はじめに
『ニルヴァーナ・シャトカム』または『アートマ・シャトカム』は、インド哲学の精髄を凝縮した六つの詩節からなる瞑想詩です。この二つの呼称は同一の作品を指しており、「真我(アートマン)」と「解脱(ニルヴァーナ)」という二つの側面から名付けられています。サンスクリット語で「षट्क (ṣaṭka)」は「六つの集合」を意味し、この傑作が六つの詩節から構成されていることを示しています。
『ニルヴァーナ・シャトカム』の中核をなす「アートマン」(आत्मन्, ātman)とは、ウパニシャッド哲学やヴェーダーンタ哲学の根幹をなす概念で、肉体、感覚、思考を超えた永遠不変の純粋意識を指します。バガヴァッド・ギーターでは「刀も切ることなく、火も焼くことなく、水も濡らすことなく、風も乾かすことのできない」存在として描写されています。アドヴァイタ・ヴェーダーンタでは、この個人の「アートマン」が宇宙の根本原理「ブラフマン(梵)」と本質的に同一であるという不二一元論の教えが説かれます。
同様に重要な「ニルヴァーナ」(निर्वाण, nirvāṇa)は、語源的には「吹き消す」という意味に由来し、煩悩や欲望、無明の炎が消え去った状態を表します。仏教では「涅槃」として広く知られるこの概念は、ヒンドゥー教では「解脱」(मोक्ष, mokṣa)とほぼ同義に用いられ、真の自己の本質を直接体験する至福の境地を意味します。
この詩の構造は、「私は〜ではない」(नेति नेति, neti neti)という否定から始まり、「純粋意識と至福を本質とする我こそシヴァなり」という力強い肯定へと至る道筋をたどります。この進行は、概念的思考を超えた非二元的実在への目覚めのプロセスそのものを体現しています。
この作品は知的理解だけでなく、真理の直接体験へと読者を導くことを目的としています。各詩節は瞑想の対象としても用いられ、繰り返し詠唱することで心を浄化し、意識を変容させる力を持つとされています。各詩節の終わりに繰り返される「शिवोऽहं शिवोऽहम्」(我こそシヴァなり)という宣言は、知的理解から直接体験への橋渡しとなります。
この古代インドの智慧は、現代を生きる私たちにも、煩雑さに満ちた日常を超えた広大な意識の可能性を示してくれます。以下の解説では、六つの詩節それぞれの意味と哲学的背景を紐解きながら、『ニルヴァーナ・シャトカム』の光に触れることで始まる、私たち自身の内なる真実への旅を共に歩んでいきましょう。
第1節
भुजङ्गी छन्द
मनोबुद्ध्यहङ्कारचित्तानि नाहं न च श्रोत्रजिह्वे न च घ्राणनेत्रे ।
न च व्योमभूमिर्न तेजो न वायुश्चिदानन्दरूपः शिवोऽहं शिवोऽहम् ॥ १॥bhujaṅgī chanda
manobuddhyahaṅkāracittāni nāhaṃ na ca śrotrajihve na ca ghrāṇanetre |
na ca vyomabhūmirna tejo na vāyuścidānandarūpaḥ śivo'haṃ śivo'ham ॥ 1॥マノーブッディヤハンカーラ チッターニ ナーハム
ナ チャ シュロートラジフヴェー ナ チャ グラーナネートレー |
ナ チャ ヴョーマ ブーミル ナ テージョー ナ ヴァーユフ
チダーナンダルーパハ シヴォーハム シヴォーハム ||1||我は心にあらず、知性にあらず、自我意識にも思考にもあらず、
耳にあらず、舌にあらず、鼻にも目にもあらず、
空にあらず、地にあらず、火にも風にもあらず、
純粋意識と至福を本質とする我こそシヴァなり、我こそシヴァなり。
逐語訳:
- भुजङ्गी छन्द (bhujaṅgī chanda) - ブジャンギー韻律(蛇の動きのような流れをもつ韻律形式)
- मनोबुद्ध्यहङ्कारचित्तानि (manobuddhyahaṅkāracittāni) - 心、知性、自我意識、思考(複合語、複数形)
- मनस् (manas) - 心、思考機能
- बुद्धि (buddhi) - 知性、理性
- अहङ्कार (ahaṅkāra) - 自我意識、エゴ
- चित्तानि (cittāni) - 心的実体、記憶を含む心の内容(複数形)
- न (na) - 〜ではない
- अहम् (aham) - 私
- च (ca) - そして、また
- श्रोत्रजिह्वे (śrotrajihve) - 耳と舌(dvandva複合語、双数形)
- श्रोत्र (śrotra) - 耳、聴覚
- जिह्वा (jihvā) - 舌、味覚
- घ्राणनेत्रे (ghrāṇanetre) - 鼻と目(dvandva複合語、双数形)
- घ्राण (ghrāṇa) - 鼻、嗅覚
- नेत्र (netra) - 目、視覚
- व्योम (vyoma) - 空、エーテル(五大元素の一つ)
- भूमिः (bhūmiḥ) - 地(五大元素の一つ)
- तेजस् (tejas) - 火(五大元素の一つ)
- वायुः (vāyuḥ) - 風(五大元素の一つ)
- चिदानन्दरूपः (cidānandarūpaḥ) - 純粋意識と至福を本質とする者(形容詞、男性単数主格)
- चित् (cit) - 純粋意識
- आनन्द (ānanda) - 至福、喜び
- रूप (rūpa) - 形態、本質を持つ
- शिवः (śivaḥ) - シヴァ、吉祥、純粋意識
- अहम् (aham) - 私
解説:
第1節は「ニルヴァーナ・シャトカム(解脱についての六詩節)」の冒頭として、ヴェーダーンタ哲学の精髄を力強く宣言しています。この詩は「ブジャンギー」と呼ばれる韻律で書かれており、その流れるような音のリズムが蛇の優美な動きを連想させ、言葉の音そのものが聞く者の意識を変容させる力を持っています。
この詩節は、ウパニシャッドの伝統的アプローチである「ネーティ・ネーティ(これにあらず、それにあらず)」の手法を用いています。真の自己(आत्मन्, ātman)を理解するために、まず「それが何でないか」を否定することから始めるのです。
第一行では、内的機能である「अन्तःकरण (antaḥkaraṇa)」の四要素が否定されます。「मनस् (manas)」は感覚情報を処理する心、「बुद्धि (buddhi)」は決断を行う知性、「अहङ्कार (ahaṅkāra)」は「私」という自我意識、「चित्त (citta)」は記憶や潜在印象を蓄える心的資質です。これらはいずれも変化する機能であり、不変の真我ではありません。
第二行では、知覚器官(ज्ञानेन्द्रिय, jñānendriya)が否定されます。詩人は双数形(二つのものを示す文法形式)を巧みに用いて、「耳と舌」「鼻と目」というペアで感覚器官を表現しています。原文では触覚が省略されていますが、韻律の制約によるものでしょう。
第三行では、「व्योम (vyoma)」(空)、「भूमि (bhūmi)」(地)、「तेजस् (tejas)」(火)、「वायु (vāyu)」(風)という四大元素が否定されます。水(अप्, ap)は次の詩節で取り上げられるものと思われます。
否定のプロセスを経た後、最終行で肯定的宣言が現れます。「चिदानन्दरूपः (cidānandarūpaḥ)」という表現は、真我の本質が「चित् (cit)」(純粋意識)と「आनन्द (ānanda)」(至福)であることを示します。これは「सच्चिदानन्द (saccidānanda)」(存在・意識・至福)というウパニシャッド哲学の根本概念の一部です。
詩節は「शिवोऽहम् (śivo'ham)」(我こそシヴァなり)という力強い宣言で締めくくられ、二度繰り返されることでその確信の強さを表現しています。ここでの「シヴァ」は単なる神格としてではなく、純粋意識である究極の実在を指します。「अहम् ब्रह्मास्मि (aham brahmāsmi)」(我はブラフマンなり)というウパニシャッドの大格言(महावाक्य, mahāvākya)と同じ真理を表現しているのです。
この詩節は、日常の意識から真の自己へと目覚める瞑想の旅の出発点となります。私たちは通常、肉体や感覚や思考と自己を同一視していますが、この詩は、それらすべてを超えた純粋意識としての自己の発見へと誘います。「否定の道」を通して究極の肯定へと至るこの構造は、非二元的実在を言葉で表現する上での優れた方法として、インドの精神的伝統で高く評価されてきました。
第2節
न च प्राणसंज्ञो न वै पञ्चवायुर्न वा सप्तधातुर्न वा पञ्चकोशः ।
न वाक्पाणिपादौ न चोपस्थ पायू चिदानन्दरूपः शिवोऽहं शिवोऽहम् ॥ २॥na ca prāṇasaṃjño na vai pañcavāyurna vā saptadhāturna vā pañcakośaḥ |
na vākpāṇipādau na copastha pāyū cidānandarūpaḥ śivo'haṃ śivo'ham || 2 ||ナ チャ プラーナサンジュニョー ナ ヴァイ パンチャヴァーユフ
ナ ヴァー サプタダートゥフ ナ ヴァー パンチャコーシャハ |
ナ ヴァークパーニパーダン ナ チョーパスタパーユ
チダーナンダルーパハ シヴォーハム シヴォーハム ||2||我はプラーナという名で知られるものにあらず、五種の生命風にもあらず、
七つの身体要素(ダートゥ)にもあらず、五つの鞘(コーシャ)にもあらず。
我は言葉にもあらず、手にもあらず、両足にもあらず、生殖器にも両排泄器官にもあらず。
純粋意識と至福を本質とする我こそシヴァなり、我こそシヴァなり。
逐語訳:
- न (na) - 〜ではない
- च (ca) - そして、また
- प्राणसंज्ञः (prāṇasaṃjñaḥ) - プラーナという名で知られるもの
- प्राण (prāṇa) - 生命力、生命息
- संज्ञ (saṃjña) - 名前を持つ、〜として知られる
- न (na) - 〜ではない
- वै (vai) - 確かに、実に(強調)
- पञ्चवायुः (pañcavāyuḥ) - 五種の生命風
- पञ्च (pañca) - 五
- वायु (vāyu) - 風、生命エネルギー
- न (na) - 〜ではない
- वा (vā) - あるいは
- सप्तधातुः (saptadhātuḥ) - 七つの身体要素
- सप्त (sapta) - 七
- धातु (dhātu) - 要素、構成成分
- न (na) - 〜ではない
- वा (vā) - あるいは
- पञ्चकोशः (pañcakośaḥ) - 五つの鞘(層)
- पञ्च (pañca) - 五
- कोश (kośa) - 鞘、覆い、層
- न (na) - 〜ではない
- वाक् (vāk) - 言葉、発話
- पाणि (pāṇi) - 手
- पादौ (pādau) - 両足(双数形)
- न (na) - 〜ではない
- च (ca) - そして
- उपस्थ (upastha) - 生殖器
- पायू (pāyū) - 両排泄器官(双数形)
- चिदानन्दरूपः (cidānandarūpaḥ) - 純粋意識と至福を本質とする者
- चित् (cit) - 純粋意識
- आनन्द (ānanda) - 至福、喜び
- रूप (rūpa) - 形態、本質をもつ
- शिवः (śivaḥ) - シヴァ、吉祥なるもの
- अहम् (aham) - 我
- शिवः (śivaḥ) - シヴァ
- अहम् (aham) - 我
解説:
第2節では、第1節に続いて「否定の道」(नेति नेति, neti neti)による自己探求がさらに深められています。第1節が主に心理的機能や感覚器官、大元素を否定したのに対し、この節ではより微細なレベルの生理的・エネルギー的構成要素に焦点が当てられています。
「प्राणसंज्ञ (prāṇasaṃjña)」は「プラーナという名で知られるもの」を指し、すべての生命活動の根源となる微細なエネルギーです。これは単なる物理的呼吸を超えた、ヨーガの実践者が制御しようと努める生命原理そのものを表します。
「पञ्चवायु (pañcavāyu)」は「五種の生命風」で、インドの伝統医学やヨーガ哲学で説かれる体内を循環する五つのプラーナを指します。これらは:
- प्राण (prāṇa) - 上向きの風、呼吸や取り込みを司る
- अपान (apāna) - 下向きの風、排泄を司る
- व्यान (vyāna) - 遍在する風、循環を司る
- उदान (udāna) - 上昇する風、話す力や死の瞬間に意識を引き上げる
- समान (samāna) - 均衡する風、消化や同化を司る
「सप्तधातु (saptadhātu)」は「七つの身体要素」で、アーユルヴェーダ(インド伝統医学)で説かれる身体を構成する七つの基本組織です。これらは単なる物質的要素ではなく、精妙化される過程で相互に変容し合う連続体として理解されます。第1節で否定された「大元素」よりもさらに具体的な身体の構成要素です。
「पञ्चकोश (pañcakośa)」は「五つの鞘」で、タイッティリーヤ・ウパニシャッドで説かれる自己を覆い隠す五つの層です。これらは最も粗大な物質的身体から最も微細な至福体まで、自己の本質が顕現する様々な次元を表しています。このコーシャ理論は、私たちの真の本質が、これらの層すべてを超越していることを示す重要な教えです。
詩節の後半では、行為の器官(कर्मेन्द्रिय, karmendriya)が否定されます。「वाक् (vāk)」(言葉)、「पाणि (pāṇi)」(手)、「पाद (pāda)」(足)といった表現器官や、「उपस्थ (upastha)」(生殖器)と「पायु (pāyu)」(排泄器官)という排出器官も、真の自己ではありません。サンスクリット語の原文では双数形の微妙な使い分けがあり、「पादौ (pādau)」と「पायू (pāyū)」は対になった器官であることが文法的に示されています。
否定のプロセスを経た後に現れる「चिदानन्दरूपः शिवोऽहम् (cidānandarūpaḥ śivo'ham)」(純粋意識と至福を本質とする我こそシヴァなり)という宣言は、第1節と同様の力強さを持っています。この肯定は、すべての限定的な身体的・生理的同一視を超えた、永遠不変の純粋意識としての自己の発見を象徴しています。
この詩節は、瞑想実践者にとって、身体や生命エネルギーとの誤った自己同一視から解放される重要な指針となります。すべての構成要素や機能を超越した純粋意識として自己を認識することは、アドヴァイタ・ヴェーダーンタにおける「解脱」(मोक्ष, mokṣa)の本質です。
第3節
न मे द्वेषरागौ न मे लोभमोहौ मदो नैव मे नैव मात्सर्यभावः ।
न धर्मो न चार्थो न कामो न मोक्षश्चिदानन्दरूपः शिवोऽहं शिवोऽहम् ॥ ३॥na me dveṣarāgau na me lobhamohau mado naiva me naiva mātsaryabhāvaḥ |
na dharmo na cārtho na kāmo na mokṣaścidānandarūpaḥ śivo'haṃ śivo'ham || 3 ||ナ メー ドヴェーシャラーガウ ナ メー ローバモーハウ
マドー ナイヴァ メー ナイヴァ マートサルヤバーヴァハ |
ナ ダルモー ナ チャールトー ナ カーモー ナ モークシャハ
チダー ナンダルーパハ シヴォーハム シヴォーハム ||3||私には憎しみも愛着もなく、私には貪欲も迷妄もなく、
驕りは決して私のものではなく、嫉妬の感情も決して私のものではない。
私は法(ダルマ)でもなく、富(アルタ)でもなく、欲望(カーマ)でもなく、解脱(モークシャ)でもない。
純粋意識と至福を本質とする我こそシヴァなり、我こそシヴァなり。
逐語訳:
- न (na) - 〜ではない
- मे (me) - 私の(所有格)
- द्वेषरागौ (dveṣarāgau) - 憎しみと愛着(双数形)
- द्वेष (dveṣa) - 憎しみ、嫌悪
- राग (rāga) - 愛着、執着
- न (na) - 〜ではない
- मे (me) - 私の(所有格)
- लोभमोहौ (lobhamohau) - 貪欲と迷妄(双数形)
- लोभ (lobha) - 貪欲、強い欲望
- मोह (moha) - 迷妄、錯覚
- मदः (madaḥ) - 驕り、高慢
- न (na) - 〜ではない
- एव (eva) - まさに、決して(強調)
- मे (me) - 私の(所有格)
- न (na) - 〜ではない
- एव (eva) - まさに、決して(強調)
- मात्सर्यभावः (mātsaryabhāvaḥ) - 嫉妬の感情
- मात्सर्य (mātsarya) - 嫉妬
- भाव (bhāva) - 感情、状態
- न (na) - 〜ではない
- धर्मः (dharmaḥ) - 法、道徳的義務
- न (na) - 〜ではない
- च (ca) - そして、また
- अर्थः (arthaḥ) - 富、物質的繁栄
- न (na) - 〜ではない
- कामः (kāmaḥ) - 欲望、快楽
- न (na) - 〜ではない
- मोक्षः (mokṣaḥ) - 解脱、精神的解放
- चिदानन्दरूपः (cidānandarūpaḥ) - 純粋意識と至福を本質とする
- चित् (cit) - 純粋意識
- आनन्द (ānanda) - 至福、喜び
- रूप (rūpa) - 形態、本質
- शिवः (śivaḥ) - シヴァ、吉祥なるもの
- अहम् (aham) - 私(主格)
- शिवः (śivaḥ) - シヴァ、吉祥なるもの
- अहम् (aham) - 私(主格)
解説:
第3節では、自己探求の旅がさらに深まり、精神的・心理的な領域へと進んでいます。前の二節が主に肉体や生理的機能に焦点を当てていたのに対し、この節ではより微細な心理状態と人生の価値や目的のレベルで「私ではない」ものが否定されています。
前半部分では、インド哲学で「क्लेश (kleśa)」(煩悩、苦しみの原因)として知られる否定的な心理状態が列挙されています。「द्वेष (dveṣa)」(憎しみ)と「राग (rāga)」(愛着)は、ヨーガ哲学において心の平静を乱す二つの基本的な感情的反応です。パタンジャリのヨーガ・スートラ(योगसूत्र, yogasūtra)でも、これらの感情的執着からの解放が心の静寂(चित्तवृत्तिनिरोध, cittavṛttinirodha)への道として説かれています。
「लोभ (lobha)」(貪欲)と「मोह (moha)」(迷妄)は、仏教の三毒の一部でもあり、精神的暗闇の源とされます。「मद (mada)」(驕り)と「मात्सर्य (mātsarya)」(嫉妬)は、自我意識から生じる比較や競争の産物です。特に原文では「नैव (naiva)」(決して〜ない)という強調が二度使われ、これらの否定的感情からの完全な解放が表現されています。
後半では、インド思想における人生の四つの主要な目的「पुरुषार्थ (puruṣārtha)」が否定されています:
- धर्म (dharma) - 法、道徳的・宗教的義務
- अर्थ (artha) - 富、物質的繁栄
- काम (kāma) - 欲望、感覚的快楽
- मोक्ष (mokṣa) - 解脱、精神的解放
特に注目すべきは、最終的な目標とされる「मोक्ष (mokṣa)」(解脱)さえも否定されていることです。これは非常に深遠な洞察を示しています。アドヴァイタ・ヴェーダーンタの視点では、「解脱を求める者」という自己同一視さえも、究極的には超越する必要があります。解脱を目標とする限り、「求める主体」と「求められる対象」という二元性が残るからです。
最後に、前の二節と同様の力強い宣言で締めくくられます。「चिदानन्दरूपः (cidānandarūpaḥ)」(純粋意識と至福を本質とする)こそが真の自己であり、「शिवोऽहम् (śivo'ham)」(我こそシヴァなり)という究極の同一性の認識が繰り返されます。
この節は、瞑想実践者に対して、感情的反応や社会的役割への執着、そして最終的には「解脱したい」という願望さえも手放すよう促しています。すべての相対的カテゴリーを超越した純粋意識としての自己認識こそが、真の自由の本質なのです。
第4節
न पुण्यं न पापं न सौख्यं न दुःखं न मन्त्रो न तीर्थं न वेदा न यज्ञाः ।
अहं भोजनं नैव भोज्यं न भोक्ता चिदानन्दरूपः शिवोऽहं शिवोऽहम् ॥ ४॥na puṇyaṃ na pāpaṃ na saukhyaṃ na duḥkhaṃ na mantro na tīrthaṃ na vedā na yajñāḥ |
ahaṃ bhojanaṃ naiva bhojyaṃ na bhoktā cidānandarūpaḥ śivo'haṃ śivo'ham || 4 ||ナ プンニャン ナ パーパン ナ サウキャン ナ ドゥフカン
ナ マントロー ナ ティールタン ナ ヴェーダー ナ ヤジュニャーハ |
アハン ボージャナン ナイヴァ ボージャン ナ ボークター
チダーナンダルーパハ シヴォーハム シヴォーハム ||4||我は善にあらず、悪にあらず、喜びにあらず、苦しみにあらず、
マントラにあらず、聖地にあらず、ヴェーダにあらず、祭祀にあらず。
我は食べる行為そのものであり、決して食べられるものにあらず、食べる者にあらず。
純粋意識と至福を本質とする我こそシヴァなり、我こそシヴァなり。
逐語訳:
- न (na) - 〜ではない
- पुण्यं (puṇyaṃ) - 善行、功徳
- न (na) - 〜ではない
- पापं (pāpaṃ) - 罪、悪行
- न (na) - 〜ではない
- सौख्यं (saukhyaṃ) - 幸福、喜び
- न (na) - 〜ではない
- दुःखं (duḥkhaṃ) - 苦しみ、悲しみ
- न (na) - 〜ではない
- मन्त्रः (mantraḥ) - マントラ、聖句
- न (na) - 〜ではない
- तीर्थं (tīrthaṃ) - 聖地、聖なる沐浴場
- न (na) - 〜ではない
- वेदाः (vedāḥ) - ヴェーダ聖典(複数形)
- न (na) - 〜ではない
- यज्ञाः (yajñāḥ) - 祭祀、供犠(複数形)
- अहं (ahaṃ) - 私は
- भोजनं (bhojanaṃ) - 食べること、食事(否定辞なし)
- न (na) - 〜ではない
- एव (eva) - 確かに、まさに(強調)
- भोज्यं (bhojyaṃ) - 食べられるもの、食物
- न (na) - 〜ではない
- भोक्ता (bhoktā) - 食べる者、享受者
- चिदानन्दरूपः (cidānandarūpaḥ) - 純粋意識と至福を本質とする者
- शिवः (śivaḥ) - シヴァ
- अहम् (aham) - 我
- शिवः (śivaḥ) - シヴァ
- अहम् (aham) - 我
解説:
第4節では、否定の道(नेति नेति, neti neti)による自己探求がさらに深まり、より根本的なカテゴリーにまで及んでいます。ここでは道徳的・宗教的な概念や、主体と客体の二元性そのものが否定され、最終的には三位一体的関係性の新たな理解が示されます。
前半部分では、まず人間の行為と経験の基本的対立概念が否定されます。「पुण्य (puṇya)」(善行)と「पाप (pāpa)」(悪行)という道徳的二元性、「सौख्य (saukhya)」(喜び)と「दुःख (duḥkha)」(苦しみ)という経験的二元性が、真の自己ではないと宣言されます。これらの相対的概念は、アドヴァイタ・ヴェーダーンタの視点から、絶対的実在である自己の本質を限定するものではありません。
続いて宗教的実践の諸側面が否定されます。「मन्त्र (mantra)」(聖句)、「तीर्थ (tīrtha)」(聖地)、「वेद (veda)」(聖典)、「यज्ञ (yajña)」(祭祀)という、ヒンドゥー教における最も神聖な要素さえも、真の自己ではないとされます。これは形式的な宗教実践への批判ではなく、それらと自己を同一視することからの解放を説いています。
後半部分で興味深いのは、「अहं भोजनं (ahaṃ bhojanaṃ)」という肯定的表現です。ここで詩人は、「我は食べる行為そのものである」と宣言しながら、「भोज्य (bhojya)」(食べられるもの)と「भोक्ता (bhoktā)」(食べる者)を否定しています。これは主体・客体の二元性を超えた非二元的視点を示し、経験の本質が「行為そのもの」にあることを暗示しています。ウパニシャッドが説く「अन्नं ब्रह्म (annaṃ brahma)」(食物はブラフマンなり)という洞察に通じるこの表現は、すべての経験の根底に横たわる統一的意識を指し示しています。
最後に、前節までと同じく「चिदानन्दरूपः शिवोऽहं शिवोऽहम्」(純粋意識と至福を本質とする我こそシヴァなり、我こそシヴァなり)という力強い宣言で締めくくられます。この反復は単なる繰り返しではなく、あらゆる二元性を超越した絶対的実在への確信に満ちた目覚めを表現しています。言葉による概念化を超えた純粋意識(चित्, cit)と至福(आनन्द, ānanda)こそが、自己の真の本質であることが再確認されるのです。
第5節
न मृत्युर्न शङ्का न मे जातिभेदः पिता नैव मे नैव माता न जन्म ।
न बन्धुर्न मित्रं गुरुर्नैव शिष्यश्चिदानन्दरूपः शिवोऽहं शिवोऽहम् ॥ ५॥na mṛtyurna śaṅkā na me jātibhedaḥ pitā naiva me naiva mātā na janma |
na bandhurna mitraṃ gururnaiva śiṣyaścidānandarūpaḥ śivo'haṃ śivo'ham || 5 ||ナ ムリティユルナ シャンカー ナ メー ジャーティベーダハ
ピター ナイヴァ メー ナイヴァ マーター ナ ジャンマハ |
ナ バンドゥルナ ミトラン グルル ナイヴァ シッシャン
チダーナンダルーパハ シヴォーハム シヴォーハム ||5||我に死はなく、恐れもなく、我には階級の区別もなし。
父も決して我がものにあらず、母も決して我がものにあらず、誕生もなし。
我は親族にあらず、友にあらず、師にも弟子にもあらず。
純粋意識と至福を本質とする我こそシヴァなり、我こそシヴァなり。
逐語訳:
- न (na) - 〜ではない
- मृत्युः (mṛtyuḥ) - 死、死神(サンディにより मृत्युर् mṛtyur)
- न (na) - 〜ではない
- शङ्का (śaṅkā) - 恐れ、疑念
- न (na) - 〜ではない
- मे (me) - 私の(所有格)
- जातिभेदः (jātibhedaḥ) - 階級の区別、生まれの違い
- पिता (pitā) - 父
- न (na) - 〜ではない
- एव (eva) - まさに、確かに(強調)
- मे (me) - 私の(所有格)
- न (na) - 〜ではない
- एव (eva) - まさに、確かに(強調)
- माता (mātā) - 母
- न (na) - 〜ではない
- जन्म (janma) - 誕生、生まれ
- न (na) - 〜ではない
- बन्धुः (bandhuḥ) - 親族、血縁者(サンディにより बन्धुर् bandhur)
- न (na) - 〜ではない
- मित्रं (mitraṃ) - 友人、友
- गुरुः (guruḥ) - 師、教師(サンディにより गुरुर् gurur)
- न (na) - 〜ではない
- एव (eva) - まさに、確かに(強調)
- शिष्यः (śiṣyaḥ) - 弟子、学生
- चिदानन्दरूपः (cidānandarūpaḥ) - 純粋意識と至福を本質とする
- शिवः (śivaḥ) - シヴァ、吉祥なるもの
- अहम् (aham) - 我
- शिवः (śivaḥ) - シヴァ、吉祥なるもの
- अहम् (aham) - 我
解説:
第5節では、前節までの否定の道(नेति नेति, neti neti)による自己探究がさらに深まり、人間存在の最も根本的な条件とされる生死の概念と社会的関係性の網の目が否定されています。
冒頭の「न मृत्युर् न शङ्का (na mṛtyur na śaṅkā)」(死ではなく、恐れでもない)という表現は、人間の最も根源的な限界と恐怖である「死」を否定しています。ここには一つの異読「न मे मृत्यु शङ्का (na me mṛtyu śaṅkā)」(我に死の恐れなし)も存在しますが、どちらの読みも死とその恐怖からの超越を表しています。カタ・ウパニシャッド(कठोपनिषद्, kaṭhopaniṣad)で死神ヤマ(यम, yama)が説く不死の教えを想起させるこの表現は、時間と死を超えた非二元的意識への目覚めを示しています。
「न मे जातिभेदः (na me jātibhedaḥ)」(我には階級の区別なし)は、インド社会の根幹を成す「जाति (jāti)」(カースト、生得的階級)による社会的アイデンティティの否定です。これはバガヴァッド・ギーター(भगवद्गीता, bhagavadgītā)の「समत्व (samatva)」(平等性)の教えとも響き合い、真の自己認識において社会的区別が消滅することを示しています。
「पिता नैव मे नैव माता न जन्म (pitā naiva me naiva mātā na janma)」(父も母も我がものにあらず、誕生もなし)では、「नैव (naiva)」(決して〜ない)という強い否定辞が繰り返され、家族関係と誕生という人間アイデンティティの基本的枠組みさえも真の自己ではないことが強調されています。これはウパニシャッドの「अज (aja)」(未生)の概念に通じ、アートマン(आत्मन्, ātman)は生まれることも死ぬこともない永遠の存在であるという洞察を表しています。
「न बन्धुर् न मित्रं गुरुर् नैव शिष्यः (na bandhur na mitraṃ gurur naiva śiṣyaḥ)」(親族にあらず、友にあらず、師にも弟子にもあらず)は、より広い社会的関係性の網をすべて否定しています。特に「グル・シシュヤ」(師弟)関係の否定は、インドの知識伝統において最も神聖とされる関係さえも超越する非二元的認識の徹底を示しています。
この徹底的な否定の後に続く「चिदानन्दरूपः शिवोऽहं शिवोऽहम् (cidānandarūpaḥ śivo'haṃ śivo'ham)」(純粋意識と至福を本質とする我こそシヴァなり)という宣言は、前節までと同様ながら、ここではより深い響きを持ちます。あらゆる世俗的・宗教的アイデンティティの否定を経た後に現れる純粋意識(चित्, cit)としての自己認識は、究極的解放の境地を示しています。
この節は現代の瞑想実践者にとっても深い意義を持ち、死への恐れや社会的役割への執着から解放された広大な意識の可能性を開きます。それは単なる形而上学的理解ではなく、私たちの日常的自己認識を根本から変容させる実存的洞察として、今日も生き続けています。
第6節
अहं निर्विकल्पो निराकाररूपो विभुर्व्याप्य सर्वत्र सर्वेन्द्रियाणाम् ।
सदा मे समत्वं न मुक्तिर्न बन्धश्चिदानन्दरूपः शिवोऽहं शिवोऽहम् ॥ ६॥ahaṃ nirvikalpo nirākārarūpo vibhurvyāpya sarvatra sarvendriyāṇām |
sadā me samatvaṃ na muktirna bandhaścidānandarūpaḥ śivo'haṃ śivo'ham || 6 ||アハン ニルヴィカルポー ニラーカーラルーポー
ヴィブトヴァーッチャ サルヴァトラ サルヴェーンドリヤーナーム |
ナ チャーサンガタン ナイヴァ ムクティルナ メーヤハ
チダーナンダルーパハ シヴォーハム シヴォーハム ||6||我は分別を超え、形なき本質を持ち、あらゆる場所、全ての感覚器官に遍満する全能者なり。
我には常に平等性あり、解脱も束縛もなし。
純粋意識と至福を本質とする我こそシヴァなり、我こそシヴァなり。
逐語訳:
- अहं (ahaṃ) - 我は(主格)
- निर्विकल्पः (nirvikapaḥ) - 分別を超えた、二元性のない(サンディにより निर्विकल्पो nirvikalpo)
- निराकाररूपः (nirākārarūpaḥ) - 形なき本質を持つ(サンディにより निराकाररूपो nirākārarūpo)
- निराकार (nirākāra) - 形なき、姿なき
- रूप (rūpa) - 形態、本質
- विभुः (vibhuḥ) - 全能者、遍在者(サンディにより विभुर् vibhur)
- 異読:विभुत्वाच्च (vibhutvācca) - 全能性・遍在性によって
- व्याप्य (vyāpya) - 遍満して、浸透して(絶対分詞)
- सर्वत्र (sarvatra) - あらゆる場所に、至るところに
- सर्वेन्द्रियाणाम् (sarvendriyāṇām) - すべての感覚器官の(属格複数形)
- सर्व (sarva) - すべての
- इन्द्रिय (indriya) - 感覚器官
- सदा (sadā) - 常に、永遠に
- मे (me) - 我が(所有格)
- समत्वं (samatvaṃ) - 平等性、平静、同一性
- न (na) - 〜にあらず
- मुक्तिः (muktiḥ) - 解脱、解放(サンディにより मुक्तिर् muktir)
- न (na) - 〜にあらず
- बन्धः (bandhaḥ) - 束縛、拘束(サンディにより बन्धः bandhaś)
- चिदानन्दरूपः (cidānandarūpaḥ) - 純粋意識と至福を本質とする
- शिवः (śivaḥ) - シヴァ、吉祥なるもの
- अहम् (aham) - 我
- शिवः (śivaḥ) - シヴァ、吉祥なるもの
- अहम् (aham) - 我
解説:
第6節では、前節までの徹底的な否定を経て、真の自己の本質に関する積極的な記述へと視点が変わります。第5節で死や恐れ、社会的関係性をすべて否定した後に、「では真の自己とは何か」という問いに答える形で展開されています。
冒頭の「निर्विकल्प (nirvikalpa)」という用語は、インド哲学において極めて重要な概念です。これは心の「विकल्प (vikalpa)」(概念的区別、分別作用)を完全に超越した状態を表します。パタンジャリのヨーガ・スートラでは、「निर्विकल्प समाधि (nirvikalpa samādhi)」は最も高度な瞑想状態として説かれ、主体と客体の区別さえ溶解した純粋意識の体験を指します。
「निराकाररूप (nirākārarūpa)」は、文字通りには「形なき形」という逆説的表現です。これはウパニシャッドの「नेति नेति (neti neti)」(これでもなく、あれでもなく)という否定の道を通じて到達する、感覚的把握を超えた究極的実在の性質を示しています。
「विभु (vibhu)」は「遍在する」「全能の」を意味し、「व्याप्य सर्वत्र सर्वेन्द्रियाणाम् (vyāpya sarvatra sarvendriyāṇām)」は、空間的制約を超え、あらゆる場所と感覚経験の根底に同時に存在する意識の普遍性を表しています。ここには「विभुत्वाच्च (vibhutvācca)」(全能性によって)という異読もあり、いずれも意識の遍在性を強調しています。
後半の「सदा मे समत्वं न मुक्तिर् न बन्धः (sadā me samatvaṃ na muktir na bandhaḥ)」は深遠な洞察を示しています。「समत्व (samatva)」(平等性、平静)はバガヴァッド・ギーターでも強調される精神的境地であり、すべての二元的対立を超えた視点を指します。そして「解脱も束縛もない」という表現は、真の自己には本来的に束縛がないため、「解脱を得る」という概念さえも超越していることを示しています。
この節は、これまでの否定の集大成として、そして肯定的な自己認識の最高峰として、「शिवोऽहम् (śivo'ham)」(我こそシヴァなり)という大宣言で締めくくられます。それは単なる知的理解ではなく、超越的な自己認識の直接体験を詩的に表現したものであり、シヴァ・シャンカラの同一性の境地を示しています。現代の瞑想実践者にとっても、この詩節は意識の究極の可能性を指し示す道標となります。
第6節(異読)
न चासङ्गतं नैव मुक्तिर्न मेयश्चिदानन्दरूपः शिवोऽहं शिवोऽहम् ॥ ६॥
na cāsaṅgataṃ naiva muktirna meyaścidānandarūpaḥ śivo'haṃ śivo'ham ॥ 6॥
我には非執着も存在せず、決して解脱もなく、測られるものにもあらず。
純粋意識と至福を本質とする我こそシヴァなり、我こそシヴァなり。
逐語訳:
- न (na) - 〜にあらず
- च (ca) - そして、また
- असङ्गतं (asaṅgataṃ) - 非執着、無所縁、離執
- न (na) - 〜にあらず
- एव (eva) - まさに、決して(強調)
- मुक्तिः (muktiḥ) - 解脱、解放(サンディにより मुक्तिर् muktir)
- न (na) - 〜にあらず
- मेयः (meyaḥ) - 測量されるもの、認識対象(サンディにより मेयश् meyaś)
- चिदानन्दरूपः (cidānandarūpaḥ) - 純粋意識と至福を本質とする
- शिवः (śivaḥ) - シヴァ、吉祥なるもの
- अहम् (aham) - 我
- शिवः (śivaḥ) - シヴァ、吉祥なるもの
- अहम् (aham) - 我
॥ इति श्रीमच्छङ्कराचार्यविरचितं आत्मषट्कं सम्पूर्णम् ॥
॥ iti śrīmacchaṅkarācāryaviracitaṃ ātmaṣaṭkaṃ sampūrṇam ॥
以上、聖シャンカラーチャールヤによって著された『アートマ・シャトカム』(自己の真髄についての六詩節)完。
解説:
第6節の異読版では、アドヴァイタ・ヴェーダーンタの非二元的視点がさらに深められています。前節までと同様の言語スタイルを保ちながら、ここでは心の本質に関する最も微細な概念まで否定の対象としています。
「असङ्गत (asaṅgata)」は「執着のない状態」を意味し、ヨーガの実践において重要な精神状態です。バガヴァッド・ギーター(भगवद्गीता, bhagavadgītā)でも「असक्त (asakta)」(非執着)は解脱への道として強調されます。しかし究極的実在の観点からは、「執着がある」状態も「執着がない」状態も、いずれも概念的二元性の枠組みの中にあります。真の自己(アートマン, ātman)はそのような区別さえ超越しています。
「मुक्ति (mukti)」(解脱)の否定は、第6節原版の「न मुक्तिर् न बन्धः (na muktir na bandhaḥ)」(解脱も束縛もなし)と内容的に響き合っています。束縛されたことがないものが解脱を求める必要はないという深遠な洞察がここに示されています。マーンドゥーキヤ・カーリカー(माण्डूक्यकारिका, māṇḍūkyakārikā)でガウダパーダ(गौडपाद, gauḍapāda)が説くように、「अजं अमृतं अभयं (ajaṃ amṛtaṃ abhayaṃ)」(生まれず、死なず、恐れなき本質)が真の自己の本質です。
「मेय (meya)」(測量されるもの、認識対象)の否定は、認識の主体と客体の二元性を超えた純粋意識(चित्, cit)の本質を表しています。ブリハッド・アーラニヤカ・ウパニシャッド(बृहदारण्यकोपनिषद्, bṛhadāraṇyakopaniṣad)の「यतो वाचो निवर्तन्ते अप्राप्य मनसा सह (yato vāco nivartante aprāpya manasā saha)」(言葉も心も及ばず、到達できずに引き返す)という有名な一節が想起されます。
この異読版と原版を比較すると、両者とも非二元的実在の本質を同じように指し示していることがわかります。異読版では「非執着」「解脱」「認識対象」という修行の文脈で重要な概念が否定され、原版では「平等性」を肯定しつつ「解脱」「束縛」を否定するという、わずかに異なるアプローチをとっています。
『アートマ・シャトカム』全体を通じて、「我こそシヴァなり」という確信に満ちた宣言が反復されることで、知的理解から直接体験への変容が促されます。この短い六詩節は、アドヴァイタ・ヴェーダーンタの「tat tvam asi」(あなたはそれである)という大真理の個人的体験への道筋を、今なお私たちに示し続けています。
最後に
『ニルヴァーナ・シャトカム』の六つの詩節は、否定と肯定という弁証法的アプローチを巧みに用いながら、私たちの内なる自己を指し示す奥深い旅へと誘います。前半の詩節では、「これは私ではない」という「ネーティ・ネーティ(neti neti)」の手法を通じて、肉体や感覚、思考、感情、さらには社会的役割など、あらゆる外的・内的要素が真我の本質でないことを系統的に明らかにしていきます。そして終盤に至ると、「純粋意識と至福を本質とする我こそシヴァなり」という絶対的な肯定が力強く宣言され、非二元的な意識の真理へと一気に飛翔するのです。
第一節から第五節にかけて否定される対象は、私たちが「自分」と錯覚しがちなものばかりです。肉体や五感といった外面的な要素から始まり、プラーナ(生命エネルギー)や感情の動き、道徳的価値観や人間関係にいたるまで、詩人は丹念に「それは真の自己ではない」と切り捨てていきます。最終節において、残された唯一の真実として、「形なき本質を持ち、あらゆる場所に遍満する純粋意識」としての自己が鮮明に浮上します。
ここで繰り返される「シヴォーハム(śivo’ham)—我こそシヴァなり」という言葉は、単なる哲学の見解というよりも、内面の瞑想実践そのものを示唆しています。特定の神格としてのシヴァではなく、絶対的意識そのものとしてのシヴァへと自己を同一化するこのフレーズは、読者に理論を超えた直接体験をもたらす道筋を照らし出します。何度も繰り返し唱えることによって、私たちの意識は言葉を超えた静謐な深みに到達しうるのです。
古代インドで生まれたこの智慧は、現代社会にも多大な示唆を与えます。私たちは日常生活の中で、肩書きや地位、財産、人間関係といった外的要素を「自分」と混同しがちです。しかし、『ニルヴァーナ・シャトカム』は、そうした一切の同一視をはぎ取ることで、真に変わらない自己の光に目覚める可能性を示しています。苦しみや不安の源にあるのは、たいてい誤った自己認識であるという洞察は、決して過去のものではなく、私たちが日々抱える悩みへの強力な処方箋ともなるでしょう。
さらに、この詩は認識論的探究であると同時に、真の自己へ回帰するための変容の技法でもあります。否定によって思考の足場を崩し、肯定によって「我こそシヴァなり」という真理を身体感覚として体験させる――これは純粋意識に目覚めるためのプロセスそのものです。言語を用いながらも、その語を超越する次元へと読者を連れ出す点にこそ、この詩の最大の魅力があります。
「ネーティ・ネーティ」の道を通って到達するのは、究極的にはすでにある自分自身の姿である――これが『ニルヴァーナ・シャトカム』の核となるメッセージです。否定だけでは終わらず、「私はこれだ」という明確な覚醒へと導く構成は、アドヴァイタ・ヴェーダーンタの真髄を端的に表現しているといえます。
結びに、「シヴォーハム」という響きが読者一人ひとりの心に深く染み入るよう願っています。日常に戻ったとき、その言葉が思い出されるたびに、自分の本質を再確認し、より自由で調和のとれた生き方へと進むきっかけとなるでしょう。シャンカラが遺したこの六つの詩節は、時代を超えて真我を照らし出す灯火なのです。
参考文献:
Sanskrit Documents, "Atmashatkam/Nirvana Shatkam", https://sanskritdocuments.org/doc_z_misc_shankara/aatmasha.html
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