アーサナ、プラーナーヤーマ、瞑想の結合

ヨーガというと、一般的には身体を動かすアーサナの実践をイメージされる方が多いでしょう。しかし、これはヨーガの教えのほんの一部に過ぎません。ヨーガという言葉には「結ぶ」という意味があります。結ぶものは、梵と我、心と身体、または、道のりと目的地など、さまざまに捉えることができます。この意味を踏まえながら、ヨーガの取り組みの中で広く実践されている、アーサナ、プラーナーヤーマ、瞑想について見ていきましょう。これらは互いに深く結びついており、包括的なヨーガの実践に必要となるものです。

アーサナとは、「姿勢」や「体位」を意味し、身体的に行うポーズとして知られます。ゆっくりと休息の時間をとりながら、身体を伸ばしたり、曲げたり、ねじったりすることで、身体の緊張が解かれ、柔軟性は高まり、体力も向上します。ポーズを保持することで身体の奥深くにも刺激が入り、生命エネルギーが全身にくまなく流れることから、健康の維持や回復に多くの役目を果たします。ヨーガの伝統には数多くのアーサナが存在しますが、どれも、心地よく安定したものでなければなりません。

プラーナーヤーマとは、呼吸の制御を意味し、生命エネルギーの調節として知られます。容易なものから複雑なものまで、さまざまに実践されるプラーナーヤーマも、ヨーガの取り組みに必須のものです。プラーナーヤーマを独立した技法として実践したり、日常のヨーガの中に組み込んで実践してもいいでしょう。プラーナーヤーマの実践は、身体を浄化し、心を落ち着かせ、集中力を向上させます。

瞑想とは、悟りを得ることです。ヨーガにおいて、それは自分自身の本質を知るための明確な学びのプロセスともいえます。アーサナとプラーナーヤーマの実践後、心身が解き放たれ柔軟になり、集中して座ることが可能になる時、深く瞑想に入ることができます。私たちを今という瞬間に留める瞑想は、心身の結びつきの中で、梵我一如の最高の境地を経験させてくれるでしょう。

近代の代表的なヨーガの師であるB.K.S.アイアンガーは、「アーサナの実践は身体をプラーナーヤーマに適合させ、プラーナーヤーマの実践は心を瞑想に適合させる。梵と我の結合に到達するために、私たちはまず、真の瞑想を経験しなければならない」と述べています。

梵我一如の悟りの境地に至るためには、アーサナ、プラーナーヤーマ、そして瞑想が、心と身体の深い階層で、調和状態で結びつき、実践されなくてはなりません。

(SitaRama)

インド縦断ツアーのお誘い

来年(2018年)3月に「最強厄除開運・インド縦断―女神と聖者とガンジス川から力を貰う旅」というツアーを開催いたします。
今回のツアーは、西インドのベンガル州、アッサム州、南インドのタミルナドゥ州の3つの地域を訪れ、そのすべてが、ツアーのメインという贅沢な旅です。

中でも、アッサム州のカーマキャ寺院寺院は、ダス・マハーヴィディヤーが祀られる寺院として、大変強力な寺院です。
この寺院の巡礼をツアーとして組むのはおそらく日本で初めてだと思います。
さらにこの地には、有名なバラジも祀られており、そこも訪れる予定です。インドでバラジと言えば、ティルパティのバラジが大変有名で、そこに落とされるお布施の額は、バチカンに続き、世界で2番目に多いと言われています。どんな無理な願いも叶えてくれると言われる大変強力な神様なのですが、それと同じ神様が祀られています。あまり知られていないのでゆっくり参拝できるものと思われます。
また、ガンジス川がベンガル湾に注ぐ聖地ガンガーサーガルで沐浴し、コルカタでは、ラーマクリシュナのゆかりの地と、カーリー女神の寺院、タミルナドゥではラーマナマハーリシゆかりの地と、プラティヤンギラデーヴィー寺院(ここも日本のツアーでは初めてと思われます)にも訪れます。
ここまで贅沢なツアーはなかなかないと思います。
私(ガネーシャギリ)が企画する同行ツアーは、おそらく生涯に10本ほどだと思いますが、前回に引き続きまさにクライマックスのツアーと言っていいでしょう。
この人生を本当の意味で豊かに生きるため、そしてご自身の死後や来世の本当の幸福のために強力なサポートをもたらすと思います。
よかったらご一緒しませんか?

(文章:ガネーシャ・ギリ)

ツアーの詳細は以下よりご覧いただけます。
最強厄除開運・インド縦断 – 女神と聖者とガンジス川から力を貰う旅

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ガネーシャ・ギリ氏共著 『インド占星術と運命改善法』

ガネーシャ・ギリによるインド占星術鑑定

ガネーシャ・ギリによるヨーガクラス
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亡くなった魂の平安のために

インドの一部の地域では、ピトリ・パクシャと呼ばれる先祖崇拝の期間が始まりました。次の新月までのおよそ2週間、この間に亡くなった魂へ祈りを捧げることで、その魂は私たちを祝福し幸せに旅立っていくと信じられます。また、別の世界へと行く旅路の中で亡くなった魂の歩みを助けるとも信じられています。

苦難をもたらす病や事故、災害などによって、家族の誰かが不幸な死を遂げた場合にも、この間の祈りは強く勧められます。魂に留まる強い欲求は、死後においても現世にその魂を閉じ込め、その苦痛は子孫に至るまで様々な影響を与えると伝えられます。そんな先祖たちの満たされない思いを鎮めるために、祈りや儀式が執り行われます。

先祖のカルマ解消のために勧められるさまざまなマントラの中で、一般的に唱えられる「オーム ナモー バガヴァテー ヴァースデーヴァーヤ」をご紹介します。

ॐ नमो भगवते वासुदेवाय
・om namo bhagavate vāsudevāya
・オーム ナモー バガヴァテー ヴァースデーヴァーヤ
・意味:至高神であられるヴァースデーヴァ(クリシュナ)に帰依いたします。

ヴァースデーヴァは「ヴァスデーヴァの子」を意味するクリシュナの別名であり、「ヴァスデーヴァ」はクリシュナの父の名です。このマントラは、クリシュナを讃えるマントラとして、またさまざまなメロディーがつけられたバジャン(宗教讃歌)として、頻繁に歌われます。

2017年のピトリ・パクシャは9月7日から9月20日までの約2週間です。皆様もどうぞ心安らかな時をお過ごしください。

チャイルド・スポンサーシップのご報告(2017年9月)

チャイルド・スポンサーシップ(子どもの教育支援)にご協力をいただいている皆様、温かいご支援をいただき誠にありがとうございます。9月の配給時の様子が届きましたので、ご報告をさせていただきます。

最初に、インドを含む南アジアでは、各地で雨季による豪雨の被害が大きくなり、たくさんの方々が亡くなっています。ケーララ州でも、毎年のようにこの時期は豪雨の被害が大きくなります。特に、支援をしているダリットの人々は低い土地に住むことを余儀なくされるため、被害を受けやすい状況にあります。今年、ケーララ州では大きな被害は出ていないようですが、各地ではまだまだ被害が大きくなる一方のようです。一人でも多くの人の心が安らかであるように願ってなりません。

9月の配給の様子になりますが、オーナム祭(9月4日)のための物品を含めた配給が行われました。通常、配給は第2週目の土曜日となりますが、オーナム祭の準備に合わせ、9月分の配給は8月26日に行われています。

ケーララ州の人々にとって、オーナム祭は特別なお祭りです。しかし、こうした祝祭をお祝いすることができないほど困窮している家庭も多くあります。SEEDS-INDIAでは、支援を行う子どもたちが他の子どもたちと同じようにこの祝祭をお祝いすることができるよう、配給を行いました。子どもたちの豊かな心を育むことは、社会の発展にとってとても大切なことと考えています。

生活の文化が大きく異なり、特に不安定な生活をしているダリットの人々は、途中で支援を離れてしまう場合も多くあります。支援家庭の数は変動することがありますが、現在は41家族を支援しています。そのうち10人が男の子、31人が女の子です。

ケーララ州には貧しい家庭を支援する配給手帳がありますが、登録されるのは一家の年長の女性です。男性は配給された物を転売しアルコールを入手したりすることがあるため、配給を受けることができるのは女性のみとなりました。

たくましく生きる現地の人々の姿には学ぶことばかりです。こうした繋がりの中で、私自身も成長できるよう努めたいと感じています。現地ではまだ祝祭の喜びが続いていることと思います。皆様にも大きな祝福がありますよう、心よりお祈り申し上げます。

※8月の配給につきましては、通常通り第2週目の土曜日(8月12日)に実施されました。誠に申し訳ございませんが、SEEDS-INDIAの代表が現地に不在となり、現地スタッフによる写真の保存ができかねましたため、この度のご報告とあわせ無事に終了のご報告をさせていただきたいと存じます。何卒宜しくお願い申し上げます。

(スタッフ:ひるま)

聖仙マリーチのアーサナ

降り注ぐ太陽の眩しさが和らぎ、澄んだ空気の中に秋を感じるようになりました。早まった夕暮れ時、太陽の光をランプの火にうつすと、静謐な時間をさらに深く感じます。美しい自然の巡りの中に、宇宙を動かす女神の大いなる力を見るようです。

心を動かされるこうした季節の変わり目、私たちの身体もまた大きな影響を受けています。厳しい暑さは落ち着くも、これからの日照時間の短さは、心身に予期しない影響を生み出すかもしれません。こうした日々にヨーガを取り入れると、毎日をより健やかに過ごすことが可能です。

自分自身のエネルギーを高めるポーズに、聖仙マリーチに捧げるねじりのポーズがあります。身体を中心から深くねじるこの強力なポーズは、ねじりのポーズの代表的なポーズとして実践されています。

マリーチとは「光線」を意味します。聖仙マリーチは、創造神ブラフマーの子として生まれました。宇宙創造の責任を担う10人のプラジャーパティの一人であり、マリーチの子どもからは、後に太陽神であるスーリヤが生まれます。

この聖仙マリーチに捧げるポーズは、マニプーラ・チャクラと呼ばれる第3チャクラに働きかけます。太陽神経叢に対応するマニプーラ・チャクラは、火の要素を持ち、消化を司ります。「臍」を意味するこのマニプーラ・チャクラは「宝石の都市」とも呼ばれ、私たちの身体の中心で、太陽が万物にエネルギーを注ぐように宝石のごとく輝いているのだといわれます。

このエネルギーの中心が滞ると、心身にはさまざまな不調が生じていきます。太陽神を生み出した聖仙マリーチに捧げるこのポーズは、私たちの内なるエネルギーの宝庫を活性化させ、消化や代謝を向上させる優れた手段の一つです。エネルギーを燃やし転換する力が強まると、私たちの内には生き生きとしたエネルギーが漲るようになります。

聖仙マリーチの輝きを瞑想しながら、自分自身の内で途切れることなく燃え続ける命の光を見つめてみるのも良いかもしれません。躍動する大自然のように、生きるというシンプルなエネルギーを感じ、日々をより美しく、そして健やかに過ごせることと思います。

(文章:ひるま)

100-2、インド音楽に於けるメイン・カルチャーとは (その2)

アンチテーゼのサブカルチャーが及ぼした「心と体」への大きな弊害
前回、メイン・カルチャーとサブ・カルチャーを都市と田舎の文化の異なりを例にあげ、それは「十字路と一本道のような違いであり、必ずしも互いは対峙せず、一方が他方に対するアンチテーゼを原動力として生まれた訳ではない」と説きました。

しかし実際のところ西洋に於いては、或る意味では16世紀の宗教改革以降。本格的、及び世界的な規模では、第二次世界大戦以降。「サブ・カルチャー」=「メインカルチャーに対するアンチテーゼ」のようなものになってしまい、その結果、極めて多くの人間が、そう誤解していると考えます。

「そういうもんだろ?」「mそうならそれで良いじゃないか」とおっしゃる人も少なくないかも知れませんが。
「人間の心と体の健康」のテーマに於いて、これは極めて危険であり、残念なことです。

そう言う理由は、今日の多くの人々の「心と体の変調の元凶」の多くに、「恒常性の重大な変調」が見られることと深く関連します。

このコラムで何度も申し上げていますが、「恒常性」の基本は、「相反するものの対峙・拮抗」です。それは(例えば)「血圧が上がり過ぎ」の非常時(極めて不健康で危険な)に「血圧を下げる」為には「相反する要素(機能)」が紛れも無く不可欠であるからです。

「対峙・拮抗」の次元に於いては、それらは互いに「敵対的/アンチテーゼ的」とも言えなくはありませんが、どちらがメインということではありません。しかも、「一個の生命体」の中に「共に必要不可欠なものとして対等に共存・常在」されているのです。この有り様を「カルチャー論」に利用するのであるならば、「個々の人間の中で、二つのカルチャー観が対等に共存」していなければなりません。

しかし実際、近代以降の人間は、洋の東西を問わず極めて「我が儘・身勝手」になって来ており、「百害あって一利無し」であるばかりか、或る意味幻想(錯覚)の「被害者意識」を増長させ、「対峙構造」を「敵対構造」のような短絡的・感情的にしか理解しない傾向にあります。

加えて現代社会は、確かに多くの「クレイジーなシステム」「本末転倒なシステム」を増大させ溢れ返っています。「使い活用する為に作り売る」のではなく「売るために作り売る」などが、その最たるものです。

その結果「ストレス」は、常に「悪性的」なものとなり、享受する「心と体」も「悪性のもの」として処理しようとし、更に、その処理能力がオーバーヒート気味になり、様々な悪因になって行きます。すると実際の「心と体の自然な機能」も、問題を「中和・解毒」させることばかりが優先され、結果として「癒される・慰められる・労られる」という「機能(例えば、もっぱら副交感神経系をサポートするような)」ばかりが重用されがちになります。

その一方で、或る意味「冷遇された他方の機能」は、例えば「交感神経系、アドレナリン・ドーパミン系の機能」などは、「楽しみ・盛り上がり・興奮」を強く求めるようになり、多くの場合コントロールの利かない「依存状態」に陥らせます。極端な場合(意外に多いかも知れません)「癒され依存症」「楽しみ依存症」的な様相も見られるようになって来ました。

現代人の多くは同時に、「癒される・和む」と逆の性質の「外因」に対しての「過剰防衛」と「自らを過保護すること」が進み、例えば「暑ければ直ぐにエアコン」「寒ければヒーター」と自ら自律神経の力を衰えさせることを、何の疑いも無く行います。「心と精神」に対してもしかりで、「耳に痛い言葉」などは、享受する以前にシャットアウトされてしまい、「見なかった、聞かなかった、読まなかったこと」にされてしまいます。

当然「思考回路」は、脆弱になり、狂って行きます。

「相反する要素」に対して、「均等・対等に反応」していた「自然の機能」が、一方を敵対し、過保護し過剰防衛し、他方ばかりを歓迎したり求めたりすれば、狂わない筈はありません。

つまり、「サブカルチャーのアンチテーゼ性」は、人間の二つの感情=「容認・慣れ」と「改革・進歩」という根源的に対峙する本質的構造を破壊しながら、「不平不満を擁護し増長させた社会風潮」の現れであると言うことが出来ます。
しかもそれらは時と共に更に増長し、「社会風潮が個々の精神を病ませ」「個々の人間の病んだ精神が社会を更に病ませる」という「悪循環」を作っている訳です。

次に、実際の「インド音楽の歴史」を振り返り、「何時何処で異常な解釈が台頭したのか?」を探ってみたいと思います。
結論から言えば、それは紀元前数千年前から、常に生じていたものとも言えます。

インド音楽に於けるメイン・カルチャーとは

ヴェーダの時代、ヴェーダが説いた物事の解釈と説明は、極めて「二元論的」です。しかしその「二元論」は、正に「陰陽論」であり、「地球が求心力と遠心力によって、太陽の回りを回り続ける」にさえ至る、「自然の摂理」に基づいた「相反する作用の拮抗」を宇宙から地球の大自然、そして、個々の生命体の体に見出したものに他なりません。

しかし、仏教の反ヴェーダ宗教改革によって、それは大きく変化を余儀なくされ、或る意味「反仏教派」的に発展したとも言える様々なヒンドゥー勢力の統合の際に、極めて複雑な説明を余儀なくされ、「単純(良い意味ではSimple)な陰陽論」は淘汰されてしまいました。

従って、ヴェーダの時代までは、「科学音楽と非科学音楽」は、「寺院伝統古典音楽と大衆音楽(所謂民謡)」と同義であり、それは「理論的音楽と無教養な音楽」などとも呼ばれ、基本的な矛盾も間違いもなかったのです。
ところが、ヒンドゥーの時代になると、前者にも「亜流」や「異端」が多く現れた結果、「何が本道=メインか?」「何が亜流=サブか?」を総論的に言える立場の人間が居なくなってしまったのです。

従って、例えば「シヴァ派の音楽家」にとっては、自らが信じ学んで来たものが
唯一のカルチャー」であり、対峙するヴィシュヌ派やサラスワティー派は、別なことを言う訳です。
即ち、紀元前の段階で、すでに「純然たるメインとサブの関係性は、とうに失われていた」ということが、或る意味「結論」ということが出来るのです。

この認識の上で「現実論」で「古代~中世のインド音楽の文化論」を述べるならば、結果的に「権力」を得たものが「メイン」となり、そうでないものが「サブ」となったと言わざるを得ないこともまた事実です。

しかし、私たちはここで、「正しい対峙が歪曲した対立に変化した状況」に於いてでさえ、「より理想的な対峙性質」を持つ姿(人間の叡智)を見ることが出来ます。それは、「世界の他には無い」と迄は良い切れませんが、世界的には極めて希だが、インドには存在する、不思議な「力」とさえ言いたいものです。

その最たるものが、16世紀の楽聖ターン・センのヒンドゥーの師匠であった、スワミ・ハリダースの存在、ある意味ではそrを上回る、弟子のターン・センの存在です。

ハリダースもまた、若かりし頃は、「宮廷(イスラム・ヒンドゥーを問わず)楽師として、名声と富を得る」ためと「インド科学音楽の習得」を平行させ、或る部分渾沌とさせながら修行に明け暮れて居たと言われます。

しかし晩年は、かつて追い求めて居た「現象的・物質的な満足と結果」を全て捨てて、ヴリンダーヴァンの森で隠匿生活を送る出家者「スワミ」に転じます。

そこに至る迄に、「家庭を顧みずに音楽に没頭した結果、娘の人間教育に失敗し、悲しく苦しい離反を受けた」とか、その反動で、「孤児を保護し音楽教育を施した」などなどの、極めて「人間臭い」エピソードが多く語られています。
もし、その部分を特筆するならば、ハリダースが守った音楽文化もまた、「その原動力にはアンチテーゼが不可欠だった」ことになります。

しかし、結果論で言えば、彼(師スワミ・ハリダース)の存在を弟子ターン・センは、自らの20数代末裔に至る迄払拭出来なかったのです。結果、ターン・セン一族を筆頭(総本家)とするイスラム宮廷古典音楽は、ハリダースが守った「インド科学音楽」と、西アジア(イスラム文化圏)で生まれた「神秘主義音楽」を、宮廷楽師の古典音楽の中に、数百年継承させ続けたのです。

つまり、奇しくもターン・センは、「一音楽家としての自らの音楽」と「イスラム宮廷芸術・古典音楽」の中に、「相反する対峙する要素を同居させた」という、極めて「自然の摂理に則った」ことを成し遂げたということなのです。

「メインか?サブか?」という論点に於いては、「メインとサブの同居」ということになります。しかし、「自然の摂理=本来のヴェーダの教え」の意味と、「原点と結果(因果)」の双方から見ても、本来「これ」が、「在るべき姿」であるということが出来ます。

しかし、当時も現代も、ヒンドゥー原理主義(歪んだ)に偏重する者は、「ターン・センは、ハリダースには敵わなかったのだから、ハリダースが上だ!」的な感覚で古典音楽のヒンドゥー性を強調し、逆側は、ターン・センの音楽のイスラム系神秘主義性を強調し、いずれも「恒常性=自然の摂理」と「音楽」を結びつけて考える発想は無いようなのです。

そして、この「短絡的で幼稚な理解」は、世界的規模であらゆるジャンルに広まった「同質の精神性」と全く同質であり、その結果、「何がメインで何がサブか分からない」という「文化のカオス」を作り出しているのです。

否、最早これは「文化論」に収まらず、「人生論」「人間論」にまで通じるとんでもない異常事態なのかも知れません。

写真は、現在も巨匠として活躍する演奏家の若い頃のLPレコードですが、取り組んだラーガは、写真のロケーション通りにその名も「Darbari=宮廷(Darubar)のラーガ」。16世紀にターン・センが創作しアクバル大帝に献上したと言われ、「王の為のラーガでラーガの中の王」のサブタイトルがあります。

何時も最後まで、ご高読をありがとうございます。

近いご案内で恐縮ですが、来る9月9日と10日、福岡市の自宅スタジオで、「Hindu-Chant無料体験」「Ayurveda音楽療法半額体験」を行います。是非、近郊のお友達にお知らせください。詳しくは、若林の音楽教室のページ「Zindagi-e-Mosiqui」で、

https://www.facebook.com/Zindagi-e-Mosiqui-1239545602790300/

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You-Tubeに関連作品を幾つかアップしております。
是非ご参考にして下さいませ。

Hindu Chant講座Vol.1

Hindu Chant講座Vol.2

Hindu Chant講座Vol.3

Hindu Chant講座Vol.4

Vedic Chant入門講座(基本理解編)

Ayurveda音楽療法紹介(基礎理解編)

アーユルヴェーダ音楽療法 (実践編1)

アーユルヴェーダ音楽療法 (実践編2)

アーユルヴェーダ音楽療法 (実践編3)

「いいね!」「チャンネル登録」などの応援を頂けましたら誠に幸いです。

(文章:若林 忠宏

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若林忠宏氏によるオリジナル・ヨーガミュージック製作(デモ音源申込み)
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ピトリ・パクシャ2017

日本において先祖供養が行われるお彼岸の中日は、秋分の日(昼と夜の長さがほぼ同じになる日)として知られています。悟り(仏)の世界を彼岸、煩悩に満ちた世界を此岸と呼ぶ仏教では、彼岸は西に、此岸は東にあるとされてきました。太陽が真東から昇り真西に沈むこの秋分(また春分)は、彼岸と此岸がもっとも通じやすくなるとされ、この時に先祖を供養する行いがされるようになったと言われます。

インドではこの先祖供養の時にあたるのが、2017年は9月7日から9月20日までの約2週間、ピトリ・パクシャと呼ばれる期間です。この間は、先祖が地上にもっとも近づくと言われ、熱心な先祖供養の行いが執り行われます。それにはこんな言い伝えがあります。

マハーバーラタに登場する不死身の英雄カルナ王は、多くの人々に金や銀を与えてきましたが、天界にいった時、食事と水を与えられず空腹に苦しみました。それは、カルナ王が人々に金と銀しか与えず、食事と水を施さなかったことに理由がありました。神々はカルナ王に、地上に戻り人々に食事と水を施す機会を与えます。再び地上に戻り、人々へ食事と水を施したカルナ王は、その後、天界で幸せに暮らしたと言われています。

カルナ王が地上に戻ったのが、このピトリ・パクシャの約2週間であるとされ、人々は先祖だけでなく、貧しい人々への食事の施しを熱心に行います。インドでは、私たちは先祖と血縁関係で結ばれているだけでなく、先祖の行いや思いの影響を非常に強く受けていると信じられています。先祖を飢えさせないよう、先祖だけでなく、貧しい人々にも食事や水を恵むことで、先祖の魂は満たされ、私たちもまた祝福されると伝えられてきました。何より、そうして行われる善行は私たち自身の行いを清めるものでもあり、これから先をより良い方向へ導くものに他ありません。

さまざまな聖典の記述に従って複雑な儀式が執り行われるインドの先祖供養では、シュラーッダと呼ばれる儀式が重要視されます。「信頼」や「信念」を意味するシュラーッダは、信愛から生じる不変的な気づきに他なく、家族という身近な存在を敬う気持ちが、私たちをより良い道へと導きます。起こる物事にはすべて大切な意味があり、それらが私たちのこれからを最善に導いていることに気づき、こうして与えられた今という機会を大切に生きていきたいと感じています。

(文章:ひるま)

参照:”Significance of Pitru Paksha”, http://www.speakingtree.in/blog/significance-of-pitru-paksha

ヨーガ・スートラ第2章第33節

Hindu God Yoga Sutra of Patanjali Statue on Exterior of Hindu Temple


वितर्कबाधने प्रतिपक्षभावनम्॥३३॥
Vitarkabādhane pratipakṣabhāvanam||33||
ヴィタルカバーダネー プラティパクシャバーヴァナム
邪念に妨害されるなら、反対を念想する。

簡単な解説:前節において、ヨーガの8つの部門の2番目にあたる勧戒ついて、清浄、知足、苦行、学習、至高神への祈念であると説かれました。本節では、もし悪い想念が起こり、禁戒と勧戒(ヤマとニヤマ)の実行が妨害されるのであれば、その悪い想念に対抗する想念を抱くと良いと説かれます。

カーラチャクラの教え

今から約2500年前、仏陀が理想郷であるシャンバラ国の王の要望に応えて伝えたと信じられる「カーラチャクラ」。11世紀後半には、インド仏教最後の経典として確立されました。密教にあたるカーラチャクラの教えは、秩序の回復や世界の平和を含み、チベット仏教に継承された後、現在でも多くの人々によってその教えが実践されています。

サンスクリット語でカーラは「時」、チャクラは「輪」を意味し、カーラチャクラは「時の輪」を意味します。このカーラチャクラには三つの主題があり、それは「外のカーラチャクラ」、「内のカーラチャクラ」、「別のカーラチャクラ」といわれます。「外」は宇宙、「内」は人体、「別」は修行法を示し、「外」と「内」のつながりは、「別」によって浄化されると伝えられています。

カーラチャクラの修行を実践する者には、その力を師から弟子に与えるための灌頂の儀式が行われます。修行者にとっては、仏の境地を実現させるための非常に重要な儀式となり、それを通じて仏の姿としての自らを瞑想し、仏の境地に至るのが「別のカーラチャクラ」といわれます。

そのカーラチャクラの修行においては、身体と精神を浄化するためのカーラチャクラ・マントラが重要です。知恵の輪を象徴する火の輪に囲まれ、3つの印と7つの音節であらわされたこのマントラは、それぞれが互いに深く繋がり、複雑で入り組んだ構図を持っています。合計10からなるこのマントラには、すべてが含まれていると伝えられます。

仏教が受け継がれる地域では、この難解なカーラチャクラの世界をあらわす神秘的で美しい曼荼羅が多く見られます。砂曼荼羅にも用いられ、それは僧侶の修行の一環として、儀式や祭礼を行う際に描かれることもあります。僧侶たちは長い月日をかけ、この仏の世界の曼荼羅を色砂で入念に描きます。

世界平和の祈りが込められたカーラチャクラは、一般の人々にも伝授されるものです。現在のダライ・ラマ14世(法名:テンジン・ギャツォ)は、カーラチャクラの灌頂の儀式を、世界中で何十万の人々に行うことで知られています。

これこそが、私の信条です。
寺院も、複雑な哲学も、必要ありません。
私たち自身の頭と心が、寺院なのです。
哲学とは、優しさなのです。
ーダライ・ラマ14世

世界平和を祈るこのカーラチャクラの教えは、広く一般の人々に開かれています。

(SitaRama)

幸せを呼ぶ方角

祈りや瞑想が生活の中心にあるインドの家庭や仕事場には、そのための神聖な空間が設けられていることが多くあります。自分自身と向き合うこの聖域を、伝統的な教えに基づいて設ける人々も少なくありません。そこには、自然界の法則に従った建築の科学として知られるヴァーストゥが重要とされてきました。

このヴァーストゥにおいて、もっとも神聖とされるのが北東の方角です。万物のエネルギーの源泉であり、私たちの意識の象徴として崇められてきた太陽が昇る時、そのエネルギーは、磁場の関係から北東の方角において最大になると信じられてきました。

この方角は、イーシャーナとしてのシヴァ神が守る方角であり、土地や建物に宿るヴァーストゥの魂(ヴァーストゥ・プルシャ)は、頭を北東の方角へ向けています。この方角に祭壇を設ける家庭が多いインドでは、朝の礼拝時に祭壇に向かうと、私たちは必然的に、太陽からの最大のエネルギーを受けることができると信じられています。

自然界で起こるすべての現象は、私たちの体と心に大きな影響を与えていることが古くから伝えられてきました。こうした自然界の動きに調和したヴァーストゥの法則に従って建てられたインドの寺院を訪れる時、神秘的で啓発的なエネルギーを全身で感じる瞬間が多くあります。実際に、寺院や聖地といった場所は、宇宙エネルギーの貯水池のように働くといわれることもあります。

現代社会において、ヴァーストゥの法則に従って住居や仕事場を構えたり、頻繁に寺院や聖地を訪れたりすることは難しいかもしれません。しかし、住居や仕事場において、北東の方角から重たいものや汚れたものを取り除き、常に清浄に保つことで、周囲にはより良いエネルギーが流れるようになると信じられています。

早朝、神聖な空間で太陽の光を受けながら祈りを捧げ、瞑想を行う時、精神的にも身体的にも、生き生きとしたエネルギーで満たされるはずです。幸福、繁栄、健康、平和、調和をもたらすこの方角に、心を向けてみるのも良いかもしれません。

(文章:ひるま)