人として社会で生きて行くための基本となるヤマ・ニヤマに沿った行いは、それだけで人々の内に揺るがない強さと、どんなものも受け入れられる柔軟性を生み出します。ここでその教えに従いながら暮らす日々の清らかさは何にも代えがたいものであり、その行いは、心が生み出す様々な働きから自分自身を浄化する意味を持ち合わせているのだと感じます。
日々の生活において、時に、思った以上の喜びがもたらされることがあれば、どうにもならないほどの悲しみにくれることがあります。それらがいつも、神の下で大自然に包まれながら生かされている身であるということを私たちに教えるように、その神と自然の暦に従った生活が生み出すここでの日々に学ぶことは、いつの時も純粋で謙虚であり続けるということです。偉大な力の前では私たちはただ小さな存在であり、そんな私たちの行いは全て、神への捧げ物の他ありません。
だからこそ、神を思う瞬間に包まれるこの生活に浸っていると、とことんまで自分自身を浄化したくなる時があります。そして私にとってヨーガはまさにその術です。ヤマ・ニヤマという清く正しい行い、座法や呼吸法、感覚の制御によって肉体的に浄化が進んだ後は、瞑想に至るための精神的な浄化を辿ります。それは全て、神の下に至るための道でしかありません。あらゆるヨーガの行いは自分自身の浄化の他になく、それは神に近づくための準備です。
バガヴァッド・ギーターの中でもクリシュナ神は述べています。「ヨーガの行いにより、清い心で感覚を超えたところの絶対的な喜びを知れば、どんな苦もない真の自由を得る。そして何があっても、真実から離れることはない。(第6章21節〜23節)」と。
行いを止めることをできない私たちは、その行いをもって神に近づかねばなりません。それはただ、心の作用に自分を見失うことなく正しい行いを全うすることであり、ヨーガは確実に私たちを導きます。
こうして生きながら、心の働きに激しく揺り動かされることがあっても、その全てが真実に向かうための学びなのだと、神の下へまた一歩近づくことができるよう、日々の行いを一つ一つ今努めています。
(文章:ひるま)
雑記帳
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