かつて、古(いにしえ)のバラタ大陸のはずれに、「スーリヤプラ」と呼ばれる小さな村があった。村の名は、太陽神スーリヤに捧げられた寺院の周囲に人々が集まり、自然とできた集落であったという。広大なインドの土地に無数の村が点在するなかで、この村は太陽を崇拝する特異な信仰が根づいていた。
その寺院は簡素ながらも堂々とした造りで、朝日が東の空に姿を現すと同時に鐘の音が鳴り響き、まるで太陽が屋根を照らすためにそこに昇ってくるかのように、光が漆喰の壁や石の床をまばゆく染め上げた。正面の拝殿には、馬車を駆る太陽神スーリヤの姿をかたどった木像が据えられている。七頭の馬がひしめくように彫刻され、その馬車の上には、穏やかでありながら気高い眼差しをたたえるスーリヤの神像が、神秘的な存在感を放っていた。
この寺院の祭司を務めるのは、代々スーリヤに仕えることを宿命づけられた一族であり、今の当主は壮年の僧「ラーヴァナンダ」であった。真っ白な髭をたくわえ、日の出とともに瞑想を行うその姿は、村人にとって精神的支柱でもあった。ラーヴァナンダは経典の暗誦が得意なだけでなく、太陽にまつわる様々な霊的秘密を説き、村の人々に光と生命の尊さを説いてきた。彼の前に跪(ひざまず)き、日々の悩みや相談をする者は後を絶たない。
季節は冬の盛りに差し掛かり、冷たい風が吹きすさぶある日のこと。ラーヴァナンダはその日いつものように日の出前から大気の静寂の中に身を置き、太陽を迎える儀式の準備をしていた。すると、東の空が群青色から紫、そして朱へと微妙なグラデーションを描きはじめたころ、彼の耳に、どこか懐かしくも荘厳な声が届いた。
「ラーヴァナンダよ。太陽がいよいよマカラ(山羊座)の宮へ入る日が来る。人々はこれをマカラ・サンクラーンティと呼び、新たなる光への門が開かれる時を祝う。汝はその導き手としてふさわしい行いをせねばならぬ」
それはまるで、太陽神スーリヤが直接ラーヴァナンダに告げた啓示のようであった。常日頃から敬虔にスーリヤへ祈りを捧げてはいたが、これほどはっきりとした声を聞いたのは生まれて初めてだった。ラーヴァナンダは恐れと歓喜に打ち震えつつ、ふかぶかと頭を垂れてその声を受け止めた。
マカラ・サンクラーンティとは、太陽が黄道上で山羊座に入るときの天体の転換点であり、インド全土で大切にされる節目の祭りである。インドでは農作物の収穫期とも重なり、太陽の恵みに感謝を捧げる意味でも、多くの人々がプージャー(儀式)や様々な祝宴を執り行う。干し草や穀物を用いた食事や、ゴマ(ティラ)と砂糖で作るお菓子を交換し合う風習が盛んに行われ、収穫への感謝と、太陽の力が再び強まることの喜びが、人々の活気となる。
さて、ラーヴァナンダに呼びかけたその声は、太陽が移り変わり、新しい半期がはじまる「ウッタラーヤナ」を迎える重要性を強調していた。ウッタラーヤナには霊的にも大きな意味合いがあると古くから言い伝えられており、太陽の北進に合わせて、魂がさらに高みへ向かう大きな支えとなるともいわれる。この時期に瞑想や修行をすることで、より神聖な恩寵を授かりやすくなるのだと。
だが村の人々は、日々の暮らしに追われ、必ずしも深い信仰心を持ち合わせているわけではなかった。「マカラ・サンクラーンティは盛大に祝うもの」と言われてはいるが、その本当の霊的意義を知る者は少ない。多くの者にとっては、ただの「収穫祭」「新しい時期の区切り」という程度の行事だった。
ラーヴァナンダは、スーリヤの声によって確信を得た。自分がなすべきは、この村にスーリヤの恩寵を正しく伝えるとともに、より多くの人々がマカラ・サンクラーンティを「魂の転換点」として意識できるよう促すことである。その夜、彼は長年手元で保管していた古の写本を開き、太陽神スーリヤの行いを語る叙事詩やプラーナ文献を丹念に読み返した。そこには、スーリヤがどのように世界を照らし、季節を律し、すべての生命を育み、そして人々に知恵と光を授ける神であるかが詳細に記されていた。
「太陽は単なる天体ではなく、あらゆる存在を照らす根源の光。その光が南から北へ移るこの時こそ、人の心に芽生える気づきも大いなる転換を迎える」
ラーヴァナンダは心の中でそうつぶやくと、まるでスーリヤの車輪が自分の胸のうちを回転しはじめるかのような感覚を得た。熱くも温かい光が、胸の奥で揺らめいている。彼はその夜ほとんど眠らず、夜明け前に沐浴を済ませると、まだうっすらと暗い寺院の扉を開いて掃き清め、日の出に合わせて大きく扉を広げた。
陽光が拝殿を照らすとともに、村人たちが次々と寺院に集まってくる。マカラ・サンクラーンティを目前に控え、祭りの準備に胸を弾ませた子供たちは、寺院の境内に集まって何やら飾り付けに余念がない。女性たちは米粉の色粉を使って美しいランゴリを描き、男性たちは小麦や穀物を山のように積み上げ、祝祭用の音楽と踊りの準備を始めていた。
そんな華やかさと共に、ラーヴァナンダは村人に語りかけた。
「愛する皆よ、マカラ・サンクラーンティは、ただ太陽が山羊座に入るという天体の変化だけではない。太陽神スーリヤが新たな祝福をもって私たちを照らし、我々が次の段階へと進む門を開いてくださる時だ。太陽は焼き尽くす業火であると同時に、あらゆる生命を育む慈悲の光でもある。その両義に向き合い、自分の中の闇や未熟さを取り払う機会なのだ」
静かに耳を傾けていた村人たちの中から、ある若者が手を挙げて言った。
「ラーヴァナンダ様、私たちは日々の仕事で精いっぱいで、自分の心を見つめ直す余裕もありません。そんな私たちがどのようにして、このウッタラーヤナの期間に恩寵を得ることができるのでしょうか?」
ラーヴァナンダは優しい眼差しを若者に向け、言葉を返す。
「もし太陽が昇らなければ、我々は何もできぬまま暗闇のうちにやがて滅びよう。だが、太陽が昇るという当たり前の奇跡に改めて目を向け、毎朝の光を感謝の心で受け止めることから始めてはどうだろう。たとえば朝一番に、空に向かって小さな手向けの水を捧げる“アルグヤ”という習慣がある。自分の家でも、寺院でもいい。太陽が昇るとともに、その暖かさと恩恵を実感しながら、水を一捧げしてみるのだ。それは些細な行いに見えるが、自分の心を太陽の光へと向け、感謝の意を持つことで、やがて心の中の暗闇が照らされ、精神的な目覚めが訪れるであろう」
若者はその言葉を聞き、はにかんだようにうなずいた。他の村人たちも目を輝かせている。そして村人たちは、さっそくその日から夜明け前に起き、沐浴し、太陽に一捧げの水を手向ける習慣を始めた。それは村人が自発的に心を太陽へ向ける第一歩となった。
やがて、マカラ・サンクラーンティ当日の朝がやってきた。空は清々しいほどに晴れ渡り、東の空がまばゆい光に満ちている。太陽が地平線から昇り出すと、ラーヴァナンダは寺院の拝殿で大きなプージャーを執り行い、太陽神スーリヤへの賛歌を高らかに奏でた。村中の人々が集まり、祭壇には米や小麦、砂糖菓子、香り高い花々が並べられ、炎が神聖な煙を立ち昇らせる。その煙とともに、太陽への讃辞が風に乗って空に昇っていく。
プージャーの終盤、ラーヴァナンダが唱えるマントラと太鼓や鐘の音が最高潮に達したその時――寺院の拝殿に差し込む太陽の光が、炎を包み込むように、まばゆい金色の光輪をつくりだした。そこに、不思議なことに人の姿のようなものが、かすかに立ち上がったのだ。
――それは、誰もが拝んでいる太陽神スーリヤのご神体が動き出したのか、あるいは光そのものが人間の姿をとったのか。たしかにそこに、天衣をまとい七頭の馬を連れた荘厳な姿が立っていたのである。村人たちは一様に息を呑み、畏敬の念に打たれ、その場にひれ伏した。
「恐れるな、愛しき者たちよ。我はスーリヤ。光の根源にして万物を照らす者なり」
その声は、すべての存在を優しく包み込むような響きをたたえながら、同時に揺るぎない威厳を宿している。続けてスーリヤはこう言った。
「マカラ・サンクラーンティを迎え、新たな道が開かれる。この地上に生きるすべての者が、今こそ己が内なる光と出会うときだ。太陽は外の世界を照らすと同時に、心の内側も照らそうとする。己の心に眠る欲望、怒り、不安、迷い――そういった闇を日ごとに清め、光へと変えるには、日々の感謝と行いが要る。わが光を拝し、その恩恵を感じながら、己の中に存在する光に目を向けよ」
スーリヤの声は天地に満ち、そこにいるすべての人々の胸に深く染み渡っていく。誰もが、自分のうちに小さな太陽が宿っているかのように感じた。日は昇り、太陽の輝きがいよいよ増していくにつれて、その姿は徐々に薄れていく。そして金色の光輪がふわりと拝殿を満たした後、眩(まばゆ)い朝の光と一体化して消えていった。
その後、ラーヴァナンダと村人たちは静寂の中、互いの顔を見合わせた。皆の瞳には涙が浮かび、深い喜びと神への畏敬が入り混じっている。やがて、祭りの太鼓が鳴り始めた。人々はそれぞれの喜びを胸に、太陽への敬意と感謝を忘れることなく、踊りと歌声を再び取り戻し、互いに祝福の言葉を交わした。
こうしてスーリヤプラのマカラ・サンクラーンティの一日は、生涯忘れ得ぬ神秘の光に包まれたのである。人々は、その日を境にただお祝いをするだけでなく、日常の合間に太陽の恵みへ感謝を捧げ、心の内側にある闇を光へと変える努力を始めた。大切なのは、特別な儀式よりも、日々のなかに息づく小さな祈りと敬意であると、彼らは学んだのだ。
スーリヤが伝えた教えのなかでも特に印象深いのは、「己の中の太陽を見いだせ」という言葉だ。外界の太陽が山羊座へ入り、季節が移り変わるように、人の心もまた移り変わり、そのエネルギーを高い次元へとシフトさせることができる。マカラ・サンクラーンティはその転換を意識する、大いなるチャンスなのだ。
ラーヴァナンダはそれを強く実感しながら、祭りの後も村人に語り続けた。
「朝、東の空に昇る太陽に手を合わせ、感謝の水を捧げること。それは太陽への祈りであり、己の内側にある光に向き合う行いでもある。そこから生まれる気づきは大きい。日々の繰り返しの中に、確かに神の導きがあるのだ」
スーリヤプラの人々は、闇に沈む夜を知っているからこそ、朝日に心から感謝する。闇を照らす黄金の光を見上げるとき、そこには恐れから解放される希望がある。困難に立ち向かう勇気がある。互いを思いやる慈しみがある。そういったすべてを与えるのが、太陽神スーリヤの導きであると、村人たちは体感をもって理解したのである。
やがて訪れる次のマカラ・サンクラーンティには、この小さな村だけでなく、その評判を聞きつけた隣村や遠方の巡礼者までもが集まるようになった。盛り上がる祭りの中心で、ラーヴァナンダは決まって同じ言葉を唱える。
「人の魂は、太陽のごとく光を放ち得る。ウッタラーヤナに入る今こそ、その真実を見出すとき。スーリヤは外の世界を照らし、私たちは内側の世界を照らすのだ」
その言葉の通り、太陽神スーリヤは神殿の木像の中だけにいるのではない。日々昇る太陽が、すべての人の心の内に宿る光を映し出す鏡となっているのだ。マカラ・サンクラーンティは、一年に一度の特別な日でありながら、その恩恵は毎日の太陽の恵みのなかにこそ見出せる。空に昇る光と共鳴しながら、私たち一人ひとりが自分の内なる光を育むということ――それがマカラ・サンクラーンティの霊的意義である。
こうして、スーリヤプラの物語は今なお続いている。太陽がいつも村を照らし、人々は感謝と喜びを分かち合う。毎朝、ふと東の空を眺めるとき、そこには無限の慈悲と創造の源泉たるスーリヤのまなざしがある。闇を希望に変える光がある。それは神秘の啓示でありながら、私たちの日常のすぐそばで、いつでも出会うことができるのだ。
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