はじめに
古来インドにおいて、人々は様々な病からの救済と日常生活の安寧を願い、多くの神々を崇拝してきました。その中でも、発疹性疾患や感染症と密接に結びつき、熱を鎮める力をもつとされる女神として知られるのがシータラー・デーヴィーです。サンスクリット語で「冷たさ」「涼しさ」を意味する「शीतल (śītala)」に由来する名を持つ彼女は、農村部を中心に北インドやネパール、バングラデシュなどの地域で長く信仰されてきました。ロバに乗り、箒(ほうき)と水壺を携えるという独特の図像で描かれるシータラー女神は、病をもたらす存在でありながら、それを鎮め、治癒へと導く二面性の権現ともいえます。
こうした女神への讃歌の中でも特に重要とされるのが、本稿で取り上げる「शीतलाष्टकम्(シータラーシュタカム)」です。伝説によると、この讃歌は主シヴァ神によって初めて唱えられたとされ、スカンダ・プラーナにその由来が記されています。「アシュタカム」という語は本来「八つの詩節」を意味しますが、現存するテキストは15節から成り、内容は病気の根本的な除去と、病による苦しみを克服するための方法について説かれています。特に、天然痘や麻疹、水痘といった発疹性疾患に対する強い加護と、熱病全般を鎮める力があると信じられてきました。
シータラー女神への礼拝は、単に病気を「治す」だけでなく、炎症や灼熱による苦しみを「冷ます」という霊的な解釈が大きな特徴です。悪霊や災厄を追い払うためには、祈りや祭礼といった外面的な儀式だけでなく、神名を唱えたり「シータラーシュタカム」を読誦したりする内面的な実践も重視されました。この「声に出して唱える」「耳で聴く」という伝統的アプローチは、インドにおける口承文化と深く結びつき、地域社会の中で世代を超えて受け継がれてきたのです。
発疹病をはじめとする重い疫病は、現代医学が確立する以前にとっては生死を分かつ重大事でした。にもかかわらず、こうした苦難を前にして人々がシータラー女神を敬い続けたのは、熱や痛みを“冷まし”、さらに病の恐怖そのものから解放してくれるという深い信頼があったからにほかなりません。インドの民間信仰の一部として始まった彼女の崇拝は、いつしか神学的・哲学的にも高い次元へと昇華し、社会全体を守護する存在として今日まで受け継がれてきました。
シータラーシュタカムは、そうした長い歴史と民間の信仰心に支えられた、まさに“生きた伝承”の宝庫です。本稿が、古来より大切に守られてきたサンスクリットの響きと、その奥に宿る深淵な精神世界を体感する一助となれば幸いです。どうぞ最後までお読みいただき、彼女の神聖なる冷却と癒しの力を感じ取っていただければと思います。
序詞(ヴィニヨーガ)
अस्य श्रीशीतलास्तोत्रस्य महादेव ऋषिः ।
अनुष्टुप् छन्दः । शीतला देवता ।
लक्ष्मीर्बीजम् । भवानी शक्तिः ।
सर्वविस्फोटकनिवृत्यर्थे जपे विनियोगः ॥
asya śrīśītalāstotrasya mahādeva ṛṣiḥ ।
anuṣṭup chandaḥ । śītalā devatā ।
lakṣmīrbījam । bhavānī śaktiḥ ।
sarvavisphoṭakanivṛttyarthe jape viniyogaḥ ॥
この聖なる シータラー讃歌の聖仙は偉大なる神マハーデーヴァ、
韻律はアヌシュトゥブ、本尊は シータラー女神、
種子音はラクシュミー、神力はバヴァーニー、
全ての発疹性疾患の消滅を目的とする唱誦のための適用法である。
逐語訳:
- अस्य (asya) - この(属格)
- श्री (śrī) - 聖なる、吉祥なる
- शीतला (śītalā) - シータラー女神
- स्तोत्रस्य (stotrasya) - 讃歌の(属格)
- महादेव (mahādeva) - マハーデーヴァ(シヴァ神の名称)
- ऋषिः (ṛṣiḥ) - 聖仙(神聖な啓示を受け取る預言者、讃歌の霊的源泉)
- अनुष्टुप् (anuṣṭup) - アヌシュトゥブ(8音節×4行の韻律)
- छन्दः (chandaḥ) - 韻律
- शीतला (śītalā) - シータラー女神
- देवता (devatā) - 神格、本尊
- लक्ष्मीः (lakṣmīḥ) - ラクシュミー女神
- बीजम् (bījam) - 種子音節、ビージャ(マントラの核となる音節)
- भवानी (bhavānī) - バヴァーニー(パールヴァティー女神の別名)
- शक्तिः (śaktiḥ) - 神聖なる力、エネルギー
- सर्व (sarva) - すべての
- विस्फोटक (visphoṭaka) - 発疹性疾患、水疱
- निवृत्ति (nivṛtti) - 除去、消滅
- अर्थे (arthe) - 目的のために(与格)
- जपे (jape) - 唱誦において(処格)
- विनियोगः (viniyogaḥ) - 適用法、用法
解説:
この節は「विनियोग」(viniyoga)と呼ばれる形式で書かれており、サンスクリット語の伝統的な讃歌の冒頭に置かれる「使用説明書」にあたります。ヒンドゥー教の聖典的実践において、マントラや讃歌は単なる言葉ではなく、特定の効果をもたらす霊的道具として扱われます。その効力を最大限に引き出すために、讃歌の本質に関わる要素が明示されるのです。
まず「ऋषि」(ṛṣi)として「महादेव」(mahādeva)シヴァ神が挙げられています。ऋषि(リシ)とは、神聖な真理を「見た」聖仙を意味し、讃歌の霊的起源を示します。歴史的な作者ではなく、シヴァ神自身がこの讃歌の源泉とされることで、その効力に神聖な権威が付与されています。
「अनुष्टुप्」(anuṣṭup)韻律は、各行が8音節で構成される四行詩であり、『マハーバーラタ』や『ラーマーヤナ』などの叙事詩でも広く使用される基本韻律です。規則的なリズムは朗誦を容易にし、記憶を助ける役割を持っています。
讃歌の中心となる「देवता」(devatā)が シータラー女神であることは当然ですが、興味深いのは「बीज」(bīja)と「शक्ति」(śakti)の指定です。「बीज」は種子音節、マントラの核となる音で、ここではラクシュミー女神に関連付けられています。「शक्ति」は神の創造力・顕現力を表し、シヴァの配偶神バヴァーニー(パールヴァティー)に関連付けられています。これらの関連性は、 シータラー女神が繁栄の女神ラクシュミーと、シヴァの創造的エネルギーであるバヴァーニーの両方の特質を備えていることを示唆しています。
最後に「सर्वविस्फोटकनिवृत्यर्थे जपे विनियोगः」という文は、この讃歌の具体的な適用目的を示しています。「सर्वविस्फोटक」(sarvavisphoṭaka)「全ての発疹性疾患」は、特に天然痘、麻疹、水痘などを指し、前節で触れられた「 シータラー・マータの病」に対応しています。「निवृत्ति」(nivṛtti)は「戻る」「消滅する」の意で、病気の完全な消滅を意味します。
この序文は、シータラー女神の性質—「冷たさ」を本質とし、発熱性疾患を鎮める力—をより具体的な儀礼的文脈に位置づけています。讃歌は病気を癒すための具体的な治療法として機能し、医学と宗教が未分化だった時代の重要な健康維持手段だったことが理解できます。
第1節
ईश्वर उवाच ।
वन्देऽहं शीतलां देवीं रासभस्थां दिगम्बराम् ।
मार्जनीकलशोपेतां शूर्पालङ्कृतमस्तकाम् ॥ १॥
īśvara uvāca ।
vande'haṃ śītalāṃ devīṃ rāsabhastāṃ digambarām ।
mārjanīkalaśopetāṃ śūrpālaṅkṛtamastakām ॥ 1॥
イーシュヴァラは宣べられた—
我は シータラー女神に敬意を捧げる。
彼女はロバに乗り、虚空を衣とする裸身にして、
箒と水瓶を携え持ち、頭には穀物を選り分ける篩を飾っている。
逐語訳:
- ईश्वर (īśvara) - イーシュヴァラ(シヴァ神の別名)
- उवाच (uvāca) - 語った、宣べた(√vac「語る」の完了形)
- वन्दे (vande) - 私は敬意を表する、礼拝する(現在形1人称単数)
- अहम् (aham) - 私は、我は
- शीतलाम् (śītalām) - シータラー(女性名詞対格)
- देवीम् (devīm) - 女神(女性名詞対格)
- रासभस्थाम् (rāsabhastām) - ロバに乗った(女性名詞対格)
- दिगम्बराम् (digambarām) - 裸身の、空間を衣とする(女性名詞対格)
- मार्जनी (mārjanī) - 箒、掃除道具
- कलश (kalaśa) - 水瓶
- उपेताम् (upetām) - 備えた、持った(女性名詞対格)
- शूर्प (śūrpa) - 穀物を選り分ける篩(ふるい)
- अलङ्कृत (alaṅkṛta) - 飾られた
- मस्तकाम् (mastakām) - 頭を(女性名詞対格)
解説:
シータラー女神讃歌の冒頭部分では、序文で示されたように、この讃歌の「ऋषि」(ṛṣi、聖仙)として位置づけられた偉大なる神「महादेव」(mahādeva、シヴァ神)が自ら語り手となります。「ईश्वर उवाच」(īśvara uvāca)「イーシュヴァラは宣べられた」という導入句は、この讃歌が単なる人間の創作ではなく、神聖な啓示として伝えられたことを強調しています。
シヴァ神が描写する シータラー女神の姿は、その図像学的特徴と機能を見事に表現しています。「दिगम्बराम्」(digambarām)という表現は、直訳すると「方角(空間)を衣とする者」という意味で、裸身であることを神聖な言葉で表しています。この裸形の描写は、女神の原初的な力と自然の根源的エネルギーとの結びつきを象徴しています。
シータラー女神の乗り物であるロバ「रासभ」(rāsabha)は、インドの主要神々の威厳ある乗り物(ヴァーハナ)と比べると質素ですが、これは彼女が特に農村社会で親しまれてきた民間信仰の女神であることを示しています。日常的で身近な動物に乗る姿は、彼女が一般庶民の生活に密接に関わる神格であることを表しています。
女神の持ち物も重要な象徴性を持っています。「मार्जनी」(mārjanī、箒)は不浄を払い清める道具として、「कलश」(kalaśa、水瓶)は浄化と再生の水を象徴します。これらは疫病をもたらす悪霊や不浄を払い、冷たい水で熱病を鎮める女神の治癒力を表現しています。頭に飾られた「शूर्प」(śūrpa、篩)は穀物と籾殻を分ける農具で、象徴的には良いものと悪いものを選り分ける識別力と判断力を表しています。
これらの属性は全体として、 シータラー女神が序文で述べられた「सर्वविस्फोटकनिवृत्ति」(sarvavisphoṭakanivṛtti、全ての発疹性疾患の消滅)をもたらす特別な力を持つことを視覚的に表現しています。彼女はただ病気を治すだけでなく、浄化、変容、再生という生命の根源的なリズムを司る深遠な女神なのです。
第2節
वन्देऽहं शीतलां देवीं सर्वरोगभयापहाम्।
यामासाद्य निवर्तेत विस्फोटकभयं महत् ॥ २॥
vande'haṃ śītalāṃ devīṃ sarvarogabhayāpahām।
yāmāsādya nivarteta visphoṭakabhayaṃ mahat ॥ 2॥
我は シータラー女神に敬意を捧げる、あらゆる病の恐怖を払う方に。
彼女の庇護に近づけば、発疹病の大いなる恐怖も退散する。
逐語訳:
- वन्दे (vande) - 私は敬意を表する、礼拝する(現在形1人称単数)
- अहम् (aham) - 私は、我は
- शीतलाम् (śītalām) - シータラー(女性名詞対格)
- देवीम् (devīm) - 女神(女性名詞対格)
- सर्व (sarva) - すべての、あらゆる
- रोग (roga) - 病気、疾病
- भय (bhaya) - 恐怖、不安
- अपहाम् (apahām) - 取り除く者、排除する者(女性名詞対格)
- याम् (yām) - 彼女を(関係代名詞、女性対格)
- आसाद्य (āsādya) - 近づいて、帰依して(√sad「近づく」に接頭辞ā-を伴う絶対分詞)
- निवर्तेत (nivarteta) - 消滅する、止む、退散する(可能法、3人称単数)
- विस्फोटक (visphoṭaka) - 発疹、水疱、特に天然痘などの発疹性疾患
- भयम् (bhayam) - 恐怖(中性名詞主格)
- महत् (mahat) - 大きい、強烈な、甚大な(形容詞、中性主格)
解説:
第2節では、第1節で描写された シータラー女神の具体的な姿(ロバに乗り、箒と水瓶を持ち、篩を頭に戴く姿)から、彼女の神聖な機能へと焦点が移行しています。彼女は「सर्वरोगभयापहा」(sarvarogabhayāpahā)「あらゆる病の恐怖を取り除く者」として称えられています。
この称号は単なる美称ではなく、女神の本質的な力を表現しています。「सर्व」(sarva)「すべての」という普遍性を示す形容詞は、 シータラー女神の守護が特定の疾病に限定されないことを強調します。しかし同時に、第2行では「विस्फोटक」(visphoṭaka)という具体的な疾患カテゴリーが言及され、彼女が特に発疹性疾患(天然痘、麻疹、水痘など)に対して強い効力を持つことが明示されています。
「यामासाद्य」(yāmāsādya)「彼女に近づくことによって」という表現は、信仰的な次元と実践的な次元の両方を含みます。具体的には、この讃歌を唱えること、 シータラー女神の聖地を訪れること、彼女の像の前で祈ることなど、さまざまな帰依の形を示唆しています。ここには単なる物理的接近ではなく、心を開いて女神の庇護を求める霊的な姿勢が含まれています。
「निवर्तेत」(nivarteta)「退散するだろう」という可能法の使用は、確実性と同時に条件性も示唆しています—真摯な信仰と適切な儀礼的実践を通じてこそ、女神の恩恵が得られるのです。
注目すべきは、単に「病気」ではなく「病の恐怖」(rogabhaya)が取り除かれると表現されている点です。前近代社会において、特に天然痘のような伝染病は、身体的苦痛だけでなく、社会的な恐怖と不安をもたらしました。女神の庇護は、肉体の治癒だけでなく、精神的な安心と社会秩序の回復をも含む全人的な癒しを約束しているのです。
第1節に描かれた箒と水瓶という持ち物は、この節で説明される機能—浄化と冷却による病の恐怖の除去—と直接結びついています。彼女の名「शीतला」(śītalā)「冷たい者」自体が、発熱を伴う疾病を鎮める力を象徴的に表現しているのです。
第3節
शीतले शीतले चेति यो ब्रूयद्दाहपीडितः ।
विस्फोटकभयं घोरं क्षिप्रं तस्य प्रणश्यति ॥ ३॥
śītale śītale ceti yo brūyaddāhapīḍitaḥ ।
visphoṭakabhayaṃ ghoraṃ kṣipraṃ tasya praṇaśyati ॥ 3॥
「シータレー、シータレー」と、熱に苦しむ者が唱えれば、
その者の恐ろしい発疹病への恐怖は、たちまちのうちに消え去る。
逐語訳:
- शीतले (śītale) - シータレー、「冷たい者よ」という呼びかけ(女性名詞呼格)
- शीतले (śītale) - 同上、繰り返し(強調のため)
- च (ca) - そして
- इति (iti) - このように、と(引用標識)
- यः (yaḥ) - 〜する者は、誰でも(関係代名詞、男性単数主格)
- ब्रूयत् (brūyat) - 唱えるならば、言うならば(√brū「言う」の可能法、3人称単数)
- दाह (dāha) - 熱、灼熱感、炎症
- पीडितः (pīḍitaḥ) - 苦しむ者、悩まされる者(男性単数主格)
- विस्फोटक (visphoṭaka) - 発疹、水疱(特に天然痘などの発疹性疾患)
- भयम् (bhayam) - 恐怖(中性名詞対格)
- घोरम् (ghoram) - 恐ろしい、凄惨な、激しい(形容詞、中性対格)
- क्षिप्रम् (kṣipram) - 速やかに、すぐに、たちまちに(副詞)
- तस्य (tasya) - 彼の、その者の(代名詞属格)
- प्रणश्यति (praṇaśyati) - 消滅する、消え去る(√naś「消える」に接頭辞pra-を伴う、現在形3人称単数)
解説:
第3節では、前節までで描かれた シータラー女神の図像的特徴と神聖な力を、実際の信仰実践へと結びつける具体的な方法が示されています。この節は、女神の名を唱えるというシンプルながらも強力な実践方法を提示することで、讃歌全体の実用的な価値を高めています。
「शीतले शीतले」(śītale śītale)という呼格形での呼びかけの反復は偶然ではありません。サンスクリット語の讃歌では、神名の反復は単なる詩的技法を超え、マントラとしての力を強化する儀礼的意図を持っています。「शीतल」(śītala)「冷たい」という語源を持つ女神の名を繰り返し唱えることで、彼女の本質的属性である「冷却力」を直接的に喚起しているのです。
呼格形での呼びかけは、神と信者の間の親密な関係性を確立します。これは女神を単なる崇拝対象としてではなく、苦しみの時に直接訴えかけることのできる存在として位置づけています。このような直接的な呼びかけの形式は、ヴェーダの厳格な儀礼よりも、より親密で個人的な信仰形態を反映しています。
「दाहपीडित」(dāhapīḍita)「熱に苦しむ者」は、女神の名前が持つ「冷たさ」との意図的な対比として機能しています。これは単なる身体的発熱を超え、発疹病がもたらす灼熱感、炎症、そして精神的苦悩を含む総合的な苦痛状態を表現しています。ここには「熱い苦しみは冷たい女神によって鎮められる」という、 シータラー信仰の核心的治癒原理が示されています。
文法的にも興味深い点があります。「ब्रूयत्」(brūyat)は可能法(潜在法)で「唱えるならば」という条件を表す一方、「प्रणश्यति」(praṇaśyati)は直説法現在形で「消滅する」と確定的に述べられています。この対比は、条件(女神の名を唱えること)と結果(恐怖の消失)の因果関係の確実性を強調しています。つまり、条件さえ満たせば、結果は必ず得られるという強い保証を示しているのです。
「घोर」(ghora)「恐ろしい」という形容詞は、発疹性疾患、特に天然痘が前近代社会にもたらした計り知れない恐怖を喚起します。「विस्फोटकभयं」(visphoṭakabhayaṃ)は単に病気自体ではなく、その「恐怖」に焦点を当てている点に注目すべきです。 シータラー女神への祈りは、病気の治癒だけでなく、病がもたらす社会的・心理的トラウマからの解放も約束しているのです。
第4節
यस्त्वामुदकमध्ये तु ध्यात्वा सम्पूजयेन्नरः ।
विस्फोटकभयं घोरं गृहे तस्य न जायते ॥ ४॥
yastvāmudakamadhye tu dhyātvā sampūjayennaraḥ ।
visphoṭakabhayaṃ ghoraṃ gṛhe tasya na jāyate ॥ 4॥
水の儀礼の中であなた( シータラー女神)を瞑想し、
正しく丁寧に礼拝する人の家には、
恐ろしい発疹病の恐怖は決して生じることがない。
逐語訳:
- यः (yaḥ) - 〜する者は、誰でも(関係代名詞、男性単数主格)
- तु (tu) - また、そして、しかし(接続詞、強調の役割も持つ)
- त्वाम् (tvām) - あなたを(二人称単数対格)
- उदक (udaka) - 水
- मध्ये (madhye) - 〜の中に、〜の間に(位格)
- ध्यात्वा (dhyātvā) - 瞑想して、集中して(√dhyai「瞑想する」の絶対分詞)
- सम्पूजयेत् (sampūjayet) - 完全に礼拝するならば(願望法、3人称単数)
- नरः (naraḥ) - 人、男性(男性名詞主格)
- विस्फोटक (visphoṭaka) - 発疹、水疱(特に天然痘などの発疹性疾患)
- भयम् (bhayam) - 恐怖(中性名詞主格)
- घोरम् (ghoram) - 恐ろしい、凄惨な(形容詞、中性主格)
- गृहे (gṛhe) - 家に、住居に(中性名詞位格)
- तस्य (tasya) - 彼の、その者の(代名詞属格)
- न (na) - 〜ない(否定辞)
- जायते (jāyate) - 生じる、発生する、生まれる(現在形、3人称単数)
解説:
第4節では、 シータラー女神への信仰実践がさらに具体的な儀礼形態として展開されています。前節で示された「シータレー、シータレー」という言葉による祈りから、「水の儀礼」(उदकमध्ये, udakamadhye)を伴う瞑想と礼拝という、より包括的な宗教実践へと発展しています。
「उदकमध्ये」(udakamadhye)という表現は特に重要です。これは単に「水の中で」という物理的位置を示すだけでなく、水を用いた儀礼的文脈を示唆しています。水は シータラー女神の本質的属性である「शीतल」(śītala、「冷たい」)を物質的に具現化するものであり、彼女の冷却力と浄化力の直接的媒体です。水を用いた儀礼—聖水による浄めやアビシェーカ(अभिषेक, abhiṣeka、神像への聖水灌頂)—は、発熱や炎症を伴う疾病に対する象徴的治療として機能するのです。
「ध्यात्वा」(dhyātvā、「瞑想して」)と「सम्पूजयेत्」(sampūjayet、「完全に礼拝するならば」)という二つの行為は、内的集中と外的儀礼という相補的な宗教実践の両面を表しています。瞑想は第1節で描かれた女神の図像的特徴を心に思い描く内面的プロセスであり、「सम्पूज」(sampūj)は「सम्」(sam、「完全に、十分に」)という接頭辞が示すように、供物や讃歌による丁寧かつ完全な外的礼拝を指します。
注目すべきは、この節の保護が「गृहे」(gṛhe、「家に」)まで拡張されている点です。第3節では個人に対する病気の治癒が強調されていましたが、ここでは家族全体、さらには共同体を守る予防的保護へと視野が広がっています。「न जायते」(na jāyate、「生じない」)という表現は、既に発生した病からの回復ではなく、病気そのものの予防という女神の力を示しています。
「गृह」(gṛha、「家」)は単なる物理的建造物ではなく、家族という社会的単位と共同体の安全を象徴しています。天然痘のような感染症は個人を超えて家族全体、さらには共同体全体を脅かす存在でした。 シータラー女神への信仰と儀礼的実践は、このように個人的な治癒の枠を超え、社会全体の健康と安寧を守る集合的な意義を持っていたのです。
第5節
शीतले ज्वरदग्धस्य पूतिगन्धयुतस्य च ।
प्रणष्टचक्षुषः पुंसस्त्वामाहुर्जीवनौषधम् ॥ ५॥
śītale jvaradagdhasya pūtigandhayutasya ca ।
praṇaṣṭacakṣuṣaḥ puṃsastvāmāhurjīvanauṣadham ॥ 5॥
シータレーよ、熱の炎に焼かれ、
悪臭を放ち、視力を失いし者にとって、
人々はあなたを生命を蘇らせる霊薬と称えます。
逐語訳:
- शीतले (śītale) - シータレーよ、冷たき女神よ(女性名詞呼格)
- ज्वर (jvara) - 熱、発熱
- दग्धस्य (dagdhasya) - 焼かれた者の(男性単数属格)
- पूति (pūti) - 悪臭を放つ、腐敗した
- गन्ध (gandha) - 匂い、香り
- युतस्य (yutasya) - 伴う、持つ者の(男性単数属格)
- च (ca) - そして、また
- प्रणष्ट (praṇaṣṭa) - 失われた、損なわれた
- चक्षुषः (cakṣuṣaḥ) - 目、視力の(男性単数属格)
- पुंसः (puṃsaḥ) - 人、男性の(男性単数属格)
- त्वाम् (tvām) - あなたを(二人称単数対格)
- आहुः (āhuḥ) - 彼らは言う、称える(√ah「言う」の完了形、3人称複数)
- जीवन (jīvana) - 生命、生命力
- औषधम् (auṣadham) - 薬、治療薬(中性名詞対格)
解説:
第5節では、 シータラー女神の救済的役割がさらに深く、具体的な臨床的文脈で表現されています。前節までの予防的機能から、ここでは天然痘などの重篤な発疹性疾患に苦しむ患者への直接的治癒力が強調されています。
「शीतले」(śītale)という呼びかけは、第3節と同様、女神の本質である「冷たさ」を直接呼び起こします。この呼びかけは「ज्वरदग्ध」(jvaradagdha)「熱に焼かれた」との劇的な対比を形成しています。第4節の「水の儀礼」(उदकमध्ये, udakamadhye)の象徴性がここでさらに深まり、 シータラー女神の「冷却力」と患者の「灼熱感」との生命的な関係が明示されています。
「पूतिगन्धयुत」(pūtigandhayuta)「悪臭を放つ」と「प्रणष्टचक्षुष्」(praṇaṣṭacakṣuṣ)「視力を失った」という表現は、単なる詩的誇張ではなく、天然痘の末期症状の医学的に正確な描写です。仏教医学書『アシュターンガ・フルダヤ』(अष्टाङ्गहृदय, aṣṭāṅgahṛdaya)などの古代インドの医学文献でも、同様の症状が発疹性疾患の重症例として記録されています。
「जीवनौषधम्」(jīvanauṣadham)「生命を与える薬」という表現は特に重要です。第3節・第4節では病の「恐怖」(भय, bhaya)からの解放が強調されていましたが、ここでは「生命」(जीवन, jīvana)そのものの回復という、より根源的な救済が約束されています。これは単なる症状緩和ではなく、死の淵からの完全な回生を示唆しています。
「आहुः」(āhuḥ)「彼らは称える」という動詞の使用は、この讃歌が単なる個人的祈りではなく、 シータラー女神の治癒力についての集合的経験と信仰を反映していることを示します。「天然痘の女神」としての シータラーの評判は、実際の治癒体験に基づく民間信仰として北インド全域に広がっていました。
この節は、女神の慈悲深さの新たな次元—最も絶望的な状況にある者への無条件の救済—を示すことで、讃歌の情緒的頂点を形成しています。「冷たさ」という物理的特性から始まった シータラーの属性は、ここで生命そのものを回復させる神聖な力へと昇華されているのです。
第6節
शीतले तनुजान् रोगान् नृणां हरसि दुस्त्यजान् ।
विस्फोटकविदीर्णानां त्वमेकाऽमृतवर्षिणी ॥ ६॥
śītale tanujān rogān nṛṇāṃ harasi dustyajān ।
visphoṭakavidīrṇānāṃ tvamekā'mṛtavarṣiṇī ॥ 6॥
シータレーよ、あなたは人々の身に生じる
捨て難き諸々の病を取り除き給う。
発疹により引き裂かれた者たちにとって、
あなたのみが甘露を降り注ぐ方なり。
逐語訳:
- शीतले (śītale) - シータレーよ、冷たき女神よ(女性名詞呼格)
- तनुजान् (tanujān) - 身体(तनु, tanu)から生じる(ज, ja)(形容詞、男性複数対格)
- रोगान् (rogān) - 病、疾患(男性名詞複数対格)
- नृणां (nṛṇāṃ) - 人々の、人間たちの(男性名詞複数属格)
- हरसि (harasi) - あなたは取り除く、奪い去る(現在形、2人称単数)
- दुस्त्यजान् (dustyajān) - 捨て難い、離れ難い(दुस्, dus-「難しい」+त्यज्, tyaj「捨てる」、形容詞男性複数対格)
- विस्फोटक (visphoṭaka) - 発疹、水疱(特に天然痘などの発疹性疾患)
- विदीर्णानां (vidīrṇānāṃ) - 引き裂かれた、損なわれた者たちの(男性複数属格)
- त्वम् (tvam) - あなたは(二人称代名詞、単数主格)
- एका (ekā) - 唯一の、たった一人の(女性単数主格)
- अमृत (amṛta) - 不死の霊薬、甘露
- वर्षिणी (varṣiṇī) - 雨を降らす者(女性名詞単数主格)
解説:
第6節では、 シータラー女神の治癒力がより普遍的かつ神聖な次元で描かれています。第5節で「生命を蘇らせる霊薬」(जीवनौषधम्, jīvanauṣadham)として讃えられた女神の力が、ここでは「甘露を降り注ぐ」という神話的表現へと昇華されています。
「तनुजान् रोगान्」(tanujān rogān)は「身体から生じる病」を意味し、特に皮膚表面に現れる症状を指しています。「तनु」(tanu)は「身体」、「ज」(ja)は「生まれる」という語源を持ち、この複合語は発疹性疾患の視覚的特徴—身体から「生まれ出る」様子—を巧みに捉えています。
「दुस्त्यजान्」(dustyajān)「捨て難い」は「दुस्」(dus-,「難しい」)と「त्यज्」(tyaj,「捨てる」)から構成された表現で、これらの疾病が頑強で治療困難であることを示しています。この表現は、前近代社会における天然痘の恐ろしさ—いったん感染すると容易に回復せず、しばしば死や重度の障害をもたらす—という現実を反映しています。
「विस्फोटकविदीर्णानां」(visphoṭakavidīrṇānāṃ)は強烈な複合語です。「विदीर्ण」(vidīrṇa)「引き裂かれた」という表現は、第5節の「熱の炎に焼かれ」(ज्वरदग्ध, jvaradagdha)や「視力を失いし」(प्रणष्टचक्षुष, praṇaṣṭacakṣuṣa)という具体的症状描写から、さらに全身的苦痛のイメージへと拡大しています。発疹によって全身が「引き裂かれる」という比喩は、身体的苦痛と同時に、疾病による社会的・心理的分断も暗示しています。
「अमृतवर्षिणी」(amṛtavarṣiṇī)「甘露を降らす者」は、讃歌の神聖な頂点を形成します。「अमृत」(amṛta)はヒンドゥー教神話における「不死の霊薬」であり、神々の飲み物です。「वर्षिणी」(varṣiṇī)「雨を降らす」という表現は、 シータラーの「冷たさ」(शीतल, śītala)が治癒の「雨」として全身を覆い、炎症を鎮める様子を鮮明に描き出しています。この表現は、第4節の「水の儀礼」(उदकमध्ये, udakamadhye)の象徴性とも深く結びついています。
「एका」(ekā)「唯一の」という強調は、発疹性疾患の専門的守護神としての シータラーの独自性と権威を確立するものです。多神教体系の中で、彼女が天然痘治癒の「唯一無二」の源泉であることが宣言されているのです。
第7節
गलगण्डग्रहा रोगा ये चान्ये दारुणा नृणाम् ।
त्वदनुध्यानमात्रेण शीतले यान्ति सङ्क्षयम् ॥ ७॥
galagaṇḍagrahā rogā ye cānye dāruṇā nṛṇām ।
tvadanudhyānamātreṇa śītale yānti saṅkṣayam ॥ 7॥
頸部の腫れを引き起こす病や、
人々を襲う他の恐ろしき疾患も、
シータレーよ、あなたへの深き瞑想のみによって
完全に消滅します。
逐語訳:
- गलगण्डग्रहा (galagaṇḍagrahā) - 頸部の腫れ(गलगण्ड, galagaṇḍa)を引き起こす(ग्रह, graha)病(複合語、男性複数主格)
- रोगा (rogā) - 病気、疾患(男性名詞複数主格)
- ये (ye) - それら、〜するもの(関係代名詞、男性複数主格)
- च (ca) - そして、また(接続詞)
- अन्ये (anye) - 他の、別の(形容詞、男性複数主格)
- दारुणा (dāruṇā) - 恐ろしい、過酷な、苛烈な(形容詞、男性複数主格)
- नृणाम् (nṛṇām) - 人々の、人間たちの(男性名詞複数属格)
- त्वद् (tvad) - あなたの(二人称単数属格代名詞の語幹形)
- अनुध्यान (anudhyāna) - 継続的な瞑想、心を一点に集中させた観想(中性名詞)
- मात्रेण (mātreṇa) - 〜だけで、単に〜によって(具格)
- शीतले (śītale) - シータレーよ、冷たき女神よ(女性名詞呼格)
- यान्ति (yānti) - 彼らは行く、至る(現在形、3人称複数)
- सङ्क्षयम् (saṅkṣayam) - 消滅へ、完全な破壊へ(男性名詞対格)
解説:
第7節では、 シータラー女神の治癒力の領域がさらに拡大され、前節までの発疹性疾患から「गलगण्ड」(galagaṇḍa)「頸部の腫れ」に代表される他の深刻な疾患にも及ぶことが示されています。「गलगण्ड」はアーユルヴェーダ医学において甲状腺腫や瘰癧(るいれき)、頸部リンパ節の腫脹などを指す専門用語です。
「ग्रह」(graha)は「捕らえるもの」を意味し、ここでは病が人を「捕らえる」という古代インド医学の病因論を反映しています。この概念はサンスクリット医学文献に広く見られ、病気が外部から来て人を「捉える」存在として理解されていました。
「दारुणा」(dāruṇā)「恐ろしい、過酷な」という形容詞は、第6節の「दुस्त्यजान्」(dustyajān)「捨て難い」や「विदीर्णानां」(vidīrṇānāṃ)「引き裂かれた」という表現と響き合い、疾患の苛烈さを強調しています。また「नृणाम्」(nṛṇām)「人々の」という表現は、前節の「नृणां」(nṛṇāṃ)と呼応し、 シータラー女神の保護が個人を超えて社会全体に及ぶことを再確認しています。
最も注目すべきは「त्वदनुध्यानमात्रेण」(tvadanudhyānamātreṇa)「あなたへの瞑想のみによって」という表現です。「अनुध्यान」(anudhyāna)は「अनु」(anu「従って、連続して」)と「ध्यान」(dhyāna「瞑想」)からなり、対象に完全に一致するような継続的な瞑想状態を指します。この表現は第4節の「ध्यात्वा सम्पूजयेत्」(dhyātvā sampūjayet)「瞑想し、礼拝する」より深化し、外的儀礼よりも内的瞑想の力が強調されています。
「मात्रेण」(mātreṇa)「〜のみによって」という限定は、他の治療手段が不要であることを示し、女神への専心がもたらす絶対的効力を表します。「सङ्क्षयम्」(saṅkṣayam)「完全な消滅へ」は、単なる症状緩和ではなく、病の根本的除去を約束しています。
この節は、 シータラー女神の守護の範囲が拡大していく過程を示すとともに、具体的儀礼から内的集中へという信仰実践の深化も表現しています。「冷たさ」を本質とする女神が、熱を冷まし、炎症を鎮めるという身体的側面から、瞑想による精神的浄化へと導く様子が描かれているのです。
第8節
न मन्त्रो नौषधं तस्य पापरोगस्य विद्यते ।
त्वामेकां शीतले धात्रीं नान्यां पश्यामि देवताम् ॥ ८॥
na mantro nauṣadhaṃ tasya pāparogasya vidyate ।
tvāmekāṃ śītale dhātrīṃ nānyāṃ paśyāmi devatām ॥ 8॥
罪業から生じる病には、マントラも薬も効力を持たず、
シータレーよ、あなた以外に母なる守護者として
私は他のいかなる神格も見出すことができません。
逐語訳:
- न (na) - 〜ない(否定辞)
- मन्त्रः (mantraḥ) - マントラ、聖なる呪文(男性名詞単数主格)
- न (na) - 〜ない(否定辞)
- औषधम् (auṣadham) - 薬、医薬(中性名詞単数主格)
- तस्य (tasya) - その、それの(指示代名詞、男性単数属格)
- पाप (pāpa) - 罪、邪悪、不浄、業障
- रोगस्य (rogasya) - 病の(男性名詞単数属格)
- विद्यते (vidyate) - 存在する、効力がある(√vid「見出す、存在する」の受動形、現在形、3人称単数)
- त्वाम् (tvām) - あなたを(二人称単数対格)
- एकाम् (ekām) - 唯一の、ただ一人の(女性単数対格)
- शीतले (śītale) - シータレーよ(女性名詞呼格)
- धात्रीम् (dhātrīm) - 養育者、母なる存在、支え手(√धृ (dhṛ)「支える」から派生、女性名詞単数対格)
- न (na) - 〜ない(否定辞)
- अन्याम् (anyām) - 他の、別の(女性単数対格)
- पश्यामि (paśyāmi) - 私は見る、見出す(現在形、1人称単数)
- देवताम् (devatām) - 女神、神格(女性名詞単数対格)
解説:
第8節では、 シータラー女神への信仰が個人的かつ絶対的な帰依へと深化しています。第7節までの客観的描写から、ここで初めて「पश्यामि」(paśyāmi)「私は見る」という一人称表現が現れ、讃歌が信仰告白へと変容します。
「पापरोग」(pāparoga)「罪業の病」という複合語は特に重要です。「पाप」(pāpa)は単なる倫理的な「罪」ではなく、アーユルヴェーダ医学とヒンドゥー思想が交差する概念で、前世からの業(कर्म, karma)や霊的不浄が身体的・精神的苦痛として表出するという考えを反映しています。第5節の「ज्वरदग्ध」(jvaradagdha)「熱に焼かれた」状態や第7節の「दारुण」(dāruṇa)「恐ろしい」疾患は、この「पापरोग」の具体的現れと考えられます。
「न मन्त्रो नौषधं...विद्यते」(na mantro nauṣadhaṃ...vidyate)「マントラも薬も効力を持たない」という表現は、通常の治療手段の限界を示しています。この否定表現は、第7節の「त्वदनुध्यानमात्रेण」(tvadanudhyānamātreṇa)「あなたへの瞑想のみによって」という積極的表現と呼応し、深化しています。物質的治療から精神的修行へ、そして最終的には神への絶対的帰依へという霊的成長の道筋が示されています。
「धात्री」(dhātrī)は「支える」「養育する」という語根から派生した語で、母性的保護を意味します。第7節までシータレーは主に治癒者として描かれてきましたが、ここでは「母なる守護者」という、より包括的・永続的な関係性が強調されています。
「त्वामेकाम्...नान्याम्」(tvāmekām...nānyām)「あなた以外に〜いない」という表現は、第6節の「त्वमेका」(tvamekā)「あなたのみが」をさらに深め、完全な献身(भक्ति, bhakti)を表明しています。これはヒンドゥー信仰の本質的特徴である「イシュタ・デーヴァター」(選ばれた神格への排他的帰依)の鮮明な表現です。
この節は讃歌全体の霊的頂点として、シータレー女神の役割が発疹性疾患の治癒者から、罪と苦しみの根源的問題を解決する究極的救済者へと昇華していることを示しています。読者はこの節を通じて、自らの苦しみを女神の母性的保護に全面的に委ねる信仰の境地へと導かれているのです。
第9節
मृणालतन्तुसदृशीं नाभिहृन्मध्यसंस्थिताम् ।
यस्त्वां सञ्चिन्तयेद्देवि तस्य मृत्युर्न जायते ॥ ९॥
mṛṇālatantusadṛśīṃ nābihṛnmadhyasaṃsthitām ।
yastvāṃ sañcintayeddhevi tasya mṛtyurna jāyate ॥ 9॥
蓮の茎の繊維のような微細な姿で、
臍と心臓の間に安住する女神よ、
あなたを深く瞑想する者には、
死は決して訪れることがない。
逐語訳:
- मृणाल (mṛṇāla) - 蓮の茎
- तन्तु (tantu) - 繊維、糸、細い筋
- सदृशीम् (sadṛśīm) - 〜のような、〜に似た形をした(女性単数対格)
- नाभि (nābhi) - 臍、へそ
- हृत् (hṛt) - 心臓
- मध्य (madhya) - 中間、間
- संस्थिताम् (saṃsthitām) - しっかりと位置する、確立された、安住する(女性単数対格)
- यः (yaḥ) - 〜する者(関係代名詞、男性単数主格)
- त्वाम् (tvām) - あなたを(二人称単数対格)
- सञ्चिन्तयेत् (sañcintayet) - 深く瞑想する、完全に心に集中する(接続法現在、3人称単数)
- देवि (devi) - 女神よ(女性名詞呼格)
- तस्य (tasya) - 彼の(指示代名詞、男性単数属格)
- मृत्युः (mṛtyuḥ) - 死(男性名詞単数主格)
- न (na) - 〜ない(否定辞)
- जायते (jāyate) - 生じる、発生する、誕生する(受動形、現在形、3人称単数)
解説:
第9節は、 シータラー女神への瞑想の最も深遠な次元を明らかにしています。ここでは女神が「मृणालतन्तु」(mṛṇālatantu)「蓮の茎の繊維」に例えられています。蓮はインド思想において、泥の中に根を張りながらも水面に美しい花を咲かせる、清浄と超越の象徴です。その茎の繊維は極めて微細で純粋—これは女神の本質が粗大な物質次元ではなく、微細な霊的次元に属することを表しています。
「नाभिहृन्मध्य」(nābihṛnmadhya)「臍と心臓の間」という位置は、ヨーガの伝統において極めて意義深いものです。この領域はマニプーラ・チャクラ(臍の中心)とアナーハタ・チャクラ(心臓の中心)の間に位置し、「सुषुम्ना नाडी」(suṣumnā nāḍī)と呼ばれる中心的エネルギー経路が通る場所です。第8節の「पापरोग」(pāparoga)「罪業の病」からの解放は、まさにこの微細エネルギー中心における女神の存在によって可能になると示唆されています。
「संस्थिताम्」(saṃsthitām)「安住する」という表現には、一時的ではなく永続的に確立された状態というニュアンスがあります。第7節の「瞑想のみによって」(त्वदनुध्यानमात्रेण, tvadanudhyānamātreṇa)消滅する病気とは対照的に、女神自身は不動の安定した存在として描かれています。
「सञ्चिन्तयेत्」(sañcintayet)は「सम्」(sam)「完全に」と「चिन्त्」(cint)「思考する」からなり、完全一体化を伴う瞑想を意味します。これは第7節の「अनुध्यान」(anudhyāna)「継続的瞑想」よりさらに深い、心身の全存在を投入した精神的実践を意味するでしょう。
「मृत्युर्न जायते」(mṛtyurna jāyate)「死は生じない」という表現は、単なる肉体的長寿ではなく、「अमृत」(amṛta)「不死」の状態—輪廻の束縛からの解放を意味します。第6節の「अमृतवर्षिणी」(amṛtavarṣiṇī)「甘露を降らす者」としての女神が、ここでは不死性の直接的授与者として描かれているのです。
この節によって、 シータラー女神信仰の最終目標が明らかになります—それは単なる疾病治癒や現世利益を超えた、死と再生の輪廻からの究極的解放です。発疹性疾患の守護神として始まった讃歌は、ここで霊的解脱への道を示す女神への賛美へと昇華しています。
第10節
अष्टकं शीतलादेव्या यो नरः प्रपठेत्सदा ।
विस्फोटकभयं घोरं गृहे तस्य न जायते ॥ १०॥
aṣṭakaṃ śītalādevyā yo naraḥ prapaṭhetsadā ।
visphoṭakabhayaṃ ghoraṃ gṛhe tasya na jāyate ॥ 10॥
シータラー女神の八詩節からなる神聖なる讃歌を
常に敬虔に読誦する人の家には、
恐るべき発疹病の脅威は
決して生じることがない。
逐語訳:
- अष्टकम् (aṣṭakam) - 八詩節からなる讃歌、アシュタカ(中性名詞単数対格)
- शीतलादेव्याः (śītalādevyāḥ) - シータラー女神の(女性名詞単数属格)
- यः (yaḥ) - 〜する者(関係代名詞、男性単数主格)
- नरः (naraḥ) - 人、男性(男性名詞単数主格)
- प्रपठेत् (prapaṭhet) - 朗誦する、正しく読誦する(接続法現在形、3人称単数)
- सदा (sadā) - 常に、いつも(不変化詞)
- विस्फोटक (visphoṭaka) - 発疹、水疱、天然痘(男性名詞)
- भयम् (bhayam) - 恐怖、危険、脅威(中性名詞単数対格)
- घोरम् (ghoram) - 恐ろしい、激しい、恐るべき(形容詞、中性単数対格)
- गृहे (gṛhe) - 家に、住居に(中性名詞単数所格)
- तस्य (tasya) - その人の、彼の(指示代名詞、男性単数属格)
- न (na) - 〜ない(否定辞)
- जायते (jāyate) - 生じる、発生する、生まれる(現在形、3人称単数)
解説:
第10節は、 シータラー讃歌全体の締めくくりとして、この聖なるテキストの実践的効果と利益を明示しています。「अष्टकम्」(aṣṭakam)「八詩節からなる讃歌」という表現は、インドの宗教詩文学において重要な形式の一つです。一般に「अष्टक」(aṣṭaka)は、完全性や充足を象徴する数字「8」に基づく独立した瞑想的・儀礼的単位として機能します。
この節は、第9節の深遠な霊的次元(「死が訪れない」という不死の境地)から、より日常的で実用的な次元へと讃歌を着地させています。第9節が内的瞑想(「सञ्चिन्तयेत्」sañcintayet)を通じた霊的解放を強調していたのに対し、ここでは「प्रपठेत्」(prapaṭhet)「朗誦する」という外的実践が示されています。この語は単なる音読ではなく、正確な発音と深い敬意を伴う儀礼的朗誦を意味し、「सदा」(sadā)「常に」という表現と結びついて、継続的な信仰実践の重要性を示しています。
特筆すべきは「गृहे」(gṛhe)「家に」という表現です。これにより保護の範囲が個人から家族全体へと拡大し、 シータラー女神の守護が社会的単位としての家庭にまで及ぶことが示されています。この社会的次元の強調は、第7節の「नृणाम्」(nṛṇām)「人々の」という表現と響き合い、女神の保護が個人的領域を超えて共同体全体に広がることを再確認しています。
「विस्फोटक」(visphoṭaka)は古典インドでは特に天然痘を指す用語として用いられ、第6節の「प्रस्फोट」(prasphoṭa)と語源的に関連しています。このように最終節で再び発疹性疾患への言及があることで、讃歌は円環構造を形成し、 シータラー女神の主要な守護領域を再確認しています。
この讃歌は、具体的な発疹性疾患からの守護という現世利益(第1-6節)から、精神的・霊的変容の道(第7-9節)へと昇華し、最後に再び現世利益に立ち返りながらも、その効力の源泉が継続的な信仰実践にあることを示しています。この構造を通じて、物質的・精神的両次元における女神の完全な保護力が描き出されているのです。
第11節
श्रोतव्यं पठितव्यं च श्रद्धाभक्तिसमन्वितैः ।
उपसर्गविनाशाय परं स्वस्त्ययनं महत् ॥ ११॥
śrotavyaṃ paṭhitavyaṃ ca śraddhābhaktisamanvitaiḥ ।
upasargavināśāya paraṃ svastyayanaṃ mahat ॥ 11॥
聴聞され、読誦されるべきこの讃歌は、
信仰と献身を備えた者たちによって実践され、
あらゆる災厄を滅するための
最高にして偉大な祝福の源泉である。
逐語訳:
- श्रोतव्यम् (śrotavyam) - 聴聞されるべき(義務分詞、中性単数主格)
- पठितव्यम् (paṭhitavyam) - 読誦されるべき(義務分詞、中性単数主格)
- च (ca) - そして(接続詞)
- श्रद्धा (śraddhā) - 信仰、敬虔な信頼
- भक्ति (bhakti) - 献身、帰依
- समन्वितैः (samanvitaiḥ) - 備えた、具えた(形容詞、男性複数具格)
- उपसर्ग (upasarga) - 災難、障害、疫病
- विनाशाय (vināśāya) - 破壊のために、消滅のために(男性名詞単数与格)
- परम् (param) - 最高の、究極の(形容詞、中性単数主格)
- स्वस्त्ययनम् (svastyayanam) - 祝福、幸福をもたらす儀式、吉祥(中性名詞単数主格)
- महत् (mahat) - 偉大な、強力な(形容詞、中性単数主格)
解説:
第11節は シータラー讃歌の総括として、このテキストの実践方法と究極的効果を明示しています。テキストの冒頭で疫病からの守護を祈願していた讃歌は、最終節でその実践的側面を強調することで完結します。
「श्रोतव्यम्」(śrotavyam)「聴聞されるべき」と「पठितव्यम्」(paṭhitavyam)「読誦されるべき」の二つの義務分詞は、ヴェーダの伝統における「श्रवण」(śravaṇa)「聴聞」と「स्वाध्याय」(svādhyāya)「自己修学」の二つの実践方法を反映しています。これは第10節の「प्रपठेत्」(prapaṭhet)「朗誦する」という実践をさらに発展させ、受動的聴聞と能動的読誦の両面からの関わりを求めています。
「श्रद्धाभक्तिसमन्वितैः」(śraddhābhaktisamanvitaiḥ)は実践者の精神的態度を表します。「श्रद्धा」(śraddhā)は真理への揺るぎない信頼、「भक्ति」(bhakti)は神への愛と献身を意味し、これら二つが結合した状態が効果的な実践の前提条件となります。この表現は第8節の完全な献身(「त्वामेकाम्...नान्याम्」tvāmekām...nānyām)を思い起こさせます。
「उपसर्ग」(upasarga)は「災厄」「障害」を意味し、第6節の「दुःख」(duḥkha)「苦しみ」や第10節の「विस्फोटक」(visphoṭaka)「発疹病」よりも広い範囲の苦難を包含する言葉です。これにより、 シータラー女神の守護範囲が特定の疾病を超え、人生のあらゆる困難に及ぶことが示唆されています。
「स्वस्त्ययनम्」(svastyayanam)は「स्वस्ति」(svasti)「幸福」「平安」から派生した語で、吉祥と祝福をもたらす儀礼や手段を意味します。これが「परम्」(param)「最高の」と「महत्」(mahat)「偉大な」という二つの形容詞で飾られていることは、この讃歌の卓越した効力を強調しています。
この最終節は、 シータラー讃歌が単なる詩的表現を超え、正しい精神的態度で実践されれば確実な効果をもたらす霊的技法であることを明らかにしています。第9節で示された「死の超越」という究極的目標への道は、ここで明示される「聴聞」と「読誦」という日常的実践を通じて可能となるのです。この相互関係の強調により、讃歌は神聖な力と人間の意識を結ぶ生きた通路として機能することが示されています。
第12節
शीतले त्वं जगन्माता शीतले त्वं जगत्पिता ।
शीतले त्वं जगद्धात्री शीतलायै नमो नमः ॥ १२॥
śītale tvaṃ jaganmātā śītale tvaṃ jagatpitā ।
śītale tvaṃ jagaddhātrī śītalāyai namo namaḥ ॥ 12॥
シータラーよ、あなたは宇宙の母です
シータラーよ、あなたは宇宙の父です
シータラーよ、あなたは宇宙を支える方です
シータラー女神に、幾重にも幾重にも礼拝を捧げます
逐語訳:
- शीतले (śītale) - シータラーよ(女性名詞単数呼格)
- त्वम् (tvam) - あなたは(二人称単数主格)
- जगन्माता (jaganmātā) - 宇宙の母(複合語、女性名詞単数主格)
- शीतले (śītale) - シータラーよ(女性名詞単数呼格)
- त्वम् (tvam) - あなたは(二人称単数主格)
- जगत्पिता (jagatpitā) - 宇宙の父(複合語、男性名詞単数主格)
- शीतले (śītale) - シータラーよ(女性名詞単数呼格)
- त्वम् (tvam) - あなたは(二人称単数主格)
- जगद्धात्री (jagaddhātrī) - 宇宙を支える者、宇宙の養育者(複合語、女性名詞単数主格)
- शीतलायै (śītalāyai) - シータラーに(女性名詞単数与格)
- नमः नमः (namaḥ namaḥ) - 礼拝、重ねての礼拝(不変化詞の繰り返し)
解説:
第12節は シータラー讃歌の壮麗な結論として、女神の超越的本質を三重の称賛で荘厳に表現しています。この三重構造は、インド思想における「त्रिवृत्ति」(trivṛtti)「三重化」の原理を反映し、完全性の象徴となっています。第11節で説かれた「श्रद्धा」(śraddhā)「信仰」と「भक्ति」(bhakti)「献身」が、この節では三度の呼びかけと二重の礼拝という具体的表現となって現れています。
「जगन्माता」(jaganmātā)「宇宙の母」と「जगत्पिता」(jagatpitā)「宇宙の父」という対照的称号の併置は非常に重要です。これはヒンドゥー教における「अर्धनारीश्वर」(ardhanārīśvara)「半女半男の神」の概念を想起させ、 シータラー女神が性の二元性を超えた全体性を体現することを示しています。この統合的視点は第9節の「臍と心臓の間」という微細な個人的次元から、ここでは宇宙的次元へと拡大されています。
「जगद्धात्री」(jagaddhātrī)という称号は、単に宇宙を物理的に支えるだけでなく、「धा」(dhā)「保持する、滋養を与える」という語根から、万物に生命力を供給し続ける永続的な養育力を意味します。これは第6節の「अमृतवर्षिणी」(amṛtavarṣiṇī)「甘露を降らす者」という側面の宇宙論的展開と見ることができます。
「नमो नमः」(namo namaḥ)の二重の礼拝は、「एकं न परिपूर्णम्」(ekaṃ na paripūrṇam)「一度では完全ではない」というヒンドゥー儀礼の原則に基づいています。この重複は第10節の「常に」(सदा, sadā)読誦するという実践と呼応し、継続的かつ全身全霊を込めた帰依の姿勢を表しています。
この節により、疫病の守護神として始まった シータラー女神の姿は、宇宙の創造・維持・養育の源としての普遍的神性へと昇華され、讃歌全体が個別的保護から宇宙的救済へという霊的成長の道筋を描き出す完全な構造を獲得しています。
第13節
रासभो गर्दभश्चैव खरो वैशाखनन्दनः ।
शीतलावाहनश्चैव दूर्वाकन्दनिकृन्तनः ॥ १३॥
rāsabho gardabhaścaiva kharo vaiśākhanandanaḥ ।
śītalāvāhanaścaiva dūrvākandanikṛntanaḥ ॥ 13॥
驢馬、実にこれぞロバとも称される獣にして、ヴァイシャーカ月に喜びをもたらす者、
シータラー女神の神聖なる乗り物にして、ドゥールヴァー草の根を摘み取る者なり。
逐語訳:
- रासभः (rāsabhaḥ) - 驢馬、ロバ(男性名詞単数主格)
- गर्दभः (gardabhaḥ) - 驢馬、ロバ(男性名詞単数主格)
- च (ca) - そして(接続詞)
- एव (eva) - まさに、実に(強調詞)
- खरः (kharaḥ) - 驢馬、ロバ(男性名詞単数主格)
- वैशाखनन्दनः (vaiśākhanandanaḥ) - ヴァイシャーカ月に喜びをもたらす者(複合語、男性名詞単数主格)
- शीतलावाहनः (śītalāvāhanaḥ) - シータラー女神の乗り物(複合語、男性名詞単数主格)
- च (ca) - そして(接続詞)
- एव (eva) - まさに、実に(強調詞)
- दूर्वाकन्दनिकृन्तनः (dūrvākandanikṛntanaḥ) - ドゥールヴァー草の根を切り取る者(複合語、男性名詞単数主格)
解説:
第13節は、前節で宇宙的な次元で讃えられた シータラー女神の、より具体的な図像学的側面に焦点を当てています。特に女神の「वाहन」(vāhana)「神聖な乗り物」であるロバが詳細に描写されています。
この節で特筆すべきは、「रासभ」(rāsabha)、「गर्दभ」(gardabha)、「खर」(khara)という三つの同義語を用いてロバを表現していることです。この技法は「नामावली」(nāmāvalī)「名前の連なり」と呼ばれ、対象の多面的性質を照らし出し、その重要性を強調します。インドの神話的伝統において、名前の繰り返しは単なる修辞ではなく、その存在の本質的力を喚起するための呪術的な効果も持ちます。
「वैशाखनन्दन」(vaiśākhanandana)という表現は特に注目に値します。ヴァイシャーカ月(旧暦2月、現在の4月中旬から5月中旬頃)はインドの暑季の始まりであり、疫病が流行しやすい時期です。このような危機的な季節に「喜びをもたらす者」としてのロバは、 シータラー女神の予防的・治癒的役割を体現しています。これは第6節で言及された「अमृतवर्षिणी」(amṛtavarṣiṇī)「甘露を降らす者」という女神の性質と呼応しています。
「दूर्वाकन्दनिकृन्तन」(dūrvākandanikṛntana)という複合語も深い象徴性を持っています。ドゥールヴァー草(「दूर्वा」dūrvā, Cynodon dactylon)はヒンドゥー教において不死と再生を象徴する聖なる草であり、多くの儀式で吉祥の象徴として用いられます。ロバがこの草の根を摘む姿は、表面的には単なる動物の習性ですが、象徴的には病の根を断ち切る シータラー女神の力を表しています。
前節(第12節)では、 シータラー女神が宇宙の創造・維持の源として超越的に描かれていましたが、この第13節では彼女が選んだ乗り物という形で、より親しみやすい民俗的な側面が示されています。素朴なロバが選ばれているという事実自体が、 シータラー女神が庶民の間で崇拝され、日常的な苦難から人々を守る親しみやすい神性として機能していることを示しています。
第14節
एतानि खरनामानि शीतलाग्रे तु यः पठेत् ।
तस्य गेहे शिशूनां च शीतलारुङ् न जायते ॥ १४॥
etāni kharanāmāni śītalāgre tu yaḥ paṭhet ।
tasya gehe śiśūnāṃ ca śītalāruṅ na jāyate ॥ 14॥
これらのロバの神聖なる称号を シータラー女神の御前で唱える者の家には、
子供たちに シータラー病(天然痘)が決して生じることはない。
逐語訳:
- एतानि (etāni) - これらを(指示代名詞、中性複数対格)
- खरनामानि (kharanāmāni) - ロバの名前、ロバに関する称号(複合語、中性複数対格)
- शीतलाग्रे (śītalāgre) - シータラー女神の前で(複合語、女性名詞単数所格)
- तु (tu) - そして、また(強調の不変化詞)
- यः (yaḥ) - 〜する者は(関係代名詞、男性単数主格)
- पठेत् (paṭhet) - 読誦するであろう(動詞√paṭh「読む」の希求法、3人称単数形)
- तस्य (tasya) - 彼の(指示代名詞、男性単数属格)
- गेहे (gehe) - 家で(男性名詞単数所格)
- शिशूनां (śiśūnāṃ) - 子供たちの(男性名詞複数属格)
- च (ca) - そして(接続詞)
- शीतलारुङ् (śītalāruṅ) - シータラー病、天然痘(複合語、女性名詞単数主格)
- न (na) - 〜ない(否定詞)
- जायते (jāyate) - 生じる、発生する(動詞√jan「生まれる」の現在形、3人称単数アートマネーパダ)
解説:
第14節は、前節で詳述されたロバの諸称号の実践的価値を明示し、讃歌の神聖な保護力を具体的な日常生活における効果として提示しています。
「एतानि खरनामानि」(etāni kharanāmāni)「これらのロバの称号」という表現は、前節で列挙された「रासभ」(rāsabha)、「गर्दभ」(gardabha)、「खर」(khara)などの名称を直接指し示しています。これらの言葉は単なる動物の呼び名を超え、マントラとしての霊的力を持つ神聖な名称と見なされています。マントラの伝統では、名前を唱えることはその本質の活性化を意味し、ここでは女神の乗り物への呼びかけが女神自身の力を招来すると理解されます。
「शीतलाग्रे」(śītalāgre)「 シータラー女神の御前で」という表現は重要な儀礼的文脈を示しています。これは単に物理的な場所を示すのではなく、女神の聖像や祭壇の前で行われる敬虔な実践、すなわち「हवन」(havana)「供物の奉献」や「प्रार्थना」(prārthanā)「祈願」という儀礼的枠組みの中での唱誦を意味します。これは第11節の「श्रोतव्यं पठितव्यं च」(śrotavyaṃ paṭhitavyaṃ ca)「聴聞され、読誦されるべき」という教えの具体的実践形態です。
特に注目すべきは「शिशूनां」(śiśūnāṃ)「子供たちの」という言及です。伝統的にインドでは、天然痘などの発疹性疾患は子供たちに特に壊滅的な被害をもたらしてきました。「शीतला」(śītalā)という名前自体が「冷たい、冷やす」を意味する「शीतल」(śītala)から派生しており、発熱や炎症を鎮める女神の治癒力を示唆しています。
「शीतलारुङ्」(śītalāruṅ)という複合語は「शीतला」(śītalā)と「रुज्」(ruj「病気」)からなり、文字通りには「 シータラー(が関わる)病」を意味します。この表現は女神の両義的性質を示唆しています。つまり、彼女は病を引き起こす力と同時に、それを鎮める力も持つという、インド民間信仰に特徴的な「संहारक-पालक」(saṃhāraka-pālaka)「破壊者にして保護者」という二面性です。
この節は第11節の「उपसर्गविनाशाय」(upasargavināśāya)「災厄を滅するため」という約束の具体的実現として、讃歌の実践が特に脆弱な子供たちを疫病から守る実用的手段であることを示しています。神話的表現を通じて、この讃歌が日常生活における具体的な治癒と予防の技法として機能するという、インド宗教思想特有の霊性と実用性の融合を見事に示しているのです。
第15節
शीतलाष्टकमेवेदं न देयं यस्यकस्यचित् ।
दातव्यं च सदा तस्मै श्रद्धाभक्तियुताय वै ॥ १५॥
śītalāṣṭakamevedaṃ na deyaṃ yasyakasyacit ।
dātavyaṃ ca sadā tasmai śraddhābhaktiyutāya vai ॥ 15॥
この シータラー八節讃歌は、決して誰彼構わず授けるべきではない。
誠に、常に信仰と献身を兼ね備えたる者にのみ授けらるべきものなり。
逐語訳:
- शीतलाष्टकम् (śītalāṣṭakam) - シータラー八節讃歌(複合語、中性名詞単数主格)
- एव (eva) - まさに、だけ(強調の不変化詞)
- इदम् (idam) - これは(指示代名詞、中性単数主格)
- न (na) - 〜ない(否定辞)
- देयम् (deyam) - 与えられるべき(義務分詞、中性単数主格)
- यस्यकस्यचित् (yasyakasyacit) - 誰彼構わず、区別なく(複合語、男性単数属格)
- दातव्यम् (dātavyam) - 授けられるべき(義務分詞、中性単数主格)
- च (ca) - そして(接続詞)
- सदा (sadā) - 常に(不変化詞)
- तस्मै (tasmai) - その人に(指示代名詞、男性単数与格)
- श्रद्धाभक्तियुताय (śraddhābhaktiyutāya) - 信仰と献身を備えた者に(複合語、男性単数与格)
- वै (vai) - 誠に、確かに(強調の不変化詞)
解説:
第15節は、 シータラー讃歌の総括として、この神聖な知識の相応しい伝授法を説いています。これはヒンドゥー教の「गुप्तविद्या」(guptavidyā)「秘伝の知識」という概念を反映し、霊的教えは厳格な資格審査を経て伝授されるべきという原則を示しています。
「शीतलाष्टक」(śītalāṣṭaka)という呼称は注目に値します。「अष्टक」(aṣṭaka)は「八つで構成される集成」を意味しますが、実際には全15節から成っています。これには二つの解釈が可能です。一つは、元来8節の短い形式から始まり後に拡張されたという歴史的発展、もう一つは「अष्टक」が単に「一連の」「集成」という広義で使われているという可能性です。サンスクリット文学では「अष्टपदी」(aṣṭapadī)のように、数字が象徴的に使われることも珍しくありません。
「यस्यकस्यचित्」(yasyakasyacit)という表現は、識別なく無差別に知識を授けることへの警告です。これは第14節で説かれた讃歌の保護力が、単なる機械的な朗誦ではなく、適切な内的態度と結びついてこそ発揮されるという教えを補強しています。
特に重要なのは「श्रद्धाभक्तियुत」(śraddhābhaktiyuta)という表現です。これは第11節で強調された「श्रद्धा」(śraddhā)「信仰」と「भक्ति」(bhakti)「献身」という二つの資質を併せ持つ理想的な受容者を指します。この二つの徳目は、天然痘の恐ろしい苦痛(第14節)から守られるための内的条件として示されています。
この節はまた、前節までに説かれた女神への崇拝方法が「गुरुशिष्यपरम्परा」(guruśiṣyaparamparā)「師弟相承」という伝統的な枠組みで継承されるべきことを示唆しています。知識は「विद्यादान」(vidyādāna)「知恵の贈与」として、単なる情報ではなく変容をもたらす力として理解されているのです。
シータラー讃歌は極めて実践的な保護と治癒の手段でありながら、同時に深い霊的次元を持ち、適切な内的準備と姿勢を持った者だけが完全にその恩恵を受けられるという、インド宗教思想特有の実用性と霊性の両立を美しく体現しています。この最終節は、全讃歌の霊的効力の鍵が「श्रद्धा」と「भक्ति」にあることを改めて強調する締めくくりとなっています。
【奥付】
॥ इति श्रीस्कन्दपुराणे शीतलाष्टकं सम्पूर्णम् ॥
॥ iti śrīskandapurāṇe śītalāṣṭakaṃ sampūrṇam ॥
かくして、聖スカンダ・プラーナより伝わる シータラー八節讃歌は、ここに完全に終わる。
逐語訳:
- इति (iti) - このように、かくして(終了を示す不変化詞)
- श्री (śrī) - 聖なる、吉祥なる(尊称の接頭辞)
- स्कन्दपुराणे (skandapurāṇe) - スカンダ・プラーナにおいて(複合語、男性名詞単数所格)
- शीतलाष्टकम् (śītalāṣṭakam) - シータラー八節讃歌(複合語、中性名詞単数主格)
- सम्पूर्णम् (sampūrṇam) - 完全に終わる、完結した(形容詞、中性単数主格)
解説:
この奥付はサンスクリット文献特有の「कोलोफोन」(kolophona)と呼ばれる結語で、聖典の出所と正統性を明示する重要な役割を担っています。二重縦線「॥」で囲まれた形式は、古代インドの写本の時代から継承された聖典の始終を厳格に区切る伝統的表記法です。
興味深いのは、全15節から成る讃歌が「शीतलाष्टक」(śītalāṣṭaka)「 シータラー八節讃歌」と称されている点です。これは数の不一致ではなく、インド思想における「अष्ट」(aṣṭa)「八」という数字の象徴的意味を反映しています。八という数字は完全性を表し、「अष्टाङ्गयोग」(aṣṭāṅgayoga)「八支則のヨーガ」や「अष्टलक्ष्मी」(aṣṭalakṣmī)「八相のラクシュミー女神」のように、総合的・完成的な体系を示す象徴として用いられます。
この簡潔な奥付は、ヒンドゥー教の口承と文献伝承の長い連なりの中に、 シータラー女神への信仰と実践を位置づけ、その神聖な守護の力が現代にも連綿と続いていることを静かに証言しています。
最後に
シータラーシュタカムは、その名の通り「八(アシュタ)」の詩節を中心に構成された讃歌として伝わりながら、実際には15節にも及ぶ豊かな内容を持っています。これは、単に発疹性疾患をはじめとする病の克服を願う祈りにとどまらず、生命を巡る深遠な神秘と、女神への全身全霊の帰依(きえ)を説く包括的な教えへと昇華した結果といえます。冒頭のヴィニヨーガ(使用説明)では、讃歌の啓示者(リシ)をシヴァ神と位置づけ、アヌシュトゥプという韻律を明示しつつ、その核心的な「種子音(ビージャ)」や「力(シャクティ)」を示すことで、単なる文字列を超えた霊的実践としての性格を強調しています。
また本文では、ロバを乗り物とする女神の素朴な図像表現や「シータラー(冷却する者)」という名にふさわしく、灼熱による苦しみを冷ます偉大な力が繰り返し説かれます。特に天然痘のような発疹性疾患に象徴される熱病への恐怖は、前近代の人々にとって生死を左右する重大問題でした。その中でシータラー女神は、病をもたらす力と同時にそれを鎮める力をも併せ持つ「二面性の権現」として崇敬され、痛みと不安を一挙に取り除く「生命を蘇らせる霊薬」として信仰を集めてきました。
本讃歌の終盤では、単なる現世的な病気平癒だけでなく、より深遠な霊的次元—死をも超克する不死の境地や、神との合一までが示唆されます。こうした壮大な宇宙観は、第12節で「宇宙の母であり父であり、万物を支える方」として女神が讃えられる場面に顕著です。一方で、第13節以降に再びロバの諸名を列挙する民俗的・土着的な描写が続く構成は、まさにシータラー信仰が日常生活に根ざし、具体的な守護力を期待される存在であることを如実に示しています。
最終節では、「讃歌を他人に授ける際の注意」が説かれ、信仰と献身を兼ね備えた者にのみ伝授されるべき秘教的性格が強調されます。これは、ただ唱えるだけではなく、女神への敬虔な想いをもって望むことで初めて、その強力な救済力が真に発揮されることを示唆しています。
こうしてシータラーシュタカムは、病気への直接的な対処法を示す民俗宗教の面と、内的瞑想や不死への志向という高次の霊的理想を兼ね備えた、きわめて多層的なテキストとして今日まで読み継がれてきました。発疹性疾患をはじめとする苦しみにさらされながらも、女神の「冷却の恵み」への篤い信仰が、人々の心に安寧と再生の希望をもたらし続けているのです。まさにこの讃歌は、深遠な哲学と民衆の切実な祈りを繋ぐ“生きた伝承”といえるでしょう。
参照文献:
"Shiitalaashtakam." Sanskrit Documents, sanskritdocuments.org/doc_devii/shiitalaashtakam.html.
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