「創造」「維持」「破壊」が繰り返す、壮大な循環として捉えられるヒンドゥー教の時間の概念。
その最小単位は、まばたき一回分に相当するニミシャ(ニメーシャ)といわれます。
一説に、0.213秒とされるこのニミシャは、「まばたき」そのものを意味する言葉でもあります。
この0.213秒という時間には、深く美しい霊性を学ぶことができます。
かつて、太陽の如く輝くニミという名の王がいました。
ラーマ神と同じイクシュヴァーク王朝の尊き血筋に生まれ、正義をもって国を治めた高徳な人物です。
このニミ王が神々を讃えるために盛大な供犠を計画した時のことです。
ニミ王は聖賢のヴァシシュタに主祭司を依頼するも、ヴァシシュタはすでに他の儀式に従事していたため、別の聖賢を迎え供犠を始めます。
のちに戻ったヴァシシュタは、自分を待たなかったことに憤り、ニミ王を呪って肉体を奪いました。
しかし、ニミ王もまた強大な霊力を持っていたため、最期の力を振り絞って呪いを返し、ヴァシシュタもまた肉体を失います。
この物語の核心は、肉体を離れた後のニミ王の選んだ道にあります。
神々はニミ王の高潔さに心を打たれ、生き返らせようと蘇生の恩恵を申し出ます。
しかし、身体という物質的な束縛から解き放たれたニミ王は、もはやそこに戻ることを望みませんでした。
ただ一つ、生きとし生けるものと永遠に共にありたいと願い出ました。
その願いは受け入れられ、ニミ王は私たちの「まぶた」に宿るようになったと伝えられます。
まばたきは、私たちがほとんど意識せずに絶えず繰り返す動作です。
しかしそれは、見ることと見ないこと、光と闇、動と静、外界と内面を結ぶ扉でもあります。
まぶたを開けば外の世界が広がり、閉じれば内なる静けさが訪れます。
こうして私たちのまぶたが絶え間なく開閉を続けるのは、ニミ王の力によるものと語り継がれています。
ニミ王はこのごくわずかな動きの中に、見過ごしがちな大切な真理を静かに託しています。
それは、一瞬の中に真実があるということ、生と死の狭間にこそ、永遠の目覚めが宿るということです。
真の霊性とは、与えられたこの人生において、外なる行動と内なる静寂のあいだに息づくものであり、ニミ王はそのふたつの世界をどう調和させて生きるべきかを示しています。
つまり、一瞬に意識を向け、今に深く目覚めて生きるという在り方です。
解脱とは、特別な聖地や厳しい修行で得られるものとは限りません。
まばたきのわずかな一瞬の中にも、目覚めへの扉はそっと開かれています。
0.213秒という限りなく短く、もっとも深い美しさを湛えた時間。
そこに宿るニミ王の存在に気づく時、私たちは生きる尊さを学び、霊的な目覚めへと確かな一歩を踏み出すことができるはずです。
(文章:ひるま)
コメント