バガヴァッド・ギーターのエッセンス

バガヴァッド・ギーターは、インドの古典文献中でもっとも有名な聖典です。古今東西、世界中の人々が、バガヴァッド・ギーターに親しみ、最高の知識を学び、生きる勇気を与えられてきました。
バガヴァッド・ギーターは、社会人として世間の活動に従事しつつも、成就に達することが可能であると説きます。
ここでは、バガヴァッド・ギーターの日本語訳として「バガヴァッド・ギーター」(上村勝彦訳、岩波文庫)[1]を参照に、ギーターに感銘を受けた人々が残したギーターのエッセンスについての言葉を紹介いたします[2]。
比較宗教学、比較哲学で著名なラーダークリシュナン博士は、ギーター第11章55節が「バクティ(信愛)のエッセンス」であり、ギーターのすべての教えの要旨であると語っています[3]。
「私のための行為をし、私に専念し、私を信愛し、執着を離れ、すべてのものに対して敵意ない人は、まさに私に至る。アルジュナよ。」(11.55)
ここでいう「私のための行為」とは、クリシュナを念想することといわれています。
一方、スティーブ・ローゼン博士は、ギーターの要約を以下の4節にまとめています[4]。
「私は一切の本源である。一切は私から展開する。そう考えて、知者たちは愛情をこめて私を信愛するのである。(10.8)
私に心を向け、生命を私に捧げ、互いに目覚めさせつつ、彼らは常に私について語り、満足し楽しむ。(10.9)
常に〔私に〕専心し、喜びをもって私を信愛する彼らに、私はかの知性(ブッディ)のヨーガを授ける。それにより彼らが私に至るところの。(10.10)
まさに彼らへの憐愍のために、私は個物(アートマン)の心に宿り、輝く知識の灯火により、無知から生ずる闇を滅ぼす。(10.11)」
ラーマクリシュナは、ギーターの本質は、「ギーター」を繰り返し唱えることで得られると述べています[5]。
「「ギーター、ギーター、ギーター…」と繰り返し唱えると、やがて「ターギー、ターギー、ターギー…」と聞こえてくるでしょう。ターギー(ティヤーギン)とは、一切の行為の結果を神に委ねる捨離者のことです。」
クリシュナは、ギーターの中で、放擲(サンニャーサ)と捨離(ティヤーガ)の重要性を繰り返し述べています。放擲と捨離との真実については、第18章でアルジュナがクリシュナにたずねています。
またラーマクリシュナの弟子であるスワミ・ヴィヴェーカーナンダは、「あなたが次の一節を読むならば、ギーターのすべてを読む功徳が一度に得られるだろう。この一節にはギーターのすべてのメッセージが要約されている」と述べ、ギーターのエッセンスとして次の一節を取り上げています[6]。
「アルジュナよ。女々しさに陥ってはならぬ。それはあなたにふさわしくない。卑小なる心の弱さを捨てて立ち上がれ。(2.3)」
これは、すべての現代人に向けられた言葉といえるでしょう。
マハートマ・ガンディーは、ギーターについて次のように書いています[7]。
「ギーターの目的は、私にとって、成就に至るためのもっとも優れた方法を示しているように見える。」
そして、「欲望のない行為によって、行為の果報を放棄することによって、すべての行為を神に捧げることによって、すなわち、肉体と魂を神に委ねることによって」―このような無私の行為によって成就に至ることができる、とガンディーは述べています。
またガンディーは、ギーターへの想いを次のように表現しています[8]。
「私はバガヴァッド・ギーターの中に安らぎを見る。それはイエスの山上の垂訓でもなかったことだ。失望が私を覆い隠すとき、私は一筋の光に目をやるのではなく、バガヴァッド・ギーターに回帰する。ここで詩句を見つけ、あちらで詩句を見つけ、そうするうちに、どうしようもない悲劇のさなかでも瞬時に笑顔に戻る。私の人生は、悲劇の連続だった。目に見えない、消すことのできない傷跡が私に残っても、私はバガヴァッド・ギーターの教えにすべてを委ねる。」
バガヴァッド・ギーターは、現代に生きる術の知識がすべて含まれた、まさに現代人にとってのバイブルと言えます。バガヴァッド・ギーターで得られる知識は、時代を経ても変わることなく、永遠に自己の糧として残るでしょう。
毎日飲み、食べ、眠るように、毎日バガヴァッド・ギーターを読む習慣を身につけるならば、知識という火に照らされた輝きが心に与えられるに違いありません。
今年一年間、SitaRamaをご愛顧いただきまして、誠にありがとうございました。
また来年もどうぞよろしくお願い申し上げます。
どうぞよいお年をお迎えください。
Reference
[1] 上村勝彦訳,「バガヴァッド・ギーター」,岩波文庫,1992
[2] http://en.wikipedia.org/wiki/Bhagavad_Gita
[3] Radhakrishnan, S (1974). “XI. The Lord’s Transfiguration”. The Bhagavad Gita. HarperCollins. p. 289.
[4] Rosen, Steven; Graham M. Schweig. “The Bhagavad-Gita and the life of Lord Krishna”. Essential Hinduism. p. 121.
[5] Isherwood, Christopher (1964). “The Story Begins”. Ramakrishna and his Disciples. p. 9.
[6] Vivekananda, Swami. “Thoughts on the Gita”. The Complete Works of Swami Vivekananda. 4. Advaita Ashrama.
[7] Gandhi, M.K. (1933). “Introduction”. The Gita According to Gandhi.
[8] Quotation from M. K. Gandhi. Young India. (1925), pp. 1078-1079, is cited from Radhakrishnan, front matter.

ライブ・ダルシャン

インドの聖典では、神に謁見すること(ダルシャン)は、非常に大きな功徳があるといいます。そのため、広大なインド各地から、バスや電車に揺られながら、長時間かけて目的の寺院に参拝に行くことも珍しくありません。
そんな中、いくつかの有名な寺院では、インターネットでライブ・ダルシャンが受けられるサービスが始まりました。
これは、インド最大級のタタ財閥のグループ企業のひとつ、タタ・スカイという衛星放送会社のサービスです。営利会社のため、このサービスを広告としてよく思わない人も中にはいるようですが、遠く離れた日本からでも、インドの寺院の様子がライブ中継で見られるのはとても有り難いですね(インターネット版は無料です)。
(追記:このサービスには他にタタ・インディコム、タタ・コミュニケーションズのグループ関連会社が携わっているようです。メインのサービス提供元は申し訳ございませんが分かりませんでした)
現在は、シュリー・シッディヴィナーヤカ・ガナパティ・テンプル、シュリー・サイババ・サマーディ・マンディール、シュリー・カシ・ヴィシュワナート・マンディールの3寺院でライブ中継が観られるようです。
以下にライブ中継が観られるリンク先と毎日のスケジュールを掲載いたしますので、ご参照ください。
またインドとの時差は日本時間−3時間30分です。日本時間で午前7時は、インドで午前3時30分になります。
・シュリー・シッディヴィナーヤカ・ガナパティ・テンプル
(この寺院のガネーシャ像は、珍しい右曲がりの鼻になっています)
ライブ・ダルシャンのリンク先
http://www.siddhivinayak.org/livewebcasting.htm
(リンク先の「Camera 1」をクリックしてください)
デイリー・プログラム
http://www.siddhivinayak.org/dailyaartischedule.htm
(※www.siteadvisor.comやwww.aguse.jpでは安全性が確認できておりますが、Googleにおいて危険なサイトとの認識があるようですので、念のため安全が確認できるまで直リンクを外しております。試聴希望の方は、申し訳ございませんが自己責任でURLをコピー&ペーストして移動してください)
・シュリー・サイババ・サマーディ・マンディール
ライブ・ダルシャンのリンク先
http://www.shrisaibabasansthan.org/shirdilivedarshan1.htm
デイリー・プログラム
http://www.shrisaibabasansthan.org/main_English/shirdi/dailyprograms.asp
・シュリー・カシ・ヴィシュワナート・マンディール
ライブ・ダルシャンのリンク先
http://www.shrikashivishwanath.org/en/online/live.aspx
デイリー・プログラム
http://www.shrikashivishwanath.org/en/daily/aarti.aspx
映像を観ていると、パンディットの人たちが花飾りや信奉者の持ち物にブレスを与えている場面が繰り返し流れています。あまりにも参拝者が多いので一見録画かと思いましたが、どうやら録画ではないようです。インドの人々の信仰心が窺えますね。
どうぞよい一週間をお過ごしください。

右曲がりのガネーシャ vs. 左曲がりのガネーシャ

インドで人気の神様といえば、まずはじめに思い浮かぶのがガネーシャ神です。
ガネーシャ神は、礼拝が盛んなインドでも、他の神様を差し置いて、第1番目に礼拝されるとても重要な神様です。
このガネーシャ神は、人間の身体に象の頭をもち、ネズミを乗り物とするという、とても不釣り合いな姿をしていますが、実はこの姿形は神聖なシンボルとして大きな意味を持っています。
ここでは、「Ganapati」(H.H. Dr. Jayant Balaji Athavale & Dr. [Mrs.] Kunda Jayant Athavale編、Sanatan Sanstha出版)より、ガネーシャの姿の宗教的な意味についてみてみましょう[1]。
1. ガネーシャ神の全身はオームカーラ、すなわちプラナヴァ(原初音)と呼ばれるオームの音を表しています。象は、サンスクリット語の「オーム」を体現する唯一の生き物といわれておりますが、ガネーシャの頭が象になったのは、そのような意味から必然だったのかもしれませんね。
2. ガネーシャの鼻の向きは、多くの場合ガネーシャから見て左曲がりになっています。左曲がりの鼻のガネーシャは、別名ヴァーマムカとも呼ばれています。ヴァーマはサンスクリット語で、左側や北の意味があり、ムカ(ムキ)には顔の意味があります。そして、チャンドラ・ナーディ(月の管)が左側にあるといわれているため、左曲がりのガネーシャは、静寂をもたらすといわれます。加えて、北の方角は、霊的に有益な方角であり、祝福(アーナンダ)を与えるといわれます。また左曲がりのガネーシャは、女性的な面を表し、お金、名声、幸運、幸福な家庭などの生活に恵まれるとされています。
一般的に入手できるガネーシャ像のほとんどが左曲がりの鼻のもので、この「ヴァーマムカ・ガネーシャ」は通常の方法で礼拝してよいといわれています。
一方、右曲がりのガネーシャは、ダクシナームールティまたはダクシナービムカと呼ばれます。ダクシナーは南、ムールティは像、ムカは顔を意味するので、それぞれ「南向きの像」あるいは「南向きの顔」の意味になります。
南の方角は、死の神であるヤマ(閻魔大王)の方角といわれています。また、右側にはスーリヤ・ナーディ(太陽の管)があるといわれています。
ヤマやスーリヤから想像できるように、この方角はとても強力な組み合わせです。したがって、右曲がりのガネーシャ神は、とても強力で活動的なガネーシャ像といわれています。また男性的な面を表し、厳格、誠実、高潔、節制、そして道徳にもとづいた規則正しい生活などを象徴しているといわれます。
3. モーダカ(甘い蒸し団子)は、ガネーシャの大好物です。ガネーシャは、消化に悪い油が嫌いなため、甘いお菓子でも蒸したものでなければ召し上がりません。「モーダ」は喜びやうれしさを意味する語で、「カ」は小さなという意味があります。
またモーダカの形は、霊的な知識の到達度を象徴しています。はじめは霊的な知識が少なく、甘美さを味わえない状態(皮しか食べられない)から、霊的な知識が増すにすれ、やがて大きな甘みが味わえる状態(中身まで食べられる)になります。ガネーシャは、霊的な知識を与える神様であるといわれるゆえんです。
4. ガネーシャが乗り物としているネズミは無知の象徴といわれています。またネズミは素早く動き回るために、激情的な性質の象徴といわれています。ガネーシャがネズミに乗る姿は、無知や激質を克服することを象徴しています。
私たちも素早く動き回るネズミに振り回されずに、ガネーシャのように上手な「ネズミ乗り」になってみたいものですね。
同じガネーシャでも、入手できるガネーシャ像は、製作者によって姿形が様々に変わってきます。今一度、いつもお世話になっている手元のガネーシャ像を良く見直して、ガネーシャの姿形や手にしているものの意味を考え直してみるのもよいでしょう。
参考文献:
[1]H.H. Dr. Jayant Balaji Athavale & Dr. [Mrs.] Kunda Jayant Athavale, “Ganapati”, Sanatan Sanstha, India

ハッピー・ディーワーリー!

本日10月28日は、ディーワーリー(ディーパーヴァリー、光の祭典)です。この日は日本のお正月のように、インドでは、子供にお年玉をあげたり、大掃除や買い物をしたり、甘いお菓子を贈りあったりして新年をお祝いします。
参照ブログ
光の祭典−ディーワーリー(ディーパーヴァリー)
ディーワーリー(光の祭典)
ところで、ディーワーリーでの新年をお祝いするにあたって、その内的な意義も忘れてはなりません。ディーワーリーは「光の祭典」として知られています。
「光」は「富と繁栄」の象徴ですので、ディーワーリーは「富と繁栄のお祭り」ともいうことができます。
しかし、富と繁栄といっても、物質的な富や繁栄には限界があります。
インド哲学では、肉体や心を超越したところに、何ものにも犯されることのない、永遠不滅の「アートマン」が存在するといいます。そして、アートマンは、私たちすべての心の中に宿ると信じられています。
私たちが、肉体の誕生を毎年お祝いするように、ディーワーリーは内的な光である「アートマン」を祝うお祭りでもあります。アートマンは、私たちに限りない富と繁栄をもたらしてくれる永遠の存在です。
この内なるアートマンが輝き出すとき、私たちの無知の暗闇は消え去り、真の自然状態へと回帰することでしょう。それは、肉体や物質を超越した永遠不滅の存在、つまり神を知ることと同じです。
アートマンは、愛や調和の本質ともいえます。すべての人々に存在するアートマンは何一つ違うことなく、すべて共通の性質をもっているからです。
インド哲学では、このアートマンを理解することによって、アーナンダ(内的平安)を得ることができるといわれています。
ディーワーリーは、外見的にはオイルランプに火を灯し、花を捧げたり、お菓子を贈りあったりするお祭りですが、この内的な意義を忘れてはなりません。ディーワーリーの祝い方は地方によって様々ですが、内的な意義は世界共通です。
つまり、内なる光であるアートマンを照らし、すべてに共通の性質であるブラフマンを知ることです[1]。

どうぞよいディーワーリーの祝日をお過ごしください。
参考文献
[1]Diwali, http://en.wikipedia.org/wiki/Diwali

ナヴァラートリ祭

本日9月30日から10月8日まで、ナヴァラートリ祭が行われます。
ナヴァラートリ祭は、季節の変わり目に年に2回行われる、女神をお祝いするお祭りです。
もとは収穫祭の意味もあったようですが、絶え間なく恵みを与える太陽に、生命を育む水や大地に、その他の自然のすべてに感謝するため、シャクティに象徴されるエネルギーを司る女神が礼拝されます。
ナヴァラートリの9日間は、ドゥルガー(カーリー)、ラクシュミー、サラスワティーの3女神を3日間にわたって礼拝します。
・1日目〜3日目
自身の内面に潜む欠点や悪い習慣、想いなどを打ち壊すために破壊の女神であるドゥルガーが礼拝されます。
・4日目〜6日目
ドゥルガーの礼拝によって内外両面のさまざまな悪を打ち払ったあとは、精神的・物質的に豊かな恵みをもたらすためのラクシュミー女神が礼拝されます。
・7日目〜9日目
技能や能力、知識を身につけ、社会に立派に貢献できるよう、サラスワティー女神が礼拝されます。
そしてナヴァラートリの10日目にあたる日は、ダシャラー祭とよばれるお祭りが行われます。ダシャラーは、ラーマ王子がラーヴァナという悪魔を倒した吉日とされています。
このナヴァラートリの期間は、夏から冬への移行期間であり、自然界も少しずつ冬支度を始めてきます。年々繰り返される自然のサイクルに従って、わたしたちも冬支度を始めると共に、内面にたまった垢や汚れもこの時期に整理するとよいでしょう。
きっと健康で心健やかな日々が送れることと思います。
参照:
ナヴァラートリ祭, http://blog.sitarama.jp/?eid=119359
ナヴァラートリ, http://blog.sitarama.jp/?eid=309298

ガネーシャ・チャトゥルティー by スワミ・シヴァーナンダ

明日9月3日から、ガネーシャ・チャトゥルティー(ガネーシャ降誕祭)が始まります。熱心な信奉者は、14日(日)まで続く12日間、毎日ガネーシャ神に祈りを捧げる盛大な祭典です。
ここに、ガネーシャ・チャトゥルティーについて、スワミ・シヴァーナンダのお話をご紹介します[1]。
『至高神であり、シヴァ神の活力であり、祝福の源泉であり、美徳そしてあらゆる試みの成功を授けるブラフマー自身であるガネーシャに礼拝します。
ムシカヴァーハナ・モーダカ・ハスタ
チャーマラ・カルナ・ヴィランビタ・スートラ
ヴァーマナ・ルーパ・マヘーシュワラ・プトラ
ヴィグナ・ヴィナーヤカ・パーダ・ナマステー
意味:
「ヴィナーヤカ神よ!障害を取り除かれる、小柄なシヴァ神の息子。
ねずみを乗り物とし、甘いお菓子を手に持ち、大きな耳と長い鼻を持ったお方。
あなたの蓮華の御足にひれ伏します!」
ガネーシャ・チャトゥルティーは、インドのお祭りの中でももっとも人気のあるお祭りのひとつです。この日は、ガネーシャの誕生日にあたります。これは、ガネーシャにとって、もっとも神聖な日となります。インドの太陰太陽暦では、バードラパダ月(8月〜9月)の新月から4日目にあたります。このお祭りは、インド国内はもちろんのこと、ガネーシャを信奉する世界中の人々によって祝福されます。
このお祭りでは、土のガネーシャ像が作られて、2日間から地域によっては10日間お祈りが捧げられた後、川に流されます。
ガネーシャ神は、象の頭をした神様です。そして、お祈りの最初にまず崇められます。神聖な仕事がされる前、さまざまな祈祷が行われる前には、ガネーシャの御名が最初に唱えられます。
ガネーシャは、力と英知の神様です。ガネーシャは、シヴァ神の長男であり、軍神スカンダ(カールッティケーヤ)の兄にあたります。ガネーシャは、シヴァ神の源泉であるため、シャンカラとウマー・デーヴィーの息子ともいわれます。母親にとって、ガネーシャ神を礼拝することは、子供たちにガネーシャのような美徳を身につけてほしいとの願いが込められます。
次の物語は、象の頭をどのようにしてもつようになったかという、ガネーシャの誕生にまつわるお話です。
昔、ガウリー女神(シヴァ神の妃)が沐浴をしている時、彼女の身体から出た垢から、真っ白なガネーシャを作り、家の玄関に置きました。彼女は、自分が沐浴をしている間は、決して誰も中に入れてはならないと、ガネーシャに言い聞かせました。すると、そこへシヴァ自身が、急いで家に帰ってきましたが、玄関でガネーシャに止められてました。シヴァは怒り、ガネーシャを門外漢だと思い込んで、彼の首を切り落としてしまいました。
それを知ったガウリーは、悲哀に暮れました。彼女の悲しみを慰めるために、シヴァ神は家来たちに、北を向いて寝ている生き物を探し出し、その生き物の首をここへ持ってくるよう命令しました。家来たちはさっそく行動に移し、象だけがその方向へ向いて寝ているのを見つけました。こうして象が生贄となり、象の首がシヴァに届けられました。すると、シヴァ神は、象の首をガネーシャの身体につなぎ合わせました。
シヴァは、仕事、結婚、旅行、学問、その他すべての行為の始めに、ガネーシャを礼拝の対象にするようにしました。そして、毎年、バードラパダ月(8月〜9月)の新月から4日目に、ガネーシャの礼拝を行うことを定めました。
ガネーシャの恩寵と援助がなければ、どのような試みも達成することができません。私たちのすべての行為は、ガネーシャの援助、恩寵、祝福によって支えられています。
マハーラーシュトラの子供たちは、アルファベットの最初のレッスンは、「オーム・シュリー・ガネーシャーヤ・ナマハ」という、ガネーシャ神のマントラ(真言)から始まります。そうしてはじめて、アルファベットが教えられるのです。
次の名前は、ガネーシャ神に共通の名前です。
ドゥームラケートゥ、サンムカ、エーカダンタ、ガジャカルナーカ、ランボーダラ、ヴィグナラージャ、ガナーディヤクシャ、パラチャンドラ、ガジャーナナ、ヴィナーヤカ、ヴァックラトゥンダ、シッディヴィナーヤカ、スールパカルナ、ヘーランバ、スカンダプールヴァジャ、カピラー、ヴィグネーシュヴァラ等。そして、ガネーシャ神は、マハー・ガナパティとしても知られています。
ガネーシャ神のマントラ(真言)は、「オーム・ガン・ガナパタイェー・ナマハ」です。ガネーシャを守護神として信奉する霊性修行者は、このマントラか、または「オーム・シュリー・ガネーシャーヤ・ナマハ」のマントラ(真言)を繰り返し唱えるとよいでしょう。
ガネーシャの信奉者は、次のガネーシャ・ガーヤトリー・マントラのジャパを行うこともできます。これは、次のようになります。
タットゥ・プルシャーヤ・ヴィッドゥマヘー
ヴァックラトゥンダーヤ・ディーマヒー
タンノ・ダンティ・プラチョーダヤートゥ
ガネーシャ神は、英知と至福の化身です。ガネーシャ神は、ブラフマチャリヤ(自己実現を探求する独身者)たちの神様であり、禁欲主義者にとってもっとも重要な神様です。
ガネーシャ神は、小さなネズミを乗り物としています。ガネーシャ神は、クンダリニー・シャクティが宿り、身体の霊的中枢であるムーラーダーラ・チャクラに安住する神様です。
ガネーシャ神は、霊性修行者が歩む道のすべての障害を取り除き、霊的な成功はもちろん、世俗的な成功を授ける神様です。そのため、ガネーシャ神は、ヴィグナ・ヴィナーヤカと呼ばれます。ガネーシャ神のビージャ・アクシャラ(種子)は、「ガン(Gung)」です。これは英語の「sung(singの過去分詞形)」と同韻を踏む発音になります。彼は、調和と平安の神様です。
ガネーシャ神は、ヒンドゥー教徒の間で主要なマントラである「オーム」すなわちプラナヴァ(原初音)を示します。これを唱えることなしには、何事も行うことができません。これは、あらゆる儀式や計画の前に、ガネーシャ神を召喚するための習慣です。ガネーシャ神の2本の足は、知識と行為の力を示します。象の頭は、自然の造詣の中で、オームを象徴している唯一のものとして、重要な意味を持ちます。
ガネーシャ神がネズミを乗り物とする意義は、エゴを完全に克服することです。アンクシャ(槍のような武器)を手に持つ姿は、ガネーシャ神が世界の支配者であることを示し、これは、神々の王族の紋章でもあります。
ガネーシャ神は第一番目の神様です。自然の中でもっとも小さい生き物のひとつであるネズミに乗り、すべての動物の中でもっとも大きい象の頭をもつことは、ガネーシャ神がすべての動物の創造者であることを意味します。象はとても賢い動物です。これは、ガネーシャ神が英知の象徴であることを示します。またネズミは、進化して象になり、最終的に人間になるように、進化の過程を意味します。ガネーシャ神が、人間の身体や象の頭を持ち、ネズミを乗り物とすることには、このような理由があります。これが、ガネーシャ神の姿の哲学的象徴です。
ガネーシャ神は、元素のグループ、感覚のグループなどのガナ(群)の神様です。ガネーシャ神は、シヴァ神の従者の長であり、シヴァ神の最高の家来になります。
ガネーシャ神は、ヴァイシュナヴァ派の信奉者たちにも礼拝されます。彼らはガネーシャ神を、象の鼻をもつ神様という意味のトゥンビッカイ・アルワールと呼びます。
ガネーシャ神の持つ2つの力は、クンダリニーとヴァッラバすなわち愛の力です。
ガネーシャ神は、甘いプディング菓子(甘い中実が詰まった米粉の饅頭)が大好物です。誕生日には、ガネーシャ神は甘いお菓子の供物を受け取りに、家から家へと渡り歩きます。たくさんのお菓子を食べ、夜も更けたとき、ガネーシャはネズミに乗って出発します。しかし突然、蛇が襲いかかってきたのを見たネズミがつまずいてしまい、ガネーシャはネズミから落ちてしまいました。その衝撃で、ガネーシャのお腹は破裂し、詰め込んだ甘いお菓子が全部外に飛び出てしまいました。しかし、ガネーシャはそのお菓子をお腹に再び詰め込むと、蛇を捕まえ、彼のお腹に縛り付けました。
この一部始終を見ていた夜空の月は、腹の底から大笑いしました。ガネーシャは、月の失礼な態度に腹を立て、彼の牙の一本を月に向かって投げつけました。そして、ガネーシャ・チャトゥルティーの期間は、誰も月を見てはいけないと呪いをかけたのです。もし誰かが月を見るようなことがあれば、悪名や批判、不運は避けられないだろうと……。しかし、この期間に間違って月を見てしまった場合は、スヤマンタカ宝に関するクリシュナの逸話を聞いたり、読んだりすることが、呪いを解く唯一の方法だといわれています。この逸話は、シュリーマド・バーガヴァタムに引用されています。ガネーシャ神はこの取り決めを喜びました。帰依者たち優しく、慈愛に満ちたガネーシャ神に栄光あれ!
ガネーシャと彼の兄弟であるスブラマニヤは、かつてどちらが年長者であるかで競ったことがあります。事態は、シヴァ神の最終的な判断に委ねられました。シヴァは、宇宙を一周して、先にこの出発点に戻ってきた者を、年長者とすると決めました。スブラマニヤは、彼の乗り物であるクジャクに乗って、すぐに宇宙を周り始めました。しかし、賢いガネーシャは、尊敬の念を持って、彼の両親の周りを一周すると、勝利を求めました。
シヴァ神は問いかけます。
「賢い最愛のガネーシャよ。お前は宇宙を一周していないのに、どうして勝利を要求するのか?」
ガネーシャは答えました。
「私は両親の周りを一周しました。両親は全宇宙を象徴しています!」
こうして兄弟論争はガネーシャの勝利で幕を閉じ、その後、2人の中でガネーシャが長男として知られるようになりました。母のパールヴァティーは、賞品として、ガネーシャにフルーツを与えたといいます。
ガナパティ・ウパニシャッドでは、ガネーシャは至高神と同一と見なされます。ガネーシャにまつわる伝説は、ブラフマヴァイヴァルタ・プラーナのガナパティ章に記されています。
ガネーシャ・チャトゥルティーの日は、早朝のブラフマムフルタの神聖な時間帯に、ガネーシャ神にまつわる神話を瞑想しなさい。それから、沐浴をした後、寺院に行き、ココナッツや甘いお菓子とともに、ガネーシャ神に祈りを捧げなさい。愛と信仰をもって祈りを捧げることで、ガネーシャは霊的な進化の過程で経験するすべての障害を取り除いてくれるでしょう。家でもお祈りを捧げることです。パンディット(僧侶)の援助を得てもよいでしょう。ガネーシャ神の絵や写真、神像を家に飾り、ガネーシャがそこにいるように感じなさい。
この期間に月を見てはいけないということは、忘れてはいけません。ガネーシャ神に失礼な行為になります。この行為の真意は、この日から神を冒とくしたり、あなたの霊的な師や宗教を蔑む信仰のない仲間たちを避けなさいという意味があります。
心新たに霊的な決意をし、あらゆる試みで成功するための精神的な強さをガネーシャ神に祈りなさい。
ガネーシャの恩寵が、すべての人々に降り注ぎますように。
ガネーシャが、あなた方の霊的道程に立ちふさがるすべての障害を取り除きますように。
そして、あなた方に精神的成就のみならず、物質的な豊かさがもたらされますように。
スワミ・シヴァーナンダ』
ガネーシャ・チャトゥルティーでは、期間中にお世話になったガネーシャ神像を最終日に川に流します。そのため通常は土でできたガネーシャ神像を特別に買い求め、その期間中はその土のガネーシャ神像を礼拝することが行われています。
ガネーシャ・チャトゥルティーを本格的にお祝いしたい方は、日本では土製のガネーシャ神像を入手することは難しいと思いますが、次のビデオなどを参考にして、粘度でガネーシャ神を造ってみるのも面白いかもしれませんね。


このようにして造られたガネーシャは、きっと愛着のわく素敵なガネーシャになるでしょう。もちろん、すでにお持ちのガネーシャ像にお祈りを捧げてもよいと思います。
どうぞガネーシャとともに、楽しいガネーシャ・チャトゥルティーをお過ごしください。
参照
[1]Sri Swami Sivananda, Ganesh Chaturthi, http://www.dlshq.org/religions/ganesh.htm
[2]SitaRamaブログ, ガネーシャ・チャトゥルティー, http://blog.sitarama.jp/?eid=297450

クリシュナとキリストの共通点

クリシュナは、紀元前に実在したとされるヴィシュヌの第8番目の化身です。そして、イエス・キリストは、西欧を中心に救世主と崇められる「神の子」です。しかし、クリシュナとイエス・キリストにはさまざまな類似点があることは、以前から指摘されていました[1]。
・両者の名は、ともに「K」と「R」の音で始まっています(「クリ」と「キリ」)。
・クリシュナは牢獄で、キリストは馬屋で生まれ、ともに子を産む場所としては不適切な場所でした。
・両者ともに王族の血筋を継いでいましたが、正義を復興するために生まれた「神の子」に、当時の王が自らの地位を脅かされることを恐れ、同時期に生まれた子を皆殺しにしようとした点なども一致しています。
そして、両者とも、後世に「バガヴァッド・ギーター」、「福音書」として、彼らの教えを記した書物を残しています。
ここで「バガヴァッド・ギーター」(上村勝彦訳)と、新約聖書の中から、同様の記述を比較してみましょう[3,4]。
「アルジュナよ、私は万物の心中に宿る自己(アートマン)である。私は万物の本初であり、中間であり、終末である。」(ギーター / 10章20節)
「神である主、今おられ、かつておられ、やがて来られる方、全能者がこう言われる。「わたしはアルファであり、オメガである。」」(ヨハネの黙示録 / 1章8節)
ここでは、神にはじまりもなければ終わりもないと述べられています。
「感官には、それぞれの対象についての愛執と憎悪が定まっている。人はその二つに支配されてはならぬ。それらは彼の敵であるから。」(ギーター / 3章34節)
「わたしたちは、十字架につけられたキリストを宣べ伝えています。すなわち、ユダヤ人にはつまずかせるもの、異邦人には愚かなものですが、」(コリントの信徒への手紙一 / 1章 23節)
「しかし、あなたに対して少しばかり言うべきことがある。あなたのところには、バラムの教えを奉ずる者がいる。バラムは、イスラエルの子らの前につまずきとなるものを置くようにバラクに教えた。それは、彼らに偶像に献げた肉を食べさせ、みだらなことをさせるためだった。」(ヨハネの黙示録 / 2章 14節)
真理を実現するその過程には、さまざまな障壁があり、クリシュナもイエスもそれには十分注意するよう述べています。
また以下の例では、クリシュナとイエスの教えの要点がほぼ同じものであることが分かります。
「あなたは嘆くべきでない人々について嘆く。しかも分別くさく語る。賢者は死者についても生者についても嘆かぬものだ。」(ギーター / 2章11節)
「イエスは言われた。「わたしに従いなさい。死んでいる者たちに、自分たちの死者を葬らせなさい。」」(マタイによる福音書 / 8章 22節)
「私は万物に対して平等である。私には憎むものも好きなものもない。しかし、信愛をこめて私を愛する人々は私のうちにあり、私もまた彼らのうちにある。」(ギーター / 9章29節)
「神は人を分け隔てなさいません。」(ローマの信徒への手紙 / 2章 11節)
「敵と味方に対して平等であり、また尊敬と軽蔑に対しても平等であり、寒暑や苦楽に対しても平等であり、執着を離れた人、……彼は私にとって愛しい。」(ギーター / 12章18-19節)
「しかし、わたしは言っておく。敵を愛し、自分を迫害する者のために祈りなさい。」(マタイによる福音書 / 5章 44節)
「梵天の昼は一千世期で終わり、夜は一千世期で終る。それを知る人々は、昼夜を知る人々である。」(ギーター / 8章17節)
「愛する人たち、このことだけは忘れないでほしい。主のもとでは、一日は千年のようで、千年は一日のようです。」(ペトロの手紙二 / 3章 8節)
もちろん、両者には異なる部分もあります。イエス・キリストは独身で子がいなかったといわれるのに対して、クリシュナには1万6千人の妻があり、18万人の子をもうけたといわれています。これなどは、もっとも大きな違いのひとつでしょう。
しかし、一見つながりのないような両者に共通点があることは、どの宗教も、じつはひとつの真理に基づいているからに他ならないのでしょう。
お互いの共通点を見つけることは、お互いの良さを理解するひとつのきっかけにもなります。
クリシュナを知らないキリスト教徒でも、このような類似点を知ることでクリシュナに親しみが湧いてくるのではないでしょうか。
明日8月24日は、クリシュナが降誕された日にあたります。
みなさまにとって、祝福の多い一日となりますように。
参考文献
[1]インド神々の事典, p102, 学研, 2008
[2]上村勝彦訳, バガヴァッド・ギーター, 岩波文庫, 1992
[3]Linkages between two God-men saviors: Christ and Krishna, http://www.religioustolerance.org/chr_jckr.htm
[4]Specific similarities between the lives of Jesus and Krishna, http://www.religioustolerance.org/chr_jckr1.htm

アダムの橋(ラーマ・セートゥ)

「王子として誕生したラーマは、神の仕事を遂行するために超人的な力を発揮し、インド洋を制御した。そして、対岸(ランカ島)に棲まう悪名高き王ラーヴァナを殺した」(シュリーマド・バーガヴァタム)
古い記事になりますが、かつてNASAが撮影した衛星写真に、ラーマーヤナの神話で登場したインドとスリランカを繋ぐ橋が、はっきりと映し出されていると話題になりました。

(出典:NASA Digital Image Collection)
以下にHindustan Times(2002, Oct.10)からの記事を紹介いたします。

NASAによって撮影された衛星写真が、インドとスリランカを結ぶポーク海峡にある不思議な古代の橋を明らかにしました。最近発見された橋は、アダムスブリッジと命名され、約30kmに渡って続いています。
橋の独特な湾曲や構造から、人工物であることが考えられます。古代の伝説や考古学的な考察から、橋の建設年とほぼ同時期の約175万年前に、スリランカに先住民が移住した証であるとされています。
これは、トレータ・ユガの時代(170万年以上前)の出来事であるとされるラーマーヤナの神話に、重大な見地を与えます。
この叙事詩では、至高神の化身であるラーマの指揮の下、ラーメーシュワラム(南インド)とスリランカの間に、橋が建築されたことについて述べられています。
この情報は、人類の起源に関心を持つ考古学者にとってはあまり重要ではないかもしれませんが、インド神話にまつわる古代史について、世界中の人々に知る機会を与え、宗教的な門戸を開いたことは確かです。

(註:橋の建築年代や長さ、また人工物か自然形成のものかなど、さまざまな議論があります)
現在は、温暖化による海面上昇で渡ることはできませんが、数百年前までは橋として機能していたという説もあるようです。ラーマーヤナに書かれているように、ラーマがハヌマーンとともにこの橋を建築し、ランカ島に渡って悪魔を退治したと想像するのは楽しいですね。
しかし2007年、このアダムの橋を横切る水路建設にともない、保守派から猛反発を受けたインド政府は、ラーマが実在した証拠はないとの見解を表明したようです。発展著しいインドですが、近代化にともなって、伝統的な宗教的価値感までが蔑ろにされるのは少し寂しい気がします。
ところで本日4月14日は、そのラーマーヤナの主人公であるラーマの誕生日です。ラーマーヤナで語られるラーマの栄光をあらためて見直してみるのもよいかもしれません。
参照:
・”NASA Images Find 1,750,000 Year Old Man-Made Bridge between India and Sri Lanka”,
http://www.lankalibrary.com/geo/ancient/nasa.htm(画像あり)
・”NASA Images Find 1,750,000 Year Old Man-Made Bridge”,
http://www.salagram.net/VWHIndia.html#LankaBridge
・”インドとスリランカをつなぐ7つの島”,
http://www.eorc.nasda.go.jp/imgdata/topics/2003/tp031016.html(画像あり)
・”Adam’s Bridge”,
http://en.wikipedia.org/wiki/Adam’s_Bridge(画像あり)

シンプル占星術

だれにでもすぐに習得できて、驚異の的中率をほこる占星術(?)をお伝えします。
「明朝、太陽が東から昇るとともに、人々は活発な活動を始めるだろう」
あまりにも当たり前すぎて、これは占星術ではないとお叱りを受けてしまうかもしれませんが、太陽という星の動きをもとに、人々の活動を予測しているので、立派な占星術(?)だといえます。
さらにもうひとつ、
「月の満ちるとき(欠けるとき)、あらたな生命が誕生するだろう」
魚をはじめ、生命誕生のリズムと月の満ち欠けは、密接な関係があることが知られています。
これも、月の動きによって、未来を予測することなので、占星術(?)といえなくはありません。
占星術というと、難しいチャートをみつめて、難しい法則を駆使して導き出す難解なものというイメージがあります。しかし、古代の人々は、このような単純な法則から、星々と生命の何らかの関係を感じ取り、現在の占星術に発展させていったということは、想像に難くありません。
太陽は、莫大なエネルギーを放出し続け、わたしたちの生命活動を支える欠かせない存在であることは、誰の目から見ても明らかです。
人間、動物や植物はみな、太陽の恵みを受けて活発に活動し、生命維持に必要なエネルギーを太陽から得ています。
また月は、地上の生命のリズム維持に、重要な役割を果たしています。満潮・干潮、生物の産卵リズムなどには、月の影響が大きく関わっています。
占星術で太陽や月が重要な地位にあるのは、このような事実があるからかもしれません。
しかし、いざ占星術のチャート上で、太陽や月をもとに将来を予測しようとなると、その解釈はさまざまに変化してきます。
その解釈に一喜一憂するよりも、実はもっとも基本的なこと、太陽や月などのリズムにあわせて、日々を過ごすということが何よりも重要です。
ヴェーダでは、午前4時〜午前8時はサットヴァ(浄性)の時間帯、午前8時〜午後4時はラジャス(激性)の時間帯、午後4時〜午後8時はサットヴァ(浄性)の時間帯、そして午後8時〜午前4時はタマス(鈍性)の時間帯というように、1日24時間の中で、人々に適した活動の時間帯を定めています。
この時間の概念は、ムフールタ(ムフルタ)とも呼ばれ、吉日の選定などにも使用されています。ムフールタは、正確には48分単位で刻まれ、中でもブラフマー・ムフールタの時間帯は、ヨーガや瞑想に適した時間であるとされています。
ムフールタの名称
1 06:00 – 06:48 RUDRA
2 06:48 – 07:36 AHI
3 07:36 – 08:24 MITRA
4 08:24 – 09:12 PITRU
5 09:12 – 10:00 VASU
6 10:00 – 10:48 VARA
7 10:48 – 11:36 VISVADEVA
8 11:36 – 12:24 VIDHI
9 12:24 – 13:12 SATAMUKHI
10 13:12 – 14:00 PURUHUTA
11 14:00 – 14:48 VAHINI
12 14:48 – 15:36 NAKTANCARA
13 15:36 – 16:24 VARUNA
14 16:24 – 17:12 ARYAMA
15 17:12 – 18:00 BHAGA
16 18:00 – 18:48 GIRISHA
17 18:48 – 19:36 AJAPAD
18 19:36 – 20:24 AHIRBUDHNYA
19 20:24 – 21:12 PUSA
20 21:12 – 22:00 ASWINI
21 22:00 – 22:48 YAMA
22 22:48 – 23:36 AGNI
23 23:36 – 24:24 VIDHATR
24 24:24 – 01:12 CANDA
25 01:12 – 02:00 ADITI
26 02:00 – 02:48 JIVA
27 02:48 – 03:36 VISNU
28 03:36 – 04:24 YUMIGADYUTI
29 04:24 – 05:12 BRAHMA
30 05:12 – 06:00 SAMUDRAM
(出典:Wikipedia, “Muhurta”, http://en.wikipedia.org/wiki/Muhurta)
早起きは三文の得、と昔から言い伝えられていますが、世界のどの国でも、朝の時間は非常に大切な時間であるとされています。
仕事で帰宅が遅く、早く休めない人もいるかもしれませんが、無理せず、できる範囲でこのような智慧を取り入れてみるといいでしょう。
これは、占星術のもっとも基本形である、太陽と月の動きにかなった生活術であり、心身ともに活力を得るための、重要な処方箋となります。

ディーワーリー(光の祭典)

本日は、光の祭典ともいわれるディーワーリー(ディーパーヴァリー)の日です。
このお祭りは、インドやネパールで祝われ、またヒンドゥー教に限らず、ジャイナ教やシーク教など、宗教の垣根を越えてお祝いされる盛大なお祭りです。
このお祭りの起源は、もともとは収穫祭だといわれておりますが、現在では、その起源にまつわる多くの言い伝えが残されています。
(参照:光の祭典−ディーワーリー(ディーパーヴァリー)
http://blog.sitarama.jp/?eid=133762)
またこのお祭りは、ラクシュミー女神と強い結びつきがあり、各地でラクシュミー・プージャーなどが行われます。
もとは収穫祭が起源のために、豊作を願ってのことだと思われますが、言い伝えでは、この日に、ラクシュミー女神が乳海の攪拌によって誕生したともいわれます。
また、別の言い伝えでは、ヴィシュヌ神の第5番目の化身であるヴァーマナ(矮人)が、神々を恐怖におとしいれたバリ王から世界を救った日であり、その妻であるラクシュミー女神が慈悲と幸福の象徴として祝われるようになったともいわれます。
ディーワーリーでは、光の祭典の名にふさわしいように、各家庭でロウソクやオイルランプに火を灯し、光に満ち溢れた時を過ごします。
また一歩外に出れば、街中さまざまなイルミネーションに彩られ、人々の目を楽しませてくれます。
自然科学から宗教まで、さまざまな分野で光は特別な存在として扱われています。
光の活用なくしては、現代社会はあり得ませんが、その基本的な性質は、今なお多くの謎に満ち溢れています。
そして聖典では、光は神そのものともいわれます。
ロウソクやオイルランプの煌めく炎を見つめながら、光に満ち溢れた生活に日々の感謝しつつ、自身の内なる光を見つめ直してみる最適な日かもしれません。