はじめに:深遠なる自己探求への扉 – マーンドゥーキヤ・ウパニシャッドの世界へ
数あるウパニシャッドの中でも、ひときわ短く、しかし宇宙と自己の根源的な真理を凝縮して説くことで知られる聖典、それが『マーンドゥーキヤ・ウパニシャッド』です。アタルヴァ・ヴェーダに属するこのウパニシャッドは、わずか十二の詩節(マントラ)から成り立ちますが、その内容はあまりにも深遠であり、後代のヴェーダーンタ哲学、特にシャンカラが体系化した不二一元論(アドヴァイタ・ヴェーダーンタ)の思想的根幹をなすものとして、極めて重要視されてきました。古来より「マーンドゥーキヤ一つで解脱(モークシャ)に十分である」とまで讃えられてきたのは、この短い詩篇のうちに、存在の究極的な謎を解き明かす鍵が秘められていると信じられてきたからです。
では、この『マーンドゥーキヤ・ウパニシャッド』は、私たちに何を語りかけるのでしょうか。その核心は、宇宙の創造、維持、破壊を象徴するとされる聖音「オーム」(ॐ)の神秘的な探求にあります。この聖典は、「オーム」を構成する「ア」「ウ」「ム」そして無音の響きという四つの要素が、私たちの意識が経験する四つの状態、すなわち覚醒時(ヴァイシュヴァーナラ)、夢見時(タイジャサ)、熟睡時(プラーギャ)、そしてこれら三つを超えた純粋意識そのものである第四状態(トゥリーヤ)に、それぞれ対応していることを明らかにします。そして、この第四状態こそが、個々の自己(アートマン)の本質であり、同時に宇宙の究極的実在であるブラフマンと同一であると説くのです。「私とは何か」「この世界の真実とは何か」という人類普遍の問いに対し、マーンドゥーキヤ・ウパニシャッドは、「オーム」という音を手がかりに、深遠かつ明快な答えを提示します。
その簡潔さゆえに、一見すると難解に感じられるかもしれません。事実、このウパニシャッドの真意を深く理解するためには、ガウダパーダによる注釈書『マーンドゥーキヤ・カーリカー』や、さらにそれに対するシャンカラの注釈などを参照することが一般的です。しかし、原典そのものが持つ力強さ、凝縮された叡智の輝きは、何ものにも代えがたいものがあります。サンスクリットという言語が持つ独特の響きと、一語一語に込められた深い意味合いに触れることは、この哲学体系への理解を格段に深める助けとなるでしょう。
本解説記事では、この『マーンドゥーキヤ・ウパニシャッド』のサンスクリット原典を、一語一語丁寧に読み解く逐語訳と、全体の流れを掴むための全文日本語訳、そして各詩節に込められた哲学的背景や意味合いについての解説を試みます。古代インドの聖賢たちが到達した意識の深淵を、サンスクリットの響きと共に追体験し、読者の皆様がご自身の内なる真実を探求する旅への、確かな一歩を踏み出すための導入となることを願ってやみません。さあ、聖音「オーム」の響きに導かれ、深遠なる自己探求の扉を開きましょう。
表題
माण्डूक्योपनिषत्
māṇḍūkyopaniṣat
マーンドゥーキヤ・ウパニシャッド
逐語訳:
- माण्डूक्य (māṇḍūkya) - マーンドゥーキヤ(मण्डूक [maṇḍūka]「蛙」に関連した名称)
- उपनिषत् (upaniṣat) - ウパニシャッド(उप [upa]「近くに」、नि [ni]「下に」、षद् [ṣad]「座る」から派生、師から弟子へ秘教的に伝えられる教え)
解説:
マーンドゥーキヤ・ウパニシャッド(माण्डूक्योपनिषत्, māṇḍūkyopaniṣat)は、古代インドの精神的叡智の精髄を凝縮した主要ウパニシャッドの一つです。アタルヴァ・ヴェーダに属するこの聖典は、わずか12の偈文という極めて簡潔な構成ながら、インド哲学の最も深遠な真理を開示しています。
「माण्डूक्य (māṇḍūkya)」という名称については、賢者の名に由来するという説と、「मण्डूक (maṇḍūka)」すなわち「蛙」に関連するという説があります。後者の解釈では、蛙が水中から陸上へと跳躍するように、人間意識も相対的な存在領域から絶対的実在へと飛翔するという象徴的意味を示唆します。この変容の過程こそが、本ウパニシャッドの中心テーマです。
本文は特に「ॐ (oṃ)」の聖音節を通じた瞑想と、意識の四状態の探究に焦点を当てています。これらの状態は:1)「जागरित (jāgarita)」(覚醒状態)、2)「स्वप्न (svapna)」(夢見状態)、3)「सुषुप्ति (suṣupti)」(熟睡状態)、そして4)「तुरीय (turīya)」(第四状態)です。特に重要な「तुरीय (turīya)」は、通常の経験を超越した純粋意識の状態であり、「आत्मन् (ātman)」(個の真我)と「ब्रह्मन् (brahman)」(宇宙的実在)の不二一元性(अद्वैत, advaita)を体現します。
シャンカラーチャーリヤの師の師とされるガウダパーダが著した「माण्डूक्यकारिका (māṇḍūkyakārikā)」は、このウパニシャッドの重要な注釈書として知られています。伝統的に「このウパニシャッド一つで解脱に十分である」と言われるほど、本文は非二元的実在への直接的洞察を提供します。
現代においても、マーンドゥーキヤの教えは意識研究やヨーガの実践者に深い影響を与え続けており、意識の根源を探求する道標となっています。その簡潔な形式と深遠な内容は、古代の叡智が現代に語りかける生きた証といえるでしょう。
平和の祈り
ॐ भद्रं कर्णेभिः शृणुयाम देवा भद्रं पश्येमाक्षभिर्यजत्राः ।
स्थिरैरङ्गैस्तुष्टुवांसस्तनूभिर्व्यशेम देवहितं यदायुः ॥
oṃ bhadraṃ karṇebhiḥ śṛṇuyāma devā bhadraṃ paśyemākṣabhiryajatrāḥ |
sthirairaṅgaistuṣṭuvāṃsastanūbhirvyaśema devahitaṃ yadāyuḥ ||
オーム。神々よ、私たちが耳で吉祥なることを聞き、目で吉祥なることを見ますように。
堅固な四肢をもって、全身で讃歌を捧げながら、
神々が恵みたもうた生命を全うできますように。
逐語訳:
- ॐ (oṃ) - 宇宙の根源的な音(プラナヴァ)
- भद्रं (bhadraṃ) - 吉祥なること、善きこと(中性単数対格)
- कर्णेभिः (karṇebhiḥ) - 耳によって(男性複数具格)
- शृणुयाम (śṛṇuyāma) - 聞きますように(願望法1人称複数)
- देवाः (devāḥ) - 神々よ(男性複数呼格)
- भद्रं (bhadraṃ) - 吉祥なること(繰り返し強調)
- पश्येम (paśyema) - 見ますように(願望法1人称複数)
- अक्षभिः (akṣabhiḥ) - 目によって(中性複数具格)
- यजत्राः (yajatrāḥ) - 崇拝に値する神々よ(男性複数呼格)
- स्थिरैः (sthiraiḥ) - 堅固な、揺るぎない(男性複数具格)
- अङ्गैः (aṅgaiḥ) - 四肢、体の部分(中性複数具格)
- तुष्टुवांसः (tuṣṭuvāṃsaḥ) - 讃歌を捧げながら(√स्तु [stu]「賛美する」の完了分詞男性複数主格)
- तनूभिः (tanūbhiḥ) - 身体によって(女性複数具格)
- व्यशेम (vyaśema) - 享受し尽くしますように、全うしますように(√अश् [aś]「達成する」に接頭辞वि [vi]を付した願望法1人称複数)
- देवहितं (devahitaṃ) - 神々によって与えられた、神々に喜ばれる(中性単数対格)
- यत् (yat) - 〜であるところの(関係代名詞)
- आयुः (āyuḥ) - 寿命、生命(中性単数主格)
解説:
このマントラはリグ・ヴェーダ(1.89.8)に由来する古代の祈りであり、シャーンティ・パータ(平和の祈り)として知られています。ウパニシャッドの学習を始める前に唱えられることが多く、特にマーンドゥーキヤ・ウパニシャッドの前書きとして、これから始まる深遠な探究のための精神的空間を清める役割を果たします。
冒頭の「ॐ (oṃ)」は、宇宙の根源的振動を表す神聖な音節であり、マーンドゥーキヤ・ウパニシャッドでは中心的なテーマとなります。このウパニシャッドは「ॐ」の音節の四つの要素(अ-उ-म-無音)が意識の四状態(覚醒・夢・熟睡・トゥリーヤ)に対応することを解説しており、この音で始まることには深い意味があります。
「भद्रं (bhadraṃ)」が二度繰り返されることで、善きものへの願いが強調されています。これは単なる物質的幸福ではなく、霊的な善と真理への志向を意味します。感覚器官が「吉祥なるもの」を認識するという表現は、ヨーガの実践における「प्रत्याहार (pratyāhāra)」(感覚の制御と内向化)の基礎となる考え方を示唆しています。
「स्थिरैरङ्गैः (sthirairaṅgaiḥ)」(堅固な四肢で)という表現は、「स्थिरसुखम् आसनम् (sthirasukham āsanam)」(安定と快適さをもつ姿勢)というヨーガの概念を連想させます。身体的な安定は精神的な安定の基盤となり、これは深い瞑想的探究に不可欠です。
「देवहितं यदायुः (devahitaṃ yadāyuḥ)」には二重の意味があります。一つは「神々によって恵まれた生命」という字義通りの意味、もう一つは「神聖な目的に適った生命」という深い意味です。これは「धर्म (dharma)」(宇宙法則に沿った生き方)の概念と結びついています。
このマントラは、マーンドゥーキヤ・ウパニシャッドが探究する「純粋意識の状態」への旅の最初の一歩として、感覚と知性を浄化し、内なる自己を認識するための最適な準備となっています。現代のヨーガ実践者にとっても、外的な知覚から内的な気づきへと注意を向け、日常の生活を神聖な目的に沿ったものとするための指針となるでしょう。
序文
भद्रं नो अपि वातय मनः ॥
ॐ शान्तिः शान्तिः शान्तिः ।
॥ अथ माण्डूक्योपनिषत् ॥
bhadraṃ no api vātaya manaḥ ॥
oṃ śāntiḥ śāntiḥ śāntiḥ ।
॥ atha māṇḍūkyopaniṣat ॥
どうか私たちの心にも吉祥なるものを吹き込みたまえ。
オーム 平安あれ 平安あれ 平安あれ
ここにマーンドゥーキヤ・ウパニシャッド始まる。
逐語訳:
- भद्रं (bhadraṃ) - 善きもの、吉祥なるもの(中性単数対格)
- नः (naḥ) / नो (no) - 私たちの、私たちに(母音前の形、与格または属格)
- अपि (api) - もまた、さらに(不変化詞)
- वातय (vātaya) - 吹き込め、導け(√वा [vā]「吹く」の使役活用、命令法2人称単数)
- मनः (manaḥ) - 心、精神(中性単数対格)
- ॐ (oṃ) - オーム(宇宙の根源音)
- शान्तिः (śāntiḥ) - 平安、平和(女性単数主格、3回繰り返し)
- अथ (atha) - さて、ここに(不変化詞、新しい始まりを示す)
- माण्डूक्योपनिषत् (māṇḍūkyopaniṣat) - マーンドゥーキヤ・ウパニシャッド(女性単数主格)
解説:
この序文は、ウパニシャッド本文への入口として、前節からの連続性を保ちつつ精神的な準備を完成させる役割を果たしています。前節では外的感覚器官(耳や目)が善きものを受け取ることを願いましたが、ここではさらに内面に進み、「मनः (manaḥ)」(心・意)に焦点が当てられています。
「वातय (vātaya)」という動詞は、「風のように吹き込む」「風を送る」という原義を持ち、ここでは神聖な知恵や善なるものが風のように心に入り込むイメージを喚起します。これは「प्राण (prāṇa)」(生命気)の概念とも関連し、風や息が生命力や意識と深く結びついているというヨーガの理解を反映しています。前節で外的世界からの入力(聞くこと、見ること)について述べた後、ここでは内なる風(プラーナ)が心を浄化し、真理の受容に適した状態へと導くプロセスが表現されています。
三度繰り返される「शान्तिः (śāntiḥ)」は、インドの聖典学習の伝統において重要な意味を持ちます。この三重の平安は、「आध्यात्मिक (ādhyātmika)」(霊的・内的な障害)、「आधिभौतिक (ādhibhautika)」(物質的・環境的な障害)、「आधिदैविक (ādhidaivika)」(超自然的・宇宙的な障害)という三種の妨げからの解放を意味します。マーンドゥーキヤが探究する意識の四状態に関する教えを受け取るためには、これら三つの次元すべてにおける平安が前提条件となります。
「अथ (atha)」という言葉は、サンスクリット文献において新たな章や重要な論考の始まりを示す伝統的な言葉です。バーダラーヤナの「ब्रह्मसूत्र (brahmasūtra)」も「अथातो ब्रह्मजिज्ञासा (athāto brahmajijñāsā)」(さて、それゆえにブラフマンについての探究を)という言葉で始まります。この「अथ」は単なる時間的連続を示すのではなく、「今こそ、適切な準備が整ったので」という意味を含み、ウパニシャッドの教えを受け取る準備が完了したことを示唆しています。
第1節
हरिः ॐ ।
ॐ इत्येतदक्षरमिदं सर्वं तस्योपव्याख्यानं
भूतं भवद् भविष्यदिति सर्वमोङ्कार एव
यच्चान्यत् त्रिकालातीतं तदप्योङ्कार एव ॥ १॥
hariḥ oṃ |
oṃ ityetadakṣaramidaṃ sarvaṃ tasyopavyākhyānaṃ
bhūtaṃ bhavad bhaviṣyaditi sarvamoṅkāra eva
yaccānyat trikālātītaṃ tadapyoṅkāra eva || 1 ||
ハリ、オーム。
オームというこの不滅の音節こそがすべてである。以下はその解説である。
過去、現在、未来というすべては、まさにオームのみである。
また、三時を超えたその他のものも、まさにオームのみである。
逐語訳:
- हरिः (hariḥ) - ハリ(ヴィシュヌ神の称号、吉祥句)
- ॐ (oṃ) - オーム(宇宙の根源音)
- इति (iti) - というように(引用を示す不変化詞)
- एतद् (etad) - この(指示代名詞、中性単数主格)
- अक्षरम् (akṣaram) - 不滅の音節(中性単数主格)
- इदं (idaṃ) - この(近称代名詞、中性単数主格)
- सर्वं (sarvaṃ) - すべて(中性単数主格)
- तस्य (tasya) - それの(代名詞「तत्」の属格)
- उपव्याख्यानं (upavyākhyānaṃ) - 解説、詳細な説明(中性単数主格)
- भूतं (bhūtaṃ) - 過去であるもの、すでに生じたもの(中性単数主格)
- भवत् (bhavat) - 現在であるもの、今生成しつつあるもの(中性単数主格)
- भविष्यत् (bhaviṣyat) - 未来であるもの、これから生じるもの(中性単数主格)
- इति (iti) - というように
- सर्वम् (sarvam) - すべて(中性単数主格)
- ओङ्कारः (oṅkāraḥ) - オームの音節(男性単数主格)
- एव (eva) - のみ、まさに(強調の不変化詞)
- यत् (yat) - 〜であるところの(関係代名詞、中性単数主格)
- च (ca) - そして(接続詞)
- अन्यत् (anyat) - 他の(もの)(中性単数主格)
- त्रिकालातीतं (trikālātītaṃ) - 三時を超えた(中性単数主格、त्रि [tri] "三" + काल [kāla] "時間" + अतीत [atīta] "超えた")
- तत् (tat) - それ(代名詞、中性単数主格)
- अपि (api) - もまた(強調の不変化詞)
- ओङ्कारः (oṅkāraḥ) - オームの音節(男性単数主格)
- एव (eva) - のみ、まさに(強調の不変化詞)
解説:
マーンドゥーキヤ・ウパニシャッドの第1節は、前節の「अथ माण्डूक्योपनिषत्」(ここにマーンドゥーキヤ・ウパニシャッド始まる)を受け、本文の中心的テーマである「ॐ」(オーム)の宇宙的意義を力強く宣言しています。
冒頭の「हरिः ॐ」(ハリ・オーム)は吉祥句であり、これから述べられる教えの神聖さを示しています。続いて、「ॐ」という音節が単なる音声記号ではなく、宇宙の根源的実在であると明示されます。
この節で使われる「अक्षरम्」(akṣaram)という語は重要な二重の意味を持ちます。一つは「音節」という字義通りの意味、もう一つは「अ」(否定)+「क्षर」(滅びるもの)から派生した「不滅のもの」という意味です。この二重の意味によって、「ॐ」が音としての側面と永遠の実在としての側面を同時に持つことが示唆されています。
時間の三相「भूतं भवद् भविष्यत्」(過去、現在、未来)に言及する部分は、「ॐ」が時間内に現れるすべての現象を包含することを示しています。これらの時制はすべて「भू」(存在する)という動詞の派生形であり、存在の時間的展開のすべてがオームの現れであることを表しています。
さらに、「त्रिकालातीतं」(trikālātītaṃ、三時を超えたもの)という表現は、時間そのものを超越した領域までもオームの本質に含まれることを明らかにしています。これは後に詳述される「तुरीय」(トゥリーヤ、第四の状態)の概念への重要な伏線となります。
この宣言的な第1節は、以降の節で展開される意識の四状態の探究のための基盤を築いています。「ॐ」の音の中に宇宙のすべてを見出すという視点は、形而上学的理解であると同時に、ヨーガの実践においても中心的な位置を占めています。「ॐ」を唱えることは、過去・現在・未来を包含し、さらにそれを超越した永遠の実在と直接つながる道なのです。
第2節
सर्वं ह्येतद् ब्रह्मायमात्मा ब्रह्म सोऽयमात्मा चतुष्पात् ॥ २॥
sarvaṃ hyetad brahmāyamātmā brahma so'yamātmā catuṣpāt ॥ 2॥
まことに、この一切はブラフマンである。このアートマンはブラフマンである。そのアートマンは四つの部分を持つ。
逐語訳:
- सर्वं (sarvaṃ) - すべて、一切(中性単数主格)
- हि (hi) - まことに、なぜなら(強調の不変化詞)
- एतद् (etad) - これ、この(指示代名詞、中性単数主格)
- ब्रह्म (brahma) - ブラフマン(最高原理、中性単数主格)
- अयम् (ayam) - これ、この(指示代名詞、男性単数主格)
- आत्मा (ātmā) - アートマン、自己、本質(男性単数主格)
- ब्रह्म (brahma) - ブラフマン(中性単数主格)
- सः (saḥ) - それ、その(代名詞、男性単数主格)
- अयम् (ayam) - これ、この(指示代名詞、男性単数主格)
- आत्मा (ātmā) - アートマン(男性単数主格)
- चतुष्पात् (catuṣpāt) - 四つの部分・足を持つ(男性単数主格、चतुर् [catur] "四" + पद् [pad] "足・部分")
解説:
第2節は、第1節で提示された「ॐ」(オーム)の宇宙的意義をさらに深め、マーンドゥーキヤ・ウパニシャッドの核心的教えを簡潔かつ力強く宣言しています。
「सर्वं ह्येतद् ब्रह्म」(この一切はブラフマンである)という冒頭の宣言は、第1節で「ॐ」が宇宙のすべて(過去・現在・未来とそれを超えたもの)を包含すると述べたことと直接つながっています。ここでは「ॐ」と「ब्रह्म」(ブラフマン)が同一視され、現象世界のすべてが究極的実在であるブラフマンの顕現であることが明らかにされます。
「अयमात्मा ब्रह्म」(このアートマンはブラフマンである)という表現は、宇宙的原理(ブラフマン)と個の内奥に宿る本質(アートマン)の同一性を示しています。この同一性の認識は、「अद्वैत वेदान्त」(アドヴァイタ・ヴェーダーンタ、不二一元論)の根幹をなす教えであり、「तत् त्वम् असि」(タット・トヴァム・アシ、汝はそれなり)という有名なウパニシャッドの大格言(महावाक्य, mahāvākya)の真髄を表しています。
この節の最も重要な要素は「सोऽयमात्मा चतुष्पात्」(そのアートマンは四つの部分を持つ)という言明です。ここでの「पाद」(パーダ、足)は単に物理的な足ではなく、存在の「側面」や「次元」を意味します。リグ・ヴェーダの「पुरुष सूक्त」(プルシャ・スークタ、原人讃歌)では、宇宙的存在(プルシャ)の四分の一が顕現世界となり、四分の三が不滅の領域に留まると述べられています。このウパニシャッドでは、この古い概念が意識の四状態という形で新たに解釈され、以降の節で詳述されることになります。
この「四つの足」すなわち意識の四状態—「जागरित」(ジャーガリタ、覚醒状態)、「स्वप्न」(スヴァプナ、夢眠状態)、「सुषुप्ति」(スシュプティ、熟睡状態)、「तुरीय」(トゥリーヤ、第四の状態)—の探究が、マーンドゥーキヤ・ウパニシャッドの中心的テーマとなります。
この簡潔な節は、ヨーガと瞑想の実践者にとって深遠な意味を持ちます。アートマンとブラフマンの同一性の理解は、瞑想を通じて自己の内奥に向かう旅の最終目標を示し、意識の四状態の探究は、瞑想における様々な意識レベルの経験に直接関連しているからです。
第3節
जागरितस्थानो बहिष्प्रज्ञः सप्ताङ्ग एकोनविंशतिमुखः
स्थूलभुग्वैश्वानरः प्रथमः पादः ॥ ३॥
jāgaritasthāno bahiṣprajñaḥ saptāṅga ekonaviṃśatimukhaḥ
sthūlabhugvaiśvānaraḥ prathamaḥ pādaḥ ॥ 3॥
覚醒状態に位置し、外界に向かう認識を持ち、七つの肢体と十九の口を備え、粗大なるものを享受するヴァイシュヴァーナラが、アートマンの第一の様相である。
逐語訳:
- जागरितस्थानः (jāgaritasthānaḥ) - 覚醒状態に位置する者(男性単数主格、जागरित [jāgarita]「目覚めている」+ स्थान [sthāna]「位置する」)
- बहिष्प्रज्ञः (bahiṣprajñaḥ) - 外界へ向かう認識を持つ者(男性単数主格、बहिस् [bahis]「外へ」+ प्रज्ञ [prajña]「認識」)
- सप्ताङ्गः (saptāṅgaḥ) - 七つの肢体を持つ者(男性単数主格、सप्त [sapta]「七」+ अङ्ग [aṅga]「肢体」)
- एकोनविंशतिमुखः (ekonaviṃśatimukhaḥ) - 十九の口を持つ者(男性単数主格、एकोनविंशति [ekonaviṃśati]「十九」+ मुख [mukha]「口・入口」)
- स्थूलभुक् (sthūlabhuk) - 粗大なものを享受する者(男性単数主格、स्थूल [sthūla]「粗大な」+ भुज् [bhuj]「享受する」)
- वैश्वानरः (vaiśvānaraḥ) - ヴァイシュヴァーナラ(男性単数主格、विश्व [viśva]「すべて」+ नर [nara]「人」から派生)
- प्रथमः (prathamaḥ) - 第一の(男性単数主格)
- पादः (pādaḥ) - 足、部分、様相(男性単数主格)
解説:
第3節では、前節で宣言された「四つの部分(पाद, pāda)を持つアートマン」の第一の様相について詳述されています。ここで描写されるのは、意識の四状態の最初である「जागरित」(ジャーガリタ、覚醒状態)です。
「जागरितस्थान」(ジャーガリタスターナ)という語は、語根「जागृ」(目覚める)から派生し、通常の日常意識が活動している状態を指します。この状態では、意識は「बहिष्प्रज्ञ」(バヒシュプラジュニャ)、つまり外界へと向かって機能しています。瞑想の用語では、これは外的対象に意識が向かう状態であり、内的な自己探求の反対方向に働いています。
「सप्ताङ्ग」(七つの肢体)という表現は、ヴァイシュヴァーナラの宇宙的身体の構成要素を指します。チャーンドーギヤ・ウパニシャッド(5.18.2)によれば、これらは天界(頭部)、太陽と月(眼)、風(気息)、空間(胴体)、水(下腹部)、地(足)、そして祭火(口)という宇宙的対応を持ちます。この七肢体の概念は、マクロコスモス(宇宙)とミクロコスモス(個人)の相互関連性を示す重要な教えです。
「एकोनविंशतिमुख」(十九の口)は、覚醒状態において外界と接触する通路または入口を表します。これは五感覚器官(ज्ञानेन्द्रिय)、五行動器官(कर्मेन्द्रिय)、五生気(プラーナ)、そして四内官(心の内的機能:मनस्, बुद्धि, चित्त, अहङ्कार)から構成されます。「मुख」(口)は単なる物理的な口ではなく、外界からの経験を「摂取する」すべての手段を象徴しています。
「स्थूलभुक्」(粗大なものを享受する者)という特徴は、この意識状態が物理的・感覚的対象を経験することに関わっていることを示しています。これは後の節で述べられる夢眠状態における「微細なもの」との対比をなしています。
「वैश्वानर」(ヴァイシュヴァーナラ)という名称は「विश्व」(すべて)と「नर」(人々)から派生し、「すべての人々に共通の」または「普遍的な」という意味を持ちます。ここでは個人の覚醒意識が宇宙的意識と連続していることを示しています。
この第一の様相の理解は、瞑想者にとって重要な実践的意味を持ちます。覚醒状態の特性を知ることで、瞑想において外向きの日常意識から内向きの意識状態への移行をより意識的に体験できるようになります。また、日常意識にも宇宙的な次元があることを認識することで、通常の経験にも神聖さを見出す視点が養われます。
第4節
स्वप्नस्थानोऽन्तःप्रज्ञः सप्ताङ्ग एकोनविंशतिमुखः
प्रविविक्तभुक्तैजसो द्वितीयः पादः ॥ ४॥
svapnasthāno'ntaḥprajñaḥ saptāṅga ekonaviṃśatimukhaḥ
praviviktabhuktaijaso dvitīyaḥ pādaḥ ॥ 4॥
夢眠状態に位置し、内面へ向かう認識を持ち、七つの肢体と十九の口を備え、微細なるものを享受する光輝あるタイジャサが、アートマンの第二の様相である。
逐語訳:
- स्वप्नस्थानः (svapnasthānaḥ) - 夢眠状態に位置する者(男性単数主格、स्वप्न [svapna]「夢」+ स्थान [sthāna]「位置する」)
- अन्तःप्रज्ञः (antaḥprajñaḥ) - 内面へ向かう認識を持つ者(男性単数主格、अन्तः [antaḥ]「内側へ」+ प्रज्ञ [prajña]「認識」)
- सप्ताङ्गः (saptāṅgaḥ) - 七つの肢体を持つ者(男性単数主格、सप्त [sapta]「七」+ अङ्ग [aṅga]「肢体」)
- एकोनविंशतिमुखः (ekonaviṃśatimukhaḥ) - 十九の口を持つ者(男性単数主格、एकोनविंशति [ekonaviṃśati]「十九」+ मुख [mukha]「口・入口」)
- प्रविविक्तभुक् (praviviktabhuk) - 微細なるもの・分離されたものを享受する者(男性単数主格、प्रविविक्त [pravivikta]「微細な・分離された」+ भुज् [bhuj]「享受する」)
- तैजसः (taijasaḥ) - タイジャサ、光輝ある者(男性単数主格、तेजस् [tejas]「光輝」から派生)
- द्वितीयः (dvitīyaḥ) - 第二の(男性単数主格)
- पादः (pādaḥ) - 足、部分、様相(男性単数主格)
解説:
第4節では、アートマンの第二の様相である夢眠状態(स्वप्न, svapna)について詳述されています。この節は第3節の覚醒状態との明確な対比を通じて、意識の内的次元への探究を深めています。
「स्वप्नस्थान」(svapnasthāna)という表現は、単に生理学的な睡眠中の夢を見ている状態を超えて、意識が外界から離れ内的世界へと移行する次元を指します。ヨーガの実践者にとって、これは瞑想の初期段階で経験される感覚的意識から内的意識への移行に対応します。
前節の「बहिष्प्रज्ञ」(bahiṣprajña、外界へ向かう認識)と対照的に、ここでは「अन्तःप्रज्ञ」(antaḥprajña、内面へ向かう認識)という特徴が強調されています。覚醒状態では感覚器官を通じて外界を認識していたのに対し、夢眠状態では意識は内的イメージや記憶、潜在的印象(संस्कार, saṃskāra)の世界へと向かいます。
興味深いことに、「七つの肢体」と「十九の口」という構造は覚醒状態と同じですが、その機能の仕方が異なります。外的対象から切り離されたこれらの器官は、今や内的経験の生成と知覚に関わっています。
「प्रविविक्तभुक्」(praviviktabhuk、微細なるものを享受する)という特性は、第3節の「स्थूलभुक्」(sthūlabhuk、粗大なるものを享受する)との重要な対比をなしています。覚醒状態が物理的感覚対象を経験するのに対し、夢眠状態ではより微細な心的イメージや印象を経験します。「प्रविविक्त」(pravivikta)という語は「分離された」という意味も持ち、夢の経験が外的現実から分離されていることを示唆しています。
「तैजस」(taijasa、光輝ある者)という名称は、夢眠状態の意識に特徴的な内的な輝きや光明性を表します。これは物理的光ではなく、内的な認識の明るさや鮮明さを指し、前節の「वैश्वानर」(vaiśvānara、普遍的な者)と対をなす概念です。
この第二の様相の理解は、ヨーガと瞑想の実践において重要な意味を持ちます。覚醒状態から夢眠状態への移行を意識的に観察することで、外的対象から内的世界への注意の転換を促し、心の動きをより微細なレベルで観察する能力を養うことができます。また、心が創り出す内的現実の本質を理解することは、『ヨーガ・スートラ』が説く「प्रत्याहार」(pratyāhāra、感覚の制御)の実践と密接に関連し、より深い瞑想状態への道を開きます。
第5節
यत्र सुप्तो न कञ्चन कामं कामयते न कञ्चन स्वप्नं
पश्यति तत् सुषुप्तम् । सुषुप्तस्थान एकीभूतः प्रज्ञानघन
एवानन्दमयो ह्यानन्दभुक् चेतोमुखः प्राज्ञस्तृतीयः पादः ॥ ५॥
yatra supto na kañcana kāmaṃ kāmayate na kañcana svapnaṃ
paśyati tat suṣuptam | suṣuptasthāna ekībhūtaḥ prajñānaghana
evānandamayo hyānandabhuk cetomukhaḥ prājñastṛtīyaḥ pādaḥ || 5 ||
眠れる者がいかなる欲望も抱かず、いかなる夢も見ない境地、それが深い眠り(スシュプタ)である。この深い眠りの状態に位置し、一味相即となり、純粋知性の凝集体として、まさに歓喜に満ち、確かに至福を享受し、意識を門戸とする知恵に満ちたプラージュニャが、アートマンの第三の様相である。
逐語訳:
- यत्र (yatra) - どこにおいて、その状態において(関係副詞)
- सुप्तः (suptaḥ) - 眠れる者(男性単数主格)
- न (na) - 〜ない(否定辞)
- कञ्चन (kañcana) - いかなる〜も(不定代名詞)
- कामम् (kāmam) - 欲望、欲求(男性単数対格)
- कामयते (kāmayate) - 欲する(中動態現在形)
- न (na) - 〜ない(否定辞)
- कञ्चन (kañcana) - いかなる〜も(不定代名詞)
- स्वप्नम् (svapnam) - 夢(男性単数対格)
- पश्यति (paśyati) - 見る(能動態現在形)
- तत् (tat) - それ(代名詞、中性単数主格)
- सुषुप्तम् (suṣuptam) - 深い眠り、熟睡(中性単数主格)
- सुषुप्तस्थानः (suṣuptasthānaḥ) - 深い眠りの状態に位置する者(男性単数主格)
- एकीभूतः (ekībhūtaḥ) - 一味相即、一体となった(男性単数主格)
- प्रज्ञानघनः (prajñānaghanaḥ) - 純粋知性の凝集体(男性単数主格)
- एव (eva) - まさに(強調の不変化詞)
- आनन्दमयः (ānandamayaḥ) - 歓喜に満ちた(男性単数主格)
- हि (hi) - 確かに(強調の不変化詞)
- आनन्दभुक् (ānandabhuk) - 至福を享受する者(男性単数主格)
- चेतोमुखः (cetomukhaḥ) - 意識を門戸とする者(男性単数主格)
- प्राज्ञः (prājñaḥ) - プラージュニャ、知恵に満ちた者(男性単数主格)
- तृतीयः (tṛtīyaḥ) - 第三の(男性単数主格)
- पादः (pādaḥ) - 足、部分、様相(男性単数主格)
解説:
第5節では、アートマンの第三の様相である「सुषुप्ति」(スシュプティ, suṣupti)の状態が詳述されています。第3節の覚醒状態(जागरित, jāgarita)、第4節の夢眠状態(स्वप्न, svapna)に続き、意識のさらに深い層へと探究が進められています。
この節の冒頭では、深い眠りの状態が二重の否定表現によって定義されています—「いかなる欲望も抱かず」「いかなる夢も見ない」。これは覚醒状態における外界への関与と、夢眠状態における内的イメージの両方が完全に消失していることを意味します。「तत् सुषुप्तम्」(それが深い眠りである)という簡潔な宣言は、この状態の本質を鮮明に示しています。
「एकीभूत」(一味相即)という表現は、この状態における二元性の完全な超越を表しています。覚醒状態における「知覚者と知覚対象」の二元性、夢眠状態における「夢見る者と夢見られる内容」の二元性が、深い眠りの状態では完全に融合し、純粋な統一意識のみが残ります。これは不二一元論(अद्वैत, advaita)の核心的体験です。
「प्रज्ञानघन」(prajñānaghana)という語は特に重要です。「घन」(ghana)は「密集した塊」を意味し、あらゆる個別的知識が融合し凝縮された純粋知性の状態を指します。ブリハッド・アーラニヤカ・ウパニシャッド(4.3.21)では、この状態を「眠りにおいて、すべてが一つになり、純粋な知識の塊となる」と描写しています。
「आनन्दमय」(歓喜に満ちた)と「आनन्दभुक्」(至福を享受する)という二つの表現は、深い眠りの状態の本質的特徴として「आनन्द」(ānanda, 至福・歓喜)を強調しています。ここでの歓喜は外的要因に依存せず、意識そのものの本来的特性として現れます。タイッティリーヤ・ウパニシャッド(2.5)もまた、ブラフマンの本質を「आनन्द」(至福)として定義しています。
「चेतोमुख」(意識を門戸とする)という表現は、この状態への入口が純粋意識そのものであることを示しています。覚醒状態が外的感覚器官を、夢眠状態が内的心像を「門戸」としていたのに対し、深い眠りでは純粋意識のみが通路となります。
「प्राज्ञ」(プラージュニャ, prājña)は、この深い眠りの状態における意識の担い手を表す名称です。第3節の「वैश्वानर」(ヴァイシュヴァーナラ)、第4節の「तैजस」(タイジャサ)に続く、アートマンの第三の顕現形態です。
ヨーガの実践者にとって、この状態の理解は極めて重要です。通常の熟睡では、この状態を無自覚に経験しますが、ヨーガ・サーダナ(修行)においては、完全な意識を保ちながらこの無二の状態を体験することが目指されます。これは「योग निद्रा」(ヨーガ・ニドラー, yoga nidrā)と呼ばれる実践に通じるものです。
第6節
एष सर्वेश्वरः एष सर्वज्ञ एषोऽन्तर्याम्येष योनिः सर्वस्य
प्रभवाप्ययौ हि भूतानाम् ॥ ६॥
eṣa sarveśvaraḥ eṣa sarvajña eṣo'ntaryāmyeṣa yoniḥ sarvasya
prabhavāpyayau hi bhūtānām ॥ 6॥
これこそが万物の主宰者、これこそが一切を知る者、これこそが内なる導き手、これこそが万物の源泉、
まさにこれが、あらゆる存在の発現と帰滅の根源である。
逐語訳:
- एष (eṣa) - これ、この者(代名詞、男性単数主格)
- सर्वेश्वरः (sarveśvaraḥ) - 万物の主宰者(男性単数主格、सर्व [sarva]「すべての」+ ईश्वर [īśvara]「主、支配者」)
- एष (eṣa) - これ、この者(代名詞、男性単数主格)
- सर्वज्ञः (sarvajñaḥ) - 一切を知る者(男性単数主格、सर्व [sarva]「すべての」+ ज्ञ [jña]「知る者」)
- एषः (eṣaḥ) - これ、この者(代名詞、男性単数主格)
- अन्तर्यामी (antaryāmī) - 内なる導き手(男性単数主格、अन्तर् [antar]「内部に」+ यामिन् [yāmin]「制御する者」)
- एष (eṣa) - これ、この者(代名詞、男性単数主格)
- योनिः (yoniḥ) - 源泉、根源、子宮(女性単数主格)
- सर्वस्य (sarvasya) - すべての、万物の(男性・中性単数属格)
- प्रभवाप्ययौ (prabhavāpyayau) - 発現と帰滅(男性双数主格、प्रभव [prabhava]「発現、起源」+ अप्यय [apyaya]「帰滅、消滅」)
- हि (hi) - 確かに、実に(強調の不変化詞)
- भूतानाम् (bhūtānām) - 存在するものたちの、生類の(中性複数属格、भूत [bhūta]「存在するもの、生類、元素」)
解説:
第6節は、前節までに詳述された意識の三状態(覚醒、夢眠、熟睡)の根底に横たわる究極的実在について宣言しています。特に第5節で説明された深い眠り(सुषुप्ति, suṣupti)の状態を担うプラージュニャ(प्राज्ञ, prājña)の真の本質が、より普遍的・宇宙論的視点から展開されています。
この節の特徴的な修辞は「एष」(eṣa、これこそは)の四回にわたる反復です。この力強い反復は、究極的実在の多様な側面を列挙しながらも、それが単一の原理であることを強調しています。アドヴァイタ(不二一元論)哲学の核心である「多様性の中の統一性」が見事に表現されています。
「सर्वेश्वर」(sarveśvara)という概念は、この原理が万物を統御・支配する力を持つことを示しています。「ईश्वर」(īśvara)は「支配する力」を意味し、後のヨーガ哲学では特に重要な概念となります。パタンジャリの『ヨーガ・スートラ』(1.24-26)では、ईश्वर(イーシュヴァラ)は特別なプルシャ(純粋意識)として、瞑想の対象とされています。
「अन्तर्यामिन्」(antaryāmin)という表現は特に意味深いものです。字義的には「内側から導く者」を意味し、ブリハッド・アーラニヤカ・ウパニシャッド(3.7)で詳述されるこの概念は、外的な支配者ではなく、あらゆる存在の最も内奥から作用する神的原理を指します。ヨーガの実践者にとって、これは瞑想において外部ではなく内面に真の導きを求めるべきことを示唆しています。
「योनि」(yoni)という語は創造の源泉・母胎を意味し、この原理が単なる支配者ではなく、万物を産み出す創造的な力であることを示しています。「प्रभवाप्ययौ」(prabhavāpyayau)という表現は、宇宙の発現(創造)と帰滅(溶解)の両方の過程をこの原理が司ることを示しています。このような宇宙論的視点は、個人の意識状態の探究から宇宙全体の本質へと視野を広げています。
この節の理解は、実践的なヨーガにとって重要な意義を持ちます。瞑想者は自己の意識状態の観察から始め、その根底にある普遍的実在へと探究を深めていきます。「सर्वेश्वर」(万物の主宰者)でありながら「अन्तर्यामिन्」(内なる導き手)でもあるという逆説的理解は、真の自己(आत्मन्, ātman)が個別的な小我ではなく、宇宙的意識(ब्रह्मन्, brahman)と本質的に同一であるという不二一元論の核心的洞察へと導くのです。
第7節
नान्तःप्रज्ञं न बहिष्प्रज्ञं नोभयतःप्रज्ञं न प्रज्ञानघनं
न प्रज्ञं नाप्रज्ञम् । अदृष्टमव्यवहार्यमग्राह्यमलक्षणं
अचिन्त्यमव्यपदेश्यमेकात्मप्रत्ययसारं प्रपञ्चोपशमं
शान्तं शिवमद्वैतं चतुर्थं मन्यन्ते स आत्मा स विज्ञेयः ॥ ७॥
nāntaḥprajñaṃ na bahiṣprajñaṃ nobhayataḥprajñaṃ na prajñānaghanaṃ
na prajñaṃ nāprajñam | adṛṣṭamavyavahāryamagrāhyamalakṣaṇaṃ
acintyamavyapadeśyamekātmapratyayasāraṃ prapañcopaśamaṃ
śāntaṃ śivamadvaitaṃ caturthaṃ manyante sa ātmā sa vijñeyaḥ ॥ 7॥
内なる世界へ向かう認識を持つものでもなく、外界へ向かう認識を持つものでもなく、両方向に認識を向けるものでもなく、純粋知性の凝集体でもなく、
意識的であるものでもなく、無意識であるものでもない。見ることができず、言葉で表現できず、把握できず、特徴づけられず、
思考を超え、言表しえず、単一なる自己の認識のみを本質とし、現象世界の多様性が静まった状態にあり、
絶対的に静寂、究極的に吉祥、不二一元なる第四の状態—これこそを賢者たちは「アートマン(真の自己)」と理解する。これこそが究極的に知られるべきものである。
逐語訳:
- न (na) - 〜でない(否定辞)
- अन्तःप्रज्ञं (antaḥprajñaṃ) - 内なる世界へ向かう認識を持つもの(中性単数対格)
- न (na) - 〜でない(否定辞)
- बहिष्प्रज्ञं (bahiṣprajñaṃ) - 外界へ向かう認識を持つもの(中性単数対格)
- न (na) - 〜でない(否定辞)
- उभयतःप्रज्ञं (ubhayataḥprajñaṃ) - 両方向に認識を向けるもの(中性単数対格)
- न (na) - 〜でない(否定辞)
- प्रज्ञानघनं (prajñānaghanaṃ) - 純粋知性の凝集体(中性単数対格)
- न (na) - 〜でない(否定辞)
- प्रज्ञं (prajñaṃ) - 意識的であるもの、認識するもの(中性単数対格)
- न (na) - 〜でない(否定辞)
- अप्रज्ञम् (aprajñam) - 無意識であるもの、認識しないもの(中性単数対格)
- अदृष्टम् (adṛṣṭam) - 見ることのできないもの(中性単数主格)
- अव्यवहार्यम् (avyavahāryam) - 言葉で表現できないもの、言語的交流の対象とならないもの(中性単数主格)
- अग्राह्यम् (agrāhyam) - 感覚や思考によって把握できないもの(中性単数主格)
- अलक्षणं (alakṣaṇaṃ) - 特徴や性質によって定義づけられないもの(中性単数主格)
- अचिन्त्यम् (acintyam) - 思考の及ばないもの(中性単数主格)
- अव्यपदेश्यम् (avyapadeśyam) - 名称づけられないもの、言葉で指し示すことのできないもの(中性単数主格)
- एकात्मप्रत्ययसारं (ekātmapratyayasāraṃ) - 単一なる自己の認識のみを本質とするもの(中性単数主格)
- प्रपञ्चोपशमं (prapañcopaśamaṃ) - 現象世界の多様性が静まった状態(中性単数主格)
- शान्तं (śāntaṃ) - 絶対的に静寂なるもの(中性単数主格)
- शिवम् (śivam) - 究極的に吉祥なるもの(中性単数主格)
- अद्वैतं (advaitaṃ) - 不二一元なるもの、二元性を超えたもの(中性単数主格)
- चतुर्थं (caturthaṃ) - 第四の(中性単数主格)
- मन्यन्ते (manyante) - 彼らは考える、賢者たちは理解する(中動態現在形3人称複数)
- स (sa) - それが、これこそが(代名詞男性単数主格)
- आत्मा (ātmā) - アートマン、真の自己(男性単数主格)
- स (sa) - それが、これこそが(代名詞男性単数主格)
- विज्ञेयः (vijñeyaḥ) - 知られるべきもの、実現されるべきもの(男性単数主格)
解説:
第7節は、マーンドゥーキヤ・ウパニシャッドの中核的な教えを凝縮した極めて重要な部分です。前節までに詳述された三つの意識状態—覚醒(第3節)、夢眠(第4節)、熟睡(第5節)—とその担い手を超越した「第四の状態」(चतुर्थ, caturtha)について説明しています。この状態は後の文献で「トゥリーヤ」(तुरीय, turīya)と呼ばれ、不二一元論哲学の究極的実在として位置づけられます。
この節の最も際立った特徴は、「न (na)」で始まる否定表現の連続です。これは「नेति नेति」(neti neti、「これでもなく、あれでもなく」)というウパニシャッド特有の表現方法で、言語や概念では完全に捉えられない究極的実在を指し示す方法として用いられています。
冒頭の六つの否定表現は、前節までの三つの意識状態を明確に参照しています。「अन्तःप्रज्ञ」(内なる認識)は夢眠状態(第4節)を、「बहिष्प्रज्ञ」(外なる認識)は覚醒状態(第3節)を、「प्रज्ञानघन」(純粋知性の凝集体)は熟睡状態(第5節)を否定し、第四の状態がこれらすべてを超越していることを示しています。
続く「अ (a)」で始まる六つの否定的表現(अदृष्टम्, अव्यवहार्यम् など)は、この状態が知覚、言語、思考のあらゆる通常の手段を超えていることを強調しています。ヨーガの実践者にとって、これは「निर्विकल्प समाधि」(nirvikalpa samādhi、無分別三昧)の状態に対応し、すべての心的活動が静まり、純粋意識のみが残る境地を指します。
しかし、この節は否定のみで終わるのではありません。「एकात्मप्रत्ययसार」(単一なる自己の認識のみを本質とする)以降の表現は、この状態の肯定的側面を示しています。「प्रपञ्चोपशम」(現象世界の多様性が静まった状態)は、多様な現象世界(प्रपञ्च, prapañca)が「उपशम」(静止、止滅)した状態を指し、『ヨーガ・スートラ』(1.2)の「योगश्चित्तवृत्तिनिरोधः」(ヨーガとは心の働きの止滅である)という定義と呼応しています。
「शान्त」(静寂)、「शिव」(吉祥)、「अद्वैत」(不二一元)という三つの形容詞は、この状態の本質的な特質を表現しています。特に「अद्वैत」は後のアドヴァイタ・ヴェーダーンタ学派の名称の由来となった概念で、すべての二元性を超えた一元的実在を意味します。
最後の宣言「स आत्मा स विज्ञेयः」(これこそがアートマンであり、知られるべきものである)は、この「第四の状態」こそが真の自己(आत्मन्, ātman)の本質であり、究極的な認識の対象であることを高らかに宣言しています。ヨーガと瞑想の実践者にとって、これは単なる理論ではなく、直接的に実現すべき最高の真理なのです。
第8節
सोऽयमात्माध्यक्षरमोङ्कारोऽधिमात्रं पादा मात्रा मात्राश्च पादा
अकार उकारो मकार इति ॥ ८॥
so'yamātmādhyakṣaramoṅkāro'dhimātraṃ pādā mātrā mātrāśca pādā
akāra ukāro makāra iti ॥ 8॥
この同じアートマンは、不滅なる音節としてのオームである。音素との関係において、(アートマンの)諸部分は音素であり、音素は(アートマンの)諸部分である。すなわち、アカーラ(A)、ウカーラ(U)、マカーラ(M)である。
逐語訳:
- सः (saḥ) - それ、彼(代名詞男性単数主格)
- अयम् (ayam) - これ、この(代名詞男性単数主格)
- आत्मा (ātmā) - アートマン、真の自己(男性単数主格)
- अध्यक्षरम् (adhyakṣaram) - 不滅なる音節としての(अधि+अक्षरम्、「〜に関して」+「不滅のもの/音節」)
- ओङ्कारः (oṅkāraḥ) - オームの音、オームカーラ(男性単数主格)
- अधिमात्रम् (adhimātram) - 音素との関係において(副詞)
- पादाः (pādāḥ) - 諸部分、四分の一部分(男性複数主格)
- मात्राः (mātrāḥ) - 音素、要素(女性複数主格)
- च (ca) - そして(接続詞)
- पादाः (pādāḥ) - 諸部分、四分の一部分(男性複数主格)
- अकारः (akāraḥ) - アカーラ、文字「अ」(a)の音(男性単数主格)
- उकारः (ukāraḥ) - ウカーラ、文字「उ」(u)の音(男性単数主格)
- मकारः (makāraḥ) - マカーラ、文字「म」(m)の音(男性単数主格)
- इति (iti) - このように、~と(引用を示す不変化詞)
解説:
第8節は、前節で説明された「第四の状態」(तुरीय, turīya)としてのアートマンと神聖音節「ओम्」(OM)の本質的な同一性を明らかにします。この同一性の認識は、理論的理解と実践的瞑想を結びつける重要な鍵となります。
冒頭の「सोऽयमात्मा」(so'yamātmā)は「この同じアートマンは」という意味で、第7節で詳述された究極の実在を指します。「अध्यक्षरम्」(adhyakṣaram)という表現は特に注目に値します。「अक्षर」(akṣara)には「音節」と「不滅のもの」という二重の意味があり、この語が「ओङ्कार」(oṅkāra)と結びつけられることで、永遠の実在と具体的な音象徴が一体であることを示しています。
「अधिमात्रं पादा मात्रा मात्राश्च पादा」という表現は、アートマンの四つの様相(पाद, pāda)とオームの三つの音素(मात्रा, mātrā)の相互対応関係を説明しています。「पाद」(四分の一部分)はアートマンの四状態を、「मात्रा」は「ओम्」を構成する音素を指します。
この対応関係は以下のように理解されます:
- アカーラ(अ, a):第3節の覚醒状態(जागरित, jāgarita)とヴァイシュヴァーナラ(वैश्वानर, vaiśvānara)に対応
- ウカーラ(उ, u):第4節の夢眠状態(स्वप्न, svapna)とタイジャサ(तैजस, taijasa)に対応
- マカーラ(म, m):第5節の熟睡状態(सुषुप्ति, suṣupti)とプラージュニャ(प्राज्ञ, prājña)に対応
そして、これら三音素を超えた「ओम्」の全体性と発声後の静寂は、第7節の「第四の状態」(चतुर्थ, caturtha)に対応します。これはチャーンドーギヤ・ウパニシャッド(1.1.1-10)でも「ओम् इत्येतदक्षरम्」(OMという不滅の音節)と表現される概念です。
この対応関係の理解は単なる理論的知識ではありません。「ओम्」の詠唱(प्रणव, praṇava)は最も強力な瞑想法の一つとされ、その実践を通じて意識は次第に深化し、究極的にはトゥリーヤ(तुरीय)という超越的な意識状態への道が開かれます。瞑想者がオームを詠唱する際、「अ」→「उ」→「म」と進む音の流れと、その後の静寂は、意識が外界から内面へ、そして最終的に不二一元の状態へと移行するプロセスを体験的に表現するのです。
マンドゥキヤ・ウパニシャッドのこの教えは、後のヨーガ・シャーストラにおいても「शब्द-ब्रह्म」(音の形をとったブラフマン)として継承され、マントラの力と形而上学的真理を結びつける重要な伝統の基礎となりました。
第9節
जागरितस्थानो वैश्वानरोऽकारः प्रथमा मात्राऽऽप्तेरादिमत्त्वाद् वाऽऽप्नोति ह वै सर्वान् कामानादिश्च भवति य एवं वेद ॥ ९॥
jāgaritasthāno vaiśvānaro'kāraḥ prathamā mātrā''pterādimattvād vā''pnoti ha vai sarvān kāmānādiśca bhavati ya evaṃ veda ॥ 9॥
覚醒状態に位置するヴァイシュヴァーナラはアカーラであり、これはオームの第一の音素である—到達するという特性から、あるいは始原であることから。このように知る者は、まことにあらゆる願望を成就し、また万物の始原となる。
逐語訳:
- जागरितस्थानः (jāgaritasthānaḥ) - 覚醒状態に位置する者(男性単数主格)
- वैश्वानरः (vaiśvānaraḥ) - ヴァイシュヴァーナラ(「すべての人々に共通する者」の意、宇宙的人格)(男性単数主格)
- अकारः (akāraḥ) - アカーラ、オームの第一音素「अ」(a)(男性単数主格)
- प्रथमा (prathamā) - 第一の(女性単数主格)
- मात्रा (mātrā) - 音素、要素(女性単数主格)
- आप्तेः (āpteḥ) - 到達、獲得することから(女性単数奪格)
- आदिमत्त्वात् (ādimattvāt) - 初原性のゆえに、始原であることから(中性単数奪格)
- वा (vā) - または(接続詞)
- आप्नोति (āpnoti) - 獲得する(動詞現在形3人称単数)
- ह (ha) - まさに(強調の小辞)
- वै (vai) - 確かに、実に(強調の不変化詞)
- सर्वान् (sarvān) - すべての(男性複数対格)
- कामान् (kāmān) - 願望、欲望(男性複数対格)
- आदिः (ādiḥ) - 始原、最初のもの(男性単数主格)
- च (ca) - そして(接続詞)
- भवति (bhavati) - なる(動詞現在形3人称単数)
- यः (yaḥ) - 〜する者(関係代名詞男性単数主格)
- एवम् (evam) - このように(副詞)
- वेद (veda) - 知る(動詞完了形で現在の意味、3人称単数)
解説:
第9節は、第8節で提示された「アートマンと神聖音節オーム(ॐ, oṃ)の同一性」という核心的教えを具体的に展開する段階の始まりです。マーンドゥーキヤ・ウパニシャッドの構造においては、第9〜12節が第8節で示された理論的枠組みの詳細な解説となっています。
ここでは特に、第3節の覚醒状態(जागरित, jāgarita)とその意識の担い手であるヴァイシュヴァーナラ(वैश्वानर, vaiśvānara)が、オームの最初の音素「अ」(a)と本質的に同一であるという教えが示されています。
「वैश्वानर」(vaiśvānara)という語は「विश्व」(viśva、世界)と「नर」(nara、人)に由来し、「すべての人々に共通する者」を意味します。第3節では、この意識が19の口(感覚器官や行為器官など)を通じて物質世界と交流する普遍的原理として説明されていました。
この覚醒意識が「अ」(a)という音素に対応する理由として、二つの根拠が示されています。一つは「आप्ति」(āpti、到達・遍在)の性質です。「अ」の音は喉の奥から始まり、口を広く開いて発音されるため、外界へと「到達・拡張」する特性を持ちます。これは外的世界を認識し働きかける覚醒意識の本質と響き合います。
二つ目は「आदिमत्त्व」(ādimatva、初原性)です。「अ」はサンスクリット文字の最初の文字であり、言語体系の基礎となります。同様に、覚醒状態は私たちの日常的経験の土台となる最も基本的な意識状態です。
「आप्नोति ह वै सर्वान् कामान्」(すべての願望を獲得する)という表現は、この知識の瞑想的実践がもたらす効果を示しています。これは単なる世俗的な利益の約束ではなく、意識の拡大によって生じる内的充足を指しています。『ヨーガ・スートラ』(1.3)の「तदा द्रष्टुः स्वरूपे अवस्थानम्」(tadā draṣṭuḥ svarūpe avasthānam、見る者が自らの本質に安立する状態)と関連する体験です。
「आदिश्च भवति」(始原となる)という句は深遠な意味を持ちます。瞑想者は個人的願望の成就を超えて、創造の原理そのものと一体化するという変容を遂げることができると示唆しています。
実践的視点からは、「अ」の音に意識を集中する瞑想(नाद योग, nāda yoga)は、覚醒意識と外界への執着を超越するための第一歩となります。これは感覚の内向化(प्रत्याहार, pratyāhāra)と深く関連し、次の意識状態(夢眠と熟睡)へと向かう瞑想的探究の出発点となるのです。
第10節
स्वप्नस्थानस्तैजस उकारो द्वितीया मात्रोत्कर्षात्
उभयत्वाद्वोत्कर्षति ह वै ज्ञानसन्ततिं समानश्च भवति
नास्याब्रह्मवित्कुले भवति य एवं वेद ॥ १०॥
svapnasthānastaijasa ukāro dvitīyā mātrotkarṣāt
ubhayatvādvotkarṣati ha vai jñānasantatiṃ samānaśca bhavati
nāsyābrahmavitkule bhavati ya evaṃ veda ॥ 10॥
夢眠状態に位置するタイジャサはウカーラであり、これはオームの第二の音素である—卓越性のゆえに、あるいは中間的性質を持つことによって。このように知る者は、まことに知識の流れを高揚させ、また平衡の状態に達する。このように知る者の一族には、ブラフマンを知らない者は生まれない。
逐語訳:
- स्वप्नस्थानः (svapnasthānaḥ) - 夢眠状態に位置する者(男性単数主格)
- तैजसः (taijasaḥ) - タイジャサ(「光輝くもの」の意、夢状態の意識の担い手)(男性単数主格)
- उकारः (ukāraḥ) - ウカーラ、オームの第二音素「उ」(u)(男性単数主格)
- द्वितीया (dvitīyā) - 第二の(女性単数主格)
- मात्रा (mātrā) - 音素、要素(女性単数主格)
- उत्कर्षात् (utkarṣāt) - 卓越性、上昇性のゆえに(男性単数奪格)
- उभयत्वात् (ubhayatvāt) - 二重性、中間性のゆえに(中性単数奪格)
- वा (vā) - または(接続詞)
- उत्कर्षति (utkarṣati) - 高揚させる、向上させる(動詞現在形3人称単数)
- ह (ha) - まさに(強調の小辞)
- वै (vai) - 確かに、実に(強調の不変化詞)
- ज्ञानसन्ततिम् (jñānasantatim) - 知識の連続性、知識の流れ(女性単数対格)
- समानः (samānaḥ) - 平等な、平衡した、均衡のとれた(男性単数主格)
- च (ca) - そして(接続詞)
- भवति (bhavati) - なる(動詞現在形3人称単数)
- न (na) - 〜ない(否定辞)
- अस्य (asya) - 彼の、その人の(代名詞男性単数属格)
- अब्रह्मवित् (abrahmavit) - ブラフマンを知らない者(男性単数主格)
- कुले (kule) - 家系、一族の中に(中性単数処格)
- भवति (bhavati) - 存在する、生まれる(動詞現在形3人称単数)
- यः (yaḥ) - 〜する者(関係代名詞男性単数主格)
- एवम् (evam) - このように(副詞)
- वेद (veda) - 知る(動詞完了形で現在の意味、3人称単数)
解説:
第10節では、前節の教えを発展させ、アートマンと神聖音節「ओम्」(OM)の対応関係の探究が続けられます。ここでは特に、夢眠状態(स्वप्न, svapna)とその意識の担い手であるタイジャサ(तैजस, taijasa)が、オームの第二音素「उ」(u)と本質的に同一であることが説かれています。
「तैजस」(taijasa)という語は「तेजस्」(tejas、「光、輝き」)に由来し、「光輝くもの」を意味します。第4節で詳述されたように、この意識は夢の世界という内的領域を照らす光のような存在です。外界の刺激が遮断された夢の中で、内なる意識の光によって様々なイメージが知覚されるのです。
夢眠意識が「उ」(u)音と対応する理由として二つの根拠が示されています。一つ目は「उत्कर्ष」(utkarṣa、「上昇、卓越」)です。「उ」の音を発するとき、舌が上方へ移動することから、この音には上昇性があります。これは意識が外的世界から内的世界へと引き上げられる夢眠状態の性質と呼応しています。
二つ目は「उभयत्व」(ubhayatva、「二重性、中間性」)です。「उ」の音は、口を完全に開いた「अ」(a)と、完全に閉じた「म」(m)の中間に位置します。同様に、夢眠状態は外界に向かう覚醒状態と、意識が完全に内在化する熟睡状態の中間に位置するのです。夢の世界では、覚醒時の経験が内的なイメージとして再構成される独特の二重性が存在します。
「उत्कर्षति ह वै ज्ञानसन्ततिम्」(知識の流れを高揚させる)という表現は、この瞑想的知識がもたらす変容的効果を示しています。「ज्ञानसन्तति」(jñānasantati)は単なる情報の集積ではなく、代々受け継がれる霊的理解の流れを意味します。前節の「願望の成就」がさらに昇華され、より高次の知恵の次元へと導かれるのです。
「समानः च भवति」(平衡の状態に達する)という句は、ヨーガの実践において極めて重要な「समत्व」(samatva、「平等性、平衡」)の境地を指します。『バガヴァッド・ギーター』(2.48)では「समत्वं योग उच्यते」(平等性こそがヨーガである)と説かれています。この平衡状態は、外的刺激と内的反応の間の完全な均衡を意味し、瞑想者が相対性を超えた意識へと移行する前提条件となります。
「न अस्य अब्रह्मवित् कुले भवति」(その一族にブラフマンを知らない者は生まれない)という句は、この知識の世代を超えた影響力を強調しています。これは単に生物学的遺伝の問題ではなく、霊的伝統が家族や共同体の中で保持され発展していく過程を示唆しています。
「उ」の音に意識を集中するヨーガの実践(नाद योग, nāda yoga)は、外的世界から内的世界への移行を促し、より深い意識状態へのアクセスを可能にします。この音を共鳴させる瞑想によって、実践者は夢意識の光輝く性質を体験的に理解し、「उत्कर्ष」―内なる上昇への道を歩み始めるのです。
第11節
सुषुप्तस्थानः प्राज्ञो मकारस्तृतीया मात्रा मितेरपीतेर्वा
मिनोति ह वा इदं सर्वमपीतिश्च भवति य एवं वेद ॥ ११॥
suṣuptasthānaḥ prājño makāras tṛtīyā mātrā miter apīter vā
minoti ha vā idaṃ sarvam apītiś ca bhavati ya evaṃ veda ॥ 11॥
熟睡状態に位置するプラージュニャはマカーラであり、これはオームの第三の音素である—測定のゆえに、あるいは吸収のゆえに。このように知る者は、まことにこの世界のすべてを測り尽くし、また一切の帰滅の場となる。
逐語訳:
- सुषुप्तस्थानः (suṣuptasthānaḥ) - 熟睡状態に位置する者(男性単数主格)
- प्राज्ञः (prājñaḥ) - プラージュニャ(「深く知る者」の意、熟睡状態の意識の担い手)(男性単数主格)
- मकारः (makāraḥ) - マカーラ、オームの第三音素「म」(m)(男性単数主格)
- तृतीया (tṛtīyā) - 第三の(女性単数主格)
- मात्रा (mātrā) - 音素、韻律的単位(女性単数主格)
- मितेः (miteḥ) - 測定、限界づけのゆえに(女性単数奪格)
- अपीतेः (apīteḥ) - 吸収、消失のゆえに(女性単数奪格)
- वा (vā) - または(接続詞)
- मिनोति (minoti) - 測る、限界づける(動詞現在形3人称単数)
- ह (ha) - まさに(強調の小辞)
- वा (vā) - 確かに(強調の不変化詞)
- इदम् (idam) - これ、この(指示代名詞中性単数対格)
- सर्वम् (sarvam) - すべての、全体の(中性単数対格)
- अपीतिः (apītiḥ) - 吸収、帰滅の場(女性単数主格)
- च (ca) - そして(接続詞)
- भवति (bhavati) - なる(動詞現在形3人称単数)
- यः (yaḥ) - 〜する者(関係代名詞男性単数主格)
- एवम् (evam) - このように(副詞)
- वेद (veda) - 知る(動詞完了形で現在の意味、3人称単数)
解説:
第11節では、マーンドゥーキヤ・ウパニシャッドの中心的教えであるアートマンと神聖音節「ओम्」(OM)の対応関係の探究がさらに深まります。ここでは、第5節で詳述された熟睡状態(सुषुप्ति, suṣupti)とその意識の担い手であるプラージュニャ(प्राज्ञ, prājña)が、オームの第三音素「म」(m)と本質的に同一であることが明らかにされます。
「प्राज्ञ」という名称は「प्र+ज्ञ」(深く+知る)に由来し、「深遠な知恵を持つ者」を意味します。興味深いことに、熟睡状態では意識が暗闇に沈むように見えながらも、その本質には最も深い智慧が隠されているとウパニシャッドは教えています。この状態では、個別性の幻想が一時的に解消され、意識が根源的な統一性に帰還するからです。
熟睡状態が「म」(m)音と対応する理由として、本文は二つの語源的解釈を示しています。一つは「मिति」(測定・限界づけ)、もう一つは「अपीति」(吸収・消失)です。
「मिति」の観点からは、「म」は唇を閉じて発音され、三つの音素(अ-उ-म)の連続を「測り終える」ことを象徴します。これは覚醒・夢眠・熟睡という三状態を完結させる熟睡状態の位置づけと呼応しています。「मात्रा」(mātrā)という語自体が「測られたもの」という意味を持ち、音と意識の両方における「限界づけ」の原理を示唆しています。
「अपीति」はより深遠な意味を持ち、「म」の音を発すると、音は唇で閉ざされ、共鳴が内側へと吸収されていきます。同様に、熟睡状態では個別意識が宇宙意識へと「吸収」され「消失」します。ブリハッドーアーラニヤカ・ウパニシャッド(4.3.19-21)が描写するように、この状態では「そこでは父も父ではなく、母も母ではなく...」と、あらゆる区別が解消されるのです。
「मिनोति ह वा इदं सर्वम्」という句は、この瞑想的知識を持つ者が世界の真の尺度を把握することを示唆しています。また「अपीतिश्च भवति」(帰滅の場となる)という表現は、このような瞑想者が単なる個人を超えた存在となることを示します。すべての存在が一時的に消滅する熟睡状態と同様に、瞑想者は万物が帰還する静寂の中心点となるのです。
実践的観点では、「म」の音に集中する瞑想(नाद योग, nāda yoga)は、意識を粗雑な次元から微細な次元へと移行させる強力な手段であり、最終的には第12節で説明される「第四の状態」(तुरीय, turīya)へと向かう道を開くのです。
第12節
अमात्रश्चतुर्थोऽव्यवहार्यः प्रपञ्चोपशमः शिवोऽद्वैत
एवमोङ्कार आत्मैव संविशत्यात्मनाऽऽत्मानं य एवं वेद ॥ १२॥
amātraś caturtho'vyavahāryaḥ prapañcopaśamaḥ śivo'dvaita
evam oṅkāra ātmaiva saṃviśaty ātmanā''tmānaṃ ya evaṃ veda ॥ 12॥
音素を超えた第四の状態は、言語表現を超え、現象世界の止滅であり、吉祥にして不二である。このようにオームはアートマンそのものであり、このように知る者は、アートマンをアートマンによって自らのうちに悟るのである。
逐語訳:
- अमात्रः (amātraḥ) - 音素を超えた、測定不可能な(男性単数主格)
- चतुर्थः (caturthaḥ) - 第四の(男性単数主格)
- अव्यवहार्यः (avyavahāryaḥ) - 言語表現を超えた、日常的活動の範疇を超えた(男性単数主格)
- प्रपञ्चोपशमः (prapañcopaśamaḥ) - 現象世界の止滅、多様性の消滅(男性単数主格)
- शिवः (śivaḥ) - 吉祥な、至福に満ちた(男性単数主格)
- अद्वैत (advaita) - 不二、非二元の(中性単数主格または副詞)
- एवम् (evam) - このように(副詞)
- ओङ्कारः (oṅkāraḥ) - オームの音節(男性単数主格)
- आत्मा (ātmā) - アートマン、真我(男性単数主格)
- एव (eva) - そのもの、まさに(強調の不変化詞)
- संविशति (saṃviśati) - 入る、融合する(動詞現在形3人称単数)
- आत्मना (ātmanā) - アートマンによって、自己自身によって(男性単数具格)
- आत्मानम् (ātmānam) - アートマンを、自己を(男性単数対格)
- यः (yaḥ) - 〜する者(関係代名詞男性単数主格)
- एवम् (evam) - このように(副詞)
- वेद (veda) - 知る(動詞完了形で現在の意味、3人称単数)
解説:
第12節は、マーンドゥーキヤ・ウパニシャッドの探究が頂点に達する重要な節です。前節までに示された覚醒・夢眠・熟睡の三状態とオームの三音素(अ-उ-म)の対応関係を超えて、ここでは「第四の状態」(तुरीय, turīya)という究極の実在が明かされます。
「अमात्र」(amātra)は「音素を持たない」あるいは「測定できない」という意味を持ちます。前節までの三つの音素(मात्रा, mātrā)が意識の三状態に対応するのに対し、この第四の状態はあらゆる音や形式を超越しています。ヨーガの実践では「निर्बीज समाधि」(nirbīja samādhi、種子なき三昧)に相当し、一切の対象を離れた純粋意識の状態です。
「अव्यवहार्य」(avyavahārya)は「日常的な交流や活動の範疇を超えた」という意味で、この境地が言語や思考のすべてを超越していることを示します。『ヨーガ・スートラ』における「निर्विकल्प समाधि」(nirvikalpa samādhi、概念を超えた三昧)に近い概念です。
「प्रपञ्चोपशम」(prapañcopaśama)は「प्रपञ्च」(prapañca、展開された世界)と「उपशम」(upaśama、静寂・止滅)から成る複合語で、現象世界の多様性が完全に静まった状態を表します。これは『ヨーガ・スートラ』の「चित्तवृत्तिनिरोध」(cittavṛttinirodha、心の働きの止滅)と呼応し、仏教の「शून्यता」(śūnyatā、空性)の概念にも通じます。
「शिव」(śiva)と「अद्वैत」(advaita)という表現は、この状態が否定的な空虚ではなく、最高の至福と完全性に満ちた非二元的存在であることを示します。「अद्वैत」(不二)とは、主体と客体、見る者と見られるもの、自己と世界といった二元性がすべて解消された絶対的一体性を意味します。
「एवम् ओङ्कार आत्मा एव」(このようにオームはアートマンそのものである)という宣言は、これまでの探究を総括し、オームとアートマンの本質的同一性を確認しています。「संविशति आत्मना आत्मानम्」という表現は、アートマンがアートマンによってアートマンを悟るという自己言及的な認識を描いています。これは『バガヴァッド・ギーター』(6.20)の「यत्र आत्मना एव आत्मानं पश्यति」(yatra ātmanā eva ātmānaṃ paśyati、自己によって自己を見る)という教えと共鳴します。
オームの瞑想(प्रणव ध्यान, praṇava dhyāna)の実践において、修行者は三つの音素を超えたこの「第四の状態」に至ることで、永遠の静寂と至福に満ちた自己の真の本質を直接体験します。これこそがマーンドゥーキヤ・ウパニシャッドが示す究極の悟りの境地なのです。
終結文
॥ इति माण्डूक्योपनिषत् समाप्ता ॥
॥ iti māṇḍūkyopaniṣat samāptā ॥
かくして、マーンドゥーキヤ・ウパニシャッドは完成した。
逐語訳:
- इति (iti) - このように、かくして(不変化詞)
- माण्डूक्योपनिषत् (māṇḍūkyopaniṣat) - マーンドゥーキヤ・ウパニシャッド(女性単数主格)
- समाप्ता (samāptā) - 完成した、成就した(女性単数主格)
- ॥ - 吉祥と完結を示す伝統的な区切り記号
解説:
この荘厳な終結文(コロフォン)は、単なる著作の終わりを示す形式的表現ではなく、深い精神的意義を持っています。「इति」(iti)という不変化詞は、それまでに開示された聖なる教えの全体性を指し示し、その完全な伝授が成就されたことを宣言しています。
「समाप्ता」(samāptā)という語は「सम्」(sam, 完全に)と「आप्」(āp, 達成する)から派生し、単なる「終了」ではなく「完全な達成」「円満な成就」を意味します。これは、教えが何一つ欠けることなく伝えられたという保証であると同時に、聴聞者や読者がこの知識を通じて精神的完成へと至る可能性が開かれたことを暗示しています。
マーンドゥーキヤ・ウパニシャッドは、わずか12の節からなる最も簡潔なウパニシャッドでありながら、ヴェーダーンタ哲学の精髄を極めて深遠な形で伝えています。前節までで示された覚醒(जागरित, jāgarita)・夢眠(स्वप्न, svapna)・熟睡(सुषुप्ति, suṣupti)という三状態と神聖音節「ओम्」(oṃ)の三音素(अ-उ-म)の対応関係、そしてこれらすべてを超越した「第四の状態」(तुरीय, turīya)の教えは、インド哲学の最深部に触れるものです。
特に第12節で明かされた「言語表現を超え、現象世界の止滅であり、吉祥にして不二である」第四の状態についての教えは、この終結文によって印璽を押されたかのように確定されます。「इति」という一語は、それまでの深遠な教えを一瞬のうちに想起させる力を持ち、瞑想的内省へと読者を導きます。
伝統的な区切り記号「॥」で囲まれたこの終結文は、単に一つの聖典の終わりを告げるだけでなく、悟りへの道を示す灯火として永遠に輝き続けることを象徴しています。ガウダパーダの『マーンドゥーキヤ・カーリカー』やシャンカラの註釈が示すように、この簡潔なウパニシャッドは何世紀にもわたって深い瞑想と哲学的探究の源泉であり続けてきました。
「समाप्ता」の瞬間は、実は真の始まりの瞬間でもあります。テキストの学習は終わっても、その教えの体現と実現という真の旅がここから始まります。「अमात्र」(amātra, 測定不能)なる第四の状態へと至る道は、この終結文とともに私たちの前に開かれています。
最後に:聖音オームの響きと共に、内なる真実への道を歩む
『マーンドゥーキヤ・ウパニシャッド』という、わずか十二詩節に凝縮された深遠なる叡智の海への旅路を、ここまで共に歩んでいただき、心より感謝申し上げます。本解説記事では、サンスクリット原典の逐語訳と日本語訳、そして解説を通して、この稀有な聖典が解き明かそうとする宇宙と自己の根源的な真理に迫ることを試みました。
私たちは、聖音「オーム」が単なる音ではなく、意識の根源的な構造そのものを象徴するものであること、そして「ア」「ウ」「ム」という三つの音とそれに続く無音の響きが、覚醒、夢見、熟睡、そしてそれら全てを超越した第四の純粋意識状態「トゥリーヤ」に対応することを見てきました。マーンドゥーキヤ・ウパニシャッドは、このトゥリーヤこそが私たちの真の自己(アートマン)であり、同時に宇宙万物の究極的な実在であるブラフマンに他ならない、という「不二一元論」(アドヴァイタ)の核心を、力強く、そして簡潔に宣言します。
原典の言葉一つひとつに込められた深い意味合い、そして詩節全体を貫く論理的かつ詩的な展開は、古代インドの聖賢たちが到達した洞察の深さと普遍性を示しています。変化し続ける現象世界(サンサーラ)の背後にある、不変にして唯一の実在。私たちが日常的に経験する分離や限定性は、究極的にはマーヤー(幻)であり、真実は、全てが一つであるという認識の中に存在します。この理解は、単なる知的な概念に留まらず、私たちの生き方そのものに深い変容をもたらす可能性を秘めています。
マーンドゥーキヤ・ウパニシャッドの教えは、数千年前に編纂されたにも関わらず、現代に生きる私たちにとっても、極めて重要な示唆を与えてくれます。情報が氾濫し、外的な刺激に絶えず晒される現代社会において、自らの内側に静寂を見出し、意識の深層を探求することの価値は、ますます高まっています。覚醒、夢、眠りという日常的な経験の中に、宇宙の真理へと至る鍵が隠されているという視点は、私たちの日常を、自己発見のための聖なる場へと変える力を持っています。オームの瞑想や、自らの意識状態への気づきといった実践を通して、私たちはトゥリーヤの静寂と光明に触れることができるかもしれません。
もちろん、この短い解説記事が、『マーンドゥーキヤ・ウパニシャッド』の深遠な叡智の全てを解き明かすものではありません。むしろ、これは広大なるヴェーダーンタ哲学の海への入り口に過ぎません。より深い理解を求める方は、ガウダパーダによる『マーンドゥーキヤ・カーリカー』や、シャンカラによる注釈書、あるいは他の主要なウパニシャッドへと探求を進められることをお勧めします。そして何よりも、これらの教えを知的な理解に留めるのではなく、瞑想やヨーガといった実践を通して、自らの体験として深めていくことが重要です。
この解説記事が、皆様にとって、自己という最も身近でありながら最も深遠な謎を探求する旅の一助となり、内なる平和と真実の光を見出すきっかけとなれば、望外の喜びです。マーンドゥーキヤ・ウパニシャッドが示すトゥリーヤの境地は、言葉を超えた静寂と至福の中にあります。その境地への道は、常に私たち自身の内に開かれているのです。
願わくは、この学びが皆様の内に深く響き渡り、平安と叡智をもたらしますように。
【サンスクリット原文出典】
Sanskrit Documents. "Mandukya Upanishad"
https://sanskritdocuments.org/doc_upanishhat/maandu.html
コメント