はじめに
ヒンドゥー教の広大な神々の世界の中でも、象の頭を持つその親しみやすい姿で、宗派や国境を越えて広く愛されている神、それがガネーシャです。あらゆる事業の開始に先立ってその名が唱えられ、私たちの進む道から障害を取り除き、学問と智慧、そして豊穣と繁栄をもたらす神として、ガネーシャは人々の信仰の中に深く根付いています。しかし、この身近で慈愛に満ちた神の姿の奥には、インド哲学の最も深遠な宇宙的真理が秘められています。その秘密の扉を開く鍵こそが、本書で解き明かす聖典『ガネーシャ・アタルヴァシールシャ・ウパニシャッド』に他なりません。
この聖典は、ガネーシャ信仰を実践する人々にとって最も重要かつ神聖なテキストとされ、日々の祈りの中で詠唱され続けてきました。その正式名称が示すように、この聖典は二つの偉大な伝統の合流点に位置しています。一つは「アタルヴァシールシャ」という形式です。これは、特定の神格を単なる神々の一柱としてではなく、宇宙の創造・維持・破壊を司る唯一無二の最高実在として讃え、その本質を凝縮して説く一群の聖典を指します。そしてもう一つが、インド哲学の源流であり、ヴェーダ文献の終極を飾る「ウパニシャッド」の伝統です。ここでは、宇宙の根本原理であるブラフマンと、個人の内なる本質であるアートマンが同一であるという、究極の真理「梵我一如」が探求されます。
『ガネーシャ・アタルヴァシールシャ』の比類なき魅力は、この二つの伝統を、ガネーシャという具体的な神の姿を通して見事に融合させている点にあります。ここでは、神への熱烈な信愛(バクティ)の道と、自己と宇宙の真理を探究する智慧(ジュニャーナ)の道とが、分かちがたく結びついています。読者はまず、縄や象鉤を手にし、豊かなる腹を持つ親しみやすいガネーシャへの祈りからこの聖典の世界に入ります。しかし、その讃歌はいつしか壮大な宇宙論へと飛翔し、ガネーシャが三つのグナ(根本性質)や三つの時間(過去・現在・未来)を超越した絶対者であり、万物の根源であるブラフマンそのものであると宣言するのです。そしてその宇宙的な真理は、再び私たちの内面へと向けられ、その偉大なる神が、実は私たちの身体の根底にある生命エネルギーの座(ムーラーダーラ・チャクラ)に常に住まう、内なる自己そのものであることが明かされます。
この解説書は、古代の賢者たちがサンスクリット語に込めたこの深遠な智慧を、現代を生きる私たちが余すところなく味わうために編まれました。各節ごとに、荘厳な音の響きを伝えるローマ字表記の原典、一語一語の意味を丹念に解き明かす逐語訳、そしてその背後にある神話的・哲学的文脈を深く掘り下げる詳細な解説を付しています。これにより、読者は聖なるマントラの音の力、言葉の厳密な意味、そしてそれが指し示す広大な霊的世界を、多層的に体験することができるでしょう。
この一冊を手に取ることは、単に古代の聖典についての知識を得ることを意味しません。それは、障害を除去する神ガネーシャの導きのもと、自己と宇宙の深淵へと分け入る、一つの霊的な旅への招待状です。ページをめくるごとに、ガネーシャの慈悲深い眼差しと、ウパニシャッドの揺るぎない智慧が、あなたの人生を照らす光となることを、心より願ってやみません。
表題
श्रीगणपत्यथर्वशीर्षोपनिषत् गणपत्युपनिषत्
śrīgaṇapatyatharvaśīrṣopaniṣat gaṇapatyupaniṣat
聖ガナパティ・アタルヴァシールシャ・ウパニシャッド。ガナパティ・ウパニシャッド。
逐語訳:
- श्रीगणपत्यथर्वशीर्षोपनिषत् (śrīgaṇapatyatharvaśīrṣopaniṣat) - 聖ガナパティ・アタルヴァシールシャ・ウパニシャッド。これは以下の要素から成る一つの複合語である
- श्री (śrī) - 聖なる、吉祥なる、光輝ある。神聖な名や聖典に冠される敬称
- गणपति (gaṇapati) - ガナパティ。「群 (gaṇa) の主 (pati)」を意味し、ガネーシャ神の別名
- अथर्वशीर्ष (atharvaśīrṣa) - アタルヴァシールシャ。「アタルヴァ・ヴェーダの頭 (śīrṣa)」を意味し、特定の神格の真髄を説く聖典の形式名
- उपनिषत् (upaniṣat) - ウパニシャッド。「近くに座す」を原義とし、師から弟子へと伝えられる奥義書、秘教を指す
- गणपत्युपनिषत् (gaṇapatyupaniṣat) - ガナパティ・ウパニシャッド。この聖典の別名であり、より簡潔な呼び名
解説:
ここに掲げられているのは、ヒンドゥー教で最も広く親しまれている神格の一柱、ガネーシャ神に捧げられた聖典の正式名称と、その別名です。この聖典は、ガネーシャ信仰を実践する人々にとって最も重要かつ神聖なテキストの一つとして尊ばれています。
冒頭の「シュリー(श्री, śrī)」は、単なる敬称を超え、聖なる光輝、吉祥、繁栄を象徴する言葉です。これが冠されていること自体が、このテキストの持つ霊的な権威と神聖さを物語っています。
「ガナパティ・アタルヴァシールシャ・ウパニシャッド(श्रीगणपत्यथर्वशीर्षोपनिषत्, śrīgaṇapatyatharvaśīrṣopaniṣat)」という名は、この聖典の性格を三つの側面から明らかにしています。
第一に、「ガナパティ(गणपति, gaṇapati)」は「群(ガナ, gaṇa)の主(パティ, pati)」を意味します。神話上では、父であるシヴァ神の従者である「ガナ」たちの長を指しますが、哲学的次元では、森羅万象、あらゆる存在の集いの主として、宇宙の根本原理を統べる存在へと昇華されています。
第二に、「アタルヴァシールシャ(अथर्वशीर्ष, atharvaśīrṣa)」は、この聖典が属する文献の形式を示します。「シールシャ(शीर्ष, śīrṣa)」とは「頭」を意味し、転じて「真髄」や「精髄」を表します。これは、第四のヴェーダであるアタルヴァ・ヴェーダの伝統に連なる形式であり、特定の神格を宇宙の最高実在として讃え、その本質を凝縮して説く一群の聖典を指します。
第三に、「ウパニシャッド(उपनिषत्, upaniṣat)」は、ヴェーダ文献の最終部分を飾り、インド哲学の源流となる「ヴェーダーンタ(ヴェーダの終極)」を形成する奥義書です。この聖典は、特定の神格への信愛(バクティ)と、宇宙の根源的実在(ブラフマン)を探求する哲学的叡智(ジュニャーナ)とが見事に融合した後期ウパニシャッドに分類されます。ここでは、ガネーシャという親しみ深い神の姿を通して、形而上学的な究極の真理が探求されます。
この聖典は、ガネーシャを単に障害を取り除く神としてだけでなく、宇宙の創造・維持・破壊を司る至高の実在、そして全ての個人の内なる本質(アートマン)と同一の存在であると宣言します。それは、信仰と哲学、祈りと瞑想が分かちがたく結びついた、生きた智慧の宝庫なのです。
最後に「ガナパティ・ウパニシャッド」という別名が添えられているのは、この聖典の核心がまさしく「ガナパティの奥義」であることを示し、その重要性を改めて強調する伝統的な表現です。
導入句
यं नत्वा मुनयः सर्वे निर्विघ्नं यान्ति तत्पदम् ।
गणेशोपनिषद्वेद्यं तद्ब्रह्मैवास्मि सर्वगम् ॥
yaṃ natvā munayaḥ sarve nirvighnaṃ yānti tatpadam |
gaṇeśopaniṣadvedyaṃ tadbrahmaivāsmi sarvagam ||
その御方にひれ伏し、聖仙らは皆、障害なく彼の境地へと至る。
ガネーシャ・ウパニシャッドに明かされるその実在、遍在するそのブラフマンとは、まさしく私自身である。
逐語訳:
- यं (yaṃ) - その方を(関係代名詞、男性単数対格)。ガネーシャ神を指す
- नत्वा (natvā) - 礼拝して、ひれ伏して(√नम्, nam, 礼拝する の絶対分詞)。心からの帰依を示す行為
- मुनयः (munayaḥ) - 聖仙たち(複数主格)。真理を観想する賢者たち
- सर्वे (sarve) - すべての(複数主格)
- निर्विघ्नं (nirvighnaṃ) - 障害なく(副詞)
- यान्ति (yānti) - 行く、到達する(√या, yā, 行く の現在3人称複数)
- तत्पदम् (tatpadam) - その境地、その場所へ(中性単数対格)。究極の境地、解脱の状態を指す
- गणेशोपनिषद्वेद्यं (gaṇeśopaniṣadvedyaṃ) - ガネーシャ・ウパニシャッドによって知られるべきもの(中性単数対格)。このウパニシャッドが明かす真理
- तत् (tad) - それ、その(指示代名詞、中性単数)
- ब्रह्म (brahma) - ブラフマン。宇宙の根本原理、至高の実在(中性単数)
- एव (eva) - まさに、〜こそ(強調の不変化詞)
- अस्मि (asmi) - 私は〜である(√अस्, as, ある の現在1人称単数)
- सर्वगम् (sarvagam) - 遍く行き渡る、遍在するもの(形容詞、中性単数対格)。
ब्रह्म
を修飾する
解説:
この詩節は、本文に先立って、このウパニシャッドの持つ深遠な意義と究極的な到達点を宣言する、力強い導入句です。それは単なる序文ではなく、聖典全体の神髄を凝縮した一つの「マハーヴァーキヤ(大いなる言葉)」とも言えるでしょう。
第一行は、ガネーシャ神への信愛(バクティ)がもたらす恩恵を語ります。「その御方(यं, yaṃ)」、すなわちガネーシャ神に「ひれ伏す(नत्वा, natvā)」ことによって、「すべての聖仙たち(मुनयः सर्वे, munayaḥ sarve)」は、霊的な道におけるあらゆる「障害なく(निर्विघ्नं, nirvighnaṃ)」、究極の「境地(तत्पदम्, tatpadam)」、すなわち解脱(モークシャ)へと到達すると述べられています。これは、ガネーシャが障害除去の神であるという具体的な神格の側面と、その恩寵がもたらす霊的な果実とを明確に結びつけています。
そして第二行で、この詩は驚くべき飛躍を遂げます。「ガネーシャ・ウパニシャッドによって明かされるその実在、遍在するそのブラフマンとは、まさしく私自身である(गणेशोपनिषद्वेद्यं तद्ब्रह्मैवास्मि सर्वगम्, gaṇeśopaniṣadvedyaṃ tadbrahmaivāsmi sarvagam)」。ここで最も重要なのは、「अस्मि (asmi)」、すなわち「私は〜である」という一人称の宣言です。これは、この聖典の真理が、遠い彼方にある神について語る客観的な教えではなく、詠唱する「私」自身の本質を明らかにする、実存的な叡智であることを示しています。
この宣言は、ヴェーダーンタ哲学、特に不二一元論(アドヴァイタ・ヴェーダーンタ)の核心である「梵我一如」—個人の内なる本質であるアートマンと、宇宙の根本原理であるブラフマンは同一である—という思想を力強く表現するものです。
この詩節は、二つの異なる精神的な道筋を見事に統合しています。一つは、ガネーシャという人格的な神への献身と祈りという「信愛の道(バクティ・マールガ)」。もう一つは、自己と宇宙の真理を探求する「叡智の道(ジュニャーナ・マールガ)」です。この詩は、ガネーシャへの帰依という入り口から始まり、その先にあるのは、親しみ深い象頭の神の姿を超え、時空を超えて「遍在する(सर्वगम्, sarvagam)」宇宙的実在との合一であることを示唆します。
したがって、この短い二行の詩は、このウパニシャッドがこれから展開する壮大な旅路の地図となっています。それは、具体的な信仰から普遍的な真理へ、そして他者としての神への祈りから、「私こそがその神性そのものである」という究極の自己認識へと至る道なのです。
平安の祈り
ॐ भद्रं कर्णेभिः शृणुयाम देवाः । भद्रं पश्येमाक्षभिर्यजत्राः ।
स्थिरैरङ्गैस्तुष्टुवाꣳ सस्तनूभिः । व्यशेम देवहितं यदायुः ।
स्वस्ति न इन्द्रो वृद्धश्रवाः । स्वस्ति नः पूषा विश्ववेदाः ।
स्वस्ति नस्तार्क्ष्यो अरिष्टनेमिः । स्वस्ति नो बृहस्पतिर्दधातु ॥
oṃ bhadraṃ karṇebhiḥ śṛṇuyāma devāḥ | bhadraṃ paśyemākṣabhiryajatrāḥ |
sthirairaṅgaistuṣṭuvāṃsastanūbhiḥ | vyaśema devahitaṃ yadāyuḥ |
svasti na indro vṛddhaśravāḥ | svasti naḥ pūṣā viśvavedāḥ |
svasti nastārkṣyo ariṣṭanemiḥ | svasti no bṛhaspatirdadhātu ||
オーム。神々よ、我らが耳にて吉祥なることを聞かんことを。
祭祀に値する御方々よ、我らが目にて吉祥なることを見んことを。
堅固なる四肢と身体もて讃美しつつ、神々の定め給うた寿命を享受せんことを。
古より誉れ高きインドラが、我らに幸いをもたらさんことを。
万物を知るプーシャンが、我らに幸いをもたらさんことを。
災いを退ける神鳥タールクシャが、我らに幸いをもたらさんことを。
祈りの主ブリハスパティが、我らに幸いを授けんことを。
逐語訳:
- ॐ (oṃ) - オーム。宇宙の根源にして、聖なる祈りの始まりと終わりを告げる音
- भद्रं (bhadraṃ) - 吉祥なるもの、善なるもの、聖なるもの(中性単数対格)
- कर्णेभिः (karṇebhiḥ) - 耳によって(具格複数、ヴェーダ語形)
- शृणुयाम (śṛṇuyāma) - 我らが聞けますように(√श्रु, śru, 聞く の願望法・1人称複数)
- देवाः (devāḥ) - 神々よ(呼格複数)
- पश्येम (paśyema) - 我らが見られますように(√पश्, paś, 見る の願望法・1人称複数)
- अक्षभिः (akṣabhiḥ) - 目によって(具格複数、ヴェーダ語形)
- यजत्राः (yajatrāḥ) - 祭祀に値する方々よ(神々への呼格複数)
- स्थिरैः (sthiraiḥ) - 堅固な、揺るぎなき(具格複数)
- अङ्गैः (aṅgaiḥ) - 四肢によって(具格複数)
- तुष्टुवाꣳसः (tuṣṭuvāṃsaḥ) - 讃美しながら(√स्तु, stu, 讃える の完了分詞、男性複数主格)
- तनूभिः (tanūbhiḥ) - 身体によって(具格複数)
- व्यशेम (vyaśema) - 我らが享受できますように(√अश्, aś, 享受する の願望法・1人称複数)
- देवहितं (devahitaṃ) - 神々によって定められた、神々にとって好ましい(中性単数対格)
- यत् आयुः (yat āyuḥ) - その寿命(関係代名詞
yat
と名詞āyuḥ
) - स्वस्ति (svasti) - 幸い、安寧、繁栄
- नः (naḥ) - 我らに(与格複数)
- इन्द्रः (indraḥ) - インドラ神(主格単数)
- वृद्धश्रवाः (vṛddhaśravāḥ) - その名声が広く聞かれる、古より誉れ高き(主格単数)
- पूषा (pūṣā) - プーシャン神(主格単数)
- विश्ववेदाः (viśvavedāḥ) - 万物を知る者(主格単数)
- तार्क्ष्यः (tārkṣyaḥ) - タールクシャ神。神鳥ガルダの別名(主格単数)
- अरिष्टनेमिः (ariṣṭanemiḥ) - 災いを退ける車輪の縁を持つ者(主格単数)
- बृहस्पतिः (bṛhaspatiḥ) - ブリハスパティ神、神々の師(主格単数)
- दधातु (dadhātu) - 授けたまえ、与えられよ(√धा, dhā, 与える の命令法・3人称単数)
解説:
この詩節は、多くのウパニシャッドの冒頭と結びで唱えられる、アタルヴァ・ヴェーダに由来する「シャーンティ・マントラ(平安の祈り)」です。これは、聖典という深遠な智慧の海へ乗り出す前に、学習者自身と、その学びの環境の内外に存在するあらゆる力を調和させるための、極めて重要な祈りです。
祈りの前半は、学習者自身の内面へと向けられています。「我らが耳にて吉祥なることを聞かんことを(भद्रं कर्णेभिः शृणुयाम, bhadraṃ karṇebhiḥ śṛṇuyāma)」。ここで願われているのは、単なる心地よい音ではありません。真理を伝える師の言葉、聖典の響きといった、魂を高める「聖なる音」を正しく聞き分ける能力です。同様に「我らが目にて吉祥なることを見んことを(भद्रं पश्येमाक्षभिः, bhadraṃ paśyemākṣabhiḥ)」という祈りも、世俗的な美しさだけでなく、万物に宿る神性や、聖なる象徴の背後にある真理を見抜く霊的な洞察力を願うものです。
続く「堅固なる四肢と身体もて(स्थिरैरङ्गैस्तुष्टुवाꣳ सस्तनूभिः, sthirairaṅgaistuṣṭuvāṃsastanūbhiḥ)」という句は、霊的探求を支えるための健やかで揺るぎない「器」としての身体を祈願しています。心身が安定して初めて、人は神々への讃美と深い瞑想に専念できます。そして、神々によって定められた寿命を全うしたいという願いは、与えられた生を聖なる目的のために捧げたいという、献身的な意志の表れなのです。
祈りの後半は、宇宙的な力を司る四柱のヴェーダの神々への呼びかけに転じます。これらの神々は、聖なる学びを成就させるために不可欠な、四つの異なる側面からの加護を象徴しています。
- インドラ(इन्द्रः, indraḥ): 「古より誉れ高き」彼は、ヴェーダの神々の王であり、力と勇気の象徴です。彼の加護は、学びの道における疑いや怠惰といった内的な障害を打ち破る力を与えます。
- プーシャン(पूषा, pūṣā): 「万物を知る」太陽神の一面であり、道を照らし、旅人を守護する神です。彼の加護は、霊的探求という長い旅路で道に迷うことなく、智慧という滋養を得て進むことを助けます。
- タールクシャ(तार्क्ष्यः, tārkṣyaḥ): 「災いを退ける」神鳥ガルダ。彼の加護は、無知や誤解といった霊的な毒から学習者を守り、迅速かつ滞りない理解をもたらします。
- ブリハスパティ(बृहस्पतिः, bṛhaspatiḥ): 「祈りの主」であり、神々の師。彼は聖なる言葉の力、叡智、そして正しい解釈能力を司ります。彼の加護によって、聖典の言葉の表面的な意味を超え、その奥に秘められた真理を体得できるとされます。
このように、このシャーンティ・マントラは、個人の感覚器官から身体、そして宇宙を司る神々の力まで、あらゆるレベルにおいて調和と平安を祈願するものです。それは、これから始まるガネーシャという至高の存在についての学びを受け取るために、自らの全てを整え、神聖な空間を創造する、一つの深遠なヨーガの実践そのものと言えるでしょう。
祈りの結句
ॐ शान्तिः शान्तिः शान्तिः ॥
oṃ śāntiḥ śāntiḥ śāntiḥ ||
オーム。平安あれ、平安あれ、平安あれ。
逐語訳:
- ॐ (oṃ) - オーム。宇宙の根源にして、すべての聖なる祈りの始まりと終わりを告げる聖音
- शान्तिः (śāntiḥ) - 平安、静寂、平和(主格単数)
- 三回の繰り返し - 三つの次元における完全なる調和の実現を祈願するもの
解説:
この短いながらも深遠な一句は、前節の壮大なシャーンティ・マントラ(平安の祈り)を受けて、聖典の導入部を荘厳に締めくくる、極めて重要な祈りの結句です。
冒頭の「オーム(ॐ, oṃ)」は、単なる音を超えた宇宙的な響きです。それは創造以前から存在し、すべてのマントラの源となる根本音であり、ブラフマン(宇宙の根本原理)そのものの音による顕現とされます。この聖音によって、続く祈りが単なる人間の願いではなく、宇宙的な調和への参与として位置づけられます。
「シャーンティ(शान्तिः, śāntiḥ)」という語は、単純な「平和」や「静寂」を意味するだけではありません。それは、あらゆる動揺、混乱、苦悩が完全に鎮められた状態、すなわち真理そのものの中に安住する究極の安らぎを表します。この言葉には、外的な平穏のみならず、内面の深い静寂、そして宇宙全体との調和という三重の意味が込められています。
この「シャーンティ」が三回繰り返されることには、ヒンドゥー教の伝統において極めて重要な意味があります。これは「トリヴィダ・ターパ(trividha-tāpa)」と呼ばれる三種の苦悩からの解放を祈願するものです。人間の存在を脅かす三つの根本的な苦悩の源泉からの完全な解放を、この三唱によって祈ります。
第一の「シャーンティ(śāntiḥ)」は、「アーディヤートミカ(आध्यात्मिक, ādhyātmika)」、すなわち自分自身の身体や心から生じる内的な苦悩—病気、不安、怒り、悲しみ、無知といった内なる障害—からの解放を祈ります。これは、霊的探求を行う主体である自己の調和を願うものです。
第二の「シャーンティ(śāntiḥ)」は、「アーディバウティカ(आधिभौतिक, ādhibhautika)」、すなわち他の生物や外的環境から生じる苦悩—人間関係の摩擦、動物による害、周囲の環境との不調和—からの解放を願います。これは、自己を取り巻く世界との調和を祈るものです。
第三の「シャーンティ (śāntiḥ)」は、「アーディダイヴィカ(आधिदैविक, ādhidaivika)」、すなわち天災、運命の力、神々の采配など、人間の制御を超えた超自然的・宇宙的な力による苦悩からの解放を祈願します。これは、人智を超えた大いなる力との調和を願うものです。
この三重の祈りは、これから始まるガネーシャ・ウパニシャッドの学習と実践が、あらゆるレベルの障害に妨げられることなく、完全なる調和の中で成就されることを願うものです。それは同時に、ガネーシャ神ご自身が「ヴィグナハルタ(विघ्नहर्तृ, vighnahartṛ)」(障害を除去する者)として、この三つの次元すべてにおいて加護をもたらすことへの、深い信頼の表明でもあります。
このように、表面的には極めて簡潔なこの祈りの言葉は、宇宙的な秩序への参与、内外すべての障害からの解放、そしてガネーシャという至高の存在との一体化へ向けた、壮大な霊的探求の出発点を告げる清澄な鐘の音と言えるでしょう。
第1節
हरिः ॐ नमस्ते गणपतये । त्वमेव प्रत्यक्षं तत्त्वमसि ।त्वमेव केवलं कर्तासि । त्वमेव केवलं धर्तासि । त्वमेव केवलं हर्तासि ।त्वमेव सर्वं खल्विदं ब्रह्मासि । त्वं साक्षादात्मासि नित्यम् ॥ १॥
hariḥ oṃ namaste gaṇapataye | tvameva pratyakṣaṃ tattvamasi | tvameva kevalaṃ kartāsi | tvameva kevalaṃ dhartāsi | tvameva kevalaṃ hartāsi | tvameva sarvaṃ khalvidaṃ brahmāsi | tvaṃ sākṣādātmāsi nityam || 1||
ハリ・オーム。ガナパティに帰命したてまつる。
あなたこそは、現前の実在そのものである。
あなたこそは、唯一の造り主である。
あなたこそは、唯一の支え主である。
あなたこそは、唯一の滅ぼし主である。
あなたこそは、この万物すべて、実にブラフマンそのものである。
あなたは、永遠なるアートマンそのものである、ありのままに。
逐語訳:
- हरिः ॐ (hariḥ oṃ) - ハリ・オーム。聖典や儀礼の始まりに唱える聖句。ハリはヴィシュヌ神の別名であり、罪や苦しみを「奪い去る者」の意。オームは宇宙の根源音
- नमस्ते (namaste) - あなたに帰命(礼拝)いたします。(namas + te)
- गणपतये (gaṇapataye) - ガナパティ(ガネーシャ)に(男性単数与格)
- त्वम् (tvam) - あなたは
- एव (eva) - まさに、〜こそ(強調の不変化詞)
- प्रत्यक्षं (pratyakṣaṃ) - 目の前に現れた、直接認識できる(形容詞・副詞)
- तत्त्वम् (tattvam) - そのものであること、本質、実在、真理(中性単数主格)
- असि (asi) - 〜である(√अस्, as, ある の現在2人称単数)
- केवलम् (kevalaṃ) - 唯一の、ただそれだけの(副詞)
- कर्तासि (kartāsi) - 造り主・行為者である(कर्तृ, kartṛ, 造り主 + असि, asi)
- धर्तासि (dhartāsi) - 支え主・維持者である(धर्तृ, dhartṛ, 支え主 + असि, asi)
- हर्तासि (hartāsi) - 滅ぼし主・破壊者である(हर्तृ, hartṛ, 滅ぼし主 + असि, asi)
- सर्वम् (sarvaṃ) - すべて(中性単数主格)
- खलु (khalu) - 実に、疑いなく(強調の不変化詞)
- इदम् (idaṃ) - これ(指示代名詞、中性単数主格)
- ब्रह्मासि (brahmāsi) - ブラフマン(宇宙の根本原理)である(ब्रह्मन्, brahman + असि, asi)
- त्वम् (tvam) - あなたは
- साक्षात् (sākṣāt) - ありのままに、直接に、まさに(副詞)
- आत्मासि (ātmāsi) - アートマン(個人の内なる真我)である(आत्मन्, ātman + असि, asi)
- नित्यम् (nityam) - 永遠に、不変に(副詞)
解説:
この第1節は、平安の祈りに続き、このウパニシャッドが解き明かす壮大な真理の核心へと、読者を一気に引き込む力強い宣言です。それはガネーシャという親しみ深い神への讃歌であると同時に、ヴェーダーンタ哲学の最も深遠な教えを凝縮した、一つの哲学詩とも言えるでしょう。
冒頭の「ハリ・オーム(हरिः ॐ, hariḥ oṃ)」は、聖なる学びの始まりを告げる伝統的な聖句です。「ハリ」はヴィシュヌ神を指す言葉ですが、その語源的な意味「(苦しみを)取り去る者」は、障害を除去する神であるガネーシャの神性とも深く響き合います。この句によって、これからの言葉が神聖な領域に属することが示されます。
続く「ガナパティに帰命したてまつる(नमस्ते गणपतये, namaste gaṇapataye)」という帰依の言葉から、テキストは驚くべき哲学的飛躍を遂げます。「あなたこそは、現前の実在そのものである(त्वमेव प्रत्यक्षं तत्त्वमसि, tvameva pratyakṣaṁ tattvamasi)」。ここで鍵となるのは「प्रत्यक्षं (pratyakṣaṃ)」、すなわち「目の前にある」「直接認識できる」という言葉です。これは、ガネーシャという神格が、抽象的な信仰の対象ではなく、まさに今ここで体験できる具体的な真理の顕現であることを宣言しています。この句は、ウパニシャッドの有名な大格言「汝はそれなり(तत्त्वमसि, tattvamasi)」を彷彿とさせ、その普遍的な真理が、ガネーシャという具体的な姿を通して感得されることを示唆しています。
次に、宇宙の根本的な三つの働きである創造(कर्ता, kartā)、維持(धर्ता, dhartā)、破壊(हर्ता, hartā)が、すべて唯一なるガネーシャの働きであると述べられます。通常、これらはブラフマー、ヴィシュヌ、シヴァの三神にそれぞれ配される宇宙的機能です。しかしここでは、それらすべてがガネーシャという一つの神格に統合されています。これは、ガネーシャを個別の神々の長としてだけでなく、すべての神々の根源に立つ至高の実在として捉える、極めて高次な神学的位置づけを示すものです。
そして、この節の頂点をなすのが、「あなたこそは、この万物すべて、実にブラフマンそのものである(त्वमेव सर्वं खल्विदं ब्रह्मासि, tvameva sarvaṃ khalvidaṃ brahmāsi)」という宣言です。これは、チャーンドーギヤ・ウパニシャッドに登場する有名な句「このすべては、実にブラフマンである(सर्वं खल्विदं ब्रह्म, sarvaṁ khalvidaṁ brahma)」を直接的に引用し、その宇宙の究極原理ブラフマンとガネーシャを完全に同一視するものです。これにより、ガネーシャ信仰はヴェーダーンタ哲学の正統な流れの中に確固として位置づけられます。
最後に、この宇宙的な視点は、私たちの内面へと向けられます。「あなたは、永遠なるアートマンそのものである、ありのままに(त्वं साक्षादात्मासि नित्यम्, tvaṃ sākṣādātmāsi nityam)」。宇宙大の存在であるブラフマンが、実は私たちの内なる本質であるアートマン(真我)と同一であるという、不二一元論の核心がここに明かされます。「साक्षात् (sākṣāt)」という言葉は、ガネーシャが比喩ではなく、私たちの内なる自己そのものであることを、疑いの余地なく断言します。
このように第1節は、ガネーシャへの信愛の道(バクティ)が、いかにして自己と宇宙の真理を探究する叡智の道(ジュニャーナ)へと直結するかを鮮やかに描き出しています。それは、帰依の対象であった神が、実は自己の内なる本質であり、同時に宇宙のすべてであったと気づく、深遠な自己発見の旅の始まりを告げる、力強い序曲なのです。
第2節
ऋतं वच्मि । सत्यं वच्मि । अव त्वं माम् । अव वक्तारम् । अव श्रोतारम् ॥ २॥
ṛtaṃ vacmi | satyaṃ vacmi | ava tvaṃ mām | ava vaktāram | ava śrotāram || 2||
宇宙の秩序(リタ)を我は語る。揺るぎなき真実(サティヤ)を我は語る。
あなたよ、我を護り給え。語る者を護り給え。聞く者を護り給え。
逐語訳:
- ऋतम् (ṛtam) - 宇宙の秩序、天則、神聖な法(中性単数対格)
- वच्मि (vacmi) - 私は語る、私は宣言する(√वच्, vac, 語る の現在形1人称単数)
- सत्यम् (satyam) - 真実、偽りのないこと、実在(中性単数対格)
- अव (ava) - 護り給え(√अव्, av, 護る の命令法2人称単数)
- त्वम् (tvam) - あなた(主格)
- माम् (mām) - 私を(対格)
- वक्तारम् (vaktāram) - 語る者、師を(男性単数対格)
- श्रोतारम् (śrotāram) - 聞く者、弟子を(男性単数対格)
解説:
第1節でガネーシャが宇宙の根本原理ブラフマンそのものであるという壮大な宣言がなされたことを受け、この第2節は、その至高の真理を語り、聞くという行為自体が、いかに神聖なものであるかを厳粛に宣誓する、極めて重要な詩節です。
冒頭の二つの宣言、「宇宙の秩序(リタ)を我は語る(ऋतं वच्मि, ṛtaṃ vacmi)」「揺るぎなき真実(サティヤ)を我は語る(सत्यं वच्मि, satyaṃ vacmi)」は、これから語られる教えが、個人的な見解や憶測の産物ではなく、宇宙を貫く普遍的な秩序と真理に根差したものであることを力強く表明しています。
ここで並べられた「リタ(ऋत, ṛta)」と「サティヤ(सत्य, satya)」という二つの言葉の使い分けは、非常に示唆に富んでいます。「リタ」はヴェーダ時代の最も古い真理概念の一つで、天体の運行や季節の巡りといった自然法則から、祭祀の儀礼、道徳的規範までを包括する、宇宙全体を支配する神聖な秩序や調和の法則を指します。一方、「サティヤ」は、その宇宙的な「リタ」が、人間の思考や言葉、行為において誠実に反映された状態、すなわち偽りのない具体的な真実を意味します。この二つを続けて宣言することで、語り手は、自らの言葉が宇宙の根源的な秩序と完全に一致していることを誓っているのです。
続く三つの祈願は、この神聖な真理が、歪められることなく純粋な形で伝承されるための「聖なる器」への加護を求めるものです。
- 「あなたよ、我を護り給え(अव त्वं माम्, ava tvaṃ mām)」: まず、真理の媒体である「私」個人への守護を祈ります。これは、エゴや私見といった個人的な不純物が真理の伝達を曇らせることのないよう、自己を空しくし、神の道具となることへの祈りです。
- 「語る者を護り給え(अव वक्तारम्, ava vaktāram)」: 次に、師としての役割そのものへの加護を求めます。真理の伝承は、単なる知識の伝達ではなく、師から弟子へと生命の火を灯すような神聖な行為です。師がその神聖な役割を十全に果たせるよう、ガネーシャの導きを祈願します。
- 「聞く者を護り給え(अव श्रोतारम्, ava śrotāram)」: 最後に、真理の受け手である弟子への加護を祈ります。叡智の扉が開かれるのは、聞き手の心が謙虚で、清浄で、受容的に整えられている時だけです。その準備が、ガネーシャの恩寵によってもたらされることを願っています。
この三重の祈りは、真理の伝承が「語る者(師)」「聞く者(弟子)」、そしてその間に流れる「教え(真理)」という三つの要素から成る神聖な儀礼であることを示唆しています。第1節で宇宙のすべてであるとされたガネーシャは、ここでは、この神聖な伝承のプロセス全体を包み込み、守護する大いなる存在として祈願されているのです。この節は、知的な学びが、いかにして深い信仰と結びつき、神聖な体験へと昇華されるかを見事に描き出しています。
第3節
अव दातारम् । अव धातारम् । अवानूचानमव शिष्यम् । अव
पश्चात्तात् । अव पुरस्तात् । अवोत्तरात्तात् । अव दक्षिणात्तात् । अव
चोर्ध्वात्तात् । अवाधरात्तात् । सर्वतो मां पाहि पाहि समन्तात् ॥ ३॥
ava dātāram | ava dhātāram | avānūcānamava śiṣyam | ava paścāttāt | ava purastāt | avottarāttāt | ava dakṣiṇāttāt | ava cordhvāttāt | avādharāttāt | sarvato māṃ pāhi pāhi samantāt || 3||
与える者を護り給え。支える者を護り給え。
ヴェーダの師を、そして弟子を護り給え。
後ろより、前より護り給え。
北より、南より護り給え。
上より、下より護り給え。
あらゆる方角から我を護り給え、護り給え、あまねく護り給え。
逐語訳:
- अव (ava) - 護り給え、加護し給え(√अव्, av, 護る の命令法2人称単数)
- दातारम् (dātāram) - 与える者を、与え主を(男性単数対格)
- धातारम् (dhātāram) - 支える者を、支え主を(男性単数対格)
- अनूचानम् (anūcānam) - ヴェーダの学統を正しく継承した師を(男性単数対格)
- अव (ava) - 護り給え(同上)
- शिष्यम् (śiṣyam) - 弟子を、教えを乞う者を(男性単数対格)
- पश्चात्तात् (paścāttāt) - 後ろから(方向を示す奪格)
- पुरस्तात् (purastāt) - 前から(方向を示す奪格)
- उत्तरात्तात् (uttarāttāt) - 北から(उत्तर, uttara, 北 + तात्, tāt)
- दक्षिणात्तात् (dakṣiṇāttāt) - 南から(दक्षिण, dakṣiṇa, 南 + तात्, tāt)
- च (ca) - そして(接続詞)
- ऊर्ध्वात्तात् (ūrdhvāttāt) - 上から(ऊर्ध्व, ūrdhva, 上 + तात्, tāt)
- अधरात्तात् (adharāttāt) - 下から(अधर, adhara, 下 + तात्, tāt)
- सर्वतः (sarvataḥ) - あらゆる場所から、すべての側面から(副詞)
- माम् (mām) - 私を(対格)
- पाहि (pāhi) - 護り給え、救い給え(√पा, pā, 護る・救う の命令法2人称単数)
- समन्तात् (samantāt) - 周囲すべてから、余すところなく(副詞)
解説:
この第3節は、前節で始まった師と弟子への祈りを、驚くべき包括性をもって拡大させた、情熱的な祈願の詩です。それは、真理の伝承という神聖な営みに関わるすべての人々と、その営みが繰り広げられる空間全体に対する、完全無欠な守護を求める、魂からの叫びとも言えるでしょう。
まず、聖なる教えの共同体を構成する四つの重要な役割への加護が祈願されます。「与える者(दातारम्, dātāram)」は、叡智や教えを授ける師を指します。次に「支える者(धातारम्, dhātāram)」は、その教えの伝統を物質的、精神的に支え、維持する人々、例えば信徒や後援者を意味します。そして「ヴェーダの師(अनूचानम्, anūcānam)」と「弟子(शिष्यम्, śiṣyam)」です。特に「अनूचान (anūcāna)」という言葉は、単なる教師ではなく、ヴェーダの聖句を正しく暗唱し、その精神を体現する、生きた伝統の継承者という深い敬意が込められています。この四者への祈りは、真理の伝承が個人の力だけでは成り立たず、神聖な共同体全体によって担われるものであるという深い認識を示しています。
続いて、祈りは個々の役割から、探求者が存在する空間そのものへと向けられます。「後ろから、前から、北から、南から、上から、下から」という六方向からの守護の祈願は、単に物理的な方角を指すのではありません。これは、目に見える世界と見えない世界の両方からの、あらゆる障害に対する保護を求めるものです。
- 後ろから (पश्चात्तात्, paścāttāt):過去の行い(カルマ)や、背後から忍び寄る不意の災いからの守護。
- 前から (पुरस्तात्, purastāt):未来に待ち受ける困難や、進むべき道を妨げる障害からの守護。
- 左右(南北)から:周囲の人間関係や環境との間に生じる不和からの守護。
- 上から (ऊर्ध्वात्तात्, ūrdhvāttāt):天災や運命など、人智を超えた力による災禍からの守護。
- 下から (अधरात्तात्, adharāttāt):内なる無意識に潜む衝動や、足元をすくうような危険からの守護。
このように、この六方への祈りは、時間的、空間的、そして心理的なあらゆる次元にわたる、全方位的な守りを懇願するものです。
そしてこの節は、「あらゆる方角から我を護り給え、護り給え、あまねく護り給え(सर्वतो मां पाहि पाहि समन्तात्, sarvato māṃ pāhi pāhi samantāt)」という、切迫感に満ちた祈りで結ばれます。ここで「護り給え(पाहि, pāhi)」という言葉が二度繰り返されるのは、祈願者の切実な想いの強さを表しています。また、それまで使われていた動詞「अव (ava)」(加護する)から、より能動的な「पाहि (pāhi)」(保護し、救済する)へと変化していることも重要です。これは、祈りがクライマックスに達し、神による積極的な介入と救済を渇望している様を示しています。
この詩節は、霊的探求の道がいかに多くの挑戦に満ちているか、そして、その道を歩むためには、障害を除去する神ガネーシャの、絶対的で間隙のない加護がいかに不可欠であるかを、深く物語っているのです。それは、個人の内面から宇宙全体にまで広がる、壮大な守護への祈りなのです。
第4節
त्वं वाङ्मयस्त्वं चिन्मयः । त्वमानन्दमयस्त्वं ब्रह्ममयः । त्वं सच्चिदानन्दाद्वितीयोऽसि । त्वं प्रत्यक्षं ब्रह्मासि । त्वं ज्ञानमयो विज्ञानमयोऽसि ॥ ४॥
tvaṃ vāṅmayastvaṃ cinmayaḥ | tvamānandamayastvaṃ brahmamayaḥ | tvaṃ saccidānandādvitīyo'si | tvaṃ pratyakṣaṃ brahmāsi | tvaṃ jñānamayo vijñānamayo'si || 4||
あなたは言葉そのもの、あなたは純粋意識そのものである。
あなたは歓喜そのもの、あなたはブラフマンそのものである。
あなたは、存在・意識・歓喜にして、二つとない唯一の御方である。
あなたは、現前にましますブラフマンである。
あなたは叡智に満ち、そして深き識別知に満ちる御方である。
逐語訳:
- त्वं (tvaṃ) - あなたは
- वाङ्मयः (vāṅmayaḥ) - 言葉から成る者、言葉の本質である者(वाच्, vāc, 言葉 + 接尾辞 मय, maya, 〜から成る)。連声(サンディ)により
vāṅmayas
となっている - चिन्मयः (cinmayaḥ) - 純粋意識から成る者、意識の本質である者(चित्, cit, 純粋意識 + मय, maya)
- आनन्दमयः (ānandamayaḥ) - 歓喜から成る者、歓喜の本質である者(आनन्द, ānanda, 歓喜 + मय, maya)
- ब्रह्ममयः (brahmamayaḥ) - ブラフマンから成る者、ブラフマンの本質である者(ब्रह्मन्, brahman + मय, maya)
- सच्चिदानन्दाद्वितीयोऽसि (saccidānandādvitīyo'si) - あなたは存在・意識・歓喜にして二つとない唯一の御方である。これは以下の語の連声形
- सत् (sat) - 存在
- चित् (cit) - 純粋意識
- आनन्द (ānanda) - 歓喜、至福
- अद्वितीयः (advitīyaḥ) - 第二のもののない、唯一無二の(男性単数主格)
- असि (asi) - 〜である(√अस्, as, ある の現在2人称単数)
- प्रत्यक्षं (pratyakṣaṃ) - 目の前にある、直接認識できる(副詞)
- ब्रह्मासि (brahmāsi) - あなたはブラフマンである(ब्रह्म, brahma, ブラフマンの中性単数主格 + असि, asi)
- ज्ञानमयः (jñānamayaḥ) - 叡智に満ちる者(ज्ञान, jñāna, 叡智 + मय, maya)
- विज्ञानमयः (vijñānamayaḥ) - 識別知に満ちる者(विज्ञान, vijñāna, 識別知 + मय, maya)
解説:
この第4節は、ガネーシャの本質を、ヴェーダーンタ哲学の深遠な概念を用いて段階的に解き明かす、このウパニシャッドの哲学的頂点です。前節までの神への守護の祈願から一転し、ここでは祈る者の意識が、ガネーシャという神格の内に宇宙の究極的実在を見出していく、荘厳な探求の詩が展開されます。
この詩節は「त्वं (tvaṃ)」(あなたは)という呼びかけの力強い反復で貫かれています。これは、ガネーシャが単なる祈りの対象ではなく、探求者自身の本質と不可分であることを示唆する、親密で直接的な対話の響きを持っています。
まず、詩はガネーシャを「言葉(वाङ्मयः, vāṅmayaḥ)」と「純粋意識(चिन्मयः, cinmayaḥ)」そのものであると宣言します。接尾辞「मय (maya)」は「〜から成る」「〜に満ちている」という意味を持ち、ガネーシャが単に言葉を操るのではなく、聖なる音(マントラ)やヴェーダの叡智を生み出す根源的な創造の力、すなわち言葉の背後にある純粋な意識そのものであることを示しています。これは、外面的な現象(言葉)から、その内なる源泉(意識)へと探求を深める、古典的なインド哲学の階梯を示しています。
次に、その意識の本質が「歓喜(आनन्दमयः, ānandamayas)」であり、究極的には「ブラフマン(ब्रह्ममयः, brahmamayaḥ)」そのものであると明かされます。これは、自己の本性を知ることから生まれる無上の喜びが、宇宙の根本原理であるブラフマンと同一であるという、ウパニシャッド思想の核心を突くものです。
そして、この節の心臓部とも言えるのが、「あなたは、存在・意識・歓喜にして、二つとない唯一の御方である(त्वं सच्चिदानन्दाद्वितीयोऽसि, tvaṃ saccidānandādvitīyo'si)」という偉大な宣言です。「サット・チット・アーナンダ(सच्चिदानन्द, saccidānanda)」は、ブラフマンの三つの本質的側面(存在・意識・歓喜)を表す、ヴェーダーンタ哲学の最重要語です。これらは別々の属性ではなく、一つの実在の分かちがたい側面です。存在することは意識することであり、その存在=意識の状態は本質的に歓喜なのです。さらに「二つとない(अद्वितीय, advitīya)」という言葉が、この実在が絶対であり、それ以外に何ものも存在しないという不二一元論の立場を、揺るぎなく確立します。
続く「あなたは、現前にましますブラフマンである(त्वं प्रत्यक्षं ब्रह्मासि, tvaṃ pratyakṣaṃ brahmāsi)」という句は、第1節の宣言を繰り返し、この深遠な真理が、抽象的な哲学論ではなく、今ここで直接体験できる「現前の」現実であることを力強く念押しします。
最後に、ガネーシャは「叡智(ज्ञानमयः, jñānamayaḥ)」と「識別知(विज्ञानमयः, vijñānamayaḥ)」に満ちる方と讃えられます。「ジュニャーナ(ज्ञान, jñāna)」が聖典などから学ぶ普遍的な叡智を指すのに対し、「ヴィジュニャーナ(विज्ञान, vijñāna)」は瞑想や実践を通して得られる、個人的で体験的な識別知を意味します。ガネーシャがこの両者を統合した存在であることは、彼が教えと体験、信仰と智慧を結びつける、完成された智慧の神であることを象徴しています。
このように第4節は、ガネーシャへの信愛(バクティ)が、いかにして自己と宇宙の真理を探究する叡智(ジュニャーナ)の道へと自然に昇華されていくかを見事に描き出しています。それは、帰依の対象であった神の姿を通して、自己の内なる本性と宇宙の究極的実在とが一つであると悟る、霊的探求の輝かしい到達点を示しているのです。
第5節
सर्वं जगदिदं त्वत्तो जायते । सर्वं जगदिदं त्वत्तस्तिष्ठति ।
सर्वं जगदिदं त्वयि लयमेष्यति । सर्वं जगदिदं त्वयि प्रत्येति ।
त्वं भूमिरापोऽनलोऽनिलो नभः । त्वं चत्वारि वाक्पदानि ॥ ५॥
sarvaṃ jagadidaṃ tvatto jāyate | sarvaṃ jagadidaṃ tvattastiṣṭhati |
sarvaṃ jagadidaṃ tvayi layameṣyati | sarvaṃ jagadidaṃ tvayi pratyeti |
tvaṃ bhūmirāpo'nalo'nilo nabhaḥ | tvaṃ catvāri vākpadāni || 5||
この世界の一切は、あなたより生まれる。
この世界の一切は、あなたによって存続する。
この世界の一切は、あなたの内に溶けゆく。
この世界の一切は、あなたのもとへ還りゆく。
あなたは地、水、火、風、空である。
あなたは言葉の四つの階梯そのものである。
逐語訳:
- सर्वम् इदं जगत् (sarvam idaṁ jagat) - このすべての世界は。(सर्वम्, sarvam - すべての; इदम्, idam - この; जगत्, jagat - 世界)
- त्वत्तः (tvattaḥ) - あなたから。(奪格、起点を示す)
- जायते (jāyate) - 生まれる。(√जन्, jan - 生じる、の現在3人称単数アートマネーパダ)
- त्वत्तस् तिष्ठति (tvattas tiṣṭhati) - あなたによって存続する。(त्वत्तः, tvattaḥ - あなたによって; तिष्ठति, tiṣṭhati - 立つ、存在する。√स्था, sthā の現在3人称単数パラスマイパダ)
- त्वयि (tvayi) - あなたの内に。(処格、場所を示す)
- लयम् एष्यति (layam eṣyati) - 溶解へと至るであろう。(लयम्, layam - 溶解を; एष्यति, eṣyati - 行くであろう。√इ, i - 行く、の未来3人称単数)
- प्रत्येति (pratyeti) - 還りゆく、戻る。(प्रति एति, prati eti - 〜へ向かって行く。√इ, i の現在3人称単数)
- त्वम् (tvam) - あなたは
- भूमिर्-आपो-ऽनलो-ऽनिलो नभः (bhūmir-āpo-'nalo-'nilo nabhaḥ) - 地、水、火、風、空である。(五大元素。連声形)
- चत्वारि वाक्पदानि (catvāri vākpadāni) - 四つの言葉の階梯。(चत्वारि, catvāri - 四つの; वाक्पदानि, vākpadāni - 言葉の段階。वाच्, vāc - 言葉 + पदानि, padāni - 段階)
解説:
この第5節は、前節でガネーシャが究極的実在「サット・チット・アーナンダ(存在・意識・歓喜)」であることが哲学的に明かされたことを受け、その絶対者が、具体的な宇宙のプロセスとしてどのように現れるのかを荘厳な詩のリズムで描き出す、壮大な宇宙論の詩です。
詩の前半は「この世界の一切は(सर्वं जगदिदम्, sarvaṃ jagadidam)」という、マントラのような力強い反復で構成されています。これは、宇宙のダイナミックな四つの相、すなわち創造・維持・破壊・帰一のすべてが、ガネーシャという唯一の根源から生じ、そこに還っていくという真理を、聴く者の心に深く刻み込む効果を持ちます。
- 創造 (सृष्टि, sṛṣṭi): 「あなたより生まれる(त्वत्तो जायते, tvatto jāyate)」。名も形もなかった根源から、現象世界が顕現する働きです。
- 維持 (स्थिति, sthiti): 「あなたによって存続する(त्वत्तस्तिष्ठति, tvattas tiṣṭhati)」。創造された世界は、ガネーシャの力によってその秩序を保ちます。
- 溶解 (लय, laya): 「あなたの内に溶けゆく(त्वयि लयमेष्यति, tvayi layameṣyati)」。これは宇宙的な終末を指し、すべての形あるものが分解され、根源へと還っていく働きです。
- 帰一 (प्रत्यय, pratyaya): 「あなたのもとへ還りゆく(त्वयि प्रत्येति, tvayi pratyeti)」。この句は、宇宙の終末だけでなく、今この瞬間もあらゆる存在が絶えずその源へと回帰しているという、普遍的な真理を示唆します。
これらの四つの働きは、伝統的にブラフマー(創造神)、ヴィシュヌ(維持神)、シヴァ(破壊神)に配される宇宙の機能です。これら全てをガネーシャの働きとして讃えることで、彼が三神を超越した至高の根本原理であることが示されます。
次に詩は、宇宙の物質的側面へと視点を移し、「あなたは地、水、火、風、空である」と宣言します。これは、ガネーシャが物質宇宙を構成する五大元素(पञ्चमहाभूत, pañcamahābhūta)そのものであることを意味します。これにより、ガネーシャは超越的な創造主であると同時に、私たちの身体を含めた物質世界の根幹をなす、遍在の内なる実在でもあることが明かされます。
そしてこの節は、「あなたは言葉の四つの階梯そのものである(त्वं चत्वारि वाक्पदानि, tvaṃ catvāri vākpadāni)」という、極めて深遠な宣言で締めくくられます。ヴェーダ哲学において、言葉(वाच्, vāc)は宇宙を創造する聖なる力と見なされ、四つの階梯を経て顕現すると考えられています。それは、根源的な超越音(परा, parā)、内なるヴィジョン(पश्यन्ती, paśyantī)、思考としての言葉(मध्यमा, madhyamā)、そして口から発せられる言葉(वैखरी, vaikharī)です。ガネーシャがこの四階梯すべてであるということは、彼が宇宙創造の根源的な振動から、私たちが語る日常の言葉に至るまで、言語と意識の全領域を司る智慧の主であることを示しています。
このように第5節は、時間(宇宙のサイクル)、物質(五大元素)、そして精神(言葉の階梯)という三つの次元において、ガネーシャが宇宙の絶対的な根源であることを包括的に宣言した、荘厳な宇宙賛歌なのです。
第6節
त्वं गुणत्रयातीतः । त्वं अवस्थात्रयातीतः । त्वं देहत्रयातीतः ।
त्वं कालत्रयातीतः । त्वं मूलाधारस्थितोऽसि नित्यम् । त्वं
शक्तित्रयात्मकः ।त्वां योगिनो ध्यायन्ति नित्यम् । त्वं ब्रह्मा त्वं
विष्णुस्त्वं रुद्रस्त्वमिन्द्रस्त्वमग्निस्त्वं वायुस्त्वं सूर्यस्त्वं
चन्द्रमास्त्वं ब्रह्म भूर्भुवः स्वरोम् ॥ ६॥
tvaṃ guṇatrayātītaḥ | tvaṃ avasthātrayātītaḥ | tvaṃ dehatrayātītaḥ |
tvaṃ kālatrayātītaḥ | tvaṃ mūlādhārasthito'si nityam | tvaṃ
śaktitrayātmakaḥ |tvāṃ yogino dhyāyanti nityam | tvaṃ brahmā tvaṃ
viṣṇustvaṃ rudrastvamindrastvamagnistvaṃ vāyustvaṃ sūryastvaṃ
candramāstvaṃ brahma bhūrbhuvaḥ svarom || 6||
あなたは三つのグナを超越する。
あなたは三つの状態を超越する。
あなたは三つの身体を超越する。
あなたは三つの時間を超越する。
あなたはムーラーダーラに常に住まう御方。
あなたは三つの力そのものである。
ヨーガの行者たちは、常にあなたを瞑想する。
あなたはブラフマー、あなたはヴィシュヌ、あなたはルドラ。
あなたはインドラ、あなたはアグニ、あなたはヴァーユ。
あなたはスーリヤ、あなたはチャンドラ。
あなたはブラフマン、地界・空界・天界、そして聖音オームそのものである。
逐語訳:
- त्वम् (tvam) - あなたは
- गुणत्रयातीतः (guṇatrayātītaḥ) - 三つのグナを超越した者(गुणत्रय, guṇatraya, 三つのグナ + अतीत, atīta, 超越した)
- अवस्थात्रयातीतः (avasthātrayātītaḥ) - 三つの状態を超越した者(अवस्थात्रय, avasthātraya, 三つの状態 + अतीत, atīta)
- देहत्रयातीतः (dehatrayātītaḥ) - 三つの身体を超越した者(देहत्रय, dehatraya, 三つの身体 + अतीत, atīta)
- कालत्रयातीतः (kālatrayātītaḥ) - 三つの時間を超越した者(कालत्रय, kālatraya, 三つの時間 + अतीत, atīta)
- मूलाधारस्थितोऽसि (mūlādhārasthito'si) - あなたはムーラーダーラに住まう。(मूलाधारस्थितः असि, mūlādhārasthitaḥ asi の連声形)
- नित्यम् (nityam) - 常に、永遠に(副詞)
- शक्तित्रयात्मकः (śaktitrayātmakaḥ) - 三つの力を本質とする者(शक्तित्रय, śaktitraya, 三つの力 + आत्मक, ātmaka, 〜を本質とする)
- त्वाम् (tvām) - あなたを(二人称単数対格)
- योगिनः (yoginaḥ) - ヨーガの行者たちは(योगिन्, yogin の男性複数主格)
- ध्यायन्ति (dhyāyanti) - 彼らは瞑想する(√ध्यै, dhyai, 瞑想する, 3人称複数現在)
- ब्रह्मा (brahmā) - ブラフマー(創造神)
- विष्णुः (viṣṇuḥ) - ヴィシュヌ(維持神)
- रुद्रः (rudraḥ) - ルドラ(破壊神、シヴァの別名)
- इन्द्रः (indraḥ) - インドラ(神々の王)
- अग्निः (agniḥ) - アグニ(火の神)
- वायुः (vāyuḥ) - ヴァーユ(風の神)
- सूर्यः (sūryaḥ) - スーリヤ(太陽神)
- चन्द्रमास् (candramās) - チャンドラ(月の神)
- ब्रह्म (brahma) - ブラフマン(宇宙の根本原理)
- भूर्भुवः स्वरोम् (bhūrbhuvaḥ svarom) - 地界、空界、天界、そして聖音オーム。(भूः, bhūḥ, 地界; भुवः, bhuvaḥ, 空界; स्वः, svaḥ, 天界; ओम्, om, 聖音 の連声形)
解説:
この第6節は、ガネーシャの本質を、超越性と内在性、一元性と多元性という、インド哲学の最も深遠なテーマを通して描き出す、このウパニシャッドの思想的頂点です。詩は、ガネーシャがあらゆる相対的な世界の限定を超えた絶対者であることと、同時に、この宇宙と私たち自身の内に遍在する根源であることを、荘厳なリズムで宣言します。
詩の前半は「あなたは〜を超越する(त्वं ... अतीतḥ, tvaṃ ... atītaḥ)」という力強い反復によって、ガネーシャの絶対的な超越性を明らかにしていきます。
- 三つのグナ(गुणत्रय, guṇatraya)の超越: サットヴァ(純質・調和)、ラジャス(激質・活動)、タマス(暗質・惰性)という、現象世界を織りなす三つの根本的な性質を超えていること。ガネーシャは、世界のあらゆる変化や対立の根底にある、純粋で不動の実在です。
- 三つの状態(अवस्थात्रय, avasthātraya)の超越: 私たちが日々経験する覚醒、夢、熟睡という三つの意識状態のいずれにも限定されない、第四の純粋意識(तुरीय, turīya)そのものであること。
- 三つの身体(देहत्रय, dehatraya)の超越: 私たちの存在を構成する粗大身(肉体)、微細身(心)、原因身(魂の種子)という三層の衣を超えた、真の自己(アートマン)であること。
- 三つの時間(कालत्रय, kālatraya)の超越: 過去、現在、未来という時間の流れに束縛されない、永遠の「今」に存在する御方であること。
このように、あらゆる限定を超越した絶対者として讃えられた直後、詩は驚くべき転換を見せます。「あなたはムーラーダーラに常に住まう御方(त्वं मूलाधारस्थितोऽसि नित्यम्, tvaṃ mūlādhārasthito'si nityam)」。ムーラーダーラ・チャクラは、人体の根底にあり、大地のように安定した生命エネルギーの座です。超越的な神が、同時に私たちの最も内なる根源に、常に、そして身近に存在しているというこの宣言は、超越と内在が決して矛盾しないという、インド哲学の神髄を示しています。
さらに「あなたは三つの力そのものである(त्वं शक्तित्रयात्मकः, tvaṃ śaktitrayātmakaḥ)」と続きます。これは、意志の力(इच्छाशक्ति, icchāśakti)、行動の力(क्रियाशक्ति, kriyāśakti)、知識の力(ज्ञानशक्ति, jñānaśakti)という、宇宙のあらゆる創造を司る三つの根源的なエネルギーをガネーシャが内包することを示します。彼は静的な超越者であるだけでなく、世界を動かすダイナミックな力そのものでもあるのです。この深遠な真理は、知的理解にとどまらず、「ヨーガの行者たちは、常にあなたを瞑想する」ことによって、実践的に体得されるべきものであることが示されます。
そして詩は、壮大な統合のヴィジョンへと至ります。ブラフマー(創造)、ヴィシュヌ(維持)、ルドラ(破壊)というヒンドゥー教の三大神をはじめ、インドラ、アグニ、ヴァーユ、スーリヤ、チャンドラといったヴェーダの神々が、すべてガネーシャという一つの名のもとに列挙されます。これは、様々な神格として現れる神聖な働きが、すべて唯一の根源であるガネーシャの顕現に他ならないという、多元性の中に一元性を見る、ヒンドゥー教の包括的な世界観を見事に表しています。
この荘厳な賛歌は、究極の宣言で締めくくられます。「あなたはブラフマン、地界(भूः, bhūḥ)・空界(भुवः, bhuvaḥ)・天界(स्वः, svaḥ)、そして聖音オーム(ओम्, om)そのものである」。ガネーシャは、宇宙の絶対原理(ブラフマン)であり、宇宙の全構造(三界)であり、そして宇宙創造の根源音(オーム)であるとされます。これ以上に包括的な宣言はありえません。この一節は、ガネーシャ信仰が、一個の神への祈りから、自己と宇宙の究極的真理を探究する、普遍的な智慧の道へと昇華する瞬間を、見事に描き出しているのです。
第7節
गणादिं पूर्वमुच्चार्य वर्णादिंस्तदनन्तरम् । अनुस्वारः परतरः ।
अर्धेन्दुलसितम् । तारेण ऋद्धम् । एतत्तव मनुस्वरूपम् । गकारः
पूर्वरूपम् । अकारो मध्यमरूपम् । अनुस्वारश्चान्त्यरूपम् ।
बिन्दुरुत्तररूपम् । नादः सन्धानम् । संहिता सन्धिः । सैषा
गणेशविद्या । गणक ऋषिः । निचृद्गायत्री छन्दः ।
श्रीमहागणपतिर्देवता । ॐ गं गणपतये नमः ॥ ७॥
gaṇādiṃ pūrvamuccārya varṇādiṃstadanantaram | anusvāraḥ parataraḥ |
ardhendulasitam | tāreṇa ṛddham | etattava manusvarūpam | gakāraḥ
pūrvarūpam | akāro madhyamarūpam | anusvāraścāntyarūpam |
binduruttararūpam | nādaḥ sandhānam | saṃhitā sandhiḥ | saiṣā
gaṇeśavidyā | gaṇaka ṛṣiḥ | nicṛdgāyatrī chandaḥ |
śrīmahāgaṇapatirdevatā | oṃ gaṃ gaṇapataye namaḥ || 7||
ガナの最初の音をまず発し、ヴァルナの最初の音をその後に。
アヌスヴァーラがさらにその上に続き、半月に照らされ、聖音オームに満たされる。
これこそが、あなたの真言の真なる姿である。
ガ音は第一の相、ア音は中間の相、
アヌスヴァーラは最終の相、ビンドゥはそれらを超えた相。
ナーダがそれらを結合し、サンヒターがその連声となる。
これこそが、ガネーシャの智慧(ヴィディヤー)である。
ガナカが見者(リシ)、ニチュット・ガーヤトリーが韻律(チャンダス)、
聖なる偉大なるガナパティが神格(デーヴァター)である。
オーム、ガン、ガナパティに帰命したてまつる。
逐語訳:
- गणादिम् (gaṇādim) - ガナ(ここではガネーシャ)の最初の音(
ग
音)を。(गण, gaṇa + आदिम्, ādim) - पूर्वम् (pūrvam) - 最初に(副詞)
- उच्चार्य (uccārya) - 発音して(√उद्-चर्, ud-car の絶対分詞)
- वर्णादिम् (varṇādim) - ヴァルナ(音素、ここでは母音
अ
)の最初の音を - तदनन्तरम् (tadanantaram) - その後に
- अनुस्वारः (anusvāraḥ) - アヌスヴァーラ(鼻音化の音
ṃ
) - परतरः (parataraḥ) - さらにその上、その後に
- अर्धेन्दुलसितम् (ardhendulasitam) - 半月(チャンドラビンドゥ)によって輝く
- तारेण (tāreṇa) - ターラ(聖音オーム
ॐ
)によって - ऋद्धम् (ṛddham) - 満たされた、成就された(√ऋध्, ṛdh の過去受動分詞)
- एतत् (etat) - これが
- तव (tava) - あなたの
- मनुस्वरूपम् (manusvarūpam) - 真言(मन्त्र, mantra)の真の姿(स्वरूप, svarūpa)。
मनु
はमन्त्र
の古形 - गकारः (gakāraḥ) -
ग
の音は - पूर्वरूपम् (pūrvarūpam) - 最初の形である
- अकारः (akāraḥ) -
अ
の音は - मध्यमरूपम् (madhyamarūpam) - 中間の形である
- अनुस्वारः च (anusvāraḥ ca) - そしてアヌスヴァーラは
- अन्त्यरूपम् (antyarūpam) - 最後の形である
- बिन्दुः (binduḥ) - ビンドゥ(点、超越的な一点)は
- उत्तररूपम् (uttararūpam) - より上の形、超越の形である
- नादः सन्धानम् (nādaḥ sandhānam) - ナーダ(霊的な響き)が結合である。(異読による。原文の
ṃādaḥ
をnādaḥ
と解釈) - संहिता सन्धिः (saṃhitā sandhiḥ) - サンヒター(音の連続体)がその連声である
- सा एषा (sā eṣā) - そのこれが
- गणेशविद्या (gaṇeśavidyā) - ガネーシャの智慧(ヴィディヤー、秘法)
- गणक ऋषिः (gaṇaka ṛṣiḥ) - ガナカが見者(リシ)である
- निचृद्गायत्री छन्दः (nicṛdgāyatrī chandaḥ) - ニチュット・ガーヤトリーが韻律(チャンダス)である
- श्रीमहागणपतिः देवता (śrīmahāgaṇapatirdevatā) - 聖なる偉大なるガナパティが神格(デーヴァター)である
- ॐ गं गणपतये नमः (oṃ gaṃ gaṇapataye namaḥ) - オーム、ガン、ガナパティに帰命したてまつる。(根本マントラ)
解説:
この第7節は、前節までで展開された壮大な哲学的・宇宙論的な探求が、一つの具体的な「音」へと凝縮される、このウパニシャッドの霊的な心臓部です。ここでは、ガネーシャのビージャ・マントラ(種子真言)である「गं (gaṃ)」の深遠な構造が、マントラ学の精密な知性をもって解き明かされます。抽象的で超越的なブラフマンが、私たちが実際に唱えることのできる、力に満ちた聖なる音としてここに顕現するのです。
まず、詩はマントラ「गं (gaṃ)」の成り立ちを分解して示します。「ガナの最初の音」すなわち「गणपति (gaṇapati)」の「ग (ga)」。「ヴァルナ(音素)の最初の音」すなわちすべての音の根源である母音「अ (a)」。そして、その上に乗る「アヌスヴァーラ(अनुस्वारः, anusvāraḥ)」すなわち鼻音「ं (ṃ)」。この単純な組み合わせが、実は宇宙の創造原理を内包していることが、続く分析で明らかにされます。
詩は、このマントラの各要素を宇宙の三つの相に対応させます。
- ガ音 (गकारः, gakāraḥ) は第一の相 (पूर्वरूपम्, pūrvarūpam) : これは宇宙の「創造」を象徴します。力強い子音の発声は、無からの顕現の始まりです。
- ア音 (अकारः, akāraḥ) は中間の相 (मध्यमरूपम्, madhyamarūpam) : これは宇宙の「維持」を象徴します。母音
अ
はすべての音をつなぎ、支える基盤であり、世界の存続を支える力を表します。 - アヌスヴァーラ (अनुस्वारः, anusvāraḥ) は最終の相 (अन्त्यरूपम्, antyarūpam) : これは宇宙の「溶解(帰一)」を象徴します。口を閉じて発せられる鼻音の響きは、すべての形あるものが内側へ、そして根源へと収斂していく様を表します。
さらに詩は、「ビンドゥ(बिन्दुः, binduḥ)はそれらを超えた相(उत्तररूपम्, uttararūpam)」と宣言します。ビンドゥは、アヌスヴァーラの音の響きが消えた後に残る、無音の「点」、超越的な一点です。これは、創造・維持・破壊という三つのサイクルを超越した、すべてを生み出しすべてを吸収する絶対的な根源、すなわち前節で讃えられたブラフマンそのものです。
「ナーダ(नादः, nādaḥ)がそれらを結合し、サンヒター(संहिता, saṃhitā)がその連声となる」という句は、これらの要素がどのようにして一つの聖なる力となるかを説明します。個別の音(ga, a, ṃ
)は、霊的な響きであるナーダによって結びつけられ、その滑らかな結合(サンディ)が、多様な現象世界が根源において一つであるという真理を、音として体現するのです。
この深遠な分析の後に、「これこそが、ガネーシャの智慧(ヴィディヤー)である」と高らかに宣言されます。これは単なる音韻学の知識ではなく、解脱へと導く神聖な実践的智慧(विद्या, vidyā)なのです。そして、このヴィディヤーが完全な霊的体系であることを示すため、その見者(ऋषि, ṛṣi)、韻律(छन्दः, chandaḥ)、神格(देवता, devatā)が定められます。ガナカ仙によって見出され、ニチュット・ガーヤトリーという特定の韻律を持ち、偉大なるガナパティをその中心に戴くことで、このマントラは個人的な祈りを超えた、普遍的な宇宙の力となるのです。
この節は、壮大なガネーシャへの讃歌を、凝縮された一つのマントラ「ॐ गं गणपतये नमः (oṃ gaṃ gaṇapataye namaḥ)」へと結実させます。それは、信仰(バクティ)、哲学(ジュニャーナ)、そして実践(カルマ/ヨーガ)を結びつける、力強い架け橋なのです。
第8節
एकदन्ताय विद्महे वक्रतुण्डाय धीमहि ।
तन्नो दन्तिः प्रचोदयात् ॥ ८॥
ekadantāya vidmahe vakratuṇḍāya dhīmahi |
tanno dantiḥ pracodayāt || 8||
一本の牙を持つ御方を我らは識り、曲がれる鼻を持つ御方を我らは観想する。
かの牙持つ御者よ、我らを真理へと奮い立たせたまえ。
逐語訳:
- एकदन्ताय (ekadantāya) - 一本の牙を持つ御方のために、御方に向かって。(एक, eka - 一つ + दन्त, danta - 牙、の男性単数与格)
- विद्महे (vidmahe) - 我らは識る、知解する。(√विद्, vid - 知る、の現在1人称複数アートマネーパダ)
- वक्रतुण्डाय (vakratuṇḍāya) - 曲がれる鼻を持つ御方のために、御方に向かって。(वक्र, vakra - 曲がった + तुण्ड, tuṇḍa - 鼻、の男性単数与格)
- धीमहि (dhīmahi) - 我らは観想する、深く瞑想する。(√ध्यै, dhyai - 瞑想する、の令法1人称複数アートマネーパダ)
- तत् (tat) - その御方が。(中性単数主格の代名詞、ここでは
दन्तिः
を指す) - नः (naḥ) - 我らを。(人称代名詞
अस्मद्
の複数対格) - दन्तिः (dantiḥ) - 牙を持つ御者。(
दन्तिन्
- 牙を持つ者、の男性単数主格) - प्रचोदयात् (pracodayāt) - 奮い立たせたまえ、鼓舞したまえ。(प्र-√चुद्, pra-cud - 駆り立てる、促す、の願望法3人称単数)
解説:
この第8節は、前節で「韻律はニチュット・ガーヤトリー」と予告された、ガネーシャに捧げられる神聖な「ガーヤトリー・マントラ」そのものです。ガーヤトリーはヴェーダにおける最も崇高な祈りの形式であり、その普遍的な構造が、ここではガネーシャへの祈りとして見事に表現されています。
この詩節は、ガーヤトリー・マントラの古典的な三部構成を踏襲しています。それは、祈りの対象を「識る」こと(知的認識)、対象に「観想」すること(瞑想的深化)、そして対象からの霊的な働きかけを「祈願」することです。
第一に「一本の牙を持つ御方を我らは識り (एकदन्ताय विद्महे, ekadantāya vidmahe)」。ガネーシャの最も象徴的な姿である「一本の牙 (एकदन्त, ekadanta)」は、単なる外見的特徴ではありません。それは、相対的な二元性(善悪、美醜、自他など)を超越し、すべてを包摂する「一なるもの(ブラフマン)」の智慧を象徴します。また、叙事詩『マハーバーラタ』を口述筆記する際に、聖なる知識を書き留めるため自らの牙を折って筆にしたという神話は、智慧の探求と伝達のためには自己犠牲をも厭わない、深遠な献身の心を教えてくれます。
第二に「曲がれる鼻を持つ御方を我らは観想する (वक्रतुण्डाय धीमहि, vakratuṇḍāya dhīmahi)」。しなやかで力強い「曲がれる鼻 (वक्रतुण्ड, vakratuṇḍa)」は、人生のいかなる障害をも巧みに乗り越え、道を切り開く識別力と実践的な智慧を象徴します。その優美な曲線は、聖音オーム「ॐ (oṃ)」の形にもなぞらえられ、ガネーシャが宇宙創造の根源音そのものであることを示唆します。私たちは、この姿を心に深く観想することで、困難を乗り越える力を内面に育みます。
そして祈願は、力強いクライマックスを迎えます。「かの牙持つ御者よ、我らを真理へと奮い立たせたまえ (तन्नो दन्तिः प्रचोदयात्, tanno dantiḥ pracodayāt)」。ここで使われる動詞「प्रचोदयात् (pracodayāt)」は、単に「導く」という穏やかな意味にとどまりません。それは、内側から突き動かし、霊感を吹き込み、智慧へと「奮い立たせる」という、ダイナミックで力強い働きを意味します。太陽が光で世界を目覚めさせるように、ガネーシャという内なる叡智の光が、私たちの理性を輝かせ、真理の道へと駆り立ててくれるよう祈るのです。
前節で示されたビージャ・マントラ「गं (gaṃ)」が凝縮された力の「種子」だとすれば、このガーヤトリー・マントラは、その種子から開花した美しい「花」にたとえられます。音の持つ潜在的な力が、ここでは意味と祈願を伴う具体的な意識の働きへと展開されています。このマントラを唱えることは、ガネーシャの姿を通して、自己の内にある「一元の智慧」と「実践的な識別力」を目覚めさせ、霊的な成長への神聖な後押しを求める、普遍的で力強い祈りの実践なのです。
第9節
एकदन्तं चतुर्हस्तं पाशमङ्कुशधारिणम् । रदं च वरदं
हस्तैर्बिभ्राणं मूषकध्वजम् । रक्तं लम्बोदरं शूर्पकर्णकं
रक्तवाससम् । रक्तगन्धानुलिप्ताङ्गं रक्तपुष्पैः सुपूजितम् ।
भक्तानुकम्पिनं देवं जगत्कारणमच्युतम् । आविर्भूतं च
सृष्ट्यादौ प्रकृतेः पुरुषात्परम् । एवं ध्यायति यो नित्यं स
योगी योगिनां वरः ॥ ९॥
ekadantaṃ caturhastaṃ pāśamaṅkuśadhāriṇam | radaṃ ca varadaṃ
hastairbibhrāṇaṃ mūṣakadhvajam | raktaṃ lambodaraṃ śūrpakarṇakaṃ
raktavāsasam | raktagandhānuliptāṅgaṃ raktapuṣpaiḥ supūjitam |
bhaktānukampinaṃ devaṃ jagatkāraṇamacyutam | āvirbhūtaṃ ca
sṛṣṭyādau prakṛteḥ puruṣātparam | evaṃ dhyāyati yo nityaṃ sa
yogī yogināṃ varaḥ || 9||
一本の牙を持ち、四つの腕を持つ御方。
縄(パーシャ)と象鉤(アンクシャ)を携え、
折れた牙と恵みの印(ヴァラダ)をその手に示し、鼠を旗印とする御方。
紅きお姿で、豊かなる腹、箕のごとき耳を持ち、
紅き衣をまとい、紅き香料をその身に塗り、紅き花々で篤く祀られる御方。
信者に慈悲深き神、世界の揺るぎなき根本原因、
創造の初めに顕現し、原質(プラクリティ)と純粋精神(プルシャ)をも超越する御方。
このように常に瞑想する者こそ、まことにヨーガ行者のなかの至高の行者である。
逐語訳:
- एकदन्तम् (ekadantam) - 一本の牙を持つ御方を。(eka, 一つ + danta, 牙。男性単数対格)
- चतुर्हस्तम् (caturhastam) - 四つの腕を持つ御方を。(catur, 四つ + hasta, 腕。男性単数対格)
- पाशमङ्कुशधारिणम् (pāśamaṅkuśadhāriṇam) - 縄(pāśa)と象鉤(aṅkuśa)を持つ御方を。(男性単数対格)
- रदम् (radam) - (折れた)牙を。(男性単数対格)
- च (ca) - そして
- वरदम् (varadam) - 恵みを与える印(ヴァラダ・ムドラー)を。(男性単数対格)
- हस्तैः (hastaiḥ) - 手によって。(hasta, 手。具格複数)
- बिभ्राणम् (bibhrāṇam) - 持つ、携える御方を。(√भृ, bhṛ, 持つ。現在分詞男性単数対格)
- मूषकध्वजम् (mūṣakadhvajam) - 鼠を旗印とする御方を。(mūṣaka, 鼠 + dhvaja, 旗。男性単数対格)
- रक्तम् (raktam) - 紅き御方を。(rakta, 紅い。男性単数対格)
- लम्बोदरम् (lambodaram) - 大きな腹を持つ御方を。(lamba, 垂れた + udara, 腹。男性単数対格)
- शूर्पकर्णकम् (śūrpakarṇakam) - 箕のような耳を持つ御方を。(śūrpa, 箕 + karṇaka, 耳。男性単数対格)
- रक्तवाससम् (raktavāsasam) - 紅い衣をまとった御方を。(rakta, 紅い + vāsas, 衣。男性単数対格)
- रक्तगन्धानुलिप्ताङ्गम् (raktagandhānuliptāṅgam) - 紅い香料を身体に塗られた御方を。(rakta, 紅い + gandha, 香料 + anulipta, 塗られた + aṅga, 身体。男性単数対格)
- रक्तपुष्पैः (raktapuṣpaiḥ) - 紅い花々によって。(rakta, 紅い + puṣpa, 花。具格複数)
- सुपूजितम् (supūjitam) - 篤く崇拝される御方を。(su, 良く + pūjita, 崇拝された。男性単数対格)
- भक्तानुकम्पिनम् (bhaktānukampinam) - 信者に慈悲深き御方を。(bhakta, 信者 + anukampin, 慈悲深い。男性単数対格)
- देवम् (devam) - 神を。(deva, 神。男性単数対格)
- जगत्कारणम् (jagatkāraṇam) - 世界の原因たる御方を。(jagat, 世界 + kāraṇa, 原因。男性単数対格)
- अच्युतम् (acyutam) - 不動・不滅なる御方を。(acyuta, 揺るがない。男性単数対格)
- आविर्भूतम् (āvirbhūtam) - 顕現された御方を。(āvirbhūta, 顕現した。男性単数対格)
- च (ca) - そして
- सृष्ट्यादौ (sṛṣṭyādau) - 創造の初めに。(sṛṣṭi, 創造 + ādau, 初めに。処格)
- प्रकृतेः पुरुषात्परम् (prakṛteḥ puruṣātparam) - 原質(prakṛti)と純粋精神(puruṣa)をも超越した御方を。(奪格 + param, 超越した)
- एवम् (evam) - このように。(副詞)
- ध्यायति (dhyāyati) - 瞑想する。(√ध्यै, dhyai, 瞑想する。現在3人称単数)
- यः (yaḥ) - 〜する者。(関係代名詞、男性単数主格)
- नित्यम् (nityam) - 常に。(副詞)
- स (sa) - その者は。(指示代名詞、男性単数主格)
- योगी (yogī) - ヨーガ行者。(yogin, 男性単数主格)
- योगिनाम् (yoginām) - ヨーガ行者たちの。(yogin, 男性複数属格)
- वरः (varaḥ) - 至高の者。(vara, 最高の。男性単数主格)
解説:
この第9節は、信者が心に描くべきガネーシャの具体的な姿を詳述する、「ディヤーナ・シュローカ」(ध्यान श्लोक, dhyāna śloka)、すなわち瞑想のための詩節です。ここでは、神の具体的な姿(सगुण, saguṇa)の描写を通じて、その奥にある深遠な哲理、すなわち無相(निर्गुण, nirguṇa)の絶対者としての本質へと、私たちの意識が巧みに導かれます。
詩はまず、ガネーシャの象徴的な姿を鮮やかに描き出します。四本の腕は、神が人間の限界を超えた力で、世界の四方を治めることを示します。その手には、縄(पाश, pāśa)と象鉤(अङ्कुश, aṅkuśa)が握られています。縄は、世俗的な欲望に彷徨う心を神へと引き寄せる慈悲の綱であり、象鉤は、暴走しがちな思考を制御し、正しい道へと導く識別の力です。また、自らの折れた牙(रद, rada)は、聖典を書き記すための犠牲と献身を、そして恵みの印(वरद, varada)を結ぶ手は、信者の願いを叶える無限の恩寵を象徴します。小さな鼠(मूषक, mūṣaka)を乗り物とすることは、最も小さな存在をも支配下に置き、欲望という乗り物を完全に制御していることを示しています。
次に詩は、「紅(रक्त, rakta)」という色彩を繰り返し用いることで、瞑想のイメージを深めます。紅色は生命の躍動、創造のエネルギー、そしてバクティ(信愛)に応える神の情熱的な慈愛を象徴します。宇宙のすべてを内包する豊かなる腹(लम्बोदर, lambodara)、そして信者のどのような小さな祈りも聴き逃さない箕のごとき耳(शूर्पकर्णक, śūrpakarṇaka)。紅い衣、紅い香料、紅い花々に包まれたそのお姿は、慈愛と活気に満ちた、親しみやすい神の姿を私たちの心に刻みつけます。
しかし、この詩の真髄は、この親しみやすい形象の描写から、一気に宇宙的な哲理へと飛躍するところにあります。ガネーシャは「信者に慈悲深き神」であると同時に、「世界の揺るぎなき根本原因(जगत्कारणमच्युतम्, jagatkāraṇamacyutam)」であり、「創造の初めに顕現した」根源的な存在であると宣言されます。そして極めつけは、「原質(प्रकृति, prakṛti)と純粋精神(पुरुष, puruṣa)をも超越する御方」という一節です。これは、物質と精神の二元論を説くサーンキヤ哲学の枠組みをも超えた、究極の一元論(不二一元論)の視点に立つことを示します。ガネーシャは、現象世界のあらゆる対立を生み出す二つの原理すらも超えた、絶対的な唯一の実在なのです。
この壮大な詩は、力強い約束の言葉で結ばれます。「このように常に瞑想する者こそ、まことにヨーガ行者のなかの至高の行者である」。これは、この瞑想法が単なる偶像崇拝ではなく、具体的な形( साकार, sākāra)を手がかりとして、形のない絶対者(निराकार, nirākāra)を悟るための、完成された霊的実践であることを示唆します。この節に示された通りに瞑想を深めることは、神の姿を内面に描き、その象徴性を理解し、そして最終的には自己と宇宙の究極的真理へと至る、確かなヨーガの道なのです。
第10節
नमो व्रातपतये नमो गणपतये नमः प्रमथपतये नमस्तेऽस्तु
लम्बोदराय एकदन्ताय विघ्नविनाशिने शिवसुताय श्रीवरदमूर्तये
नमः ॥ १०॥
namo vrātapataye namo gaṇapataye namaḥ pramathapataye namaste'stu
lambodarāya ekadantāya vighnavināśine śivasutāya śrīvaradamūrtaye
namaḥ || 10||
聖団の主に帰命し、神群の主に帰命し、眷属の主に帰命す。
あなたに礼拝あれ。豊かなる腹を持つ御方、一本の牙を持つ御方、
障害を打ち砕く御方、シヴァの御子、聖なる恩寵の御姿に、
帰命したてまつる。
逐語訳:
- नमः (namaḥ) - 帰命、礼拝。(不変化詞)
- व्रातपतये (vrātapataye) - 聖団の主に。(vrāta, 聖団 + pati, 主。男性単数与格)
- नमः (namaḥ) - 帰命、礼拝
- गणपतये (gaṇapataye) - 神群の主に。(gaṇa, 神群 + pati, 主。男性単数与格)
- नमः (namaḥ) - 帰命、礼拝
- प्रमथपतये (pramathapataye) - 眷属の主に。(pramatha, 眷属 + pati, 主。男性単数与格)
- नमः ते अस्तु (namaste'stu) - あなたに礼拝あれ。(namas, 礼拝 + te, あなたに + astu, あらんことを)
- नमः (namas) - 礼拝が。(
namas
が連声したもの) - ते (te) - あなたに。(二人称単数与格)
- अस्तु (astu) - あらんことを。(√अस्, as - ある、の願望法3人称単数)
- नमः (namas) - 礼拝が。(
- लम्बोदराय (lambodarāya) - 豊かなる腹を持つ御方へ。(lamba, 垂れた + udara, 腹。男性単数与格)
- एकदन्ताय (ekadantāya) - 一本の牙を持つ御方へ。(eka, 一つ + danta, 牙。男性単数与格)
- विघ्नविनाशिने (vighnavināśine) - 障害を破壊する御方へ。(vighna, 障害 + vināśin, 破壊者。男性単数与格)
- शिवसुताय (śivasutāya) - シヴァの御子へ。(śiva, シヴァ + suta, 息子。男性単数与格)
- श्रीवरदमूर्तये (śrīvaradamūrtaye) - 聖なる恩寵の御姿へ。(śrī, 聖なる + varada, 恩寵を与える + mūrti, 姿。女性単数与格)
- नमः (namaḥ) - 帰命、礼拝
解説:
この第10節は、前節で示された静かな瞑想(ध्यान, dhyāna)の境地から、心からの帰依を捧げる動的な礼拝(नमस्कार, namaskāra)へと、祈りの様相を見事に転換させます。ここではガネーシャの八つの神聖な称号が、帰命の言葉「नमः (namaḥ)」と共に繰り返し唱えられ、一つの力強い礼拝のマントラを形成します。これは、高遠な哲学的理解が、具体的な信愛(भक्ति, bhakti)の行為へと結実する瞬間です。
詩はまず、ガネーシャの宇宙的な統率者としての三つの側面を讃えます。
- व्रातपति (vrātapati):聖団の主。これは霊的な探求の道を共に歩む、あらゆる共同体の守護者としての姿です。
- गणपति (gaṇapati):神群の主。これは父シヴァ神に仕える神々の従者団(गण, gaṇa)を統べる、天界における彼の権威を示します。
- प्रमथपति (pramathapataye):眷属の主。これはシヴァの眷属の中でも特に勇猛な戦士団(प्रमथ, pramatha)を率いる、力強い指導者としての姿です。
これら三つの「主(पति, pati)」としての称号は、ガネーシャが個人の救済者であるだけでなく、霊的、神的、さらには宇宙の秩序そのものを統べる偉大なる統治者であることを明らかにします。
続く五つの称号は、ガネーシャの具体的な御姿と、その働きが持つ深遠な象徴性を讃えます。「豊かなる腹を持つ御方(लम्बोदर, lambodara)」は宇宙のすべてを内包する包容力を、「一本の牙を持つ御方(एकदन्त, ekadanta)」は二元性を超えた一なる真理と、聖なる目的のための自己犠牲を象徴します。そして「障害を打ち砕く御方(विघ्नविनाशिन्, vighnavināśin)」という称号は、ガネーシャ信仰のまさに核心です。これは、私たちの人生における外面的な困難だけでなく、悟りを妨げる無知や慢心といった内面的な障害をも打ち砕く、神の絶対的な力を表しています。「シヴァの御子(शिवसुत, śivasuta)」という名は、彼の神聖な系譜と、破壊と再生を司る大いなる力との繋がりを示し、最後の「聖なる恩寵の御姿(श्रीवरदमूर्ति, śrīvaradamūrti)」は、その威厳に満ちた存在が、信者に対しては限りなく慈悲深く、恩寵を授ける美しい姿として顕現することを讃えています。
この詩節で繰り返される「नमः (namaḥ)」という言葉は、単なる敬意の表明以上の意味を持ちます。それは「私のものではない」という語源が示すように、自己の存在、自我を神の御前に完全に明け渡す「全託、降伏(शरणागति, śaraṇāgati)」という、深遠な霊的実践です。このマントラを唱えることは、言葉と心と身体をもって神に帰依する行為であり、前節で深めた瞑想的な理解を、全身全霊での体験へと昇華させます。かくして、このウパニシャッドが説く哲学的真理は、この力強い帰依の祈りを通して、私たちの生きる力となるのです。
第11節
एतदथर्वशीर्षं योऽधीते । स ब्रह्मभूयाय कल्पते । स
सर्वविघ्नैर्न बाध्यते । स सर्वतः सुखमेधते । स पञ्चमहापापात्
प्रमुच्यते । सायमधीयानो दिवसकृतं पापं नाशयति ।
प्रातरधीयानो रात्रिकृतं पापं नाशयति । सायं प्रातः
प्रयुञ्जानः पापोऽपापो भवति । धर्मार्थकाममोक्षं च विन्दति ।
इदमथर्वशीर्षमशिष्याय न देयम् । यो यदि मोहाद् दास्यति । स
पापीयान् भवति । सहस्रावर्तनाद्यं यं काममधीते । तं तमनेन
साधयेत् ॥ ११॥
etadatharvaśīrṣaṃ yo'dhīte | sa brahmabhūyāya kalpate | sa
sarvavighnairna bādhyate | sa sarvataḥ sukhamedhate | sa pañcamahāpāpāt
pramucyate | sāyamadhīyāno divasakṛtaṃ pāpaṃ nāśayati |
prātaradhīyāno rātrikṛtaṃ pāpaṃ nāśayati | sāyaṃ prātaḥ
prayuñjānaḥ pāpo'pāpo bhavati | dharmārthakāmamokṣaṃ ca vindati |
idamatharvaśīrṣamaśiṣyāya na deyam | yo yadi mohād dāsyati | sa
pāpīyān bhavati | sahasrāvartanādyaṃ yaṃ kāmamadhīte | taṃ tamanena
sādhayet || 11||
このアタルヴァシールシャを修める者は、ブラフマンと成るにふさわしき者となる。
その者は、あらゆる障害に妨げられることなく、すべてのところから幸福が栄えきたる。
その者は、五つの大罪から解き放たれる。
夕べにこれを誦えれば、日中になした罪を滅し、
朝にこれを誦えれば、夜のうちになした罪を滅す。
朝夕にこれを修める者は、罪ある身も罪なき身となる。
そして、法(ダルマ)、実利(アルタ)、愛欲(カーマ)、解脱(モークシャ)のすべてを得る。
このアタルヴァシールシャは、弟子にあらざる者に授けてはならない。
もし迷妄よりこれを授けるならば、その者はより重き罪を負う者となる。
千回これを反復し、いかなる願いを込めて誦えようとも、
これによってその願いは成就されるであろう。
逐語訳:
- एतत् (etat) - この。(指示代名詞、中性単数対格)
- अथर्वशीर्षम् (atharvaśīrṣam) - アタルヴァシールシャを。(中性単数対格)
- यः (yaḥ) - 〜する者。(関係代名詞、男性単数主格)
- अधीते (adhīte) - 修める、学習する。(√अधि-इ, adhi-i - 学ぶ、の現在3人称単数アートマネーパダ)
- स (sa) - その者は。(指示代名詞、男性単数主格)
- ब्रह्मभूयाय (brahmabhūyāya) - ブラフマンと成ることのために、その本質に達するために。(brahman, ブラフマン + bhūya, 存在すること、の与格)
- कल्पते (kalpate) - ふさわしくなる、資格を得る。(√कृप्, kṛp - 適合する、の現在3人称単数アートマネーパダ)
- सर्वविघ्नैः (sarvavighnaiḥ) - すべての障害によって。(sarva, 全ての + vighna, 障害、の具格複数)
- न बाध्यते (na bādhyate) - 妨げられない、悩まされない。(na, 否定詞 + √बाध्, bādh - 苦しめる、の受動態現在3人称単数)
- सर्वतः (sarvataḥ) - すべてのところから、あらゆる方面から。(副詞)
- सुखम् (sukham) - 幸福が。(名詞、中性単数主格または対格)
- एधते (edhate) - 栄える、繁栄する。(√एध्, edh - 栄える、の現在3人称単数アートマネーパダ)
- पञ्चमहापापात् (pañcamahāpāpāt) - 五つの大罪から。(pañca, 五 + mahāpāpa, 大罪、の奪格単数)
- प्रमुच्यते (pramucyate) - 解き放たれる。(प्र-√मुच्, pra-muc - 解放する、の受動態現在3人称単数)
- सायम् (sāyam) - 夕べに。(副詞)
- अधीयानः (adhīyānaḥ) - 読誦する者は。(√अधि-इ, adhi-iの現在分詞、男性単数主格)
- दिवसकृतं पापम् (divasakṛtaṃ pāpam) - 日中になされた罪を。(divasakṛta, 日中になされた + pāpa, 罪、の対格)
- नाशयति (nāśayati) - 滅ぼす。(√नश्, naś - 滅びる、の使役現在3人称単数)
- प्रातः (prātaḥ) - 朝に。(副詞)
- रात्रिकृतं पापम् (rātrikṛtaṃ pāpam) - 夜になされた罪を。(rātrikṛta, 夜になされた + pāpa, 罪、の対格)
- प्रयुञ्जानः (prayuñjānaḥ) - 修める者は、用いる者は。(प्र-√युज्, pra-yuj - 用いる、の現在分詞、男性単数主格)
- पापः (pāpaḥ) - 罪ある者も
- अपापः (apāpaḥ) - 罪なき者。(a-pāpaḥ, 否定接頭辞+罪)
- भवति (bhavati) - となる。(√भू, bhū - ある、の現在3人称単数)
- धर्मार्थकाममोक्षम् (dharmārthakāmamokṣam) - 法・実利・愛欲・解脱を。(複合語、対格)
- च (ca) - そして
- विन्दति (vindati) - 得る、見出す。(√विद्, vid - 見出す、の現在3人称単数)
- इदम् अथर्वशीर्षम् (idam atharvaśīrṣam) - このアタルヴァシールシャは
- अशिष्याय (aśiṣyāya) - 弟子にあらざる者に。(a-śiṣya, 否定+弟子、の与格)
- न देयम् (na deyam) - 授けるべきではない。(na, 否定詞 + √दा, dā - 与える、の可能受動分詞)
- यदि मोहात् दास्यति (yadi mohāt dāsyati) - もし迷妄から授けるならば。(yadi, もし + mohāt, 迷妄から + √दा, dā - 与える、の未来3人称単数)
- स पापीयान् भवति (sa pāpīyān bhavati) - その者は、より重き罪を負う者となる。(pāpīyān - pāpin の比較級)
- सहस्रावर्तनात् (sahasrāvartanāt) - 千回の反復によって。(sahasra, 千 + āvartana, 反復、の奪格。具格の意で用いられる)
- यं यं कामम् (yaṃ yaṃ kāmam) - いかなる願いをも。(関係代名詞の反復、強調)
- तं तम् अनेन साधयेत् (taṃ tam anena sādhayet) - その願いをこれによって成就するであろう。(指示代名詞の反復 + anena, これによって + √साध्, sādh - 成就する、の願望法3人称単数)
解説:
この第11節は「功徳章(फलश्रुति, phalaśruti)」と称される部分で、このウパニシャッドを学び、実践することによって得られる、霊的および現世的な恩恵を詳述します。それは、この聖典が単なる哲学的思弁ではなく、人生を変容させる力を持つ、生きた智慧であることを示しています。
まず、この教えがもたらす究極の目的が、「ブラフマンと成るにふさわしき者となる(ब्रह्मभूयाय कल्पते, brahmabhūyāya kalpate)」と宣言されます。これは、人間の目指しうる最高の境地です。単にブラフマンについての知識を得るのではなく、自己の本質が究極的実在であると体得し、その境地に至るための資質と能力が、この聖典の実践を通じて養われることを意味します。これは、不二一元論(アドヴァイタ・ヴェーダーンタ)の理想そのものであり、このウパニシャッドが最高の霊的解放へと至る道であることを示唆します。
続いて、より具体的な功徳が説かれます。ガネーシャが「障害を打ち砕く御方(विघ्नविनाशिन्, vighnavināśin)」であるように、この聖典を修める者は「あらゆる障害に妨げられる」ことがありません。これには、外的な困難のみならず、悟りを妨げる無知や煩悩といった内的な障りも含まれます。そして「すべてのところから幸福が栄えきたる」と約束され、「五つの大罪(पञ्चमहापाप, pañcamahāpāpa)」という最も重いカルマからも解き放たれるという、絶大な浄化の力が示されます。
特に注目すべきは、朝夕の読誦による日々の浄化です。これは、私たちの意識的な実践が、日々の行いによって生じるカルマに直接働きかけることを教えます。罪を犯したとしても、真摯な祈りによって日々心を洗い清め、「罪ある身も罪なき身となる」ことができるという希望のメッセージは、継続的な霊的修練の価値を深く教えてくれます。
さらに、この実践は、インドの伝統が理想とする人生の四大目的「法(धर्म, dharma)、実利(अर्थ, artha)、愛欲(काम, kāma)、解脱(मोक्ष, mokṣa)」のすべてを成就させると説きます。これは、この聖典が、霊的な理想の追求と、健全で豊かな社会生活とを切り離さず、人生のあらゆる側面を調和させ、充足させる力を持つことを意味します。
しかし、これほどまでに力強い教えには、厳格な条件が伴います。「弟子にあらざる者に授けてはならない」という戒めは、この知識が、師から弟子へと人格的な信頼関係の中で受け継がれるべき「秘伝(गुह्य, guhya)」であることを示しています。無分別にこれを他者に与えることは、聖なる教えの価値を損なうだけでなく、授けた者自身が「より重き罪を負う」という、霊的な責任の重さを警告しています。
最後に、この聖典のマントラとしての力が強調されます。「千回これを反復」することで、いかなる願いも成就されるという約束は、信仰(シュラッダー)、意図(サンカルパ)、そして音の力(マントラ・シャクティ)が一体となった時、それが現実を創造する力を持つことを示します。このように第11節は、究極の解脱から日々の心の平安、そして現世的な願望の成就に至るまで、このガネーシャへの祈りが、人生のあらゆる次元に働きかける、包括的で力強い霊的実践であることを明らかにしているのです。
第12節
अनेन गणपतिमभिषिञ्चति । स वाग्मी भवति । चतुर्थ्यामनश्नन् जपति । स विद्यावान् भवति । इत्यथर्वणवाक्यम् । ब्रह्माद्याचरणं विद्यान्न बिभेति कदाचनेति ॥ १२॥
anena gaṇapatimabhiṣiñcati | sa vāgmī bhavati | caturthyāmanaśnan japati | sa vidyāvān bhavati | ityatharvaṇavākyam | brahmādyācaraṇaṃ vidyānna bibheti kadācaneti || 12||
これによってガナパティに灌浴を捧げる者は、雄弁なる者となる。
聖なる第四の日に食を断ちこれを唱える者は、智慧ある者となる。
これはアタルヴァの聖言である。
このブラフマンへと至る道を識る者は、何ものをも、いかなる時も恐れることはない。
逐語訳:
- अनेन (anena) - これによって。(指示代名詞、中性単数具格)
- गणपतिम् (gaṇapatim) - ガナパティを。(男性単数対格)
- अभिषिञ्चति (abhiṣiñcati) - 灌浴を捧げる。(अभि-√सिच्, abhi-sic - 注ぐ、の現在3人称単数)
- स (sa) - その者は。(指示代名詞、男性単数主格)
- वाग्मी (vāgmī) - 雄弁なる者。(vāgmin, 弁舌に長けた者、男性単数主格)
- भवति (bhavati) - となる。(√भू, bhū - ある、の現在3人称単数)
- चतुर्थ्याम् (caturthyām) - 第四の日に。(caturthī, 第四の日。女性単数処格)
- अनश्नन् (anaśnan) - 食を断ち。(√अश्, aś - 食べる、の否定現在分詞、男性単数主格)
- जपति (japati) - 唱える。(√जप्, jap - 唱える、の現在3人称単数)
- स (sa) - その者は
- विद्यावान् (vidyāvān) - 智慧ある者。(vidyāvant, 知識を有する、男性単数主格)
- भवति (bhavati) - となる
- इति (iti) - このように。(引用の始まりを示す不変化詞)
- अथर्वणवाक्यम् (atharvaṇavākyam) - アタルヴァの聖言。(atharvaṇa, アタルヴァ仙 + vākya, 言葉。中性単数主格)
- ब्रह्माद्याचरणं विद्यान्न बिभेति कदाचनेति (brahmādyācaraṇaṃ vidyānna bibheti kadācaneti) - このブラフマンへと至る道を識る者は、何ものをも、いかなる時も恐れることはない、と
- ब्रह्माद्याचरणम् (brahmādyācaraṇam) - ブラフマンへと至る行いを。(brahma, ブラフマン + ādi, はじめとする + ācaraṇa, 実践。対格)
- विद्यान् (vidyān) - 知る者は。(vidvas, 知る者、の男性単数主格 vidvān が連声したもの)
- न बिभेति (na bibheti) - 恐れない。(na, 否定詞 + √भी, bhī - 恐れる、の現在3人称単数)
- कदाचन (kadācana) - 決して、いかなる時も。(副詞)
- इति (iti) - と。(引用の終わりを示す不変化詞)
解説:
この第12節は、前節で約束された壮大な功徳(फलश्रुति, phalaśruti)が、いかにして具体的な霊的実践(साधन, sādhana)を通じて成就されるかを示します。ここでは、ガネーシャ信仰における二つの重要な儀礼が提示され、それらがもたらす恩恵と、その実践が導く究極の境地が明らかにされます。
まず、「これによってガナパティに灌浴を捧げる者は、雄弁なる者となる」と説かれます。「これによって」とは、このアタルヴァシールシャのマントラを唱えながら行うことを指します。灌浴(अभिषेक, abhiṣeka)は、神像に水や牛乳などの聖なる液体を注ぎかける儀礼です。この行為によって得られる「雄弁(वाग्मी, vāgmī)」とは、単に言葉巧みになることではありません。ガネーシャが言葉(वाच्, vāc)と智慧の神であることから、これは真理を洞察し、人々の心に響く力強い言葉を発する能力、すなわち聖なる言葉の力(मन्त्रशक्ति, mantraśakti)の顕現を意味します。
次に、「聖なる第四の日に食を断ちこれを唱える者は、智慧ある者となる」と、もう一つの実践が示されます。第四の日(चतुर्थी, caturthī)は、月の満ち欠けにおける周期で、ガネーシャに捧げられた最も吉兆な日です。この日に食を断ち(अनश्नन्, anaśnan)、マントラを唱える(जपति, japati)ことは、身体と感覚を浄化し、心を神聖な波動に集中させるための強力な修行です。これによって得られる「智慧(विद्यावान्, vidyāvān)」は、世俗的な知識(ज्ञान, jñāna)を超えた、自己と宇宙の真理を直観する霊的な智慧(विद्या, vidyā)です。
「これはアタルヴァの聖言である(इत्यथर्वणवाक्यम्, ityatharvaṇavākyam)」という一節は、これらの実践が、アタルヴァヴェーダの伝統に連なる聖仙アタルヴァン(अथर्वन्, atharvan)によって伝えられた、権威ある教えであることを保証します。これは、これらの儀礼が単なる慣習ではなく、霊的な法則に基づいた確かな効果を持つ技法であることを示しています。
この節の締めくくりは、この教えの核心を突く、深遠な宣言です。「このブラフマンへと至る道を識る者は、何ものをも、いかなる時も恐れることはない」。ここで「ブラフマンへと至る道(ब्रह्माद्याचरणम्, brahmādyācaraṇam)」とは、このウパニシャッド全体が示す、ガネーシャへの信愛と実践を通じて、究極的実在であるブラフマンを悟るための道程そのものを指します。この道を単に知るだけでなく、真に体得した「識者(विद्यान्, vidvān)」は、あらゆる二元的な対立を超越し、存在の根源にある不動の平安に達します。それは、ウパニシャッド哲学が説く最高の境地の一つである「無畏(अभय, abhaya)」、すなわち、いかなる状況においても揺らぐことのない、絶対的な安心の境地です。このように本節は、具体的な儀礼から出発し、それが究極の哲学的真理の体得と、恐怖からの完全な解放へと至る道であることを、力強く示しているのです。
第13節
यो दूर्वाङ्कुरैर्यजति । स वैश्रवणोपमो भवति । यो लाजैर्यजति । स
यशोवान् भवति । स मेधावान् भवति । यो मोदकसहस्रेण यजति स
वाञ्छितफलमवाप्नोति । यः साज्य समिद्भिर्यजति । स सर्वं लभते
स सर्वं लभते ॥ १३॥
yo dūrvāṅkurairyajati | sa vaiśravaṇopamo bhavati | yo lājairyajati | sa
yaśovān bhavati | sa medhāvān bhavati | yo modakasahasreṇa yajati sa
vāñchitaphalamavāpnoti | yaḥ sājya samidbhiryajati | sa sarvaṃ labhate
sa sarvaṃ labhate || 13||
ドゥールヴァ草の新芽をもって祭祀を捧げる者は、ヴァイシュラヴァナに等しき者となる。
炒り米をもって祭祀を捧げる者は、名声と智慧ある者となる。
千のモーダカをもって祭祀を捧げる者は、願望の果実を得る。
ギーを注ぎし薪をもって祭祀を捧げる者は、一切を得る、一切を得る。
逐語訳:
- यः (yaḥ) - 〜する者。(関係代名詞、男性単数主格)
- दूर्वाङ्कुरैः (dūrvāṅkuraiḥ) - ドゥールヴァ草の新芽をもって。(dūrvāṅkura, ドゥールヴァ草の新芽。男性複数具格)
- यजति (yajati) - 祭祀を捧げる。(√यज्, yaj - 祭祀する。現在3人称単数パラズマイパダ)
- स (sa) - その者は。(指示代名詞、男性単数主格)
- वैश्रवणोपमः (vaiśravaṇopamaḥ) - ヴァイシュラヴァナ(クベーラ神)に等しき者。(vaiśravaṇa, クベーラ + upama, 〜に等しい。男性単数主格)
- भवति (bhavati) - となる。(√भू, bhū - ある。現在3人称単数パラズマイパダ)
- लाजैः (lājaiḥ) - 炒り米をもって。(lāja, 炒り米。男性複数具格)
- यशोवान् (yaśovān) - 名声ある者。(yaśasvat, 名声を有する。男性単数主格)
- मेधावान् (medhāvān) - 智慧ある者。(medhāvat, 智慧を有する。男性単数主格)
- मोदकसहस्रेण (modakasahasreṇa) - 千のモーダカをもって。(modakasahasra, 千のモーダカ。中性単数具格)
- वाञ्छितफलम् (vāñchitaphalam) - 願望の果実を。(vāñchita, 願われた + phala, 果実。中性単数対格)
- अवाप्नोति (avāpnoti) - 得る、達成する。(अव-√आप्, ava-āp - 獲得する。現在3人称単数パラズマイパダ)
- यः (yaḥ) - 〜する者
- साज्य समिद्भिः (sājya samidbhiḥ) - ギー(澄ましバター)を注がれた薪をもって。(sājya, ギーと共にある + samit, 祭火用の薪。女性複数具格)
- यजति (yajati) - 祭祀を捧げる
- स (sa) - その者は
- सर्वम् (sarvam) - 一切を、すべてを。(sarva, すべて。中性単数対格)
- लभते (labhate) - 得る。(√लभ्, labh - 得る。現在3人称単数アートマネーパダ。強調のための反復)
解説:
この第13節は、前節で示された内的な修行に続き、具体的な供物を用いた外面的な礼拝、すなわち供養(पूजा, pūjā)がもたらす深遠な功徳を明らかにします。ここで説かれる四種の供物は、それぞれが象徴する意味を通じて、ガネーシャ神が信者の人生のあらゆる側面に働きかけ、豊かさをもたらすことを示しています。
第一に、ドゥールヴァ草の新芽(दूर्वाङ्कुर, dūrvāṅkura)による供養が挙げられます。この草は、踏まれても枯れず、驚異的な生命力で瞬く間に再生することから、不死と永遠の繁栄の象徴とされます。一説には、神々が不死の霊薬アムリタを運ぶ際、その一滴が地上に落ちて生じたのがドゥールヴァ草であると伝えられます。この生命の化身ともいえる聖草を捧げる者は、富と繁栄の神であり、北方を守護するヴァイシュラヴァナ(वैश्रवण, vaiśravaṇa)、すなわちクベーラ神に等しい豊かさを得るとされます。これは単なる物質的な富裕ではなく、生命力そのものに満ちた、霊的な福徳に輝く境地を意味します。
第二に、炒り米(लाज, lāja)による供養です。生の米が火によって炒られることで、香ばしく軽やかな存在へと変容するように、この供物は「変容」を象徴します。これは、私たちの未熟な知識が、智慧の火によって真の叡智へと昇華されるプロセスを表しています。ゆえに、この供養は「名声(यशस्, yaśas)」と「智慧(मेधा, medhā)」をもたらします。ここでいう名声とは、単なる世俗的な評判ではなく、真の智慧から発する徳が、自ずと周囲に認められ輝きを放つ状態です。智慧と名声は、表裏一体となって人生を豊かに導きます。
第三は、ガネーシャが最も愛するとされる千のモーダカ(मोदकसहस्र, modakasahasra)です。甘い餡を米粉の皮で包んだこの菓子は、「喜び」を意味する「moda」に由来し、その球形は完全性を象徴します。「千」という数は無限と完全性を表し、この供養が「願望の果実(वाञ्छितफल, vāñchitaphala)」をもたらすと約束されます。それは、私たちが抱く正当な願いが、神の恩寵という甘美な喜びとして成就する状態です。
そして最後に、ヴェーダの時代から続く最も神聖な祭祀、ホーマ(होम, homa)の中心となるギー(清澄バター)を注いだ薪(साज्य समित्, sājya samit)による供養が説かれます。ギーは純粋なエッセンス、薪は捧げる者自身を象徴し、これを聖なる火に投じる行為は、自我の完全な滅却と神への全託を意味します。この究極の捧げものに対する功徳は、「一切を得る(सर्वं लभते, sarvaṃ labhate)」と力強く二度繰り返されます。これは、自己を完全に手放したときにこそ、すべてが与えられるという霊的真理の逆説です。それは、物質、精神、そして霊的な次元のすべてを含む、完全なる充足であり、自己と宇宙が一つになる究極の成就を示唆しているのです。
第14節
अष्टौ ब्राह्मणान् सम्यग् ग्राहयित्वा । सूर्यवर्चस्वी भवति ।
सूर्यग्रहे महानद्यां प्रतिमासन्निधौ वा जप्त्वा । सिद्धमन्त्रो भवति ।
महाविघ्नात् प्रमुच्यते । महादोषात् प्रमुच्यते । महापापात्
प्रमुच्यते । महाप्रत्यवायात् प्रमुच्यते । स सर्वविद्भवति स
सर्वविद्भवति । य एवं वेद । इत्युपनिषत् ॥ १४॥
aṣṭau brāhmaṇān samyag grāhayitvā | sūryavarcasvī bhavati |
sūryagrahe mahānadyāṃ pratimāsannidhau vā japtvā | siddhamantro bhavati |
mahāvighnāt pramucyate | mahādoṣāt pramucyate | mahāpāpāt
pramucyate | mahāpratyavāyāt pramucyate | sa sarvavidbhavati sa
sarvavidbhavati | ya evaṃ veda | ityupaniṣat || 14||
八人のブラーフマナにこの教えを正しく授ける者は、太陽のごとき光輝を放つ者となる。
日食の時に、大いなる河のほとり、あるいは神像の御前にてこれを唱える者は、成就されしマントラの主となる。
大いなる障害より解き放たれ、
大いなる過ちより解き放たれ、
大いなる罪より解き放たれ、
大いなる災厄より解き放たれる。
その者は一切を知る者となる、一切を知る者となる。
かくのごとく識る者よ。
これぞ、ウパニシャッドの秘教である。
逐語訳:
- अष्टौ ब्राह्मणान् (aṣṭau brāhmaṇān) - 八人のブラーフマナたちに。(aṣṭau - 八、brāhmaṇān - ブラーフマナたちを、男性複数対格)
- सम्यग् (samyag) - 正しく、完全に。(副詞)
- ग्राहयित्वा (grāhayitvā) - 理解させて、授けて。(√ग्रह्, grah - 掴む、理解する、の使役形の絶対分詞)
- सूर्यवर्चस्वी (sūryavarcasvī) - 太陽の威光を持つ者、太陽のように輝く者。(sūrya, 太陽 + varcasvin, 活力・光輝を持つ者。男性単数主格)
- भवति (bhavati) - となる。(√भू, bhū - ある、なる。現在3人称単数)
- सूर्यग्रहे (sūryagrahe) - 日食の時に。(sūryagraha, 日食。男性単数処格)
- महानद्याम् (mahānadyām) - 大いなる河において。(mahānadī, 大河。女性単数処格)
- प्रतिमासन्निधौ (pratimāsannidhau) - 神像の御前にて。(pratimā, 像 + sannidhi, 面前。処格)
- वा (vā) - あるいは。(不変化詞)
- जप्त्वा (japtvā) - 唱えて。(√जप्, jap - 唱える。絶対分詞)
- सिद्धमन्त्रः (siddhamantraḥ) - マントラを成就した者。(siddha, 成就された + mantra, マントラ。複合語、男性単数主格)
- भवति (bhavati) - となる
- महाविघ्नात् (mahāvighnāt) - 大いなる障害から。(mahā, 大いなる + vighna, 障害。奪格)
- प्रमुच्यते (pramucyate) - 解き放たれる。(प्र-√मुच्, pra-muc - 解放する。受動態現在3人称単数)
- महादोषात् (mahādoṣāt) - 大いなる過ちから。(mahā, 大いなる + doṣa, 欠陥・過ち。奪格)
- महापापात् (mahāpāpāt) - 大いなる罪から。(mahā, 大いなる + pāpa, 罪。奪格)
- महाप्रत्यवायात् (mahāpratyavāyāt) - 大いなる災厄から。(mahā, 大いなる + pratyavāya, 霊的障害・災厄。奪格)
- सः (saḥ) - その者は。(指示代名詞、男性単数主格)
- सर्वविद् (sarvavid) - 一切を知る者。(sarva, 全て + vid, 知る者。複合語)
- भवति (bhavati) - となる。(二度の反復は強調を示す)
- यः (yaḥ) - 〜である者。(関係代名詞、男性単数主格)
- एवम् (evam) - このように。(副詞)
- वेद (veda) - 知る、識る。(√विद्, vid - 知る。現在3人称単数)
- इति उपनिषत् (iti upaniṣat) - これぞ、ウパニシャッド(秘教)である。(結びの句)
解説:
この第14節は、『ガネーシャ・アタルヴァシールシャ』の締めくくりとして、この聖なる教えがもたらす功徳の頂点と、それが導く究極の境地を荘厳に宣言します。ここには、霊的実践の具体的な方法、それによる浄化のプロセス、そして最終的な成就の姿が凝縮されています。
まず、教えを分かち合うことの功徳が説かれます。「八人のブラーフマナにこの教えを正しく授ける者」とあるのは、単なる知識の伝達ではありません。ここでいうブラーフマナ(ब्राह्मण, brāhmaṇa)とは、血筋や階級ではなく、真理を探究し聖なる生活を送る、霊的に成熟した人々を指します。そして「八」という数は、八方位に象徴されるように、完全性と宇宙全体への広がりを意味します。この聖なる教えを惜しみなく分かち合う行為そのものが、授ける者自身を「太陽のごとき光輝(सूर्यवर्चस्, sūryavarcas)」を放つ存在へと高めるのです。
次に、マントラの実践を最高度に効果的にする条件が示されます。日食(सूर्यग्रह, sūryagraha)のような宇宙的な節目、大河(महानदी, mahānadī)のような聖なる浄化の場、そして神像の御前(प्रतिमासन्निधि, pratimāsannidhau)という神の臨在が満ちる場所。これらは、修行者の意識を日常から切り離し、深遠な領域へと導くための門となります。このような条件下で実践する者は、「成就されしマントラの主(सिद्धमन्त्र, siddhamantra)」となります。これは、マントラが単なる言葉ではなく、行者と一体化し、その力が意のままに現れるという、霊的実践の完成の境地です。
この成就がもたらすのは、あらゆる束縛からの完全な解放です。本文で列挙される四つの「大いなる」障害は、人間を苦しめる根源的な問題を網羅しています。大いなる障害(महाविघ्न, mahāvighna)は内外のあらゆる障り、大いなる過ち(महादोष, mahādoṣa)は根本的な無知や欠陥、大いなる罪(महापाप, mahāpāpa)は過去の行為によるカルマの汚れ、そして大いなる災厄(महाप्रत्यवाय, mahāpratyavāya)は、なすべき義務を怠ったことによって生じる霊的な逆境を指します。これらすべてから解き放たれるとは、存在の根本的な変容にほかなりません。
そして、この道の最終目的地が、力強い反復によって示されます。「その者は一切を知る者となる、一切を知る者となる(स सर्वविद्भवति स सर्वविद्भवति, sa sarvavidbhavati sa sarvavidbhavati)」。一切を知る者(सर्वविद्, sarvavid)とは、断片的な知識の集積者ではなく、万物の根源であるブラフマンと自己が一体であると悟った者です。それは、ヴェーダーンタ哲学が示す最高の境地であり、個別の存在を超えた普遍的意識への帰還を意味します。
結びの「かくのごとく識る者よ(य एवं वेद, ya evaṃ veda)」という句は、ウパニシャッドに頻出する定型句で、この真理を知識としてではなく、自身の存在そのものとして体得した者に、ここに説かれたすべての功徳が与えられることを保証します。そして最後の「これぞ、ウパニシャッドの秘教である(इत्युपनिषत्, ityupaniṣat)」という宣言は、この聖典がヴェーダの終極であるウパニシャッドの権威を持つこと、そしてその教えが、師から弟子へと親しく授けられるべき、深遠なる「秘教」であることを告げ、この聖なる智慧の開示を荘厳に完結させるのです。
結びの平安の祈り
ॐ भद्रं कर्णेभिः शृणुयाम देवाः । भद्रं पश्येमाक्षभिर्यजत्राः ।
स्थिरैरङ्गैस्तुष्टुवाꣳ सस्तनूभिः । व्यशेम देवहितं यदायुः ।
स्वस्ति न इन्द्रो वृद्धश्रवाः । स्वस्ति नः पूषा विश्ववेदाः । स्वस्ति
नस्तार्क्ष्यो अरिष्टनेमिः । स्वस्ति नो बृहस्पतिर्दधातु ॥
oṃ bhadraṃ karṇebhiḥ śṛṇuyāma devāḥ | bhadraṃ paśyemākṣabhiryajatrāḥ |
sthirairaṅgaistuṣṭuvāṃsastanūbhiḥ | vyaśema devahitaṃ yadāyuḥ |
svasti na indro vṛddhaśravāḥ | svasti naḥ pūṣā viśvavedāḥ | svasti
nastārkṣyo ariṣṭanemiḥ | svasti no bṛhaspatirdadhātu ||
おお、神々よ。われらが耳にては吉兆なることを聞き、
祭儀を捧げる者として、われらが目にては吉兆なることを見ん。
堅固なる四肢と身体とをもって讃美を捧げ、
神々より賜りし天寿を、われらは全うせん。
偉大なる名声の主インドラが、われらに幸いをもたらさんことを。
すべてを知るプーシャンが、われらに幸いをもたらさんことを。
害されることなき武具の主タールクシャが、われらに幸いをもたらさんことを。
祈りの主ブリハスパティが、われらに幸いを授けんことを。
逐語訳:
- ॐ (oṃ) - 聖音オーム
- भद्रम् (bhadram) - 吉兆なこと、善きことを。(中性単数対格)
- कर्णेभिः (karṇebhiḥ) - 耳によって。(karṇa, 耳。ヴェーダ語形の具格複数)
- शृणुयाम (śṛṇuyāma) - われらが聞かんことを、聞けますように。(√श्रु, śru - 聞く。願望法1人称複数)
- देवाः (devāḥ) - おお、神々よ。(deva, 神。男性複数呼格)
- भद्रम् (bhadram) - 吉兆なこと、善きことを
- पश्येम (paśyema) - われらが見んことを、見られますように。(√पश्, paś [√दृश्, dṛś] - 見る。願望法1人称複数)
- अक्षभिः (akṣabhiḥ) - 目によって。(akṣi, 目。ヴェーダ語形の具格複数)
- यजत्राः (yajatrāḥ) - 祭儀を捧げる者として。(yajatra, 祭祀に値する者、祭祀を行う者。男性複数主格)
- स्थिरैः अङ्गैः (sthiraiḥ aṅgaiḥ) - 堅固なる四肢をもって。(sthira, 堅固な + aṅga, 四肢・部分。具格複数)
- तुष्टुवांसः (tuṣṭuvāṃsaḥ) - 讃美しつつ。(√स्तु, stu - 讃える。完了分詞tuṣṭuvasの男性複数主格)
- तनूभिः (tanūbhiḥ) - 身体をもって。(tanū, 身体。女性複数具格)
- व्यशेम (vyaśema) - われらが享受せんことを、全うせんことを。(वि-√अश्, vi-√aś - 享受する。願望法1人称複数)
- देवहितम् (devahitam) - 神々によって定められた、神々にとって好ましい。(deva, 神 + hitam, 置かれた、好ましい。中性単数対格)
- यत् आयुः (yad āyuḥ) - その寿命を。(yad, 関係代名詞 + āyus, 寿命。中性単数対格)
- स्वस्ति (svasti) - 幸あれ、平安あれ。(不変化詞)
- नः (naḥ) - われらに。(人称代名詞、1人称複数与格)
- इन्द्रः (indraḥ) - インドラ神が。(男性単数主格)
- वृद्धश्रवाः (vṛddhaśravāḥ) - 偉大なる名声を持つ方。(vṛddha, 増大した + śravas, 名声。複合語、男性単数主格)
- पूषा (pūṣā) - プーシャン神が。(pūṣan, プーシャン。男性単数主格)
- विश्ववेदाः (viśvavedāḥ) - すべてを知る方。(viśva, すべて + vedas, 知る者。複合語、男性単数主格)
- तार्क्ष्यः (tārkṣyaḥ) - タールクシャ(ガルダ)が。(男性単数主格)
- अरिष्टनेमिः (ariṣṭanemiḥ) - 害されることなき車輪(武具)を持つ方。(ariṣṭa, 害されない + nemi, 車輪の縁。複合語、男性単数主格)
- बृहस्पतिः (bṛhaspatiḥ) - ブリハスパティ神が。(男性単数主格)
- दधातु (dadhātu) - 授けたまえ、もたらしたまえ。(√धा, dhā - 置く、与える。命令法3人称単数)
解説:
この聖典の結びは、冒頭と全く同じ「シャンティ・パータ」(शांति पाठ, śānti pāṭha)、すなわち平安の祈りによって荘厳に締めくくられます。これは単なる反復ではなく、ウパニシャッドの伝統に見られる、霊的真理の円環性を象徴する深遠な構成です。冒頭で、聖なる学びへの準備として捧げられたこの祈りは、ここでは、授かった智慧を深く体得し、実人生において開花させるための祈願へと昇華します。
祈りの前半は、霊的探求の基盤となる心身の健全さを願うものです。「われらが耳にては吉兆なることを聞き、目にては吉兆なることを見ん」という願いは、感覚器官を世俗の雑音から守り、聖なる真理の波動にのみ同調させたいという祈りです。これは、感覚を内面に向けるヨーガの制感(प्रत्याहार, pratyāhāra)の教えとも響き合います。そして「堅固なる四肢と身体」を願うのは、霊性の探求が、健全で安定した肉体という器を必要とするという、インド思想の根幹にある身体観を示しています。このように心身を整え、「神々より賜りし天寿を全うする」こと、すなわち、与えられた命を神聖な目的のために生き抜くことが、祈りの主題となります。
後半では、ヴェーダの偉大な四柱の神々への祈りが続きます。偉大な名声の主インドラ(इन्द्र, indra)は、感覚を司り、勇気と力を与える神です。すべてを知るプーシャン(पूषन्, pūṣan)は、道を照らし、魂を養い育む太陽の慈愛の相です。害されることなき武具を持つタールクシャ(तार्क्ष्य, tārkṣya)、すなわち神鳥ガルダは、あらゆる障害を乗り越える迅速さと力を象徴します。そして祈りの主ブリハスパティ(बृहस्पति, bṛhaspati)は、神々の師であり、聖なる言葉の力と霊的智慧そのものを司ります。
このウパニシャッドを学び終えた者にとって、この祈りは新たな意味を帯びます。第6節で、ガネーシャはブラフマー、ヴィシュヌ、ルドラ、そしてインドラや他のすべての神々の根源的実体であると宣言されました。したがって、この四神への祈りは、もはや個別の神々への祈願ではなく、ガネーシャという唯一なる実在が顕現する、力、導き、障害除去、そして智慧という四つの偉大な側面への帰依と讃美となるのです。
聖典の学びは、円環の旅路です。出発点に戻ってきた探求者は、もはや以前の探求者ではありません。教えを識り、その真理に触れた今、同じ祈りの言葉が、より深い確信と体験の重みをもって魂に響きます。このシャンティ・パータは、知識の獲得という旅の終わりを告げると同時に、その智慧を生きるという、終わりなき実践の始まりを祝福する、力強い鐘の音なのです。
結びの句
ॐ शान्तिः शान्तिः शान्तिः ॥
oṃ śāntiḥ śāntiḥ śāntiḥ ||
オーム。平安あれ、平安あれ、平安あれ。
逐語訳:
- ॐ (oṃ) - 聖音オーム。宇宙の根本音であり、始まりと終わり、そしてその超越を象徴する
- शान्तिः (śāntiḥ) - 平安、静寂、平和。(三度の反復は、その完全性と普遍性を強調する)
解説:
この聖典『ガネーシャ・アタルヴァシールシャ』は、聖音オーム(ॐ, oṃ)に始まり、宇宙の根源的静寂を示す三重の「シャーンティ(शान्तिः, śāntiḥ)」によって、その荘厳なる幕を閉じます。この結びの句は、単なる形式的な挨拶ではなく、このウパニシャッドが解き明かしてきた深遠な真理のすべてを凝縮し、実践者の内にその本質を確立させるための、究極の宣言です。
しかし、このウパニシャッドの深遠な教えを学び終えた者にとって、この三重のシャーンティは、もはや単なる「祈願」にはとどまりません。全篇を通じて、ガネーシャは創造・維持・破壊の主であり、五大元素であり、三つのグナや三つの状態を超越し、万物の根源である究極的実在ブラフマンそのものであると説かれました。そして、「汝こそが顕現せる真実そのものである(त्वमेव प्रत्यक्षं तत्त्वमसि, tvameva pratyakṣaṁ tattvamasi)」という宣言により、その究極的実在と自己(アートマン)が同一であることが明かされました。
この不二一元の真理を体得した者にとって、苦悩の根源である「分離」の感覚は消え去ります。平安は、もはや外から求めるべき対象ではなく、自己の本性そのものとして内側から湧き上がるのです。この時、三重のシャーンティは、平安への「願い」から、平安そのものであるという存在の「体現」へと昇華します。それは、障害除去の神ガネーシャの恩寵によってあらゆる内外の障りが根本から取り除かれ、魂が本来の静寂なる本性に還ったことの、力強い確認の響きとなります。
聖典は冒頭の平和の祈り(シャーンティ・パータ)に始まり、この結びのシャーンティで完全な円環を描きます。出発点に戻ってきた探求者は、もはや以前の探求者ではありません。教えという光を携え、自己の本質が揺るぎない平安であることを知った者として、再びここに立っています。この三重の響きは、聖典の物理的な終わりを告げると同時に、私たちの意識の最も深い場所に、決して消えることのない静寂の種子を植え付け、終わりなき霊的実践の始まりを祝福する、永遠の鐘の音となるのです。
奥書
इति गणपत्युपनिषत्समाप्ता ॥
iti gaṇapatyupaniṣatsamāptā ||
ここにガナパティ・ウパニシャッドは完了する。
逐語訳:
- इति (iti) - このように、以上で。(結びを示す不変化詞)
- गणपत्युपनिषत् (gaṇapatyupaniṣat) - ガナパティ・ウパニシャッド。(gaṇapati-upaniṣat、複合語、女性名詞単数主格)
- समाप्ता (samāptā) - 完了した、成就された。(√सम्-आप्, sam-āp - 完全に到達する、の過去受動分詞。女性単数主格としてupaniṣatを修飾)
解説:
この簡潔な一句は、『ガネーシャ・アタルヴァシールシャ・ウパニシャッド』の物理的な終結を告げる、サンスクリット聖典における伝統的な奥書(おくがき)です。しかし、その簡素な表現の中には、深遠な霊的完成の宣言が込められています。
「इति (iti)」という語は、単なる「終わり」を意味するものではありません。この不変化詞は「かくのごとく」「このようにして」という意味合いを持ち、これまで説かれてきた教えのすべてが、一つの完全な体系としてここに統合されたことを示します。それは断片的な知識の集積ではなく、有機的に結びついた真理の全体像が完成したという、荘厳な宣言です。
「गणपत्युपनिषत् (gaṇapatyupaniṣat)」という聖典の呼称もまた、意味深いものです。この聖典は一般に『ガネーシャ・アタルヴァシールシャ』として知られますが、ここではより本質的な「ガナパティ・ウパニシャッド」という名称が用いられています。「ガナパティ(गणपति, gaṇapati)」とは「群衆(ガナ)の主(パティ)」を意味し、万物の存在群を統べる根源的実在としてのガネーシャを表す、最も古く重要な尊称の一つです。そして「ウパニシャッド(उपनिषत्, upaniṣat)」という語自体が、師の足下に親しく座して授けられる「奥義」を意味することから、この結語は、宇宙の根源たるガネーシャに関する最奥の教えが、今ここに完全な形で授けられたことを告げているのです。
そして「समाप्ता (samāptā)」という語が、この完成の性質を明らかにします。これはसम् (sam)
(完全に)とआप्त (āpta)
(到達された)から成り、「完全に到達された」「完全に成就された」という意味を持ちます。この「完成」は、単に文章が書き終わったという物理的な終了を指すのではありません。ヴェーダーンタの伝統において、教えの真の「完成」とは、学習者がその本質を完全に体得し、その智慧によって存在そのものの変容がもたらされることを意味します。したがってこの一句は、学習者がガネーシャと自己の本質的同一性を悟り、あらゆる障害からの解放と、揺るぎない智慧の恩寵をその内に確立し、究極の平安に到達したことの、祝福に満ちた確認でもあるのです。
前の節で三重のシャンティが唱えられた直後にこの一句が置かれることにも、深い意味があります。完全な静寂が確立された直後に置かれることで、教えの真の完成が、知識の喧騒の中ではなく、魂の根本的な平安の中でこそ達成されることが示されています。真の学びとは、より多くを知ることではなく、自己の本質である静寂なる智慧へと帰還することなのです。
このように、わずか三語から成るこの奥書は、聖典の物理的な終結、学習者の霊的な成就、そして教えの永続的な伝承という、三重の「完成」を同時に宣言する、力強い終幕の響きとなるのです。
最後に
『ガネーシャ・アタルヴァシールシャ・ウパニシャッド』を巡る私たちの旅は、今、その終着点を迎えました。それは、障害を除去する身近な神として親しまれるガネーシャの姿から始まり、やがてその御姿が宇宙そのものへと拡大し、ついには私たち自身の内なる本質と寸分違わぬ、究極の真理ブラフマンへと至る、壮大な意識の変容の旅路でした。象の頭を持つ慈愛に満ちたその神は、今や、私たちの前に広がる森羅万象すべてを内包し、時空をも超越した、遍在の絶対者として輝いています。
この聖典の比類なき価値は、神への熱烈な「信愛(バクティ)」の道と、自己と宇宙の真理を探究する「智慧(ジュニャーナ)」の道とを、完璧に融合させている点にあります。このウパニシャッドは、具体的な姿を持つ神(サグナ・ブラフマン)への礼拝が、いかにして姿形のない絶対者(ニルグナ・ブラフマン)の体得へと至るか、その奥義を明かしてくれました。第9節で詳細に描かれたガネーシャのディヤーナ(瞑想)の姿は、単なる偶像崇拝のための図像ではありません。一本の牙が象徴する「一元性」、縄(パーシャ)と象鉤(アンクシャ)が示す「慈悲と識別」、そして豊かなる腹が内包する「全宇宙」—その一つひとつの象徴が、深遠な哲理への扉となっているのです。
さらに、この聖典は、ただ読むだけの哲学書ではなく、私たちの人生を根底から変容させるための、極めて実践的な霊性の手引書(サーダナ・シャーストラ)でもあります。宇宙の創造・維持・破壊の力を秘めた種子真言(ビージャ・マントラ)「गं (gaṃ)」、私たちの理性を真理へと奮い立たせる「ガーヤトリー・マントラ」、そして様々な供物を用いた具体的な礼拝の方法。これらはすべて、私たちの心を浄化し、意識を一点に集中させ、人間と神、現象と本質との間に横たわる隔たりを消し去るために授けられた、神聖な道具なのです。
この旅路を通して繰り返し説かれてきた核心的なメッセージ、それは、礼拝する者、礼拝される神、そして礼拝という行為、その三者が本来は一つであるという不二一元論の真理です。ガネーシャは、はるか彼方の天上に坐す神であるだけでなく、私たちの身体の根底(ムーラーダーラ・チャクラ)に常に存在し、生命を支える内なる実在です。したがって、人生の障害を取り除くというガネーシャの御神徳は、外なる神に願うことによってのみ得られるのではありません。それは、私たち自身の本性が、本来いかなる障害にも束縛されない、完全で自由なものであることを悟ることによって、内から実現されるのです。その境地こそが、この聖典が約束する「一切を知る者(サルヴァヴィッド)」の境地であり、恐怖から完全に解放された「無畏(アバヤ)」の境地なのです。
聖典は「ここにガナパティ・ウパニシャッドは完了する(iti gaṇapatyupaniṣatsamāptā)」という言葉で結ばれます。しかし、この「完了」は終わりではなく、新たな始まりを告げるものです。この書を閉じる時、真の学びが始まります。どうか、ここで得た智慧を、あなたの日々の生活の中で実践してください。マントラを唱え、その意味を心に観じ、ガネーシャの慈悲と智慧が、あなたの思考、言葉、そして行為を通して顕現することを許すのです。
この聖典の旅を終えたあなたの内に、障害を除去する偉大なる神、シュリー・ガネーシャの恩寵が豊かに流れ込み、揺るぎなき平安(シャーンティ)と、究極の自己実現の輝きとして、永遠に輝き続けることを、心より祈念いたします。
【サンスクリット原文出典】
Sanskrit Documents. "Shri Ganapati Atharvashirsha Upanishad or Ganapati Upanishad"
https://sanskritdocuments.org/doc_upanishhat/ganapati.html
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