はじめに
「ラーマ・ラクシャー・ストートラ」(श्रीरामरक्षास्तोत्रम्)、すなわち「ラーマ守護の讃歌」は、古代インドの聖賢ブダカウシカによって編まれたと伝えられる、ヒンドゥー教の霊的伝統において深く敬愛され、無数の信者によって日々唱えられている聖なる祈祷文です。その名は「ラーマによる守護」を意味し、この讃歌が持つとされる強力な保護の力を端的に示しています。
この讃歌の中心におられるのは、壮大な叙事詩『ラーマーヤナ』の主人公であり、至高神ヴィシュヌの第七の化身(アヴァターラ)とされるラーマ神です。彼は理想的な王、息子、兄弟、夫として描かれ、何よりも正義と義務を意味する「ダルマ」の完璧な体現者として崇拝されています。ラーマ神の揺るぎない誠実さ、勇気、慈悲、そして自己犠牲の精神は、時代を超えて人々に霊的な指針と道徳的な模範を与え続けてきました。
「ラーマ守護の讃歌」の核心は、その卓越した守護力にあります。伝統的に、このストートラを揺るぎない信仰(シュラッダー)と献身的な愛(バクティ)をもって唱える者は、病気、事故、恐怖、不安、そして悪霊や否定的なエネルギーの影響といった、あらゆる内外の困難から守られると深く信じられています。日々の礼拝の一部として、あるいは人生の試練に直面した際に唱えることで、信者はラーマ神の神聖な加護の力場に包まれ、内なる強さと平安を見出すことができるとされています。
讃歌の構成は、まずラーマ神の荘厳で慈悲深い姿を心に深く観想(ディヤーナ)することから始まります。続いて、身体の各部位をラーマ神の様々な御名や属性が保護するように祈願する「カヴァチャ」(霊的な鎧)の形式へと展開し、全身全霊が神聖な力で覆われるよう祈ります。さらに、ラーマ・マントラの秘められた力や、讃歌を唱えることによる現世的および霊的な恩恵が語られます。
ヒンドゥー教の宇宙観では、言葉(ヴァーク)とその響き(シャブダ)は創造的な力を持ち、宇宙の根源的な実在(ブラフマン)と繋がっていると考えられています(シャブダ・ブラフマン)。そのため、この讃歌を正確な発音と適切な抑揚で、心を込めて唱えることが、その霊的な効果を最大限に引き出す鍵とされています。
この神聖な讃歌に親しむにあたり、単なる機械的な暗唱に留まるのではなく、一節一節に込められた深い意味を理解し、ラーマ神への純粋な信愛の心で唱えることが極めて重要です。それは、単に外面的な保護や個人的な利益を求める行為を超え、自己の内面を浄化し、霊的な覚醒と成長を促すための、尊い精神修養(サーダナ)の実践となるでしょう。
古代の聖賢が遺したこの深遠なる叡智の結晶、ラーマ・ラクシャー・ストートラ。その原文であるサンスクリット語の言葉一つひとつに触れ、その響きと意味を深く理解することを通して、私たちはラーマ神の時代を超えた普遍的な守護、揺るぎない心の平安、そして聖なる存在との深遠な繋がりを、より確かな実感として体験することができるでしょう。それでは、その神聖な原文の世界へと入ってまいりましょう。
表題
श्रीरामरक्षास्तोत्रम्
śrīrāmarakṣāstotram
聖なるラーマ守護の讃歌
逐語訳:
- श्री (śrī) - 聖なる、吉祥なる、神聖な
- राम (rāma) - ラーマ(ヴィシュヌ神の化身)
- रक्षा (rakṣā) - 保護、守護
- स्तोत्रम् (stotram) - 讃歌、賛美歌
解説:
「श्रीरामरक्षास्तोत्रम्」(śrīrāmarakṣāstotram)は、ヒンドゥー教の伝統における最も力強く神聖な守護の祈祷文の一つです。このタイトル自体が、その本質と目的を明確に表しています。
「श्री」(śrī)は、尊敬と吉祥を表す接頭辞で、神聖なるものに対して用いられます。単なる敬意を超え、神的な光輝と恩寵を象徴しています。「राम」(rāma)は、叙事詩『ラーマーヤナ』の主人公であり、ヴィシュヌ神の第7の化身とされる神格です。ラーマは、ダルマ(धर्म, dharma・正義・義務)の体現者として、理想的な王、息子、兄弟、夫の象徴として崇敬されています。
「रक्षा」(rakṣā)は「保護」を意味し、この讃歌の中心的な目的を示しています。「स्तोत्रम्」(stotram)は「讃歌」を意味し、韻律と神聖な音の力を通じて神の恩寵を呼び起こす詩的形式です。
この讃歌は伝承によれば、古代の聖者ブダカウシカ仙人 (बुधकौशिक, budhakaúśika) によって作られたとされています。ラーマ神への深い信愛と献身から生まれたこの詩は、朗誦することで信者をあらゆる危険、病、悪霊、不運から守る力があると考えられています。朝夕の祈りの時間や困難な状況に直面したときに唱えられることが多く、古来より家庭の守護、旅の安全、精神的な保護などを求めて実践されてきました。
ヒンドゥー教の伝統において、音の力「शब्द ब्रह्म」(śabda brahma)は特別な重要性を持ちます。この讃歌を正確な発音で唱えることにより、宇宙の根源的な振動と調和し、その保護力を最大限に引き出すとされています。また、各詩節には特定のチャクラ(चक्र, cakra・エネルギーセンター)やプラーナ(प्राण, prāṇa・生命エネルギー)の流れに働きかける音の配列が含まれているという解釈もあります。
この讃歌に向き合う際は、ラーマという神格の偉大さと守護の力を心に留めつつ、浄らかな心と信愛の姿勢で詩節を味わうことが伝統的に勧められています。また、ラーマの物語を通じて、人生の試練を乗り越える強さと知恵を学ぶ機会としても、この讃歌は深い価値を持っています。
導入句
॥ ॐ श्रीगणेशाय नमः ॥
॥ oṃ śrīgaṇeśāya namaḥ ॥
オーム、聖なるガネーシャに敬意を表します。
逐語訳:
- ॐ (oṃ) - オーム(宇宙の根源音)
- श्री (śrī) - 聖なる、尊い、吉祥なる
- गणेशाय (gaṇeśāya) - ガネーシャに(与格)
- नमः (namaḥ) - 敬意を表します、礼拝します
解説:
この祈りの言葉は、「श्रीरामरक्षास्तोत्रम्」(śrīrāmarakṣāstotram)の本文に入る前の神聖な導入句です。二重縦線「॥」で囲まれた形式は、これが独立した神聖な宣言であることを示しています。
「ॐ」(oṃ)は宇宙の根源的な振動を表す神聖な音節で、創造・維持・消滅の全宇宙的サイクルが包含されているとされます。この音で祈りを始めることで、宇宙の根源的な力と調和し、祈りの効力を高めると考えられています。
「श्रीगणेश」(śrīgaṇeśa)は象の頭を持つヒンドゥー教の重要な神格で、知恵と学問の神、そして「障害の除去者」(विघ्नहर्ता, vighnahartā)として崇拝されています。「श्री」(śrī)は神聖さと吉祥を表す接頭辞です。ラーマ神を讃える前にガネーシャに祈りを捧げるのは、ヒンドゥー教の伝統では、いかなる宗教的実践も、まずガネーシャへの礼拝から始めるべきとされているためです。
「नमः」(namaḥ)は単なる挨拶ではなく、神聖なる存在への完全な帰依と自己放棄を表現する言葉です。語源的には「自分自身をないものにする」という意味を持ち、神の前での完全な謙虚さを示しています。
この短い一節には、ヒンドゥー思想の本質的な側面が凝縮されています。宇宙の根源的な振動への共鳴、障害を取り除く神への信頼、そして深い謙虚さの表明は、これから始まるラーマへの讃歌を正しく唱えるための精神的準備となります。
ガネーシャはシヴァ神とパールヴァティー女神の息子であり、ラーマとは直接の関係はありませんが、ヒンドゥー教の神話体系において重要な位置を占めています。ラーマ讃歌の前にガネーシャに祈ることで、朗誦の障害が取り除かれ、完全な形で讃歌の功徳が得られると信じられています。このように、異なる神格への礼拝が互いに補完し合う調和した宇宙観こそ、ヒンドゥー教の特徴的な側面といえるでしょう。
適用法
अस्य श्रीरामरक्षास्तोत्रमन्त्रस्य । बुधकौशिक ऋषिः ।
श्रीसीतारामचन्द्रो देवता । अनुष्टुप् छन्दः ।
सीता शक्तिः । श्रीमद् हनुमान कीलकम् ।
श्रीरामचन्द्रप्रीत्यर्थे रामरक्षास्तोत्रजपे विनियोगः ॥
asya śrīrāmarakṣāstotramantrasya | budhakaúśika ṛṣiḥ |
śrīsītārāmacandro devatā | anuṣṭup chandaḥ |
sītā śaktiḥ | śrīmad hanumān kīlakam |
śrīrāmacandraprītyarthe rāmarakṣāstotrajape viniyogaḥ ||
この「聖なるラーマ守護の讃歌」のマントラについて:
聖仙はブダカウシカ、神格は聖なるシーター・ラーマチャンドラ、
韻律はアヌシュトゥブ、力はシーター、鍵は栄光あるハヌマーン。
聖ラーマチャンドラを喜ばせるために、ラーマ守護の讃歌を唱えることがその用途である。
逐語訳:
- अस्य (asya) - この(属格)
- श्रीरामरक्षास्तोत्रमन्त्रस्य (śrīrāmarakṣāstotramantrasya) - 聖なるラーマ守護の讃歌のマントラの(属格)
- बुधकौशिक (budhakaúśika) - ブダカウシカ(人名)
- ऋषिः (ṛṣiḥ) - 聖仙(主格)
- श्रीसीतारामचन्द्रः (śrīsītārāmacandraḥ) - 聖なるシーター・ラーマチャンドラ(主格)
- देवता (devatā) - 神格(主格)
- अनुष्टुप् (anuṣṭup) - アヌシュトゥブ(韻律名、主格)
- छन्दः (chandaḥ) - 韻律(主格)
- सीता (sītā) - シーター(女神名、主格)
- शक्तिः (śaktiḥ) - シャクティ、力(主格)
- श्रीमद् (śrīmad) - 聖なる、栄光ある(形容詞)
- हनुमान् (hanumān) - ハヌマーン(主格)
- कीलकम् (kīlakam) - キーラカ、鍵(主格)
- श्रीरामचन्द्रप्रीत्यर्थे (śrīrāmacandraprītyarthe) - 聖ラーマチャンドラを喜ばせるために(位格)
- रामरक्षास्तोत्रजपे (rāmarakṣāstotrajape) - ラーマ守護の讃歌の唱誦において(位格)
- विनियोगः (viniyogaḥ) - 使用法、適用、用途(主格)
解説:
この前書きは「विनियोग」(viniyoga・適用法)と呼ばれる伝統的な形式で、マントラや讃歌の本質と使用法を明示しています。これはヴェーダの伝統において非常に重要な要素で、聖なる言葉を正しく効果的に用いるための枠組みを提供します。
「ऋषि」(ṛṣi・聖仙)はマントラを「見た」あるいは啓示として受け取った聖者を指します。ここでは「बुधकौशिक」(budhakaúśika・ブダカウシカ)とされています。前述のように、彼はラーマの深い帰依者であり、このストートラを通じてラーマの守護力を体現させた聖者です。
「देवता」(devatā・神格)は讃歌が向けられる神聖な存在を示します。ここでは「श्रीसीतारामचन्द्र」(śrīsītārāmacandra)、つまりシーター女神とラーマの神聖な結合体が崇拝の対象となっています。この表現はラーマとシーターが不可分の存在であるという深い真理を表しています。
「छन्द」(chanda・韻律)は詩的構造を指し、「अनुष्टुप्」(anuṣṭup)は8音節×4パーダから成る古典的韻律です。この韻律はサンスクリット文学で最も広く使われており、音の振動が心身に特定の効果をもたらすと考えられています。
「शक्ति」(śakti・力)はマントラの活性化エネルギーであり、ここではシーターが担っています。タントラの伝統では、シャクティなしにはどんな神的な力も顕現しないとされ、シーターはラーマの力の根源として認識されています。
「कीलक」(kīlaka・鍵)はマントラの効力を「解錠」する要素です。ハヌマーンがこの役割を担うことは、彼の無条件の奉仕と純粋な信愛がラーマの恩寵を受ける鍵であることを象徴しています。「श्रीमद्」(śrīmad)という修飾語は、ハヌマーンの吉祥さと栄光を強調しています。
「विनियोग」(viniyoga・用途)は、このマントラの実践目的を明示しています。特筆すべきは、その目的が「श्रीरामचन्द्रप्रीति」(śrīrāmacandraprīti・ラーマチャンドラを喜ばせること)とされていることです。これは物質的利益を超えた、神との純粋な愛の関係を確立することが究極の目的であることを示しています。
この前書きは単なる形式的な情報ではなく、唱える人の心を整え、正しい精神的な姿勢で讃歌に向き合うための準備として機能しています。それぞれの要素を深く理解することで、讃歌の朗誦はより効果的となり、神聖な保護と恩寵をもたらすと考えられています。
ディヤーナム
अथ ध्यानम् ।
ध्यायेदाजानुबाहुं धृतशरधनुषं बद्धपद्मासनस्थं
पीतं वासो वसानं नवकमलदलस्पर्धिनेत्रं प्रसन्नम् ।
वामाङ्कारूढ सीतामुखकमलमिलल्लोचनं नीरदाभं
नानालङ्कारदीप्तं दधतमुरुजटामण्डनं रामचन्द्रम् ॥
atha dhyānam |
dhyāyedājānubāhuṃ dhṛtaśaradhanuṣaṃ baddhapadmāsanasthaṃ
pītaṃ vāso vasānaṃ navakamalaladalaspardhinetraṃ prasannam |
vāmāṅkārūḍha sītāmukhakamalamialllocanaṃ nīradābhaṃ
nānālaṅkāradīptaṃ dadhatamurujatāmaṇḍanaṃ rāmacandram ||
さて、瞑想について。
膝まで伸びる腕を持ち、矢と弓を携え、蓮華座に安らい、
黄金の衣をまとい、新鮮な蓮弁のような目で穏やかに微笑む方を。
左膝にシーターを座らせ、その蓮の顔と視線を交わし、雨雲のような青い肌を持ち、
多様な装飾に輝き、豊かな螺髪を飾るラーマチャンドラを瞑想すべし。
逐語訳:
- अथ (atha) - さて、ここに
- ध्यानम् (dhyānam) - 瞑想、観想
- ध्यायेत् (dhyāyet) - 瞑想すべし(接続法、3人称単数)
- आजानु-बाहुम् (ājānu-bāhum) - 膝まで達する腕を持つ(対格)
- धृत-शर-धनुषम् (dhṛta-śara-dhanuṣam) - 矢と弓を持つ(対格)
- बद्ध-पद्मासन-स्थम् (baddha-padmāsana-stham) - 蓮華座(結跏趺坐)を組んで座している(対格)
- पीतम् (pītam) - 黄色い、黄金の(対格)
- वासः (vāsaḥ) - 衣服(対格)
- वसानम् (vasānam) - 身にまとう(対格、現在分詞)
- नव-कमल-दल-स्पर्धि-नेत्रम् (nava-kamala-dala-spardhi-netram) - 新鮮な蓮の花びらに匹敵する目を持つ(対格)
- प्रसन्नम् (prasannam) - 穏やかな、清らかな、喜びに満ちた(対格)
- वाम-अङ्क-आरूढ (vāma-aṅka-ārūḍha) - 左の膝(腿)に座らせている
- सीता-मुख-कमल-मिलल्-लोचनम् (sītā-mukha-kamala-milal-locanam) - シーターの蓮のような顔と視線を交わす(対格)
- नीरद-आभम् (nīrada-ābham) - 雨雲のような色合いの(対格)
- नाना-अलङ्कार-दीप्तम् (nānā-alaṅkāra-dīptam) - さまざまな装飾品で輝いている(対格)
- दधतम् (dadhatam) - 保持している、身につけている(対格、現在分詞)
- उरु-जटा-मण्डनम् (uru-jaṭā-maṇḍanam) - 豊かな螺髪の冠を持つ(対格)
- रामचन्द्रम् (rāmacandram) - ラーマチャンドラを(対格)
解説:
この節は「ध्यानम्」(dhyānam)、つまり瞑想の指針を示す重要な部分です。ヒンドゥー教の伝統では、マントラや讃歌の朗誦に先立ち、まず神格の具体的なイメージを心に描くことで、内的な繋がりを確立する慣習があります。これは単なる想像ではなく、神聖な実在との生きた交流を育む精神的実践です。
「आजानु-बाहु」(ājānu-bāhu)、膝まで達する長い腕は、古典的なサンスクリット文学における神聖な存在の特徴とされ、広大な守護力と慈悲の象徴です。同時に「धृत-शर-धनुष」(dhṛta-śara-dhanuṣa)、弓矢を手にする姿は、ラーマが邪悪な力から宇宙を守護する戦士としての側面を示しています。
「बद्ध-पद्मासन-स्थ」(baddha-padmāsana-stha)、蓮華座を組む姿は、ヨーガの達人としてのラーマを表し、外的な力と内的な静寂の完全な調和を象徴しています。ヨーガの実践者は、この瞑想を通じて自らの座法にもラーマの安定性を反映させることができます。
特に注目すべきは「सीता-मुख-कमल-मिलल्-लोचन」(sītā-mukha-kamala-milal-locana)という表現です。これは単に「シーターを見ている」ということではなく、「मिलल्」(milal)が示すように、神聖な夫婦の間の深い愛と調和の交流を表しています。シヴァとシャクティ、プルシャとプラクリティの宇宙的な結合がここに象徴されています。
「नीरद-आभ」(nīrada-ābha)、雨雲のような肌の青い色合いは、限りない宇宙の広がりを象徴すると同時に、恵みの雨をもたらす神の慈悲深さを暗示しています。「नाना-अलङ्कार-दीप्त」(nānā-alaṅkāra-dīpta)、多様な装飾の輝きは、神の無限の属性と栄光の可視的表現です。
この瞑想の実践を通じて、祈願者は外的な視覚イメージから内的な霊的実在へと意識を移行させます。初めは具体的なイメージとして描かれるラーマが、実践の深まりと共に、自己の内なる神聖な本質の目覚めへと導くのです。これが瞑想の真の目的であり、そこからこの讃歌の朗誦がより深い意味と力を帯びることになります。
結語
इति ध्यानम् ॥
iti dhyānam ॥
以上が瞑想の方法である。
逐語訳:
- इति (iti) - このように、以上
- ध्यानम् (dhyānam) - 瞑想、観想
- ॥ - 節の終わりを示す記号
解説:
この簡潔な句「इति ध्यानम्」(iti dhyānam)は、前節で詳述されたラーマチャンドラの瞑想法を締めくくる言葉です。「इति」(iti)は「このように」「以上のように」という意味を持ち、先述された内容を指し示す機能を果たしています。
ヒンドゥー教の瞑想実践において、この一文は単なる形式的な終わりの印ではなく、重要な精神的転換点を示します。先に描写された神聖なイメージ—膝まで伸びる腕を持ち、蓮華座に安らぎ、シーターと視線を交わすラーマの姿—が瞑想者の内的視野に確立されたことを意味するのです。
ダルシャナ(दर्शन, darśana・見ること)という概念が示すように、神格を「見る」行為は、単なる想像ではなく、神聖な存在との実在的な交流を意味します。「इति ध्यानम्」という締めくくりによって、瞑想者は外的な感覚世界から内的な精神世界へと意識を移行させ、ラーマの本質と自己の内的本質との調和点を確立します。
ヨーガの伝統では、このような瞑想(ध्यान, dhyāna)は、集中(धारणा, dhāraṇā)から始まり、最終的には三昧(समाधि, samādhi)へと深化する実践の中心的段階とされます。『ヨーガ・スートラ』が教えるように、対象と意識が一体となる状態がध्यान(dhyāna)であり、「इति ध्यानम्」はその成就を示唆しています。
また、伝統的なヴェーダの儀礼構造では、瞑想(ध्यान, dhyāna)から讃歌(स्तुति, stuti)へ、そして真言の反復(जप, japa)へと進む過程があります。この短い一文は、その最初の段階の完了と次の段階への準備が整ったことを表明しています。
この小さな句の背後には、形あるものから形なきものへ、具体的なイメージから抽象的な神性へと意識を高める精妙な霊的技法が息づいています。この瞑想が深まることで、後に続く「ラーマ守護の讃歌」の保護力が十全に顕現し、朗誦者の内外に神聖な守護の場が確立されるのです。
第1節
चरितं रघुनाथस्य शतकोटि प्रविस्तरम् ।
एकैकमक्षरं पुंसां महापातकनाशनम् ॥ १॥
caritaṃ raghunāthasya śatakoṭi pravistaram |
ekaikamakṣaraṃ puṃsāṃ mahāpātakanāśanam || 1 ||
ラグの王者(ラーマ)の生涯の物語は計り知れぬ広がりを持ち、
その一つ一つの音節は、人々の大いなる罪を消滅させる力を持つ。
逐語訳:
- चरितं (caritaṃ) - 物語、生涯、行状(中性単数主格)
- रघुनाथस्य (raghunāthasya) - ラグの主、ラーマの尊称(男性単数属格)
- शतकोटि (śatakoṭi) - 1億、無数、計り知れないほど多数の(śata=百、koṭi=1千万)
- प्रविस्तरम् (pravistaram) - 広大な、広がりを持つ、詳細に亘る(中性単数主格)
- एकैकम् (ekaikam) - 一つ一つの、それぞれの(中性単数主格)
- अक्षरं (akṣaraṃ) - 音節、文字、不滅のもの(中性単数主格)
- पुंसां (puṃsāṃ) - 人々の、人間たちの(男性複数属格)
- महापातक (mahāpātaka) - 大罪、重大な罪(中性)
- नाशनम् (nāśanam) - 破壊するもの、取り除くもの、消滅させるもの(中性単数主格)
解説:
「ラーマ守護の讃歌」の冒頭節は、先に示された瞑想(ध्यान, dhyāna)から自然に流れる形で、これから唱えられる讃歌の霊的効力の根拠を力強く宣言しています。前節で確立された神聖なラーマの内的視覚に続き、今度はその物語の広大さと音節の力が明らかにされるのです。
「रघुनाथ」(raghunātha・ラグの主)という呼称は、太陽王朝の栄えある系譜におけるラーマの位置づけを示しています。ラグ王は、ラーマの先祖であり、「ラグの子孫たちの物語」を意味する『ラグヴァンシャ』(रघुवंश, raghuvaṃśa)の主題ともなっている重要な王者です。この呼称は、ラーマがただの個人ではなく、偉大な王統の徳性と威厳を体現する存在であることを強調しています。
「शतकोटि प्रविस्तरम्」(śatakoṭi pravistaram)という表現は、単なる数量的な広がりではなく、質的な無限性を示しています。「शतकोटि」(śatakoṭi・1億)は、インドの伝統的な数学体系における巨大な数であり、比喩的に「無限」や「測り知れない」という概念を表現するために用いられます。この表現は、ラーマの物語が表面的な叙事詩を超えた、宇宙的真理の顕現であることを暗示しています。
特に重要なのは「अक्षर」(akṣara)という語の二重の意味です。表面的には「音節」や「文字」を意味しますが、語源的には「a(否定辞)+ kṣara(滅びるもの)」で「滅びないもの、永遠なるもの」という意味も含んでいます。この二重性により、ラーマの物語の各音節は単なる言語記号ではなく、永遠の真理を体現する生きた力として理解されます。
「महापातकनाशनम्」(mahāpātakanāśanam)における「महापातक」(mahāpātaka・大罪)は、ヒンドゥー教の倫理体系で特に重大視される五大罪(ブラーフマナ殺害、飲酒、窃盗、師の妻との不義、これらの罪を犯した者との交際)を含む重大な罪を指します。この讃歌が、そのような重罪さえも消し去る浄化力を持つと宣言されていることは、その霊的効力の強さを示しています。
この節は単なる序文ではなく、讃歌全体の本質を凝縮した宣言です。ラーマの生涯に体現された真理を心に刻み、その音節一つ一つを唱えることで、人間の存在そのものが浄化され、高められていくという、この讃歌の霊的基盤がここに確立されています。
第2節
ध्यात्वा नीलोत्पलश्यामं रामं राजीवलोचनम् ।
जानकीलक्ष्मणोपेतं जटामुकुटमण्डितम् ॥ २॥
dhyātvā nīlotpalaśyāmaṃ rāmaṃ rājīvalocanam |
jānakīlakṣmaṇopetaṃ jaṭāmukuṭamaṇḍitam || 2 ||
青蓮のような濃紺の肌を持ち、蓮華の如き眼差しを湛えるラーマを瞑想した後に、
シーターとラクシュマナを伴い、螺髪の冠で荘厳に飾られた御姿を心に描くべし。
逐語訳:
- ध्यात्वा (dhyātvā) - 瞑想してから、観想した後に(絶対分詞・完了分詞)
- नीलोत्पलश्यामं (nīlotpalaśyāmaṃ) - 青い蓮のような濃紺色の(対格形容詞、नील [nīla]=青い + उत्पल [utpala]=蓮 + श्याम [śyāma]=濃紺の)
- रामं (rāmaṃ) - ラーマを(対格)
- राजीवलोचनम् (rājīvalocanam) - 蓮の花のような目を持つ(対格形容詞、राजीव [rājīva]=蓮 + लोचन [locana]=目)
- जानकीलक्ष्मणोपेतं (jānakīlakṣmaṇopetaṃ) - ジャーナキー(シーター)とラクシュマナを伴った(対格形容詞)
- जटामुकुटमण्डितम् (jaṭāmukuṭamaṇḍitam) - 螺髪の冠で飾られた(対格形容詞)
解説:
第2節は、第1節で説かれた「ラーマの物語と音節の浄化力」を実際に体験するための精神的準備として、ラーマの神聖な姿を瞑想する方法を具体的に示しています。ここでの瞑想は、冒頭の「ध्यानम्」(dhyānam)部分と連続性を持ち、讃歌の効力を最大限に高めるための重要な実践として位置づけられています。
「ध्यात्वा」(dhyātvā)という絶対分詞は時間的順序を示し、讃歌の朗誦に先立ってラーマの神聖な姿を心に描くことの重要性を強調しています。この順序は形式的なものではなく、内的観想と外的朗誦の調和を通じて霊的体験を深める実践的指針です。
「नीलोत्पलश्याम」(nīlotpalaśyāma)という表現は、冒頭の瞑想部分で述べられた「नीरदाभ」(nīradābha・雨雲のような色合い)と響き合い、ラーマの肌の青色を詳述しています。この青色は単なる色彩描写ではなく、無限の宇宙空間を象徴し、ヴィシュヌ神の化身としてのラーマの神聖性を表しています。
「राजीवलोचन」(rājīvalocana)は、冒頭の「नवकमलदलस्पर्धिनेत्र」(navakamala-dala-spardhi-netra・新鮮な蓮弁のような目)と呼応し、ラーマの目の美しさと洞察力を強調しています。蓮の花びらのように伸びた目は、慈悲深さと鋭い認識力の両方を象徴しています。
「जानकीलक्ष्मणोपेत」(jānakīlakṣmaṇopeta)は、冒頭の「वामाङ्कारूढसीता」(vāmāṅkārūḍha sītā・左膝にシーターを座らせ)を発展させ、ラーマが妻シーターと弟ラクシュマナと共に瞑想されるべきことを示しています。この三者の存在は、理想的な関係性の象徴であると同時に、霊的には魂(ラーマ)、自然(シーター)、献身(ラクシュマナ)の調和という深い意味を持っています。
「जटामुकुटमण्डित」(jaṭāmukuṭamaṇḍita)は、冒頭の「दधतमुरुजटामण्डनं」(dadhatamurujatāmaṇḍanaṃ・豊かな螺髪を飾る)と連動し、苦行者としての側面と王者としての威厳の両立を表現しています。この二重性は、世俗的義務と精神的解放の調和というヒンドゥー思想の理想を体現しています。
第3節
सासितूणधनुर्बाणपाणिं नक्तञ्चरान्तकम् ।
स्वलीलया जगत्त्रातुमाविर्भूतमजं विभुम् ॥ ३॥
sāsitūṇadhanurbāṇapāṇiṃ naktañcarāntakam |
svalīlayā jagattrātumāvirbhūtamajaṃ vibhum || 3 ||
剣と矢筒、弓と矢を手に持ち、夜行の魔物を滅ぼす方、
自らの神聖なる遊戯として世界を救うために顕現した、不生なる全能の主を。
逐語訳:
- स-असि-तूण-धनुर्-बाण-पाणिं (sa-asi-tūṇa-dhanur-bāṇa-pāṇiṃ) - 剣と矢筒、弓と矢を手に持つ者を(対格)
- नक्तञ्चरान्तकम् (naktañcarāntakam) - 夜に徘徊する者(悪魔・ラークシャサ)の破壊者を(対格)
- स्वलीलया (svalīlayā) - 自らの神聖なる遊戯によって(具格)
- जगत् (jagat) - 世界を
- त्रातुम् (trātum) - 救うために(不定詞)
- आविर्भूतम् (āvirbhūtam) - 顕現した、姿を現した(対格)
- अजं (ajaṃ) - 生まれざる、不生の(対格)
- विभुम् (vibhum) - 全能なる主、偉大なる主を(対格)
解説:
第3節は、第2節から続く瞑想の対象としてのラーマの姿をさらに詳細に描写しています。前節で示されたラーマの姿形的特徴(青蓮のような肌色、蓮華のような眼)から、この節ではその武勇と宇宙論的意義へと焦点が移ります。
「सासितूणधनुर्बाणपाणिं」(sāsitūṇadhanurbāṇapāṇiṃ)という複合語は、「स」(sa)が「〜と共に」を意味し、続く「असि」(asi・剣)、「तूण」(tūṇa・矢筒)、「धनुर्」(dhanur・弓)、「बाण」(bāṇa・矢)という武器が「पाणिं」(pāṇiṃ・手に持つ)と結びついた表現です。これはラーマヤーナに描かれるラーマの戦士としての威厳ある姿を表しています。特に森林流謫期とラーヴァナとの闘いの場面では、この武装姿が重要な意味を持ちます。
「नक्तञ्चर」(naktañcara・夜行者)とは、文字通りには「夜に動き回るもの」ですが、特にラークシャサ(राक्षस, rākṣasa・悪魔)を指す詩的表現です。「अन्तक」(antaka・破壊者)と組み合わさり、ラーマのダルマ(法)の守護者としての役割を象徴しています。この表現は、『ラーマーヤナ』における中心的なテーマ—善と悪の対立、そして宇宙的秩序の回復—を凝縮しています。
「स्वलीलया」(svalīlayā)という語は、インド思想における「लीला」(līlā・神の遊戯)という深遠な概念を導入しています。「लीला」は神の創造・維持・解体の活動を、強制や必要からではなく、自発的な喜びの表現として理解する視点です。ラーマの化身降臨が「स्वलीला」と表現されることで、それが単なる義務や宿命ではなく、神の自由意志による愛の行為であることが強調されます。
「जगत्त्रातुम्」(jagattrātum・世界を救うために)は、ヴィシュヌ神の化身としてのラーマの使命を明確に示しています。「आविर्भूतम्」(āvirbhūtam・顕現した)という語は、永遠に存在する神が特定の姿を取って現れるという「アヴァターラ」(अवतार, avatāra・化身)の本質を表現しています。
「अजं」(ajaṃ・不生の)と「विभुम्」(vibhum・全能者)という語は、ラーマの人間としての外見の背後にある超越的神性を強調しています。「अज」は文字通りには「生まれざる」という意味で、通常の生死の循環を超越した存在を指し、「विभु」は「遍在する主」「全能者」を意味します。
この節を通じて、瞑想者はラーマを単なる歴史的・神話的人物から、宇宙の創造と救済のために自らの意志で顕現した究極的神性として観想するよう導かれていきます。
第4節
रामरक्षां पठेत्प्राज्ञः पापघ्नीं सर्वकामदाम् ।
शिरो मे राघवः पातु भालं दशरथात्मजः ॥ ४॥
rāmarakṣāṃ paṭhetprājñaḥ pāpaghnīṃ sarvakāmadām |
śiro me rāghavaḥ pātu bhālaṃ daśarathātmajaḥ || 4 ||
賢者はこのラーマ守護の讃歌を唱えるべし、それは罪を滅ぼし、あらゆる願いを満たす。
わが頭をラグの末裔が守り、わが額をダシャラタの御子が加護せんことを。
逐語訳:
- रामरक्षां (rāmarakṣāṃ) - ラーマ守護の讃歌を(女性単数対格)
- पठेत् (paṭhet) - 読むべし、唱えるべし(願望法・3人称単数)
- प्राज्ञः (prājñaḥ) - 賢者は、知恵ある者は(男性単数主格)
- पापघ्नीं (pāpaghnīṃ) - 罪を滅ぼす(女性単数対格)
- सर्वकामदाम् (sarvakāmadām) - すべての願いを与える(女性単数対格)
- शिरो (śiro) - 頭を(中性単数対格)
- मे (me) - 私の(所有代名詞)
- राघवः (rāghavaḥ) - ラグの末裔、ラーマ(男性単数主格)
- पातु (pātu) - 守護せよ(命令法・3人称単数)
- भालं (bhālaṃ) - 額を(中性単数対格)
- दशरथात्मजः (daśarathātmajaḥ) - ダシャラタの息子(男性単数主格)
解説:
第4節は、この讃歌の構造において重要な転換点を示しています。前三節が瞑想的観想を通じてラーマの神聖な姿と本質を描写したのに対し、本節からは実際の祈願と守護の要請へと移行します。讃歌の力を述べた前半と、身体保護の祈願を始める後半という二部構成になっています。
冒頭の「प्राज्ञः」(prājñaḥ)という表現は重要です。これは単なる知識人ではなく、深い霊的叡智を備えた人を意味します。そのような賢者だけが、この讃歌の真の価値を理解し、効果的に唱えることができるという含意があります。現代的には、真摯な霊性探求者であれば誰でもこの「प्राज्ञ」(prājña)になりうると解釈できます。
「पापघ्नीं」(pāpaghnīṃ・罪を滅ぼす)という表現は、第1節の「महापातकनाशनम्」(mahāpātakanāśanam・大罪を消し去る)と明確に呼応しており、この讃歌の浄化力を再確認しています。「सर्वकामदाम्」(sarvakāmadām)は「すべての願いを満たす」という意味で、この讃歌が精神的浄化だけでなく、現世的な恩恵ももたらすことを示しています。
この節の後半から始まる体の各部位を守護する形式は、インド宗教文学の「कवच」(kavaca・鎧)と呼ばれる伝統に属します。「शिरो」(śiro・頭)から始まり、以降の節で身体の他の部位へと守護が及んでいく構成です。これは単なる身体的保護ではなく、人間存在の全体性を神の庇護下に置く象徴的行為です。
ラーマを指す「राघवः」(rāghavaḥ・ラグの末裔)と「दशरथात्मजः」(daśarathātmajaḥ・ダシャラタの息子)という二つの称号は、ラーマの二重の尊厳を表しています。「राघव」は王統における系譜的位置づけを、「दशरथात्मज」は父親との関係を通じた徳性を喚起します。こうした称号の使い分けは、ラーマの多面的性質を理解するための鍵となります。
この節を唱えることで、瞑想者は内的観想から具体的な守護の体験へと意識を移し、日常生活のあらゆる局面でラーマの加護を実感する準備が整うのです。
第5節
कौसल्येयो दृशौ पातु विश्वामित्रप्रियः श्रुती ।
घ्राणं पातु मखत्राता मुखं सौमित्रिवत्सलः ॥ ५॥
kausalyeyo dṛśau pātu viśvāmitrapriyaḥ śrutī |
ghrāṇaṃ pātu makhatrātā mukhaṃ saumitrivatsalaḥ || 5 ||
コーサリヤーの御子よ、わが両の眼を守護せよ。ヴィシュヴァーミトラに愛でられし者よ、わが両の耳を守護せよ。
祭式の守護者よ、わが鼻を守護せよ。スミトラの子を慈しむ者よ、わが口を守護せよ。
逐語訳:
- कौसल्येयः (kausalyeyaḥ) - コーサリヤーの息子(ラーマ)、कौसल्या (kausalyā) + एय (eya, 〜の子孫を表す接尾辞)
- दृशौ (dṛśau) - 両眼を(双数対格、दृश् [dṛś] 「見る」という語根から派生)
- पातु (pātu) - 守護せよ(命令法・3人称単数)
- विश्वामित्रप्रियः (viśvāmitrapriyaḥ) - ヴィシュヴァーミトラに愛される者(विश्वामित्र [viśvāmitra] + प्रिय [priya])
- श्रुती (śrutī) - 両耳を(双数対格、श्रु [śru] 「聞く」という語根から派生)
- घ्राणं (ghrāṇaṃ) - 鼻を(単数対格)
- पातु (pātu) - 守護せよ(命令法・3人称単数)
- मखत्राता (makhatrātā) - 祭式の守護者(मख [makha] 祭式 + त्राता [trātā] 守護者)
- मुखं (mukhaṃ) - 口、顔を(単数対格)
- सौमित्रिवत्सलः (saumitrivatsalaḥ) - スミトラの子(ラクシュマナ)を慈しむ者(सौमित्रि [saumitri] + वत्सल [vatsala])
解説:
第5節は、前節から継続する「कवच」(kavaca・霊的鎧)の形式を発展させています。第4節で頭部と額への守護が求められたのに続き、この節ではより具体的な感覚器官—眼、耳、鼻、口—への守護が祈願されています。
特筆すべきは、各感覚器官に対応するラーマの称号が、『ラーマーヤナ』の重要なエピソードや関係性を想起させる形で選ばれていることです。これにより単なる身体的守護を超えた象徴的意味が織り込まれています。
「कौसल्येय」(kausalyeya・コーサリヤーの息子)という称号は、母親との関係性を通じてラーマの純粋さを強調しています。この純粋性が「眼」という、外界からの印象を受け入れる重要な器官の守護者として呼びかけられるのは意味深いことです。母の純粋な愛のようにクリアな視力と洞察力を授けるという暗示があります。
「विश्वामित्रप्रिय」(viśvāmitrapriya・ヴィシュヴァーミトラに愛される者)は、若きラーマが聖仙から武術と精神知識の両方を学んだ『ラーマーヤナ』の有名な場面を想起させます。「耳」との結びつきは、真理の「श्रवण」(śravaṇa・聴聞)という霊的修行の重要性を暗示しています。すなわち、耳を通して受け取る知識の純粋性と真正性が祈願されているのです。
「मखत्राता」(makhatrātā・祭式の守護者)という称号は、ヴィシュヴァーミトラの祭式を守ったラーマの武勇を称えています。「鼻」が祭式と結びつけられるのは、儀式において香や供物の芳香が重要な役割を果たすためです。この関連は、嗅覚を通じた霊的識別力の重要性を示唆しています。
「सौमित्रिवत्सल」(saumitrivatsala・スミトラの子を慈しむ者)は、ラーマとラクシュマナの理想的な兄弟愛を表現しています。この称号が「口」と結びつけられることで、真実を語ること、そして調和のある対話の価値が強調されています。
第4節から続くこの「कवच」(kavaca)の構造は、感覚器官がそれぞれラーマの特定の徳性と結びつくことで、日常の感覚経験が神聖な実践へと変容する可能性を示しています。
第6節
जिह्वां विद्यानिधिः पातु कण्ठं भरतवन्दितः ।
स्कन्धौ दिव्यायुधः पातु भुजौ भग्नेशकार्मुकः ॥ ६॥
jihvāṃ vidyānidhiḥ pātu kaṇṭhaṃ bharatavandditaḥ |
skandhau divyāyudhaḥ pātu bhujau bhagneśakārmukaḥ || 6 ||
知恵の宝庫よ、わが舌を守護せよ。バラタに敬われし者よ、わが喉を守護せよ。
神聖なる武器を持つ者よ、わが両肩を守護せよ。シヴァの弓を折りし者よ、わが両腕を守護せよ。
逐語訳:
- जिह्वां (jihvāṃ) - 舌を(女性単数対格)
- विद्यानिधिः (vidyānidhiḥ) - 知恵の宝庫、智慧の源泉(男性単数主格)、विद्या (vidyā・知識) + निधि (nidhi・宝庫)
- पातु (pātu) - 守護せよ(命令法・3人称単数)
- कण्ठं (kaṇṭhaṃ) - 喉を、首を(男性単数対格)
- भरतवन्दितः (bharatavandditaḥ) - バラタによって敬われる者(男性単数主格)、भरत (bharata) + वन्दित (vanddita・敬われた)
- स्कन्धौ (skandhau) - 両肩を(男性双数対格)
- दिव्यायुधः (divyāyudhaḥ) - 神聖な武器を持つ者(男性単数主格)、दिव्य (divya・神聖な) + आयुध (āyudha・武器)
- पातु (pātu) - 守護せよ(命令法・3人称単数)
- भुजौ (bhujau) - 両腕を(男性双数対格)
- भग्नेशकार्मुकः (bhagneśakārmukaḥ) - シヴァの弓を折った者(男性単数主格)、भग्न (bhagna・折られた) + ईश (īśa・シヴァ神) + कार्मुक (kārmuka・弓)
解説:
第6節は、第5節から継続する身体各部位への守護の祈願を展開しています。前節が主に感覚器官(眼、耳、鼻、口)を扱っていたのに対し、本節では言語と行動の器官(舌、喉)および力と行為の器官(肩、腕)へと焦点が移っています。
「विद्यानिधि」(vidyānidhi)という称号は、ラーマが全知識の源泉であることを表しています。これと「舌」(जिह्वा, jihvā)の結びつきは、特に意味深いものです。インド思想において、舌は単なる味覚器官ではなく、真理を語る道具でもあります。「विद्या」(vidyā)は世俗的知識を超えた霊的智慧を含み、ラーマがその源泉として舌を守護することで、私たちの言葉が真実と智慧に根ざすことが願われています。これは第5節の「口」の守護から自然に発展し、外的表現から内的叡智へと深化する流れを形成しています。
「भरतवन्दित」(bharatavandita)という表現は、『ラーマーヤナ』の中でも特に感動的なエピソードを想起させます。弟バラタがラーマの帰還を願い、兄の靴を王座に置いて摂政として統治した忠誠の物語です。この称号が「喉」(कण्ठ, kaṇṭha)と組み合わされる理由は、喉が感情と声の源であるためでしょう。バラタの忠誠と献身の声のように、私たちの喉から発せられる言葉も清らかであるよう願う意図が読み取れます。
「दिव्यायुध」(divyāyudha)という称号は、ラーマが神々から授かった超自然的な武器を指します。これが「肩」(स्कन्ध, skandha)の守護と結びつくのは、肩が重荷を担い、力を象徴する部位だからです。ダルマの重荷を担うラーマの力が、私たちの肩を通じて日常生活での責任を果たす力となることが願われています。
「भग्नेशकार्मुक」(bhagneśakārmuka)は、シーターの父ジャナカ王が開いたスワヤンヴァラ(自己選択婚)の際、ラーマがシヴァ神の巨大な弓を引き絞ろうとして折ってしまった有名なエピソードを指します。この超人的な力の表出が「腕」(भुज, bhuja)の守護に結びつけられるのは自然な連想です。この称号と腕の関係は、障害を克服する勇気と決断力、そして変革をもたらす行動力を象徴しています。
この節は、第5節から続く身体的守護の祈願を通じて、ラーマの多面的特質—智慧、忠誠への応答、責任感、超越的力—が私たちの日常的行為に浸透することを願う深い精神性を表現しています。ここには、外的守護を通じた内的変容という、インド霊性の典型的なアプローチが見事に示されています。
第7節
करौ सीतापतिः पातु हृदयं जामदग्न्यजित् ।
मध्यं पातु खरध्वंसी नाभिं जाम्बवदाश्रयः ॥ ७॥
karau sītāpatiḥ pātu hṛdayaṃ jāmadagnyajit |
madhyaṃ pātu kharadhvaṃsī nābhiṃ jāmbavadāśrayaḥ || 7 ||
シーターの夫なる主よ、わが両手を守護せよ。ジャマダグニの子に勝りし者よ、わが心の中心を守護せよ。
凶悪なる羅刹カラを滅ぼせし者よ、わが腹部を守護せよ。熊王ジャームバヴァトの帰依する御方よ、わが臍を守護せよ。
逐語訳:
- करौ (karau) - 両手を(男性双数対格)
- सीतापतिः (sītāpatiḥ) - シーターの夫、シーターの主(男性単数主格)、सीता (sītā) + पति (pati・夫、主)
- पातु (pātu) - 守護せよ(命令法・3人称単数)
- हृदयं (hṛdayaṃ) - 心、心臓、心の中心を(中性単数対格)
- जामदग्न्यजित् (jāmadagnyajit) - ジャマダグニの息子(パラシュラーマ)に勝利した者(男性単数主格)
- मध्यं (madhyaṃ) - 中央部、腹部を(中性単数対格)
- पातु (pātu) - 守護せよ(命令法・3人称単数)
- खरध्वंसी (kharadhvaṃsī) - カラ(ラーヴァナの弟である羅刹)を滅ぼした者(男性単数主格)
- नाभिं (nābhiṃ) - 臍を(女性単数対格)
- जाम्बवदाश्रयः (jāmbavadāśrayaḥ) - ジャームバヴァト(熊の王)の依り所、帰依先(男性単数主格)
解説:
第7節は、第6節までに展開された身体各部の守護の祈願を継続し、さらに体の中心部へと焦点を移しています。第4節から始まった「कवच」(kavaca・霊的鎧)の構造が、頭部や感覚器官から、行動と生命の中心である体幹部へと自然に進行しています。
「सीतापति」(sītāpati)という称号は、単に「シーターの夫」という意味を超えています。「पति」(pati)は「夫」だけでなく「主」「保護者」という意味も持ち、ラーマとシーターの関係が理想的な夫婦愛と同時に、神聖な保護と帰依の関係でもあることを示唆しています。この称号が「手」(कर, kara)と結びつくのは意味深いことです。「कर」は行為(कर्म, karma)の器官であり、シーターへの純粋な愛と同様の献身的奉仕が私たちの手の行為を通じて表現されるよう願われています。
「जामदग्न्यजित्」(jāmadagnyajit)は、ラーマがジャマダグニの子パラシュラーマに勝利したエピソードを指します。これはラーマの物語の中でも特別な意味を持つ場面です。パラシュラーマ自身がヴィシュヌの第6の化身とされており、第7の化身であるラーマに力を譲る象徴的な場面だからです。この称号が「हृदय」(hṛdaya・心臓、心の中心)と結びつくことで、単なる物理的勝利ではなく、神性の継承と内的な精神的勇気が強調されています。
「खरध्वंसी」(kharadhvaṃsī)は、『ラーマーヤナ』においてラーマが森での隠遁生活中に遭遇した羅刹カラとの闘いを喚起します。カラはラーヴァナの弟であり、その倒壊はより大きな悪との闘争の予兆でした。「मध्य」(madhya・腹部、胴体中央部)は体の中心であり、力と安定の源です。この結びつきは、悪の力に対して揺るがない中心軸を持つことの重要性を象徴しています。
「जाम्बवदाश्रय」(jāmbavadāśraya)という称号は、熊の王ジャームバヴァトとラーマの関係を示します。ジャームバヴァトはラーマのランカー征服において重要な同盟者であり助言者でした。この称号が「नाभि」(nābhi・臍)と結びつくのは深い象徴性を持ちます。臍は生命の源泉であり、宇宙論的には創造の中心点です。ジャームバヴァトのようにラーマに帰依する者が、生命の根源において守護されるという確信が表現されています。
この節は、外的行為(手)から内的中心(心臓・腹部・臍)へと守護の対象が移行することで、霊的実践が深化し、存在の中心へと浸透していく過程を見事に描いています。
第8節
सुग्रीवेशः कटी पातु सक्थिनी हनुमत्प्रभुः ।
ऊरू रघूत्तमः पातु रक्षःकुलविनाशकृत् ॥ ८॥
sugrīveśaḥ kaṭī pātu sakthinī hanumatprabhuḥ |
ūrū raghūttamaḥ pātu rakṣaḥkulavināśakṛt || 8 ||
スグリーヴァの主よ、わが腰を守護せよ。ハヌマーンの主よ、わが両股を守護せよ。
ラグ族の最高者にして羅刹族の破壊者よ、わが両太ももを守護せよ。
逐語訳:
- सुग्रीवेशः (sugrīveśaḥ) - スグリーヴァの主(男性単数主格)、सुग्रीव (sugrīva) + ईश (īśa・主、統治者)
- कटी (kaṭī) - 腰を(女性単数対格)
- पातु (pātu) - 守護せよ(命令法3人称単数)
- सक्थिनी (sakthinī) - 両股を(中性双数対格)
- हनुमत्प्रभुः (hanumatprabhuḥ) - ハヌマーンの主(男性単数主格)、हनुमत् (hanumat) + प्रभु (prabhu・主、支配者)
- ऊरू (ūrū) - 両太ももを(男性双数対格)
- रघूत्तमः (raghūttamaḥ) - ラグ族の最高者(男性単数主格)、रघु (raghu) + उत्तम (uttama・最高の、最も優れた)
- पातु (pātu) - 守護せよ(命令法3人称単数)
- रक्षःकुलविनाशकृत् (rakṣaḥkulavināśakṛt) - 羅刹族の破壊者(男性単数主格)、रक्षस् (rakṣas・羅刹) + कुल (kula・一族) + विनाश (vināśa・破壊) + कृत् (kṛt・〜をする者)
解説:
第8節では、第7節から継続する身体各部への守護の祈願が下半身へと進展しています。第4節から始まった「कवच」(kavaca・霊的鎧)の構造は、頭部から次第に下方へと移行し、この節では腰部と太ももへと至っています。
「सुग्रीवेश」(sugrīveśa)という称号は、ラーマと猿の王スグリーヴァの関係を強調しています。『ラーマーヤナ』においてスグリーヴァは兄ヴァーリンによって王位を奪われ追放されていましたが、ラーマの助けによって王国を取り戻しました。この称号が「腰」(कटी, kaṭī)と結びつけられるのは意味深いことです。腰は身体の支え、安定の中心であり、ラーマがスグリーヴァの王権回復を支えたように、信者の生活の基盤も守護されるという確信が表現されています。
「हनुमत्प्रभु」(hanumatprabhu)という称号は、ラーマとハヌマーンの特別な絆を表しています。ハヌマーンはラーマへの無条件の献身と奉仕の象徴として、ヒンドゥー教において最も愛される存在の一人です。この称号が「両股」(सक्थिनी, sakthinī)と結びつくのは、股関節が柔軟性と動きの源であることを考えると理解できます。ハヌマーンの俊敏さと敏捷性のように、私たちの行動も臨機応変かつ敬虔であるよう願われています。
「रघूत्तम」(raghūttama)と「रक्षःकुलविनाशकृत्」(rakṣaḥkulavināśakṛt)という二つの称号は、同一の守護対象である「両太もも」(ऊरू, ūrū)に対して用いられています。前者はラーマが属するラグ王朝の血統における最高位者であることを、後者はラーヴァナをはじめとする羅刹族を打ち破った勇者であることを称えています。太ももは歩行や立ち上がりなど、前進と上昇のための力の源です。ラーマの高貴な血統と悪を打ち破る力が、私たちの霊的な旅路における前進と上昇を支える力となるよう願われているのです。
この節では、前節までに見られた「個人」としてのラーマから、「関係性」におけるラーマへと視点が広がっています。スグリーヴァやハヌマーンとの関係を通して、ラーマの守護が直接的なものだけでなく、コミュニティの絆を通じても実現することが示唆されています。さらに、身体の下半分への守護は、私たちの日常的・物質的な歩みが霊的な目的地へ向かって正しく導かれることへの願いを象徴しています。
第9節
जानुनी सेतुकृत्पातु जङ्घे दशमुखान्तकः ।
पादौ बिभीषणश्रीदः पातु रामोऽखिलं वपुः ॥ ९॥
jānunī setukṛtpātu jaṅghe daśamukhāntakaḥ |
pādau bibhīṣaṇaśrīdaḥ pātu rāmo'khilaṃ vapuḥ || 9 ||
海の橋を造りし者よ、わが両膝を守護せよ。十面の魔王を滅ぼせし者よ、わが両脛を守護せよ。
ヴィビーシャナに王位と栄光を授けし者よ、わが両足を守護せよ。ラーマよ、わが全身を守らせたまえ。
逐語訳:
- जानुनी (jānunī) - 両膝を(中性双数対格)
- सेतुकृत् (setukṛt) - 海の橋を造った者(男性単数主格)、सेतु (setu・橋) + कृत् (kṛt・作る者)
- पातु (pātu) - 守護せよ(命令法・3人称単数)
- जङ्घे (jaṅghe) - 両脛(すね)を(女性双数対格)
- दशमुखान्तकः (daśamukhāntakaḥ) - 十面の魔王(ラーヴァナ)の終焉をもたらした者(男性単数主格)
- पादौ (pādau) - 両足を(男性双数対格)
- बिभीषणश्रीदः (bibhīṣaṇaśrīdaḥ) - ヴィビーシャナに王位と栄光を授けた者(男性単数主格)
- पातु (pātu) - 守護せよ(命令法・3人称単数)
- रामः (rāmaḥ) - ラーマは(男性単数主格)
- अखिलं (akhilaṃ) - 全ての、完全な(中性単数対格)
- वपुः (vapuḥ) - 身体を(中性単数対格)
解説:
第9節は、第4節から始まった「कवच」(kavaca・霊的鎧)の祈願を完成させる節です。前節までの守護が頭部から順に下方へと進み、この節では最後に残された身体の最下部(膝・脛・足)へと及び、最終的に全身への総合的な守護で締めくくられています。
「सेतुकृत्」(setukṛt)という称号は、ラーマが猿の軍勢と共にインド本土からランカー島へ渡るために建設した「ラーマ・セートゥ」(現在のアダムブリッジ)を指しています。この神話的な海の橋の建設は、不可能を可能にする神の意志力の証です。膝は歩行や跪拝において屈伸の要となる関節であり、新たな領域へ踏み出すための重要な支点です。ちょうどラーマが海に橋を架けて新たな領域に踏み出したように、信仰者も霊的な跳躍において守護されることが願われています。
「दशमुखान्तक」(daśamukhāntaka)は、十の頭を持つ魔王ラーヴァナを倒した勇者としてのラーマを称えています。この表現は「दश」(daśa・十)、「मुख」(mukha・顔)、「अन्तक」(antaka・終焉をもたらす者)から構成されています。この称号が脛(जङ्घ, jaṅgha)の守護と結びつくのは、脛が前進の力を象徴するからでしょう。ラーヴァナとの決戦において示された勇気と決断力が、私たちの人生の旅路においても悪しきものを打ち破る力となることが願われています。
「बिभीषणश्रीद」(bibhīṣaṇaśrīda)という称号は、ラーヴァナの義弟ヴィビーシャナがラーマの正義に感銘を受けて味方になり、戦後にランカーの新王に任命されたエピソードを指しています。「श्री」(śrī)は単なる栄光ではなく、王位や至福を含む神聖な繁栄を意味します。足(पाद, pāda)は旅の最終到達点であり、安定の基盤です。ヴィビーシャナのように正しい選択をした者が最終的に安定と繁栄を得るように、霊的道を歩む者も確かな基盤の上に立つことができるという教えが込められています。
最後の「रामोऽखिलं वपुः」(rāmo'khilaṃ vapuḥ)という表現は、部分から全体へ、多様性から統一性へと視点を移行させる重要な締めくくりです。個別の守護から全身の守護へと拡張することで、ラーマの恩寵が分断されることなく完全に行き渡ることが願われています。これは瞑想的観点からも意義深く、「私」という自我意識が身体各部との同一化から解放され、全体性の中で自己を認識する境地を暗示しています。
第10節
एतां रामबलोपेतां रक्षां यः सुकृती पठेत् ।
स चिरायुः सुखी पुत्री विजयी विनयी भवेत् ॥ १०॥
etāṃ rāmabalopetāṃ rakṣāṃ yaḥ sukṛtī paṭhet |
sa cirāyuḥ sukhī putrī vijayī vinayī bhavet || 10 ||
ラーマの神聖なる力を宿したこの守護の鎧を、徳高き者が読誦するならば、
その人は長寿を得、幸福に満ち、子孫に恵まれ、勝利を収め、高き徳性を備えるであろう。
逐語訳:
- एतां (etāṃ) - これを、この(女性単数対格)
- रामबलोपेतां (rāmabalopetāṃ) - ラーマの力を備えた(女性単数対格)、राम (rāma) + बल (bala・力) + उपेता (upetā・〜を備えた)
- रक्षां (rakṣāṃ) - 守護、守護呪文を(女性単数対格)
- यः (yaḥ) - 〜する者は誰でも(男性単数主格・関係代名詞)
- सुकृती (sukṛtī) - 善き行いをする者、徳ある者(男性単数主格)
- पठेत् (paṭhet) - 読誦するであろう(潜在法・3人称単数)
- स (sa) - 彼は(男性単数主格・指示代名詞)
- चिरायुः (cirāyuḥ) - 長寿の(男性単数主格)、चिर (cira・長い) + आयुस् (āyus・寿命)
- सुखी (sukhī) - 幸福な(男性単数主格)
- पुत्री (putrī) - 子を持つ、子孫に恵まれた(男性単数主格)
- विजयी (vijayī) - 勝利する、勝利を収める(男性単数主格)
- विनयी (vinayī) - 謙虚な、礼節ある(男性単数主格)
- भवेत् (bhavet) - になるであろう(潜在法・3人称単数)
解説:
第10節は、第4節から第9節まで展開されてきた「कवच」(kavaca・霊的鎧)の完結部として、この守護呪文の効力と恩恵を明示しています。身体の各部位に対する個別の守護を祈願してきた前節までと異なり、この節ではそれらを総括し、守護の鎧全体を実践することで得られる総合的な果報を説いています。
「रामबलोपेता」(rāmabalopetā)という表現は深遠な意味を持ちます。この守護の鎧が単なる言葉の連なりではなく、ラーマ神の「बल」(bala)—神聖な力そのもの—を伝達する媒体であることを示唆しています。この「बल」は物理的な力を超え、宇宙を維持し、ダルマを守護する神聖なる力です。ラーマの名を唱えることで、その力が直接信者に流れ込むという信仰が表されています。
「सुकृती」(sukṛtī)という限定は重要です。この守護の効果は機械的な読誦からではなく、「पुण्य」(puṇya・功徳)を積み重ねてきた者の純粋な心と結びついて初めて現れるものです。「सु」(su・良い)と「कृत्」(kṛt・行為)の結合は、過去世からの善行の蓄積と現世での倫理的生活を意味し、ヒンドゥー思想における霊的準備の重要性を示しています。
守護呪文を読誦することで得られる五つの恩恵は、人間の完成へ向けた全体的な発展を象徴しています。「चिरायुस्」(cirāyus・長寿)は生命の量的充実を、「सुखी」(sukhī・幸福)はその質的充実を表します。「पुत्री」(putrī・子孫に恵まれる)は家族的・社会的側面を、「विजयी」(vijayī・勝利する)は目標達成や障害克服の能力を意味します。
特に注目すべきは最後の「विनयी」(vinayī・礼節ある)という徳目です。これは単なる礼儀作法ではなく、真の精神的洗練と自己抑制を意味します。外的な成功が内的な徳性と結びついてこそ、真の達成であるというヒンドゥー思想の核心を表しています。この五つの恩恵は階層的であり、生物学的基盤(長寿)から始まり、感情的充足(幸福)、社会的達成(子孫)、外的成功(勝利)を経て、最終的に精神的洗練(礼節)へと至る人間発展の全過程を網羅しています。
第11節
पातालभूतलव्योमचारिणश्छद्मचारिणः ।
न द्रष्टुमपि शक्तास्ते रक्षितं रामनामभिः ॥ ११॥
pātālabhūtalavyomacāriṇaśchadmacāriṇaḥ |
na draṣṭumapi śaktāste rakṣitaṃ rāmanāmabhiḥ || 11 ||
冥界、地上、天空を行き来する者たちも、姿を隠して行動する者たちも、
ラーマの神聖なる御名によって守護された者を見出すことさえ能わず。
逐語訳:
- पातालभूतलव्योमचारिणः (pātālabhūtalavyomacāriṇaḥ) - 冥界、地上、天空を行き来する者たち(男性複数主格)、पाताल (pātāla・冥界) + भूतल (bhūtala・地上) + व्योम (vyoma・天空) + चारिण् (cāriṇ・行き来する者)
- छद्मचारिणः (chadmacāriṇaḥ) - 姿を隠して行動する者たち(男性複数主格)、छद्म (chadma・偽装、隠れた) + चारिण् (cāriṇ・行動する者)
- न (na) - 〜ない(否定辞)
- द्रष्टुम् (draṣṭum) - 見ること(不定詞)
- अपि (api) - 〜さえも
- शक्ताः (śaktāḥ) - 能力がある(男性複数主格)
- ते (te) - 彼らは(男性複数主格・代名詞)
- रक्षितं (rakṣitaṃ) - 守護された(過去分詞・中性単数対格)
- रामनामभिः (rāmanāmabhiḥ) - ラーマの御名によって(具格複数)、राम (rāma) + नाम (nāma・名前) + भिः (bhiḥ・具格複数接尾辞)
解説:
第11節では、前節で述べられたラーマの守護呪文(कवच, kavaca)の効力がより具体的に展開されています。第10節で「徳高き者がこの守護の鎧を読誦すれば様々な恩恵を得る」と説かれましたが、本節ではその守護力が宇宙の全次元において及ぶという、その絶対性が強調されています。
ヒンドゥー的宇宙観において、存在界は「पाताल」(pātāla・冥界)、「भूतल」(bhūtala・地上)、「व्योम」(vyoma・天空)という三つの主要な次元に分かれています。पाताल(パータール)は地下世界であり、ナーガ(蛇神)や様々な霊的存在が住む領域です。भूतल(ブータラ)は人間を含む生物が住む物質界、そして व्योम(ヴヨーマ)は天体や神々が住まう天空・天界を指します。この三界すべてを自由に行き来できる存在でさえも、ラーマの名によって守護された者に危害を及ぼすことは不可能だと宣言しています。
特に注目すべきは「छद्मचारिण्」(chadmacāriṇ)という表現です。「छद्म」(chadma)は「偽装」「変装」「欺瞞」を意味し、目に見えない形で、または欺きの手段を用いて行動する存在を指します。インドの伝統的世界観では、こうした目に見えない危険からの守護は特に重要と考えられてきました。
「द्रष्टुमपि न शक्ताः」(draṣṭumapi na śaktāḥ)という表現は、「見ることさえできない」という表層的な意味を超え、「認識する」「標的とする」「接近する」という、攻撃の前段階さえ不可能であることを示唆しています。つまり、ラーマの名の守護は予防的であり、危険が近づく最初の瞬間から作用するのです。
「रामनामभिः」(rāmanāmabhiḥ)は複数形で表現されており、これはラーマの持つ多様な名号すべてに守護力があることを示唆しています。たとえば「ラグナンダナ」(ラグ族の喜び)、「ダシャラタスタ」(ダシャラタの息子)など、ラーマを表す様々な名前がありますが、いずれもその神聖な力を保持しているのです。
この節は、現代の霊的実践者にとっても重要な教えを含んでいます。たとえ物理的な敵やエネルギーの概念を信じなくとも、人生には様々な形の「見えない脅威」—不安、恐怖、疑念—が存在します。神聖な名号の反復(ナーマ・ジャパ)は、こうした内なる敵からも私たちを守り、清らかで穏やかな心を維持する力となるのです。
第12節
रामेति रामभद्रेति रामचन्द्रेति वा स्मरन् ।
नरो न लिप्यते पापैः भुक्तिं मुक्तिं च विन्दति ॥ १२॥
rāmeti rāmabhadreti rāmacandreti vā smaran |
naro na lipyate pāpaiḥ bhuktiṃ muktiṃ ca vindati || 12 ||
「ラーマ」と、「ラーマバドラ」と、あるいは「ラーマチャンドラ」と心に念じる人は、
罪によって汚されることなく、現世の享受と究極の解脱の両方を得るであろう。
逐語訳:
- रामेति (rāmeti) - 「ラーマ」と(राम (rāma) + इति (iti・〜と[引用を表す助詞]))
- रामभद्रेति (rāmabhadreti) - 「ラーマバドラ」と(रामभद्र (rāmabhadra) + इति (iti))
- रामचन्द्रेति (rāmacandreti) - 「ラーマチャンドラ」と(रामचन्द्र (rāmacandra) + इति (iti))
- वा (vā) - あるいは(選択の接続詞)
- स्मरन् (smaran) - 念じる、深く記憶する(現在分詞・男性単数主格、語根 स्मृ (smṛ)から)
- नरः (naraḥ) - 人は(男性単数主格)
- न (na) - 〜ない(否定辞)
- लिप्यते (lipyate) - 汚される、染められる(受動態現在形・3人称単数、語根 लिप् (lip)から)
- पापैः (pāpaiḥ) - 罪によって(具格複数形)
- भुक्तिं (bhuktiṃ) - 現世の享受を(対格単数形、語根 भुज् (bhuj)「享受する」から)
- मुक्तिं (muktiṃ) - 解脱を(対格単数形、語根 मुच् (muc)「解放する」から)
- च (ca) - そして
- विन्दति (vindati) - 獲得する、見出す(現在形・3人称単数、語根 विद् (vid)から)
解説:
第12節は、前節までの守護の主題をさらに発展させ、ラーマの名号を念じるという実践(नामस्मरण, nāmasmaraṇa)の卓越した効力を具体的に説いています。第11節が「ラーマの名によって守護された者に危害は及ばない」と述べたのに対し、本節ではその守護の具体的な方法と、それがもたらす包括的な恩恵を明示しています。
この節では、ラーマの三つの聖なる名号が列挙されています。「राम」(rāma)はサンスクリット語の語根「रम्」(ram、「喜ばせる」「安らぎを与える」の意)に由来し、「すべてを喜ばせる者」を意味します。「रामभद्र」(rāmabhadra)は「吉祥なるラーマ」「幸福をもたらすラーマ」を表し、「भद्र」(bhadra)は「吉祥」「善良」「高貴」という意味です。「रामचन्द्र」(rāmacandra)は「月のように輝くラーマ」を意味し、「चन्द्र」(candra、「月」)のように清らかで美しく、世界に光と安らぎをもたらす神性を象徴しています。
「स्मरन्」(smaran)という表現は単なる言葉の反復ではなく、心の深奥からの「憶念」「想起」を意味します。これはヨーガの伝統における「स्मृति」(smṛti、「気づき」「念」)の実践に通じるもので、対象(この場合はラーマ)への深い意識の集中と一体化を含んでいます。このような心の状態では、「पाप」(pāpa、「罪」「不浄」)が「लिप्」(lip、「付着する」)することができず、内面は清浄に保たれます。
この節の後半で述べられる「भुक्ति」(bhukti)と「मुक्ति」(mukti)は、伝統的にはしばしば対立概念とされてきました。「भुक्ति」は「भुज्」(bhuj、「享受する」)に由来し、この世での正当な喜びや繁栄を指し、「मुक्ति」は「मुच्」(muc、「解放する」)から生まれた言葉で、輪廻からの解脱や究極の自由を意味します。通常、世俗的な享楽を追求する道(प्रवृत्ति मार्ग, pravṛtti mārga)と解脱を求める道(निवृत्ति मार्ग, nivṛtti mārga)は別々と考えられていますが、この節ではラーマの名を念じることで両方が同時に達成されるという、包括的な霊性の道が示されています。
この教えは現代人にも大きな意義を持ちます。私たちは往々にして「現世的成功」と「霊的達成」を二項対立的に捉えがちですが、ラーマの名号への深い帰依は、日常生活の充実と内なる平和の両立という理想的な統合へと導く道となるのです。名号の念誦は、複雑な儀式や厳格な修行に比べてはるかに単純でありながら、深遠な変容をもたらす実践として称えられています。
第13節
जगज्जैत्रैकमन्त्रेण रामनाम्नाभिरक्षितम् ।
यः कण्ठे धारयेत्तस्य करस्थाः सर्वसिद्धयः ॥ १३॥
jagajjaitraikamantreṇa rāmanāmnābhirakṣitam |
yaḥ kaṇṭhe dhārayettasya karasthāḥ sarvasiddhayaḥ || 13 ||
世界を征服する唯一のマントラ、ラーマの御名によって守護された
この護符を首に掛ける者は、あらゆる成就を手中に収めるであろう。
逐語訳:
- जगज्जैत्रैकमन्त्रेण (jagajjaitraikamantreṇa) - 世界を征服する唯一のマントラによって(具格単数)、जगत् (jagat・世界) + जैत्र (jaitra・勝利の) + एक (eka・唯一の) + मन्त्र (mantra・聖句)
- रामनाम्ना (rāmanāmnā) - ラーマの名によって(具格単数)、राम (rāma) + नामन् (nāman・名前)
- अभिरक्षितम् (abhirakṣitam) - 完全に守護された(過去分詞・中性単数対格)
- यः (yaḥ) - 〜する者は誰でも(関係代名詞・男性単数主格)
- कण्ठे (kaṇṭhe) - 喉に、首に(処格単数)
- धारयेत् (dhārayet) - 保持するであろう、身につけるであろう(潜在法・3人称単数)
- तस्य (tasya) - その人の(男性単数属格)
- करस्थाः (karasthāḥ) - 手の中にある(女性複数主格)、कर (kara・手) + स्थ (stha・位置する)
- सर्वसिद्धयः (sarvasiddhayaḥ) - すべての成就(女性複数主格)、सर्व (sarva・すべての) + सिद्धि (siddhi・成就、成功)
解説:
第13節は、前節までに展開されてきた「ラーマの名号による守護」の主題を、より具体的な実践形態へと発展させています。第12節では「ラーマの名を念じる」という内的実践が説かれていましたが、本節ではそれを「कवच」(kavaca・霊的鎧)という形で身につけるという外的実践へと進展させています。
「जगज्जैत्रैकमन्त्र」(jagajjaitraikanmantra)という表現は注目に値します。「जगत्」(jagat・世界、宇宙)と「जैत्र」(jaitra・勝利をもたらす)が結合し、ラーマの名号が宇宙の全ての障害や否定的力に打ち勝つ唯一無二の霊的力であることを示しています。この表現は、第11節で「三界の存在も近づけない」と述べられた守護力をさらに明確に定義しています。
「रामनाम्ना」(rāmanāmnā)が単数形で表されているのは意味深いものがあります。これは第12節で列挙された「राम」(rāma)、「रामभद्र」(rāmabhadra)、「रामचन्द्र」(rāmacandra)といった多様な名号が、本質的には一つの力—「रामनामन्」(rāmanāman・ラーマの名)—として理解されるべきことを示唆しています。
「कण्ठे धारयेत्」(kaṇṭhe dhārayet・首に掛ける)という行為は単なる物理的装飾ではありません。インド思想において「कण्ठ」(kaṇṭha・喉、首)は「विशुद्धि चक्र」(viśuddhi cakra)の位置であり、真実の表現と高次元の意識への架け橋と見なされています。首に守護の鎧を掛けることは、全身と全霊をラーマの保護下に置くという象徴的行為です。
「करस्थाः सर्वसिद्धयः」(karasthāḥ sarvasiddhayaḥ・手の中にあるあらゆる成就)という表現は、第12節で説かれた「भुक्ति」(bhukti・現世の享受)と「मुक्ति」(mukti・解脱)の概念をさらに拡張し、あらゆる種類の霊的および物質的な成就へと広げています。これは信仰の深化と実践の具体化に伴って、霊的恩恵もまた広がり深まることを示しています。
この節は、宗教的実践における内的態度(第12節)と外的表現(第13節)の調和の重要性を教えています。真の霊性は心の深い献身と日常的な実践行為の両方から生まれるものであり、その二つが一体となったとき、あらゆる成就への道が開かれるのです。
第14節
वज्रपञ्जरनामेदं यो रामकवचं स्मरेत् ।
अव्याहताज्ञः सर्वत्र लभते जयमङ्गलम् ॥ १४॥
vajrapañjaranāmedaṃ yo rāmakavacaṃ smaret |
avyāhatājñaḥ sarvatra labhate jayamaṅgalam || 14 ||
「金剛の護壁」という名を持つこのラーマの守護の鎧を心に念じる者は、
その意志が決して妨げられることなく、あらゆる場所で勝利と至福を獲得するであろう。
逐語訳:
- वज्रपञ्जरनामेदं (vajrapañjaranāmedaṃ) - 金剛の護壁という名を持つこの(中性単数対格)、वज्र (vajra・金剛、不壊の) + पञ्जर (pañjara・護壁、囲い) + नाम (nāma・名前) + इदं (idaṃ・これ)
- यः (yaḥ) - 〜する者は誰でも(関係代名詞・男性単数主格)
- रामकवचं (rāmakavacaṃ) - ラーマの守護の鎧を(中性単数対格)、राम (rāma) + कवच (kavaca・鎧、護符)
- स्मरेत् (smaret) - 心に念じるであろう(潜在法・3人称単数、語根 स्मृ (smṛ)から)
- अव्याहताज्ञः (avyāhatājñaḥ) - 妨げられない意志を持つ者(男性単数主格)、अव्याहत (avyāhata・妨げられない) + आज्ञ (ājña・命令、権威)
- सर्वत्र (sarvatra) - あらゆる場所で、至るところで(副詞)
- लभते (labhate) - 獲得する(中動態・3人称単数現在形、語根 लभ् (labh)から)
- जयमङ्गलम् (jayamaṅgalam) - 勝利と至福を(中性単数対格)、जय (jaya・勝利) + मङ्गल (maṅgala・至福、吉祥)
解説:
第14節では、前節までの守護の教えが集大成され、この霊的守護に「वज्रपञ्जर」(vajrapañjara・金剛の護壁)という固有の名称が与えられています。この命名は深遠な象徴性を持っています。「वज्र」(vajra)は不壊の金剛石や神インドラの武器を意味し、破壊不能な強さを象徴しています。「पञ्जर」(pañjara)は囲い、護壁を意味し、完全な保護を表します。この組み合わせは、信者を取り囲む不可侵の霊的障壁という意味を見事に表現しています。
第13節では「कण्ठे धारयेत्」(kaṇṭhe dhārayet・首に掛ける)という外的な実践が説かれていましたが、本節では「स्मरेत्」(smaret・心に念じる)という内的な実践が強調されています。これは霊的成長において外的な実践と内的な瞑想が相互に補完し合うことを示しています。「स्मरेत्」は潜在法であり、可能性と条件を表現します。つまり、ラーマの守護の真髄を真摯に心に浸透させることで、その効力が発現するという教えです。
「अव्याहताज्ञः」(avyāhatājñaḥ)という表現は、ラーマの守護を受けた者が得る特別な霊的状態を表します。「अव्याहत」(avyāhata)は「妨げられない」「阻止されない」を意味し、「आज्ञ」(ājña)は「意志」「命令」「権威」を意味します。この状態では、信者の純粋な意志や決意が宇宙の法則と調和し、障害に遭遇することなく実現していきます。これは第13節の「成就を手中に収める」という約束の具体的な現れです。
「सर्वत्र」(sarvatra・あらゆる場所で)という語は、この守護の普遍性と無限性を示しています。場所的な制限だけでなく、あらゆる状況、あらゆる境遇においても有効であることを意味します。これは守護の総合性と完全性を強調しています。
「जयमङ्गलम्」(jayamaṅgalam)という成果は、単なる外的な勝利にとどまりません。「जय」(jaya)は障害の克服と達成を、「मङ्गल」(maṅgala)は内的な調和と至福を表します。この統合は、物質的成功と霊的成長の両立という、人生の最も高い目標を表現しています。
今日の私たちにとっても、この教えは深い叡智を提供しています。日々の瞑想と精神的実践を通じて、私たちの周りに保護の場を創出し、内なる意志と外界との調和を育むことで、真の成功と幸福への道が開かれるのです。
第15節
आदिष्टवान् यथा स्वप्ने रामरक्षामिमां हरः ।
तथा लिखितवान् प्रातः प्रबुद्धो बुधकौशिकः ॥ १५॥
ādiṣṭavān yathā svapne rāmarakṣāmimāṃ haraḥ |
tathā likhitavān prātaḥ prabuddho budhakauśikaḥ || 15 ||
シヴァ神が夢の中でこのラーマの守護の呪文を教示したように、
賢者ブダカウシカは朝に目覚めた後、その教えをそのままに書き記した。
逐語訳:
- आदिष्टवान् (ādiṣṭavān) - 指示した、教えた(完了分詞の男性単数主格形)
- यथा (yathā) - 〜のように(副詞)
- स्वप्ने (svapne) - 夢の中で(処格単数)
- रामरक्षामिमां (rāmarakṣāmimāṃ) - このラーマの守護を(対格単数)、राम (rāma) + रक्षा (rakṣā・守護) + इमां (imāṃ・これを)
- हरः (haraḥ) - ハラ、シヴァ神(男性単数主格)
- तथा (tathā) - そのように(副詞)
- लिखितवान् (likhitavān) - 書き記した(完了分詞の男性単数主格形)
- प्रातः (prātaḥ) - 朝に(副詞)
- प्रबुद्धः (prabuddhaḥ) - 目覚めた(過去分詞・男性単数主格)
- बुधकौशिकः (budhakauśikaḥ) - ブダカウシカ(人名・男性単数主格)
解説:
第15節は、「ラーマ・ラクシャー・ストートラ」の神聖な起源を明らかにする重要な節です。前節までは「वज्रपञ्जर」(vajrapañjara・金剛の護壁)と呼ばれる守護呪の効力や実践法について述べられていましたが、ここでこの聖なる祈祷文がどのようにして人間界にもたらされたかという伝承が語られています。
このような神聖な伝承の説明は、インドの多くの聖典に見られる「अपौरुषेय」(apauruṣeya・非人間起源)という概念と関連しています。この守護の呪文は単なる人間の創作ではなく、シヴァ神からの直接の啓示によるものであるという権威づけがなされています。これによって、第11節から第14節にかけて述べられてきた守護の絶大な効力に、確かな保証が与えられています。
「हर」(hara)はシヴァ神の別名で、「破壊者」または「障害を取り除く者」という意味を持ちます。シヴァ神自身がヴィシュヌ神の化身であるラーマの守護呪を啓示したという設定は、ヒンドゥー教の包括的な視点を反映しています。これは異なる神格の伝統が調和し、互いを尊重する姿勢を表しており、神々の間にも「राम नाम」(rāma nāma・ラーマの名前)の重要性が認識されていることを示しています。
「स्वप्न」(svapna・夢)は、インド思想においては単なる潜在意識の表出ではなく、神々とのコミュニケーションや真理の啓示が行われる重要な意識状態とされます。「प्रबुद्ध」(prabuddha・目覚めた)という表現は、単なる物理的な目覚めだけでなく、霊的な覚醒状態も含意しています。ブダカウシカが夢の啓示を覚醒後も明晰に保持し、正確に書き記すことができたのは、彼の高い霊的資質によるものと理解されます。
「बुधकौशिक」(budhakauśika)という名前自体が意味深いものです。「बुध」(budha)は「目覚めた」「悟った」という意味を持ち、「कौशिक」(kauśika)はクシカ族の末裔であることを示します。インド神話では、「कौशिक」はしばしばヴィシュヴァーミトラ仙の別名としても知られており、ラーマとゆかりの深い賢者です。このように、啓示を受けた人物の名前そのものが「悟りを開いた賢者」を意味することで、この祈祷文の受け手としての適格性が示されています。
朝(प्रातः, prātaḥ)という時間帯の特定も重要です。インド思想では「ब्रह्ममुहूर्त」(brahma-muhūrta・夜明け前の神聖な時間帯)に行われる霊的実践が特に効果的とされており、清浄な朝の時間に記された教えであることが、その神聖性をさらに高めているのです。
第16節
आरामः कल्पवृक्षाणां विरामः सकलापदाम् ।
अभिरामस्त्रिलोकानां रामः श्रीमान् स नः प्रभुः ॥ १६॥
ārāmaḥ kalpavṛkṣāṇāṃ virāmaḥ sakalāpadām |
abhirāmastrilokānāṃ rāmaḥ śrīmān sa naḥ prabhuḥ || 16 ||
願望成就の神樹たちの楽園であるラーマ、
あらゆる災厄の終焉をもたらすラーマ、
三界に喜びを与えるラーマ、
その栄光に満ちたラーマこそ、我らが主である。
逐語訳:
- आरामः (ārāmaḥ) - 楽園、憩いの園、喜び(男性名詞・単数主格)
- कल्पवृक्षाणां (kalpavṛkṣāṇāṃ) - 願望成就の神樹たちの(複数属格)、कल्पवृक्ष (kalpavṛkṣa・願望を叶える神樹)
- विरामः (virāmaḥ) - 終焉、停止、休止、安息(男性名詞・単数主格)
- सकलापदाम् (sakalāpadām) - すべての災厄の(女性複数属格)、सकल (sakala・すべての) + आपद् (āpad・災厄、不幸)
- अभिरामः (abhirāmaḥ) - 喜びをもたらす、魅力的な、美しい(形容詞・男性単数主格)
- त्रिलोकानां (trilokānāṃ) - 三界の(複数属格)、त्रि (tri・三) + लोक (loka・世界)
- रामः (rāmaḥ) - ラーマ(固有名詞・男性単数主格)
- श्रीमान् (śrīmān) - 栄光に満ちた、聖なる、繁栄した(形容詞・男性単数主格)
- सः (saḥ) - 彼は(指示代名詞・男性単数主格)
- नः (naḥ) - 私たちの(代名詞・複数属格)
- प्रभुः (prabhuḥ) - 主、主君、支配者(男性名詞・単数主格)
解説:
第16節は、前節で語られた「ラーマ・ラクシャーー・ストートラ」の神聖な起源から、再びラーマ神の本質的な栄光を讃える表現へと流れを変えています。この節では、サンスクリット詩の優美な修辞技法「श्लेष」(śleṣa・掛詞)が見事に用いられています。特に「आराम」(ārāma)、「विराम」(virāma)、「अभिराम」(abhirāma)という語が「राम」(rāma)という名前と音韻的に響き合い、ラーマという名前自体が持つ多層的な意味を美しく展開しています。
「आरामः कल्पवृक्षाणां」(ārāmaḥ kalpavṛkṣāṇāṃ)という表現は深遠です。「कल्पवृक्ष」(kalpavṛkṣa)は、インド神話において天界に存在するとされる願望成就の神樹です。ラーマがこれらの神樹たちの「आराम」(ārāma・楽園)であるという表現は、彼が願いを叶える力の源泉そのものであることを意味します。これは第13節、第14節で約束された「あらゆる成就」の根源を示唆しています。
「विरामः सकलापदाम्」(virāmaḥ sakalāpadām)は、ラーマが「すべての災厄の休止点」であるという意味で、第11節から第14節で繰り返し強調されてきた守護の力をさらに深く表現しています。「विराम」(virāma)には「終焉」だけでなく「安息」の意味も含まれており、ラーマの御名が単に災いを避けるだけでなく、真の平安をもたらすことを示しています。
「अभिरामस्त्रिलोकानां」(abhirāmastrilokānāṃ)は、「三界に喜びをもたらす者」という意味です。「त्रिलोक」(triloka)は天界・地上界・下界を含む宇宙全体を指し、ラーマの影響力が宇宙的スケールであることを表現しています。ここでは「अभिराम」(abhirāma)という語が、「राम」(rāma)という名前そのものが「喜びをもたらす」という意味を持つことを巧みに示しています。
最後の「रामः श्रीमान् स नः प्रभुः」(rāmaḥ śrīmān sa naḥ prabhuḥ)は、この節の中心となる宣言です。「श्रीमान्」(śrīmān)は「栄光に満ちた」「繁栄した」という意味で、「श्री」(śrī・繁栄、美、聖なる輝き)の力を持つラーマを表現しています。「स नः प्रभुः」(sa naḥ prabhuḥ)という確信に満ちた告白は、この讃歌全体の帰結点となっています。
実践的な視点からすれば、この節はラーマの名号を唱えることの多面的な効用を示唆しています。願望の成就、苦難からの解放、喜びの獲得という三つの恩恵は、現代の瞑想実践においても重要な目標であり、神聖な音としてのラーマの名号を念じることで、これらの恩恵を体験できることを教えています。ラーマの音の中に、安らぎと喜びの源泉を見出す実践は、今日の忙しい生活の中でこそ、特別な意味を持つものです。
第17節
तरुणौ रूपसम्पन्नौ सुकुमारौ महाबलौ ।
पुण्डरीकविशालाक्षौ चीरकृष्णाजिनाम्बरौ ॥ १७॥
taruṇau rūpasampannau sukumārau mahābalau |
puṇḍarīkaviśālākṣau cīrakṛṣṇājināmbarau || 17 ||
若々しく気品に満ちた美しい姿をした二人の王子は、優雅でありながらも偉大な力を持ち、
白蓮のように広く清らかな眼差しを持ち、樹皮と黒い鹿皮からなる隠者の衣を纏っている。
逐語訳:
- तरुणौ (taruṇau) - 若い、若々しい(男性双数主格)
- रूपसम्पन्नौ (rūpasampannau) - 美しい姿を持つ(男性双数主格)、रूप (rūpa・形、美) + सम्पन्न (sampanna・豊かな)
- सुकुमारौ (sukumārau) - 気品ある、優雅な(男性双数主格)、सु (su・良い) + कुमार (kumāra・若者、王子)
- महाबलौ (mahābalau) - 偉大な力を持つ(男性双数主格)、महा (mahā・大きい) + बल (bala・力)
- पुण्डरीकविशालाक्षौ (puṇḍarīkaviśālākṣau) - 白蓮のように大きく美しい目を持つ(男性双数主格)、पुण्डरीक (puṇḍarīka・白蓮) + विशाल (viśāla・広い) + अक्ष (akṣa・目)
- चीरकृष्णाजिनाम्बरौ (cīrakṛṣṇājināmbarau) - 樹皮と黒い鹿皮の衣を身に着けた(男性双数主格)、चीर (cīra・樹皮の衣) + कृष्ण (kṛṣṇa・黒い) + अजिन (ajina・獣皮) + अम्बर (ambara・衣服)
解説:
第17節は、「ラーマ・ラクシャー・ストートラ」の中で重要な転換点を示しています。第16節で「我らが主」として神学的に讃えられたラーマが、ここでは具体的な姿をもつ存在として描写されています。この移行は、抽象的な神性から具体的な物語世界への橋渡しという重要な役割を果たしています。
特筆すべきは、この節のすべての形容詞が双数形で表現されていることです。これはラーマと弟ラクシュマナの二人を同時に描写していることを示しており、彼らの強い絆と運命共同体としての姿を象徴しています。ラーマヤーナの物語では、父ダシャラタ王の命令によってラーマが森での隠遁生活に赴くとき、ラクシュマナが自発的に兄に従う場面があります。この忠誠と兄弟愛の表現が、この節に反映されているのです。
「सुकुमार」(sukumāra)という語は単なる「繊細さ」だけでなく、「सु」(su・良い)と「कुमार」(kumāra・王子)の複合語として、彼らの王族としての高貴さと気品を強調しています。さらに「महाबल」(mahābala・偉大な力)との対比は、彼らが優美さと力強さを兼ね備えた理想的な王者の資質を持つことを表しています。
「पुण्डरीकविशालाक्ष」(puṇḍarīkaviśālākṣa)という表現は、インド古典文学において神性の象徴として重要です。「पुण्डरीक」(puṇḍarīka・白蓮)は、泥水の中にあっても汚れに染まらない純粋さを象徴し、それに例えられる目は魂の窓として内なる神性を表しています。この描写は、第16節で讃えられた神としてのラーマの栄光が、その肉体的な姿にも反映されていることを示唆しています。
「चीरकृष्णाजिनाम्बर」(cīrakṛṣṇājināmbara)という表現は、彼らが王宮の豪華な衣装ではなく、隠者の質素な衣を身に着けていることを示しています。これは、彼らが世俗的な贅沢を捨て、ダルマ(義務)を果たすために森に入る物語の文脈を反映しています。この外見の描写は、神でありながら人間としての謙虚さと献身を体現するラーマの二重性を強調し、信者に自己犠牲と義務の重要性を教えています。
この節は、前節までの神学的讃美と後続の物語的要素を結びつけ、ラーマの神性と人間性の双方を理解する鍵となっています。現代の精神修行においても、内なる神性と外的な行動の調和、そして困難な状況でも高い理想を維持する姿勢を学ぶ重要な教えとなります。
第18節
फलमूलाशिनौ दान्तौ तापसौ ब्रह्मचारिणौ ।
पुत्रौ दशरथस्यैतौ भ्रातरौ रामलक्ष्मणौ ॥ १८॥
phalamūlāśinau dāntau tāpasau brahmacāriṇau |
putrau daśarathasyaitau bhrātarau rāmalakṣmaṇau || 18 ||
果実と根のみを糧とし、感覚を完全に制御し、苦行者として清浄な禁欲の誓いを守る
この二人こそ、ダシャラタ王の息子たち、兄弟なるラーマとラクシュマナである。
逐語訳:
- फलमूलाशिनौ (phalamūlāśinau) - 果実と根を食べる者たち(男性双数主格)、फल (phala・果実) + मूल (mūla・根) + आशिन् (āśin・食べる人)
- दान्तौ (dāntau) - 感覚を制御した、自己抑制を行う(男性双数主格)
- तापसौ (tāpasau) - 苦行者たち(男性双数主格)
- ब्रह्मचारिणौ (brahmacāriṇau) - 梵行(純潔の誓い)を守る者たち(男性双数主格)
- पुत्रौ (putrau) - 息子たち(男性双数主格)
- दशरथस्य (daśarathasya) - ダシャラタの(男性単数属格)
- एतौ (etau) - この二人(男性双数主格)
- भ्रातरौ (bhrātarau) - 兄弟(男性双数主格)
- रामलक्ष्मणौ (rāmalakṣmaṇau) - ラーマとラクシュマナ(男性双数主格)
解説:
第18節は、前節で描かれた二人の王子の外見的特徴から、彼らの内面的・修行的側面へと焦点を移しています。第17節が彼らの若さや美しさという外的な姿を描いたのに対し、この節では彼らの精神的実践と生き方の本質が明示されています。
「फलमूलाशिन्」(phalamūlāśin)という表現は、彼らが森での隠遁生活において、自然の果実と根だけを摂取する質素な食生活を送っていることを示しています。これは単なる食習慣の描写ではなく、「आहार शुद्धि」(āhāra śuddhi・食の浄化)という概念を体現しています。ヨーガの伝統では、サットヴィックな(純質の)食物を摂ることが心の清浄化と精神的進歩に不可欠とされています。
「दान्त」(dānta)という語は「दम」(dama・感覚の抑制)から派生し、六つの敵(षड्रिपु, ṣaḍripu)と呼ばれる欲望、怒り、貪欲、迷妄、高慢、嫉妬に打ち勝った状態を指します。パタンジャリの「ヨーガ・スートラ」では、このような感覚の制御こそが高次の意識状態への前提条件とされています。
「तापस」(tāpasa)は「तपस्」(tapas・熱誠、苦行)を実践する者です。「तपस्」は内なる不純物を焼き尽くす霊的な火を意味し、バガヴァッド・ギーターでは三種のタパス(身体的・言語的・精神的苦行)が説かれています。苦行は単なる自己否定ではなく、より高い目的のための自己浄化の実践です。
「ब्रह्मचारिन्」(brahmacārin)は、「ब्रह्मचर्य」(brahmacarya・梵行)を守る者を指します。これは単なる性的禁欲を超え、すべてのエネルギーを神聖な目的へと向ける生き方です。「ब्रह्म」(brahma・梵、絶対者)と「चर्य」(carya・行動、実践)の複合語で、字義的には「神聖なる存在への道を歩む」という意味を持ちます。
この節は、ラーマとラクシュマナが王子でありながら隠者としての厳格な規律を守る姿を描くことで、第16節で示された「आराम」(ārāma・楽園)や「विराम」(virāma・安息)といった概念がいかにして現実化されるかを具体的に示しています。彼らの規律ある生活と自己制御は、現代人にとっても、外的な富や快楽を追求する前に内なる平和と調和を見出す道を教えてくれます。
第17節と第18節を通じて、ラーマとラクシュマナは神的存在でありながら、人間としての理想的な生き方を体現する存在として描かれています。これは「ラーマ・ラクシャー・ストートラ」全体の根底にある信念—神の御名を唱えることで守護を得るだけでなく、神の模範的生き方に倣うことの重要性—を浮き彫りにしています。
第19節
शरण्यौ सर्वसत्त्वानां श्रेष्ठौ सर्वधनुष्मताम् ।
रक्षः कुलनिहन्तारौ त्रायेतां नो रघूत्तमौ ॥ १९॥
śaraṇyau sarvasattvānāṃ śreṣṭhau sarvadhanuṣmatām |
rakṣaḥ kulanihantārau trāyetāṃ no raghūttamau || 19 ||
すべての生命の庇護者にして、弓術家たちの中で最高の二人、
悪魔ラークシャサ族の滅ぼし手であるラグ家の至上なる兄弟(ラーマとラクシュマナ)が、私たちを守護せんことを。
逐語訳:
- शरण्यौ (śaraṇyau) - 庇護者たち、避難所を与える者たち(男性双数主格)
- सर्वसत्त्वानां (sarvasattvānāṃ) - すべての生き物の、すべての存在の(複数属格)、सर्व (sarva・すべての) + सत्त्व (sattva・生命、存在、善性)
- श्रेष्ठौ (śreṣṭhau) - 最も優れた二人、最高の者たち(男性双数主格)
- सर्वधनुष्मताम् (sarvadhanuṣmatām) - すべての弓を持つ者たち(弓術家)の中で(複数属格)、सर्व (sarva・すべての) + धनुष्मत् (dhanuṣmat・弓を持つ者)
- रक्षः (rakṣaḥ) - ラークシャサ族の(「rakṣas」の語幹形、悪魔や鬼神の種族)
- कुलनिहन्तारौ (kulanihantārau) - 一族の滅ぼし手たち(男性双数主格)、कुल (kula・一族、種族) + निहन्तृ (nihantṛ・滅ぼす者)
- त्रायेतां (trāyetāṃ) - 守護せんことを、保護してくださいますように(3人称双数希求法)
- नः (naḥ) - 私たちを(代名詞・複数対格)
- रघूत्तमौ (raghūttamau) - ラグ家の至上なる二人(男性双数主格)、रघु (raghu・ラグ王家、太陽王朝の一族) + उत्तम (uttama・最高の、至上の)
解説:
第19節は、前節までに描かれたラーマとラクシュマナの姿に、守護者・戦士・救済者としての側面を加えています。第17節で彼らの外見的特徴が、第18節では苦行者としての生活様式が描写されてきましたが、この節では彼らの社会的・霊的役割が鮮明に打ち出されています。
「शरण्य」(śaraṇya)は、インド思想において深い意味を持つ概念です。これは単なる物理的保護ではなく、霊的な避難所、究極の拠り所を意味します。「शरण」(śaraṇa・避難所)から派生したこの言葉は、バクティ(信愛)の伝統において中心的な概念で、神に完全に身を委ねる「शरणागति」(śaraṇāgati・帰依)の基盤となっています。ラーマーヤナの物語全体を通じて、ラーマは「शरण्य」の具現として描かれています。
「सर्वसत्त्वानां」(sarvasattvānāṃ)は、彼らの慈悲がすべての生き物に及ぶことを示しています。「सत्त्व」(sattva)は「生命」だけでなく「純粋さ」「善性」という意味も持ち、第18節で描かれた内的浄化の実践が、外的な保護の力へと変容する過程を暗示しています。
「सर्वधनुष्मताम् श्रेष्ठौ」(sarvadhanuṣmatām śreṣṭhau)は、古代インドで王族の尊厳と義務の象徴であった弓術における彼らの卓越性を讃えています。隠者としての姿勢と戦士としての技能という一見矛盾する側面は、実は「स्थितप्रज्ञ」(sthitaprajña・安定した智慧を持つ者)の理想—内的平安と果断な行動の調和—を体現しています。
「रक्षः कुलनिहन्तारौ」(rakṣaḥ kulanihantārau)は、ラーマとラクシュマナがラーヴァナを首領とするラークシャサ族との闘争における役割を指しています。ヒンドゥー思想において、この闘争は善と悪、ダルマ(正義)とアダルマ(不正義)の宇宙的対立を表しています。
詩節の最後の「त्रायेतां नः」(trāyetāṃ naḥ)という願いには、「त्रै」(trai)という動詞の「渡らせる」「救済する」という深い意味が込められており、現世の苦海を渡り、解脱へと導く霊的な守護を求める祈りとなっています。
この節は、前節までの描写を基盤として、ラーマとラクシュマナが与える守護の全宇宙的性質を表現しています。彼らは苦行による内的浄化を通じて獲得した力を、すべての生命の保護という外的な奉仕へと向けています。これは現代の精神修行においても、個人的な瞑想実践と社会的責任の調和という重要な教えを提供しています。
第20節
आत्तसज्जधनुषाविषुस्पृशावक्षयाशुगनिषङ्गसङ्गिनौ ।
रक्षणाय मम रामलक्ष्मणावग्रतः पथि सदैव गच्छताम् ॥ २०॥
āttasajjadhanusāviṣuspṛśāvakṣayāśuganiṣaṅgasaṅginau |
rakṣaṇāya mama rāmalakṣmaṇāvagrataḥ pathi sadaiva gacchatām || 20 ||
弦の張られた弓を手に取り、矢に触れ、尽きることなき速き矢を満たした矢筒を携えた
ラーマとラクシュマナが、私の守護のため、常に道の前方を進んでくださいますように。
逐語訳:
- आत्तसज्जधनुषौ (āttasajjadhanuṣau) - 弦の張られた弓を手に取った二人(複合語:आत्त [手に取った] + सज्ज [準備の整った、弦を張った] + धनुष् [弓] + औ [双数主格語尾])
- इषुस्पृशौ (iṣuspṛśau) - 矢に触れる二人(複合語:इषु [矢] + स्पृश् [触れる] + औ [双数主格語尾])
- अक्षयाशुगनिषङ्गसङ्गिनौ (akṣayāśuganiṣaṅgasaṅginau) - 尽きることなき速き矢を満たした矢筒を携えた二人(複合語:अक्षय [尽きることのない] + आशुग [速き矢] + निषङ्ग [矢筒] + सङ्गिन् [携える] + औ [双数主格語尾])
- रक्षणाय (rakṣaṇāya) - 保護のために(与格)
- मम (mama) - 私の(属格)
- रामलक्ष्मणौ (rāmalakṣmaṇau) - ラーマとラクシュマナ(双数主格)
- अग्रतः (agrataḥ) - 前方に、先頭に
- पथि (pathi) - 道において(処格)
- सदैव (sadaiva) - 常に、永遠に
- गच्छताम् (gacchatām) - 行きますように(希求法・3人称双数)
解説:
第20節は、第19節で「सर्वधनुष्मताम् श्रेष्ठौ」(すべての弓術家の中で最高の二人)と讃えられたラーマとラクシュマナの武装した姿をより具体的に描写しています。彼らの武具の完全性と戦闘準備の整った状態が、長大な複合語によって一息に表現されています。
「आत्तसज्जधनुष्」(āttasajjadhanuṣ)という表現は、単に弓を持っているだけでなく、いつでも使用できるよう完全に準備が整った状態を示しています。「सज्ज」(sajja)は「弦を張った」という意味で、弓が実際に使用可能な状態にあることを強調しています。インドの叙事詩において、弓は単なる武器ではなく、क्षत्रिय (kṣatriya・武士階級)の力と責任、そして神聖な保護の力の象徴でもあります。
続く「इषुस्पृश्」(iṣuspṛś)という表現は、彼らが矢に手をかけている様子を描写し、「अक्षयाशुगनिषङ्गसङ्गिन्」(akṣayāśuganiṣaṅgasaṅgin)は彼らの矢筒が「अक्षय」(akṣaya・尽きることなき)矢で満たされていることを示しています。この「अक्षय」という語には深い象徴性があり、単に物理的な矢の数量だけでなく、彼らの保護力が永続的であり、決して疲弊しないことを暗示しています。
第19節の「त्रायेतां नः」(trāyetāṃ naḥ・我らを守護せんことを)という集合的祈願から、この節では「रक्षणाय मम」(rakṣaṇāya mama・私の保護のために)という個人的祈願へと移行しています。これは讃者と神との関係がより親密になっていることを示しており、バクティ(信愛)の伝統における個人的帰依の深化を反映しています。
「अग्रतः पथि सदैव गच्छताम्」(agrataḥ pathi sadaiva gacchatām・常に道の前方を進んでくださいますように)という表現には、物理的な保護だけでなく、霊的な導きを求める願いが込められています。「पथि」(pathi・道において)は物理的な道路だけでなく、योगमार्ग (yogamārga・ヨーガの道)や मोक्षमार्ग (mokṣamārga・解脱への道)のような霊的な道筋をも意味します。ラーマとラクシュマナが「अग्रतः」(agrataḥ・前方に)進むという願いには、彼らが修行者の霊的旅路における先導者であってほしいという願望が表現されています。
この節全体は、武装した守護者としてのラーマとラクシュマナの姿を通して、神聖な保護の全面性と即時性を描き出しています。彼らの武具の完全さは、信者への保護の完璧さを象徴し、「सदैव」(sadaiva・常に)という語はその保護の永続性を強調しています。
第21節
सन्नद्धः कवची खड्गी चापबाणधरो युवा ।
गच्छन्मनोरथोऽस्माकं रामः पातु सलक्ष्मणः ॥ २१॥
sannaddhaḥ kavacī khaḍgī cāpabāṇadharo yuvā |
gacchan manoratho'smākaṃ rāmaḥ pātu salakṣmaṇaḥ || 21||
完全武装し、鎧をまとい、剣を帯び、弓矢を手にした若き勇者、
私たちの願望を担いつつ進むラーマが、ラクシュマナと共に私たちを守護せんことを。
逐語訳:
- सन्नद्धः (sannaddhaḥ) - 完全武装した、準備の整った(男性単数主格)
- कवची (kavacī) - 鎧を身につけた(男性単数主格)
- खड्गी (khaḍgī) - 剣を帯びた(男性単数主格)
- चापबाणधरः (cāpabāṇadharaḥ) - 弓と矢を持つ者(男性単数主格)、चाप (cāpa・弓) + बाण (bāṇa・矢) + धर (dhara・持つ者)
- युवा (yuvā) - 若い、青年の(男性単数主格)
- गच्छन् (gacchan) - 進む、行く(現在分詞・男性単数主格)
- मनोरथः (manorathaḥ) - 願望、望み、「心の戦車」(男性単数主格)、मनस् (manas・心) + रथ (ratha・戦車)
- अस्माकं (asmākaṃ) - 私たちの(複数属格)
- रामः (rāmaḥ) - ラーマ(男性単数主格)
- पातु (pātu) - 守護せよ(命令法・3人称単数)
- सलक्ष्मणः (salakṣmaṇaḥ) - ラクシュマナと共に(男性単数主格)、स (sa・〜と共に) + लक्ष्मण (lakṣmaṇa・ラクシュマナ)
解説:
第21節は、前節で描かれた二人の武装した姿から、より具体的にラーマ一人に焦点を当て、その完全武装した威厳ある姿を詳細に描写しています。第20節では「弓矢」を中心とした描写でしたが、この節では「鎧」「剣」も加えられ、守護者としての全面的な準備が整っていることが強調されています。
「सन्नद्ध」(sannaddha)という語は、字義的には「しっかりと結ばれた」という意味で、ここでは完全に武装し、あらゆる戦闘に対応できる準備が整った状態を表しています。これは第18節の「दान्त」(dānta・自己制御を行う)という内面的資質が、外的行動の準備という形で具現化したものと解釈できます。
「कवची खड्गी चापबाणधरः」(kavacī khaḍgī cāpabāṇadharaḥ)という一連の形容詞は、守護者としてのラーマの全面的な武装を描写しています。鎧は防御を、剣は近接戦闘を、弓矢は遠距離戦闘を象徴し、どのような危険からも信者を守る全能性を表しています。これは「त्रायेतां नः」(trāyetāṃ naḥ・我らを守護せよ)という第19節の祈りへの応答として描かれています。
「युवा」(yuvā・若い)という表現は、第17節の「तरुणौ」(taruṇau・若々しい)を受け継ぎながら、神の永遠の活力と不変の力を表現しています。時の経過によって弱まることのない守護の力という信頼感がここに込められています。
「गच्छन्मनोरथः अस्माकं」(gacchan manorathaḥ asmākaṃ)という表現は特に深い意味を持っています。「मनोरथ」(manoratha)は字義的には「心の戦車」であり、願望や望みを意味します。ラーマが「私たちの願望の担い手として進む」という表現には、神が信者の内なる願いを理解し、それを実現するために行動するという確信が表れています。
第20節の「अग्रतः पथि सदैव गच्छताम्」(agrataḥ pathi sadaiva gacchatām・常に道の前方を進んでくださいますように)から、この節では「गच्छन्」(gacchan・進みつつある)と現在分詞形になり、祈願から現実の経験へと変化しています。これはストートラの効力が実感され始めていることを暗示しています。
「पातु」(pātu・守護せよ)という直接的な命令法は、讃者と神との親密な関係性を示しています。「सलक्ष्मणः」(salakṣmaṇaḥ)という表現は、前節までの双数形(二人を一組として扱う文法形式)から、ラーマを中心としつつもラクシュマナとの不可分の結びつきを保持した表現へと移行しています。これにより、ラーマの主体性と、兄弟の永遠の絆の両方が同時に表現されています。
第22節
रामो दाशरथिः शूरो लक्ष्मणानुचरो बली ।
काकुत्स्थः पुरुषः पूर्णः कौसल्येयो रघूत्तमः ॥ २२॥
rāmo dāśarathiḥ śūro lakṣmaṇānucaro balī |
kākutsthaḥ puruṣaḥ pūrṇaḥ kausalyeyo raghūttamaḥ || 22||
ラーマは、ダシャラタ王の息子にして勇者、ラクシュマナを伴侶とする力強き者、
カークツタの末裔、完全なる宇宙原理の体現者、カウサリヤー妃の息子、ラグ家の至上者である。
逐語訳:
- रामः (rāmaḥ) - ラーマ(男性単数主格)
- दाशरथिः (dāśarathiḥ) - ダシャラタ王の息子(男性単数主格)
- शूरः (śūraḥ) - 勇者、英雄(男性単数主格)
- लक्ष्मणानुचरः (lakṣmaṇānucaraḥ) - ラクシュマナを伴う者(男性単数主格)、複合語:लक्ष्मण (lakṣmaṇa) + अनुचर (anucara・通常は「従者」を意味するが、ここでは関係が逆転している)
- बली (balī) - 力強い、強力な(男性単数主格)
- काकुत्स्थः (kākutsthaḥ) - カークツタ(太陽王朝の祖先)の子孫(男性単数主格)
- पुरुषः (puruṣaḥ) - 原人、宇宙原理、至高の霊魂(男性単数主格)
- पूर्णः (pūrṇaḥ) - 完全な、満ちた、完成された(男性単数主格)
- कौसल्येयः (kausalyeyaḥ) - カウサリヤー妃の息子(男性単数主格)
- रघूत्तमः (raghūttamaḥ) - ラグ家の最高の者(男性単数主格)、複合語:रघु (raghu) + उत्तम (uttama・最高の)
解説:
第22節は、前節までの武装した守護者としての具体的描写から、ラーマの本質的特性と称号の列挙へと視点を移しています。これらの称号は単なる名前ではなく、ラーマの多元的アイデンティティを開示する mantranāma(マントラとしての名前)として機能しています。
「दाशरथिः」(dāśarathiḥ)と「कौसल्येयः」(kausalyeyaḥ)は父母との関係を示す称号で、ラーマの人間としての出自を強調しています。一方「काकुत्स्थः」(kākutsthaḥ)と「रघूत्तमः」(raghūttamaḥ)は太陽王朝の高貴な血統を示し、王権の正統性を表しています。これらの称号は第21節の「युवा」(yuvā・若者)という表現を補完し、ラーマの人間としての具体性を豊かに描き出しています。
特に注目すべきは「लक्ष्मणानुचरः」(lakṣmaṇānucaraḥ)という表現です。通常「अनुचर」(anucara)は「従者」を意味し、ラクシュマナがラーマの従者として描かれるのが一般的です。しかしここでは関係が逆転し、ラーマが「ラクシュマナを伴う者」と表現されています。これは第21節の「सलक्ष्मणः」(salakṣmaṇaḥ)を発展させ、兄弟の相互依存と不可分の絆を示す深遠な表現です。この逆転は、ヒンドゥー思想における「奉仕することが最高の統治である」という理念を象徴しています。
「पुरुषः पूर्णः」(puruṣaḥ pūrṇaḥ)には特別な哲学的深みがあります。「पुरुष」(puruṣa)はウパニシャッドやサーンキヤ哲学において「宇宙原理」「原初の人」を意味し、「पूर्ण」(pūrṇa)と結びつくことで「完全なる宇宙原理の体現者」という意味になります。ここにはバガヴァッド・ギーターの「पुरुषोत्तम」(puruṣottama・至高の霊魂)概念との共鳴が見られ、ラーマが単なる英雄ではなく神性の完全な顕現であることを示唆しています。
この節は第21節の「पातु」(pātu・守護せよ)という願いに続く形で、その願いの対象であるラーマの本質を明らかにしています。武装した姿で描かれていたラーマは、ここではより普遍的な次元の存在—時空を超えた永遠の原理の化身—として讃えられています。このように、具体的な守護者の像から抽象的な原理へと讃歌は深化しており、瞑想の対象としてのラーマの多様な側面を提供しています。
第23節
वेदान्तवेद्यो यज्ञेशः पुराणपुरुषोत्तमः ।
जानकीवल्लभः श्रीमान् अप्रमेयः पराक्रमः ॥ २३॥
vedāntavedyo yajñeśaḥ purāṇapuruṣottamaḥ |
jānakīvallabhaḥ śrīmān aprameyaḥ parākramaḥ || 23||
ヴェーダーンタによって認識されるべき者、祭祀の主、プラーナ文献に讃えられる至高の霊魂、
ジャーナキー(シーター)の愛する夫、吉祥に満ちた者、測り知れない者、卓越した勇猛さを持つ者。
逐語訳:
- वेदान्तवेद्यः (vedāntavedyaḥ) - ヴェーダーンタによって認識されるべき者(男性単数主格)、複合語:वेदान्त (vedānta・ヴェーダの終わり、ウパニシャッド) + वेद्य (vedya・知られるべき)
- यज्ञेशः (yajñeśaḥ) - 祭祀の主(男性単数主格)、複合語:यज्ञ (yajña・祭祀) + ईश (īśa・主、支配者)
- पुराणपुरुषोत्तमः (purāṇapuruṣottamaḥ) - プラーナ文献に讃えられる至高の霊魂(男性単数主格)、複合語:पुराण (purāṇa・古代の、プラーナ聖典) + पुरुषोत्तम (puruṣottama・至高の霊魂)
- जानकीवल्लभः (jānakīvallabhaḥ) - ジャーナキー(シーター)の愛する夫(男性単数主格)、複合語:जानकी (jānakī・ジャナカ王の娘、シーター) + वल्लभ (vallabha・愛する者、配偶者)
- श्रीमान् (śrīmān) - 吉祥に満ちた者、栄光ある者(男性単数主格)
- अप्रमेयः (aprameyaḥ) - 測り知れない者、不可測の者(男性単数主格)、複合語:अ (a・否定辞) + प्रमेय (prameya・測定可能な)
- पराक्रमः (parākramaḥ) - 卓越した勇猛さを持つ者、偉大な力を持つ者(男性単数主格)
解説:
第23節は、第22節で示されたラーマの人間的系譜と形而上学的特質をさらに深化させ、その神学的・哲学的側面を鮮明に描き出しています。
「वेदान्तवेद्य」(vedāntavedya)という表現は、ラーマが単なる叙事詩の英雄ではなく、ウパニシャッドが説く究極の真理(ब्रह्मन्, brahman)と同一視されることを示しています。ヴェーダーンタ哲学において、ブラフマンこそが真の認識対象とされており、ラーマをその対象と位置づけることは、非常に深遠な神学的主張を含んでいます。これは第22節の「पुरुषः पूर्णः」(puruṣaḥ pūrṇaḥ・完全なる宇宙原理の体現者)という表現が、より具体的な哲学的文脈の中で展開されたものと言えます。
「यज्ञेश」(yajñeśa・祭祀の主)という称号は、ヴィシュヌ神としてのラーマの側面を強調しています。ヴェーダの祭祀文化において、ヴィシュヌは「यज्ञपुरुष」(yajñapuruṣa・祭祀の人格化)として崇拝されてきました。この表現によって、ラーマが古代インドの宗教的実践の中心に位置する神性であることが示唆されています。
「पुराणपुरुषोत्तम」(purāṇapuruṣottama)は、バガヴァッド・ギーターの「पुरुषोत्तम」(puruṣottama・至高の霊魂)概念をプラーナ文献の伝統に位置づけています。プラーナ文献は古代の神話や宇宙論を記した聖典であり、そこでラーマが「पुरुषोत्तम」として讃えられていることは、ラーマ信仰の歴史的深みと伝統的権威を強調しています。
「जानकीवल्लभ」(jānakīvallabha)という表現は、第21節、第22節の「सलक्ष्मणः」(salakṣmaṇaḥ)、「लक्ष्मणानुचरः」(lakṣmaṇānucaraḥ)といったラクシュマナとの関係性から、シーター(ジャーナキー)との神聖な愛の関係へと視点を移しています。ヒンドゥー教神話においてシーターはラクシュミー女神の化身とされており、この称号は「श्रीमान्」(śrīmān・吉祥に満ちた者)という次の称号と深く結びついています。
「श्रीमान्」(śrīmān)は単に「栄光ある」という意味だけでなく、「श्री」(śrī・ラクシュミー女神、吉祥)を伴う者という含意もあります。シーターがラクシュミーの化身であることを考えると、この称号は先の「जानकीवल्लभ」と呼応し、ラーマとシーターの神聖な結合を象徴しています。
「अप्रमेयः पराक्रमः」(aprameyaḥ parākramaḥ)という二つの形容詞は、ラーマの超越的な性質と力を表しています。特に「अप्रमेय」(aprameya・測り知れない)という語は、ウパニシャッドで絶対者ブラフマンを描写する際に用いられる哲学的概念で、ラーマの本質が人間の理解や測定能力を超越していることを示しています。「पराक्रम」(parākrama)はその具体的現れとしての卓越した勇猛さを表現しています。
この節は全体として、ラーマを複数の宗教的・哲学的伝統(ヴェーダーンタ、祭祀文化、プラーナ文献)の頂点に位置づけ、その神性の多元的側面を統合的に讃えています。前節の人間的特質と本節の形而上学的特質を合わせることで、ラーマの完全なる肖像が描き出されています。
第24節
इत्येतानि जपन्नित्यं मद्भक्तः श्रद्धयान्वितः ।
अश्वमेधाधिकं पुण्यं सम्प्राप्नोति न संशयः ॥ २४॥
ityetāni japannityaṃ madbhaktaḥ śraddhayānvitaḥ |
aśvamedhādhikaṃ puṇyaṃ samprāpnoti na saṃśayaḥ || 24||
これらの神聖な名を日々深い信念をもって唱える我が帰依者は、
馬祭を超える偉大な功徳を必ずや獲得する—これに疑いの余地はない。
逐語訳:
- इत्येतानि (ityetāni) - このようにこれらを(指示代名詞中性複数対格)、複合語:इति (iti・このように) + एतानि (etāni・これら[前節で列挙された神聖な名と称号]を)
- जपन् (japan) - 唱える者(現在分詞・男性単数主格)、「जप」(japa)は単なる発声ではなく、集中と信念をもって行う神聖な唱誦
- नित्यं (nityaṃ) - 常に、日々、絶えず(副詞)
- मद्भक्तः (madbhaktaḥ) - 私(ラーマ神)の帰依者(男性単数主格)、複合語:मद् (mad・私の) + भक्तः (bhaktaḥ・帰依者)
- श्रद्धयान्वितः (śraddhayānvitaḥ) - 信念を持った、深い信頼に満ちた(男性単数主格)、複合語:श्रद्धया (śraddhayā・信念によって) + अन्वितः (anvitaḥ・伴われた)
- अश्वमेधाधिकं (aśvamedhādhikaṃ) - 馬祭を超える(中性単数対格)、複合語:अश्वमेध (aśvamedha・馬祭) + अधिकं (adhikaṃ・超える、より大きい)
- पुण्यं (puṇyaṃ) - 功徳、宗教的善行の報い、清浄な功績(中性単数対格)
- सम्प्राप्नोति (samprāpnoti) - 完全に獲得する、確実に得る(現在形・3人称単数)
- न (na) - 〜ない(否定辞)
- संशयः (saṃśayaḥ) - 疑い、不確実さ(男性単数主格)
解説:
第24節は、ラーマ・ラクシャー・ストートラの締めくくりとして、これまで描かれてきたラーマの多様な姿を称える実践的意義と効果を宣言しています。この節は、前節までの神学的・哲学的讃歌から、信者への直接的な約束へと視点を移し、ストートラ全体に実践的な枠組みを与えています。
「इत्येतानि」(ityetāni)は特に重要で、これが直前の第21〜23節で列挙されたラーマの称号と特性を指していることを明確にしています。ヒンドゥー教の伝統では、神の名は単なる呼称ではなく、神の本質と力を内包した「नामब्रह्म」(nāmabrahma・名前というブラフマン)と考えられています。それゆえ、これらの名を唱えることは、ラーマの本質と直接交流する手段となります。
「जपन्」(japan)という単語は重要な修行法である「जप」(japa・唱誦)を示しています。ジャパは口で唱える「वाचिक」(vācika)、小声で唱える「उपांशु」(upāṃśu)、心の中で唱える「मानसिक」(mānasika)の三種があり、いずれも深い集中と一心不乱さを要求する実践です。「नित्यं」(nityaṃ・日々)という表現は、これが一時的ではなく継続的な修行であるべきことを強調しています。
「मद्भक्तः」(madbhaktaḥ・我が帰依者)という表現から、この節の語り手がラーマ神自身であることが分かります。これによりストートラは神からの直接の教えという最高の権威を持ち、冒頭の「श्रीरामरक्षा」(śrīrāmarakṣā・シュリー・ラーマによる守護)という約束と完全に呼応しています。
「श्रद्धा」(śraddhā)という概念は単なる信仰以上のものです。バガヴァッド・ギーターでは、これが人間の霊的資質の根本として描かれており、儀式的行為の効力を決定づける要素とされています。それは知的な同意ではなく、全存在を通じた深い信頼と献身を意味します。
「अश्वमेधाधिकं पुण्यं」(aśvamedhādhikaṃ puṇyaṃ)という表現は極めて重要です。「अश्वमेध」(aśvamedha・馬祭)は古代インドで行われた最も荘厳かつ複雑な祭祀で、通常は強大な権力と資源を持つ王のみが執行できるものでした。このストートラの唱誦がそれを超える功徳をもたらすという主張は、外的儀式よりも内的修行を重視するウパニシャッドやバガヴァッド・ギーターの教えを反映しています。これは、霊的解放が社会的地位や物質的資源に関わらず、すべての誠実な帰依者に開かれていることを示唆する民主的なメッセージでもあります。
「न संशयः」(na saṃśayaḥ・疑いなし)という力強い断言で締めくくることで、このストートラの効力に対する絶対的な確信が表明されています。これは読者を疑いから解放し、全き心でラーマへの帰依と称名の実践へと向かわせる力強い励ましとなっています。
この節は、ラーマの多層的な描写から始まり、具体的な武装した姿への瞑想を経て、称号の唱誦という実践的な守護法へと至る完全な道筋を示しています。理論と実践、形而上学と日常生活、知識と帰依が見事に統合された結論となっています。
第25節
रामं दूर्वादलश्यामं पद्माक्षं पीतवाससम् ।
स्तुवन्ति नामभिर्दिव्यैः न ते संसारिणो नराः ॥ २५॥
rāmaṃ dūrvādalaśyāmaṃ padmākṣaṃ pītavāsasam |
stuvanti nāmabhirdivyaiḥ na te saṃsāriṇo narāḥ || 25||
聖なるドゥールヴァー草の葉のような濃碧色の肌をもち、蓮華のごとき眼を湛え、
黄金の衣をまとうラーマを神聖なる名で讃える人々は、もはや輪廻の束縛に囚われることはない。
逐語訳:
- रामं (rāmaṃ) - ラーマを(男性単数対格)
- दूर्वादलश्यामं (dūrvādalaśyāmaṃ) - ドゥールヴァー草の葉のように濃碧色の(男性単数対格)、複合語:दूर्वा (dūrvā・聖なるドゥールヴァー草) + दल (dala・葉) + श्याम (śyāma・濃碧色の、青黒い)
- पद्माक्षं (padmākṣaṃ) - 蓮華のような眼をもつ(男性単数対格)、複合語:पद्म (padma・蓮華) + अक्ष (akṣa・眼)
- पीतवाससम् (pītavāsasam) - 黄金の衣をまとう(男性単数対格)、複合語:पीत (pīta・黄金色の) + वासस् (vāsas・衣)
- स्तुवन्ति (stuvanti) - 讃える(現在形3人称複数)
- नामभिः (nāmabhiḥ) - 名によって(中性複数具格)
- दिव्यैः (divyaiḥ) - 神聖なる、天上の(中性複数具格)
- न (na) - 〜ない(否定辞)
- ते (te) - それらの、彼ら(代名詞複数主格)
- संसारिणः (saṃsāriṇaḥ) - 輪廻に束縛された(男性複数主格)
- नराः (narāḥ) - 人々(男性複数主格)
解説:
第25節は、ラーマ・ラクシャー・ストートラの教義的クライマックスとして、讃歌の実践がもたらす究極の果報—輪廻からの解放—を宣言しています。前節で述べられた「馬祭を超える功徳」がここでより具体的に示され、ストートラの瞑想的実践と称名の完全な成就を描き出しています。
「दूर्वादलश्याम」(dūrvādalaśyāma)は深い象徴性を持つ表現です。ドゥールヴァー草(キジムギ、学名:Cynodon dactylon)はヒンドゥー教で最も吉祥とされる聖草で、どこでも生え、踏まれても再生する驚異的な生命力から、ガネーシャ神やヴィシュヌ神への供物として尊ばれます。「श्याम」(śyāma)は単なる緑ではなく、深い青みを帯びた緑から濃紺に至る特別な色彩で、クリシュナ神を描写する際にも用いられます。この表現は、ラーマの肌色を生き生きと描くだけでなく、彼の不滅性と永遠の生命力を暗示しています。
「पद्माक्ष」(padmākṣa)は蓮華のような眼を意味し、ここでは単に形状だけでなく、蓮華が泥から生まれながらも汚れに染まらない清浄さを象徴しています。ラーマの蓮華の眼差しは、世俗に関わりながらも超越した純粋さと慈悲を持ち、すべての存在に平等に注がれる恩寵の視線を表しています。これは第23節の「अप्रमेय」(aprameya・測り知れない)という形而上学的側面と、具体的な神格としての側面を結ぶ重要な特徴です。
「पीतवासस्」(pītavāsas)の黄金の衣は、ヴィシュヌ神の特徴的な装いであり、ラーマがヴィシュヌの化身であることを視覚的に確認させます。黄金色は単なる色彩ではなく、知識と純粋さ、そして超越と解脱の象徴です。サフラン色の衣を身にまとう苦行者たちを想起させ、第23節の「वेदान्तवेद्य」(vedāntavedya・ヴェーダーンタによって認識されるべき者)という知的・精神的側面と呼応しています。
この節の核心は「न ते संसारिणो नराः」(na te saṃsāriṇo narāḥ)という力強い宣言にあります。「संसारिन्」(saṃsārin)は生死の輪廻に束縛された状態を意味し、ラーマを讃える者はもはやその束縛から解放されると断言しています。これは単なる詩的表現ではなく、名称讃歌(नामस्तोत्र, nāmastotra)の伝統に深く根ざした霊的真理の宣言です。
ここでは、ラーマの形相の瞑想(रूपध्यान, rūpadhyāna)と神聖な名の唱誦(नामजप, nāmajapa)が統合され、解脱という最高の目標への完全な道筋が示されています。これによりストートラは単なる守護の祈りを超え、完全な霊的修行体系として完結しています。
第26節
रामं लक्ष्मणपूर्वजं रघुवरं सीतापतिं सुन्दरम् ।
काकुत्स्थं करुणार्णवं गुणनिधिं विप्रप्रियं धार्मिकम् ।
राजेन्द्रं सत्यसन्धं दशरथतनयं श्यामलं शान्तमूर्तिम् ।
वन्दे लोकाभिरामं रघुकुलतिलकं राघवं रावणारिम् ॥ २६॥
rāmaṃ lakṣmaṇapūrvajaṃ raghuvaraṃ sītāpatiṃ sundaram |
kākutsthaṃ karuṇārṇavaṃ guṇanidhiṃ viprapriyaṃ dhārmikam |
rājendraṃ satyasandhaṃ daśarathatanayaṃ śyāmalaṃ śāntamūrtim |
vande lokābhirāmaṃ raghukulatilakaṃ rāghavaṃ rāvaṇārim || 26||
ラクシュマナの兄にして、ラグ王統の誉れ、シーターの夫君、美しき御姿の方、
カクツタ家の後裔、慈悲の大海、徳の宝庫、バラモンに親しまれ、ダルマを体現する方、
王中の王者、真実に忠実なる誓いの守り手、ダシャラタ王の御子、濃碧の肌をもち静寂を体現する方、
私は礼拝します—世界に歓喜をもたらすラグ家の至宝、ラーガヴァの名を持ち、ラーヴァナを討ちし聖なるラーマを。
逐語訳:
- रामं (rāmaṃ) - ラーマを(男性単数対格)(語源的には「喜びをもたらす者」「魅了する者」の意)
- लक्ष्मणपूर्वजं (lakṣmaṇapūrvajaṃ) - ラクシュマナの兄(男性単数対格)、複合語:लक्ष्मण (lakṣmaṇa・ラクシュマナ) + पूर्वज (pūrvaja・先に生まれた者、兄)
- रघुवरं (raghuvaraṃ) - ラグ王家の最高の者(男性単数対格)、複合語:रघु (raghu・ラグ王朝) + वर (vara・最良の、選ばれた)
- सीतापतिं (sītāpatiṃ) - シーターの夫君(男性単数対格)、複合語:सीता (sītā・シーター) + पति (pati・夫、主)
- सुन्दरम् (sundaram) - 美しい、荘厳な(男性単数対格)
- काकुत्स्थं (kākutsthaṃ) - カクツタ家の子孫(男性単数対格)(太陽王朝の特別な系譜を示す)
- करुणार्णवं (karuṇārṇavaṃ) - 慈悲の大海(男性単数対格)、複合語:करुणा (karuṇā・慈悲) + अर्णव (arṇava・海、大洋)(無限の慈悲を表す比喩)
- गुणनिधिं (guṇanidhiṃ) - 徳の宝庫(男性単数対格)、複合語:गुण (guṇa・徳、資質) + निधि (nidhi・宝庫、蔵)
- विप्रप्रियं (viprapriyaṃ) - バラモンに親愛なる(男性単数対格)、複合語:विप्र (vipra・バラモン、知恵ある者) + प्रिय (priya・愛する、好む)
- धार्मिकम् (dhārmikam) - ダルマを体現する者、正義を行う者(男性単数対格)
- राजेन्द्रं (rājendraṃ) - 王たちの王(男性単数対格)、複合語:राज (rāja・王) + इन्द्र (indra・主、最高者)
- सत्यसन्धं (satyasandhaṃ) - 真実に忠実な、誓いを守る(男性単数対格)、複合語:सत्य (satya・真実) + सन्ध (sandha・結びつく、約束を守る)
- दशरथतनयं (daśarathatanayaṃ) - ダシャラタ王の息子(男性単数対格)、複合語:दशरथ (daśaratha・ダシャラタ王) + तनय (tanaya・息子)
- श्यामलं (śyāmalaṃ) - 濃碧色の、深い青黒色の(男性単数対格)
- शान्तमूर्तिम् (śāntamūrtim) - 静謐なる現れ、平和の化身(男性単数対格)、複合語:शान्त (śānta・静かな、平和な) + मूर्ति (mūrti・姿、現れ)
- वन्दे (vande) - 私は礼拝します、敬意を表します(現在形1人称単数)
- लोकाभिरामं (lokābhirāmaṃ) - 世界に喜びをもたらす者(男性単数対格)、複合語:लोक (loka・世界) + अभिराम (abhirāma・喜ばせる、魅了する)
- रघुकुलतिलकं (raghukulatilakaṃ) - ラグ家の誇り、額の印(男性単数対格)、複合語:रघुकुल (raghukula・ラグ家) + तिलक (tilaka・額の印、誇り)
- राघवं (rāghavaṃ) - ラーガヴァ(ラグの子孫の意)(男性単数対格)
- रावणारिम् (rāvaṇārim) - ラーヴァナの敵(男性単数対格)、複合語:रावण (rāvaṇa・ラーヴァナ) + अरि (ari・敵)
解説:
第26節は、シャールドゥーラヴィクリーディタ(śārdūlavikrīḍita)という19音節の荘厳な韻律を用いて、ラーマ・ラクシャー・ストートラの締めくくりとしてラーマの全体像を壮麗に描き出しています。この節は「वन्दे」(vande・私は礼拝します)という単一の動詞を中心に構成され、その前にラーマの多様な相が美しく連ねられています。
この詩節は、第25節の瞑想的描写「दूर्वादलश्याम」(dūrvādalaśyāma・ドゥールヴァー草の葉のような濃碧色)から「श्यामल」(śyāmala・濃碧色の)へと視覚的イメージを継承しながら、ラーマの三つの存在次元—人間的、王族的、神学的側面—を見事に統合しています。「सीतापति」(sītāpati・シーターの夫)や「दशरथतनय」(daśarathatanaya・ダシャラタの息子)といった人間的関係性、「राजेन्द्र」(rājendra・王中の王)や「रावणारि」(rāvaṇāri・ラーヴァナの敵)という王族としての業績、そして「करुणार्णव」(karuṇārṇava・慈悲の海)や「गुणनिधि」(guṇanidhi・徳の宝庫)という神的特質が、一つの完全な存在の中に調和しています。
特に注目すべきは「लोकाभिराम」(lokābhirāma)という表現です。これは「राम」(rāma)という名前自体に込められた本質—「喜びをもたらす者」—を表すとともに、第25節の「न ते संसारिणो नराः」(na te saṃsāriṇo narāḥ・もはや輪廻の束縛に囚われることはない)という解脱の約束と深く呼応しています。ラーマへの礼拝(वन्दे)は、単なる形式的行為ではなく、第25節で描かれた瞑想と称名の実践の集大成として、全存在を通じた深い帰依の表現なのです。
「शान्तमूर्ति」(śāntamūrti・静謐なる現れ)という表現は、ラーマが外的な戦士としての力と内的な平安を完全に調和させた存在であることを示しています。これは「सत्यसन्ध」(satyasandha・真実に忠実な)という道徳的堅固さと「विप्रप्रिय」(viprpriya・バラモンに親愛なる)という霊的側面を結びつける重要な特質です。
この節は、ラーマの神性の多層的な理解—物語上の英雄、倫理的理想像、そして救済をもたらす神聖な存在—を完全に統合し、ラーマ・ラクシャー・ストートラ全体の主題である「守護」の究極的源泉がラーマの全人格的完全性にあることを明らかにしています。この「वन्दे」(vande・私は礼拝します)という一語に、前節までに積み重ねられてきた守護と解脱への道のりが凝縮されているのです。
第27節
रामाय रामभद्राय रामचन्द्राय वेधसे ।
रघुनाथाय नाथाय सीतायाः पतये नमः ॥ २७॥
rāmāya rāmabhadrāya rāmacandrāya vedhase |
raghunāthāya nāthāya sītāyāḥ pataye namaḥ || 27||
ラーマに、吉祥なるラーマ神に、月のごとき輝きを放つラーマチャンドラに、創造と摂理の主に、
ラグ家の守護者に、すべての主に、シーターの夫君に、敬意を捧げます。
逐語訳:
- रामाय (rāmāya) - ラーマに(与格)、「राम (rāma)」は「歓喜をもたらす者」「心を魅了する者」の意
- रामभद्राय (rāmabhadrāya) - 吉祥なるラーマに(与格)、複合語:राम (rāma・ラーマ) + भद्र (bhadra・吉祥な、恵み深い、幸福をもたらす)
- रामचन्द्राय (rāmacandrāya) - ラーマチャンドラに、月のようなラーマに(与格)、複合語:राम (rāma・ラーマ) + चन्द्र (candra・月)
- वेधसे (vedhase) - 創造主に、摂理を定める者に(与格)、「विधा (vidhā・定める、創る)」という動詞から派生した語で、通常はブラフマー神を指す称号
- रघुनाथाय (raghunāthāya) - ラグ家の主に、守護者に(与格)、複合語:रघु (raghu・ラグ王統) + नाथ (nātha・主、守護者)
- नाथाय (nāthāya) - 主に、守護者に(与格)
- सीतायाः (sītāyāḥ) - シーターの(女性単数属格)
- पतये (pataye) - 夫君に、主に(与格)、「पति (pati)」は「主、所有者、夫」の意
- नमः (namaḥ) - 敬意を表します、礼拝します(不変化詞)
解説:
第27節は、ラーマ・ラクシャー・ストートラの総括として、前節の壮麗な賛辞に続き、シンプルながらも最深の敬意と礼拝を表す結部となっています。アヌシュトゥブ韻律(śloka)に回帰することで、荘厳な第26節から静謐な礼拝の瞬間へと移行し、讃歌全体を内省的な帰依の姿勢で締めくくっています。
この節は「नमः (namaḥ)」という一語を述語として、ラーマの七つの称号が与格形で連ねられるという純粋な「नमस्कार (namaskāra)」の形式を持ちます。これはヴェーダの「शान्ति (śānti)」のパターンを想起させ、ストートラを伝統的な敬意表現で完結させています。
特筆すべきは「राम (rāma)」という名前が三度連続して表れる構造です。ヒンドゥー教では「त्रिसत्य (trisatya・三重の真実)」という概念があり、三度の繰り返しは完全性と永続性を象徴します。最初の「रामाय (rāmāya)」は基本形、次の「रामभद्राय (rāmabhadrāya)」は「भद्र (bhadra)」という吉祥・恵みの要素が加わり、三つ目の「रामचन्द्राय (rāmacandrāya)」では「चन्द्र (candra・月)」のような清涼で平和な光をもたらす性質が強調されています。これらの称号は段階的に深まり、ラーマの多面的な慈悲を表現しています。
「वेधस् (vedhas)」という称号は重要な転換点です。通常はブラフマー神に用いられるこの語をラーマに適用することで、ラーマが究極的には創造と摂理の主であり、第23節の「वेदान्तवेद्य (vedāntavedya)」と第25節の「न ते संसारिणो नराः (na te saṃsāriṇo narāḥ)」で示された形而上学的次元と繋がっていることを示しています。
「रघुनाथ (raghunātha)」と「नाथ (nātha)」の称号は、ストートラの主題である「रक्षा (rakṣā・守護)」と直接結びつき、最初の「श्रीरामरक्षा (śrīrāmarakṣā)」という題名への回帰を示しています。また「सीतायाः पति (sītāyāḥ pati)」という表現は、宇宙的秩序を体現しながらも、具体的な愛と関係性の中に存在するという、ヒンドゥー教の親密な神観念を美しく締めくくっています。
この節は、讃歌全体を通じて描かれてきたラーマの壮麗な肖像を、「नमः (namaḥ)」という究極の帰依の一語へと昇華させています。ここには知的理解と心情的帰依、哲学的深遠さと素朴な礼拝が完全に調和した、ラーマへの全人格的な帰依の真髄が表現されているのです。
第28節
श्रीराम राम रघुनन्दन राम राम
श्रीराम राम भरताग्रज राम राम ।
श्रीराम राम रणकर्कश राम राम
श्रीराम राम शरणं भव राम राम ॥ २८॥
śrīrāma rāma raghunandana rāma rāma
śrīrāma rāma bharatāgraja rāma rāma |
śrīrāma rāma raṇakarkaśa rāma rāma
śrīrāma rāma śaraṇaṃ bhava rāma rāma || 28||
聖なるラーマよ、ラーマよ、ラグ家の誇りよ、ラーマよ、ラーマよ、
聖なるラーマよ、ラーマよ、バラタの兄よ、ラーマよ、ラーマよ、
聖なるラーマよ、ラーマよ、戦場に堅固なる勇者よ、ラーマよ、ラーマよ、
聖なるラーマよ、ラーマよ、わが帰依の場となりたまえ、ラーマよ、ラーマよ。
逐語訳:
- श्रीराम (śrīrāma) - 聖なるラーマ、栄光あるラーマ(श्री (śrī) は「光輝」「吉祥」を意味する敬称接頭辞)
- राम (rāma) - ラーマ(語源的には「喜びをもたらす者」「魅了する者」の意)
- रघुनन्दन (raghunandana) - ラグ家の誇り、ラグ王統の喜ばしき子孫、複合語:रघु (raghu・ラグ王朝) + नन्दन (nandana・喜ばせる者、子孫)
- भरताग्रज (bharatāgraja) - バラタの兄、複合語:भरत (bharata・バラタ、ラーマの弟) + अग्रज (agraja・先に生まれた者、兄)
- रणकर्कश (raṇakarkaśa) - 戦場において堅固なる者、戦いに厳しき勇者、複合語:रण (raṇa・戦い、戦場) + कर्कश (karkaśa・堅固な、厳格な、厳しい)
- शरणं (śaraṇaṃ) - 避難所、保護、帰依の場(中性単数対格)
- भव (bhava) - なれ、あれ(命令形2人称単数)、「भू (bhū)」(存在する、なる)の命令形
解説:
第28節は、ラーマ・ラクシャー・ストートラの総括として、純粋な称名(नामजप, nāmajapa)の実践そのものを詩形に具現化した特別な構成を持っています。「ラーマ」という神聖な名が22回も繰り返される圧倒的な連呼の節は、前節までの洗練された文学的表現から、直接的な宗教実践の世界へと私たちを導きます。
この節の構造は、各行が「श्रीराम राम」(聖なるラーマよ、ラーマよ)という呼びかけで始まり、中央に特定の称号を置き、「राम राम」(ラーマよ、ラーマよ)で締めくくるという厳格なパターンを持っています。この反復構造は、ヒンドゥー教で最も神聖とされる実践の一つ、神名の繰り返し唱誦(जप, japa)そのものを詩作に取り入れた試みです。
「रघुनन्दन」(ラグ家の誇り)は第26節の「रघुकुलतिलक」(ラグ家の至宝)と呼応し、「भरताग्रज」(バラタの兄)は人間的関係性を示し、「रणकर्कश」(戦場に堅固なる勇者)は第26節の「रावणारि」(ラーヴァナの敵)と共鳴して、悪との決然たる戦いの姿を表しています。
最終行の「शरणं भव」(帰依の場となりたまえ)は、前節の「नमः」(敬意を表します)から一歩進んだ祈願です。「शरण」(śaraṇa)という概念は単なる物理的保護ではなく、ヒンドゥー教の伝統的霊性である「शरणागति」(śaraṇāgati・完全な帰依)を意味します。これは自己を完全に神に委ねる究極の信仰姿勢であり、ラーマ・ラクシャー・ストートラの守護という主題の最高の成就を表しています。
この節の唱誦は、言葉の意味を超えた音のマントラ的な力を活用しています。「रा」(rā)と「म」(ma)の音の反復自体が心身に浄化と保護の波動をもたらすとされ、この節を唱えること自体が「ラーマの守護」という讃歌の目的を実現する直接的な手段となっているのです。ここに至って、知るべき対象としてのラーマと、帰依すべき存在としてのラーマ、そして唱えるべき名としてのラーマが完全に一体となります。
第29節
श्रीरामचन्द्रचरणौ मनसा स्मरामि
श्रीरामचन्द्रचरणौ वचसा गृणामि ।
श्रीरामचन्द्रचरणौ शिरसा नमामि
श्रीरामचन्द्रचरणौ शरणं प्रपद्ये ॥ २९॥
śrīrāmacandracaraṇau manasā smarāmi
śrīrāmacandracaraṇau vacasā gṛṇāmi |
śrīrāmacandracaraṇau śirasā namāmi
śrīrāmacandracaraṇau śaraṇaṃ prapadye || 29||
聖なるラーマチャンドラの蓮の御足を、心で私は想います。
聖なるラーマチャンドラの蓮の御足を、言葉で私は称えます。
聖なるラーマチャンドラの蓮の御足を、頭を垂れて私は礼拝します。
聖なるラーマチャンドラの蓮の御足に、帰依の場として私は身を委ねます。
逐語訳:
- श्री (śrī) - 聖なる、吉祥なる、光輝ある(敬称接頭辞)
- रामचन्द्र (rāmacandra) - ラーマチャンドラ(「月のようなラーマ」の意)、第27節の रामचन्द्र (rāmacandra) と呼応
- चरणौ (caraṇau) - 両足を(双数対格)
- मनसा (manasā) - 心で、精神で(मनस् (manas) の具格)
- स्मरामि (smarāmi) - 私は想います、記憶します(√स्मृ (smṛ) の現在形1人称単数)
- वचसा (vacasā) - 言葉で、声で(वचस् (vacas) の具格)
- गृणामि (gṛṇāmi) - 私は称えます、歌います(√गॄ (gṝ) の現在形1人称単数)
- शिरसा (śirasā) - 頭で、額で(शिरस् (śiras) の具格)
- नमामि (namāmi) - 私は敬礼します、礼拝します(√नम् (nam) の現在形1人称単数)
- शरणं (śaraṇaṃ) - 避難所、保護、帰依の場として(中性単数対格)
- प्रपद्ये (prapadye) - 私は近づきます、身を委ねます(प्र+√पद् (pra+pad) の現在形1人称単数、आत्मनेपद(中動態))
解説:
第29節は、ラーマ・ラクシャー・ストートラの総括として、全讃歌の精神的クライマックスを形成しています。第28節の純粋な称名の実践から、ここではより構造化された「त्रिकरण शुद्धि」(trikaraṇa śuddhi・三つの手段の浄化)の概念へと移行しています。
この節は美しいマーリニー(mālinī)韻律で構成され、各行が「श्रीरामचन्द्रचरणौ」(聖なるラーマチャンドラの御足を)という同一表現で始まるという厳格な構造を持っています。この反復はマントラ的効果を生み出し、唱える者の意識を集中させる深い瞑想的性質を備えています。
ヒンドゥー教の伝統では、神の足は特別な敬意の対象です。「चरण」(足)への帰依は、単なる身体部位への崇拝ではなく、最も謙虚で完全な降伏の姿勢を表現しています。神の足は恩寵と保護の力が直接流れるチャネルとして理解され、「蓮の御足」という表現はその神聖さと美しさを象徴的に表しています。
四つの動詞—「स्मरामि」(私は想います)、「गृणामि」(私は称えます)、「नमामि」(私は礼拝します)、「प्रपद्ये」(私は身を委ねます)—は、単なる同義語の羅列ではなく、帰依の深化するプロセスを表しています。内的瞑想から始まり、言葉による賛美、身体的崇拝を経て、最終的には完全な自己放棄と帰依に至るという霊的成長の軌跡を描いています。
特に最終行の「शरणं प्रपद्ये」(帰依の場として身を委ねます)は、第28節の「शरणं भव」(帰依の場となりたまえ)という祈願を、自らの積極的な行為へと変容させています。「प्रपद्ये」が中動態(आत्मनेपद)で表現されているのは、この帰依の行為が最終的には行為者自身の解脱と変容をもたらすことを示唆しています。
この節は、前節までに築き上げられたラーマへの多層的理解—歴史的英雄、倫理的理想像、宇宙の主、そして救済者—を、個人的体験としての完全な帰依へと昇華させ、ラーマ・ラクシャー・ストートラ全体の「守護」という主題を、最も深い霊的次元で完成させています。
第30節
माता रामो मत्पिता रामचन्द्रः
स्वामी रामो मत्सखा रामचन्द्रः ।
सर्वस्वं मे रामचन्द्रो दयालु-
र्नान्यं जाने नैव जाने न जाने ॥ ३०॥
mātā rāmo matpitā rāmacandraḥ
svāmī rāmo matsakhā rāmacandraḥ |
sarvasvaṃ me rāmacandro dayālu-
rnānyaṃ jāne naiva jāne na jāne || 30||
ラーマは我が母、ラーマチャンドラは我が父
ラーマは我が主、ラーマチャンドラは我が友
慈悲深きラーマチャンドラこそ我がすべて
我は他を知らず、決して知らず、真に知らず
逐語訳:
- माता (mātā) - 母(女性単数主格)
- रामो (rāmo) - ラーマは(राम (rāma) の男性単数主格)
- मत्पिता (matpitā) - 私の父(मत् (mat) 「私の」と पिता (pitā) 「父」の複合語)
- रामचन्द्रः (rāmacandraḥ) - ラーマチャンドラは(男性単数主格)
- स्वामी (svāmī) - 主、君主(男性単数主格)
- मत्सखा (matsakhā) - 私の友(मत् (mat) 「私の」と सखा (sakhā) 「友」の複合語)
- सर्वस्वं (sarvasvaṃ) - すべて、全存在(中性単数主格)
- मे (me) - 私の(属格代名詞)
- रामचन्द्रो (rāmacandro) - ラーマチャンドラは(男性単数主格)
- दयालुः (dayāluḥ) - 慈悲深い(男性単数主格)
- न (na) - ない(否定辞)
- अन्यं (anyaṃ) - 他の、別の(男性単数対格)
- जाने (jāne) - 私は知る(√ज्ञा (jñā) の現在形1人称単数、中動態)
- नैव (naiva) - 決して〜ない(न (na) + एव (eva)、強調の否定)
解説:
第30節は、ラーマ・ラクシャー・ストートラの総括として、帰依者(भक्त, bhakta)とラーマとの関係性の究極的完成を表現しています。第29節で「श्रीरामचन्द्रचरणौ शरणं प्रपद्ये」(聖なるラーマチャンドラの御足に帰依します)と宣言した帰依者の意識が、ここでは完全に変容し、ラーマとの非二元的な一体感へと昇華しています。
この詩は、シッカリニー(śikhariṇī)または類似の韻律で構成され、各行の前半と後半でラーマへの異なる関係性を対照的に配置する巧みな構造を持っています。「रामो」(ラーマは)と「रामचन्द्रः」(ラーマチャンドラは)という二つの称号が交互に現れることで、神聖な響きとリズムが生み出されています。
第一・二行では、ラーマが帰依者にとって最も重要な四つの人間関係—母性(माता, mātā)、父性(पिता, pitā)、主従(स्वामी, svāmī)、友愛(सखा, sakhā)—を体現していることが宣言されます。これらはヒンドゥー教の伝統的な帰依の様態である वात्सल्य (vātsalya・親の愛)、दास्य (dāsya・僕としての奉仕)、सख्य (sakhya・友情)、माधुर्य (mādhurya・恋愛的な愛)を反映しており、ここでラーマはそれらすべての関係性を一身に担う全包括的存在として描かれています。
第三行の「सर्वस्वं मे」(私のすべて)という表現は、前述のすべての関係性を超えた完全な合一を示し、「दयालु」(慈悲深い)という形容詞は、この全包括的な関係の根幹が神の無限の慈悲にあることを明らかにしています。第29節で礼拝の対象であった「चरण」(御足)から、ここでは全存在との合一へと視点が拡大しています。
最終行の三重の否定「नान्यं जाने नैव जाने न जाने」は、ウパニシャッドの「नेति नेति」(これでもない、あれでもない)を想起させる表現であり、言葉で表現できないラーマとの一体性の境地を否定の積み重ねによって示しています。この三重の否定は、サンスクリット詩の修辞法「त्रिसत्य」(三重の真実)を用いて、ラーマへの絶対的帰依の真実性を強調しています。
この節は、ラーマ・ラクシャー・ストートラ全体の「守護」(रक्षा, rakṣā)という主題を見事に総括しています。真の守護とは、帰依者の意識がラーマとの完全な一体感によって変容し、すべての二元性と分離感が溶解した状態に到達することにあるのです。
第31節
दक्षिणे लक्ष्मणो यस्य वामे तु जनकात्मजा ।
पुरतो मारुतिर्यस्य तं वन्दे रघुनन्दनम् ॥ ३१॥
dakṣiṇe lakṣmaṇo yasya vāme tu janakātmajā |
purato mārutiryasya taṃ vande raghunandanam || 31||
その右にラクシュマナあり、左にはジャナカの娘あり、
その御前にハヌマーンが控える、そのラグ家の誇りに私は礼拝します。
逐語訳:
- दक्षिणे (dakṣiṇe) - 右側に、右方に(男性単数所格)
- लक्ष्मणो (lakṣmaṇo) - ラクシュマナが(男性単数主格)
- यस्य (yasya) - その方の、彼の(関係代名詞男性単数属格)
- वामे (vāme) - 左側に、左方に(男性単数所格)
- तु (tu) - そして、また(接続詞)
- जनकात्मजा (janakātmajā) - ジャナカ王の娘シーター(女性単数主格、複合語:जनक (janaka)「ジャナカ王」+ आत्मजा (ātmajā)「娘」)
- पुरतो (purato) - 前に、眼前に(副詞)
- मारुतिः (mārutiḥ) - マールティ(ハヌマーン、風神の子の意)(男性単数主格)
- यस्य (yasya) - その方の、彼の(関係代名詞男性単数属格)
- तं (taṃ) - その方を(男性単数対格)
- वन्दे (vande) - 私は礼拝します、敬意を表します(√वन्द् (vand) の現在形1人称単数、中動態)
- रघुनन्दनम् (raghunandanam) - ラグ家の誇り、ラグ王統の喜び(男性単数対格、複合語:रघु (raghu)「ラグ王朝」+ नन्दन (nandana)「喜ばせる者、子孫」)
解説:
第31節は、ラーマ・ラクシャー・ストートラの総括として、前節の抽象的な帰依の境地から、瞑想と礼拝の具体的な対象となる神聖な図像(ध्यानमूर्ति, dhyānamūrti)を描き出しています。第30節で「ラーマは我がすべて」と宣言した帰依者が、今度はその神聖なる対象を視覚化する段階へと導かれるのです。
この節のアヌシュトゥブ韻律(श्लोक, śloka)は、古典的なインド叙事詩の基本形式を踏襲し、ラーマーヤナの物語世界を直接喚起します。ラーマを中心に、右にラクシュマナ、左にシーター(जनकात्मजा, janakātmajā)、前方にハヌマーン(मारुति, māruti)という配置は、北インドの伝統的な「राम दरबार」(rāma darbāra・ラーマの神聖な宮廷)の図像学的伝統と完全に一致しています。この視覚的配置は、ヒンドゥー寺院の祭壇や家庭の祭壇(पूजा स्थान, pūjā sthāna)で今日も広く見られるものです。
この節の特徴的な構文「यस्य...यस्य...तं」(その方の...その方の...その方を)は、ラーマを直接名指しせずに、彼を取り巻く人々との関係性によって間接的に特定するという巧みな修辞法です。これは単なる詩的技巧ではなく、第30節の「ラーマは我がすべて」という宣言の具体的表現であり、ラーマの存在がすべての関係性の中心であることを示しています。
「दक्षिणे」(右に)と「वामे」(左に)の対称的配置は、宇宙的調和を象徴し、ラクシュマナとシーターはそれぞれ、ラーマに対する男性的忠誠(भक्ति, bhakti)と女性的献身(प्रेम, prema)の具現化として理解できます。「पुरतो मारुतिः」(前にハヌマーン)という表現は、ハヌマーンがすべての帰依者の理想像(आदर्श भक्त, ādarśa bhakta)として位置づけられていることを示唆しています。
「रघुनन्दनम्」(ラグ家の誇り)という表現は、第28節の「रघुनन्दन」(raghunandana)と意図的に呼応し、讃歌全体に円環的な統一性を与えています。この節の「वन्दे」(私は礼拝します)は、単なる言語的表現ではなく、実際の礼拝行為(वन्दना, vandanā)を示しており、讃歌の唱者が自らをこの神聖な図像の前に置く瞑想的実践へと導かれます。
この節は、讃歌全体の「守護」という主題を視覚的瞑想の形で完成させると同時に、前節までの複雑な哲学的理解を、日々実践可能な礼拝の姿へと昇華させています。
第32節
लोकाभिरामं रणरङ्गधीरं
राजीवनेत्रं रघुवंशनाथम् ।
कारुण्यरूपं करुणाकरं तं
श्रीरामचन्द्रम् शरणं प्रपद्ये ॥ ३२॥
lokābhirāmaṃ raṇaraṅgadhīraṃ
rājīvanetraṃ raghuvaṃśanātham |
kāruṇyarūpaṃ karuṇākaraṃ taṃ
śrīrāmacandram śaraṇaṃ prapadye || 32||
万象を喜ばせる者よ、戦場にて動じざる者よ、
蓮の如き眼を持つ者よ、ラグ王統の守護者よ、
慈悲の化身にして慈愛の宝庫なる者よ、
そなた聖ラーマチャンドラに、わが身を全て委ねまつる。
逐語訳:
- लोकाभिरामं (lokābhirāmaṃ) - 万象を喜ばせる者(対格)、लोक (loka)「世界、宇宙、存在界」と अभिराम (abhirāma)「喜びを与える、魅了する」の複合語
- रणरङ्गधीरं (raṇaraṅgadhīraṃ) - 戦場で動じない者(対格)、रण (raṇa)「戦い」、रङ्ग (raṅga)「場、舞台」、धीर (dhīra)「堅固な、勇敢な、冷静な」の複合語
- राजीवनेत्रं (rājīvanetraṃ) - 蓮の目を持つ者(対格)、राजीव (rājīva)「蓮」と नेत्र (netra)「目」の複合語。蓮の花のように美しく純粋な眼を表す
- रघुवंशनाथम् (raghuvaṃśanātham) - ラグ王朝の守護者(対格)、रघु (raghu)「ラグ王」、वंश (vaṃśa)「家系、王朝」、नाथ (nātha)「主、保護者、帰依の対象」の複合語
- कारुण्यरूपं (kāruṇyarūpaṃ) - 慈悲の化身(対格)、कारुण्य (kāruṇya)「慈悲、同情」と रूप (rūpa)「形、姿、本質」の複合語
- करुणाकरं (karuṇākaraṃ) - 慈悲の宝庫(対格)、करुणा (karuṇā)「慈悲」と आकर (ākara)「源、鉱山、宝庫」の複合語
- तं (taṃ) - その(男性単数対格の指示代名詞)
- श्रीरामचन्द्रम् (śrīrāmacandram) - 聖なるラーマチャンドラを(対格)
- शरणं (śaraṇaṃ) - 避難所として、保護を求めて(中性単数対格)
- प्रपद्ये (prapadye) - 私は身を委ねる(प्र (pra) + √पद् (pad) の現在形1人称単数、中動態)
解説:
第32節は、ラーマ・ラクシャー・ストートラの締めくくりとして、ラーマの多様な側面を荘厳に総合し、究極的な帰依の姿勢を表明しています。この節は、前節までに展開されてきた帰依の過程を見事に完成させる役割を果たしています。
この詩節は優美なウパジャーティ(upajāti)韻律で構成され、そのリズミカルな抑揚は厳粛な礼拝の雰囲気を醸し出しています。ラーマへの称賛が三対の対照的な性質を通して構造化されているのが特徴です。「万象を喜ばせる者」(लोकाभिराम, lokābhirāma)という普遍的な魅力と、「戦場で動じない」(रणरङ्गधीर, raṇaraṅgadhīra)という勇猛さの対比。「蓮の眼」(राजीवनेत्र, rājīvanetra)という美的優雅さと「ラグ王統の守護者」(रघुवंशनाथ, raghuvaṃśanātha)という王者としての威厳の対比。そして「慈悲の化身」(कारुण्यरूप, kāruṇyarūpa)と「慈悲の宝庫」(करुणाकर, karuṇākara)という表現が、慈悲がラーマの本質であるとともに尽きることのない源泉でもあることを示しています。
この節の「शरणं प्रपद्ये」(śaraṇaṃ prapadye・身を委ねます)という表現は、第29節の同じ表現と意図的に呼応し、ストートラ全体に円環的な構造を与えています。第29節では「ラーマの蓮の御足」への帰依が表明されていたのに対し、この最終節では直接「ラーマ自身」への完全な帰依が宣言されています。これは帰依(भक्ति, bhakti)の深化を象徴しています。
また第31節が「वन्दे」(私は礼拝します)という表現で外的な礼拝行為を示していたのに対し、この節の「प्रपद्ये」(私は身を委ねます)は内的な自己放棄と全面的な帰依を表現しており、霊的実践の最終段階を示しています。「प्रपद्ये」が中動態(आत्मनेपद, ātmanepada)で表現されているのは、この帰依の行為が単なる外的儀礼ではなく、帰依者自身の内的変容を伴う深遠な霊的プロセスであることを示唆しています。
この節は、ラーマを宇宙的な美と勇気、優雅さと威厳、そして尽きることのない慈悲の源として描き出し、「ラーマの守護」(राम रक्षा, rāma rakṣā)という讃歌全体のテーマを最も崇高な形で成就させています。帰依者はこの完全な帰依を通じて、ラーマの無限の慈悲と保護の中に安らぎを見出すのです。
第33節
मनोजवं मारुततुल्यवेगं
जितेन्द्रियं बुद्धिमतां वरिष्ठम् ।
वातात्मजं वानरयूथमुख्यं
श्रीरामदूतं शरणं प्रपद्ये ॥ ३३॥
manojavaṃ mārutatulyavegaṃ
jitendriyaṃ buddhimatāṃ variṣṭham |
vātātmajaṃ vānarayūthamukhyaṃ
śrīrāmadūtaṃ śaraṇaṃ prapadye || 33||
心の如く迅速にして風神と等しい速さを持ち、
感覚を完全に制御し、賢者たちの中の最高者、
風神の御子にして猿族の軍団の長たる
聖ラーマの使者に、わが身を委ねまつる。
逐語訳:
- मनोजवं (manojavaṃ) - 心/意識の速さを持つ(男性単数対格)、मनस् (manas)「心、思考」と जव (java)「速度、迅速さ」の複合語
- मारुततुल्यवेगं (mārutatulyavegaṃ) - 風神マルート(嵐の神)のような速さを持つ(男性単数対格)、मारुत (māruta)「風神」、तुल्य (tulya)「同等の」、वेग (vega)「速度」の複合語
- जितेन्द्रियं (jitendriyaṃ) - 感覚を征服した、制御した(男性単数対格)、जित (jita)「征服された」と इन्द्रिय (indriya)「感覚器官」の複合語
- बुद्धिमतां (buddhimatāṃ) - 知性ある者たち、賢者たちの中で(男性複数属格)、बुद्धिमत् (buddhimat)「知性を持つ、賢い」の複数属格形
- वरिष्ठम् (variṣṭham) - 最も優れた、最高の(男性単数対格)、वर (vara)「優れた」の最上級形
- वातात्मजं (vātātmajaṃ) - 風神の子(男性単数対格)、वात (vāta)「風」と आत्मज (ātmaja)「息子」の複合語
- वानरयूथमुख्यं (vānarayūthamukhyaṃ) - 猿族の軍団の長(男性単数対格)、वानर (vānara)「猿族」、यूथ (yūtha)「群れ、軍団」、मुख्य (mukhya)「主要な、長」の複合語
- श्रीरामदूतं (śrīrāmadūtaṃ) - 聖なるラーマの使者(男性単数対格)、श्री (śrī)「聖なる」、राम (rāma)「ラーマ」、दूत (dūta)「使者、大使」の複合語
- शरणं (śaraṇaṃ) - 避難所として、庇護を求めて(中性単数対格)
- प्रपद्ये (prapadye) - 私は身を委ねる(प्र (pra) + √पद् (pad) の現在形1人称単数、中動態)
解説:
第33節は、ラーマ・ラクシャー・ストートラの総括として、前節のラーマへの帰依から視点を転じ、ラーマの理想的帰依者ハヌマーンへの帰依を荘厳に表現しています。この転換は、ヒンドゥー信仰の深層に根ざす「理想の帰依者を通じての主神への帰依」という霊的実践を体現しています。
ハヌマーンの特質は四つの対をなす形容によって立体的に描かれています。「मनोजव」(manojava)と「मारुततुल्यवेग」(mārutatulyavega)は、彼の超自然的敏捷さを表し、ラーマーヤナで描かれる大海を一跳びで渡るエピソードを想起させます。これは単なる身体的速さではなく、障害を超克する霊的能力の象徴でもあります。
「जितेन्द्रिय」(jitendriya)と「बुद्धिमतां वरिष्ठ」(buddhimatāṃ variṣṭha)は、ハヌマーンの内的卓越性を称えています。「जितेन्द्रिय」は、ヨーガの最高段階である「संयम」(saṃyama・完全な制御)の状態を示し、「बुद्धिमतां वरिष्ठ」は単なる知性ではなく、霊的叡智(प्रज्ञा, prajñā)の極致を表しています。
「वातात्मज」(vātātmaja)と「वानरयूथमुख्य」(vānarayūthamukhya)は、ハヌマーンの二重のアイデンティティを示しています。「वात」(vāta)と「मारुत」(māruta)はともに風神を指し、ハヌマーンの神聖な起源を表す一方、「वानर」(vānara)は彼の猿族としての姿を表しています。この二重性は、神性と地上界を結ぶ中間的存在としてのハヌマーンの役割を象徴しています。
最も重要な称号「श्रीरामदूत」(śrīrāmadūta)は、ハヌマーンの最も本質的なアイデンティティを表しています。「दूत」は単なる使者ではなく、主の意志と力を完全に体現する代理者を意味し、ラーマとハヌマーンの不可分の関係性を示しています。
この節の「शरणं प्रपद्ये」(śaraṇaṃ prapadye)という表現は、前節でのラーマへの帰依と同一の言葉であり、ラーマへの帰依とハヌマーンへの帰依が霊的に一体であることを示唆しています。これはハヌマーン崇拝の本質—ハヌマーンを通じてラーマに到達する—を見事に表現しています。
ラーマ・ラクシャー・ストートラは、この理想的帰依者への敬意で締めくくることで、「रक्षा」(rakṣā・守護)の完全なる円環を形成し、主神と理想の帰依者の両方からの二重の守護を帰依者に約束しています。
第34節
कूजन्तं रामरामेति मधुरं मधुराक्षरम् ।
आरुह्य कविताशाखां वन्दे वाल्मीकिकोकिलम् ॥ ३४॥
kūjantaṃ rāmarāmeti madhuraṃ madhurākṣaram |
āruhya kavitāśākhāṃ vande vālmīkikokilam || 34||
"ラーマ、ラーマ"と甘美なる音色で囀る、
詩歌の枝に宿りし聖ヴァールミーキ郭公に、わが敬意を捧げん。
逐語訳:
- कूजन्तं (kūjantaṃ) - 囀る、さえずる(現在分詞、男性単数対格)
- रामरामेति (rāmarāmeti) - "ラーマ、ラーマ"と(राम + राम + इति の複合語)
- मधुरं (madhuraṃ) - 甘美なる、心地よい(男性単数対格)
- मधुराक्षरम् (madhurākṣaram) - 美しい音節を持つ(男性単数対格、मधुर「甘美な」+ अक्षर「音節、文字」の複合語)
- आरुह्य (āruhya) - 登りて、宿りて(आ + √रुह् の絶対分詞)
- कविताशाखां (kavitāśākhāṃ) - 詩歌の枝に(女性単数対格、कविता「詩」+ शाखा「枝」の複合語)
- वन्दे (vande) - 私は礼拝す、敬意を表す(現在形1人称単数、中動態)
- वाल्मीकिकोकिलम् (vālmīkikokilam) - ヴァールミーキという名の郭公に(男性単数対格、वाल्मीकि「ヴァールミーキ」+ कोकिल「郭公」の複合語)
解説:
第34節は、ラーマ・ラクシャー・ストートラの総括として、ラーマとハヌマーンへの帰依を表明した後、最後にラーマーヤナの原作者ヴァールミーキへの敬意を示しています。これは神聖なる知識の伝承者に対する敬意を表すことで、讃歌全体に完結した円環構造を与える役割を果たしています。
ヴァールミーキは、ここで「कोकिल」(kokila)、即ち郭公(ホトトギス)に喩えられています。インド古典文学において、郭公は春の訪れを告げる最も甘美な歌声を持つ鳥として称えられ、詩的インスピレーションと美的表現の象徴とされてきました。この比喩は単なる装飾的表現ではなく、神聖な物語を歌い上げる詩人の声が、霊的な変容をもたらす力を持つという深い理解を示しています。
「"ラーマ、ラーマ"と囀る」(कूजन्तं रामरामेति, kūjantaṃ rāmarāmeti)という表現は、ヴァールミーキの詩作とマントラの神聖な反復を結びつけています。ヒンドゥー伝承によれば、ヴァールミーキは当初、「मरा」(marā)という音節を反復していたところ、ある時これが逆転して「राम」(rāma)となり、彼はラーマの物語を詠うインスピレーションを得たと言われています。このエピソードは、言葉の変容が意識の変容をもたらすという、マントラの力の象徴的表現です。
「詩歌の枝」(कविताशाखा, kavitāśākhā)という美しい比喩は、知識の大樹(विद्यावृक्ष, vidyāvṛkṣa)というインド思想の伝統的概念を反映しています。ヴェーダの知識が様々な枝に分かれて伝承されるように、詩の伝統も枝分かれする大樹として表現され、ヴァールミーキはその枝に宿る霊感の源としての郭公なのです。
第31節の「वन्दे」(vande)から始まり、第33節のハヌマーンへの「प्रपद्ये」(prapadye)を経て、再び「वन्दे」へと戻るこの円環構造は、ラーマへの帰依、理想の帰依者ハヌマーンへの帰依、そして神聖な知識の源泉ヴァールミーキへの敬意という三位一体を形成し、霊的保護の完全なる円環を構成しています。
第35節
आपदामपहर्तारं दातारं सर्वसम्पदाम् ।
लोकाभिरामं श्रीरामं भूयो भूयो नमाम्यहम् ॥ ३५॥
āpadāmapahartāraṃ dātāraṃ sarvasampadām |
lokābhirāmaṃ śrīrāmaṃ bhūyo bhūyo namāmyaham || 35||
災厄を払い除ける者、あらゆる繁栄を授ける者、
万象を喜ばせる聖なるラーマに、何度も何度も私は帰命せん。
逐語訳:
- आपदाम् (āpadām) - 災厄の、危難の、困難の(女性複数属格)
- अपहर्तारं (apahartāraṃ) - 除去者を、取り除く者を(男性単数対格)
- दातारं (dātāraṃ) - 与える者を、授ける者を(男性単数対格)
- सर्व (sarva) - すべての、あらゆる
- सम्पदाम् (sampadām) - 繁栄、富、幸運の(女性複数属格)
- लोकाभिरामं (lokābhirāmaṃ) - 万象を喜ばせる者を(男性単数対格)、लोक (loka)「世界、万象」と अभिराम (abhirāma)「喜ばせる、魅了する」の複合語
- श्रीरामं (śrīrāmaṃ) - 聖なるラーマを(男性単数対格)
- भूयो भूयो (bhūyo bhūyo) - 何度も何度も、繰り返し繰り返し(熱烈な継続的礼拝を示す強調表現)
- नमामि (namāmi) - 私は礼拝する、帰命する(現在形1人称単数)
- अहम् (aham) - 私は(強調)
- नमाम्यहम् (namāmyaham) - 私は礼拝する(नमामि + अहम् の連声形)
解説:
第35節は、ラーマ・ラクシャー・ストートラの締めくくりとして、讃歌全体の本質を凝縮した形で表現しています。この節は穏やかな抑揚を持つアヌシュトゥブ韻律(śloka)で構成され、最も基本的でありながら、深遠な真理を伝える格調高い響きを湛えています。
「आपदामपहर्तारं」(āpadāmapahartāraṃ)という冒頭の表現は、「ラクシャー」(रक्षा, rakṣā・守護)というこの讃歌の主題を直截に体現しています。ラーマは抽象的な崇拝対象ではなく、現実の苦難から信者を救う活きた守護者として描かれています。これに対となる「दातारं सर्वसम्पदाम्」(dātāraṃ sarvasampadām)は、ラーマの守護が単に危難からの救済にとどまらず、豊かな恵みの授与をも含む全体的なものであることを示しています。
「लोकाभिरामं」(lokābhirāmaṃ)という表現は、第32節の同じ言葉と意図的に呼応しており、讃歌に円環的構造を与えています。ここには深い言語的洞察が込められています。「राम」(rāma)という名前自体が「रम्」(ram・喜ばせる)という動詞根から派生し、「喜びをもたらす者」を意味するという事実が、「लोकाभिराम」(世界を喜ばせる者)という表現に二重の意味を持たせているのです。ラーマの本質が万象に喜びをもたらすことにあり、その名を唱えることが既に喜びの源泉となるという真理が示唆されています。
「भूयो भूयो」(bhūyo bhūyo・何度も何度も)という反復表現は、バクティ(भक्ति, bhakti・帰依)の本質が一時的感情ではなく、生涯を通じた絶え間ない実践にあることを表しています。この表現はまた、讃歌全体を締めくくるにふさわしい音楽的リズムを生み出すとともに、信者にこの讃歌を繰り返し唱えるよう促す実践的指針ともなっています。
前節までにラーマ(第32節)、ハヌマーン(第33節)、ヴァールミーキ(第34節)と続いた崇敬の対象が、この最終節で再びラーマへと回帰することで、讃歌は完全な円環を形成し、すべての礼拝と帰依の究極の対象がラーマであることを確認しています。この節は「रक्षा」(rakṣā・守護)という主題を美しく完結させ、災厄からの守護と繁栄の授与という二重の祝福を約束する、簡潔ながらも力強い帰結となっています。
第36節
भर्जनं भवबीजानामर्जनं सुखसम्पदाम् ।
तर्जनं यमदूतानां रामरामेति गर्जनम् ॥ ३६॥
bharjanaṃ bhavabījānāmarjanaṃ sukhasampadām |
tarjanaṃ yamadūtānāṃ rāmarāmeti garjanam || 36||
「ラーマ、ラーマ」という雄々しき唱和は、
輪廻の種子を焼き尽くし、幸福と繁栄を招来し、
死神の使者たちを威嚇するもの。
逐語訳:
- भर्जनं (bharjanaṃ) - 焼き尽くすこと、焼却すること(中性単数主格)
- भवबीजानाम् (bhavabījānām) - 輪廻の種子の(男性複数属格)、भव (bhava)「存在、輪廻」と बीज (bīja)「種子」の複合語
- अर्जनं (arjanaṃ) - 獲得すること、招来すること(中性単数主格)
- सुखसम्पदाम् (sukhasampadām) - 幸福と繁栄の(女性複数属格)、सुख (sukha)「幸福、喜び」と सम्पद् (sampad)「繁栄、成功、富」の複合語
- तर्जनं (tarjanaṃ) - 威嚇すること、脅すこと(中性単数主格)
- यमदूतानां (yamadūtānāṃ) - ヤマ神の使者たちの(男性複数属格)、यम (yama)「死の神ヤマ」と दूत (dūta)「使者」の複合語
- रामरामेति (rāmarāmeti) - 「ラーマ、ラーマ」という(राम + राम + इति の複合語、इति は引用を示す)
- गर्जनम् (garjanam) - 雄叫び、獅子の咆哮、力強い唱和(中性単数主格)
解説:
第36節は、ラーマ・ラクシャー・ストートラの総括として、神聖な名前を唱えることの霊的変容力を簡潔かつ力強く表現しています。この節は第35節の「何度も何度も私は帰命せん」という帰依の宣言に続き、その帰依実践がもたらす三つの霊的効用を明示しています。
「भर्जनं भवबीजानाम्」(輪廻の種子を焼き尽くすこと)は、神の名が持つ解脱への力を示しています。ヒンドゥー思想において、「भव」(bhava)は「存在」や「生成」を意味し、輪廻(संसार, saṃsāra)の原因となる「種子」(बीज, bīja)とは、無明(अविद्या, avidyā)や渇愛(तृष्णा, tṛṣṇā)といった心の潜在的傾向を指します。「भर्जन」(bharjana)は単なる破壊ではなく、火によって完全に焼き尽くす激しい浄化作用を表しており、ラーマの名が解脱(मोक्ष, mokṣa)への直接的な道となることを示唆しています。
「अर्जनं सुखसम्पदाम्」(幸福と繁栄を獲得すること)は、神の名が現世的な祝福ももたらすことを意味しています。これは「भर्जन」(焼却)という破壊的側面と対をなす創造的・肯定的側面を示し、バクティ(भक्ति, bhakti・帰依)の道が現世と来世の両面に恵みをもたらすことを表しています。この二重性は、「रक्षा」(守護)という讃歌の主題とも完全に調和しています。
「तर्जनं यमदूतानां」(ヤマの使者たちを威嚇すること)は、死の恐怖からの解放を意味します。プラーナ文献やウパニシャッドには、神の名が死の神ヤマ(यम, Yama)の使者たちをも退散させる力を持つという描写があり、これは人間の最大の恐怖である死に対する究極の守護を約束するものです。
「रामरामेति गर्जनम्」(「ラーマ、ラーマ」という雄叫び)という表現には深い象徴性が込められています。「गर्जन」(garjana)は単なる発声ではなく、獅子の咆哮や雷鳴のような威厳と力に満ちた音を表します。これは第34節の「कूजन्तं」(囀り)という繊細な表現と対照をなし、神の名を唱えることが持つ強大な霊的力を象徴しています。
この節はラーマ・ラクシャー・ストートラの実践的側面を締めくくり、ラーマの名を唱えるという具体的行為の霊的効力を讃えています。それは単なる神への賛辞を超え、あらゆる苦しみからの解放と完全な守護への道を示す、讃歌全体の実践的帰結となっています。前節の「何度も何度も帰命する」という実践と、この節の「その実践がもたらす三つの効果」が呼応することで、讃歌は美しい調和のうちに完結しています。
第37節
रामो राजमणिः सदा विजयते रामं रमेशं भजे
रामेणाभिहता निशाचरचमू रामाय तस्मै नमः ।
रामान्नास्ति परायणं परतरं रामस्य दासोऽस्म्यहं
रामे चित्तलयः सदा भवतु मे भो राम मामुद्धर ॥ ३७॥
rāmo rājamaṇiḥ sadā vijayate rāmaṃ rameśaṃ bhaje
rāmeṇābhihatā niśācaracamū rāmāya tasmai namaḥ |
rāmānnāsti parāyaṇaṃ parataraṃ rāmasya dāso'smyahaṃ
rāme cittalayaḥ sadā bhavatu me bho rāma māmuddhara || 37||
ラーマは王者の宝玉として常に勝利し、私はラクシュミーの主なるラーマを崇拝する。
ラーマによって夜の魔族の軍勢は打ち砕かれた、その尊きラーマに帰命する。
ラーマより優れた究極の帰依先はなく、私はラーマの僕である。
わが心がラーマの中に常に融合せんことを。おおラーマよ、私を救い上げたまえ。
逐語訳:
- रामः (rāmaḥ) - ラーマは(男性単数主格)
- राजमणिः (rājamaṇiḥ) - 王者の宝玉、王たちの中の至宝(男性単数主格)
- सदा (sadā) - 常に、いつも
- विजयते (vijayate) - 勝利する(現在形3人称単数中動態)
- रामं (rāmaṃ) - ラーマを(男性単数対格)
- रमेशं (rameśaṃ) - ラクシュミー(豊穣の女神)の主を(男性単数対格)
- भजे (bhaje) - 私は崇拝する(現在形1人称単数中動態)
- रामेण (rāmeṇa) - ラーマによって(男性単数具格)
- अभिहता (abhihatā) - 打ち砕かれた(女性単数主格、過去分詞)
- निशाचरचमू (niśācaracamū) - 夜に徘徊する者(羅刹)の軍勢(女性単数主格)
- रामाय (rāmāya) - ラーマに(男性単数与格)
- तस्मै (tasmai) - その、かの(指示代名詞男性単数与格)
- नमः (namaḥ) - 敬意、帰命
- रामात् (rāmāt) - ラーマよりも(男性単数奪格)
- न अस्ति (na asti) - 〜はない(否定辞+存在動詞現在形3人称単数)
- परायणं (parāyaṇaṃ) - 究極の帰依先、最高の霊的支柱(中性単数主格)
- परतरं (parataraṃ) - より優れた、より高い(中性単数主格)
- रामस्य (rāmasya) - ラーマの(男性単数属格)
- दासः (dāsaḥ) - しもべ、僕(男性単数主格)
- अस्मि (asmi) - 私は〜である(現在形1人称単数)
- अहम् (aham) - 私(1人称単数主格)
- रामे (rāme) - ラーマの中に(男性単数処格)
- चित्तलयः (cittalayaḥ) - 心の融合、意識の没入(男性単数主格)
- सदा (sadā) - 常に、いつも
- भवतु (bhavatu) - あれかし(命令法3人称単数)
- मे (me) - 私の(属格)
- भो (bho) - おお(呼びかけの間投詞)
- राम (rāma) - ラーマよ(男性単数呼格)
- माम् (mām) - 私を(1人称単数対格)
- उद्धर (uddhara) - 救え、引き上げよ(命令法2人称単数)
解説:
第37節は、ラーマ・ラクシャー・ストートラの締めくくりとして、全讃歌の精髄を19音節のシャールドゥーラヴィクリーディタ(śārdūlavikrīḍita)という荘厳な韻律で表現しています。この節は「राम」という神聖な名前が8回繰り返される特徴があり、これは第36節の「रामरामेति गर्जनम्」(「ラーマ、ラーマ」という雄々しき唱和)の実践的表現となっています。
「राजमणिः」(rājamaṇiḥ)という表現は、ラーマが単なる王ではなく、王たちの中の至宝であることを示します。これは霊的君主としてのラーマの卓越性を暗示し、「रमेश」(rameśa・ラクシュミーの主)という呼称と共に、ラーマをヴィシュヌ神と同一視する神学的視点を反映しています。
「निशाचरचमू」(niśācaracamū)は、ラーマーヤナ叙事詩において、ラーマが打ち破ったラーヴァナ率いる羅刹(रक्षस्, rakṣas)の軍団を指します。この言及は単なる物語の回顧ではなく、讃歌の守護的機能の文脈において重要な意味を持ちます。邪悪な力に対するラーマの歴史的勝利は、信者が直面するあらゆる危難に対する守護の確かな証となります。
「परायणं परतरं」(parāyaṇaṃ parataraṃ)という表現には、単なる「依り所」を超えた深い意味があります。「परायण」(parāyaṇa)は究極の帰依先、最高の救済の源泉を意味し、ヒンドゥー教の「प्रपत्ति」(prapatti・完全帰依)の概念を反映しています。
「चित्तलयः」(cittalayaḥ)という表現は、ヨーガの究極的理想を示しています。「लय」(laya)は単なる溶解ではなく、個別意識が宇宙意識と完全に融合する神秘的状態を指します。これはヨーガ・スートラで説かれる「संप्रज्ञात समाधि」(samprajñāta samādhi)から「असंप्रज्ञात समाधि」(asamprajñāta samādhi)への超越を暗示しています。
最後の「मामुद्धर」(māmuddhara・私を救い上げたまえ)という祈願は、物質的な守護を超え、サンサーラ(輪廻)の海から救い上げる霊的解放への切なる願いを表しています。この節は、名前の唱和、神への帰依、精神の融合、そして最終的な解放という、讃歌全体の霊的道程を美しく総括しています。
第38節
रामरामेति रामेति रमे रामे मनोरमे । (श्रीरामरामरामेति)
सहस्रनामतत्तुल्यं रामनाम वरानने ॥ ३८॥
rāmarāmeti rāmeti rame rāme manorame | (śrīrāmarāmarāmeti)
sahasranāmatatttulyaṃ rāmanāma varānane || 38||
「ラーマ、ラーマ」と「ラーマ」と唱えつつ、
心を魅了する神なるラーマの中に私は歓喜す。
美しき顔を持つ女神よ、ラーマの御名は
千の神名を唱えるに等しき功徳を備えたり。
逐語訳:
- रामरामेति (rāmarāmeti) - 「ラーマ、ラーマ」と(राम+राम+इति の複合語)
- रामेति (rāmeti) - 「ラーマ」と(राम+इति の複合語)
- रमे (rame) - 私は歓喜する、楽しむ(動詞√रम् の中動態1人称単数現在形)
- रामे (rāme) - ラーマの中に(男性単数処格)
- मनोरमे (manorame) - 心を魅了する(男性単数処格、रामे を修飾)
- श्रीरामरामरामेति (śrīrāmarāmarāmeti) - 「聖なるラーマ、ラーマ、ラーマ」と(括弧内の異読または補足)
- सहस्रनाम (sahasranāma) - 千の神名、千の名前を持つ讃歌
- तत्तुल्यं (tattulyaṃ) - それと等しい(中性単数主格)
- रामनाम (rāmanāma) - ラーマの名前(中性単数主格)
- वरानने (varānane) - 美しい顔を持つ者よ(女性単数呼格)
解説:
第38節は、ラーマ・ラクシャー・ストートラの総括として、名号(नामजप, nāmajapa)の霊的威力を端的に表現しています。この節は前節の「रामे चित्तलयः सदा भवतु मे」(わが心がラーマの中に常に融合せんことを)という願いの実現を描き、讃歌全体の締めくくりとして美しい調和をもたらしています。
冒頭の「रामरामेति रामेति」(rāmarāmeti rāmeti)という表現は、ラーマの名を実際に唱える行為を表しています。サンスクリット語の「इति」(iti)が引用を示す標識であることから、これは単なる表現ではなく、実際の唱和の再現です。これは第36節の「रामरामेति गर्जनम्」(「ラーマ、ラーマ」という雄々しき唱和)と呼応し、その具体的実践を示しています。
「रमे रामे मनोरमे」(rame rāme manorame)という表現には精緻な言語的技巧が込められています。動詞「रम्」(ram・歓喜する)と神名「राम」(rāma)の音韻的類似性を活かし、言葉遊びとともに深い神学的真理を表しています。神名「राम」が「歓喜をもたらす者」を意味するという語源学的理解から、ラーマの名を唱えること自体が歓喜を生み出すという循環的関係が暗示されています。これは第37節の「रामे चित्तलयः」(ラーマの中に心が融合する)という表現の実現として理解できます。
「सहस्रनामतत्तुल्यं रामनाम」(sahasranāmatatttulyaṃ rāmanāma)は、バクティ(भक्ति, bhakti)の道における名号の優位性を示す重要な教えです。ヒンドゥー教の伝統では、「ヴィシュヌ・サハスラナーマ」(विष्णुसहस्रनाम, viṣṇusahasranāma)や「シヴァ・サハスラナーマ」(शिवसहस्रनाम, śivasahasranāma)のような千の神名を列挙する大規模な讃歌が最高の功徳をもたらすとされますが、この詩節は単に「ラーマ」という一つの名を唱えるだけで同等の功徳が得られると宣言しています。
「वरानने」(varānane・美しき顔を持つ者よ)という呼びかけは、シーター(सीता, sītā)またはラクシュミー(लक्ष्मी, lakṣmī)に向けられたものと考えられます。この対話的要素によって、ラーマの名の力についての教えが単なる個人的体験ではなく、神々の間でも認められた普遍的真理として提示されています。
この最終節は、複雑な儀式や厳しい修行ではなく、単純で直接的なラーマの名の唱和が、最高の霊的成就への道であるという、ラーマ・ラクシャー・ストートラの核心的なメッセージを美しく結晶化させています。
結語
इति श्रीबुधकौशिकविरचितं श्रीरामरक्षास्तोत्रं सम्पूर्णम् ॥
iti śrībudhakauśikaviracitaṃ śrīrāmarakṣāstotraṃ sampūrṇam ||
ここに、聖なるブダカウシカ仙によって編まれた聖ラーマ守護讃歌は完全に終わる。
逐語訳:
- इति (iti) - このように、以上のように(結論や終了を示す語)
- श्री (śrī) - 聖なる、吉祥なる(尊敬を表す接頭辞)
- बुधकौशिक (budhakauśika) - ブダカウシカ(著者の名)
- विरचितं (viracitaṃ) - 編まれた、作られた、著された(過去分詞、中性単数主格)
- श्री (śrī) - 聖なる、吉祥なる(尊敬を表す接頭辞)
- राम (rāma) - ラーマ(神の名)
- रक्षा (rakṣā) - 守護、保護
- स्तोत्रं (stotraṃ) - 讃歌、賛美歌(中性単数主格)
- सम्पूर्णम् (sampūrṇam) - 完全な、完結した、終わった(中性単数主格)
解説:
この結語は、サンスクリット文献の伝統的な結びの形式を踏襲しています。「इति」(iti)という語は、古来よりインド文献の終結を示す標識として用いられ、先行する内容がここで完結することを示しています。
著者として言及されている「बुधकौशिक」(budhakauśika)は、伝承によれば古代の賢者(ऋषि, ṛṣi)とされています。「बुध」(budha)は「賢明な、覚醒した」という意味を持ち、「कौशिक」(kauśika)はクシカ族の血統を示す氏族名です。伝統的解釈では、彼はラーマ自身から直接この守護の秘法を授かったとされ、これが讃歌の霊的効力を保証するものとされています。
「श्री」(śrī)という敬称が著者名とラーマの名前の両方に冠されている点は意義深いものです。この二重の使用は、著者と神格の両方に対する深い敬意を表すと同時に、この讃歌が神聖な伝統の連続性の中に位置づけられていることを示唆しています。
「रक्षास्तोत्र」(rakṣāstotra)という複合語は、この讃歌の本質を明確に示しています。これは単なる賛美の歌ではなく、前節までに詳述されたように、ラーマの名を唱えることによって得られる守護(रक्षा, rakṣā)と救済という具体的な目的を持った霊的手段なのです。第36節の「रामरामेति गर्जनम्」(「ラーマ、ラーマ」という雄々しき唱和)と第38節の「रामरामेति रामेति」(「ラーマ、ラーマ」と「ラーマ」と唱えつつ)が示すように、この讃歌は単に読誦するだけでなく、実践することによってその効果が完全に実現します。
「सम्पूर्णम्」(sampūrṇam)という言葉は、単なる文章の終了を意味するだけでなく、讃歌の内的な完全性と充足性を表しています。第1節から始まり、さまざまな角度からラーマの神性と守護力を賛美してきたこの讃歌は、ここに完全な形で結実し、信者に確かな守護と解放への道を示しています。
奉献の言葉
॥ श्रीसीतारामचन्द्रार्पणमस्तु ॥
|| śrīsītārāmacandrārpaṇamastu ||
この讃歌を聖なるシーターとラーマチャンドラに捧げ奉ります。
逐語訳:
- ॥ (||) - 讃歌や吉祥句の前後に置かれる装飾的な括弧記号
- श्री (śrī) - 聖なる、吉祥なる、光輝ある(尊敬を表す接頭辞)
- सीता (sītā) - シーター(ラーマの神聖な妃)
- रामचन्द्र (rāmacandra) - ラーマチャンドラ(「月のようなラーマ」の意、ラーマの正式な称号)
- अर्पणम् (arpaṇam) - 奉納、献呈、捧げること(中性名詞)
- अस्तु (astu) - あれかし、〜でありますように(√as「ある」の命令法3人称単数)
解説:
この奉献の言葉は、ラーマ・ラクシャー・ストートラの完結と奉献を示す聖句です。ヒンドゥー教の文献では、作品の最後に「समर्पण」(samarpaṇa・奉献)の言葉を添えることで、その作品と朗誦による功徳を神に捧げる伝統があります。
「श्रीसीतारामचन्द्र」(śrīsītārāmacandra)は単なる二神の並記ではなく、神学的に深い意味を持ちます。シーターとラーマは「दम्पती」(dampatī・神聖な夫婦)として不可分の一体性を表します。これは「अर्धनारीश्वर」(ardhanārīśvara・半身が女性であるシヴァ神)のように、神の完全性には男性原理と女性原理の調和が不可欠であるという考え方を反映しています。
「रामचन्द्र」(rāmacandra)という呼称には特別な意味があります。「चन्द्र」(月)は清涼さと慈悲を象徴し、ラーマの「करुणा」(karuṇā・慈悲)の性質を強調します。これは第37節の「मामुद्धर」(私を救い上げたまえ)という祈願に応える神の本質を示しています。
「अर्पणमस्तु」(arpaṇamastu)という表現は、単なる献呈の意向を超えて、深い霊的な意味を持ちます。この讃歌の朗誦者は、自らの功徳(पुण्य, puṇya)を神に還元する「प्रत्यर्पण」(pratyarpaṇa・返し奉ること)を実践します。これは第38節で説かれた「रामनाम」(ラーマの御名)の力と結びつき、名号の朗誦と奉献が一体となった「भक्ति」(bhakti・献身)の道を完成させます。
この奉献の言葉によって、ラーマ・ラクシャー・ストートラは単なる詩的な表現や祈願を超え、朗誦者と神を結びつける生きた霊的通路となります。讃歌全体を通して描かれたラーマの守護の力とラーマの名の恩寵が、この最終的な奉献によって完全な円環を形成し、讃歌の霊的効力を確立するのです。
最後に
ここまで、聖賢ブダカウシカによって編まれ、永きにわたり無数の人々に唱え継がれてきた「ラーマ・ラクシャー・ストートラ」の全詩節を、サンスクリット語の原文に即しながら、その逐語訳と解説を通して詳細に検討してまいりました。この深遠なる讃歌の言葉一つひとつに込められた意味、音の響きが持つ霊的な力、そしてその背景にある豊かなヒンドゥーの信仰世界の一端に触れることができたなら幸いです。
私たちは、このストートラが単なる祈りの言葉の連なりではなく、ラーマ神の強力な守護エネルギーを呼び覚まし、身にまとうための「カヴァチャ」(霊的な鎧)として機能するよう構成されていることを見てきました。身体の各部位をラーマ神の様々な御名と属性に捧げ、加護を祈願する様は、全身全霊をもって神に帰依する姿勢の象徴とも言えるでしょう。
また、この讃歌は、理想の王、ダルマの体現者であるラーマ神への深い信愛(バクティ)を育むための優れた手段でもあります。彼の崇高な生涯、揺るぎない正義感、そして慈悲に満ちた姿を繰り返し心に描くことで、私たちの内にも同様の資質が目覚め、日々の選択や行動においてより良い指針を得ることができます。
解説の中で触れたように、サンスクリット語の正確な発音(ウッチャーラナ)は、マントラやストートラの効果を引き出す上で重要とされます。それは「シャブダ・ブラフマン」(音としてのブラフマン)の概念に基づき、神聖な音の振動が宇宙の根源的な力と共鳴すると考えられているからです。しかし、それ以上に肝要なのは、形式的な正確さだけでなく、唱える者の心の内にある純粋な信仰心(シュラッダー)と献身性です。たとえ発音に多少の不確かさがあったとしても、真摯な祈りは必ずやラーマ神に通じると、聖典は教えています。
この「ラーマ・ラクシャー・ストートラ」の実践は、単に困難や災厄から身を守るという現世的な利益のためだけではありません。より深い次元において、それは私たちの心を浄化し、恐れや不安といった否定的な感情を取り除き、内なる静けさと不動の平安をもたらすための精神修養(サーダナ)です。日々、あるいは必要な時にこの讃歌を唱える習慣を持つことで、私たちはラーマ神の存在をより身近に感じ、人生のあらゆる局面において、神聖な導きと支えを得ることができるでしょう。
古代の叡智が凝縮されたこの力強いストートラが、皆様の霊的な旅路において、頼もしい伴侶となり、ラーマ神の無限の慈悲と祝福をもたらす一助となることを心より願っております。この解説が、そのためのささやかな手引きとなれば、望外の喜びです。
Jay Shri Ram(ラーマ神に栄光あれ)
【サンスクリット原文出典】
Sanskrit Documents. "Shri Rama Raksha Stotram"
https://sanskritdocuments.org/doc_raama/rraksha.html
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