音と色そのものも生きている

古代インド科学音楽と、アーユルヴェーダやヨーガと共通する科学「タントラ」では、私たちが直接的に実感できるものの他に、非直接(非実感)的に体や心に働きかけるものを説いています。ですが、その他にも知り考えるべきことがあります。それは、音や色には、それぞれの立場や主観があるということです。

ご存知のように、ヒンドゥー教には、その他の有名な宗教のような教祖は存在しません。これは、自然に生まれたアニミズム信仰を豊富に取り込んでいるからに他なりません。そして膨大な年月の経験と、驚異的な叡智による探究によって、「ヴェーダ」や「ウパニシャッド」や「タントラ」などの科学を見出したわけです。

アニミズムと言えば「物皆神が宿る」という言葉をよく聞きますが、インド・ヒンドゥー文化には、まさにそのような感覚が豊富にあり、生命体でないものの「擬人化」にも頻繁に出会うことがあります。

私たちは、インド科学音楽を理解したり、アーユルヴェーダが説く「音楽療法」の助けを求めたりしようと思うとき。もちろんヨーガでも瞑想でも同じですが。直接的に実感するものの他に、非直接(非実感)的に体や心に働きかけるものがあることも知り考えるべきであると述べました。これは言わば、日常的に様々な物事を自覚している「私・自分」の他に、感覚的には自覚できないけれど、確かに存在する「もうひとりの私・自分」が居ると考えるようなものです。

しかし、いずれにしても、常に「自分」が受け手という意味の「自己中心的」な発想ではあります。

古代インド科学音楽、アーユルヴェーダ、ヨーガの科学「タントラ」は、「人間本意の科学」「人間のためだけの科学」ではありません。森羅万象、森を探究した結果の科学です。
なので、人間以外の生き物はもちろん、石ころにも砂粒にも、そして音も色も味も図柄も、皆、それぞれに「命」があり、「生きている」存在であるという考え方があるわけです。

例えば「青」に対し多くの人間が清々しさや爽やかさを感じると思いますが、「青」自身にしてみれば、生命が出る処であるとともに、命が尽きて帰るところでもあるような性質で、人間のイメージよりは厳しい性質です。また多くの人間が「緑」に、息吹や安堵を抱くとしても、「緑」にしてみれば、生まれは、「青と黄の融合」であり、「黄」は、「大地」から生じたものであり、「枯れ」「乾き」を表すものでもあり、人間のイメージ「生の象徴」と一致はしますが、結果論ではないわけです。
音に関しても同様で、絶対音感があれば別ですが、人間は突然単音で聴かされても、美しいとも温かいとも厳しいとも感じませんが、サレガマの各音は、独立した個性と命を持った存在に他ならないのです。
実際、インドの神話や音楽の伝承には、音や色の「精霊」が現れるというものは少なくありません。

これらは、何れも人間本意の受け取りか方とは別に、色や音それ自体の存在理由や生い立ちや性質が確立されているということです。

例えば、サレガマの第二音「レシャヴ」は、色は緑ですが、人間に喩えると初老です。人間本意の感覚で「初老」と言われれば、「若干黄色に近いのでは?」「緑は少年か青年では?」と思ってしまいそうですが、人間本意の感覚で定められているのではなく、「緑」の性質と、7音の中の第二音の性質を見ているわけです。
ちなみに、この音と関係するチャクラは、主要チャクラの第二番目の「スワーディシュターナ」ですが、色は「朱色」で、元素は「水」で、水の元素の象徴である「三日月」も描かれます。ここでも「朱色と水」は、人間感覚では結びつかないでしょうし、7音の二番目の「レシャヴ」の緑とも異なります。
このように「タントラ」における色や音の概念は、色彩学の「同系色」とか「反対色」などの人間本意、人間感覚の概念では説明しきれない別な理由で定められているということも理解する必要があると思われます。

(文章:若林 忠宏

音と色のタントラの科学

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古代インドの科学音楽の7音は、ヨーガが説く「七つの基本チャクラ」と符合しています。そして、チャクラが彩り豊かな蓮花で描かれるのと同じように、音楽の7音も、色との関連が説かれています。やはりこれも大きな基本が共通しているからに他なりません。それこそが、崇高で高度な理論(科学)である「タントラ」なのです。

科学音楽も、ヨーガも、もちろんアーユルヴェーダも、共通の「タントラ」を基にして発展し、その「タントラ」を、目には見えないけれど体に感じる、音、振動などで具現する「マントラ」、目に見える形や図柄や色で具現する「ヤントラ」を作り出しているわけですから、当然共通性は高いのです。アーユルヴェーダにおいては、薬草の色や味も、マントラ、ヤントラに匹敵する第四、第五の具現であったかもしれません。

しかし、私たちがこれを理解するためには、私たちが日常なにげに行っている「直接(実感)的な感覚、感性」と、「タントラ」が説く「形而上学的な感覚」「非直接(実感)的な効果」の根本的な違いを理解しなければなりません。それを分かり易く説明するには、アーユルヴェーダとも関連や類似が多い中医・漢方弁証論治と漢方薬や生薬、西洋生薬であるハーブの話しが役に立つと思われます。

例えば、漢方生薬の定番のひとつである「生姜(しょうきょう)」「乾姜(かんきょう)」などの生姜類の効果効能のひとつに「嘔吐止め」がありますが。これは、生姜の独特な味に人間が反応して、唾液が多く分泌され、連動して胃液、胆液が分泌され、胃腸の動きが活性化されるという仕組みですが、これは、生薬では比較的珍しい「直接(実感)的な薬効」の典型です。その他のほとんどの生薬やハーブの効果効能は、このような直接(実感)的なものではないのです。
例えば、循環器の働きを促す、「山査子、ホーソンベリー」などを舐めてみて、そのきな臭い味を満喫すれば「ああ、心臓が元気になってゆく」とは感じないはずです。同様に、フィトケミカル(植物性化学物質)で有名な「ケルセチン」の強烈な黄色を見たり、味見をしたところで「ああ、腸が元気になる!」とは実感できません。
言わば、私たちが実感できない世界、知らない世界で、生薬や味や色、そして音は、私たちの臓器や細胞、もちろん、チャクラやナーディ、そして、精神や心、魂に働きかけているわけです。

このように、「非直接(実感)的効果」は、確かに存在し、むしろこの方が、私たちが感覚、感性で自覚できることよりも、臓器や細胞に与える影響は圧倒的に多いはずです。逆に言うと、直接(実感)的効果の代表である「生姜」も、毎日たくさん摂っている人は「効きにくい」ということがありえます。
私たちは、日々生きて行く上で、自分の感覚、感性をあまりに過信し頼っていますが、それとは別なかたちで体や心に働きかけるものがあることを知る必要があるわけです。

もちろん、いくら私たちの感覚や感性がアテにならないものであるとしても、美味しく食べることや、楽しく聴くことは、消化やストレス緩和に役に立つことは言うまでもありません。つまり、「タントラ」の科学は、それをも見越してバランスを考えて具現し、私たちに与えてくれているのです。
例えばアーユルヴェーダの有名な生薬「Kalamegh(Andrographis/穿心蓮)」などは、単味でそのままでは、余程覚悟しないと飲めたものではありませんが、それを緩和させつつ、非直接(実感)的効能でも助けになる別の生薬を組み合わせたり、過度に胃液が分泌させることを防ぐ生薬を添加するなどの工夫をしてくれているわけです。

同様に、科学音楽の音も、同じ音ばかりが鳴り響いているわけではありません。逆に人間は、それに慣れてしまいますと、効果効能も薄れてしまいます。アーユルヴェーダや中医・漢方薬のように、様々な音をブレンドさせて、総合的に働きかける工夫を、数千年の経験から編み出しているのです。

このように、音も、色も、「赤を見ると興奮する」とか「緑や青は落ち着く」とか、「穏やかな気持ちになる音だ」などという「直接(実感)的な効果」ばかりでなく、「非直接(実感)的な効果」を、感じることは、難しくても考える必要があるわけです。

(文章:若林 忠宏)

古代インド音楽とチャクラの関係

Meditation time

「樹を見て森を観ない」という言葉がありますが、逆の言葉は何でしょうか? 仮に「樹に捕われず、常に森を観る、感じる」であるとしたら、昔気質のヒンドゥー音楽家は、まさにそれだと言えます。彼等は常に「森=宇宙」を感じながら音楽を奏でていたのです。
 ちなみに「樹を見て森を観ず」は、英語の諺の訳と言われていますが、仏教の言葉にもご存知「森羅万象」というものがあります。
 凡人がぼーっと空を眺めても何一つ無いように思う「宇宙」を、樹がおおい茂る壮大な森林に喩えた言葉でありますが、「森」を人間社会のサイズから遥かに越えて「宇宙」にまで広げて感じるのは、アジアならではの感覚なのかもしれません。

 この連載をお読み下さっている、インドのスピリチュアルの世界、ヒンドゥー教文化、そしてヨーガに関心の深い方々は、宗教、ヨーガなどの用語や考え方とインド科学音楽のそれに、色々な共通点があることにすでにお気づきのことでしょう。

 それらはいずれも、何かの仕組みを何かに転写させる基本的な考え方によって共通しています。例えばヨーガの場合、「宇宙」を人間の体や心に転写させ、いわゆる「小宇宙」をひとりの人間の中に見出します。同じように、中医・漢方医学の弁証論治や、古代ギリシアの「エートス論」、「アーユルヴェーダ」に含まれるインドの音楽療法などでも、「宇宙」や「地球」と「個々の人間の心と体」を転写させ、準えて説きます。 この発想こそ「樹に捕われず森を観る」そのものと言えます。

 言い換えれば、「一本の樹」の中に、「森、森羅万象、地球、宇宙」を観る訳ですが、「じゃあ、樹を見て森を観ずでも良いんじゃ?」とはならないところがミソです。森を知り、分かり、感じて樹を観るのと、そうでないのでは大きく変わって来るわけです。
 そうして、小さな世界から大きな世界を感じ展望すること。常に、それらは相関関係にあると理解し、感じていることが、ヨーガのみならず、インド音楽の理解にも欠かせないないのです。
 
 世界最古の「音楽療法」が含まれていると言われる、「アーユルヴェーダ」では、(と言ってもやはり諸派諸説ありますが) 音楽の「7音」は、主要の「七つのチャクラ」と符合します。そして、中世以降のインド音楽のオクターブの音「12の半音」は、アシュタンガ・ヨーガなどが説く「12のチャクラ」と符合します。「22の微分音」は、音楽の方でも廃れてしまっていますから、「アーユルヴェーダ」でも「ヨーガ」でも、同様に廃れてしまった「22のチャクラ」を説く学派もあったのかもしれません。
 数の一致にもまして驚くべき符合が、主要の「七つのチャクラ」と音楽の「7音」の順番までもが同じであることです。

 また、ヨーガで最も重要な用語である「プラーナ(気)」と、その通り道「ナーディ(気脈)」も古代インド科学音楽と共通の概念から生まれていると考えられます。

「Nadi(管)」は、音楽における「音」の原形、「Nada」と深い関わりを示唆しています。つまり、プラーナも、スワルも、宇宙の波動、「ナーダ」が、一方は人間の体の中に伝わり、同期、同調し、一方は、肉声や楽器の音に伝わり、同期、同調しているということなのです。
 故に、常に「森、宇宙」との繋がりを持つことで、インド科学音楽は、成り立ち力を持ち、ヨーガ同様に、人間の心や体とも深く関わることができるわけです。
 だからこそ、アーユルヴェーダの音楽療法の理論が確立し、実践で効果が見られるわけなのです。

 しかし、「アーユルヴェーダ」は、ヨーガや科学音楽よりも中世イスラム勢力のインド支配時代に大きな打撃を受けてしまい、今日まで正統的な伝統の全体像をもれなく継承しているところはほとんどありません。しかし、少なくとも昔気質のヒンドゥー教徒の音楽家は、常に「Swar」の大元の「Nada(ナーダ)」の概念を忘れることはありません。言い換えれば、常に自らを「受信器」として自覚しているのです。腕を上げるとつい「自分が発した音」であるなどと思ってしまう思い上がりを戒める為にもある言葉が、「Nada-Brahma(ナーダ・ブラフマ)」「音は神(のもの)である」というものです。「宇宙の波動」という意味と、「宇宙=神」という意味を合わせて「音は宇宙である」という解釈をする音楽家もいます。

(文章:若林 忠宏)

古代インド音楽の七つの階名

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宇宙の波動を受信して得た「ナーダ」からオクターブの12〜22の微分音を含む、ドレミの7音が生まれた頃、これらの音は、「楽音」「Swar(スワル)」と呼ばれるようになりました。イスラム教徒の音楽家では口語で「Sur(スール)」と言うことの方が多いかもしれません。

ところで、当たり前のようで、良く良く考えると不思議なのは、22の音に分けながらも、基本の音は「7音」であることです。これは世界共通の不思議な現象で、古代ギリシアやその後継である西洋音楽、古代ペルシア、その弟子のアラブ音楽、トルコ音楽、中央アジア音楽でも、古代インド音楽の弟子でもあるタイ古典音楽でも、「ドレミ」は「7音」なのです。古代インド音楽のもう一方の弟子であるインドネシアでは、五音や九音が基本という例外もありますが、これも古代インドの「7音」を基本に解釈を変えたものと考えることが出来ます。

つまり、ほぼ世界中でシンクロニシティー的に、ドレミは「7音」だったということです。古代ギリシアとその姉妹関係にあった古代ペルシアの場合は、「天空」と音楽の関連を説きましたので、オクターブを12の半音に分けることは「年の12月」と符合し、「7音」は、「週の7日」に符合するのです。
ところが、インド音楽の場合、22音は、天空とは一致しません。インド音楽が関連する「宇宙」は、「天空」よりもさらに先の世界なのでしょうか。しかし、何故か、「7音」は、一致しているのです。

以前に、その音の由来(諸説ありますが)を述べましたインド音楽の「7音」は、以下の名称が定められています。「ド=Sadaj(サラジュ)、「レ=Reshav(レシャヴ)」、
「ミ=Gandhara(ガンダーラ)」、「ファ=Madhyam(マディヤム)」、「ソ=Pancham(パンチャム)」、「ラ=Dhaivat(ダイバタ)」、「シ=Nishad(ニシャド)」です。

先に述べた「各音の由来」とは、別なこじつけでこの名前は出来ています。不思議なことにインド科学音楽は、その理論が極めて高度な論理性を持っているにもかかわらず、その具体例や名前は、けっこう雰囲気で付されています。

インド音楽の「ドレミ」、(以下「サレガマ」とか「サルガム」と言います)
の名称は、「サラジュ」は、普遍的、基本的、原点的といった意味合いで、「マディアム」は、印欧語の「真ん中」つまり欧語の「Medium」です。「パンチャム」は、ペルシア語とも共通する「五番目」の意味です。それ以外は、字義は大地や狩人などですが、一説には神々の別名や従者の名とも言われています。「ガンダーラ」はご存知パキスタンからアフガニスタン東部に掛けての古い地名ですが、元々「Gandhar」は「天空」の意味で、「Gandharva(天上の歌い手)」などという言葉もあります。

改めて世界の「階名」を挙げてみますと、ラテン諸国が「ドレミ」で、ドイツ語が「CDEF(ツェー、デー、エー、エフ)」英語が「CDEF」それらを明治時代に訳した日本語が「ハニホヘ」ですが、唯一「ドレミ」だけが、意味を持つ言葉の頭文字です。
しかし、「ドレミ」は、教会合唱音楽を聖歌隊に教える際に考案された、「元祖ドレミの歌」があって、歌詞全体に意味がありますが、各音に充てられた各語の意味と音には直接的な関係はありません。なので、インドの「サルガム」の方が意味深いと言えるのです。その意味では、各音に意味深い名前を持たせた世界に例のない、独特な発想であるとも言えるわけです。

(文章:若林 忠宏)

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若林忠宏氏によるオリジナル・ヨーガミュージック製作(デモ音源申込み)

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古代インドのオクターブは、22の微分音に分かれていた。

Indian sitar

インド音楽のドレミの7音は、全体を指して「Sampurna(サンプールナ/完全な)」と呼ばれ、「全て揃った」ということを意味しています。そして、この7音の確立の頃に、各音の名前と由来が付されました。伝承では以下のように言われています。

ドレミのドは、孔雀の声から生まれ、アグニ(火の)神を象徴し、色はピンク、人間に喩えると老人にあたる。レは、牡牛の声から生まれ、ブラフマ神(梵天)を象徴し、色は緑で、初老にあたる。ミは、羊の声から生まれ、サラスワティー(弁才天)女神を象徴し、色はオレンジ、中年にあたる。ファは、鷹もしくは鶴の声から生まれ、マハーデーヴァ(シヴァ)神を象徴し、色は紫、壮年にあたる。ソは、夜鳴き鳥(ナイチンゲール/ブルブル)の声から生まれ、ラクシュミ(吉祥天)女神を象徴し、色は赤、若年にあたる。ラは、馬もしくは蛇の声から生まれ、ガネーシャ(歓喜天)神を象徴し、色は黄、青年にあたる。シは、象の声から生まれ、スーリア(太陽)神を象徴し、色は黒、少年にあたる。などとされます。

もちろん、ヴェーダにも幾つかの学派がありますし、後付けであろうこの音の由来の観念にも幾つかの諸説があるに違いありません。が、おおよそこのような関連が説かれており、これは、古代ギリシアや古代ペルシアにも似たような発想があり、いずれもインドと同様に「音楽療法」とも深く関わっています。

インド科学音楽では、このようにして、ひとつの音「OM」から発し、ドレミの7音が確立し、さらにそれぞれに様々な意味を求めていったのです。

ところが、西洋音楽でも、「ミの♭」や「ファの#」があるように、実際は、オクターブは、七分割されているわけではありません。ちなみに、タイ宮廷古典音楽では、無理矢理七分割したので、楽器が自然に出す倍音から得た音程と歌がズレるという凄いことになっています。また彼のピタゴラスが何度も測定しては計算しても、倍音のまた倍音から作られた音程と、元の音の倍音の周波数がズレる、という自然界の矛盾を発見してしまい、やむなく「平均律」という音程を定めたと言われます。

つまりオクターブは、世界各地で誰もがすっきり割り切れなかったわけで、そのため各地で異なる音程理論が構築されたわけです。古代ギリシアとその弟子の西洋音楽ではオクターブを12の半音に分け、古代ペルシアではその倍の24に分け、弟子のアラブ音楽はそれに倣いましたが、もう一方の弟子のトルコ音楽は48にも細かく分けてしまいました。そして、古代インドでは、オクターブは、22の微分音(Shrti/シュルティ)に分けられていました。

ちなみに、インドではオクターブは「Saptak(サプタク)」と呼ばれます。実はアレキサンダー大王の頃にペルシア、インドとギリシアは姉妹関係や隣人だったことや、インドの二大民族系統の「アーリア系」は、元々ペルシア方面から来たことなどで言葉が似ていて、「インド・ヨーロッパ語族/印欧語族」などと言われます。

オクターブの「Oct」は、「8」を意味し、ドから上のドまでを数えたものですが、インドの「サプタク」の「Sapt」は、ギリシア・ヨーロッパの「Sept」と同様「7」を意味し、ドからシまでを数えたものです。この後もインド音楽の用語ではしばしば「印欧語族」的に似通った語が出て来ます。

それにしても、オリエントの24は、西洋の12と半分は一致するわけですが、インドの22には、ほとんど一致しなくなるのですから困りものです。そして、案の定、10世紀以降、北インドのみならず、南インドも大半がイスラム勢力に支配されて以降は、ほぼ12音に変質してしまいましたので、まして今日「22音律」で歌える音楽家は存在しないのです。私の師匠の代までは、具体的に「この曲のミの♭は少し低め」などと分別している演奏家はまだ少し残っていましたが、理論としては廃れてしまっていました。

(文章:若林 忠宏)

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若林忠宏氏によるオリジナル・ヨーガミュージック製作(デモ音源申込み)

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古代インドの科学音楽は、宇宙の音楽である。

Power over nature

古代インドで生まれた「Shastriya-Sangit(科学音楽)」は、一言で「宇宙の音楽」ということが出来ます。もちろん、中世に、科学音楽がイスラム宮廷芸術古典音楽となって以降、イスラム教徒の宮廷楽師たちは、それを「宇宙の音楽」などとは考えもしなかったに違いありません。現に、私のイスラム教徒の音楽の師匠に幾つかそのような質問をぶつけてみましたが「へー!そうなの?」という反応ばかりでした。「そんな!馬鹿な!」と反応しないところが、日本の「神仏混淆」にも似た融和的な要素が多いインドならではのことでしょう。これがアラブ諸国だったら、完璧に否定されるかもしれません。
逆に言うと、イスラム勢力の支配を受けるまでの「科学音楽」は、極めてヒンドゥー教的なものであったということなのです。古代の僧侶たちが探究の果てに突き詰めた考え方では、音楽は次のように説明されます。

まず、音楽の音は「宇宙の波動」なのです。宇宙では常に様々な波動が生じ地球に伝わっているのですが、それを人間の耳に聞こえさせるためには「優秀な受信器」が必要であるとされます。その「優秀な受信器」が、科学音楽を熟知した高僧なのです。その「波動」は、「Nada(ナーダ)」と呼ばれ、人間の耳に聞こえる前は「Anahat-Nada(アナハト・ナーダ)」と呼ばれ、「優秀な受信器」が、その声や楽器を正しく奏でることで、人間の耳に聞こえるようになったものは「Ahat-Nada(アーハト・ナーダ)」と呼ばれます。「Anahat」は、主要チャクラの名にもなっていますね。
音には、その他に雑音がありますが、これらは、「正しく受信出来ていない音」という感覚で捕らえています。ヒンドゥー叙事詩の「ラーマーヤーナ」などには、宇宙船も登場すると言われますが、紀元前2千年も前に近代のラジオと同じ感覚を持っていたことには驚かされます。ラジオの周波数が合わない時に、様々な雑音が出ますが、「Ahat-Nada(アーハト・ナーダ)」以外の音は、何らかの誤作動によって生まれた「雑音」に過ぎないのです。

その一方で、自然の音。例えば、木々が軋む音や、川面や波の音、雨音、そして動物の鳴き声は、総称する特別な用語は無いようですが、「Ahat-Nada(アーハト・ナーダ)」と同様に純粋で崇高なものと考えられていました。

こうして認識された「Ahat-Nada(アーハト・ナーダ)」は、まず、「ひとつの音」から、次第に発展し、最終的にドレミファの7音に至ります。
その「ひとつの音」が、ヨガや瞑想でお馴染みの「OM(オーム)」の音です。

このひとつの音「OM」には、絶対的な音程はないのですが、この一音を用いて幾つかの経典「Veda(ヴェーダ)」が詠唱されるようになりました。そして、その後、もしかしたら数百年は優に経ってからかもしれませんが、「二音」、ある流派ではさらに「三音」用いる詠唱法が発展します。この段階で、大雑把にドレミで言えば「ド、レ、ミ」が存在したということになります。
また一方で、「OM」の音は、物理的に存在する倍音、ドレミで言うところの「ファとソ」の存在を導き出していました。ドからソは、「完全五度」と言いますが、ファから上のドも、音程はやはり完全五度ですが、ソから上のドは完全四度となってしまいます。なので、この四度とも五度とも言える関係性からドの基本音(基音)に対し、ファとソは、「属音」と言われます。
これは西洋古典音楽の基礎である古代ギリシア音楽理論でも同じです。と言うことは、古代ギリシアと姉妹関係にあった古代ペルシアも、その弟子的な音楽であるアラブ音楽、トルコ音楽でも同様です。

このようにして、ヴェーダが三音を用いる様になった段階で、ファからの三音、ソからの三音という異なる高さで詠唱をすれば、既にド、レ、ミ、ファ、ソ、ラ、シ、の7音が得られていたというわけです。

(文章:若林 忠宏)

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若林忠宏氏によるオリジナル・ヨーガミュージック製作(デモ音源申込み)

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古代インドの古典音楽は、科学音楽と呼ばれていた。

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紀元前2千年前頃の古代インドで音楽は、「Dadik-Sangit (寺院・僧侶音楽)」と、それ以外の「Laukik-Sangit(世俗音楽)」に大別されていました。後者は、宮廷の宴会音楽から民謡に至る寺院音楽以外の全てを指し、前者の一部には「Shastriya-Sangit(科学音楽)」と呼ばれる特別な音楽がありました。「Shastriya-Sangit(科学音楽)」は、後に「古典音楽」にも括られますが、宮廷宴会音楽も、やはり「古典音楽」であるわけで、この辺りのややっこしさがインド音楽の特徴のひとつです。

世界の様々な地域に寺院音楽や教会音楽がありますが、それらはほぼ「宗教音楽」と言ってしまっても問題はないのですが、インド音楽の場合、そうでもないのです。何故ならば「科学音楽」は寺院に於いて僧侶が実演しましたが、宗教音楽とも言い切れないからです。

現に、10世紀以降、北インドのほぼ全域をイスラム宮廷が支配した以降、「科学音楽」は、イスラム宮廷古典音楽の主流音楽の立場へと変わり。宮廷楽師のほとんどはイスラム教徒に改宗し、その後千年近く発展しつつ継承され続けたのです。

つまり、「科学音楽」は、ヒンドゥー教寺院にて僧侶階級によって始められ育まれた後、イスラム宮廷古典音楽として更に発展したもので、根本にはヒンドゥー教の科学がありますが、宗教の壁を越えた芸術古典音楽となったわけです。

ある程度同じことは、西洋クラッシック音楽にも言えます。本来キリスト教会の宗教音楽家であったバッハなどが開発した音楽理論が、その後のモーツァルトやベートヴェンにも受け継がれて宮廷や貴族の芸術古典音楽となったように、宗教音楽としてスタートした音楽理論が宗教音楽の範疇を越えることが西洋でも見られるのです。

しかし、西洋のそれは、「理論的な音楽」ではありますが、インドの「科学音楽」のような性質は持っていません。ちなみに、イスラム教文化圏では、音楽と宗教を厳しく分離させていますので、芸術古典音楽は、誕生の頃から非宗教的な存在でした。

このように、インドの「科学音楽」は、世界的に見て非常に独特な存在であると言うことができるのです。

一方、インド・ヒンドゥー宗教音楽は、中世に庶民の間で献身思想(Bakti)が盛んになった以降、寺院の外にも存在するようになりました。また、分類上では、「世俗音楽」であり「民謡」である祭り音楽などの庶民の音楽も、多くがヒンドゥー民間宗教に根ざしていたり、より古い、仏教以前のブラフマン教信仰や、それ以前の地域の土着宗教(アニミズム)に根ざしています。そもそもヒンドゥー教は、そうしたアニミズムやブラフマン教信仰を吸収し包括して確立したとも言えます。例えば、ヒンドゥー教三大神のひとりヴィシュヌ神は多くの化身(アヴァターラ)を持ちますが、例えば「川の神」の「Matya(マツヤ/ヴィシュヌ神第四の化身、下半身は魚)」「Kurma(ヴィシュヌ神第五の化身、下半身は亀)」などは、その地方のアニミズムの神が原点かも知れないとも言われます。

このように、インド・ヒンドゥー教の宗教音楽は、寺院で僧侶が実演したものから庶民の宗教音楽、民謡、祭り音楽に至る、宗教儀礼の為の音楽や神々の讃歌、献身歌であるのに対し、「科学音楽」は、「音楽科学の実践」という全く異なる目的によって存在しているのです。

もちろん、寺院における宗教音楽には、科学音楽の一部の要素や科学音楽の影響も見られますし、科学音楽の考え方の根底にはヒンドゥー教独特の、例えば「輪廻」の概念などに根ざしているものもあり、きっぱりと区別しきれない要素もあり、インド音楽をより複雑なものとしているところもあります。

(文章:若林 忠宏)

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若林忠宏氏によるオリジナル・ヨーガミュージック製作(デモ音源申込み)

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