100-2、インド音楽に於けるメイン・カルチャーとは (その2)

アンチテーゼのサブカルチャーが及ぼした「心と体」への大きな弊害
前回、メイン・カルチャーとサブ・カルチャーを都市と田舎の文化の異なりを例にあげ、それは「十字路と一本道のような違いであり、必ずしも互いは対峙せず、一方が他方に対するアンチテーゼを原動力として生まれた訳ではない」と説きました。

しかし実際のところ西洋に於いては、或る意味では16世紀の宗教改革以降。本格的、及び世界的な規模では、第二次世界大戦以降。「サブ・カルチャー」=「メインカルチャーに対するアンチテーゼ」のようなものになってしまい、その結果、極めて多くの人間が、そう誤解していると考えます。

「そういうもんだろ?」「mそうならそれで良いじゃないか」とおっしゃる人も少なくないかも知れませんが。
「人間の心と体の健康」のテーマに於いて、これは極めて危険であり、残念なことです。

そう言う理由は、今日の多くの人々の「心と体の変調の元凶」の多くに、「恒常性の重大な変調」が見られることと深く関連します。

このコラムで何度も申し上げていますが、「恒常性」の基本は、「相反するものの対峙・拮抗」です。それは(例えば)「血圧が上がり過ぎ」の非常時(極めて不健康で危険な)に「血圧を下げる」為には「相反する要素(機能)」が紛れも無く不可欠であるからです。

「対峙・拮抗」の次元に於いては、それらは互いに「敵対的/アンチテーゼ的」とも言えなくはありませんが、どちらがメインということではありません。しかも、「一個の生命体」の中に「共に必要不可欠なものとして対等に共存・常在」されているのです。この有り様を「カルチャー論」に利用するのであるならば、「個々の人間の中で、二つのカルチャー観が対等に共存」していなければなりません。

しかし実際、近代以降の人間は、洋の東西を問わず極めて「我が儘・身勝手」になって来ており、「百害あって一利無し」であるばかりか、或る意味幻想(錯覚)の「被害者意識」を増長させ、「対峙構造」を「敵対構造」のような短絡的・感情的にしか理解しない傾向にあります。

加えて現代社会は、確かに多くの「クレイジーなシステム」「本末転倒なシステム」を増大させ溢れ返っています。「使い活用する為に作り売る」のではなく「売るために作り売る」などが、その最たるものです。

その結果「ストレス」は、常に「悪性的」なものとなり、享受する「心と体」も「悪性のもの」として処理しようとし、更に、その処理能力がオーバーヒート気味になり、様々な悪因になって行きます。すると実際の「心と体の自然な機能」も、問題を「中和・解毒」させることばかりが優先され、結果として「癒される・慰められる・労られる」という「機能(例えば、もっぱら副交感神経系をサポートするような)」ばかりが重用されがちになります。

その一方で、或る意味「冷遇された他方の機能」は、例えば「交感神経系、アドレナリン・ドーパミン系の機能」などは、「楽しみ・盛り上がり・興奮」を強く求めるようになり、多くの場合コントロールの利かない「依存状態」に陥らせます。極端な場合(意外に多いかも知れません)「癒され依存症」「楽しみ依存症」的な様相も見られるようになって来ました。

現代人の多くは同時に、「癒される・和む」と逆の性質の「外因」に対しての「過剰防衛」と「自らを過保護すること」が進み、例えば「暑ければ直ぐにエアコン」「寒ければヒーター」と自ら自律神経の力を衰えさせることを、何の疑いも無く行います。「心と精神」に対してもしかりで、「耳に痛い言葉」などは、享受する以前にシャットアウトされてしまい、「見なかった、聞かなかった、読まなかったこと」にされてしまいます。

当然「思考回路」は、脆弱になり、狂って行きます。

「相反する要素」に対して、「均等・対等に反応」していた「自然の機能」が、一方を敵対し、過保護し過剰防衛し、他方ばかりを歓迎したり求めたりすれば、狂わない筈はありません。

つまり、「サブカルチャーのアンチテーゼ性」は、人間の二つの感情=「容認・慣れ」と「改革・進歩」という根源的に対峙する本質的構造を破壊しながら、「不平不満を擁護し増長させた社会風潮」の現れであると言うことが出来ます。
しかもそれらは時と共に更に増長し、「社会風潮が個々の精神を病ませ」「個々の人間の病んだ精神が社会を更に病ませる」という「悪循環」を作っている訳です。

次に、実際の「インド音楽の歴史」を振り返り、「何時何処で異常な解釈が台頭したのか?」を探ってみたいと思います。
結論から言えば、それは紀元前数千年前から、常に生じていたものとも言えます。

インド音楽に於けるメイン・カルチャーとは

ヴェーダの時代、ヴェーダが説いた物事の解釈と説明は、極めて「二元論的」です。しかしその「二元論」は、正に「陰陽論」であり、「地球が求心力と遠心力によって、太陽の回りを回り続ける」にさえ至る、「自然の摂理」に基づいた「相反する作用の拮抗」を宇宙から地球の大自然、そして、個々の生命体の体に見出したものに他なりません。

しかし、仏教の反ヴェーダ宗教改革によって、それは大きく変化を余儀なくされ、或る意味「反仏教派」的に発展したとも言える様々なヒンドゥー勢力の統合の際に、極めて複雑な説明を余儀なくされ、「単純(良い意味ではSimple)な陰陽論」は淘汰されてしまいました。

従って、ヴェーダの時代までは、「科学音楽と非科学音楽」は、「寺院伝統古典音楽と大衆音楽(所謂民謡)」と同義であり、それは「理論的音楽と無教養な音楽」などとも呼ばれ、基本的な矛盾も間違いもなかったのです。
ところが、ヒンドゥーの時代になると、前者にも「亜流」や「異端」が多く現れた結果、「何が本道=メインか?」「何が亜流=サブか?」を総論的に言える立場の人間が居なくなってしまったのです。

従って、例えば「シヴァ派の音楽家」にとっては、自らが信じ学んで来たものが
唯一のカルチャー」であり、対峙するヴィシュヌ派やサラスワティー派は、別なことを言う訳です。
即ち、紀元前の段階で、すでに「純然たるメインとサブの関係性は、とうに失われていた」ということが、或る意味「結論」ということが出来るのです。

この認識の上で「現実論」で「古代~中世のインド音楽の文化論」を述べるならば、結果的に「権力」を得たものが「メイン」となり、そうでないものが「サブ」となったと言わざるを得ないこともまた事実です。

しかし、私たちはここで、「正しい対峙が歪曲した対立に変化した状況」に於いてでさえ、「より理想的な対峙性質」を持つ姿(人間の叡智)を見ることが出来ます。それは、「世界の他には無い」と迄は良い切れませんが、世界的には極めて希だが、インドには存在する、不思議な「力」とさえ言いたいものです。

その最たるものが、16世紀の楽聖ターン・センのヒンドゥーの師匠であった、スワミ・ハリダースの存在、ある意味ではそrを上回る、弟子のターン・センの存在です。

ハリダースもまた、若かりし頃は、「宮廷(イスラム・ヒンドゥーを問わず)楽師として、名声と富を得る」ためと「インド科学音楽の習得」を平行させ、或る部分渾沌とさせながら修行に明け暮れて居たと言われます。

しかし晩年は、かつて追い求めて居た「現象的・物質的な満足と結果」を全て捨てて、ヴリンダーヴァンの森で隠匿生活を送る出家者「スワミ」に転じます。

そこに至る迄に、「家庭を顧みずに音楽に没頭した結果、娘の人間教育に失敗し、悲しく苦しい離反を受けた」とか、その反動で、「孤児を保護し音楽教育を施した」などなどの、極めて「人間臭い」エピソードが多く語られています。
もし、その部分を特筆するならば、ハリダースが守った音楽文化もまた、「その原動力にはアンチテーゼが不可欠だった」ことになります。

しかし、結果論で言えば、彼(師スワミ・ハリダース)の存在を弟子ターン・センは、自らの20数代末裔に至る迄払拭出来なかったのです。結果、ターン・セン一族を筆頭(総本家)とするイスラム宮廷古典音楽は、ハリダースが守った「インド科学音楽」と、西アジア(イスラム文化圏)で生まれた「神秘主義音楽」を、宮廷楽師の古典音楽の中に、数百年継承させ続けたのです。

つまり、奇しくもターン・センは、「一音楽家としての自らの音楽」と「イスラム宮廷芸術・古典音楽」の中に、「相反する対峙する要素を同居させた」という、極めて「自然の摂理に則った」ことを成し遂げたということなのです。

「メインか?サブか?」という論点に於いては、「メインとサブの同居」ということになります。しかし、「自然の摂理=本来のヴェーダの教え」の意味と、「原点と結果(因果)」の双方から見ても、本来「これ」が、「在るべき姿」であるということが出来ます。

しかし、当時も現代も、ヒンドゥー原理主義(歪んだ)に偏重する者は、「ターン・センは、ハリダースには敵わなかったのだから、ハリダースが上だ!」的な感覚で古典音楽のヒンドゥー性を強調し、逆側は、ターン・センの音楽のイスラム系神秘主義性を強調し、いずれも「恒常性=自然の摂理」と「音楽」を結びつけて考える発想は無いようなのです。

そして、この「短絡的で幼稚な理解」は、世界的規模であらゆるジャンルに広まった「同質の精神性」と全く同質であり、その結果、「何がメインで何がサブか分からない」という「文化のカオス」を作り出しているのです。

否、最早これは「文化論」に収まらず、「人生論」「人間論」にまで通じるとんでもない異常事態なのかも知れません。

写真は、現在も巨匠として活躍する演奏家の若い頃のLPレコードですが、取り組んだラーガは、写真のロケーション通りにその名も「Darbari=宮廷(Darubar)のラーガ」。16世紀にターン・センが創作しアクバル大帝に献上したと言われ、「王の為のラーガでラーガの中の王」のサブタイトルがあります。

何時も最後まで、ご高読をありがとうございます。

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(文章:若林 忠宏

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