32、Ragaの主音・副主音、開始音・終始音

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インド古代科学音楽に端を発する、古典音楽の旋法「Raga(ラーガ)」は、5~7(しばしばそれ以上)音の基本音階に基づきながら、個性的な音の動きが定められており、それによって、同じ音階から幾つものRagaが生まれています。

例えば、この連載の19回目でも例に挙げてご説明しました、日本の唱歌「赤とんぼ」と「海」を見ますと、二曲とも同じ「ドレミソラド」の五音音階を用いていながら全く異なる「音の動きの特徴」を持っています。インド科学音楽~古典音楽では、この特徴を「法則」の域まで論理的に突き詰めることで、即興演奏さえも可能なもの、すなわち「Raga旋法」の域に高めたわけです。

具体的に「赤とんぼ」の「音の動きの特徴」をインド科学音楽の分析と定義の方法で見ると、「ソラド」という上行旋律が単純にでてくる。高域のドに到達しても留まらず、中域の基音の属音であるソにも到達しても留まらない。ソにある程度長く留まる時には、上のラから至る。全体的にオクターブの半分以上大きく飛ぶことが多い、その反面「ドラ、ソラ、ソミ、ソミ」などの小刻みな動きも見せる、基音のドに至る場合は、単純な「ミレド」ではなく、「ドミレド」などで大きく展開して至る。などがはっきりと分かるのです。
対する「海」では、「ミレド」という素直にドに降りる動きが見られるけれど、低域のソやラからはドに至らず、ドに帰着するならば、一度レを取って回り込んでドに至るという極めて大きな特徴が見られます。
Raga音楽の即興演奏は、どれだけ盛り上がろうと、どれほど早いパッセージで演奏しようと、この法則を厳しく守るのです。

次にこれらの特徴や法則が何故生じ得たのか?について説きます。
例えば「海」の「ミレド」ではなく「ドミレド」と動くことで「ミ」の役割が極めて高くなります。「ドとソ」は、以前説明致しました「地平性、水平線」の様な基本ですから、重要であるのは当たり前ですが、一旦「ミ」に力強く投げつけてから降りて行く動きによって、「ミ」の立場、価値はいや応が無しに高まると理解できるのです。

また、この曲では一節に24の音がありますが、各音の配分を見ますと、ド=6回/レ=5回/ミ=5回/ソ=4回/ラ=4回となっています。ドは当然として、レとミが、属音のソよりも多いことに驚かされます。これは、「主音(Vadi/古くはAmsha)、副主音(Sam-Vadi)、開始音(Amsha-Swar/古くはGraha)、終始音(Niyasha-Swar)」の存在を示しているのです。
「海」の場合、解釈によっては、「ド」が主音で「ミ」が副主音と考える流派もあるかもしれませんが、上記の音の動きにおける立場・価値を考慮すると、「ミ」が主音であることはほぼ間違いないでしょう。
「レ」は、意図的に留まり伸ばされていますが、本来、安定・帰着する音ではありません。しかし、ある特殊な「終始音」と考えることができます。不安定な終始音の存在によって「基音:ド(最終的な帰着音)」がより強調されるという手法です。  この「主音、副主音、開始音、終始音」は、Ragaによって、「基音のドや属音のソ」と重なる場合も多く、「主音、副主音」が「開始音、終始音」と重なる場合も多くありますし、「主音」は、顕著に現れつつも「副主音」が目立たない場合や、「開始音」と「終始音」が同じ場合も当然有り得ます。
また、「Amsha-Swar(開始音)」は、より古い理論における「主音」であると言う説もあり、古いRagaでは混同も見られ、また地域の流派の異なりも当然あります。  そもそも「海」「赤とんぼ」のような五音音階。つまり、音数が少ない場合は、四つの主要音を別にすることは難しいですし、不必要でもあります。逆に、以前紹介しましたRaga:Yamanのような「シンメトリック構造」の七音階Ragaでは、四つの主要音は、独立し存在感を際立たせています。

(文章:若林 忠宏

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若林忠宏氏によるオリジナル・ヨーガミュージック製作(デモ音源申込み)
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31、五音音階や六音音階

old sitar on red background - ancient indian instrument

古代インド科学音楽~古典音楽では、1オクターヴを12の半音(古くは22)に分け、それから七音音階を順列組み合わせ的に見出しました。これを、「全て揃った」という意味で「Sampurna(サンプールナ)-Jati(ジャーティー/型)(以下略してSJ)」と呼びます。

このSJを基本にして、七音から1~2音を割愛(Vorjit/ヴォルジット)して、「六音音階(Shadava-Jati/シャーダヴァ・ジャーティー)(ShJ)」「五音音階(Audava-Jati(アウダヴァ・ジャーティー)(AJ)」をさらに見出したのです。

例えば、以前にも引用しました日本の唱歌「赤とんぼ」と「海」の「ソレミソラド」の音階は、日本でも「四七抜調」と呼ばれる様に、「四番音=ファ」と「七番音=シ」を割愛して見出された五音音階という考え方です。

数千年経たであろう今日も継承されている、Veda-Mantra(ヴェーダ・マントラ:様々なヴェーダ経典から見出されたマントラ)から得られた様々な讃歌の中には、例えば
「Stotra(m)/ストータラ(ム)」や「Shatka(m)シャトゥカ(ム)」のより古いものは「Audaba(AJ)/アウダヴァ=五音階」を用いて詠唱されています。

さらに、インド科学~古典音楽で音階は、「上行音列(Aroha/アーローハ)」と「下行音列(Avaroha/アヴァローハ)」が異なる観念で理解され、上下行とも同じ音階とは限らない、という考え方に発展しました。

これもまた世界で希に見る現象であり、「音階が上昇して行くことと下降して行くこと」は、「森羅万象」総てのものごとに通じて、「上昇と下降」「発展と衰退」「興奮と落ち着き」「出掛ける(行く、旅立ち)ことと帰る(戻る)こと」といった「相反するが対になっている原理/二元論」を象徴していると言えます。

その結果、音階は、「SJ~SJ(上下とも七音)」「AJ~AJ(上下とも五音)」「ShJ~ShJ(上下とも六音)」の三種の上下同一の音階の他に、「SJ~AJ(上行七音で下行五音)」「SJ~ShJ(上行七音で下行六音)」「AJ~SJ(上行五音で下行七音)」「AJ~ShJ(上行五音で下行六音)」「ShJ~SJ(上行六音で下行七音)」「ShJ~AJ(上行六音で下行五音)」の上下で異なる六種の上下異音階の合計九種の「型(Jati)」が在る(在り得る/在るべきだ/在るはずだ)、と考えられたのです。

ところが、何回か説明していますように、論理的に考察した後は、突然実践的になるのがインド音楽の不思議なところで、上行が五音や六音で、下行では七音という音階を用いるRagaはかなり多いのに対し、上行が、七音や六音で、下行がそれより少ない六音や五音という音階のRagaは、滅多に見られない(あまり演奏されない)のです。これは北インド古典音楽では「ほとんど無い」と言えます。

これは、駅の階段を駆け上がったり、駆け下りて猛烈に急ぐ時のことを思い浮かべて頂ければ直ぐに納得できることでしょう。
駆け上がる時には、一段飛ばしてもそんなに苦じゃない上に、むしろそうしたいかもしれない。しかし、駆け下りる時は、比較して危険だし怖い。
つまり、下行音列が少ないと、それが与える印象(および体や心に与える影響)の方が際立ってしまい、各音の命や、旋律の形の法則の効果効能を阻害してしまいかねない、ということなのです。

しかし、このことをより正確に言うと、現在でも、ヒンドゥー宗教音楽の性格が強い南インド古典音楽と、北インド古典音楽の古い時代に主要であった旋法には、「上行音列が六~七で、下行音列が上行より少ない、五~六」という、上記の「階段の喩え」で言うならば「不自然」なものが少なくないのです。
つまり、「時代とともにより人間感覚に偏った」ということが言え。それには「音楽に宗教を持ち込まない」イスラム教徒のヒューマニズムの影響も考えられると言うことだと思われます。

なお、Ragaによっては、「フラットのミ(もしくはシ)」と「ナチュラルのミ(もしくはシ)」または、「ナチュラルのファ」と「シャープのファ」のふたつともを用いることがあります。

この場合、ほぼ全ての実例において、「上行的モチーフにおいては高い方を選択し、下行的モチーフにおいては低い方を選択する」という規則的な習慣があります。これはオリエント音楽やギリシアのオリエント系音楽にも見られます。

上行的モチーフでは、高い方が気分が高揚し、下行的モチーフでは低い方が物悲しさが強調される。逆だと意味不明で気持ち悪い、というこれもまた極めて実践的かつ情感的な理由であろうと思われます。もちろん論理的には、その逆も確かに存在することを忘れてはならないのですが。

しかし、これら「ふたつの音」を用いる場合音数が七を越えようとも、「七音音階」という認識(解釈)は変わらないのです。例えば「ドレミファソラシ(フラット)ラシ(ナチュラル)ド」という実際的には八音用いている上行音列のRagaであろうとも、やはり七音音階なのです。

それは、「フラットとナチュラル」「ナチュラルとシャープ」は、「同じ音の変化」であるからであり、ドとソ以外の変化し得る音は、それぞれ命と人格に匹敵する性質を持っていると考えているからに他なりません。

これは、いずれお話する予定であります、「RagaとChakra」の関係とも関わります。幾つかの学派では、幾つかのChakraには、同じChakraの左右の系列が説かれており、Ragaの同じ音の「フラットとナチュラル」もしくは「ナチュラルとシャープ」が、左右のChakraとセットになるのです。

おそらく、これらの感覚は、「陰陽や相反するもの対峙」ほどは厳しくはっきりしたものではないと思われます。

ヒンドゥーの神々の中にもしばしば「二神一体」があったり、例えばGanesha神の鼻の曲がる方向に左右があったりのような、「置き換え、代理」的な感覚であろうと考えられます。
神々の「Avatara(アヴァターラ/化身)」と「Murti(ムールティー/相)」との違いにも通じるものがあります。

いずれにしても、他の国の文化では考えられない深さと微妙さを物語っているインド独特の感覚であると言えます。

(文章:若林 忠宏

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若林忠宏氏によるオリジナル・ヨーガミュージック製作(デモ音源申込み)
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30、神々のTala

close up of a hindu deity statue on red background

ヒンドゥーの神々に因んだ「Raga(ラーガ/旋法)」が、人間が及ばない神秘の力を持つと同時に、温かい可愛らしい優しい側面も併せ持ったのと比較すると、神々に因んだリスム(サイクル)/拍節法「Tala(ターラ)」は、ある意味徹底して「非人間的」と感じさせるものが多くを占めていると思います。

つまり、人間の日常に自然に湧いて来るリズム感とはかなり隔たりがある、ということです。

このことからも、インド音楽の二大要素である「Raga」と「Tala」は、まるで織物の縦糸と横糸のように、結果として交わり織りなすにもかかわらず、性質も有様も、全く別次元のものであるということが再認識出来ます。

つまり、人間の情感に直接的に訴える力を持っている「旋律」の分野では、「高揚させる」「鎮静させる」「その双方の要素を併せ持つ」など、「二元性」「両極端の共存」がテーマになり得るのに対し、「リズム(律動)」の分野では、「常道・常同的」と「変則的」という相反する要素は、共存し難いのだろうということです。

具体的には、「4+4+4+4」や「3+3」など同じ数が続くリズムパターンを「常道・常同的」の極みとして、「2+3+2+3」「3+4+3+4」なども、西洋音楽しか演奏しない人や聴かない人は戸惑うかも知れませんが、慣れれば「規則的」であり、「安定的」とさえ感じられるものです。

ところが、これらの「シンメトリック構造」の「Tala」と比べると、「3+4」「4+4+1.5+1.5」などは、かなり不規則であると言うことが出来ます。

しかし、以前述べましたように、「3+4」は、「3+4+3+4」を半分に割ってループしたものと考えれば恐るに足らないと言うことが出来ますし、別な視点では、北インドのみならず好まれている、インドに近い中央アジアの民俗舞踊を見ますと、しばしば飛び上がる様な仕草があり、「非常同的」ではありますが、人間の動作としては不自然ではないと言えます。

ところが、神々に因む「Tala」は、神々に因まない「Tala」の常規を遥かに逸しているのです。それらは、大きく分類してふたつの傾向が見られます。

ひとつは、全体を二分することが出来る、ある意味シンメトリックなTalaですが、Shiva関連Tala例1の「2+2+2+2+2+2+2+2」やDurga関連Talaの「1+1+1+1+1+1+1+1+1+1」、およびSaraswati関連Talaの「2+2+2+2+2+2+2+2」のように、少ない拍数の小節が異常に羅列しているものです。

これでは「起承転結」は愚か「寄せて返す波のような」という往復感も感じられず、まるで「1拍子」や「2拍子」が、感覚的には計り知れないところで途切れ繰り返されている感じです。

もうひとつの傾向は、Shiva関連Tala例2の「1+1+1+1+1+1+2+2」や、Krishna関連Tala例1「2+2+2+3+3+4」、およびKrishna関連Tala例2の「1+2+2+2+1+2+2」のような、二分も出来なければ、その構造の意味、理由さえも分からない奇妙な構造です。

今回例をあげた「神々に因むTala」は、いずれも今日殆ど演奏されない古いTalaですが、同時代の「神々に因んでいないTala」は、上記の二系統のような奇異な構造は持っておらず、全体が二分出来たり、往復感や循環性が豊かであったり、慣れれば今何拍目であるかが分かり易いものばかりです。

従って、神々に因んだからこそ、上記のような奇異な構造であったと考えることが出来るのですが、「何故?」の答えまでには至っていないのが残念なところです。やはり「超人的」「神秘的」としか言いようがないのでしょうか。

(文章:若林 忠宏

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若林忠宏氏によるオリジナル・ヨーガミュージック製作(デモ音源申込み)
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29、神々のRaga

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ヒンドゥー教の神々は、いずれも卓越した能力と叡智を持つ(当たり前のことですが)と共に、何処か人間的な愉快な一面や可愛らしい一面を持っていると思うことがしばしばあります。この点を世界に求めてみますと、不思議なことにいずれもアニミズム(原始宗教)に行き着きます。

そうした世界に普遍的に見られる神々の二面性。即ち、恐るべき能力と、可愛らしさ愛しさという両極端の共存は、よろずにおいて「二元的」「両極端の共存」の性質が強いインドにおいて、より顕著であることは言うまでもないことでしょう。

ある種の価値観の解釈で言えば、世界各地で、アニミズムが宗教に組み込まれたり発展昇華される中で、矛盾する両極端が次第に整理されて来た傾向があるとして(あくまでも仮定ですが)、インドではそれが行われなかった傾向が見られるということが出来るのではないでしょうか。
また、別な次元では、善悪、勝ち負け、白黒着けられない世界こそが、宇宙の摂理に通じるものであり、神々も人間や動物も、常に両脚端のバランスの中で生きているということが原点とも言えます。これは、アーユルヴェーダ、中医・漢方弁証論治などが説く、「健康と病気」の分野にも見ることが出来ます。

その結果。とするのも、私の強引な私見のようでもありますが、ヒンドゥーの神々にちなむ「Raga(ラーガ/旋法)」の多くには、「厳しさ(鋭さ)と優しさ(温かさ)」という両極端が混在しているものが多い印象を持ちます。
それは、逆の性格を強く感じさせるRagaの存在によって認識されました。例えば、「Raga:Yaman」の極意は、徹底した「構造美」にあると考えます。四度五度で繰り広げられるシンメトリックな構造が重要な個性だからです。対象的にシンメトリックな構造が全く無い「Raga:Kafi」は、「長調的と短調的の対比」によって表現される二面性を持っています。

これらから自然に考えられることは、前者は、人間の情感から離れた建造物のような構造美であり、後者は逆に、人間の「本音と立て前」のようなものと考えることが出来ます。前者は、一説にはインド宮廷音楽の創世記にアラブ音楽の中心地のひとつであった「Yemen」から伝わったとも、イメージしたとも言われ、後者は、「春のRaga」として有名ですが、インドでは「春」は「正月」であり、賑わいとその中でひた隠された不安と悲しみを表現するという解釈があります。Kafiの字義は「満たされる」なので、矛盾するようですが。

Kafiの具体例では、花柳界の歌姫が歌う時には、「恋愛の二面性」すなわち、浮き浮きとした希望に満ちた情感と、破局や嫉妬に苛まれる苦しみの両極端を表現し、同じ「両極端、二面性」でも、上記の神々の「二元性」とは次元が異なるのです。Kafiのそれは「本音と立て前」のようなものですが、神々のそれは「本音が二元的」なのですから。

また、神々に因んだRagaの多くが「五音音階」しばしば「六音音階」であるという共通性があります。以前「七音音階」を「Sampurna(完全な)」と説明しましたが、対比して「不完全な」音階を用いるところが、言わば「超人的」と言えるのかもしれません。
前回述べました「Raga:Durga」も、「ドレファソラド」の「五音音階」ですが、「レからファ」「ラからド」の幅のある音程を見事に取るためには、かなりの修行が求められます。
逆に、人間的な情感の揺れに呼応するRagaでは、「ラからド」の間に、「シ♮とシ♭」のふたつの「シ」を持たせ使い分けたりしますが、このことから考えても、「五音音階」および「六音音階」は、少なくともインド音楽においては超人的な性質があるのでしょう。

(文章:若林 忠宏

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28、Shivaと音楽

Shiva Statue in Murudeshwar, Karnataka, India.

ヒンドゥー教の二大勢力とも言える、Shiva系(の神々や信仰、宗派閥)とVishnu系とでは、庶民文化および音楽、伝統芸能においては圧倒的にVishnu系が優勢と思われます。それはひとえに、「創造と破壊の神Shiva」よりも「その間の維持の神Vishnu」の方が庶民生活に身近であるからと考えられます。
言い換えれば、より厳格なもの、厳しいもの、高貴高尚なものには、Sihva系のイメージの方が相応しいという、庶民感覚もあるわけです。

実際、Shivaをテーマにした演目や「Raga(ラーガ/旋法)」は、Vishnu関連の神々をテーマにしたり因んだ演目より重たいものがほとんどで、おそらくそのような観念が大分失われた今日でさえ、Shiva系の演目をVishnu系の演目よりも重きを置いた位置に演じるということは誰もしないのではないかと思われます。

インド音楽を聴き慣れない日本人の耳には、例外的に「軽やかに聴こえる」と思われるのが「Raga:Shivaranjani(シヴァランジャーニ)」ですが、それでさえも、演奏会のアンコールや、Vishnu系Ragaの後に演奏する人は、今でも居ないと思われます。これは、そのようなしがらみに無縁のはずのイスラム教徒の演奏家でも同様であるところがインドの不思議なところでもあります。Raga:Shivaranjaniは、日本の唱歌に多用される「四七抜調」を短調にしたような五音音階を用います。

私の師匠は、イスラム教徒でありながら、「Raga:Durga」を得意としていました。ご存知Durgaは、Shivaの妃Parvatiの化身とも言われる女神ですが、師匠にとっては関係無いはずです。しかもその音階は、日本人の耳にもとても親しみを感じさせます(なんと「炭坑節」と同じ音階です)。
しかし、師匠は、Raga:Durgaを常に渾身の想いで奏でていました。ヒンドゥーの女神を知らず、イメージせずとも、温かく柔らかい旋律であるにもかかわらず、「Raga音楽」の巨匠にとって「Raga:Durga」は、決して軽くも親しみ易くもないのです。これこそ、「Raga」の真髄の奥深さを物語り、イスラム宮廷古典音楽になって数百年経った後、イスラム教徒の演奏家にさえも継承される「科学音楽」の「科学性」ではないでしょうか。

例外が、「Raga:Bhairavi」で、フラメンコ旋法のひとつや、西洋人にも「オリエンタル・マイナー」として親しまれたアラブ・トルコ古典音楽で多用される旋法(マカーム)と類似する、切なさ、もの哀しさ、柔らかさを感じさせる音階を用います。
ヒンドゥー神としての「Bhairavi」は、一説にはShivaの従者のひとりとも、Shivaそのものの別名とも言われる「Bhairaw」の妃、即ち、Durga同様Parvati系列の女神で、多くの場合、Durgaよりも凶暴でおどろおどろしく描かれます。
ところが、中世花柳界の叙情詩でひじょうに流行し、あまりに多くの艶っぽい名曲が継承され、既に19世紀頃にはヒンドゥー教徒の音楽家でさえも「重い曲」のイメージは失っていた様子です。なので、演奏会の最期のデザートのような位置づけで演じられるほどポピュラーなRagaとなっています。
もっとも、Raga:Bhairaviにも、二三の異なる解釈や表現法があり、演奏会のラストに演じられるスタイルではない二三種は、少なくとも録音では、この30年新たなものを聴いたことが無いほど、本来は難しいRagaなのですが。

(文章:若林 忠宏

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27、Krishnaと音楽

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ヒンドゥー教の「三大神」と言えば、Brahman、Shiva、Vishnuですが、Brahmanは、ヒンドゥー教成立以前のBrahman教の名残も感じられ、言わば象徴的な感じがします。対してShivaとVishnuは、二大派閥を形成し、しばしば互いに争ったりしたほどの確執があり。古典音楽の歴史にも、この派閥勢力の浮き沈み、交代劇に大きく影響された様子は多く見られます。かと思うと、私の師匠や、知り合ったインド人の多くがニュートラルな感覚で、「どちらも信仰しているが、強いて言えばこちら」のような人が多いような印象を受けます。それと同時に、そんな感覚の庶民にとっては、「創造と破壊の神Shiva」よりは、「その間の維持のVishnu」の方が、とっつき易く、ありがたい、という感覚もあるように感じました。

実際、科学音楽から発展した古典音楽の「Raga(ラーガ/旋法)」でも、Vishnu関連の名を持つRagaが、Shiva関連を圧倒しています。
とりわけVishnuの化身のひとつである、ご存知「Krishna(クリシュナ)」は、様々な「Bhajan」「Kirtan」などのテーマに多く取り上げられています。

KrishnaをテーマにしたBhajanの面白い性質が、例外的にBeatlesのジョージ・ハリソンが後援したインド人教祖がアメリカで興した新興宗教の讃歌を除き、ほぼ全てにおいて、「Krishna」の名が歌に出て来ないということです。
これは、Bhajan創世記における迫害や不理解への対処のみならず、日本の歌舞伎役者も昔は本名(芸名)で呼ばずあだ名(愛称)で呼ぶのがむしろ礼儀であったのと同じようなものが伺えます。事実インド古典音楽では、あだ名的なタイトルが同じ様に礼儀として本名に優先されました。

かつて世界各地で、聖なるものや高貴なもの、偉大なものと、虐げられた卑しいもの、禁忌なものには、同じように「あだ名、蔑称、愛称、タイトル、称号、隠語、」が着けられる不思議な共通性がありました。
その共通の感覚を強いて説くならば、「非日常であり非凡である」とか、「共同体において異端である」という感覚の為せる技であろうと考えられます。
そのような、「善し悪し」や「尊蔑、上下」が不明瞭に、しばしばまるで同義同質であるかのように、普通に行われることが多いのもインドの大きな特徴ではないか、と痛感することが多くあります。

BhajanやKirtanなどの歌詞がある音楽では、知る人ぞ知る「Krishnaの別名やあだ名、愛称」によって、Krishnaに捧げる歌であることが分かりますが、歌詞の無い古典器楽や、歌詞があってもほんの数行の古典声楽では、「あだ名、愛称」以上の理解と知識がないとKrishnaがテーマであることは分からないかもしれません。
そんな少しマニアックなキイワードが「河渡り、悪戯、揺れる、ブランコ、彩り、森」などです。
例えば、「Raga(ラーガ/旋法)」のひとつ「Hindol(ヒンドール)」の字義は、「揺らす」ですが、Krishna信仰の音楽家にとっては、Krshnaが幼少期のみならず、乳搾りの娘Gopiたちと戯れる少年期、Radhaとラヴストーリーを繰り広げる青年期に至るまでこよなく愛したブランコ遊びをイメージします。なので、旋律が揺れる様子も、イメージが異なる音楽家とは多分に変わってくるはずです。
他にも、古典声楽の主題の一節「さあ!起きなさい、何時迄寝ているんですか!」などは、知らない人、無関心な人には、「つまらない歌詞だ」と思われるかもしれませんが、Krishna信仰の声楽家にとっては、Krishnaの養母Yashodaの台詞として理解されるだろう、ということです。

(文章:若林 忠宏

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26、僧侶と竹笛

Indian man Playing Flute in Studio Lighting for closeup shots.

ヒンドゥー教の僧侶階級は、ご存知のように菜食主義者です。しかしインドの菜食は言わば「インド式」で、乳製品はOKというものであり、より厳格な「Vegan(ヴィーガン)」よりはかなり柔軟なことで知られています。
しかし、同じインドの菜食でも、乳製品はOKなのに、「根菜類はNG」という僧侶階級の人を多く見かけます。太鼓タブラの話しで述べました、僧侶階級なのに、太鼓奏者という友人自炊のカレーには、玉葱が入っていませんでした。
また彼は、他人が口を着けた食器やグラスは、それが家族であっても口に充てることはしないそうで、日本に来た時はどうにもならないので自分で洗って使ってました。最近日本でもちょっと有名になったインド人が1Lの紙パック飲料を見事に口に充てずに飲むのもそのような慣習が原点なのでしょう。

このテーマのインドでの想い出は、夜行列車の「チャイのための深夜の臨時停車」で味わった、後にも先にも「最高の美味しさ」の感動とともに蘇って来ます。
小さな素焼のカップに注がれたチャイを飲み干すと、インド人たちはカップを線路に投げつけていました。もちろん街の屋台やレストランでは使い捨てではないのですが、理想を言えば、駅の素焼カップや紙コップがありがたいということでしょう。紙コップは非エコですが、素焼カップは、枕木の下の砂利と同化してしまうようです。

かつて世界各地の楽器には、「誰もが自由に触れる奏でられる」ではない、厳しい掟やしきたりがありました。葬式音楽専用の楽器もあれば、女性が触れない楽器も多い。かと思うと、もっぱら女性用の楽器も無くもない。今日の日本では民芸品店で気軽に売っていても、本来は現地でも容易く触れなかったものも少なく在りません。高貴高尚であることと差別蔑視の両方の場合がありますが。

インドの僧侶階級は、横笛「Bansri(バンスリ)」を本来禁忌としていました。「本来」と述べたのは、またしても例の友人は、太鼓のみならずBansirも吹いていたからですが。逆にインドで初めてBansriで古典音楽を演奏し認められた演奏者がデビューした際には、けっこう物議を醸したと言われ、その演奏者は、古典声楽の技法をもってして民謡扱いのBansriの音楽性を高め次第に認知されたと言います。しかも彼は、民謡のBansriの数倍は大きいBansriを開発し、そのために指の間の皮を切って指が届くようにしたという噂さえあります。
奇しくも私の太鼓Tablaの師匠のひとりがその演奏者の甥っ子なのですが、噂は噂に過ぎず、生まれつき手が大きな人だったとのことでした。

「僧侶階級は竹を口に充てることをしないので、Bansriは禁忌である」は、私自身いまひとつ納得し切れていない観念なのですが、Bansriは、「民謡の楽器」という格下扱いであるからでなく、一説には、「竹が根菜であるから駄目なのだ」と言われます。
比較的厳しいインド菜食では、葉ものや果実はOKですが、芋や根菜はNG。玉葱のみならず、長葱も、「根っこ、幹、枝、葉、果実」と明確に分離されていないから駄目だと説いてくれた人も居ました。そう言われれば竹も確かにその類いではありそうです。
幾つかの文献には、「しかたなく鼻で吹いた僧侶が居た」とも書かれています。真剣な話しなのか、日本の一休さんのような話しなのか? 分かりきれないところがインド的でもありますが。ハワイにも「鼻笛」がありますから、古代人にとっては、何か意味深いものがあったのかも知れません。

(文章:若林 忠宏

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若林忠宏氏によるオリジナル・ヨーガミュージック製作(デモ音源申込み)
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25、弁才天とVina

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インド・ヒンドゥー教の「元祖弁才天」である「Saraswati(サラスワティー)女神」は、四本の手の二本で、弦楽器「Vina(ヴィーナ)」を奏でる姿で描かれていますが、面白いことに、この女神は、ヒマラヤを越えてチベット、中国、日本へと伝わり、チベットからは、一時期同盟国で、チベット仏教を取り入れたモンゴルにも伝わり、それぞれの国の伝統的な民族弦楽器を構える姿で描かれています。

ひとつの不思議な共通点が、インド以外の「弁才天」は擬人性が増し、いずれも腕は二本であることです。チベット仏教の場合、教義的にはタントラ仏教の要素が濃いのですから、四本腕の「Saraswati」よりも、八本腕の「Matangi」が伝わったのではないか、とさえ思えますし、有名な「曼荼羅画」では多手の神々が描かれています。にもかかわらず「弁才天」に相当すると思われる神々はいずれも人間と同じ姿なのです。

今日見ることが出来るSaraswatiが持つ弦楽器は、「近代南インド型Vina」がほとんどどで、Saraswatiのタントラにおける姿であるという解釈もあるMatangi女神は、「近代南インド型Vina」の他、「北インド型Vina(Vin)」を持って描かれることもありますが、Saraswatiが「北インド型Vina」を持って描かれた姿を、私は未だ見たことがありません。

実は、そもそもVinaという楽器は、前述では便宜上「北インド型」としました楽器が本来なのです。「北インド型Vina」は、同じ大きさの大きな干瓢の実の共鳴体に、竹竿を渡し、糸巻を差し弦を張ったシンプルな構造です。
これは、竹筒の弦楽器を、女神がその豊かなふたつの乳房に充てて響かせたという神話に基づくとも言われます。

「近代南インド型」の大きな深いスプーン(柄杓)の様な形状は、実はイスラム勢力がもたらした西・中央アジアの弦楽器が原点なのです。
その楽器は、「Tambur(タンブール)」と呼ばれ、西・中央アジアでは主要旋律弦楽器でしたが、イスラム王朝インドでは、もっぱら花柳界および宮廷宴楽の歌姫が自ら音取り(基音持続)の伴奏に爪弾きました。このスタイルは、10世紀に始まり13世紀から18世紀の間には全インドに広まったようです。
しかも、イスラム王朝と闘っては和平するを繰り返しヒンドゥー藩王国を維持した西北インドのラージプート地方。および、ほぼ全土をイスラム勢力に支配されながらもヒンドゥー文化が細々と生き残っていた南インドといったヒンドゥー文化圏でも「Tambura」は、重要な伴奏弦楽器となっていたのです。

南インドの近代Vinaは18世紀頃に今日の形になったと思われますが、当時の南インドは、イギリスの植民・分割統治の弊害もあって長く戦乱が続き、その伝統や系譜はかなり混乱してしまったため、正確なことは分かりにくくなっています。しかし、今日のSaraswatiが構えているような、一見ギターや三味線と同様な構え方をするようになったのは20世紀中頃からのことで、20世紀初頭の写真からは、北インドのVinaよりも立て、ほぼ垂直に構えて弾いていたことが見て取れます。

18世紀頃の図版でも発見されない限り、言い切ることは出来ませんが、Saraswatiが構えた弦楽器「Vina」は、古くは南北共に同じ形をしていた。それは、今日「北インド型Vina(Vina/Rudara-Vina)」と呼ばれるものと同形であった。従って、本来は「北インド型」という言い方をする必要はなく、「近代南インド型(Saraswati-Vina/Karnatick-Vina)」が隆盛によって対象的に言われるようになったに過ぎない。と考えられるのです。

(文章:若林 忠宏

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24、弁財天か弁才天か

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インドの芸術と学問の女神「Saraswati(サラスワティー)女神」は、日本に伝わり「べんざいてん/弁天/弁天様」として知られるようになりましたが、近年ではもっぱら「弁財天」と表記されます。ところが、本来の仏典では「弁才天」つまり財産・富・繁栄の女神ではなく、芸術と学問・言語の女神だったのです。

ご存知の方も多いと思いますが、「財産・富・繁栄の女神」は、インドでは「Lakshmi(ラクシュミ)女神」で、日本では「吉祥天」として知られ、商店が、今日でも土地の「商売繁盛の神さま」の札を貼るように、インドの飲食店・商店の多くに「Lakshmi」の絵が掲げられています。同様に、ヒンドゥー教徒の音楽家であればもちろん、舞踊家、様々な芸術家の家には額縁に入れられた「Saraswati」を見ることになります。

Saraswatiは、その四本の手の一本に数珠を持ち、一本に経典を持ち、残る二本で弦楽器を奏でることでも知られます。その弦楽器は、現代ではもっぱら南インドの「近代Vina/Karnatick-Vina」が描かれています。楽器については次回詳しくご説明致しますが、大樹を刳り貫いた深いスプーンの様な形の棹と胴の楽器は、実はインド原産ではないのです。

インドにおけるヒンドゥー教の女神の中には、Saraswatiの他にも弦楽器を抱える女神がいます。「スピリチュアルインド雑貨 SitaRama」のブログでも紹介された、「十の智の女神(Das-Mahavidya)」の中の「Matangi(マータンギー)女神」は八本の腕の二本でVinaを奏でます。
Matangi女神は、タントラにおけるSaraswatiであるという説もありますが、腕の数が倍ですし、Natangiの名の他にもShri RajashyamalaやLalitha Parameswari といった名前があります。何度も申し上げているように、地域限定の神がヒンドゥーに組み込まれた要素もあると思われ、全てをSaraswati女神の異なる名前や姿であると解釈することも出来るとともに、全て異なる神々であると解釈することも可能なはずです。
SitaRamaのブログに紹介されているMatangi女神は、「南インド近代Vina」ではなく、より古い「北インドVina/Vin/Rudra-Vina」を構える姿で描かれており、Shri RajashyamalaやLalitha Parameswari として描かれる際も、「北インド型」が描かれている場合が少なくないようです。逆にSaraswatiとして描かれている場合は、殆どが「近代南インド型Vina」であるのもなにやら意味深い感じがします。
何故ならば、Saraswati信仰がとりわけ南インドで盛んである、というわけではないはずだからです。さらに言えば、近代南インド型Vinaが描かれている形になった頃には、北インドの新しい弦楽器シタールも、ほぼ今日の形に発展していましたから、北インドで印刷されるSaraswati絵画では、Sitarを構えていてもおかしくないのです。もちろんこれは、Sitarがイスラム教徒音楽家的であろうから有り得ないのでしょうが。と、思いきや、最近の北インドで描かれたポスターではシタールも目だってきた感じもします。ようやく、インドの人もこの問題に取り組み始めたのでしょうか?

「弁才天」が「弁財天」に替えられた話をインドの師匠のひとりに言いましたら、「日本人は才能より金が欲しいのか!」と冷笑していましたが、かく言うインドでも、持たせる楽器に何やら恣意がありそうなのです。
日本でもインドでもSaraswatiは、常に叡智と母性に満ちた優しい微笑みを浮かべながら、人間の甘えと奢りをすべて容認してくれているようでもあり、申し訳ない気がしてきます。

(文章:若林 忠宏

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23、世界最初の太鼓奏者:Ganesha

Ganesh ,elephant god, figure closeup focused on face

Ganeshという神さまは、象の頭を持つことで、絵画等を一度見れば誰もが忘れない印象深い存在ですが、その誕生のいきさつには諸説あるのが不思議な気がします。なぜならば、地域のアニミズムの神々がヒンドゥーに吸収されたと思わせる神々が多い中で、諸説あるということは逆に普遍的なものを感じさせるからです。

私にとって印象深い説は、Shivaの妃Parvatiが、湯浴みの番人として泥と垢を捏ねて人間を作ったが、そうとは知らないShivaは、己の帰宅を邪魔するその者の首をはねた。怒ったParvatiに詫びるため、Shivaは「この道を最初に通った者の首を授けよう」と言ったところ象が通った、というものです。
この逸話には幾つかの世界的に普遍のキイワードが見られます。特筆すべきそのひとつは「泥と垢(そして水)」という、ある種の「カオス」から生まれたという点であり、もうひとつは、「この道を最初に」という点です。実際、インドにおいてGaneshは、「道行きの神」「物事の最初に関わる神」としても知られますが、この「道祖神」のアニミズム信仰は、世界の様々な地域に見られるのです。

みっつめに関心を誘った点が、ひとつめと同じ「泥と垢」ですが、初めて聞いた時には、「浄・不浄を分別するインドらしからぬ、何だか不衛生な話しだ」、という印象を持ったのです。ところが、以前にもこのコラムで述べましたように、そもそも「浄・不浄」と「清潔・不潔」は別次元であるとともに、むしろ「泥・土・地・大地」というものは、決して汚れたものではない、ということを後に理解したのでした。

ただ、アーユルヴェーダの「五元素」および、深く関連があると考えられる古代ペルシア・ゾロアスター教が説く「四元素」に共通する基本的解釈、戒律では、それらの元素は、正しい方法で融合させねばならず、間違った方法では互いの元素が汚される、という教えが説かれていたことを考えねばなりません。
その「正しい方法」こそは、神々の領域であるとともに、神の教えを学んだ人間にのみ許されるものであるということです。
例えば、古代ペルシアにて、人間が神から学んだものに、焼き物の水差しや花瓶と、花瓶型の太鼓がありますが、太鼓は、四元素の「土を水で捏ね、空気で乾かし、火で焼いて作る」素焼胴の太鼓です。同じ様に、インドで最も古く、かつ由緒あるとされる太鼓「Mridang(ムリダング)」も同様に作られた素焼胴の両面太鼓で、「Mrid」は、「土」、「Ang」は「胴」の意味です。
そして、このMridangを世界で初めて創り叩いたのが、誰あろうGaneshaであると言われています。

シヴァ神の良く知られた役割のひとつに「Nata-Raja(ナタ・ラージャ/舞踊王、舞踊神)」があり、インド八百万の神々の中で、舞踊を司るのは、おそらく唯一シヴァ神なのです。そして、その妻パールヴァティーも舞踊手であり、その息子Ganeshaは、父母の舞踊のために世界で初めて太鼓(Mridang)を叩いた者です。

中世以降から今日に至るインド各種古典舞踊でも、シヴァの舞踊「Tandava(ターンダヴァ)」は、男性的で厳しい性格を持つ演目や技法の原点であり、パールヴァティーの舞踊「Rasya(ラースヤ)」は、流麗な女性的な柔らかな演目、技法の原点とされます。
ところが不思議なことに、インド古典舞踊の演目では、シヴァやパールヴァティーに捧げる演目よりも、圧倒的にGaneshに捧げるものが多くあります。Ganesh自身は太鼓奏者であり舞踊手ではないのにもかかわらず。
もちろん、その理由には様々なものがありますが、Ganeshが、それほどまでに親しみ深い存在であるということは確かなことです。

(おしらせ)
もうご存知の方も居て下さると思いますが。アーユルヴェーダライフさまのサイト・コラムにも、ゆっくり連載を書かせて頂いております。このSita-Ramaさんの「科学音楽」のお話に至る以前の「人間と音楽の関わり」についてから「医療音楽」に至るお話です。是非、合わせてご覧下さいませ。
また、音楽とは少し離れますが、世界の著名人の名言を網羅した数在るサイトの中でも、かなり掘り下げたサイト「癒しツアー」さまで、この度、「猫の名言」の連載コラムを始めさせて頂きました。猫に対しての好き嫌いもございましょうが、「心と心のコミュニケーション」という点で、興味を抱いて頂けましたら幸いです。どちらも、SitaRamaさまがご用意下さっております、若林忠宏プロフィールにURLがございます。宜しくお願い致します。

(文章:若林 忠宏

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