52、第1Chakra:MuladharaとRaga

会陰部にあるとされる「第1のChakura:Muladhara」は、腎臓、副腎、腸、骨格に対応し、生命力、パワー、情熱を司ると言われます。中医・漢方弁証論治でも、「腎(解剖学的腎臓とは別次元)」は、同じような役割で説かれ、何よりも共通していることは、「Muladhara」の字義とも言われる、植物に喩えるならば、「根を支えること」であり、「根を張ること」であるということでしょう。「根気」という言葉にも現れているように、根源的、源泉的な力を秘めているのではないでしょうか。

科学音楽でも、このMuladharaと関連する7音は、全ての始まりである、「Sadaj(サラジュ/ドレミのド)」です。Sadajは、属音(相棒のような存在)「Pancham(パンチャム/ソ)」と共に「Akal-Swar(アカル・スワル/不変音)」と呼ばれ、全てのRagaの基本であり、インド音楽は「Sadajに始まりSadajに終わる」と言うことさえ出来るのです。

古代後半以降のインド音楽は、全ての音階/旋法がこの「Sadaj」から始まりますから、並べて語るのもおかしいのですが、西洋音楽の和声(いわゆるコード)でも、基本の音は「Root(根音)」と言われますから、当たらずとも遠からず。似たような感覚を抱いているのでしょう。

単純に考えると、このMuladhara-Chakraに特別に関わるRagaは、「Sadaj」が基本である、ということになるのですが、それでは「全てのインド音楽」に言えてしまう訳です。しかし、ここで「○○を強調する、大切にする、重みを増す」ということを考え直してみて下さい。「お気に入り」ならば、何時でも側に置いておきたいものですが、極めて大切なものは、箪笥の奥にしまって置くかも知れません。

つまり「Sadaj」に重みを与える為には、「頻繁に登場する」という方法の他にも、「巧みに前後の音との関係から印象付ける」もあれば「意図的に避け、枯渇状態を導く」という逆説的な、つまり「中々Sadajが出て来ない」という「究極の強調法」もあるわけです。

これは医学的にも言えるはずです。単純な話、「唾液が足りない」という時に、流石の西洋化学対処療法でも、「唾液の輸液」はしません。「唾液の分泌を促す」はずです。同じ様に、Muladhara-Chakraを活性化させる為には、「活性を妨げている障害を取り除く」「関連のChakraとの関係性を潤滑にする」「そのChakra自体の活性を促す」の異なる手法がバランス良く、または、状態に応じて選択する必要があるに違い在りません。

古代科学音楽とアーユルエーダ音楽療法でも、この数種の手法で考えられています。

具体的には「肝腎要」の言葉があるように、Mujladharaの腎と、「第3Chakra:Manipura/Nabiの肝」は様々な意味において深い関係にあります。

したがって、「Sadajをことのほか強調するRaga」は、自然倍音(長三度)の「ミ:Gandhara」との関係性や、前述の「Pancham:ソ」との関係性から「Sadaj」の存在感を引き出します。

かと思うと、私の師匠の十八番だったRaga:Shyam-Kalyan(Muladhara-Chakraと拘ると言われています)などは、「SadajとPancham以外の音の動きが活発」という、一見逆のようなRagaです。ちなみに、ヒンドゥー教徒の音楽家にとって、この「Shyam」はKrishnaのことです。

このRagaの音の動きは、若いKrishnaが、Vrindavanの森で、Gopi(乳搾りの娘)たちの間をあちこち飛び跳ねるかのように動き回ります。しかし、大局的に見ますと、その動きは大きく二種類に大別され、それはある意味で「二面性/二元性」でもあります。Krishnaの場合は、「しつこさ」と「つれなさ」で、Gopiたちの心を翻弄させます。

やはりこれも「恒常性」と関係がある作用でもあり、何かの働きを活性化させる為には、「北風と太陽」「飴と鞭」「なだめすかす」と常に逆方向からの刺激が用意されていなければならないことを示唆していると考えられます。

そして、そのような「両極端」の対峙からこそ、究極の真理である「ただ一つの基音:Sadaj」が見えてくるわけです。

(文章:若林 忠宏

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若林忠宏氏によるオリジナル・ヨーガミュージック製作(デモ音源申込み)
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51、ChakraとRagaの関係

Meditation time

Chakraの数には「7」の他にも、「12」を説く流派もあれば、古代科学音楽にあって廃れたのだとしたら「22」も在ったのでは? と述べましたが、ここでは、基本であり、ある意味究極かも知れない「7種」を基にお話させて頂きたいと思います。

まず、それぞれのChakraは、その位置に比較的近い臓器の働きに当然のように深く関わっています。その一方で、西洋医学の感覚からすれば直ぐには分かりにい「全身的」な関わりや、心や精神との関わりも説いています。
例えば、会陰部にある「第1Chakra:Muladhara」が、生命力や生気、情熱に関わるとは、西洋医学的な感覚では分かりにくいのではないでしょうか? しかし、昔の人が「胆力」と言っていたように、下半身が丈夫で健康でないと根気、気力も持久力もわきませんし、実生活でも下半身に支障が生じた時には、やる気も集中力もわかない経験をされた方は少なくないはずです。
問題は、それが、口まわりでも同じだったりすることです。歯痛や口内炎などでも同じように、やる気も集中力もわかない経験をされたことはないですか?  アーユルヴェーダや中医・漢方弁証論治の「全身療法」の考え方では、これらは、深く関わり繋がっているから、意識、気力に似たような影響が出るのは当然なのです。
つまり、一つ一つのChakraには、専門的な性質や役割がありますが、それらは互いに深くかかわり合っている、ということです。
もしこれらに、西洋科学の合理主義的なエビデンスが得られれば、なんと喜ばしく、堂々と語り、多くの人々が心底信じ切って安心出来ることでしょうが、現状そうでもないところが悔しいところです。

しかし、人間の数千年の歴史のスケールで見れば、西洋医学・解剖学で、血管の他に、リンパ管、神経という脈絡があることが発見されたのは、それこそ「つい先日のこと」かも知れません。なら、将来、「気」や「経絡」「Nadi」などが実態として認識され医学の概念が根底からくつがえされる時代も来るかも知れないわけです。

今回からしばらく、このような幾つかのことを念頭において、古代インド科学音楽の療法について、考えてみたいと思います。

ひとつは、今述べました「Chakraの専門性と相互関係」というテーマですが、そこで大切なことは、やはり「恒常性」との関係性だと考えます。

私たち現代人は、意識や感覚では「曖昧、柔軟」を好みつつも、心や体の健康や安全安心に関しては、意外に「白黒付けたがる」傾向にあるとは思いませんか? 要するに、「これは有害、これは無害、これは有益」と、けっこう厳しく選別しているように思われます。
しかし、「恒常性」にとっては、「両極端のどちらも必要」なはずです。故に、どちらかを選別してしまうということ自体が「恒常性」を壊す行為とも言えるわけです。

もちろん、急を要する対処が必要不可欠の場合は、「恒常性」と、それによる「自然治癒力」が壊れかけているからに他なりませんから、それを補う、是正することをせねばなりません。中医・漢方弁証論治にも「急則治其標」という有名な言葉があり、「急を要する場合は、標治(表出された急性の症状に対処療法を施すこと)せよ」と教えています。
しかし、東洋医学の目的は「バランスを整える」であり、それは「変えること」ではなく「元(自然治癒力)に戻すこと」であるはずですから、緊急の対処法、は、正常な状態からみれば「極端」であり、「対処療法」は、あくまでも「緊急避難措置」なはずなのです。

また、明らかな「有害物質」が、「恒常性のための両極端」の一方であるはずはありません。しかし、心と体に摂り込むべきものは、「善悪、白黒」的に言うならば、「両極端をセットで摂るべき」、という基本があるということを忘れてはならないはずです。
もちろん「有害なものも摂るべきだ」という意味ではありません。しかし、「美味しい不味い」「甘い苦い」「分かり易い分かりにくい」となってくると、ついつい「利害」の感覚を当てはめてはいないでしょうか? 例えば、言葉や忠告などともなれば、ものすごく多くの人が「耳に優しい=良い(有益)」「耳が痛い言葉(や話)=悪い(無益どころが有害)」的に感じてしまうクセがついているのではないでしょうか?

また、ついつい対処療法的に、「○○の調子が悪いから」と、ある部分(目的)のためだけの処方を試みようとしてしまいがちではないでしょうか?
もちろん、これも「急則治其標」です。しかし、長期に渡って「そればかり」に偏ってしまっては「全身療法」から遠ざかってしまいます。
この辺りを今一度振り返ってみないと、「心と体が摂り込むもの」と同様に、体を健康(本来のニュートラルな状態)」に戻すためのYogaもRagaも、偏ってしまうかも知れないのです。
例えば、「寝付かれない、睡眠の質が悪い」という現代人は少なくないですが、全て「リラックス、癒す」が効奏するとは限りません。体の臨戦態勢が亢進した結果の興奮状態と、内面の奥底の力(例えば第1Chakraなど)が弱まった結果の「急鼠猫を噛む」的な興奮では全くその質が逆さまです。このことは、神経科のお医者さんならばある程度はご理解されているはずです。
この意味でも、Ayurvedaの「質(傾向や状態)を診る」及び中医・漢方弁証論治の「証を診る」という概念は、極めて理に叶ったものであると言えましょう。

(文章:若林 忠宏

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若林忠宏氏によるオリジナル・ヨーガミュージック製作(デモ音源申込み)
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50、20世紀の伝説的な太鼓奏者

A young boy playing on traditional Indian tabla drums.

第二次世界大戦が終わり、パキスタンとの分離独立によって共和国となり、宮廷音楽が終焉を迎えてもなお、その後十年二十年に渡っても、インド音楽楽壇における太鼓奏者の地位は、決して高いものではありませんでした。

カースト制度で知られる身分制度(実際は単なる身分、貴賎ではありませんが)があるインドに対し、「神の前の平等」を説いたイスラム教諸国でさえも、ある程度の身分の貴賎はあり、とりわけ音楽家に対する卑下の念は近年まで根強いものがあったと言われます。故に、イスラム王朝時代のインドにおいて、イスラム教徒の音楽家の中でも、イスラム教に改宗した後でさえ、身分の貴賎、優劣はつきまとっていたと言われます。

特に太鼓奏者は、幾つかの理由が合わさって、おそらく最も卑下された立場にあったと考えられます。

世界的に知られるようになった弦楽器シタールの演奏家が、「Sitar Nawaz、Sitar Wadak」それぞれ「シタールの貴公子、シタールの巨匠」などという輝かしい称号のようなものがあり、全て並べると「Sitar Nawaz KhanSaheb(カーン様) Ustad(先生) ○○ Khan」などというご丁寧な呼称になります。

それに対して太鼓「Tabla(タブラー)」の演奏者には、ごく近年になって、「Tabla Wadak」が見られる程度で、それも当初は多くの楽人が眉をひそめたほどです。それどころか「Tablchi(タブルチー/太鼓野郎)」などという言い方さえあり、この「Chi」が声楽かや器楽奏者に付けられることは決してありません。

そんな、はっきり言えば明らかに冷遇された立場の太鼓奏者ですが、それでもなお、楽壇で一目置かれ、語り継がれ、音楽史にその名を刻んだ偉人的名手が何人か居ます。しかしながら、それでもやはり扱いは低い。シタールの巨匠の数倍の修行と深みと芸術性を持ちながら、同等にさえ扱われないのです。しかも、そのような卓越した太鼓奏者は、太鼓の流派の中でも分家の末端に居たりするので、本家の家元を差し置いて賞賛する訳にもいかない、という世知辛いしがらみもあります。加えて、多くの太鼓奏者が、極めて貧しいだけでなく、そのような清貧な人生に何の疑問も不服も抱いていない、というのもかつての当たり前の姿でした。

もちろん近年になれば、太鼓奏者の立場、地位も上がり、シルクのクルタ(シャツ)に純金のカフスをはめて運転手付きで重役出勤する大先生も現れました。

インド太鼓「Tabla」の主流六大流派のひとつ「Benares-Gharana(Varanasi-Gharana/ベナレス・ガラナ/ヴァラナシ派)」が輩出した、Pandit Anokhelal Misra(1914〜1958)は、インド政府が「封印」をしたという噂さえあるとんでもない名人でしたが、分家の一門下に過ぎませんでした。

伝説的なと或る体育館で行われたコンサートでは、シタール奏者も熱演し、互いにヒートアップし、遂にはシタール奏者の手が動かないスピード迄上がってしまったにも関わらず、Anokhelalは、まるでそのまま昇天するのか? 全く止まる気配を見せずに独奏状態になり、それでもテンポを上げて行ったというのです。しかも、指先で叩く小さな太鼓であるにもかかわらず、そのうねる様な波のようなビートは、体育館の満員の聴衆をひとつにする程の力を持ち、なんと最後は、興奮した聴衆が腰の下のパイプ椅子を両手でつかんで腰と椅子を上下させる大音響が、一つのビートとなって鳴り響いたというのです。

真偽の程は分かりませんが、その時の演奏を記録したテープは、インド政府が「100年公開してはならない」と封印したと聞きました。

インド太鼓奏者には、Anokhelalの他にも、超人的と奇人的が合わさったような常識を超えた技法や名演奏でしられる人物が少なくありません。それでもなお、旋律楽器奏者の多くは、その奇人的な面をやり玉に上げて、少なからず卑下したように言うのです。楽器が違うのだから、嫉妬する必要もなかろうに、と思うのですが、インド音楽における旋律奏者と太鼓奏者の善くも悪くもライバル意識、対峙関係、は、たどれば「RagaとTala」の永遠の確執、二元論にも行き着くのでしょう。

旋律奏者たちの捨て台詞は、「やつら飯喰ってる時でさえパーンを噛んでやがるから、大概頭がイカレてるんだ」でした。

(文章:若林 忠宏

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若林忠宏氏によるオリジナル・ヨーガミュージック製作(デモ音源申込み)
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49、ヤントラの犠牲? Basat Khan

illustration: OM symbol,amulet from Nepal,universe.

Umrao Khanとほぼ同時代に、Seni派のもう一方、Rababiya派には、Pyar Khan、Zafar Khan、Basat Khan三兄弟というSeni派の歴史に名高い名手が居ました。

この三人は、Tan Sen Rababの中興の祖と言うべき演奏家であり、長男と次男は子宝に恵まれず、わずかな弟子を持った他、もっぱら自らの音楽探求と演奏に集中しました。逆に、三男Basat Khanは、訳あって演奏活動よりも弟子の育成に務め、自身とその三人の息子からは、膨大な人数の弟子が育ち、いずれも後の巨匠格に君臨しました。

Basat Khanのその「訳」とは、Haddu Khan以来の伝説的な「腕比べ」のせいであると言われます。

Basat Khanの「腕比べ」は、例による王の無理難題ではなく、Mridang奏者の「道場破り」によるものでした。

長男、次男は他の宮廷に登官していたので、ラクナウ宮廷の楽師は皆ことごとくそのMridang奏者の超絶技巧に敗退し、トリに手合わせをしたBasat Khanは、見事にそのMridang奏者を打ち負かしたのですが、なんと、そのMridang奏者は、腹いせにヤントラを仕掛け、Basat Khanの右腕を不随にしてしまい、若くしてRababを弾くことが出来なくなり、その後はDhrupad声楽と、後進の育成に務め、高い評価を受け続けたというのです。

実は、私のSitarの師匠とSarodの師匠は兄弟で、兄が継いだSarodの家系こそは、RihilKhandのアフガン系音楽家で、Sarodの発明者でした。

私の師匠の父親と祖父、叔父はBasat Khan三兄弟の弟子だったので、この逸話について訊いてみたことがありますが、否定も肯定もしませんでした。これがヒンドゥー教徒の師匠だったら、どっちの肩を持つ人であろうと「そんなんだよ!」と熱く語ってくれたかもしれません。「ヤントラ」の話をイスラム教徒の師匠に語った自分の無粋を恥じたものです。

ところが或る日、Sitarの師匠から思いがけない言葉が飛び出しました。

器楽Gatは、19世紀に入ると声楽流派の門下出身のSitar奏者たちによる声楽の模倣が流行し始めるのですが、Sitar最古の二流派の巨匠たちは、それに反発し改めてDhrupadの奥義を取り込み、器楽のアイデンティティーを高めたのです。

奇しくも私の師匠は、初めに師事した師匠が亡くなった後、二人目の師匠に着き、結果その最古の二流派を学ぶことのなったのですが、師匠曰く、「器楽でしか出来ない我々の流派の音楽は、極めて理論的で科学的な音楽なのだ」と言うのです。そして、その音楽は、当時の楽壇で高く評価され「Tantra-Baj(様式)」と呼ばれるようになったのだと言うのです。まさか、イスラム教徒の師匠から「タントラ」の言葉を聞くとは想いもしませんでしたし、古代科学音楽が、あるべき形でしっかりと継承されていることを、イスラム教徒の音楽家が証言してくれたのです。驚きと感動の瞬間でした。

「恨みのヤントラ」の逸話は、比較的ヒンドゥーよりの複数の文献にありますので、恣意的に悪く描いたのではないと思われますが、やはり「ヤントラを悪用した悪者」のイメージは拭えません。しかし、この闘いの根底には、やはり科学音楽の伝統を守らんとする者と、アヴァンギャルドでハイブリッドな音楽との対立があります。

Mridangという太鼓は、古代から主流であった音楽の象徴のひとつでもあります。一方、ラクナウ宮廷は、最高位にはRababiyaたちが君臨していたとは言え、大勢は、「新音楽」の先鋒たちでしたから、Muridang奏者にしてみれば、敵の本丸でもあったのでしょう。

しかし、何故、同じDhrupadiyaを標的にしたのでしょうか? ムスリムだから? 新音楽の弟子を多く育てたからか?

何時の世にも、志が高じた挙げ句、過度に教条主義的になり、時に過激な行為に至る人間が居ます。さりとて、身の回りの安泰を良しとして、見て見ぬ振りの人間が多くなると、百年千年の視野で気づく大きな過ちや損失を招いてしまいます。インドの精神世界の根底にあるだろう「二元性と両極端の共存」は、単に「どっちもOK」でもなく、雑然と混在していて良いということでもないはずです。

人間の健康を維持している「恒常性」は、血液のpHや血糖値が上がれば下げる、下げれば上げる。そのためには、「上げる力」と「下げる力」という相反する力が均等に備わってなければなりません。

つまり、「相反するもの」は、常に正しく整理整頓され、あるべき処に安置保管され、何時でも発揮出来るようになっていなければ、単なる玉石混淆に過ぎません。それどころか、「消火用水」にガソリンが混じっているようなものです。

アーユルヴェーダでも中医・漢方弁証論治でも、その「相反するものの均衡」が崩れる時に「病気」になると説いています。すなわち、「両極端」の双方を司る「恒常性」の意思(命令系統)が失われた状態自体が、既に「病気」なのです。

しかし、人間の歴史を見てみると、常に争いの勝敗で世の中、社会が変貌してゆくばかり、「恒常を司る意思」の存在を無視しているのか? 知らないのか? 分からないのか? 切なくも果てなき課題です。

(文章:若林 忠宏

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若林忠宏氏によるオリジナル・ヨーガミュージック製作(デモ音源申込み)
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48、悲運の天才:Haddu-Hassu Khan

Tabla drums

Haddu Khan(?〜1875)とHassu Khan(?〜1859)兄弟は、後に述べさせていただく、Rababiya(Tan Sen一族の次男の系譜)のBasat Khanと共に、近世のおそらく最後の伝説的な音楽家と思われます。以後は、流石に神秘的な逸話も奇跡的な逸話も聞かれないのですが、それは必ずしも近現代で科学的考証が進んだからとも言えないと思われます。何故ならば、伝説的な逸話が語られる巨匠たちが、非凡どころか波並ぶ巨匠たちの中でも桁外れな存在であったことも事実のようだからです。

インド古典音楽における「歌合戦」や「腕比べ」の伝統的な風習の多くは、ヒンドゥー音楽文化と、イスラム文化圏西域の音楽文化の対峙構造のようなものでした。

しかしながら、ここで新たにご紹介する兄Hassu Khanと、Bare Muhammmad Khanとの熾烈な「歌合戦」は、Khayalという同じジャンルにおける流派間の確執と、個々の人間同士の確執が生じさせたと言う意味において、きわめて現代的と言えましょう。

Hassu Khanの悲劇は、すでに兄弟の曾祖父の代にアワド王朝の古都ラクナウの宮廷で始まっていました。

兄弟の曾祖父、Makkan Khanは、ラクナウ宮廷トップクラスのKhayal声楽家でKhayal-Lucknhow-Gharana(※)の家元でした、(※)インド古典音楽では、流派のことを、ペルシア語の「家」を意味する「Gharana」と呼びます。

ところが、ラクナウ宮廷では、Khayal-Jaypur-Gharanaの家元Shakkar Khanも高名で、Makkan Khanと双璧をなしていました。そして、事件は、Makkkan Khanの幼い孫、後のHaddu・Hassu兄弟の父となる Kadir Bakhshの毒殺未遂だったのです。

Makkan Khanの息子で、すでに若手声楽家として台頭しつつあったNattan Pir Bakhsh Khanhは、流派存続の危険と争いから逃れ、二人の孫Haddu・Hassu兄弟を連れてグワリオール宮廷に転職しますが、第二の事件は、その宮廷で、Kadir Bakhsh暗殺未遂事件の首謀者と目されるShakkaru Khanの跡継ぎBade Muhammmad Khanとの間に生じます。

Muhammad Khanは、既にグワリオール宮廷で不動の地位を得ていたのですが、そこにNattan Khanと二人の兄弟が来た。面白くないと思って居たところに、数年が経ち、兄弟は急速に成長し評判になり始めた。当然、兄弟は兄弟で、幼かった父を殺そうとした首謀者の一人の存在には神経を尖らせていたことでしょう。

或る時、あろうことか兄弟は、Maharajaに懇願し、六ヶ月間Muhammad Khanの奥義を盗み聴きする機会を得たと言うのです。13世紀に彼のAmir Khusrawが、Allauddin王の王座の下に隠れGopal Nayakの歌を盗み聴きしたことに倣ったのでしょうか?

そして、六ヶ月の後、突然若手兄弟が、自分の技法を模倣して歌い、Jaypur派とLucknow派を合わせたような斬新な作風・技法でのし上がって来たのです。

Muhammmad Khanがどれほど激怒したか想像に難くありません。

哀しい結末はほどなく訪れます。

或るMehfil(玄人衆だけの演奏会)において、Muhammad Khanは、若い二人を大いに褒め讃えます。そして、こう言ったというのです。「大変素晴らしい!お見事だ!」「だが、まさかアレは出来ないだろうな?」「出来たとしてもやらんだろうなぁ」と、

その禁断の技はと或るRagaだけに存在する「稲妻ターン(即興的旋律)」というものですが、その挑発に、兄Hassu Khanは、乗らざるを得ないと考えてしまった。

そして、見事に歌い終わらんとする頃、肋骨が膨れ上がり、血反吐を吐いて突っ伏し、数日後に息を引き取ったというのです。

ご存知のように、イスラム教徒の名前は、幾つかのアラブ名が付けられますから、同じ名前は幾らでもあるのです。しかし、兄が壮絶な最後を遂げた時、弟Haddu Khanの長男が既に生まれていて、名前がつけられていたのならば、奇遇と言いますか、皮肉な運命と言いますか、その名はMuhammadなのです。

そして、そのMuhammad Khanもまた優秀なKhayal声楽家に育ち、Gwalior-Gharanaの急先鋒になったのですが、「これから」という時に若くしてムスリムの禁忌である飲酒に溺れ事故死してしまいます。父であり家元であったHaddu Khanもたいそう気落ちし、数日後に亡くなっています。

(文章:若林 忠宏

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若林忠宏氏によるオリジナル・ヨーガミュージック製作(デモ音源申込み)
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47、新音楽の誕生

old sitar on red background - ancient indian instrument

インド古典音楽は、18世紀をピークに常に発展し続けて来たと言えます。しかし、その姿は、今日の人間の感覚とは幾分肌たりがあるように思われます。

今日の人間の感覚では、進化発展の必要条件は「時代を先取りすること」であり「来るべき新しい価値観に対する敏感なアンテナと、斬新なセンスを持つこと」かも知れません。しかし、東西文化史の数千年を見ますと、今日風の感覚は、大きな流れの中の一過性のアンチテーゼのある種の形態に過ぎないことが分かります。

文化史の大きな流れには、確固たるメインカルチャーの存在があり、それに対峙するサブカルチャーもそれなりの頑強さを持ち、単なるアンチテーゼのレベルではなく存在し対峙していたのです。言い換えれば、鏡の前にメインカルチャーが立ってこそ、鏡にサブカルチャーが映る訳ですから、誰も立たなければ何も映らない。弱り切った姿で立てば、弱り切った鏡像しか映らないということです。

インド古典音楽におけるメインカルチャーは、言う迄もなく古代科学音楽に源流を見る厳格な声楽様式でした。それ自体は、サブカルチャーの存在も触媒の存在も求めず進化していました。何故ならば、その時代の原動力は、飽くなき探究心であったからです。そしてそれは、進化発展の限りを尽くし、難解で重厚で複雑な構造のPrabandhaに至りました。その言わば簡略系のDhrupadでさえも、イスラム宮廷古典音楽の王座の地位を400年以上もの間守り続けて来ました。つまりDhrupad自体は、16世紀から殆ど発展進化していなかったのですが、この不動の姿がメインカルチャーとして存在したからこそ、新しい音楽様式が活発に生まれることになった訳です。

DhrupadiyaであるSadarangがその原型を創作した新様式「Khayal(カヤール)」が流行したころ、「Khayalの器楽版」とでも言うべき「Gat」という器楽様式が生まれます。Khyalの宮廷楽壇への登場によって、花柳界の伴奏楽器Sarangi、太鼓Tabla、まだ簡素な伴奏弦楽器だったSitarが宮廷楽壇の末席の地位を得たことが大きな要因と考えられます。つまり、「Gat」の母体もまた、不動のサブカルチャーであった「花柳界音楽文化」であったのです。

次の段階において、KhayalもGatも単なる「触媒/ハイブリッド」から、メインカルチャーの末席であっても確かな地位を確立します。その為には、花柳界音楽とのある種の決別、および、理論的、構造的な発展昇華が不可欠でした。

Khayalの原型は、花柳界風の言わば「小唄」でしたが、それを重厚かつ情緒豊かで、しかも理論的に高度なものに発展させる必要がありました。

そこで、Dhrupadiyaの子孫のKhyala声楽家は、改めてDhrupad技法を取り入れ、全体と重々しくゆったりとしたテンポで歌うスタイルを開発しました。言わば「長唄」のような意味合いで、これを「Bada Khayal(バラ・カヤール/大きなカヤール)」と呼び、それまでの「小唄」を「Chota khayal(チョータ・カヤール/小さなカヤール)」と呼んで区別するようになりました。

Gatの成立にはいささか複雑な事情がありました。まず最初に誕生したのが、アフガン系音楽家による新しい楽器「Sarod」を用いたDhrupad音楽の演奏形態「Rohili-Gat」でした。伴奏にはもっぱらMridang(Pakhawaj)を起用していたことから、Sitarに先んじて古典音楽の楽壇に登ったことと、後のGatよりDhrupadに近い様式を演奏していたことが分かります。近年の余興的セッションやコラボでもない限り、Sitarの伴奏をMridangが務めることはありません。

その後50年から100年近く経ってから、新楽器Sitarを用いたGatが確立します。Seni-Vinkar-GharanaからRahim SenとAmrit Senという親子が親戚の猛反対を押し切ってSitarを専門とし、祖父Masit Khanが開発した新しいスタイル「Masit khani Gat」を完成させたと言われます。ゆっくり(Vilambit)とした壮大なスタイルは、Khayalの「Bada-Khayal」に相当する重厚なもので、これによってSitarとTablaによるGatの地位を高めました。

19世紀に入ると、同じRagaの早い軽快な(Drut-Laya)様式を繋げてメドレーで演奏することが流行りました。後者は、Reza Khani Gat」と呼ばれますが、創始者のように言う人もいる、Ghulam Reza Khanは、生涯花柳界式の叙情歌歌手だったとも言われます。

(文章:若林 忠宏

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若林忠宏氏によるオリジナル・ヨーガミュージック製作(デモ音源申込み)
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46、リベンジ他流試合:Sadarang

drums

Sadarangの生没年は不詳ですが、ムガール帝国12代皇帝Muhammad Shah(在位:1719〜1748)の宮廷楽師の頂点に居た声楽家のひとりで、16世紀の楽聖Tan Senの娘と婿の系譜「Vinakar派」の10代目でもあります。Sadarangの逸話にもまた、「腕比べ」の話があり、それは彼の音楽人生と、インド古典音楽の歴史を大きく変えたものでした。

Sadarangはタイトルで、本名はNiyamet  Khanです。前述しましたように、高名な音楽家は、むしろ本名よりタイトルで呼ぶことが礼儀であり名誉であったのです。

しかし、このSadarangのタイトルには、他に特別な意味がありました。

それは時の皇帝の無茶苦茶な「Jugal-Bandhi(競演)」の要望が原因でした。皇帝Muhammadは、Niyamet KhanのVinaと、当代随一と言われる弓奏楽器「Sagangi(サーランギ)」奏者とのバトルを命じたのです。しかし、Dhrupadと、当時はまだ花柳界の歌姫の伴奏楽器だったSarangiとでは雲泥の格差があります。

当然Nyamet Khanは、皇帝Muhammadの命を拒否し、皇帝は、彼を宮廷から追放し、放浪の挙げ句に、東方の藩王国の楽師に落ちぶれたのでした。

古今東西で、誤解や一時の感情のもつれで絶縁した縁や関係を、何らかの特別な努力によって修復する物語の美談が語り継がれていますが、インド人はことのほかそのような話が好きなようです。しかもインド人は、あえて「相手の土俵で相手のルールで闘い勝つこと」を「粋」「誇り高い行為」と考えているように思います。

Niyamat Khanにとってのそれは、Sarangiが属する花柳界の歌姫の音楽でした。もちろん自らの本道は、科学音楽の末裔であるDhrupadに他なりませんから、彼自身が花柳界の音楽を演奏する訳にはいきません。

そこでNyamet Khanは、東方の藩王国で、花柳界の歌姫に新しい作風の歌を創作し仕込みました。それが後に宮廷古典声楽の主流の座を獲得する「Khayal(カヤール)様式」で、たちまち東方で大流行し、やがて西のデリーの花柳界でも流行し、皇帝Muhammadの耳にもその評判が届いたのです。

インドに限らず当時の歌は、ジャンルを問わず歌詞の中に作者の雅号を織り込む風習がありました。Nyamet Khanはその雅号を「Sadarangile Monmad-Shah」としたのです。「Monmado」や「Momo」は、ごく親しい者だけに許されたMuhammadの愛称ですから、「愛しのMuhammadの僕Sadarang」のような雅号なのです。

Nyamaet Khanの願い通り、とは言っても数年十年掛かりのことですが、皇帝Muhammadは、その雅号が気になってしかたがなくなり、「その者を探して連れて来い」ということになったのです。

一時の酔狂に過ぎない「腕比べ」をしてみるまでもなく、Niyamat Khanの実力は明らかであったと証明され、皇帝のメンツも立った訳です。

そればかりでなく、それを期にこの新しい声楽様式は、宮廷音楽の舞台に上がることが許され、歌姫の男兄弟のSarangiも太鼓Tablaも、その伴奏で宮廷に上がることができ、花柳界楽士の大出世にも繋がった訳です。

そして、これによって、この後数十年から百年掛かって、それらの「新音楽」が、宮廷楽壇の主流になって行くのです。

だからといって安直に「SadarangはKhayalの創始者である」というのは乱暴です。何故ならば、Khayalに至るまでにも幾多の物語があるからで、地位と名誉は歴史に遺る偉人に至らずとも、崇高な魂、精神性を持ち、寝食を犠牲に心血を注いだ人間が存在したはずだからです。

(文章:若林 忠宏

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若林忠宏氏によるオリジナル・ヨーガミュージック製作(デモ音源申込み)
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45、天才の心の闇:Baiju Baura

Indian dance

Baiju Bawra(生没年不明)は、16世紀、全インドを統一した名君Akbar大帝の時代にグワリオールのヒンドゥー藩主に使えた音楽家で、前述のMiyan Tan Senの兄弟子、つまり、Swami Haridasの弟子の一人で、三百年前のAmir KhusrawとGopal Nayakの「歌合戦」よろしく、Tan Senとの「歌合戦」の逸話も語られています。

Baiju Bawraもまた、Tan Senに劣らぬ多くの逸話があり、映画も作られたほどです。もちろん眉唾ものも少なくないようですが、Tan Senとの数奇な運命の巡り合わせは事実のようです。

熱心なKrishna信者の母の影響で、自らも深くKrishnaに帰依していたBaijuは、母の望みのまま、Krishnaの森Vrindavan(ヴリンダーヴァン)に在るSwami Haridasの修行舎(Ashram/アシュラム)に入門し、師も驚く才能を開花させ、やがて後にTan Senも仕えたグワリオール宮廷で、自らも音楽家であった藩主Raja Man Singh Tomarの楽師となります。

Baijuはヤムナ河の畔で練習中に、生まれたばかりの捨て子を保護し、師Swami Haridasに届けます。世捨て人のようだった師は、何を思ったかその子を我が子のように育て、やがてBaijuに音楽指導を任せます。後にBaijuは、師が貧農から引き受けた幼い姉妹の指導も務め、その一方は、成人となりDhrupad免許皆伝となった元捨て子Gopalの妻となり、一人娘Miraを授かります。Miraの名は、Krishna Bhajan(クリシュナ献身歌)の名作者、Mira Bai(ミーラー・バーイ)にちなんだに他なりません。

Baijuは、我が孫同様のMiraを溺愛したと言われます。近代でこそ「依存症」という心の病としての認識も治療法も試みられるようになりましたが、16世紀のことです。また、伝説的な楽聖と肩を並べる程の才能と実力を持ちながらも、心の弱さに克てなかった様には、色々な意味で切ない想いがこみ上げて来ます。

Baijuは、GopalがMiraを連れてKashmir宮廷に登官してしまった裏切りに耐えられず心を病み、アテもなく毎日Miraを探しに徘徊するようになってしまったと言われます。Baiju Bawraもまたニックネームですが、「Bawra」は「狂人」の意味です。

そのような状態で、如何にしてTan Senとの「歌合戦」が成り立ったのか? それはTan Senの執拗な願いのせいでした。

Tan Senは、グワリオール宮廷、Vrindavanのアシュラムと、自らの音楽探求と修行の道のりの行く先々で、Baiju Bawraの評判と足跡とに向かい合わされたのです。

やっとのことで、Akbar大帝の見守る中、Vrindavanの森での「歌合戦」が行われ、美談が語るには、Tan Senは、Baijuの音楽の奥深さに涙し、ひれ伏して手合わせの光栄に感謝をしたと言われます。

「俗世を捨てた」ようなSwami Haridasが、晩年に見せた恵まれない子供たちに向けられた熱心な教育願望も、修業時代に家族をないがしろにした罪悪感と後悔であるとしたら……。

名だたる聖人たちはいずれも、崇高な音楽の深み高みのみを目指しているようでいて、その内面には、葛藤に負けた弱さを持ち、自尊と切り離すことが出来なかった孤独感を抱いていたと見ることができます。

もちろん、これを「人間くささ」と容認することは可能でしょう。逆に言うと、そのような自分の弱さを知り、少なからず恥じ、罪悪感を抱く分、音楽探求に突き進んだと見ることもできるのかもしれません。

いずれにしても、やはり「二元性/両極端の共存」のインドのこと、「清く正しい精神で音楽の真理探究に邁進する想い」と「ありふれた」と言っては語弊がありますが、普通の人間が普通に抱く「俗世の平凡な情感」もまた、二元的・両極端として一人の人間の中に混在することも、ある意味「自然」として容認されるのかもしれません。

(文章:若林 忠宏

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若林忠宏氏によるオリジナル・ヨーガミュージック製作(デモ音源申込み)
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44、ムガール宮廷最高位楽師:Miyan Tan Sen

Man playing the sitar

16世紀に、ほぼインド全土を支配したムガール王朝歴代君主の中でも抜きん出た名君とされるAkbar大帝の宮廷楽士長であり、音楽のみならず様々なことを含む師のような存在であったのが、Miyan Tan Sen( 1493?/1506?~1586?/1589?)というインド音楽史最大の楽聖です。

Tan Senにまつわる逸話は、他の楽聖や偉人より数桁違いに多く残されており、当然眉唾ものも少なくありませんが、やはりそれらから読み取るべき古典音楽の有様や、科学音楽の片鱗を知る手だても少なくありません。

大帝Akbarは、様々な宗教に対しても寛大以上に敬意と関心を抱き、ヒンドゥー教徒の義母の為に城内にヒンドゥー寺院を建てたり、イスラム正派の立場にありながら、彼のAmir Khusrawが帰依したスーフィー教団Chishtiを信仰し、一時は、その教えに従って遷都さえ行ったと言われます。

そのような君主に仕えたTan Senもまた、ある意味「多宗教」的な側面を隠さなかった人物と言えましょう。後継者である二人の息子はムスリム名ですが、娘の名はSaraswati Deviです。

そもそもTan Senは、ヒンドゥー・バラモンの家系で生まれ、彼の代でイスラムに改宗したのであって、旧名はRamtanu Pande(Ramtanu Misra/Tanna Mishraの愛称も在)です。改宗のきっかけは、宮廷楽師として登官するためだったとも言われますが、それ以前、グワリオールのヒンドゥー藩主の楽士をしていた時点で、Faqir(イスラム修行僧) Muhammad Gausを精神面の詩と仰いでいたことも良く知られています。Faqirとの付き合いは父親の代から、の説もあります。

Tan Senの音楽的業績は、数え上げればキリがないほど語られていますが、特徴的なもののひとつが、彼のAmir Khusrawと同様に、西域、主に中央アジアの楽器をインド楽器と融合させたことでしょう。それは、今日のタジキスタン山岳部であるパミール高原の弦楽器「Rubab(ルバーブ)」にインド弦楽器「Vina(ヴィーナ)」の「さわり駒」を取り付ける発想で生まれた融合楽器「Rabab/Tan Sen Rubab」です。

Tan Senは、その後継を、次男のBilas Khanと、娘婿のふたつの家に継がせましたが、息子の本家がDhrupad声楽とRababを専門とし、娘婿は、Dhrupadと従来のVinaをそのまま専門楽器とし、前者を「Seni-Rababiya派」後者を「Seni-Vinkar派」と呼ぶようになりました。それほどに中央アジア楽器との融合創作楽器Rababの地位は高く不動だったのです。

逆に音楽の方は、Khusrawのような西域との融合はほとんどせず、Gopal Nayakの時代の「Prabandha」から発した「Dhrupad(ドゥルパド)」に徹していました。Dhrupadは、Tan Senが楽壇デビューをした頃には既に確立されており、Tan Senが最初に登官したグワリオールでは、ヒンドゥー藩主自身もVinaとDhrupadの名手でした。したがって、「Dhurpad様式の完成者」という解釈は、遠からずとも当らずなのです。

しかし、言い換えれば、Tan Senの存在が無ければ、「Prabandha」が廃れた頃に、「Dhrupad」が後継の地位を得る前に、イスラム宮廷楽壇におけるヒンドゥー系音楽は廃れてしまっていた可能性も大いにあり、「Dhrupad」の「中興の祖」という言い方は出来るはずです。

その精神的背景には、Tan Senが生まれ育ったヒンドゥー・バラモンの叡智、幼少期からのイスラム聖者の教え、そして、タントラ音楽の探究者である師Swami Haridasの教えがあることは言うまでもありません。

なお、Miyan Tan Senは、愛称、タイトルで、「Miyan(尊敬に値する)Tan(旋律)Sen(主)」で、ムスリム本名は、Muhammmad Ata Ali Khanです。

インドに限らず、かなり昔から近代迄、古今東西で、芸術家や著名な文化人は、本名で呼ばないことが礼儀という風習がありました。卓越した非凡な人物である印であったと思われます。Tan Senの子孫の中には「Kan(耳/聴力)Sen」という音楽家も居ます。

(文章:若林 忠宏

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43、中世の聖者:Swani Haridas

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16世紀の楽聖:Swani Haridas(スワミ・ハリダース/1478?/1512?~1573?/1575?)は、13世紀のGopal Nayak以後、300年振りに現れたインド音楽史に輝く伝説的かつ神秘的な偉人と考えられています。

彼の存在からは、古典音楽がイスラム宮廷古典音楽(芸術鑑賞音楽)の立場をとってからもなお、ヒンドゥー科学音楽を継承していた音楽家が存在したこと、そのような音楽家の存在が、ヒンドゥー藩王国宮廷楽師のみならず、イスラム宮廷楽師にも多大な影響を与えていたことが分かります。

また、Gopal Nayakと「歌合戦」を展開したデリー・イスラム宮廷の楽壇トップにあったAmir Khusrawが、正派イスラム教徒である立場とは別に、Chishti教団のスーフィー神秘主義者で、教団の重要な導師であるニザムウッディン‥アウリアを師と仰いでいたのと同様に、16世紀のデリー・イスラム宮廷の楽壇トップにあったMiyan Tan Senが師と仰いだのが、このSwami Haridasなのです。

Swami Haridasは、腰巻き一枚の姿で森の中で伴奏弦楽器「Tampura(タンプーラ)」を奏でる姿で描かれます。しばしば二人の男が訊ねて来る図も描かれますが、それがSwami Haridasの弟子でもある楽聖Tan Senとムガール王朝君主Akbarです。

Sawami Haridasについては、神話的な言い伝えが多いのに対して、実際の経歴はほとんど知られていません。何時どんな師匠から古典音楽とVishnu派のタントラの教義を学んだのかも良く分からないのですが、父とも師とも言われる人物の教えに従って、krishnaの森でもあるVrindavan(ヴリンダーヴァン)の森に籠って修行を続けたことは事実のようです。

20世紀の末代まで、その子孫が宮廷楽壇の最高位に君臨し続けられたほどの実力者Tan Senが師と仰ぐほどの音楽家ですから、ラージプート諸国か、グワリオールなどのヒンドゥー藩王国の楽士か楽師を勤めた可能性もあろうかと思いますが、言わば出家状態で森に籠った様子は、中国三国時代(3世紀頃)の「竹林七賢人」の様子に似ています。七賢人の多くも音楽・楽器をたしなみ、一時登官しつつも森で隠匿生活を送ったのですが、七賢人は酒を飲み、肉を喰らい、当時隆盛し始めた儒教に対しての抵抗心旺盛だったのに対し、Swami Haridasの行為は、社会や俗世に対するアンチテーゼでは全く無かったに違いありません。

何度も申し上げていますが、インド思想の根底にある「二元論的観念」では、「聖/清」も「俗」も、同等の価値として存在するのです。「俗」を極めるのは簡単なことですし、何時でもできるでしょうが、それと釣り合うだけ「聖/清」を極めるのは容易なことではないわけです。故に、「俗世を捨てて」などという感覚ではなく、場合によっては、自らの「俗」を温存し、それに釣り合うだけの「聖/清」を求める為だけでも「森に籠って修行する」ことは必要不可欠の行為かもしれません。そこに、インド科学音楽を探究する、などという目的が加われば、その意識の純粋さは如何程のものか推測に難くないと思われます。

このことに関しても、インドならではの不思議な感覚の逸話があります。

Swami Haridasは、一応普通に妻を得たらしいのですが、全くと言ってよいほど夫婦らしい有様を持たず、挙げ句に「森に籠る」と言い出した。その際、彼は妻に「お前が共に来たいと言うなら、拒否はしない」と一言言ったそうです。すると妻は、可燃性の塗料で仕上げた腕輪に火を付け炎の中に消えて行ったと言います。最後の言葉は、そうすることで、夫と常に共に居られることを喜ぶ言葉であったとされます。しかし、妻の実家では、その後数百年もの間、その素材の腕輪を身につけてはならない掟があったそうです。

(文章:若林 忠宏

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若林忠宏氏によるオリジナル・ヨーガミュージック製作(デモ音源申込み)
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