ダシャハラーを終えたインドは、次のディーワーリーに向け、新たに祝祭の準備が始まっています。歓喜に満ちる瞬間のために、どこか忙しない祝祭と祝祭の間でも、少しだけある落ち着いた静寂に、日々を見つめ直す瞬間を過ごしています。
数多くの祝祭や聖地が存在するインドの地に身を置く今、そこで得る神聖なエネルギーが、言葉には出来ないほどの力を持つものであることに改めて気づかされます。自身の存在の至福をここまで感じる瞬間は他にありません。しかしそれは、決して祝祭や聖地を通じてだけではなく、祝祭の後、こうして訪れる静寂もまた、自身の存在の至福を際立てていくことを実感しています。
特に、自身の内を見つめる術が生み出す静寂は、どんなものにも勝る力となり、限りのない至福を与えると古くから聖者たちによって伝えられてきました。そしてその術である瞑想やジャパは、それが成されるのが常に私たちの内であり、何も必要としないとてもシンプルでありながら、もっとも強くその恩恵を見てとれるものだと言われます。自身の内に全てがあるからこそ、外ではなく、その内を探ることが、何よりもの大きな力を与えるのは疑いの無い事実です。
私たちは日々を過ごす瞬間の中で、幾度となく、外界を通じて沸き起こる思考のさまざまな雑音に「気づき」を失い、無意識となる瞬間を経験せねばなりません。思考を止める瞑想やジャパは、自身の内に限りの無い静寂をもたらし、気づきそのものである「意識」を際立てて行きます。
無意識を開花し、究極的な気づきの状態を得ることは、永遠の至福に留まる術の一つであると言われます。それは、自身が内なる静寂を獲得し、雑音に惑わされない純粋な意識の状態で在るからにありません。
住まうこの場がアシュラムであり、この体が祭壇であり、この心が導師であること。そして自身の存在こそが最も崇高なものであること。祝祭と祝祭の静寂の間でその事実に改めて気づき、内なる世界の探求に励みながら、その気づきと共に日々を豊かに過ごしていきたいと感じています。
(文章:ひるま)
雑記帳
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