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ラーマ・ナヴァミー

サイ・ババとラーマ・ナヴァミー祭の物語

インドのマハーラーシュトラ州にある小さな村、シルディ。この村は、19世紀末から20世紀初頭にかけて、一人の聖者の存在によって大きく変わりました。その聖者の名は、サイ・ババ。彼の教えと存在は、今日でも多くの人々の心に生き続けています。

奇跡の始まり

1897年、シルディに住むゴパルラオ・グンドという男性の人生が大きく変わる出来事がありました。彼には三人の妻がいましたが、長年子宝に恵まれませんでした。しかし、サイ・ババの祝福を受けて、ついに息子が生まれたのです。

この喜びに満ちた出来事は、グンドの心に新たな思いを芽生えさせました。「自分の喜びを多くの人と分かち合いたい」。そう考えた彼は、村で祭り、「ウルス」を開催することを思いつきました。

グンドは早速、この考えを村の有力者たちに相談しました。タティヤ・パティル、ダダ・コテ・パティル、そしてマダブラオ・デシュパンデ(通称シャマ)。彼らは皆、この提案に賛同しました。

しかし、最も重要な承認はまだでした。グンドたちは、サイ・ババのもとへ向かいました。サイ・ババは穏やかな笑顔で彼らの話を聞き、祭りの開催を祝福しました。

ババの祝福を得て、グンドたちは意気揚々と役所へ向かいました。しかし、そこで思わぬ障害に遭遇します。村の書記が祭りの開催に反対の報告をしたのです。その結果、役所は許可を出しませんでした。

しかし、グンドたちは諦めませんでした。サイ・ババの祝福を信じ、何度も交渉を重ねた結果、ついに許可を得ることができました。こうして、シルディで最初の「ウルス」が開催される運びとなったのです。

困難を乗り越えて

祭りの準備は、想像以上に大変でした。シルディは小さな村で、水の確保が最大の問題でした。村には二つの井戸がありましたが、一つはすぐに干上がってしまい、もう一つは塩辛い水しか出ませんでした。

ここでも、サイ・ババの力が村人たちを助けました。ババは塩辛い水の井戸に花を投げ入れました。すると不思議なことに、その水が甘い飲み水に変わったのです。しかし、それでも水は足りません。タティヤ・パティルは遠くの井戸から革袋で水を運ぶ手配をしなければなりませんでした。

水の問題だけではありません。仮設の店を建てたり、レスリングの試合を手配したりと、やるべきことは山積みでした。しかし、村人たちは協力して、一つずつ問題を解決していきました。

友情が結ぶ縁

グンドには、アフマドナガルに住む親友がいました。ダム・アンナ・カサールという名前のこの友人も、グンド同様に子宝に恵まれずにいました。二人の妻がいても、子供ができなかったのです。

グンドは友人にサイ・ババのことを話し、シルディを訪れるよう勧めました。カサールもまた、サイ・ババの祝福を受け、息子を授かりました。

この経験から、二人の友情はさらに深まりました。グンドは、祭りのために旗を用意してくれるようカサールに頼みました。カサールは喜んで引き受け、シンプルながら美しい旗を作りました。

さらに、グンドはナナサーヘブ・ニモンカルという別の友人にも声をかけ、もう一つの刺繍入りの旗を用意してもらいました。こうして、二つの旗が祭りの象徴となったのです。

祭りの変容

最初の「ウルス」は、イスラム教の伝統に則ったものでした。しかし、時が経つにつれ、祭りの性質は少しずつ変化していきました。

1912年、大きな転機が訪れます。その年、クリシュナラオ・ジャゲシュワル・ビシュマという信者が、アムラオティのダダサーヘブ・カパルデと共に祭りに参加しました。彼らは前日、ディクシット・ワダ(ディクシット家の屋敷)に滞在していました。

ビシュマが縁側で横になっていると、ラクシュマンラオ(通称カカ・マハジャニ)が祭具を持ってマスジド(モスク)に向かうのが見えました。その時、ビシュマの心に新しいアイデアが浮かびました。

「なぜこの祭りをラーマ・ナヴァミーと一緒に祝わないのだろう?」

ラーマ・ナヴァミーは、ヒンドゥー教の重要な祭りで、ラーマ神の誕生を祝うものです。ビシュマは、この二つの祭りを融合させることで、より多くの人々が参加できるのではないかと考えたのです。

カカ・マハジャニもこのアイデアに賛同しました。しかし、新しい要素を加えるには、サイ・ババの許可が必要です。二人は勇気を出してババのもとへ向かいました。

サイ・ババは、すでに二人の考えを知っているかのように、にっこりと笑って許可を与えました。こうして、「ウルス」はラーマ・ナヴァミー祭と融合し、新たな形の祭りへと生まれ変わったのです。

祭りの発展

ラーマ・ナヴァミー祭の要素が加わったことで、祭りはますます盛大になっていきました。ヒンドゥー教の伝統である「キールタン」(神の栄光を歌う音楽礼拝)が行われるようになり、赤い粉を投げ合って喜びを表現する習慣も取り入れられました。

一方で、イスラム教の伝統も大切に守られました。「サンダル」の行列は、夜になると町を練り歩きました。サンダルとは、白檀のペーストのことで、聖者を称える儀式に使われます。

こうして、ヒンドゥー教とイスラム教の伝統が見事に融合した祭りは、年々規模を拡大していきました。当初は5000人から7000人程度だった参加者が、後年には75000人にまで膨れ上がったのです。

しかし、注目すべきは参加者の数だけではありません。これほどの大規模な祭りにもかかわらず、宗教間の対立や衝突が一切なかったことです。これは、サイ・ババの教えが人々の心に深く根付いていた証でもありました。

マスジドの修繕

祭りが大きくなるにつれ、サイ・ババが住んでいたマスジド(モスク)の修繕も必要になってきました。最初にこのアイデアを思いついたのは、やはりゴパルラオ・グンドでした。彼は石を集め、加工する準備を始めました。

しかし、この仕事は思わぬ展開を見せます。マスジドの修繕は、ナナサーヘブ・チャンドルカルに任されることになったのです。また、舗装工事はカカサーヘブ・ディクシットが担当することになりました。

最初、サイ・ババはこれらの工事を許可しませんでした。しかし、地元の信者マハルサパティの仲介により、ようやく許可が下りました。

工事は驚くべきスピードで進みました。舗装工事は一晩で完了し、サイ・ババは長年使っていた粗末な布の代わりに、小さな敷物を座席として使うようになりました。

1911年には、マスジドの前の広場も整備されました。カカサーヘブ・ディクシットは、狭くて不便だった広場を拡張し、屋根を付ける計画を立てました。多額の費用をかけて鉄柱や梁を購入し、夜通し作業を行いました。

しかし、翌朝チャワディ(サイ・ババが時々寝泊まりする場所)から戻ってきたサイ・ババは、設置されたばかりの柱を全て引き抜いて投げ捨ててしまいました。

サイ・ババの不思議な行動

サイ・ババの行動は、時に信者たちを驚かせ、時に恐れさせました。ある日、ババは突然激怒し、片手で柱を揺さぶりながら、もう一方の手でタティヤ・パティルの首をつかみました。

ババはタティヤのターバン(頭に巻く布)を力ずくで取り、マッチで火を付けて穴に投げ込みました。その時のババの目は、燃える炭のように赤く光っていました。誰も彼を直視する勇気がありませんでした。

人々は恐怖に震え、タティヤの身に何が起こるのか、誰も予想できませんでした。ババの親しい信者であるバゴジ・シンデ(ハンセン病を患っていた)が、勇気を出して近づこうとしましたが、ババに押し返されてしまいました。

マダブラオも同じように扱われ、レンガの破片を投げつけられました。仲裁に入ろうとした人々は、皆同じような目に遭いました。

しかし、しばらくするとババの怒りは収まりました。彼は店主を呼び、刺繍の施された新しいターバンを買い、自らタティヤの頭に巻いてやりました。まるで特別な栄誉を与えているかのようでした。

人々は、この奇妙な出来事に驚きを隠せませんでした。なぜババは突然怒り出し、タティヤを襲ったのか。そしてなぜ次の瞬間、その怒りが収まったのか。誰にも理解できませんでした。

しかし、サイ・ババをよく知る信者たちは、この出来事を別の視点で見ていました。彼らは、ババの怒りや叱責さえも、実は祝福の一形態なのだと考えていたのです。

彼らの解釈によれば、ラーマ神が生まれた時、ババが怒り狂うのは適切なことでした。それは、ラーヴァナ(ラーマの敵)や悪魔たちを、エゴイズムや邪念の形で退治するためだったのです。

さらに、彼らはサイ・ババの習性をよく知っていました。シルディで新しいことが始まる時、ババはよく怒ったり興奮したりしたのです。だから、彼らは静かにこの出来事を見守りました。

サイ・ババの教え

サイ・ババの行動は、時に理解し難いものでした。ある時は穏やかで優しく、愛情のこもった言葉を語り、次の瞬間には理由もなく怒り出すこともありました。

しかし、こうした一見矛盾する行動の中にこそ、ババの深い教えが隠されていたのです。彼の行動は、人々に「表面的なものにとらわれず、本質を見る」ことを教えていました。

ババは、宗教や社会的地位、貧富の差といった表面的な違いを超えて、全ての人間の中に神の存在を見ていました。彼の教えは、ヒンドゥー教徒とイスラム教徒の調和を説くものでした。

そして、この教えは祭りの中に見事に具現化されていたのです。ヒンドゥー教の伝統とイスラム教の伝統が融合した祭りは、宗教の違いを超えた人々の調和を象徴していました。

祭りの意義

ラーマ・ナヴァミー祭は、単なる宗教的な祝祭以上の意味を持っていました。それは、コミュニティの結束を強める重要な機会でもありました。

この祭りは、異なる宗教や文化的背景を持つ人々が一堂に会し、共に祝う場となりました。ヒンドゥー教徒とイスラム教徒が協力して祭りを運営し、それぞれの伝統を尊重しながら新しい形の祭典を作り上げていったのです。

貧しい人々への食事の提供も、祭りの重要な要素でした。これは、サイ・ババが常に強調していた「奉仕の精神」を実践する機会となりました。裕福な信者たちが率先して食事の準備を行い、社会的地位や経済状況に関係なく、全ての人々が同じ食事を共にすることで、人々の間の壁を取り払う役割を果たしました。

また、この祭りは経済的にも村に大きな影響をもたらしました。多くの参拝者が訪れることで、地元の商店や宿泊施設は潤い、新たな雇用も生まれました。シルディは、かつての小さな村から、年々多くの巡礼者を迎える聖地へと変貌を遂げていったのです。

さらに、祭りは芸術や文化の発展にも寄与しました。キールタン(宗教音楽)の演奏や、レスリングの試合など、様々な催しが行われることで、地元の芸能や伝統スポーツが守られ、次世代に継承されていく機会となりました。

サイ・ババの遺産

1918年、サイ・ババはこの世を去りました。しかし、彼の教えと精神は、ラーマ・ナヴァミー祭を通じて今も生き続けています。

ババの死後も、祭りは年々規模を拡大し、より多くの人々を惹きつけるようになりました。それは単に参加者の数が増えただけではありません。祭りの本質的な意味、すなわち宗教や文化の壁を超えた人々の調和という理念が、より多くの人々の心に浸透していったのです。

今日、シルディを訪れる人々は、華やかな祭りの様子だけでなく、サイ・ババが体現した普遍的な価値観―愛、奉仕、調和―を感じ取ることができます。マスジドとチャワディ、そしてババの墓所であるサマーディは、今も変わらず巡礼者を迎え入れ、ババの存在を静かに語り続けています。

現代に生きるサイ・ババの教え

21世紀の今日、私たちを取り巻く世界は大きく変化しました。技術の進歩により、世界中の情報に瞬時にアクセスできるようになった一方で、人々の間の分断も深まっているように見えます。

しかし、このような時代だからこそ、サイ・ババの教えは新たな意味を持って輝きを放ちます。宗教や文化、国籍の違いを超えて人々が調和し、互いを尊重し合うというババの理想は、今日の世界が最も必要としているものではないでしょうか。

ラーマ・ナヴァミー祭は、そんなババの理想を具現化した祭りとして、今も多くの人々の心を惹きつけ続けています。毎年、世界中から数十万人の巡礼者がシルディを訪れ、ババの教えに触れ、自らの人生に新たな気づきを得ていきます。

結びに

小さな村の、一人の聖者から始まったこの物語は、今や世界中の人々に希望と勇気を与え続けています。

ゴパルラオ・グンドの個人的な感謝の気持ちから始まった小さな祭りは、サイ・ババの導きと、多くの信者たちの献身的な努力によって、宗教や文化の垣根を越えた大きな祭典へと成長しました。

そしてこの祭りは、単なる宗教的行事を超えて、人々の心の中に「一体性」「調和」「奉仕」といった普遍的な価値観を植え付ける役割を果たしてきました。

今日、世界中で分断や対立が深まる中、サイ・ババが体現した「全ての人間の中に神を見る」という教えは、これまで以上に重要性を増しています。ラーマ・ナヴァミー祭は、そんなババの教えを具現化した生きた例として、今も私たちに多くのことを語りかけています。

この物語は、一人の人間の純粋な信念と行動が、いかに大きな変化をもたらすかを教えてくれます。そして同時に、異なる背景を持つ人々が互いを理解し、尊重し合うことで、どれほど豊かな文化を創造できるかを示しています。

サイ・ババとラーマ・ナヴァミー祭の物語は、私たち一人一人に、自分の中にある偏見や壁を取り払い、開かれた心で他者に接する勇気を与えてくれるのです。そして、小さな行動から始めることで、世界を少しずつ、しかし確実に変えていけるという希望を、私たちに示してくれています。


参考文献

Sai Satcharitra - Chapter VI
https://www.saidhamsola.org/satcharitra_chapter6.php

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