神秘の力

生と死の根源として、そしてその喜びと痛みを究極なまでに経験する女性の体と心は、悟りという境地に非常に近い存在であると言われています。それは、痛みや苦しみと言うものが大きく深いほど解放を求めて強く突き動かされるのと同様に、その強さを兼ね備えた存在である女性の内なるエネルギーは、時にとてつもなく大きなものとして捉えられます。
大都市を除き、女性が家に残る慣習が深く根付くインドでは、一日中家を離れずにあらゆる仕事をこなす女性の存在が家庭を守るためには欠かすことができません。一方で古い風習は、月経中の女性は台所に立ち入らない、寺院にも近づかず、神様にも触れないなど、多くの厳しい規則を伝えています。それが時に、女性の存在が不浄のものであると解釈を与えてしまう中、生と死を司る女性が持つ力は凄まじいものであり、その神秘的なエネルギーを制御するために数々の風習が存在するとも言われています。
例えば、インドの家庭の玄関先で目にする、空間を浄化する役割を持つトゥルシー(ホーリーバジル)は、陰のエネルギーが強い月経中の女性が水やりを続けると枯れてしまうことがあると言われます。また、月経中の敏感な体温に刺激を与えないよう体を洗うことも避けるべき、などと、一つ一つの行いが神と女性の関係に深く結び付き、そして女性の持つ神秘なエネルギーが乱されないように守られていることに気づかされます。
それはインドの神々を見ていても分かります。ラーダー・クリシュナ、シーター・ラーマなどのように男女の神々は度々女性の名前が先に示され、女性神の存在は大きく尊重され大切にされています。このナヴァラートリの間にも、家々では近所の愛らしい女神、幼い女の子たちを集めたプージャが欠かせません。
今、人々は真摯に女神たちに祈りを捧げています。痛みと苦しみ、そして喜びと至福を経験しながら生み出されるその確かなエネルギーは、神秘的でありながらもこの季節の変わり目を穏やかに包み混み、人々の祈りによって、いつも以上に生き生きと辺りを渦巻いているように感じます。
一つ一つの小さな事柄に見て取れるここでの生きる術は、何にも代わらない、ただ自分自身の神聖さを磨くものなのだと、そう感じてなりません。ナヴァラートリの今、女神の恩寵が世界中に与えられることをここで祈っています。
(文章:ひるま)

神と過ごす日々

いつの時も神と共にあるインドの生活の中で、今迎えようとしているナヴァラートリ(9日間の夜)は、春と秋の年2回、その季節の変わり目に訪れるヒンドゥー教の女神を讃える神聖な9日間です。毎日のプージャ、断食、祈りなどいつも以上に人々は神聖な日々を過ごし、それは、新しい季節に向けて自分自身を見つめ直し浄化するとても大切な時とされています。
この間、特に重視されるのが断食です。地域や慣習によって異なるも、インドの断食が意味する主に「穀物を取らない食事」を、敬虔な人々はこの9日間続けます。欲を制御する行いは自我を抑え、神と通じる神聖さを生み出すだけではなく、体調を崩しやすい季節の変わり目にこのインド式断食に入ることで、体の中がリセットされ新しい次の季節へと整えられていきます。
ここでの生活には、こうして神の下で全ての物事に意味が存在します。古い時代、人々がその清らかな精神に従い自然を敬いながらとても謙虚に日々の生活を送ってきたことが、今も人々の間で受け継がれているのだということを深く感じさせられてなりません。そして、その生活から生み出される世界との一体、そして平静は、物が溢れ雑音に乱された私たちの心が見失っている物でもあると気づかされます。
この9日間の断食は、穀物以外のある特定の食物は取ることが可能であっても、想像以上に大変なものです。だからこそ、欲と向かい合いながら祈りを捧げ続けた後の自分自身は、まるで生まれ変わったかのように身も心も清らかで軽くなることを実感します。
余計なものが省かれたその体と心で感じる自然の恵みほど愛しいものもありません。太陽の暖かさ、水のある有り難味、土の匂いや風の当たる心地よさ、そしてそれらが存在するこの空間のその全てを全力で感じるこの生活には、この偉大な自然を前に、私たちの存在はとても小さなものにすぎないのだと気づかされ、感謝の念を抱かされます。
インドにある数々の行事は、それぞれの神々が持つ象徴に合わせ、この大宇宙から小宇宙である個人の肉体に至るまで事細やかに結びついています。驚くほどのその正確さに、改めて私たちが神の下で、この自然の中に生かされていることを覚えさせられなりません。世界中のあちこちがバランスを欠いている今、私たち一人一人がこの世界と自分との繋がりに気づき、目覚める時なのだとそう感じています。
(文章:ひるま)
※チャイトラ・ナヴァラートリは、今月23日から4月1日までの9日間祝われます。

永遠の存在

「私も、あなたも、誰ひとりとして、過去に存在しなかったことはない。私たちが未来に存在しなくなることもない。それはいつの時も永遠に存在している。(バガヴァッド・ギーター2章12節)」
一瞬一瞬が重なり合い、その中で私たちは様々な出来事を経験しています。そして出会いや別れ、喜びや悲しみ、繰り返されるその瞬間の中に自分自身の姿を映し出し、始まりと終わりを繰り返すその出来事の中で、いつしか自分自身の存在も永遠ではないもののように感じてしまうことがあります。
あの未曽有の大震災を通じて、私たち一人一人の心が失ったものは、目に見えるもの、肌に触れるもの、耳に聴こえるものだけではなく、きっと言葉では表現できないほど大きなものであったに違いありません。その事実を改めて思うと、心と体が負った深い溝と向き合うにはとても長く、そしてとても短い一年であったように思います。
今ここで、移り変わる季節の中にゆっくりと佇みながら、その変化を眺める自分自身の存在を、バガヴァッド・ギーターの中でクリシュナ神が述べる言葉の意味とともに深く考えています。それは、終わりも始まりも存在しない、二度と訪れない今というこの瞬間の連続の中で、私たちは永遠の存在に他ないのだということ伝えているような気がしてなりません。
クリシュナ神は続けます。「移り変わるのは物質だけであり、魂は滅びもせず焼かれもせず切られもせず、永遠に存在している。変化を続ける物事、肉体、その不可避のことのために嘆き悲しむ必要はない。今、自分の義務を遂行しなさい。」と。(2章より抜粋)
目の前で起こる出来事、感覚に触れる小さな何か、そのあらゆる事象に、私たちは常に踊らされ続けています。それらを知覚する私たちは、移り変わる一瞬一瞬に飲み込まれることなく、いつの時も変わらない存在、それが私たち自身であるということを、今学ばなければならないと感じています。
二度と訪れないこの瞬間を全力で生きること、それがあの震災を経た今、私たちにできる唯一のことなのだと、この神聖な空間が伝えているように思います。そして、世界の至福を願う祈りは、いつの時も絶えることなく、今日もここで続いています。
(文章:ひるま)

ホーリー・フェスティバル(色の祭典)

ホーリー・フェスティバルは、豊年祈願を祝う春の祭典で、例年パールグナ月(2〜3月)に行われます。
道行く人々に、色粉を浴びせたり、色水をかけたりして、街中カラフルに染まるお祭りです。
今年2012年は、3月7日/8日に行われます(お祭りの日程や期間は地域によって異なります)。
このお祭りの起源は、さまざまな説がありますが、もっとも有名なのは悪王ヒラニヤカシプに関するものです。

彼は、苦行により、ブラフマー神から誰からも殺されないという特権を獲得しました。その権利を得た彼は、やがておごり高ぶり、人々に神ではなく、自分を崇めるように強要するようになっていきます。
そんな傲慢なヒラニヤカシプの息子であるプラフラーダは、打ってかわって、熱心にヴィシュヌ神を信仰していました。ヒラニヤカシプは、たびたび息子にヴィシュヌを信仰するのをやめ、自分を崇めるように強要しますが、息子は一向に聞き入れようとしません。
やがて彼は、息子に殺意を抱くようになり、さまざまな手段で息子を殺そうと試みます。
ある時は、息子に毒を飲ませましたが、ヴィシュヌ神の恩寵のために、毒は彼の口の中で甘露に変わってしまいました。
ある時は、巨大な象に息子を踏みつけさせましたが、驚くことに無傷のままでした。
ある時は、お腹をすかせたコブラといっしょに、牢獄の中に閉じこめましたが、何事も起こりませんでした。
さまざまな手段を試みましたが、ヒラニヤカシプは、息子を殺すことができませんでした。
そんな時、ヒラニヤカシプはプラフラーダに、薪の上に娘のホーリカーといっしょに座るように命じました。まだ小さかったプラフラーダは、ホーリカーの膝の上に座ると、ヒラニヤカシプは、彼らを殺すために薪に火を投じました。ホーリカーは、神の恩寵のため、火から身を守るショールを持っていました。しかし、このショールはひとり分しか身を守ることができません。
熱心にヴィシュヌ神に祈りを捧げていたプラフラーダは、ショールがホーリカーの身から舞い降り、火から守られました。しかし、ホーリカーは、ヒラニヤカシプの犠牲となってしまいました。

一説では、このホーリカーの犠牲を、ホーリー祭として感謝するといわれています。
また他の説では、クリシュナに関するものがあります。
いたずら好きであったクリシュナは、愛するラーダーや他のゴーピーに色粉をつけて遊んでいたといわれます。また色白のラーダーに不満を抱いた色黒のクリシュナは、母に言いつけ、母がラーダーの顔に色粉を塗ったともいわれています。
この風習が広まり、クリシュナの聖地ヴリンダーヴァンやマトゥラーでは、16日間に渡ってホーリーが祝われるようです。
その他の説では、カーマデーヴァやシヴァ、プータナーに関するものもあります。
しかし、どの説でも、善が悪に打ち克った勝利を祝うことが、このお祭りの起源になっているようです。
礼節の厳しいインドでは、唯一の無礼講が許されるお祭りとして有名ですが、色粉による健康被害も少なくないようですので、何事もほどほどにした方がよいかもしれませんね。



その他の動画
参照:
ホーリーフェスティバル http://www.holifestival.org/
ホーリー、wikipedia, http://en.wikipedia.org/wiki/Holi

私たちの今

昨年の今頃も、こうして今と同じように冬を終えたリシケシの暖かな日々をゆっくりと過ごしていたことを深く思い出しています。それから少しして、世界中が悲しみと祈りに包まれるなどということは想像もしていませんでした。
遠く離れたここインドにいた私ですら、まるで時間が止まってしまったかのようにただただ重く苦しい日々を過ごし、日本の人々を想うと胸が破れるような気持ちを感じていたことを覚えています。あれから一年が経とうとし、あの苦しみの中で学んだ、今に留まるという究極の教えがいかに大きなものであったか、「今を生きなさい」というスワミジのただそれだけの言葉の力強さに、静かにまた想いを馳せています。
「人生には時に裏と表があって、ねじれたりまわったり、幸せだけではなく痛みも与えます。人生はあなたがその事実を学ぶまで教え続け、例え長い時間がかかったとしても、確実にあなたを在るべく場所へと導きます。」一年が経った今、スワミジが新たにくれたそんな言葉を噛みしめています。
こうして確実に時が流れているように、私たちは歳を重ね、その中で成し得なかったこと、言葉にできなかったこと、示せなかった愛のこと、その後悔に包まれることが多くあります。矢のように過ぎ去る日々を通して、過去を思い悩むよりも今日と言うこの日を、そして今と言うこの瞬間に幸せでいることを全力で努めなければならないと、あの悲劇で学んだように思います。その先の未来に後悔は伴いません。
私たちの在るべく場所とは至福そのものです。日々の生活の中で相反するものを経験しながら、その中心にいつも存在する偉大なものに気づくこと、それが今この社会に身を置く私たちの担う役割のように感じています。
あの時の痛みや苦しみを経験した人々の心から生まれた全体との一致は、世界中の人々が目にした大切な真実だったに違いありません。なぜ私たちがそれを経験し、今この時に存在しているのか、その重大さを改めて実感し、そして世界がどんな時も一つであるよう、いつも以上に強くここで祈りを捧げています。
(文章:ひるま)

真実の歌

スピリチュアリティを失うことなく、現在に至るまで深くその精神世界を示すインドにも、物は確実に増え物質主義の波がしっかりと押し寄せています。そんな対照的な世界だからこそ、生きる意味や人生の目的、その究極なまでの問いにはっとさせられるような答えを得ることが少なくありません。
ここには有名なアクバルとタンセンの話があります。大帝アクバルのために音楽を奏でるタンセンは、アクバルに大そう気に入られるも、自分の師であるハリダスの方がはるかに素晴らしいと伝えます。そして、そのハリダスの歌を耳にしたアクバルはタンセンの言葉通り、強く心を打たれ涙を流し続けます。
タンセンとハリダスの違いとは何なのか。生活のために音楽を奏でるタンセンは、大帝に言います。「師は、神のためにその歌を歌うのです。」と。
タンセンの音楽は、力や賞賛、地位や名声と言った「何か」を得るために奏でられます。一方でハリダスは、自分が満たされた存在として、それは神との一体を意味し、それ以上の何を必要とすることなく、歌を歌としてただ歌います。目的のための手段ではない、あるがままのその歌には何にも代えられない真の美しさが存在しているに違いありません。
きっとそれは人生においても同じことのように思います。ここでただシンプルに生活を送る時、一つ一つの出来事がとても深みを帯び、色濃く、辛く苦しいことさえも美しいもののように思えるのは、その奥深くにある何にも動かされない確かな存在を感じているからだと思います。何かを得るための人生ではなく、既に満たされた存在として、ただ生きることに専念してみたくなる、そんな感覚に包まれるのです。
「神様に人生に喜びを与えてくださいとお願いしたら、神様は人生をくれました。」人生そのものが喜びであるという、そんなスワミジの言葉も思い出します。私たちは、自分自身の存在にあらゆる価値を加えようともがき、ただ在るというその存在の美しい真実を曇らせているのかもしれません。
ハリダスが歌を何のためでもなくただ歌として歌う時、それはまさに存在との一体を意味します。それは神と通じる瞬間、そして私たちは常にその瞬間にあるということを、あるがままにこの人生を歩みながらいつの時も気づいていたいと感じています。
(文章:ひるま)

スピリチュアルな世界

インドの各地には、それぞれの神に馴染みのある地が数多く存在します。例えばヴリンダーヴァンは、クリシュナ神が幼少期を過ごした聖地として、そしてここリシケシはヨーガの聖地であるとともに、ニーラカンタというシヴァ神のお寺があることからも、街にはシヴァ神のマントラが絶え間なく流れ続けてます。
土着の神々や信仰が取り入れられながら形成されてきたヒンドゥー教は、太陽や月、山や川を始めとする自然から生じる神々を深く崇拝し、今のこの時に至るまで、その深い信仰が失われることはありません。その目には見えない崇高なものと深く繋がる人々が生み出すこの特別な雰囲気は、訪れる人々をさらなる深みへと引き込み、ここでの生活そのものがまさに魂と向き合うスピリチュアルなものへと変化を遂げてゆきます。
そんな神聖な場所に身を置きながら強く感じることは、宗教とスピリチュアリティというものが別のものであり、ウパニシャッドなどのインド思想に示されるように、それはあくまでも自分自身と目には見えない超自然的な存在との繋がりを感じるものだということがあります。そしてそれが特定の人々だけに起こることでは決してなく、魂を持つ誰もが経験する潜在的なものであるのだと人々の姿を見て思い知らされています。
目には見えない世界に入り込むことは、時に難しく捉えられることがあっても、そこにしっかりと足を踏み入れる時にふと出会う、人生の意味、生命の尊さ、愛や思いやりは、物質以上の充足を私たちに与え続けます。人の欲から生み出されるこの物質に支配された世界の中で、自分の本来の姿を見るのがその時だと思えてなりません。
スピリチュアリティは神秘的な体験や、何か特別な経験を意味するわけでは無く、古い時代に誰もが祈っていたように、私たちの中心に備わる一番大切で崇高な部分を見つめ直すだけのシンプルなものにすぎないのだと感じます。インドの人々が今この時も日常の生活を祈りと共に過ごす姿、そしてこの神々が溢れる地がそう教えてくれるような気がしています。
(文章:ひるま)

生命の源へ

「苦しみや憎しみのない穏やかな生活を送り、あらゆる物事を正しく理解しながら、神聖な心で崇高な存在と繋がるためにはどうしたら良いのでしょうか。」シヴァ神の妃であるパールヴァティは、ある時シヴァ神にそう訪ねます。そしてシヴァ神は答えます。「呼吸を観察し、操ること。」と。
ヨーガの修練を行う人々に最高意識として捉えられいつの時も崇められているのが、ヨーガの創始者であるシヴァ神です。そして、数多く存在するヨーガの経典の中に、その崇高な存在に繋がるための教えが記された、シヴァ神とパールヴァティーのやり取り「シヴァ・スヴァローダヤ」があります。
スヴァラ・ヨーガと呼ばれるその教えに従う修練は、シヴァ神が述べたように呼吸の統制に他ありません。「音」を意味する「スヴァラ」は、インドの古い哲学の中で音が宇宙の根源として捉えられるのと同様、極めて大切なものとされています。そして私たちの体においてその「音」は、この生命を司る「息・呼吸」であり、それ故、その息づかいの統制は、自分自身を、そしてこの世界の全てを理解することに繋がるのだと、人々はここで修練を続けています。
不安や緊張を感じれば呼吸が早まり、いつしか止まっていることがあるように、その乱れた呼吸によって、私たちは無意識のうちに大きく揺り動かされて止みません。意識的にその生命の音の中へと深く入り込み、ゆっくりと穏やかな状態へと導くことで、揺らぐ世界は不動なものへ落ち着いてゆくのだと、私もここでその実りを実感しています。
音を通じて合一を得るこのスヴァラ・ヨーガは、呼吸だけに留まらず、鼻腔を通じて取り入れられる呼吸によって体の中を流れる気の流れをも統制していくとても深い科学的な行いでもあります。そして、この世界にある全てのものが私たちの思考の現れだと捉えられるように、私たちの命を維持する呼吸の統制は、その世界の現われに確実に変化をもたらすに違いありません。
ここにいて、パールヴァティーの持つ疑問と同じものを抱えながら過ごす中、呼吸は少しずつその答えを見せてくれるように思うことがあります。全てのものが生まれるその源を整えること、私たちは今、その原点に戻る時にいるような気がしています。
(文章:ひるま)

奉仕のヨーガ

目の前にある自分のすべき行いに心を定めること、それは、ここでの生活において最も重要で意味のある行いの一つです。眠ることであっても、食べることであっても、なされるべく行いから心が離れぬよう、ここではいつの時もその瞬間に留まるよう注意深く毎日を過ごしています。
「あなたの権利は、定められた行為を行うことであり、その結果をどうすることではない」(2章47節)バガヴァッド・ギーターの中でクリシュナ神がそう説くように、私たちはその心を結果ではなく、なされるべき行いにしっかりと定めるべきだと伝えられています。
全てのものが神の下にあると信じるここでの暮らしでは、自分自身の行いから生じた全ての結果もまた神のものであると考えます。従って、その結果について私たちにできることは何もありません。それを理解しながら、インドの人々がいつの時も神に身を委ねるように、この世界を成立させる偉大な力に全てを預けると、成功や失敗というその相反するものの間で揺るがされる自分自身の心が静かに落ち着いていくことを感じます。
「神は私たちの行いの全ての責任を持っています。神を愛して大切に思うほど、良いことをしようと思い、そして悪いことはできないはずです。」とスワミジが口にしていたのを思い出します。結果に対する執着を捨て、自分の行いをただ全うすることは、神との一体を意味し、そしてそこに生み出される真の平穏に気付かされたのも、その言葉を耳にした時でした。
私たちは生きる上で、行いをせずに立ち止まることはできません。全ての行いを神への捧げものとすること、そこから生み出される神との一体、そして揺るがない心、世界との調和、それこそがヨーガなのだとここでの生活が物語っているように思います。
日々の生活の動きを注意深く感じていると、物事が成り立ち、そして進みゆく、自然の中に存在する流れと、その中心にあるどっしりとした大きな守りを感じることがあります。見失ってはならないその大切なものをしっかりと感じられるこの生活が、ただ呼吸をするという生きる当たり前の行いすらも、神聖なものとしてくれるような気がしてなりません。
(文章:ひるま)