ダシャラー祭(ヴィジャヤ・ダシャミー)

2018年は10月10日から10月18日まで、秋のナヴァラートリー祭が祝福されます。そのナヴァラートリー祭を終えると、10月19日には、盛大なダシャラー祭(ヴィジャヤ・ダシャミー)が祝福されます。

ダシャラー祭は、秋のナヴァラートリー祭を終えた後に祝福され、ドゥルガー女神が悪神マヒシャースラを倒した日として崇められます。また、ラーマ神が魔王ラーヴァナに打ち勝った日として、悪に対する善の勝利を象徴するとても吉兆な日でもあります。街のあちこちでは魔王ラーヴァナをかたどった人形が燃やされるなど、盛大な祝福が執り行われます。

ダシャラー祭に深く関わりがある魔王ラーヴァナは、10の頭を持ち、自らの頭を切り落としながらブラフマー神への苦行を行ったことで有名です。この10の頭に象徴されるものは、色欲、怒り、執着、強欲、慢心、嫉妬、自己中心、偽り、酷薄、自尊心といった、私たちの心を支配する悪質な感情や思考の数々と言われます。一方で、それは4つのヴェーダと6つのシャーストラを象徴し、ラーヴァナが知識に卓越した存在であることを象徴していると言われることがあります。そんなラーヴァナが唯一成し得なかったこと、それは感覚の制御でした。

ラーヴァナの10の頭は、5つの知覚器官と、5つの行為器官であるとも伝えられ、それは、目・耳・鼻・舌・皮膚(視覚・聴覚・嗅覚・味覚・触覚)の5つの知覚器官、そして、口・手・足・生殖器官・排泄器官・(発声・操作・移動・生殖・排泄)の5つの行為器官にあたります。ラーヴァナは大きな王国を築くも、こうした常に変化を続ける肉体の知覚や行為を制御することができず、決して幸せに留まることはなかったと伝えられます。

一方で、ラーマ神は、この地において邪悪な力を破壊するために誕生したと言われています。信じがたいほどの超越的な資質に恵まれ、不屈でいて勇敢であり、無比の主として崇敬されています。ラーマ神の人生は、信心深い従順さ、比類のないの純真さ、汚れのない純潔さ、称賛に値する充足、自己犠牲、自我の放棄、そのものであったと言われます。ラーマ神への礼拝を行うことにより、心は守られ、崇高な真実を理解するための備えとなる信念を与えられると信じられています。

肉体をまとう私たちの内には、ラーヴァナの質も、ラーマの質も存在しています。悪質に苛まれる時、人は死の時まで、無数の不安と焦燥に苦しまねばなりません。それが、自分自身の内の無知から生じるものだからです。これらの悪質を滅し、至福に至るための唯一の方法が、自分自身の内にある神性に究極的に気づくということであると古くから示されてきました。ダシャラー祭は、9日間のナヴァラートリー祭を通じて清められた自分自身の神性を讃える日でもあります。

皆様にとって実りある時となりますよう、心よりお祈り申し上げます。

チャイルド・スポンサーシップのご報告(2018年9月)

チャイルド・スポンサーシップ(子どもの教育支援)にご協力をいただいている皆様、温かいご支援をいただき誠にありがとうございます。
9月の配給の様子が届きましたので、ご報告をさせていただきます。

チャイルド・スポンサーシップの支援を受けている子どもたちやその家族は、8月の豪雨災害によって大きな被害を受けました。
NGOでは、子どもたちが住む村へ複数回の配給を行なっていることから、9月の集まりは見送り、豪雨災害のための配給に合わせて、子どもたちへの配給を行いました。

アウトカーストである子どもたちやその家族は、政府から小さな土地を与えられ、特定の地域にまとまって暮らしています。
そうした土地は、インフラが整わず、水はけの悪い低い土地が多くなっています。
水害の多いケーララ州において、そのような場所に住むことを余儀なくされている子どもたちやその家族は、こうした被害を受けやすく、生活も安定しません。
今回の豪雨災害でも、子どもたちの多くが学習用品を失いました。
現在は、食材や洋服など、不足している生活物資の配給に留まっている状況ですが、今後は、通学に必要なカバンや日傘などの配給も予定をしています。

9月に複数回、子どもたちの暮らすダリット村で配給を行なった際の写真です。

この豪雨災害によって、築き上げてきたものをすべて奪われてしまった子どもたちの家族は、大変心を痛めています。
しかし、人々は神への信仰心もあつく、皆様のご支援にも支えられ、生活の再建に取り組もうとしています。
子どもたちも、家族や村の人々と助け合いながら、過ごしている姿が見えられます。
この時が、子どもたちの成長を助けるものとなるよう、より良い形で支援を行いたいと計画しています。

いつも温かいご支援をいただき、心より御礼申し上げます。
これからもどうぞ宜しくお願い申し上げます。

(スタッフ:ひるま)

153、アーユルヴェーダ音楽療法入門15(そもそも精神世界とは?-その2-)

西洋でも同じような曖昧と誤用が重ねられて来た。

前回、私たち庶民のいささか姑息な「大げさや美化の習慣」と、「権力者の恣意」が対立せず。都合よく相互作用をもたらして、「精神世界に関する大切な言葉を曖昧にし、互いの誤用を許し合う」という歴史を重ねて来た、と述べました。

同じことが西洋(とりあえず英語を例に)でも言えます。
元々英語では「魂=Soul/心=Spirit/思考=Mind/感情=Heart/気分=Feeling」ですが、日本人にとっての日本語の語彙と同様に、「より深い→より浅い」という普遍性はあります。しかし、その基準も定義も同様に存在しません。日本もそうですが、より昔の人は、より分別出来、近年に近いほど曖昧や誤用が目立つ、ということも特徴です。それでも、例えば「Soul-Music」などは、現在に生きる個々の黒人の音楽的好み・嗜好性よりも、深く広い「民族のルーツ」と繋がっているイメージを持っています。
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余談ですが、そもそもこのような言葉は、日本でも欧米でもレコード会社が「売らんかな」で創作した言葉です。「Soul-Music」の前(一部では後も)の「売り文句」は「Black-Music」で、後に「差別用語」とされましたが、黒人人権運動家がむしろ誇りを持って「Black」を使った影響もあります。その前(時期は重なりながら)に至っては、後の時代では考えられない「Race-Music(人種音楽)」で、実際は、南部プランテーションで開放され北部大都会で工員などで給料を得たが、家土地は買えないので、酒とジュークボックス代に(白人以上に)金を使った層を対象にしていました。当時の黒人たちは、その「売り文句」を「おっ!俺たち向けの音楽だな」とむしろ歓迎していた訳です。
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他にも「Mind-Control」などは、1950年代の中国共産党が「再教育・洗脳」で用いたとか、ヴェトナム反戦の時代のアメリカの新興宗教の様相にて言われた、などとされ。必ずしも日本人の造語ではないようですが、「思考回路・思考性に強い影響を与え制御する」という意味では、正しい語法と言えます。

しかし、もしかしたら英語圏は、日本よりも「誤用・好き勝手な解釈」が氾濫しているかも知れません。例えば、前述の「Soul-Music」の範疇で、私が大好きな曲で、私のBlues-Bandの十八番でもある曲「Trouble in Mind」も、詩的には、「心の悩み」のような感じですが、正しい解釈では「思考内のトラブル」ですから、「そりゃあ君個人の問題だ」となり歌にはなり得ない。ところが、そもそも「心の悩み」は、前回述べたように「心=内面世界の子供」を悩ませている「駄目親(感情領域と思考領域が駄目)」な訳ですから、全てを正しくして曲のタイトルにするならば、「感情の乱れ/Trouble in Heart」な訳です。しかし、これでは詩的でないので売れません。

言い換えれば、英語圏の人々もまた、「Heartは、常に清純で暖かく美しくあると思いたい」「あれこれ悩むのは、むしろMindだと思いたい」という「すり替えと美化」が習慣的に定着している、ということなのです。
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余談ですが、私のサイケデリック・ロックバンドで必ずオープニングで演奏するのが、ヤードバーズというバンドの「Heartful of Soul」です。内容もどうでも良いような歌詞ですが、タイトルは全く意味不明。「雰囲気」でつけた感じです。
このようにして、英語圏でも日本人と同じような恣意や習慣によって「精神世界の語彙」は、かなり曖昧で好き勝手にされていると言えます。
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ちなみに、「Mental」は、ラテン語由来らしく、スペイン語とイタリア語で共通して「Mente=Mind=
思考」です。この2、30年スポーツの世界で「メンタル面の強化」などと言いますが、「雰囲気に呑まれたり、感情制御が出来ないことで力を出し切れないことを防ぐ為」というおおよその普遍性があります。しかるに「気分感情を制御する=思考力=思考性に権限を置く」という意味で「メンタル」は、珍しく「正しい語法」で浸透しているとも言えます。」

(※)「おいおい!ラテン圏まで話がズレると、インド音楽療法から脱線し過ぎだ」と叱られそうですが、インドの歌の歌詞から、庶民にとっての「精神世界の語彙」を考える時、「ペルシア語~ラテン語」をかなり学ぶ必要があることも痛感しました。

私がインド~中近東・中央アジア音楽の次に年月と想いを込めて取り組んだ、カリブ海(主に西語圏)で歌に歌われる言葉は、もっぱら「Corazón」です。この「Corazón」もまた英語の「Heart」同様に、様々な意味合いで歌に好まれて用いられますが、カリブ海では、特に「意味合い」の深みと幅が豊かな印象があります。基本的に「感情=心」という点では誤用なのですが、「あの人はコラソンを持っている」などと(キューバなどで)言う場合、かなり深みが感じられます。
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かつてキューバに於ける「Musico」の意味合いを聞いた時に感動したのですが、それと同様の豊かさを感じるのです。「Musico」は、訳せば「音楽家」ですが、誰も彼もではなく「本物に限る」ということでした。では、「イマイチや偽者は?」と聞けば、「Musicoなどとは呼ばないし、どうしても言わねばならない時は(皮肉を込めて)Musicianと言うね!」という答えでした。英語圏の音楽家に対するキューバ優位の自尊もあるのでしょうけど。
キューバ贔屓かも知れませんが、これを合わせて考えると「Corazón」の数多くの誤用も、単なる「大げさ」や「美化」ではなく、(むしろキューバではいまだにそれらは馬鹿にされると思いたい。※)「(深みと本物志向を持った)洒落っ気」と思えてなりません。

(※)否、むしろラテン圏は「大げさ」は得意。しかし何か微笑ましいし凛々しい。日本のようなハッタリや姑息さが感じられない気がする。
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「それに対して日本人と来たら、もっぱら『大げさと美化』なのだから」と迄言ったらキューバ贔屓も度が過ぎると叱られそうですが、実際、日本人の語法で「より深くなった」というものがあまり思い当たらないのも事実です。そこに加えて、「別系統だが同じように誤用・好き勝手がまかり通る英語」を、正しく直すなどということがなく、更に「誤用・好き勝手」に訳して混用するものですから、日本に於ける「精神世界の語彙」は、世界で一番混沌としているかも知れません。
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尤も、私の「キューバ・ソン音楽」の十八番である「Corazón de Chivo」の「Chivo」は、「仔山羊」ですが、私が子どもの頃日本でも流行ったチャチャチャの名曲「Corazón de Melon」が「メロンの気持ち」なので、初め「仔山羊の気持ち(心)か」と歌っていました。私は世界中の曲で、まず歌詞をローマナイズで学び、数年歌い込んでから「単語の意味~歌詞の意味」を詳しく学びます。日本語の意味を早々に聞いてしまって、「意味も知らずに聴いた時の第一印象」を(日本語の観念で)壊したくないからです。
「仔山羊の気持ち」の歌詞を聴いてびっくりしました。
なんと「俺の親父が生まれ育った東部にや、いまだに音楽だけは勝てないね!。だけど親父たちの飯の趣味は頂けないぜ!仔山羊のハツの煮物なんか喰ってみろよ、ありゃあ喰いもんじゃねえ」という歌詞です。数年歌い込んだ後でしたから、今更歌い方も変わらず。むしろ「西の外れの首都で、東部産の音楽『ソン』を演っているフリークたちの心情」が分かってノリも一層よくなった感じでした。その代わり、それ迄「Corazón」という言葉を聴いたり歌ったりしている時、思わず「うっとり気分」だったのが、すっかり冷めましたが。

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Hindu Chant講座Vol.1

Hindu Chant講座Vol.2

Hindu Chant講座Vol.3

Hindu Chant講座Vol.4

Vedic Chant入門講座(基本理解編)

Ayurveda音楽療法紹介(基礎理解編)

アーユルヴェーダ音楽療法 (実践編1)

アーユルヴェーダ音楽療法 (実践編2)

アーユルヴェーダ音楽療法 (実践編3)

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(文章:若林 忠宏

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アナーハタ・チャクラを活性化するイーシャーヴァーシャ・ウパニシャッド

人生は、霊的進化のための偉大な機会であると、インドの聖人たちは経験によって悟りました。

そして、彼らは、霊的な視点にたち、人生のあらゆる側面について瞑想し、より高次の意識へとつながる、身体の精神エネルギー中枢であるチャクラを発見しました。
適正なバランスに保たれたチャクラは、健康と実り多い人生をもたらします。

ハート・チャクラは、聖者たちが、原初音ともとれる微細な音を、胸の中心で聞いたことからアナーハタ・チャクラ(アナーハタとは、打楽器以外で奏でられる音を指す意)とも呼ばれています。
このチャクラは、人生に大きな祝福を与えるだけでなく、あらゆる恵みを与える願望実現の中枢であるともいわれます。

このチャクラのバランスが崩れると、傲慢、強欲、うぬぼれや空虚さに囚われるとされます。
逆にこのチャクラが健全であるときは、楽観主義で、努力家となり、真実と非真の識別能力が備わるといわれます。

「支配者」「主」の意で、一般的にはシヴァ神を意味するイーシャは、この第4のチャクラであるアナーハタ・チャクラに作用する神格です。
そして、アナーハタ・チャクラに対応するのが、イーシャーヴァーシャ・ウパニシャッドです。

イーシャーヴァーシャ・ウパニシャッドは、シュクラ・ヤジュールヴェーダ・サンヒターの一部で、20のマントラを含みます。
このウパニシャッドの核となる意味は、「イーシャーヴァーシャム・イダム・シャラヴァム」、すなわち神は遍在であり、すべてを守護するという教えです。
万物は、完全に神の御力に依存します。
それは、霊的探求のために欲望を滅すること、神への献身において、自身の定められた義務を遂行することを意味します。

チャクラに対応した神々の波動のリズムに乗り、調和と成功に満ちた生活を生み出しましょう。

ヨーガ・スートラ第3章第37節

Hindu God Yoga Sutra of Patanjali Statue on Exterior of Hindu Temple


ते समाधावुपसर्गा व्युत्थाने सिद्धयः॥३७॥
Te samādhāvupasargā vyutthāne siddhayaḥ||37||
テー サマーダーヴパサルガー ヴュッターネー シッダヤハ
それらは、三昧にとっては障害であり、雑念にとっては霊能力である。

簡単な解説:前節において、プルシャへの綜制によって、霊感的な聴覚、触覚、視覚、味覚、嗅覚といった超感覚が生じると説かれました。本節では、そうした綜制が成就した結果として生じる諸能力は、三昧にとっては障害であるが、雑念にとっては霊能力であると説かれます。

カラスのアーサナ

インドの一部地域では、今年は9月25日から10月9日まで、先祖供養の期間が続いています。
さまざまな儀式が執り行われるこの先祖供養の期間においては、カラスに食事を与える人々の姿を目にすることが多くあります。
インドでは、カラスに食事を与えると、先祖が喜ぶと伝えられているからです。

カラスと先祖供養の関係については、さまざまな神話が伝わります。
天と地の間を飛ぶ鳥は、神のメッセンジャーであると捉えられ、特に真っ黒なカラスは、死の神ヤマの使いであるなどと伝えられてきました。
ヨーガには、そんなカラスにちなんだポーズがあります。

カーカーサナと呼ばれ実践されるカラスのポーズは、全体重を腕に乗せてバランスを取る、まるでカラスが飛ぶような姿を見せるポーズです。
バランス感覚だけでなく、筋力や体幹を必要とするこのポーズにおいては、呼吸が少しでも乱れれば、地面に顔から落ちることも少なくありません。

恐怖心を抱くと挑戦することが難しくなるこのポーズでは、深く呼吸をし、自分自身を信じることが不可欠です。
それは、自分自身に課した限界を取り払い、大きな自由へと飛び立たせてくれるものでもあります。

そんなカラスのポーズの実践においては、バランスを取ることで、眉間のあたりにあるとされるアージュニャー・チャクラが活性化されるといわれます。
また、膝を曲げて前屈をすることで、仙骨のあたりにあるとされるスヴァーディシュターナ・チャクラが活性化されるともいわれます。

スヴァーディシュターナ・チャクラは、自らが宿る場所という意味を持ち、自分自身の全てが眠っていると伝えられます。
このチャクラと向き合うことは、過去の行いによって形づくられた自分自身と向き合うことにも他ありません。
そんな中でバランスを取るには、何よりも深い集中力を要します。
それは、過去にも未来にも行くことができない、現在という瞬間に留まる術を教えてくれるものです。
カラスのポーズは、過去でもなく、未来でもなく、現在という瞬間に存在する自分自身に気づく究極の修練でもあります。

先祖供養においてカラスが重要視されるのも、時間と向き合い、その束縛の中から自分自身を解放することを意味しているのかもしれません。
この時が、皆様にとっても実りある時となりますよう、心よりお祈り申し上げます。

(文章:ひるま)

2018年10月の主な祝祭

2018年10月の主な祝祭をご紹介いたします。

10月の新月を迎えると、9月の満月以降続いていた先祖供養の期間が終わり、いよいよ女神を讃える9日間の夜、秋のナヴァラートリー祭が始まります。

10月2日 マハートマー・ガーンディー生誕祭/マハーラクシュミー・ヴラタの終わり
10月5日 エーカーダシー
10月7日 シヴァラートリー
10月9日 新月/ピトリ・パクシャ(先祖供養の2週間の終わり)
10月10日 秋のナヴァラートリー祭の始まり
10月17日 トゥラー(天秤座)・サンクラーンティ/ドゥルガー・アシュタミー
10月18日 マハー・ナヴァミー/ナヴァラートリ祭の終わり
10月19日 ダシャラー/ヴィジャヤ・ダシャミー
10月20日 エーカーダシー
10月23日 満月/コージャーガラ・プールニマー(日本時間では24日)
10月27日 カルヴァー・チャウト/サンカタハラ・チャトゥルティー(日本時間では28日)
10月31日 アホーイー・アシュタミー

*地域や慣習によって、日にちに前後の差異が生じます。

1年を通じた祝祭、またその詳細について、インド暦カレンダーでご紹介しております。

参照:http://www.drikpanchang.com/panchang/month-panchang.html

152、アーユルヴェーダ音楽療法入門14(そもそも精神世界とは? -その1-)

「精神世界」という言葉は、いったい何を意味しているのか? 極めて多種多様な解釈があります。しかし、最も基本的な解釈が「人間の内面世界(心と思考)と、それに関わる形而上(宇宙や自然の神秘、神々のことを含む)のテーマの総称であり、フィールドである」である、ということには異論はないでしょう。
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1、「精神世界の語彙」の問題点
精神世界関連で用いられている言葉は、宇宙、神々、自然、人間、その心・思考・精神を分かる上で、極めて重要な言葉たちです。にも拘わらず、いずれも論理的な定義=概念が定まっていないため、「人によって解釈がまちまち」というトンデモないことが当たり前のように(百年以上?)続けられて来ました。以前にも述べましたが「感じた、思った、想った、考えた、悲しい、哀しい」の区別が無い人や誤用している人が現代社会人の大半を占めてしまった原因のひとつにもなっていると考えられます。
ところが、「心の琴線に触れる」「心に響いた」「心が折れそう」「魂の叫び」「腑に落ちた」などは、人それぞれの解釈で用いられているにも拘らず、「深み・重み」は、ほぼ共通の感覚で感じていることは明らかで、通常よりも大げさに言いたい時に「心」を持ち出し、「魂」は、その最上級でありながら、何処かで「日常的な感覚(自覚や意識)=Ahamkara」とは距離があることを示唆しています。「魂」に感じる距離感は、「意識出来る自分の人格とは少し別なもの」と、まるで正解が分かっているかのようでもあります。つまり、殆どの人が「なんとなく分かっている」のです。そして、洋の東西を問わず、より昔の人は「より正しく分別していた」ということは様々な文言から察することが出来ます。
では、何時頃どのようにして、この重要な定義が曖昧にされ、各自の好き勝手や誤用が生じるようになったのでしょうか。
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2、「精神世界の語彙」の誤用の例 (権力者の恣意?)
今回の図の中心にならぶ二つの「四重円」は、何度もご紹介しているもので、右が「元来の人間の精神構造」で、左が「現代人の多くに見られる精神構造」です。今回はそれに対し、昔からよく言われる言葉が何をどう意味・意図しているかを示しました。

まず、左端の「Frontier Spirits」は、日本では「開拓魂」と訳されますが、直訳では本来「開拓心」と訳すべきものです。
そもそも、古今東西で言われる「心は本来純真で無垢なもの」という観念を基本に考えれば「開拓心」という語法はおかしなもので、それを言うならば「向上心・克己心・自制心・疑心、愛国心、探究心、などなど」もほぼ誤用と言えます。何故ならば、「心=純真で無垢」という観念と「社会性」は、或る意味相反するからです。
従って、「向上心・克己心・自制心・疑心」などは、「向上志向・思考/克己志向・思考/自制志向・思考/疑い志向・思考」と言うのがより正しく、「Frontier Spirits」もまた、正しくは「開拓志向・思考」とすべきなのです。勿論、私とて、今更そう言い直したりはしませんが。
言い換えれば、「本来(誰もが大人になっても)純粋で無垢で子供のようであるの『心』」に対し、「理性・理念・道徳」という社会的圧力が掛かり、「心かくあるべき」的な観念が強要されている、と見ることが出来るのです。
分かり易く言えば「為政者(権力者)は、民衆の意識を操作したい時に『心』を用いて洗脳する」ということです。その証拠のひとつに「疑心」は、例外的に存在しますが「厭世観、劣等感、優越感、満腹感、不信感」などは、「厭世心、劣等心、優越心、満腹心、不信心」には変えられて来ませんでした。
その理由は、それらの語彙がいずれも「アテにならない、一過性の場合も多い、社会の制御に役立たない、個人的過ぎる」などであることは明らかです。
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同じような恣意を見るならば、「魂」に関しての慣例はより一層顕著です。まず、「Frontier Spirits=開拓心」を日本では「開拓魂」と訳します。これを「大和魂」と並べて論じると、集団のリーダー(開拓団のリーダーから国家の最高権力者まで様々な)の恣意がかなり見えてきます。「開拓心」や「大和心」とすると、なんだか「移ろい易い」「アテに出来ない」感じがしますし、「個人的」であり「個々で異なる」可能性が感じられ、「大儀の為に我心を捨てて団結し奮闘すべし!」という時には不向きだからです。
もし古今東西の人間たちが、「自らの心・精神世界を大切に思い、常に向かい合い。それらに対する外界のよからぬ作為に対しては毅然と立ち向かう。その判断をより正確にするための論理的思考を鍛えている」ならば。
「『向上心・克己心・自制心』??なんだそれは!? 『心』は誰にもあれこれ言われず手出しをされない俺様の(子供の頃から何ひとつ変わらない)純粋で無垢な宝物だ! それを言うなら『向上志向・思考、克己志向・思考、自制志向・思考』と言え!喜んで持ち、高めて見せるさ!」
「『大和魂? 開拓魂?』??なんだそれは!?『魂』は、神から預かった「前世の心」だ!それを集団とその目的の為に同一化・統一するなんて、あり得ない!」それを言うなら「大和志向・思考」「開拓志向・思考」と言え! 喜んで持ち、尽力してやるさ!」
のような根性があれば、みすみす「心かくあるべき」「魂の共有」などという狂った観念(単なる語法としてであっても)を刷り込まれることはなかったのです。
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その一方で、私たち一般庶民が「精神世界の言葉」を誤用してしまうこともあります。

例えば、良く言われる「素直な心」「心にしみる」「心が折れる、折れそう」など、加えて「心が荒む」「心が乱れる」「心がざわつく」「心から願う」「心から詫びる」はいずれも、「遠からずとも当たらず」です。
何故ならば、「純粋で無垢な心」は、「私たちの中に今も居る子供の時の自分」であるとするならば、その「外側」にある「論理的思考領域の私」と、更に外側に居る「気分・感情領域の私」は、「奥底に居る子供の私」の両親のようなものだからです。
従って、「社会や外因との対峙」は、基本的に両親が行い、そこでの「世知辛さ」「面倒事」「喜怒哀楽」は、子供にまでそうそう届かない筈なのです。しかし現実世界でも「親が不在」「居るけど頼りない」などの場合、子供に直接利害が及ぶことがあるように、「精神世界」でも同じ様なことが起こり得る訳です。故に「遠からずとも当たらず」なのです。
言い換えれば、「本来子供(心)に不要なもの、害なものを届かせるようでは駄目親だ」と考えれば、「心が折れる、折れそう」「心が荒む」「心が乱れる」「心がざわつく」などは「駄目親」を吹聴しているような言葉ということになります。
一方で、「心から願う」「心から詫びる」は、「子供の願い、侘びか?」というと、流石にそうではなく「純粋に無垢に、本当に」という意味で、確かに成り立ち得る語法と言えます。ただ、基本的に前述したような「駄目親的な『気分感情』と『論理的思考性』の人」の「心から願う、詫びる」は、如何なものか?とも言えますが。

感情領域と思考領域が駄目親的であってもなくても。いずれにしても私たち庶民は、とかく「大げさに言いたがる」とか「美化したがる」傾向にあります。
その結果「感じた」よりは「思った」の方が、「思った」よりは「考えた」や「想った」の方が、より深い・真面目・本当っぽい、を習慣的に選択しかねないのです。
尤も最近では「とうとう居直ったか?」と呆れを通り越し恐怖さえ感じさせる若者も現れ始め、およそ全てを、むしろ「感じた」で済ませる、ある意味正直ですが、(駄目親を恥じないどころか、思考しないことさえ恥じず)臆さない姿が見られます。
いずれにしても、私たち庶民のいささか姑息な「大げさや美化の習慣」と、「権力者の恣意」は、対立せず。都合よく相乗効果をもたらして、「大切な言葉を曖昧にし、互いの誤用を許し合う」ということを何十年、何百年続けて来たということなのです。

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Hindu Chant講座Vol.2

Hindu Chant講座Vol.3

Hindu Chant講座Vol.4

Vedic Chant入門講座(基本理解編)

Ayurveda音楽療法紹介(基礎理解編)

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アーユルヴェーダ音楽療法 (実践編2)

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(文章:若林 忠宏

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若林忠宏氏によるオリジナル・ヨーガミュージック製作(デモ音源申込み)
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ヨーガ・スートラ第3章第36節

Hindu God Yoga Sutra of Patanjali Statue on Exterior of Hindu Temple


ततः प्रातिभश्रावणवेदनादर्शास्वादवार्ता जायन्ते॥३६॥
Tataḥ prātibhaśrāvaṇavedanādarśāsvādavārtā jāyante||36||
タタハ プラーティバシュラーヴァナヴェーダナーダルシャースヴァーダヴァールター ジャーヤンテー
それから、霊感的な聴覚、触覚、視覚、味覚、嗅覚が生じる。

簡単な解説:前節において、絶対に混合しないサットヴァとプルシャが、想念において混同されている状態が経験であるため、自己のためのみに存在するプルシャに綜制を行うことにより、真我の知識が現れると説かれました。本節では、そのプルシャへの綜制によって、霊感的な聴覚、触覚、視覚、味覚、嗅覚といった超感覚が生じると説かれます。

プージャーの効果

個人的な話で恐縮ですが、今までの人生で数十回のプージャーやホーマを受けてきました。
(日々自分で実施するものは含みません。)
実際にインドの寺院で受けたものもありますが、大部分は日本にいてインドで専門家に実施していただきました。
日本で受けたプージャーの9割はシーターラーマのサービスです。
そんなに離れた場所で行うものに効果があるのか?と疑問におもう方もおられるかもですが、プージャーのエネルギーの作用に物理的な距離は関係ありません。
強力にエネルギー包まれる体験になります。
こちらのシーターラーマでは、皆さまにプージャー当日に断食やマントラの詠唱をお勧めしていますが、これらは万が一つにも飛んでくるエネルギーを取りこぼさないための綿密な配慮でしょう。
ちなみに個人的な感覚ですが、プージャーの効果は、半年から1年くらいは強く続き、その後は薄くずっと続くように思います。
入魂したヤントラや祈祷したルドラークシャがお供物の中に入ってくるのは(種類によっては入っていないものもあります。)ご自分でもこれらにマントラの詠唱などを続ければ、強い効果は半永久的に保ちますよ、ということなのだと思います。
インドでプージャーを受けてもヤントラやルドラークシャを貰えることはまずないので、非常に親切なサービスだと思います。
プージャーを受けた経験がない方で、解消したい問題を抱えておられる方は、個人プージャーをお受けになってみてはいかがでしょうか?驚くような体験ができるかもしれません。

(文章:ガネーシャ・ギリ)

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ガネーシャ・ギリ氏共著 『インド占星術と運命改善法』

ガネーシャ・ギリによるインド占星術鑑定

ガネーシャ・ギリによるヨーガクラス
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