106、インド音楽に於ける保守主義と改革主義

人間にとって普遍・永遠のテーマ
奇しくも、この原稿を書いている今日。世界では、「保守的で排他的な民族主義」が台頭し、日本では2017年10月の衆議院選挙を控え、「第三(四)の保守勢力とリベラル」が三つ巴の様相を呈しています。

ここで、多くの人々が微妙に誤解したニュアンスの印象を抱いてしまっているのが、「保守=右翼」とか「リベラル=革新」ですが、これらは本来の意味合いでは全くありません。そもそも「右翼」とは、20世紀初頭の「社会主義=左翼」の台頭によって「反左翼」的に輪郭が見えて来たものであって、或る意味アンチテーゼの具現であり、その中身は、団体・組織ごとで様々ですから、概念も定義も存在しません。

そして「リベラル」は、正しくは「自由主義」。確かに欧米で、かれこれ百年前後、公民権や男女平等、人種差別の旧態に対して叛旗を掲げて来ました。その結果、「革新勢力」と似たような行動を取ったことも事実です。確かにそれは、「反権威主義・反君主政治」という意味合いでの「革新」であるため、広義に於いては「社会主義」「社会民主主義」ということは出来ますが、所謂実在した「社会主義=共産主義」もしくは「社会主義→共産主義」という図式のそれではありません。尤も「革新」もまた「=(共産主義系の)社会主義」という解釈も論理的にはおかしいのですが。よろず次元の異なる用語が同一平面上に置かれて論じられたり、飛び交ったりで分かりにくい上に、けっこうその混乱を当て込んだ輩も居たりしますから困りものです。

同様に、戦後長らくインドが「社会主義的」であるとか、「社会主義国」であるとさえ言う人が少なく在りませんでしたが、同じように大きな誤解です。確かに一時期中国や旧ソ連と友好的だったこともありますが、それは、「産油国・欧米・パキスタン」との対峙関係。あくまでも政治と世界情勢からの結果であり、インドの戦後政治は、ここ数年までは、ほぼ一環して、「社会民主主義」ではあっても、所謂上記のニュアンスの「社会主義」ではありませんでした。むしろ、インドこそは、極めて「リベラル」な政治を続けて来た、かなり希少な国なのです。これは、根底に「ヴェーダの叡智」と「ヒンドゥー教の柔軟さ、懐の深さ」があることは言うまでもありません。

しかし、この「豊かさ」が、逆に、海外からの誤解を招くばかりでなく。インドの民衆自体も様々な偏った意識の組織・団体の亢進を許して来てしまったという歴史も生みました。これは、紀元前からのことでもあります。
紀元前、「仏教の台頭を許し」「ヒンドゥー各派の対立を許し」。中世~近世には「国内の分離を許し、イギリスの植民政策に利便を与え」。現代では、「国内と隣国とのヒンドゥー対イスラムの対立を許し」。そして、今日「偏ったヒンドゥー至上主義の台頭を許し」と、或る意味「本末転倒」なことの連なりの歴史をも築き続けてきてしまった、とも言えます。

これは、敢えて幼稚な比喩をすれば、「自己管理をして自分で考えて食べなさい」とお菓子を一週間分与えたら「一日で食べてしまった」ようなもの。つまり、「人間は、本質的に欲望を自己管理出来ない」が故「本当の自由を持ち得ない」「結果として、自由からは不自由しか作り出せない」という哀しい性のテーマでもあり。尚一層、人類史の当初からの永遠の課題とも言えます。

大量のお菓子を一日で食べ、胃腸に大ダメージを与えると共に、その月の残りの29日は、不満、不愉快、不条理、被害者意識を感じて過ごす。果ては、まだ食べ残しを持って居る兄弟から奪おうとする。
実際、人間は、「地下資源」「食材=自然の生き物」「自然環境」を正にこの狂った子どものように、むさぼり続けて来ました。

或る意味西洋諸国が、古代ローマから第二次大戦後の植民支配の終了まで、国の内外で蛮行を続けて来れたのも、その基本に「人間の欲深さと愚かさ」を前提にした「愚民政策(愚民対策)」があったからだ、と言うことが出来ます。勿論事実でもありますから、その「上から目線」的な考え方に反感をもつことは、「叱られ駄目だ!と言われてふてくされ、むくれる子ども」レベルの幼稚の極みです。

つまり「君主(恐慌)政治」の「愚民対策」自体ではなく、君主政治につきものの、権力主義、利権主義、汚職・腐敗、実際の不平等・不条理、人権無視などの「副産物」が問われるべきであるということです。言い換えれば、それが「ついてまわる」以上、民衆を愚民として卑下し、利己に走った為政者もまた、愚かの極みであるということであり。「同じレベル」であるならば、身分階級・貧富の差があるのは、「勝ち負け理論」であり、「不条理」であると言わざるを得ない、というのが論理の展開です。

一方インドは、少なくともこの数年前までは、むしろ「人間の叡智」に常に期待して来た(決して愚民政策ではなかった)。世界的にも希に見る「社会主義(理念的な意味での)」「社会民主主義」であった。しかも紀元前数千年前から。ということが出来るのです。
もちろん、それぞれの時代、細かなそれぞれの現場には、勘違いした人物も居たでしょうが。

或る意味、それは「自由主義=リベラル」でもありました。

と言うと、
「カーストがあるじゃないか!」「ダウリーやサティーはどうなんだ!」とか、「ロヒンギャの問題の原点はどうなんだ?」などなどの反論・反感を買うかもしれません。しかしそもそも、是非(善悪)の判断基準を共有出来るか否か? つまり、「近代合理主義・結果論」と「被害者意識」が融合した感覚に対して、論理的な本質論を説くことが可能なのか?という壁、問題という大きなテーマに話しが逸れてしまいますので、ここでは割愛させて頂きます。

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インド古典音楽に於ける保守主義と改革主義
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この今回の本題を考える時、長々と前述しましたことが理解されての上であるか否か?では、話しが大きく異なって来ます。

「保守主義」や「伝統尊重」の考え方から、「現状に対する不満、閉塞感」を取り除くことは極めて困難です。むしろ、それらには「(根拠の無い)被害者意識」が多く入り込んでいるからでもあります。近年とくにそれは顕著です。その結果、音楽文化論に、現在の現実社会に於ける論者の「生き辛さ」閉塞感、不平不満が加わってしまえば、「現実論者/追認主義者」たちに「懐古主義・復古主義」と揶揄されても仕方が在りません。

他方、「改革主義」はより一層、「現状や旧態に対する不平・不満・閉塞感」と、より強い「(根拠の無い)被害者意識」がこびりついている場合が多く見られます。

しかし、以前にも述べましたように「改革・改良・改善」は、生命体、とりわけ人間の本能の中でも重要な要素だからです。これを取り除いてしまうと、人間はおそらく簡単に死んでしまうでしょう。

以前も説きましたように、この「本能的衝動」もまた、「恒常性」の上に成立つ「相反する二つの要素」のバランスが保たれているべきなのです。
それは「寛容、受容、適応、順応」の本応的能力と、「改革、改善、創造、創作」の本能的能力です。

これらは、右脳左脳のバランス、自律神経のバランス、オキシトシンなどとアドレナリンなどの対峙する数多のホルモンのバランスが自然に取れている健康な人間の上では、「現状に慣れる、認める、許す、容認する、」と、「現状に飽き足らない、向上、成長、発展、学習、修行」という良い精神性に発揮されます。

しかし、体と思考と精神のバランスが狂っていると、一方だけが亢進し、前者では、「思考しない、諦める、行動しない」とアパシー、鬱に近づく方向性か、「依存体質」に至り、後者では「反発、苛々、閉塞感、被害者意識、ストレス発散、癒されたい、楽しみたい」という方向ばかりに突き進みます。

インド古典音楽を学ぶ者の場合、「伝統の心、重み、深さ」というものと、「伝統を現代人の感性に訴え生きた音楽として瑞々しい活力を持たせる」ということが求められ、そのバランスが保たれている上でなければ、「ラーガの科学」「ヴェーダの叡智」を学ぶ段階には辿り着けません。

しかし、後者を「今の時代にウケる」という表層的・短絡的・安直で幼稚な感覚と解釈で行うことばかりが先行してしまうと、前者感覚の人間が謙遜と実直さと敬意を持って取り組もうとした「伝統の心、重み、深さ」というものは、いとも簡単に崩壊してしまいます。

つい数年前までは、このようなことを言うと。「そんな簡単に壊されてしまうような伝統などは、元から大したことがない証拠だ」とか、「今に生きる私たちが楽しめない伝統等、既に死んでいるに違いない」などという反論が来たものです。

しかし流石に昨今。例えば、自然豊かで水質が良く魚も微生物も生きている川が、簡単にヘドロが溜まり悪臭を放つドブ川に変わった様を、散々見て来た筈です。
汚水を流さないことで辛うじて見た目の良さを作り上げ、かなり酷い水質でも生きられる「鯉」などを放流して「魚が住めるようになった!」というやり口は、自然公園や、○○緑地も同じです。自然の「原っぱ」には、数百種の植物が自生し、数百種の昆虫が住み、多くの鳥や小動物が住んでいます。ところが、管理された公園には、十種前後の植物しか生えず、昆虫も生態系にさほど寄与せず、「宿主(この場合、公園や地域の自然)の行く末など気にせず利己の為にたくましく生きれる種」ばかりが増えてしまいます。

つまり、「作られた嘘の自然」もまた、「表層的・短絡的・安直で幼稚な感覚と解釈」によるものに他ならないばかりか、それらを平然と作り出した社会に於ける文化芸術もまた、ほんの数パーセントの「たくましいもの」しか生き続けられず、後は淘汰されてしまう「勝ち負け」の世界なのです。

この問題は、「改革だ、復古だ」などという次元で論じては間に合わないことは明らかです。

「ヴェーダ科学音楽」及び「アーユルヴェーダ療法音楽」を学ぶ以前の「インド古典音楽」を理解するための前段階としてさえも、このようなテーマと真摯に向い合い、より深く理解し、多くを自壊することは、明らかに必須です。あらゆる事柄に通じる、基本的な摂理というものを理解せずには、専門的に得たものが表層的・形骸的な「情報」でしかないこともまた、言うまでもありません。

これらのテーマもまた、私たち現代人が、「自覚出来る表層意識(Ahamkara)」ばかりに偏ることからの弊害に他なりません。

今回の写真は、私の写真(手前味噌)で恐縮です。
「伝統派と革新派」というテーマで、他の演奏者の例を挙げて揶揄することは、
本連載にはそぐわないと思いました。宜しくお願いいたします。

恩師であり、父以上の存在だったUstad Ilyas Khansahebとの写真、
残念ながら他者が撮ってくれたので、ピントが悪いです。
師は、インド最古のシタールの流派に学びましたが、家柄はサロード最古(創始)の家柄でした。つまり、「最も保守な師匠に学んだ」ということです。
残念ながら、外国人は、人前では弾かないカナダ人の女性がかなり以前に居た程度で、インド人の弟子も音楽院の生徒が居た程度。卒業後も修行した人は居ないようで、サロード、シタール最古の流派は、サロードに現家元 Ustad Irfan Khan師(私の師匠の息子・甥)が居るだけで、私を入れて世界で二人という状況です。

六本木の有名なビートルズ・ファンが集うクラブで、ジョージ・ハリスン追悼ライブにゲスト出演した際の写真。完全コピーのハウス・バンドのジョージ役の人がシタールを弾かなかったので、その曲だけ参加しました。ジョージ自身が弾いたに違いない「Love you too」のテーマの冒頭を完全コピーで弾いた瞬間、会場全体から「おー!」の歓声が沸きました。同曲がここまでウケたのは、この時限り。流石熱狂的なファンは凄いです。

1990年代に、そのビートルズやストーンズのみならず、トラフィック、ジェスロタル、オレゴンなどのシタールを用いた曲の完コピ・バンド。
生徒さんから貰った「胴体が粉々になったシタール」にソリッドの胴を取り付けピックアップを取り付けた自作「エレキシタール」をストラップで吊って立って弾きました。
1990年代初頭、間違いなくインドにはまだありませんでしたが、その後2015年頃から(?)(何処かで私の写真を見た?)同じソリッド・フラットボディーのエレキシタールがインドでも作られるようになりました。
つまり、当時の私がしていたことは、「新しもの好き」のインドよりも先に行っていた、ということです。

何時も、最後までご高読を誠にありがとうございます。

10月も、インド楽器とVedic-Chant、アーユルヴェーダ音楽療法の「無料体験講座」を行います。詳しくは「若林忠宏・民族音楽教室」のFacebook-Page「Zindagi-e-Mosiqui」か、若林のTime-Lineにメッセージでお尋ね下さい。 九州に音楽仲間さんが居らっしゃる方は是非、ご周知下さると幸いです。

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You-Tubeに関連作品を幾つかアップしております。
是非ご参考にして下さいませ。

Hindu Chant講座Vol.1

Hindu Chant講座Vol.2

Hindu Chant講座Vol.3

Hindu Chant講座Vol.4

Vedic Chant入門講座(基本理解編)

Ayurveda音楽療法紹介(基礎理解編)

アーユルヴェーダ音楽療法 (実践編1)

アーユルヴェーダ音楽療法 (実践編2)

アーユルヴェーダ音楽療法 (実践編3)

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(文章:若林 忠宏

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若林忠宏氏によるオリジナル・ヨーガミュージック製作(デモ音源申込み)
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