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アーシャーダ・チャウマーシー・チャウダサ2025:生命への畏敬と魂の浄化

季節と祈りが重なるとき

インドの霊的な伝統において、時間はただ過ぎてゆくものではなく、大地の息吹や季節の移ろいと呼応するものとしてとらえられています。なかでも、雨季にあたる「チャトゥルマーサ(四ヶ月の期間)」は、祈りや内省が深まる大切なときとされてきました。

その入口にあたるのが、ジャイナ教の祭礼「アーシャーダ・チャウマーシー・チャウダサ」です。2025年は7月9日にあたります。この日を境に、多くの修行者たちは旅を止め、ひとところにとどまりながら、自己を見つめる生活に入ります。

この行いはジャイナ教の教えに基づいていますが、雨季という自然の節目と重なることで、より広い宗教的な感受性とも響き合っています。大地が潤い、命が芽吹くこの季節は、外の世界だけでなく、内なる世界を養うときでもあるのです。

名称に込められた意味

「アーシャーダ・チャウマーシー・チャウダサ」という名を読み解くには、それぞれの語が持つ背景を知ることが大切です。

まず「アーシャーダ」は、ヒンドゥー暦で四番目の月を指し、毎年6月から7月にあたります。この時期は、恵みをもたらす一方で荒々しさも伴うモンスーンの雨が訪れる頃です。自然の生命力が目覚め、世界がしっとりと潤う季節でもあります。

続く「チャウマーシー」は、「四ヶ月間」を意味する「チャトゥルマーサ」に由来します。これはアーシャーダ月(6月~7月)からカールッティカ月(10月~11月)まで、約四ヶ月にわたる特別な期間を指しています。

そして「チャウダサ」は、太陰暦で各月の14日目にあたる日で、月が変化する境目であるこの日は、古くから精神的な実践に集中する機会として重んじられてきました。

つまり、「アーシャーダ・チャウマーシー・チャウダサ」はひとつの独立した祝祭ではなく、雨季に合わせて静かに歩みをとめ、内なる世界に向き合う「ヴァルシャーヴァーサ(雨季の隠遁)」の始まりを告げる重要な節目なのです。

ヒンドゥー教における宇宙の静かなひととき

ヒンドゥー教の暦において「チャトゥルマーサ」と呼ばれる四ヶ月間は、宇宙の大いなる巡りの中で特別な時期とされます。この期間は、ヴィシュヌ神が静かな眠りに入り、代わってシヴァ神の存在感が高まる独特な季節です。

ヴィシュヌの眠りと宇宙の調和

チャトゥルマーサは、アーシャーダ月のシュクラ・パクシャ(新月から満月へ向かう半月)の11日目にあたる、デーヴァシャヤニー・エーカーダシーに始まります。この日、宇宙の守り手であるヴィシュヌ神は「ヨーガニドラー」と呼ばれる瞑想的な眠りに入り、大蛇アナンタ・シェーシャの背で静かに身を休めると信じられています。そのまどろみは四ヶ月後、カールッティカ月(10月~11月)のシュクラ・パクシャ(新月から満月へ向かう半月)の11日目にあたる、プラボーディニー・エーカーダシーに終わり、ヴィシュヌ神は再び目覚めて世界の秩序を担い始めます。

この眠りの背景には、ヴィシュヌ神の化身であるヴァーマナ神と、アスラでありながら正義の王として知られるマハーバリ王の物語が語られています。力と信心を兼ね備えたマハーバリ王は三界を治め、神々を圧倒しました。均衡を取り戻すため、ヴィシュヌ神は小柄なバラモンの姿、ヴァーマナ神となってマハーバリ王のもとを訪れ、わずか三歩分の土地を願います。願いを快く受け入れたマハーバリ王の前で、ヴァーマナ神は巨体に変化し、二歩で天地を覆い尽くします。三歩目を置く場所がなくなると、マハーバリ王は自らの頭を差し出しました。

その深い心に胸を打たれたヴィシュヌ神は、願いとして「あなたが共にいてくれること」を望んだマハーバリ王の思いを受け入れ、毎年この四ヶ月間、マハーバリ王が暮らす地下の王国で門守となることを誓います。

この物語は、見返りを求めない心が神の心を動かすという真理を語りながら、ヴィシュヌ神の「年に一度の不在」に美しい由来を与えています。

シヴァ神が司る宇宙の秩序

宇宙の守護が一時的に止まると、天界には空白が生まれます。ヒンドゥー教の宇宙観では、こうした状況でも秩序が保たれるよう、責任が自然に引き継がれる仕組みが描かれています。ヴィシュヌ神が静かに眠る間、その役目はシヴァ神へと移されます。これは、シヴァ神を中心とする信仰において、特別な時期がどうして重要とされるのかを説明する鍵となっています。

チャトゥルマーサの始まりを告げるシュラーヴァナ月(7月~8月)は、シヴァ神への祈りが特に高まる季節です。この月には、神の力が最も身近に感じられるとされ、多くの人が敬意を込めて祈りを捧げます。

この時期におけるシヴァ神の重要性は、サムドラ・マンタナ――すなわち乳海攪拌の神話にも表れています。神々と悪魔たちが、不死の霊薬アムリタを求めて大海をかき回したとき、先に現れたのは命を脅かす猛毒ハラーハラでした。その毒はあまりにも強く、世界を滅ぼしかねないものでした。誰もが恐れて手を引く中、シヴァ神だけが一歩を踏み出し、自らその毒を飲み込んで宇宙を救いました。その毒は喉で留まり、喉が青く染まったことから「ニーラカンタ(青い喉の者)」という名で呼ばれるようになります。この自己を顧みない行為が、シヴァ神を宇宙の守り手として際立たせるものとなり、とくにヴィシュヌ神の静寂の時期にあって、欠かせぬ存在として輝きます。

この物語は、年中行事の背景を語るにとどまらず、ヴィシュヌ神を敬う人々とシヴァ神を敬う人々の間にある伝統の交わりを描き出します。プラーナ文献が紡ぐこうした語りは、神々のあいだに優劣ではなく連携をもたらし、それぞれが宇宙にとって欠かせない存在であることを静かに語っています。シヴァ神とヴィシュヌ神――そのどちらもが、世界の調和を支えるために交代で前面に立つのです。

ジャイナ教における非暴力の実践

ジャイナ教における「ヴァルシャーヴァーサ」という四ヶ月間の隠遁修行は、「アヒンサー・パラモー・ダルマハ(非暴力は至高のダルマである)」という教えに深く根ざしています。これは理想論ではなく、日々の暮らし全体を貫く厳格な生き方です。

ジャイナ教では、命は人間や動物に限られたものではなく、植物はもちろん、空気や水、土の中の微小な存在にまで宿ると考えられています。そうした命はすべて、痛みや苦しみを感じる可能性があるとされます。

雨季が始まると、大地は一斉に緑を取り戻し、目に見えない小さな虫や生き物が数え切れないほど現れます。この時期の移動は、知らず知らずのうちにそうした小さな命を踏みつけてしまう恐れを伴います。非暴力を生涯の道として歩む修行者にとって、これは重大な問題です。

そこで、「ヴァルシャーヴァーサ(雨季の隠遁)」が行われます。チャウマーシー・チャウダサの日、修行者は旅を止め、一つの場所にとどまることを誓います。その滞在先は、修道院や共同体の集会所などです。この四ヶ月間の静かな生活は、非暴力の教えを日常に落とし込むための手段となります。

この期間中、修行者は移動を控えることで命を傷つける危険を減らし、自らを律しながら静かに過ごします。すべての命に価値があるという確信から生まれた、思いやりと自制のあらわれです。

浄化と赦しの儀式

チャウマーシー・チャウダサによって開始される四ヶ月間のヴァルシャーヴァーサは、修行者と在家ジャイナ教徒の両方にとって、高められた霊的活動の期間です。焦点は外側の行動から内なる浄化へと移り、それは、積み重ねられたカルマの重荷を取り除くために整えられた一連の儀式を通じて進められます。

チャウマーシー・チャウダサで行われる中心的儀式は、チャウマーシー・プラティクラマナです。プラティクラマナは、内省、告白、悔悟のジャイナ教の基礎的実践です。この用語は「振り返り」や「反省」を意味し、魂の純粋で無垢な状態への帰還を表しています。この儀式は、毎日、隔週、四半期、あるいは年に一度など、さまざまな頻度で行うことができます。その際、ジャイナ教徒は、自らの思考や言葉、行動によって、意図的であれ無意識であれ犯してしまった過ちを省みて、赦しを願います。

この赦しを求める過程は、プラティクラマナの間に唱えられる普遍的なジャイナ教の祈りに要約されています。

“Khamemi Savve Jiva, Savve Jiya Khamantu Me
Metti Me Savve Bhuyesu, Veram Majham Na Kenai”  

「私は全ての生きとし生けるものを許します。全ての生きとし生けるものが私を許しますように。
私は全てに対して友愛を抱き、誰に対しても敵意を抱きません。」

この力強い祈りは単なる赦しの要請ではなく、普遍的な慈悲の宣言であり、全ての敵意の感情を解消し、実践者の意識を浄化することを目的としています。

共鳴する霊的な象意

ジャイナ教とヒンドゥー教は、モンスーンの四ヶ月間にわたりそれぞれ異なる歩みを見せますが、そこには共通する文化的な感性と、神聖な時間に対する共有の理解が見て取れます。両者が目指す内なる浄化と魂の高みへと向かう願いは、特に月の14日目「チャトゥルダシー」に際立って表れています。

毎月、満月から14日目にあたるチャトゥルダシーは、自己を省み、内に潜む影と対峙するための重要な日として、ジャイナ教とヒンドゥー教の双方において重んじられています。

ジャイナ教では、この「チャウマーシー・チャウダサ」と呼ばれる儀式が、ちょうどこの日に行われます。四ヶ月の節目にあたる特別な時間であり、その間に積み重なった心の曇りを祈りと懺悔によって洗い流そうとするものです。この日、人は自らの行いに真正面から向き合い、清めの行を通して再び静かな心を取り戻そうと努めます。

一方、ヒンドゥー教におけるチャトゥルダシーは、特にシヴァ神と深く結びついています。毎月、満月から14日目には、「シヴァラートリ」が営まれ、厳しい修行を重ねた者としてのシヴァ神に祈りが捧げられます。このシヴァ神は、ただ破壊をもたらす存在ではなく、心の中の虚栄や執着、そして魂を縛るものを取り払う力を象徴しています。

こうした両者の営みは、深いところで響き合っています。カルマを断ち切るジャイナ教の修練も、自我の執着を打ち砕くシヴァ神の力も、いずれも内なる否定的なものと真剣に向き合う行為です。あるいは、幻想を断つカーリー女神との天体的なつながりもまた、この日に流れる特別な力を物語っています。

チャトゥルダシーという日に込められた意味――それは、ただ静かに過ぎる月夜ではなく、魂が自らの影に光を当てるための大切な契機であり、古代インドにおける神聖な宇宙観が生きている証でもあります。

内なる目覚めをうながす季節

モンスーンは単なる気候現象ではなく、多くの宗教において特別な意味をもつ霊的な契機です。その意味合いは伝統ごとに異なります。

ジャイナ教では、雨季は「ヴァルシャーヴァーサ(雨季の隠遁)」の直接的なきっかけとなります。大地に小さな命があふれるこの季節は、どんな存在も傷つけまいとする厳しい誓いを改めて意識させます。そうした命への思いやりから、修行者は人里離れた場所に身を置き、静かに過ごすことが求められます。

一方、ヒンドゥー教の世界では、モンスーンは宇宙の大いなる物語の中でも重要な節目にあたります。神々の時間がゆるやかに流れるこの時期、ヴィシュヌ神は深い眠りに入り、世界は一時的な不安定さを迎えます。その隙間のような時間に、人々は自らの内面を見つめ直し、創造を守るシヴァ神へ心を向け、日々の行いを整えてゆきます。

どちらの伝統でも、雨は生命を育む恵みであると同時に、病や乱れをもたらす力としても受け止められています。だからこそこの季節は、外の世界から一歩離れ、静けさの中で心を澄ませる好機とされているのです。

聖なる「立ち止まり」がもたらす永遠の意味

アーシャーダ・チャウマーシー・チャウダサは、ジャイナ教の特有の行法でありながら、インド亜大陸に広がる霊的季節「チャトゥルマーサ」の始まりとして、特別な意味を持ちます。この期間は、自然と宗教的な営みが密接に結びつき、雨とともに心の歩みも静かに調えられてゆく時です。

モンスーンの訪れとともに始まるこの四ヶ月は、自然の周期に対する繊細な感受と、内面の成熟を結びつけた時といえるでしょう。雨の恵みと厳しさは、ただの季節変化にとどまらず、魂を育むための大切な契機となります。ジャイナ教の「ヴァルシャーヴァーサ」には、あらゆる命を慈しみながら過ごすという優しさが息づいており、ヒンドゥー教の「チャトゥルマーサ・ヴラタ」は、ヴィシュヌ神の休息とシヴァ神の静かな見守りのもと、自らを委ねる生き方を促します。

日々の忙しさに追われがちな暮らしの中で、意識して立ち止まることの価値は計り知れません。チャウマーシー・チャウダサをはじめとするこの季節の教えが伝えるのは、自己を律すること、赦すこと、傷つけずに生きること、そして時折静かに世界から距離を取り、自分の心と宇宙の調べとを重ね直すことの大切さです。

本当の意味での前進は、立ち止まり、見つめ直し、内なる静けさと調和することから始まる――この静寂の季節は、そう語りかけています。

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