スタッフ日記:チャイルド・スポンサーシップのご報告(2017年5月)

チャイルド・スポンサーシップ(子どもの教育支援)にご協力をいただいている皆様、温かいご支援をいただき誠にありがとうございます。5月の配給時の様子が届きましたので、ご報告をさせていただきます。

インドの多くの地域で酷暑期を迎えている今、子どもたちは長い夏休みを満喫しています。今回の配給は、ダリット出身で、支援家族の一人となっている15歳の女の子、ヴァルシャによって進められました。ヴァルシャは父親を知らず、お母さんは家政婦として働いています。

支援家族のリストを手にするヴァルシャ。同じく支援を受ける子どもたちの名前を一人一人呼びながら、配給を進めるとても重要な仕事です。最初はとても恥ずかしがっていたようですが、最後まで無事に終えることができました。配給を通じては、ただ物資を配るだけでなく、こうして子どもたちの豊かな成長のお手伝いもします。


来月、6月の配給は、学校の開始に伴い、洋服やバッグ、日傘、ノートやペンなどの学用品を配る、一年の中でももっとも重要な配給となります。また、ケララ州では6月よりモンスーンとなる雨季が始まりますが、ダリットの人々の主な仕事となる外仕事が減ることもあり、食材等を含め、6月〜8月はより多くの配給支援が必要となります。

子どもたちのお母さん。母子家庭であったり、貧困家庭であったり、ダリット出身であったり、病気を患っていたり、厳しい生活を余儀無くされています。日中は仕事をしていることも多いため、配給の多くは、学校がお休みとなり、お母さんたちの仕事が終わった第2土曜日の夕方に、皆を集めて様子を伺いながら行われています。

(スタッフ:ひるま)

86、インドの民衆音楽の現代と未来

インドの民衆音楽、民俗音楽、所謂「民謡」の類いは、私達日本人には計り知れないバリエーションがあります。まず、インド紙幣には17もの文字で金額が書かれており、同じ文字を用いても、例えばヒンディー文字圏でも、方言のレベルを越えているのでは?と思わされる程の異なりを感じます。

イギリス人宣教師が書いた、世界で初レベルのインド音楽研究誌には、「驚いたことに、インドでは100マイルも行くと言語も音楽(この場合は民謡に限定されていると思われる)も全く変わってしまうのだ」とあります。日本に置き換えると、東京から静岡に至った段階で、言語も音楽も変わってしまう、ということです。

勿論、「科学音楽」の後継である「古典音楽」は、民族の壁を越えており、その様は、ヨーロッパ中でイタリア人バッハの曲、ポーランド人ショパンの曲が演奏されることと同様です。北インド古典音楽は、ネパール、パキスタン、バングラデシの他、スリランカでも演奏されています。

また、日本でも「民謡」や「郷土料理」は、それこそ100マイル、県単位、地方単位で変わりますから当然かも知れませんが、「言語も民族も変わる」となると流石に実感が湧かないのではないでしょうか。これは多民族国家では、当たり前のことのようです。

1970年代の末、私が初めて在日インド人会のパーティーに呼ばれて演奏した際、驚く程褒めて頂いた後の歓談で、今からすれば恥ずかしい不勉強振りを呈したことがあります。愚かにも「皆さんヒンズー教徒なんですか?」と訊いたのです。
優しいインド人は、「何だい? ヒンズーって?」と言いつつ「もしヒンドゥーのことならば、答えはYESだ」「だが、もしヒンディーのことならば、答えはNOだ」
「この夫婦なんか、かみさんがヒンディーで語りかけると、旦那はウルドゥーで答えているさ」と丁寧に教えてくれました。

ご夫婦の旦那さんは、デリー生まれ育ちなので、ヒンドゥー教徒ですがウルドゥー語に染まっていたのでした。なので、地域民謡があまりなく、慣れ親しんだ非古典音楽は、ヒンドゥー讃歌「Bhajan」の他は、「Qawwali」や「Ghazal」と、何れもイスラム文化圏の音楽でした。

同様なことはパキスタンでも同じでした。在日パキスタン人が300人程集まった「建国記念日」のイベントで演奏を頼まれた際、冒頭の数曲は、最前列から殆どの聴衆が、「やんや」の喝采を送ってくれました。ところが、その後、南東部「Sindh」の民謡を演ったとたん、さっき迄「笑顔と喝采」だった大多数が、「笑顔」だけになって、手拍子も掛け声も無し。ところが、気付けば、最後尾の4~5人程が、席を立って会場の真後ろで無我夢中で踊っているのです。聴衆の2%ほどがSindh族だったことが歴然と分かりました。Balouchの曲は、中程右側のたった二人。そして後半、Punjab曲のメドレーともなると、会場は怒濤のごとく盛り上がりました。

冒頭の曲は、ウルドゥー語でしたが,その数倍の興奮度でした。

日本でも、地方の祭りや民謡となると、ネットの時代であろうとも、古式のままに演奏されます。最も流行に流され易い日本人ですから、「神輿の掛け声」は、一時全国で「せいや!」になったこともありましたが。

ところが、伝統に対して厳しい私の邦楽の師匠のひとりは、「1970年代に日本の民謡は死んだ」とさえおっしゃいます。その根拠が、「尺八の穴の位置が、全国でほぼ統一されてしまったからだ」とのことです。尺八で民謡を伴奏するようになったのは、明治初期に「普化宗」が廃止になり、尺八が民間に自由に用いられるようになってからですが、全国各地で、固有の「音感」に合わせて、穴の位置が異なっていたのです。
ところが1970年代にNHKの民謡番組が大流行し、各地から足代程度でアマチュア名人を呼び寄せていた頃に、番組専属の尺八奏者が、「俺が全部伴奏してやる」と言い出したとかで、局も、「歌い手ひとり呼べば良くなる」と簡単にそれを認めた結果、音程が揃ってしまったということらしいのです。歌い手さんも、アマチュアですから、「何だか音程がやりにくい」と思いつつも、相手はプロ演奏者。文句も言わずに謳っている内に、数百年続いた音程を忘れてしまった、ということなのです。

このレベルで見れば、確かに日本の民謡も大きく変化しているかも知れません。が、津軽三味線のコンテスト優勝者が、ジャズやロックとコラボしようとも、コンテストでは古曲で勝負していますから、優勝後の音楽活動はともあれ、伝統伝承曲の本懐自体には、そうそう「洋楽」が入り込む余地はないのだろうと楽観しています。

勿論、これには西洋音楽の「和声」が東洋音楽には不必要であることも大きなバリアーになっているに違いありません。例えば、国の三分の一から半分は「インド古典音楽圏」と言うことが出来るアフガニスタンでは、1990年代に入ってようやく「ギターにコード進行が登場」しましたが、1980年代にアフガン人の兄貴分から頂いた貴重な国営放送のVTRを観て仰天しましたのは、「ドラム・ベース・ギター」のロックバンド編成なのに、コード進行をしないのです。コード進行の為にこそあるベーズは、ずっと同じ音を刻んでいました。しかも、「リバーブ/ディ・激C・マシーン」といった音をズラして反復させる残響音効果が「よくあれでリズムが取れるものだ」という程、異常なまでに大きく掛けられていて、「これぞモダン・サウンドだ!」とばかりに演奏していました。しかし、ギターが演っていたことは、伝統民族弦楽器のそれに他なりませんでした。同じことは、タイ東北地方「イサーン」の伝統民謡「モーラム(掛け合い演歌)」や「プータイ舞踊」でも観られます、

同じ頃私は、意図的にアフガン伝統音楽や新民謡に「コード付け」を試みたことがありますが、ジャズの代理コードを駆使しても極めて難しいものでした。結果にはかなり満足していますが、決して「新しい音楽」にはなりませんでした。むしろ伝統曲の真髄が引き立ったかも知れません。もしこれが多くの人々に認められるならば、「コード進行(和声学)の無い東洋伝統音楽」の本筋は、コード進行を付けても、洋楽器を加えても「壊れない」ということです。恐らくこれは、日本の伝統邦楽の江戸時代の名曲でも同じであろうと思われます。

そして、とうとうアフガニスタンでも一般的になりつつある「コード進行のあるモダン・ポップス」の場合は、初めから「洋楽」として作られています。

このことを、野菜や鶏卵に喩えるならば、幾らポリ容器に入れようが、容器の中で育てて「真直ぐな胡瓜」を作ろうが、胡瓜、鶏卵自体は昔と変わらないということです。勿論、「化学肥料」や「抗生剤、化学栄養剤」を添加しているかも知れませんが、「生卵」を割ったら、既に醤油味やカレー味が添加されていた、というところには至っていません。。

写真は、比較的近年のインド北部のヒマチャル・プラデーシの祭りの楽団です。二人が叩く、比較的「浅胴」の両面太鼓は、中世初期に西アジアから伝わったものであろうと考えられますが、「S字」に湾曲した大型のトランペット「ナラシンガ」は、数千年前から存在する「蛇」を模した古楽器です。

その他、You-Tubeなどで多くの実例を観ても、伝統民族太鼓の「ヘッド(鼓面)」がプラスティックやファイバーに変わろうとも。演奏法に「ウケが良い」古典太鼓「タブラー」の奏法を取り入れようとも、基本的な大部分は、数千年継承されて来た伝統と替わりが認められませんでした。

「より難しい伝統技法」は大分廃れたかも知れないことを考えると、いささか楽観かも知れませんが、「インド(亜大陸)の民衆音楽」の伝統は、まだまだそう易々とは滅びないような気がします。逆に恐れるのが、昨今世界的に台頭している「民族主義・保護主義・排他主義」の思想やムード、そして政治に、それらが利用されることです。

中国人チェリストのヨーヨー・マ氏が、イスラム教の一派の財閥のスポンサーを得て1990年代末に行った「旧ソ連とイランなどの民族音楽紹介プロジェクト」の音楽監督に音楽之友社の依頼でインタビューをしたことがありますが、監督曰く、「民主化となった今後がむしろソ連時代より伝統に危機的なダメージを与えるだろう」と言っていました。事実、それから十年も経たない内に、例えばアゼルバイジャン伝統民族音楽の場合、「12曲の内、ウケる半数しか演らない」「その一曲の5楽章の内、ウケる部分しか演らない」ということが平然と行われるようにな・閧ワした。

音楽関係者も世界のリスナーも、その「部分」の「伝統技法とその超絶のテクニック蚤毎さ」に充分過ぎる程満足していますから、「間引きされた伝統」についての危惧・懸念・危機感を抱きようがないのです。
そこに、何らかの思想・政治・宗教活動の恣意による利用が加われば、「小手先とムード」ばかりが「伝統的」であっても、その「精神性」は、大巾に退化している筈です。さすれば、その「音」も、初めは感動しても、やがて、その「奥深さや厚み」に欠けることが分かるかも知れません。しかし、現代は、あらゆる事柄に、そのような「深みや精神性」を求めず「分かり易く、現状や自分を肯定してくれるものばかり」を求める方向性に大きく偏っているとも思われますから「分かる人」も激減して行くのかも知れません。

最後までご高読下さりありがとうございます。

You-Tubeに関連作品を幾つかアップしております。
是非ご参考にして下さいませ。

Hindu Chant講座Vol.1

Hindu Chant講座Vol.2

Hindu Chant講座Vol.3

Hindu Chant講座Vol.4

Vedic Chant入門講座(基本理解編)

Ayurveda音楽療法紹介(基礎理解編)

アーユルヴェーダ音楽療法 (実践編1)

アーユルヴェーダ音楽療法 (実践編2)

アーユルヴェーダ音楽療法 (実践編3)

(文章:若林 忠宏

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若林忠宏氏によるオリジナル・ヨーガミュージック製作(デモ音源申込み)
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ラタ・ヤートラー2017

神聖な存在をより身近に感じる瞬間が、インドで過ごす日常には溢れています。偉大すぎて掴みがたいその存在も、インドの世界の中では不思議と親しみやすいものとして際立ち、人々を優しく迎え入れます。そんな神様の一人が、これから盛大な祝祭を迎えようとしているジャガンナータ神でした。

極彩色に彩られた姿、真ん丸とした大きな目、そして愛らしい表情が、一目見ただけで心の奥深くまでぐっと入り込み、大きな存在感を放っていたことを思い出します。ジャガンナータ神は、主に東インドで崇拝される、ヴィシュヌ神、もしくはクリシュナ神の化身とされる神様であり、最も盛大な祝祭が、2017年は6月25日~7月3日に迎える「ラタ・ヤートラー」です。

ラタ・ヤートラーは、東インドに位置するオリッサ州の聖地プリーにて、豪華な山車が街を練り歩くお祭りとして知られています。一説に、悪行を働いていたカンサを打ち破ったクリシュナ神が、兄のバララーム神と妹のスバドラー神と共に山車に乗り帰還したことを祝福するお祭りであるといわれ、豪華絢爛な山車と共に進むジャガンナータ神の姿が多くの人々を惹きつけます。

そんな山車は馬車とも捉えられ、精神性を学ぶ上で多くの例えに用いられるものです。カタ・ウパニシャッドにおいては、「真我(アートマン)は車主であり、肉体は馬車、理性が御者、そして意思が手綱である。」(カタ・ウパニシャッド第3章3~4節)と、人の体、心、そして精神のあり方が述べられています。

苦楽を生み出す感覚器官に操られる肉体を、意志と言う手綱を持って導くことは、精神性を向上させるための道において、最も強調される努めるべく行いの一つです。その先にあるものは、体、心、そして精神の統一であり、乱れのないその小さな世界の中において、誰もが偉大な存在に気づくに違いありません。

ジャガンナータ神を乗せた一つの大きな山車が、集まった個々の手によって真っ直ぐに導かれる様子こそ、一人一人が偉大な存在の下に一つであることを物語っています。心が主に定まる時、そこにはいつの時も平安があることを私たち自身が証明しているかのように映ります。

祝祭を通じ、そうした精神性を向上させる教えが、一瞬一瞬に溢れているのがインドでの生活です。ラタ・ヤートラーは9日間に渡る祝祭です。インドの各地から、また世界の多くの場所で、この愛らしい神の下に人々が歩み寄り一体となります。そのエネルギーが生み出す平安が、世界を包み込むことを心から願っています。

(文章:ひるま)

参照:https://en.wikipedia.org/wiki/Ratha-Yatra

スタッフ日記:第10回アンナダーナ終了しました!

第10回アンナダーナにお気持ちを寄せていただきました皆さま、本当にありがとうございます。今回はいつもの寺院にて、滞りなく無事に終えることができました。

酷暑期となり、気温は連日40度を超え、当日は44度の予報でした。食事を配る時間帯は、いつも一番暑い時間となり、食事の列に並ぶ方々にもよくないので、できれば午前中に配ることができるようにケータリングの方達と予定を立てていました。しかし、朝の準備段階から非常に暑く、動くのもいつも通りが精一杯。配り始めることができたのは、いつも通りのお昼過ぎでした。

今回は子どもたちが夏休み中のせいか、ギーの香りに誘われて、配り始める前からたくさん集まり、遊びながらまだかまだかと待ちきれない様子。こんなに暑くても元気一杯の子どもたちを見ると、それだけで元気をもらうような気持ちです。デザートのハルワーだけおかわりに来る子の姿もありました。

今回は特に、サブジー(野菜のおかず)が絶品だったようで、たくさんの方々が美味しいと声をかけてくださいました。暑いとどうしても食欲が落ちるので、集まる方々も少なめかなと予想していましたが、いつも通りの大行列となり、美味しいサブジーとデザートのハルワーも含め、予定通り1000食分以上を配り終えることができました。

午前中といえど非常に暑く、捏ねたり、揚げたり、煮たり、こんなに暑くては、ケータリングの方達も大変です。

子どもたちがたくさん!配り始める前からきちんと並んでくれています。

13時〜14時の間はとても混み合います。ちょうど、インドのお昼時間です。

本当に暑いですが、とても乾燥しているので、木陰とそよ風があれば、だいぶ過ごしやすいです。温かい食事も楽しんでいただけたようです。

(写真を掲載しきれなかったので、Facebookにアップロードしました。こちらからもっとたくさんの写真をご覧いただけます。)

皆様の温かいお気持ち、改めまして心より御礼申し上げます。いつもの寺院での実施となり、子どもたちに加え、いつも来てくださる方、ご近所の方、地方から出て来てデリーに滞在している労働者の方、貧しいコミュニティから来る方など、さまざまなバックグラウンドを持つたくさんの方々へ奉仕することができました。食事というかけがえのない豊かさを通じ、多くの方々と繋がることができとても嬉しく思います。こうした温かい繋がりが広まっていくことを心より願っています。次回もどうぞ、宜しくお願い申し上げます。

アンナダーナを通じ、皆様にも大きな恩寵がありますように。

(スタッフ:ひるま)

ヨーガ・スートラ第2章第18節

Hindu God Yoga Sutra of Patanjali Statue on Exterior of Hindu Temple


प्रकाशक्रियास्थितिशीलं भूतेन्द्रियात्मकं भोगापवर्गार्थं दृश्यम्॥१८॥
Prakāśakriyāsthitiśīlaṁ bhūtendriyātmakaṁ bhogāpavargārthaṁ dṛśyam||18||
プラカーシャクリヤースティティシーラン ブーテーンドリヤートマカン ボーガーパヴァルガールタン ドリシュヤム
光輝、行動、停止の性格を持ち、物質元素と知覚、運動の器官からなり、自己の本質の経験と解脱を目的とするものが、見られるものである。

簡単な解説:絶たれるべき苦しみの原因について、例えば、自分の肉体が自分の本質であるかのように思う、見るものと見られるものの結合であると説かれました。本節では、その見られるものについて、三つのグナをあらわす、光輝、行動、停止の性格を持ち、それらから展開した、物質元素(地、水、火、風、空)と知覚(視覚・聴覚・嗅覚・味覚・触覚)、運動の器官(発語・手・足・生殖・排泄)からなり、自己の本質の経験と解脱を目的とするものであると説かれます。

万物の泉・太陽神スーリヤ

ॐ भास्कराय विद्महे महाद्युतिकराय धीमहि।
तन्नो आदित्यः प्रचोदयात्‌॥
我らがバースカラ(光をつくる方)を知り、
偉大なディユティカラ(光彩を放つ方)を瞑想できるように
アーディティヤ(アディティの息子)よ、我らを導き給え

インドの地に響く力強い祈りの一つであるスーリヤ・ガーヤトリー・マントラ。
宇宙全体の活動を司る太陽を崇めるこの賛歌において、太陽は万物の現象の主であるナーラーヤナ神のエネルギーとして崇められます。生きとし生けるもの全てを育む太陽に代わる存在はなく、エジプトやギリシャをはじめ、世界の各地で太陽は至要たる存在として崇められてきました。

太陽をスーリヤ神として崇めるヒンドゥー教には、創造神であるブラフマー神が聖者に伝えたスーリヤ神の108の御名があり、その果てしないエネルギーの偉大さがあらわされています。光を放ち、成長を促し、秩序を保ちながら万物を育むスーリヤ神は、プラーナ文献の中で重要な18書(大プラーナ)の最初にあたるブラフマ・プラーナにおいて、頻繁に讃えられます。その中で、あらゆるものはスーリヤ神のあらわれであり、あらゆるものはスーリヤ神に消えてくと述べられます。宇宙の創造の源であり、破壊を司るスーリヤ神を礼拝する者には、豊かさ、力、勇気、知識、忍耐、健康などが授けられ、その人生は、スーリヤ神の光で金色のように輝くといわれます。

スーリヤ神は、色では赤色、天然石ではルビーに関連するといわれ、4本の腕を持つ男神として描かれます。7頭の馬が牽く馬車に乗るスーリヤ神は、季節の変化を司り、馬車の車輪は、1年の周期を意味する「サンヴァトサラ」と呼ばれます。

スーリヤ神には、シャニ神とヤマ神という息子がいます。シャニ神は、私たちの人生において多くの試練を与えながら、その歩みに指針を授ける神格です。ヤマ神は、私たちの肉体の死後、その行為の善悪の記録から罪の判定を行う神格であり、二人の息子はそれぞれ重要な神格として崇められています。

ラタ・サプタミー、マカラ・サンクラーンティ、チャタ・プージャー、サンバ・ダシャミーなど、ヒンドゥー教にはスーリヤ神を礼拝する数多くの祝祭があります。毎朝の最初の祈りにおいて、スーリヤ神への祈りを捧げる人々も少なくありません。
スーリヤ神は、ヒンドゥー教における信仰の中心であり、もっとも神聖な豊かさのあらわれとして、万物のエネルギーの源泉であり続けます。

(SitaRama)

霊性と手食の関係

インドに滞在する楽しみの一つに、手でいただく食事があります。レストラン等ではフォークやスプーンが提供されますが、家庭に入れば、現在でも手で食事をとるのが通常です。私自身も、インドで食事をとる時はなるべく手を使い、古くから受け継がれてきた慣習を学んでいます。食事がより楽しくなるこの食し方について、インドの人々が実践する大切な意味を見つめ直したいと思います。

まず、ムドラーでも重要視されるように、五大元素をあらわす五本の指は、それぞれに大切な意味と役割があります。親指はアグニ(火)、人差し指はヴァーユ(風)、中指はアーカーシャ(空)、薬指はプリティヴィー(地)、小指はジャラ(水)をあらわし、これらに繋がる手で直接食事をとる時、それぞれの要素が調和され、心身と食物のエネルギーのバランスが保たれると伝えられます。

指先で感じ取った食物の温度や状態は、しっかりと脳に伝わり、身体は適切な消化を促します。農作から調理まで、多くの人を経て得られる食事には、目には見えないさまざまな思いやエネルギーが関わっています。重要な行為器官の一つである聖なる手は、こうした思いやエネルギーを浄化し、より清らかなものとして体内に運ぶ助けをしてくれるといわれます。

指先は、ラクシュミー女神が住まう場所として、古くからマントラの中でも讃えられてきました。食事というかけがえのない豊かさを、女神の力によって取り入れる時、それは何よりもの豊かさとして、私たちの心身を育みます。

また、私たち人間は母親の胎内から出た後、たくさんの菌の力を借りて生きています。特に、私たちの身体にとって常在菌となる微生物との関わりはとりわけ重要であり、手で直接食事をとることは、こうした微生物との関わりを強めてくれるといわれます。

食事は、毎日欠かさずに誰もが行う重要な行為です。食文化が異なる日本では、なかなか手で食事をする機会はないかもしれませんが、インド料理を食する機会があれば、ぜひ、手でとる食事に秘められた大切な意味を感じて見てください。大自然と調和をしながら幸せに生きる、インド古来の偉大な叡智を学ぶことができるはずです。

(文章:ひるま)

85、宇宙→地球→生命体 (森羅万象との繋がり)

そもそも宇宙は「果てしなく無限」でありますから、宇宙には一体どれほどの天体があり、未だ解明されていない物質が、果たしてどのように存在し飛び交っているのでしょうか?  私達が属する「銀河系」だけでも、約二千億もの「恒星」が存在すると言われますから気が遠くなる世界です。

そして、「無数に在るだろう○○系」のひとつに過ぎない「銀河系」の中の、そのまた約二千億のひとつに過ぎない「太陽系」の十数個(今現在も確定していない)の惑星・準惑星のひとつに過ぎない「地球」には、動物だけで約137万種。確認されただけも870万種の生物が共存していると言われます。

一方、私達人間及び様々な生命体の体内には、無数とも思える細胞と、善し悪し日和見、様々な細菌が共棲・共存しています。人間の場合、細胞の数は、37兆と言われ、腸内細菌だけでも40兆とも言われます。

もし私達人間ひとりひとりが、この「宇宙→地球→生命体→細胞や細菌」という感覚を実感出来たならば。もし私達人間ひとりひとりが、自分を「870万種の生物のひとつ」であり、「早いものでは数ヶ月で死んで入れ替わる37兆の細胞や40兆の細菌のひとつ」であることを「擬似的」であっても「共感」することが出来たならば。

「870万種の生物のひとつ」にしては、「随分身勝手で自分本位で我が儘だ」と考えられ、「37兆の細胞のひとつ」にしては、「随分と恵まれており、面白い学びや楽しい文化が溢れていて幸せな人生だ」と考え、「なのに、今迄は『虐められて悲しい』だとか、『虐めて気分爽快』だとか、『誰々が好きだ嫌いだ』『食べ物の好き嫌い』など『どうでも良いこと』で頭や気持ちが一杯になっていたものだ」などなどと思えるのではないでしょうか?

もし私達人間ひとりひとりが、このようなこと(感覚やテーマ)を本気で、真剣に本当に感じて考えられるのであるならば。世の中はあっと言う間に大きく変わる筈です。

果たして、これは「理想論」「机上の理論」「夢想論」でしょうか?

ここで一旦、「先の問い掛けの答え」は置いておき、逆に「もし私達人間ひとりひとりが、この「宇宙規模・地球の生物・生命体の細胞単位の連帯感と共存感」を「抱けない・抱かない・抱きたくない」場合とは? 果たしてどのようなものか?を考えてみる必要があります。

このどちらかの作業。つまり「連帯・共存感を抱く」「抱かない」を真剣にスィミュレートするかしないか? そして、この「連帯・共感力(仮称)」があるか無いか? で、インド科学音楽は勿論、アーユルヴェーダ、ヨガ、瞑想の理解と実践の全てが大きく変わって来ることは紛れもないことなのです。それどころか、一人一人の人間の「人間力・生命力・思考力・発想力」の全てが変化し、当然のごとく、臓器や細胞の活性も大きく変わって来るに違いないのです。

まず、「逆の検証」をしてみて下さい。例えば「銀河系」の中の「一惑星」の生物としての我々人間は、SFの「エイリアン(やインベーダー)」のように、「グロテスクで残酷で身勝手」で、「他の惑星を占領し、そこの生物を殲滅せんとしている」のでしょうか? 幸いにして、その答えは「No!」です。しかし「グロテスク」であるかどうか? は、「地球の生物の審美眼」では計れません。それどころか、同じ地球の生き物でも、海老、蟹や蛸、イカから見れば「人間は、手足が四本でグロテスク」かも知れません。

では、同じ「地球上の生物」としてはどうでしょうか? 都市部の同じエリアのたかだか50年前の航空写真と今日を見比べれば、その「自然の森や野原」の面積はとんでもない程に縮小しています。

しかし、ここに大きな「落とし穴」的な「免罪符」があります。それは「悪気は無い」というやつです。「別に憎くて樹木や草木や川の生き物を殺したり、行き場を奪った訳ではない」「私達人間が生きる上で仕方が無かったのだ」という台詞です。

しかし、その「新旧二枚の航空写真」を私達一人一人の「脳(や腎臓、肝臓)のMRI画像だと,真剣に本気で本当にスィミュレーション出来たならば。足下がぐら付き、冷や汗が出、目眩がするほどに驚愕し,恐れ、絶望的に感じるに違いありません。

そして、「このような状態にした原因(犯人)は何なんなのだ!」というテーマに至ったとして。「犯人は○○という細菌、ウィルス、悪性細胞、悪玉菌、有害物質である」と言う答えが返って来たとして、私達人間のひとりひとりは、一体何をどう感じるでしょうか?

そして、その「○○」が「人間という種族である」と判明した時にもまた。「生きるために仕方がなかった」と思えるのかどうか? そう思えるのであれば「細菌、ウィルス、癌細胞、悪玉菌、有害物質、害虫、害鳥、害獣」にも同じことが思えるのか?

もし「思えた」場合、その人の「人間力・生命力・思考力・発想力」の全ては、「かなりに健全で豊かである」と言うことが出来る筈です。そして、もし「思えない」場合、は、「細菌、ウィルス、癌細胞、悪玉菌、有害物質、害虫、害鳥、害獣」に「より近い」と言わざるを得ない筈です。

しかし、この課題は、そんな単純な話しではありません。

ここには、「ふたつの大きなテーマ」が存在します。ひとつは、この「人間力と連帯・共感力(地球・宇宙を感じる力)が豊かであること」と、「豊かでなく、有害生物にほぼ近いこと」の違いは「人間社会」とその「規範(モラル、マナー、思いやり、慈しみ)」の物差しでは「問われない」ということです。

それどころか、むしろ「自然保護や動物保護・愛護」に真剣な人々を、「偽善者」「理想論者」と揶揄する感覚の人々の方がやや多数であることも恐らく事実です。また、そういった「正しい行為」をしている筈の人々の中にもまた、「正しい行為=自分は正しい人間」という「思考回路」に「依存(執着、ハマっている)」している場合も決して少なくないこともまた事実かも知れません。

そして、もうひとつは、「現代社会の規範や感覚」を必ずしも投影してはいない筈の、古代インドの叡智である「アーユルヴェーダ、ヨガ、瞑想、科学音楽」に対し、深い憧憬の念を抱き,強い関心、探究心を抱くことにもまた。この「連帯・共感力⇔自分本位な有害生物性」のテーマや「力」が殆ど「問われない」ということです。

つまり、「自然保護を真剣に考えようが考えまいが」「動物愛護で行動しようがしまいが」「インド科学音楽を真剣に学ぼうが学ぶまいが」「ヴェーダの叡智を知りたいと思おうが思うまいが」いずれの場合も、「現代社会人の感覚」というスタンスから考え語られているということであり、そこでは「普遍的なより純粋な意識(や価値観)」は「問われない」ということなのです。

この原稿を書いている今日。アメリカの「トランプ大統領」のみならず、「フランス大統領選挙」でさえも、「移民排斥、自国と自国民族第一」という「極端な保守主義」の風潮が吹き荒れています。ただ、間違ってもここで私はそれらを批判する意図も、「間違っている」という意味合いも一切持っていません。

何故ならば。この「宇宙~地球~生命体~細胞」で言う「連帯・共感力」とは、単なる「人間という同種族間のもの」ではないからであり、その基本は「常に置き換えて考えることが出来る連帯・共感力」であるべきだからです。

その意味に於いては「外国人労働者」が「我が国の伝統的な文化・風俗・風習や感性を重んじず(郷に入っても郷に従わない),自分たちの感覚と流儀を押し通そうとし、それどころか我々の職場や環境(住居や公共の場)を奪わんとしている」と考え、更には「外来の細菌、ウィルス、悪玉菌、有害物質」を体内からデトックスすることと同じだ」と考えることを単純に「おかしい」「間違っている」とは、言えない筈だからです。

「では、どっちも正しいのか?」「お前はどっちの味方なのだ?」と言われてしまいますが。「宇宙→地球→生命体→細胞や細菌」を感じられる(感じようとする)「連帯・共感力」に於いては「答えは明確」なのです。

結論を一言で言えば「どっちが正しく、どっちが間違いであろうと、人間というたったひとつのちっぽけな種族の中でのいざこざであり、それは、或るたった一種の
悪玉菌の仲間割れのようなものである」ということであり、事の善悪・正誤は「宿主の健康を脅かすか?否か?」に尽きる訳です。

しかし、それでは「問題の解決は宇宙の彼方」に放り出されたようなものです。

ひとつに「他国の領土に侵入し、そこにあった歴史ある文化・伝統・風俗・感性」を学ばず「ただただお金が欲しい、働きたい」であり、それどころか、自分たちの自国の「文化・風俗・価値観」のテリトリーを確保し、結束し、広げんとするならば、明らかに「或る種の癌細胞」の様であると言わざるを得ません。しかし、問題は「全ての外国人がそうではない」ということです。

「悲しみや辛さ」といった、極めて「主観的」なテーマを他者と比較する程愚かしいことはありませんが、敢えて言うならば、「郷に従わない傍若無人な侵入者的な外国人の存在」を「最も憂い、哀しんでいる」のは、何年も何十年も、何代かに渡って、日本とその一地域に溶け込み、地に足を着けて根を生やさんとして来た「むしろ同国人」たちであることは言える筈です。

過去30年近く、アジア・アフリカ・中南米の在日人協会や大使館数十で、その国の民族音楽を演奏し、その国の人々に大きな讃辞と励ましを頂いて来た私の経験では、1990年代迄は、「郷に従わない○○国人」はほんの一部でした。私のインド人の兄貴分のひとりは、日本語も達者で、「心はインド人だが、胃袋は日本人だ」とさえ言っていました。

事実、近年、そのような「郷に従う」外国人は比率的には劣勢かも知れません。しかし、それらをも含め「出て行け」と言う単純な発想では、「精神性としては同格だ」と言わざるを得ません。

そして、次なる重大なテーマは、「何故彼らは、外国で傍若無人を働くのか?」ということを考え、それに対する最善策を私達一人一人が真剣に取り組むべきであろう、ということです。

確かに、所謂「第三世界」の中の、都会から隔絶された地域では、インフラは元より、病院も学校も乏しく、教科書・ノートも薬も買えないという「確かな貧困」がとてつもなく多く存在します。しかし、その一方で、同じ国の人々が、その国の大都会で、地方の貧しい人々の数十倍も稼いで、数十倍も生活維持費を支払って居ます。要するに「経済のカラクリ(まやかし)」であり、「矛盾」です。

これを作り出し,手本を見せて来たのは、戦後驚異的な「物質的繁栄の復興」を見せた日本を筆頭にした所謂先進国なのですが、私達は彼ら「途上国」と呼ばれる国々の「都会の人間」にも、「地方の人間」に対しても「では、何が正しい道であったのか?」を示すことが出来ていません。それは「自然を守り、物を大切に使って長持ちさせ、伝統・文化・感性を守り、自尊ではない『誇り』を抱き、それを『幸せ』であり『義務・責務』であると感じる」という、本来当たり前の姿(手本)です。

「インド科学音楽に関係ないじゃないか!」とお思いの方も居るのでしょうか? だとしたら、それは全くの誤解・不理解です。実に深く関係しているのです。そもそも言い換えれば、その「関係性を見出せること」と「連帯・共感力」は明らかに比例するのです。

図について、
右下のChakra図に在ります,七つのChakraそのそれぞれを象徴するデザインは、各Chakraのものですが、その中の文字は、「Chakraの象徴韻」ではなく、科学(古典)音楽の「七つの楽音」です。

最後までご高読下さりありがとうございます。

You-Tubeに関連作品を幾つかアップしております。
是非ご参考にして下さいませ。

Hindu Chant講座Vol.1

Hindu Chant講座Vol.2

Hindu Chant講座Vol.3

Hindu Chant講座Vol.4

Vedic Chant入門講座(基本理解編)

Ayurveda音楽療法紹介(基礎理解編)

アーユルヴェーダ音楽療法 (実践編1)

アーユルヴェーダ音楽療法 (実践編2)

アーユルヴェーダ音楽療法 (実践編3)

(文章:若林 忠宏

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若林忠宏氏によるオリジナル・ヨーガミュージック製作(デモ音源申込み)
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ナーラダ・ジャヤンティ2017

Narada01

2017年5月11日は聖仙ナーラダの降誕日にあたります。このナーラダの降誕日は、多くの慣習でブッダ・プールニマーの次の日に祝福されます。(日本時間では5月12日となります。)

ナーラダはインドにおいて重要な聖仙の一人であり、数々の聖典をこの世に伝えてきた聖者として知られています。ヴィシュヌ神を崇拝し、ヴィシュヌ神の別の姿である「ナーラーヤナ」の御名を常に唱えていると言われます。

ナーラダは楽器のヴィーナを手にして描かれ、このヴィーナと共にヴィシュヌ神を讃えると伝えられ、その敬虔な姿はバクティ・ヨーガ(信愛のヨーガ)にも大きな影響を与えたと伝えられます。ナーラダは常にヴィーナを手にすることから、楽器の師の一人としても崇められています。

ナーラダは賢者として伝えられる一方で、ヴェーダをより親しみやすく伝えるためにいたずら好きな一面も多く描かれます。

参照:http://en.wikipedia.org/wiki/Narada

ヨーガ・スートラ第2章第17節

Hindu God Yoga Sutra of Patanjali Statue on Exterior of Hindu Temple


द्रष्टृदृश्ययोः संयोगो हेयहेतुः॥१७॥
Draṣṭṛdṛśyayoḥ saṁyogo heyahetuḥ||17||
ドラシュトリドリシュヤヨーホ サンヨーゴー ヘーヤヘートゥフ
見るものと見られるものとの結合が、絶たれるべき苦の原因である。

簡単な解説:前節において、絶たれるべき苦しみとは、未来の苦しみのみであると説かれました。本節では、絶たれるべき苦しみの原因について、例えば、自分の肉体が自分の本質であるかのように思う、見るものと見られるものの結合であると説かれます。