はじめに
マハームリティユンジャヤ・アシュタカム(महामृत्युञ्जयअष्टकम्, Mahāmṛtyuñjayāṣṭakam)は、ヒンドゥー教の最高神の一柱であるシヴァ神が持つ「マハー・ムリティユンジャヤ(महामृत्युञ्जय, Mahā-mṛtyuñjaya)」すなわち「偉大なる死の征服者」としての御姿を讃える、八つの詩節(アシュタカム)から成るサンスクリット語の聖歌です。この讃歌は、神の広大なる徳を称え、その恩寵を希求する、サンスクリット語による豊かな帰依文学(ストートラ, स्तोत्र)の伝統に属しています。シヴァ神の場合、「ムリティユンジャヤ」(「死」を意味する「ムリティユ, मृत्यु」と「勝利」を意味する「ジャヤ, जय」の合成語)という御名は、死を打ち破り、長寿、さらには不死さえも授ける神の力を強調するものです。
伝統的に、この讃歌は信奉者たちによって、非業の死からの守護、恐れや病からの解放、そして究極的には霊的な解脱(モークシャ, मोक्ष)を求めて詠唱されてきました。名高いリグ・ヴェーダの「ムリティユンジャヤ・マントラ」(「オーム・トリャンバカム・ヤジャーマヘ……」)がそうであるように、このマハームリティユンジャヤ・アシュタカムもまた、治癒をもたらす祈りであると同時に、解脱へ導くマントラとして深く敬われています。その詩節は、死すべき運命への恐怖を克服し、輪廻(サンサーラ, संसार)すなわち生と死の繰り返しの束縛を超越するために、シヴァ神の恩寵を熱心に祈願するものです。
この讃歌は、単に肉体的な死からの保護を求めるだけでなく、より深い次元での救済を示唆します。それは、死そのものへの根源的な恐れを克服し、心の平安を得て、さらには輪廻の苦しみから解放される精神的な変容を志向するものです。信奉者は、この聖なる詩句を詠唱し、その意味を瞑想することを通じて、シヴァ神の無限の慈悲と力に触れ、内なる神性への目覚めを促されます。したがって、マハームリティユンジャヤ・アシュタカムは、現世的な恩恵と霊的な高みという、人間の抱く普遍的な願いに応える、深遠な霊的実践の道しるべと言えるでしょう。
表題
महामृत्युञ्जयाष्टकम्
mahāmṛtyuñjayāṣṭakam
大いなる死の征服者への八つの詩からなる讃歌
逐語訳:
- महा (mahā) - 大いなる、偉大な
- मृत्युञ्जय (mṛtyuñjaya) - 死を征服する者(シヴァ神の別名)
- अष्टकम् (aṣṭakam) - 八詩節から成る詩、八頌歌
解説:
『महामृत्युञ्जयाष्टकम् (mahāmṛtyuñjayāṣṭakam)』は、ヒンドゥー教の伝統において、極めて強力で神聖視される讃歌の一つです。その題名は、「大いなる死の征服者への八詩節の讃歌」と解され、この詩が持つ深遠な内容と目的を端的に示しています。
「मृत्युञ्जय (mṛtyuñjaya)」は、サンスクリット語で「死 (mṛtyu)」を「征服する者 (jaya)」を意味し、破壊と再生、そして超越的な慈悲を司る大神シヴァの重要な称号の一つです。この名は、シヴァ神が単に死を先延ばしにするのではなく、死そのものの根源的な恐怖や束縛を超越させ、信奉者を究極的な解放へと導く力を持つことを象徴しています。宇宙の終末における破壊者としての恐るべき相(रुद्र, rudra)と、苦難から救済する慈愛に満ちた相(शिव, śiva)を併せ持つシヴァ神ですが、このムリティユンジャヤとしての側面では、病苦、災厄、そして輪廻の苦しみの根源である死の運命からも守護する、至高の救済者として崇められます。
「अष्टकम् (aṣṭakam)」は、「八」を意味する「अष्टन् (aṣṭan)」に由来し、八つの詩節によって構成される特定の詩形を指します。インドの詩学や聖典において、「八」という数はしばしば完全性、宇宙的な調和、あるいは主要な方角や神格の顕現を示すものとして重視されてきました。アシュタカム形式の讃歌は、各詩節が神の特定の属性や功徳を称えつつ、全体として神への深い帰依と祈りを捧げる構成をとります。この讃歌もまた、八つの詩節を通じて、大いなる死の征服者の多様な神格と力を瞑想し、その恩寵を希求するものです。
この讃歌を詠唱し、あるいは聴聞することの目的は多岐にわたります。最も直接的には、病からの回復、長寿の獲得、不慮の事故や災難からの保護といった現世的な恩恵を求める祈りとして用いられます。しかし、その真髄はさらに深く、死への根源的な恐怖心そのものを克服し、変容する自己(अहंकार, ahaṃkāra)の束縛から解放され、不滅なる真我(आत्मन्, ātman)の本質を悟ること、すなわち精神的な意味での「不死」の達成を目指すものです。詠唱者は、シヴァ神の象徴的な姿—例えば三つの眼(त्रिनेत्र, trinetra)、月の冠(चन्द्रशेखर, candraśekhara)、蛇の装飾(नागभूषण, nāgabhūṣaṇa)など—を心に描き、その宇宙的な力と無限の慈悲を感受することで、自らの内なる神性と合一する道を探求します。
したがって、『महामृत्युञ्जयाष्टकम् (mahāmṛtyuñjayāṣṭakam)』は、単なる延命や苦痛の除去を願う祈りを超え、生と死という二元性の彼岸にある永遠の生命、すなわち解脱(मोक्ष, mokṣa)への強い願いを込めた、霊性の深奥に触れる聖歌と言えるでしょう。その言葉の一つひとつに、古来より受け継がれてきた叡智と、神への揺るぎない信仰が息づいています。
第1節
ॐ मृत्युञ्जय ! परेशान जगदामयनाशन ! ।
तव ध्यानेन देवेश ! मृत्युं प्राप्तोऽपि जीवति ॥ १॥
oṃ mṛtyuñjaya ! pareśāna jagadāmayanāśana !
tava dhyānena deveśa ! mṛtyuṃ prāpto 'pi jīvati ॥ 1 ॥
オーム。死を征服する御方よ! 至高の主よ! 世界の病を滅ぼす御方よ! 神々の主よ!
あなたへの瞑想により、死に瀕する者さえ、生きる。
逐語訳:
- ॐ (oṃ) - 聖音オーム
- मृत्युञ्जय (mṛtyuñjaya) - 死を征服する者よ(呼格)。シヴァ神の別名。मृत्यु (mṛtyu、死) + ञ्जय (ñjaya、征服する者)。
- परेशान (pareśāna) - 至高の主よ(呼格)。परम (parama、最高の) + ईशान (īśāna、主)の合成語。
- जगदामयनाशन (jagadāmayanāśana) - 世界の病を滅ぼす者よ(呼格)。जगत् (jagat、世界) + आमय (āmaya、病、苦悩) + नाशन (nāśana、破壊する者)の合成語。
- तव (tava) - あなたの(属格、二人称単数代名詞 tvad の活用形)
- ध्यानेन (dhyānena) - 瞑想によって(具格、ध्यान (dhyāna、瞑想)の単数形)
- देवेश (deveśa) - 神々の主よ(呼格)。देव (deva、神) + ईश (īśa、主)の合成語。
- मृत्युम् (mṛtyum) - 死を(対格、मृत्यु (mṛtyu、死)の単数形)
- प्राप्तः अपि (prāptaḥ api) → प्राप्तोऽपि (prāpto 'pi) - 到達した者でさえも。प्राप्तः (prāptaḥ、到達した、得た)は形容詞男性単数主格。अपि (api)は副詞で「~でさえも」。連声(sandhi)により o となる。
- जीवति (jīvati) - 生きる(動詞 जीव् (jīv、生きる)の三人称単数現在形)
解説:
この讃歌の冒頭は、宇宙の根源的な響きとされる聖音「ॐ (oṃ)」をもって荘厳に始まります。オームは、単なる音声を超え、創造、維持、破壊という宇宙のサイクルそのものを内包し、至高の実在ブラフマンの象徴とされます。この聖音で祈りを始めることは、祈願を宇宙的な秩序と調和させ、その力を増幅させる意味を持ちます。
続く呼びかけは、シヴァ神の四つの強力な神格を顕揚するものです。
まず「मृत्युञ्जय (mṛtyuñjaya)!死を征服する御方よ!」と、この讃歌の中心主題であるシヴァ神の最も力強い側面が呼び求められます。これは、単に肉体的な死を遅らせるという意味に留まらず、死の恐怖そのもの、そして輪廻(संसार, saṃsāra)の苦しみからの究極的な解放をもたらす力を象徴します。
次に「परेशान (pareśāna)!至高の主よ!」と、シヴァ神がすべての神々や存在を超越した宇宙の絶対的な統御者であることが讃えられます。この称号は、彼がいかなる力にも束縛されず、万物に恩寵を施すことのできる至高の権威を持つことを示唆します。
三番目に「जगदामयनाशन (jagadāmayanāśana)!世界の病を滅ぼす御方よ!」と、シヴァ神の宇宙的な治癒者としての側面が強調されます。「आमय (āmaya)」は、個人の肉体的・精神的な病苦のみならず、世界全体の不調和や苦悩をも指し、シヴァ神がそれら全てを根絶する力を持つことを示しています。この神格は、ヴェーダ時代に遡る暴風雨神ルドラ(रुद्र, rudra)が持つ、恐るべき破壊力と同時に、病を癒し恵みをもたらす慈悲深い側面(特に「医者の中の医者」と呼ばれる側面)を継承しています。
そして「देवेश (deveśa)!神々の主よ!」と、天界における神々(देव, deva)の指導者、帰依すべき対象としてのシヴァ神の地位が明確にされます。これにより、人間界のみならず神々の世界においても、彼の庇護と導きが求められることが示されます。
これらの呼びかけに続き、詩節の核心となる祈願が述べられます。「तव ध्यानेन देवेश मृत्युं प्राप्तोऽपि जीवति (tava dhyānena deveśa mṛtyuṃ prāpto 'pi jīvati)」。すなわち、「あなたへの瞑想により、神々の主よ、死に瀕する者さえ、生きる」と。
ここでいう「ध्यान (dhyāna)」とは、単なる思索や一時的な集中ではありません。それは、ヨーガの伝統における瞑想の深遠な段階を指し、対象である神の本質への意識の連続的な流れ、没入、そして究極的には合一を目指す精神的修練です。この深い瞑想を通じて神と繋がることで、奇跡的な力が顕現するとされます。
「मृत्युं प्राप्तः (mṛtyuṃ prāptaḥ)」は、文字通りには「死に到達した者」、すなわち死が目前に迫り、医学的にもはや手の施しようがない絶望的な状況にある人を指します。そのような者でさえ「जीवति (jīvati)」、すなわち「生きる」と断言されるのです。この「生きる」という言葉には、単なる肉体的な延命を超えた、より深い意味合いが込められています。それは、死の恐怖から解放され、自己の本質である不滅の霊魂(आत्मन्, ātman)に目覚めること、すなわち精神的な意味での「不死」(अमृतत्व, amṛtatva)を得ることをも示唆しています。シヴァ神への絶対的な帰依と瞑想は、存在の最も根源的な恐怖である死を超越させ、永遠の生命の次元へと導く力を持つという、揺るぎない信仰がここに表明されています。
この第1節は、讃歌全体の基調を定めるものです。シヴァ神の偉大な力と慈悲への呼びかけ、そしてその神への瞑想的帰依がもたらす究極的な救済への確信を力強く宣言し、聴く者の心を神への献身へと導きます。この詩が持つ言葉の力は、詠唱や聴聞を通じて、病苦の軽減、長寿の獲得、災厄からの保護といった現世的な恩恵をもたらすと信じられており、さらには精神的な平安と解脱への道を開くものとして、古来より深く尊ばれてきました。
第2節
पञ्चास्यदोर्द्दण्डदशाङ्घ्रिनेमदिनेशभालेन्दुयुतं गणेशैः ।
वामाङ्गसंस्थागिरिजासमेतं वन्दे महामृत्युविनाशरूपम् ॥ २॥
pañcāsyadordaṇḍadaśāṅghrinemadineśabhālendu-yutaṃ gaṇeśaiḥ
vāmāṅgasaṃsthāgirijāsametaṃ vande mahāmṛtyuvināśarūpam ॥ 2 ॥
五つの聖顔、力強き御腕と無数の御足、輝く太陽のごとき額に三日月を戴き、聖なる光輪に包まれ、ガナの従者たちに囲まれ、
その御身の左には山の娘なる妃と一つになりたまえる、大いなる死をも打ち砕くその御姿を、我は伏して礼拝する。
逐語訳:
- पञ्चास्य (pañcāsya) - 五つの顔を持つ御方。पञ्च (pañca、五) + आस्य (āsya、顔)。ここでは形容詞的に「महामृत्युविनाशरूपम् (mahāmṛtyuvināśarūpam)」を修飾。
- दोर्द्दण्ड (dordaṇḍa) - 杖(武器)のような力強い腕を持つ。दोस् (dos、腕) + दण्ड (daṇḍa、杖、棒、力)。
- दशाङ्घ्रि (daśāṅghri) - 十の(あるいは多数の)足を持つ。दश (daśa、十、多数) + अङ्घ्रि (aṅghri、足)。
- नेम (nema) - 光輪、聖なる後光。
- दिनेश (dineśa) - 太陽。दिन (dina、日) + ईश (īśa、主)で「日の主」。
- भाल (bhāla) - 額。
- इन्दु (indu) - 月。
- युतं (yutaṃ) - ~と結びついた、~を備えた、~に飾られた(上記のネーマ、ディネーシャ、バーラ、インドゥの全てが「महामृत्युविनाशरूपम् (mahāmṛtyuvināśarūpam)」にかかる)。
- गणेशैः (gaṇeśaiḥ) - ガナたち(シヴァ神の従者、眷属)と共に(具格複数)。これも「महामृत्युविनाशरूपम् (mahāmṛtyuvināśarūpam)」を修飾し、「ガナたちに囲まれた」の意。
- वामाङ्ग (vāmāṅga) - 左の身体、左半身。वाम (vāma、左) + अङ्ग (aṅga、身体、肢体)。
- संस्थ (saṃstha) - 位置している、住んでいる。
- गिरिजा (girijā) - 山の娘(パールヴァティー女神の別名)。गिरि (giri、山) + जा (jā、生まれた)。
- समेतं (sametaṃ) - ~と共にある、~と一体となった(対格、中性単数)。「वामाङ्गसंस्थागिरिजा (vāmāṅgasaṃsthāgirijā)」が「महामृत्युविनाशरूपम् (mahāmṛtyuvināśarūpam)」を修飾。
- वन्दे (vande) - 私は礼拝する(動詞 वन्द् (vand、礼拝する)の一人称単数現在アートマネーパダ)。
- महामृत्युविनाशरूपम् (mahāmṛtyuvināśarūpam) - 大いなる死を破壊する御姿を(対格)。महा (mahā、大いなる) + मृत्यु (mṛtyu、死) + विनाश (vināśa、破壊) + रूपम् (rūpam、姿、形)。
解説:
この第2節は、前節で呼びかけられた「मृत्युञ्जय (mṛtyuñjaya)」すなわち死を征服する御方の、具体的かつ荘厳な御姿を描写し、瞑想の対象として心に刻むためのものです。この詩節で示されるシヴァ神の図像学的特徴は、それぞれが深遠な哲学的・神話的意味を内包しています。
まず「पञ्चास्य (pañcāsya)」、五つの御顔は、シヴァ神の全知全能性と宇宙的な広がりを象徴します。これらは、創造(सृष्टि, sṛṣṭi)、維持(स्थिति, sthiti)、破壊(संहार, saṃhāra)、隠蔽(तिरोधान, tirodhāna)、そして恩寵(अनुग्रह, anugraha)という宇宙の五つの主要な働きを司るとされ、また、東西南北と上方(あるいは中心)の五方向、さらには五大元素(पञ्चमहाभूत, pañcamahābhūta)との関連も示唆されます。これにより、シヴァ神があらゆる現象の根源であり、宇宙全体を統べる主であることが示されます。
「दोर्द्दण्ड (dordaṇḍa)」は、力強い御腕、あるいは御腕に携えられた聖なる武器(例えば三叉戟トリシューラ (त्रिशूल, triśūla) や斧パラシュ (परशु, paraśu))を指します。これは、宇宙の秩序(ऋत, ṛta)と法(धर्म, dharma)を守護し、無知や悪、そして死をもたらす力を打ち破る神の権能を象徴します。「दशाङ्घ्रि (daśāṅghri)」、十あるいは無数の御足は、神の遍在性、すなわちいかなる場所にも同時に存在し、信奉者の呼びかけに応じて現れる能力を表します。また、ナタラージャ(नटराज, naṭarāja)、すなわち舞踊の王としてのシヴァ神の、宇宙の創造と破壊のリズムを刻む神秘的なステップを想起させます。
「नेमदिनेशभालेन्दुयुतं (nemadineśabhālendu-yutaṃ)」という表現は、シヴァ神の頭部と顔の神々しさを凝縮して伝えます。「नेम (nema)」は、神聖な存在を取り巻く光輪であり、その超越的な光輝とエネルギーを示します。「दिनेशभाल (dineśabhāla)」、太陽のように輝く額は、第三の眼(तृतीयनेत्र, tṛtīyanetra)の存在を暗示します。この眼は、世俗的な知覚を超えた叡智の眼であり、一切の無明(अविद्या, avidyā)と虚妄を焼き尽くし、真実を照らし出す力を持つとされます。そして「इन्दु (indu)」、月は、シヴァ神の髪に飾られる三日月(चन्द्रमौलि, candramauli または चन्द्रशेखर, candraśekhara)を指し、これは時間の支配者としての神格、心の平静、死を超越した不死の甘露(अमृत, amṛta)、そして慈悲と冷静さの象徴です。太陽の熱と月の冷涼さという対照的な要素の統合は、シヴァ神が対立する二元性を超越した存在であることを示します。
「गणेशैः (gaṇeśaiḥ)」、すなわちガナ(गण, gaṇa)と呼ばれる従者たちに囲まれている様子は、シヴァ神が「ガナパティ(गणपति, gaṇapati)」すなわちガナたちの主であることを示し、彼らを通じて宇宙を統治し、信奉者を守護する様を表します。
そして、この詩節の最も重要な図像の一つが「वामाङ्गसंस्थागिरिजासमेतं (vāmāṅgasaṃsthāgirijāsametaṃ)」です。これは、シヴァ神の左半身に妃であるパールヴァティー女神(山の娘「गिरिजा, girijā」)が一体となって存在する姿、すなわちアルダナーリーシュヴァラ(अर्धनारीश्वर, ardhanārīśvara)、「半女半男の主」を指します。この姿は、宇宙の根源的な二元性である男性原理(プルシャ (पुरुष, puruṣa)、意識、静)と女性原理(プラクリティ (प्रकृति, prakṛti) またはシャクティ (शक्ति, śakti)、力、動)が不可分に結合し、完全に調和している状態を象徴します。この合一体こそが創造の源であり、あらゆる対立を超越した究極の実在です。死は分離と終焉を意味しますが、この統合された姿は、死を超越した永遠の生命と完全なる調和を体現しています。
これらの壮麗な特徴すべてが「महामृत्युविनाशरूपम् (mahāmṛtyuvināśarūpam)」、大いなる死をも破壊する御姿として集約されます。この具体的な神の姿を心に深く刻み瞑想することは、信奉者の意識を日常の制約から解き放ち、神聖なるものの臨在を体験させ、死の恐怖を克服するための強力な精神的支えとなります。この詩節は、シヴァ神の超越的な力と、それと同時に示される慈悲深い救済者としての側面を、鮮やかに描き出しています。
第3節
देवं मृत्युविनाशनं भयहरं साम्राज्यमुक्तिप्रदं
नानाभूतगणान्वितं दिवि पदैर्देवैः सदा सेवितम् ।
अज्ञानान्धकनाशनं शुभकरं विद्यासुसौख्यप्रदं
सर्वं सर्वपतिं महेश्वरहरं मृत्युञ्जयं भावये ॥ ३॥
devaṃ mṛtyuvināśanaṃ bhayaharaṃ sāmrājyamuktipradaṃ
nānābhūtagaṇānvitaṃ divi padairdevaiḥ sadā sevitam |
ajñānāndhakanāśanaṃ śubhakaraṃ vidyāsusaukhyapradaṃ
sarvaṃ sarvapatiṃ maheśvaraharaṃ mṛtyuñjayaṃ bhāvaye || 3 ||
死を滅ぼし、恐怖を祓い、現世の王権と究極の解脱とを授けたもう神を、
多様なる万物の群れに囲まれ、天界にて神々に常にその御足許にて礼拝される御方を、
無明の闇を打ち破り、吉祥をもたらし、智慧と至上の幸福とを授けたもう御方を、
万有にして万有の主、大いなる自在主ハラ、死を征服する御方を、我は深く瞑想する。
逐語訳:
- देवं (devaṃ) - 神を(対格、男性単数)
- मृत्युविनाशनं (mṛtyuvināśanaṃ) - 死を破壊する方を(対格)。मृत्यु (mṛtyu、死) + विनाशन (vināśana、破壊する者)
- भयहरं (bhayaharaṃ) - 恐怖を取り除く方を(対格)。भय (bhaya、恐怖) + हर (hara、取り除く者)
- साम्राज्यमुक्तिप्रदं (sāmrājyamuktipradaṃ) - 王権と解脱とを与える方を(対格)。साम्राज्य (sāmrājya、王権、統治権) + मुक्ति (mukti、解脱) + प्रद (prada、与える者)
- नानाभूतगणान्वितं (nānābhūtagaṇānvitaṃ) - 様々な存在(万物)の群と共にある方を(対格)。नाना (nānā、様々な) + भूत (bhūta、存在、生き物) + गण (gaṇa、群、集団) + अन्वित (anvita、伴う)
- दिवि (divi) - 天界において(処格)
- पदैः (padaiḥ) - (その)御足において、御足許にて(具格複数、場所を示す)
- देवैः (devaiḥ) - 神々によって(具格複数)
- सदा (sadā) - 常に(副詞)
- सेवितम् (sevitam) - 礼拝される、仕えられる(過去受動分詞、対格男性単数)
- अज्ञानान्धकनाशनं (ajñānāndhakanāśanaṃ) - 無知の闇を破壊する方を(対格)。अज्ञान (ajñāna、無知) + अन्धक (andhaka、闇、暗黒) + नाशन (nāśana、破壊する者)
- शुभकरं (śubhakaraṃ) - 吉祥をもたらす方を(対格)。शुभ (śubha、吉祥、幸運) + कर (kara、作る者、もたらす者)
- विद्यासुसौख्यप्रदं (vidyāsusaukhyapradaṃ) - 智慧と至上の幸福とを与える方を(対格)。विद्या (vidyā、智慧、知識) + सुसौख्य (susaukhya、大いなる幸福、至福) + प्रद (prada、与える者)
- सर्वं (sarvaṃ) - 万有なる方を、全てである方を(対格)
- सर्वपतिं (sarvapatiṃ) - 万有の主である方を(対格)。सर्व (sarva、すべて) + पति (pati、主)
- महेश्वरहरं (maheśvaraharaṃ) - 大いなる自在主ハラを(対格)。महेश्वर (maheśvara、大いなる自在主) + हर (hara、シヴァ神の別名、破壊し取り去る者)
- मृत्युञ्जयं (mṛtyuñjayaṃ) - 死を征服する方を(対格)
- भावये (bhāvaye) - 私は瞑想する、私は深く心に観ずる(動詞 भू (bhū) の使役形 भावयति (bhāvayati) の一人称単数現在アートマネーパダ)
解説:
この第3節は、シヴァ神、すなわち死を征服する御方(मृत्युञ्जय, mṛtyuñjaya)の深遠なる神格と宇宙的な働きを、瞑想の対象として鮮やかに描き出しています。前節で示された具体的な御姿の描写から、ここでは神の内的な力と、それが信奉者や世界に対していかに現れるかに焦点が移ります。この詩節は、シヴァ神への帰依がもたらす多岐にわたる恩恵を列挙し、それらを深く心に観じる(भावये, bhāvaye)ことを促す、実践的な瞑想の導きとなっています。
まず「देवं मृत्युविनाशनं भयहरं (devaṃ mṛtyuvināśanaṃ bhayaharaṃ)」と、神は死そのものを滅ぼし、あらゆる恐怖を根源から取り除く力として称えられます。これは単に肉体的な死や現世的な不安からの解放を意味するだけでなく、輪廻(संसार, saṃsāra)の苦しみとその根本原因である無明(अविद्या, avidyā)から生じる存在論的な恐怖からの解放をも含意します。
続く「साम्राज्यमुक्तिप्रदं (sāmrājyamuktipradaṃ)」は、特筆すべき表現です。「साम्राज्य (sāmrājya)」は現世における王権、繁栄、成功を、「मुक्ति (mukti)」は精神的な束縛からの最終的な解放、すなわち解脱を指します。シヴァ神は、この世の幸福と究極の霊的目標という、一見対立するように見える二つの願いを同時に満たすことができる、包括的な恩恵の与え手として描かれます。これは、ヒンドゥー教が人生の四つの目的(プルシャールタ、पुरुषार्थ, puruṣārtha)—法(धर्म, dharma)、実利(अर्थ, artha)、愛(काम, kāma)、解脱(मोक्ष, mokṣa)—を調和的に追求することを肯定する思想的背景を反映しています。
次に、神の宇宙的な様相が示されます。「नानाभूतगणान्वितं (nānābhūtagaṇānvitaṃ)」とは、神が天界の神々から地上の微細な生物に至るまで、ありとあらゆる存在の群れ(गण, gaṇa)に囲まれ、それらと共にある姿です。これは、シヴァ神が特定の選ばれた者だけでなく、全宇宙の生命に対して慈悲を注ぐ普遍的な主であることを示唆します。そして「दिवि पदैर्देवैः सदा सेवितम् (divi padairdevaiḥ sadā sevitam)」と、天界の神々でさえ常にその御足許にて礼拝するという描写は、シヴァ神の至高性と、彼が他のすべての神格を超越した存在であることを強調します。
後半では、神の智慧と恩寵の側面が讃えられます。「अज्ञानान्धकनाशनं (ajñānāndhakanāśanaṃ)」は、真実を覆い隠す無明の暗黒を打ち破る、智慧の光としての神の働きです。この無明の破壊こそが、真の解脱への道を開きます。そして、その破壊の後には必ず創造的な力が働き、「शुभकरं विद्यासुसौख्यप्रदं (śubhakaraṃ vidyāsusaukhyapradaṃ)」と、吉祥と幸運をもたらし、真の智慧(विद्या, vidyā)とそれによって得られる至上の幸福(सुसौख्य, susaukhya)を授けるとされます。
最後に、神の絶対的な本質が「सर्वं सर्वपतिं महेश्वरहरं (sarvaṃ sarvapatiṃ maheśvaraharaṃ)」という言葉で凝縮されます。「सर्वं (sarvaṃ)」は彼が万有そのものであり、「सर्वपतिं (sarvapatiṃ)」は彼が万有の主であることを示し、内在と超越の統一を表現します。「महेश्वर (maheśvara)」は大いなる自在主としての創造と維持の力を、「हर (hara)」は破壊と再生を通じて宇宙の浄化と変容を促す力を象徴し、これらの力が彼において一つであることを示します。
これらすべての属性を持つ「मृत्युञ्जयं (mṛtyuñjayaṃ)」、死を征服する御方を、「भावये (bhāvaye)」—私は深く瞑想し、心に観ずる、と詩は結ばれます。この「भावये (bhāvaye)」は、単なる知的な理解を超え、全身全霊で神の本質を感受し、それと一体化しようとする深い瞑想的実践を意味します。この詩節を詠唱し、その意味を心に刻むことは、信奉者の意識を日常の制約から解放し、神の無限の力と慈悲に触れさせ、究極的には死の恐怖を超越した永遠の境地へと導く力強い精神的道程となるでしょう。
第4節
वन्दे ईशानदेवाय नमस्तस्मै पिनाकिने ।
आदिमध्यान्तरूपाय मृत्युनाशं करोतु मे ॥ ४॥
vande īśānadevāya namastasmai pinākine |
ādimadhyāntarūpāya mṛtyunāśaṃ karotu me || 4 ||
至高の主イーシャーナなる神に、我は伏して礼拝し、ピナーカの聖弓を携えし御身に、敬礼し奉る。
万物の始原、中途、終末、その全てを具現する御方よ、我が死の恐怖を滅ぼしたまえ。
逐語訳:
- वन्दे (vande) - 私は礼拝する、伏して拝む(動詞 वन्द् (vand、礼拝する) の一人称単数現在アートマネーパダ)
- ईशानदेवाय (īśānadevāya) - イーシャーナなる神に(与格)。ईशान (īśāna、支配者、主宰者、シヴァ神の顕現の一つ) + देव (deva、神)
- नमस्तस्मै (namastasmai) - その御方に敬礼あれ(नमः (namaḥ、敬礼) + तस्मै (tasmai、彼に、与格)。連声により नमस् (namas) となる)
- पिनाकिने (pinākine) - ピナーカ(弓)を持つ御方に(与格)。पिनाक (pināka、シヴァ神の聖弓の名) + 所有を表す接尾語 इन् (in) の男性単数与格
- आदिमध्यान्तरूपाय (ādimadhyāntarūpāya) - 始まり・中間・終わりの形(本質)を持つ御方に(与格)。आदि (ādi、始まり、始原) + मध्य (madhya、中間、中途) + अन्त (anta、終わり、終末) + रूप (rūpa、形、姿、本質)
- मृत्युनाशं (mṛtyunāśaṃ) - 死の破壊を(対格)。मृत्यु (mṛtyu、死) + नाश (nāśa、破壊、滅亡)
- करोतु (karotu) - なさいますように(動詞 कृ (kṛ、する、作る) の三人称単数命令法、願望を表す)
- मे (me) - 私の、私にとって(属格または与格、一人称単数代名詞マド (mad) の弱形)
解説:
この第4節は、シヴァ神の宇宙的な威光を称賛した前節から一転し、より直接的で個人的な帰依と祈願へと焦点を移します。詩人は、シヴァ神の特定の神格と属性に呼びかけ、深い敬意を表しつつ、切実な願いを捧げます。
まず「वन्दे ईशानदेवाय (vande īśānadevāya)」と、シヴァ神は「イーシャーナ (ईशान, īśāna)」として呼び求められます。「イーシャーナ」とは「支配者」「主宰者」を意味し、シヴァ神の多様な顕現の中でも特に重要な位置を占めます。シヴァ神の五つの顔(पञ्चमुख, pañcamukha)の一つとして、イーシャーナは上方、あるいは伝統的に北東を向き、宇宙の隠蔽(तिरोधान, tirodhāna)と恩寵(अनुग्रह, anugraha)の力を司るとされます。また、空間的には虚空(आकाश, ākāśa)、元素としてはエーテル、そして個人の内においては魂(आत्मन्, ātman)を象徴します。特にヴァーストゥ・シャーストラ(वास्तुशास्त्र, vāstuśāstra、インドの建築学・環境学)において北東(ईशान्य, īśānya)は神聖な方角とされ、この方角を司るイーシャーナへの祈りは、霊的な浄化と神聖なエネルギーの招来を意味します。
次に「नमस्तस्मै पिनाकिने (namastasmai pinākine)」と、詩人はシヴァ神が聖なる弓「ピナーカ (पिनाक, pināka)」を携える御方(पिनाकिन्, pinākin)であることに敬礼を捧げます。ピナーカはシヴァ神の象徴的な武器であり、神話においては、悪しき三つの城塞都市(त्रिपुर, tripura)をただ一矢で破壊した際に用いられました。この弓は、単なる武力ではなく、悪を滅ぼし宇宙の秩序(धर्म, dharma)を回復する神の揺るぎない意志、そして無明や煩悩を正確に射抜く智慧の力を象徴します。弓を引く緊張と解放は、宇宙の創造と破壊、あるいは個人の精神的変容のダイナミズムをも示唆します。
詩節の核心は「आदिमध्यान्तरूपाय (ādimadhyāntarūpāya)」という表現に凝縮されています。これは、シヴァ神が万物の「始まり(आदि, ādi)」「中間(मध्य, madhya)」「終わり(अन्त, anta)」という、時間と存在の全サイクルをその御姿、すなわち本質(रूप, rūpa)として具現していることを示します。これは、宇宙の創造主(ブラフマーに相当する側面)、維持者(ヴィシュヌに相当する側面)、そして破壊者(ルドラに相当する側面)としてのシヴァ神の究極的な統一性を表しています。彼が時間の流れそのものであり、同時に時間を超越した永遠の存在であることを意味します。この理解は、『バガヴァッド・ギーター』(10章20節)でクリシュナ神が「我は万物の始原であり、中間であり、また終末でもある」と述べる真理と響き合います。
このような宇宙の全時間を包括する存在であるシヴァ神に対し、詩人は「मृत्युनाशं करोतु मे (mṛtyunāśaṃ karotu me)」、すなわち「私の死を滅ぼしたまえ」と切に祈ります。ここでいう「死(मृत्यु, mṛtyu)」は、単に肉体的な生命の終焉を指すだけではありません。それは無明(अविद्या, avidyā)から生じる輪廻(संसार, saṃsāra)の苦しみ、分離の感覚、変化への恐怖、そして存在の根源的な不安をも含みます。時間と変化の支配者であるシヴァ神に帰依し、その本質を観想することによってのみ、これらの「死」の諸相は克服され、永遠の生命と平安の境地が顕現すると信じられます。
この第4節は、シヴァ神の超越的な力と宇宙的な役割への深い理解に基づきつつ、一個人の救済への強い願いを率直に表現しています。イーシャーナとしての神聖な導き、ピナーカ弓の持つ破邪の力、そして時間の三相を統べる絶対者としてのシヴァ神に、詩人は全幅の信頼を寄せ、死の克服という究極の恩恵を求めているのです。この詩節の詠唱は、信奉者の心に神への親愛と畏敬の念を育み、死の恐怖からの解放へと導く力強い精神的支えとなるでしょう。
第5節
नमस्तस्मै भगवते कैलासाचलवासिने ।
नमो ब्रह्मेन्द्ररूपाय मृत्युञ्जय प्रसीद मे ॥ ५॥
namastasmai bhagavate kailāsācalavāsine |
namo brahmendrarūpāya mṛtyuñjaya prasīda me || 5 ||
至尊にして聖なるカイラーサの峻嶺に住まいたもう、かの御身に敬礼し奉る。
創造主ブラフマーと天帝インドラの威光をもその内に秘めたる、死を征服せし御方よ、我に御慈悲を垂れたまえ。
逐語訳:
- नमस्तस्मै (namastasmai) - かの御方に敬礼し奉る(नमः (namaḥ、敬礼) + तस्मै (tasmai、彼に、その御方に、与格単数))
- भगवते (bhagavate) - 至尊なる御方に(与格単数)。भगवत् (bhagavat) は、富・力・名声・美・智慧・離欲という六つの徳を完全に備えた聖なる存在を指す。
- कैलासाचलवासिने (kailāsācalavāsine) - カイラーサ山に住まいたもう御方に(与格単数)。कैलास (kailāsa、カイラーサ山) + अचल (acala、動かぬもの、山) + वासिने (vāsine、住む者に、vāsin の与格単数)
- नमो (namo) - 敬礼し奉る(नमः (namaḥ、敬礼) が後続の有声子音の前で連声変化したもの)
- ब्रह्मेन्द्ररूपाय (brahmendrarūpāya) - ブラフマー神とインドラ神の本質(姿・形)を持つ御方に(与格単数)。ब्रह्म (brahma、ここでは創造神ブラフマー) + इन्द्र (indra、神々の王インドラ) + रूपाय (rūpāya、姿・形を持つ者に、rūpa の与格単数)
- मृत्युञ्जय (mṛtyuñjaya) - おお、死を征服せし御方よ(呼格単数)。
- प्रसीद (prasīda) - どうかお喜びください、そして恩寵を垂れたまえ(動詞 प्र-सद् (pra-sad、喜ぶ、満足する、清明になる、恩寵を与える) の命令法二人称単数)
- मे (me) - 私に(与格単数、あるいは属格単数)
解説:
この第5節は、シヴァ神の宇宙的な威光への讃嘆から、より親密な帰依と個人的な恩寵への希求へと、祈りの焦点を鮮やかに移行させます。前節までで描かれた神の超越的な属性に加え、ここではその具体的な住処と、他の主要な神格との関係性が示され、最終的に個人の魂の救済が切に願われます。
詩の冒頭「नमस्तस्मै भगवते कैलासाचलवासिने (namastasmai bhagavate kailāsācalavāsine)」は、深甚なる敬意を込めた呼びかけです。「भगवते (bhagavate)」とは、単に「神聖なる」という意味を超え、全知全能、無限の力、栄光、美、智慧、そして完全なる無執着という六つの神聖な属性(षड्गुण, ṣaḍguṇa)を余すところなく備えた至高の存在を指します。この至尊なる御方が住まうのは「कैलासाचल (kailāsācala)」、すなわちカイラーサ山です。ヒマラヤの霊峰カイラーサは、物理的な山であると同時に、宇宙の中心軸(मेरु, meru)、神々の集う天界への階、そしてシヴァ神の永遠の住処として崇められています。そこに住まうシヴァ神は、世俗を超越した孤高の存在でありながら、真摯な信仰者にとっては心の拠り所となる、近しさをも併せ持つ御方として描かれます。
続く「नमो ब्रह्मेन्द्ररूपाय (namo brahmendrarūpāya)」は、シヴァ神の包括的な神格を明らかにする重要な句です。ここでシヴァ神は、宇宙の創造を司るブラフマー神(ब्रह्मा, brahmā)と、天界の王であり神々の守護者、雷霆を操り秩序を維持するインドラ神(इन्द्र, indra)の本質をもその内に具えた御方として讃えられます。これは、シヴァ神が単に破壊と再生の神であるに留まらず、創造や維持といった宇宙の根本的な働きをも統べる、究極的な実在であることを示唆します。他の神々の力能は、シヴァ神という至高の源泉から流れ出し、またそこへと帰一するのです。この表現は、特定の神格への信仰が、究極的には唯一なる絶対者への道であることを示す、インドの深遠な一神教的多元論の精神を反映しています。
そして、この詩節は「मृत्युञ्जय प्रसीद मे (mṛtyuñjaya prasīda me)」という、魂の奥底からの切実な祈願で結ばれます。「मृत्युञ्जय (mṛtyuñjaya)」、すなわち「おお、死を征服せし御方よ」という呼びかけは、この讃歌全体の主題を改めて強調し、この祈りが向けられる神の核心的な力を示します。「प्रसीद (prasīda)」という言葉は、単に「恩恵を与えたまえ」という意味に留まりません。それは「どうかお喜びください」「御心澄みやかにしてください」そしてその結果として「慈悲を垂れてください」という、神の好意的な感情と、それに基づく恩寵の現れを切望するニュアンスを含みます。そして「मे (me)」、すなわち「私に」という短い言葉が、この壮大な宇宙的ヴィジョンを、個人の魂の救済という一点に収斂させます。
この第5節は、カイラーサという聖地に座し、ブラフマーやインドラといった宇宙の主要な力を内に秘めながらも、一個人の「私」の呼びかけに耳を傾け、恩寵を垂れることを願われるシヴァ神の姿を描き出します。それは、神の超越性と内在性、宇宙的なスケールと個人的な親密さという、一見相反する二つの側面が、信仰の中で見事に調和する様を示しています。この詩節を詠唱し、その意味を深く瞑想することは、シヴァ神への畏敬と親愛の念を育み、死の恐怖を超越する力と、神の慈悲への揺るぎない信頼を心に刻む助けとなるでしょう。
第6節
नमो विष्ण्वर्करूपाय नमो ज्ञानस्वरूपिणे ।
मृत्युं नाशयतामाशु मृत्युञ्जय प्रसीद मे ॥ ६॥
namo viṣṇvarkarūpāya namo jñānasvarūpiṇe |
mṛtyuṃ nāśayatāmāśu mṛtyuñjaya prasīda me || 6 ||
万有を維持するヴィシュヌと光輝なる太陽神の本質をその内に秘めたる御方に、敬礼し奉る。
深遠なる智慧そのものを御姿とする御身に、伏して敬礼し奉る。
我が死を速やかに滅ぼしたまえ、おお、死を征服せし御方よ、我に御慈悲を垂れたまえ。
逐語訳:
- नमो (namo) - 敬礼し奉る(नमः (namaḥ、敬礼) の連声形)
- विष्ण्वर्करूपाय (viṣṇvarkarūpāya) - ヴィシュヌ神(विष्णु, viṣṇu)と太陽神アールカ(अर्क, arka)の姿・本質を持つ御方に(与格)。これは विष्णु (viṣṇu) + अर्क (arka) + रूपाय (rūpāya、姿・本質を持つ者に) の連声(सन्धि, sandhi)による形です。
- नमो (namo) - 敬礼し奉る
- ज्ञानस्वरूपिणे (jñānasvarūpiṇe) - 智慧(ज्ञान, jñāna)を自己の本質(स्वरूप, svarūpa)とする御方に(与格)
- मृत्युं (mṛtyuṃ) - 死を(対格)
- नाशयताम् (nāśayatām) - (神が)破壊されますように、滅ぼしたまえ(動詞 √विश् (√viś) の使役形 नाशयति (nāśayati) の命令法願望形三人称単数。詩的表現として、祈願の対象である二人称の神に対して用いられる)
- आशु (āśu) - 速やかに、迅速に(副詞)
- मृत्युञ्जय (mṛtyuñjaya) - おお、死を征服せし御方よ(呼格)
- प्रसीद (prasīda) - どうかお喜びください、そして恩寵を垂れたまえ(動詞 प्र-सद् (pra-sad) の命令法二人称単数)
- मे (me) - 私に(与格単数、あるいは属格単数)
解説:
この第6節は、シヴァ神の宇宙的包括性をさらに深く掘り下げ、その神格が他の主要な神々の本質をも内包していることを明らかにします。前節において創造神ブラフマーと天帝インドラの威光をその内に秘めていると讃えられたシヴァ神は、ここでは万物の維持者ヴィシュヌ神(विष्णु, viṣṇu)と、生命と光明の源である太陽神アールカ(अर्क, arka)の姿(रूप, rūpa)、すなわち本質をも具えているとされます。この一連の描写は、シヴァ神が単一の神格を超越し、宇宙のあらゆる力と働きを統べる至高の実在であることを示しています。
「विष्ण्वर्करूपाय (viṣṇvarkarūpāya)」という句は、深遠な意味を内包しています。ヴィシュヌ神は、宇宙の秩序(धर्म, dharma)を維持し、生命を育み、慈悲をもって衆生を保護する神です。その存在は、世界の安定と持続性、そしてあらゆる存在への愛と配慮を象徴します。一方、太陽神アールカは、物理的な光と熱の源泉であると同時に、精神的な覚醒をもたらす智慧の光、そしてあらゆる生命活動の根源的なエネルギーの象徴です。太陽は、その日々の昇降を通じて死と再生のサイクルを体現し、闇を打ち破る不滅の光輝として崇められます。シヴァ神がこれら二柱の神の本質を併せ持つということは、彼が宇宙の維持と保護、そして生命力と霊的啓発という、存在にとって不可欠な力をその内に秘めていることを意味します。それは、シヴァ神の破壊の側面が、新たな創造と再生、そしてより高次の秩序への移行のための浄化作用であることを示唆しています。
続いて「नमो ज्ञानस्वरूपिणे (namo jñānasvarūpiṇe)」と、シヴァ神は「智慧そのものを自己の本質とする御方」として讃えられます。ここでいう智慧(ज्ञान, jñāna)とは、単なる情報や世俗的な知識の集積ではありません。それは、存在の根源にある真理、すなわち宇宙の究極的実在と自己の本質(आत्मन्, ātman)が同一であるという深遠な洞察に至る、直接的かつ体験的な霊的認識を指します。シヴァ神は、この変容をもたらす智慧の化身であり、無明(अविद्या, avidyā)と迷妄の暗雲を払い、衆生を解脱(मोक्ष, mokṣa)へと導く光明そのものです。太陽神アールカが象徴する外的な光が、ここでは内的な智慧の輝きとして深められ、シヴァ神の本性が純粋な意識(चित्, cit)であり、至福(आनन्द, ānanda)であることと不可分に結びついていることを示唆します。
これらの深遠なる神格理解を踏まえ、詩は再び個人的で切実な祈願へと転じます。「मृत्युं नाशयतामाशु मृत्युञ्जय प्रसीद मे (mṛtyuṃ nāśayatāmāśu mṛtyuñjaya prasīda me)」。この「आशु (āśu、速やかに)」という言葉には、輪廻の苦しみ、そして肉体的・精神的なあらゆる「死」の恐怖から、一刻も早く解放されたいという魂の渇望が込められています。維持の力、光明の力、そして智慧の力をその内に完全に統合する死の征服者(मृत्युञ्जय, mṛtyuñjaya)シヴァ神に対し、詩人は全幅の信頼を寄せ、その慈悲(प्रसीद, prasīda)による速やかな救済を懇願するのです。
この第6節は、シヴァ神の広大無辺な神格を、宇宙の維持と生命の光明、そして究極の智慧という側面から照らし出し、それらの力がすべて、個人の「死」からの解放という具体的な願いに応えるためにあることを示しています。この詩節の詠唱は、私たちの意識を広げ、神の内に見出される宇宙的な調和と智慧に触れさせるとともに、その恩寵によってすべての束縛から解き放たれるという希望を強く心に刻む助けとなるでしょう。
第7節
त्र्यम्बकाय नमस्तुभ्यं पञ्चास्याय नमो नमः ।
दोर्द्दण्डचापाय नमो मम मृत्युं विनाशय ॥ ७॥
tryambakāya namastubhyaṃ pañcāsyāya namo namaḥ |
dordaṇḍacāpāya namo mama mṛtyuṃ vināśaya || 7 ||
三つの聖眼(せいがん)まします御身(おんみ)に、御身にこそ伏して敬礼(けいらい)し奉る。
五つの聖顔(せいげん)まします御身に、重ねて敬礼し奉る。
力強き御腕(みかいな)、聖杖(せいじょう)、聖弓(せいきゅう)を携(たずさ)え給(たま)う御身に敬礼し奉る。我が死を滅ぼしたまえ。
逐語訳:
- त्र्यम्बकाय (tryambakāya) - 三つの目を持つ御方に(与格単数)。त्रि (tri、三つの) + अम्बक (ambaka、目) の複合語。
- नमस्तुभ्यं (namastubhyaṃ) - 御身に敬礼いたします(नमः (namaḥ、敬礼) + तुभ्यम् (tubhyam、あなたに、与格単数) の連声)。
- पञ्चास्याय (pañcāsyāya) - 五つの顔(面)を持つ御方に(与格単数)。पञ्च (pañca、五つの) + आस्य (āsya、顔、面、口)。
- नमो (namo) - 敬礼し奉る(नमः (namaḥ) の連声形)。
- नमः (namaḥ) - 敬礼し奉る(強調のための反復)。
- दोर्द्दण्डचापाय (dordaṇḍacāpāya) - 腕(दोर्, dor)・杖(दण्ड, daṇḍa)・弓(चाप, cāpa)を持つ御方に(与格単数)。
- नमो (namo) - 敬礼し奉る。
- मम (mama) - 私の(属格単数、代名詞マド (mad) またはアスマド (asmad) の属格形)。
- मृत्युं (mṛtyuṃ) - 死を(対格単数)。
- विनाशय (vināśaya) - 滅ぼしたまえ(動詞 वि-नश् (vi-naś、滅ぼす、破壊する) の使役形ナーシャヤティ (nāśayati) の命令法二人称単数)。
解説:
この第7節は、シヴァ神の崇拝において最も象徴的かつ視覚的に親しまれている特徴に焦点を当て、深遠な霊的意味を込めて讃えます。前節までで展開された宇宙的、あるいは他の神格との関係性におけるシヴァ神の姿から転じ、ここでは神の具体的な顕現への帰依が前面に出ています。
まず、「त्र्यम्बकाय नमस्तुभ्यं (tryambakāya namastubhyaṃ)」と、シヴァ神は「トリャンバカ (त्र्यम्बक, tryambaka)」、すなわち「三つの目を持つ御方」として呼びかけられます。額の中央に垂直に配された第三の目は、過去・現在・未来を見通す、あるいは太陽・月・火を象徴するとも言われ、通常は閉じられています。しかし、この目が開かれる時、それは無明 (अविद्या, avidyā) や迷妄、そして宇宙そのものをも焼き尽くす破壊的な炎を放つと同時に、究極の真理を直観する智慧の光明をも意味します。日常的な二つの目が相対的な現象世界を捉えるのに対し、この第三の霊眼は、絶対的な実在へと向けられています。「नमस्तुभ्यं (namastubhyaṃ)」の「तुभ्यम् (tubhyam、御身に)」という二人称の呼びかけは、祈りの対象である神との直接的で親密な対話を示唆し、深い帰依の念を表します。
次に、「पञ्चास्याय नमो नमः (pañcāsyāya namo namaḥ)」と、シヴァ神の「五つの顔 (पञ्चास्य, pañcāsya)」が讃えられます。これらの五つの顔は、それぞれが異なる方角を向き、宇宙の五大元素 (पञ्चमहाभूत, pañcamahābhūta) とシヴァ神の五つの主要な宇宙的機能に対応しています。
- 東向きのサドヨージャータ (सद्योजात, sadyojāta) は地の元素と創造 (सृष्टि, sṛṣṭi) の力。
- 西向きのヴァーマデーヴァ (वामदेव, vāmadeva) は水の元素と維持 (स्थिति, sthiti) の力。
- 南向きのアゴーラ (अघोर, aghora) は火の元素と破壊・再生 (संहार, saṃhāra) の力。
- 北向きのタットプルシャ (तत्पुरुष, tatpuruṣa) は風の元素と隠蔽 (तिरोधान, tirodhāna) の力。
- 上向きのイーシャーナ (ईशान, īśāna) は空(エーテル)の元素と恩寵 (अनुग्रह, anugraha) の力。
これら五つの顔は、シヴァ神が空間、時間、元素、そして宇宙の全活動を統べる至高の主であることを象徴しています。「नमो नमः (namo namaḥ)」という敬礼の言葉の反復は、この広大無辺なる神の威光に対する、言葉では表現し尽くせぬ深い畏敬と讃嘆の念を強調しています。
続いて「दोर्द्दण्डचापाय नमो (dordaṇḍacāpāya namo)」では、シヴァ神の力強い姿が描写されます。「दोर् (dor)」は力に満ちた御腕、「दण्ड (daṇḍa)」は秩序を維持し悪を罰する聖なる杖、あるいはヨーギの行を象徴するカトヴァーンガ (खट्वाङ्ग, khaṭvāṅga)のような杖、「चाप (cāpa)」は邪悪を滅ぼし、迷いを射抜く聖なる弓(多くはピナーカ (पिनाक, pināka) と呼ばれる)を指します。これらの持物は、単なる武力ではなく、宇宙の法 (धर्म, dharma) を守護する神の力、そして信奉者の内なる障害を取り除く霊的な武器を象徴しています。
これらの神聖なる属性と力を一身に顕現するシヴァ神に対し、詩人は「मम मृत्युं विनाशय (mama mṛtyuṃ vināśaya)」、すなわち「我が死を滅ぼしたまえ」と、心の底から切実に祈願します。「मम (mama、私の)」という言葉は、この祈りが極めて個人的な、魂の叫びであることを示し、シヴァ神の宇宙的な偉大さが、最終的には個々の魂の救済へと結びつくことを明らかにします。
この第7節は、シヴァ神の具体的な図像に込められた深遠な象徴性を解き明かし、それらを通じて神の超越的な力と慈悲に触れ、死の恐怖からの解放を求める祈りの核心へと迫ります。この詩節の詠唱は、シヴァ神の姿を心にありありと描き、その多面的な力への信頼を深め、内なる平安へと導く助けとなるでしょう。
第8節
नमोऽर्धेन्दुस्वरूपाय नमो दिग्वसनाय च ।
नमो भक्तार्तिहन्त्रे च मम मृत्युं विनाशय ॥ ८॥
namo'rdhendusvarūpāya namo digvasanāya ca |
namo bhaktārtihantre ca mama mṛtyuṃ vināśaya || 8 ||
半月をその御本性として顕し給う御身に、敬礼し奉る。
大空そのものを聖なる衣として纏い給う御身に、また敬礼し奉る。
篤き信奉者の苦悩をことごとく滅ぼし給う御身に、重ねて敬礼し奉る。
我が死を滅ぼし給え。
逐語訳:
- नमो (namo) - 敬礼し奉る(नमः (namaḥ、敬礼) が後続の 'अ' (a) と連声し、'अ' が省略された形。namo 'rdhendu は namaḥ ardhendu から)
- अर्धेन्दुस्वरूपाय (ardhendusvarūpāya) - 半月(अर्ध (ardha、半分の) + इन्दु (indu、月))を自己の本質的な姿(स्वरूप, svarūpa)とする御方に(与格単数)
- नमो (namo) - 敬礼し奉る
- दिग्वसनाय (digvasanāya) - 方角・虚空(दिग्, dig)を衣服(वसन, vasana)とする御方に(与格単数)
- च (ca) - そして、また
- नमो (namo) - 敬礼し奉る
- भक्तार्तिहन्त्रे (bhaktārtihantre) - 信奉者(भक्त, bhakta)の苦悩・苦痛(आर्ति, ārti)を滅ぼす御方(हन्तृ, hantṛ の与格単数形 hantre)に
- च (ca) - そして、また
- मम (mama) - 私の(属格単数)
- मृत्युं (mṛtyuṃ) - 死を(対格単数)
- विनाशय (vināśaya) - 滅ぼしたまえ(動詞 वि-नश् (vi-naś、滅ぼす) の使役形ナーシャヤティ (nāśayati) の命令法二人称単数)
解説:
この第8節は、シヴァ神の神聖なる姿と本質を、さらに深遠かつ詩的な象徴を通じて讃えます。前節において三つの目や五つの顔といった具体的な神の顕現が描かれたのに対し、ここではシヴァ神の超越性、無限性、そして信奉者への慈悲が、より精妙なイメージによって描き出されます。
まず、「नमोऽर्धेन्दुस्वरूपाय (namo'rdhendusvarūpāya)」において、シヴァ神は「半月(अर्धेन्दु, ardhendu)を自己の本質的な姿(स्वरूप, svarūpa)とする御方」として敬礼されます。シヴァ神の髪に飾られる三日月は、単なる装飾ではありません。それは、時間(काल, kāla)の支配者としての神の力を象徴し、絶え間ない生成と消滅の宇宙的サイクルを示唆します。月はまた、ソーマ(सोम, soma)という神聖な霊薬とも関連し、不死と再生の象徴でもあります。シヴァ神がこの半月を戴くことは、彼が死を超越した存在であり、時間と変化の主であることを示し、またその冷涼な光は、信奉者の心の激情を鎮め、内なる平安と霊的滋養をもたらす神の恩寵を暗示しています。この「स्वरूप (svarūpa)」という語は、単なる外見ではなく、神の真の本性、その本質が顕現した姿を指しています。
次に、「नमो दिग्वसनाय च (namo digvasanāya ca)」と、シヴァ神は「虚空(दिग्, dig)を衣(वसन, vasana)とする御方」として讃えられます。この「दिग्वसन (digvasana)」という表現は、シヴァ神がしばしば裸体、あるいは虎の皮や象の皮といった最小限のものを纏う姿で描かれることと響き合います。しかし、その本質は、物質的な所有や世俗的な装飾から完全に自由であること、すなわち究極の離欲(वैराग्य, vairāgya)と無執着を象徴しています。虚空そのものが彼の衣であるということは、シヴァ神があらゆる限定を超越し、無限の空間に遍満し、宇宙全体を包み込みながらも、何ものにも束縛されない絶対的な自由の境地にあることを示しています。それは、形あるもの全てを超越した、純粋な意識としての神の姿です。
そして、「नमो भक्तार्तिहन्त्रे च (namo bhaktārtihantre ca)」では、シヴァ神の最も慈悲深い側面が強調されます。「भक्तार्तिहन्तृ (bhaktārtihantṛ)」とは、「信奉者(भक्त, bhakta)の苦悩(आर्ति, ārti)を滅ぼす御方」を意味します。この句は、シヴァ神の宇宙的な壮大さと超越性が、個々の信奉者の個人的な苦しみに対する深い共感と救済の力と結びついていることを示しています。「आर्ति (ārti)」は、肉体的な病苦、精神的な苦悩、存在論的な不安、そして輪廻の苦しみといった、人間が経験するあらゆる形態の苦痛を包括します。シヴァ神は、これらの苦悩を根源から断ち切り、信奉者を解放へと導く、力強くも優しい救済者です。この救済は、単に困難を取り除くことにとどまらず、苦しみの原因である無明(अविद्या, avidyā)を滅し、真の自己への覚醒をもたらす神の恩寵(अनुग्रह, anugraha)の働きでもあります。
これらの深遠な讃嘆に続き、詩は再びこの讃歌の中心的な祈願である「मम मृत्युं विनाशय (mama mṛtyuṃ vināśaya)」、すなわち「我が死を滅ぼしたまえ」という切なる願いで結ばれます。この「死」とは、単に肉体的な生命の終わりを指すだけでなく、無知や迷妄、輪廻の束縛といった、霊的な死をも意味します。半月の静謐な光、虚空の無限の自由、そして信奉者の苦悩を滅ぼす慈悲の力を一身に体現するシヴァ神に対し、詩人はあらゆる形の「死」からの完全な解放、すなわち永遠の生命(अमृतत्व, amṛtatva)と解脱(मोक्ष, mokṣa)を求めるのです。
この第8節は、シヴァ神の崇高な象徴を通じて、神の超越性と内在性、無限の自由と具体的な慈悲が、信奉者の救済という一点において結実することを示しています。この詩節を詠唱し、その意味を深く瞑想することは、私たちの心を世俗的な束縛から解き放ち、シヴァ神の広大無辺な慈悲への信頼を深め、あらゆる恐怖と苦悩を超越する道へと導くでしょう。
第9節
मृत्युञ्जयाष्टकं दिव्यं त्रिकाले यः पठेन्नरः ।
अपमृत्युर्व्रजेत्तस्य सत्यं सत्यं शिवाज्ञया ॥ ९॥
mṛtyuñjayāṣṭakaṃ divyaṃ trikāle yaḥ paṭhennaraḥ |
apamṛtyurvrajettasya satyaṃ satyaṃ śivājñayā || 9 ||
この神聖なる死を征服せし御方の八頌(はっしょう)を、定めの三時に詠唱する者あらば、
非業の死はその者より遠離(おんり)せん。これぞ真実、これぞ真実、シヴァ神の厳命による。
逐語訳:
- मृत्युञ्जयाष्टकं (mṛtyuñjayāṣṭakaṃ) - 死を征服せし御方の八頌(讃歌)を(対格単数)
- दिव्यं (divyaṃ) - 神聖なる、聖なる(形容詞、対格単数で मृत्युञ्जयाष्टकम् (mṛtyuñjayāṣṭakam) を修飾)
- त्रिकाले (trikāle) - 三つの時に(処格単数)。त्रि (tri、三つの) + काल (kāla、時間)
- यः (yaḥ) - (関係代名詞主格単数)〜する者は
- पठेत् (paṭhet) - (彼/彼女が)詠唱するならば(動詞 पठ् (paṭh、読む、詠唱する) の願望法三人称単数)
- नरः (naraḥ) - 人は(主格単数)
- अपमृत्युः (apamṛtyuḥ) - 非業の死、不慮の死が(主格単数)。अप (apa、悪い、不適切な) + मृत्यु (mṛtyu、死)
- व्रजेत् (vrajet) - (それが)去り行くであろう(動詞 व्रज् (vraj、去る、離れる) の願望法三人称単数)
- तस्य (tasya) - その者から(彼の/彼女の、属格単数。ここでは奪格的な意味合いも含む)
- सत्यं (satyaṃ) - 真実である、確実である(中性名詞主格単数、あるいは副詞的に「真に」)
- सत्यं (satyaṃ) - 真実である(強調のための反復)
- शिवाज्ञया (śivājñayā) - シヴァ神の厳命によって(शिव (śiva、シヴァ神) + आज्ञा (ājñā、命令、意志) の具格単数)
解説:
この第9節は、それまでのシヴァ神への深遠なる讃嘆から一転し、この「マハームリティユンジャヤ・アシュタカム(महामृत्युञ्जयाष्टकम्, mahāmṛtyuñjayāṣṭakam)」、すなわち「偉大なる死の征服者の八節讃歌」を詠唱することによって得られる具体的な功徳、すなわち「功徳文(फलश्रुति, phalaśruti)」を明示する部分です。これは聖典や讃歌においてしばしば見られる構成であり、実修者に対してその実践がもたらす恩恵を約束し、信仰と継続への励ましを与える役割を果たします。
まず、「मृत्युञ्जयाष्टकं दिव्यं (mṛtyuñjayāṣṭakaṃ divyaṃ)」と、この讃歌自体が「दिव्य (divya、神聖なる)」ものであると宣言されます。この「神聖なる」という言葉は、単に崇高であるというだけでなく、この讃歌が人間の創作を超えた、神的な起源を持つ力強いマントラであることを示唆しています。ヴェーダの伝統では、最も強力なマントラは、霊的に覚醒した聖賢(ऋषि, ṛṣi)たちが深い瞑想の中で「見出した(दृष्ट, dṛṣṭa)」、あるいは「聞いた(श्रुत, śruta)」ものであり、それ自体が宇宙の根本的な音振動(शब्दब्रह्मन्, śabdabrahman)の顕現であるとされます。この讃歌もまた、そのような霊的効力を持つものとして位置づけられています。
次に、「त्रिकाले यः पठेन्नरः (trikāle yaḥ paṭhennaraḥ)」と、この讃歌を「三つの時に(त्रिकाले, trikāle)」詠唱する(पठेत्, paṭhet)「人(नरः, naraḥ)」について言及されます。「三つの時」とは、一般に早朝(प्रातः, prātaḥ)、正午(मध्याह्न, madhyāhna)、そして日没時(सायं, sāyaṃ)の「サンディヤー(सन्ध्या, sandhyā)」と呼ばれる霊的修行に最も適した時間帯を指します。これらの時は、宇宙のエネルギーが移行する瞬間であり、精神集中と霊的感受性が高まるとされます。また、「त्रिकाल (trikāla)」は過去・現在・未来の三相を指すこともあり、その場合は、この讃歌の力が時間的制約を超えて及ぶことを意味します。「पठेत् (paṭhet)」という動詞は、単に文字を読むのではなく、正しい発音、リズム、そして何よりも深い信仰と帰依の心をもって詠唱することを内包しています。そして「नरः (naraḥ、人)」という言葉は、この恩恵が特定のカーストや性別に限定されず、真摯に実践するすべての人に開かれていることを示唆します。
その効果として、「अपमृत्युर्व्रजेत्तस्य (apamṛtyurvrajettasya)」すなわち、「その者から非業の死が去り行くであろう」と述べられます。「अपमृत्यु (apamṛtyu)」とは、寿命を全うする前に不慮の事故、突然の病、あるいはその他の不幸な出来事によって訪れる死を指します。ヒンドゥー教の生命観では、各々の生命には定められた期間(आयुस्, āyus)がありますが、様々な内外の要因によってそれが短縮される危険性も認識されています。この讃歌は、そのような予期せぬ死の脅威から信奉者を守護する強力な盾となるのです。「व्रजेत् (vrajet、去り行くであろう)」という願望法は、確実な効果への期待と祈願を含んでいます。
そして、この約束の絶対的な確実性は、「सत्यं सत्यं (satyaṃ satyaṃ)」という「真実」という言葉の二重の繰り返しによって、力強く宣言されます。これは単なる強調ではなく、神の言葉、聖なる教えの揺るぎない真実性を証し立てるものです。最後に、「शिवाज्ञया (śivājñayā)」すなわち「シヴァ神の厳命によって」と結ばれることで、この讃歌の功徳が人間の力によるものではなく、宇宙の主宰者であるシヴァ神の直接的な意志(आज्ञा, ājñā)と力によるものであることが明らかにされます。「आज्ञा (ājñā)」は単なる許可や願いではなく、宇宙の法則そのものを動かす神の絶対的な命令であり、その効力は疑うべくもありません。
この第9節は、前の八つの詩節で深められたシヴァ神への帰依と理解が、単なる精神的な慰めにとどまらず、生命そのものを守護し、不幸を遠ざける具体的な力として顕現することを約束します。それは、この讃歌が真に神聖な力を秘めたものであり、信仰をもって実践する者には必ずやその恩恵がもたらされるという、揺るぎない確信を詠み人に与えるのです。
第10節
अर्धरात्रे जपेन्नित्यं चतुरशीतिसङ्ख्यया ।
काले मृत्युर्विनश्येत अकालाल्पस्य का कथा ॥ १०॥
ardhārātre japennityaṃ caturaśītisaṅkhyayā |
kāle mṛtyurvinaśyeta akālālpasya kā kathā || 10 ||
深き夜半(やはん)に、日々欠かすことなく、八十四の数をもって一心に詠唱するならば、
定められし時の死すらも消滅するであろう。ましてや、時ならぬ些細なる死については、何をか語るに及ぼうか。
逐語訳:
- अर्धरात्रे (ardhārātre) - 真夜中に(処格単数)。अर्ध (ardha、半分) + रात्रि (rātri、夜)。
- जपेत् (japet) - (彼/彼女が)詠唱(ジャパ)するならば(動詞 जप् (jap、小声で祈る、唱える) の願望法三人称単数)。
- नित्यम् (nityam) - 常に、毎日、絶えず(副詞)。
- चतुरशीतिसङ्ख्यया (caturaśītisaṅkhyayā) - 八十四の数によって(具格単数)。चतुरशीति (caturaśīti、八十四) + सङ्ख्या (saṅkhyā、数、回数)。
- काले (kāle) - (定められた)時に(処格単数)。
- मृत्युः (mṛtyuḥ) - 死が(主格単数)。
- विनश्येत (vinaśyet) - 消滅するであろう、滅びるであろう(動詞 वि-नश् (vi-naś、滅ぼす、破壊する) の願望法三人称単数)。
- अकालाल्पस्य (akālālpasya) - 時ならぬ(अकाल, akāla)そして小さな、些細な(अल्प, alpa)ものの(属格単数)。अ (a、否定辞) + काल (kāla、時) + अल्प (alpa、小さい、些細な)。
- का (kā) - 何の(疑問代名詞、女性単数主格、ここでは कथा (kathā) を修飾)。
- कथा (kathā) - 話、語るべきこと(女性名詞、主格単数)。「何の語るべきことがあろうか」という反語的疑問。
解説:
この第10節は、前節で示された「マハームリティユンジャヤ・アシュタカム」の普遍的な功徳からさらに踏み込み、より集中的かつ深遠な実践とその驚嘆すべき効果を明らかにします。それは、真摯なる探求者が死の恐怖を超越し、究極的な霊的自由へと至る道筋を照らし出すものです。
まず、「अर्धरात्रे (ardhārātre)」、すなわち「真夜中に」という時間の指定が、この実践の特異性を際立たせています。ヒンドゥー教の伝統において、真夜中は外界の喧騒が静まり、宇宙の霊的エネルギーが最も純粋かつ強力に満ちる「ブラフマ・ムフールタ (ब्रह्ममुहूर्त, brahmamuhūrta)」へと続く神聖な刻(とき)です。この静寂の帳(とばり)の中で行われる霊的修行は、心の散乱を最小限に抑え、内なる神性との深遠な合一を促します。シヴァ神は、宇宙の破壊と再生を司る荒ぶるルドラ (रुद्र, rudra) の相と同時に、夜の静寂の中で瞑想する大ヨーギー (महायोगी, mahāyogī) でもあり、この時間に捧げられる祈りは、神の最も慈悲深い恩寵を引き出すと信じられています。
次に、「जपेन्नित्यं (japennityaṃ)」は、この讃歌を「常に、絶えず詠唱する」ことの重要性を強調します。「जप (japa)」とは、聖なる音節やマントラを、深い信仰と集中をもって繰り返し唱える瞑想的実践です。それは単なる機械的な反復ではなく、一音一音に心を込め、その意味を深く観想することによって、意識の変容を促すものです。「नित्यम् (nityam、常に)」という言葉は、この実践が一時的なものではなく、日々の生活に織り込まれた、揺るぎない決意に基づく継続的な努力であることを示唆します。霊的成長は、一夜にして成るものではなく、忍耐強い日々の積み重ねによって育まれるのです。
そして、「चतुरशीतिसङ्ख्यया (caturaśītisaṅkhyayā)」、すなわち「八十四の数によって」という具体的な指示が与えられます。この「八十四」という数は、インドの霊的伝統において多層的な象徴的意味を担っています。例えば、12(黄道十二宮、一年の月数)と7(チャクラの数、週の日数など)の積であり、時間と宇宙のサイクルの完全性を象徴すると解釈されます。また、ある種の伝統では、人間が経巡る可能性のある生命の形態(ヨーニ, योनि)が八十四万種あるとされ、この数の詠唱は、輪廻の束縛からの完全な解放を希求する象徴的行為ともなります。さらに、実践的な観点からは、この数は深い集中と持続を要するものであり、行者の精神力を鍛え、一点集中の瞑想状態(एकाग्रता, ekāgratā)へと導く助けとなるでしょう。
このような厳格かつ献身的な実践の結果として、詩は「काले मृत्युर्विनश्येत (kāle mṛtyurvinaśyeta)」と、驚くべき約束をします。これは、「定められた時の死すらも消滅するであろう」という意味です。「काले मृत्युः (kāle mṛtyuḥ)」とは、個々の生命に宿命づけられた、避けることのできないとされる自然な寿命の終わりを指します。この、通常は変えることのできない運命の死(कालमृत्यु, kālamṛtyu)さえも、「विनश्येत (vinaśyet、消滅するであろう)」というのです。これは単なる肉体的寿命の延長を意味する以上に、死そのものに対する恐怖、死による束縛からの完全な解放、すなわち不死性(अमृतत्व, amṛtatva)と解脱(मोक्ष, mokṣa)の境地への到達を示唆しています。
そして詩は、「अकालाल्पस्य का कथा (akālālpasya kā kathā)」という、力強い修辞的問いかけで締めくくられます。「अकाल (akāla)」は時ならぬ死、すなわち事故や不慮の災難による夭折(ようせつ)を指し、「अल्प (alpa)」はそのような死が、運命づけられた死に比べれば「些細なもの」であることを示唆します。「का कथा (kā kathā)」とは、「何をか語るに及ぼうか」「言うまでもない」という意味の反語表現です。定められた時至る大きな死すら克服できるのであれば、時ならぬ小さな死の脅威など、この神聖な実践の力の前には問題にならない、という絶対的な確信がここに表明されています。
この第10節は、シヴァ神への深遠なる帰依と、定められた方法による献身的な実践が、人間の存在を根底から変容させ、避けられないとされた運命の法則すらも超越する可能性を秘めていることを、力強く宣言しています。それは、ヨーガや瞑想の修行者が目指す、あらゆる束縛からの解放と、真の自己の発見へと通じる道が、この神聖なる讃歌の実践の中にも見出せることを示しているのです。
第11節
आलस्येनाप्रसङ्गेन श्रद्धाहीनेन चेतसा ।
पठेद्यद्यप्यकालेषु ध्रुवं मृत्युं निवारयेत् ॥ ११॥
ālasyenāprasaṅgena śraddhāhīnena cetasā |
paṭhedyadyapyakāleṣu dhruvaṃ mṛtyuṃ nivārayet || 11 ||
たとえ怠惰、無関心、そして信仰を欠いた心であったとしても、
また、不適切な時にこれを詠唱したとしても、必ずや死を遠ざけるであろう。
逐語訳:
- आलस्येन (ālasyena) - 怠惰によって、怠慢によって(具格単数)。
- अप्रसङ्गेन (aprasaṅgena) - 無関心に、無頓着に、熱意なく(具格単数)。अ (a、否定辞) + प्रसङ्ग (prasaṅga、執着、関心、熱意)。
- श्रद्धाहीनेन (śraddhāhīnena) - 信仰を欠いた(具格単数)。श्रद्धा (śraddhā、信仰、信頼) + हीन (hīna、欠けた、不足した)。
- चेतसा (cetasā) - 心をもって(चेतस् (cetas、心、意識) の具格単数)。前の三つの状態にある心であることを示す。
- पठेत् (paṭhet) - (彼/彼女が)詠唱するならば(動詞 पठ् (paṭh、読む、詠唱する) の願望法/仮定法三人称単数)。
- यदि (yadi) - もしも(接続詞)。
- अपि (api) - たとえ〜でも(副詞)。यदि अपि (yadi api) で「たとえ〜であったとしても」という譲歩の意。
- अकालेषु (akāleṣu) - 不適切な時に(処格複数)。अ (a、否定辞) + काल (kāla、時)。霊的修行に適さない時。
- ध्रुवम् (dhruvam) - 確実に、必ず、不動のものとして(副詞)。
- मृत्युम् (mṛtyum) - 死を(対格単数)。
- निवारयेत् (nivārayet) - 防ぐであろう、阻止するであろう、遠ざけるであろう(動詞 नि-वृ (ni-vṛ、妨げる、防ぐ) の使役形 निवार् (nivār) の願望法/仮定法三人称単数)。
解説:
この第11節は、「マハームリティユンジャヤ・アシュタカム」の功徳を締めくくる、極めて重要かつ慰めに満ちた宣言です。先の第9節、第10節では、定められた時刻(त्रिकाल, trikāla や अर्धरात्रि, ardharātri)に、特定回数(चतुरशीति, caturaśīti)を詠唱するという、理想的な実践方法とその絶大な効果が説かれました。しかし、この第11節は、それらの理想的な条件が満たされない場合であっても、この神聖なる讃歌の力が失われることはないという、シヴァ神の広大無辺なる慈悲とマントラの超越的な効力を明らかにします。
詩の冒頭、「आलस्येन (ālasyena、怠惰によって)」「अप्रसङ्गेन (aprasaṅgena、無関心に、熱意なく)」「श्रद्धाहीनेन चेतसा (śraddhāhīnena cetasā、信仰を欠いた心をもって)」という言葉は、霊的実践において通常、その成果を著しく妨げる、あるいは無効にするとさえ考えられる精神状態を列挙しています。「आलस्य (ālasya)」は、努力を怠る心。「अप्रसङ्ग (aprasaṅga)」は、実践対象への深い関与や専心の欠如。そして何よりも「श्रद्धाहीन (śraddhāhīna)」は、神聖なるものへの信頼、帰依の心である「श्रद्धा (śraddhā)」が欠如している状態を指します。この「श्रद्धा (śraddhā)」は、例えば『バガヴァッド・ギーター』においても、霊的成就のための根源的な力として繰り返し強調されるものです。
さらに、「पठेद्यद्यप्यकालेषु (paṭhedyadyapyakāleṣu)」すなわち、「たとえ不適切な時に詠唱したとしても」と続きます。「अकालेषु (akāleṣu)」とは、霊的修行に通常適さないとされる時間帯、例えば心が散乱しやすい日中の喧騒時や、精神的・肉体的に不浄とされる状況を指すと考えられます。このように、詠唱者の内的な心構えも、外的な実践環境も、理想とは程遠い、むしろ不適切な条件下であっても、という極端な状況が設定されています。
このような悪条件が重なったとしても、詩は力強く「ध्रुवं मृत्युं निवारयेत् (dhruvaṃ mṛtyuṃ nivārayet)」と結論づけます。「ध्रुवम् (dhruvam)」とは、「確実な」「不動の」「永遠の」といった意味を持つ言葉で、北極星(ध्रुवतारा, dhruvatārā)の語源でもあります。それは、いかなる状況下でも揺らぐことのない絶対的な確実性を示し、この讃歌が「मृत्युम् (mṛtyum、死)」を「निवारयेत् (nivārayet、防ぐであろう、遠ざけるであろう)」と保証するのです。
この驚くべき宣言の背後には、マントラ、特に神の名や讃歌が持つ本質的な力への深い信仰があります。ヒンドゥー教の伝統では、聖なる音(शब्द, śabda)は、それ自体が神性(शब्दब्रह्मन्, śabdabrahman)の顕現であり、宇宙の根源的な力と結びついていると考えられます。したがって、マハームリティユンジャヤのような強力なマントラは、詠唱者の心の状態や信仰の深浅、あるいは実践の形式的な正しさといった人間側の条件を超越し、その音そのものに内在する神聖な力によって作用すると理解されるのです。これは、神の名を記憶し唱えること(नामस्मरण, nāmasmaraṇa)の功徳が、たとえ無意識であったり不完全な形であったりしても失われない、という教えとも通底します。
この第11節は、シヴァ神の慈悲が、人間の不完全さや弱さに対して限りなく寛容であることを示しています。完璧な信仰や理想的な実践が難しいと感じる多くの人々にとって、この詩節は大きな慰めと希望を与えるものです。それは、神の恩寵は人間の設ける条件や限界を超えて普遍的に働き、真摯に神を求める心があれば、どのような状況からでも救いの手が差し伸べられるという、深遠な真理を伝えています。この讃歌が、あらゆる人々に開かれた、死の恐怖を超克するための確かな道であることを、最終的に保証するのです。
結句
॥ इति महामृत्युञ्जयाष्टकम् ॥
|| iti mahāmṛtyuñjayāṣṭakam ||
かくして、『偉大なる死を征服せし御方の八節讃歌』は、ここに成就す。
逐語訳:
- इति (iti) - このように、以上で(不変化詞、テキストや引用の終結を示す)
- महामृत्युञ्जयाष्टकम् (mahāmṛtyuñjayāṣṭakam) - 偉大なる死の征服者の八節讃歌(主格単数中性、作品名)
- ॥ ॥ - ダブルダンダ(二重垂直線、テキストの完結を示す句読点)
解説:
この終結の辞は、サンスクリットの聖典や文学作品において伝統的に用いられる形式、いわゆるコロフォン(colophon)です。「इति (iti)」という不変化詞は、「このように」「かくして」「以上で」といった意味を持ち、述べられてきた内容がここで区切りを迎え、一つのまとまりとして完結したことを示します。単に「終わり」を告げるだけでなく、そこに至るまでの内容全体の成就と、その作品固有の名称を改めて宣言することにより、テキストに権威と完全性を与える役割を果たします。
ここに記された「महामृत्युञ्जयाष्टकम् (mahāmṛtyuñjayāṣṭakam)」という作品名は、直訳すれば「偉大なる死を征服せし御方の八節よりなる讃歌」となります。この讃歌は、シヴァ神の最も強力で慈悲深い相の一つであるムリティユンジャヤ(मृत्युञ्जय, mṛtyuñjaya)、すなわち「死を克服する者」に捧げられたものです。「अष्टक (aṣṭaka)」とは、通常八つの詩節から成る詩形を指しますが、この作品は実際には序盤の讃歌部分が八節あり、それに続いて功徳を説く詩節が三節加わり、合計十一節で構成されています。この終結の辞は、この十一節全体が一つの霊的メッセージとして完結したことを示しています。
サンスクリット写本の伝統において、このような終結句は、聖なるテキストの神聖さを保ち、誤った追記や改変から守るための結界のような意味合いも持ちました。二重の縦線「॥ ॥」(डबल दण्ड, ḍabala daṇḍa、あるいは単に दण्ड, daṇḍa を二つ重ねたもの)は、文章や章、そして作品全体の明確な終止符として機能します。それは、読者に対して、ここで一つの霊的な旅路が一区切りを迎えたことを厳粛に告げる印です。
この『マハームリティユンジャヤ・アシュタカム』は、第1節から第8節にかけて、シヴァ神の超越的な力、宇宙の創造主・維持者・破壊者としての威光、そして帰依者に対する慈悲深さを、詩情豊かに讃嘆してきました。続く第9節から第11節では、この讃歌を詠唱することによって得られる具体的な恩恵、特に非業の死からの保護、さらには定められた死すらも超克する可能性、そしてたとえ不完全な心や状況であっても得られる神の加護が、力強く約束されました。
この終結の辞は、それら全ての教えと祈りがここに集約され、一つの完成された霊的宝珠として読者に手渡されたことを意味します。この讃歌に触れた者は、その言葉に込められた深い智慧と神聖な響きを自らの心の内に受け止め、日々の生活の中で実践し、観想を深めることによって、シヴァ神の広大無辺なる恩寵を体験し、あらゆる恐れや束縛からの解放へと向かう道を歩むことができるでしょう。古典の叡智は、単なる知識の蓄積としてではなく、生きた変容の力として、この簡潔にして荘厳な終結の辞を通じて、私たちに静かに語りかけています。
最後に
マハームリティユンジャヤ・アシュタカムは、単なる詩的な讃歌を超え、ヒンドゥー教、特にシヴァ信仰の核心に触れる深遠な霊的メッセージを凝縮した作品です。この八節(実質的には功徳文を含め十一節)から成る聖歌は、シヴァ神を「偉大なる死の征服者」として称賛し、その恩寵を通じて死の恐怖を超越し、究極的な解脱(モークシャ)に至る道を示しています。
本讃歌の哲学的射程は広く、現世における長寿や健康といった具体的な恩恵の希求から、輪廻からの解放という霊的な目標までを包含します。シヴァ神は、単に非業の死を避ける力を与えるだけでなく、「帝国と解脱を与える者」(sāmrājya-mukti-prada)として、物質的な繁栄と精神的な自由の両方を授ける存在として描かれます。この二元的な救済の思想は、人生の四つの目的(プルシャールタ)を調和的に追求するヒンドゥー教の包括的な世界観を反映しています。
マールカンデーヤ賢者の伝説に起源を持つとされるこの讃歌は、シヴァ神の慈悲(プラサーダ)と信奉者の献身的な帰依(バクティ)の相互作用を強調します。「おお、死を征服せし御方よ、我に御慈悲を垂れたまえ(Mṛtyuñjaya prasīda me)」という繰り返される祈願は、神の介入が運命をも変えうるとする強い信仰告白です。シヴァ神は、ブラフマー、ヴィシュヌ、スーリヤといった他の主要な神格の本質をも内包する至高の実在(パラメーシュヴァラ)として描かれ、その普遍的な力と個人的な救済の働きが結びつけられています。
文学的には、このアシュタカムはサンスクリット・ストートラ文学の好例であり、荘厳な詩的表現と深遠な神学的洞察を巧みに織り交ぜています。シヴァ神の五つの顔(パンチャーシャ)、三つの目(トリャンバカ)、カイラーサ山での住まい、聖なる弓ピナーカといった具体的な図像は、それぞれが宇宙的な力、超越的な智慧、そして悪を滅ぼす権能を象徴しています。これらの描写は、信奉者が神の姿を心に刻み、瞑想を深める助けとなります。
学術的にも、この讃歌はプラーナ文献やタントラ思想の影響を受けつつ、ヴェーダのムリティユンジャヤ・マントラの精神を継承する重要な作品として位置づけられます。スワミ・シヴァーナンダ師のような現代の聖者たちも、このマントラと讃歌が持つ、病苦からの解放と霊的覚醒への力を強調してきました。また、無知の闇を破壊し、知識を授けるというシヴァ神の属性は、アドヴァイタ・ヴェーダーンタ哲学における真我の認識を通じた解脱の思想とも響き合います。
この讃歌の功徳文(パラシュルティ)は、定められた時刻に、あるいは信仰が薄く不適切な時であっても、詠唱することで確実に死の災厄から守られると約束します。これは、マントラそのものが持つ内在的な力と、人間の不完全さをも包み込むシヴァ神の無限の慈悲を示しています。
マハームリティユンジャヤ・アシュタカムは、古代インドの叡智と信仰が生み出した、時代を超えて人々に希望と慰めを与え続ける霊的な宝です。その詠唱と瞑想を通じて、信奉者はシヴァ神の加護を確信し、死への恐怖を克服する勇気を得ます。そしてそれは、単に肉体的な生存期間の延長に留まらず、輪廻の束縛から解き放たれ、シヴァ神との合一という至福の境地(ニルヴァーナ)へと至る道を開く、力強い精神的な実践となるでしょう。
【サンスクリット原文出典】
Sanskrit Documents. "Mahamrityunjaya Ashtakam"
https://sanskritdocuments.org/doc_shiva/mahAmRRityunjayAShTakam.html
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