インドの伝統哲学やヨーガの世界では、「ソーハム(Soham)」あるいは「ハムサ(Hamsa)」という神秘的なマントラが古くから伝えられてきました。サンスクリット語で「私はあれ(宇宙・真我)である」「それこそが私である」といった意味合いを持ち、呼吸とともに自然に唱えられる“アジャパ・ジャパ(Ajapa Japa)”の代表例として扱われます。ヒンドゥー教の哲学やヨーガの修行の場において、このソーハムのマントラは非常に深遠な意義を担っています。本稿では、ソーハムやハムサ・ガーヤトリーの背景や意味、実践を通じて得られる効果、そしてその奥深い象徴性を分かりやすくご紹介します。
1. ソーハムとは何か
1-1. サンスクリット語としての意味
「ソーハム(So ’ham)」はサンスクリット語で書くと「सो ऽहम्(saḥ + aham)」となり、「それ(宇宙・ブラフマン)は私である」という意味を表します。しばしば「I am That(私はあれである)」という英訳が用いられますが、ここで指し示す “あれ” とは、個人的な神や最高存在、あるいは宇宙全体を貫く真実の原理など、伝統や文脈により解釈がわずかに異なることもあります。いずれにせよ「私と究極的な実在が本来一体である」という概念が根底にあると考えてよいでしょう。
1-2. “ハムサ”との関連
文献によっては、ソーハムが逆転して「ハムサ(Hamsa)」と表現されることもあります。ハムサ(हंस)とはサンスクリット語で「白鳥」や「ハクチョウ」を意味し、ヒンドゥー教やヨーガの比喩においてしばしば「魂」を象徴する鳥として扱われます。ソーハムとハムサは、それぞれ「吸う息に合わせてSo、吐く息に合わせてHam」「あるいは吸う息がHam、吐く息がSa」など、伝統や師の流派によって異なる唱え方があります。根本的には「呼吸の音と一体になってマントラが流れる」仕組みを指しており、吸う・吐くのどちらを「So/Ham」「Ha/Sa」とするかで表記が変わるのです。
1-3. アジャパ・ジャパ(Ajapa Japa)としてのソーハム
「アジャパ・ジャパ」とは、“ジャパ(マントラの唱念)”に“ア(否定)”が付く言葉で、本来なら声に出して唱えるマントラが「声に出さずとも、呼吸とともに自動的に繰り返されている状態」を指します。呼吸には吸うとき・吐くときにそれぞれわずかな音があり、それを「So...」「Hum...」と聴き取ることで、自然とマントラを繰り返しているかのような内的体験が生まれます。この“呼吸の音”を注意深く観察するだけでマントラ瞑想が成立する——これがアジャパ・ジャパの大きな特徴といえます。
2. ソーハムの由来と背景
2-1. 古代ウパニシャッドやタントラ文献での言及
ソーハムはウパニシャッドやタントラ文献など、インドの中世以降のヨーガ・神秘思想の文献に頻繁に登場してきました。代表的にはイーシャー・ウパニシャッドの一節がしばしば引用され、「日輪の中に宿る崇高な存在と私は同じである」という宣言が見られます。また、ヨーガ・チューダーマニ・ウパニシャッドやスヴァローダヤの文献では、呼吸に連動して自然にハムサ(またはソーハム)が唱えられていることが説かれ、これを気づくことで「自分の内奥にある真我」を覚醒させる方法が提示されています。
2-2. “白鳥”の象徴
「ハムサ(白鳥)」は、ヒンドゥー教でブラフマー神や女神サラスヴァティーの乗り物として描かれ、知恵・純粋性・霊性などを象徴します。また、白鳥は「水と牛乳を混ぜたとき、牛乳だけを選り分けて飲む」と叙事詩などで語られ、真理だけを見抜き、不純物を取り除く能力の象徴ともされてきました。そうした純粋性・見極めの力を宿す鳥であることから、私たちの内側にある絶対的な知恵や真我を示唆するシンボルとして重んじられます。
2-3. “呼吸”への注目
ソーハム(ハムサ)のマントラは「呼吸とともに自動的に唱えられる」という点が非常に重要です。インド哲学では、呼吸は生命力(プラーナ, prāṇa)の顕れであり、身体と心、そして魂をつなぐ架け橋とみなされます。単なる空気の出入りではなく、“生命エネルギーの流れ”として捉えることで、呼吸を意識することが心身に及ぼす影響が非常に大きいと考えられています。
3. マントラとしての意義と実践法
3-1. ソーハム・マントラの特性
- 自然発生的なマントラ
他の多くのマントラとは違い、ソーハムは「すでに私たちの中にある呼吸音」をもとにしています。したがって、自力で言葉を組み立てて唱える必要がありません。 - 普遍性
すべての人が呼吸をしている以上、どのような宗教的背景や言語的制約を超えて「使える」マントラでもあります。 - 意味づけ
ソーハムの字義的意味である「私はあれ(ブラフマン)である」は、アドヴァイタ・ヴェーダーンタにおける“真我と宇宙の合一”を直接的に示唆します。これを繰り返し意識することで、自己の本質的な側面へと気づきを深める手段となるのです。
3-2. アジャパ・ジャパ(呼吸瞑想)の方法例
以下はソーハムを用いた基本的な瞑想の一例です。
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姿勢を整える
静かな場所であぐらや椅子に座り、背筋を伸ばして安定した姿勢をとりましょう。目を閉じ、身体全体をリラックスさせます。 -
呼吸の観察
最初の数分間は自然な呼吸をただ感じ取ります。鼻先や胸・腹部など、どこに意識を置いても構いませんが、呼吸の出入りを丹念に観察します。 -
マントラとの連動
- 吸うときに「So...」という音を思い浮かべ、吐くときに「Ham...」という音を意識します。あるいは師によっては逆に吸う息が「Ham」、吐く息が「Sa」でも構いません。
- いずれの場合も、自分の呼吸のリズムに合わせて頭の中で静かに音を唱えるイメージを持ちます。声に出す必要はありません。
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呼吸・マントラ・意識の融合
しばらく続けると、呼吸の自然なリズムそのものが「So...Ham...」の繰り返しを導いているように感じられるでしょう。頭の中で意識的に唱えるよりも、「呼吸の音自体がそう聞こえてくる」とイメージするのがポイントです。 -
雑念に対処する
他のことを考えたり、雑念が湧いてきたりしても構いません。それに気づいたらそっと注意を呼吸とマントラの響きに戻す。これを繰り返すだけです。強く排除しようとすると逆に雑念が増えるので、ただ“気づき”を優先させましょう。 -
終了
5分から10分、慣れてきたら20分や30分と時間を徐々に延ばしてもよいでしょう。終わりの合図として、軽く合掌したり、深呼吸をしたりして日常に戻っていきます。
3-3. 実践による効果
- 心身のリラクゼーション
一点集中のマントラ瞑想と呼吸の組み合わせは、心を落ち着かせ、副交感神経を優位にし、リラックス効果を高めるとされます。 - 内観力の向上
ソーハムの「私はあれである」という意味を踏まえるとき、人は自己と宇宙のつながりを感じやすくなり、「自分とは何か」という根源的な問いへと向かうきっかけになります。 - ストレス緩和・集中力の向上
呼吸を制御しつつ観察するプロセスは、注意力を育み、ストレス反応をコントロールする助けにもなります。
4. ソーハムが示す哲学的視点
4-1. アドヴァイタ・ヴェーダーンタとの親和性
ソーハムの根底には、「我(アートマン)と宇宙原理(ブラフマン)は本来一つ」というアドヴァイタ(不二一元論)の考え方が色濃く投影されています。呼吸とともに「私があれと一体である」と繰り返す行為は、自分を取り巻く世界と切り離されているように思われる“小さな自分”を、より大きな存在へと溶け込ませる心理的アプローチにもなり得るのです。
4-2. タントラにおけるクンダリニー覚醒の観点
一部のタントラ的文脈では、呼吸とマントラを脊柱(スシュムナー管)に沿って上下させるイメージとともに、クンダリニー(潜在的エネルギー)の覚醒を図る段階的修行が説かれます。ソーハムというマントラが呼吸と結びつくことにより、身体のチャクラやプラーナの流れを整え、霊的覚醒を促すと考えられるのです。これらの実践は上級者向けの要素も含むため、正しい知識と指導を得ることが推奨されます。
4-3. 「声にならない祈り」が指し示すもの
インドやチベットをはじめとする各地の霊性伝統では、音声としてのマントラを大切にしつつも、最終的に行き着く先として「無音」「沈黙」や「言葉を超えた響き」に重きを置く考え方があります。ソーハムは、まさに呼吸そのものが音(マントラ)となっているため、意図的に口で唱える段階を超えて「自然な響きの体験」へと導く窓口となります。そうした沈黙の祈りは、宗教や流派を超えて、深い内観と平和をもたらす要素として評価されています。
5. 現代におけるソーハムの活用と注意点
5-1. 現代社会での意義
忙しく情報過多な現代、人々は常に思考を酷使し、心身の不調やストレスに悩まされがちです。そのような環境下において「呼吸に意識を向ける」行為は、しばしばマインドフルネスの実践などで注目を集めています。ソーハム瞑想は特別な道具や宗教的儀礼を必要としないため、誰もが気軽に取り組めるセルフケアの手段としても受け入れられやすいでしょう。
5-2. 宗教性と伝統への尊重
ソーハムはヨーガやヒンドゥー教・タントラの文脈で重要なマントラではありますが、「宗教色が濃い」というわけではありません。あくまで呼吸と意識を結びつける象徴的手法として理解することが可能です。一方、歴史的・伝統的には深い神秘思想の一部でもあるため、必要以上に軽視したり断片的に消費してしまうのではなく、尊重の態度をもって学ぶことが望ましいと言えます。
5-3. 個人差と指導の必要性
瞑想や呼吸法は、実践する人の体質や心理状態によって感じ方が大きく異なります。初心者や過去にトラウマのある方などは、最初から長時間取り組むと不安や情緒不安定をもたらす場合もあります。もし長期的・本格的に学ぶ場合は、経験を積んだ指導者のもとで段階的に深めていくことが無難です。
6. 結びにかえて
ソーハム(またはハムサ)のマントラは、私たちの“当たり前”である呼吸の背後に潜む神秘を教えてくれます。意識しなくとも繰り返される呼吸のリズムに、「So...Ham...」「Ham...Sa...」という音の響きを当てはめることで、自らの存在が宇宙の真実と繋がっているという感覚が、静かに、しかし確かに育まれていくのです。
このマントラは単なる「おまじない」や「スピリチュアルな呪文」ではありません。深遠な哲学的背景をもつと同時に、呼吸法や瞑想の実践方法として体系的に示されてきた、身体・心・魂をつなぐ“架け橋”のようなものといえます。日常の中でふと呼吸を意識したとき、「So...(私は)」「Ham...(あれである)」という静かな声なき声を感じ取るなら、そこには一瞬でも「私と宇宙が同じリズムで呼吸している」ことへの気づきがあるでしょう。それこそがソーハム瞑想の醍醐味であり、私たちの人生に平安と広がりをもたらす大きな鍵となります。
インドの伝統に育まれ、今なおヨーガや瞑想の現場で生き続けるソーハムのマントラ。その響きが、一人ひとりの呼吸と調和することで、身体や心が解放され、より深い内なる静けさを得られるはずです。ぜひ日常に取り入れ、呼吸の音をそっと味わいながら、「私はあれである」という真理を体感してみてはいかがでしょうか。
参考文献
- Soham (scribd)
https://www.scribd.com/document/96409036/soham
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