神聖な空間へ至る道

日本を出発し、デリーに到着したのは元旦の夜でした。新しいデリーの空港には、巨大なムドラー(手印)が壁一面に掲げられ、そのあまりのきれいさと大きさに驚き、ここは本当にインドだろうかと戻って来たことを実感するのにずいぶん時間がかかりました。それでも、ムドラーに迎えられた半年ぶりのインドの香りは、長時間のフライトの疲れも吹っ飛ぶくらい、懐かしく、そして嬉しく、半年分の荷物が詰まったバックパックの重みさえ忘れるほどでした。
デリーからは、すぐにリシケシを目指します。新しい空港に降り立つのは初めてだったので、何人もの人にISBT(バススタンド)行きのバスを尋ねてまわります。インドでは度々あるのでもう慣れたものなのですが、何故か返ってくる答えがみな違うのです。分からないなら分からないと言ってくれれば済むのに、みんなが適当な場所を告げるので迷いに迷い、やっとバスを見つけ乗車。到着したISBTでは騙されないように注意しながら、どうにかリシケシ行きのデラックスバスのチケットを手にしました。深夜のバスに乗り込んでデリーを出発し、大好きなこの場所、リシケシに到着したのは翌朝のこと。変わらない神聖さに長旅の緊張がほどけていきます。
半年振りのリシケシは、凍てつくような寒さに包まれていました。早朝の濃い霧の中に浮かぶ寺院がそれはもう幻想的で、この場所が醸し出すその神々しさに体も心もすーっと引き込まれていきます。真冬のガンジス川はまさにエメラルドグリーン。アシュラムからはマントラが聞こえ、お香の香りが漂い、寺院の鐘が鳴り響きます。祈りの儀式に火が灯され、街中が光に包まれていました。牛たちがゆっくりと歩み、修行僧が瞑想を続けています。
 私がここを訪れるようになったのは、ヨガがきっかけでした。インドには以前からちょくちょく遊びに来てはいたものの、本来のヨガがどういうものなのかを知るべく、なんとなく訪れたこの場所に惹きつけられ、今では一年のうち半年をここで過ごしています。いつの間にか自分の部屋ができ、いつも母親のように世話をしてくれる友人ができました。精神的な豊かさがあふれているこの場所だからこそ、物がなくても何の不安も感じず、物がないからこそ身軽に、ここの生活を楽しんでいます。
インドの生活は、本当に面白い。一瞬一瞬を逃したくないくらい、毎日に起こる出来事に踊らされながら、今ここにいられることに感謝をする毎日です。ここでの生活は始まったばかり。これからの半年が楽しみで仕方ありません。
(文章:ひるま)

聖なる周期

今年もいよいよ終わりに近づいていますが、一年間、皆さまにはいろいろとお世話になり誠にありがとうございました。
大晦日には、実家に帰省し、ゆっくり過ごされている方も多いかと思いますが、一年の疲れを十分に癒し、よいお年を迎えられますよう、心よりお祈り申し上げます。
大晦日には、108回の除夜の鐘が恒例ですが、今回は、吉兆数とも言われる108や1008について、以前取り上げたブログとは別の角度から見ていきたいと思います。
私たちとは切っても切り離すことのできない間柄の「時間」には、この吉兆数の倍数で示される周期が存在します。ここでは、108や1008を単位とした時間について、ご紹介していきたいと思います。
まず、時間の最小単位として「秒」を見てみましょう。
108秒を100倍すると、10,800秒で、これは3時間となります。
3時間は、1日24時間の8分の1の長さで、3時間単位で生活リズムを整えると、生活にメリハリが出てきやすくなると思います。
授業や試験をはじめ、映画、テレビ、公演など、長くても3時間を目処に行われる催し物も多いかと思います。
次に、「分」で見てみましょう。
1,008分を10倍すると、10,080分で、これは7日間となります。
1週間をひとつの周期として生活することは、もはや私たちの生活リズムと切り離すことはできません。
1週間を10,080分間と考えてみると、1週間も神聖なものに思えてきますね。
次に、「時」で見てみましょう。
1,008時間を日にちに換算すると、42日間となります。
42日間は、1マンダラに相当すると言われます。
1マンダラとは、ジャパや願掛けなどによる行為が成就する期間といわれています。そのため、マントラ行や、願掛けを行う場合、少なくとも42日間は続ける必要があるといわれています。
次に、「日」で見てみましょう。
108を10倍した1,080日は、およそ3年間となります。
3年間は、人間の成長過程で重要な単位です。教育課程においても、3〜6歳までは幼児教育、6〜12歳までは初等教育、12〜15歳までは中等教育、15〜18歳までは高等教育というように、3年単位で行われます。
石の上にも三年、茨の中にも三年の辛抱などの諺もあるように、何か物事を始めたら、少なくとも1,080日間は辛抱することも必要なのでしょうね。
最後に、「月」で見てみましょう。
月を年に換算すると、1,008ヶ月は84年間、1,080ヶ月は90年間となります。こうしてみると、人生の最大の1周期は、およそ1,008ヶ月〜1,080ヶ月と見ることができるかもしれません。
以上は、108や1008を用いた数遊びに過ぎないかも知れませんが、中途半端な数と思われる108や1008が、見方を変えると、実は区切りの良い数になっていることに驚かされます。
実は、私たちが求めてやまない真理も、この吉兆数のように、普段は気がつかない物事の裡に悠然と存在しているのかもしれません。
この1年間、お世話になり誠にありがとうございました。
皆さまどうぞ良いお年をお迎えください。

ヨーガで世界平和

12月25日、インドではクリスマスも休日となります。10億を超える人口を抱える大国だけあって、インドには休日が多くあります。というのは、ヒンドゥー教やイスラム教、キリスト教やジャイナ教など、異なる宗教に属する人々が多くいるため、それぞれの宗教の祝日がすべてお休みとなっているからです。
ヨーガの世界では、「全ては一つ」という考えのもとに、宗教などが問われることはありません。リシケシの世界的に有名なあるアシュラムでは、常に国を超えて人々が集まっています。クリスマスの夜も、そうでした。
セレモニーが行われていたその夜は、インドらしいお祈りや、海外からアシュラムを訪れている人々によるそれぞれの国の出し物などで、大きなホールは熱気に包まれていました。12月後半の寒さも感じさせないその熱気の中で、ジョン・レノンのハッピークリスマスをBGMに、世界平和を願う写真が大きく映し出される場面がありました。それまでの賑やかな雰囲気とは打って変わって、皆がただじっと座り祈るように映像を見つめるその瞬間のシャンティ(平安)なエネルギーの流れは、きっとその場の誰もが感じていたに違いないくらい大きなもので、思い返せば今でも鮮明に蘇ってきます。
こうして皆が一つになって出すエネルギーや意識の流れは大きな変化を生みだし、それは良い意味でも悪い意味でも伝染するように広まっていきます。マザー・テレサが「反戦集会には行かないけれど、平和集会には行くわ」と述べ、ジョン・レノンがハッピークリスマスの中で「望めば戦争は終わる」と歌ったその意味を、はっきりと理解することができました。
セレモニーが終わって外へ出るとそこは極寒の世界。帰る道すがら体は冷えるのに、その夜の暖かいエネルギーはずっと残ったままで、不思議と寒さは感じませんでした。ヨギは存在そのものがシャンティなエネルギーとなると、ある僧に言われたことを思い出しながら、クリスマスの夜が明けていきました。大国のインド、教えられることがたくさんあります。
(文章:ひるま)

神様からの贈り物

インドのゆったりとした時間に流されて部屋の外を眺めていると、スクーターの両脇にドラム缶のようなものを括りつけて颯爽とやってくる人が見えます。遠くの方でも、ラッパを鳴らしながらやってくるので、すぐにそれが牛乳売りのおじさんだと分かります。お店などでももちろん買えますが、このように毎日売りに来てくれるので、空いている容器を見つけて急いでおじさんを追いかけます。
 菜食のインドの人々にとって、乳製品は栄養価のある大切な食材です。インドの生活に欠かせないチャイだけではなく、ヨーグルトやパニールなど乳製品を使った料理が豊富で、そのアレンジの仕方もさまざま、飽きることがありません。そして牛は神聖な生き物として崇められているため、そのお乳は神様からの贈り物のように大切にされています。中でも、よく耳にするのが「ギー」。大量の牛乳を精製して精製して、さらに精製した後にできあがる、不純物が完全に取り除かれた純度の高いバターです。それ故、アーユルヴェーダでは薬としても使用され、アールティやプージャなどの儀式では、このギーが神様へと捧げられます。ギーへの賛歌もあるほどです。
 アーユルヴェーダのパンチャカルマ(5つのステップで体を浄化していく療法)を受けていた時のこと、「ギーは混じり気のない純粋なエネルギーで、それは私たちの生命エネルギーと同じである」と、あるドクターに言われたことがありました。私たちの体は、食物を代謝しながら血や肉や骨を生み出し、最後に生命=エネルギーを生み出します。それはギーの精製過程と一緒で、代謝が上手く行われれば体に不純物は残らず、純粋なエネルギーが生まれると言うのです。
 生き生きとしたエネルギーが溢れるよう、自分の体は常にきれいにしておきなさい、それは神様が宿る場所でもあるとパンチャカルマの最後にドクターは言いました。全ては自分の中にあると言うのです。
 話好きの優しいドクターはよく、ギーの入ったチャイを飲みながらそんな深い話をしてくれました。神様からの贈り物で、尚且つ純粋なこのエネルギーを体に入れることは、インドの人々にとってとても大切なことのようです。
(文章:ひるま)

インドの女神たち

インドの女性は美しく、そしてタフだなぁといつも感心します。豪快でどっしりとしていて、優しさと大らかさを兼ね備え、どこか神秘的で、不思議な力を持っています。
インドにはたくさんの女神がいます。その女神たちの描かれっぷりと言ったら、思わず息をのんでしまうほど。たいていは美しく描かれているものばかりですが、真っ赤な舌を出しながら武器を手に、生首を持って踊っていたりする女神もいます。土着の女神たちがヒンドゥー教に取り入れられ、シヴァ神などのお妃として描かれるようになったそうです。
春のナヴァラートリー祭の時でした。ドゥルガー、サラスヴァティー、ラクシュミーの女神達に祈りが捧げられる9日間、知人の敬虔なヒンドゥー教徒のインド人女性は断食に入っていました。チャイやフルーツなどは頂いているようでしたが、穀物などは一切口にせず、そんな中一晩中マントラを唱えプージャを行います。断食をしていない私が彼女の唱えるマントラについて行くが精いっぱいなくらい濃密な時間の中で、彼女はどんどんと周りの人々を祈りの中に引き込んでいきます。どこからそのエネルギーが湧いてくるのだろうと、その強さには女神を重ねて見てしまうほどでした。
ナヴァラートリー祭で祝われる三女神はデーヴィと言われ、プラクリティ(自然)の象徴です。エネルギーの源である自然、それは生きるために必要な全てを生み出す母性でもあります。インドにいるとなぜか、そのエネルギーに圧倒されます。混沌とした大地は活気があって生き生きとし、祈る人々の姿には神聖な力が満ちているのがはっきりと見て取れます。特に、女性の放つ神秘的なエネルギーにはいつも魅了されてしまいます。
シヴァ、ヴィシュヌ、ブラフマーの三大神だけでなく、女神信仰も根強いインド。美しく、時には勇ましく描かれた女神たちの姿は、家庭の中にいても偉大な力を持つインドの女性にぴったりです。滞在中、どこか守られているようで心が落ち着くのはきっと彼女たちのおかげだと感謝せずにはいられません。
(文章:ひるま)

インドの聖典を学ぶ

 インドのゆったりとした時間の中で生活していると、本を読む時間が断然増えていることに気がつきます。時間ができたときについつい立ち寄ってしまう本屋さん。気づけば長居をしていて、チャイやお菓子までご馳走になっていることもしばしばあります。私が主に滞在するリシケシには小さな本屋さんがたくさんあり、また大きなアシュラムともなれば、必ずと言っていいほど本屋さんが併設され、驚きの値段で本を買うことができます。インドでは、州や地域によって話されている言語が異なるため、英語を含めそれぞれの言語ごとにきちんと本が用意されています。
 リシケシで目にする本の多くは、スピリチュアル系の本がほとんどです。ヨーガの聖地ともあって、聖典の数も半端ではありません。インドの神様のお話や、難しいヴェーダの解説など、分かりやすく子ども向けにマンガのように作られているものもあり、私には大助かりだったりもします。
 インドでヨーガに触れていると、ヴェーダのマントラやヨーガ・スートラといった聖典の学習が欠かせません。中でも大切なのが、ヨーガの聖典とも言われるバガヴァッド・ギーターです。
 インド人はバガヴァッド・ギーターが大好きです。ビザ取得の際に問題があり、手こずっていた友人は大使に一言、「バガヴァッド・ギーターを学びたいんです」と率直に述べると、たまたま大使がクリシュナ神の信者であったために、友人はすぐに入国許可をもらったというほど。(バガヴァッド・ギーターはクリシュナ神の教えを説いたものです。)私もインドでは肌身離さず持ち歩いています。神の詩とも呼ばれるバガヴァッド・ギーターの暗唱は、サンスクリット語が分からなくとも、本当に歌を聴いているようで心地が良くなります。
 バガヴァッド・ギーターだけではなく、どんな聖典を読んでみても、述べられていることに多くの共通点があることに気が付きます。古くから伝わる清い言葉や叡智に触れることは何よりも大切だと何度も言われました。リシケシでアシュラムを訪ねていると、分厚い聖典を抱えた僧たちの姿をよく目にします。古い時代の教えが、今この時代に生き生きと伝わり、そして必要とされていることには驚きを隠せません。「真実は一つなんだよ」と言われたことが、理解できるような気がします。
(文章:ひるま)

パワースポット・インド編

ヨーガの聖地として有名な北インドのリシケシには、オレンジ色の衣服をまとった修行僧たちがたくさん暮らしています。都会のデリーを離れてリシケシに近づくにつれ、オレンジ色に身を包んだ人々が増えてくると、あぁまたここにやってきたと心底嬉しくなります。
ある時リシケシの友人に、「ちょっと山歩きに行くけど一緒に行く?」と誘われたことがありました。リシケシの街はガンジス河沿いにあり、すぐ後ろにはヒマラヤの山麓が広がっています。この山の中には世を捨て修行を続ける人々がたくさんおり、その中でも有名な修行僧に会いに行くというのです。「ちょっと山歩き」という文句もあって、サンダル履きに近い恰好で友人の後について行きました。インド人の「ちょっと山を歩く」というものが何を意味するのか、おんぼろジープに詰め込まれ脳味噌も内臓も撹拌されること一時間、そこからはロッククライミングさながらに岩場をよじ登り、時には転がるように下りながら、やっとの思いで巨大な洞窟にたどり着きました。そこにはオレンジ色で身を包んだ修行僧が絵に描いたように静かに座っていました。もう何十年もこの洞窟に篭って修業を続けているんだそうです。
涙が出そうなくらいにへとへとで、体が思うように動かないのに、神聖な洞窟に座る僧の姿を目にした途端一瞬にして体が軽くなり、僧とただ同じ空間にいるだけで、体の芯まで安らぎと清らかさと温かさが満ちていく不思議な感覚に包まれました。ここを訪れる人は誰もがそう感じると言います。修行僧は本来、一人でひっそりと山の中で修業を続けていると言われますが、僧の神聖なエネルギーがどこからともなく人々を引きつけているに違いありません。
リシケシはたくさんの修行僧やヨギ達が放つ神聖なエネルギーで満ち溢れていると言われています。それはまさしくパワースポット。この場所で僧は、「何事も心の在り方次第である」と静か言いました。和やかな心がさらなる和を生むことは、その場の空気が物語っていました。この世の平和も私たちの心の在り方次第。僧のエネルギーが世界中に行き渡ることを祈るばかりです。
(文章:ひるま)

インドの道端

インドでする好きなことの一つに、道端の観察があります。歩きながら、バスの窓から、ぎゅうぎゅう詰めのリキシャから、チャイ屋や、たまにはきれいなレストランから、角度や気分が変わっても、そこから見える道端には、雑然と、全てのものが存在しているように見えるんです。
インド人は何でも道端に放り投げます。牛の糞だらけの道には、お菓子の袋や生ゴミ、プラスチックの容器やサンダル、何だかわからない布切れ、本や人形、とにかく何でも落ちています。汚いなぁとつくづく思いますが、そこにはピンクや水色のどぎつい色で塗られた神様がどっしりと座り、通りすがる人々は手を合わせます。よだれを垂らした犬が死んだように眠っていて、自分の背丈を越えるほどの巨大な牛がうろついていることもあります。彼らはいつもお腹をすかせていて、野菜や果物を持って歩いていると、目がけて突撃されることもありました。生ゴミなどは牛が食べてくれるので、自炊生活で出るゴミは集めて道端にいる牛にやったりします。でも、そういう時に限ってどこにもおらず、気づけば生ゴミを持って自分がうろうろしていたりします。不思議なインドの世界にどっぷりと浸っていると感じる瞬間です。
ほうきを持って掃除をしている人も見かけますが、たいていは、時たま降る大雨があたりを一斉にきれいにしてくれます。
物乞いや死にかけた人がいて、その隣で、延々とマントラを唱えている人がいます。何かに怒っている人や、ひたすらに祈っている人もいます。洗濯をしている人や、ご飯を炊いている人もいます。聖も俗も、生も死も、いものも奇麗なものも、すべてが当たり前のようにそこにあるので、ついつい見入ってしまうのです。
生活習慣も文化も違えば珍しく映るのは当然ですが、インドは何度訪れても新しい発見を与えてくれます。活気が満ち溢れる路上に見える生活が、何も隠そうとはせず、良いものも悪いものもあるがままの姿を見せてくれるからかもしれません。あまりにもリアルに物事が迫ってくるので、疲れることも多々ありますが、インドの生活が面白いのはきっとそのせいだと思います。
(文章:ひるま)

光の祭典−ディーワーリー(ディーパーヴァリー)

2010年11月5日(金)は、ヒンドゥー教の三大祭のひとつであるディーワーリーの祝日です。このお祭りは、別名ディーパーヴァリーともよばれ、サンスクリット語では「光の列、夜のイルミネーション」を意味します。
この祭典期間中は、ろうそくや煌びやかな照明がインド全国の街中で灯され、その美しさはおおくの人々を魅了します。
このお祭りは、以下のように解説されています[1]。
「ディーパーヴァリーは「光の祭典」として知られ、正義が悪に打ち勝った象徴である。ランプには、その勝利の祝福と人類の希望の記として、灯が点される。ディーワーリーまたはディーパーヴァリー(陶器製のランプの列)を祝う理由は、ラーマが宮殿から追放され14年間を森で暮らす間に、シーターを奪った羅刹王ラーヴァナを殺し、凱旋したラーマを祝福するためである。ラーヴァナを殺した日は、ダシャラー(ディーワーリーの19〜21日前日)として祝われる。祭典は、光とランプに焦点がおかれ、地域によっては、花火が打ち上げられるところもある。
ディーパーヴァリーは、ヒンドゥー暦のアーシュヴィン月に6日間連続で祝われる。おおよそ10月あるいは11月に行われるが、インドでは、もっとも人気があり、待ち望まれている祭典のひとつである。ヒンドゥー教徒、ジャイナ教徒、シーク教徒は、この祭典を、人生の祝福、そして家族と社会の絆を深めるために祝う。ジャイナ教徒にとっては、もっとも重要な祭典であり、ジャイナ教暦では新年にあたる。またシーク教徒にとっても、信仰上重要な祭典である。
・ヒンドゥー教における意義
祭典は、悪に対する正義の勝利を象徴する。サンスクリット語のディーパーヴァリーは、光が暗闇に勝利したことをあらわす光の列を意味する。サンスクリット語の知識が廃れるにしたがい、特に北インドでは、名称が一般にディーワーリーと変化した。
ディーワーリーの日は、多くの人は新しい服を身につけ、お菓子を分け合い、爆竹を鳴らす。北インドの経済界では、事業年度はディーワーリーの日に開始され、新しい商業帳簿はこの日から付けられる。
ヒンドゥーでは、この祭典を祝う理由を、次のようにいくつか挙げている。
・スカンダ・プラーナによると、女神シャクティは、シヴァ神の半身を手に入れるために、シュクラ・パクシャのアシュタミー(月が満ちる時)から21日間の苦行を行った。この誓願(ヴラタ)は、ケーダラ・ヴラタとして知られる。ディーパーヴァリーは、この苦行が完了した日である。この日、シヴァ神は左半身にシャクティを受け入れ、アルダナーリーシュヴァラとして顕現した。熱心な帰依者は、空間を意味するカラシャと呼ばれる容器に21本の紐を入れ、35日間21種類の供養を行う。最終日はケーダラ・ガウリー・ヴラタとして祝われる。
・ディーワーリーは、アヨーディヤの王ラーマが羅刹王ラーヴァナを殺し、シーターと弟のラクシュマナとともに、アヨーディヤへと凱旋した祝いでもある。道に沿ってオイルランプに灯りを点すことで、暗闇にある人々の道を照らすと信じられている。北インドでは、祭典はヴィクラム暦の最終日に行われる。次の日は北インドの新年にあたり、アンナクットと呼ばれる。
・クリシュナの妻のひとりであるサティヤバーマーによって、大破壊をもたらした悪鬼ナラカースラ(地獄のアスラの意味)が倒された祝日。クリシュナのアヴァターの時代であるドゥヴァーパラ・ユガにもたらされた。別の解釈では、悪鬼はクリシュナ自身に倒されたともいわれる。南インドでは、シャリヴァハナ暦にしたがうため、ディーワーリーの新年は一致しない。
(以下略)」
地方によっては、女神ラクシュミーをお祀りするところなどもあるようです。この日はインドの習慣にならって、ランプに灯を点し正義の復興を願ったり、日頃お世話になっている人々に贈り物をしてみるのもよいかもしれませんね。
インドのディーワーリーに先駆けて、横浜では明日10月16日(土)、17日(日)と「ディワリ・イン・ヨコハマ2010」が開催されます。
さまざまなイベントや出店が予定されておりますので、横浜近郊にお住まいの方は参加されてみてはいかがでしょうか。
ディワリ・イン・ヨコハマ2010のプログラム
出典
[1] Wikipedia “Diwali”, http://en.wikipedia.org/wiki/Diwali

ナヴァラートリ祭

ナヴァラートリとは、ドゥルガー、ラクシュミー、サラスワティー女神をお奉りするヒンドゥー教の三大祭典のひとつです。「ナヴァ」はサンスクリット語で9をあらわし、「ラートリ」は夜を意味します。したがって、ナヴァラートリとは、9日間の夜となります。この祭典は、春と秋の年2回、9日間にわたって行われます。ヒンドゥー教のカレンダーでは、月齢にしたがっているために毎年開催時期が多少前後しますが、今年は本日10月8日から10月16日まで行われます。
ナヴァラートリの9日間は、礼拝する神さまに応じて、3日間ずつに分けられます。はじめの3日間は、わたしたちの心の中に潜む不純物や悪徳、欠点を破壊するため、強力な戦士でもあるドゥルガー女神を礼拝します。次の3日間は、すべての帰依者に尽きることのない富と幸福を授けるといわれるラクシュミー女神を礼拝します。そして、最後の3日間は、創造主ブラフマーの妻であり、学問と芸術、そして叡智を授ける女神であるサラスワティー女神を礼拝します。わたしたちは人生のさまざまな局面で、神々からの祝福を求めて、3つの側面をもつそれぞれの女神さまにお祈りを捧げます。そのために、この祭典には9日間が費やされます。
ナヴァラートリの期間中、真摯な帰依者の中には、断食をしながら、健康や繁栄を願って祈りを捧げる人々もいます。じぶん自身の日々の生活を見つめ直して、人生の向上につながる新しい習慣をはじめるには、昔からナヴァラートリはこの上ない吉祥の日であるといわれています。
10月17日に行われるナヴァラートリの第10日目は、ダシャラー(Dussehra)と呼ばれる吉日です。この日には、ラーヴァナという悪魔をかたどった像が燃やされ、ラーマに主導される善の勢力が、悪に打ち勝った日として盛大に祝われます。
ナヴァラートリは、自身の内面に潜む不浄な傾向を克服するために、非常に重要な期間とされています。この神聖な期間を活かして、かつてラーマが悪鬼ラーヴァナに勝利したように、わたしたちの内面に潜む悪魔を討ち滅ぼすことができるよう日々を過ごされてみるとよいでしょう。
参照
[1] “Navaratri” from Wikipedia, Free encyclopedia, http://en.wikipedia.org/wiki/Navratri