36、九つの感情:Rasa

この連載の始めの方で、インド科学音楽・古典音楽は、「絶対音楽」の立場であり、その中でも最もその性格が顕著であり、厳格な音楽として、世界に類を見ない、というように述べました。にもかかわらず、唱歌「赤とんぼ」や「海」を例題にしたり、神々のRagaやTalaの説明の中では、あたかも「標題音楽」であるかのようなニュアンスも感じられたかもしれません。  

しかし、以前にも述べましたように、「赤とんぼ」「海」の作者は、確かに標題とその具現を意識していますが、私がインド科学音楽の手法で解析し説明したそれには、標題性が無いのです。  
しかし、原曲の科学を解析し、再現するならば、正しければ正しいほど、その旋律は「赤とんぼ」の動きを見せるでしょうし、聴く人も「ああ、正に赤とんぼの飛ぶ姿を見ているようだ」と思うでしょう。
ですが、もし「タイトル」を知らなかったら?

実際、私は演奏会で、「赤とんぼ」「海」「炭坑節」を、曲名も意図も言わず、Ragaとして弾き始め、優に30分は、百人、二百人の聴衆の方々が、原曲に気付かなかった実例を何度も行っています。
最後の最後に、「余興性」で、「実は、原曲は○○でした」が分かる様に弾くのですが。それ迄、殆ど全てのお客さんが気付きませんでした。 北九州・若松の演奏会での「Raga:五平太囃子」では、最後に原曲をそのまま弾いて居るのに、数分誰も気付かず。あちこちで、一人二人「まさかな?」と気付き始め「やっぱりそうだ!」と笑い声と喝采が興るまでにかなり引き続けたこともあります。
それまでのインド音楽としての演奏も、原曲をそのまま示した最後の方の演奏も、聞いている人のイメージや頭、心の中には、遠賀川を石炭を積んで行く木造小舟の風景は思い描かれていないのです。故に、紛れも無い「絶対音楽」なのです。

もちろん、お客さんの中には、山が見えた人も、正に大当たりで川下りの風景が見えた人もいるかもしれませんが、Ragaは、それらを否定もしなければ、限定も強いることもしません。何故か?
そもそもが、私たちの情感に訴える為の音楽ではなく、心の奥や魂、細胞ひとつひとつ、チャクラやナーディに作用するように奏でられる音楽なのです。
細胞からチャクラに至る数万の命を、ひとつの小学校だとイメージしてみて下さい。私たちの意識(や情感、印象、イメージなど)は、たった一人の校長先生のようなものです。
私たちの体や神経、心、プラーナたちは、近くて遠い「北○○」という国の「マスゲーム」の子供たちのように、ほぼ全て同じ感情と表情で、完璧なシンクロ動作を繰り広げるようなものではないのです。
なので、如何に校長先生が芸術鑑賞会の始まりに自分の意見を押しつけた解説をしようと、始まってしまえば、全校生徒たちは、まさに千差万別に感じているに違いありません。

実はそれぞれのRagaは、「Nava-Rasa(ナヴァ・ラサ)」という、九種の情感と関連着けられる理論があります。
ご存知これは、ヨーガやアーユル・ヴェーダが説く「九つの感情」とRagaを関連させた概念で、「Bakti(献身)」を入れるならば十種になるものです。が、これの解釈の誤りのために、日本の研究者はもちろん、インド現地の研究者さえもがインド科学音楽~古典音楽を、まるで「標題音楽」的に解釈してしまっているのです。
正しくは、上記しましたように、タイトルが「Raudra(恐れ)」であろうと、校長先生が「怖いですよ~」と前振ろうと、私たちの臓器や細胞、チャクラの中には、「けらけら」笑っている子も居るかもしれません。
しかし、如何に西洋医科学におけるエビデンスが得られてないとしても、私たちの心と体、神経、チャクラ、ナーディに何らかの、大まかな総合的作用を与えることは大いに有り得ることです。
例えば、Raga:Bihagのテーマは「夢」ですから、Nava-Rasaでいうならば、「Shanti(シャンティー/平和)」でしょう。しかし、「テーマ」と言っても、標題でもイメージでもないのです。音そのもののと、動きそのものが、「夢」そのものなのです。強いて分かり易く言うならば、「副交感神経の働きを優勢にする」可能性は大いにありそうなRagaです。プラセボ効果も手伝えば、「不眠症に効く」可能性も大いに有り得ます。ただ、「眠り」ではなく「夢」であるところがミソなのですが。  

(文章:若林 忠宏

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若林忠宏氏によるオリジナル・ヨーガミュージック製作(デモ音源申込み)
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35、ジグザグ音:Vakra

Tabla drums

インド科学音楽~古典音楽のRagaが用いる音階には、幾つかの主要な音があります。主音は「Vadi(バーディー)・Swar(スワル)(V)」で、対比的な副主音は「Sam-Vadi(サム・ヴァーディー)・Swar(SV)」それ以外の音は「Anu-Vadi(アヌ・ヴァーディー)・Swar(AV)」と呼ばれ、Raga:Yamanでは、V=ミ(Ghandara)、SV=シ(Nishad)、となり、それ以外のレ、ファ#、ラがAVとなります。ド(Sadaj)とソ(Pancham)は、基本の音(字義的には「不変の音」)ですから、この概念では論じられません。

その他、より古い理論の名残である「Amsha(アムシャ)・Swar/開始音」「Niyasha(ニヤーシャ)・Swar/開始音」もありますが、主音・副主音ほどRaga毎に変わらないことや、「歌い始め(弾き始め)」や「個性的な終止形」は、「開始・終始音」の存在よりも、連続したフレイズで認識されることが多いため、近代ではほとんど論じられません。

例えば、イスラム宮廷で生まれたため「Raga of King、King of Raga」のタイトルを持つ「Raga:Darbar(ダルバーリ/宮廷内の広間のこと)」の「シ♭ドレー」の終止形は非常に個性的で有名ですが、「レ」が終始音であることだけを論してしまうと「ミ♭ファレー」でも良いということになりますが、この動きも存在しますが、前者の終止形ほどの重要性はありません。
これらの「主要音」と、「特徴的な動き(Pakad/パカル)」は、寓話の「卵と鶏」の関係で、どちらが先行とは言い難いものがあり、Ragaによっても異なります。

ところが、上記でRaga:Darbariのフレイズの例に、「ミ♭ファレー」を挙げましたが、Darbariでは、これは「絶対的」で、ほんの一瞬でも「ファミ♭レー」と弾いてしまったら、その瞬間に演奏を止め、聴衆に頭を下げて退場しなければならないほどの間違いなのです。
これは、Raga:Darbariに定められている「音階の形」が、そもそもその様な「ジグザグ進行」であるからです。

Raga:Darbariの上下行音列は、「ドレミ♭ファソラ♭シ♭ドードシ♭ラ♭シ♭ソ、ファミ♭ファレドー」と定められています。よって、「ドシ♭ラ♭ソー」「ファミ♭レドー」は有り得ないのです。これは、文字通り「Vakra(ヴァクラ/ジグザグの意味)・Swar(VkS)」と呼ばれ、Raga:DarbariのようなRagaを「Vakra-Raga」と言います。
「Sawar」は、何かの一音を指す言葉ですが、ジグザグは、2~3音に渡って表現されます。が、「VkS」は、確かに単音で存在します。  Raga:Darbariの場合、「下行旋律においてのラ♭と、ミ♭」がそれです。

このVakra-Swarは、「またぐには高過ぎるハードル」とイメージしてみて下さい。「一歩下がって助走を着けて一気に飛び越える」しかないのです。つまり高いドから「ドシ♭ラ♭ー」と降りて来ても「ラ♭」が「VkS」ですから、シ♭に戻って飛び越す。「ソファミ♭ー」と降りて来ても「ミ♭」が「VkS」ですからファに戻って飛び越すしかないのです。
と、理論的にも難しい話ですが、実演ではもっと難しいものになります。旋律は常に、4~7音の長いものではありませんから、しばしばVkS辺りの2~4音を行き来するかもしれない。「上行的モチーフなのか?」「下行的モチーフなのか?」曖昧な時もあるかもしれない。しかし、この法則は、「Pakad」の様な「洒落」ではありませんから、どんなに超絶的に早く弾こう(歌おう)が、自分でも初めて弾いてしまった即興上の奇跡的・ハプニング的なフレイズであろうとも、決して法則に違うわけにはゆかないのです。

(文章:若林 忠宏

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若林忠宏氏によるオリジナル・ヨーガミュージック製作(デモ音源申込み)
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34、特徴的フレーズ:Pakad

Indian harmonium, a traditional wooden keyboard instrument

以前から、日本の唱歌「赤とんぼ」「海」を例に説明致しました、各Ragaの特徴的な音の動き・フレイズは、「Pakad(パカル)」と呼ばれます。その他にも、幾つかの呼称と用語がありますが、これが最も基本的なものです。

唱歌「赤とんぼ」ならば、「ラを飛ばしたソドー」「回り込んでソに至る、ミソドラソー、やミラソー」「一気に二音も飛ばすラドー」「一転して細かなソラソミ」「旋回してからドに帰着するドミレド」などがそれで。
唱歌「海」では、「勢い良く回り込んでドに至るラレドーやソレドー」「ラを飛ばしてレという非帰着音で終始するソドレー」「主音ミを中心としたミソミレド」などが「Pakad」ということが出来ます。

この他、原曲に無かろうと、「赤とんぼ」では、「ミソドラソー」からは、「ソドラソー」「ミソミソドラソー」が創り得ますし、複合型の「「ラソドラソ」「ソラソミドラソ」なども有り得ます。

つまり、「Pakad」を充分に理解していれば「一を聞いて十を知る」がごとく、新たな「Pakad」を見出すことも可能な訳です。尤も、以前にも述べましたように、「Ragaは精霊である」訳ですから、「Ragaに弾かされている」とも言えます。

この「Pakad」の存在が何を意味し、Ragaに何を与えるのか? もしくは、私たち人間に何を伝えるのか?

少なくとも直ぐ分かることは、RagaおよびRaga音楽歌唱(演奏)は、音階を基にして作曲されるものでもなく、音階を用いて即興演奏するものでもない、ということです。何故ならば、「同じ音階でもPakadが異なればRagaが異なる」からです。

もちろん、ジャズやブルース、ロックの即興演奏でも、ある種一定のムードというものが維持されているはずです。が、厳密に理論的、論理的に説明は為されないはずで、理論的に論じられるとしたら、それは「コード進行」に応じた音の使い分けであったり、転調感を出すための技法であったりです。

そもそも音階(Scale)が同じであれば、ジャズの即興の最中に、唱歌「海」と「赤とんぼ」が交互に出て来ても、混ぜてしまっても問題は無いはずですし、興が乗れば短調の四七抜調に転調しても「面白み」ということになるでしょう。が、インド科学音楽~古典音楽ではありえません。

極端な言い方をすれば、ジャズやロックに於ける「音階や旋法の変化や転調」は、「面白み(楽しみ)」のために、「それ(音階・旋法)」を或る種の道具(素材)としていじくり回しているようなものです。

それを「それ(音階・旋法)」の立場で考えれば、「たまったもんじゃない!」。極めて失礼。それどころか陵辱的であるとさえ言えます。従って、インド科学音楽では、「精霊であるRaga」に対してそのような冒涜は厳しく禁じられているのです。否、ここで大切なのは、「禁忌であるか否か」ではなく、そもそもの理解と分別、精神性、意識の問題です。

もちろんインド古典音楽でも、「面白み」を全く否定している訳ではありません。また、そのようなことが可能な軽いRaga(Khurshid/Kshudra)」と、全く許されない重たいRaga(Asharya/Vachak)は明確に区別されています。

例えば面白みのひとつとして、「Raga-Malika(ラーガ・マーリカ)」と呼ばれる「Ragaの転調」をむしろテーマとした演奏法があります。3~5のRagaに次々に移行してゆくのものです。
ですが、如何に関連のRagaを巧みに繋ぐかという理論的理解度、如何に自然に、かつRagaの本質を見事に表出させられるかの技量と音楽性が求められるもので、遊び心があるとは言え、かなり真剣な芸なのです。また、上記のような理由で、どんなRagaでも起用できる訳でもありません。

この例外のことをも含めて考えると、「Pakad」は、或るひとりの人間の物語や歴史を紹介するドキュメンタリーのように、Ragaの物語を語るためのエピソードのようなものと考えると分かり易いのではないでしょうか。そもそも、前述のようにRagaは命や性格がある「精霊」なのですから。

ところが、ややここしいのは、この「特徴的なフレイズ:Pakad」は、常に厳格に守られるべきでもないことです。

以前から喩えに上げている日本の唱歌「海」と「赤とんぼ」の場合、元来インド音楽のRagaとして生まれた訳ではありませんから、その特徴は、かなり厳格に守らねばRaga音楽にはなり得ませんが、Ragaによって、およびPakadによって、その厳格さにはかなりバラツキがあります。

例えば、言わば「ハ長調」とも言える音階を用いる「Raga:Bilawal(ビラーワル)」の場合、しばしば「ソラシドー」と行かず、「ソシラシドー」や「ファミレド」と行かず「ファミファレド」の様な動きを見せます。が、このRagaの場合、「ソラシドー」も「ファミレド」も間違えではないのです。
言い換えれば、「ソシラシド」や「ファミファレド」は、「贅沢で豪華な装飾品の様なフレイズ」であり、言わば「洒落」なのです。

また、別な説き方で言いますと、「Pakad」は、紛れも無く「常套句」であり、もし、Ragaの精霊自身が言葉(音/フレイズ)を発するとした場合の「口癖」であり、「決まり文句」な訳です。
従って、私たち「Raga演奏家」は、言わば「Ragaの精霊の物まね(形態模写)」からスタートし、理解と具現が向上するに応じて、その質が高まり、本質(Prakriti)に迫って行くことが「本懐」なのです。

逆に、「物まね」の段階では、「このセリフを言えば○○さんっぽい」のレベル程度なのです。実際、プロの演奏家でもそのレベルという人は少なくなく。むしろ「お笑い番組の物まね」のように、「っぽい」ことや「デフォルメ」の方が「一般ウケする」ということはあります。

しかし、真摯に「Ragaを具現(精霊を降臨)する」ことを目指すのであるならば、その「ことば」は、時と場合や脈絡、文脈に応じて変幻自在に(自然かつ必然的に)変化(使い分ける)べきであることは言う迄もないことなのです。

「Pakad」によっては、「洒落」であったり「本音」であったり、「とっておきの決めセリフ」だったりしますから、
それらを理解も考えもなしに羅列してしまえば、その「Raga(という人/存在)」は「変な人!」「意味が分からない!」となってしまうか、それ以前に、「言葉に重みが無い人」と同じになってしまいます。

勿論、それら全て私たち演奏家の責任であり、その結果は、私たち演奏家そのものの実態・事実なのですが。

何時も、最後迄お読み下さってありがとうございます。

(文章:若林 忠宏

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若林忠宏氏によるオリジナル・ヨーガミュージック製作(デモ音源申込み)
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33、「音を出す」ということ 

Man playing the sitar

「音の動き」が複雑になったり、その動きに法則を見出したり、さらには即興演奏を繰り広げて行くと、音数が増す一方になり、やがては、旋律の美しさや形や、力や勢いに主眼が置かれがちになります。
しかし、この連載の始めの方で説明しましたように、元々インド科学音楽は、「ひとつの音=OM」から始まったのです。

幼稚な喩えで恐縮ですが、「基本のOMの音」を忘れ、旋律の妙技に酔いしれてしまうことは、抜群に美味しい「お米」なのに、「おかず」をたくさん盛って「お米」の味を忘れてしまう様子に似ています。

つまり「インド音楽はド(Sadaj)に始まり、ド(Sadaj)に終る」と言い切ることができるのです。

それもこれも、原点や基本といった「樹木の幹や根」と、立派で派手な「枝葉や花や果実」のどちらに偏っても駄目であるという、「両極の価値観がセットで揃って自然体を為す」というインドならではの「両極端の共存」を基本とした価値観を忘れてはならないということでしょう。

私事で恐縮ですが、TVの「鑑定団」に出演した時は、出品された他人のシタールで「2分で」を要望されました。
本番直前、楽屋で必死でメンテナンスをしてどうにか成し遂げました。

一方、自分のライブハウスでは「9時間ライブ演奏」に挑戦し達成したことがあります。

つまりRaga演奏は、「2分から9時間」如何様にも伸び縮みさせることが可能であることを実証したのです。

しかし、もし「1秒で!」とか「1音で!」と要求されたらどうでしょうか? それも可能です。

「ド(Sadaj)」だけを弾けば、立派なインド音楽なのです。

「それじゃあRagaも何もないじゃないか」と言われるならば、「2~3音」弾くことが許されればかなりRagaに迫ることが出来ます。
前出のRaga:Yamanならば、「シ♮ドー」か「シ♮レドー」で充分Raga:Yamanかその系列であることを示せるはずです。

「シ♮ドーだけじゃレ♭のRagaかも知れないじゃないか!」とおっしゃる詳しい方も居るかもしれませんが、中世のある種のRaga分類法では、「Raga:Yamanの系列」と「レ♭」を用いる「Raga:Purbiの系列」は大きなひとつのグループでしたから、あながち「外れ」ではないはずです。

同様に、以前述べました「Raga:Bhairavi」ならば「シ♭レ♭ドー」でしょう。これも「ファ#」を用いる「Raga:Todiの系列」と同じ大きな分類にあります。
逆にRaga:Bhairaviの夫であるにもかかわらず「Raga:Bhairaw」では、そうは弾きません。
また「シドレー」と弾いた場合、全く異なる系列を示唆します。

ところが、実は、これらは、「すべてド(Sadaj)」なのです。

「ドー、シドー、シレドー、シラシレドー、シラソファソラシレドー、シレミレドシラソラシドレドー」もインド音楽では、全て「ド(Sadaj)」の範疇です。

この少しずつ発展し、音世界の範囲を広げてゆく手法は、幼児が家の垣根を越えて外に出ないけれど、次第に少年になって、三軒両隣、更に少し遠くに冒険に行く成長の姿に似ています。

実際、このようにしてインド古典音楽の冒頭の前奏曲「Alap(アーラープ)」が始まります。

それぞれのRagaならではの手法で、充分に「ド(Sadaj)」を示した後は、属音の「ソ」にやっと移ります。そして、その後に間の音の個性を見せ、やっとオクターヴ全域に至り、更には低域、高域のオクターブを交えて行く。
その結果、前奏曲だけで、優に1時間は経ってしまうのです。

この様子は、「単音のMantra」が千年、千数百年かけて「2音のMantra」に発展し、さらに千年、千数百年掛けて「3音のMantra」に発展し、さらに数百年掛けて「5度上で展開し」……………………。

という気の遠くなるような膨大な歴史を、毎度ひとつひとつのRaga(旋法)を弾く度に辿っているようなものです。

かと思えば、Alapを数分で終える「短縮系:Aochar-Alap」もあり、また上下行音列を、必要箇所にコブシを入れて「さっ!」と歌う(弾く)だけの、前唱(奏)曲と言うより「歌い出し」的な序唱(序奏)もあります。

このように、インド科学音楽と、それにより近い古典音楽は、「幹から枝葉へ」展開しては「また幹に戻って別な枝葉へ」と進みを繰り返し、常に「本質(Prakriti)」を見失わないようにしながら、個々の「様々(多様)」を具現し説いてゆくのです。

(文章:若林 忠宏

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若林忠宏氏によるオリジナル・ヨーガミュージック製作(デモ音源申込み)
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32、Ragaの主音・副主音、開始音・終始音

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インド古代科学音楽に端を発する、古典音楽の旋法「Raga(ラーガ)」は、5~7(しばしばそれ以上)音の基本音階に基づきながら、個性的な音の動きが定められており、それによって、同じ音階から幾つものRagaが生まれています。

例えば、この連載の19回目でも例に挙げてご説明しました、日本の唱歌「赤とんぼ」と「海」を見ますと、二曲とも同じ「ドレミソラド」の五音音階を用いていながら全く異なる「音の動きの特徴」を持っています。インド科学音楽~古典音楽では、この特徴を「法則」の域まで論理的に突き詰めることで、即興演奏さえも可能なもの、すなわち「Raga旋法」の域に高めたわけです。

具体的に「赤とんぼ」の「音の動きの特徴」をインド科学音楽の分析と定義の方法で見ると、「ソラド」という上行旋律が単純にでてくる。高域のドに到達しても留まらず、中域の基音の属音であるソにも到達しても留まらない。ソにある程度長く留まる時には、上のラから至る。全体的にオクターブの半分以上大きく飛ぶことが多い、その反面「ドラ、ソラ、ソミ、ソミ」などの小刻みな動きも見せる、基音のドに至る場合は、単純な「ミレド」ではなく、「ドミレド」などで大きく展開して至る。などがはっきりと分かるのです。
対する「海」では、「ミレド」という素直にドに降りる動きが見られるけれど、低域のソやラからはドに至らず、ドに帰着するならば、一度レを取って回り込んでドに至るという極めて大きな特徴が見られます。
Raga音楽の即興演奏は、どれだけ盛り上がろうと、どれほど早いパッセージで演奏しようと、この法則を厳しく守るのです。

次にこれらの特徴や法則が何故生じ得たのか?について説きます。
例えば「海」の「ミレド」ではなく「ドミレド」と動くことで「ミ」の役割が極めて高くなります。「ドとソ」は、以前説明致しました「地平性、水平線」の様な基本ですから、重要であるのは当たり前ですが、一旦「ミ」に力強く投げつけてから降りて行く動きによって、「ミ」の立場、価値はいや応が無しに高まると理解できるのです。

また、この曲では一節に24の音がありますが、各音の配分を見ますと、ド=6回/レ=5回/ミ=5回/ソ=4回/ラ=4回となっています。ドは当然として、レとミが、属音のソよりも多いことに驚かされます。これは、「主音(Vadi/古くはAmsha)、副主音(Sam-Vadi)、開始音(Amsha-Swar/古くはGraha)、終始音(Niyasha-Swar)」の存在を示しているのです。
「海」の場合、解釈によっては、「ド」が主音で「ミ」が副主音と考える流派もあるかもしれませんが、上記の音の動きにおける立場・価値を考慮すると、「ミ」が主音であることはほぼ間違いないでしょう。
「レ」は、意図的に留まり伸ばされていますが、本来、安定・帰着する音ではありません。しかし、ある特殊な「終始音」と考えることができます。不安定な終始音の存在によって「基音:ド(最終的な帰着音)」がより強調されるという手法です。  この「主音、副主音、開始音、終始音」は、Ragaによって、「基音のドや属音のソ」と重なる場合も多く、「主音、副主音」が「開始音、終始音」と重なる場合も多くありますし、「主音」は、顕著に現れつつも「副主音」が目立たない場合や、「開始音」と「終始音」が同じ場合も当然有り得ます。
また、「Amsha-Swar(開始音)」は、より古い理論における「主音」であると言う説もあり、古いRagaでは混同も見られ、また地域の流派の異なりも当然あります。  そもそも「海」「赤とんぼ」のような五音音階。つまり、音数が少ない場合は、四つの主要音を別にすることは難しいですし、不必要でもあります。逆に、以前紹介しましたRaga:Yamanのような「シンメトリック構造」の七音階Ragaでは、四つの主要音は、独立し存在感を際立たせています。

(文章:若林 忠宏

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若林忠宏氏によるオリジナル・ヨーガミュージック製作(デモ音源申込み)
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31、五音音階や六音音階

old sitar on red background - ancient indian instrument

古代インド科学音楽~古典音楽では、1オクターヴを12の半音(古くは22)に分け、それから七音音階を順列組み合わせ的に見出しました。これを、「全て揃った」という意味で「Sampurna(サンプールナ)-Jati(ジャーティー/型)(以下略してSJ)」と呼びます。

このSJを基本にして、七音から1~2音を割愛(Vorjit/ヴォルジット)して、「六音音階(Shadava-Jati/シャーダヴァ・ジャーティー)(ShJ)」「五音音階(Audava-Jati(アウダヴァ・ジャーティー)(AJ)」をさらに見出したのです。

例えば、以前にも引用しました日本の唱歌「赤とんぼ」と「海」の「ソレミソラド」の音階は、日本でも「四七抜調」と呼ばれる様に、「四番音=ファ」と「七番音=シ」を割愛して見出された五音音階という考え方です。

数千年経たであろう今日も継承されている、Veda-Mantra(ヴェーダ・マントラ:様々なヴェーダ経典から見出されたマントラ)から得られた様々な讃歌の中には、例えば
「Stotra(m)/ストータラ(ム)」や「Shatka(m)シャトゥカ(ム)」のより古いものは「Audaba(AJ)/アウダヴァ=五音階」を用いて詠唱されています。

さらに、インド科学~古典音楽で音階は、「上行音列(Aroha/アーローハ)」と「下行音列(Avaroha/アヴァローハ)」が異なる観念で理解され、上下行とも同じ音階とは限らない、という考え方に発展しました。

これもまた世界で希に見る現象であり、「音階が上昇して行くことと下降して行くこと」は、「森羅万象」総てのものごとに通じて、「上昇と下降」「発展と衰退」「興奮と落ち着き」「出掛ける(行く、旅立ち)ことと帰る(戻る)こと」といった「相反するが対になっている原理/二元論」を象徴していると言えます。

その結果、音階は、「SJ~SJ(上下とも七音)」「AJ~AJ(上下とも五音)」「ShJ~ShJ(上下とも六音)」の三種の上下同一の音階の他に、「SJ~AJ(上行七音で下行五音)」「SJ~ShJ(上行七音で下行六音)」「AJ~SJ(上行五音で下行七音)」「AJ~ShJ(上行五音で下行六音)」「ShJ~SJ(上行六音で下行七音)」「ShJ~AJ(上行六音で下行五音)」の上下で異なる六種の上下異音階の合計九種の「型(Jati)」が在る(在り得る/在るべきだ/在るはずだ)、と考えられたのです。

ところが、何回か説明していますように、論理的に考察した後は、突然実践的になるのがインド音楽の不思議なところで、上行が五音や六音で、下行では七音という音階を用いるRagaはかなり多いのに対し、上行が、七音や六音で、下行がそれより少ない六音や五音という音階のRagaは、滅多に見られない(あまり演奏されない)のです。これは北インド古典音楽では「ほとんど無い」と言えます。

これは、駅の階段を駆け上がったり、駆け下りて猛烈に急ぐ時のことを思い浮かべて頂ければ直ぐに納得できることでしょう。
駆け上がる時には、一段飛ばしてもそんなに苦じゃない上に、むしろそうしたいかもしれない。しかし、駆け下りる時は、比較して危険だし怖い。
つまり、下行音列が少ないと、それが与える印象(および体や心に与える影響)の方が際立ってしまい、各音の命や、旋律の形の法則の効果効能を阻害してしまいかねない、ということなのです。

しかし、このことをより正確に言うと、現在でも、ヒンドゥー宗教音楽の性格が強い南インド古典音楽と、北インド古典音楽の古い時代に主要であった旋法には、「上行音列が六~七で、下行音列が上行より少ない、五~六」という、上記の「階段の喩え」で言うならば「不自然」なものが少なくないのです。
つまり、「時代とともにより人間感覚に偏った」ということが言え。それには「音楽に宗教を持ち込まない」イスラム教徒のヒューマニズムの影響も考えられると言うことだと思われます。

なお、Ragaによっては、「フラットのミ(もしくはシ)」と「ナチュラルのミ(もしくはシ)」または、「ナチュラルのファ」と「シャープのファ」のふたつともを用いることがあります。

この場合、ほぼ全ての実例において、「上行的モチーフにおいては高い方を選択し、下行的モチーフにおいては低い方を選択する」という規則的な習慣があります。これはオリエント音楽やギリシアのオリエント系音楽にも見られます。

上行的モチーフでは、高い方が気分が高揚し、下行的モチーフでは低い方が物悲しさが強調される。逆だと意味不明で気持ち悪い、というこれもまた極めて実践的かつ情感的な理由であろうと思われます。もちろん論理的には、その逆も確かに存在することを忘れてはならないのですが。

しかし、これら「ふたつの音」を用いる場合音数が七を越えようとも、「七音音階」という認識(解釈)は変わらないのです。例えば「ドレミファソラシ(フラット)ラシ(ナチュラル)ド」という実際的には八音用いている上行音列のRagaであろうとも、やはり七音音階なのです。

それは、「フラットとナチュラル」「ナチュラルとシャープ」は、「同じ音の変化」であるからであり、ドとソ以外の変化し得る音は、それぞれ命と人格に匹敵する性質を持っていると考えているからに他なりません。

これは、いずれお話する予定であります、「RagaとChakra」の関係とも関わります。幾つかの学派では、幾つかのChakraには、同じChakraの左右の系列が説かれており、Ragaの同じ音の「フラットとナチュラル」もしくは「ナチュラルとシャープ」が、左右のChakraとセットになるのです。

おそらく、これらの感覚は、「陰陽や相反するもの対峙」ほどは厳しくはっきりしたものではないと思われます。

ヒンドゥーの神々の中にもしばしば「二神一体」があったり、例えばGanesha神の鼻の曲がる方向に左右があったりのような、「置き換え、代理」的な感覚であろうと考えられます。
神々の「Avatara(アヴァターラ/化身)」と「Murti(ムールティー/相)」との違いにも通じるものがあります。

いずれにしても、他の国の文化では考えられない深さと微妙さを物語っているインド独特の感覚であると言えます。

(文章:若林 忠宏

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若林忠宏氏によるオリジナル・ヨーガミュージック製作(デモ音源申込み)
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30、神々のTala

close up of a hindu deity statue on red background

ヒンドゥーの神々に因んだ「Raga(ラーガ/旋法)」が、人間が及ばない神秘の力を持つと同時に、温かい可愛らしい優しい側面も併せ持ったのと比較すると、神々に因んだリスム(サイクル)/拍節法「Tala(ターラ)」は、ある意味徹底して「非人間的」と感じさせるものが多くを占めていると思います。

つまり、人間の日常に自然に湧いて来るリズム感とはかなり隔たりがある、ということです。

このことからも、インド音楽の二大要素である「Raga」と「Tala」は、まるで織物の縦糸と横糸のように、結果として交わり織りなすにもかかわらず、性質も有様も、全く別次元のものであるということが再認識出来ます。

つまり、人間の情感に直接的に訴える力を持っている「旋律」の分野では、「高揚させる」「鎮静させる」「その双方の要素を併せ持つ」など、「二元性」「両極端の共存」がテーマになり得るのに対し、「リズム(律動)」の分野では、「常道・常同的」と「変則的」という相反する要素は、共存し難いのだろうということです。

具体的には、「4+4+4+4」や「3+3」など同じ数が続くリズムパターンを「常道・常同的」の極みとして、「2+3+2+3」「3+4+3+4」なども、西洋音楽しか演奏しない人や聴かない人は戸惑うかも知れませんが、慣れれば「規則的」であり、「安定的」とさえ感じられるものです。

ところが、これらの「シンメトリック構造」の「Tala」と比べると、「3+4」「4+4+1.5+1.5」などは、かなり不規則であると言うことが出来ます。

しかし、以前述べましたように、「3+4」は、「3+4+3+4」を半分に割ってループしたものと考えれば恐るに足らないと言うことが出来ますし、別な視点では、北インドのみならず好まれている、インドに近い中央アジアの民俗舞踊を見ますと、しばしば飛び上がる様な仕草があり、「非常同的」ではありますが、人間の動作としては不自然ではないと言えます。

ところが、神々に因む「Tala」は、神々に因まない「Tala」の常規を遥かに逸しているのです。それらは、大きく分類してふたつの傾向が見られます。

ひとつは、全体を二分することが出来る、ある意味シンメトリックなTalaですが、Shiva関連Tala例1の「2+2+2+2+2+2+2+2」やDurga関連Talaの「1+1+1+1+1+1+1+1+1+1」、およびSaraswati関連Talaの「2+2+2+2+2+2+2+2」のように、少ない拍数の小節が異常に羅列しているものです。

これでは「起承転結」は愚か「寄せて返す波のような」という往復感も感じられず、まるで「1拍子」や「2拍子」が、感覚的には計り知れないところで途切れ繰り返されている感じです。

もうひとつの傾向は、Shiva関連Tala例2の「1+1+1+1+1+1+2+2」や、Krishna関連Tala例1「2+2+2+3+3+4」、およびKrishna関連Tala例2の「1+2+2+2+1+2+2」のような、二分も出来なければ、その構造の意味、理由さえも分からない奇妙な構造です。

今回例をあげた「神々に因むTala」は、いずれも今日殆ど演奏されない古いTalaですが、同時代の「神々に因んでいないTala」は、上記の二系統のような奇異な構造は持っておらず、全体が二分出来たり、往復感や循環性が豊かであったり、慣れれば今何拍目であるかが分かり易いものばかりです。

従って、神々に因んだからこそ、上記のような奇異な構造であったと考えることが出来るのですが、「何故?」の答えまでには至っていないのが残念なところです。やはり「超人的」「神秘的」としか言いようがないのでしょうか。

(文章:若林 忠宏

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若林忠宏氏によるオリジナル・ヨーガミュージック製作(デモ音源申込み)
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29、神々のRaga

santtukaram

ヒンドゥー教の神々は、いずれも卓越した能力と叡智を持つ(当たり前のことですが)と共に、何処か人間的な愉快な一面や可愛らしい一面を持っていると思うことがしばしばあります。この点を世界に求めてみますと、不思議なことにいずれもアニミズム(原始宗教)に行き着きます。

そうした世界に普遍的に見られる神々の二面性。即ち、恐るべき能力と、可愛らしさ愛しさという両極端の共存は、よろずにおいて「二元的」「両極端の共存」の性質が強いインドにおいて、より顕著であることは言うまでもないことでしょう。

ある種の価値観の解釈で言えば、世界各地で、アニミズムが宗教に組み込まれたり発展昇華される中で、矛盾する両極端が次第に整理されて来た傾向があるとして(あくまでも仮定ですが)、インドではそれが行われなかった傾向が見られるということが出来るのではないでしょうか。
また、別な次元では、善悪、勝ち負け、白黒着けられない世界こそが、宇宙の摂理に通じるものであり、神々も人間や動物も、常に両脚端のバランスの中で生きているということが原点とも言えます。これは、アーユルヴェーダ、中医・漢方弁証論治などが説く、「健康と病気」の分野にも見ることが出来ます。

その結果。とするのも、私の強引な私見のようでもありますが、ヒンドゥーの神々にちなむ「Raga(ラーガ/旋法)」の多くには、「厳しさ(鋭さ)と優しさ(温かさ)」という両極端が混在しているものが多い印象を持ちます。
それは、逆の性格を強く感じさせるRagaの存在によって認識されました。例えば、「Raga:Yaman」の極意は、徹底した「構造美」にあると考えます。四度五度で繰り広げられるシンメトリックな構造が重要な個性だからです。対象的にシンメトリックな構造が全く無い「Raga:Kafi」は、「長調的と短調的の対比」によって表現される二面性を持っています。

これらから自然に考えられることは、前者は、人間の情感から離れた建造物のような構造美であり、後者は逆に、人間の「本音と立て前」のようなものと考えることが出来ます。前者は、一説にはインド宮廷音楽の創世記にアラブ音楽の中心地のひとつであった「Yemen」から伝わったとも、イメージしたとも言われ、後者は、「春のRaga」として有名ですが、インドでは「春」は「正月」であり、賑わいとその中でひた隠された不安と悲しみを表現するという解釈があります。Kafiの字義は「満たされる」なので、矛盾するようですが。

Kafiの具体例では、花柳界の歌姫が歌う時には、「恋愛の二面性」すなわち、浮き浮きとした希望に満ちた情感と、破局や嫉妬に苛まれる苦しみの両極端を表現し、同じ「両極端、二面性」でも、上記の神々の「二元性」とは次元が異なるのです。Kafiのそれは「本音と立て前」のようなものですが、神々のそれは「本音が二元的」なのですから。

また、神々に因んだRagaの多くが「五音音階」しばしば「六音音階」であるという共通性があります。以前「七音音階」を「Sampurna(完全な)」と説明しましたが、対比して「不完全な」音階を用いるところが、言わば「超人的」と言えるのかもしれません。
前回述べました「Raga:Durga」も、「ドレファソラド」の「五音音階」ですが、「レからファ」「ラからド」の幅のある音程を見事に取るためには、かなりの修行が求められます。
逆に、人間的な情感の揺れに呼応するRagaでは、「ラからド」の間に、「シ♮とシ♭」のふたつの「シ」を持たせ使い分けたりしますが、このことから考えても、「五音音階」および「六音音階」は、少なくともインド音楽においては超人的な性質があるのでしょう。

(文章:若林 忠宏

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28、Shivaと音楽

Shiva Statue in Murudeshwar, Karnataka, India.

ヒンドゥー教の二大勢力とも言える、Shiva系(の神々や信仰、宗派閥)とVishnu系とでは、庶民文化および音楽、伝統芸能においては圧倒的にVishnu系が優勢と思われます。それはひとえに、「創造と破壊の神Shiva」よりも「その間の維持の神Vishnu」の方が庶民生活に身近であるからと考えられます。
言い換えれば、より厳格なもの、厳しいもの、高貴高尚なものには、Sihva系のイメージの方が相応しいという、庶民感覚もあるわけです。

実際、Shivaをテーマにした演目や「Raga(ラーガ/旋法)」は、Vishnu関連の神々をテーマにしたり因んだ演目より重たいものがほとんどで、おそらくそのような観念が大分失われた今日でさえ、Shiva系の演目をVishnu系の演目よりも重きを置いた位置に演じるということは誰もしないのではないかと思われます。

インド音楽を聴き慣れない日本人の耳には、例外的に「軽やかに聴こえる」と思われるのが「Raga:Shivaranjani(シヴァランジャーニ)」ですが、それでさえも、演奏会のアンコールや、Vishnu系Ragaの後に演奏する人は、今でも居ないと思われます。これは、そのようなしがらみに無縁のはずのイスラム教徒の演奏家でも同様であるところがインドの不思議なところでもあります。Raga:Shivaranjaniは、日本の唱歌に多用される「四七抜調」を短調にしたような五音音階を用います。

私の師匠は、イスラム教徒でありながら、「Raga:Durga」を得意としていました。ご存知Durgaは、Shivaの妃Parvatiの化身とも言われる女神ですが、師匠にとっては関係無いはずです。しかもその音階は、日本人の耳にもとても親しみを感じさせます(なんと「炭坑節」と同じ音階です)。
しかし、師匠は、Raga:Durgaを常に渾身の想いで奏でていました。ヒンドゥーの女神を知らず、イメージせずとも、温かく柔らかい旋律であるにもかかわらず、「Raga音楽」の巨匠にとって「Raga:Durga」は、決して軽くも親しみ易くもないのです。これこそ、「Raga」の真髄の奥深さを物語り、イスラム宮廷古典音楽になって数百年経った後、イスラム教徒の演奏家にさえも継承される「科学音楽」の「科学性」ではないでしょうか。

例外が、「Raga:Bhairavi」で、フラメンコ旋法のひとつや、西洋人にも「オリエンタル・マイナー」として親しまれたアラブ・トルコ古典音楽で多用される旋法(マカーム)と類似する、切なさ、もの哀しさ、柔らかさを感じさせる音階を用います。
ヒンドゥー神としての「Bhairavi」は、一説にはShivaの従者のひとりとも、Shivaそのものの別名とも言われる「Bhairaw」の妃、即ち、Durga同様Parvati系列の女神で、多くの場合、Durgaよりも凶暴でおどろおどろしく描かれます。
ところが、中世花柳界の叙情詩でひじょうに流行し、あまりに多くの艶っぽい名曲が継承され、既に19世紀頃にはヒンドゥー教徒の音楽家でさえも「重い曲」のイメージは失っていた様子です。なので、演奏会の最期のデザートのような位置づけで演じられるほどポピュラーなRagaとなっています。
もっとも、Raga:Bhairaviにも、二三の異なる解釈や表現法があり、演奏会のラストに演じられるスタイルではない二三種は、少なくとも録音では、この30年新たなものを聴いたことが無いほど、本来は難しいRagaなのですが。

(文章:若林 忠宏

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27、Krishnaと音楽

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ヒンドゥー教の「三大神」と言えば、Brahman、Shiva、Vishnuですが、Brahmanは、ヒンドゥー教成立以前のBrahman教の名残も感じられ、言わば象徴的な感じがします。対してShivaとVishnuは、二大派閥を形成し、しばしば互いに争ったりしたほどの確執があり。古典音楽の歴史にも、この派閥勢力の浮き沈み、交代劇に大きく影響された様子は多く見られます。かと思うと、私の師匠や、知り合ったインド人の多くがニュートラルな感覚で、「どちらも信仰しているが、強いて言えばこちら」のような人が多いような印象を受けます。それと同時に、そんな感覚の庶民にとっては、「創造と破壊の神Shiva」よりは、「その間の維持のVishnu」の方が、とっつき易く、ありがたい、という感覚もあるように感じました。

実際、科学音楽から発展した古典音楽の「Raga(ラーガ/旋法)」でも、Vishnu関連の名を持つRagaが、Shiva関連を圧倒しています。
とりわけVishnuの化身のひとつである、ご存知「Krishna(クリシュナ)」は、様々な「Bhajan」「Kirtan」などのテーマに多く取り上げられています。

KrishnaをテーマにしたBhajanの面白い性質が、例外的にBeatlesのジョージ・ハリソンが後援したインド人教祖がアメリカで興した新興宗教の讃歌を除き、ほぼ全てにおいて、「Krishna」の名が歌に出て来ないということです。
これは、Bhajan創世記における迫害や不理解への対処のみならず、日本の歌舞伎役者も昔は本名(芸名)で呼ばずあだ名(愛称)で呼ぶのがむしろ礼儀であったのと同じようなものが伺えます。事実インド古典音楽では、あだ名的なタイトルが同じ様に礼儀として本名に優先されました。

かつて世界各地で、聖なるものや高貴なもの、偉大なものと、虐げられた卑しいもの、禁忌なものには、同じように「あだ名、蔑称、愛称、タイトル、称号、隠語、」が着けられる不思議な共通性がありました。
その共通の感覚を強いて説くならば、「非日常であり非凡である」とか、「共同体において異端である」という感覚の為せる技であろうと考えられます。
そのような、「善し悪し」や「尊蔑、上下」が不明瞭に、しばしばまるで同義同質であるかのように、普通に行われることが多いのもインドの大きな特徴ではないか、と痛感することが多くあります。

BhajanやKirtanなどの歌詞がある音楽では、知る人ぞ知る「Krishnaの別名やあだ名、愛称」によって、Krishnaに捧げる歌であることが分かりますが、歌詞の無い古典器楽や、歌詞があってもほんの数行の古典声楽では、「あだ名、愛称」以上の理解と知識がないとKrishnaがテーマであることは分からないかもしれません。
そんな少しマニアックなキイワードが「河渡り、悪戯、揺れる、ブランコ、彩り、森」などです。
例えば、「Raga(ラーガ/旋法)」のひとつ「Hindol(ヒンドール)」の字義は、「揺らす」ですが、Krishna信仰の音楽家にとっては、Krshnaが幼少期のみならず、乳搾りの娘Gopiたちと戯れる少年期、Radhaとラヴストーリーを繰り広げる青年期に至るまでこよなく愛したブランコ遊びをイメージします。なので、旋律が揺れる様子も、イメージが異なる音楽家とは多分に変わってくるはずです。
他にも、古典声楽の主題の一節「さあ!起きなさい、何時迄寝ているんですか!」などは、知らない人、無関心な人には、「つまらない歌詞だ」と思われるかもしれませんが、Krishna信仰の声楽家にとっては、Krishnaの養母Yashodaの台詞として理解されるだろう、ということです。

(文章:若林 忠宏

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