158、アーユルヴェーダ音楽療法入門20(そもそも精神世界とは?-その7-)

日本に於ける精神世界文化の始まり-前編-
1、様々なサブカルチャーが一気に噴出した1970年

私は、中学二年の時にインド弦楽器シタールを始め、中学卒業と共にプロダクションに入りプロになったので、1970年代初頭の様子は、どっぷり当事者として実体験しています。
時は、日本の草分けの方々の時代。まだ純粋な中高生だった私は、ずいぶんと可愛がられ、様々な機会でシタール演奏をさせて貰いました。

しかし、日本語に訳されたヨガ(所謂Body-Yoga)の本は当時一冊しかなく、瞑想センターも東京西荻窪と京都、大阪にひとつずつある程度でした。
それでも、西荻のセンターには何度か呼ばれ、大阪にも一回呼ばれました。「チベット死者の書」の確か日本語の最初の訳者先生の講演会でも十数回演奏しました。しかし、いずれも、聴衆全員がステージの私に向かって瞑想している。高校生の私には「どうしたものか」と思っていたのも正直なところです。

1972年頃になると、街にはジョージ・ハリスンがサポートした「ハレ・クリシュナ教団」が繰り出し、遭遇すれば一時間は追っかけていました。当時の「両面太鼓:Khole(Kirtan-Mridang)」は未だ素焼製でした。私はその太鼓の独学の腕を試し、さらに成長させるために彼らの仲間に入って太鼓担当になろうと思ったのですが、布教にのみ熱心な姿には、やはり取り付く島を見出せませんでした。

所謂「団塊の世代」の先輩音楽家の中には60年代にシタールを弾いていた人も居ますが、インド音楽ではありませんでした。私が独学の最中に少しレッスンを受けた先生は、芸大卒の方で、瞑想やヨガとは距離を持たれ。半年か一年先輩の兄弟子は、決して人前では弾こうとはしませんでした。1970年代初頭、インド音楽としてシタールを弾く者は、東京では、私を含めこの三人(大阪に一人)しか居なかったのです。
結果として、ライブハウスやヨガの集いで弾くのは私だけだったので、インド文化・瞑想・ヨガ関係者の間に次第に知れ渡り、1970年代初頭の日本の「精神世界の最先端」で、イベントのBGMを一手に引き受けていたのです。
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2018年の今、振り返って見て1968年から1972年の四年間は、世界的に大改革・維新の時代だったと思います。もちろん、その後ほどなく訪れた1980年代の「大崩壊の時代の始まり」も後々人類史に語られるでしょうが、後者は、「大切なものが次々と削げ落ちる時代の始まりを象徴する」のに対し、70年代は「始まりを象徴した時代」だったと痛感します。

もちろん世界は、シヴァ神の摂理に反せず「崩壊と新設(終焉と誕生)」を活性的に繰り返していますから、60年代末~70年代初頭に終わったものも多い。とりわけ学園紛争の終焉は、小学三年生で「三里塚大集会」「晴海20万集会」にも自分の意思で参加した私にとっては他人事ではなく、ショックは大きかった。(何処かで予期してもいましたが)
その時期は、「戦後の終わり」も象徴していました。世間は大阪万博に浮かれ、高度成長期の真っ只中でした。

1971年に民族音楽探求を始めた私は当時中学二年の終わり頃。「民族音楽は生涯の学び。生活はどうする?そうだ!ロック・ミュージシャンになろう!」と幼稚な計画を立てます。
(挫折回り道は多けれど、基本的な道はとうとう変更せず生涯を送るのですが)
その矢先に「ハード・ロックの誕生」を見届けます。

同じこの時期に、所謂「ビートルズ・エイジ(団塊の世代)/日本型ヒッピー(フーテン)/学園紛争の挫折者(※)」の残党は、「バック・パッカー」となって世界に旅立って行きました。

(※)「挫折者」と言うと駄目っぽいですが、多くの若者が賢く掌を返したように社会適合者に変貌し「ちゃっかり就職」したのに対し、切り替えが出来なかった真っ正直な人々です。私には、強い影響を受けたそんな先輩が多くいます。

「日本型ヒッピー」は、欧米のそれとはかなり性質と時期が異なりました。欧米では60年代前半に「ドラッグ・ノンアルコール・瞑想・BP旅行・インド・サイケデリック・大ロックフェス」がほぼセットになっていたのに対し、日本ではドラッグの蔓延は次世代・次々世代の方が中心で、アルコールは特に嫌われず、瞑想もインドへの憧れも全体には広がらず、旅行も60年代後半からであり、音楽は学園紛争前からのカレッジ・フォークを引き摺りながら、吉田卓郎、高田渡さんたちにハマっている人が主流でした。ロックフェスは、音楽産業が画策した商業主義的なものが主体となり、かなり後に隆盛します。
70年代後半になると、私の世代(狭間世代)がインド旅行にハマります。この世代は、幼児幼少の頃に「飢え」さえ体験せず、「学校給食」でむしろ腹一杯食べられた世代です。その中でも、突然ドロップアウトしてインドに行ってしまう人は、むしろ良家のエリート少年少女が多かった。

日本では欧米の「セット感覚」などは全く定着せず、人それぞれで、「セットメニューの部分」を、より好んでひとつふたつ選択するような形でした。

そのような、日本に於ける「60年代末~70年代初頭」の「サブ・カルチャーの誕生」は、実際のところ「形骸的」「仏作って魂入れず」だったと言わざるを得ないのです。

逆に言えば、私の座右の銘である、ガンディーの言葉通りの人生を選択したとも言えます。

「貴方がその闘いを(どんなに苦難であろうとも)続けなければならないのは、
貴方が世界を変える為ではありません。
貴方が世界に変えられない為なのです」Mhaatma Gandhi
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学園紛争の終焉を目の当たりにし、ちゃっかり授業に戻って卒業し、企業に就職した大半の仲間を尻目に、元祖フリーターになりつつ、インドに旅をする。そんな彼らは、後に言う「負け組み」であることをむしろ自認していた感さえあります。その選択こそが「自分に正直」ということだったのでしょう。

しかし、そこには将来のヴィジョンはほとんど感じられない。高校生の私がシタールとタブラで参加した(後に有名推理小説家になる)ロック・バンドのメンバーも皆、「音楽で世の中を変える」などとはとうに思っていなかった。唯一社会に名が知れた小説家も、私が出会った当時は美大生だったので、後に美術、音楽とは全く違うジャンルで社会に認められた訳です。

2、日本に於ける「精神世界カルチャー」の曙
1978年に吉祥寺南口駅前に、日本初の民族音楽ライブスポットを開店(1999年まで20年続けました)してからは、当時の日本の精神世界の出版物のほとんどを店の一角で販売していました。
後に事件を起こす教団の書籍も営業に来ましたが、何故かそこだけは直感が抵抗してお断りしました。
その他の「めるくまーる舎(当時の呼称)」「バグワン・シュリ・ラジニーシ」「ヴェーダーンタ文庫」などの書籍などは全巻揃えていました。都心にもう一軒専門書店がある程度の時代、それなりの役割を果たしていた筈です。

日本で「精神世界」という言葉が言われ始めたのは、私がインド音楽から民族音楽探訪の人生を始めた1970年代初頭から暫らく経った1970年代後半。
一説には1977年に平河出版が雑誌「メディテイション」を発刊し、翌年にはあの紀伊国屋書店で「インド・ネパール精神世界の本・ブックフェアー」が開催されたのが発端と言われます。
1970年代には、前述の「めるくまーる舎」「ヴェーダーンタ文庫」が数々の書籍を発刊しており、70年代前半は「より多くの人々に知って欲しい」という思いはあれど「売らんかな」の勢いはなかったと記憶します。それが70年代後半から一気に「ひそかなブーム」「サブカルっぽい流行」的に煽る者もあれば、ちょっと高尚な「先を行く、非凡な感性を自認・自尊する」ような雰囲気も漂い始めていました。

私が日本初の「民族音楽ライブスポット」を都下吉祥寺に開店し(99年初頭迄20年続けました)てからの三年(1978~80年)、これも日本初の試み「ヴェジタリアン・ソサエティー」を立ち上げ、会員募集とともに「協賛店」を都内に数百店目指してチラシを作り数十の駅前商店街を回ったのですが、会員も協賛店も全く得られませんでした。これもまた、日本に於けるインド文化、精神世界文化に「セット感覚が欠如していた」ことの表れなのでしょう。

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何時も最後迄ご高読をありがとうございます。

福岡市南区の自宅別棟楽器倉庫の教室では、インド楽器とVedic-Chant、アーユルヴェーダ音楽療法の「無料体験講座」を行っています。詳しくは「若林忠宏・民族音楽教室」のFacebook-Page「Zindagi-e-Mosiqui」か、若林のTime-Lineにメッセージでお尋ね下さい。 九州に音楽仲間さんが居らっしゃる方は是非、ご周知下さると幸いです。

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是非ご参考にして下さいませ。

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Vedic Chant入門講座(基本理解編)

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アーユルヴェーダ音楽療法 (実践編1)

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(文章:若林 忠宏

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若林忠宏氏によるオリジナル・ヨーガミュージック製作(デモ音源申込み)
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