知識の継承を称える祭
インドの霊性豊かな暦に刻まれた数々の祭日のなかでも、ひときわ人々の心を照らすのがグル・プールニマーです。知識と導きを象徴するこの特別な日は、師を讃える満月祭であり、ヒンドゥー暦のアーシャーダ月(6月~7月)の満月に祝われます。2025年は7月10日(日本時間では7月11日)にあたります。
この祭日が満月の日にあたっていることには、特別な意味が込められています。夜空に輝く丸い月は、欠けることのない充実や完成、そして光の象徴です。最も力を増したその姿は、無知という暗闇を照らす存在としてのグルの姿そのものとも重なります。銀色の光で空を満たす満月は、見上げる人の内面に静かに語りかけるようです。
そして、この日を語る上で欠かせないのが「グル」という存在です。サンスクリット語に由来するこの言葉は、「グ」が暗闇、「ル」がそれを取り除くことを意味しており、心の迷いや無明を払ってくれる師を表しています。古代インドの聖なる教えには、「暗きところより、光のもとへ」という言葉がありますが、まさにグルとはその道を照らしてくれる灯のような存在です。人生の旅路を歩むなかで、私たちが目指すべき真理の方向をそっと示してくれる師の姿がそこにあります。
ヒンドゥー教の伝承に見るグルの姿
ヒンドゥー教の豊かな神話と思想の世界では、グル・プールニマーはふたりの尊い存在と深く結びついています。ひとりは聖典の編纂者として知られる聖者ヴェーダ・ヴィヤーサ、もうひとりはヨーガの根源的な教えを伝えたシヴァ神です。これらの伝承を通して、師という存在がいかに人々の心に敬われてきたかをたどることができます。
聖なる叡智を受け継ぐ日
この祭日は「ヴィヤーサ・プールニマー」とも呼ばれ、聖者ヴェーダ・ヴィヤーサの誕生を祝う日でもあります。ヴィヤーサはクリシュナ・ドヴァイパーヤナとも呼ばれ、名の由来はその肌の色と、誕生地であるヤムナー川の島(ドヴィーパ)にあります。
ヴィヤーサは聖者と漁師の娘サティヤヴァティーの間に生まれ、幼い頃から驚くほどの知性と霊性を備えていたと伝えられています。父のもとで厳しい修行に励み、時代を超えて「マハーグル(偉大なる師)」として称えられる存在となりました。ヴィヤーサはグルと弟子の間にある師弟の絆を体現する象徴でもあり、多くの学び手にとって、信仰と学問の源として今なお敬愛されています。
ヴェーダの体系化、マハーバーラタの編纂、そして精神的な教えの数々。その貢献はあまりにも大きく、ヒンドゥー文化の礎を築いた存在として、今も変わらぬ尊敬を集めています。ヴィヤーサの足跡は、グル・プールニマーという祈りの日を通して、現代にも静かに受け継がれています。
聖典を編みなおすという試み
ヴィヤーサが成し遂げた最も大きな功績のひとつは、口承によって伝えられてきた膨大な聖なる詩文――すなわちヴェーダ――を体系的に整理したことです。
古代インドでは、知識は書き記すのではなく、耳から耳へと継承されてきました。しかし、その広がりと複雑さゆえに、すべてを把握することは極めて難しかったといわれます。そうした課題に立ち向かったヴィヤーサは、それぞれの性質や儀礼的用途に応じて聖典を四部に分けました。リグ・ヴェーダは賛歌を、ヤジュル・ヴェーダは祭式を、サーマ・ヴェーダは旋律を、そしてアタルヴァ・ヴェーダは呪法や祈祷を中心とした内容を扱っています。
この知識の体系化を終えたあと、ヴィヤーサは信頼する弟子たちにそれぞれの教えを託しました。リグ・ヴェーダはパイラへ、ヤジュル・ヴェーダはヴァイシャンパーヤナへ、サーマ・ヴェーダはジャイミニへ、アタルヴァ・ヴェーダはスマントゥへと受け継がれました。こうして口承文化の混沌に秩序を与えたことから、「編み分ける者」「整理する者」という意味を持つ「ヴィヤーサ」という名が与えられたと伝えられています。
永遠の叙事詩 ― マハーバーラタ
ヴィヤーサはまた、世界最大級の叙事詩である『マハーバーラタ』の作者としても知られています。この物語は単なる王族の戦いの記録ではなく、人間としてどう生きるべきか、義務と正義、倫理、政治哲学、そして人の心の本質に至るまでを深く掘り下げた壮大な知の宝庫となっています。
その中でもとりわけ広く知られているのが、クリシュナ神とアルジュナの対話「バガヴァッド・ギーター」です。この章は、ヒンドゥー教の教えの柱のひとつとされ、精神的な道を歩む多くの人々にとっての羅針盤となっています。
伝承によれば、ヴィヤーサがこの壮大な詩句を語るとき、書記を務めたのは象の頭を持つ知恵の神ガネーシャでした。ガネーシャ神は途切れることなくその語りを記録し続けたといわれています。物語の中にはヴィヤーサ自身も登場し、時に傍観者として、またある時は物語のうねりに巻き込まれる人物として描かれます。語り手であり、登場人物でもあるという構成は、この叙事詩に独自の深みと臨場感を与えています。
プラーナ文献の礎
ヴィヤーサはさらに、十八の主要なプラーナ文献の編者としても知られています。これらの物語は、宇宙の成り立ち、神々の神話、王家の系譜、風習や儀礼、民間信仰などを豊かに織り交ぜた内容を含んでいます。
プラーナ文献を通じて、難解な哲学が物語という形をとって、より多くの人々に届けられました。それは宗教的な枠を超え、文化や社会意識の形成にまで影響を及ぼしています。人びとはプラーナ文献に触れることで、自らの信仰をより深く理解し、日々の暮らしと結びつけて受け取ってきたのです。
これらの著作には、ダルマ(正しい生き方)、バクティ(心からの祈り)、ジュニャーナ(内的な洞察)といった重要な理念がちりばめられています。また、カルマや輪廻といった概念を通じて、人間の生と死、そしてその先にあるものについても静かに語りかけています。
ヴィヤーサは「チランジーヴィー」と呼ばれ、死を超えた存在として今も尊ばれています。ヴィヤーサの残した知は、時代を超えて多くの人々の心を照らし続けています。
グルを讃える祈りの時
ヴィヤーサ・プールニマーの日、インド各地の寺院や僧院では特別な朗誦と礼拝が捧げられます。花や捧げものとともに、人々は静かに祈り、聖典を形作り、文化の礎を築いたヴィヤーサの偉業に思いを寄せます。
この祭日は、単に一人の聖者を讃える日ではありません。そこには、知を正しくまとめ、それを次代へと継いでいくことの重要性が示されています。ヴィヤーサは単なる知識人ではなく、聖なる教えを整え、守り、伝え続けた師の理想像として、今も多くの人々の心の中で生き続けています。
ヴェーダという神聖な啓示と、私たちの理解とをつなぐ架け橋となり、叙事詩や神話の語りのなかに、生きた伝統の息吹を吹き込んだヴィヤーサ。その功績は、今もなお、語り継がれるべき灯火です。
アーディヨーギーとしてのシヴァ神
グル・プールニマーの祈りは、ヴィヤーサへの敬意だけにとどまりません。もう一つの重要な物語が、この特別な夜に深い意味を添えています。それが、最初のヨーギー(アーディヨーギー)、あるいは最初の師(アーディグル)として語られるシヴァ神の伝承です。
ヨーガの系譜において、グル・プールニマーは、シヴァ神が人類に初めてヨーガという内なる探求の道を示した瞬間とされています。この文脈で語られるシヴァ神は、単なる神としてではなく、人間が意識的な変容へと進む可能性を拓いた、根源的な目覚めの象徴です。
サプタリシへの教え
伝承によれば、太古の昔、シヴァ神はヒーマラヤの高地にその姿を現しました。まったく動かず、深い至福に満ちた静けさの中にいたシヴァ神のまわりには、生命の気配が漂っていたと語られています。
その神秘に引き寄せられた七人の求道者たちは、この沈黙のヨーギー(シヴァ神)が普通の認識を超えた何かを持っていることを直感し、教えを乞いました。しかし、シヴァ神は長い間沈黙を守り、振り向こうとはしませんでした。それでも彼らは諦めず、八十四年にもわたり、自らを磨きながら問い続けます。
やがて季節が夏至を越え、太陽が南へと傾く満月の日。ついにシヴァ神は静かに南を向き、彼らの前に姿を現しました。そのとき、沈黙のヨーギーは師へと変わり、七人の求道者は「サプタリシ(七聖仙)」と呼ばれるようになりました。この瞬間が、世界で初めての伝授であり、師という存在が誕生したとされる日でもあります。そのためこの満月は、特別な意味を持つ「グル・プールニマー」と呼ばれるようになったのです。サプタリシたちは、この得難い知を受け継ぎ、それぞれの地へと赴き、世界に広めていきました。
沈黙による導き
南を向いたシヴァ神は、やがて「ダクシナームールティ(南方の姿)」として知られるようになりました。ダクシナームールティはしばしばバニヤンの木の下に座り、静かに知を湛える姿で描かれます。そこには言葉では伝えきれない真理、音楽や瞑想を通じて表現される深遠な気づきが漂っています。
ダクシナームールティの教えは、語られるものではなく、沈黙そのものでした。これを「マウナ・ヴィヤーキャー(沈黙の言葉)」と呼びます。準備が整った者にのみ届くこの静寂の教えは、言葉による説明を超えて、内なる経験と感受性を通じて真実に触れるというヨーガの核心を映し出しています。
ダクシナームールティにはいくつかの象徴的な姿があります。瞑想を導く「ヨーガ・ダクシナームールティ」、宇宙の響きを伝える「ヴィーナーダラ」、沈黙の智慧を表す「ジュニャーナ・ダクシナームールティ」、そして問答を通して教えを示す「ヴィヤーキャーナ・ダクシナームールティ」です。それぞれが、師としてのシヴァ神の多様な側面を物語っています。アーディ・シャンカラが詠んだ『ダクシナームールティ・ストートラム』は、この究極の師に捧げる讃歌として今なお広く唱えられています。
意識の進化という可能性
アーディヨーギーからサプタリシへの伝授は、当時の人々にとって衝撃的な教えでした。人間が生まれや環境に縛られず、自らの努力によって意識を進化させることができるという考え方。それは、自分という存在を根底から変容させ、内なる自由へと到達する可能性を開いたのです。
この視点から見ると、グル・プールニマーは単なる伝統行事ではなく、人間が自己を超えていくための道が拓かれた記念すべき瞬間を象徴しています。最初の師がもたらしたその道は、時代を超えて今なお、真理を求める者たちの歩みの中に脈々と息づいています。
アーディヨーギーとしてのシヴァ神の物語は、ヴィヤーサの伝統とは異なる角度から、師という存在の本質を照らしています。ヴィヤーサが聖典を整え、後世へと手渡した知の伝達者であるのに対し、シヴァ神は沈黙と体験を通して真実を示す生きた源です。どちらも師という役割の一面を表しており、その在り方は補い合うものとなっています。
また、サプタリシたちが伝授に至るまでに八十四年もの歳月を費やしたことは、弟子の側に強い意志と純粋さが求められることを物語っています。沈黙の教えが成り立つためには、受け取る者の側が静けさの中に心を開く準備が必要なのです。体験と内的変容を重視するこの関係性は、グルと弟子が築く真の絆を象徴しているといえるでしょう。
霊性における導きの意味
グル・プールニマーにまつわる神話や儀礼には、ひとつの共通した精神があります。それは、内なる目覚めへと歩む旅路において不可欠な存在としての「グル(師)」を敬う心です。この日は、単なる祭事ではなく、霊性を求める者にとって師が果たす役割に深く向き合う機会ともなります。ここでは、グルという存在の霊的な意味合い、師と弟子の関係に宿る神聖な伝統、そしてこの祭日に込められた象徴の数々を見つめていきます。
光へと導く者
「グル」という言葉は、サンスクリット語で「闇を取り除く者」を意味します。この語源そのものが示しているのは、私たちが内なる迷いや限界を越えていくためには、道を照らす存在が必要だという考えです。ヒンドゥー教の伝統では、霊的な成熟や最終的な解放に至るためには、自らの体験だけでは到達できない地点があり、そこには師の智慧が不可欠とされています。
この信念は数多くの聖典にも繰り返し表現されています。ウパニシャッドは、グルの存在を重視する記述に満ちています。たとえば、チャーンドーギヤ・ウパニシャッドでは、「師から授かった知こそが目標へと至らせる」とされ、「師を持つ者は真理に至る」と語られます。ムンダカ・ウパニシャッドもまた、「高潔な師が価値ある弟子に真実の知を示すべきだ」と述べています。さらにシュヴェーターシュヴァタラ・ウパニシャッドには、「解放に至るには、他に道はない」という明言があり、師の導きが欠かせないことを強く示唆しています。ちなみに「ウパニシャッド」という言葉自体、師のそばに静かに座り学ぶことを意味しており、そこにもグルの本質が込められています。
経典を超えて伝わる真髄
バガヴァッド・ギーターでも、師の前に身を低くし、誠実な問いをもって教えを請うことが推奨されています(ギーター4章34節)。「真理を見た者たち」から学びなさいというその言葉は、知識を得ることが単なる情報の取得ではなく、心を開いて信頼の中で学ぶ過程であることを教えています。ギーター7章3節では、神についての本当の理解は極めて稀であると語られ、指導の必要性がにじみ出ています。そして、霊的知を受け取るには「シュラッダー(内なる確信)」が欠かせないとも述べられています(4章39節)。
こうした記述は、霊的な学びが自己流では進みにくく、深い理解には経験豊かな導き手の存在が求められるという、ヒンドゥー教の教えの一貫した姿勢を物語っています。
グルへの思いを詠んだ『グル・ギーター』のような聖句も広く知られており、その中でグルは宇宙の根源であるシヴァ神と重ね合わされています。シヴァ・プラーナなどの文献にも、師とはあらゆる否定的な性質を取り払う存在であるという考えが見られます。時には、グルが創造・維持・破壊を司る三大神――ブラフマー、ヴィシュヌ、シヴァ――の象徴とみなされることすらあります。
また、師の役割にもさまざまな種類があります。たとえば、言葉を通じて知識を授ける「シュラヴァナ・グル」、霊的な儀式や入門を授ける「ディークシャー・グル」、日々の学びや修行を導く「シクシャー・グル」などです。求道の段階や魂の成熟に応じて、適した師が必要とされるという考えが、古くから受け継がれてきました。
教えが息づく系譜
インドの霊的伝統の中核にある考え方の一つに、「グル・シシュヤ・パランパラー」という概念があります。これは師と弟子による霊的な知の継承を表すもので、教えが口頭と体験を通じて途切れることなく伝えられていく神聖な流れです。「パランパラー」とは本来、連続性ある系譜を意味し、単なる教義の伝達ではなく、生きた叡智の継承を指しています。
この系譜には、単なる知識のやり取りを超えた、深い精神的な関係性が根づいています。その核心には、師と弟子の間に結ばれる信頼と敬意、謙虚さ、献身、そして教えを受け取る側の心構えと覚悟があります。
生きた学びの場
歴史的には、この関係は「グルクラ」と呼ばれる共同生活の場で育まれてきました。弟子は師の家族の一員として共に暮らし、形式ばらない指導を通じて知識を身につけるだけでなく、日々の奉仕や生活そのものからも学びを得ていきました。教育は単に経典にとどまらず、人格の陶冶や霊的な成長、そして実践的な技能までも含む総合的なものでした。
グルと弟子の関係が正式に始まる際には、しばしば「ディークシャー」という儀式が行われます。これは単なる形式ではなく、師が弟子を霊的な旅路へと導く責任を引き受ける、非常に重要な節目となります。
さまざまな伝統によって、その教えの伝え方にも違いがあります。たとえば、ヴェーダのように音と言葉を重視する伝統(シュルティ)、意識のエネルギーを通じた直接的な伝達(シャクティパータ)、あるいは完全な降伏を通じて道を開く姿勢(プラパッティ)などがあり、それぞれが異なる霊性の道を照らしています。
師と弟子
この関係性を成り立たせるには、師にも弟子にも、それぞれにふさわしい内的資質が求められます。
まず師に求められるのは、単なる知識の豊かさではありません。古来、理想的な師とは、聖典に精通するだけでなく、深い実感をもってその真理を生きている人であるべきだとされてきました。倫理観、忍耐や慈愛、自己制御といった資質を備え、自らの内に光を宿している人です。そのうえで、弟子の可能性を見出し、正しく導く力があることが重視されます。
一方で、弟子にも学ぶ側としての姿勢が求められます。信頼の心、謙虚さ、素直さ、教えを受け取る柔軟性、奉仕の精神、そして何よりも真に自由を求める意志。自己の小ささを認め、心を開いて師の前に立つことができる者こそが、本当の意味で学びを受け取る資格を持つとされます。
これらの条件がそろったとき、単なる知識の受け渡しではなく、内なる変容の場が開かれます。師は導き手であると同時に、目に見えない力を伝える触媒となり、弟子はその導きを通じて内なる扉をひらいていきます。
グル・シシュヤ・パランパラーは、知識の継承にとどまらず、魂と魂が向き合う真摯な関係を築くことによって、永く保たれてきました。そこには、理屈では語りきれない静かな感応や、言葉では伝えきれない気づきが息づいています。沈黙のなかで伝わるもの、まなざしの奥に込められた信頼、そうした目に見えない贈り物こそが、真の霊的伝承の中核にあるのです。
献身の心を形にする日
グル・プールニマーは、敬意と祈りの念をさまざまな形で表現する、象徴と実践に満ちた日です。この日はただ祝うだけでなく、師との霊的なつながりをより深く体験するための特別な機会とされ、多くの人がその恩寵に触れるべく心身を整えます。
満月が照らす内なる光
プールニマー――満月の日に行われるこの祭日は、深い意味を宿しています。まんまるに輝く月は、完成、円熟、豊かな知恵、そして闇を払いのける浄化の光として捉えられています。その光は、まるでグルの存在そのもののように、人の迷いや無明を静かに照らし出します。
満月の高まったエネルギーは、霊的な振動を増幅させると信じられており、瞑想や祈り、内省、祝福を受け取るのに最もふさわしい時とされています。この夜は、月が太陽の光を映すように、グルが神の光を映し出すと考えられており、その恩寵が特に身近に感じられる瞬間でもあります。
崇敬の形としての儀式
この日には、さまざまな儀式が師への想いを具体的に表す手段として行われます。その中心にあるのが「グル・プージャー」です。これは師の姿、あるいは象徴物に花や果物、菓子、香、白檀の香料、灯火などを捧げる祈りであり、グルを見つめること(ダルシャン)そのものが霊的な体験とされています。
なかでも特に重要とされるのが「パーダ・プージャー」です。師の足跡やサンダルを清め、香り高い水や花で敬うこの儀式には、師の足が恩寵の源であるという深い信仰が込められています。足を洗った水(チャラナームリタ)は、祝福のしるしとして分かち合われ、師への完全な帰依を象徴するものとなります。
また「グル・ダクシナー」は、知を授けられた感謝を表す伝統的な贈り物です。古来は金や牛、穀物や土地などさまざまな形がありましたが、現代では寄付や書籍の贈呈、奉仕、あるいは心からの感謝の言葉といった形も広く受け入れられています。重要なのは、捧げる行為の背景にある心です。それが純粋な敬意と信頼に根ざしていることが最も大切とされています。
音の中に宿る祈り
この日はまた、神聖な音の波に包まれる時間でもあります。「グルル・ブラフマー、グルル・ヴィシュヌフ…」と続く有名なマントラは、多くの場で唱えられ、空間に静かな力をもたらします。その詠唱は、グルが宇宙の根源とつながる存在であることを、響きの中で体感する方法でもあります。
他にも、「オーム・グン・グルビョー・ナマハ」など、グルの原理に焦点を当てたマントラが広く用いられます。ヴィヤーサに帰せられる『グル・ギーター』の朗読や、ダクシナームールティ、ダッタートレーヤ、サイババといった師的存在に捧げる詠唱も多く行われます。
二つの道が交わる場
多くの人がこの日に僧院や寺院、あるいは家庭に集い、講話を聞き、霊的な歌を歌い、共に静かに学びを深め合います。この集いは「サットサンガ」と呼ばれ、師を同じくする弟子たちとの結びつきを感じる貴重な時間です。言葉を交わし、歌を響かせることで、それぞれの体験が共鳴し合い、霊的な道を歩む仲間としての連帯感が育まれていきます。
また、多くの人がこの日には断食(ヴラタ)を実践し、自らの心身を整えようとします。食を断つことで欲望を手放し、より清らかな状態でグルの教えと向き合う準備を整えるのです。瞑想や自己省察にふけるこの一日は、内なる静けさを取り戻し、来るべき一年を師の導きのもとで歩む決意を新たにするための、大切な節目ともなっています。
外なる行為が内なる想いを育む
これらの儀式や修行は、ただの形式ではなく、師への感謝と信頼を外へと表す手段です。たとえばパーダ・プージャーは、師の肉体を通して恩寵を敬う行為であり、ダクシナーは知識と導きへの感謝を具体的な形にする手段です。マントラの詠唱や瞑想は、内なる集中と献身を高める力を持ち、サットサンガの時間は、霊的な仲間とつながることの意味を静かに教えてくれます。
これらの実践に満月の光が加わることで、その霊的効果はより一層深まります。師と向き合い、自らの内にある願いと誓いに光を当てるグル・プールニマーは、弟子にとって霊的な歩みを再確認する特別な日であり、受け取った教えを日々の生活に息づかせる新たな出発点となるのです。
内なる光へと向かう旅路
グル・プールニマーは、インドの霊的風土の中でひときわ輝きを放つ行事です。満ちた月が空を照らすアーシャーダ月のこの夜、人々は静かに思いを巡らせます。迷いに包まれていた心が、師の言葉によって少しずつ照らされてきた道のり。そこに光を見出すひとときが、この祭日の本質を彩っています。
教えは時を超えて響く
この日が語りかけてくるメッセージは、宗教や文化の枠を越えて、誰の胸にも届くものです。知を求め、導きを受け、その恩に感謝する姿勢は、時代を問わず尊ばれてきました。グル・プールニマーは、霊的な師だけでなく、人生のなかで私たちに大切な気づきを与えてくれたすべての存在に思いを向ける日でもあります。
学びの場で出会った恩師、厳しさと慈愛をもって育ててくれた両親、さりげなく助言をくれた友人や、書物の中の言葉、あるいは苦しみや試練の中で見つけた教訓――そうした一つ一つが、私たちの心の成長に光を注いできました。人生において私たちを照らしてくれたすべての存在に感謝の念を捧げることが、この祭日の大切な意義となっています。
静けさの中に芽吹く気づき
グル・プールニマーは、内省を深め、学び直すきっかけを与えてくれます。そこには、自分を高めようとする意志とともに、知恵を受け取るための心の姿勢――謙虚さ、信じる力、そして真剣な献身が育まれていきます。
最終的に、この祭日が照らそうとしているのは、私たち自身の内側に眠る「内なるグル」の存在です。それは、言葉にならない真実の声、迷いの中でなお静かに光を放つ気づきの種。ヴィヴェーカーナンダは語りました。「あなたが求めている真理は、すでにあなたの中にある。ただそれを見つける方法を知らないのだ。外にいるグルは、その扉を開く手助けをしてくれるだけなのだ」と。
グルへの礼拝は、ただ外に向かうものではなく、そこから内なる導きへと目を向ける道でもあります。意識が澄みわたり、心の鏡が曇りなく磨かれていくにつれ、そこには太陽のような真実の光が反射しはじめます。師の言葉や在り方が、その光を映し出すためのきっかけとなり、やがて私たちは自分の中に確かに灯る光を見出していくのです。
グル・プールニマーとは、その旅路を振り返り、また新たに歩み出すための優しい灯りです。静かに心を澄ませば、そこにはすでに答えがあることに気づかせてくれる、そんな特別な日として受け継がれています。
光をつなぐという誓い
アーシャーダ月の満月がその穏やかな光で大地を照らすように、グル・プールニマーは私たちに静かに語りかけてきます。無知の闇に包まれた心が、導きの言葉によって目覚め、自己を知る旅へと踏み出した日々、その旅路にそっと灯をともしてくれた多くの存在に、深く頭を垂れる時がここにあります。
この日は、過去に対する感謝だけでは終わりません。その光を受け取った私たち自身が、さらにそれを内に育み、やがて誰かのために分け与える存在となることを、そっと胸に誓う機会でもあります。受け継がれた光が、また次の誰かの道を照らす――そうした霊的な連鎖が、この祭りの本質に息づいています。
この夜、私たちはグルと弟子という霊的なつながりの重みをあらためて感じ、叡智を分かち合う責任を心に刻みます。そして、静かに自分の中に灯った小さな光を見つめ、その光が誰かの夜を照らすことを願いながら、新たな一歩を踏み出します。
グル・プールニマーとは、師の導きに感謝し、自らの歩みを見つめ直し、受け取った光を未来へとつないでいくための、静かで力強い祈りの時間です。その光は、目には見えなくとも、確かに心の中で生き続けていくでしょう。
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