自然と共に生きる

生命の科学と呼ばれるアーユルヴェーダ発祥の地であるインドには、45℃近い気温が続く暑い夏を乗り切る多くの知恵が伝わっています。実際にインドの人々の生活に密着していると、何気ない行いが自然と日々の生活を過ごしやすいものとさせていることに気がつきます。
インド料理に欠かせないスパイスは、消化力を高め発汗を促すことで熱を下げると、女性たちが受け継がれた教えに従って巧みにブレンドしていきます。夏になると、マーケットは体の熱を下げる野菜や果物で溢れ、人々は旬の素材を楽しんでいました。多くの家庭では、冷蔵庫がなくても水が冷たく保存される甕が置かれているのを見かけます。
自然界が土・水・火・風・空という5要素から成り立つとするアーユルヴェーダにおいて、夏は火の要素(ピッタ)が増加する季節です。それは外の世界だけではなく、私たちの体についても同じであり、この季節は体内の熱が上昇し籠ることによって、体にも、そして心にも不調が現れるとされています。
ヨーガの中でも、こうした体の熱を下げる呼吸法が行われます。大宇宙と小宇宙として捉える外側の世界と私たちの内側の世界との関係の中で、そのエネルギーのバランスを保つことは、体と心にも安定した状態を生みだしていきます。
何もない生活の中で生まれた知恵には、文明の中で疎かにされてきた私たちと自然との大切な繋がりが含まれています。人間は自然と調和して生きている状態こそが健康であると、インドの人々は口にしていました。それはヨーガの原点そのものです。自然に逆らわず、暑い日も寒い日も、晴れの日も雪の日も、その恵みを享受し愛することに心を定めれば、決してバランスが崩れることはないと教えられたことが忘れられません。
大いなる存在として大切にされる自然の中で五感を巡らせながら過ごす日々は、自分と自然が、心と体のように密接に繋がっていることをいつも感じさせてくれました。自然を愛することは、自分を愛することそのものです。その大切な教えに、母なる自然がいつも気づきを与えてくれるようです。
(文章:ひるま)

ヨーガ・クラスと絵はがき販売のご案内

明日8月9日より、Body&foot salon Hatiにおいて、ヨーガ・クラスとSeeds-Indiaの絵はがきの販売が始まります。
日時:8月から10月までの毎週火曜日の限定のクラスです。
講師:ひるま
時間:10:00-11:30, 17:00-18:30, 19:00-20:30
料金:各1500円(クラス費の一部をSEEDS−INDIAへ寄付させて頂きます)
人数:各クラス5人
場所:【Body&foot salon Hati】埼玉県入間市河原町1-25 和田ビル1F
西武池袋線 入間市駅徒歩1分(南口ロータリーの左手 ブックオフさんの隣のビル1階)
*インドの伝統的なハタヨガに従い、深い呼吸法を取り入れます。
*クラスは日本語と英語で行われます。(英語のお勉強にもどうぞ!)
*5人までの少人数のクラスのため、事前予約をお願いいたします。
詳しくは以下のホームページをご覧ください↓
http://shanti-rupa.com/

モンスーンと神様

6月下旬、焼けるように乾燥していた空気が湿り始め、じっとりとした重たい空気が肌にまとわりつくようになると、北インドにもやっとモンスーンが到来です。突然空が暗くなり、突風が吹き荒れ、傘も役に立たないほどの土砂降りの雨が降り始めれば、気温も一気にぐっと下がります。
4〜6月、一年中で一番暑い季節を迎える北インドでは、太陽が燦燦と照りつけ、45度を超える地域も少なくありません。動物たちの多くが道端に仰け反り、人々も日陰を求めながら歩きます。慢性的な電力不足に、大都市では水不足の問題も発生する中で、動物たちにも人々にも疲れの色が見え始める頃、南を潤していたモンスーンが北上し、突然の嵐が訪れるようになります。
全てのものを洗い流すかのような大雨によって空気は浄化され、この時期は、山々の緑も一段と深い色合いを見せるようになります。農業用水のほとんどを雨水に頼るインドでは、このモンスーン時の雨の量によって国の経済活動が左右されるほどであり、農民の多くは大地を覆うその恵の雨を心待ちにしています。
気温が高い中での連日の雨で、洗濯物が乾かないほどに湿気は多くても、太陽を覆う黒い雲の流れや、吹き荒れる風の音、雨の匂い、そういった自然の表れに敬意の念を感じざるを得ませんでした。人々が、日常の移り変わるその一瞬一瞬に、神の表情を重ね合わせている光景も忘れることができません。
モンスーンの季節、突然の嵐によって中断される日常の一部に、何もしない静かな時間が生まれます。日常の行い全てを瞑想とするヨーガの生活の中で、降りしきる雨を見ながらある師は言いました。「雨の滴が川面に落ちれば濁流へと姿を変え、花びらの上に落ちれば輝きを増して美しく花を彩ります。同じ雨の滴でも、そのあり方が大きく変わるように、それぞれが見せる形は違ってもその大本に変わりはありません。だから、全ての顔に神を見なさい。」
厳しい自然に囲まれ、人々は神と共にある道を歩んでいます。その生活が与える気づきは数知れません。8月に入りモンスーンも終わりに近づき始めると、今度は連日のように祝祭日が続きます。一瞬たりとも神様を忘れることがない生活そのものが、精神的な豊かさを与えてくれる術なのだと日本にいながら改めて感じています。
(文章:ひるま)

母なる大河

リシケシの街に惹かれる理由の一つに、その中心を黙々と流れるガンジス川の存在があるように思います。
濃い霧を湛えた真冬のエメラルドグリーン色の姿から、雨季には上流からの濁流に溢れ深い茶色の姿へと変化を遂げる中、そこには、訪れる巡礼者の真摯に祈る姿がいつも変わらずにあり続けます。移り変わる物事の中に存在する、忘れがちな変わらない真実をそっと見せつけられるような気がして、日々の生活を過ごしながらその瞬間を目にしていました。
ヒンドゥー教の人々にとって聖なる、そして母なる存在であるガンジス川には、その身を清めるために多くの巡礼者がインド中から訪れます。チャールダムというガンジス川の源流、そして支流への巡礼の基点であるリシケシも、インドの人々にとっては聖なる地の一つであり、人々の流れは絶えることがありません。
じりじりと焼きつけるような真夏の太陽の下、茶色く濁ったその水を口に含み身を清め祈りを捧げる人々がいるその傍らで、小さな子どもたちが裸で楽しそうに遊びまわり、濡れた女性たちの色とりどりのサリーが風になびきます。その、聖と俗がぴったりと寄り添う母なる大河のほとりに、救いを求める人々がじっと腰を据えていました。人間の持つ、誰にも言えない辛さや苦しみを、母なるガンジスは静かに受け入れ流れ続けます
ゆったりと進むその流れに惹かれるように川の側に座ると、良いこともそうでないことも全てのものが包み込まれるように、心の中の重たいものがすっと解けていく不思議な感覚に陥ります。
ある時言われたことがありました。「潰されてしまわないように、心の荷物は頭の上ではなく、足の下に置きなさい。それは踏み台としてあなたを前へと進ませ、強い支えとなるでしょう。」
精神的な文化に溢れていながらも、貧困や差別など見過ごしてはならない問題も多くあるインド。それでも人々は強く逞しく生きています。心を打ち明ける場所を持つことは、その重荷を下ろすための大切な生きる術であり、いつまでも人々の強い支えであるに違いありません。
喜びも悲しみも、すべての思いを包み込んで流れるその母なる姿が、目を瞑れば今でもくっきりと浮かんでくるような気がします。
(文章:ひるま)

シャクティの存在

宇宙の女性的な本質、そのエネルギーであるとされるシャクティ。それは、神に内在するエネルギーそのものであり、女神を通じてこの宇宙に現れるものだと言われています。インドの神話では女神の存在が大きく、大いなる力を生み出すものとして、その活躍ぶりは数々の伝説を残しています。
美しさと穏やかさを持ちつつも、時には荒々しく恐ろしいエネルギーを生み出す女神シャクティは、男神シヴァの対極となる母なる神、または自然の力であり、見返りのない愛情を注ぐものであると広く崇められる存在です。
また、ヨーガの中で、シャクティはクンダリニーと呼ばれる超越的なエネルギーとして、私たちの体の中に眠っていると考えられています。そして修行を続ける中でクンダリニーが目覚め、男性原理であるシヴァ神に出会うとき、完全なる力の合一がなされ解脱に至ります。女神たちの力は男神の力を引き出すために必要不可欠なものであり、決して軽視されることはありません。
それは、インドの女性たちを見ていてもはっきりと伝わります。貞節を守り、献身的に夫に尽くすことが大切であるとされる風潮の中で、子どもを産み育てることに情熱を注ぐインドの女性たちは、それだけ生と死に近い、そして偉大な力を生み出す神秘的な存在です。そして、生きるというシンプルな生活に密着する彼女たちの姿を見ていると、優しさの中に見える強さとたくましさにいつも勇気をもらい、その大きさにシャクティの力を垣間見ます。
小さな幸せに喜ぶ大きな笑顔、大変な生活環境の中でも決して歩みを止めないその強さ、時にある悲しみが人間らしく、そして、たまに起こる間違いが謙虚さを与える。男性の影で惜しみない愛情を家族に注ぎ、そして守り続ける女性はシャクティそのものです。
神のエネルギーそのものであるシャクティは、いつもそこに存在します。厳しくも優しい母を慕うように、人々がその力を真摯に求めれば、必ず与えられるに違いありません。
シャクティとは、思いやりや温さ、あらゆるものを生み出す母としての創造的な力を表す言葉でもあります。創造と破壊が繰り返されるこの世界に必要なもの、それは女神のような優しさと強さを兼ね備えたエネルギーなのだと、インドの女性たちの姿を思い出しながら今のこの社会に重ねて見ています。
(文章:ひるま)

シュラヴァナ・マース

2011年7月31日〜8月29日は、シュラヴァナと呼ばれる神聖な期間に入ります(地域により、満月を月の区切りとみる場合は7月16日から8月13日となります)。
シュラヴァナ月(シュラヴァナ・マース)は、ヒンドゥー暦の5番目の月であり、もっとも神聖な月の1つです。この月は、チャトゥル・マース(4つの聖なる月)の最初の月にあたり、多くの祭典や吉兆の日で満たされています。
満月の日やシュラヴァナ月の期間は、ヴェーンカテーシュヴァラ神の誕生星である「シュラヴァナ」が天球を支配するため、この月はシュラヴァナ月と呼ばれるようになったといわれます。
特に、シュラヴァナ月の月曜日は、もっとも重要といわれます。この日は、シヴァ神に敬意を示し、多くの帰依者たちが、名高いソームヴァール・ヴラット(月曜絶食)を行います。
またシヴァ寺院では、この期間の月曜日は、一日中シヴァリンガムに聖水を浴びせ、シヴァ神を讃えます。
伝説によると、天地創造の神話であるサムッドラ・マンタン(乳海攪拌)は、この月に起きたといわれています。
シヴァ神が、世界を救うためにハラハラの毒を飲んだ結果、シヴァ神の喉は青くなってしまいました。そのため、シヴァ神は、ニーラ・カンタ(青い喉)と呼ばれるようになりました。
またその毒は、あまりに強力であったために、毒の影響を和らげるために、シヴァ神は三日月を頭に乗せて冷やしました。他の神々たちは、ガンジスの水をシヴァ神に浴びせ、毒の影響を和らげようとしました。
シヴァ神の頭に、三日月とガンジス河が描かれているのは、このような言い伝えがあるためです。
シュラヴァナ月の月曜日に、シヴァ神の象徴であるルドラークシャを身につけることはとても功徳ある行為とされています。
またシヴァ神像やシヴァリンガムに、ミルクやガンガージャルを浴びせることは、多くの功徳を積む行為とされています。
シュラヴァナ月に行うと良い行為には、以下のようなものがあります。
・ルドラークシャを身につける。またはルドラークシャ・マーラーでジャパを行う。
・シヴァ神像にヴィブーティをつける。または自身の眉間につける。
・シヴァリンガムにパンチャームリタ(ミルク、ヨーグルト、ギー、蜂蜜、ヤシ糖を混ぜた甘露)を捧げる。
・シヴァ・チャーリーサーやアーラティを唱える。
・マハー・ムリティユンジャヤ・マントラを唱える。
・月曜日に断食をする。未婚女性は、シュラヴァナ月のすべての月曜日に断食をすると、よい男性に巡り会えるといわれています。(シヴァ神はマッチメーカー(仲介役)としても有名な神様です)
またシュラヴァナはサンスクリット語で、「聴聞」の意味があるため、この期間は、グルの講話などを聞くことも大きな功徳を積む行為といわれています。
この神聖な期間を有意義に過ごしましょう。
参照:
Wikipedia, “Shravan”, http://en.wikipedia.org/wiki/Shravan
Shravana Mas – Shravan Month in 2010, http://www.hindu-blog.com/2008/06/shravana-mas-shravan-month-in-2008.html

アヒンサーが生む平和

「非暴力、不殺生」を意味するアヒンサーという言葉は、ガンジーによってインドの解放運動の中で用いられ、その思想はこの世界の中でも広く知られています。ヨーガの世界においても、パタンジャリが示したヨーガの八支則の中において一番初めに位置づけられている、とても重要な教えの一つです。
行いをもっての暴力はもちろんのこと、言葉、そして想いの暴力さえも、他に向けられてはならないとアヒンサーの教えは説かれます。また、全ての否定的な行いや言葉、想いを肯定的なものへと、そして、暴力や憎しみを愛へと変えることでもあると人々は言います。他のものだけではなく、自分に対しても、アヒンサーは行われるべきものです。
アヒンサーを徹底する修行者が深い森の中で猛獣に出会っても、猛獣は修行僧を襲うことはしなかったという、古い言い伝えが残されています。心の中にある怒りや憎しみ、そういった感情の引き金となり得る想いさえも捨てられた時、そこでは、あらゆる敵対や暴力、否定的な想いが静かに消えていくと言います。揺るがない修行僧の非暴力・不殺生が生み出す平和な空間の中では、猛獣すらその手を出すことを止めてしまうのです。
ヨーガを行う人々と共有する空間が何にも増して穏やかであり、恐れや不安を感じないのは、きっとその磨かれた内なる平穏が生み出す雰囲気にあるのだと感じます。「平和を生み出すのはあなたです。ヨーガを行い、あなた自身が平和の源でありなさい。」そう語るスワミジの澄み切った目、その奥にある深い心と、大きな包容力。怒りや憎しみという感情を抱くだけではなく、何かを否定することすらできないその空間には、愛と優しさというものしか存在することはできない、そんな感覚に包まれたのを覚えています。
現在という瞬間の中に幸せを見出し、自分自身の考えや行動に十分に気づくというヨーガの行い、その不断の努力の中で、非暴力、不殺生は生み出されていきます。行い、言葉、想いの中で私たちが行うアヒンサーから生み出される意識が、いつしかバイブレーションのように広まり、私たち自身を取り巻く社会、そしてこの地球全体に平和をもたらすことを今日も願っています。
(文章:ひるま)

沈黙の行

スピリチュアルな意識を高めていくための修行とも言えるヨーガの行いの中には、モウナと呼ばれる沈黙の行があります。それは、単に言葉を発しないだけではなく、自分自身の本質に出会う、大切な行いの一つであると言われています。
言葉を発しないということは、決して容易いことではありません。愛を伝えること、感謝をすること、謝ること、言い訳をすること、不満を言うこと。言葉というものは、自分の中にある思考や感情を表現するために、次々に表へと出てきます。
湧き出る感情や思考が「自分」であると、感じることは少なくありません。そして、その感情や思考が言葉となり、自分自身を重ね合わせる過程の中で、私たちは自己の本質を見失っていきます。スピリチュアルな行いの中で、それは無意識、エゴに満ちた状態であると言われています。
エゴはいつも、自分という存在が小さくなることを危惧しているために、自分を守ろうと沈黙を破り、言葉やしぐさで自分を表現することによって、自分の存在を証明し続けます。それ故、沈黙を守ることは決して容易い行いではないのです。
しかし、自己というその本質は、何があっても小さくなることはありません。大きくなることも、なくなることもありません。何かを感じる時、沈黙は、その感情や思考の正体、湧き出てくる声の主であるエゴに気づきを与えます。そして、気づきと共にある沈黙、その研ぎ澄まされた静寂の中で、いつも変わらずにある自己の本質を経験することができるのだと、モウナの行いの中では伝えられています。
「花がその存在だけで美しいように、自分を飾るために言葉は必要ありません。」自己の本質に気づくこと、そのための静寂は本当に美しいものです。
また、この社会においても、時に沈黙は大切な役割を果たします。言葉が多すぎると真実が見えなくなるように、沈黙は嘘をつくことがありません。社会の中で、沈黙を守ることはとても難しいことです。しかし、一瞬でも言葉に出ようとするその感情や思考を観察すること、その奥深くにある自己の本質に気づく少しの時間を持つことは、自分自身にも、そしてこの社会にも、シャンティな空間を生みだしてくれるに違いありません。
(文章:ひるま)

新しい世界へ

「振り返って神に感謝し、前を見て神を信じなさい。辺りを見回して神を感じ、自分の内側に神を探しなさい。物質社会の中にいても、決して神を見失ってはなりません。」帰国直前、あるスワミジはそう強く何度も私に言い続けました。
形のあるものへと幸せを見出すこの社会の中で、目に見えないスピリチュアルな目覚めに抵抗を持つ人は少なくありません。しかし、始まりがあれば終わりがあるように、そして、出会いがあれば別れがあるように、この世界が形を持って現れたからには、また形のないものへと戻っていきます。その変化の中で変わらずにある本質は、目には映らないものであるために、形に慣れ親しんだ人々にはなかなか受け入れがたいものであるのも当然のことです。
しかし、形を失う中で経験する悲劇や苦痛は、人々を新しい意識の変化へと導いていくと言います。世界中が祈りに包まれた大震災の後、初めて自分の生まれ育った場所へと戻る私に、スワミジは続けて言いました。「何かを失ったとしても、不幸だと思ってはいけません。神は、罰しようとしたのではなく、新しい何かを受け取ることができるよう、その手を空にしたのです。」
物や形を失うということが本質的なものを得る状態へと私たちを導いていくのであれば、禅などの素晴らしい文化を持ちながら、物質主義の社会の中でもがく私たちにとって、今この時は本質へと戻る大きなチャンスであるに違いありません。
インドでは古くから、そして今でも、スピリチュアルな指導者たちが重要視され、精神的な修行を続ける人々が多くいます。古い時代、世界中がそうであったにも関らず、現代文明の波に押され人々は本質を見失ったと、多くのヨギたちが口にしていたのを忘れることができません。
物や形を失ったことで、変わることのない「意識」というその存在に気づき始めた人々、そしてその意識、それは重要な役割を担っているのだと言います。「転機を迎えようとしている世界の中で、あなたたちの担う役目はとても大きいものです。」スワミジは最後にそう言いました。
あらゆるところに神を見ること、それは形ではない不変の存在に気づくことでもあります。見失ってはならないものは神であり、それは自分という本質的なものでもあるのだと、この度のインドでの滞在、そしてそこで見た日本から、学んだような気がしています。
(文章:ひるま)

探求の旅

「細い木の枝にとまる小鳥は、強い風が吹いて枝が揺れようと、決して恐れることはなく、ただじっとそこにとまっています。しかし、彼らは木の枝が折れないものだと信じているわけではありません。自分が持つ羽を信じているのです。」
約6か月のこの度の滞在を終えようとしている今、日本へ、物質主義の社会へ戻る私に、あるスワミジはそう話をしてくれました。
ヒンドゥー教の教えでは、私たちの魂は、生まれることもなく死ぬこともない、不変のものだとされています。それは、私たちがこの今の人生を生きているのではなく、人生が私たちの魂という舞台の上で踊っていると、例えられることもあります。
人々はいつしか、物質主義の世界の中で踊る人生に、満たされない何かを感じ始めます。「生きる意味とは?」「自分自身の本来の姿とは?」「真実とは?」言葉での表現の仕方はさまざまであっても、答えを求めるその心は同じです。そして、自分を磨き、見つめていく精神的な探求の旅が始まります。
私たちが追い求めるものは「今」というその瞬間にあると、多くの教えによって明らかにされているにも関わらず、その探求の中で心は、今ではないいつか、そしてここではないどこかへと向かって、忙しなく動き続けます。
しかし、答えは心の成熟がなされた、それを見るに相応しいとされる時にのみに姿を現すと言います。完全に「今」という瞬間に留まる時です。それは、雑踏の中を歩いている時かもしれません。友人との何気ない会話の中かもしれません。準備が整った時、ふと、その瞬間は訪れます。ただ、「今」というその瞬間を犠牲にした探求の中では、その答えを見つけることは出来ません。
「木の枝にとまる小鳥のようでありなさい。木の枝はいつ折れるか分かりません。外側の世界に頼るのではなく、確固たる自分の内側を信じていれば、大きく揺るがす何かが起きたとしても、いつだって強くいられます。小鳥がじっと空を見つめるように、悲しいこと、嬉しいこと、魂というその舞台の上で起こるさまざまな出来事をただ受け止め、今に留まれば、求めるものは必然と向こうから訪れます。」
スワミジは最後まで続けます。「精神的な探求とは常に、自分というその家に戻る旅でもあります」と。真実、答え、そして求めるものは、最初から自分の中にあるからです。
今にいること、そして自分の内側をみること。その大きく深いテーマと向き合うことが、この6か月の探求であったような気がします。そしてその探求は、これからもまだまだ続くに違いありません。
(文章:ひるま)