63、腎臓・腸・肝臓のRaga:

illustration of human chakra, OM symbol,amulet from Nepal

腎臓、腸、肝臓を健康に導いたり、活性化させると考えられているRagaは、腎臓、腸に関わり、生命力、生気、情熱を司るとされる「第1のChakra:Muladhara」と、その関連音「Sadaj(サラジュ/ド)」および、胃、肝臓、胆嚢、脾臓、膵臓に関わり、情緒の安定を司るとされる「第3のChakra:Manipura/Nabi」と、その関連音「Gandhara(ガンダーラ/ミ)」の二つのChakra。二つの象徴的な音と関係しています。

「肝腎要」の言葉があるように、肝臓と腎臓は、深く関わって働いています。一方が疲弊していても、一方がまだ元気な場合もありますが、いずれどちらも疲弊してしまうほどデリケートな関係でもあります。

ところが、アーユルヴェーダでも、中医・漢方弁証論治でも、解剖学としての臓器とはちょっと異なるニュアンスの「腎の臓の系統」と「肝の臓の系統」は、別な役割を担っているとも説きます。

このことは、科学音楽の音の役割、立場、系統からも証明されます。

第三音「Gandhara」は、基音である第一音「Sadaj」の自然倍音のひとつであり、更に言えば、第五音「Pancham」、更に高域では第七音「Nishad」もやはり物理的に自然に得られる倍音です。

したがって、第1Chakra:Muladharaは、第3Chakra:manipura/Nabi、第5Chakra:Vishuddhaと深く関わるわけです。もちろん別な意味で、腎臓及び肝臓の解毒、腸、肝臓の栄養素の摂り込みには、良質な血液と血流が不可欠ですから、第4Chakra:Anahataも大きなサポーターでもあります。

同じ様に、Ragaにおいて、第一音:Sadaj、第三音:Gandhara、第五音:Panchamが優勢な場合、むしろ控えめな存在の第四音:Madhyamの扱いには神経を注がねばなりません。 また、そのようなRagaの中には、♮と#のふたつのMadhyamを持つものも少なくありません。

(文章:若林 忠宏

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若林忠宏氏によるオリジナル・ヨーガミュージック製作(デモ音源申込み)
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62、リラクゼーションのRaga

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リラクゼーションのRagaは、アーユルヴェーダ音楽療法における様々なRagaの中で最も多く挙げられていることは、前回の「植物の根の音楽による生育の違いの実験」の話でも明らかです。しかし、実感で「心地よい」「癒される」と思えば、すべて「リラクゼーションを促進させた」と解釈するのは短絡的です。

頭頂部にあると言われる「第7のChakra:Sahasrara」は、7音の第七番目「Nishad(ニシャダ/シ)」の音と関わりがあるとされます。しかし、Ragaの実践の中でも、この「シ」と「ミ」及び「ファ」の使い分けは膨大なパターンがあり、Sahasrara-Chakraに関わるRagaの中にも様々なパターンがあります。

なので、「どれを聴いても確かに心地よい」では「プラセボ頼り」ということになってしまいかねないのです。

そもそも「リラクゼーション」とはどのような状態であるのか? 本人が心地よい」とか「眠くなった」という実感は、この場合、「当たらずとも遠からず」で、けっこう「近い」かも知れません。

まず、「自律神経」の領域で考えるならば、言う迄もなく「副交感神経」が優位になっている状態です。血管は弛緩し、血圧、脈拍数、呼吸数、体温は下がる傾向。その結果として、全身の緊張がほぐれ、脳波にも変化が現れるでしょう。

これは数在るRaga音楽療法の実践の中でも、最も理解し易く、効果も分かり易いものに違い在りません。

しかし、「恒常性」というテーマを考えた時、「弛緩させ過ぎた場合」反動が来るはずですし、そもそも副交感神経が優勢でありすぎる場合、(普通ここでは「亢進」とは言わないようですが) 過剰効果や逆効果は無いのか?も考え合わせるべきです。具体的には、アルコールや薬剤の副作用で、弛緩している場合に、過剰になる場合があります。

また、生き物の「恒常性」の仕組は、驚異的であり、まだほとんど解明されていないと言われますが、「二元性/相反するものが用意されている」ことは間違いないはずです。実際、免疫系にも二大分類があり、例えば、「アレルギー」と「自己免疫疾患」では、免疫系の系統も異なれば、アレルゲンを攻撃する武器も異なります。そして、これがやっかいなのですが、交感神経か?副交感神経か?どちらで活性化しどちらで沈静化するかも変わります。

なので、単に「リラックスは良いことだ」としても、交感神経の活性化によって保たれていた恒常性にとっては、良いことばかりではない可能性もある訳です。

具体的に、とても豊富なリラクゼーションのRagaについて見てみますと、中心的な音「主音:Vadi(ヴァーディ−)」が「シ♮」であるRaga、「シ♭」であるRaga、Vadiは、「シ」以外だけれど、「副主音:Sam-Vadi(サム・ヴァーディ−)」が「シ♮」であるRaga、「シ♭」であるRaga(後者は現実的に殆ど存在しませんが)、VadiもSam-Vadiも「シ」以外であるが、「シ」の存在に意味が深いRaga、意図的に「シ」を割愛したことで、逆に「シ」の存在が枯渇的に求められるRaga、そして、ふたつの「シ♮」と「シ♭」を持ち使い分けるRagaなどがあります。

それらの効果の結果、リラクゼーションのRagaと一言で言っても「A:どの様な状態の人でも弛緩させるRaga」「B:高ぶりがある場合、ニュートラルに下げるRaga」「C:高ぶりがあれば下げ、消沈していれば上げるRaga」があります。

AのRagaは、低血圧の人や鬱の人には適さないかも知れません。逆に「ならCが一番良いじゃないか!」と思いきや、Bが適している時には効き目が弱いかも知れません。

また、「リラクゼーション」を求めたとして、その後にどのような行動行為に移りたいのか? 「落ち着いて→ぐっすり睡眠を取りたい」のか、「落ち着いて→論理的に思考したい」のか、「単に興奮を納めたい」のか、によってもRagaは選択される必要があります。

また、究極のRagaを正しく演奏した場合、「落ち着いて→論理的に思考し→やる気が湧いて、知恵も出て」と、むしろ元気になる場合もあります。しかし、そもそも「論理的思考」の訓練をしていない人で、むしろ逆に、「くよくよ同じことや心配や被害者意識を考えすぎる人」には、その同じRagaが逆効果を与え「イライラする→落ち着かない」場合も在る訳です。

だからこそ、アーユルヴェーダは、「体質」にこだわる訳です。

しかし、先天的な「性質」と後天的な「性格」と、本来一過性であるだろうけれど、こだわってしまっている「執着や観念」というものをまとっている場合の「心の体質」を説くアーユルヴェーダは、殆ど廃れてしまったか、迫害によって壊滅してしまったか、近現代人がその価値に気づかなかったのか? 充分に説かれているとは思えないのが現状ではないでしょうか。

(文章:若林 忠宏

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若林忠宏氏によるオリジナル・ヨーガミュージック製作(デモ音源申込み)
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61、RagaとMudra、Pranayama、Asana、

yellow flowers floating in a tibetan bowl

ChakraとそれにちなむRagaには、それぞれの専門的な臓器との関わり、および人間の心や精神との関わりの他に、Chakra同士の連携、そして心と体全体の中での役割があります。

その全体像を総合的に理解・把握しないと、結局は、局所対症療法の感覚から卒業出来ません。

もっとも、アーユルヴェーダでも中医・漢方弁証論治でも、急を要する「表層的な症状」を優先して対応対処することはあります。しかし、同時に根本的な原因への対応対処と、全身的な問題への対応対処をしてゆかなくてはなりません。でないと、いずれ次から次に問題が移行してしまい、極端な話、大道芸の「皿回し」のような忙しさに追い込まれることもありえます。

また、根本原因の見誤りなどによっては、逆効果もあれば、まだ正常だった部分のバランスを崩してしまうこともあり、かえって大事になることもありえます。

喩えば、家の中に「雨漏り」があったとします。真下にバケツを置くくらいならまだしも、天井の隙間や穴を塞いでしまったら、行き場の無くなった水は、新たなはけ口を求めるに決まっています。それが柱を湿らせシロアリを招いたり、電気系統に損傷を与えたりで、大事になることもあり得るのと同じです。

具体的には、「口内炎」などの場合、抗生剤とステロイド剤を患部に塗布して解決しても、その原因が腸内環境なのか? それとも腎臓なのか? または肝臓なのか? そして、その原因も一つとは限らず、腸と肝臓と腎臓は、互いに連係プレーをしていますから、一つをフォローすれば、他も助けを求めてくるかも知れません。

また、そもそも腸、肝臓、腎臓の問題は、血流から来ているかも知れませんし、何らかの原因による、自律神経、ホルモン、血液のpHの問題かも知れません。

また、音やマッサージ、指圧、鍼灸、そして生薬などの中には、生き物が自然に持つ機能を「助けるもの」もあれば「刺激、叱咤激励するもの」もあれば「休ませる」ものもあります。既にオーバーヒート寸前に働いているものに、叱咤激励をしてしまったら、どうなるでしょうか?

また、例えば、腎臓の働きや、肝臓の働きを助ける生薬の中には、胃腸に負担が掛かるものがありますし、自然な血流を促した結果の利尿作用ではない生薬には心臓に負担をかけるものもあります。

アーユルヴェーダや中医・漢方の生薬及び西洋ハーブでは、「複合方剤」があります。これらには、「相乗効果で働きを高めるため」もあれば、「時差で効果に持続性を持たせるもの」もあれば、「副作用を緩和させるため」のものもあります。

例えば、前述の「腎臓を助ける生薬」が「胃腸に負担をかける」という場合、「胃腸を守る生薬」を添加させたりする訳です。

このように、インド科学音楽のRagaを用いて、Chakraの活性を図る音楽療法では、複数のChakra同士の関係や、心と体全体への効果・影響を考え、更に、Ragaの持つ複数の要素とその力を考慮しなくてはならないのです。

ところが、幸いなことに西洋局所対処療法の化学製剤とは異なり、Ragaは、自然生薬を組み合わせた、Blend/Compoundな方剤のようなものなので、西洋式化学製剤のような劇的だけれど、極端な効果効能ではないのです。

西洋化学製剤の多くも、元々は植物や昆虫などが自然に持つ成分を化学的に抽出したものなのでしょう。しかし、自然の成分は、西洋的・合理主義的な論理性のエビデンスは得られてはいませんが、数種類から数十種類の成分が、未解明の働きをすることによって、細胞や臓器に対し、比較的安全に作用していることも事実なのです。

化学製剤の「抗生剤」は、腸内環境のいわゆる善玉菌も殺してしまいます。故に「抗生剤に耐性を持つ乳酸菌」さえも開発されています。ところが、未だに不思議でなりませんが、自然生薬は善玉菌を殺さないのです。もちろんGalicのように、多量に摂ると善玉菌も殺してしまう生薬もありますが、ほとんどは「体、細胞、有益細菌、微生物」には無害なようなのです。

さらに、Ragaの場合、或る独特な音の動きが、Chakraに働きかけるのですが、前後に様々な音の動きがあり、有効成分だけを抽出して聴かせるということはありません。 もちろん演奏者によっては、音楽療法が分かっている人と、分かっていない人、Ragaの神髄(Prakriti)が分かっている人と荘でない人、自己の感性の表現・顕示に執着する人と、Raga本意の人では、同じRagaも全く異なって伝わります。なので、未来に、音楽の有効成分が解明されたとしても、電子楽器による自動演奏で効果を得るということはおそらく無いと思われます。

しかし、Ragaの音楽療法の効果は、Asana、Mudra、Parayanamaと共に行うと、「効き過ぎて」もしくは「逆効果」の非常に強い危険性も知られています。

逆に言うと、幾つかのRagaは、特定のAsanaやMudraによって聴くことで、より効果が得られるという処方が存在します。

また、その人の状態によって、或るMudraで効かない場合、別のMudraの処方も用意されています。

さらに、ほとんどのRagaでは、Prayanamaとの併用は処方されません。が、或る特定のRagaを、特定の目的で処方する場合には、PrayanamaよMudraとの併用が処方されています。

(文章:若林 忠宏

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若林忠宏氏によるオリジナル・ヨーガミュージック製作(デモ音源申込み)
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60、Chakraと神経と科学音楽

illustration of human chakra, lotus flower

前九回で、七つのChakraとその大まかな解釈、そして、それぞれにちなむRagaについての概論をお話しました。

それぞれのChakraには、第一に「特筆すべき役割」があり、第二に、「複数のChakraの関係性」があり、当然、それを繋ぐ「Nadi(ナーディ)」の理解・認識も欠かせないわけです。そして、第三に「体全体の状態」であるとか、「全身的恒常性のバランス」であるとか、「自然治癒力」「免疫力」という全身に渡る分野も合わせて考えなくてはなりません。

そして、その全身的な状態を把握することには、「プラーナ、気、脈、血流、神経、ホルモン、リンパ腺」などの多様で膨大な脈絡の存在も学ばねばなりません。

しかし、それらは大きく分けて、やはり「二元性」「相反するものの共存」があり、それは「恒常性」に欠かせない、「相反する作用」によって、二つに大別されるはずです。

それらは、「自律神経」の二大分類「交感神経系」と「副交感神経系」の存在として、西洋医学の専門家にもある程度理解されています。しかし、私の不勉強のせい(や誤解や決めつけ?)かも知れませんが、局所対処療法を主として治療なさるお医者さんの多くに、「自律神経」との関係をあまり重視していないのではないか?と思うことが少なく在りません。そして、原因が不明になると、一昔前迄は「自律神経失調症」で片付けてしまい、最近は、それに代わって「ストレスの所為」で片付けているように思えてならないのですが、間違っていますでしょうか?

実は、これらは全て、正解を言っているとも言えます。「原因不明」というのは、中医・漢方弁証論治で言うところの「裏証」であり、一般に「慢性疾患」と言われますが、急性の局所に現れる症状より深く、原因がひとつに限定出来ないものを意味しています。つまり、「原因不明」は、「原因を特定出来ない」という意味としては「正解」なのです。何故ならば、「原因多数」だからなのです。

しかも、それは刻々と変化するのです。これがある意味「当たり前」のことなのですが、「全身医療(Holistic)」から見れば、「止まっている的しか射れない西洋局所対処療法」では、「原因不明」となってしまうわけです。

「お医者さんがそんなことじゃ困る」と言えば、「自律神経失調症」と言われ、最近では「ストレスの所為」となるような流れです。

「自律神経」も、何らかの「外的要因」に反応して「主副の二系統」のバランスが変化する訳ですが、結果論で、「芳しくない」と「失調症」と診断されるようです。 しかし、そこには、「自律神経が懸命に働いている過渡期の状態」もあれば、何らかの理由で「自律神経の働きが過度になっている場合」もあれば、同様に「自律神経の働きが衰えている場合」もあるはずです。

また、「懸命に働いている場合」でも、「直接的に原因に対して対処している場合」もあれば、「間接的、総合的」に働いている場合もあるかも知れません。

例えば、下痢だけが生じている場合、排出やDetoxの必要性があると共に、自律神経は、腸の働きや、各種関所の通過を促しますが、その状態では、胃の上部の関所「噴門」は開きません。必要なものは摂り込み、不要なものを早く排出しようとしている訳です。

ところが、下痢ではないけれど、嘔吐が頻発する場合は、その逆が考えられ、下痢と嘔吐が同時多発する場合は、「両方の意味の複合」と、「全体の疲弊」という別次元の問題も絡んできます。

不謹慎な喩えで恐縮ですが、拳銃の暴発事故が起きたとして、犯人は「引き金を引いた者」なのか? 「そこに拳銃を置いた者」なのか? 「そもそも拳銃を作ったものなのか?」というテーマです。

しかし、これを「より源流がより悪い」という単純な理解をして良いでしょうか? 確かに、大本を解決することは、「全身療法」が「局所療法」に対峙している基本であります。しかし、流しの蛇口の漏水の度に、道路の地下を走る本管を止めるのは愚かではないでしょうか? また、古今東西で、「川上、風上が悪者、川下、風下が被害者」というレベルでの争いは絶えませんでした。

つまり、原因追及は、一見して「根源的意味(価値)がある」ように見えて、落とし穴も多いのです。

言い換えれば、ある種の「犯人探し」のようなものであり、森中を探しまわり、森の奥底で見つけ出したとしても、それもひとつの「樹」に過ぎず「樹を見て森を観ない」ことと大して変わらないのではないでしょうか。

「犯人探し」のようなことであるならば、その犯人を作り出した構造(森全体問題)を探求しなくては、同じことが繰り返されますから、一見してそう思えたとしても、実は「根治療法」でも「全身療法」でもないと言える訳です。

このようなことを考慮しながらでないと、Ragaの音楽療法は、正しく作用しません。しかし、世に広まる漢方薬の多くがそうであるように、「分かり易さ」を求め、結局は、「頭が痛いのを治したいだけだ」と、東洋医学をも「局所対処療法」的な感覚、観念で理解しがちなように思えます。

(文章:若林 忠宏

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若林忠宏氏によるオリジナル・ヨーガミュージック製作(デモ音源申込み)
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59、Chakraと中医・漢方弁証論治そして科学音楽

Meditation time

アーユルヴェーダとヨガの基本とも言える「Chakra(チャクラ)」の概念と、中医・漢方(中国医学及び日本の漢方医学)における「弁証論治」との間には、多くの共通点と、いくつかの相違点があることは、しばしば語られています。

共通点の中で最も重要と思われることは、「Holistic(全身医療)」であることでしょう。Holisticである以上、局所・対処療法とは、根本的に考え方が異なる訳です。例えば、「口内炎」に関して、西洋化学対処療法は、「ステロイド剤(消炎)と抗生剤(殺菌)」で対処します。「結膜炎」もしかり。いずれも「患部」に直接的に処方します。それに対して、アーユルヴェーダや中医・漢方弁証論治では、何らかの問題が内面的に生じて「熱(体温、発熱とは別次元)」が上昇して口内や結膜に現れるという解釈をします。そして、その根本的な問題の解決を重要と考えるわけです。

もちろん、西洋医学のお医者さんでも、近年驚く程意識を変えられた方は少なくないはずですし、口内炎に対するVitamin療法は、昔から市販薬にあります。

しかし、発熱や下痢に対して「何処かに犯人が居るはずだ」と、抗生剤とステロイド剤という感覚の時代は大分長かったですし、今でもそれが基本というお医者さんも少なくないようです。そして、実際、「効いた!」と思わせる一時的な現象も現れますから、それで良いと思う人も少なくないはず。もちろん私もずっとそうでした。そして、また悪くなればお医者に行けば良いと思って疑わなかったのです。

しかしHolisticから見れば、「また悪くなる」のは当然。「根本原因」をほとんど考えていないからです。

一方、アーユルヴェーダと中医・漢方弁証論治との間で、若干とらえ方が異なるように思えるのが、アーユルヴェーダが、「体質」の個体差によって、治療法(対処法と根治法)を考えるのに対し、中医・漢方弁証論治では、あまり「個体差」を考えないようにも(一見)思えるところでしょう。しかし、中医・漢方弁証論治の「証」を、アーユルヴェーダの「体質=状態」と同じ感覚でとらえれば、さほど異なってはいないとも考えられます。

逆に「健康な状態」というものを、「正常な状態」とし、それはある程度普遍的だろうと考えれば、アーユルヴェーダの言う「体質/個体差」は、普遍的な状態から、幾分何かに偏った状態であるという理解も出来るかも知れません。勿論、生まれながらの動かしがたい体質も確かにありますが。

しかし、ここに重要な問題があるように思います。そもそも「健康な状態」というものが、実はあまりはっきりとは概念化されていないということです。仮に古代に概念化されていたとしても、その時代には想像も出来ない程自然が崩壊し、有害物質に浸されている現代人の場合の「健康な状態」というものを理解するには、古代の叡智をある程度翻訳して理解する必要もあるのではないでしょうか?

保護猫活動をしているので、現代人の有様が「野良猫」と重なってしまいます。(猫がお好きじゃない方には恐縮ですが) 猫が山猫から人間に寄り添う為に猫になってからも数千年は、自由に野外を闊歩し、長閑に暮らしていました。勿論天敵は居たに違いありませんが、自然に囲まれ、本能と叡智が知る有害無害の識別で、健康に天寿を全うしてたのです。同じ様に人間も昔からの知恵で、「加熱してから食べる」とか「灰汁を抜いてから」とか「食べ合わせ」などを配慮しながら生きて来ました。

それが現代になると、猫たちの死因の上位は、昔には無かったような(もしくは極めて少なかった)幾つかの不治の病と交通事故と、虐待(毒餌を含む)。生ゴミ漁りではどんな有害物質があるか分からない。人間には問題なくても猫の体を蝕むものは沢山あります。人間だって、昔はそんなもの食べなかった。猫も葱類や百合科など以外は、人間から貰って食べても平気だった。

昔には無かった不自然な食べ物や環境の中で健康を維持しなくてはならず、飼い猫が病気になれば、昔にはなかった薬や治療法を施される。

この何千年掛けて狂わせて来たものを、突然「猫は自然の中で自由が一番だ!」と家の外に放り出すことが猫の健康に果たして良いことなのか?

同じように、人間も、壮大な過ちの歴史を、順繰りに紐解くように改善して行く必要もあるのではないか? という考え方なのです。

本来生き物には「バランス調整=恒常性」が備わっていますから、「自然治癒」が可能なわけです。「なら医者は要らない」という話になってしまいますが、人間は、何千年何百年の間に、自らを虐め抜く様々な愚行を重ねて来たのでしょう。その結果、何が「健康な状態」か分からないほど、「健康な状態」が害されているのかも知れません。なので、神から授かった「恒常性の力」も、ニュートラルを維持するというよりも、日々過激に変遷する偏りに対処するので精一杯になっているのかも知れません。

もうひとつの重要な課題が、何度も述べて来ました、「意識で実感出来ること(実感)」と「意識で実感出来ないこと(非実感)」の二つの「道」が存在するということです。そして、この二つは、かなり深く関わっているのでしょう。その結果「心因性の疾患」もあれば、「プラセボ効果」のようなことも起きてくるわけです。

しかし、本当に心と体に良いこと、悪いことを理解するためには、意識で実感出来ることばかりで判断してはならないのでは?という考え方です。

例えば、今ここに、古代アーユルヴェーダの音楽療法師が、タイムトラベルして来たとして、私たちが「楽しい、心地よい、癒される」と喜んで聴いている音楽の何かをして「とんでもない!心と体に悪いから直ぐにやめろ!」とおっしゃるかも知れません。

人間に限らず生き物には、まだまだ解明されていない秘められた力があるはずです。そして、おそらく「毒に慣れる」という能力も想到なものに違いありません。古代の人が聴いたら絶えられない音や音楽でも、慣れてしまえば平気ということです。

賛否両論あるかも知れませんが、コロンブスたちがカリブ海に乗り込んだ後、西洋人には平気になっていた細菌やウィルスで、先住民族が壊滅状態になったという話もあります。 何百年もすれば、花粉も全く平気という新人類ばかりになるかも知れません。実際その考え方の治療法も始まっています。

いずれにしても、世の中の流れは「局所・対処療法」から「Holistic/全身医療」に向かっているに違いありません。そして、それは必然的に「予防医療」な訳です。

しかし、現代人が持つ「毒に対する順応性」の要素や、その結果鈍ってしまった(処方に反応する)感受性のことも、これからはもっと考えてゆかねばならない時代になるのではないでしょうか。勿論、心や体のより深い領域の基本は変わらないはずです。故に、あくまでも表層的、対処療法的な領域においてのことかも知れませんが。

(文章:若林 忠宏

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若林忠宏氏によるオリジナル・ヨーガミュージック製作(デモ音源申込み)
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58、第7Chakra:SahasraraとRaga

頭頂部にあるとされる「第7のChakra:Sahasrara」は、言うまでもなく、脳と関わるとともに、「霊性、直感、宇宙意識」と関わり、「宇宙との一体感、および超能力」を司るとされます。

他の六つのChakraでは、それぞれ「関わりのある臓器」と、「司る意識や精神性」を別けて説明されています。

ところが、前回「第6のChakra:Ajna/Agnya」のことでも述べましたように、古代インドの科学では、「自覚出来ない感覚」は、臓器や自律神経等と同格の存在と考えているようであり、すくなくとも自覚出来る感覚とは、はっきり区別しているようなのです。

この第7Chakra:Sahasraraでは、臓器である「脳」とともに「霊性、直感、宇宙意識」が、「関わりのあるもの」に分類して説かれています。

一方「司る」では、私たちが「自覚出来る意識」が分類されているのですが、この第7Chakra:Sahasraraでそれは、「宇宙との一体感、超能力」となっていて、なんだか抽象的な感じがするかも知れません。

しかし、もし「宇宙との一体感」を感じ取ったとしたら、錯覚や思い込みも含め、それは「自覚出来る/意識」の領域であるのに対し、「霊性、直感、宇宙意識」は、特別な訓練を積まない限り、日常自覚出来ないものであり、錯覚はあるかも知れませんが、思い込むことはそうそう出来ないに違いありません。

この微妙な領域に関しては、古今東西で、「悟り」とか、「予知夢」「デジャヴュ」「霊感」のような表現がなされています。錯覚や思い込みなどと言うと「偽」と思われるかも知れませんが、それらさえ、微妙な領域の狭間に存在するかも知れないのです。

少なくとも、私たちの常識や、医学が解明した脳や意識の世界は、実際の脳の存在のほんの数パーセントに過ぎないとは多くの学者が認めているところです。

私事で恐縮ですが、母が卒中で倒れた時、MRI画像で説明を受けましたが、確かに素人目にも納得がゆく程「ここが言語中枢」という辺りが完全に真っ黒でした。

ところが生死の境を何度か体験し半年後に奇跡の退院を果たした頃、「神様!多少は減らして下さっても良かったのですが」と冗談を言う程に言葉が回復したのです。ちなみに主治医の先生は「新薬が効いた」とおっしゃっていましたが、私は私で、イヤフォンで、「ドビュッシー」と「インド音楽」を聴かせ続けていました。

ここで、「第6のChakra:Ajna/Agnya」で述べた、「自覚出来ない感覚もまた臓器のような存在である」と逆の意味を考えてみます。

西洋医学・解剖医学的な現実論で言えば、臓器は確かに実在するとされ、「霊性、直感、宇宙意識」は、目に見え、手で触れられる実在ではありません。しかし、そもそも東洋医学では、目に見え、手で触れられる臓器はもちろん、細胞でさえも「意識を持った存在」であり、最近ようやく理解する人が増えて来た腸内細菌とともに、私たちの体骸を共有して生きる数万の同居者なのです。

つまり、解剖学的に言う臓器でさえも姿形に匹敵する価値の「意識」があり、セットで存在意義があるわけで、とりわけ「脳」の場合は、その意識が私たちの「自覚・意識」とは別次元に「霊性、直感、宇宙意識」を持ち、他の臓器や細胞と比べ、明らかに自発的にその判断を変化させているという意味合いで理解することが出来るのではないでしょうか。

実際細胞の次元でさえも、状況に応じて自発的・意識的な行動を取ります。外敵に占領され、このまま生きることが「共同体=体全体」の利にならないと判断すると自決(Apoptosis)します。しかし、実直で仕事熱心な細胞や善玉菌たちは、ある意味逆らえないプログラムに従っているのだとしたら、「脳」は、プログラムされていない思考を、しかも、私たちが自覚していない領域で、膨大に行っているわけです。なお、「超能力」も、自覚の領域として挙げられていますが、これこそ、自覚出来なかった知覚や能力が自覚出来たが故に、その驚きを言葉に表した用語と言えましょう。

つまり、私たち人間は、「意識・自覚出来る分野」と、「意識・自覚出来ない分野」から成り立っており、実は、体も心も、圧倒的に多くを後者との関わり、絆で成り立ち生きているということなのです。しかも、その「自覚出来ない意識」の領域では、臓器や細胞さえもある種の意識を持って行動し生きているのかも知れないのです。さすれば、私たちが日常で自覚している意識なぞは、肩書き名目だけで仕事が出来ないばかりか、部下が何を考え何をしているのかさえ知らない駄目社長のようなものかも知れないのです。

このような私たちの常識を遥かに超えた存在の可能性があるかも知れない第7のChakra:Sahasraraと関わるRagaもまた、私たちの自覚出来る感性で、心地良いとjか癒されるなどというような音楽ではないかも知れません。

治療も病院も嫌いな母は、看護婦さんが居ないと知ると酸素チューブを直ぐに外してました。私のイヤフォンも同様でした。或る時、日課になっていた見舞いに行くと、お医者さんと間違えたのか慌ててイヤフォンを鼻に差して何喰わぬ顔をしていました。流石に「やはり駄目か」と嘆きましたが、「自覚出来る意識」というものは、たかだかそんなものなのだ、とも学びました。そんな時でさえ、もう一方の意識は、確かに生きよう(元に戻そう)としていたのです。

(文章:若林 忠宏

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若林忠宏氏によるオリジナル・ヨーガミュージック製作(デモ音源申込み)
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57、第6Chakra:Ajna/AgnyaとRaga

Seven chakra symbols line upon water in blue background - 3D render

眉間(の少し上)にあるとされる「第6のChakra:Ajna/Agnya」は、目、神経系、直感、感覚、知恵と関わりがあり、知性・精神の成熟を司ると言われます。

ヒンドゥー女性が赤い点「Bindhi(ビンディー)」を、男性でも様々な宗教的意味合いで印を付ける眉間は、インド以外にも「第三の目」の場所と信じる人々が居たことも知られています。

他のChakraが、近隣の臓器と関わりが深かったのに対し、このAjna-Chakraと、その上の第7のChakra:Sahasraraは、それぞれ「目」「脳」という臓器との関わりの他、臓器ではない「神経、直感、感覚、叡智」と「霊性、直感、宇宙意識」と関わりがあると説きます。それとは別次元で、「知性、精神性」及び「宇宙との一体感、超能力」を司ると説いています。

つまり、臓器などの実体物ではない「非実体物である感覚や能力」というものを、「臓器同様」に「関わる」と説き、「自覚出来る知覚」は「司る」と説いているのです。

このことについて、私は長年良く理解できていませんでした。どちらも「目に見えない感覚的なことではないのか?」としか思えなかったのです。しかし、後に、前に述べましたように「自覚出来ること」と「自覚出来ないが存在するもの」の「二元性」を理解してからは、「なるほど!」と納得が行ったのです。

例えば、このAjna-Chakraが関わる「神経系統と直感、知覚、叡智」と、ひとつ下の「第5のChakra:甲状腺とホルモン」を関連させて考えてみますと。

ご存知神経系統には「運動神経』と「自律神経」があり、前者は、「意識のコントロール下」にありますが、後者は、意識(自覚)出来ません。後者と関わりが深い甲状腺からのホルモンの働きも同様です。

また、Ajna-Chakraが関わる「神経系統と直感、知覚、叡智」の中の、「知覚」は、意識出来るものですが、あくまで「現場で取材して得た報告を脳が受け取り認識した」という意味であり、「現場で取材する知覚能力」の存在は、報告が上がらない限り日常意識・認識はしていません。

例えば、私たちの目(や耳)には、ありとあらゆるものが飛び込んで来ているのに、「見てないじゃないか!」「聞いてなかったのか?」と言われることがあります。ところが、実は、見ているし、聞いていたのです。

何かの必要があってそれを思い出す(再認識する)こともありますし、ある種の催眠療法などでは、意識・記憶が認識していなかったけれど、確かに(見聞きした)事実を引き出したりもします。私もこれに関しては自分でも驚く体験をしたことがあります。

つまり、より正確に言えば、「報告」は常に上がっているのですが、私たちの意識が、その報告書をちゃんと読まずにデスクに積み重ねている訳です。

想像しただけでも、中まで目を通して認識した報告(情報)の量と比べて、運ばれたけれど、認識されなかった報告(情報)の量が何十倍、何百倍多いことか?

この話が理解出来ますと、更に、「別な意識」の存在も理解出来ずとも否定はなさらないのではないでしょうか? つまり、最終的に認識する「自覚出来る意識、知性、判断力、思考力」などが、言わば「最高責任者」であるとしても、その直下に、情報を整理しデスクにきちんと置いている優秀な部下が居るかも知れないということです。

何故ならば、「最高責任者」自身がその作業をしていたならば、覚えているはずです。また、誰もが整理整頓をしていないならば、催眠療法でも思い出せないはずです。ヴェーダの科学は、紀元前千年二千年にこの事実(真理)を発見していたのでしょう。

このように、まるで臓器のようだけれど目に見えない「感覚」は、結局は、自律神経や臓器同様に、人間の意識では自覚出来ないけれど確かに存在するものとして同列であるということです。それに対して、「司る」に分類されている「感覚」は、私たちが自覚出来る領域のものとして、区別出来るということなのでしょう。

Ajna-Chakraにちなむ第7音「Dhaivat(ダイヴァタ/ラ)」を強調するRagaは、他のChakraのRagaと比べて数は多くありません。第2音「Reshav(レシャヴァ/レ)」で説明したことと同じ、Sadaj(ド)の代理でもあるPancham(ソ)をひとつ通り越した「ラ」に留まることは、「レ」に留まるRagaよりも珍しいのは当然です。その分、限られたRagaが、とりわけ深くAjna-Chakraとの関わりを持っているということです。

また、Dhaivatには、「Komal-Dhaivat(コーマル・ダイヴァタ/ラ♭)」と、「Shuddha-Dhaivat(シュッダ・ダイヴァタ/ラ♮)」の二種があり、前者は、「右のAjna-Chakra」後者は「左と中央のAjna-Chakra」と関わります。

ところが、他の「♭と♮、もしくは、♮と#」を持つ音とChakraの関係では、それぞれ低い音が「陰陽の陰」で、高い音が「陰陽の陽」に符号し、「陽である右と中央」「陰である左」と符号しました。しかし、このAjna-Chakraでは、逆です。

私が得た情報が間違っているのかも知れませんが、今のところ、どうもこれで正解のようです。(間違っていたらごめんなさい)。

考え得ることは、ちょうどこのAjna-Chakraの場所の奥に存在する事実、左脳が右半身、右脳が左半身のように交差している、つまり「陰陽」が逆転しているということではないでしょうか。

だとしたら、西洋解剖学がそれを知る数千年も前に、この事実を理解していたヴェーダの叡智には改めて驚かされるというものです。

(文章:若林 忠宏

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若林忠宏氏によるオリジナル・ヨーガミュージック製作(デモ音源申込み)
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56、第5Chakra:VishuddhaとRaga

In Meditation mit Chakren ber dem Wasser

喉にあるとされる「第5のChakra:Vishuddhai」は、喉、甲状腺、副甲状腺、気管支に関わり、意志、知識、創造性、判断力を司ると言われます。

甲状腺は、言うまでもなく、体の様々なバランス、つまり「恒常性」を維持するための指令的なホルモンを分泌する機能ですから、「第6のChakra:Ajna/Agnya」の神経系とも深い関わりがあるに違いありません。

7つの音の第5音「Pancham(パンチャム/ソ)」は、Sadaj(サラジュ/ド)の基音の五度の「属音」であり、Sadaj同様、#♭しない「Akala-Swar(アカル・スワル/不変音)」であり、音階/旋法の要であります。

前回、第4音:Madhyama(マディヤム/ファ)が「Sadajの影武者」と述べましたが、このPanchamは、表立った「Sadajの代理」のような重要な音です。

Madhyamが仕切る特別で希少なRagaでは、Sadajが一歩引くのに対し、Panchamは、多くのRagaで、常にSadajを立てながらSadajと共に全体を取り仕切っています。

逆に、MadhyamやPanchamを割愛するRagaもあります。しかしSadajを割愛するRagaは存在しませんから、Sadajが基音であることは永遠に不変なのです。この辺りの絶妙な関係性こそが、人間の心と体の様々な部分や臓器、その働きと符合している感慨深いところであり、インド科学音楽が、単なる芸術鑑賞を超えた意味を持っている証ではないでしょうか。

古代ギリシア、古代ペルシアとも共通する、音階を上下四度で分ける「テトラコルド」の概念においては、Sadajが司る「下のテトラコルド(ドレミファの4音)」インド音楽用語では「Purab-Ang(プーラバング/字義は東の部分)」に対し、Panchamは、「上のテトラコルド(ソラシドの4音)」「Uttar-Ang(ウッタラング/字義は上・北の部分)」を司る準基音的な役割を担っています。

これは、中医・漢方弁証論治における「下焦(横隔膜より下)」「上焦(横隔膜より上)」とも共通する感覚です。

また、Yogaでは、「Prayanama(プラーヤーナーマ)」が、Mudra、Asanaとともに重要な要素であり、正しく外気を摂り込み、必要に応じた正しい排気を行うことが、健康(正常化)に不可欠なものであるならば、それの直接的な機関である「呼吸器」とそれを司る第5Chakra:Vishuddha、そして、それに関わるRagaは、相当の重要性があるわけです。重要であるが故か、情緒と関わるRagaほど数はありません。少数精鋭といった感じでしょうか。

一方、喉や甲状腺と関わるChakraが、意思、知識、創造性、判断力を司るという概念は、少し分かりにくいかも知れません。しかし、呼吸器は「声/ことば」の原動力でもあるわけです。言うまでもなく、「呼吸器」が健康で正常な人は、「声/ことば」に余裕があります。自らが発する「声/ことば」に余裕があれば、他者の「声/ことば」に対しても余裕が生まれます。そのような人は、文章に対しても同じ傾向が現れます。もちろん逆もしかりです。

「声/ことば」の余裕とは、「声」に関しては、「柔らかさ、優しさ、深み」などであり、逆の状態は、「わめいている、しわがれている、怒鳴る」などです。「ことば」に関しては、「意味深く、示唆に富んでいるが、分かり易く、心に伝わる」というものであり、逆は「乱暴、ぞんざい、感情的」というものです。

極端に言えば、「余裕が在る声/ことば」は、「説法」や「朗読」のようなものであり、その逆の極端なものは、「獣のわめきと変わらない」ようなものです。

このように理解すれば、「呼吸器の健康」が、「健康な意思、知恵、判断力、想像力」と深く関わることが分かると思います。

実際、「人の言葉をすんなり理解しない,文章読解力が乏しい/論理的に話せない、文章力が低い」という人には「呼吸器系の問題やハンデ」があることが多いのではないでしょうか? 事実、大正〜昭和初期生まれの日本人では、そのようなこと(呼吸器、循環器、消化器の強弱善し悪しが、その人の所作、癖、性格に現れる)を言う人は多く居ました。

Viśhuddha-ChakraにちなむRagaは、「Panchamが重要」とは言っても、不必要にPanchamを強調するわけではなく、あくまでも自然に、Panchamにたどり着いて「落ち着く、安心する」ようなものがほとんどです。やはりこれも「自然体、余裕、健康」の象徴なのでしょう。

余談ですが、近年の傾向(あくまでも個人的印象ですが)を見るに、言葉や文字に余裕が無く(感情的で論理性が乏しい)、不愉快に思われるかも知れませんが、方向性が「獣方向」にじわじわと寄っている人が増えた様に思います。

その原因と言いますか、象徴的な様相に「口呼吸」がある様に思います。多くの人が「軽いアレルギー性鼻炎(過敏、過剰防衛)」の為、「鼻呼吸」を減らし、絶えず口を半開きにしている。これは癖にもなっていて、余計に「鼻腔の本来の機能」を鈍らせ、『鼻腔免疫機能」を低下させ、自律神経もおかしくして、悪循環を作り出している。あくまでも個人的見解ですが。

(文章:若林 忠宏

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若林忠宏氏によるオリジナル・ヨーガミュージック製作(デモ音源申込み)
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55、第4Chakra:AnahataとRaga

illustration of human chakra, lotus flower

胸にあるとされる「第4のChakra:Anahata」の「Anahata」は、この連載の冒頭で述べました、「宇宙の波動:Anahata-Nada(アナーハタ・ナーダ)」と同義・同語です。

「Anahata-Nada」は、耳に聞こえない波動であり、修行を経た声楽家の声や、楽器が正しく受信すれば、耳に聞こえる「Ahata-Nada(アーハタ・ナーダ)」に変換されるという概念です。すなわち、「Nada」は、Yogaで言うところの「Prana(プラーナ)」とほぼ同義なのです。

おそらく、古くはYogaでも「Prana」ではなく、「Nada」と呼んでいたのであろうことは、その通り道を「Nadi(ナーディ)」と呼ぶことで推測できます。むしろ「Prana」は、関連語「Prayanama(プラーヤーナーマ/呼吸法)」で分かるように、「気」に近い意味合いで、「PranaとNadaのリンクや一体感、同源論」が主流になった以降の概念、もしくは、「Nadaが体内に入った後の意味合い」ではないか、とも推測します。

Anahata-Chakraは、胸、心臓、肺、循環器に関わり、喜怒哀楽の情感や、愛情、とりわけ慈愛、や希望、信頼といった情感を司るとされます。

これは、私たち常人にも分かりやすい概念で、外的要因の影響を受けて、喜怒哀楽が発生し、それに、伴って心拍数や呼吸数が変動するということは誰でも実感していることでしょう。

その他にも、「胸が締め付けられる」とか「胸がキュンとする」などのやや深めの現象もあれば、「心に伝わる」「心に染みる」とか、「腑に落ちる」「心の琴線に触れる」などという深い表現もあります。

関連が深いだろうと思われる古代中国医学でも、同じ様な概念を見ることが出来ますから、VedaやYogaの科学を知らなかった日本人でさえも、目や耳に伝わるもの以外の何らかの「波動」が、直接的に心に伝わる実感や観念を持っていたに違いありません。そして、その受信機は、意外にも「第1Chakra:Sahasrara」ではなく、この「第4Chakra:Anahata」であるということです。

しかし、「Anahata」は受信専門ですから、「Sahasrara」の「交信機能」があって、「大宇宙と小宇宙が一体化」するという仕組みなのでしょう。

つまり、「Anahata」で受け取り、Nadi、経絡、神経、血管を介して全身に行き渡らせた後、「Sahasrara」で宇宙に返答するという仕組みの方が全てを網羅していると考えられ、どこか一部が「受信・返信」をしているというより分かり易いのではないでしょうか。

もちろん呼吸に関しても「皮膚呼吸」が言われますように、あらゆる「気」や「Nada」は私たちの心と体の全てに届き、総てから受け取っているという要素も必ずあると思います。

また、「Anahata」の受信能力だけでは、一喜一憂が激し過ぎる場合が考えられ、その反動(自己防衛)、受信能力を無意識に低下させてしまうこともあり得ると思われます。それ故に、下焦部のChakraが底力で支え、「第4Chakra:Vishuddha」が上に上げるポンプとなり、Sahasraraが、全体のバランスを調整しつつ、発信して行くのではないでしょうか?

これらのことは、科学音楽において、この「第4のChakra:Anahata」と関わる「第4の音:Madhyam」の存在、性質と役割によって裏付けられます。

Madhyamは、その字義通り「真ん中」ですが、「主、中心」というニュアンスとは異なり、単に物理現象的に「個体の真ん中」の意味合いだと思われます。

しかし、循環系にとって、効率的に「気」や「Purana」などをくまなく巡らせるためには必然的な位置であり、役割、存在、そして性質であるわけです。

その意味では、人間は生まれながらにして「不利な構造」、もしくは「愚かな構造」をしているとも言えます。心臓、および「Anahata-Chakra」が体のほぼ中心にあることは四足(昆虫は六で、八の生き物も居る)歩行に於いて最も賢い構造であるとするならば、立ち上がってしまった人間は、上に上げる過度な負担を心臓に強いている訳です。ヨガに横たわるAsanaや倒立がある理由も良く分かるというものです。

また、第4音:Madhyamには、隠れた存在感と性質があります。若干ややっこしい話ですが、まず、物理的に得られる「自然倍音」は、「五度、三度、七度」などであり、圧倒的に「五度」が強力に響きます。ドレミでいうと、「ド(Sadaj)」から五番目に在る「ソ(Pancham)」の音がそれで、それ故「ソ」は「ドの基音」に対して「属音」と呼ばれます。

ところが、絶対音感でもない限り「ド(1音)レ(1音)ミ(半音)ファ」と「ファ(1音)ソ(1音)ラ(半音)シ」の違いは分からないはずです。どちらもその間隔(音程)が「(1音)(1音)(半音)」であるからです。そのため、随分前に述べました「基音と属音を同時に鳴らす伴奏音:基音持続法(英語でDrone)」の「ドとソ(の五度)」も「ファとド(五度)」と区別がつかないはずなのです。

このようにして、「ファ/Madhyam」は、「ド/Sadaj」の「影武者」である、という解釈がなりたつのです。

そして、実際のRagaでも、その伴奏音(基音持続法。インド音楽用語でShrti)」を「ドとソ」ではなく、「ドとファ」を鳴らすべきとされるRagaが幾つかあるのです。

Chakraにおける「原点、基本、底力」は、言う迄もなく「第1Chakra:Muladhara」ですが、これは言わば、「蓄えた体力、気力、神通力、胆力」といった性質のものであり、それに対して、言わば「影武者/代理」将棋の「飛車と角」のような関係にある「第4Chakra:Anahata」では、新鮮に常時摂り込まれる外からの「力/波動」を受け止め、心と体全体に行き渡らせていると考えることが出来るということでではないでしょうか。

(文章:若林 忠宏

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若林忠宏氏によるオリジナル・ヨーガミュージック製作(デモ音源申込み)
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54、第3Chakra:Manipura/NabiとRaga

illustration of human chakra, OM symbol,amulet from Nepal

臍にあるとされる「第3のChakra:Manipura/Nabi」は、胃・肝臓・胆嚢・膵臓・脾臓・消化器と関わりがあり、自信、不安、エゴ、個性、理性を司るとされます。 「司る」という限りには、これも「恒常性のバランス感覚」に照らせば、過少は高められ、過度・過多は抑えられるということに他なりません。

西洋医学でも、かなり以前から研究、臨床が進みながら、私たちの日常生活の中では、あまり深くも正しくも理解されていないのが「自律神経(学)」ではないでしょうか? と言うより、はっきり言って「自律神経の大切さ」を分かっていたら絶対にあり得ない行為がまかり通っています。その挙げ句の「生活習慣病」とは、「良く言った(言えた?)ものだ」と思わざるを得ません。

「エアコンの多用」、熱いからと「冷たい飲み物やデザート」「薄着」、寒いからと言って「厚着」「熱い飲み物」を、何の疑いもなく取り込む現代人の多くが、実は既に「自覚の無い自律神経失調症」ではないかと危惧します。言い換えれば、自覚症状が出た頃には、最早修復に大変な作業を要し、後遺症や副作用を懸念すべき化学療法に頼らねばならないかも知れないからです。

この「自律神経」こそ、「恒常性のバランス」を具体的に実行する先鋭であり、「交感神経」と「副交感神経」は、端的に言えば、相反する作用の象徴的な存在です。語呂合わせのようですが、「自律神経の失調」は、「精神的な自律の失調」と相互関係にあり、ひいては「化学製剤に依存」という姿に至り、「自然治癒力と恒常性を失う」という姿に陥り、その意味での「自立の失調」を招くわけで、現代人の様々な体や心の問題のほとんどがこれに起因していると言っても過言ではないと思います。

奇しくも、7音におけるMahnipura/Nabi-Chakraに相当する音、「ミ/Gandhara」は、基音である「Sadaj(サラジュ/ド)」との関係が非常に密接な音です。科学音楽では、学派によって「初老」とも「少年」とも言いますが、私は母「Sadaj」と深い絆で結ばれた少年のように思えます。「ソ/Pancham」を夫とするならば、Gandharaは、立派な成人青年ですが、Panchamを長兄とするならば、Gandharaは、やんちゃな少年のようです。

いずれにしても「レ、ファ、ラ」の女性音の柔らかさ、優しさに対して、「ミ、ソ、シ」の男性音には、聡明さ、りりしさが共通して存在します。そして、この二種の音たち、つまり「Sadaj/Pancham:基音と属音」以外の音にはいずれも、「低い音と高い音」の二種があります。

「レ、ミ、ラ、シ」は、それぞれ「ナチュラル:♮」と「フラット:♭」があり、「ファ/Madhiyam」には、「♮」と「シャープ:#」があります。これは、不変音:Panchamに「♭」を付けるべきではないためです。

即ち、少年のような「ミ/Gandhara」には、より優しく、ある意味、哀しげで頼りない「Komal-Gandhara(コーマル・ガンダーラ/ミ♭)」と、明るく、自立した「Shuddha-Gandhara(シュッダ・ガンダーラ/ミ♮)」がある訳です。

そして、「第3のChakra:Manipura/Nabi」との関係は、左のManipura/Nabi-Chakraには、Komal-Gandhara、右と中央のManipura/Nabi-Chakraには、Shuddha-Gandharaが適応されると説きます。中国の陰陽説で言うならば、「♭=陰/♮もしくは#=陽」「左=陰/右=陽」でありますから、見事に符合(合理)します。

興味深いのは、この「第3のChakra:Manipura/Nabi」と関連があるRagaは、「Vadi (ヴァーディー/主音)」がGandharaであるばかりでなく、五音音階の性格が強いということです。上下行音列ともに五音の「Audava-Jati(アウダヴァ・ジャーティー)」の例もありますが、多くは、上行のみ五音で、下行は7音の、「Audava-Sanpurna-Jati(サンプールナ・ジャーティー)」です。

これらには、全体を男性音で占めたり、そうでない場合も、音数を減らすことで、Gnadharaの存在感が増すという結果が見られますが、それを意図したかどうか?までは分かりません。人間が意図して定めた、というより、神々の啓示を受けた叡智が生み出したものなのではないでしょうか。

このように、科学音楽の第3音「Gandhara」から学ぶ、「第3のChakra:Manipura/Nabi」とそれに関わるRagaの性質は、男性的であり、少年的であるとともに、第1音「Sadaj」と「第1Chakra:Muladhara」第5音「Pancham」と「第5Chakra:Vishuddha」および、五度上の関係の第7音「Nishad」と「第7Chakra:Sahasrara」と「倍音(物理的に生じる自然の摂理ともいうべき音関係)」の関係にあり、当然関わりが深いということが分かります。

また、「自信、不安(の解消)、エゴ、個性、理性を司る」ということも、誠に少年的でアクティヴです。

自信は不安を解消するとともに、依存からの脱却を果たします。自立と「表裏一体」であるエゴもしかりです。エゴや個性の暴走は、理性によって制御されます。

つまり、少年が成長する方向性には、バランスの取れた「自立」、すなわち「自律を伴う自立」があり、それは、自在に操れる車(自動車)のごとくに、偏り無く整備されていなくてはならないということです。

(文章:若林 忠宏

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若林忠宏氏によるオリジナル・ヨーガミュージック製作(デモ音源申込み)
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