スピリチュアルインド雑貨SitaRama

グル・プールニマー

サイババの教え – 信仰と忍耐の力

19世紀末から20世紀初頭にかけて、インドのマハーラーシュトラ州シルディ村に住んでいたサイババは、多くの人々から聖者として崇拝されました。サイババの教えの核心は、信仰と忍耐の力でした。彼は、人生の苦難や試練に直面したとき、信仰と忍耐を持って乗り越えることの大切さを説きました。

ある日、一人の裕福な男性がサイババのもとを訪れ、ブラフマンの知識を授けてほしいと懇願しました。サイババは彼に5ルピーのダクシナ(寄付)を求めました。男性は財布に大金を持っていましたが、5ルピーを差し出すことをためらいました。サイババは男性の態度を見抜き、こう諭しました。

「ブラフマンの知識を得るには、エゴを捨て、世俗的な執着から離れなければなりません。あなたは5ルピーさえ惜しむのに、どうしてブラフマンの知識を得ることができるでしょうか。まずは自分の欲望を制御し、他者に奉仕する心を育てることから始めなさい。」

この教えは、精神的な成長には物質的な執着から離れることが必要であり、それには日々の小さな実践から始めるべきだということを示しています。現代社会においても、物質主義や利己主義に陥りがちな私たちに、大切な示唆を与えてくれます。

また、サイババは信仰の力について、次のような例え話をしました。

「ある村で、コレラが大流行していました。村人たちは恐れおののき、外部との接触を断ちました。そんなとき、サイババは小麦粉を挽き始めました。村人たちは不思議に思いましたが、サイババはその粉を村の外れに撒きました。すると不思議なことに、コレラの流行は収まったのです。」

サイババは、この行為の意味を次のように説明しました。

「小麦粉を挽くことは、信仰の力を象徴しています。困難に直面したとき、ただ恐れるのではなく、信仰を持って行動することが大切です。たとえ小さな行為でも、信仰を持って行えば、大きな力となるのです。」

この教えは、現代社会においても重要な意味を持ちます。私たちは様々な困難や不安に直面したとき、しばしば無力感に襲われます。しかし、サイババの教えは、信仰を持って行動することの大切さを教えてくれます。それは必ずしも宗教的な信仰である必要はなく、自分の内なる力や、より良い未来への信念でもよいのです。

サイババはまた、忍耐の重要性についても説きました。ある時、彼は弟子たちにこう語りかけました。

「忍耐は人間の中の男らしさです。それはあらゆる罪と苦しみを取り除き、様々な方法で災いを払い、すべての恐れを捨て去り、最終的に成功をもたらします。忍耐は美徳の鉱脈であり、良い思考の伴侶です。信仰と忍耐は双子の姉妹のようなもので、お互いを深く愛し合っています。」

この教えは、現代社会においても非常に重要です。私たちは即座の結果や満足を求めがちですが、真の成長や成功には時間がかかります。サイババの教えは、困難に直面したときこそ、忍耐を持って取り組むことの大切さを教えてくれます。

サイババはまた、すべての人々が平等であり、互いに尊重し合うべきだと教えました。彼はヒンドゥー教徒とイスラム教徒の間の対立を和らげようと努め、こう説きました。

「ラーマ(ヒンドゥー教の神)とラヒーム(イスラム教の神)は同じです。両者の間にはわずかな違いもありません。なぜ信者同士が争うのでしょうか?無知な者たちよ、手を取り合い、両コミュニティを一つにしなさい。賢明に行動し、そうすれば国民の統一という目標を達成できるでしょう。」

この教えは、宗教や文化の違いによる対立が絶えない現代社会において、非常に重要な意味を持ちます。サイババは、すべての人々の根底にある共通性を強調し、相互理解と尊重の重要性を説いたのです。

サイババはまた、日々の生活の中で精神性を実践することの重要性を強調しました。彼は、瞑想や祈りといった特別な実践だけでなく、日常生活のあらゆる場面で精神性を表現することができると教えました。

ある時、サイババは弟子たちにこう語りかけました。

「神は全ての生き物の中に宿っています。蛇や蠍の中にさえも。神は世界の偉大な操り手であり、蛇や蠍などのすべての生き物は神の命令に従います。神の意志なしには、誰も他人に害を与えることはできません。世界は神に依存しており、誰も独立しているわけではありません。だからこそ、私たちはすべての生き物に同情と愛を持つべきです。冒険的な戦いや殺生を止め、忍耐強くあるべきです。主(神)がすべての守護者なのです。」

この教えは、生命の尊さと相互依存性を強調しています。現代社会では、しばしば自然や他の生き物との調和を忘れがちですが、サイババの教えは、すべての生命との調和の中で生きることの重要性を思い出させてくれます。

最後に、サイババは個人の努力の重要性も強調しました。彼はこう語っています。

「ヨーガ、犠牲、苦行、知識は神に到達する手段です。これらの手段によって成功しないなら、あなたの人生は無駄になります。誰かがあなたに悪いことをしても、仕返しをしてはいけません。何かできることがあれば、他人に何か良いことをしなさい。」

この教えは、精神的成長には個人の努力が不可欠であることを示しています。同時に、他者への奉仕や善行の重要性も強調しています。現代社会では個人主義が強調されがちですが、サイババの教えは、個人の成長と他者への奉仕のバランスの重要性を示唆しています。

サイババの教えは、信仰、忍耐、平等、日常生活における精神性の実践、生命の尊重、個人の努力と他者への奉仕など、現代社会においても非常に重要な価値観を含んでいます。これらの教えは、物質主義や利己主義、対立、環境破壊などの問題に直面している現代人に、新たな視点と生き方を提示してくれます。サイババの教えを実践することで、私たちはより調和のとれた、意味のある人生を送ることができるでしょう。

Reference:
Sai, Hemadpant. Shri Sai Satcharitra. Translated by N.V. Gunaji. Shri Sai Baba Sansthan Trust, Shirdi.

コメント

    • 世界の全てを神とする場合における問題点、自と他、善と悪、自と世界及び神との混同における問題点の提起
    • 2024.07.09 2:49pm

    他者への行為は他者を認めてはじめて行われます
    嘘や欺瞞や捏造があるならばそれを知り
    その上で後悔のない選択をさせるべきです

    人々は無知なのか
    それとも知った上で選択したのか

    いずれにせよ確認をしてあげる事が大事ですし
    嘘や欺瞞や捏造の内容を知った上でそれらを選択したのならば
    確認する事に何も問題は発生しません

    この世界の悪を肯定するならば
    それは悪をされる事を肯定する事と同じになります

    悪を為されて納得できると主張するならば
    この世界はひたすら悪を為される側にまわされるだけです

    悪を為されて納得すると主張するならばその人間はその行為をされても問題が発生しないと自ら言う事と同じです

    痛めつけられても殺されても騙されても盗まれても問題がないと主張するならば
    それらをされ続けても良いと主張する事と同じです
    これはとんでもなく恐ろしい行為です

    何せそのような内容を言質にして悪魔は身代わりを欲求し代受苦を欲求し
    それらを元に悪魔は悪魔を拝む人々の苦しみをそれらの苦しみを肯定する人々に身代わりにし或いはそれらの便利な人々から盗み奪い悪魔の礼拝者に付与し
    利益を為すからです

    天魔が人々の楽しみや境地を奪うのはこのような内容です
    大乗仏教とは即ち天魔の宗教であり天魔を礼拝し天魔の動く宗教です
    故に煩悩を肯定し欲求を肯定します
    そして欲願が主体となり戒律は疎かになり破壊されます

    また
    内的欲求により
    或いは外部から来る憑物により
    悪事や悪を為す行為を
    または善を否定する内容を

    肯定したいのですか?
    という問題があります

    殺人や害意の欲求があればそれを行う事を
    是としたいのかという問題がありますので

    事実を知り矛盾を知った上で選択しなければなりません

    神が万能ならば悪を生じさせる時点で神は悪を好むという事でしかありません
    殺人を好み、盗みを好み、詐欺や欺瞞や捏造を好む神を認めるという事になります

    その世界と神を肯定するならばそれらの行為に付き合わされる事も肯定しなければなりません

    物事に善と悪との二つに分けて論じるならば
    善を神とし悪を悪魔とし
    己の求める側を選択するべきなのです

    悪も神とするならば悪を肯定し悪事を行う事も肯定し奨励しなければなりません

    他者への行いという個別性を説きながら
    イスラムとヒンドゥーは同じと言うこともまた矛盾です

    それらもまた自と他という個別性の現れでしかないのに何故それらを一つととらえるのですか
    戒律や決め事内容が違う物を同じと言うことは蒙昧です

    神を思い込みや信じる力などと言うレベルでとらえる事は蒙昧です

    世界が神であるならば
    神がヒンドゥーとイスラムを別々に作ったから二つは分かれて発生したという事を肯定し
    それらによる諸問題もまた神が望むものになります

    しかしながらこの世界はそのような単純にはできていません

    神と悪魔があり
    個別性が全ての存在にもあります

    同じではないもの同じと言うことは
    嘘であり偽りであり
    神への嘘でしかありません

    違う物は違う物としてちゃんと分けて理解し
    それが嘘や捏造や悪ならば
    それらの内容や問題点や矛盾点を知らせた上で人々に選択させる事が大事だと思います

    この世界の全てが神ならば悪もまた全てが神であり神は悪も好みます
    殺す事も騙す事も盗む事も神の望みです
    私はそれを望みませんししたくありませんので悪は悪魔ととらえます

  1. SitaRama

    コメントありがとうございます。サイババの教えについて、深い洞察と批判的な視点を示していただき感謝いたします。

    ご指摘の通り、善悪の二元性や個別性の問題は非常に複雑で、単純化することは難しいですね。サイババの教えには確かに矛盾する部分もあるかもしれません。

    一方で、サイババの教えの核心は、人々が互いを尊重し、平和に共存することにあったのではないでしょうか。宗教間の対立を和らげようとした意図は、当時の社会状況を考えると理解できる部分もあります。

    ただし、ご指摘のように、異なる信念や価値観を単純に「同じ」とすることには問題があるかもしれません。むしろ、違いを認めた上で相互理解を深めることが大切だと思います。

    また、善悪の問題や神の本質についてのご意見は非常に興味深いです。これらの哲学的な問いは、古来より多くの思想家が取り組んできた難題ですね。

    サイババの教えを現代に適用する際には、批判的に検討し、現代の倫理観や科学的知見と照らし合わせることが重要だと思います。同時に、その中から普遍的な価値 – 例えば他者への思いやりや自己成長の重要性など – を見出すことも可能かもしれません。

    このような深い議論ができることは非常に貴重です。今後も様々な視点から、こうした哲学的・倫理的な問題について考え続けていきたいと思います。再度、貴重なご意見をありがとうございました。

    • aidman
    • 2024.10.10 6:40pm

    SitaRamaさん。
    はじめまして。

    俺は、因縁を無視するわけにはいきません。

    俺に、『悪を為される因縁』があるなら、俺は、受けるものを受けないといけません。

    俺の内に、『悪を為される何か』があるなら、捨て去る努力をします。

    カルマは、見えません。
    でも、肉体は、見えないカルマを見せてくれる。

    じぶんのカルマは、じぶんが招いたこと。
    それが自然の摂理です。

    神は関係ありません。
    肉体の欲は、神とは何の関係もありません。

    人間は、この世の神なんです。
    でも、天狗になれば鼻ポキンです。

    俺は、霊性修行に励んでいるSitaRamaさんのことを、兄弟姉妹だと思っています。
    ありがとうございました。

  2. SitaRama

    ありがとうございます。深い洞察に満ちたコメントをいただき、感謝いたします。

    因縁や自己責任の概念について、非常に興味深い視点をお示しくださいました。確かに、私たちが経験することの多くは、自らの行動や思考の結果であり、それを認識し受け入れることは重要ですね。

    「肉体は見えないカルマを見せてくれる」という表現が印象的です。日々の生活の中で、私たちの内面が外面に現れるという考えは、自己省察の重要性を示唆していると感じました。

    また、「人間はこの世の神」というお考えも興味深いです。これは、私たち一人一人が自らの人生に対して大きな責任を持っているという意味でしょうか。同時に、「天狗になれば鼻ポキン」というユーモアを交えた警告も、謙虚さの重要性を思い出させてくれます。

    貴重なご意見をありがとうございました。このような対話を通じて、私たち自身の思考も深まっていくのだと感じています。

    • aidman
    • 2024.10.14 7:55pm

    SitaRamaさん。
    ありがとうございます。

    SitaRamaさんの平和なバイブレーションには、感服致します。
    じぶん、言葉足らずなもので。

    サイババは、『ラーマ(ヒンドゥー教の神)とラヒーム(イスラム教の神)は同じ』と言っていますね。
    それは、『ラーマもラヒームも、呼び名が違うだけで、同じ神』ということなのでしょう。

    一体性=多様性。

    一なるものが、多として顕れる多様性。
    多として顕れているものが、一なるものに生かされている一体性。

    一神=多神。

    俺は、浄土真宗が好きなのですが、真宗では、阿弥陀仏を『神』としています。
    サイババに言わせれば、『ヒンドゥー教も、イスラム教も、浄土真宗も、一なるものが多として顕れているので、違う教えに見えるけれども、実は、私達を生かしているのは、同じ神』ということなのでしょう。

    そう考えれば、サイババの教えに矛盾はないかと思われます。

    SitaRamaさん。
    ありがとうございました。

  3. SitaRama

    aidmanさん、重ねてコメントをいただき、ありがとうございます。

    一体性と多様性の関係性について、非常に洞察に満ちた視点をお示しいただきました。「一なるものが多として顕れる多様性」と「多として顕れているものが一なるものに生かされている一体性」という表現は、宗教や哲学の本質を見事に捉えていると感じます。

    サイババの教えについての解釈も、大変興味深いです。確かに、様々な宗教や信仰の根底にある共通性を指摘することで、サイババは人々の相互理解と調和を促そうとしたのかもしれません。この視点は、現代の多様化する社会においても重要な示唆を与えてくれると思います。

    浄土真宗についてのお話も、一神教と多神教の関係性を考える上で、新たな視点を提供してくれました。異なる宗教や文化の間にある共通点を見出すことは、相互理解と平和な共存につながる可能性がありますね。

    一方で、各宗教や文化の独自性や多様性も尊重することが大切だと思います。「一体性=多様性」という考え方は、まさにその両立を可能にする視点かもしれません。

    このような深い思索と対話は、私たち一人一人の視野を広げ、より豊かな理解をもたらすと感じています。aidmanさんの洞察に富んだコメントに、心から感謝いたします。これからも、このような建設的な対話を通じて、互いに学び合えることを願っています。

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