164、アーユルヴェーダ音楽療法入門26(心から発する-その3-)

「障害者と健常者とは?」(精神構造から見た考察)
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私事で恐縮ですが、私は、家族・親戚に障害者手帳を持っていた者が、私以外殆どという環境に生まれ育ち、小学校低学年の頃の一二年、母が近所の施設の手伝いをし、我が家借地の百坪の芝生の庭が、施設の校庭代わりだったことがあります。今でも知人には、障害のあるお子さんを懸命に介護しする日々の親御さんが何人か居ますが、私のように、10歳にもならないうちに介護まがいのことをしていた人間には、そうそう出会えません。(もちろん現代では在り得ないでしょうが)。
また同時期、私は「やーい!役者の子! 河原乞食!」とクラスのほぼ全員から石を投げられる虐めを体験しています。
これらのことから、2000年代初頭に「セラピー、カウンセリング、音楽療法」を始める以前から、「社会的排除と社会的包摂(※)」のテーマに関しては、専門家を自負する並の人々に劣らぬ経験をして来たと御理解いただけると思います。
そもそも1970年代、「民族音楽?!土人の音楽のこと?」と言われた時代に民族音楽の研究と紹介をプロとして(プロダクションに所属したため)始めたこと自体。或る種の「差別問題」「音楽の人権問題」に取り組んでいたようなものです。
また、1978~99年の「日本初の民族音楽ライブスポット」では、毎月なんらかしらのチャリティーイベントを行っていましたし、音楽療法を仕事にする前、音楽療法士学園の講師をする前の、高齢者施設、障害者施設での演奏は百回近くに及びます。
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(※)これについて語るならば、また連載の数回を用いるほど語るべきことがありますが、基本的に、当連載の主旨とは異なりますので、ここで少しだけ説明させてください。

「社会的排除(の志向と精神性や機運)」は、文字通り「弱者を排除する」というものですが、基本的にその根底に「社会貢献の義務」があり、これの主義者(とシンパ)には、「弱者は義務を果たせない(お荷物に過ぎない)」という理屈が存在します。
他方の「社会的包摂」は、今日感覚で言う「弱者救済」ですが、実のところ「可愛そう」だとか「自分より苦しい立場の人々を助ける」という説明では誤解も、「排除主義者の批判」も免れません。
これについてのブラフマン教の感覚は、仏教の「喜捨/布施」に現れています。また、イスラム教では「Zakat/Sadaqah」と呼ばれ、いずれも「全うな人間である為の・万人の業」とされます。
つまり、「社会的包摂」には
1.弱者救済の意味・価値
2、自らの業の為 喜捨、布施、Zakat、Sadaqah、
古語の「情けは人の為ならず」は派生とも言える。
が混沌としているのが実情です。
しかも、仏教関係者や、一般の知識人の間でも、喜捨・布施は「一般大衆から出家者へのもの」という観念が主流になっていますが、本来は、「相互(方向)援助・互助」の精神に支えられたものでした。イスラム教の場合は、逆に「弱者へ向けて」に偏っているとも言えます。
つまり、
古今東西で、このテーマを「人間(生命体)のバランス機能の健全の為に不可欠」とは殆ど誰も説いていないのです。無論、「健全な精神構造との関係」を語っているのも、日本では私だけのようです。
しかし、ヴェーダの叡智を良く理解すれば以下のことは当然理解出来るはずです。
3、人間(生命体)の健康(本来の状態)維持に欠かせないバランス行為
4、その集合体は、人間の集合体=社会のバランスを保つ不可欠な行為(及び、価値観・精神性)
の二つを加えた「四つの理由」が揃っていることが健全と言えます。
この論理から見れば「社会的排除」は「利己に偏った病的な精神性/枝葉の今しか感じられない」と言え、「悪玉菌が利己に徹し、ヴィジョンを持たない結果・宿主を滅ぼし自らも死に至る」ことに同義であると、議論を戦わせる必要もなく、一蹴することが出来ます。
同時に、「排除主義者の決まり文句=弱者救済なんか偽善に過ぎない」も、ごく一般の「曖昧・日和見主義者の決まり文句=自分は他者救済の余裕がない(助けて貰いたい位だ!)」も、同じく一蹴されます。
つまり、「社会的排除」は、「社会全体を語っている」ように見せながら、その実は「枝葉・今感覚」であり、決して「全体(森羅万象)」を俯瞰する意識があるとは言えないのです。それに対し「社会的包摂」もまた、上記の「四つの理由」の半分や一つであることが、「呼び掛けに応じる率が高まらない」「同じ人が続かない」などの「アテに出来ない状況」を作っているという欠点もあります。

当連載をさせて頂いております、シーターラーマさんは、ご存知のように、現地インドの弱者救済の一環として「Anna-Dana」にご熱心に関ってらっしゃいます。
ちなみに、既に説かれていると思いますが、「Dana」は仏教用語(梵語)の意訳で「喜捨・布施」ですが、音訳では「檀那/旦那」です。前者は「檀家」に通じ、後者は、文字通り「旦那さん」に通じますが、上記のように、やはり仏教では「在家から出家者へ」の方向性のイメージが強いようです。
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話を今回のテーマ「障害者と健常者とは?」に戻します。
冒頭で述べましたように、「障害者や虐め問題など弱者救済に幼少から関って来た人間の意見」として、以下を御理解いただきたいのですが。

そもそもの人間の「脳機能・精神構造」のことに関しても、前述しましたように、「まだ殆ど分かっていない」と当事者が言うほどですから、その「障害」についても全く初歩的な段階なのです。更に「弱者救済・社会的包摂」と言っても、果たして「現行の常識的社会の社会性が規範で良いのか?」というテーマに関しては、ようやくこの二三年、異論反論が出始めた段階と認識します。

そのような状態の中で、「低機能・高機能」が「一概に線引き出来ない」という批判に加え、様々な問題が複雑に絡み合っていることも踏まえて、「シンドローム(Syndrome)」などに改められ、更には、その時点で「グレーゾーン」についての疑問や曖昧さが問われていたことを受けて、とうとう「Spectrum」などという都合の良い言い逃れに至ったのは、たったの十年二十年のことなのです。

、「シンドローム(Syndrome/症候群)」に関しては、「専門分野に特化して分化した近現代西洋化学対処療法」が行き詰まりながらも、さりとて「東洋医学の全身医療」にすんなり変身も出来ないが為に言い出した「苦し紛れの誤魔化し用語」とさえ言えるかも知れないのです。要するに「症候群」としておけば「何がどう発展・付随しようが、その範疇を広げておけば問題ない」ということで、究極は「全身医療の観念」を認めざるを得ないことの「一時凌ぎ」なのです。
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3)スペクトラムという語彙のいい加減さ。現代人はある程度皆病気
今回特筆すべきは、近年言い換えられた「Spectrum(域、領域、連続体)」という語彙のまやかしについてです。
結論から言えば、この連載でこの一年、何度もお示ししています「精神構造図(本来の健康状態と現代人の病んだ状態)」で説いて来ていますように、そもそも現代社会の常人(健常者)とて、決して「正常・健康」とは言えない。つまり「(誰しもが)Spectrumの住人」に違いないだろう、ということです。
ただ、「心(及び思考)のテーマ/心の問題/心の病気」は、専門家も含め、「永遠の課題」かも知れませんが、「内科・外科」のように、「自他共に認識する症状が分かり難い」という大問題があります。周りが「おかしい」と思っても進言しても、「本人」が「おかしくない」と思っていればそれまでですし、「治療(健康状態へ戻す・修正)」もまた、当人にその目的・意識が無ければそれまでです。
しかも、この数十年「心の問題」は、極端な言い方をすれば「治す気が無いんじゃない?」とさえ言いたいような「現状追認=認め、いたわり許し、癒す」ことが主流になっています。もしくは、真逆の「強引に社会性を持たせる方向性」です。

更に昨今「私は病気=可愛そう=許され守られ労わられるべき存在」という観念で、自ら「発達障害だ」と言い出す人が増えてきました。
「病気だと思いたくない人」「病気だと思いたい・言いたい人」そして、そのどちらをも「いやわり癒すことばかりの専門家」
この極端な偏った状態で、果たして改善されるのでしょうか。
そもそもこの「偏った状態」こそが、元凶なのではないでしょうか。
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4)持続性の紐の上の何処に自分を置くか?という論理思考が不可欠

もっと基本的なことを言えば、
これも既に説きましたが「人間(生命体)は誰しも相反する要素を併せ持つことで恒常性を保っている」のですから、今回のもう一方の図のように、「病気であるか否か」以前に、むしろ「健康(恒常)であるために」、「個性的⇔社会的」「独創的⇔協調性」の「両極端の帯の上」の「何処にいるか?」の違いでしかないのが「そもそもの人間」なのです。

極端な話、
「両極端のグラデーションの帯の上の何処にいるか?」の問題ではなく、
「一時何処に居ようとも、常に自在に位置を変えられるバランス力を持っていること」が
本来の「真っ当=健康」である筈です。

それが「或る程度前者に偏ると『おかしい』『病気?』と言われる」というおかしな話で、もし「価値観」が逆転すれば、現代社会の「真っ当な常人(健常者)」は、
「自分を殺し・向かい合わず・失ってまで他者に合わせ・社会に合わせる=異常性格者」ということになります。
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この話に関連して、40年前から良く語っていたことですが
アフリカ中部のエスニック調のロックバンドのライブ映像を見て驚嘆したのですが、盛り上がる聴衆の「踊り」「手拍子」が、みなバラバラなのです。
無論、「百人が百様」ということは在り得ませんから、大概数パターンなのですが、少なくとも「誰しも周囲とは異なる動作」なのです。「合わせたくない」「ひと(周囲の他人)と同じだと『自分を失ったようで嫌だ』と考えているに違いない」と、私は感動を抱いて決め付けたのです。
それに対し、日本のコンサートでは、数千人が「同じ手拍子」「立てば立ち」「踊れば踊る」。

「ひと(周囲の他人)と違うと『変と思われるから嫌だ』」と考えているに違いない訳です。
「国民総自意識過剰国」のごとくです。

もしかしたら日本人は、「世界で最も病んだ人種」なのかも知れません。
同じことが「究極のファシズム(正確にはファシズムではなく全体主義ですが)音楽であるオーケストラ」が、有色人種では日本が最も優秀と認められています。しかし、インド亜大陸とアフリカ諸国では聞いたことがありません。

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何時も最後迄ご高読をありがとうございます。

福岡市南区の自宅別棟楽器倉庫の教室では、インド楽器とVedic-Chant、アーユルヴェーダ音楽療法の「無料体験講座」を行っています。詳しくは「若林忠宏・民族音楽教室」のFacebook-Page「Zindagi-e-Mosiqui」か、若林のTime-Lineにメッセージでお尋ね下さい。 九州に音楽仲間さんが居らっしゃる方は是非、ご周知下さると幸いです。

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You-Tubeに関連作品を幾つかアップしております。
是非ご参考にして下さいませ。

Hindu Chant講座Vol.1

Hindu Chant講座Vol.2

Hindu Chant講座Vol.3

Hindu Chant講座Vol.4

Vedic Chant入門講座(基本理解編)

Ayurveda音楽療法紹介(基礎理解編)

アーユルヴェーダ音楽療法 (実践編1)

アーユルヴェーダ音楽療法 (実践編2)

アーユルヴェーダ音楽療法 (実践編3)

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(文章:若林 忠宏

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若林忠宏氏によるオリジナル・ヨーガミュージック製作(デモ音源申込み)
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