろ殆ど授業を聞いておらず、黒板も教師も見ちゃいない。窓の外を「ぼーっ」と眺めて居る。「あっ!野良犬が侵入した!」「あっ!あの子早退か?どうしたんだろう」などと。
なので、或る教師は「あいつは座敷童と思え」と級友たちに言っていたほどです。

「無関心」なだけならば、成績が悪くなるだけで「自業自得」で、先生にしてみれば、「ほら見たことか!」となるのですが、興味のある科目は、三段階(でした)の「Aだったりするから厄介で、しかも、しばしば事業中に突然「先生!そのお言葉は、先ほどのお話に矛盾します!」などとくって掛かったりするものですから、始末に追えない。放って置くだけでは済まされない。教師にしても何らかの体裁を保つ反論をせねば恰好が着かない。
「大概真面目に聞いてないなら、全く聞くな!授業の邪魔をするな!」とは言い返せない。
なので、以後何らかの口実を見つければ、「廊下に立っていろ!」と早々に閉め出す教師も少なく在りませんでした。

そんな「駄目少年」から比べれば、他の生徒はどれほど「素直」で「真面目」であったか?
まずこの基本がひとつ或る訳です。

インドに於いてのインド音楽のレッスンでさえも、そのような「真面目さやひたむきさ」から、むしろ「師匠が黒と言えば白も黒だ!」に近い師匠は少なくありません。幸いにして、インドに限らず、世界中の数十人の師匠たちの半数は、私もしばしば唖然とするほど、私以上に突拍子もない人物が多く、洋の東西を問わず、その国の音楽家の中でも「異端」でしたが。

次に、若干面倒な話しになりますが、「樹に捕われず森を見る」という感覚は、西洋に於いては19世紀後半に、ドイツ哲学が次々に失態を見せ、生き残りに邁進し、その質ばかりか、基本理念を見失った後、英国哲学の「権力者子飼い」の専門家が台頭し、急速に「現実論」が主流になったと言う事情があります。

「哲学」と聞くと「訳が分からない」と思う方が多いように、或る意味「非現実的で難解で面倒臭い」からこそ「哲学」なのですが、それが「現実的」になってしまう、ということは、「本末転倒」「魂を抜かれた」ようなものです。
奇しくもその英国の植民地であったインドでは、英国留学も果たしたエリート層の中から「樹に捕われず森を見よ!」「それはヴェーダの叡智への回帰・再評価である」という運動が興りました。おそらく、インドの哲学家・思想家・宗教家(本来インドでは同源同義)にとってみれば、同時代の英国哲学は「幼稚」に思え、その「嘘」も簡単に見破れたのでしょう。

しかし、第二次世界大戦とその直後の分離独立などのゴタゴタの中で、前述しましたように「極端な保護主義・民族主義・ヒンドゥー至上主義者」によって、彼らに都合良い「一元論」にねじ曲げられたまま、本来の真意は、廃れてしまいました。

そして世の中は、20世紀に入ると、英国哲学の「現実主義」から遥かに飛躍した米国哲学の「合理主義・結果論」が主流になってしまうのです。

即ち「受容性と柔軟性が豊富な真面目で謙虚な態度」に、「結果主義、合理主義、現実主義」が加われば、「森をぼーっと俯瞰する」というようなことは殆ど忘れ去られてしまい、ましてや「それが大切なのだ」などとは誰も説かない時代になってしまうのです。

そして、世界中が苦難と悲しみの辛酸を味わった「第二次世界大戦」と「戦後復興」が、この基礎に決定的な「歪んだ結論」をあたえます。
それは「共感・連帯感の間違った解釈=誤った共感・連帯感」の流布です。

第二次世界大戦の敗戦国「日本、ドイツ、イタリア」は、何れも「全体主義(ファシズム)」(本来ファシズムは結束主義ですが、ここでは慣例に従います)と「軍国・拡張主義」が一体化したとして世界から非難され、「日本、ドイツ、イタリア」のいずれの国民を「そう思う」となってしまいました。

つまり、国民の殆どにとって「樹に捕われずに、森を見る」というのは、「戦前の全体主義」そのものであり、それは、「個人主義の否定」であり「個人の人格や命さえも投げ出して『お国の為』に捧げる」というような意味合いである、と、理解しようがしまいが、言葉に置き換えようが置き換えまいが、ほぼ殆どの人々が「そう感じてしまった」のです。

全くの大誤解です。

今回の図で示したように、本来の「森」は、それ以前に「一本の樹」が、一本の幹から無数のように出た枝葉に分かれようとも、「幹と根っこ」で「大地」に繋がっており、全ての樹が同じ森の大地で繋がっているのが、本来の「宇宙~地球~生命体~細胞」の繋がりと同義なのです。言わば「縦の関係性(枝葉~幹~大地)の自覚」が根幹ということです。

しかし「全体主義、ファシズム、個人主義の否定」は、写真の右上のような「樹木を縄で束ねた」ようなものであり、「縦関係」をほとんど無視しているのです。事実、戦中の日本は、「日本固有の伝統」を重んじているように見えながらも、軍国に都合の良いものばかりで、それ以外の伝統文化は排斥されました。ドイツ、イタリアはもっと酷かったですし、その後のソ連の社会主義や今日の北朝鮮に於ける「伝統文化」の弾圧と崩壊は、悲惨です。カンボジアの社会主義政権は殆どの伝統を葬り去りました。

また、今日の欧米の「保護主義・民族主義・自国優先主義」と、欧州の「EU崩壊の危機」もまた、「束ねただけのこと」に対する「反発・反動」と見れば、或る意味当然のことです。

「地に根を張らず、幹から切り離され、束ねただけの枝葉」は、写真の「薪(たきぎ/まき)」のようなものです。「大誤解」というより、むしろ「大地~根っこ~幹~太枝~枝葉」という概念にとって、「全く逆の感覚」であると言わざるを得ません。
しかし「枝葉(個人・個性・価値観)」に執着(依存も少なくない)する傾向が強い現代人は、「縦の繋がりの意味」が理解出来なくなっているので、「薪のように括られること」との大違いが分からなくなっているのです。

「括られること」を由とする人々は「モラル(道徳)」「思いやり」「客観性」を説きますが、「個人主義」に依存している人々は、既に辟易としているようでもあります。反論・反発を覚悟で言ってしまえば、「幹から見て感じること」が出来るならば、「モラル、思いやり、客観性」などはいずれも「言う迄もないこと」な筈なのです。

例えば、「天道虫」のように、幹から「上へ上へ」と昇って行く時、或る二手に別れた枝葉などは、いずれも同じ価値である筈で、「たまたま右を選んだ」ならば、「左を選んだかも知れない」訳であり、右の枝葉から見た左の枝葉は「実在しなかった自分のもうひとつの歴史」「双子の兄弟」のようなものです。その理解の方向性の中では、「モラル、思いやり、客観性」などは、要求されずとも、自然に「共感・共存感・連帯感」が生まれるに違いないのです。

「東洋医学」に与える危機的な弊害
この、殆ど問題にもされず,殆ど説く人の居ない、しかし重大且つ明らかな傾向とその問題は,「東洋医学の基本精神」を歪めかねない重大な危機的状況に至っています。

もし、より正しく「常に大地~幹から考える」のであれば、「枝葉の違い」は、何時でも常に入れ替わり得ることです。

例えばアーユルヴェーダに於いて、「貴方の体質はPittaですから」のような診断を得たとして、もしかしたら、何かのきっかけで、別なDoshaに転じるかも知れないのです。

そもそも、前述しましたように「Tri-Doshaの解釈」が多くの場合、「遠からずとも当たらず」的に微妙にズレています。勿論、基本的なことをしっかりおさえている専門家は、「Vata、Pitta、Kapha」のいずれも、「生命維持」に必要な「要素であり、働きである」とし、「しかし、もしそれらがバランスを崩した場合、それらは様々な不調・偏重・病気の元凶となり得る」と正しく説いています。

しかし、決して少なくない割合で、上記の話しの後半だけが強調されています。これは、元々の「Dosha」の字義に、良からぬものが多いからもあります。つまり、古代インドのアーユルヴェーダの叡智に於いては「過ぎたるは及ばざるが如し」以上の「警戒感」を持って「過ぎたるは、極めて危険な有害因子の如し」と言っている訳です。しかし、これも「幹~太枝~枝葉」から考えてみれば、そのニュアンスはかなり変わる筈です。

アーユルヴェーダが説いた「本来の正しいバランス状態」は、「Tri-Dosha」がほぼ均等にある「純粋な性質=純性(Sattva)」でありますが、例えば「幹はSattva」であったとして、その先の「太枝」の或る一本が、何らかの障壁によって歪められて「バランス不調(異変=Vikrit)」が起きたとして、それは「過渡期の状態=プロセス」です。従って、「元凶(犯人探し)」をするならば「太枝」にある訳で、「幹(基/原因)」は、元凶ではありません。

そして、その先の小枝は、太枝のアンバランスを受けて、「順列組み合わせ的」に「Pitta亢進」「Vata亢進」「Kapha亢進」の三種の症状が出得る訳です。そして、その先の「枝葉」に至ると、「小枝」の「三っつの偏重」に、「PittaとVataが亢進」「PittaとKaphaが亢進」「VataとKaphaが亢進」が加わった「六種」や、亢進の二種に差があるものを加えた「九種」もおのずと生じて来る訳です。
私の作図のふたつめの「棒グラフ的な図」と「円グラフ的な図」は、それぞれ「複合Dosha体質の9パターン」と「中医・漢方弁証論治の八綱弁証図」です。

しかしここに幾つかの大きな問題(落とし穴)があります。、まず、このような「順列組み合わせ的に考え得るパターンを統べて挙げる」という感覚は,古代インド・ヴェーダ科学の最も基本的な「論理的考証」のひとつの形に過ぎない。つまり、ヴェーダの論理にとっては基本中の当たり前のことである、ということです。当然のように「古代科学音楽」の旋法:ラーガの音の組み合わせも、この感覚が基本になっています。

次の問題は、そのような「基本的な構造」を、「現実論、結果論」に当てはめてしまうということ自体の「枝葉偏重論の誤り」に対する疑問を説く人が殆ど皆無である、ということです。そして、前述したように、そもそも「枝葉の状態は結果」である場合が殆どであるにも関わらず、より根源に近い「中枝」について考えないということは、より深刻な問題である筈です。

この問題は、「中医・漢方弁証論治」の現状にも見られます。「中医・漢方弁証論治」の場合は、「現代アーユルヴェーダ」のような「固定的な体質」という解釈に偏ることはしていません。あくまでも「結果論」は、何らかの病気・不調の結果であると考えるからです。これが「中医・漢方弁証論治」に於ける「証(状態)」です。

そして、その「より内面的な原因」を様々な看たてによって検証を進め「表=表面的に現れた急性症状」「裏=潜在する慢性病因」「実(亢進状態)/虚(衰退状態)」「熱(実の結果論)/寒(虚の結果論)」の組み合わせを「順列組み合わせ」的に分類します。しかし,近年「実=体力がある人の症状/虚=体力が無い人の症状」のような「現象・結果論偏重」のような「遠からずとも当たらず」の解説が、殆ど懐疑されずに、ネット上(漢方薬局を含む)に横行しています。

例えば「アレルギー疾患」と「自己免疫疾患」は、「免疫機構の誤作動である」という次元では、極めて近い関係にありますが、西洋医学では、前者を「体力があって免疫力が強過ぎる」と誤解し、後者が、しばしばかなり衰弱していることもあって「体力がない人の免疫機構の自虐的誤作動」のように解釈されることが多く見られます。さしずめ「現代アーユルヴェーダ」ならば,前者は「Pitta亢進」とされ、後者は、「Kapha亢進」とされるのでしょうが、これらもまた「遠からずと当たらず」です。

勿論、全身的な体力が衰弱すれば「免疫機構」全体が衰退し、「アレルギー」も「自己(攻撃)免疫」も衰退しますから、「体力」と無関係ではありません。しかし、瀕死の重傷を負った獣が追いつめられた時に見せる「過剰防衛」とも思える勢いや威嚇の様を「体力が有る」と判断するような感覚は、如何なものでしょうか? 同じ状況の獣がひっそりと岩の隙間に身を潜めることもあり得、その違いは、後天的な経験や知恵の違いが作用する部分も多い筈です。言い換えれば、後者の「潜んで居た獣」が発見され「追いつめ」られれば、前者になりえる訳ですから・A「証の虚実もPitta・Kaphaも」簡単に逆転しかねないのです。

より具体的な、西洋医学で立証された理論も踏まえて言うならば。「免疫機構」は、自律神経の二系統によって、言わば「正規軍と武装警察」のような役割分担をしています。最終段階的に体力が弱まれば、どちらの武装集団(免疫系統)でも兵糧が尽きたような状態になります。しかし、そもそも「軍」と「公安」は命令系統が異なりますから、現場の「武装集団」をなだめたり、武装解除を強制したりすることは、「火急的な一過性のもの」に過ぎず、命令を下している大元を変えない限り、第二第三の武装集団が送り出されることは必至なのです。これが「局所・対処療法」と「全身・根治療法」の考え方の根本的な違いです。

つまりこのテーマは、東洋医学を代表する「アーユルヴェーダ」と「中医・漢方弁証論治」のいずれもが、西洋現代医学のような「現実論・結果論」に偏って、「局所対処療法」的な考え方をし始めて居るということの現れなのです。これは極めてゆゆしき事態と言わざるを得ません。何故ならば、「東洋医学」がその最も基本的な在り方と価値を自らで失い掛けているということだからです。

東洋医学の最も基本的で、最も重要な論理は「全身医療、予防医療、自然治癒力サポート、根治療法」であることは言う迄もありません。

しかし「枝葉という結果論に局所的に対処することに偏る」というのでは、「全身医療」でもなく、「根治療法」でもないのです。

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是非ご参考にして下さいませ。

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アーユルヴェーダ音楽療法 (実践編1)

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(文章:若林 忠宏

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