太古の昔から受け継がれる神聖な祭祀(ヤジュニャ)は、世界の秩序を保つための尊い営みであるといわれます。
ある時、その儀式が成果を生まなくなり、祈祷も供物も虚しく響くようになったことがありました。
深い憂いを抱いた神々が真摯な祈りを捧げると、その祈りに応えるようにダクシナー女神が現れます。
「奉納物」の神格化として崇められるこのダクシナー女神は、幸運や繁栄の女神であるラクシュミーの右側から生まれたと信じられます。
右側は「吉祥」「誠実」「祝福」の象徴とされ、ダクシナー女神の出現そのものが、失われていた祭祀の力の回復を意味していました。
祭祀が実りをもたらさなくなった真の理由は、このダクシナー女神の不在にありました。
かつて、ダクシナー女神はスシーラーという牛飼いの娘として地上に姿を現しました。
しかし、ある呪いを受けた後、スシーラーは厳しい苦行に身を投じ、ただひたすらにラクシュミー女神を礼拝し続けます。
長い時が経ち、スシーラーはラクシュミー女神と一体になると、その姿を消してしまいます。
ダクシナー女神の化身であるスシーラーがいなくなってしまったため、儀式の成果が生まれなくなっていたのです。
神々の真摯な祈りに応え、ヴィシュヌ神はラクシュミー女神の体から再びダクシナー女神を呼び起こします。
その後、ダクシナー女神はヤジュニャ神(祭祀の神格)と結ばれ、ふたりの間には「パラ(結果)」という子どもが生まれました。
このパラこそ、あらゆる行為に実りをもたらす存在であり、その誕生によって再び儀式は成果を生み出すようになります。
こうして「ダクシナー(奉納物)」は、儀式に欠かせない要素として定められるようになりました。
ダクシナーとは、祭司や導師に敬意を示すために捧げられる金品として理解されることが多くありますが、それは感謝、献身、尊敬の象徴でもあります。
この神話は、どれほど形式に則った儀式であっても、ダクシナー女神に象徴される「捧げる心」がなければ、儀式や教えは完結せず、望ましい成果は得られないという教えを示しています。
これは祭司や導師への「ダクシナー」の重要性を伝えるだけでなく、現代を生きる私たちにも価値ある教えを与えてくれています。
それは、私たちの日々の行為の中に、「尽くす心」「敬う姿勢」が宿っているかということです。
それらはすべて、人生という大きな祭壇に捧げる、形なきダクシナーといえるものです。
祈祷や儀式が形だけになったとき、そこに命を吹き込むのは、この「捧げる心」です。
この心によって、私たちの日々の行為も単なる作業ではなく、世界と調和する尊い行いとなり、与えられた人生の祭祀を実らせるものとなります。
私たち一人ひとりの中にある「捧げる心」が呼び起こされるとき、たとえ小さな日常の一場面であっても、それは神聖な儀式へと昇華します。
この古き神話は、私たちの行為の中にダクシナー女神の光が宿っているかを、今も変わらずそっと問いかけています。
(文章:ひるま)
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