宇宙の律動 「ターラ」の小節構造

Man playing on traditional Indian tabla drums at sunset tropic background

インド科学音楽、および、それを基にして発展したインド古典音楽のリズム「Tala」は、幾つかの「小節」が足し算的に加算された「付加リズム」構造を持っています。例えば、「4+4+4+4の16拍子」や「3+3+3+3の12拍子」は、四つの小節の全てが同じ4拍を持っている均一な構造ですが、「3+2+2の7拍子」は、二小節目と三小節目は同じですが、一小節目は異なります。また、「2+3+2+3の10拍子」は、二分すると、前後は同じ構造を持っています。
では、この構造は、具体的にどのように耳に聞こえてくるのでしょうか?
インド映画主題歌で、軽音楽の名歌手Pankaj Malikが歌った(古いですが)有名な7拍子の曲があります。(You Tubeにも上がっています) 歌詞も形式も、中世の献身歌「Bhajan(バジャン)」の様式で、「貴方のお寺の灯火に導かれて,,,,,,,,」のようなことを歌っています。
冒頭の歌詞は、

Tere Mandir Ka Hoon Deepak Jal Raha ですが、「3+2+2の7拍子」に合わせると、以下のようになります。

Teーre/Ma n/di r/Kaー Hoon/De e/pa k/Ja l Ra/haー/ーー

もちろん、この同じ歌詞を10拍子、16拍子で歌うことも可能です。私は、このターラや7拍子の説明の際、Beatlesの「Let it be」を、インド太鼓を叩きながら7拍子で歌ったりします。私に染み付いたインド音楽の感覚では、あの曲の歌詞は、7拍子の方がしっくり来るのです。このように、歌詞とターラには、「こうでなくてはならない」という原則はありませんが、「似合う」という感覚は、インド音楽やターラを良く理解すれば、なんとなく存在するものです。

では、実際このリズムをどのように感じて歌うのか? これこそが、インド音楽独特な感覚であり、リズムを「ターラ」と言うことの原点です。
西洋音楽やポップスの場合、ほとんどが四拍子ですから、四拍か二拍に手拍子を入れたり、足踏みをして「ノル」ことが出来ますが、インドのターラの場合、均一でない小節をどう感じ表現するのか? それがターラの字義である「手拍子」のシステムです。手拍子は、各小節の頭の拍で、打たれ(もしくは手のひらを返す)ます。
「4+4+4+4の16拍子」と「2+3+2+3の10拍子」は、手拍子で「打つ、打つ、返す、打つ」と打たれます。

この「手のひらを返す」という動作は、殺生ですから不謹慎な喩えですが、蚊を叩いた後、「仕留めたか?」を手のひらを広げて見るような動作です。
私は、このシステムを中学二年生の時に当時日本で唯一のインド音楽の本で読み、今では笑い話のとんでもない誤解をしていました。
インドに長く駐在した、音楽愛好家のキリスト教宣教師が書いたものを日本人の音楽家が翻訳したものでした。私はその翻訳家の先生には大変お世話になったのですが、先生もこの訳では苦労されたのでしょう。「手を振る」と原典にあれば、そう訳すしかないのです。なので、中学生だった私は手製シタールを弾きながら、親友に手製タブラ(太鼓)を叩いてもらって、二人で、その拍で「手を振って」練習したのでした。
16拍子ですと、9拍目に来ると、二人で演奏を中断して手を振る。「ほんとうか?」と言いながら。

ほどなく、どのレコードを聴いても、音に途切れが無いことに気づき、演奏中に頻繁に「手を振る」ことはやめる訳ですが、本に書かれたその言葉の意味はしばらく分かりませんでした。
実際は、動作としての「Tal」は、北インドではターラを学ぶ時にのみなされ、演奏中には行いません。南インドでも演奏者は行いませんが、聴衆の多くが正しくターラを叩いたり、専門の手拍子役が舞台に上がっていたりします。この南北の異なりは、即興演奏の重要度と楽曲の複雑さのせいですが、いずれお話することとなると思います。

(文章:若林 忠宏

‥…‥…‥…‥…‥…‥…‥…‥…‥…‥…‥…‥…‥…‥…‥…‥…‥…‥
若林忠宏氏によるオリジナル・ヨーガミュージック製作(デモ音源申込み)
‥…‥…‥…‥…‥…‥…‥…‥…‥…‥…‥…‥…‥…‥…‥…‥…‥…‥

宇宙の律動 「ターラ」の分割構造

Tabla drum Indian classical music instrument close up

インド科学音楽、および、それを基礎にした後世から今日に至るインド古典音楽のリズム「Tala(ターラ)」のふたつめの重要な要素「付加リズム」は、平たく言えば「足し算リズム」というもので、リズムサイクルが、拍数の塊を足して作られた構造を持っているというものです。

例えば、日本の唱歌「チューリップ」や「もみじ」のような、四分の四拍子が四小節でひとまとまりのリズムをインド科学音楽のリズムサイクルで解釈すると、「4+4+4+4」の16拍子ということになります。唱歌「さくら」は、一行目が「4+4+4+4」なのに、二行目が「4+4」で終ってしまっている。これはインド科学音楽から見れば、極めて「非科学的」なのです。もし正すならば、「4+4+4+4」+「4+4」の24拍子として、常に厳守せねばなりません。

この「付加リズム」も、オリエントに共通し、ひいては北アフリカ、西アフリカ、カリブ海に共通します。しかし、カリブ海では、もっぱら「4+4」か「3+3」の二種類で、オリエントでも、「4+4」「3+3」「3+2+2+3」の10拍子、が良く演奏される曲の80%を占めます。しかし、理論的には、とりわけオスマントルコ宮廷音楽では、数曲しか演奏されないリズムパターンを多く含み、百数十種あると言われて居ます。

ところが、インド科学音楽では、数百種あるのです。

一説には、「4拍子から0.5拍刻みで108拍子まである」と言われます。つまり、4拍子、4.5拍子、5拍子、5,5拍子………….107.5拍子、108拍子ということです。108が「おしまい」なのは、流石に仏教を生んだ国です。

4拍子が最少なのは、3拍子は二分したとしても「1,5拍の2小節」では、音楽が作り得ないという、突然非論理的で現実的な考えからのようです。4拍子は、ぎりぎり「2+2」で作り得るのだそうです。

しかし実際は、ある程度の長さを持たせたもの、かつ長過ぎないものが多く起用されています。例えば、「3+2+2の7拍子」「4+4の8拍子」「4+3+2の9拍子」「2+3+2+3の10拍子」「4+4+1.5+1.5の11拍子」「3+3+3+3の12拍子」「4+4+4+4の16拍子」などが群を抜いて多用されています。

これらは、「重たいターラ」と「軽いターラ」に二分されています。その根拠は、各拍の塊は、「小節」のような感覚で「Vibhag(ヴィバーグ)」と呼ばれますが、「Vibhag」の拍数が多い方、全体の拍数が多い方がより「重い」であり、更に全体が均一に二分できることも「重たい」の重要な条件です。

故に、10拍子、12拍子、16拍子は、真ん中で二分できますから、重たいと言えます。8拍子も二分できますが、各「Vibhag」の拍数はまだしも、全体が短か過ぎます。

例外的に、7拍子が古典音楽に多用されているのは、実は、より古くは、倍の長さの「3+4+3+4の14拍子」を、洒落で半分のところでループして生まれ、一時大流行したからであると考えられます。

この7拍子は、中世インド・イスラム宮廷音楽の担い手に多く含まれていたアフガン人楽師の故郷の民謡に多く、西アジアから東欧に掛けても人気のリズムなので、それにあやかりつつ、古典音楽の要素を持たせたターラであるかも知れません。しかし、古典音楽で多用されても、やはり「重たいターラ」とは、言えない訳です。

この「重たい、軽い」を簡単に説明しますと、まず「重い曲」というのは、厳格で難しい楽曲様式を用い、難しいRagaを用い、意味深い歌詞を持つものであり、「軽い曲」はその逆であるわけです。何度か申し上げましたが、インド科学音楽、およびそれを基礎としたインド古典音楽は、非常に周到な論理的探究を行う一方で、具体的な実演では、突然現実的な感覚になるのです。しかし、これも何度も申しましたが、「論理的、科学的考察」によって「森全体を把握」したからこそ、現実論に専念できるわけなのです。

(文章:若林 忠宏

‥…‥…‥…‥…‥…‥…‥…‥…‥…‥…‥…‥…‥…‥…‥…‥…‥…‥
若林忠宏氏によるオリジナル・ヨーガミュージック製作(デモ音源申込み)
‥…‥…‥…‥…‥…‥…‥…‥…‥…‥…‥…‥…‥…‥…‥…‥…‥…‥

宇宙の律動 「ターラ」のリズムサイクル

Drummer

インド科学音楽のリズムは、「Tala(ターラ)」と呼ばれます。科学音楽は、「Raga(ラーガ)」と「Tala」と「演奏法」の三本柱で構築されており、「Tala」の規則性は、「Raga」にも増して厳格であり、科学音楽の「科学」たる性格を強力に示しています。

「Tala」の字義は、「手拍子」です。今日でさえ、この「Tala」の規則を教え教わる時には、師匠も弟子も「手拍子」でそれを学びますが、インド科学音楽の場合、宴会のお囃子やコンサートの聴衆がするような単なる手拍子ではなく、規則に則ったもので、「手を打つ」だけでなく「手のひらを返す」も重要な所作となっています。これも理論的に厳格なインド科学音楽ならではのことで、そのような例は世界に他にみることはありません。「所作」という意味において、ヨガや、舞踊・演劇の「Mudra(ムドラー)」に通じる感覚が感じられます。

「Tala」の規則には、「リズムサイクル」という形態を厳守する、「付加リズム」である、「太鼓の基本パターンの規則が厳格」である、という三っつの大きな特徴的な要素があります。

「リズムサイクル」とは、一定の拍数のサイクルを曲の最中ずっと継続し、決して合間、空白を持たせない手法で、ペルシア,アラブ、トルコ音楽(オリエント音楽三兄弟)とフラメンコ音楽、西アフリカ音楽などに見られます。オリエントの音楽に見られるのは、インドとも関係が深かったヘレニズム時代に共有した概念であることを示唆しますが、古代ギリシアではさほど厳格に守られず、後の西洋音楽でもほとんど重視されていません。
それに対して、北アフリカから西アフリカにかけてのイスラム文化圏では、近年日本でもファンの多いギニア、マリなどの太鼓「Jembe(ジェンベ)」の音楽でさえ「リズムサイクル」は厳格に守られています。また、イスラム王朝時代のスペインも同様ですが、やはりピレネー山脈を越えて西欧にまでは普及しなかったようです。

インドを故郷とし、シルクロードを旅し東欧そしてスペインに至った「ジプシー」のスペインでの音楽であるフラメンコにあるのは、言わば当然と言えましょう。
同様に、西アフリカの人々が奴隷として連行されたカリブ海で、スペインの支配を受けた後に生まれたカリブ海のラテン系音楽にもリズムサイクルが厳守されているのも当然と言えます。
フラメンコでは、リズムサイクルを「コンパス」と呼び、如何に超越技巧が見事でも聴衆の喝采が大きくても、「コンパス」が甘いと玄人からは酷評を受けます。同様に、キューバ音楽では、拍子木「Claves(クラヴェス)」で叩く「Clave(クラーヴェ)」と呼ばれるリズムパターンで2小節単位のサイクルが厳守され、何らかのブレイク(空白)があっても、その間にも頭の中でクラーヴェが鳴っているかのように厳守され、それを間違えることは決して許されません。

実は、世界の音楽は、とりたてて「リズムサイクル」の概念を持たずとも、大概そのようにはなっているのです。日本の唱歌でさえも、例えば、「チューリップ」や「もみじ」なども、「四分の四拍子四小節単位」で出来ています。つまり、この「リズムサイクルの感覚」は、世界的に共通する人間の本能的なものであると言えるのです。
しかし、唱歌「さくら」は、四小節で一行歌われた後、二行目は二小説しかありません。そして、これを例外とか、逸脱したものであるという認識はありませんし、リズムサイクルを厳守している「チューリップ」や「もみじ」にも、その規則性を示す言葉はありません。言わば「自然にそうなった」であり、悪く言えば「たまたま」ということです。

日本の唱歌や西洋音楽の「たまたま」に比べれば、オリエント、西アフリカ、カリブの「リズムサイクル」はかなり厳格と言えます。しかしそれでも例外が全くないわけではありません。また、規則があるところには、ごく稀であっても、必ず「違反」がある種のアンチテーゼ、遊び、洒落として生まれます。洒落の場合「○○崩し」などと言ったりします。

ところが、インド科学音楽~古典音楽では、それらは一切許されません。インド以外の地域のリズムサイクルは、「人間が作り出したもの=社会的な規則」であるから、意図的な逆説もあり得るのでしょう。逆に言えば、その様な反骨もまた、人間の人間らしい姿と言えますし、社会に属しながらもちょっとふてくされた様子は、いつの時代でも「何か格好良い」と思われたようです。

ところが、インドのそれは人間が作り出したものではなく「宇宙の摂理」なのです。大げさに言えばそれに背くということは、その人間は「宇宙に存在しない」ということであり、自らで存在を否定する行為なのです。勿論人間ですから間違いはありますが、あくまでも間違いと思うから許されるのであって、「格好付け」は完全に否定されるわけです。と言いますか、人間社会が許そうとも、これこそ「天罰が下るだろう」という感覚なのでしょう。

現代でもインド古典音楽のコンサートでは、数時間の名演奏が行われ、演奏中にも盛大な拍手や喝采が起き上がっても、もし、最後の曲の最後でリズムサイクルを間違えでもしようものならば、全ての聴衆は「あーあ」の表情で、拍手もせずに退場してしまうのが本来の姿です。

(文章:若林 忠宏

‥…‥…‥…‥…‥…‥…‥…‥…‥…‥…‥…‥…‥…‥…‥…‥…‥…‥
若林忠宏氏によるオリジナル・ヨーガミュージック製作(デモ音源申込み)
‥…‥…‥…‥…‥…‥…‥…‥…‥…‥…‥…‥…‥…‥…‥…‥…‥…‥

ラーガとラーギニ

Indian sitar

古代インド科学音楽は、「旋法」に様々な個性を持たせてゆくうちに、「旋法』自体の命と存在感を深く知るようになったのだろうと思われます。そうして5~9世紀の間に、「Raga(ラーガ)」という呼称と概念が確立しました。そして、「Raga」の三つの立場、意味も確立しました。それは、「人間の心と体のため」「Ragaの精霊のため」「天上との交信のため」でした。
しかし、時代とともに、これらの感覚は薄れていってしまいました。「Ragaの概念」が確立してから100年150年で、イスラム勢力の支配を受けたことも大きな要因ではありますが、人間が次第に自分本位に偏り、音楽を自らが楽しむだけのものとしていったことや、唯物主義に偏り、「Ragaの精霊」を感じる感覚が薄れたということもあるのではないでしょうか。

これらに関しての根本的な問題は、文献があまりに少ないことです。もちろん「タントラ」の奥義は、簡単に他者が読めるようなものに記すことはなかったはずですが、それにしても少な過ぎるのです。
音楽に関する記述は、成立年に1300年もの諸説の開きがあり(おそらく4,5世紀でしょうが)、その間の唯一の文献である有名な舞踊書「Natiya-Shastra(ナーティヤ・シャストラ)」と、その後の唯一の文献が9世紀頃と言われる、様々な芸術を語った「Brhad-Desh(ブルハッデーシ)」にあると言われています。「Raga」の記述は、後者で初めて見られる程度なのです。
古代インド科学音楽にとって、最も重要な、しかも2000年近い年月の間に、専門の文献どころか記述が見られるものでさえ二冊しか発見されていない。しかも、「Raga」の名が登場してから100年足らずで、科学音楽は、イスラム宮廷古典音楽に吸収されてしまうのです。奥義の伝統は、全て時の音楽家の知識と精進と意識に委ねられていたということなのです。
もっとも、イスラム勢力がほぼ全インドを支配した後も、ヒンドゥー文化が残されていた地域は少なくありません。例えば、聖地ベナレスは、ヒンドゥーの聖地として温存されましたし、ラージプート(今日のラージャスターン州およびグジャラート州)は、イスラム帝国と友好条約を結び独立ヒンドゥー藩王国として存在していました。

10世紀以前の「Raga」について、その擬人化の最たるものが、「Ragaの家族」でありましょう。「Raga」には、その妻「Ragini」が考えられ、更には息子「Putra(プトラ)」まで考えられたのです。有名なところでは、シヴァ神の別名とも、従者とも言われる「Bhairaw(バイラヴ)神」に因んだ「Raga:Bhairaw」のラーギニは、「Raga:Bhairavi(バイラヴィ)」で、用いる音も、特徴的な音の動きもかなり異なるのですが、ヒンドゥー教的には明らかに夫婦であり、共に「朝に演奏する」と定められた「Raga」の代表格です。
この「Ragaの家族」という分類システムが誕生したのには音楽的な事情がふたつありました。ひとつは、新たな「Raga」が大量に考案されたことであり、もうひとつが、それを分類整理する必要に駆られたことです。

しかし、この「Ragaの家族」の分類システムも、イスラム宮廷音楽時代になったことに加え、あまりに多量に新しいRagaが創作されたため、「一夫多妻制」にしても「子だくさん」にしても追いつかなくなったという事情もあって、程なく廃れてしまいました。なので、今日では、「Bhairavi」を「Ragini:Bhairavi」と言う人も記す人も居ません。
それでも私の師匠たちの世代のヒンドゥー教徒音楽家にとっては、Ragaの性別は、Ragaの理解と表現には大きな助けになり、弟子に教える時に、「Raga」であるか「Ragini」であるかを正しく教える人も居ました。

私のように実際にインド音楽を演奏し教える立場の人間のみならず、聴いて楽しむ人々、さらに踏み込んでインド音楽の科学に触れたいと思う人は、「Ragaの家族」という感覚に現れている、擬人化、といいますか、「Raga」自体が持って居る生命力のようなものを感じれる意識や感性は大切であると理解していただければ幸いです。唯物主義の世の中が変貌するかも知れないこれからの時代には、むしろ必要なことではないでしょうか。

(文章:若林 忠宏

‥…‥…‥…‥…‥…‥…‥…‥…‥…‥…‥…‥…‥…‥…‥…‥…‥…‥
若林忠宏氏によるオリジナル・ヨーガミュージック製作(デモ音源申込み)
‥…‥…‥…‥…‥…‥…‥…‥…‥…‥…‥…‥…‥…‥…‥…‥…‥…‥

旋法からラーガ(彩り)へ

Kerze und Harmonium

古代インド科学音楽では、オクターブを22〜12の微分音(Shrti/シュルティ)に分割させた後、それらから順列組み合わせ的な方法によって、多くの音階「Jati(ジャーティー)」を見出し、それに主音や副主音、さらには「開始音」「終始音」などを定めて「独立した個性を持つ音階」を編み出しました。これは最早「音階」を越えていますが、しばらくは「Jati」の呼称が続いていたようです。

実は、ある程度同様のことは世界中の音楽にみることができます。私は、このことをレクチャーコンサートで説明するとき、日本の唱歌「赤とんぼ」と「海」を例に挙げます。いずれも同じ音階ですが、全く異なる音の動きと、それによって確立した雰囲気を持っています。その音の動きを象徴的に導いているのが主音です。
古代インド科学音楽のある流派では、主音、副主音、開始音、終始音および音の動きの特徴を定めたものに、音階を意味した古い名称「Murchchana(ムールッチャナー)」を持ち出したりもしました。
ある意味これは、とても理に叶った考え方で、基本の音階を「Jati」とし、「約束事を付加した音階」というような意味、すなわち「旋法」という意味で「Murchchana」としたものです。もちろん、既に「旋法」の語が使われている古代ギリシア・ローマの「教会旋法」は、単なる「音階」に過ぎませんので区別すべきです。

恐らく、この「Murchchana」の演奏で数百年が経ったのでしょう。その段階では、「約束事を付加したJati」の感覚が踏襲されていたと考えられます。つまり「Jati」ありきの上に「Murchchana」が派生したという感覚です。
しかし、紀元前後から10世紀までの間に、インド科学音楽は、急速に発展し、個々の「Murchchana」には、次々新たな「音の動き」の良いアイディアが加えられました。
そうしているうちに、「ふっ」とある考えが浮かんだようなのです。と言いますか、大きな発想の転換が行われたと考えられるのです。このことはインド現地の研究者も語ってはいませんが、画期的な変化なのです。

それは、「Jati」に色々な約束事を加味して「Muruchchana」を創作したはずなのに、その個性を逸脱しないように、あらたな約束事を加えて行くうちに、「個性は既に存在していたのではないか?」と気づいた訳です。人間が創った「旋法」だと思っていたが、実は既に存在しているものを、人間があれこれ時間を掛けてやっとそれに気づいたのだという、「精霊」のような「旋法」の存在です。
それに気づいてからは、急速にその探究が進み、「この音の動きもこの旋法の本質を表しているに違いない」と次々に定型が加えられたのです。

そして、この発展時期に、「旋法」の名前も、「Murchchana」から「Raga(ラーガ)」に改められました。「Raga」とは、元々は「Rag(心を揺り動かす)・Rang(彩る)」という熟語を略したもので、この時期に、「旋法」の音の動きは、人間の心を大きく揺さぶり、また彩ると強く実感していたのでしょう。もちろん「アーユルヴェーダ(の中の音楽療法)」における実践も盛んに行われていたに違いありません。

肝腎なことは、この時期に、「旋法:Raga」は、三つの立場に分かれたということです。ひとつは、人間に聴かせ、心を彩ったり、様々な心と体の治療に活用できる「音の薬」としての「旋法:Raga」、言わば「人間本意」「人間の為の」ものです。ふたつめは、これと全く逆に、卓越した音楽家は更に精進を重ね、実演の度に「Ragaの本質」に迫ろうとする姿勢が重んじられた、言わば「Raga本意」のものです。みっつめは、正しく実演した「旋法:Raga」は、正しく天上・宇宙と交信できたはずでありますから、天上の音楽家、楽師、さらには神々とのコミュニケーションに繋がるはずだ、という考えです。

(文章:若林 忠宏

‥…‥…‥…‥…‥…‥…‥…‥…‥…‥…‥…‥…‥…‥…‥…‥…‥…‥
若林忠宏氏によるオリジナル・ヨーガミュージック製作(デモ音源申込み)
‥…‥…‥…‥…‥…‥…‥…‥…‥…‥…‥…‥…‥…‥…‥…‥…‥…‥

7音から音階、そして旋法へ

Sri Maha Mariaman Hindu Temple

古代インド科学音楽の7音と、オクターブを22音、後世ではほぼ12の半音に分けて得られた楽音「Swar(スワル)」は、そのまま全てを用いて音楽を実演したわけではありません。12~22音からサレガマの7音、やや後世では、5音、6音用いる「音階」を見出しました。

同じことは、古代ギリシアおよび古代ペルシアでも行われていました。古代ギリシアのそれは、後継である古代ローマにおいてキリスト教会でさらに整理され、「モード(旋法)」と呼ばれましたが、これのおかげでインド旋法の説明が面倒になりました。何故ならば、ギリシア・ローマのそれは、単なる「音階」に過ぎないのに「旋法」と呼んでしまったからです。
ギリシア・ローマのそれは、7音(後世では12の半音の全て)を開始音にした音階群で、7(12)種あり、古代の地名や民族名で名付けました。ドから始まればいわゆる「ハ長調」ですが、同じ音を用いながらも、レから始めれば、いわゆる「ニ短調」が得られます。
ところが、同じことを古代インドでも行ったのですが、インドではほどなく、全ての「音階」は、ド(Sadaj)から始めることが定着しました。それは当然です。始まりは「OM」でなくてはならないからです。

「ほどなく」と述べたのは、22音に分割していた頃、その割り切れない音律を考慮してか、ドからの他にも、異なる配分によるファから(後にミからも)の音階グループ「Grama(グラーマ)」を考案し、それぞれの各7音から始まる様々な「音階(Murchchana/ムールッチャナー)」を考案した時代があったからです。
要するにミもファも、ヴェーダの音としては「OMのSadaj」に次ぐ意味深い音であったということなのですが、廃れてしまった上に、かなりややっこしいので、説明を割愛します。いずれにしても現存するインド最古の音楽書が著された紀元後から10世紀までの時代では、既にほぼ12音律で、様々な「音階」はいずれもド(Sadaj)から発して考案されていました。そして、この音律理論が今日まで継承されています。

この「音階群」の考案、作り方は、実にインド的であり、「科学音楽」たる所以であります。それは、12の半音から7音を作り出すのに、順列組み合わせという数学を用いたからです。実際は、物理的に得られる倍音であり属音である「ソ(Pancham)」は、「ド(Sadaj)」と同様に重要で、「不変音(Akal-Swar)」とされますから、順列組み合わせは、ドの次にレ♭かレ♮、次がミ♭かミ♮、次はファ♮かファ#、そしてソ、その後は、ラ♭かラ♮、シ♭かシ♮という風に考えていったのです。

こうして生まれた「音階」は、単純に作られたものだけでも既に32種もあり、古代ギリシア・ローマの7(12)種を遥かに上回っていました。古代ペルシアは、ある程度インドに似た発想で作りましたが、よろずを天文に準えたため、「7種の基本音階(週の七日にちなむ)」「12の派生音階(年の12月にちなむ)」で、合計しても19種でインドの数には及びません。
実際のインドの32種の中には、誰が聴いても美しくないものもあったでしょうし、ほとんど演奏されない「机上の音階」もあったのですが、まずは論理的に考えて作り出してしまうという辺りがいかにもインド的であり、科学的(論理的)であると言えます。

しかし、この段階では、まだ「音階」に過ぎないのですが、インド科学音楽の研究者(僧侶)たちは、同じ「音階」の中に、主音が異なることで全く異なる「雰囲気」を醸し出す複数の「もの」を考案したのです。「音階」は同じですから「異なる音階」とは言えなくなります。そこで「旋法」という概念が構築されたわけです。流石にこれは、7音の全てに主音を移動させるような数学的創作はしなかった様ですが、理論的には有り得ることで、もし考案した場合、その総数は、384種になってしまいます。
ところがほどなく、主音の他に、副主音を考えてしまったので、7音の全てに移動せずとも、数百種は出来上がってしまったのです。

(文章:若林 忠宏

音と色そのものも生きている

古代インド科学音楽と、アーユルヴェーダやヨーガと共通する科学「タントラ」では、私たちが直接的に実感できるものの他に、非直接(非実感)的に体や心に働きかけるものを説いています。ですが、その他にも知り考えるべきことがあります。それは、音や色には、それぞれの立場や主観があるということです。

ご存知のように、ヒンドゥー教には、その他の有名な宗教のような教祖は存在しません。これは、自然に生まれたアニミズム信仰を豊富に取り込んでいるからに他なりません。そして膨大な年月の経験と、驚異的な叡智による探究によって、「ヴェーダ」や「ウパニシャッド」や「タントラ」などの科学を見出したわけです。

アニミズムと言えば「物皆神が宿る」という言葉をよく聞きますが、インド・ヒンドゥー文化には、まさにそのような感覚が豊富にあり、生命体でないものの「擬人化」にも頻繁に出会うことがあります。

私たちは、インド科学音楽を理解したり、アーユルヴェーダが説く「音楽療法」の助けを求めたりしようと思うとき。もちろんヨーガでも瞑想でも同じですが。直接的に実感するものの他に、非直接(非実感)的に体や心に働きかけるものがあることも知り考えるべきであると述べました。これは言わば、日常的に様々な物事を自覚している「私・自分」の他に、感覚的には自覚できないけれど、確かに存在する「もうひとりの私・自分」が居ると考えるようなものです。

しかし、いずれにしても、常に「自分」が受け手という意味の「自己中心的」な発想ではあります。

古代インド科学音楽、アーユルヴェーダ、ヨーガの科学「タントラ」は、「人間本意の科学」「人間のためだけの科学」ではありません。森羅万象、森を探究した結果の科学です。
なので、人間以外の生き物はもちろん、石ころにも砂粒にも、そして音も色も味も図柄も、皆、それぞれに「命」があり、「生きている」存在であるという考え方があるわけです。

例えば「青」に対し多くの人間が清々しさや爽やかさを感じると思いますが、「青」自身にしてみれば、生命が出る処であるとともに、命が尽きて帰るところでもあるような性質で、人間のイメージよりは厳しい性質です。また多くの人間が「緑」に、息吹や安堵を抱くとしても、「緑」にしてみれば、生まれは、「青と黄の融合」であり、「黄」は、「大地」から生じたものであり、「枯れ」「乾き」を表すものでもあり、人間のイメージ「生の象徴」と一致はしますが、結果論ではないわけです。
音に関しても同様で、絶対音感があれば別ですが、人間は突然単音で聴かされても、美しいとも温かいとも厳しいとも感じませんが、サレガマの各音は、独立した個性と命を持った存在に他ならないのです。
実際、インドの神話や音楽の伝承には、音や色の「精霊」が現れるというものは少なくありません。

これらは、何れも人間本意の受け取りか方とは別に、色や音それ自体の存在理由や生い立ちや性質が確立されているということです。

例えば、サレガマの第二音「レシャヴ」は、色は緑ですが、人間に喩えると初老です。人間本意の感覚で「初老」と言われれば、「若干黄色に近いのでは?」「緑は少年か青年では?」と思ってしまいそうですが、人間本意の感覚で定められているのではなく、「緑」の性質と、7音の中の第二音の性質を見ているわけです。
ちなみに、この音と関係するチャクラは、主要チャクラの第二番目の「スワーディシュターナ」ですが、色は「朱色」で、元素は「水」で、水の元素の象徴である「三日月」も描かれます。ここでも「朱色と水」は、人間感覚では結びつかないでしょうし、7音の二番目の「レシャヴ」の緑とも異なります。
このように「タントラ」における色や音の概念は、色彩学の「同系色」とか「反対色」などの人間本意、人間感覚の概念では説明しきれない別な理由で定められているということも理解する必要があると思われます。

(文章:若林 忠宏

音と色のタントラの科学

Fotolia_17196736_Subscription_Monthly_M

古代インドの科学音楽の7音は、ヨーガが説く「七つの基本チャクラ」と符合しています。そして、チャクラが彩り豊かな蓮花で描かれるのと同じように、音楽の7音も、色との関連が説かれています。やはりこれも大きな基本が共通しているからに他なりません。それこそが、崇高で高度な理論(科学)である「タントラ」なのです。

科学音楽も、ヨーガも、もちろんアーユルヴェーダも、共通の「タントラ」を基にして発展し、その「タントラ」を、目には見えないけれど体に感じる、音、振動などで具現する「マントラ」、目に見える形や図柄や色で具現する「ヤントラ」を作り出しているわけですから、当然共通性は高いのです。アーユルヴェーダにおいては、薬草の色や味も、マントラ、ヤントラに匹敵する第四、第五の具現であったかもしれません。

しかし、私たちがこれを理解するためには、私たちが日常なにげに行っている「直接(実感)的な感覚、感性」と、「タントラ」が説く「形而上学的な感覚」「非直接(実感)的な効果」の根本的な違いを理解しなければなりません。それを分かり易く説明するには、アーユルヴェーダとも関連や類似が多い中医・漢方弁証論治と漢方薬や生薬、西洋生薬であるハーブの話しが役に立つと思われます。

例えば、漢方生薬の定番のひとつである「生姜(しょうきょう)」「乾姜(かんきょう)」などの生姜類の効果効能のひとつに「嘔吐止め」がありますが。これは、生姜の独特な味に人間が反応して、唾液が多く分泌され、連動して胃液、胆液が分泌され、胃腸の動きが活性化されるという仕組みですが、これは、生薬では比較的珍しい「直接(実感)的な薬効」の典型です。その他のほとんどの生薬やハーブの効果効能は、このような直接(実感)的なものではないのです。
例えば、循環器の働きを促す、「山査子、ホーソンベリー」などを舐めてみて、そのきな臭い味を満喫すれば「ああ、心臓が元気になってゆく」とは感じないはずです。同様に、フィトケミカル(植物性化学物質)で有名な「ケルセチン」の強烈な黄色を見たり、味見をしたところで「ああ、腸が元気になる!」とは実感できません。
言わば、私たちが実感できない世界、知らない世界で、生薬や味や色、そして音は、私たちの臓器や細胞、もちろん、チャクラやナーディ、そして、精神や心、魂に働きかけているわけです。

このように、「非直接(実感)的効果」は、確かに存在し、むしろこの方が、私たちが感覚、感性で自覚できることよりも、臓器や細胞に与える影響は圧倒的に多いはずです。逆に言うと、直接(実感)的効果の代表である「生姜」も、毎日たくさん摂っている人は「効きにくい」ということがありえます。
私たちは、日々生きて行く上で、自分の感覚、感性をあまりに過信し頼っていますが、それとは別なかたちで体や心に働きかけるものがあることを知る必要があるわけです。

もちろん、いくら私たちの感覚や感性がアテにならないものであるとしても、美味しく食べることや、楽しく聴くことは、消化やストレス緩和に役に立つことは言うまでもありません。つまり、「タントラ」の科学は、それをも見越してバランスを考えて具現し、私たちに与えてくれているのです。
例えばアーユルヴェーダの有名な生薬「Kalamegh(Andrographis/穿心蓮)」などは、単味でそのままでは、余程覚悟しないと飲めたものではありませんが、それを緩和させつつ、非直接(実感)的効能でも助けになる別の生薬を組み合わせたり、過度に胃液が分泌させることを防ぐ生薬を添加するなどの工夫をしてくれているわけです。

同様に、科学音楽の音も、同じ音ばかりが鳴り響いているわけではありません。逆に人間は、それに慣れてしまいますと、効果効能も薄れてしまいます。アーユルヴェーダや中医・漢方薬のように、様々な音をブレンドさせて、総合的に働きかける工夫を、数千年の経験から編み出しているのです。

このように、音も、色も、「赤を見ると興奮する」とか「緑や青は落ち着く」とか、「穏やかな気持ちになる音だ」などという「直接(実感)的な効果」ばかりでなく、「非直接(実感)的な効果」を、感じることは、難しくても考える必要があるわけです。

(文章:若林 忠宏)

古代インド音楽とチャクラの関係

Meditation time

「樹を見て森を観ない」という言葉がありますが、逆の言葉は何でしょうか? 仮に「樹に捕われず、常に森を観る、感じる」であるとしたら、昔気質のヒンドゥー音楽家は、まさにそれだと言えます。彼等は常に「森=宇宙」を感じながら音楽を奏でていたのです。
 ちなみに「樹を見て森を観ず」は、英語の諺の訳と言われていますが、仏教の言葉にもご存知「森羅万象」というものがあります。
 凡人がぼーっと空を眺めても何一つ無いように思う「宇宙」を、樹がおおい茂る壮大な森林に喩えた言葉でありますが、「森」を人間社会のサイズから遥かに越えて「宇宙」にまで広げて感じるのは、アジアならではの感覚なのかもしれません。

 この連載をお読み下さっている、インドのスピリチュアルの世界、ヒンドゥー教文化、そしてヨーガに関心の深い方々は、宗教、ヨーガなどの用語や考え方とインド科学音楽のそれに、色々な共通点があることにすでにお気づきのことでしょう。

 それらはいずれも、何かの仕組みを何かに転写させる基本的な考え方によって共通しています。例えばヨーガの場合、「宇宙」を人間の体や心に転写させ、いわゆる「小宇宙」をひとりの人間の中に見出します。同じように、中医・漢方医学の弁証論治や、古代ギリシアの「エートス論」、「アーユルヴェーダ」に含まれるインドの音楽療法などでも、「宇宙」や「地球」と「個々の人間の心と体」を転写させ、準えて説きます。 この発想こそ「樹に捕われず森を観る」そのものと言えます。

 言い換えれば、「一本の樹」の中に、「森、森羅万象、地球、宇宙」を観る訳ですが、「じゃあ、樹を見て森を観ずでも良いんじゃ?」とはならないところがミソです。森を知り、分かり、感じて樹を観るのと、そうでないのでは大きく変わって来るわけです。
 そうして、小さな世界から大きな世界を感じ展望すること。常に、それらは相関関係にあると理解し、感じていることが、ヨーガのみならず、インド音楽の理解にも欠かせないないのです。
 
 世界最古の「音楽療法」が含まれていると言われる、「アーユルヴェーダ」では、(と言ってもやはり諸派諸説ありますが) 音楽の「7音」は、主要の「七つのチャクラ」と符合します。そして、中世以降のインド音楽のオクターブの音「12の半音」は、アシュタンガ・ヨーガなどが説く「12のチャクラ」と符合します。「22の微分音」は、音楽の方でも廃れてしまっていますから、「アーユルヴェーダ」でも「ヨーガ」でも、同様に廃れてしまった「22のチャクラ」を説く学派もあったのかもしれません。
 数の一致にもまして驚くべき符合が、主要の「七つのチャクラ」と音楽の「7音」の順番までもが同じであることです。

 また、ヨーガで最も重要な用語である「プラーナ(気)」と、その通り道「ナーディ(気脈)」も古代インド科学音楽と共通の概念から生まれていると考えられます。

「Nadi(管)」は、音楽における「音」の原形、「Nada」と深い関わりを示唆しています。つまり、プラーナも、スワルも、宇宙の波動、「ナーダ」が、一方は人間の体の中に伝わり、同期、同調し、一方は、肉声や楽器の音に伝わり、同期、同調しているということなのです。
 故に、常に「森、宇宙」との繋がりを持つことで、インド科学音楽は、成り立ち力を持ち、ヨーガ同様に、人間の心や体とも深く関わることができるわけです。
 だからこそ、アーユルヴェーダの音楽療法の理論が確立し、実践で効果が見られるわけなのです。

 しかし、「アーユルヴェーダ」は、ヨーガや科学音楽よりも中世イスラム勢力のインド支配時代に大きな打撃を受けてしまい、今日まで正統的な伝統の全体像をもれなく継承しているところはほとんどありません。しかし、少なくとも昔気質のヒンドゥー教徒の音楽家は、常に「Swar」の大元の「Nada(ナーダ)」の概念を忘れることはありません。言い換えれば、常に自らを「受信器」として自覚しているのです。腕を上げるとつい「自分が発した音」であるなどと思ってしまう思い上がりを戒める為にもある言葉が、「Nada-Brahma(ナーダ・ブラフマ)」「音は神(のもの)である」というものです。「宇宙の波動」という意味と、「宇宙=神」という意味を合わせて「音は宇宙である」という解釈をする音楽家もいます。

(文章:若林 忠宏)

古代インド音楽の七つの階名

Fotolia_33181195_Subscription_Monthly_M

宇宙の波動を受信して得た「ナーダ」からオクターブの12〜22の微分音を含む、ドレミの7音が生まれた頃、これらの音は、「楽音」「Swar(スワル)」と呼ばれるようになりました。イスラム教徒の音楽家では口語で「Sur(スール)」と言うことの方が多いかもしれません。

ところで、当たり前のようで、良く良く考えると不思議なのは、22の音に分けながらも、基本の音は「7音」であることです。これは世界共通の不思議な現象で、古代ギリシアやその後継である西洋音楽、古代ペルシア、その弟子のアラブ音楽、トルコ音楽、中央アジア音楽でも、古代インド音楽の弟子でもあるタイ古典音楽でも、「ドレミ」は「7音」なのです。古代インド音楽のもう一方の弟子であるインドネシアでは、五音や九音が基本という例外もありますが、これも古代インドの「7音」を基本に解釈を変えたものと考えることが出来ます。

つまり、ほぼ世界中でシンクロニシティー的に、ドレミは「7音」だったということです。古代ギリシアとその姉妹関係にあった古代ペルシアの場合は、「天空」と音楽の関連を説きましたので、オクターブを12の半音に分けることは「年の12月」と符合し、「7音」は、「週の7日」に符合するのです。
ところが、インド音楽の場合、22音は、天空とは一致しません。インド音楽が関連する「宇宙」は、「天空」よりもさらに先の世界なのでしょうか。しかし、何故か、「7音」は、一致しているのです。

以前に、その音の由来(諸説ありますが)を述べましたインド音楽の「7音」は、以下の名称が定められています。「ド=Sadaj(サラジュ)、「レ=Reshav(レシャヴ)」、
「ミ=Gandhara(ガンダーラ)」、「ファ=Madhyam(マディヤム)」、「ソ=Pancham(パンチャム)」、「ラ=Dhaivat(ダイバタ)」、「シ=Nishad(ニシャド)」です。

先に述べた「各音の由来」とは、別なこじつけでこの名前は出来ています。不思議なことにインド科学音楽は、その理論が極めて高度な論理性を持っているにもかかわらず、その具体例や名前は、けっこう雰囲気で付されています。

インド音楽の「ドレミ」、(以下「サレガマ」とか「サルガム」と言います)
の名称は、「サラジュ」は、普遍的、基本的、原点的といった意味合いで、「マディアム」は、印欧語の「真ん中」つまり欧語の「Medium」です。「パンチャム」は、ペルシア語とも共通する「五番目」の意味です。それ以外は、字義は大地や狩人などですが、一説には神々の別名や従者の名とも言われています。「ガンダーラ」はご存知パキスタンからアフガニスタン東部に掛けての古い地名ですが、元々「Gandhar」は「天空」の意味で、「Gandharva(天上の歌い手)」などという言葉もあります。

改めて世界の「階名」を挙げてみますと、ラテン諸国が「ドレミ」で、ドイツ語が「CDEF(ツェー、デー、エー、エフ)」英語が「CDEF」それらを明治時代に訳した日本語が「ハニホヘ」ですが、唯一「ドレミ」だけが、意味を持つ言葉の頭文字です。
しかし、「ドレミ」は、教会合唱音楽を聖歌隊に教える際に考案された、「元祖ドレミの歌」があって、歌詞全体に意味がありますが、各音に充てられた各語の意味と音には直接的な関係はありません。なので、インドの「サルガム」の方が意味深いと言えるのです。その意味では、各音に意味深い名前を持たせた世界に例のない、独特な発想であるとも言えるわけです。

(文章:若林 忠宏)

‥…‥…‥…‥…‥…‥…‥…‥…‥…‥…‥…‥…‥…‥…‥…‥…‥…‥
若林忠宏氏によるオリジナル・ヨーガミュージック製作(デモ音源申込み)

‥…‥…‥…‥…‥…‥…‥…‥…‥…‥…‥…‥…‥…‥…‥…‥…‥…‥