ブラフマンへ至る道

ヒンドゥー教における重要な概念の一つに、宇宙の根本原理であるブラフマンの存在があります。ブラフマンは創造主であり、万物に浸透する根本原理を示す語として、古代から用いられてきました。あらゆる存在はブラフマンから生まれ、そしてブラフマンへ戻ると信じられています。

チャーンドーギャ・ウパニシャッドは、ブラフマンについて「तत् त्वम् असि(タットゥ トヴァム アシ)」を説いています。「汝はそれである/それは汝である」という意味があるこの大格言は、ヴェーダンタの学派によりさまざまに異なる解釈があります。アドヴァイタ(不二一元論)学派においては、窮極の真実であるブラフマン「タットゥ」と、個人のジーヴァとしての「トヴァム」の絶対平等を意味します。ブラフマンと個人が同一となる時、ブラフマンの名は真実となるのです。

ブラフマンを定義する場合、それはブラフマンを制限することになるため、定義することはできないといわれています。それ故、ブラフマンについては数多くの逆説的な解釈がなされています。

最も深い本質において、人間の魂は宇宙全体を包む不滅のブラフマンと同じです。バガヴァッド・ギーターには、ブラフマンについて以下のような記述があります。

さて 永遠の生命を得るために
知るべきことを これから説明しよう
大霊ブラフマンは無始であり
有と無を超越している

あらゆるところに かれの手あり足あり
眼も頭も顔も至る処にあり
至る処に耳があって全ての音を聞き
全てを覆いつくして時空に充満している

かれはあらゆる感覚機能をもつが
かれ自身には感覚器官が無い
一切を維持しながら一切に執着なく
物質性を楽しんで 物質性を超越している

全てのものの内にも外にもかれは在り
不動であって しかも動く
はるかに遠く また極めて近く
その精妙なこと とても肉体感覚では認識不可能だ

個々に分かれて存在するように見えるが
かれは決して分かれず常に一である
かれは万生万物の維持者であるが
全ての絶滅者であり 創造育成者である

かれは光るものの光の源泉であり
物質性の明暗を超えて光り輝いている
かれは知識であり 知識の対象であり
知識の目的であって全個々の心臓に住む
(バガヴァッド・ギーター 第13章第13-18節 田中 嫺玉訳)

ヴェーダは、万物に存在するひとつの本質について示唆しています。宇宙を支配する原理であるブラフマンと、個人を支配する原理である我が同一である(梵我一如)と理解することは、非常に難しいことです。それを理解する時、誰もが永遠の至福に到達することができるでしょう。

ブラフマンを知るには、まず、自己の本質を知る必要があります。それは、究極の自己認識に他ありません。梵我一如を悟る時、私たちは永遠に自由となり、あらゆる苦しみから解放されることでしょう。

(SitaRama)

自由のための戦い

クリシュナ降誕祭がいよいよ近づいてきました。2017年は、8月14日、または15日に祝福されます。8月15日は、インドの独立記念日でもあります。この日を迎えるために、そして自由を勝ち取るために、インドの地で流された涙は計り知れません。自由とは何か、バガヴァッド・ギーターの中で、クリシュナ神が説く教えを思い出します。

マハーバーラタにおいて大戦が始まろうとしている時、クリシュナ神は、敵方に親族や友人の姿があるのを目にし戦いを拒んだアルジュナに、「卑小なる心の弱さを捨てて立ち上がれ」と諭しました。武士としてのアルジュナが戦わない限り、社会に平和がもたらされることはなかったからです。そして、滅びるのは肉体であり、魂は不滅であると、その永遠性をアルジュナに説きました。

私たちは何よりもまず、魂の永遠性について理解する必要があります。そうして死という恐怖から自由になる時、私たちは物事の変化に悩まされることなく、自分自身の義務をまっとうし、人生を生きることに集中できるからです。そこで、私たちは真の平和と幸福を見つけることができるはずです。

クリシュナ神が、「戦いを放棄せよ」とは決してアルジュナに言わなかったように、魂の永遠性を理解するまでには、肉体の中で尽きぬ欲望や無知と戦い続けなければなりません。その戦いは、私たちが真実を理解するための義務の一つです。そうして戦い終えた後、永遠の魂として自由になることができるに違いありません。

インドを独立に導いたのは、バガヴァッド・ギーターを指針とし、非暴力を礎に戦ったガーンディーでした。胸を張って敵にすら愛を示す戦いは、自分自身を制する戦いでもあります。誰しもの内にあるその戦場において、バガヴァッド・ギーターの詩句は私たちを導き、いずれ社会に平和をもたらしてくれるでしょう。

霊的叡知の宝庫であるインドの独立記念日に重なる今年のクリシュナ降誕祭。意義深いこの日、改めて、クリシュナ神の教えを読み返し、自分自身の義務について見つめ直したいと感じます。皆様にとっても、祝福に満ちた時となりますよう、心よりお祈り申し上げます。

(文章:ひるま)

アサトー・マー・サッド・ガマヤで始まるパヴァマーナ・マントラ

非真実と真実、闇と光、死と不死、という対比の繰り返しが印象的な「アサトー・マー・サッド・ガマヤ」で始まるマントラの解説です。

 

白ヤジュルヴェーダの祭儀書シャタパタ・ブラーフマナ(शतपथब्राह्मणम् Śatapathabrāhmaṇam)14.4.1.30詩節に出てくるのが最も古い典拠で、最初期のウパニシャッドの一つ、ブリハッド・アーラニヤカ・ウパニシャッド(बृहदारण्यकोपनिषत् Bṛhadāraṇyakopaniṣad*1)1.3.28詩節にも登場し、「パヴァマーナ・マントラ(पवमानमन्त्रः pavamānamantra)」と呼ばれています。

パヴァマーナとは、√पू pū(漉す)という動詞から派生した「精製」「濾過」「浄化」といった意味の語で、それには「ソーマ(सोम soma)*2」という植物が深く関係しています。

 

ヴェーダ時代に行なわれていた重要な祭祀「ソーマ祭」では、ソーマから作られた興奮作用ある飲み物を神にささげる=祭火に注ぐことが祭祀の中心で、祭主や司祭たちは神にささげたソーマ酒の残余を頂き、長寿や吉祥を神に祈りました。ソーマを搾ったり精製したりするときに唱えられるマントラが「パヴァマーナ・マントラ」です。リグ・ヴェーダ第9巻が全てソーマに捧げる讃歌(マントラ)でまとめられているほど、ソーマはヴェーダ時代の重要な神格で、「パヴァマーナ」=「自ら清まるもの」と呼ばれています。

 

混濁した液体が漉し器(パヴィトラ、पवित्र pavitra)を通って精製され滴り落ちる様子を、ヴェーダの詩人達は天界の光景や宇宙の生成と重ね合わせて讃えました。また、ソーマ酒を飲めば不死が得られるとも歌われています。

しかし、人格神としてはあまり発達せず、天体の「月」がソーマの容器と見なされるうちに「月」そのものと同一視されるようにもなりました。

 

現代では、ソーマへの讃歌という意味合いはほとんどありませんが、無知から真実への導きを祈るマントラとして広まっています。

 

【逐語訳】

असतो मा सद्गमय

asato mā sad_gamaya

私を非真実から真実へお導きください。

(アサトー マー サッド ガマヤ)

 

तमसो मा ज्योतिर्गमय ।

tamaso_mā jyotir_gamaya |

私を闇から光へお導きください。

(タマソー マー ジョーティル ガマヤ)

 

मृत्योर्मामृतं गमय ।

mṛtyor_mā_amṛtaṁ gamaya |

私を死から不死へお導きください。

(ムリティヨール マー アムリタン ガマヤ)

ॐ शान्तिः शान्तिः शान्तिः ॥*3

om śāntiḥ śāntiḥ śāntiḥ

オーム、平安あれ、平安あれ、平安あれ

(オーム シャーンティ シャーンティ シャーンティヒ)

 

(Śatapathabrāhmaṇam 14.4.1.30/Bṛhadāraṇyakopaniṣat 1.3.28)

 

【単語の意味と文法の解説】

 

左から、デーヴァナガーリー表記、ローマ字表記、<名詞の語幹形、動詞の語根形 >、語意、(文法的説明)、「訳」、という順番で説明しています。

 

असतः asataḥ <a-sat-> 非真実、(sat- はbe動詞√as-(ある)の現在分詞で、「存在する~」「存在」が根本的な意味。それが拡張して「善」「真」「正義」の語となった。冒頭のa-は否定の意味を付け加える。語末の-aḥはサンディのために -oと変化。中性名詞、単数、奪格)「非真実から」

 

मा mā <mat-> 私、(一人称代名詞、単数、対格、附帯形)「私を」

 

सद् sad <sat-> 真実、(asataḥを参照。語末の -tはサンディのために -dと変化。中性名詞、単数、対格)「真実へ」

 

गमय gamaya <√gam- > 行く、(使役、命令、2人称、単数)「行かせてください」

 

तमसः tamasaḥ <tamas-> 闇、(語末の-aḥはサンディのために –oと変化。中性名詞、単数、奪格)「闇から」*無知蒙昧な状態も指す

 

मा mā <mat-> 上のmāを参照。

 

ज्योतिः jyotiḥ <jyotiḥ> 光、(語末の-ḥはサンディのために –rと変化。中性名詞、単数、対格)「光へ」

 

गमय  gamaya <√gam-> 上のgamayaを参照。

 

मृत्योः mṛtyoḥ < mṛtyu-> 死、(語末の-ḥはサンディのために –rと変化。√mṛ-(死ぬ)から作られた中性名詞、単数、奪格)「死から」

 

मा mā 上のmāを参照。

 

अमृतं amṛtaṁ <a-mṛta-> 不死、(√mṛ-(死ぬ)の過去分詞からの中性名詞、単数、対格)「不死へ」

 

गमय gamaya <√gam-> 上のgamayaを参照。

 

ॐ oṃ <a-u-m> 聖音、プラナヴァ「オーム」

 

शान्तिः śāntiḥ <śānti-> 平安、(女性名詞、単数、主格)「平安あれ」

 

(*1 サンスクリット語のサンディ(連声)のルールに従えば語末の-dは-tと発音されるため、「ウパニシャット」と言うのが正しいですが、ローマ字およびカタカナでは従来どおり「ウパニシャッド upaniṣad」と表記しました。)

 

(*2 ソーマ祭の伝統が失われ、ヴェーダ聖典の記述からはソーマが何の植物だったのか判然とせず、麻黄科の植物や、ワライタケのような毒キノコ類との仮説もあります。文化的、言語的に同一起源を持つペルシャのゾロアスター教で用いられていた「ハオマ」という植物は、ソーマと同一だったようです。)

 

(*3 最後の一行 om śāntiḥ śāntiḥ śāntiḥ は原典にはありません

 

(文章:pRthivii)

97、季節と一日の時間帯

「意識」が抱くイメージと「心と体」に伝わるものの違い
インド古典音楽の旋法:ラーガには、その用いる基本音列(所謂『音階』にほぼ同義)の音によって、「演奏すべき時間帯」や「季節」が定められています。

当コラムでも前述しましたが、これこそ「極めて形而上学的な側面のひとつ」と言えます。何故ならば、この概念に於いては、私達が感じる「時間や季節のイメージ」と「音を聴いて感じるもの」などが全く無視されているからです。

そもそも日本人とインド人では、「時間帯」や「季節」に対するイメージは大きく異なるでしょう。日本人は、怪談などで「草木も眠る丑三時」などのフレイズによって、「夜は怖い・物騒だ」という感覚がありましょうが、インド人(ヒンドゥー教徒)の場合、「神々の宴の時間帯」的なイメージもきっと強いと思われます。つまり日本人が「幽霊が出る」と恐々とする深夜の闇に、インド人は、神々や妖精をイメージするかも知れないという大きな違いがあるのです。

余談ですが、幽霊と言えば、或る時インド人の友人と「日印幽霊怖さ比べ」をしたことがあります。私が「日本の幽霊は足が無いんだぞ! どうだ怖いだろ!」と言ったら、友人は、「無いのか?!」「なら全然怖くないさ!」「なにしろインドの幽霊は、踵が前でつま先が後ろなんだぜ」「それ以外は全く普通の人間のように思って話しをして居て、良く見れば!」と返されました。
確かに言われてみれば、日本の幽霊に勝っているような気もしました。

このように、人種や民族、個人によって多様に変化する「感覚(Ahamkara)」やイメージ、固定観念や常識を遥かに超越した「不偏で普遍的な(しかも、内面的で本質的な))関連性」が、「音と時間帯/音と季節」の関係性である訳です。

一方、単に全てが「形而上的」ではなく、極めて「現実的な側面」もあります。

アーユルヴェーダに少し詳しい方ならご存知のことですが、一般に「元凶」的な解釈に偏っているきらいもあります「Tri-Dosha」(この名称の字義自体が元凶的なので、しかたがない部分もありますが)と「時間帯」の関係との「ラーガ(旋法)」とその「音」との関わりです。これは極めて現実的な概念であり、科学であるということが出来ます。

「Tri-Dosha」の三つの要素は、良く言って「燃焼・活性」「運化(運搬・代謝)」「鎮静・熟成」ですが、悪く言って(バランスが壊れた場合)「活性過剰・亢進」「流れ過ぎる」「固まる・滞る」でもあります。

つまりあくまでも「バランス」であると同時に「タイミング」なのです。更にそれらの「バランス」と「タイミング」は、「消化・吸収・代謝・還元・解毒のサイクル」という大きな流れと、そのスケジュールの上に成り立っています。

そして、これらは「天体の一日と一年の動き」とも当然のごとく、深く関わっています。古代インド科学音楽では、それらの「自然の摂理」の上に成り立った「大きな流れとサイクル」に基づいて、その「ラーガ(旋法)」とその「音」との関わりを説いています。

従って、生命体の外側(Annamaya-Kosha/食物鞘)の動きの一日の中での変化「働く~休む」といったものについてだけの単純で安直な解釈ではなく、体の奥底で、夜間も地道に繰り広げられている「働き」に応じて、「旋法;ラーガ」の、より相応しい音が「時間帯や季節」に対応して定められているのです。しかもそれは、生命体の「外側から三番目の層:Manomaya-Kosha/意思鞘」及び、更にその内側に直接的に作用すると共に、「外側から二番目の層:Pranamaya-Kosha /生気鞘」に対しても「二番目の層」を介して間接的に働き、後述します「臓器や酵素等の様々な『作業現場』のそれぞれに、順に作用するのです。

東洋医学専門家も陥る大誤解

アーユルヴェーダ・インストラクターさんの中には、誤解?説明不足?も少なからず見られますのが、この「タイミング」の解釈です。

例えば「食物の摂取→消化吸収→代謝活用」の流れの中で、多くのインストラクターさんが、「生命体の三つのステージ(現場)」のご説明と、「時差」についてのご説明に大きな不足か考え落ちがあるようです。つまり、「朝起きて仕事をし、夜休み、睡眠を取る」という「人間の社会的(対外的)な行動のサイクル」と、「体の内部の働き(作業)のサイクル」を分別出来ず、混同して説明していることの問題です。

「三つの現場(ステージ)」は、「胃腸」「小腸・肝臓・腎臓」「腸内細菌と代謝回路」ですが。まず、食物は、言う迄もなく、「胃腸」で「栄養素の塊」に変化されます。これには、健康で元気な者でも二三時間要します。その後、「小腸・肝臓・腎臓」に於いて、「利用可能な栄養素」に「変換(第一次的な代謝)」が為されます。ここでも二三時間、またはそれ以上の時間が必要です。

その後、同じ栄養素が、幾つかの「代謝回路」によって、様々な「部品(素材)的な栄養素」に細かく変換され、各部署に運ばれ、そこでの過不足に応じて、更に「再加工(再代謝)」されます。これには、第一陣でさえも二三時間必要で、その後の「再代謝」は、その後も続いてくり返されます。

恐らく、現代医学(現代西洋系)も、現存(現代解釈)の東洋医学でも、ここに存在する「生命体の基本的な大矛盾を見逃している」か? もしくは、「そもそもの不理解」があります。

それは、「殆ど全ての生命体が、太陽の動き(日中と夜間)の24時間に合わせて活性している」という大原則と。しかし「現実的には、上記の消化吸収・代謝には、最低でも九時間・十時間必要である」という大矛盾・大問題です。

更に加えて、何らかの不調や病気、精神的な弱さを持っていれば、当然この「ギャップ(自然のサイクルに対する消化吸収・代謝還元の作業能率の隔たり)」はより大きくなります。

言い換えれば、「Tri-Doshaの偏り」もまた、その「ギャップの問題」がより根底にあり、更に大きな問題は、その「ギャップを作り出してしまった原因」に在る、ということが出来る筈なのです。

故に、現在のアーユルヴェーダの主流である、「Tri-Doshaのバランス改善・是正」もまた、「現代西洋化学対処療法」的であるとさえ言えるのです。

つまり「健康で長生き」を目指すのであるならば、「一日三度の食事を改める」か、七時間・八時間で負担無く吸収出来るような「食物の質と消化吸収代謝の効率向上を計る」が大前提の基本である訳です。

しかし、この理解と意識で説いている専門家を、私の知る限りでは日本でも現地でもほとんど見ることがないのです。

最後までご高読下さりありがとうございます。

You-Tubeに関連作品を幾つかアップしております。
是非ご参考にして下さいませ。

Hindu Chant講座Vol.1

Hindu Chant講座Vol.2

Hindu Chant講座Vol.3

Hindu Chant講座Vol.4

Vedic Chant入門講座(基本理解編)

Ayurveda音楽療法紹介(基礎理解編)

アーユルヴェーダ音楽療法 (実践編1)

アーユルヴェーダ音楽療法 (実践編2)

アーユルヴェーダ音楽療法 (実践編3)

「いいね!」「チャンネル登録」などの応援を頂けましたら誠に幸いです。

(文章:若林 忠宏

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若林忠宏氏によるオリジナル・ヨーガミュージック製作(デモ音源申込み)
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バララーマ・ジャヤンティ

2017年8月13日は、バララーマ・ジャヤンティです。クリシュナ神の兄として知られるバララーマの降誕祭です。

バララーマはヴィシュヌ神の化身、また、アーディ・シェーシャ(初代竜王)の化身ともいわれます。

バララーマは鋤を手にし、農耕や豊穣の神として崇められることもあります。ラーマと名付けられるも、その強さからバララーマ(強いラーマ)と呼ばれるようになりました。弟であるクリシュナ神が色黒で描かれるのに対し、バララーマは色白で描かれます。

2人の誕生には有名な言い伝えがあります。大昔、多くの悪行を働いていたカンサ王は、「ヴァスデーヴァの8番目の息子に殺される」と予言されます。カンサ王は恐れ、ヴァスデーヴァの生まれた息子を次々に殺してしまいます。しかし、7番目と8番目の息子は生まれてすぐに逃され、牛飼いに育てられます。この2人の息子が兄バララーマと弟クリシュナです。

※バララーマ・ジャヤンティの日にちは、地域や慣習によってさまざまに異なります。

参照:http://www.drikpanchang.com/dashavatara/lord-balarama/balarama-jayanti-date-time.html?year=2017

ヨーガ・スートラ第2章第30節

Hindu God Yoga Sutra of Patanjali Statue on Exterior of Hindu Temple


अहिंसासत्यास्तेयब्रह्मचर्यापरिग्रहा यमाः॥३०॥
Ahiṁsāsatyāsteyabrahmacaryāparigrahā yamāḥ||30||
アヒンサーサティヤーステーヤブラフマチャリヤーパリグラハー ヤマーハ
不殺生、正直、不盗、純潔、非所有が、禁戒である。

簡単な解説:前節において、ヨーガの8つの部門とは、禁戒、勧戒、座法、調気法、制感、集中、瞑想、三昧であると説かれました。本節では、修行者がまず守るべき、道徳的な心得である禁戒について、不殺生、正直、不盗、純潔、非所有であると説かれます。

チャクラを活性化するビージャ・マントラ

チャクラを浄化すると信じられる技法に、種子真言を意味するビージャ・マントラの詠唱があります。ビージャ・マントラの詠唱は、対応するチャクラの滞りを取り除き、刺激を与えると伝えられ、それぞれのチャクラが活性化されると、身体のあらゆる部分に恍惚としたエネルギーが流れ出すと信じられます。この神秘的な技法を実践する方法について見ていきましょう。

ビージャ・マントラには、7つのチャクラに共鳴する音があります。それは、それぞれのチャクラを浄化、活性化、強化させる神聖な音です。各チャクラのビージャ・マントラは、以下の通りです。

第1チャクラ(ムーラーダーラ、背骨の根底): लं(LAM、ラム)
第2チャクラ(スヴァーディシュターナ、仙骨):वं (VAM、ヴァム)
第3チャクラ(マニプーラ、みぞおち): रं(RAM、ラム)
第4チャクラ(アナーハタ、胸の中央):यं (YAM、ヤム)
第5チャクラ(ヴィシュッダ、喉元):हं (HAM、ハム)
第6チャクラ(アージュニャー、眉間):ॐ(OM、オーム)
第7チャクラ(サハスラーラ、頭頂):ー

このビージャ・マントラを通じたチャクラの浄化と活性化の技法には、パートナーと行う方法と、独りで行う方法があります。

パートナーと実践する場合:パートナーとともに座り、自分自身が抱く思いを言葉にし、パートナーと共有します。パートナーはただ耳を傾けましょう。この時、「何時までに終わりにしたい」「体には触れないで欲しい」など、適切な境界を設けることが大切です。そうすることで、お互いに安心し、心を開き、今にいることができます。また、その境界が変わったと感じた時は、パートナーに知らせ、新しい境界を受け入れてもらいましょう。

マントラを唱える際には、各チャクラに対応するビージャ・マントラをパートナーのチャクラへ送ります。その際、受け手は横たわります。送り手は手を筒型に形作り、一端をパートナーの身体のチャクラに対応する部位から数センチ離して置き、もう一端からマントラを唱え吹き込みます。手の筒を通じマントラが適切に身体に届くと、チャクラが浄化され、活性化されます。

独りで実践する場合:チャクラに対応する部位に手を置き、マントラを唱えます。唱えると同時に、意識をしながら手を通じチャクラへエネルギーを送ります。瞑想的な音楽と共に実践するのも良いでしょう。7つすべてのチャクラへマントラを唱え終えたら、落ち着いて心身を観察します。

マントラを唱える順番は、男性と女性で異なります。男性エネルギーは、天、精神、陽に関連するため、第1チャクラ(背骨の根底)から始め、第7チャクラ(頭頂)へと上がると良いでしょう。一方、女性エネルギーは、地、物質、陰に関連するため、第7チャクラ(頭頂)から始め、第1チャクラ(背骨の根底)へと下がると良いでしょう。繰り返し実践をすることで、自信が育まれ、大きな恩恵を得ることができるはずです。

(SitaRama)

ワールドワイドな神様たち

ヒンドゥー教の神様は、仏教にも取り入れられ、日本にも結構入ってきているのは、皆さまご存知の通りです。
しかし、世界を見渡すと一見交流がなさそうな宗教・文化の中にも同じような神様がみられることがあります。
有名なところでは、キリストとクリシュナには共通点があるとか、シヴァ神と諏訪大社の神様は似ていて、リンガムと御柱は同じ象徴ではないか、とか、言われたりすることもあります。
これらはすべて有名な神様名ですので、古代になんらかの交流があった可能性はあります。
しかし、何度か書かせていただいている少々マイナーなバガラームキー女神も、日本神道の中に同じ神格を見ることができ、さらにはヨーロッパでも同じ神格が聖なる存在として祀られています。
これらは、間違いなく伝播の形跡があると、かつてそれを研究している学者の方からお話を伺ったことがあります。
(論争が巻き起こる可能性があるため、日欧のものがどのような神様かを公開する許可はいただいておりません。どうぞご了承ください。)

一方違った形で共通することもあるのかもしれません。
一部の方にはよく知られた話ですが、プラティヤンギラー女神は、エジプトのセメクト神と同じ神格だと言われています。
これは伝播した可能性も否めないのですが、両方の神様とも、それぞれの地域のその時代の賢者が深く瞑想し、意識の深淵で同じ神格を見出した可能性が高いとも言われているそうです。

時代を超えて古今東西の人間が同じ神に祈るというのは、ロマンを感じます。
いずれにしましても、ヒンドゥーパンテオンにはあらゆる性質の神様がおられます。
お気に入りの神様を見つけるのは、人生に豊さや潤いを与える一助になるかもしれません。

(文章:ガネーシャ・ギリ)

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ガネーシャ・ギリ氏共著 『インド占星術と運命改善法』

ガネーシャ・ギリによるインド占星術鑑定

ガネーシャ・ギリによるヨーガクラス
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ハヤグリーヴァの降誕

兄弟姉妹の愛の絆を祝うラクシャ・バンダンが祝福されるシュラヴァナ月の満月。この日は、ブラーフミンの間で「ウパーカルマ(アーヴァニ・アヴィッタム)」という重要な儀式が執り行われる時でもあります。ガーヤトリー・マントラを唱えながら、身につけていたブラーフミンの象徴である白い聖紐を新たに付け替える時であり、ガーヤトリー・ジャパの日としても知られています。

「ウパーカルマ」は始まりを意味します。ヴェーダの学習に取り掛かる重要な日として伝えられるこの満月には、ある言い伝えがあります。大昔、マドゥとカイタバという悪魔によって、ブラフマー神から知識の象徴であるヴェーダが盗まれました。すると、ヴィシュヌ神が馬の頭をしたハヤグリーヴァとなり、盗まれたヴェーダを取り戻すと、暗闇に飲み込まれていた世界が光に包まれたのだと伝えられます。

ヴィシュヌ神がハヤグリーヴァとなって降誕した時が、このシュラヴァナ月の満月であると信じられています。ヴェーダを世界に取り戻したハヤグリーヴァの降誕は、無知という暗闇から生じる苦悩が溢れる世界に、知識という光から生じる幸福がもたらされた聖なる時を意味します。

ハヤグリーヴァは、仏教では馬頭観音として知られます。知識の主であるハヤグリーヴァへの礼拝を通じ、その力が呼び覚まされる時、思考は明瞭となり、集中力や記憶力、分析力や直感力が高まるといわれます。そうして向上する知識は、人生のあらゆる苦悩の源である無知を滅するための、何よりも強い武器となるものです。それを手にする時、大きな幸福に包まれるに違いありません。

ハヤグリーヴァは、毎朝、世界に太陽をもたらす重要な存在として崇められます。全世界を照らす太陽は、私たちの内で意識として明るく輝いています。シュラヴァナ月の満月、太陽の光を讃えるガーヤトリー・マントラに触れてみるのも良いかもしれません。ハヤグリーヴァの誕生とともに、自分自身の内で、新たな知識の光が昇ることでしょう。

(文章:ひるま)

ラクシャ・バンダン2017

2017年8月7日は、ラクシャ・バンダンの祝日です。ラクシャ・バンダンについての簡単な解説を、以下Raksha-Bandhan.comよりご紹介させていただきます。

ラキ:愛の紐
ラキは、兄弟・姉妹の愛情で彩られた神聖な紐のお守りです。ラクシャ・バンダン(守護を結ぶの意味)として知られるこの日は、ヒンドゥー暦におけるシュラヴァナ月の満月の日に祝われます。一筋の紐に過ぎないラキは、 愛と信頼の固い絆の中でもっとも美しい関係を結ぶとき、鉄の鎖より強いとみなされます。 また、誰もが助け合い、仲良くするべきという概念を広めるために、ラキの祝日は社会的な意義があります。

伝統と習慣
ラクシャ・バンダンの祝日は、兄弟・姉妹間で分かち合う愛情に捧げられます。 この日、姉妹たちは、兄弟の長寿と祝福を神に祈ります。 姉妹たちは兄弟たちに美しいラキを贈り、兄弟たちはこの世界の悪から姉妹たちを守ることを約束します。この習慣は古くからあり、ここで行われる儀式は地域によって異なりますが、その美しい意義はどこにおいても変わることはありません。

ラキの意味
調和をもたらし、家族をひとつにまとめるために、ラキの祝日には大きな意味があります。ラキは、兄弟・姉妹間の愛、すなわち彼らが子供の頃から共有している愛の絆を表しています。 ラクシャ・バンダンを祝う習慣は遙か昔に遡り、今なお、人々は伝統的な方法でその愛情を表現しようとしています。ラキは、古い時代から、兄弟・姉妹間の愛の絆を強く結びつけてきたのです。

ラキのお祝い
ラクシャ・バンダンのお祝いは、兄弟・姉妹間の穢れのない愛を表す祝日です。 古くから、この祝日は歓喜をもって祝福されてきました。ラキは兄弟・姉妹間の無条件の愛の証です。 女性たちは、少なくとも祝日の2週間前から準備を始めます。その一日を特別な日にするために、人々はラキや贈り物、ラキ・プージャーのプレート、お菓子などを買います。 これはまた、この神聖な祝日を祝うために家族が集まるという一つの機会にもなります。愛する人々の間での贈り物は、この特別な日を心に残る美しい思い出にしてくれます。

出典:Raksha Bandhan, http://www.raksha-bandhan.com/
より翻訳転載