夜明け前

ここリシケシでヨーガの教えに従った生活を送っていると、自分の体が自然の一部のようにその中に溶け込んでいることに気がつきます。季節の移り変わり、太陽が昇って沈むまでのその一日の流れにさえ、体はしっかりと従おうとしています。ヨーガの生活を通じ、体も心も浄化されていく中で、普段は気がつかないような小さなことがくっきりと見えてくるのです。
プージャを終えた後、司祭に言われたことがありました。「自然は私たちの母体です。何か悪いものが体に入れば、それが熱や痛みとなって外へ出ようとするように、私たちが何か間違えを起こせば、自然は的確にそれを教えようとします。私たちは、いつも自然とともにあるのです。」
インドにいると、その大きな力の中に生かされていると気づくことが度々あります。静かに流れ続けるガンジス河、延々と続くヒマラヤ山脈、そしてその麓を吹き荒れる風。どんなに寒い冬が来ても、こうして太陽はしっかりと照り、全ての不純物を浄化していく。混沌としたこの社会の中で、自然だけは整然とその流れを止めることはありません。神の領域はとてつもなく偉大です。
この大自然を前に、私たちにできることは僅かばかりです。祈り、敬い、そしてその流れに従いながら、謙虚に日々の生活を努めること。
全てには意味があるといいます。世界の至る所で災難が相次ぎ、そして今なぜ、日本でこのような大震災が起きたのか。なぜ、私たちが今この時に存在するのか。それぞれには果たすべく役割があり、使命があり、今、それに気づくべき時に来ているのです。瞑想を主とし、全てとの合一を究極の目標とするヨーガがこうして世界中に広まるのも、人間が本能的に気づきを求め、変わらなければならないという思いを感じているからに違いありません。
この世は私たちの心の現れだと言われるように、この世界に存在するものは全て、私たちの中に存在しています。今、世界は変化を、皆の幸せを求めています。私たちが幸せでいなければ、世界は変わりません。残された私たちは、今こそ、笑顔でこの時を乗り越えなくてはなりません。
暗いのは夜明け前。もうすぐ、夜が明けようとしていることを、私の体も感じているような気がします。
(文章:ひるま)

私たちの使命

予想もしなかった大震災から二週間。残された私たちは何をするべきなのか。何もかもを失った被災者の方々を思うと、胸がはち切れそうに辛く、日本を、そして東北を再建するために何が必要で、ここにいて何ができるのか、そんなことばかり考える日々を過ごしています。
インドでの生活において欠かせないものは、祈りです。聖典・バガヴァッドギーターにも、祈りによって雨が降り、食物が生れると書かれています。食物から私たちが生まれ、そしてその私たちの行い、祈りが雨をもたらします。
「祈り、動きなさい。」先生にもそう背中を押されました。「何も恐れずに、結果を求めずに、今しなければならないことを行いなさい。眠ること、食べること、休むこと、自分を育むその力に感謝し、祈りとともに目の前にあることに専念するのです。神はいつもあなたのそばにいます。それを忘れてはいけません。」と。
震災以来、私はプージャ(祈りの儀式)にたびたび赴いています。そこから生まれるエネルギーというものは凄まじく、荒れ狂う自然を鎮めるために、司祭たちは懸命に、そして声がちぎれるほどにマントラを唱え、私たちも続いて神へと祈りを捧げます。日本へとその祈りが届くよう、強く握ったこぶしには汗がにじんでいることに気がつきました。
自分の存在は、この世界、そして自然を巡らす力の中にあるものです。自分の行いをその世界の流れに捧げるように行えば、世界は必ず答えを与えてくれます。個人とこの世界の間に距離はありません。結果を求めずに、私たちが祈り、日常の行いを正しく努めることで、この世界には変化が生まれていきます。
「何も恐れ悲しむ必要はありません。姿形がないからと言って嘆くこともありません。私たちの大本は一つです。目をつむれば、いつもそこに全てがあることを心に留めておきなさい。あなたは、今を生きるのです。」
ただ目の前にある一瞬一瞬を懸命に生きることが、今の私たちにできることであり、使命です。祈りとともに正しい行いを続ければ、今、その結果を見られなくても、必ずそれはもたらされます。私たちの日本を、そして東北を想う強い気持ちは、また明るい日々を築き上げるに違いありません。
春は必ず訪れます。
(文章:ひるま)

ラーマ降誕祭

2011年4月12日(火)は、ラーマ・ナヴァミといわれる世界中で祝われるラーマの降誕祭です。
「ナヴァミ」は、サンスクリット語で、新月あるいは満月から9日目という意味があります。ラーマは、チャイトラ月(3月〜4月)の新月から9日目に生まれたといわれています。(日本国内では、4月12日〜13日にかけて、月齢が9日目となります)
この吉兆の日は、占星術では、すべての罪を滅ぼすよい影響があると信じられています。そのため、繁栄、健康、幸福、成就を願い、世界中の人々がこの聖なる日を祝福します。
ラーマ・ナヴァミの前身は、夏の到来を告げるこの時期に、豊作祈願のため、太陽に礼拝することが起源であるともいわれます。
ラーマはしばしば太陽の象徴とされますが、世界の言語を見ると、「ラ」の音が太陽や放射をあらわしている例をよく見ることができます。
・「ラー」 古代エジプトの太陽神(Ra)
・「アラー」 ユダヤ教・キリスト教・イスラーム教の唯一神(ラーにアクセント)
・「ラヴィ」 サンスクリット語の太陽(ravi)
・「ラディエンス」 英語の光輝(radiance)
・「ラジウム」 放射性物質(ラテン語の放射性(radius)から由来)
・「ラドン」 放射線源
など
古代の賢者たちは、天啓によって、自然界の目に見えるものから、目に見えないものまで、音として表現することができたといわれ、その最も顕著な例がサンスクリット語のマントラといわれています。
ラーマの御名は、罪を浄める大きな力があると、古くから言い伝えられています。
太陽の象徴であり、人々に光明をもたらすラーマの御名を、この聖なる祝日に唱えてみましょう。
参照:Rama Navami, http://en.wikipedia.org/wiki/Rama_Navami

祈り

先日の東北地方太平洋沖地震のニュースは、インドでもトップニュースとして今も報道され続けています。テレビがなく、遅い回線のインターネットから得る情報と新聞の記事、その見えない状況というものが不安を駆り立てますが、ショッキングな映像から切り離されているのは幸いなのかもしれません。そして、遠く離れた場所にいて、何もできないもどかしさ、何が起きているのかという不安に駆られる中、インドの人々の優しさに勇気づけられる毎日です。
地震が起きた当日も、私のインドの携帯電話は知人たちからの心配の電話で鳴りやむことはありませんでした。「日本の家族やお友達は大丈夫?連絡は取れている?」「心配しないで、私たちが祈っているから大丈夫。」「日本は強い。何度も立ち上がってきた。今回だって必ず立ち上がる。」親しい友人、その家族や知人、通りすがりの人にまで、日本を心配する声と応援の力をもらっています。皆が日本を想い、祈りを捧げています。
そして、悲惨で暗いニュースが続く中でも、今、こうして世界が一つになろうとしていることには、希望を感じなければならないと、ここにいる誰もが感じています。全ては一つであるというヨーガの最も大切な教え、そしてその全体と繋がること。あまりに辛い試練ではあるけれども、大きなエゴから生み出される争い事や揉め事が溢れるこの世の中で、その真実を忘れていた私たちに、大きな気づきを与えてくれていると、人々はこの試練を自分のことのように受け止めています。
私たちはそれを乗り越えるだけの強さとエネルギーを内に秘めています。「何ができるかは考える必要はありません。とにかく、今、目の前にあることをしっかりと成し遂げなさい。暖かい布団で眠ることであっても、おいしいもの食べることであっても、負い目を感じずに、感謝し、その尊い一瞬一瞬をしっかりと生きるのです。」先生にもそう諭されました。
世界中が、日本を見守っています。日本のみなさん、どうかそれを忘れないで。
被災された皆様に心よりお見舞いを申し上げるとともに、亡くなられた方々のご冥福をお祈りいたします。そして、被災地の一日も早い復興と、皆様の安全をただただ、お祈りしております。
(文章:ひるま)

最愛の方を亡くされた方へ〜クリシュナからのメッセージ

今回の震災で、最愛の家族、友人たちを亡くされた方々の悲しみは、言葉にすることができません。
このような時、いったい神はどのような言葉を投げかけるのでしょうか。
バガヴァッド・ギーター第2章では、悲哀にくれる勇者アルジュナに、至高神クリシュナは、個我(魂)の永遠不滅性を次のように語っています。

あなたは嘆くべきでない人々について嘆く。しかも、一見聡明な言葉を語る。
賢者は、死者や生者について嘆くことはない。(2.11
私は未だかつて存在しなかったことはない。あなたも、ここにいる王たちもそうだ。
そして、私たちはすべて、これから先、存在しなくなることもない。(2.12
個我は、この身体において、少年期、青年期、老年期を経るように、来世には他の身体を獲得する。
そのことについて、賢者は惑わされない。(2.13
しかし、アルジュナよ、物質との接触は、寒暑や苦楽をもたらし、
来ては去り、儚いものである。それらに耐えなさい。(2.14
これらの接触に悩まされない人、苦楽を等しく見る賢者、
アルジュナよ、彼は不死となるにふさわしい。(2.15
非有(身体)は永続せず、実有(個我)に断滅はない。
しかし、この両者の境界は、真理を知る人々によって見られる。(2.16
この全世界に遍満するものは、不滅であると知りなさい。
この不滅のものを破壊することは、誰にもできない。(2.17
常住不滅であり、計り知れない個我の宿るこの身体は、有限であるといわれる。
それゆえ戦いなさい、アルジュナよ。(2.18
それを殺すと思う者、またそれが殺されると思う者、
その両者は、いずれも理解していない。それは殺すことなく、殺されることもない。(2.19
それはかつて生じたことなく、またいつか死ぬこともない。
さらにそれが存在し、後に無くなることもない。
不生、常住、永遠、太古のそれは、身体が殺されても、殺されない。(2.20
それを不滅、常住、不生、不変であると知る人が、
誰に殺させ、誰を殺すだろうか、アルジュナよ。(2.21
人が古い衣服を捨て、他の新しい衣服を着るように、
個我は古い身体を捨て、他の新しい身体に入る。(2.22
刀剣もそれを切らず、火もそれを焼かない。
また水もそれを濡らさず、風も乾かさない。(2.23
それは切られず、焼かれず、濡らされず、乾かされない。
常住にして遍在し、堅固、不動、永遠のものである。(2.24
それは目に見えず、考えられず、変化しないと言われる。
そのために、それをこのように知って、あなたは嘆くべきではない。(2.25
またもし、それが常に生まれ、あるいは常に死ぬものと考えるとしても、
アルジュナよ、あなたはそれを嘆くべきではない。(2.26
なぜならば、生まれた者に死は必定であり、また死んだ者に生は必定であるから。
したがって、不可避のことのために、あなたは嘆くべきではない。(2.27
万物は、最初は顕現せず、中間が顕現し、最後は顕現しない。
ここに何の悲嘆があるだろうか、アルジュナよ。(2.28
ある人は、希有にそれを見る。ある人は、希有にそれを語る。
またある人は、希有にそれについて聞くが、聞いても、誰もそれを知らない。(2.29
アルジュナよ、すべての人の身体に宿るこの個我は、常に殺されることがない。
それゆえ、あなたは万物について嘆くべきではない。(2.30

そして、ギーター第8章24節に照らし合わせるならば、今回の震災において、肉体を脱した人々は、きっと天界でクリシュナに抱擁され、ブラフマンの世界を楽しんでいるに違いありません。
被災者の皆様に心よりのお見舞いを申し上げます。

祈りの夜

少し肌寒く、リシケシでは遅くに雨も降り出す空模様だった先日のシヴァラートリ。早朝のリシケシは山からの突風が吹きぬけ、まだまだ凍えるように寒い中、多くの人々がガンジス川で沐浴をしていました。シヴァ神が祀られている寺院やシヴァリンガなど、この大切な夜に備えて色とりどりに飾りつけが行われ、いつも以上の華やかさへと姿を変えた街。そして日が暮れ、そんな街のあちらこちらでシヴァ神に祈りを捧げるバジャン(讃歌)が始まりました。
この夜、多くのアシュラムや寺院では夜を徹してシヴァ神への祈りが行われます。そして人々は夜になるとこぞって寺院などへ赴き、祈りを捧げます。マントラを唱えたり、静かに瞑想を続けたりする人々がいる一方で、さまざまな場所でダンスが繰り広げられ、賑やかで楽しい夜でもありました。
また、シヴァラートリの日は、多くの人々が断食に入ります。全く何も口にしない人、穀物だけを食べない人、果物だけを摂る人など、人によって違いはありますが、たいていの人は日中断食をし、日が暮れた後に皆で集まって食事をします。シヴァラートリの日は妻であるパールヴァティーの日でもあり、夫を持つ女性は家庭円満のために、未婚の女性は将来の夫のために断食を行うとも言われています。私の友人も、その一人でした。
私はこの日、アシュラムのプージャ(祈りの儀式)に参加した後、とても大きなお祭りが行われているリシケシの街へと友人と共に出かけました。お祭りの場はまさに黒山の人だかり。インドの軽食やスナックの屋台が立ち並び、そこらじゅうでダンスが繰り広げられ、子どもも大人も我を忘れたようにはしゃぐ姿には、いつもの事ながら微笑んでしまいます
雨が降り出したこともあり友人宅へと戻るも、バジャンは鳴り止みません。いつもならテレビを観たり、他愛のない会話であっという間に過ぎていく夜の時間。周りからバジャンや人々の歓声が聞こえるなか、その夜は皆で静かに過ごしました。シヴァ神がダンスをし、宇宙を創造したとも言われる日、この特別な夜だけは、テレビを消してシヴァ神に祈りを捧げると、友人は言いました。
インドの人々の胸にはいつも神様がいます。それでもこうして、神様だけを想う夜があります。そして何より、こうして家族や親戚が集まる時間がたびたびあること。日本にはない豊かさが、ここにはたくさん残っています。
シヴァラートリを終えれば、待ちに待ったホーリーです。次の日の朝、街の至る所で夜通しのお祈りが行われていた跡が残る中、19日のホーリーに向けてのかがり火の準備もしっかりと行われていました。何と気が早いインドの人々。ホーリーまでもう少し、私も待ち切れません。
(文章:ひるま)

神様との繋がり

ニーラカンタというシヴァ神のお寺があるリシケシには、今週たくさんのインドの人々が訪れていました。2月28日がシヴァ神の日である月曜日だったのに加え、3月2日がマハーシヴァラトリ、シヴァ神に祈りを捧げる最も神聖な夜だったためです。
外国人が多く訪れるヨーガの聖地リシケシは、ガンジス川上流への入り口でもあり、インドの人々にとっても大切な聖地。そんなリシケシに訪れる巡礼者の多くは、街から山への長い道のりを裸足で、そして荷物一つを頭に乗せ、ただひたすらに歩いて目指します。暗くなればその場に寝床を作り、おこした火で簡単な食事を作って、皆で寄り添いながら眠りにつきます。そして明るくなれば、また歩き始めます。暑かろうが寒かろうが関係ありません。老人も、若人も、誰もが神に近づくためにその歩みを続けます。
去年はちょうど、リシケシに程近い聖地ハリドワールで、クンブメーラという12年に一度のとても大きなヒンドゥー教徒のお祭りが行われていました。ハリドワールからリシケシまで、インド中から集まった人々で大通りが埋まり、じっとしていると大地が揺れているのではないかと錯覚を起こすほど。季節は進み、裸足では火傷をするのではないかと思うくらいの地面が焼けるような灼熱の太陽も、巡礼者はものともしません。ほぼ何も持たない巡礼者たちのために、リシケシの人々は給水車を出し、絶えない巡礼者の列へ黙々と水を配っていました。街が一体となって神のもとへと向かっている、そんな感覚になったのを覚えています。
巡礼者の神という一つの対象に定まった強い眼差しを見ていると、彼らと神の間には何の隔たりもないことが分かります。そこには、不安や恐れといったものも見えません。自分と何か別のものに距離を感じ、離れていると思うときに生じる不安や恐怖は、何にも心を奪われることがなく、信じるものとの間に隔たりがなくなった時、消えてなくなっていくのだと、巡礼者の姿が物語っていました。全体と一つになるというヨーガの教えです。
しかし、そのヨーガの教えは、一生懸命に祈りを捧げても、祈りの結果だけを求める人々は、全てである神、真実に辿り着くことはできないといいます。行いと結果の全てを神に捧げ、どうなろうと、何が起ころうと惑わされず、世界に乱されることがない者は、世界を乱すこともない。自分は世界と一つだからです。
そんなヨーガの教えを理解し、実践すべく、インドの人々と学ぶ毎日を過ごしています。
(文章:ひるま)

幸せはどこに

自分の中に幸せを見つける。自分の中に全てはある。そういったヨーガの教えを理解するのは容易なことではありません。分かりやすくよくたとえ話としてあげられるものに、こんなものがあります。
ムスクというお香の原料は、ジャコウジカ(麝香鹿)という鹿の持つ麝香腺から採取されます。成獣の雄は、雌を引き付けるためにこの麝香腺から麝香を分泌するのだそうです。
ジャコウジカの雄は、どこからか漂うよい香りの源を求めて、森じゅうをさまよい続けると言います。その香りの源が自分だと、決して気づくことはなく。
私たちは、このジャコウジカと同じです。幸せや良いものというのは、自分の中から生み出されるものです。そして真実、その全ては自分の中に存在しています。それにも関らず、どこに幸せはあるのだろう、どれが良いものだろうと、目に映るものや聞こえるもの、感じるもの、そういった外の世界にあるものに私たちは答えを見出そうとしています。
瞑想の時間、ただじっと座り静かに目を瞑るとき、そこにある内側の世界には、何を比べることもなく、自分という存在、そのひとつのものしかありません。その存在が不確かなものであると、目に映るもの、聞こえるもの、感じるもの、そういった感覚に左右され、自分の周りに起こる出来事によって、心は一喜一憂、いつも定まらずにいます。変化を続ける外界のものに幸せを見出すことで、その変化に心は休まることがありません。
瞑想は、そんな落ち着かない自分の内側の世界を強く確かなものにするために、見つめながら大切に育てていく手立てです。心を落ち着かせることは、たったの5秒ですら難しく、そしてただ座るということも、体は痛くこんなにも退屈で仕方がないものなのかと、慣れないうちはじっとすることさえ苦痛に感じます。ただ、その心と体、そこに起こる感覚というものを少しずつ理解し、収められるようになってくると、それは自分にとって最も大切な友となります。
私たちがジャコウジカと違うのは、こうして自分の内側を見つめることができ、そしていつしか、幸せは自分の中から生み出されることに気づくことができるということです。私たちは、そんな偉大な力を持っているのです。
そして、瞑想に集中できるその時間と場所があること。ここで、そのことに感謝をしながら過ごす毎日です。
(文章:ひるま)

生きる力

ヨーガの聖地、リシケシは、菜食の街としても知られています。街は動物性のものを一切禁止し、どのレストランに行っても、菜食のメニューしか見かけません。動物を殺傷する時に出る負のエネルギーというものは相当なものだと言われています。また、リシケシの多くのアシュラムでは、にんにくや玉ねぎも禁じています。これらは身体を過剰に刺激し、心を落ち着かなくするラジャス的(激質)な食べ物とされているためです。そういったものが無いリシケシの街なので、ここはいつだって平穏です。
そして、インド料理に欠かせない食材の一つに、豆(ダル)があります。宗教的に菜食の人が多いインドでは、豆は貴重なたんぱく源とされており、豆料理は多岐に渡ります。この豆料理が大好きな私を見て、先生は「体の声をしっかり聞いて生命エネルギーに溢れている証拠」と一言。豆と生命エネルギー?先生は続けて、「お肉を土の中に埋めると腐ります。しかし、豆を土の中に埋めるとどうなりますか?…芽が出てきます。」これと同じことが、体の中でも起こるというのです。
死というエネルギーを取り入れないこと。そして、生きようとするエネルギーを取り入れること。ヨーガを行っていると、不思議と動物性の食品を体が欲していないことに気づきます。集中的な呼吸法や深い瞑想によって、ヨーガの練習中は、体に起こる微妙な変化を敏感に感じるようになります。心臓の鼓動、血液の流れ、体を温めようとする力。体全体が生きようとしていることがひしひしと伝わってくるのです。
感覚器官を自由気ままに働かせておくと、過去に経験した心地の良いものを求めて心はさ迷い出て行きます。美味しいものは舌だけが欲していて、体が欲しているわけではありません。体が欲しているものは、生きるという力です。
古くから伝わるヨーガのプラクティスには、体の浄化、そして心の浄化が必須です。体にも心にも不純物というものが一切なくなったとき、ヨーガの最終的なゴールであるサマディ(悟り)に辿り着けるといいます。ある時、「体への薬は食物、心への薬は瞑想」と言われたことがありました。食物を通して生命エネルギーを体に取り入れ、瞑想をして心を養う。ここでは食事をすることも、もちろんヨーガなのです。
(文章:ひるま)

春の到来と結婚式

2月8日、春の到来を告げるヴァサント・パンチャミーに合わせて、リシケシの街はそんな結婚式に溢れかえりました。インドの結婚式はこういった暦に合わせ、本当に良い日のみに行われます。そのため、祝日ともなればあちこちで一斉に結婚式が行われ、街中がお祝いモード。今回は私も、知人の結婚式に出席してきました。
まず、インドの結婚式は体力勝負です。最低でも3日間は続く、食べる・踊る・歌う・祈るの結婚の儀式に、終わるころには誰もがへとへとに疲れきって、皆の眼はうつろ。それでも祝い続けるインドの人々の姿は、私も負けずにこの人生を楽しまなければ!という意欲に漲らせてくれるほど、笑いと感動を与えてくれます。
インドの結婚式は花嫁側と花婿側とでだいぶ違い、花嫁と花婿が一緒になるまでにも、それぞれの側にたくさんの段取りがあります。花婿は花で飾られた車に乗って登場しますが、時には馬に乗ってやってきたりすることも。そしてそれを囲む楽器隊と、友人たちや親せき、通りかかった人たちによるダンス隊が続き、街はそこら中が渋滞化。100mおきに結婚式と言っても過言ではないくらいなので、街中が電飾に彩られ、ダンスミュージックに人々の歓声と、もうじっとなんてしていられません。
しかし、どんなに豪勢な結婚式でも、写真に写る花嫁に笑顔は少なく、見ていると切なくなることがあります。女性はみな、想像を上回るほどの金や家具などの嫁入り道具(ダウリー=持参金)とともに、生まれ育った環境をすべて捨て、男性のもとへと嫁がねばなりません。ダウリー(=持参金)が根強く残るインドの社会では、女性をお嫁に出す家族は命懸けだといいます。でも友人は、「お嫁に出てしまえばこれからの責任は全て夫側が持つから、もう家族に心配をかけることはない」と小さな声で言いました。
結婚という幸せの絶頂の中でも、女性の胸だけに秘められた強い想いがあります。だから、インドの女性は本当に強くたくましい。春の到来とともに、新たな人生をスタートする彼女たち。いつまでも幸せでいることを祈るばかりです。
(文章:ひるま)