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マータンギー・ジャヤンティー2025:不浄から生まれた女神の叡智

マータンギー女神の降誕祭

マータンギー女神は、ヒンドゥー教のタントラ思想における「ダシャ・マハーヴィディヤー(十の偉大な知恵の女神)」の一柱であり、言葉、音楽、芸術、知識をつかさどる存在として崇敬されています。しばしばサラスワティー女神と比較されますが、両者には明確な違いがあります。サラスワティー女神が純粋性や伝統的な学びと結びつくのに対し、マータンギー女神は、社会の周縁にある存在や、正統的な価値観では「不浄」とされるものと深く関わっています。禁忌や境界を超えた知恵の象徴とされ、常識を超えた真理を照らす力をもつと信じられています。

マータンギー・ジャヤンティーは、その神聖な顕現を祝う特別な日です。この日は、特別な儀式を通してマータンギー女神への信仰が捧げられ、その独特なエネルギーとつながる機会とされています。信仰者にとって、この日は強力な祝福を受け取るための重要な節目となります。祭日は毎年、ヒンドゥー暦ヴァイシャーカ月(4月から5月)のシュクラ・パクシャ(新月から満月へ向かう半月)の二日目にあたり、2025年は4月30日に祝われます。

神話におけるマータンギー女神

マータンギー女神の起源について語られる神話はさまざまで、一見すると矛盾しているようにも見えます。しかし、これらの物語はいずれも、この神格が持つ深い意味と霊的な本質を浮き彫りにしています。

広く知られている説の一つでは、マータンギー女神は「ダシャ・マハーヴィディヤー(十の偉大な知恵の女神)」の一柱として登場します。『バーガヴァタ・プラーナ』などによれば、ダクシャの娘であるサティーは、父が夫のシヴァ神を大祭(ヤジュニャ)から排除したことに深く傷つきました。この時、シヴァ神が参列を止めたにもかかわらず、サティーは強い意志で儀式に向かおうとします。すると、怒れる神聖な力が溢れ出し、十方にそれぞれ恐るべき女神の姿となって現れ、シヴァ神を取り囲みました。マータンギー女神はそのうち、北西の方角に顕現した存在とされています。

別の神話は、マータンギー女神が「不浄」とされるものに関わる女神であることを象徴的に描いています。『シャクティサンガマ・タントラ』によると、かつてヴィシュヌ神とラクシュミー女神がシヴァ神とパールヴァティー女神を訪れ、贈り物として豪華な食事を捧げました。食事の最中、一部が地面に落ち、その落ちた食べ物(ウッチシュタ)から一人の美しい乙女が生まれました。乙女は神々の食べ残しを望み、四神は慈悲の心でそれを与えました。シヴァ神は、この存在を「ウッチシュタ・マータンギニー」と名づけ、その崇拝によって願いが叶い、障害を乗り越える力が授かると宣言したといわれます。

また、マータンギー女神が「アウトカースト(被差別民)」としての姿をとる女神であることを示す印象的な神話もあります。『プラーナトーシニー・タントラ』には、パールヴァティー女神が生まれ故郷であるヒマーラヤに帰りたいと願った際の逸話が語られます。シヴァ神は寂しさを感じつつも、「数日以内に戻ること」を条件に承諾しました。しかし、約束の日が過ぎてもパールヴァティー女神は戻らず、愛しさが募ったシヴァは、ついに行動に出ます。

シヴァ神は貝殻の装飾品を売る商人に身を変え、パールヴァティー女神のもとを訪れました。その際、正体を隠してあえて誘惑の言葉を投げかけ、パールヴァティー女神の貞節を試します。その言葉に怒ったパールヴァティーは呪いをかけようとしますが、それがシヴァ神であることに気づき、「時が来たら応じる」と静かに答えました。

その夜、今度はパールヴァティー女神がチャーンダーラ(被差別の狩猟民)の姿に変装し、赤い衣をまとってシヴァ神のもとを訪ねました。まるで炎のように美しく妖艶な姿で現れ、「苦行を積みに来た」と告げます。シヴァ神は穏やかに微笑み、「あらゆる苦行の果報を与えるのは私だ」と言い、その手を取り重ねました。そしてシヴァ神自身もチャーンダーラの姿を取り、目の前の存在をパールヴァティー女神と認めると、ふたりは霊的な交歓へと導かれます。

交わりの後、パールヴァティー女神は「このチャーンダーラの姿――チャーンダーリニーとして、永遠に崇拝されたい。」と一つの願いを告げました。この出来事を通じて、パールヴァティー女神は自らの顕現の一つとして、被差別民の姿である「ウッチシュタ・チャーンダーリニー」を永続的に祀ることになりました。

この神話には、差別や不浄とされるものの中にも神聖が宿るという霊的な教えが含まれており、信仰者に深い気づきを与えています。

マータンギー女神の図像表現

マータンギー女神は、その神話のように、図像においても多様で奥深い象徴性を備えていることで知られます。

最も印象的なのは、エメラルドのように輝く緑色の肌です。この鮮やかな緑は、水星を象徴する知性、自然の力、成長、音の振動など、多くの霊的側面と結びついています。若々しく美しい姿で表されることが多く、16歳の乙女として描かれることもあります。額には三日月が輝き、これはシヴァ神や時間の循環、月の霊的エネルギーとの関係を示しています。また、三つの目を持つ姿も見られ、これは通常の認識を超えた高次の知覚を意味しています。

マータンギー女神は、多くの場合、宝石で飾られた玉座、祭壇、あるいは咲き誇る蓮の上に座っている姿で描かれます。蓮は、泥の中から生まれる清らかさと霊的純粋さの象徴です。一方、より激しいウッチシュタ・マータンギニーの姿では、死体の上に座していることがあります。これはタントラにおける重要な象徴であり、死の受容やエゴの超越、物質世界の限界を超える力を表現しています。

腕は四本で表されることが多く、これはヴェーダ四巻を象徴するともいわれます。手にする道具や持ち物は、マータンギー女神の形態によって異なりますが、主なものを以下に紹介します。

主な持ち物とその意味

  • ヴィーナー
    弦楽器のヴィーナーは、特に芸術の面をつかさどるラージャ・マータンギー女神の姿において重要な象徴です。音楽、ナーダ(音)、芸術全般に対する絶対的な熟達を示しています。

  • オウム
    一羽または二羽のオウムとともに描かれることも多く、これは言葉(ヴァーク)や表現、詩や語りの力の象徴とされます。明瞭な言語と精神の伝達力を意味します。

  • 武器類
    マハーヴィディヤーの一柱としての力と地位を示すため、さまざまな武器を持つ姿も見られます。

    • 剣/刀:無知、障害、執着を断ち切る智慧の象徴
    • 縄(パーシャ):縛る力、あるいは信仰者を引き寄せる導きの象徴
    • 象鈎(アンクシャ):エゴを制御し、精神を正しい方向へ導く力
    • 棍棒(ガダー):権威と悪を打ち砕く力
    • :困難や障害を切り開く武具
    • :守護と防御の象徴
  • 頭蓋骨の器(カパーラ)
    特にウッチシュタ・マータンギニーの姿において現れ、強力なタントラ的象徴とされています。これは死と無常を受け入れ、エゴの殻を超越し、執着から自由になることを表しています。

このように、マータンギー女神の姿は単なる美しさにとどまらず、音、知性、芸術、死、そして超越といった深い霊的メッセージを含んでいます。その図像一つ一つが、見る者に静かで力強い内なる啓示を促します。

言葉と音の力

マータンギー女神は、言葉と音の力を司る神格として知られています。この「ヴァーク(言葉)」と「ナーダ(音)」は、知識・音楽・芸術の領域にまで及び、単なる美しさや知的関心にとどまらず、創造と変容をもたらす力を秘めています。その力は、霊的な成長や超常的な能力(シッディ)への扉を開くとされています。

マータンギー女神は、すべての言語表現を支配する神性として重んじられています。話し言葉(ヴァイカリー)だけでなく、思考と言語が形成される微細なレベル(マディヤマー)や、直観的にすべてを見渡すような高次の言語(パシャンティー)、そして言葉の根源そのもの(パラー・ヴァーク)にまで力が及ぶとされています。

マータンギー女神を礼拝することで得られるとされるのが「ヴァーク・シッディ」です。これは、単なる雄弁さではなく、真実を明晰に語り、言葉に霊的な力を宿らせ、現実を創造するような言語の力を意味します。マータンギー女神のそばにいるオウムは、調和のとれた音の支配を象徴する存在です。

音楽とのつながりも深く、マータンギー女神はヴィーナーを奏でる姿でよく描かれます。その音楽は宇宙に満ちる神聖な響きを表し、創造の根本にある振動や調和と共鳴します。この神聖な音は、舞踏の神であるナタラージャ(シヴァ神)さえも喜ばせると伝えられています。信仰を通じて音楽の才能が高まり、複雑な旋律やリズムも自然と身につくと信じられています。

また、マータンギー女神はタントラにおけるサラスワティー女神としての側面も持ちます。六十四の伝統芸術や学問、詩、音楽、舞踊、執筆、討論など、あらゆる創造的・知的な分野の導き手とされ、それらに熟達する力を授ける存在です。その知識は単なる学問にとどまらず、直観的で神秘的な霊的叡智と結びついています。導師(グル)を通じた生きた教えの象徴でもあり、その緑の肌は深い智慧と洞察の証とされています。

不浄の霊的意義

マータンギー女神の最も独特で挑戦的な側面は、ウッチシュタ――食べ残しや唾液、さらには儀礼的な「汚れ」とされるもの――との深いつながりにあります。この概念は、単なる逸話ではなく、タントラの核心的な教えとされています。また、伝統的なヒンドゥー社会で「アウトカースト」や「不可触民」とみなされる人々との明確な関係性を持ちます。

ウッチシュタ・マータンギニーやウッチシュタ・チャーンダーリニーといった名が示す通り、食べ残しとの結びつきは明白です。神々の食べ残しから誕生したという神話も伝わっており、信仰の中でもこの特性が強調されています。たとえば、礼拝時には手を洗わず、口に食事の痕跡を残したまま、食べかけの供物を捧げるよう求められることがあります。これは、通常であれば神聖な儀式にふさわしくないとされる行為であり、ヒンドゥー教の浄と不浄の価値観を意図的に覆す実践です。

一部のタントラ文献では、さらに禁忌とされる物――たとえば生理中の布――を供物として捧げるよう伝えられます。このような行為を通じて、一般的な宗教的規範や社会的タブーへの挑戦が行われています。

ウッチシュタとのつながりを補完するのが、「チャーンダーリニー」としての姿です。この名称は、歴史的に死体処理や肉の解体など、社会的に「不浄」と見なされる仕事に従事する人々を指してきました。これらの人々は、村の外れに追いやられるなど、周縁化された存在とされてきました。

神話では、パールヴァティー女神がチャーンダーラの狩人の姿をとったり、マータンガという聖者から生まれた姿が語られています(マータンガは最下層の人の意)。主流社会から離れた存在として描かれることで、社会的に疎外された人々との一体性が示されています。

こうした「汚れ」や低い身分への強調は、不浄を賛美するためではなく、タントラ的な霊的実践のために意図されています。食べ残しとは、すべての活動や創造が終わった後に残る本質、すなわち純粋な神聖の象徴と解釈されます。何ものにも還元されない究極のリアリティを示しています。

このような教えは、「清浄」と「穢れ」、「聖」と「俗」、「高」と「低」、「自分」と「他者」といった対立的な思考を超越するための手段となります。一般社会が保持する浄不浄の境界やカースト制度を問い直す実践であり、信仰者に対して、通常なら拒絶されるものとあえて向き合うよう促します。

それは、分断や階層を維持したがる心の仕組みに直接働きかけ、既存の価値観の崩壊を促します。この実践は、エゴが求める秩序や支配への執着に対する根本的な反論です。

マータンギー女神の教えは、神聖がすべての存在に平等に宿るという認識を促します。物事に「本質的な不浄」は存在せず、むしろ見捨てられたもの、語られないもの、周縁とされてきたものの中にこそ、真の神性が宿ると説きます。

霊的な自由とは、俗世の「汚れ」を避けることではなく、その中に神聖を見ることによって得られるものです。マータンギー女神は、カーストの規範にも社会のルールにも縛られない、真理そのものの姿を体現しています。

結びに

マータンギー女神は、マハーヴィディヤーの一柱として、タントラの霊的実践において重要な位置を占めています。数多くの起源神話は一見すると矛盾しているように見えますが、それらはすべて、社会的・儀礼的な境界を超えるというマータンギー女神の本質を象徴的に表しています。

神聖な残飯から顕現したり、アウトカーストの姿で登場したり、厳しい苦行の果てに姿を現したりする逸話は、いずれも常識や慣習を超越する力を物語っています。マータンギー女神は、社会の枠の外にあっても、その枠を打ち破り、新たな価値を生み出す存在です。

マータンギー女神の智慧は、サラスワティー女神に象徴される表現力だけでなく、タントラ的な勇気も求めます。それは、エゴや社会的制限、さらには生と死といった根源的な二元性に直面し、それを超える力でもあります。

マータンギー・ジャヤンティーには、特別なマントラの唱和や瞑想、場合によってはウッチシュタ(残飯)を捧げる深い実践が行われます。これにより信仰者は、日常の意識の枠を超え、内に眠る智慧とつながることができます。

マータンギー女神は今も生きた霊的叡智として、型にはまらない智慧を通じて現代に働きかけています。その教えは、人生の矛盾や困難に向き合い、霊的な自由を求める人々にとって大きな助けとなります。逃げるのではなく、すべてを受け入れて生き抜く力。マータンギー女神は、そこにこそ真の解放があると語りかけています。

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