94、インド古典音楽の概念

インド古典音楽は、「極めて理論的」ですが、その理論は、決して難しいばかりではありません。何故ならばその理論は極めて「論理的」に整理整頓されているからであり、それは「アーユルヴェーダ」や「Yoga」同様に、「Vedaの叡智」に基づいているからです。

しかし、そもそも「概念」という言葉やその意味するところが、現代人の多くが理解出来なくなっています。その証拠に、彼のNHKのアナウンサーやキャスターは元より、解説委員さえもが、しばしば「固定概念」などというあり得ない言葉を平然と発しています。

この様は、所謂「Q&Aサイト」等をご覧になると「概念と観念の違いを教えて!」が結構あることでも分かります。また私の見た限りでは「固定観念と固定概念の違いは?」の中で、「固定概念などと言う言葉は無い」と、幸いにも明確に答えている人もいました。ところが、他に「固定概念=古くから確立した概念」などと珍妙な答えを御自身で創造(想像?)されている方が居て、これもまた「概念の崩壊→観念主義の時代」を証明する事例かと、哀しくも呆れた次第です。

先ず「観念」は、「地域、民族、宗教、思想、社会、時代」に則しており、同じカテゴリーでも変化し得るもので、「辞書サイト」によれば「固定観念」は、「間違いと批判されても頑固に変えようとしない個人的な考え方」であるとされます。つまり「観念」は、「流動的」であることで、何らかの価値と意味を持つのでしょうが、それを「変えようとしない」即ち、依存・執着している姿が「固定観念」という解釈のようです。

喩えるならば「執着・依存」は、「浮き袋を手放せない」状態のようであり、「観念」としては「海やプールでは、自分の命を守るのは浮き袋しかない」というものが相当します。そして、「波打ち際」か「幼児用プール」で、間違いなく足が着き「溺れる方が難しい」ような場所でも「浮き袋を放さない」ような時の「浮き袋」を「固定観念」と言う訳です。

他方の「概念」は、「歴とした存在事実」を、淡々と、無感情に述べているだけであり、「地域、民族、宗教、思想、社会、時代」によって「変わりようがない」ものでありますから、「固定概念」と言う言葉は、無用な訳です。ましてや「確立した概念」として言う必要もないのです。

従って、本来「観念と概念」は、同一の机上では論じられないものですが,無理矢理「浮き袋」に関して言うならば、「浮き袋という道具」「浮力という物理」「溺れるという状態」の説明と認識が「概念」であり、そこに「安全、安心、実は危険、使いようによっては危険、自由な泳ぎが出来ない」などの主観に至り易い事柄さえも含まれないのが「概念」です。

そもそも「概念が何故生まれ必要だったのか?」は、人間による「違いを乗り越えるため」に他なりません。例えば、「犬」という生き物について、或る民族では、「美味しい重要な食材」という観念が固定しているとします。ところが別な民族では「忠実で従順な狩りの友」であり、ある民族や個人にとっては、「害獣や泥棒に対する番人」「可愛い癒されるもの」でありますから、「統一見解」が生まれようがありません。

このようなものが「生き物や物体」でない場合、「計測でも規約・規定でも共有出来なくなる」場合が多いですから、「概念の共有」が極めて重要になるのです。しかし、人間は時代と共に、特に19世紀の後半に、この「概念」を世界的に遠ざける方向性が生まれました。入れ替わりに、「現実主義・合理主義・印象論・個人主義」が台頭し、それらを「個別の民族、社会で統制する為」に「観念論」の価値・必要性が高まり、より一層「概念」が駆逐されたと言う経緯があります。

例えば、音楽の「音階」には、「長調と短調」がありますが、私の数百人の生徒・弟子の経験、及びその中にイタリア系アメリカ人、ポーランド系アメリカ人、イギリス人、ドイツ人も居て、アジア各国の友人、アフリカ・中南米・太平洋を含む師匠たち、と言った世界中の千人前後の様々な民族の人々との向い合いでの体験即では、いずれもが「長調は明るい」「短調はもの哀しい」と感じるようでした。

しかし、話しがここで終わってしまえば、それは「観念」であり、「ほぼ世界中に通じる」とは言っても、「極めて普遍的な観念」に過ぎないのです。

ところがインド科学音楽の場合、「何故、地域、民族、宗教、思想、文化、習慣、環境を越えて同じ意見になるのか?」ということを科学的・論理的に解明せんとしたのです。
従って、結論を言えば、「概念が構築されなかったもの」も多く存在してしまったのです。
つまり、それは言わば「論理の隙」であり、「観念論」が入り込む落ち度である訳です。

加えて、論理的な理論がほぼ完璧であろうとも、意図も簡単に「観念」に負けてしまう場合もあります。
この連載コラムの前々回で述べました「アーユルヴェーダ薬学に於けるRasaとVipaka」がその典型的な例です。Rasaは「現実的(形而下)な意識(Ahamkara)が感覚(Indriya)で認識する味)」であるのに対し、「Vipaka」は、「消化吸収後の味」と言われます。即ち、「臓器や細胞にとっての味(意味・価値・効果効能)」と説かれます。同じように、インド古典音楽の「Raga(ラーガ/旋法)」にも「RasaとVipaka」があるのですが、「Vipakaの概念」は中世以前に廃れてしまい、「Rasa」だけが残り,むしろ中世の「観念論的なインド古典音楽の改編」の主軸となりました。

本来「Rasa」は、「概念が完成しなかった準概念/非概念」であり「極めて観念に流され易いもの」なのです。

ところが一方、「Rasa」と同時期にインド古典音楽で取沙汰された「概念風な理論」の中の「音やRagaと時間の関係」の方は、逆に「観念」にとっては入り込む隙が無く「概念」の天下となりました。何故ならば、「ラーガの時間帯(その時間帯に演奏するのが正しい」は、「朝(午前)、昼、午後、宵(夜)、真夜中、夜明け前」の古くは六種、後世では、括弧を独立させた八種に、「境目の時間(Snadhi-Prakash)の「夜明け/日没」を加えた「8~10の時間帯」で、「12の半音の何を使うか」を定めたものだからなのです。

なので、Ahamkaraが「朝のイメージだ!」と感じようが「いいや!真夜中」もあり得るばかりか、極めて規則的ですから,対角線での共通項が半数を超えます。具体的には、「朝のラーガの構成音と対角線の宵のラーガの構成音は半数以上が共通する」などです。
言い換えれば、この「ラーガの時間帯(Gayan-Smae)」は、「非Ahamkara的」であるという意味で「Vipaka-Samae」であるということが出来、幸いに、「Rasa-Samae(人間の情感に合わせた時間帯)」を考え主張し並列させることをしなかった希な例なのです。

しかし「薬味」ともなると、「Rasaが苦い」と感じているものを、「Vipakaでは甘いなのだから、その苦さを甘い!と認識しろ」という訳には行きません。
つまり、「アーユルヴェーダ医療」も「古代インド科学音楽」も、「ヴェーダの叡智」は、決して「観念」や「個人的情感」を否定している訳でも卑下している訳でもありません。

ただただひたすらに「味(や音の印象)は、Ahamkaraが感じるRasaだけでなく、Ahamkara以外の体の内面や心、魂、純正意識などが感じるVipakaがあるのだ」と説いているのです。

しかし、「論理と概念」が、「情感、印象」を否定せず、むしろ認めつつも「答えはそれだけではない」と説いているのにも関わらず、「観念、印象、感情」とその「至上主義感覚」は、「Rasa(Ahamkara)こそ事実(=信じれる事実=真実)」として譲らない場合が極めて多く,現代年々その傾向が高まっているのです。

つまりAhamkaraが「苦いRasa」と感じれば、「Vipakaの甘いなど知らん、関係ない、何の意味があるのだ?」という感覚です。

近年、年々その傾向が強くなる」と述べたのは、そもそも「SNS」が成り立つ基軸が、「AhamkaraのRasaの共有(共感・連帯感)」だからです。勿論,それを二の次にして,あくまでもビジネス上の利で、連帯するものもあります。ですが、逆に、「Vipakaで連帯するSNS」や「SNS内のグループやサークル」は、まずありません。

例えば、私が「インド音楽の今日の理解の間違いについて問題意識を持つ人集まれ」としても良くて二三人。しかし「インド音楽好きな人、興味が或る人集まれ」は、数万人、数十万人になるでしょう。同様に、「猫に癒されたい」も数十万人。ところが「猫に癒される間違いについて語り合おう」は、もしかしたら皆無かも知れません。
同様に、「アーユルヴェーダ」が今よりもっと普及したとしても、「Rasaに捕われず、Vipakaを主体にした薬膳を考えよう」で募っても、中々難しいのではないでしょうか?

更に重大な問題が、この「観念論」及び「印象論」による「概念の淘汰」は、「樹を見て森を観ない」感覚を認め増長させ、「Vedaの叡智」のみならず世界の様々な伝統文化を崩壊、もしくは変質させ、社会を荒廃させ、最終的には、生き残った人間であっても、個々の人間の「心と体の健康」を蝕むことです。

大袈裟なようですが、前述した「犬」の例で見ても、「忠実で賢い狩りの友」という「観念」では、極端な最悪の場合、「お馬鹿で、鈍足で我が儘な子」は「お前なんか犬じゃない」となってしまうのです。しかし「概念の犬」は、「ネコ目・イヌ亜目・イヌ亜科・イヌ科の生き物=命」として、賢かろうとお馬鹿であろうと、狩りが上手でも下手でも、「存在は平等」なのです。もうお分かりと思いますが、この「概念」を駆逐し、「観念」至上どころか「利害や印象」を最優先することは「差別、不平等、虐め、排他主義」を台頭させるに違いないのです。

また「個々の人間の心身を蝕み、変調がこうじて歪な生き物になる」と言う根拠は、「右脳左脳・自律神経・各種ホルモンの活性・亢進・衰退」と、最終的には「自律神経失調~恒常性破綻~多臓器不全・精神障害」に至るからです。その前に「重度の依存症」も訪れます。

従って、最悪な極論を言えば「樹を見て森を観ない個人主義」が台頭すれば、「枝葉を括るような全体主義」でしか「統率」がとれなくなり、現実、それに似た社会現象に、「依存症」が加わった「民族主義・保護主義・排他主義」が世界的に台頭しています。それに夢中になり邁進する人々の多くは、既に「右脳左脳・自律神経失調」に至っているかも知れず、その場合は「固定観念を改めよ」などは最早手遅れであり、全く「聞く耳」を持たないだろうと考えられるのです。

このように、時代は最早「ヴェーダの叡智を正しく理解する」どころか、「健康な心身を維持すること」すら難しくなりつつあるのかも知れません。

最後までご高読下さりありがとうございます。

You-Tubeに関連作品を幾つかアップしております。
是非ご参考にして下さいませ。

Hindu Chant講座Vol.1

Hindu Chant講座Vol.2

Hindu Chant講座Vol.3

Hindu Chant講座Vol.4

Vedic Chant入門講座(基本理解編)

Ayurveda音楽療法紹介(基礎理解編)

アーユルヴェーダ音楽療法 (実践編1)

アーユルヴェーダ音楽療法 (実践編2)

アーユルヴェーダ音楽療法 (実践編3)

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(文章:若林 忠宏

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