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ウパニシャッド

【完全版】カタ・ウパニシャッド全訳と徹底解説 — ヨーガとヴェーダーンタ哲学の源流を学ぶ

目次

はじめに

私たちは、日々の喧騒の中でふと足を止め、根源的な問いに心を揺さぶられることがあります。「死んだら、自分はどうなるのだろうか」「この『私』とは、一体何者なのだろうか」。これらの問いは、古来、洋の東西を問わず、人類が抱き続けてきた実存的な謎であり、多くの宗教や哲学が、その答えを探し求めてきました。

その中でも、インド数千年の精神史が生み出した叡智の結晶「ウパニシャッド(奥義書)」は、ひときわ深く、そして普遍的な光を放っています。ウパニシャッドとは、師の足元近くに座し、師資相承によってのみ伝えられる奥義を意味します。数あるウパニシャッドの中でも、その詩的な美しさと哲学的な深遠さにおいて最高峰の一つと讃えられるのが、本書で取り上げる『カタ・ウパニシャッド』です。

このウパニシャッドの最大の魅力は、その劇的な物語性にあります。本書は、純粋な探求心を持つ少年ナチケータと、死を司る神でありながら究極の賢者でもあるヤマとの、荘厳な対話を通して真理を解き明かしていきます。父の言葉をきっかけに、生きたまま死の国へと赴いたナチケータ。彼はそこでヤマ神に謁見し、三つの願いを授かります。最初の二つの願いでこの世と天上の幸福を確保した後、ナチケータは最後の願いとして、死の秘密そのもの、すなわち「人は死んだ後、存在するのか、否か」という、神々さえも答えに窮した究極の問いを発するのです。富や権力、官能的な快楽といったあらゆる誘惑を退け、ただひたすらに真理を求めるナチケータの姿は、すべての求道者の魂の原型として、私たちの心を強く打ちます。

本書は、この深遠なる『カタ・ウパニシャッド』の世界を、読者の皆様が余すところなく味わい、その智慧を自らの内なる光として受け取れるよう、構成に細心の注意を払いました。まず、神聖な響きを持つサンスクリット原文を掲げ、その下に原文の語順に忠実な逐語訳を配することで、言葉の背後にある古代インドの世界観を感じていただけるようにしました。そして、平易な現代語訳に続き、各詩節の哲学的・文化的な背景を深く掘り下げた詳細な解説を加えました。これにより、単なる知識の習得に留まらず、詩的な比喩の奥深さや、登場人物の心の機微、そしてヨーガの実践へと繋がる思想の展開を、立体的に理解することができるでしょう。

ナチケータの旅は、遠い神話の世界の物語ではありません。それは、自らの有限性を見つめ、無限なるものを希求する、すべての人の内なる旅路の象徴です。この解説書を手に取られたあなたが、死の神ヤマの導きのもと、少年ナチケータと共に魂の探求の旅へと出発されることを、心より願っております。願わくは、この古代の叡智が、現代を生きる私たちの心に静かな光を灯し、揺るぎない平安と真の自由を見出すための、確かな道しるべとなりますように。

表題

कठोपनिषत्

॥ अथ कठोपनिषद् ॥
kaṭhopaniṣat
oṃ
॥ atha kaṭhopaniṣad ॥
カタ・ウパニシャッド
聖音オーム
いま、ここにカタ・ウパニシャッドは始まる。

逐語訳:

  • कठोपनिषत् (kaṭhopaniṣat) - カタ・ウパニシャッド(कठ (kaṭha) と उपनिषत् (upaniṣat) の連声形)
  • ॐ (oṃ) - オーム(宇宙の根源を象徴する聖音)
  • अथ (atha) - いま、ここに(聖典の荘厳な開始を告げる語)

解説:
ここに記された数語は、単なる書物の表題ではありません。これは、インド哲学の高峰であり、ヴェーダの叡智の結晶ともいえる『カタ・ウパニシャッド』の世界へと私たちをいざなう、聖なる扉そのものです。

まず掲げられるのは、この聖典の名である「कठोपनिषत् (kaṭhopaniṣat)」です。「カタ」とは、古代インドの聖典群ヴェーダの一つ「黒ヤジュル・ヴェーダ」に属するカータカ派という学派の名です。そして「उपनिषद् (upaniṣad)」は、「近くに(upa)下に(ni)座る(ṣad)」という三つの語根から成る言葉です。これは、弟子が師の足元に敬虔に座し、師資相承によってのみ伝えられる奥義を授かる、という神聖な知識伝授の情景を鮮やかに映し出しています。したがって、この聖典はカータカ派に伝わる秘奥の教えであることが示されます。

次に、吉祥なる開始を告げる伝統的な言葉「अथ (atha)」が置かれています。これは、ヨーガ・スートラの冒頭「अथ योगानुशासनम् (atha yogānuśāsanam)」(いま、ここにヨーガの教えが始まる)にも見られるように、単なる「さて」といった接続詞ではありません。学習の準備が整い、語る者と聞く者の心が清められ、今まさに神聖な教えが厳かに説き明かされる、という宣言なのです。

そして、その全てに先行するのが、宇宙で最も神聖な音とされる「ॐ (oṃ)」、すなわち聖音オームです。この一音は、万物の始原であり、究極的実在であるブラフマンの音による顕現(शब्दब्रह्म, śabdabrahman)とされます。その響きは「ア」「ウ」「ム」という三つの音から成り、それぞれが創造・維持・帰滅という宇宙の三大原理や、覚醒・夢・熟睡という人間の意識の三状態を象徴します。そして、三音の後の静寂は、これら全てを超越した第四の状態(तुरीय, turīya)、すなわち純粋意識そのものである真我(アートマン)を示唆します。聖典の冒頭でこの音を唱えることは、私たちの心を日常の雑念から引き離し、これから語られる深遠な真理を受け入れるための、清浄で静謐な内なる空間を整えるための、力強い実践でもあるのです。

『カタ・ウパニシャッド』は、死とは何か、そして真の自己とは何かという根源的な問いを抱いた少年ナチケータと、死の支配者でありながら究極の賢者でもあるヤマ神との詩的な対話を通して、その答えを解き明かしていきます。この冒頭の一節は、その壮大な精神の旅路への出発を告げる、静かで力強いファンファーレと言えるでしょう。

シャーンティ・マントラ(平和の祈り)

ॐ सह नाववतु । सह नौ भुनक्तु । सहवीर्यं करवावहै ।
तेजस्वि नावधीतमस्तु । मा विद्विषावहै ॥
oṃ saha nāv avatu | saha nau bhunaktu | sahavīryaṃ karavāvahai |
tejasvi nāvadhītamastu | mā vidviṣāvahai ||
聖音オーム
願わくは、我ら二人を共に護りたまえ。
願わくは、我ら二人を共に育みたまえ。
願わくは、我ら二人、共に力を尽くさんことを。
我らの学びが光輝に満ち、実りあるものとならんことを。
願わくは、我らが互いに憎むことなからんことを。

逐語訳:

  • ॐ (oṃ) - 聖音オーム
  • सह (saha) - 共に
  • नाव् (nāv) - 我ら二人を(アスムド語幹の双数・対格)、または我ら二人の(同・属格)
  • अवतु (avatu) - 護りたまえ(√अव्, av, 護る・命令法3人称単数)
  • नौ (nau) - 我ら二人を、我ら二人に、我ら二人の(アスムド語幹の双数・対格・与格・属格の弱形)
  • भुनक्तु (bhunaktu) - 享受させたまえ、育みたまえ(√भुज्, bhuj, 享受する, 食べる・命令法3人称単数)
  • वीर्यम् (vīryam) - 力を、活力を
  • सह ... करवावहै (saha ... karavāvahai) - 我ら二人が共に成さんことを(√कृ, kṛ, 為す・願望法アートマネーパダ1人称双数)
  • तेजस्वि (tejasvi) - 光輝あるもの、力強く効果的なもの
  • नाव् अधीतम् (nāv adhītam) - 我ら二人の学ばれたもの(nāvは属格、adhītamは学ばれたもの)
  • अस्तु (astu) - あらんことを、ありますように(√अस्, as, ある・命令法3人称単数)
  • मा (mā) - ~することなかれ(禁止を表す不変化詞)
  • विद्विषावहै (vidviṣāvahai) - 我ら二人が互いに憎み合おう(√द्विष्, dviṣ, 憎む・願望法アートマネーパダ1人称双数)。否定詞 मा と共に用いられ、「互いに憎み合うことがありませんように」という祈願となる。

解説:
この美しい祈りの言葉は「シャーンティ・パータ(शान्तिपाठ, śāntipāṭha)」、すなわち「平和の祈り」として知られ、特に黒ヤジュル・ヴェーダに連なるウパニシャッド(『カタ』『タイッティリーヤ』など)の冒頭と結びに置かれます。これは単なる儀礼的な序文ではなく、師と弟子がこれから始まる神聖な学びの場を清め、両者の心を調和させ、真理に向けて開くための、霊的な調律そのものです。

この祈りの最も顕著な特徴は、サンスクリット語の文法における「双数形(द्विवचन, dvivacana)」が一貫して用いられている点です。「我ら二人」を意味する नाव् (nāv)नौ (nau) といった言葉が、師と弟子という二者の存在を明確に示しています。これは、古代インドの師資相承の伝統(グル・シシュヤ・パランパラー)の理想を映し出しています。真理の探求は、師から弟子への一方的な知識の伝達ではなく、両者が対等な立場で臨む共同の旅路なのです。師は知的な傲慢さに陥らず、弟子は卑屈になることなく、共に真理の前に謙虚な探求者として立つ。この祈りは、その崇高な精神を宣言しています。

第一句「सह नाववतु (saha nāv avatu)」は、師弟が共に至高の存在によって護られることを願います。この「保護」とは、外的な災いからだけでなく、学びの途上で生じうる誤解、迷い、そして何よりも自我(अहंकार, ahaṃkāra)の働きがもたらす歪みから護られることを意味します。

第二句「सह नौ भुनक्तु (saha nau bhunaktu)」では、共に「育まれる」こと、あるいは「享受する」ことが祈られます。動詞 भुज् (bhuj) の根源的な意味は、単に栄養を摂ることを超え、深い満足と共に味わい、享受することです。これは、ウパニシャッドの教えが、無味乾燥な知識ではなく、魂を養う甘美な果実として、師弟が共に味わうべきものであることを示唆します。

第三句「सहवीर्यं करवावहै (sahavīryaṃ karavāvahai)」は、両者が能動的に「共に力を尽くさんこと」を誓います。ここでいう वीर्य (vīrya) とは、身体的な力に留まらず、真理を理解し体現するための霊的な活力、不屈の精神力、そして鋭い集中力を指します。学びとは、師弟が共に献身的な努力を重ねる、創造的で力強い営みなのです。

第四句「तेजस्वि नावधीतमस्तु (tejasvi nāv adhītam astu)」は、その学びが तेजस् (tejas)、すなわち「光輝」に満ちたものとなるよう願います。この光輝とは、知識が単に情報として頭に記憶されるのではなく、人格全体を照らし、変容させる生きた智慧の光となることを意味します。真の学びは、学習者の内なる神性の光を燃え立たせるものでなければなりません。

最後の句「मा विद्विषावहै (mā vidviṣāvahai)」は、師弟間に憎しみや嫉妬、反発の心が生じないようにとの、力強い祈りです。真理の道において、知的な競争心や優越感は、道を塞ぐ最も危険な障害となり得ます。相互の深い信頼と敬意なくして、奥義の伝授は決して成り立ちません。

この平和の祈りは、『カタ・ウパニシャッド』でこれから展開される深遠な対話が、単なる哲学談義ではなく、師と弟子の魂が共鳴し合う神聖な儀式であることを私たちに教えてくれます。そしてそれは、時代を超えて、あらゆる真摯な学びの場における理想的な心構えを、静かに、しかし力強く示し続けているのです。

シャーンティ・マントラ(平和の祈り)

ॐ शान्तिः शान्तिः शान्तिः ॥
oṃ śāntiḥ śāntiḥ śāntiḥ ॥
聖音オーム
平安あれ、平安あれ、平安あれ。

逐語訳:

  • ॐ (oṃ) - 聖音オーム(宇宙の根本音、ブラフマンの音による顕現)
  • शान्तिः (śāntiḥ) - 平安、平和、静寂(語根√शम्, śam、静まる・名詞女性単数主格)

解説:
先のシャーンティ・パータ(平和の祈り)に続き、この三重の「シャーンティ」の祈りが唱えられます。これはヴェーダの伝統において聖典の読誦や儀礼の結びに置かれる最も神聖なマントラの一つであり、単なる形式的な結語ではありません。聖典の深遠な教えを受け取るために、自らの存在のあらゆる次元を静寂と調和で満たすための、力強い実践です。

祈りは、万物の根源であり究極的実在であるブラフマンの音による顕現、聖音「ॐ (oṃ)」から始まります。この聖音が、これから祈願される平安が、世俗的な安らぎではなく、宇宙的な根源に由来するものであることを示唆します。

続く「शान्तिः (śāntiḥ)」の三度の反復には、深い意味が込められています。古来の解釈によれば、これは人間が経験する三種類の苦しみ(त्रिविध ताप, trividha tāpa)からの解放を祈願するものです。

第一の「シャーンティ」は、आध्यात्मिक (ādhyātmika)、すなわち自己の内なるものに起因する苦しみからの平安です。これには、身体的な病、老い、そして怒りや悲しみ、嫉妬、不安といった心的な苦悩、さらには真理を知らない無明(अविद्या, avidyā)が含まれます。まず自らの内側が静まらない限り、真の平安は訪れません。

第二の「シャーンティ」は、आधिभौतिक (ādhibhautika)、すなわち他の生き物や外界の事物から生じる苦しみからの平安を願います。他者との争い、動物からの危害、騒音といった、自己の外部にある存在から受ける妨げや苦痛からの解放を祈るものです。

そして第三の「シャーンティ」は、आधिदैविक (ādhidaivika)、すなわち人智を超えた天的な力による苦しみからの平安を祈願します。台風、地震、洪水といった自然災害や、避けがたい運命の流れなど、個人の力では制御できない超自然的な力による障害からの守護を求める祈りです。

さらに、この祈りは、私たちの存在そのものを構成する三つの次元にまで及ぶ、包括的な平安を求めます。それは、覚醒(जाग्रत्, jāgrat)、夢(स्वप्न, svapna)、熟睡(सुषुप्ति, suṣupti)という意識の三状態すべてにおける静けさであり、また、肉体(स्थूल, sthūla)、微細身(सूक्ष्म, sūkṣma)、原因身(कारण, kāraṇa)という三層の身体すべてにおける調和への祈りでもあります。

特に『カタ・ウパニシャッド』の文脈において、この祈りは深い意味を帯びます。これから語られるのは、少年ナチケータが死の神ヤマに問いかける、死そのものの本質と、それを超える究極の智慧です。このような根源的な問いに向き合うには、あらゆる恐れや不安、内と外からの妨げが完全に鎮められた、絶対的な心の静けさが不可欠です。この三重の「シャーンतिः (śāntiḥ)」は、その静寂を自らの内に確立し、これから説かれる至高の真理を受け入れるための器を清める、聖なる響きと言えるでしょう。

このように、この三重の祈りは、聖典の学びへと入るための厳かな序曲です。そしてそれは、古代の賢者たちだけでなく、現代に生きる私たちにとっても、日々の喧騒の中で自らの中心に立ち返り、揺るぎない内なる平安を見出すための、時代を超えた普遍的な道しるべであり続けています。

第1篇

第1篇 第1章 第1節

ॐ उशन् ह वै वाजश्रवसः सर्ववेदसं ददौ ।
तस्य ह नचिकेता नाम पुत्र आस ॥ १.१.१॥
oṃ uśan ha vai vājaśravasaḥ sarvavedasaṃ dadau |
tasya ha naciketā nāma putra āsa || 1.1.1||
聖音オーム
かつて、ヴァージャシュラヴァスの子は、(天界の果報を)願い、その全財産を布施した。
彼に、ナチケータという名の息子がいた。

逐語訳:

  • ॐ (oṃ) - 聖音オーム
  • उशन् (uśan) - (天界の果報を)願いながら(√वश्, vaś, 欲する・現在分詞男性単数主格)
  • ह वै (ha vai) - かつて、実に(物語の導入と強調を示す不変化詞)
  • वाजश्रवसः (vājaśravasaḥ) - ヴァージャシュラヴァスの子が(vājaśravasaの男性単数属格。ここでは主格的に使用)
  • सर्ववेदसम् (sarvavedasam) - 全財産を(sarvavedas、全財産・対格)
  • ददौ (dadau) - 布施した、与えた(√दा, dā, 与える・完了体3人称単数)
  • तस्य (tasya) - 彼の、その者の(代名詞 tad の男性単数属格)
  • ह (ha) - まさに、実に(強調の不変化詞)
  • नचिकेता नाम (naciketā nāma) - ナチケータという名の
  • पुत्रः (putraḥ) - 息子が
  • आस (āsa) - いた、存在した(√अस्, as, ある・未完了過去3人称単数)

解説:
この第一詩節は、インド哲学史上、最も美しく深遠な対話劇の一つである『カタ・ウパニシャッド』の、静かで荘厳な幕開けです。ここから始まる物語は、生と死という根源的な問いをめぐる、人類普遍の探求の象徴として語り継がれてきました。

まず物語の舞台設定として、一人のバラモンとその息子が描かれます。父親の名はवाजश्रवसः (vājaśravasaḥ)と記されます。これは「食物(vāja)によって名声(śravas)を得た者」の子孫を意味し、一般にナチケータの父ガウタマを指すと解釈されます。この名前自体が、世俗的な富や名声、すなわち目に見える価値を重んじる人物像を暗示しています。

彼の行った行為は「सर्ववेदसं ददौ (sarvavedasaṃ dadau)」、すなわち「全財産を布施した」とあります。これはविश्वजित् (viśvajit)と呼ばれる大規模な祭式を指し、「世界征服者」を意味するこの儀礼は、自らの持つもの全てを捧げることで、天界における至福などの偉大な果報を得ることを目的とします。これはヴェーダの伝統における儀礼至上主義的な側面、いわゆるकर्मकाण्ड (karmakāṇḍa)、行為の部門の頂点とも言える行いです。

しかし、この詩節には極めて重要な一語が潜んでいます。それは冒頭のउशन् (uśan)、「願いながら」という言葉です。これは、彼の布施が、見返りを求めない純粋な無償の行為ではなく、天界での報奨という「果報を願う」利己的な動機に基づいていたことを明確に示しています。この動機こそが、後の節で描かれる彼の布施の不完全さへとつながり、物語を動かす最初の引き金となるのです。

これに対し、物語の真の主人公として、息子नचिकेता (naciketā)が登場します。この名前は「知られざるもの」「探求するもの」といった意味合いを持つとされ、彼の汚れなき純粋な心と、真理への揺るぎない渇望を象徴しています。彼は父の外面的な儀礼の中に潜む欺瞞を見抜き、存在の真実そのものを問うていきます。

このように、この詩節は、外面的な富や宗教的功徳を追求する父親と、内面的な真理そのものを求める息子という、鮮やかな対比を描き出しています。これは、ヴェーダーンタ哲学の核心である、知識の部門ज्ञानकाण्ड (jñānakāṇḍa)への移行を象徴するものです。そして、この父子の対立は、後にヤマ神が説くことになる「善(श्रेयस्, śreyas)」と「快楽(प्रेयस्, preyas)」という、人間が直面する二つの道の選択という、ウパニシャッドの中心的なテーマを見事に予告しています。この簡潔な一節の中に、人間存在の根源的な葛藤が凝縮されており、ここから始まる壮大な精神の旅路への扉が、静かに開かれているのです。

第1篇 第1章 第2節

तँ ह कुमारँ सन्तं दक्षिणासु
नीयमानासु श्रद्धाविवेश सोऽमन्यत ॥ १.१.२॥
taṃ ha kumāraṃ santaṃ dakṣiṇāsu
nīyamānāsu śraddhāviveśa so'manyata || 1.1.2||
まだ少年であったその彼のもとへ、布施の品々が運ばれてゆくさなか、信が入り来た。
彼は、こう思った。

逐語訳:

  • तम् (tam) - その彼に、彼のもとへ(代名詞 tad の男性単数対格。ここでは動詞 आविवेश の対象を示す)
  • ह (ha) - まさに、実に(強調の不変化詞)
  • कुमारम् सन्तम् (kumāraṃ santam) - 少年である(状態にある)者を(कुमारは少年、सन्तम्は√अस्, as「ある」の現在分詞対格。तम्を修飾)
  • दक्षिणासु नीयमानासु (dakṣiṇāsu nīyamānāsu) - 布施の品々が運ばれてゆく中で(दक्षिणाは布施、नीयमानは√नी, nī「運ぶ」の受動態現在分詞。両語とも女性複数処格で、状況を示す絶対処格構文)
  • श्रद्धाविवेश (śraddhāviveśa) - 信が入り来た、信が宿った(श्रद्धा śraddhā「信」 + आविवेश āviveśa「入った」√विश्, viśの完了体3人称単数、の連声形)
  • सः अमन्यत (saḥ amanyata) - 彼は思った(सःは「彼」、अमन्यतは√मन्, man「思う」の未完了過去3人称単数。連声して सोऽमन्यत so'manyata となる)

解説:
この第二詩節は、物語の静かなる転換点であり、主人公ナチケータの魂の目覚めが描かれる、極めて重要な場面です。前節で描かれた父の大規模な儀礼という外面的な出来事から、視点は少年の内面へと深く潜行します。

詩は、दक्षिणासु नीयमानासु (dakṣiṇāsu nīyamānāsu)、「布施の品々が運ばれてゆく中で」という、動きのある情景描写から始まります。これはサンスクリット語の詩的技法である絶対処格構文で、背景となる状況を生き生きと描き出します。祭官たちへ捧げられる牛たちが次々と引かれていく光景を、ナチケータは黙って見つめています。しかし、彼の眼は単に物理的な光景を捉えているだけではありませんでした。

ここで、物語を動かす決定的な一語が登場します。「श्रद्धाविवेश (śraddhāviveśa)」、すなわち「信が彼に入り来た」のです。श्रद्धा (śraddhā)という言葉は、単なる「信仰」や「信心」と訳すだけではその深い意味を捉えきれません。ヴェーダの文脈においてश्रद्धा (śraddhā)とは、聖なる教えや儀礼の力を信じる心、真理に対する揺るぎない信頼、そして何よりも真摯さと誠実さを意味する、極めて能動的で力強い精神性を指します。それは、物事の本質を見抜く、曇りのない感受性そのものです。

このश्रद्धा (śraddhā)は、ナチケータ自身の心から湧き出たというよりも、आविवेश (āviveśa)、「(外から)入ってきた、宿った」と表現されています。あたかも天啓のように、あるいは抗いがたい力として、真実を見極めるべきだという衝動が、कुमार (kumāra)、すなわち世俗の価値観にまだ染まっていない純粋な少年の心を捉えたのです。この「若さ」は、未熟さの象徴ではなく、むしろ既成概念に囚われず真理を直視できる、清浄な器の比喩として描かれています。

そしてこのश्रद्धा (śraddhā)は、父の行為を賛美するのではなく、その欺瞞性を見抜くという形で現れます。父の利己的な動機と、捧げられる供物の不完全さに、ナチケータのश्रद्धा (śraddhā)は鋭く反応します。この内なる声こそが、彼を単なる儀礼の傍観者から、真理の探求者へと変貌させるのです。

最後のसोऽमन्यत (so'manyata)、「彼は思った」という言葉は、この内的な革命が思考へと結実したことを示します。続く詩節で語られる彼の「思い」は、この世界における行為の真の意味を問う、根源的な哲学的問いかけの始まりとなります。この一節は、外面的な宗教行為の喧騒と、一人の少年の内面で起こる静かな精神の覚醒とを鮮やかに対比させ、これから始まる深遠な対話への序曲を見事に奏でているのです。

第1篇 第1章 第3節

पीतोदका जग्धतृणा दुग्धदोहा निरिन्द्रियाः ।
अनन्दा नाम ते लोकास्तान् स गच्छति ता ददत् ॥ १.१.३॥
pītodakā jagdhatṛṇā dugdhadohā nirindriyāḥ |
anandā nāma te lokāstān sa gacchati tā dadat || 1.1.3||
水を飲み干し、草を食い尽くし、乳を搾り取られ、子を産む力も失った牛たち──
そのような供物を捧げる者は、まさしく『喜びなき』と名高き、かの世界へと赴くのだ。

逐語訳:

  • पीतोदकाः (pītodakāḥ) - 水を飲み尽くした(牛たち)(pīta √पा, pā「飲む」の過去受動分詞 + udaka「水」。複数主格)
  • जग्धतृणाः (jagdhatṛṇāḥ) - 草を食べ尽くした(牛たち)(jagdha √अद्/घस्, ad/ghas「食べる」の過去受動分詞 + tṛṇa「草」。複数主格)
  • दुग्धदोहाः (dugdhadohāḥ) - 乳を搾り取られた(牛たち)(dugdha √दुह्, duh「搾る」の過去受動分詞 + doha「搾乳」。複数主格)
  • निरिन्द्रियाः (nirindriyāḥ) - 諸々の力を失った(牛たち)(nir「無」+ indriya「感覚器官、力」。複数主格)
  • अनन्दाः (anandāḥ) - 喜びのない(an「非」+ ānanda「喜び」。lokāḥを修飾する形容詞、複数主管)
  • नाम (nāma) - 〜という名の、まさしく(不変化詞)
  • ते (te) - それらの(世界は)(指示代名詞 tad の男性複数主格)
  • लोकाः (lokāḥ) - 世界、領域(複数主格)
  • तान् (tān) - それらの(世界)へ(指示代名詞 tad の男性複数対格)
  • सः (saḥ) - 彼は(父ヴァージャシュラヴァサを指す)
  • गच्छति (gacchati) - 行く、到達する(√गम्, gam・現在3人称単数)
  • ताः (tāḥ) - それらの(牛たち)を(指示代名詞 tad の女性複数対格)
  • ददत् (dadat) - 与えながら(√दा, dā「与える」・現在分詞男性単数主格)

解説:
この第三詩節は、前節でナチケータの純粋な心に宿ったश्रद्धा (śraddhā)、すなわち真理を見極める信の力が、具体的な洞察となって現れる場面です。少年の曇りなき眼は、父が行う儀礼の外面的な壮麗さの裏に潜む、本質的な欠陥を鋭く見抜きます。

詩の前半は、布施として捧げられる牛たちの痛ましい姿を、四つの簡潔かつ力強い言葉で描き出します。पीतोदकाः (pītodakāḥ)「水を飲み尽くし」、जग्धतृणाः (jagdhatṛṇāḥ)「草を食べ尽くし」、दुग्धदोहाः (dugdhadohāḥ)「乳を搾り取られた」という描写は、牛たちがすでに用済みであり、もはや何の価値も生み出さない存在であることを示唆します。そして決定的なのがनिरिन्द्रियाः (nirindriyāḥ)という言葉です。これは直訳すれば「感覚器官を失った」となりますが、伝統的には「子を産む能力(生殖能力)さえ失った」と解釈されます。つまり、生命力そのものが枯渇し、未来を生み出す力を完全に失った、死せるに等しい存在であることを意味します。これは、供物として最も重要であるはずの神聖さと生命力に著しく欠けていることを、痛烈に告発する言葉です。

詩の後半で、ナチケータの洞察は、この欺瞞に満ちた行為が招く必然的な結果へと向けられます。अनन्दा नाम ते लोकाः (anandā nāma te lokāḥ)「喜びなき、かの世界」。अनन्दा (anandā)とは、真の至福、霊的な喜びであるआनन्द (ānanda)が完全に欠如した状態です。これは地獄のような積極的な苦しみの世界というよりは、むしろ光も喜びもない、空虚で陰鬱な領域を指します。ヴェーダの思想では、行為(कर्म, karma)とその結果(फल, phala)は、厳格な因果律によって結びついています。生命力のない不適切な供物を捧げるという行為は、喜びのない空虚な世界という結果を必然的にもたらすのです。天界での輝かしい果報を願った父の行為が、皮肉にもその正反対の結末を招くと、少年は予見します。

このナチケータの言葉は、単なる子供じみた父への反抗ではありません。それは、儀礼の神聖さが汚され、自らの家系が負うべき真のダルマ(法・義務)が踏みにじられていることへの、深い憂慮から発せられています。彼のश्रद्धा (śraddhā)は、儀礼の本質を守ろうとする、誠実で揺るぎない精神性の表れなのです。

この鋭い洞察は、物語の静かな序盤における最初のクライマックスです。外面的な行為と内面的な真実との乖離を指摘したこの一節は、読者を単なる物語の観客から、真の価値とは何かを問う哲学的な探求の当事者へと引き込みます。そしてこの言葉が、父の怒りを買い、ナチケータを死の神ヤマの元へと送る、物語の大きな転換点を生み出すことになるのです。

第1篇 第1章 第4節

स होवाच पितरं तत कस्मै मां दास्यसीति ।
द्वितीयं तृतीयं तँ होवाच मृत्यवे त्वा ददामीति ॥ १.१.४॥
sa hovāca pitaraṃ tata kasmai māṃ dāsyasīti |
dvitīyaṃ tṛtīyaṃ taṃ hovāca mṛtyave tvā dadāmīti || 1.1.4||
彼は父に言った、「父上よ、それでは私を誰に捧げられるのですか」と。
二度、三度と重ねて問う彼に、父は言い放った。「死に、汝を与える」と。

逐語訳:

  • सः ह उवाच (saḥ ha uvāca) - 彼は、実に、言った(सः 彼は、 強調、उवाच √वच्, vac, 話す・完了体3人称単数。連声してस होवाचとなる)
  • पितरम् (pitaram) - 父に(pitṛ 父・対格単数)
  • तत (tata) - それでは、それゆえに(副詞)
  • कस्मै (kasmai) - 誰に(疑問代名詞 kim 誰・与格単数)
  • माम् (mām) - 私を(一人称代名詞 asmad・対格単数)
  • दास्यसि (dāsyasi) - あなたは与えるのですか(√दा, dā, 与える・未来2人称単数)
  • इति (iti) - と(引用の不変化詞)
  • द्वितीयम् (dvitīyam) - 二度目に(副詞)
  • तृतीयम् (tṛtīyam) - 三度目に(副詞)
  • तम् ह उवाच (tam ha uvāca) - 彼に、実に、言った(तम् 彼に、 強調、उवाच 言った。連声してतँ होवाचとなる)
  • मृत्यवे (mṛtyave) - 死(の神)に(mṛtyu 死・与格単数)
  • त्वा (tvā) - 汝を(二人称代名詞 yuṣmad・対格単数)
  • ददामि (dadāmi) - 私は与える(√दा, dā, 与える・現在1人称単数)
  • इति (iti) - と(引用の不変化詞)

解説:
この第四詩節は、『カタ・ウパニシャッド』の物語が大きく動き出す、運命的な転換点です。前節で父の儀礼に潜む欺瞞を見抜いたナチケータは、沈黙を破り、父との直接対決に臨みます。この対話は、単なる父子の衝突を超え、二つの異なる価値観の激突と、真理探求への扉を開く聖なる契機を描き出しています。

ナチケータの問い、「कस्मै मां दास्यसि (kasmai māṃ dāsyasi)」(私を誰に捧げられるのですか)は、表面上は子供らしい素朴な問いかけに見えます。しかし、その背後には驚くほど深い意図が隠されています。彼は、父が行う不完全な儀礼を目の当たりにし、このままでは父が霊的な破滅に至ることを憂慮しました。そこで、最高の供物、すなわち息子である自分自身を捧げることによって、儀礼を完全なものとし、父を救おうと考えたのです。これは、自らの義務(धर्म, dharma)を深く理解し、父への深い孝心から生まれた、自己犠牲の尊い申し出です。

彼がこの問いを「द्वितीयं तृतीयम् (dvitīyaṃ tṛtīyam)」、すなわち二度、三度と繰り返したことには、極めて重要な意味があります。これは単なる子供のしつこさではありません。古代インドの伝統において、三度の反復は、その言葉や行為に絶対的で取り消し不可能な力を与える儀礼的な作法でした。ナチケケータスの執拗な問いは、彼の不退転の決意を示すと同時に、この会話を単なる口論から、現実を動かす力を持つ聖なる宣言(वाच्, vāc)へと昇華させたのです。

この真摯な問いに対し、父ヴァージャシュラヴァサは激しい怒りをもって応じます。息子の言葉が、儀礼の不備を隠そうとしていた自らの良心を鋭く突き、人々の前で体面を傷つけられたと感じたからです。その内なる葛藤が、「मृत्यवे त्वा ददामि (mṛtyave tvā dadāmi)」(死に、汝を与える)という呪いの言葉となって爆発します。父にとって、これは息子を黙らせるための、怒りに任せた衝動的な一言でした。

しかし、この物語の壮大な構図において、この呪いの言葉は、皮肉にもナチケータにとって最大の祝福となります。ここでいう「मृत्यु (mṛtyu)」(死)とは、単なる生命の終わりを意味するのではありません。それは、死を司ると同時に、生と死の秘密を知り尽くした偉大な賢者、ヤマ神その人を指すのです。父の怒りの言葉は、期せずして、息子を究極の智慧を持つ師の元へと送り届ける、運命の鍵となりました。

このように、この詩節は、人間の怒りや無知といった行為でさえも、より大きな宇宙の摂理の中では、真理へと至るための重要な役割を果たすことがあるという、深遠な真理を示唆しています。外面的な儀礼の世界で閉塞していた物語は、この劇的な一言によって、死を超えた真我(アートマン)を探求する、内面的な精神の旅路へと、その扉を大きく開いていくのです。

第1篇 第1章 第5節

बहूनामेमि प्रथमो बहूनामेमि मध्यमः ।
किँ स्विद्यमस्य कर्तव्यं यन्मयाऽद्य करिष्यति ॥ १.१.५॥
bahūnāmemi prathamo bahūnāmemi madhyamaḥ |
kiṃ svidyamasya kartavyaṃ yanmayā'dya kariṣyati || 1.1.5||
多くの者たちの中で私は先頭をゆく。多くの者たちの中で私は中ほどをゆく。
この私を以て、ヤマ(死神)が今まさに成し遂げんとする務めとは、一体何であろうか。

逐語訳:

  • बहूनाम् एमि प्रथमः (bahūnām emi prathamaḥ) - 多くの者たちの中で、私は第一の者としてゆく。(bahūnām - 多くの者たちの(複数属格)、emi - 私は行く(√इ, i・現在1人称単数)、prathamaḥ - 第一の者(男性単数主格))
  • बहूनाम् एमि मध्यमः (bahūnāmemi madhyamaḥ) - 多くの者たちの中で、私は中間の者としてゆく。(madhyamaḥ - 中間の者)
  • किम् स्वित् (kim svit) - 一体、何を。(kim - 何を、svit - 〜であろうか、という強調の不変化詞)
  • यमस्य (yamasya) - ヤマ(死神)の。(yama - ヤマ、属格単数)
  • कर्तव्यम् (kartavyam) - なされるべき務め、目的が。(√कृ, kṛ「なす」の未来受動分詞、中性単数主格)
  • यत् (yat) - それは(関係代名詞)
  • मया (mayā) - 私によって、私を以て。(一人称代名詞asmadの具格単数)
  • अद्य (adya) - 今日、今。(副詞)
  • करिष्यति (kariṣyati) - 彼(ヤマ)が成し遂げるであろう。(√कृ, kṛ「なす」の未来3人称単数)

解説:
この第五詩節は、父の激情的な呪いの言葉を受けたナチケータの、驚くほど冷静で深い内省を描き出しています。恐怖や悲嘆にくれることなく、彼は自らの置かれた状況の意味を静かに思索します。この一節は、彼の魂の成熟度と、真理を探求する者としての非凡な器量を、物語の早い段階で読者に示す重要な独白です。

「多くの者たちの中で私は先頭をゆく。多くの者たちの中で私は中ほどをゆく」という言葉は、彼の謙虚さと同時に、確固たる自己認識を表しています。これは、父の弟子や息子としての彼の振る舞いを振り返った言葉です。彼は常に最善を尽くす「第一の者」であろうと努め、少なくとも人並み以上の「中間の者」ではあるが、決して劣った者 (adhamaḥ) ではないと自覚しています。この内省は、価値のない老いぼれた牛を供物とした父の行為との、鮮やかな対比をなしています。ナチケータは、自分自身が死の神ヤマへの供物として、十分に価値のある存在であるという静かな誇りと覚悟を、この言葉に込めているのです。

彼の思索は、個人的な運命への嘆きから、より普遍的で宇宙的な次元へと瞬時に飛躍します。「この私を以て、ヤマ(死神)が今まさに成し遂げんとする務めとは、一体何であろうか」。彼は、これから自分に訪れる死を、単なる生命の終焉とは捉えていません。むしろ、宇宙の法(धर्म, dharma)を司る偉大な神、ヤマ(यम, yama)が果たすべき「務め(कर्तव्यम्, kartavyam)」の一部として捉えようとしています。父の怒りという個人的な出来事でさえも、より大きな神の計画の内に起こった必然ではないかと、彼は洞察しているのです。

特に注目すべきは、「मया (mayā)」、すなわち「私によって、私を以て」という言葉に込められた、彼の主体的な精神です。彼は自らを、運命に翻弄される哀れな犠牲者とは見なしていません。そうではなく、ヤマ神が何か偉大な目的を達成するための、尊い「道具」あるいは「媒体」として自らを位置づけています。この自己犠牲の精神と、出来事の背後にある深遠な意味を探ろうとする姿勢こそが、彼を単なる少年から、死の秘密を解き明かすにふさわしい求道者へと昇華させています。

この短い独白は、これから始まる死の神との壮大な対話の、見事な序曲となっています。ナチケータが示したこの揺るぎない精神の平穏と、真理への曇りなき探求心があったからこそ、死の支配者ヤマ神は彼に心を開き、究極の智慧を授けることを決意するのです。

第1篇 第1章 第6節

अनुपश्य यथा पूर्वे प्रतिपश्य तथाऽपरे ।
सस्यमिव मर्त्यः पच्यते सस्यमिवाजायते पुनः ॥ १.१.६॥
anupaśya yathā pūrve pratipaśya tathā'pare |
sasyamiva martyaḥ pacyate sasyamivājāyate punaḥ || 1.1.6||
鑑みよ、先人たちがいかであったかを。省みよ、また来たる人々がいかであるかを。
穀物が熟して枯れるように、死すべき者は熟し、穀物が再び芽生えるように、また生まれるのだ。

逐語訳:

  • अनुपश्य (anupaśya) - 順を追って見よ、鑑みよ(√पश्, paś「見る」に接頭辞अनु「〜に従って」が付いた動詞の命令法2人称単数)
  • यथा (yathā) - 〜のように、いかに(副詞)
  • पूर्वे (pūrve) - 先人たち、古の人々(pūrva「前の」男性複数主格)
  • प्रतिपश्य (pratipaśya) - 振り返って見よ、省みよ(√पश्, paś「見る」に接頭辞प्रति「〜に向かって、逆に」が付いた動詞の命令法2人称単数)
  • तथा (tathā) - そのように、同様に(副詞)
  • अपरे (apare) - 後の人々、来たる人々(apara「後の」男性複数主格)
  • सस्यम् इव (sasyam iva) - 穀物のように(sasya「穀物」中性単数主格 + iva「〜のように」)
  • मर्त्यः (martyaḥ) - 死すべき者、人間(martya「死すべき」男性単数主格)
  • पच्यते (pacyate) - 熟する、熟して枯れる(√पच्, pac「熟する、調理する」の受動相現在3人称単数)
  • सस्यम् इव अजयते पुनः (sasyam iva ajāyate punaḥ) - 穀物のように、再び生まれる(ivaajāyateが連声している。ajāyateは√जन्, jan「生む」の現在3人称単数。punaḥは「再び」)

解説:
この第六詩節は、父の言葉により死と直面することになったナチケータの内省が、極めて高い精神的境地へと達したことを示す、珠玉の一節です。前節で「ヤマ神が私を以て何を成すのか」と自問した少年は、ここでは個人的な運命への思索を超え、生と死という人間存在の普遍的な法則そのものを静かに観想しています。

詩の前半、「अनुपश्य यथा पूर्वे प्रतिपश्य तथाऽपरे(anupaśya yathā pūrve pratipaśya tathā'pare)」は、単なる「見よ」という命令以上の深い意味を持ちます。अनुपश्य (anupaśya)は過去の先人たちのあり方を順に追って観察すること、प्रतिपश्य (pratipaśya)は未来に来るであろう人々のあり方を省み、熟考することを促します。彼は、悠久の時の流れの中に無数に繰り返されてきた生と死の営みに思いを馳せ、自らの運命をその壮大な文脈の中に位置づけようとしています。これは絶望的な諦めではなく、真理を理解しようとする積極的で冷静な知性の働きです。

この普遍的な洞察は、詩の後半で、きわめて美しく、親しみやすい比喩によって表現されます。「सस्यमिव मर्त्यः पच्यते सस्यमिवाजायते पुनः(sasyamiva martyaḥ pacyate sasyamivājāyate punaḥ)」。人間の一生は、穀物の生命サイクルになぞらえられます。ここで使われる動詞पच्यते (pacyate)は「熟する」を意味し、死が単なる生命の破壊や終焉ではなく、実りを迎えたものの自然な成就であることを示唆します。穀物が太陽の光を浴びて黄金色に熟し、その生命を全うするように、人間もまた人生経験を経て魂を成熟させ、やがて死という完成の時を迎えるのです。

そして、枯れた穀物がその内に宿した種子によって「पुनः (punaḥ)」、つまり「再び」芽生えるように、死した人間もまた、新たな生を得てこの世に現れます。この比喩は、インド哲学の中心概念である輪廻(संसार, saṃsāra)を、恐ろしい宿業の連鎖としてではなく、自然界の営みと同じ、調和と秩序に満ちた宇宙の法則(ऋत, ṛta)として描き出しています。個々の生命は死によって終わりを迎えるように見えますが、それはより大きな生命の循環の中の、一つの必然的な過程に過ぎないのです。

この詩節は、父の怒りの言葉という個人的な出来事を、宇宙的な真理を観想するきっかけへと昇華させたナチケータの、驚くべき精神の成熟を示しています。彼は自らの死を冷静に受け入れ、それを乗り越えるべき課題としてではなく、まず理解すべき深遠な真理として捉えています。この不動の精神と真理への渇望こそが、彼を単なる少年から、死の秘密を解き明かすにふさわしい求道者へと変容させたのです。この静かな覚悟の言葉は、これから始まる死の神ヤマとの哲学的な対話への、荘厳な序曲となっています。

第1篇 第1章 第7節

वैश्वानरः प्रविशत्यतिथिर्ब्राह्मणो गृहान् ।
तस्यैताँ शान्तिं कुर्वन्ति हर वैवस्वतोदकम् ॥ १.१.७॥
vaiśvānaraḥ praviśatyatithirbrāhmaṇo gṛhān |
tasyaitāṃ śāntiṃ kurvanti hara vaivasvatodakam || 1.1.7||
火そのものとして、ブラーフマナの客人は家に入る。
賢き人々はその方を鎮める儀を執り行う。ヴァイヴァスヴァタよ、さあ、もてなしの水を運ぶのだ。

逐語訳:

  • वैश्वानरः (vaiśvānaraḥ) - ヴァイシュヴァーナラとして、火そのものとして(火神アグニの別名。ここでは比喩として用いられる。男性単数主格)
  • प्रविशति (praviśati) - 入る(√विश्, viś「入る」に接頭辞प्र, pra「前へ」が付いた動詞。現在3人称単数)
  • अतिथिः (atithiḥ) - 客人、賓客(男性単数主格)
  • ब्राह्मणः (brāhmaṇaḥ) - ブラーフマナ、バラモン(男性単数主格)
  • गृहान् (gṛhān) - 家を、家々に(gṛha「家」の複数対格)
  • तस्य (tasya) - その(客人の)ために(三人称代名詞tadの男性属格単数)
  • एताम् (etām) - この(指示代名詞etadの女性対格単数)
  • शान्तिम् (śāntim) - 平安を、鎮静の儀礼を(śānti「平安」の女性対格単数)
  • कुर्वन्ति (kurvanti) - (賢き人々は)行う(√कृ, kṛ「なす」の現在3人称複数)
  • हर (hara) - 運べ、持ってこい(√हृ, hṛ「運ぶ」の命令法2人称単数)
  • वैवस्वत (vaivasvata) - ヴァイヴァスヴァタよ(太陽神ヴィヴァスヴァットの子、ヤマ神への呼びかけ)
  • उदकम् (udakam) - 水を(udaka「水」の対格単数。客人を迎えるための供養の水を指す)

解説:
この第七詩節において、物語の舞台は劇的に転換します。父の言葉に従い死の国へと旅立ったナチケータは、その支配者であるヤマ神の館に到着しました。しかし、あいにくヤマ神は不在であり、ナチケータは三日三晩、飲まず食わずで主の帰りを待ち続けます。この詩節は、旅から戻ったヤマ神に対し、彼の妻か、あるいは大臣や従者たちが、聖なる客人をないがしろにしたことの重大さを告げ、すぐにもてなすよう強く促す場面を描いています。

まず、「वैश्वानरः प्रविशत्यतिथिर्ब्राह्मणो गृहान्(vaiśvānaraḥ praviśatyatithirbrāhmaṇo gṛhān)」という一文は、ヴェーダ時代から続く客人歓待の思想的背景を凝縮して表現しています。客人として訪れたブラーフマナは、単なる人間ではありません。彼は「वैश्वानरः (vaiśvānaraḥ)」、すなわち聖なる火(アグニ)そのものに等しい存在として家に入るとされるのです。火は、神々と人間世界を結ぶ聖なる媒体であり、供物を天に届ける使者でした。同時に、火は丁重に扱われなければすべてを焼き尽くす破壊的な力も秘めています。この比喩は、ブラーフマナの客人を歓待することが家に祝福をもたらす一方で、彼をないがしろにすることがいかに恐ろしい災禍を招くかを力強く示唆しています。

この神聖な客人を前にして、賢明な家主がとるべき行動が「तस्यैताँ शान्तिं कुर्वन्ति(tasyaitāṃ śāntiṃ kurvanti)」、すなわち「その方を鎮める儀を執り行う」ことです。ここでの「शान्ति (śānti)」とは、単なる静けさではなく、客人がもたらす強大な神聖なエネルギーを、儀礼的なもてなしによって鎮め、家の平安と調和を確保するという積極的な行為を指します。具体的には、足を洗うための水(पाद्य, pādya)や供養の水(अर्घ्य, arghya)を捧げ、座席を勧め、食事を提供するといった一連の歓待の儀礼(अतिथिधर्म, atithidharma)がこれにあたります。

そして、詩の最後は「हर वैवस्वतोदकम्(hara vaivasvatodakam)」という、切迫感に満ちたヤマ神への直接的な呼びかけで結ばれます。「वैवस्वत (vaivasvata)」とは太陽神ヴィヴァスヴァットの子を意味するヤマの別名です。「हर (hara)」は「運べ」という強い命令であり、「उदकम् (udakam)」はナチケータに捧げるべきもてなしの水を指します。つまり、この言葉は「ヴァイヴァスヴァタ(ヤマ)よ、三日もお待たせしているあの方のために、今すぐもてなしの水を運びなさい!」という、緊急の進言なのです。

この詩節は、ナチケータの純粋な探求心が、死の国の秩序さえも揺るがすほどの霊的な力を秘めていることを示します。彼がただ待つという行為そのものが、ヤマ神に「負い目」を生じさせる原因となりました。この負い目こそが、後にヤマ神がナチケータに三つの願いを授けるという、物語の決定的な展開への伏線となるのです。社会的な義務である客人歓待の儀礼が、いかに深遠な霊的真理と結びついているかを、この一節は見事に描き出しています。

第1篇 第1章 第8節

आशाप्रतीक्षे संगतँ सूनृतां
चेष्टापूर्ते पुत्रपशूँश्च सर्वान् ।
एतद्वृङ्क्ते पुरुषस्याल्पमेधसो
यस्यानश्नन्वसति ब्राह्मणो गृहे ॥ १.१.८॥
āśāpratīkṣe saṃgataṃ sūnṛtāṃ
ceṣṭāpūrte putrapaśūṃśca sarvān |
etadvṛṅkte puruṣasyālpamedhaso
yasyānaśnanvasati brāhmaṇo gṛhe || 1.1.8||
希望と期待、親しき交わりと誠の言葉、
祭祀と功徳、子と家畜のすべて――
これら一切を、智慧なき者のもとから破壊し去るのだ、
その家にブラーフマナが食を断ちて留まるときは。

逐語訳:

  • आशाप्रतीक्षे (āśāpratīkṣe) - 希望(āśā)と期待(pratīkṣā)を(複合語の双数対格)
  • संगतम् (saṃgatam) - (善き人々との)交わりを、親交を(saṃgata、中性単数対格)
  • सूनृताम् (sūnṛtām) - 真実で心地よい言葉を(sūnṛtā、女性単数対格)
  • इष्टापूर्ते (iṣṭāpūrte) - 祭祀による功徳(iṣṭa)と公共の善行による功徳(pūrta)を(双数対格。テキストによってはचेष्टापूर्ते (ceṣṭāpūrte)とも)
  • पुत्रपशून् च सर्वान् (putrapaśūn ca sarvān) - 子(putra)と家畜(paśu)、そのすべてを(putrapaśuは複数対格、sarvānも複数対格。caは「そして」)
  • एतत् (etad) - これら一切を(指示代名詞。前に列挙されたもの全体を指す)
  • वृङ्क्ते (vṛṅkte) - 破壊する、奪い去る(√वृज्、vṛj「ねじる、奪う」の現在中動相3人称単数)
  • पुरुषस्य (puruṣasya) - 人の、者の(puruṣa、男性単数属格)
  • अल्पमेधसः (alpamedasaḥ) - 智慧の乏しい、霊的洞察力なき(alpamedhas、男性単数属格)
  • यस्य (yasya) - その(家主)の(関係代名詞 yad の男性単数属格)
  • अनश्नन् (anaśnan) - 食を摂らないまま(an-aśnat、否定接頭辞+現在分詞。男性単数主格)
  • वसति (vasati) - 滞在する(√वस्、vas「住む、滞在する」の現在3人称単数)
  • ब्राह्मणः (brāhmaṇaḥ) - ブラーフマナが(brāhmaṇa、男性単数主格)
  • गृहे (gṛhe) - 家に(gṛha、中性単数位格)

解説:
この第八詩節は、前節で示された警告の根拠を、具体的に、そして極めて力強く解き明かします。ブラーフマナの客人をないがしろにすることが、なぜ家主にとって破滅的な事態を招くのか。その理由が、人生を支えるあらゆる価値の剥奪という形で、ここに列挙されています。

まず詩の前半では、人間が幸福に生きる上で不可欠な要素が、対句をなして並べられます。
आशाप्रतीक्षे (āśāpratīkṣe)」は未来に向けられた心の働き、すなわち将来への「希望」と、計画の成就に対する「期待」です。これらは人生を前進させる原動力そのものです。
संगतम् (saṃgatam)」と「सूनृताम् (sūnṛtām)」は、社会的な幸福の基盤です。善き人々との「親交」と、ヴェーダで美徳とされた「真実で心地よい言葉」は、人間関係の調和と信頼を育みます。
次に挙げられる「इष्टापूर्ते (iṣṭāpūrte)」は、ヴェーダの宗教観・社会観の中心をなす概念です。इष्ट (iṣṭa) とは神々への供物を捧げる「祭祀」によって得られる功徳を指し、पूर्त (pūrta) とは井戸を掘る、木を植えるといった公共の「善行」によって積まれる功徳を意味します。これらは、個人の現世と来世における幸福を保障する、最も重要な宗教的・社会的資本でした。
そして最後に、「पुत्रपशून् (putrapaśūn)」、すなわち「子と家畜」が挙げられます。子は家系の存続を、家畜は経済的な繁栄を象徴し、世俗的な幸福の根幹をなすものでした。

これら人生のあらゆる次元にわたる祝福、すなわち精神的、社会的、宗教的、物質的な幸福のすべてを、「वृङ्क्ते (vṛṅkte)」、破壊し、根こそぎ奪い去ってしまうのです。何が、でしょうか。それは、家にもてなされずに滞在するブラーフマナという、聖なる力です。前節で火(वैश्वानरः, vaiśvānaraḥ)に譬えられたその存在は、丁重に扱われれば祝福をもたらしますが、蔑ろにされればすべてを焼き尽くす災禍となるのです。

この災いが降りかかるのは、どのような人物でしょうか。詩はそれを「अल्पमेधसः पुरुषस्य (alpamedhasaḥ puruṣasya)」、すなわち「智慧なき者」と明示します。ここでの「मेधस् (medhas)」は、単なる世俗的な賢さではありません。それは、宇宙の秩序(धर्म, dharma)を正しく理解し、自らの義務をその秩序の中に位置づけて実践する、霊的な洞察力です。したがって客人歓待の義務を怠ることは、単なる無作法ではなく、宇宙の根本法則に対する無知と背反を意味し、その必然的な帰結として、自らの存在基盤そのものが崩壊するのです。

この詩節は、物語において決定的な役割を果たします。死の国の支配者であるヤマ神でさえ、この宇宙の法則から逃れることはできません。三日三晩、聖なる少年ナチケータを館の入り口で待たせたという「過失」は、ヤマ神自身の「希望と期待」「功徳」をも脅かすほどの重大事でした。この深い負い目こそが、ヤマ神をしてナチケータに三つの願いを授けるという、物語の根幹をなす展開へと導くのです。かくして、客人歓待という古の義務が、死の秘密を解き明かすための壮大な哲学的対話の扉を開く、神聖な鍵となるのです。

第1篇 第1章 第9節

तिस्रो रात्रीर्यदवात्सीर्गृहे मे-
ऽनश्नन् ब्रह्मन्नतिथिर्नमस्यः ।
नमस्तेऽस्तु ब्रह्मन् स्वस्ति मेऽस्तु
तस्मात्प्रति त्रीन्वरान्वृणीष्व ॥ १.१.९॥
tisro rātrīryadavātsīrgṛhe me-
'naśnan brahmannatithirnamasyaḥ |
namaste'stu brahman svasti me'stu
tasmātprati trīnvarānvṛṇīṣva || 1.1.9||
三夜にわたり、汝は我が館に滞在した。
食を摂ることなく、おおブラーフマナよ、礼拝すべき客人として。
汝に敬礼あれ、おおブラーフマナよ。我に幸いあれ。
それゆえに、その償いとして三つの願いを選び給え。

逐語訳:

  • तिस्रः रात्रीः (tisraḥ rātrīḥ) - 三つの夜を(連声して tisro rātrīḥ となる。tisraḥtri「三」の女性複数対格。rātrīḥrātri「夜」の女性複数対格)
  • यत् (yat) - 〜という理由で、〜なので(接続詞)
  • अवात्सीः (avātsīḥ) - 汝は滞在した(√वस्, vas「住む、滞在する」のアオリスト(無限定過去)2人称単数)
  • गृहे (gṛhe) - 家に、館に(gṛha「家」の中性単数処格)
  • मे (me) - 私の(一人称代名詞 mad の単数属格)
  • अनश्नन् (anaśnan) - 食を摂らないまま(否定接頭辞 an- + aśnat「食べる者」、現在分詞の男性単数主格)
  • ब्रह्मन् (brahman) - おおブラーフマナよ(brāhmaṇa の呼格)
  • अतिथिः (atithiḥ) - 客人として(atithi「客人」の男性単数主格)
  • नमस्यः (namasyaḥ) - 礼拝すべき、尊敬すべき(namasya「礼拝に値する」の男性単数主格)
  • नमः ते अस्तु (namaḥ te astu) - 汝に敬礼あれ(連声して namaste'stu となる。namas「敬礼」+ te「汝に」+ astu「あれ」)
  • स्वस्ति मे अस्तु (svasti me astu) - 我に幸いあれ(svasti「幸い、吉祥」+ me「我に」+ astu「あれ」)
  • तस्मात् (tasmāt) - それゆえに、その理由により(指示代名詞 tad の単数奪格)
  • प्रति (prati) - 〜に対して、償いとして(前置詞)
  • त्रीन् वरान् (trīn varān) - 三つの願いを(trīntri「三」の男性複数対格。varānvara「願い、恩恵」の男性複数対格)
  • वृणीष्व (vṛṇīṣva) - 選び給え(√वृ, vṛ「選ぶ、願う」の命令法中動相2人称単数)

解説:
この第九詩節は、物語の劇的な転換点であり、深遠な対話の幕開けを告げる、極めて重要な場面です。不在から戻った死の神ヤマが、三日三晩待ち続けた少年ナチケータに初めて語りかけます。その言葉は、単なる謝罪や挨拶を超え、宇宙の秩序(धर्म, dharma)に対する深い理解と敬意に満ちています。

ヤマの言葉は、見事な構成を持っています。まず、彼は自らの過失を率直に認めます。「तिस्रो रात्रीः(tisro rātrīḥ)」、すなわち「三夜」という具体的な期間と、「अनश्नन्(anaśnan)」、つまり「食を摂ることなく」という事実を挙げることで、犯した不敬の重大さを自ら明らかにします。そして、ナチケータを「ब्रह्मन्(brahman)」と呼び、さらに「नमस्यः अतिथिः(namasyaḥ atithiḥ)」、すなわち「礼拝すべき客人」と讃えます。これは、単に社会的階級としてのブラーフマナへの敬意ではありません。ヤマは、この少年の内に燃える真理への探求心という、聖なる火そのものを見て取り、その霊的な資質に対して心からの敬意を捧げているのです。

次に続く「नमस्तेऽस्तु ब्रह्मन् स्वस्ति मेऽस्तु(namaste'stu brahman svasti me'astu)」という一文は、この詩節の霊的な核心を示しています。死の支配者という絶対的な権威者が、一人の少年に向かい「汝に敬礼あれ」と頭を垂れ、続けて「我に幸いあれ」と祈るのです。これは、前節で示された「智慧なき家主の破滅」という宇宙の法則から、自らをも救済するための儀礼的な行為です。他者への真の敬意(नमस्, namas)を捧げることによってのみ、自己への祝福(स्वस्ति, svasti)がもたらされるという、深遠な因果の法則がここに示されています。ヤマはまず、ないがしろにしてしまった聖なる火(ナチケータ)を鎮めるために敬意の水を捧げ、それによって自らの平安を確保しようとしているのです。

この真摯な悔恨と敬意の表明から、物語を動かす決定的な提案がなされます。「तस्मात्प्रति त्रीन्वरान्वृणीष्व(tasmātprati trīnvarānvṛṇīṣva)」、すなわち「それゆえに、償いとして三つの願いを選び給え」という言葉です。「तस्मात्(tasmāt)」は、この申し出が気まぐれな恩寵ではなく、過失を償うという正当な理由に基づくものであることを明確にします。三夜の不敬に対して三つの願いを授けるという完全な対応は、ヤマが「法(ダルマ)の王」として、いかに公正な存在であるかを物語っています。

この一節を通じて、ヤマ神は単なる死の恐怖の象徴から、宇宙の秩序を深く理解し、それに従う賢者の姿へと変容します。そしてナチケータは、彼の純粋で揺るぎない探求心と忍耐によって、死の神から究極の智慧を引き出すための神聖な「対価」を、自ら求めることなく得たのです。こうして、恐ろしい神と無力な少年という非対称な関係は解消され、真理を前にした師と弟子という、ウパニシャッドの哲学的な対話にふさわしい、尊厳に満ちた舞台が整えられました。この三つの願いが、人間存在の根源を問う壮大な探求の扉を開く鍵となるのです。

第1篇 第1章 第10節

शान्तसंकल्पः सुमना यथा स्याद्
वीतमन्युर्गौतमो माऽभि मृत्यो ।
त्वत्प्रसृष्टं माऽभिवदेत्प्रतीत
एतत् त्रयाणां प्रथमं वरं वृणे ॥ १.१.१०॥
śāntasaṃkalpaḥ sumanā yathā syād
vītamanyurgautamo mā'bhi mṛtyo |
tvatprasṛṣṭaṃ mā'bhivadetpratīta
etat trayāṇāṃ prathamaṃ varaṃ vṛṇe || 1.1.10||
我が父ガウタマが、鎮まりし決意と善き心をもち、怒りを去った者となりますように。おお死よ。
あなたによって解き放たれた私を、父が確信をもって迎え、語りかけてくれますように。
これを、三つの願いのうちの第一の願いとして、私は選びます。

逐語訳:

  • शान्तसंकल्पः (śāntasaṃkalpaḥ) - 決意の鎮まった者(śānta「鎮まった」+ saṃkalpa「決意」の複合語。男性単数主格)
  • सुमनाः (sumanāḥ) - 善き心を持つ者(su「良い」+ manas「心」の複合語。連声前はsumanas。男性単数主格)
  • यथा स्यात् (yathā syāt) - ~でありますように(yathā「~のように」+ syātは√अस्, as「ある」の願望法3人称単数)
  • वीतमन्युः (vītamanyuḥ) - 怒りを去った者(vīta「去った」+ manyu「怒り」の複合語。男性単数主格)
  • गौतमः (gautamaḥ) - ガウタマが(ナチケータの父ヴァージャシュラヴァスの姓。男性単数主格)
  • मा (mā) - 私に、私を(一人称代名詞madの単数対格māmの代替形)
  • अभि (abhi) - ~に向かって(動詞 vadet につく接頭辞)
  • मृत्यो (mṛtyo) - おお死よ(mṛtyu「死」の男性単数呼格)
  • त्वत्प्रसृष्टम् (tvatprasṛṣṭam) - あなたによって解き放たれた(者)を(tvat「あなたから」+prasṛṣṭa「送り出された、解放された」。男性単数対格)
  • अभिवदेत् (abhivadet) - 語りかけますように、迎えますように(√वद्, vad「話す」に接頭辞abhiがついた動詞の願望法3人称単数)
  • प्रतीतः (pratītaḥ) - 確信して、信じて(過去分詞pratītaの男性単数主格。副詞的に用いられ、gautamaḥの心の状態を示す)
  • एतत् (etat) - これを(指示代名詞。中性単数対格)
  • त्रयाणाम् (trayāṇām) - 三つの~のうち(tri「三」の属格複数)
  • प्रथमम् (prathamam) - 第一の(prathama「最初の」。中性単数対格)
  • वरम् (varam) - 願いを(vara「願い、恩恵」。中性単数対格)
  • वृणे (vṛṇe) - 私は選びます(√वृ, vṛ「選ぶ」の現在中動相1人称単数)

解説:
この第十詩節は、物語の鍵を握る三つの願いの、記念すべき第一の願いが明かされる場面です。死の神ヤマから究極の恩恵を授かる機会を得た少年ナチケータ。彼が選んだ願いは、富でも長寿でもなく、自らを死の国へ送った父との関係修復でした。この選択には、彼の深い人間性と霊的な成熟が見事に示されています。

ナチケータの願いは、二つの側面から成り立っています。第一に、父ガウタマ自身の心の平安です。彼は父が「शान्तसंकल्पः (śāntasaṃkalpaḥ)」、すなわち「鎮まりし決意をもつ者」となることを願います。संकल्प (saṃkalpa) とは、単なる思いではなく、強い意志を伴う決意を指します。息子を死に追いやった父の激しい決断が、穏やかになることを彼は祈るのです。次に「सुमनाः (sumanāḥ)」、つまり「善き心をもつ者」。これは父が本来の慈愛に満ちた心を取り戻すことへの願いです。そして決定的なのが「वीतमन्युः (vītamanyuḥ)」、「怒りを去った者」という言葉です。मन्यु (manyu) は、理性を失わせるほどの激しい憤怒を意味します。ナチケータは、父を苛むその破壊的な感情が完全に消え去ることを何よりも望んだのです。

第二に、父が自分を再び受け入れてくれることです。ナチケータは、自分が「त्वत्प्रसृष्टम् (tvatprasṛṣṭam)」、すなわち「あなた(ヤマ)によって解き放たれた者」として父の前に現れることを自覚しています。この表現は、彼がヤマを恐怖の対象としてではなく、恩寵を与える権威として認めていることを示唆します。そして父が、その私を「प्रतीतः (pratītaḥ)」、すなわち「確信をもって」迎えてくれることを願います。これは、死の国から帰還した息子を前にした父が抱くであろう驚きや疑念――「これは本当に我が子なのか、幻ではないか」という戸惑い――が晴れ、心から信じて再び語りかけてくれるように、という繊細な心の機微を捉えた願いです。

この第一の願いは、驚くほど無私であり、深い愛に根差しています。しかしそれは、単なる感傷的な親孝行ではありません。これは、霊的探求の道を進む上で、まず自らの足場である人間関係、とりわけ家族との絆というダルマ(秩序・本分)を正しく整えることが不可欠である、という深遠な智慧の表れです。根が乱れた木が大樹に育たないように、人間関係の不和を抱えたままでは、究極の真理という高みには到達できないのです。

ナチケータは、死の神ヤマを「मृत्यो (mṛtyo)」(おお、死よ)と恐れることなく呼びかけ、対等な対話者として願いを述べます。彼のこの静かで毅然とした態度は、彼がこの後により深遠な問いを発するにふさわしい器であることをヤマに証明するものでした。人間存在の基盤を回復させるこの第一の願いは、世界の成り立ちや魂の行方といった、より壮大な哲学的探求へと続く道を着実に開いていくのです。

第1篇 第1章 第11節

यथा पुरस्ताद् भविता प्रतीत
औद्दालकिरारुणिर्मत्प्रसृष्टः ।
सुखँ रात्रीः शयिता वीतमन्युः
त्वां ददृशिवान्मृत्युमुखात् प्रमुक्तम् ॥ १.१.११॥
yathā purastād bhavitā pratīta
auddālakirāruṇirmatprasṛṣṭaḥ |
sukhaṃ rātrīḥ śayitā vītamanyuḥ
tvāṃ dadṛśivān mṛtyumukhāt pramuktam || 1.1.11||
かつてのように、ウッダーラカの子アールニは、
私によって送り還された汝を、確信をもって受け入れるであろう。
彼は怒りを鎮め、夜ごと安らかに眠るであろう、
死の口から解き放たれた汝の姿を見て。

逐語訳:

  • यथा (yathā) - ~のように
  • पुरस्तात् (purastāt) - 以前に、かつてのように(副詞)
  • भविता (bhavitā) - ~となるであろう(√भू, bhū「ある、なる」の迂言法未来3人称単数)
  • प्रतीतः (pratītaḥ) - 確信した者、信じる者(過去分詞 prati-ita。男性単数主格)
  • औद्दालकिः आरुणिः (auddālakiḥ āruṇiḥ) - ウッダーラカの子アールニが(auddālakiはウッダーラカの子孫、āruṇiはアールニの子孫を意味する父称。複合してナチケータの父を示す。男性単数主格)
  • मत्प्रसृष्टः (matprasṛṣṭaḥ) - 私によって送り出された(者)。(mat「私から」+prasṛṣṭa「送り出された」。男性単数主格。多くの校訂版ではmatprasṛṣṭam(対格)としてtvāmを修飾し、「私によって送り出された汝を」と解釈するのが文法的に自然です)
  • सुखम् (sukham) - 安らかに、幸福に(副詞)
  • रात्रीः (rātrīḥ) - 夜々を(rātri「夜」の女性複数対格)
  • शयिता (śayitā) - 眠るであろう(√शी, śī「眠る」の迂言法未来3人称単数)
  • वीतमन्युः (vītamanyuḥ) - 怒りを去った者として(vīta「去った」+ manyu「怒り」の複合語。男性単数主格)
  • त्वाम् (tvām) - 汝を(二人称代名詞 yuṣmad の単数対格)
  • ददृशिवान् (dadṛśivān) - 見た者、見た後で(√दृश्, dṛś「見る」の完了分詞。男性単数主格)
  • मृत्युमुखात् (mṛtyumukhāt) - 死の口から(mṛtyu-mukha「死の口」の複合語。単数奪格)
  • प्रमुक्तम् (pramuktam) - 解き放たれた(者)を(pra-mukta。過去分詞。男性単数対格。tvāmを修飾)

解説:
この第十一詩節は、死の神ヤマがナチケータの第一の願いを荘厳に受け入れ、その成就を約束する場面です。その言葉は単なる慰めや恩寵ではなく、宇宙の法(ダルマ)を司る者としての権威に満ちた宣言であり、ナチケータの人間的な祈りに対する神聖な応答となっています。

ヤマはまず、ナチケータの父が「यथा पुरस्तात् (yathā purastāt)」、すなわち「かつてのように」息子を迎え入れることを保証します。この言葉は、父子の間に生じた断絶が完全に修復され、関係が本来の愛情と信頼に満ちた状態へ回帰することを意味します。ヤマが父を「औद्दालकिः आरुणिः (auddālakiḥ āruṇiḥ)」と、その輝かしい系譜の名で呼ぶ点に深い意味が込められています。これは、父を単なる怒れる個人としてではなく、ウッダーラカ・アールニという偉大な賢者の血を引く、理知と徳性を備えた人物として認めていることの証です。この呼びかけにより、父が必ずや理性を回復し、息子を正しく受け入れるであろうという約束に、揺るぎない権威が与えられます。

ヤマの約束は、父の外面的な態度だけでなく、その内面の変容にも及びます。父は「वीतमन्युः (vītamanyuḥ)」、すなわち「怒りを去った者」となり、「सुखम् रात्रीः शयिता (sukham rātrīḥ śayitā)」、つまり「夜ごと安らかに眠るであろう」と語られます。息子を死に追いやった罪悪感と後悔、そして激しい怒りという心の嵐が完全に鎮まることで、初めて訪れる真の平安。ここに、心の平静こそが安らぎの源であるという、ヨーガ哲学の根幹にも通じる洞察が見られます。

この平安が訪れるきっかけは、「त्वां ददृशिवान् मृत्युमुखात् प्रमुक्तम् (tvāṃ dadṛśivān mṛtyumukhāt pramuktam)」—「死の口から解き放たれた汝を見て」という、強烈なイメージの中にあります。「死の口」という比喩は、ナチケータが通過した試練の過酷さと、そこからの生還がいかに奇跡的であるかを物語ります。父は、単に帰ってきた息子を見るのではありません。彼は、死そのものと対峙し、それを乗り越えた、霊的に変容した存在としての息子を目の当たりにするのです。その姿を「प्रतीतः (pratītaḥ)」、すなわち「確信をもって」受け入れることで、父自身の心もまた救われるのです。

この第一の願いの成就は、ナチケータの霊的探求の旅路において、極めて重要な土台を築きます。彼はまず、自らの根源である家族との絆を修復し、この世におけるダルマを全うしました。この人間的な基盤が固められたことで、彼は何の憂いもなく、次なるより深遠な問い、すなわち死を超えた魂の真実へと、その探求の歩みを進めることができるのです。この約束を通じ、ヤマとナチケータの間には、真理を授ける師と、それを受け取るにふさわしい弟子という、揺るぎない信頼関係が確立されました。

第1篇 第1章 第12節

स्वर्गे लोके न भयं किंचनास्ति
न तत्र त्वं न जरया बिभेति ।
उभे तीर्त्वाऽशनायापिपासे
शोकातिगो मोदते स्वर्गलोके ॥ १.१.१२॥
svarge loke na bhayaṃ kiṃcanāsti
na tatra tvaṃ na jarayā bibheti |
ubhe tīrtvā'śanāyāpipāse
śokātigo modate svargaloke || 1.1.12||
天界には、いかなる怖れもない。
そこに汝(死)はなく、人は老いに怯えることもない。
飢えと渇きの両方を渡り切り、
悲しみを超えた者は、天界にて歓喜する。

逐語訳:

  • स्वर्गे लोके (svarge loke) - 天の世界において(svarga「天」と loka「世界」の単数処格)
  • न (na) - ~ない(否定詞)
  • भयम् (bhayam) - 怖れ(bhaya「怖れ」の中性単数主格)
  • किंचन (kiṃcana) - 何か、いかなる(不定代名詞)
  • अस्ति (asti) - ある、存在する(√अस्, as「ある」の現在3人称単数)
  • न तत्र त्वम् (na tatra tvam) - そこに汝(死神ヤマ)はいない(tatra「そこに」+ tvam「汝」の単数主格)
  • न (na) - ~ない(否定詞)
  • जरया (jarayā) - 老いによって(jarā「老い」の女性単数具格)
  • बिभेति (bibheti) - (誰もが)恐れる(√भी, bhī「恐れる」の現在3人称単数。主語は省略)
  • उभे (ubhe) - 両方を(ubha「両方」の女性双数対格。次語を修飾)
  • तीर्त्वा (tīrtvā) - 渡り切って、乗り越えて(√तॄ, tṝ「渡る」の絶対分詞)
  • अशनायापिपासे (aśanāyāpipāse) - 飢えと渇きを(aśanāyā「飢え」とpipāsā「渇き」の複合語。女性双数対格)
  • शोकातिगः (śokātigaḥ) - 悲しみを超越した者(śoka「悲しみ」+ atiga「超えた者」の複合語。男性単数主格)
  • मोदते (modate) - 歓喜する(√मुद्, mud「喜ぶ」の現在中動相3人称単数)
  • स्वर्गलोके (svargaloke) - 天の世界において(svarga-loka「天界」の複合語。単数処格)

解説:
第一の願いが叶えられ、ナチケータの人間的な憂いが取り除かれた今、対話はより高次の領域へと移行します。この第十二詩節で、死の神ヤマは、ナチケータの第二の願いの対象となる天界(स्वर्ग, svarga)がいかなる境地であるかを、壮麗な言葉で描き出します。これは、ナチケータの探求心を試すと同時に、彼がこれから求める知識の価値を明示するための、巧みな導入と言えます。

ヤマは天界の特質を、地上の苦しみを一つ一つ否定していく形で明らかにします。まず「स्वर्गे लोके न भयं किंचनास्ति(svarge loke na bhayaṃ kiṃcanāsti)」—「天界には、いかなる怖れもない」。これは、天界が単に安全な場所であるという以上に、怖れという心の状態そのものが存在しない次元であることを示唆します。

次に続く「न तत्र त्वं न जरया बिभेति(na tatra tvaṃ na jarayā bibheti)」は、この詩節の最も劇的な部分です。ここでヤマは「त्वम्(tvam)」、すなわち「汝」という言葉を用います。これは、対話の相手であるナチケータではなく、ヤマ自身、すなわち「死」そのものを指しています。死の支配者が、自らの力が及ばない領域の存在を認めるのです。死が存在しないからこそ、人々は死へと至る過程である「जरा(jarā)」、すなわち老いに怯えることもありません。存在を根底から脅かす二つの大きな苦悩、死と老いが、そこでは完全に克服されているのです。

さらにヤマは、より根源的な生命の束縛からの解放を描きます。「उभे तीर्त्वाऽशनायापिपासे(ubhe tīrtvā'śanāyāpipāse)」—「飢えと渇きの両方を渡り切り」。肉体を持つがゆえに絶えず苛まれる生理的な欲求から解放されることで、存在は初めて純粋な状態に至ります。そして、その結果訪れるのが、「शोकातिगो मोदते स्वर्गलोके(śokātigo modate svargaloke)」—「悲しみを超えた者は、天界にて歓喜する」という境地です。「शोकातिगः(śokātigaḥ)」とは、直訳すれば「悲しみを行き過ぎた者」。これは、苦悩の海を渡り切り、彼岸に到達した者の姿を彷彿とさせます。そこにあるのは、何かが満たされることによって生じる相対的な喜びではなく、苦しみの不在によって輝きだす、純粋で絶対的な歓喜(मोद, moda)なのです。

しかしながら、ウパニシャッド哲学の文脈において、この天界(スヴァルガ)は究極の目的地ではないことを理解することが重要です。それは善き行い(カルマ)の功徳によって到達できる、輝かしいが一時的な世界です。功徳が尽きれば、再び輪廻の世界へと戻らねばなりません。ヤマがここで描く天界の魅力は、後の節で提示される「快楽の道(प्रेयस्, preyas)」の頂点とも言えます。ヤマはナチケータに、この上ない快楽の世界を示し、彼がそれに満足するのか、あるいはそれをも超えた永続的な「善の道(श्रेयस्, śreyas)」、すなわちアートマンの真理を求めるのか、その覚悟を問うているとも解釈できます。

この壮大な天界の描写は、ナチケータの心に、この至福の境地へ至る方法への強い関心を呼び起こします。こうして、物語は自然に第二の願い—この天界へと導く聖なる火の知識—へと流れていくのです。

第1篇 第1章 第13節

स त्वमग्निँ स्वर्ग्यमध्येषि मृत्यो
प्रब्रूहि त्वँ श्रद्दधानाय मह्यम् ।
स्वर्गलोका अमृतत्वं भजन्त
एतद् द्वितीयेन वृणे वरेण ॥ १.१.१३॥
sa tvamagnīṃ svargyamadhyeṣi mṛtyo
prabrūhi tvaṃ śraddadhānāya mahyam |
svargalokā amṛtatvaṃ bhajanta
etad dvitīyena vṛṇe vareṇa || 1.1.13||
おお死よ、その汝こそ天界へ導く聖火を究めておられる。
篤く信を捧げるこの私に、それを説きたまえ。
天界に至りし者らは、これによりて不死を得る。
これをこそ、第二の願いとして私は選ぶ。

逐語訳:

  • सः त्वम् (saḥ tvam) - その汝こそは(saḥtvamを強調する指示代名詞。男性単数主格)
  • अग्निम् (agnim) - 火を(agni「火」の男性単数対格)
  • स्वर्ग्यम् (svargyam) - 天界へ導く、天界に属する(形容詞。男性単数対格。agnimを修飾)
  • अध्येषि (adhyeṣi) - 深く究めている、熟知している(√अधि + √इ, adhi-i「学ぶ、究める」の現在2人称単数)
  • मृत्यो (mṛtyo) - おお死よ(mṛtyu「死」の男性単数呼格)
  • प्रब्रूहि (prabrūhi) - 明らかに説きたまえ(√ब्रू, brū「語る」に接頭辞pra「前に、はっきりと」がついた動詞の命令法2人称単数)
  • त्वम् (tvam) - あなたが(二人称代名詞単数主格。強調)
  • श्रद्दधानाय (śraddadhānāya) - 篤く信じる者に、信を捧げる者に(√श्रद्धा, śraddhā「信じる」の現在分詞。男性単数与格)
  • मह्यम् (mahyam) - 私に(一人称代名詞madの単数与格)
  • स्वर्गलोकाः (svargalokāḥ) - 天界に至りし者らは(svarga-loka「天界の住人」の男性複数主格)
  • अमृतत्वम् (amṛtatvam) - 不死性を(amṛtatva「不死性」の中性単数対格)
  • भजन्ते (bhajante) - 享受する、与る(√भज्, bhaj「分かち合う、享受する」の現在中動相3人称複数。テキストによっては bhajanta も見られる)
  • एतत् (etat) - これを(指示代名詞。中性単数対格)
  • द्वितीयेन वरेण (dvitīyena vareṇa) - 第二の願いとして(dvitīya「第二の」+vara「願い」。具格が様態を表す)
  • वृणे (vṛṇe) - 私は選ぶ(√वृ, vṛ「選ぶ」の現在中動相1人称単数)

解説:
この第十三詩節は、ナチケータの探求が新たな段階へと踏み出す、物語の重要な転換点です。第一の願いでこの世の絆を修復した彼は、今、その眼差しを天上へと向け、第二の願いを荘厳に告げます。その言葉は、前節でヤマが描いた天界の壮麗さへの、直接的かつ知的な応答となっています。

ナチケータは「स त्वमग्निं स्वर्ग्यमध्येषि मृत्यो (sa tvamagniṃ svargyamadhyeṣi mṛtyo)」と、死の神ヤマを呼びかけます。この一節には、彼の深い洞察が凝縮されています。彼はヤマを、単に生命を終わらせる存在としてではなく、「स्वर्ग्यम् अग्निम् (svargyam agnim)」、すなわち天界へと至る道を拓く聖なる火の知識を「अध्येषि (adhyeṣi)」、つまり深く究め尽くした賢者として認識しているのです。ヴェーダの宇宙観において、火(अग्नि, agni)は神々と人間界を結ぶ聖なる使者であり、祭祀の供物を天に届け、魂を導く宇宙的な力です。ナチケータが求めるのは、その聖火に関する秘儀に他なりません。

彼の要請は「प्रब्रूहि त्वं श्रद्दधानाय मह्यम् (prabrūhi tvaṃ śraddadhānāya mahyam)」—「篤く信を捧げるこの私に、それを説きたまえ」と続きます。ここで彼が自らを「श्रद्दधान (śraddadhāna)」と称することは、極めて重要です。श्रद्धा (śraddhā) とは、単なる感情的な信仰ではなく、師と聖なる教えに対する、疑いを差し挟むことのない全人格的な信頼と、真理を受け入れるために開かれた心の状態を指します。これは、深遠な知識(विद्या, vidyā)を授かるための絶対的な必須条件です。ナチケータは、この一語によって、自らがその秘儀を受け取るにふさわしい器であることを、ヤマに対して厳かに宣言しているのです。

そして、彼がその知識を求める理由を「स्वर्गलोका अमृतत्वं भजन्ते (svargalokā amṛtatvaṃ bhajante)」—「天界に至りし者らは、これによりて不死を得る」と述べます。この「不死性(अमृतत्व, amṛtatva)」が、彼の現在の目標です。しかし、ウパニシャッドの文脈では、この天界の不死性は、善行の果報が続く限りの相対的な長寿であり、輪廻の法則から完全に自由になった絶対的な解脱(मोक्ष, mokṣa)とは区別されます。

この第二の願いは、ナチケータの霊的成熟の階梯を見事に示しています。彼は、地上の憂い(第一の願い)を超え、天界の至福という、より高次の目標に心を向けました。これは、彼が一時的な快楽に惑わされない資質の持ち主であることを証明するものです。しかし、彼の探求はまだ終わりません。ヤマは、この願いを通してナチケータの器の大きさを測り、彼がさらにその先、天界の喜びをも超えた究極の真理を問い求めるに値するかを見極めているのです。この天界への憧憬は、やがて来る第三の願い、すなわち「死そのものの謎」という、哲学の最も深遠な問いへの壮大な序曲となるのです。

第1篇 第1章 第14節

प्र ते ब्रवीमि तदु मे निबोध
स्वर्ग्यमग्निं नचिकेतः प्रजानन् ।
अनन्तलोकाप्तिमथो प्रतिष्ठां
विद्धि त्वमेतं निहितं गुहायाम् ॥ १.१.१४॥
pra te bravīmi tadu me nibodha
svargyamagniṃ naciketaḥ prajānan |
anantalokāptimatho pratiṣṭhāṃ
viddhi tvametaṃ nihitaṃ guhāyām || 1.1.14||
汝に語ろう、我が言葉を深く心に留めよ、おおナチケータ。
私が熟知している天界の聖火を。
それは無限の世界への到達、そして万物の礎である。
汝よ知れ、その聖火が理性の洞窟に秘められていることを。

逐語訳:

  • प्र ते ब्रवीमि (pra te bravīmi) - 私は汝に明らかにする(pra「前に、はっきりと」+ bravīmi「私は語る」、te「汝に」)
  • तत् उ मे निबोध (tad u me nibodha) - まさにそれを、私の言葉として深く理解せよ(tat「それを」+ u 強意の小辞 + me「私の」+ nibodha「理解せよ、目覚めよ」命令法2人称単数)
  • स्वर्ग्यम् अग्निम् (svargyam agnim) - 天界へ導く火を(svargya「天界の」+ agnim「火を」、共に男性単数対格)
  • नचिकेतः (naciketaḥ) - おおナチケータよ(naciketas の男性単数呼格)
  • प्रजानन् (prajānan) - (私が)熟知している者として(√प्र+√ज्ञा, pra-jñā「熟知する」の現在分詞、男性単数主格。動詞 bravīmi の主語である「私」を修飾)
  • अनन्तलोकाप्तिम् (anantalokāptim) - 無限の世界への到達を(ananta「無限」+ loka「世界」+ āpti「到達」の複合語。女性単数対格)
  • अथो (atho) - そしてまた(接続詞 atha + u
  • प्रतिष्ठाम् (pratiṣṭhām) - 礎を、基盤を(pratiṣṭhā「礎、基盤、拠り所」の女性単数対格)
  • विद्धि (viddhi) - 知れ(√विद्, vid「知る」の命令法2人称単数)
  • त्वम् (tvam) - 汝は(二人称代名詞、単数主格)
  • एतम् (etam) - この(聖火)を(指示代名詞 etad の男性単数対格。agnimを指す)
  • निहितम् (nihitam) - 秘められたものとして(√नि+√धा, ni-dhā「下に置く、秘める」の過去分詞。男性単数対格)
  • गुहायाम् (guhāyām) - 洞窟において(guhā「洞窟、心臓の奥、理性」の女性単数処格)

解説:
この第十四詩節において、死の神ヤマは荘厳な師へとその姿を変え、ナチケータの第二の願いに応えて、秘儀の伝授を開始します。その言葉は、単なる知識の伝達ではなく、神聖な真理の開示としての重みを持っています。

ヤマはまず、「प्र ते ब्रवीमि (pra te bravīmi) ... मे निबोध (me nibodha)」—「私は汝に明らかにする、我が言葉を深く心に留めよ」と、権威をもって宣言します。「निबोध (nibodha)」という語は、単に聞くことを超え、精神を集中させ、存在の全体で真理を受け止めるよう促す、力強い呼びかけです。ヤマは自らを「प्रजानन् (prajānan)」、すなわち天界の火の秘密を「熟知している者」と称することで、これから語られる教えが、疑う余地のない絶対的な真実であることを保証しています。

次に、ヤマはその聖火の本質を二つの側面から明らかにします。一つは「अनन्तलोकाप्तिम् (anantalokāptim)」、すなわち「無限の世界への到達」です。これは、前節で描かれた天界(スヴァルガ)という限定的な楽園をも超え、時間や空間に縛られない、永遠で無限の存在状態そのものを指し示唆しています。もう一つは「प्रतिष्ठाम् (pratiṣṭhām)」、すなわち「万物の礎」です。この聖火は、宇宙を創造し支える根源的な力であり、同時に、真理を求める者にとって揺らぐことのない精神的な拠り所となります。この「礎」という概念は、次節でこの火が「世界の始まり(लोकादि, lokādi)」と呼ばれることと響き合っています。

そして、この詩節の核心は、最後の句「विद्धि त्वमेतं निहितं गुहायाम् (viddhi tvametaṃ nihitaṃ guhāyām)」—「汝よ知れ、この聖火が理性の洞窟に秘められていることを」という啓示にあります。ウパニシャッド哲学において、「グハー(गुहा, guhā)」は極めて重要な象徴です。それは物理的な洞窟ではなく、人間の存在の最も奥深くにある霊的な中心、すなわち心臓の聖所(hṛdaya-guhā)や、純粋な理性の最奥(buddhi-guhā)を意味します。

ヤマはここで、ヴェーダの儀礼的な世界観から、ウパニシャッドの内省的な探求へと、ナチケータの意識を導いています。彼が求めるべき聖火は、もはや外部の祭壇で焚かれる物理的な火だけではありません。真の聖火とは、自己の内奥に秘められた、智慧と生命の根源的な力なのです。この教えは、外面的な儀式が、内面的な自己認識への道を開くための象徴的な手段であることを示唆しています。ナチケータに課せられた課題は、儀礼の作法を学ぶことだけでなく、自らの内なる「洞窟」を探求し、そこに秘められた永遠の真理を発見することなのです。この一節は、後の章で展開されるアートマン探求への、壮大な序曲となっています。

第1篇 第1章 第15節

लोकादिमग्निं तमुवाच तस्मै
या इष्टका यावतीर्वा यथा वा ।
स चापि तत्प्रत्यवदद्यथोक्तं
अथास्य मृत्युः पुनरेवाह तुष्टः ॥ १.१.१५॥
lokādimagniṃ tamuvāca tasmai
yā iṣṭakā yāvatīrvā yathā vā |
sa cāpi tatpratyavadadyathoktaṃ
athāsya mṛtyuḥ punarevāha tuṣṭaḥ || 1.1.15||
ヤマは彼に、世界の始まりなる聖火を語った。
いかなる煉瓦を、いかほどの数で、いかにして築くべきかを。
そしてナチケータもまた、教えられた通りにそれを復唱した。
そのことに死神は心から満足し、再び語りかけた。

逐語訳:

  • लोकादिम् (lokādim) - 世界の始まりを(複合語 loka-ādi の男性単数対格)
  • अग्निम् (agnim) - 火を(agni の男性単数対格)
  • तम् उवाच (tam uvāca) - それを語った(tam それを + uvāca √वच्, vac「語る」の完了3人称単数)
  • तस्मै (tasmai) - 彼に(ナチケータに)
  • याः इष्टकाः (yāḥ iṣṭakāḥ) - (用いるべき)煉瓦がいかなるものであるか
  • यावतीर्वा (yāvatīr-vā) - あるいは、その数がどれほどか(yāvatīḥ vā の連声)
  • यथा वा (yathā vā) - あるいは、その(築く)方法がいかようであるか
  • सः च अपि (saḥ ca api) - そして彼もまた(saḥはナチケータ)
  • तत् (tat) - それを
  • प्रत्यवदत् (pratyavadat) - 復唱した(√प्रति-वद्, prati-vad「返答する」、不完了過去3人称単数)
  • यथोक्तम् (yathoktam) - 語られた通りに(yathā-uktam
  • अथ (atha) - そこで
  • अस्य (asya) - この彼(の能力)に
  • मृत्युः (mṛtyuḥ) - 死神は
  • पुनरेव आह (punareva āha) - 再び、まさに語った(punaḥ eva āhaの連声。āha: √अह्, ah「語る」の完了3人称単数)
  • तुष्टः (tuṣṭaḥ) - 満足して(√तुष्, tuṣ「満足する」、過去分詞)

解説:
この第十五詩節には、師と弟子の間で交わされる、聖なる智慧の継承という理想的な瞬間が凝縮されています。これは単なる知識の伝達ではなく、インドの精神文化の根幹をなす、神聖な伝統そのものの体現と言えます。

まず、ヤマはナチケータに「लोकादिमग्निम् (lokādimagnim)」、すなわち「世界の始まりなる聖火」の秘儀を授けます。この「ローカーディ・アグニ(世界の始まりの火)」とは、単に儀式で用いる物理的な火を指すのではありません。それは、宇宙そのものを創造し、支える根源的な力(शक्ति, śakti)を象徴する、極めて深遠な概念です。ヴェーダの宇宙観において、アグニ(火)は万物を生み出す原初のエネルギーであり、この火の秘密を理解することは、宇宙の創造原理そのものを把握することに繋がります。

ヤマは「या इष्टका यावतीर्वा यथा वा (yā iṣṭakā yāvatīrvā yathā vā)」—「いかなる煉瓦を、いかほどの数で、いかにして築くべきか」という具体的な細部に至るまで、その築造法を明かしました。「イシュタカー(इष्टका, iṣṭakā)」とは、火の祭壇を築く特別な煉瓦で、その一つ一つが宇宙的な意味を担っています。ヴェーダの祭祀学において、祭壇の構造は宇宙構造(マクロコスモス)の正確な縮図(ミクロコスモス)であり、それを正しく築くことは、人間が宇宙的秩序と調和するための神聖な行為と見なされます。

しかし、この詩節の真のクライマックスは、ナチケータの驚くべき応答にあります。「स चापि तत्प्रत्यवदद्यथोक्तम् (sa cāpi tatpratyavadadyathoktam)」—「そして彼もまた、教えられた通りにそれを復唱した」。ここで用いられる「プラティヤヴァダト(प्रत्यवदत्, pratyavadat)」という動詞は、機械的な暗唱を意味しません。それは、師から授かった教えの本質を完全に理解し、消化し、自らの言葉として正確に表現し返すという、深い次元の習得を示します。ナチケータは、この複雑で難解な教えを一言一句違えることなく復唱することで、自らがその智慧を受け継ぐにふさわしい器であることを、疑いようもなく証明したのです。

この少年の非凡な能力を目の当たりにし、「अथास्य मृत्युः पुनरेवाह तुष्टः (athāsya mṛtyuḥ punarevāha tuṣṭaḥ)」—「そのことに死神は心から満足し、再び語りかけた」と詩は結ばれます。ヤマの「満足(तुष्टः, tuṣṭaḥ)」は、優れた弟子を得た師の純粋な喜びであり、ナチケータへの深い信頼の表れです。この満足が、次節で彼に特別な祝福を与える動機となります。

この一連のやり取りは、インドの伝統的な師弟関係、「グル・シシュヤ・パランパラー(गुरु-शिष्य-परम्परा, guru-śiṣya-paramparā)」の理想を見事に描き出しています。ナチケータの完璧な応答は、彼が単なる知識の受容者ではなく、智慧の真の継承者となったことを示します。この第二の願いにおける成功は、彼がさらに深遠な第三の願い—死と不死の謎—を探求する資格を証明する、決定的な試金石となるのです。

第1篇 第1章 第16節

तमब्रवीत् प्रीयमाणो महात्मा
वरं तवेहाद्य ददामि भूयः ।
तवैव नाम्ना भविताऽयमग्निः
सृङ्कां चेमामनेकरूपां गृहाण ॥ १.१.१६॥
tamabravīt prīyamāṇo mahātmā
varaṃ tavehādya dadāmi bhūyaḥ |
tavaiva nāmnā bhavitā'yamagniḥ
sṛṅkāṃ cemāmanekarūpāṃ gṛhāṇa || 1.1.16||
偉大なる魂は、喜び満ちて彼に語りかけた。
「今ここに、汝のためもう一つの恩恵を与えよう。
この聖火は、まさしく汝の名によって呼ばれるであろう。
そしてこの、多様なる形の鎖をも受け取るがよい。」

逐語訳:

  • तम् (tam) - 彼に(ナチケータに。指示代名詞男性単数対格)
  • अब्रवीत् (abravīt) - 語った(√ब्रू, brū「語る」の不完了過去3人称単数)
  • प्रीयमाणः (prīyamāṇaḥ) - 喜びを感じている、心満たされて(√प्री, prī「喜ぶ」の現在受動分詞。男性単数主格)
  • महात्मा (mahātmā) - 偉大な魂(महत्「偉大な」+आत्मन्「魂」の複合語。男性単数主格。ヤマを指す)
  • वरम् (varam) - 恩恵を、贈り物を(vara「恵み、恩恵」の男性単数対格)
  • तव (tava) - 汝に、汝のために(二人称代名詞yuṣmadの単数属格。ここでは与格的に使用)
  • इह अद्य (iha adya) - 今ここに(iha「ここで」 + adya「今」)
  • ददामि (dadāmi) - 私は与える(√दा, dā「与える」の現在1人称単数)
  • भूयः (bhūyaḥ) - さらに、もう一つ(副詞)
  • तव एव नाम्ना (tava eva nāmnā) - まさしく汝の名によって(tava「汝の」+ eva「まさに」+ nāmnā「名によって」)
  • भविता (bhavitā) - ~となるであろう(√भू, bhū「ある、なる」の未来時制3人称単数)
  • अयम् अग्निः (ayam agniḥ) - この聖火は(ayam「この」+ agniḥ「火は」)
  • सृङ्काम् (sṛṅkām) - 鎖を、首飾りを(sṛṅkā「鎖、首飾り」の女性単数対格)
  • च (ca) - そして、~もまた
  • इमाम् (imām) - この(指示代名詞idamの女性単数対格)
  • अनेकरूपाम् (anekarūpām) - 多様な形を持つ(aneka「多くの」+rūpa「形」の複合形容詞。女性単数対格)
  • गृहाण (gṛhāṇa) - 受け取るがよい(√ग्रह्, grah「取る」の命令法2人称単数)

解説:
この第十六詩節は、師と弟子の間に築かれた理想的な霊的交感の頂点を、感動的に描き出しています。前節でナチケータが見せた非凡な理解力と記憶力に深く感銘を受けたヤマは、約束された三つの願いとは別に、特別な恩寵を与えることを決意します。

詩は「तमब्रवीत् प्रीयमाणो महात्मा (tamabravīt prīyamāṇo mahātmā)」—「偉大なる魂は、喜び満ちて彼に語りかけた」という一文で始まります。ここでヤマが、厳格な死の支配者から、慈悲深い「偉大なる魂(महात्मा, mahātmā)」へとその相貌を変えている点は、極めて重要です。「प्रीयमाणः (prīyamāṇaḥ)」という言葉は、単なる満足を超え、優れた弟子を見出した師の、心からの深い喜びと愛情を示唆します。この師弟の心の共鳴こそが、真の智慧が継承されるための土壌となるのです。

ヤマは「वरं तवेहाद्य ददामि भूयः (varaṃ tavehādya dadāmi bhūyaḥ)」—「今ここに、汝のためもう一つの恩恵を与えよう」と宣言します。この追加の恩恵(भूयः वरम्, bhūyaḥ varam)は、ナチケータの卓越した資質に対する、ヤマからの心からの賛辞であり、祝福です。

第一の恩恵は、「तवैव नाम्ना भविताऽयमग्निः (tavaiva nāmnā bhavitā'yamagniḥ)」—「この聖火は、まさしく汝の名によって呼ばれるであろう」という、最高の栄誉です。これにより、ナチケータが授かった聖火の秘儀は「ナーチケータ・アグニ(Nāciketa Agni)」として永遠に記憶されることになります。彼の名は、単なる個人の名を超え、宇宙の根源的力へと至る智慧そのものの象徴となるのです。

第二の恩恵は、「सृङ्कां चेमामनेकरूपां गृहाण (sṛṅkāṃ cemāmanekarūpāṃ gṛhāṇa)」—「そしてこの、多様なる形の鎖をも受け取るがよい」という贈り物です。この「鎖(सृङ्का, sṛṅkā)」は、文字通りには宝飾の首飾りを指しますが、その象徴する意味はさらに深遠です。偉大な注釈家シャンカラによれば、この「鎖」は、ナーチケータ・アグニの祭祀を正しく行うことによって得られる、様々な善い結果の連なりを象徴します。そして「多様なる形(अनेकरूपा, anekarūpā)」とは、その果報が子孫繁栄、家畜の豊穣、富、健康、名声、そして天界での幸福など、多岐にわたることを示しています。この贈り物は、ナチケータが学んだ知識が、抽象的な哲学に留まらず、人生に具体的な豊かさをもたらす力強い道であることを証し立てる、師からの保証なのです。

この詩節で、ナチケータは聖火の秘儀を完全に習得し、師からの全幅の信頼と愛情を得ました。この揺るぎない基盤の上に立って初めて、彼は次なる最も困難な問い、すなわち「死の彼岸」の秘密へと、その探求の歩みを進めることができるのです。

第1篇 第1章 第17節

त्रिणाचिकेतस्त्रिभिरेत्य सन्धिं
त्रिकर्मकृत्तरति जन्ममृत्यू ।
ब्रह्मजज्ञं देवमीड्यं विदित्वा
निचाय्येमाँ शान्तिमत्यन्तमेति ॥ १.१.१७॥
triṇāciketastribhiretya sandhiṃ
trikarmakṛttarati janmamṛtyū |
brahmajajñaṃ devamīḍyaṃ viditvā
nicāyyemāṃ śāntimatyantameti || 1.1.17||
ナーチケータの火を三度焚き、三者と結ばれ、
三つの聖務を修める者は、生と死の岸を渡る。
ブラフマンより生まれし、全知にして讃えられるべき神を観じ、
人は、この上なき平安へと至るのだ。

逐語訳:

  • त्रिणाचिकेतः (triṇāciketaḥ) - ナーチケータの火を三度焚いた者。(tri「三」+nāciketaの複合語、男性単数主格)
  • त्रिभिः एत्य सन्धिम् (tribhiḥ etya sandhim) - 三者と結合して。(tribhiḥ「三者によって」、具格複数 + etya「達して、結合して」、絶対分詞 + sandhim「結合を」、対格。注釈によれば三者とは母、父、師を指す)
  • त्रिकर्मकृत् (trikarmakṛt) - 三つの行為を行う者。(tri-karma-kṛt、男性単数主格。注釈によれば祭祀、学習、布施を指す)
  • तरति (tarati) - 渡り越える、超越する。(√तृ, tṛ「渡る」の現在3人称単数)
  • जन्ममृत्यू (janmamṛtyū) - 生と死を。(janma-mṛtyuの複合語、双数対格)
  • ब्रह्मजज्ञम् (brahmajajñam) - ブラフマンから生まれ、全てを知る者を。(brahma-ja-jñam「ブラフマンより生まれし全知なる者」の複合語、男性単数対格。聖火アグニを指す)
  • देवम् (devam) - 輝ける神を。(deva「神、輝く者」の男性単数対格)
  • ईड्यम् (īḍyam) - 讃えられるべき者を。(√ईड्, īḍ「讃える」の未来受動分詞、男性単数対格)
  • विदित्वा (viditvā) - 知って。(√विद्, vid「知る」の絶対分詞)
  • निचाय्य (nicāyya) - 観想して、瞑想によって認識して。(√नि+चि, ni-ci「観想する」の絶対分詞)
  • इमाम् शान्तिम् (imām śāntim) - この平安を。(imām「この」女性単数対格 + śāntim「平安を」女性単数対格)
  • अत्यन्तम् (atyantam) - この上なく、完全に。(副詞)
  • एति (eti) - 至る、到達する。(√इ, i「行く」の現在3人称単数)

解説:
この第十七詩節は、ヤマがナチケータに授けた「ナーチケータ・アグニ」の祭儀がもたらす、究極的な果報を荘厳に宣言しています。それは単に天界での幸福を得るための儀礼ではなく、人間存在の根源的な苦悩である生と死の輪廻そのものから解放されるための、深遠な霊的道筋を示すものです。

この詩節は、「三」という聖数が織りなす象徴体系によって構成されています。
まず「त्रिणाचिकेतः (triṇāciketaḥ)」とは、ナーチケータ・アグニの祭壇を三度築き、祭祀を正しく執り行った者を指します。次に「त्रिभिः सन्धिम् एत्य (tribhiḥ sandhim etya)」とは、「三者との結合を達成して」という意味です。偉大な注釈家シャンカラによれば、この三者とは「母、父、師」であり、これは伝統的な権威と教えを正しく受け継ぐことの重要性を示します。そして「त्रिकर्मकृत् (trikarmakṛt)」とは、「三つの行為を行う者」を意味し、具体的にはヴェーダの教えに基づく三つの聖務「祭祀(यज्ञ, yajña)、学習(अध्ययन, adhyayana)、布施(दान, dāna)」を指します。
これら三つの条件は、外面的な儀礼の実践と、伝統への帰依、そして社会的な義務の遂行という、ヴェーダ的な正しい生き方の総体を表しています。このような統合された実践を修めた者こそが、「तरति जन्ममृत्यू (tarati janmamṛtyū)」—「生と死を渡り越える」ことができるのです。動詞「तरति (tarati)」が持つ「渡る」という具体的なイメージは、苦しみの海である輪廻の世界を、智慧の舟によって対岸の解放へと渡り切る様子を鮮やかに描き出しています。

詩の後半は、この超越を可能にする内的な認識の次元へと、私たちを導きます。外面的な実践は、それ自体が目的ではなく、より深い真理を悟るための準備なのです。その真理とは、「ब्रह्मजज्ञं देवमीड्यं विदित्वा (brahmajajñaṃ devamīḍyaṃ viditvā)」—「ブラフマンより生まれし、全知にして讃えられるべき神を知ること」です。ここでいう「神」とは、祭壇で燃える聖火アグニそのものです。しかし、その本質は単なる火ではなく、「ब्रह्मजज्ञ (brahmajajña)」、すなわち宇宙の根源実在であるブラフマンから直接生まれた、宇宙最初の顕現(ヒラニヤガルバ)であり、万物を知る全知者として認識されます。

この神聖な本質を、まず経典や師を通じて「知り(विदित्वा, viditvā)」、次に瞑想によって深く「観想する(निचाय्य, nicāyya)」ことによって、その神を自らの内なる実在として体験します。この内的な観想こそが、真の変容をもたらす鍵です。その結果として到達するのが、「शान्तिमत्यन्तम् (śāntim atyantam)」—「この上なき平安」です。この平安(シャーンティ)とは、一時的な心の安らぎではなく、すべての二元的な対立や苦悩が消滅した、絶対的な静寂と完全な解放(मोक्ष, mokṣa)の状態を指します。

このように、この一節は、外面的な儀礼と内面的な智慧とが分かちがたく結びついた、ヨーガ的な生き方の理想を示しています。それは、ナチケータが授かった教えが、彼を次なる究極の問い—「死そのものの秘密」—を探求するにふさわしい境地へと引き上げる、重要な階梯となることを示唆しているのです。

第1篇 第1章 第18節

त्रिणाचिकेतस्त्रयमेतद्विदित्वा
य एवं विद्वाँश्चिनुते नाचिकेतम् ।
स मृत्युपाशान् पुरतः प्रणोद्य
शोकातिगो मोदते स्वर्गलोके ॥ १.१.१८॥
triṇāciketastrayametadviditvā
ya evaṃ vidvāṃścinute nāciketam |
sa mṛtyupāśān purataḥ praṇodya
śokātigo modate svargaloke || 1.1.18||
ナーチケータに関するこの三つを識り、かくして賢者として聖火を築く者は、
死の数々の縄を面前から振り払い、
悲しみを超えて、天界に歓喜する。

逐語訳:

  • त्रिणाचिकेतः (triṇāciketaḥ) - 「ナーチケータに関する」。ここでは、前節の三つの条件(三度の祭祀、三者との結合、三つの聖務)を指す複合語の一部と解釈される。
  • त्रयम् (trayam) - 三つを。
  • एतत् (etat) - これを(指示代名詞中性単数対格)。
  • विदित्वा (viditvā) - 識って、理解して(√विद्, vid「知る」の絶対分詞)。
  • यः (yaḥ) - ~する者(関係代名詞男性単数主格)。
  • एवम् (evam) - このように。
  • विद्वान् (vidvān) - 賢者、知者(√विद्, vidの完了分詞、男性単数主格)。
  • चिनुते (cinute) - 築く、積み重ねる(√चि, ci「積む」の現在中相3人称単数)。
  • नाचिकेतम् (nāciketam) - ナーチケータ(の火の祭壇)を(男性単数対格)。
  • सः (saḥ) - その者は(指示代名詞男性単数主格)。
  • मृत्युपाशान् (mṛtyupāśān) - 死の数々の縄を(mṛtyu-pāśaの複合語、男性複数対格)。
  • पुरतः (purataḥ) - 面前から、眼前に(副詞)。
  • प्रणोद्य (praṇodya) - 押し退けて、振り払って(√प्र+नुद्, pra-nud「押し出す」の絶対分詞)。
  • शोकातिगः (śokātigaḥ) - 悲しみを超越した者(śoka-atigaの複合語、男性単数主格)。
  • मोदते (modate) - 歓喜する、楽しむ(√मुद्, mud「喜ぶ」の現在中相3人称単数)。
  • स्वर्गलोके (svargaloke) - 天界において(svarga-lokaの複合語、男性単数処格)。

解説:
この第十八詩節は、前節で示されたナーチケータ・アグニの教えを修めた者が得る究極的な果報を、壮麗に宣言しています。これは、ナチケータの第二の願いに対するヤマ神の回答の、感動的な締めくくりです。

詩の冒頭「त्रिणाचिकेतस्त्रयमेतद्विदित्वा (triṇāciketastrayametadviditvā)」—「ナーチケータに関するこの三つを識り」とは、前節で明らかにされた霊的実践の三つの柱—①三度の祭祀(外面的な実践)、②母・父・師との結合(伝統への帰依)、③祭祀・学習・布施という三聖務(内面と外面の統合)—を指しています。ここで重要なのは、「識る(विदित्वा, viditvā)」という言葉です。これは単なる知的な理解ではなく、実践を通して体得し、自らの存在と一体化させるほどの深い認識を意味します。

この深い認識を得た者は、「य एवं विद्वाँश्चिनुते नाचिकेतम् (ya evaṃ vidvāṃścinute nāciketam)」—「かくして賢者として聖火を築く者」となります。ここで用いられる「賢者(विद्वान्, vidvān)」とは、真理を自らの内で実現した人物を指します。彼が「築く(चिनुते, cinute)」のは、もはや煉瓦でできた物理的な祭壇だけではありません。それは、浄化された自己そのものを祭壇として、内なる神性の火を燃え上がらせるという、霊的な創造行為なのです。

この詩節の核心は、続く力強い宣言にあります。「स मृत्युपाशान् पुरतः प्रणोद्य (sa mṛtyupāśān purataḥ praṇodya)」—「その者は、死の数々の縄を面前から振り払う」。この「死の縄(मृत्युपाश, mṛtyupāśa)」とは、単に肉体の死を意味するのではなく、無知(अविद्या, avidyā)、欲望(काम, kāma)、行為(कर्म, karma)、そしてそれらに伴う恐れや執着といった、私たちを輪廻の苦しみに縛り付ける一切の束縛の象徴です。「面前から振り払う」という表現は、死後ではなく、まさにこの人生を生きる「いま、ここ」で、死の恐怖と支配を完全に克服することを意味します。死の支配者であるヤマ神自身の口からこの言葉が語られることは、その勝利が絶対的であることを示唆しています。

そして、その解放がもたらす境地が、「शोकातिगो मोदते स्वर्गलोके (śokātigo modate svargaloke)」—「悲しみを超えて、天界に歓喜する」と美しく描かれます。「悲しみを超越した者(शोकातिगः, śokātigaḥ)」とは、喜びと悲しみ、生と死といったあらゆる二元性を超克した、不動の平安(शान्ति, śānti)の境地です。ここでいう「天界(स्वर्गलोक, svargaloke)」とは、もはや死後の特定の場所を指すのではありません。それは、束縛から解放された意識そのものが体験する、汚れなき歓喜(आनन्द, ānanda)に満ちた内的世界、すなわちブラフマンの境地そのものを指し示しているのです。

このように、この詩節は第二の願いへの答えを、単なる天界への到達から、生きたまま解脱するという究極的な目標へと見事に昇華させています。この智慧を得たナチケータは、もはや一時的な快楽を求める少年ではありません。彼は死を超越する道を識る賢者として、次なる最も深遠な問い—「死後、アートマンはどうなるのか」という究極の真理そのもの—を探求するにふさわしい資格を得たのです。

第1篇 第1章 第19節

एष तेऽग्निर्नचिकेतः स्वर्ग्यो
यमवृणीथा द्वितीयेन वरेण ।
एतमग्निं तवैव प्रवक्ष्यन्ति जनासः
तृतीयं वरं नचिकेतो वृणीष्व ॥ १.१.१९॥
eṣa te'gnirnaciketaḥ svargyo
yamavṛṇīthā dvitīyena vareṇa |
etamagniṃ tavaiva pravakṣyanti janāsaḥ
tṛtīyaṃ varaṃ naciketo vṛṇīṣva || 1.1.19||
これぞ汝の聖火、ナチケータよ、天界へと至るもの。
そは汝が、第二の願いによって選び取ったものに他ならぬ。
人々は、この聖火をまさしく汝の名において語り継ぐであろう。
さあナチケータよ、第三の願いを選ぶがよい。

逐語訳:

  • एषः ते अग्निः (eṣaḥ te agniḥ) - これが、汝の聖火である(eṣaḥ「これが」+te「汝の」+agniḥ「聖火は」)。
  • नचिकेतः (naciketaḥ) - おお、ナチケータよ(呼格。主格形が呼格として用いられている)。
  • स्वर्ग्यः (svargyaḥ) - 天界へと導くもの、天界にあるもの(形容詞、男性単数主格)。
  • यम् (yam) - それを(関係代名詞yad男性単数対格)。
  • अवृणीथाः (avṛṇīthāḥ) - 汝は選んだ(√वृञ्, vṛñ「選ぶ」の不完了過去2人称単数)。
  • द्वितीयेन वरेण (dvitīyena vareṇa) - 第二の願いによって(dvitīya「第二の」+vara「願い」、ともに具格)。
  • एतम् अग्निम् (etam agnim) - この聖火を(agni男性単数対格)。
  • तव एव (tava eva) - まさしく汝の(名において)、汝自身のものとして(tava「汝の」属格 + eva「まさに」強調)。
  • प्रवक्ष्यन्ति (pravakṣyanti) - (人々は)語り継ぐであろう、呼ぶであろう(√प्र+वच्, pra-vac「宣言する、語る」の未来3人称複数)。
  • जनासः (janāsaḥ) - 人々は(janaのヴェーダ語形、男性複数主格)。
  • तृतीयम् वरम् (tṛtīyam varam) - 第三の願いを(tṛtīya「第三の」+vara「願い」、ともに男性単数対格)。
  • नचिकेतः (naciketaḥ) - おお、ナチケータよ(呼格)。
  • वृणीष्व (vṛṇīṣva) - 選ぶがよい(√वृञ्, vṛñ「選ぶ」の命令法2人称単数)。

解説:
この第十九詩節は、第二の願いを巡る対話の壮麗な終曲であり、物語全体がその頂点を迎える第三の願いへの、荘厳な序曲でもあります。死の支配者ヤマは、ナチケータが授かった教えの価値とその成果を改めて確認し、彼を究極の真理探求へと優しく、しかし力強く促します。

前半の二行「एष तेऽग्निर्नचिकेतः स्वर्ग्यो यमवृणीथा द्वितीयेन वरेण (eṣa te'gnirnaciketaḥ svargyo yamavṛṇīthā dvitīyena vareṇa)」は、第二の願いに関する契約の完了宣言です。ヤマは、ナチケータが選び取った聖火の智慧が、確かに「स्वर्ग्यः (svargyaḥ)」—天界での永遠の生という果報をもたらすものであると保証します。そして「ते अग्निः (te agniḥ)」—「汝の聖火」という言葉は、この深遠な知識が、もはや単に伝えられたものではなく、ナチケータ自身の血肉となり、彼の本質と分かちがたく結びついたことを象徴しています。これは、師が弟子の完全な理解と体得を公に認める、祝福の瞬間です。

続く「एतमग्निं तवैव प्रवक्ष्यन्ति जनासः (etamagniṃ tavaiva pravakṣyanti janāsaḥ)」という一行は、第十六節で約束された追加の恩恵を、より普遍的な次元で再確認するものです。「人々は、この聖火をまさしく汝の名において語り継ぐであろう」という予言は、ナチケータの名が、特定の智慧の体系、すなわち「ナーチケータ・アグニ」として、永遠に人類の霊的遺産となることを示しています。ここで使われている「जनासः (janāsaḥ)」という言葉は、単なる同時代の人々を指すのではなく、注釈家が指摘するように、未来のあらゆる世代の求道者たちを意味します。ナチケータの個人的な探求が、時空を超えて他者を導く普遍的な道標へと昇華されたのです。

そして、この詩節は、物語の核心へと向かう劇的な転換点、「तृतीयं वरं नचिकेतो वृणीष्व (tṛtīyaṃ varaṃ naciketo vṛṇīṣva)」—「さあナチケータよ、第三の願いを選ぶがよい」という、感動的な呼びかけで結ばれます。この促しは、単なる手続きではありません。それは、死の恐怖を乗り越え、輪廻の悲しみを超えるための準備を完全に整えた弟子に対し、師が最高の智慧の扉を開けようとする、慈愛に満ちた招待状なのです。厳格な法の執行者であったヤマは、今や弟子の成長を心から喜び、その最後の飛躍を導こうとする「महात्मा (mahātmā)」—偉大なる魂へと完全に姿を変えています。

このように、この詩節は第二の願い(天界での幸福という相対的な善)を完了させ、ナチケータの意識を、第三の願いで問われる究極の真理(死を超えたアートマンの本質という絶対的な善)へと巧みに引き上げていきます。儀礼と智慧によって心を浄め、師からの全幅の信頼を得たナチケータは、今、存在の最も深遠な謎に挑む資格を、完全に手にしたのです。

第1篇 第1章 第20節

येयं प्रेते विचिकित्सा मनुष्ये-
ऽस्तीत्येके नायमस्तीति चैके ।
एतद्विद्यामनुशिष्टस्त्वयाऽहं
वराणामेष वरस्तृतीयः ॥ १.१.२०॥
yeyaṃ prete vicikitsā manuṣye-
'stītyeke nāyamastīti caike |
etadvidyāmanuśiṣṭastvayā'haṃ
varāṇāmeṣa varastṛtīyaḥ || 1.1.20||
人が死した時、この大いなる疑念が生じる。
「かの本質は在る」と言う者もいれば、「否、存在せぬ」と言う者もいる。
この真理を、あなたによって教えられたいのだ。
これこそが、三つの願いのうちの、第三の願いである。

逐語訳:

  • या इयम् (yā iyam) - これが〜であるところの( 関係代名詞 + iyam 指示代名詞、ともに女性単数主格)。
  • प्रेते (prete) - 死者において、人が死した時に(preta「死者」の男性単数処格)。
  • विचिकित्सा (vicikitsā) - 疑念、大きな疑い(女性単数主格)。
  • मनुष्ये (manuṣye) - 人間に関して(manuṣya「人間」の男性単数処格)。
  • अस्ति इति एके (asti iti eke) - 「(かの本質は)存在する」と、ある人々は言う。
  • न अयम् अस्ति इति च एके (na ayam asti iti ca eke) - 「いや、この(本質)は存在しない」と、そしてまた、ある人々は言う。
  • एतत् विद्याम् (etat vidyām) - この智慧を、この真理を(vidyā 女性単数対格)。
  • अनुशिष्टः (anuśiṣṭaḥ) - 教えられた者(でありたい)。(√अनु+शिष्, anu-śiṣ「教える」の過去受動分詞、男性単数主格。主語ahamにかかる)。
  • त्वया (tvayā) - あなたによって(具格)。
  • अहम् (aham) - 私は(主格)。
  • वराणाम् (varāṇām) - 願いの中で(vara「願い」男性複数属格)。
  • एषः वरः तृतीयः (eṣaḥ varaḥ tṛtīyaḥ) - これが第三の願いである。

解説:
この第二十詩節は、カタ・ウパニシャッドが展開する壮大な霊的探求の、まさに心臓部です。父との和解(第一の願い)と天界での不滅(第二の願い)という、相対的な善を超えて、ナチケータは今、存在そのものの根源に触れる究極の問いを発します。これは、人類が抱き続けてきた最も根源的な問いであり、この一節によって、物語は儀礼や倫理の領域から、純粋な形而上学と自己の真理を探る深淵へと一気に飛躍します。

येयं प्रेते विचिकित्सा मनुष्ये (yeyaṃ prete vicikitsā manuṣye)」—「人が死した時に生じる、この大いなる疑念」。ここでナチケータが口にする「疑念(विचिकित्सा, vicikitsā)」は、単なる知的な好奇心ではありません。それは、魂の奥底から湧き上がる、深く実存的な困惑と渇望です。肉体という器が滅びた後、それを生かしていた「私」という存在の本質は、一体どうなるのか。この問いは、生きることの意味そのものを問う、普遍的な探求の出発点です。

続く「अस्ति इति एके, नायमस्ति इति च एके (asti iti eke, nāyamasti iti ca eke)」—「『在る』と言う者もいれば、『存在しない』と言う者もいる」という一節は、古代インドの思想界に存在した根本的な対立を鮮やかに映し出しています。一方は、アートマン(真我)は不滅であり、肉体の死後も存在し続けると説くヴェーダーンタの正統派。もう一方は、意識は肉体とともに消滅すると主張する唯物論的な思想家たち(チャールヴァーカなど)です。ナチケータは、これらの学説のいずれかを信じるのではなく、直接体験に基づく確かな「智慧(विद्या, vidyā)」、つまり真理そのものを求めているのです。

彼の願いは、「एतद्विद्यामनुशिष्टस्त्वयाऽहम् (etadvidyāmanuśiṣṭastvayā'ham)」—「この真理を、あなたによって教えられたい」という、師への絶対的な信頼となって表れます。なぜ死の支配者であるヤマに、死後の秘密を問うのでしょうか。それは、死の現象を完全に支配し、知り尽くした者こそが、死を超越する道を唯一教えることができる、という深い洞察に基づいています。ナチケータは、ヤマがもはや恐るべき死神ではなく、究極の真理を明かすことのできる最高のグル(霊的指導者)であることを見抜いているのです。

そして、「वराणामेष वरस्तृतीयः (varāṇāmeṣa varastṛtīyaḥ)」—「これこそが、三つの願いのうちの、第三の願いである」という力強い宣言は、この問いが彼の探求の最終目的であることを示します。世俗の幸福も、天界の快楽も、この究極の真理の前では色褪せます。ナチケータが求めるのは、一時的な安楽ではなく、輪廻の苦しみそのものを根絶する、永遠の解放(मोक्ष, mokṣa)なのです。

この一節で提示された問いを解き明かすために、ヤマはこれからアートマンの不生不滅の性質、身体とアートマンの関係、そしてヨーガによる自己制御の道を説き明かしていきます。この純粋な少年の口から発せられた根源的な問いが、インド哲学における最も深遠で美しい教えを引き出す、壮大な対話の幕開けとなるのです。

第1篇 第1章 第21節

देवैरत्रापि विचिकित्सितं पुरा
न हि सुविज्ञेयमणुरेष धर्मः ।
अन्यं वरं नचिकेतो वृणीष्व
मा मोपरोत्सीरति मा सृजैनम् ॥ १.१.२१॥
devairatrāpi vicikitsitaṃ purā
na hi suvijñeyamaṇureṣa dharmaḥ |
anyaṃ varaṃ naciketo vṛṇīṣva
mā moparotsīrati mā sṛjainam || 1.1.21||
この問いについては、古の神々でさえ疑念を抱いたのだ。
まことに、この法(ダルマ)は極めて微細にして、容易には識り得ぬ。
ナチケータよ、他の願いを選ぶがよい。
私をあまりに追い詰めるでない。この問いを手放すがよい。

逐語訳:

  • देवैः (devaiḥ) - 神々によって(deva「神」の男性複数具格)
  • अत्र (atra) - この点について、この問いにおいて(副詞)
  • अपि (api) - ~でさえも(強調の不変化詞)
  • विचिकित्सितम् (vicikitsitam) - 疑念が抱かれた(√वि+चिकित्स् vi-cikits 「疑う」の過去受動分詞、中性単数主格)
  • पुरा (purā) - 古えに、かつて(副詞)
  • न (na) - ~でない(否定詞)
  • हि (hi) - 実に、まことに(強調の不変化詞)
  • सुविज्ञेयम् (suvijñeyam) - 容易に識られるべきもの(su-vi-jñeya 「容易に知られうる」の形容詞、中性単数主格)
  • अणुः (aṇuḥ) - 微細な(形容詞、男性単数主格)
  • एषः (eṣaḥ) - この(指示代名詞、男性単数主格)
  • धर्मः (dharmaḥ) - 法、本質、真理(男性単数主格)
  • अन्यम् (anyam) - 他の(形容詞、男性単数対格)
  • वरम् (varam) - 願いを(vara「願い」の男性単数対格)
  • नचिकेतः (naciketaḥ) - おお、ナチケータよ(呼格)
  • वृणीष्व (vṛṇīṣva) - 選ぶがよい(√वृ vṛ 「選ぶ」の命令法アートマネーパダ2人称単数)
  • मा माम् उपरोत्सीः (mā mām uparotsīḥ) - 私を追い詰めるな(連声して mā mo となる。「~するな」+mām「私を」+uparotsīḥ √उप+रुध् upa-rudh 「圧迫する」の禁止相アオリスト2人称単数)
  • अति (ati) - 過度に、あまりに(副詞)
  • मा सृज एनम् (mā sṛja enam) - これを手放せ(連声して mā sṛjainam となる。「~するな」+sṛja √सृज् sṛj 「放つ」の命令法2人称単数+enam「これを」)

解説:
この第二十一詩節は、カタ・ウパニシャッドの物語における劇的な転換点です。ナチケータが発した究極の問いに対し、これまで威厳に満ちて教えを授けてきた死の支配者ヤマが、初めて躊躇を見せます。この予期せぬ応答は、問いそのものの持つ計り知れない深遠さと、それを探求する道のりの厳しさを、何よりも雄弁に物語っています。

ヤマはまず、「देवैरत्रापि विचिकित्सितं पुरा (devairatrāpi vicikitsitaṃ purā)」—「この問いについては、古の神々でさえ疑念を抱いたのだ」と語ります。ここでいう「神々(देव, deva)」とは、宇宙の秩序を司る高次の意識存在を指します。彼らでさえ、死を超えたアートマンの本質という問題の前では、確信に至らず「疑念(विचिकित्सा, vicikitsā)」を抱いてきたというのです。この一言は、ナチケータの問いが人間の知的好奇心を超え、存在の根源に触れる普遍的な謎であることを示唆します。

次にヤマは、その理由を「न हि सुविज्ञेयमणुरेष धर्मः (na hi suvijñeyamaṇureṣa dharmaḥ)」—「まことに、この法(ダルマ)は極めて微細にして、容易には識り得ぬ」と説明します。この「法(धर्म, dharma)」とは、アートマンの不変の本質を指す言葉です。そして、それが「微細(अणु, aṇu)」であるとは、物理的に小さいという意味ではありません。それは、私たちの五感や思考という粗雑な認識手段では決して捉えることのできない、極めて精妙な実在であることを意味します。アートマンは、感覚器官を超え、心(मनस्, manas)を超え、理性(बुद्धि, buddhi)さえも超えたところにあり、通常の手段では「容易に識り得ぬ(सुविज्ञेय, suvijñeya)」ものなのです。

この真理の深遠さゆえに、ヤマは異例の提案をします。「अन्यं वरं नचिकेतो वृणीष्व (anyaṃ varaṃ naciketo vṛṇīṣva)」—「ナチケータよ、他の願いを選ぶがよい」。これは、弟子の探求心を挫くための言葉ではありません。むしろ、深い慈愛の表れです。この究極の智慧は、単なる知識ではなく、求道者の全存在を根底から変容させる力を持つ、いわば燃え盛る炎のようなものです。未熟な器でそれを受け止めようとすれば、その器自身が砕け散ってしまう危険すらあります。

最後の「मा मोपरोत्सीरति मा सृजैनम् (mā moparotsīrati mā sṛjainam)」—「私をあまりに追い詰めるでない。この問いを手放すがよい」という言葉には、師としてのヤマの深い配慮が凝縮されています。これは単なる拒絶ではなく、ナチケータの覚悟と資格(अधिकार, adhikāra)を試すための、最後の、そして最も厳しい試練なのです。この問いに固執し続けるだけの不動の決意が、彼にあるのか。真理の光がもたらすであろう、一切の価値観の変容を受け入れる準備が、彼にできているのか。ヤマはそれを確かめようとしています。

こうして、最高の智慧の扉を前に、師は弟子の真価を問います。この試練に対するナチケータの応答が、彼が真の求道者であるか否かを決定づけることになるのです。

第1篇 第1章 第22節

देवैरत्रापि विचिकित्सितं किल
त्वं च मृत्यो यन्न सुज्ञेयमात्थ ।
वक्ता चास्य त्वादृगन्यो न लभ्यो
नान्यो वरस्तुल्य एतस्य कश्चित् ॥ १.१.२२॥
devairatrāpi vicikitsitaṃ kila
tvaṃ ca mṛtyo yanna sujñeyamāttha |
vaktā cāsya tvādṛganyo na labhyo
nānyo varastulya etasya kaścit || 1.1.22||
まことに神々でさえ、この問いには疑念を抱いたと聞く。
そして死の王よ、あなたが説かれるように、それは容易に識り得ぬものである。
されど、この真理を語りうる師は、あなたのような方をおいて他にありえぬ。
この願いに匹敵する他の願いなど、何ひとつとして存在しないのだ。

逐語訳:

  • देवैः अत्र अपि विचिकित्सितम् किल (devaiḥ atra api vicikitsitam kila) - 神々によって、この点についてさえも、実に疑念が抱かれたと聞く。(devaiḥ「神々によって」+atra「この点に」+api「さえも」+vicikitsitam「疑われた」+kila「〜と聞く、実に」)
  • त्वम् च मृत्यो (tvam ca mṛtyo) - そしてあなたは、おお死の王よ。(tvam「あなたは」+ca「そして」+mṛtyo「死の王よ」呼格)
  • यत् न सुज्ञेयम् आत्थ (yat na sujñeyam āttha) - それを、あなたが「容易には識り得ぬ」と説く。(yat「それを」+na「〜ない」+sujñeyam「容易に識られるべき」+āttha「あなたは言う」、√अह् (ah) の古形、現在2人称単数)
  • वक्ता च अस्य (vaktā ca asya) - そして、この(真理)の語り手は。(vaktā「語り手」+ca「そして」+asya「この」属格)
  • त्वादृक् अन्यः न लभ्यः (tvādṛk anyaḥ na labhyaḥ) - あなたのような他の者は、得られるべきではない。(tvādṛk「あなたのような」+anyaḥ「他の」+na「〜ない」+labhyaḥ「得られるべき」)
  • न अन्यः वरः (na anyaḥ varaḥ) - 他のいかなる願いも〜ない。(na「〜ない」+anyaḥ「他の」+varaḥ「願い」)
  • तुल्यः एतस्य कश्चित् (tulyaḥ etasya kaścit) - この(願い)に等しいものは。(tulyaḥ「等しい」+etasya「この」属格+kaścit「いかなるもの」)

解説:
この第二十二詩節は、師弟の対話における息をのむような応酬であり、ナチケータの揺るぎない求道精神と卓越した知性が光を放つ場面です。師であるヤマ神が示した躊躇と制止という厳しい試練に対し、ナチケータは怯むどころか、それを逆手にとって自らの願いの正当性を証明します。この応答は、単なる論理的な巧妙さを超え、深い敬意と不動の決意に裏打ちされた、霊的探求者の理想像を見事に描き出しています。

ナチケータはまず、ヤマの言葉を「देवैरत्रापि विचिकित्सितं किल (devairatrāpi vicikitsitaṃ kila)」—「まことに神々でさえ、この問いには疑念を抱いたと聞く」と、全面的に受け入れます。ここで用いられる「किल (kila)」という言葉には、師の権威を深く敬い、その言葉を真実として受け止める弟子の謙虚な姿勢が表れています。彼は反論するのではなく、師が提示した「困難さ」そのものを、自らの探求の出発点とするのです。

その上で、ナチケータは見事な論理を展開します。「वक्ता चास्य त्वादृगन्यो न लभ्यो (vaktā cāsya tvādṛganyo na labhyo)」—「されど、この真理を語りうる師は、あなたのような方をおいて他にありえぬ」。これは、ウパニシャッドの思想の根幹にある、グル(霊的指導者)の重要性を深く理解した言葉です。真理は書物や思索だけでは決して掴むことはできず、それを完全に体得した師から直接授けられるべきものとされます。神々さえ惑うほど微細で深遠な真理であるからこそ、死という現象を完全に支配し、その本質を知り尽くしたヤマ神こそが、唯一無二の「वक्ता (vaktā)」—語り手—である、とナチケータは喝破します。困難であるという事実が、ヤマから学ぶことの絶対的な必要性を証明しているのです。

そして、彼は自らの決意を「नान्यो वरस्तुल्य एतस्य कश्चित् (nānyo varastulya etasya kaścit)」—「この願いに匹敵する他の願いなど、何ひとつとして存在しないのだ」という力強い言葉で締めくくります。これは、後の章でヤマが説く「シュレーヤス(永続的な善)」と「プレーヤス(一時的な快楽)」の選択において、彼がすでにシュレーヤスを選び取る準備ができていることを示唆します。富も、長寿も、天界の幸福さえも、自己の根源を知るという究極の価値の前では色褪せるという、彼の純粋で成熟した価値観がここに凝縮されています。

この詩節を通じて、ナチケータは、真理を受け取るにふさわしい資質(अधिकार, adhikāra)を完璧に証明しました。彼の探求は、師への絶対的な信頼(श्रद्धा, śraddhā)と、本質を見抜く識別知(विवेक, viveka)、そして何ものにも揺るがない決意(निश्चय, niścaya)に基づいています。この師の試練を乗り越えた弟子の姿は、真理への道が、師弟間の深い信頼と霊的な対話の中にこそ開かれることを、私たちに静かに、しかし力強く教えてくれます。

第1篇 第1章 第23節

शतायुषः पुत्रपौत्रान्वृणीष्वा
बहून्पशून् हस्तिहिरण्यमश्वान् ।
भूमेर्महदायतनं वृणीष्व
स्वयं च जीव शरदो यावदिच्छसि ॥ १.१.२३॥
śatāyuṣaḥ putrapautrānvṛṇīṣvā
bahūnpaśūn hastihiraṇyamaśvān |
bhūmermahadāyatanaṃ vṛṇīṣva
svayaṃ ca jīva śarado yāvadicchasi || 1.1.23||
百年の寿命を持つ息子や孫たちを選びたまえ。
数多の家畜、象、黄金、そして馬たちを。
広大な大地の版図を選び、そして汝自身も、望むかぎりの年月を生きるがよい。

逐語訳:

  • शतायुषः (śatāyuṣaḥ) - 百年の寿命を持つ(形容詞 śatāyus の複数対格。putrapautrān を修飾)。
  • पुत्रपौत्रान् (putrapautrān) - 息子と孫たちを(putra「息子」とpautra「孫」の複合語、複数対格)。
  • वृणीष्व (vṛṇīṣva) - 選びたまえ、選ぶがよい(√वृ vṛ「選ぶ」の命令法アートマネーパダ2人称単数)。
  • बहून् (bahūn) - 数多の(形容詞、複数対格男性)。
  • पशून् (paśūn) - 家畜を(paśu「家畜」の複数対格)。
  • हस्तिहिरण्यमश्वान् (hastihiraṇyamaśvān) - 象・黄金・馬たちを(hastin「象」、hiraṇya「黄金」、aśva「馬」の並列複合語、全体で対格)。
  • भूमेः (bhūmeḥ) - 大地の(bhūmi「大地」の女性単数属格)。
  • महत् आयतनम् (mahat āyatanam) - 広大な版図を(mahat「広大な」+āyatana「版図、住処」、ともに中性単数対格)。
  • वृणीष्व (vṛṇīṣva) - 選びたまえ、選ぶがよい(√वृ vṛ「選ぶ」の命令法アートマネーパダ2人称単数)。
  • स्वयम् च (svayam ca) - そして汝自身も(svayam「自身で」+ca「そして」)。
  • जीव (jīva) - 生きよ(√जीव् jīv「生きる」の命令法パラズマイパダ2人称単数)。
  • शरदः (śaradaḥ) - 年月を、秋を(śarad「秋、年」の女性複数対格)。
  • यावत् इच्छसि (yāvat icchasi) - 汝が望むかぎり(yāvat「〜の限り」+icchasi√इष् iṣ「欲する」の現在2人称単数)。

解説:
この第二十三詩節において、物語は劇的な深みを増します。ナチケータの揺るぎない求道精神に対し、師であるヤマは、人間がこの世で渇望しうるあらゆる幸福を具体的に提示し、彼の覚悟を試します。これは単なる物質的な誘惑ではなく、求道者の識別知(विवेक, viveka)と離欲(वैराग्य, vairāgya)の真価を問う、霊的な試金石なのです。

ヤマが最初に提示するのは「शतायुषः पुत्रपौत्रान् (śatāyuṣaḥ putrapautrān)」—「百年の寿命を持つ息子や孫たち」です。古代インド社会において、子孫の繁栄は現世における最大の祝福の一つでした。彼らは家系の存続を担うだけでなく、祖霊祭祀を執り行い、先祖の霊的な安寧を保証する重要な役割を担っていました。この誘惑は、人間の最も根源的で自然な情愛と、社会的・宗教的な安定への願いに直接訴えかけます。

次に、ヤマは地上における富と権力の象徴を列挙します。「बहून्पशून् हस्तिहिरण्यमश्वान् (bahūnpaśūn hastihiraṇyamaśvān)」—「数多の家畜、象、黄金、そして馬たち」。家畜は生活の基盤と豊かさを、象は王者の威厳を、黄金は不変の価値を、そして馬は力と支配力を象徴します。これらすべては、世俗的な成功の頂点を意味します。さらに「भूमेर्महदायतनम् (bhūmermahadāyatanaṃ)」—「広大な大地の版図」という提案は、揺るぎない支配権と絶対的な安全の約束に他なりません。

そして、これらの誘惑の頂点として、ヤマは「स्वयं च जीव शरदो यावदिच्छसि (svayaṃ ca jīva śarado yāvadicchasi)」—「そして汝自身も、望むかぎりの年月を生きるがよい」と語りかけます。「शरदः (śaradaḥ)」とは本来「秋」を意味し、実りの季節であることから、豊かで満たされた年月を詩的に表現しています。さらに「望むかぎり」という言葉は、単なる長寿を超え、時間そのものを自らの意のままにできるかのような、神にも等しい力を示唆しています。

しかし、これらの華やかな贈り物には、共通する一つの性質があります。それらはすべて、後の章でヤマ自身が説く「プレーヤス(प्रेयस्, preyas)」、すなわち「心地よくはあるが一時的な快楽」の領域に属するものです。どれほど長くとも有限の命、どれほど広大でも限定された領土、どれほど豊かでもいつかは失われる富。これらはすべて時間と空間の制約の中にあり、変化と消滅を免れません。そして何より、これらへの執着は「私」と「私のもの」という分離意識を強め、不生不滅なる真我(आत्मन्, ātman)の認識、すなわち「シュレーヤス(श्रेयस्, śreyas)」—「永続的な善」—から魂を遠ざけてしまいます。

ヤマの真の意図は、ナチケータを現世の快楽に引き戻すことではありません。むしろ、これらの誘惑を目の前に突きつけることで、彼が自らの識別知をもって、無常なるものと永遠なるものとを明確に見分けることができるか、その資格(अधिकार, adhikāra)を試しているのです。この壮大な誘惑に対するナチケータの応答が、彼が真理を受け取るにふさわしい器であるか否かを、決定づけることになります。

第1篇 第1章 第24節

एतत्तुल्यं यदि मन्यसे वरं
वृणीष्व वित्तं चिरजीविकां च ।
महाभूमौ नचिकेतस्त्वमेधि
कामानां त्वा कामभाजं करोमि ॥ १.१.२४॥
etattulyaṃ yadi manyase varaṃ
vṛṇīṣva vittaṃ cirajīvikāṃ ca |
mahābhūmau naciketastvam edhi
kāmānāṃ tvā kāmabhājaṃ karomi || 1.1.24||
これに匹敵する他の願いがあると汝が思うのなら、
富と、そして永き生命(いのち)をこそ選ぶがよい。
ナチケータよ、広大なる大地に栄えよ。
我は汝を、あらゆる欲望の享受者となさん。

逐語訳:

  • एतत्तुल्यम् (etattullyam) - これに等しいものを。(etat「これ」+tullyam「等しいものを」の連声)
  • यदि (yadi) - もし(接続詞)
  • मन्यसे (manyase) - 汝が思うならば。(√मन् man「思う」の現在アートマネーパダ2人称単数)
  • वरम् (varam) - 願いを。(vara「願い」の男性単数対格)
  • वृणीष्व (vṛṇīṣva) - 選ぶがよい。(√वृ vṛ「選ぶ」の命令法アートマネーパダ2人称単数)
  • वित्तम् (vittam) - 富を。(vitta「富」の中性単数対格)
  • चिरजीविकाम् (cirajīvikām) - 永き生命を。(cira-jīvikā「長い生命」の女性単数対格)
  • च (ca) - そして。(接続詞)
  • महाभूमौ (mahābhūmau) - 広大な大地において。(mahā-bhūmi「広大な大地」の女性単数処格)
  • नचिकेतः त्वम् एधि (naciketaḥ tvam edhi) - おお、ナチケータよ、汝は栄えよ。(naciketaḥ呼格 + tvam「汝」+ edhi √एध् edh「栄える」の命令法2人称単数。連声してnaciketastvam edhiとなる)
  • कामानाम् (kāmānām) - 欲望たちの。(kāma「欲望」の男性複数属格)
  • त्वा (tvā) - 汝を。(tvad「汝」の単数対格)
  • कामभाजम् (kāmabhājam) - 欲望の享受者に。(kāma-bhāj「欲望を享受する者」の男性単数対格)
  • करोमि (karomi) - 私はなす、作る。(√कृ kṛ「なす」の現在パラズマイパダ1人称単数)

解説:
この第二十四詩節は、前節で提示された具体的な富や権力という誘惑を、さらに本質的で抗いがたい次元へと引き上げる、ヤマの巧妙な試練です。ナチケータが「この願いに匹敵するものはない」と断言したことに対し、ヤマは彼の言葉をそのまま返すかのように、「एतत्तुल्यं यदि मन्यसे वरम् (etattullyaṃ yadi manyase varam)」—「これに匹敵する他の願いがあると汝が思うのなら」と語りかけます。これは単なる皮肉ではなく、求道者の心の奥に潜むかもしれない、ほんの僅かな未練や疑念を映し出す、師の深い洞察に基づいた問いかけなのです。

ヤマが次に提示する「वित्तं चिरजीविकां च (vittaṃ cirajīvikāṃ ca)」—「富と永き生命」は、人間がこの世で求めるあらゆる幸福の根源ともいえる二つの要素です。「富(वित्त, vitta)」とは、単に金品を指すのではなく、この世界で望むものを実現するためのあらゆる手段と可能性を象徴します。そして「永き生命(चिरजीविका, cirajīvikā)」は、その富と可能性を心ゆくまで享受し続けるための、時間の保証です。前節の具体的な象や馬といった富を、より抽象的で包括的な「富」と「時間」という究極の価値に集約することで、ヤマは誘惑の純度を高めています。

さらに「महाभूमौ नचिकेतस्त्वमेधि (mahābhūmau naciketastvam edhi)」—「ナチケータよ、広大なる大地に栄えよ」という言葉は、壮大なスケールで彼の心を揺さぶります。「栄えよ(एधि, edhi)」という動詞は、生命が内側から力強く発展していく様を表し、地上における絶対的な主権者として君臨することを約束するものです。

そして、この試練は頂点を迎えます。「कामानां त्वा कामभाजं करोमि (kāmānāṃ tvā kāmabhājaṃ karomi)」—「我は汝を、あらゆる欲望の享受者となさん」。ここで使われる「कामभाज (kāmabhāj)」という言葉が極めて重要です。これは単に欲望に溺れる者ではなく、欲望を意のままに「享受する権利を持つ者」、いわば欲望の支配者、王となることを意味します。欲望に振り回される奴隷ではなく、欲望を自在に味わい尽くす主人となるというこの約束は、この世の快楽(プレーヤス, प्रेयस्, preyas)が到達しうる、最も洗練され、最も魅力的な境地と言えるでしょう。

しかし、これらの華麗な約束のすべては、変化し失われるという性質を免れません。ヤマの真の意図は、ナチケータを世俗の快楽に引き戻すことではありません。むしろ、この上なく魅力的に磨き上げられた「プレーヤス」を鏡として目の前に掲げることで、ナチケータ自身の内なる価値観を彼に確認させ、自らの口から「シュレーヤス(श्रेयस्, śreyas)」—永遠なる善—への不動の決意を語らせることにあるのです。これは師が弟子に与える、最大の慈愛に満ちた、そして最も厳しい試練なのです。この壮大な問いかけに対し、ナチケータがいかに応えるか。彼の魂の真価が、今まさに問われています。

第1篇 第1章 第25節

ये ये कामा दुर्लभा मर्त्यलोके
सर्वान् कामाँश्छन्दतः प्रार्थयस्व ।
इमा रामाः सरथाः सतूर्या
न हीदृशा लम्भनीया मनुष्यैः ।
आभिर्मत्प्रत्ताभिः परिचारयस्व
नचिकेतो मरणं माऽनुप्राक्षीः ॥ १.१.२५॥
ye ye kāmā durlabhā martyaloke
sarvān kāmāṃśchandataḥ prārthayasva |
imā rāmāḥ sarathāḥ satūryā
na hīdṛśā lambhanīyā manuṣyaiḥ |
ābhirmattprattābhiḥ paricārayasva
naciketo maraṇaṃ mā'nuprākṣīḥ || 1.1.25||
死すべき者の世にて得難き望みの数々、
そのすべての望みを、汝の意のままに求めるがよい。
ここにいる天女たちは、戦車を駆り、楽を奏でる。
まこと、かくのごとき者たちは、人の力では得られぬもの。
我が与えるこの天女たちに、汝の身の回りを世話させよ。
ナチケータよ、ただ死についての問いだけは、断じて口にしてはならぬ。

逐語訳:

  • ये ये कामाः (ye ye kāmāḥ) - いかなる欲望であれ。(関係代名詞 yad の重複形、男性複数主格。ありとあらゆる欲望を網羅することを強調する)
  • दुर्लभाः (durlabhāḥ) - 得難い。(形容詞、男性複数主格)
  • मर्त्यलोके (martyaloke) - 死すべき者の世界において。(martya-loka「死すべき者の世界」の単数処格)
  • सर्वान् कामान् (sarvān kāmān) - すべての欲望を。(sarva「すべて」+ kāma「欲望」、ともに男性複数対格)
  • छन्दतः (chandataḥ) - 意のままに、自由に。(副詞)
  • प्रार्थयस्व (prārthayasva) - 求めるがよい。(√प्र-अर्थ् pra-arth「求める」の命令法アートマネーパダ2人称単数)
  • इमाः रामाः (imāḥ rāmāḥ) - この天女たちは。(idam「これ」+ rāmā「美しい女性、天女」、ともに女性複数主格)
  • सरथाः (sarathāḥ) - 戦車と共にある。(sa-ratha「戦車と共に」、女性複数主格)
  • सतूर्याः (satūryāḥ) - 楽器と共にある。(sa-tūrya「楽器と共に」、女性複数主格)
  • न हि ईदृशाः (na hi īdṛśāḥ) - まことにかくのごとき者たちは〜ない。(na「〜ない」+hi「実に」+īdṛśa「このような」、女性複数主格)
  • लम्भनीयाः (lambhanīyāḥ) - 得られるべき。(√लभ् labh「得る」の未来受動分詞、女性複数主格)
  • मनुष्यैः (manuṣyaiḥ) - 人間たちによって。(manuṣya「人間」の男性複数具格)
  • आभिः मत्प्रत्ताभिः (ābhiḥ matprattābhiḥ) - 私によって与えられた彼女たちによって。(idamの女性複数具格 + mat-pratta「私から与えられた」の女性複数具格)
  • परिचारयस्व (paricārayasva) - 身の回りの世話をさせよ。(√चर् car「動く」の使役形に接頭辞 परि pari「周りに」がついた動詞の命令法アートマネーパダ2人称単数)
  • नचिकेतः (naciketaḥ) - おお、ナチケータよ。(naciketas の呼格)
  • मरणम् (maraṇam) - 死について。(maraṇa「死」の対格。「〜について尋ねる」の目的語)
  • मा अनुप्राक्षीः (mā anuprākṣīḥ) - 尋ねるな。( 禁止の不変化詞 + anuprākṣīḥ √प्रछ् prach「尋ねる」のアオリスト(強過去)2人称単数。強い禁止を表す)

解説:
この第二十五詩節は、師ヤマが弟子ナチケータに提示する誘惑の頂点であり、彼の求道心の真価を問う、息をのむほどに美しい試練です。前節までで提示された富や権力、長寿といった現世的な快楽(プレーヤス, प्रेयस्, preyas)は、ここで人間の欲望が描きうる最も洗練された、天界の喜びにまで高められます。

ヤマはまず、「ये ये कामा दुर्लभा मर्त्यलोके (ye ye kāmā durlabhā martyaloke)」—「死すべき者の世にて得難き望みの数々」と語りかけます。関係代名詞を反復する「ये ये (ye ye)」という表現は、「ありとあらゆる」という網羅性を強調し、ナチケータが心に思い描きうる、いかなる望みにも例外はないことを約束します。それは「死すべき者の世界(मर्त्यलोक, martyaloka)」の限界を遥かに超越した、神的な領域からの贈り物なのです。

その贈り物の象徴として具体的に描かれるのが、「इमा रामाः सरथाः सतूर्याः (imā rāmāḥ sarathāḥ satūryāḥ)」—天女たちです。この「रामाः (rāmāḥ)」は、単なる美しい女性を指すのではありません。彼女たちは戦車(रथ, ratha)を伴い、楽器(तूर्य, tūrya)を携えています。戦車は天界の威光と力を、楽器は神々を楽しませる音楽と舞踊、すなわち至高の芸術を象徴します。これは、単なる感覚的な快楽を超え、美的・文化的な完成への憧れという、人間の最も高次な欲求に訴えかける、極めて巧妙な誘惑です。ヤマはナチケータに、美と力と芸術に満ちた、完璧な世界の主となることを提案しているのです。

ヤマはさらに、「न हीदृशा लम्भनीया मनुष्यैः (na hīdṛśā lambhanīyā manuṣyaiḥ)」—「まこと、かくのごとき者たちは、人の力では得られぬもの」と述べ、この喜びが人間の努力の範疇を完全に超えた、超越的なものであることを強調します。そして、「आभिर्मत्प्रत्ताभिः परिचारयस्व (ābhirmattprattābhiḥ paricārayasva)」—「我が与えるこの天女たちに、汝の身の回りを世話させよ」と続けます。ここで使われる使役形の動詞「परिचारयस्व (paricārayasva)」は、単に奉仕を受けるのではなく、彼女たちを意のままに「動かす」という、完全な支配者の立場を約束する言葉です。

この壮麗な誘惑の締めくくりとして、ヤマは決定的な条件を突きつけます。「नचिकेतो मरणं माऽनुप्राक्षीः (naciketo maraṇaṃ mā'nuprākṣīḥ)」—「ナチケータよ、ただ死についての問いだけは、断じて口にしてはならぬ」。ここで用いられる「मा (mā)」とアオリスト時制による禁止形は、サンスクリット語における最も強い否定表現の一つであり、「絶対に〜してはならない」という揺るぎない拒絶を示します。つまり、この天上の快楽を享受するためには、根源的な真理の探求を完全に放棄しなければならないのです。

この詩節は、プレーヤス(快楽)とシュレーヤス(善)の岐路を、この上なく鮮やかに描き出します。ヤマの真意はナチケータを堕落させることではなく、彼の識別知(विवेक, viveka)と離欲(वैराग्य, vairāgya)が本物であるかを確かめる、師としての深い慈愛にあります。この究極の誘惑を前にして、ナチケータがいかなる選択をするのか。彼の魂の純度が、今まさに試されようとしています。

第1篇 第1章 第26節

श्वोभावा मर्त्यस्य यदन्तकैतत्
सर्वेंद्रियाणां जरयन्ति तेजः ।
अपि सर्वं जीवितमल्पमेव
तवैव वाहास्तव नृत्यगीते ॥ १.१.२६॥
śvobhāvā martyasya yadantakaitat
sarveṃdriyāṇāṃ jarayanti tejaḥ |
api sarvaṃ jīvitamalpameva
tavaiva vāhāstava nṛtyagīte || 1.1.26||
明日をも知れぬ束の間の快楽は、おお死の王よ、
死すべき者のあらゆる感覚の精気をすり減らす。
そのうえ、いかなる生命もあまりに短きもの。
汝の戦車も、汝の舞踊と歌も、汝自身のものとしておくがよい。

逐語訳:

  • श्वोभावाः (śvobhāvāḥ) - 明日にはあるか分からぬものたち。(śvas「明日」+bhāva「存在」の複数主格。前節で提示された快楽を指す)
  • मर्त्यस्य (martyasya) - 死すべき者の。(martya「死すべき者」の男性単数属格)
  • यत् अन्तक एतत् (yad antaka etat) - これは複合的な句であり、「おお、死の王(アンタカ)よ、この(快楽)は (yadは接続詞、antakaはヤマへの呼格、etatは指示代名詞)」と解釈される。文脈上、ナチケータがヤマに語りかけていることを示す。
  • सर्वेंद्रियाणां (sarveṃdriyāṇām) - すべての感覚器官の。(sarva-indriya の複数属格)
  • जरयन्ति (jarayanti) - 衰えさせる、すり減らす。(√जृ jṛ「老いる」の使役形、現在3人称複数)
  • तेजः (tejaḥ) - 精気、活力、輝きを。(tejas の中性単数対格)
  • अपि (api) - そのうえ、そもそも。(不変化詞)
  • सर्वं जीवितम् (sarvaṃ jīvitam) - 全ての生命は。(sarva+jīvita、中性単数主格)
  • अल्पम् एव (alpam eva) - 実に短い、あまりに短い。(alpa+eva
  • तव एव (tava eva) - まさに汝のもの。(tava「汝の」+eva「こそ」。強い所有を示す)
  • वाहाः (vāhāḥ) - 戦車たち。(vāha「乗り物」の複数主格)
  • तव (tava) - 汝の。(属格)
  • नृत्यगीते (nṛtyagīte) - 舞踊と歌も。(nṛtya-gīta「舞踊と歌」の双数主格)

解説:
この第二十六詩節は、物語の大きな転換点です。死の神ヤマが提示した、この世と天上のあらゆる快楽に対し、少年ナチケータが初めて明確な拒絶の意志を、鋭い哲学的洞察をもって表明します。これは単なる感情的な拒否ではなく、彼の揺るぎない識別知(विवेक, viveka)と不動の離欲(वैराग्य, vairāgya)の現れです。

ナチケータは、ヤマの申し出の本質的な欠陥を二つの側面から喝破します。まず第一に、快楽そのものの性質です。冒頭の「श्वोभावाः (śvobhāvāḥ)」—「明日をも知れぬ束の間の存在」という言葉は、ヤマが提示した天女や富がいかに華麗であっても、その本質がはかなく、永続しないものであることを見抜いています。さらに深刻なのは、その代償です。ナチケータは、これらの快楽が「सर्वेंद्रियाणां जरयन्ति तेजः (sarveṃdriyāṇāṃ jarayanti tejaḥ)」—「あらゆる感覚の精気をすり減らす」と看破します。快楽を追い求めれば求めるほど、私たちの感覚器官の生命力、すなわち「तेजस् (tejas)」は消耗し、衰弱していくのです。これは、一時的な刺激のために、生命そのものの輝きを失うという本末転倒な取引に他なりません。

第二に、ナチケータの洞察はさらに深まります。「अपि सर्वं जीवितमल्पमेव (api sarvaṃ jīvitam alpam eva)」—「そのうえ、いかなる生命もあまりに短きもの」。快楽が無常であるだけでなく、それを享受する主体である生命そのものが、あまりにも短く、限定的であるという根源的な事実を突きつけます。たとえ無限の富を与えられても、それを享受する時間が有限であるならば、その価値とは一体何でしょうか。この問いは、すべての世俗的な価値観を根底から揺るがします。

これらの冷徹な分析ののち、ナチケータの態度は決定的となります。「तवैव वाहास्तव नृत्यगीते (tavaiva vāhāstava nṛtyagīte)」—「汝の戦車も、汝の舞踊と歌も、汝自身のものとしておくがよい」。これは、ヤマが提示したすべての贈り物を、敬意を払いつつも、完全に突き返す言葉です。「それはあなたには相応しいかもしれませんが、私が求めるものではありません」という、揺るぎない決意が表明されています。ここでナチケータは、死を司る神である「アンタカ(अन्तक, antaka)」自身に、死と無常の理を説き返しているのです。これは、彼の探求がもはや後戻りできないものであることを、師であるヤマに力強く示しています。

この詩節は、ナチケータが単なる純粋な少年ではなく、真理を見抜く鋭い知性を持った求道者であることを証明するものです。彼は、一時的な快楽(プレーヤス, प्रेयस्, preyas)の魅力とその限界を完全に見抜き、永続的な善(シュレーヤス, श्रेयस्, śreyas)への道を、自らの意志で選択したのです。この毅然とした応答によって、彼はヤマから究極の智慧を授かるにふさわしい器であることを、自ら証明したと言えるでしょう。

第1篇 第1章 第27節

न वित्तेन तर्पणीयो मनुष्यो
लप्स्यामहे वित्तमद्राक्ष्म चेत्त्वा ।
जीविष्यामो यावदीशिष्यसि त्वं
वरस्तु मे वरणीयः स एव ॥ १.१.२७॥
na vittena tarpaṇīyo manuṣyo
lapsyāmahe vittam adrākṣma cettvā |
jīviṣyāmo yāvad īśiṣyasi tvaṃ
varas tu me varaṇīyaḥ sa eva || 1.1.27||
富によりて人は満たされることなし。
汝にまみえし今、富は得られよう。
だが我が生きるも、ただ汝の支配の続く限り。
されば、我が願うべきは、まさにかの願いのみ。

逐語訳:

  • न (na) - 〜ない(否定詞)
  • वित्तेन (vittena) - 富によって(vitta「富」の中性単数具格)
  • तर्पणीयः (tarpaṇīyaḥ) - 満足させられうる(√तृप् tṛp「満足する」の未来受動分詞、男性単数主格)
  • मनुष्यः (manuṣyaḥ) - 人間は(manuṣya「人間」の男性単数主格)
  • लप्स्यामहे (lapsyāmahe) - 私は得るであろう(√लभ् labh「得る」の未来時制1人称複数アートマネーパダ。文法的には複数形だが、文脈上は単数の意)
  • वित्तम् (vittam) - 富を(vitta「富」の中性単数対格)
  • अद्राक्ष्म (adrākṣma) - 私が見たので(√दृश् dṛś「見る」のアオリスト1人称複数。複数形が使われているが、ナチケータ自身を指す)
  • चेत् (cet) - もし〜ならば(ここでは「〜であるからには」の意)
  • त्वा (tvā) - 汝を(tvad「汝」の対格)
  • जीविष्यामः (jīviṣyāmaḥ) - 私は生きるであろう(√जीव् jīv「生きる」の未来時制1人称複数。これも文脈上は単数)
  • यावत् (yāvat) - 〜である限りの間(関係副詞)
  • ईशिष्यसि (īśiṣyasi) - 汝が支配するであろう(√ईश् īś「支配する」の未来時制2人称単数)
  • त्वम् (tvam) - 汝は(主格)
  • वरः तु (varas tu) - しかし願いは(vara「願い」の男性単数主格 + tu「しかし、されば」)
  • मे (me) - 私の、私にとって(属格・与格)
  • वरणीयः (varaṇīyaḥ) - 選ばれるべき(√वृ vṛ「選ぶ」の未来受動分詞、男性単数主格)
  • सः एव (saḥ eva) - まさにそれこそが(指示代名詞男性単数主格 + eva「まさに、のみ」)

解説:
前節で快楽のはかなさと生命の短さを指摘したナチケータは、この第二十七詩節でさらに議論を深め、富そのものの本質的な無力さと、それがもたらす生命さえも死の支配下にあるという、究極的な真理をヤマに突きつけます。彼の言葉は、単なる若者の頑固さではなく、鋭い哲学的洞察に裏打ちされた不動の決意の表れです。

冒頭の「न वित्तेन तर्पणीयो मनुष्यः (na vittena tarpaṇīyo manuṣyaḥ)」—「富によりて人は満たされることなし」という言葉は、ウパニシャッド思想の核心に触れる宣言です。ここで用いられる「तर्पणीय (tarpaṇīya)」という語は「満足させられうる」という可能性を含意します。つまりナチケータは、富が人を満足させることは「不可能」であると、存在論的な真実として断言しているのです。人間の内なる無限への渇望は、いかなる有限の、外的な富によっても根本的に癒されることはありません。この洞察が、彼の探求の揺るぎない土台となっています。

続く言葉は、さらに鋭利な論理でヤマに迫ります。「लप्स्यामहे वित्तमद्राक्ष्म चेत्त्वा (lapsyāmahe vittam adrākṣma cettvā)」—「汝にまみえし今、富は得られよう」。これは、死の支配者であるあなたにまみえるほどの稀有な機会を得たからには、この世の富など容易に手に入るだろうという、深い皮肉と真実を含んだ言葉です。しかし、その上で彼は、その富と生命の絶対的な限界を暴きます。「जीविष्यामो यावदीशिष्यसि त्वम् (jīviṣyāmo yāvad īśiṣyasi tvam)」—「だが我が生きるも、ただ汝の支配の続く限り」。死の神から与えられた富も長寿も、すべては死の神の支配権の範囲内にあるという、動かしがたい事実を指摘しているのです。これは、死の神に対して「生」の条件が「死」であることを説くという、驚くべき知的勇気の表れです。

この厳密な論理的分析を経て、ナチケータは自らの結論を力強く宣言します。「वरस्तु मे वरणीयः स एव (varas tu me varaṇīyaḥ sa eva)」—「されば、我が願うべきは、まさにかの願いのみ」。ここでの「वरणीयः (varaṇīyaḥ)」は、単なる「選びたい」という願望ではなく、「選ばれるべき」「選ぶのが理に適っている」という必然性を示唆します。彼の選択が、感情的なものではなく、理性の導きによる必然的な帰結であることを示しているのです。「स एव (sa eva)」—「まさにかの願いのみ」という言葉は、一時的な快楽(プレーヤス)という他のあらゆる選択肢を完全に退け、死を超えた永遠の真理(シュレーヤス)という一点へと彼の全存在が収斂していく様を鮮やかに描き出します。

この詩節は、ナチケータが師の教えを受けるにふさわしい器(अधिकारी, adhikārī)であることを、自らの智慧と言葉によって証明した決定的な瞬間と言えるでしょう。この見事な応答によって、彼は死の神ヤマの心を動かし、ウパニシャッドの最も深遠な教えへの扉を開くことになるのです。

第1篇 第1章 第28節

अजीर्यताममृतानामुपेत्य
जीर्यन्मर्त्यः क्वधःस्थः प्रजानन् ।
अभिध्यायन् वर्णरतिप्रमोदान्
अतिदीर्घे जीविते को रमेत ॥ १.१.२8॥
ajīryatām amṛtānām upetya
jīryan martyaḥ kvadhaḥsthaḥ prajānan |
abhidhyāyan varṇaratipramodān
atidīrghe jīvite ko rameta || 1.1.28||
老いることなく、死することなき者たちにまみえながら、
自らはこの地上にありて老いゆく死すべき者と知る者が、
美しさ、愛欲、そして歓楽といったはかなきものを熟慮して、
いたずらに長いだけの生を、いったい誰が喜びえようか。

逐語訳:

  • अजीर्यताम् अमृतानाम् (ajīryatām amṛtānām) - 老いることなき、不死なる者たちの。(a-jīryat「老いない」とamṛta「不死」の男性複数属格)
  • उपेत्य (upetya) - 近づいて、まみえて。(upa-√i「近くへ行く」の絶対分詞)
  • जीर्यन् (jīryan) - 老いてゆく。(√jṛ「老いる」の現在分詞、男性単数主格)
  • मर्त्यः (martyaḥ) - 死すべき者が。(martya「死すべき者」の男性単数主格)
  • क्वधःस्थः (kvadhaḥsthaḥ) - この低い世界に立つ者。(kva「どこに」+ adhaḥ「下に」+ stha「立つ」の複合語。地上にいる死すべき者の状態を指す)
  • प्रजानन् (prajānan) - 深く知りながら。(pra-+√jñā「知る」の現在分詞、男性単数主格)
  • अभिध्यायन् (abhidhyāyan) - (それらを)熟慮しながら。(abhi-+√dhyai「瞑想する、思う」の現在分詞、男性単数主格)
  • वर्णरतिप्रमोदान् (varṇaratipramodān) - 美しさ(varṇa)・愛欲(rati)・歓楽(pramoda)を。(複合語の男性複数対格)
  • अतिदीर्घे (atidīrghe) - 極めて長い。(ati-dīrgha「極めて長い」の中性単数処格)
  • जीविते (jīvite) - 生命において。(jīvita「生命」の中性単数処格)
  • कः (kaḥ) - 誰が。(疑問代名詞、男性単数主格)
  • रमेत (rameta) - 楽しむだろうか?(いや、楽しむはずがない)。(√ram「楽しむ」の願望法3人称単数。修辞疑問として強い否定の意を表す)

解説:
富も権力も、それが死の支配下にある以上は無意味だと喝破したナチケータは、この第二十八詩節で、その論理を究極の領域—神々の不老不死の世界—にまで押し広げます。これは、ヤマが提示した誘惑の最後の砦、すなわち天上の快楽と長寿さえも、彼の鋭い識別知の前では色褪せることを示す、荘厳な哲学的宣言です。

まずナチケータは、「अजीर्यताम् अमृतानाम् उपेत्य (ajīryatām amṛtānām upetya)」—「老いることなく、死することなき者たちにまみえながら」と、ヤマの申し出を受け入れたと仮定した状況を描写します。しかし、その直後に続く言葉が、この仮定の無意味さを明らかにします。「जीर्यन्मर्त्यः क्वधःस्थः प्रजानन् (jīryan martyaḥ kvadhaḥsthaḥ prajānan)」—「自らはこの地上にありて老いゆく死すべき者と知る者が」。ここで用いられている「क्वधःस्थः (kvadhaḥsthaḥ)」という言葉は、単に物理的に低い場所にいるという意味ではありません。それは、不滅の神々と、滅びゆく人間との間に存在する、決して越えることのできない存在論的な隔たりを象徴しています。たとえ天上の存在に近づくことができても、自らが老いと死に縛られた存在であるという根本的な自覚(प्रजानन्, prajānan)がある限り、真の満足はありえないのです。

この冷徹な自己認識に基づき、彼は次に、感覚的な快楽の本質を見抜きます。「अभिध्यायन् वर्णरतिप्रमोदान् (abhidhyāyan varṇaratipramodān)」—「美しさ、愛欲、そして歓楽といったはかなきものを熟慮して」。ここに挙げられた三つの要素、すなわち「वर्ण (varṇa)」(美しさ・色彩)、「रति (rati)」(官能的な愛欲)、そして「प्रमोद (pramoda)」(心を浮き立たせる歓楽)は、人間が求める一時的な喜び(प्रेयस्, preyas)の全てを代表しています。しかしナチケータは、これらの快楽を深く「अभिध्यायन् (abhidhyāyan)」(熟慮)した結果、それらが老いと死という絶対的な終焉を前にして、いかに空虚であるかを見抜いています。

そして、この詩節は、ウパニシャッドの思想を凝縮したかのような、力強い修辞疑問で締めくくられます。「अतिदीर्घे जीविते को रमेत (atidīrghe jīvite ko rameta)」—「いたずらに長いだけの生を、いったい誰が喜びえようか」。たとえヤマの力によって「अतिदीर्घ (atidīrgha)」(極めて長い)生命が与えられたとしても、それが永遠でない限り、その価値は相対的なものに過ぎません。死という結末が定められている以上、その生の長さは問題ではなくなります。ナチケータが問うているのは、生命の「量」ではなく「質」です。真理を知らず、ただ快楽に耽りながらいたずらに長く生きることに、いかなる価値があるのか。願望法「रमेत (rameta)」で表現されたこの問いは、「誰も真に喜ぶことなどできない」という揺るぎない確信を響かせます。

この詩節は、ナチケータが師の教えを受けるにふさわしい、最高の器(अधिकारी, adhikārī)であることを決定づけるものです。彼は、この世と天上のあらゆる快楽の誘惑を、明晰な智慧と不動の離欲(वैराग्य, vairāgya)をもって退けました。この若き求道者の魂の純粋さと、真理への揺るぎない渇望は、ついに死の神ヤマの心を動かし、ウパニシャッドの最も深遠な秘密の扉を開かせることになるのです。

第1篇 第1章 第29節

यस्मिन्निदं विचिकित्सन्ति मृत्यो
यत्साम्पराये महति ब्रूहि नस्तत् ।
योऽयं वरो गूढमनुप्रविष्टो
नान्यं तस्मान्नचिकेता वृणीते ॥ १.१.२९॥
yasminnidaṃ vicikitsanti mṛtyo
yatsāmparāye mahati brūhi nastat |
yo'yaṃ varo gūḍhamanupraviṣṭo
nānyaṃ tasmānnaciketā vṛṇīte || 1.1.29||
おお死の王よ、人が死んだ後について人々が抱くかの疑い、
かの偉大なる彼岸にあるもの、それを我らに説きたまえ。
この願いこそは、深く秘められた領域へと分け入るもの。
ナチケータは、この願いの他には何ものも選ばぬ。

逐語訳:

  • यस्मिन् (yasmin) - それについて(関係代名詞 yad、中性単数処格)。ここでは、第20節で述べられた死後の存在に関する疑念を指します。
  • इदं विचिकित्सन्ति (idaṃ vicikitsanti) - 人々はこれを疑う(idamは指示代名詞、vicikitsantiは√कित् kit「疑う」の強意形 cikits- に接頭辞 vi- が付いた動詞の現在3人称複数)。
  • मृत्यो (mṛtyo) - おお死の王よ(mṛtyu「死」の男性単数呼格)。
  • यत् (yat) - そのもの(関係代名詞 yad、中性単数主格)。
  • साम्पराये महति (sāmparāye mahati) - 偉大なる彼岸において(sāmparāya「彼岸」とmahat「偉大」の中性単数処格)。
  • ब्रूहि (brūhi) - 説きたまえ(√ब्रू brū「語る」の命令法2人称単数)。
  • नः (naḥ) - 我らに(asmad「我」の複数与格)。
  • तत् (tat) - それを(指示代名詞 tad、中性単数対格)。
  • यः अयं वरः (yaḥ ayaṃ varaḥ) - この願いこそは(関係代名詞 yad、指示代名詞 idam、名詞 vara のいずれも男性単数主格)。
  • गूढम् (gūḍham) - 秘奥へと、深く(副詞的に使用)。
  • अनुप्रविष्टः (anupraviṣṭaḥ) - 分け入ったものである(anu-pra-√viś「分け入る」の過去受動分詞、男性単数主格)。
  • न (na) - 〜ない(否定詞)。
  • अन्यं (anyam) - 他のものを(anya「他の」の男性単数対格)。
  • तस्मात् (tasmāt) - その(願い)から離れて、それよりも(指示代名詞 tad の男性単数奪格)。
  • नचिकेता (naciketā) - ナチケータは(固有名詞 naciketas の男性単数主格)。
  • वृणीते (vṛṇīte) - 選ぶ(√वृ vṛ「選ぶ」の現在3人称単数アートマネーパダ)。

解説:
この第二十九詩節は、第一章「第一のヴァッリー(蔓)」の壮麗な締めくくりです。これまでの議論を通じて、ナチケータは富、長寿、権力、天上の快楽といった、死の神ヤマが提示したあらゆる誘惑を、鋭い智慧をもって退けました。そして今、彼は自らの探求の真の目的を、揺るぎない決意とともに最終的に宣言します。

冒頭の言葉は、この物語の核心である第20節の問いに、力強く回帰するものです。「येयं प्रेते विचिकित्सा मनुष्ये (yeyaṃ prete vicikitsā manuṣye)」—「人が死んだ後、[真我は]存在するのか否かという、この疑い」。ナチケータは、人類が抱き続けてきたこの根源的な問いを、再び死の支配者自身に突きつけます。ここで用いられる「विचिकित्सा (vicikitsā)」という言葉は、単なる知的好奇心ではなく、魂の存在そのものを揺るがす深い迷いと渇望を意味します。

彼が知りたいのは、「साम्पराये महति (sāmparāye mahati)」—「偉大なる彼岸」にある真実です。「साम्पराय (sāmparāya)」とは、単なる死後の世界を指す言葉ではありません。それは、この移ろいゆく現象世界(サンサーラ)を超えた、より広大で根源的な実在の領域を指し示します。ナチケータは、個人的な運命を超えて、存在そのものの究極的な秘密を解き明かすことを願っているのです。

詩節の後半は、彼の願いの性質を明確に定義します。「योऽयं वरो गूढमनुप्रविष्टः (yo'yaṃ varo gūḍhamanupraviṣṭo)」—「この願いこそは、深く秘められた領域へと分け入るもの」。彼の願いは、「गूढ (gūḍha)」—隠され、深遠で、容易にはうかがい知れない—真理への探求です。それは、ヴェーダの奥義、すなわちウパニシャッドが「रहस्य (rahasya)」(秘密の教え)と呼ぶ、最も神聖な知識を求める宣言に他なりません。

そして、この詩節はナチケータの絶対的な決意表明で結ばれます。「नान्यं तस्मान्नचिकेता वृणीते (nānyaṃ tasmānnaciketā vṛṇīte)」—「ナチケータは、この願いの他には何ものも選ばぬ」。この言葉は、一時的な快楽(प्रेयस्, preyas)という道を完全に捨て去り、永続的な善(श्रेयस्, śreyas)という唯一の道を選び取った彼の、不動の精神を力強く示します。「तस्मात् (tasmāt)」—「その(秘奥の)願いから離れては」という表現は、彼の選択が絶対的であり、もはやいかなる妥協も許さないことを物語っています。

この見事な宣言によって、ナチケータは、師から至高の智慧を受け継ぐにふさわしい器(अधिकार, adhikāra)であることを自らの言葉と意志で証明しました。試練の時は終わり、物語はいよいよ、ヤマによる深遠な真理の開示という、ウパニシャッド哲学の核心へと進んでいきます。この若き求道者の魂の純粋な叫びは、すべての真理探求者の心の内に響き渡るのです。

第1篇 第1章 奥書

॥ इति काठकोपनिषदि प्रथमाध्याये प्रथमा वल्ली ॥
|| iti kāṭhakopaniṣadi prathamādhyāye prathamā vallī ||
カタ・ウパニシャッド第一篇、第一のヴァッリー、ここに終わる。

逐語訳:

  • इति (iti) - ここに~終わる(章句の終結を示す不変化詞)。
  • काठकोपनिषदि (kāṭhakopaniṣadi) - カタ・ウパニシャッドにおいて(kāṭhaka-upaniṣad「カタ派の奥義書」の女性単数処格)。
  • प्रथमाध्याये (prathamādhyāye) - 第一篇において(prathama-adhyāya「第一篇」の男性単数処格)。
  • प्रथमा (prathamā) - 第一の(女性単数主格)。
  • वल्ली (vallī) - ヴァッリー、蔓、章(vallīの女性単数主格)。

解説:
この一文は、カタ・ウパニシャッドの最初の大きな区切り、第一のヴァッリーの終結を告げる荘厳な後書きです。サンスクリットの聖典において、इति (iti) という言葉は、一つの思想や物語のまとまりが完結したことを示す重要な標識としての役割を果たします。

このウパニシャッドは、ヴェーダ聖典の一部である黒ヤジュル・ヴェーダに属する「カータカ派」によって伝承されてきたため、「काठक (kāṭhaka)」の名を冠しています。また、各章が「वल्ली (vallī)」と呼ばれているのは特徴的です。「ヴァッリー」とは本来「蔓(つる)」を意味する言葉であり、ウパニシャッドの教えが、一本の蔓のように連なりながら、求道者を着実に、そして有機的に深遠な真理の高みへと導いていく様子を象徴しているかのようです。

この第一のヴァッリーは、壮大な精神的ドラマの序幕でした。物語は、ヴァージャシュラヴァサの献身から始まり、その息子ナチケータの純粋な魂が、父の言葉をきっかけに死の国へと旅立つという、劇的な展開をたどりました。そして、死の支配者ヤマとの対面、三つの願いの獲得、そして最後の願いをめぐる息をのむような問答が繰り広げられました。

ここで描かれたのは、単なる物語ではありません。それは、真理を求める魂が必ず通過しなければならない、精神的な浄化と試練の過程そのものを象徴しています。ヤマが提示した富、子孫、権力、長寿、そして天上の官能的な快楽は、人間存在が執着しうる全ての価値(प्रेयस्, preyas、快きもの)を網羅しています。ナチケータは、これら全ての誘惑を、鋭い識別知(विवेक, viveka)と、世俗的なものへの完全な離欲(वैराग्य, vairāgya)をもって退けました。彼は、移ろいゆく有限の喜びの背後にある根本的な空虚さを見抜き、ただ一つ、不変の真理(श्रेयस्, śreyas、善きもの)のみを希求したのです。

前節における彼の「ナチケータは、この願いの他には何ものも選ばぬ」という不動の宣言は、彼が師から至高の智慧を受け継ぐにふさわしい、最高の器(उत्तम अधिकारी, uttama adhikārī)であることを、自らの力で証明した瞬間でした。

試練の時は終わり、物語の舞台は整いました。純粋な魂の問いかけに応え、今や死の王自身が、死を超えた不滅の智慧を語り始めます。続く第二のヴァッリーでは、この第一ヴァッリーでナチケータが自らの生き様で示した「善(シュレーヤス)と快楽(プレーヤス)の選択」が、深遠な哲学として説き明かされることになるのです。

第1篇 第2章 第1節

अन्यच्छ्रेयोऽन्यदुतैव प्रेय-
स्ते उभे नानार्थे पुरुषँ सिनीतः ।
तयोः श्रेय आददानस्य साधु
भवति हीयतेऽर्थाद्य उ प्रेयो वृणीते ॥ १.२.१॥
anyacchreyo'nyadutaiva preya-
ste ubhe nānārthe puruṣaṃ sinītaḥ |
tayoḥ śreya ādadānasya sādhu
bhavati hīyate'rthādya u preyo vṛṇīte || 1.2.1||
善なる道は一つ、そして快き道はまた別のものである。
この二つは、異なる目的をもちながら人を縛る。
そのうち善なる道を選ぶ者には、幸いがある。
だが快き道を選ぶ者は、真の目的から離れ落ちる。

逐語訳:

  • अन्यत् श्रेयः (anyat śreyaḥ) - 善きものは別である。(anyat「別のもの」、śreyas「より善きもの、霊的な福利」)
  • अन्यत् उत एव प्रेयः (anyat uta eva preyaḥ) - そしてまた、快きものも全く別のものである。(uta「そしてまた」、eva「まさに」、preyas「より愛しいもの、感覚的な快楽」)
  • ते उभे (te ubhe) - その両者は。(te「その」、ubhe「両者」、中性双数主格)
  • नानार्थे (nānārthe) - 異なる目的をもって。(nānā「様々な」+ arthe「目的において」の複合語)
  • पुरुषं (puruṣaṃ) - 人を。(puruṣa「人、人間」の男性単数対格)
  • सिनीतः (sinītaḥ) - 縛る。(√सि si「縛る」の現在3人称双数)
  • तयोः (tayoḥ) - その二つのうち。(指示代名詞 tad、中性双数属格)
  • श्रेयः आददानस्य (śreyaḥ ādadānasya) - 善きものを受け入れる者の。(ādadānaā-「取る、受け入れる」の現在分詞、男性単数属格)
  • साधु भवति (sādhu bhavati) - 幸いがある、善きことになる。(sādhu「善、幸い」、bhavati「ある、なる」)
  • हीयते (hīyate) - 離れ落ちる、失われる。(√हा 「捨てる、離れる」の受動態現在3人称単数)
  • अर्थात् (arthāt) - 真の目的から。(artha「目的、価値、実利」の単数奪格)
  • यः उ (yaḥ u) - まさにその者は。(yaḥ は関係代名詞「〜する者」、u は強調の小辞)
  • प्रेयः वृणीते (preyaḥ vṛṇīte) - 快きものを選ぶ。(vṛṇīte は √vṛ「選ぶ」の現在3人称単数)

解説:
この詩節は、第二のヴァッリー(章)の幕開けを告げる、ウパニシャッド哲学の根幹をなす極めて重要な宣言です。第一のヴァッリーにおいて、若きナチケータが富や長寿、官能的な快楽の全てを退け、ただ死を超えた真実のみを求めた、あの劇的な選択。その実践的な行動の背後に横たわる普遍的な法則を、今、死の王ヤマ自身が理論的に説き明かし始めます。

ここで提示される二つの道、श्रेयस् (śreyas)प्रेयस् (preyas)は、人間のあらゆる選択の根底にある二つの異なる方向性を示します。
श्रेयस् (śreyas)は、「より善きもの」を意味し、魂の永遠の福利、すなわち解脱(मोक्ष, mokṣa)へと導く道を指します。それは、しばしば困難で、即座の喜びをもたらさないかもしれませんが、究極的には永続する平安と真の自己の実現につながる道です。
一方、प्रेयस् (preyas)は、「より愛しいもの」「より心地よいもの」を意味し、感覚器官を満足させる一時的な快楽や、世俗的な成功を指します。この道は魅力的で、容易に人を惹きつけますが、その喜びは移ろいやすく、結果として魂を輪廻(संसार, saṃsāra)の苦しみにより深く縛りつけることになります。

ヤマの言葉は厳粛です。「ते उभे नानार्थे पुरुषं सिनीतः (te ubhe nānārthe puruṣaṃ sinītaḥ)」—「この二つは、異なる目的をもちながら人を縛る」。ここで使われている動詞सिनीतः (sinītaḥ)(縛る)は、極めて示唆に富んでいます。善の道も快楽の道も、どちらも抗いがたい力で人を引きつけ、その道へと「縛りつける」のです。しかし、その束縛の性質は天と地ほどに異なります。プレーヤスの道が、欲望と執着の鎖で人を現象世界に縛りつけるのに対し、シュレーヤスの道は、いわば自己をより高次の真理へと結びつける「聖なる束縛」です。それは最終的に、あらゆる束縛からの完全な自由へと至るための道程となります。

詩の結びは、それぞれの選択がもたらす必然的な帰結を、冷徹な対比をもって示します。シュレーヤスを選ぶ者には「साधु भवति (sādhu bhavati)」—「幸いがある」。この「幸い」とは、物質的な繁栄や一時的な幸福ではなく、魂の根源的な平安と成就を意味します。対照的に、プレーヤスを選ぶ者は「हीयते अर्थाद् (hīyate arthād)」—「真の目的から離れ落ちる」のです。この「अर्थ (artha)」とは、単なる目標ではなく、人間存在の究極の目的、すなわち真我の自覚という最高の価値を指します。「離れ落ちる(हीयते, hīyate)」という言葉には、道を逸れるだけでなく、自らの本質的な尊厳から堕落していくという、深刻な響きが込められています。

この一節は、ナチケータの選択が単なる若さゆえの理想主義ではなく、存在の深淵を見通した、最も賢明な決断であったことを証明しています。そしてそれは、時代を超えて、真理を求めるすべての魂に対し、人生という岐路でどちらの道を選ぶべきかを厳かに問いかけているのです。

第1篇 第2章 第2節

श्रेयश्च प्रेयश्च मनुष्यमेतः
तौ सम्परीत्य विविनक्ति धीरः ।
श्रेयो हि धीरोऽभि प्रेयसो वृणीते
प्रेयो मन्दो योगक्षेमाद्वृणीते ॥ १.२.२॥
śreyaśca preyaśca manuṣyametaḥ
tau samparītya vivinakti dhīraḥ |
śreyo hi dhīro'bhi preyaso vṛṇīte
preyo mando yogakṣemādvṛṇīte || 1.2.2||
善きものと快きものは、人のもとを訪れる。
智者はこれらを深く省察し、二つを分かつ。
まことに智者は、快きものにまさりて善きものを選ぶ。
愚者は、身の安泰と利得のために快きものを選ぶ。

逐語訳:

  • श्रेयः च (śreyaḥ ca) - そして善きものが(śreyas 中性単数主格 + ca 接続詞)
  • प्रेयः च (preyaḥ ca) - そして快きものが(preyas 中性単数主格 + ca 接続詞)
  • मनुष्यम् एतः (manuṣyam etaḥ) - 人のもとを訪れる(manuṣyam「人を」対格 + etaḥ √इ i「行く、訪れる」の現在3人称双数)
  • तौ (tau) - その二つを(指示代名詞 tad、中性双数対格)
  • सम्परीत्य (samparītya) - つぶさに吟味して、深く省察して(sam-pari-√i「周囲を巡り見る」の絶対分詞)
  • विविनक्ति (vivinakti) - 識別する、明確に分ける(vi-√vic「分ける」の現在3人称単数)
  • धीरः (dhīraḥ) - 智者は(dhīra「賢明で不動の者」の男性単数主格)
  • श्रेयः (śreyaḥ) - 善きものを(中性単数対格)
  • हि (hi) - まさに、確かに(強調の不変化詞)
  • धीरः (dhīraḥ) - 智者は(男性単数主格)
  • अभि (abhi) - 〜にまさって、〜を超えて(前置詞。奪格と共に用いられ比較を示す)
  • प्रेयसः (preyasaḥ) - 快きものよりも(preyas の中性単数奪格)
  • वृणीते (vṛṇīte) - 選ぶ(√वृ vṛ「選ぶ」の現在3人称単数アートマネーパダ)
  • प्रेयः (preyaḥ) - 快きものを(中性単数対格)
  • मन्दः (mandaḥ) - 愚者は(manda「鈍い者、愚かな者」の男性単数主格)
  • योगक्षेमात् (yogakṣemāt) - 獲得と保持のために(yoga-kṣema「獲得と保持」の複合語、単数奪格。「~という理由から」の意)
  • वृणीते (vṛṇīte) - 選ぶ(√वृ vṛ「選ぶ」の現在3人称単数アートマネーパダ)

解説:
前節で提示された「善の道(श्रेयस्, śreyas)」と「快楽の道(प्रेयस्, preyas)」という二つの根源的な選択肢について、この詩節は、人間がそれにどのように向き合うかという内面的なドラマを鮮やかに描き出します。ヤマの教えは、普遍的な法則から、個人の内なる識別知へと焦点を移します。

まず、「श्रेयश्च प्रेयश्च मनुष्यमेतः (śreyaśca preyaśca manuṣyametaḥ)」—「善きものと快きものは、人のもとを訪れる」という言葉は、この選択が誰にとっても避けられない、人生における普遍的な経験であることを示しています。これらの道は、私たちが探し求めるものではなく、向こうから私たちの人生に絶えず訪れてくるのです。

この必然的な訪問に対し、人間は二つの異なる応答を示します。その分岐点を決定するのが、धीरः (dhīraḥ)「智者」とमन्दः (mandaḥ)「愚者」の対比です。

धीरः (dhīraḥ)とは、単に知性が高い人ではありません。この言葉は、「堅固な」「不動の」という意味を持ち、感情や欲望の嵐に揺さぶられない、精神的な安定と明晰な智慧を兼ね備えた人物像を指します。智者は、「तौ सम्परीत्य विविनक्ति (tau samparītya vivinakti)」—「これらを深く省察し、二つを分かつ」のです。सम्परीत्य (samparītya)という言葉は、物事の表面をなぞるのではなく、その本質をあらゆる角度から吟味し尽くす、周到な精神の働きを表します。この識別知(विवेक, viveka)によって、智者は一時的な魅力の奥に潜む、それぞれの道の真の価値と行き着く先を見抜きます。そしてその結果、彼は「प्रेयसोऽभि श्रेयः वृणीते (preyaso'bhi śreyo vṛṇīte)」—「快きものにまさりて善きものを選ぶ」という、主体的な決断を下します。

一方、मन्दः (mandaḥ)とは、「鈍い」「遅鈍な」という意味合いを持つ言葉です。これは、精神的な感受性が鈍く、物事の深奥にある真実を見通す力に欠ける状態を指します。彼が選択の基準とするのは「योगक्षेमात् (yogakṣemāt)」—「獲得と保持のため」です。このयोगक्षेम (yogakṣema)という言葉は、古代インドの価値観を象徴します。「योग (yoga)」は未だ手に入れていない富や地位などを獲得すること、「क्षेम (kṣema)」は既に手に入れたものを失わないように保持することです。つまり、愚者は目先の利得と、それを失うことへの恐れという、この世的な不安と欲望に突き動かされて、短絡的に快楽の道を選び取ってしまうのです。

この詩節は、第一のヴァッリーでナチケータが体現した行動の哲学的裏付けとなっています。ヤマが提示した富、権力、長寿という、योगक्षेम (yogakṣema)の全てを彼は退けました。彼はまさに、現象の奥にある本質を識別する「智者(धीरः, dhīraḥ)」として、永続する善(श्रेयस्, śreyas)を選び取ったのです。このヤマの言葉は、ナチケータの選択が単なる若者の理想主義ではなく、宇宙の理法に適った最も賢明な決断であったことを称賛し、証明しています。そしてそれは、時代を超え、すべての探求者に対し、自らの選択の動機を深く省察するよう静かに促しているのです。

第1篇 第2章 第3節

स त्वं प्रियान्प्रियरूपांश्च कामान्
अभिध्यायन्नचिकेतोऽत्यस्राक्षीः ।
नैतां सृङ्कां वित्तमयीमवाप्तो
यस्यां मज्जन्ति बहवो मनुष्याः ॥ १.२.३॥
sa tvaṃ priyānpriyarūpāṃśca kāmān
abhidhyāyannaciketo'tyasrākṣīḥ |
naitāṃ sṛṅkāṃ vittamayīmavāpto
yasyāṃ majjanti bahavo manuṣyāḥ || 1.2.3||
その汝は、ナチケータよ、愛しきもの、そして魅力的な姿の欲望の数々を
熟慮の末に、完全に手放した。
多くの人々が溺れ沈む、この財宝の鎖を
汝は手にすることはなかったのだ。

逐語訳:

  • सः त्वम् (saḥ tvam) - その(ような賢明な)汝は。(saḥは指示代名詞「その」の男性単数主格。前節のधीरः「智者」を受けて、ナチケータを称賛するニュアンスを持つ。tvamは「汝」)
  • प्रियान् (priyān) - 愛しいものを。(priya「愛しい、心地よい」の男性複数対格)
  • प्रियरूपान् च (priyarūpān ca) - そして魅力的な姿をしたものを。(priya-rūpa「愛しい姿」の複合語、男性複数対格。caは「そして」)
  • कामान् (kāmān) - 欲望の対象を。(kāma「欲望、願望」の男性複数対格)
  • अभिध्यायन् (abhidhyāyan) - 深く熟慮して、省察して。(abhi-√dhyai「深く熟慮する」の現在分詞、男性単数主格)
  • नचिकेतः (naciketaḥ) - ナチケータよ。(naciketasの男性単数呼格)
  • अत्यस्राक्षीः (atyasrākṣīḥ) - 完全に捨て去った、手放した。(ati- (超えて) + √sṛj (放つ、捨てる) のアオリスト(過去形)2人称単数)
  • न एताम् (na etām) - この〜を〜ない。(naは否定詞。etāmは「この」の女性単数対格)
  • सृङ्काम् (sṛṅkām) - 鎖を、道筋を。(sṛṅkā「鎖、道筋、連鎖」の女性単数対格)
  • वित्तमयीम् (vittamayīm) - 財宝でできた、富に満ちた。(vitta-mayī「財宝で構成された」の女性単数対格)
  • अवाप्तः (avāptaḥ) - 得た者ではなかった。(ava-√āp「得る」の過去受動分詞。主語tvamと同格で、asi「である」の省略を伴う)
  • यस्याम् (yasyām) - その中に。(関係代名詞yadの女性単数処格)
  • मज्जन्ति (majjanti) - 沈む、溺れる。(√majj「沈む」の現在3人称複数)
  • बहवः (bahavaḥ) - 多くの。(bahu「多い」の男性複数主格)
  • मनुष्याः (manuṣyāḥ) - 人々は。(manuṣya「人」の男性複数主格)

解説:
この詩節において、死の王ヤマの教えは、普遍的な真理の宣告から、目の前の求道者ナチケータへの温かく、そして力強い賞賛へと転じます。前節で説かれた「智者(धीरः, dhīraḥ)」の理想的な姿が、今、ナチケータ自身の具体的な行動のうちに完璧に体現されていることを、ヤマは高らかに宣言するのです。

स त्वम् (sa tvam)」—「その汝は」という冒頭の言葉は、単なる呼びかけではありません。それは、前節の「快楽よりも善を選び取る智者」の姿を直接指し示し、「まさしくその智者こそ、汝なのだ」と肯定する、深い敬意のこもった言葉です。ヤマは、ナチケータが提示された魅惑的な欲望(प्रियान् प्रियरूपान् कामान्, priyān priyarūpān kāmān)—すなわち、天女や長寿、富や権力—に対して、いかに向き合ったかを詳述します。ナチケータは、それらを衝動的に拒絶したのではありません。彼は「अभिध्यायन् (abhidhyāyan)」—「深く熟慮」したのです。この言葉は、前節で智者の徳性として挙げられた「सम्परीत्य (samparītya)」(つぶさに吟味する)という精神の働きと、美しく呼応しています。彼は、一時的な喜びの背後にあるはかなさと苦しみを見抜き、その本質を識別した上で、意識的に「अत्यस्राक्षीः (atyasrākṣīḥ)」—「完全に手放した」のです。

詩の後半は、プレーヤス(快楽)の道の恐ろしさを、鮮烈な比喩をもって描き出します。それは「सृङ्कां वित्तमयीम् (sṛṅkāṃ vittamayīm)」—「財宝でできた鎖」です。सृङ्का (sṛṅkā)という言葉には「道筋」や「連鎖」という意味もありますが、ここでは「鎖」と訳すのが最も適切でしょう。なぜなら、富への執着は、人をより高次の次元へと導く道ではなく、魂を現象世界に縛りつけ、その自由を奪う強力な束縛となるからです。वित्तमयी (vittamayī)という言葉は、その鎖が「財宝そのものでできている」ことを示し、富と執着が分かちがたく結びついた状態を暗示します。

そして、この恐ろしい鎖の行く末が語られます。「यस्यां मज्जन्ति बहवो मनुष्याः (yasyāṃ majjanti bahavo manuṣyāḥ)」—「その中に多くの人々が溺れ沈む」。मज्जन्ति (majjanti)という動詞は、ただ沈むのではなく、抗うこともできずに溺れ、息絶えていく絶望的な状況を描写します。これは、富の追求がもたらす精神的な死を象徴しています。「多くの人々」という言葉は、この道がいかにありふれた、そして抗いがたい誘惑であるかを示唆しています。

しかし、ナチケータはその凡庸な人々の轍を踏みませんでした。彼はこの財宝の鎖を「न अवाप्तः (na avāptaḥ)」—「手にすることはなかった」のです。彼は、その鎖に触れることさえ拒みました。これは、彼が単に物質的な富を軽蔑したということではありません。彼が拒否したのは、富への「執着」という、魂を束縛する構造そのものだったのです。

このヤマの賞賛の言葉は、ナチケータが至高の教えを受け取るにふさわしい器であることを最終的に認める、厳粛な認定の儀式でもあります。そしてそれは、物質的豊かさを至上の価値とする現代社会に生きる私たち一人ひとりに対し、真の富とは所有の多さではなく、執着からの自由にあるのだという、永遠の真理を静かに、しかし力強く語りかけているのです。

第1篇 第2章 第4節

दूरमेते विपरीते विषूची
अविद्या या च विद्येति ज्ञाता ।
विद्याभीप्सिनं नचिकेतसं मन्ये
न त्वा कामा बहवोऽलोलुपन्त ॥ १.२.४॥
dūramete viparīte viṣūcī
avidyā yā ca vidyeti jñātā |
vidyābhīpsinaṃ naciketasaṃ manye
na tvā kāmā bahavo'lolupanta || 1.2.4||
これら二つは遠く隔たり、互いに背を向け、別々の方向へと至る道—
無明として知られるものと、智慧として知られるものとが。
智慧を切に求める者、ナチケータよ、私は汝をそう見なす。
多くの欲望も、汝をかき乱し、誘惑することはなかったのだ。

逐語訳:

  • दूरम् (dūram) - 遠く離れて、本質的に異なって。(副詞)
  • एते (ete) - これら二つは。(指示代名詞 etad、中性双数主格)
  • विपरीते (viparīte) - 相反する、正反対の。(形容詞、中性双数主格)
  • विषूची (viṣūcī) - 異なる方向へと分岐する。(形容詞、中性双数主格)
  • अविद्या (avidyā) - 無明、形而上学的な無知。(女性単数主格)
  • या च विद्या इति ज्ञाता (yā ca vidyā iti jñātā) - そして智慧として知られているもの。( 関係代名詞「〜であるもの」+ ca「そして」+ vidyā「智慧」+ iti「〜として」+ jñātā「知られている」)
  • विद्याभीप्सिनम् (vidyābhīpsinam) - 智慧を切に求める者を。(vidyā「智慧」+ abhīpsin「切望する者」の複合語、男性単数対格)
  • नचिकेतसम् (naciketasam) - ナチケータを。(naciketas の男性単数対格)
  • मन्ये (manye) - 私は思う、みなす、認定する。(√मन् man「思う、考える」の現在1人称単数)
  • न (na) - 〜ない。(否定詞)
  • त्वा (tvā) - 汝を。(人称代名詞 yuṣmad、2人称単数対格)
  • कामाः (kāmāḥ) - 欲望の数々は。(kāma「欲望」の男性複数主格)
  • बहवः (bahavaḥ) - 多くの。(bahu「多い」の男性複数主格)
  • अलोलुपन्त (alolupanta) - 激しくかき乱さなかった、執拗に誘惑しなかった。(√लुप् lup「かき乱す、誘惑する」の強意形 lolup- の未完了過去3人称複数)

解説:
この詩節において、ヤマの教えはさらにその深淵を明らかにします。前節まで「プレーヤス(快楽の道)」と「シュレーヤス(善の道)」という実践的な価値の対立として語られていたものが、ここでは「アヴィディヤー(अविद्या, avidyā)無明」と「ヴィディヤー(विद्या, vidyā)智慧」という、より根源的な認識論の対立として再定義されます。これは、人の行動選択が、その世界認識の在り方そのものに根差していることを示す、ウパニシャッド哲学の核心的な洞察です。

詩の冒頭「दूरमेते विपरीते विषूची (dūramete viparīte viṣūcī)」は、この二つの道の絶対的な隔絶性を、三つの力強い言葉で描き出します。दूरम् (dūram)は、それらが本質的に異次元のものであることを、विपरीते (viparīte)は、それらが互いに正反対の性質を持つことを、そしてविषूची (viṣūcī)は、その進む先が決して交わることなく分岐していくことを示します。快楽の道(プレーヤス)は、अविद्या (avidyā)、すなわち「無明」に根差しています。これは、移ろいゆく現象世界を実在と錯覚し、自己を肉体や心と同一視する、根本的な迷妄です。一方、善の道(シュレーヤス)は、विद्या (vidyā)、すなわち「智慧」から生まれます。これは、現象の背後にある不変の実在を洞察し、自己の本質が永遠のアートマン(真我)であると直観する叡智です。

この普遍的な真理を説いた後、ヤマの眼差しは再びナチケータへと注がれます。「विद्याभीप्सिनं नचिकेतसं मन्ये (vidyābhīpsinaṃ naciketasaṃ manye)」—「智慧を切に求める者、ナチケータよ、私は汝をそう見なす」。このमन्ये (manye)という言葉は、単なる感想ではありません。それは、死の王であり、究極の師であるヤマが、ナチケータを至高の教えを受け取るにふさわしい求道者として正式に「認定する」という、重みのある宣言です。विद्याभीप्सिन् (vidyābhīpsin)とは、文字通り「智慧を切に求める者」であり、一時的な快楽への関心を完全に捨て去り、ただ真理への渇望のみに生きる魂への、最高の敬称です。

ヤマがそう認定する根拠は、詩の結びに示されます。「न त्वा कामा बहवोऽलोलुपन्त (na tvā kāmā bahavo'lolupanta)」—「多くの欲望も、汝をかき乱し、誘惑することはなかったのだ」。ここで使われている動詞अलोलुपन्त (alolupanta)は、√लुप् (lup)の強意形に由来し、欲望がいかに執拗に、そして激しく人の心をかき乱し、その判断力を奪うかという強いニュアンスを含んでいます。しかし、ヤマが提示した富や長寿、官能的な喜びといった「多くの欲望」は、ナチケータの堅固な精神を揺るがすことができませんでした。

この詩節は、ナチケータの選択が、अविद्या (avidyā)の闇を退け、विद्या (vidyā)の光を選び取った、真の智慧の現れであったことを証明しています。そしてそれは、時代を超えて、真理を探究するすべての者に対し、道の入り口に立つための第一の資格が、欲望の激しい誘惑に打ち克つ不動の精神と、智慧への純粋でひたむきな渇望であることを、厳かに示しているのです。

第1篇 第2章 第5節

अविद्यायामन्तरे वर्तमानाः
स्वयं धीराः पण्डितंमन्यमानाः ।
दन्द्रम्यमाणाः परियन्ति मूढा
अन्धेनैव नीयमाना यथान्धाः ॥ १.२.५॥
avidyāyāmantare vartamānāḥ
svayaṃ dhīrāḥ paṇḍitaṃmanyamānāḥ |
dandramyamāṇāḥ pariyanti mūḍhā
andhenaiva nīyamānā yathāndhāḥ || 1.2.5||
無明のただ中にありながら、
自らを智者、賢者と思いなす者ら。
かの愚か者らは、よろめきつつ彷徨う、
あたかも盲人に導かれる盲人のごとく。

逐語訳:

  • अविद्यायाम् अन्तरे (avidyāyām antare) - 無明のただ中に(avidyā「無明」の女性単数処格 + antare「中に、内側に」)
  • वर्तमानाः (vartamānāḥ) - 存在しながら(√वृत् vṛt「存在する、とどまる」の現在分詞、男性複数主格)
  • स्वयम् (svayam) - 自らを、自分自身を(不変化詞)
  • धीराः (dhīrāḥ) - 智者であると(dhīra「智者、賢明で不動の者」の男性複数主格。manyamānāḥと文法的に同格)
  • पण्डितंमन्यमानाः (paṇḍitaṃmanyamānāḥ) - 賢者であると思い込んでいる者たち(paṇḍitam-manyamāna「自分を賢者と思う」の複合語。現在分詞、男性複数主格)
  • दन्द्रम्यमाणाः (dandramyamāṇāḥ) - 激しくよろめきながら(√द्रम् dram「行く、歩く」の強意形現在分詞。あてどなく、曲がりくねって進む様を表す)
  • परियन्ति (pariyanti) - さまよい歩く、歩き回る(pari-√i「周囲を行く」の現在3人称複数)
  • मूढाः (mūḍhāḥ) - 愚か者らは(mūḍha「迷妄に陥った者、愚者」の男性複数主格)
  • अन्धेन एव (andhena eva) - まさに盲人によって(andha「盲人」の男性単数具格 + eva 強調の不変化詞)
  • नीयमानाः (nīyamānāḥ) - 導かれながら(√नी 「導く」の現在受動分詞、男性複数主格)
  • यथा (yathā) - 〜のごとく(比較の不変化詞)
  • अन्धाः (andhāḥ) - 盲人たちが(andha「盲人」の男性複数主格)

解説:
前節において、ヤマは智慧(विद्या, vidyā)の道をひたむきに求めるナチケータを最高の求道者として称えました。そこから一転してこの詩節では、「無明(अविद्या, avidyā)」の道を歩む者たちの悲劇的な肖像が、鋭い観察眼と深い憐憫をもって描き出されます。これは、智慧の光と無明の闇という二つの世界の隔絶を、より鮮烈な対比によって示すための、見事な詩的構成です。

अविद्यायामन्तरे वर्तमानाः (avidyāyāmantare vartamānāḥ)」—「無明のただ中にありながら」という冒頭の句は、彼らが真理から隔絶された状態にありながら、その自覚すらないという根源的な問題を示しています。無明の最も恐ろしい特質は、当人にはそれが闇として認識されないことです。

さらに痛烈な皮肉が、「स्वयं धीराः पण्डितंमन्यमानाः (svayaṃ dhīrāḥ paṇḍitammanyamānāḥ)」—「自らを智者、賢者と思いなす者ら」という一節に凝縮されています。前節でヤマがナチケータの資質を称えるために用いた最高の敬称、धीर (dhīra, 不動の智者) や पण्डित (paṇḍita, 賢者) が、ここでは自己欺瞞の道具として登場するのです。彼らは、世俗的な知識や情報の集積を「智慧」と錯覚しています。真の自己を知る叡智である विद्या (vidyā) からは最も遠い場所にいながら、その傲慢さゆえに自らを賢者と僭称(せんしょう)しているのです。

このような偽りの智慧がもたらす結末は、必然的に破滅的です。「दन्द्रम्यमाणाः परियन्ति मूढाः (dandramyamāṇāḥ pariyanti mūḍhāḥ)」—「愚か者らは、よろめきつつ彷徨う」。ここで用いられる दन्द्रम्यमाणाः (dandramyamāṇāḥ) という強意形の動詞は、その反復する響き自体が、目的を見失い、曲がりくねった道を不安定な足取りで進む様子を音響的にも描き出します。真理という不動の基盤を持たない彼らの精神と行動は、必然的に混乱し、さまようことになるのです。

この悲劇的な情景は、古代インドの諸宗教で繰り返し用いられる、痛烈な比喩によって頂点を迎えます。「अन्धेनैव नीयमाना यथान्धाः (andhenaiva nīyamānā yathāndhāḥ)」—「あたかも盲人に導かれる盲人のごとく」。ここで語られる盲目とは、肉体的な視力の欠如ではなく、真実を観る智慧の眼(ज्ञानचक्षुस्, jñānacakṣus)を失った精神的な盲目です。真理を見失った師が、同じく盲目な弟子たちを導く時、その集団が共に破滅の淵へと転落していくのは避けられません。これは個人の迷妄を超え、偽りの教えが社会に蔓延する危険性への普遍的な警告として、今なお深い意味を持ち続けています。

この詩節は、単なる他者への批判として読まれるべきではありません。それは、真理を探究するすべての人に向けられた、内省のための鏡です。自らが持つ知識は、真の自己へと至る道を照らす灯火となっているのか、それとも自己満足と傲慢という無明の闇をさらに深めるものとなっていないか。ヤマの言葉は、その厳しい問いを、私たち一人ひとりに静かに、しかし鋭く投げかけているのです。

第1篇 第2章 第6節

न साम्परायः प्रतिभाति बालं
प्रमाद्यन्तं वित्तमोहेन मूढम् ।
अयं लोको नास्ति पर इति मानी
पुनः पुनर्वशमापद्यते मे ॥ १.२.६॥
na sāmparāyaḥ pratibhāti bālaṃ
pramādyantaṃ vittamohena mūḍham |
ayaṃ loko nāsti para iti mānī
punaḥ punarvaśamāpadyate me || 1.2.6||
彼岸への道は、未熟な者には明らかにならない。
富の迷妄に囚われ、分別を失った者には。
「この世の他に世界はない」と信じ込む者は、
再び、そして再び、我が支配へと陥るのだ。

逐語訳:

  • न (na) - 〜ない(否定詞)
  • साम्परायः (sāmparāyaḥ) - 彼岸への道、来世、死後の旅路が。(sāmparāyaの男性単数主格)
  • प्रतिभाति (pratibhāti) - 明らかになる、輝き現れる。(prati-√bhā「輝く、現れる」の現在3人称単数)
  • बालम् (bālam) - 子供のように未熟な者に、分別のない者に。(bāla「子供、未熟な者」の男性単数対格)
  • प्रमाद्यन्तम् (pramādyantam) - 不注意になっている、分別を失っている者に。(pra-√mad「不注意である、怠る」の現在分詞、男性単数対格)
  • वित्तमोहेन (vittamohena) - 富の迷妄によって。(vitta-moha「富への迷妄」の複合語、男性単数具格)
  • मूढम् (mūḍham) - 惑わされた者に。(√muh「迷う」の過去受動分詞、男性単数対格)
  • अयम् लोकः (ayam lokaḥ) - この世界。(ayam「この」、lokaḥ「世界」)
  • न अस्ति (na asti) - 存在しない。
  • परः (paraḥ) - 彼方のもの、他の世界は。(para「他の、彼方の」の男性単数主格)
  • इति (iti) - 〜と。(引用を示す不変化詞)
  • मानी (mānī) - 頑なに信じ込んでいる者は。(√man「思う」から派生した行為者名詞、男性単数主格)
  • पुनः पुनः (punaḥ punaḥ) - 再び、そして再び。何度も。(副詞の反復)
  • वशम् (vaśam) - 支配下に、意のままに。(vaśa「支配、力」の男性単数対格)
  • आपद्यते (āpadyate) - 陥る、至る。(ā-√pad「至る、陥る」の現在3人称単数中動態)
  • मे (me) - 私の。(一人称単数代名詞madの属格。語り手である死の王ヤマを指す)

解説:
前節が「盲人に導かれる盲人」という比喩を用いて、偽りの教えが社会的に広まる悲劇を描いたのに対し、この詩節は、その根本原因である個人の内面に深く分け入り、その心理状態を死の王ヤマ自身の視点から冷徹に分析します。ここに描かれるのは、古代のみならず、物質主義が席巻する現代においても極めて普遍的な、唯物論的世界観に囚われた魂の肖像です。

詩の冒頭、「साम्परायः (sāmparāyaḥ)」という言葉は、単に死後の世界を指すものではありません。それは「彼岸への道」「究極の目的地」「この世を超えた真実在の領域」といった、より広大で深遠な意味を内包しています。この彼岸の真理は、प्रतिभाति (pratibhāti) —「輝き現れる」もの、すなわち内的な光として直観されるべきものですが、ある種の人々にはその光が届きません。

では、なぜ彼らの内なる眼は閉ざされてしまうのでしょうか。ヤマはその原因を三つの言葉で示します。第一にबालम् (bālam)、すなわち精神的な「未熟さ」です。これは知性の問題ではなく、物事の本質を見抜く分別心や識別能力の欠如を指します。第二にवित्तमोहेन मूढम् (vittamohena mūḍham)、「富の迷妄に囚われている」ことです。富への執着が単なる欲望を超えて、世界を正しく認識する能力を歪め、精神を深い迷妄 (मोह, moha) の中に沈めてしまうのです。そして第三にप्रमाद्यन्तम् (pramādyantam)、真理に対する「不注意・怠慢」です。このप्रमाद (pramāda) は、ヨーガ哲学において霊的探求の大きな障害とされる心の状態であり、富や快楽に心を奪われるあまり、本当に大切なものへの注意を怠ってしまう精神の弛緩を意味します。

この内的な盲目がもたらす必然的な結論が、「अयं लोको नास्ति पर इति मानी (ayaṃ loko nāsti para iti mānī)」—「この世の他に世界はない、と信じ込む」という唯物論的な断定です。मानी (mānī) という言葉には、単に思うだけでなく、頑固に、そしてしばしば傲慢に信じ込むという強い響きがあります。彼らは自らの感覚器官が捉える物質世界こそが唯一の現実であると固く信じ、魂の不滅性や霊的な次元の存在を根拠なく否定するのです。

この詩節の結びは、ヤマ自身が語ることで、宇宙の法則そのものの厳粛な宣告として響きます。「पुनः पुनर्वशमापद्यते मे (punaḥ punarvaśamāpadyate me)」—「再び、そして再び、我が支配へと陥るのだ」。पुनः पुनः (punaḥ punaḥ) の反復は、生と死を際限なく繰り返す輪廻の輪の絶望的な運動を描写します。そして、ヤマが「我が支配 (वशम् मे, vaśam me)」と言う時、それは単なる死の恐怖を意味するのではありません。彼自身が人格化した死と再生の法則、すなわちカルマと輪廻のサイクルの支配下に、その魂が永遠に捕らわれ続けることを示しているのです。彼らは死を超える智慧 (विद्या, vidyā) に背を向けたがゆえに、死の王の永続的な支配から逃れる術を持たないのです。

ヤマのこの言葉は、私たち一人ひとりの生き方を鋭く問うています。目に見える成功や富の追求に心を奪われるあまり、私たちは生命のより深い意味や、彼岸に存在するはずの永遠の光に対して「不注意」になっていないでしょうか。この詩節は、物質的な豊かさを超えた真の価値に目覚めなければ、魂は永遠に死の支配下で彷徨い続けるという、慈悲深くも厳しい警告を私たちに投げかけているのです。

第1篇 第2章 第7節

श्रवणायापि बहुभिर्यो न लभ्यः
श‍ृण्वन्तोऽपि बहवो यं न विद्युः ।
आश्चर्यो वक्ता कुशलोऽस्य लब्धा
आश्चर्यो ज्ञाता कुशलानुशिष्टः ॥ १.२.७॥
śravaṇāyāpi bahubhiryo na labhyaḥ
śṛṇvanto'pi bahavo yaṃ na vidyuḥ |
āścaryo vaktā kuśalo'sya labdhā
āścaryo jñātā kuśalānuśiṣṭaḥ || 1.2.7||
その教えは、多くの者が聞く機会さえ得られず、
たとえ聞いても、多くの者はそれを識ることがない。
稀有なるかな、その語り手。そして巧みなるかな、その会得者。
稀有なるかな、その識者—巧みに教えを受けし者。

逐語訳:

  • श्रवणाय अपि (śravaṇāya api) - 聞く機会さえも。(śravaṇa「聞くこと」の与格 + api「〜さえも」)
  • बहुभिः (bahubhiḥ) - 多くの者たちによって。(bahu「多い」の男性複数具格)
  • यः (yaḥ) - (関係代名詞)それ(アートマン)は。
  • न लभ्यः (na labhyaḥ) - 得られない。(na「否定」 + labhyaḥ「得られるべき、得ることが可能な」)
  • श‍ृण्वन्तः अपि (śṛṇvantaḥ api) - 聞いていながらも。(śṛṇvant「聞いている」の男性複数主格 + api
  • बहवः (bahavaḥ) - 多くの者たちは。(bahuの男性複数主格)
  • यम् (yam) - (関係代名詞)それを。
  • न विद्युः (na vidyuḥ) - 知ることはないであろう。(√विद् vid「知る」の願望法3人称複数。稀少性や可能性の低さを強調する)
  • आश्चर्यः (āścaryaḥ) - 驚くべき、稀有な。(形容詞、男性単数主格)
  • वक्ता (vaktā) - 語る者、師。(√वच् vac「語る」の行為者名詞、男性単数主格)
  • कुशलः (kuśalaḥ) - 巧みな者、熟達した者。(形容詞、男性単数主格)
  • अस्य (asya) - これの、その(教え)の。(代名詞 idamの男性単数属格)
  • लब्धा (labdhā) - 会得者、得る者。(√लभ् labh「得る」の行為者名詞、男性単数主格)
  • ज्ञाता (jñātā) - 知る者、識者。(√ज्ञा jñā「知る」の行為者名詞、男性単数主格)
  • कुशलानुशिष्टः (kuśalānuśiṣṭaḥ) - 巧みに教えを受けた者。(kuśala「巧みに」+ anuśiṣṭaḥ「教えられた」の複合語、男性単数主格)

解説:
前節において、死の王ヤマは「この世の他に世界はない」と信じる唯物論者の魂が、永遠に死の支配下で輪廻を繰り返す悲劇を語りました。その傲慢な無知とは対照的に、この詩節は、その輪廻を断ち切る究極の真理(アートマンの知識)がいかに得難く、稀有なものであるかを、深い驚嘆の念をもって謳い上げます。

詩は、真理への道がいかに険しいかを、二段階の困難さとして示します。まず「श्रवणायापि बहुभिर्यो न लभ्यः (śravaṇāyāpi bahubhiryo na labhyaḥ)」—「多くの者が聞く機会さえ得られない」。ヴェーダーンタの伝統において、真理は師から弟子へと口伝で授けられる神聖な教え、श्रवण (śravaṇa) を通じて明かされます。しかし、真の師に出会い、その教えを授かるという機会そのものが、そもそも奇跡的なほど稀なのです。

さらに、たとえ幸運にも教えを聞く機会を得たとしても、「श‍ृण्वन्तोऽपि बहवो यं न विद्युः (śṛṇvanto'pi bahavo yaṃ na vidyuḥ)」—「多くの者はそれを識ることがない」。ここに、単なる情報としての「知識」と、自己の変容を伴う「叡智」との間の、決定的な隔たりが示されています。アートマンの真理は、知性で分析する対象ではなく、全存在をかけて直観されるべきものです。多くの者は、言葉の表面をなぞるだけで、その奥にある深遠な意味を体得するには至りません。

この絶望的とも思える状況の中で、ヤマは三つの「驚くべき (आश्चर्य, āścarya)」存在、すなわち奇跡的な存在を讃えます。

第一に「आश्चर्यो वक्ता (āścaryo vaktā)」—稀有なるかな、その語り手。真理を語る師が稀有なのは、単に博識だからではありません。自らが真理と一つになり、その言葉では表現し得ない境地を、言葉を巧みに用いて弟子の心に響かせることができる、その霊的な技芸のゆえです。

第二に「कुशलोऽस्य लब्धा (kuśalo'sya labdhā)」—巧みなるかな、その会得者。真理を受け取る弟子もまた、ただ者であってはなりません。師の言葉の背後にある沈黙の真実を感じ取る純粋な心、世俗の欲望から解放された精神、そして教えを自らの内で成熟させる「巧みさ (कुशलता, kuśalatā)」が求められます。

そして最後に、この二つの奇跡が結実した姿が謳われます。「आश्चर्यो ज्ञाता कुशलानुशिष्टः (āścaryo jñātā kuśalānuśiṣṭaḥ)」—稀有なるかな、その識者、巧みに教えを受けし者。真に真理を「識る者 (ज्ञाता, jñātā)」とは、必ず「巧みに教えを受けた者 (कुशलानुशिष्ट, kuśalānuśiṣṭaḥ)」なのです。これは、アートマンの叡智が、思弁や独学によってではなく、神聖な師弟関係という奇跡的な出会いを通してのみ開花するという、ウパニシャッドの揺るぎない信念を表明しています。

この詩節は、知識の伝達という行為に宿る、ほとんど奇跡に近い神聖性を私たちに教えてくれます。そして、まさにこの稀有な出会いが、今、死の王ヤマと純粋な求道者ナチケータの間で起ころうとしているのです。この詩節は、これから明かされるであろう至高の教えの序曲として、その価値の計り知れない尊さを、読者の心に深く刻みつけるのです。

第1篇 第2章 第8節

न नरेणावरेण प्रोक्त एष
सुविज्ञेयो बहुधा चिन्त्यमानः ।
अनन्यप्रोक्ते गतिरत्र नास्ति
अणीयान् ह्यतर्क्यमणुप्रमाणात् ॥ १.२.८॥
na nareṇāvareṇa prokta eṣa
suvijñeyo bahudhā cintyamānaḥ |
ananyaprokte gatiratra nāsti
aṇīyān hyatarkyamaṇupramāṇāt || 1.2.8||
この真理は、未熟な者によって説かれたならば、
たとえ様々に思索されようとも、到底よく理解されるものではない。
真理と一つになった師によって説かれなければ、ここに至る道はない。
それは原子よりも微細にして、思惟の及ばぬものなれば。

逐語訳:

  • न (na) - 〜ではない(否定詞)
  • नरेण अवरेण (nareṇa avareṇa) - 未熟な人間によって(nara「人間」の単数具格 + avara「劣った、未熟な」の単数具格)
  • प्रोक्तः (proktaḥ) - 説かれた(pra-√vac「語る、説く」の過去受動分詞、男性単数主格)
  • एषः (eṣaḥ) - これ(アートマン)は(代名詞 etad の男性単数主格)
  • सुविज्ञेयः (suvijñeyaḥ) - 容易に理解できる(su-vijñeya の男性単数主格。ここではnaと呼応し、「容易には理解できない」の意)
  • बहुधा (bahudhā) - 多くの方法で、様々に(副詞)
  • चिन्त्यमानः (cintyamānaḥ) - 思索されながらも(√cint「思考する」の現在受動分詞、男性単数主格)
  • अनन्यप्रोक्ते (ananyaprokte) - (真理と)別ならざる者によって説かれた場合でなければ。(an-anya-prokte「他ならぬ者によって説かれた時に」の処格。文脈上、これ以外の方法はないことを強く示唆する)
  • गतिः (gatiḥ) - 道、理解、境地(女性単数主格)
  • अत्र (atra) - ここに、この(真理への道)には(副詞)
  • न अस्ति (na asti) - 存在しない。
  • अणीयान् (aṇīyān) - より微細である(aṇu「微細な」の比較級、男性単数主格)
  • हि (hi) - なぜなら、実に(理由・強調を示す不変化詞)
  • अतर्क्यम् (atarkyam) - 論理的推論を超えたもの(形容詞 a-tarkyaの中性単数主格)
  • अणुप्रमाणात् (aṇupramāṇāt) - 原子という尺度よりも(aṇu-pramāṇa「原子の尺度」の単数奪格)

解説:
前節で、真理を語る師とそれを会得する弟子の出会いが、いかに奇跡的であるかが讃えられました。この詩節は、その理由を哲学的に深く掘り下げ、究極の真理であるアートマンの超越的な性質と、それを伝えるための絶対的な条件を明らかにします。

詩の前半は、なぜ誰もが師にはなれないのかを説きます。「न नरेणावरेण प्रोक्त एष सुविज्ञेयो (na nareṇāvareṇa prokta eṣa suvijñeyo)」—「この真理は、未熟な者によって説かれたならば、到底よく理解されるものではない」。ここで言う「未熟な者(अवर, avara)」とは、単に知識が少ない者を指すのではありません。アートマンを自らの実体として直接体験していない、霊的に未熟な段階にあるすべての者を指します。そのような者が、書物や伝聞から得た知識をどれだけ流暢に語ったとしても、それは真理の生きた響きを欠いた、単なる情報の伝達に過ぎません。その言葉は、聞く者の心を真に変容させる力を持たないのです。

さらに「बहुधा चिन्त्यमानः (bahudhā cintyamānaḥ)」—「たとえ様々に思索されようとも」という句が、この真理が知的探求の限界を超えていることを示唆します。哲学的な分析や論理的な思弁は、真理への道を準備する上で助けにはなるかもしれませんが、それ自体がゴールに到達する手段ではありません。アートマンは思考の対象ではなく、思考そのものを照らし出す根源的な意識だからです。

そして、この詩は真理に至る唯一の道を、厳格な言葉で断定します。「अनन्यप्रोक्ते गतिरत्र नास्ति (ananyaprokte gatiratra nāsti)」—「真理と一つになった師によって説かれなければ、ここに至る道はない」。अनन्य (ananya) とは「他ならぬ、別でない」という意味です。これは、師がアートマンと完全に一体化しており、自らの存在を通して真理を顕現している状態でなければならないことを示します。師は真理の「解説者」ではなく、真理の「体現者」なのです。そのような師の言葉だけが、弟子の内なる真理を呼び覚まし、輪廻の苦しみから解脱へと至る道(गति, gati)を開くことができるのです。

詩の結びは、なぜそのような師が必要なのか、その根本理由を真理自体の性質に求めています。「अणीयान् ह्यतर्क्यमणुप्रमाणात् (aṇīyān hyatarkyamaṇupramāṇāt)」—「それは原子よりも微細にして、思惟の及ばぬものなれば」。アートマンは、物質世界の最小単位である原子(अणु, aṇu)よりも微細であると言われます。これは、それが物質的な次元を超えた、非客体的な実在であることを象徴しています。それはあまりにも微細であるため、感覚器官や科学的な測定器で捉えることはできません。そして、अतर्क्यम् (atarkyam) —「思惟の及ばぬもの」とは、それが私たちの論理的思考の枠組み、すなわち主観と客観という二元的な認識構造では決して把握できないことを意味します。

この詩節は、真理の探求における知的傲慢への強力な警告です。同時に、アートマンという超越的な真理の尊厳と、それを指し示すことができる真の師(グル)の絶対的な重要性を、荘厳に宣言しているのです。死の王ヤマ自身が、まさにこのअनन्य (ananya)の師として、ナチケータの前に立っている。この事実が、これから始まる対話に計り知れない重みを与えています。

第1篇 第2章 第9節

नैषा तर्केण मतिरापनेया
प्रोक्तान्येनैव सुज्ञानाय प्रेष्ठ ।
यां त्वमापः सत्यधृतिर्बतासि
त्वादृङ्नो भूयान्नचिकेतः प्रष्टा ॥ १.२.९॥

naiṣā tarkeṇa matirāpaneyā
proktānyenaiva sujñānāya preṣṭha |
yāṃ tvamāpaḥ satyadhṛtirbatāsi
tvādṛṅno bhūyānnaciketaḥ praṣṭā || 1.2.9||

この智慧は、論理によって得られるものではない。
愛しき者よ、真理を知る他者によって説かれてこそ、それは深く理解されるのだ。
そなたはその境地に至った。おお、真実を固く守る者よ。
ナチケータよ、そなたのような問い求める者が、常に我らのもとに現れんことを。

逐語訳:

  • न एषा (na eṣā) - この(智慧)は〜ではない。(na「否定詞」 + eṣā「この」代名詞etadの女性単数主格)
  • तर्केण (tarkeṇa) - 論理、推論によって。(tarka「論理」の男性単数具格)
  • मतिः (matiḥ) - 智慧、理解。(mati「智慧」の女性単数主格)
  • आपनेया (āpaneyā) - 得られるべき、到達可能な。(āpanīyaの女性単数主格)
  • प्रोक्ता (proktā) - 説かれたならば。(pra-√vac「説く」の過去受動分詞、matiḥに呼応し女性単数主格)
  • अन्येन एव (anyena eva) - (真理を知る)他の者によってのみ。(anya「他の」の男性単数具格 + eva「〜のみ」)
  • सुज्ञानाय (sujñānāya) - 深く正しく知るために。(su-jñāna「善き知識」の与格)
  • प्रेष्ठ (preṣṭha) - 最も愛しき者よ。(preṣṭha「最愛の」の男性単数呼格)
  • याम् (yām) - その(智慧)を。(関係代名詞yadの女性単数対格)
  • त्वम् (tvam) - そなたは。
  • आपः (āpaḥ) - 到達した、得た。(√आप् āp「得る」の完了2人称単数、āpithaの古形)
  • सत्यधृतिः (satyadhṛtiḥ) - 真実を確固として保持する者。(satya「真実」+dhṛti「保持、決意」の複合語、男性単数主格)
  • बत (bata) - ああ、実に。(感嘆を表す不変化詞)
  • असि (asi) - (そなたは)〜である。(√अस् as「ある」の現在2人称単数)
  • त्वादृक् (tvādṛk) - そなたのような。(形容詞)
  • नः (naḥ) - 我らに、我らのもとに。(一人称複数代名詞asmadの与格)
  • भूयात् (bhūyāt) - あらんことを、現れんことを。(√भू bhū「ある、なる」の願望法3人称単数)
  • नचिकेतः (naciketaḥ) - ナチケータよ。(男性単数呼格)
  • प्रष्टा (praṣṭā) - 問い求める者。(praṣṭṛ「問う者」の男性単数主格)

解説:
これまでの厳しい警告の調子から一転し、この詩節では、死の王ヤマの口から、一人の少年に対する深い感動と惜しみない讃辞が溢れ出します。宇宙の法則を司る神が、純粋な求道者に敬愛を捧げるこの劇的な場面は、ナチケータの魂の気高さがいかに稀有であるかを感動的に伝えます。

冒頭の「नैषा तर्केण मतिरापनेया (naiṣā tarkeṇa matirāpaneyā)」は、前節までの教えを総括するものです。アートマンに関する究極の智慧 (मति, mati) は、人間の論理的思考 (तर्क, tarka) の網では決して捉えられないと、ヤマは断言します。論理は、主観と客観という二元論の世界で機能しますが、アートマンはその二元性を生み出す根源であり、思考の「対象」ではなく、思考する意識そのものを照らす光だからです。

そこでヤマは、真理に至る唯一の道を示します。「प्रोक्तान्येनैव सुज्ञानाय प्रेष्ठ (proktānyenaiva sujñānāya preṣṭha)」—「愛しき者よ、真理を知る他者によって説かれてこそ、それは深く理解されるのだ」。ここで言う「他の者 (अन्य, anya)」とは、前節の「真理と別ならざる者 (अनन्य, ananya)」を指します。すなわち、アートマンを自らの本質として完全に体現した師のことです。師は真理への地図を示す案内人ではなく、真理そのものが発する生きた光なのです。そのような師の言葉だけが、弟子の内なる智慧を呼び覚ます力を持ちます。ヤマがナチケータを「प्रेष्ठ (preṣṭha)」—「最愛の者よ」と呼びかける時、そこには真理の探求という最も神聖な営みの中で結ばれる、師と弟子の間の深い霊的な慈愛がこめられています。

詩の後半は、ナチケータ個人への率直な賞賛へと移ります。「यां त्वमापः सत्यधृतिर्बतासि (yāṃ tvamāpaḥ satyadhṛtirbatāsi)」—「そなたはその境地に至った。おお、真実を固く守る者よ」。ヤマは、ナチケータがただ智慧を求めているだけでなく、既にその入り口に到達していることを見抜いています。そして、彼を「सत्यधृति (satyadhṛti)」—「真実を確固として保持する者」と讃えます。このधृति (dhṛti)は、単なる知的信念ではなく、「不動の決意」を意味します。ナチケータは、ヤマが与えようとした富や長寿といったこの世の快楽 (प्रेयस्, preyas) を全て退け、永遠の善 (श्रेयस्, śreyas) のみを求めました。彼のसत्यधृतिは、この具体的な選択と実践によって証明された、揺るぎない力なのです。बत (bata)という感嘆詞は、死の王でさえも心を揺さぶられるほどの、ナチケータの精神的偉大さへの驚きと喜びを表しています。

そして詩は、ヤマの心からの願いで締めくくられます。「त्वादृङ्नो भूयान्नचिकेतः प्रष्टा (tvādṛṅno bhūyānnaciketaḥ praṣṭā)」—「ナチケータよ、そなたのような問い求める者が、常に我らのもとに現れんことを」。ヤマは、死と輪廻の法則の執行者であると同時に、そこからの解脱を教える真理の伝承者でもあります。彼のこの願いは、輪廻のサイクルを管理する神自身が、そのサイクルを打ち破る力を持つ真の「問い求める者 (प्रष्टा, praṣṭā)」の出現を心から待ち望んでいる、という深遠な慈悲を示しています。それは、この神聖な教えの灯火が、世代を超えて受け継がれていくことを願う、グル(師)の祈りそのものなのです。この詩節は、ナチケータがその教えを受け取るにふさわしい器であることをヤマが認め、これから始まる究極の秘儀の序幕が、荘厳に開かれる瞬間を告げています。

第1篇 第2章 第10節

जानाम्यहं शेवधिरित्यनित्यं
न ह्यध्रुवैः प्राप्यते हि ध्रुवं तत् ।
ततो मया नाचिकेतश्चितोऽग्निः
अनित्यैर्द्रव्यैः प्राप्तवानस्मि नित्यम् ॥ १.२.१०॥
jānāmyahaṃ śevadhirityanityam
na hyadhruvaiḥ prāpyate hi dhruvaṃ tat |
tato mayā nāciketaścito'gniḥ
anityairdravyaiḥ prāptavānasmi nityam || 1.2.10||
我は知る、世に宝と呼ばれるものは無常であることを。
実に、移ろいゆくものによって、不動なるものは得られぬ。
さればこそ我は、ナーチケータの火を熾し、
はかなき供物をもって、永続するものを得たのである。

逐語訳:

  • जानामि अहम् (jānāmi aham) - 私は知る。(√ज्ञा jñā「知る」の現在1人称単数 + aham「私は」)
  • शेवधिः इति अनित्यम् (śevadhiḥ iti anityam) - 宝とは無常なものであると。(śevadhiḥ「宝、財産」+ iti「〜と」+ anityam「無常な」)
  • न हि (na hi) - 実に〜ない、決して〜ない。(否定詞 na + 強調の不変化詞 hi
  • अध्रुवैः (adhruvaiḥ) - 移ろいゆくものによって、永続しないものによって。(a-dhruva「永続しない」の複数具格)
  • प्राप्यते (prāpyate) - 得られる。(pra-√āp「得る」の受動態現在3人称単数)
  • हि (hi) - 実に。(強調の不変化詞)
  • ध्रुवम् तत् (dhruvam tat) - その不動なるもの、その永遠なるもの。(dhruvam「不動の、永続する」+ tat「それ」)
  • ततः (tataḥ) - それゆえに、その認識に基づいて。(副詞)
  • मया (mayā) - 私によって。(一人称代名詞 asmad の単数具格)
  • नाचिकेतः चितः अग्निः (nāciketaḥ citaḥ agniḥ) - ナーチケータの火が熾された。(nāciketaḥ agniḥ「ナーチケータの火」+ citaḥ「積まれた、熾された」√चि ciの過去受動分詞)
  • अनित्यैः द्रव्यैः (anityaiḥ dravyaiḥ) - はかない物質によって、無常の供物によって。(anitya「無常の」+ dravya「物質、要素」の複数具格)
  • प्राप्तवान् अस्मि (prāptavān asmi) - 私は得た。(prāptavān「得た者」、過去能動分詞 + asmi「私は〜である」)
  • नित्यम् (nityam) - 永続するもの(相対的な永続性を指す)。(形容詞 nitya「永続する」の中性単数対格)

解説:
前節でナチケータの純粋な求道心を心から讃えたヤマ神は、この詩節で一転して、自らの体験を通じて得た深遠な洞察を明かします。それは、カルマ(行為)とその結果の法則を司る神自身の告白であり、行為の世界の可能性とその限界を示すものです。

詩の前半で、ヤマは霊的探求における根本的な法則を宣言します。「जानाम्यहं शेवधिरित्यनित्यम् (jānāmyahaṃ śevadhirityanityam)」—「我は知る、世に宝と呼ばれるものは無常であることを」。富や名声といった世俗的な価値 (शेवधि, śevadhi) が、すべて移ろいゆく (अनित्य, anitya) ものであることを、彼は熟知しています。続けて「न ह्यध्रुवैः प्राप्यते हि ध्रुवं तत् (na hyadhruvaiḥ prāpyate hi dhruvaṃ tat)」—「実に、移ろいゆくものによって、不動なるものは得られぬ」と語ります。これは、原因と結果の本質は一致しなければならないという鉄則です。はかなく変化する手段 (अध्रुव, adhruva) によって、永遠不変の実在 (ध्रुव, dhruva)、すなわちアートマンの境地に至ることはできないのです。

この厳然たる法則を述べた上で、ヤマは自らの驚くべき行為を告白します。「ततो मया नाचिकेतश्चितोऽग्निः (tato mayā nāciketaścito'gniḥ)」—「さればこそ我は、ナーチケータの火を熾し」。この「さればこそ (ततः, tataḥ)」という言葉が重要です。ヤマは、まさしく先の法則を熟知していたからこそ、この行為を選んだのです。彼は「ナーチケータの火」という神聖な祭祀を行いました。そして、その結果を「अनित्यैर्द्रव्यैः प्राप्तवानस्मि नित्यम् (anityairdravyaiḥ prāptavānasmi nityam)」—「はかなき供物をもって、永続するものを得たのである」と語ります。

一見すると、これは先の法則と矛盾するように思えます。「はかなき供物 (अनित्यैः द्रव्यैः, anityaiḥ dravyaiḥ)」という無常の手段で、「永続するもの (नित्यम्, nityam)」を得た、と語っているからです。しかし、ここにウパニシャッドの巧みな思想が隠されています。ヤマが得た「永続するもの (नित्यम्, nityam)」とは、ナチケータが求める究極の「不動なるもの (ध्रुवम्, dhruvam)」とは異なります。それは、死を超えた神々の世界における地位や喜び、すなわち「相対的な永続性」を指すのです。

ヤマの告白の真意はこうです。「私は、無常の行為によっては絶対的な永遠は得られないと知っていた。だからこそ、無常の行為である祭祀によって、それに相応しい結果、すなわち相対的な永続性である神の地位を得たのだ」。彼はカルマの法則の支配者として、その法則の限界を知り尽くした上で、その枠内で得られる最高の結果を手にしたのです。

この告白は、ナチケータがした選択の正しさを、ヤマ自身の経験をもって裏付ける、この上ない賛辞となっています。ナチケータは、このヤマが得た天界の喜びさえも一時的なものとして退け、究極の真理のみを求めました。ヤマは、自らが歩んだ「行為の道」の到達点を示し、それすらも超越しようとするナチケータの探求がいかに尊いものであるかを、静かに、しかし力強く肯定しているのです。この詩節は、これから明かされる叡智の道が、あらゆる行為とその結果を超越した境地へと続くことを示唆する、重要な序曲となっています。

第1篇 第2章 第11節

कामस्याप्तिं जगतः प्रतिष्ठां
क्रतोरानन्त्यमभयस्य पारम् ।
स्तोममहदुरुगायं प्रतिष्ठां दृष्ट्वा
धृत्या धीरो नचिकेतोऽत्यस्राक्षीः ॥ १.२.११॥
kāmasyāptiṃ jagataḥ pratiṣṭhāṃ
kratorānantyamabhayasya pāram |
stomamahadurugāyaṃ pratiṣṭhāṃ dṛṣṭvā
dhṛtyā dhīro naciketo'tyasrākṣīḥ || 1.2.11||
欲望の成就、世界の礎、
祭祀の果てなき功徳、恐れなき境地の彼岸、
そして讃えられ、広く求められる偉大なる境地、そのすべてを見極めながらも、
賢きナチケータは、不動の決意をもって、それらをことごとく捨て去った。

逐語訳:

  • कामस्य आप्तिम् (kāmasya āptim) - 欲望の成就を(kāma「欲望」の属格 + āpti「獲得、成就」の対格)
  • जगतः प्रतिष्ठाम् (jagataḥ pratiṣṭhām) - 世界の基盤を、安住の地を(jagat「世界」の属格 + pratiṣṭhā「基盤、地位」の対格)
  • क्रतोः आनन्त्यम् (kratoḥ ānantyam) - 祭祀行為の無限の果報を(kratu「祭祀、行為」の属格 + ānantya「無限性」の対格)
  • अभयस्य पारम् (abhayasya pāram) - 恐れなき境地の彼岸を(abhaya「無怖」の属格 + pāra「彼岸、究極」の対格)
  • स्तोमम् महत् उरुगायम् प्रतिष्ठाम् (stomam mahat urugāyam pratiṣṭhām) - 偉大なる讃嘆と、広く求められる境地を(stoma「讃嘆」+ mahat「偉大な」+ urugāya「広く歩まれる、広く讃えられる」+ pratiṣṭhā「基盤、境地」のそれぞれの対格)
  • दृष्ट्वा (dṛṣṭvā) - 見極めて、知り尽くして(√दृश् dṛś「見る」の絶対分詞)
  • धृत्या (dhṛtyā) - 不動の決意をもって(dhṛti「決意、不動心」の具格)
  • धीरः (dhīraḥ) - 賢き者は(dhīra「賢者、智者」の男性単数主格)
  • नचिकेतः (naciketaḥ) - ナチケータは(男性単数主格)
  • अत्यस्राक्षीः (atyasrākṣīḥ) - 完全に手放した、捨て去った(ati-√sṛj「超えて放つ」の完了形。ここでは古形として3人称単数の意味で用いられる)

解説:
前節でヤマ神は、自らが「行為の道」によって相対的な永続性を得た体験を語りました。この詩節では、そのヤマ自身の到達点すらも超越するナチケータの選択がいかに偉大であったかを、感動を込めて詳述します。これは、ナチケータが退けたものの価値を列挙することで、彼の求めているものの崇高さを際立たせる、劇的な讃辞です。

ヤマは、人間が、あるいは神々さえもが希求するであろう価値のすべてを挙げます。
第一に「कामस्याप्ति (kāmasyāpti)」—個人的な欲望の完全なる成就。
第二に「जगतः प्रतिष्ठा (jagataḥ pratiṣṭhā)」—世界の礎となるほどの、揺るぎない社会的地位と権力。
第三に「क्रतोरानन्त्य (kratorānantya)」—祭祀という宗教的行為によって得られる、無限とも思える天界での幸福と功徳。これはまさしく、前節でヤマ自身が得た「永続するもの (नित्यम्, nityam)」に他なりません。
第四に「अभयस्य पार (abhayasya pāra)」—あらゆる恐れを超越した、究極の心理的安寧。
そして最後に「स्तोममहदुरुगायं प्रतिष्ठा (stomamahadurugāyaṃ pratiṣṭhā)」—これは、輪廻のサイクルの中で到達しうる最高の境地、すなわち宇宙の創造主ブラフマー(ヒラニヤガルバ)の地位を象徴します。そこは、すべての存在から讃えられ、広く求められる偉大な境地です。

これらは、ヤマがナチケータに提示した「快楽の道 (प्रेयस्, preyas)」に含まれる、あらゆる価値の頂点を網羅しています。ナチケータが退けたのは、単なる地上の富や長寿ではありませんでした。彼は、天界の喜び、心理的な安らぎの極致、そして宇宙を司る神の地位さえも、究極の真理の前でははかないものとして見なしたのです。

この放棄がいかに偉大であるかは、「दृष्ट्वा (dṛṣṭvā)」という一語に凝縮されています。彼はこれらの価値の魅力を知らないのではありません。その輝きと甘美さを知り尽くし、同時にその限界をも見極めた「智慧」の眼で、これらを見つめたのです。そして、「धृत्या (dhṛtyā)」—その智慧に裏打ちされた「不動の決意」をもって、それらをことごとく捨て去りました。この行為こそが、彼を単なる問い求める者から、真の「賢者 (धीर, dhīra)」へと昇華させたのです。

ヤマのこの言葉は、師から弟子への最大の敬意の表明です。彼は、ナチケータが自らの内なる智慧によってすでに「善の道 (श्रेयस्, śreyas)」を選び取っていることを確認し、その純粋で強靭な魂を心から讃えます。この徹底した放棄によって、ナチケータの心は、これから明かされる最も深遠な真理を受け取るための、清らかで曇りのない器となりました。この讃辞は、いよいよ始まるアートマンの秘儀への荘厳な序曲であり、真理の探求とは「得る」ことではなく「手放す」ことから始まるという、永遠の法則を私たちに示しています。

第1篇 第2章 第12節

तं दुर्दर्शं गूढमनुप्रविष्टं
गुहाहितं गह्वरेष्ठं पुराणम् ।
अध्यात्मयोगाधिगमेन देवं
मत्वा धीरो हर्षशोकौ जहाति ॥ १.२.१२॥
taṃ durdarśaṃ gūḍhamanupraviṣṭaṃ
guhāhitaṃ gahvareṣṭhaṃ purāṇam |
adhyātmayogādhigamena devaṃ
matvā dhīro harṣaśokau jahāti || 1.2.12||
かの見る極めて難きもの、深奥に隠れ入り、
心の洞窟に潜み、太古より存在するものを、
内なるヨーガの道によって、輝ける実在として悟り、
賢者は喜びと悲しみをともに捨て去る。

逐語訳:

  • तम् (tam) - それを。(アートマンを指す。指示代名詞tadの男性単数対格)
  • दुर्दर्शम् (durdarśam) - 見ることが困難なものを。(dur「困難」+ darśa「見る」の複合語)
  • गूढम् (gūḍham) - 隠されたものを、秘められたものを。(√गुह् guh「隠す」の過去受動分詞)
  • अनुप्रविष्टम् (anupraviṣṭam) - (万物の中に)深く入り込んでいるものを。(anu-pra-√viś「後から入る、遍く入る」の過去受動分詞)
  • गुहाहितम् (guhāhitam) - (理性の)洞窟に置かれたものを。(guhā「洞窟」+ hita「置かれた」)
  • गह्वरेष्ठम् (gahvareṣṭham) - 深淵に住まうものを。(gahvara「深淵、難所」+ ṣṭha「住まう」)
  • पुराणम् (purāṇam) - 太古より存在するものを、原初なるものを。(形容詞)
  • अध्यात्म-योग-अधिगमेन (adhyātma-yoga-adhigamena) - 内なる自己に関するヨーガの獲得によって。(adhyātma「アートマンに関する」+yoga「ヨーガ」+adhigama「獲得」の具格)
  • देवम् (devam) - 輝けるものを、神なるものを。(deva「輝く者、神」の対格)
  • मत्वा (matvā) - 悟って、認識して。(√मन् man「考える、知る」の絶対分詞)
  • धीरः (dhīraḥ) - 賢者は。(dhīra「賢者、智者」の男性単数主格)
  • हर्षशोकौ (harṣaśokau) - 喜びと悲しみを。(harṣa「喜び」+ śoka「悲しみ」の複合語、双数対格)
  • जहाति (jahāti) - 捨て去る、放棄する。(√हा 「放棄する」の現在3人称単数)

解説:
前節でヤマ神は、ナチケータが世俗的な価値から天界の喜びまで、あらゆるものを捨て去ったその偉大さを讃えました。この詩節では、そのナチケータが真に求めているもの、すなわちアートマンの本質と、それに至る道、そしてその到達点が、初めて具体的に明かされます。

詩の前半は、アートマンがいかに捉え難い存在であるかを、幾重にも重なる美しい言葉で描き出します。まず「दुर्दर्शं (durdarśaṃ)」—見ることが極めて困難なもの。アートマンは、目や耳といった感覚器官の対象ではなく、思考の客体でもありません。それは見る主体、聞く主体そのものであるため、通常の認識方法では決して捉えることができないのです。それは「गूढम् (gūḍham)」、つまり深く秘められています。そして、万物の中に「अनुप्रविष्टम् (anupraviṣṭam)」—遍く入り込み、私たちの存在の「गुहा (guhā)」—理性の洞窟に、あるいは存在の「गह्वरे (gahvare)」—最も深い深淵に潜んでいます。これらの表現は、アートマンがどこか遠くにあるのではなく、すでに私たちの最も内なる核心に存在していることを示唆します。最後に「पुराणम् (purāṇam)」—太古より存在する、と結ばれることで、その時間と空間を超越した永遠性が明らかにされます。

では、このように捉え難い実在を、どうすれば知ることができるのでしょうか。ヤマ神はその唯一の道を「अध्यात्मयोगाधिगमेन (adhyātmayogādhigamena)」—内なるヨーガの道によって、と示します。「अध्यात्म (adhyātma)」とは「アートマン(真我)に関する」という意味です。つまり、これは外的な儀式や哲学的な思弁ではなく、自らの意識を内側へと向け、自己の本質を探求する瞑想的な実践を指します。このヨーガを通じて、探求者はアートマンを「देवम् (devam)」—輝ける実在として「मत्वा (matvā)」—直覚的に悟るのです。このदेव (deva)は、語源的に「輝く」という意味を持ちます。アートマンを悟るとは、自らの本性が光り輝く純粋な意識そのものであると体得することなのです。

その悟りの結果、何が起こるのでしょうか。詩は「धीरो हर्षशोकौ जहाति (dhīro harṣaśokau jahāti)」—賢者は喜びと悲しみをともに捨て去る、と結びます。ここで注目すべきは、喜びと悲しみという対立する一対を意味する双数形「हर्षशोकौ (harṣaśokau)」が用いられている点です。アートマンの境地は、喜びを最大化し、悲しみをなくすといった相対的な心の状態ではありません。それは、喜びと悲しみという二元的な対立を生み出す源泉である「私」という個の意識そのものが超越された、絶対的な平安の境地です。賢者 (धीर, dhīra) は、感情の波に揺さぶられることなく、その波が生まれる静かな大海そのものとして存在します。

この詩節は、ナチケータの求めた「善の道 (श्रेयस्, śreyas)」の究極の目標を初めて指し示し、外なる世界への執着を捨て去ることによってのみ、内なる永遠の輝きに至ることができるという、霊的探求の普遍的な真理を荘厳に歌い上げています。

第1篇 第2章 第13節

एतच्छ्रुत्वा सम्परिगृह्य मर्त्यः
प्रवृह्य धर्म्यमणुमेतमाप्य ।
स मोदते मोदनीयँ हि लब्ध्वा
विवृतँ सद्म नचिकेतसं मन्ये ॥ १.२.१३॥
etacchrutvā samparigṛhya martyaḥ
pravṛhya dharmyamaṇumetamāpya |
sa modate modanīyaṃ hi labdhvā
vivṛtaṃ sadma naciketasaṃ manye || 1.2.13||
この教えを聞き、深く心に受け容れた人間は、
法なる微細な実在を(万象から)選び取り、これに到達し、
まこと歓喜すべきものを得たがゆえに、歓喜に満たされる。
我は思う、ナチケータには、解脱の館が開かれたと。

逐語訳:

  • एतत् (etat) - これを。(前節のアートマンに関する教えを指す)
  • श्रुत्वा (śrutvā) - 聞いて。(√श्रु śru「聞く」の絶対分詞)
  • सम्परिगृह्य (samparigṛhya) - 完全に把握して、深く受け容れて。(sam-pari-√grah「完全に掴む」の絶対分詞)
  • मर्त्यः (martyaḥ) - 死すべき者、人間。(男性単数主格)
  • प्रवृह्य (pravṛhya) - (非我から)選び出して、分離して。(pra-√vṛh「引き抜く、分離する」の絶対分詞)
  • धर्म्यम् (dharmyam) - 法に適ったもの、存在の法そのものであるもの。(形容詞、対格)
  • अणुम् एतम् (aṇum etam) - この微細なるものを。(aṇu「微細な」+ etam「これを」の対格)
  • आप्य (āpya) - 到達して、獲得して。(pra-√āp「得る」の絶対分詞)
  • सः (saḥ) - その人は。
  • मोदते (modate) - 歓喜する、喜びにひたる。(√मुद् mud「喜ぶ」の中動態現在3人称単数)
  • मोदनीयम् (modanīyam) - 喜ぶべきもの、歓喜の源泉。(√मुद् mud の未来受動分詞)
  • हि (hi) - 実に。(強調の不変化詞)
  • लब्ध्वा (labdhvā) - 得て、獲得して。(√लभ् labh「得る」の絶対分詞)
  • विवृतम् (vivṛtam) - 開かれた、開け放たれた。(vi-√vṛ「開く」の過去受動分詞)
  • सद्म (sadma) - 館、住まい、聖域。(中性単数対格)
  • नचिकेतसम् (naciketasam) - ナチケータにとって、ナチケータのために。(形容詞、対格。意味的には与格に近い)
  • मन्ये (manye) - 私は思う、私は確信する。(√मन् man「思う」の中動態現在1人称単数)

解説:
前節でヤマ神は、アートマンの捉え難い本質と、それを悟った賢者の境地を荘厳に語りました。この詩節では、その深遠な教えが探求者にもたらす変容のプロセスと、その輝かしい結果が描かれます。そして、ヤマ神はナチケータがまさにその境地に達したことを認め、祝福します。

詩の前半は、霊的探求がたどるべき内的な道筋を、凝縮された動詞の連なりによって見事に描き出しています。

  1. श्रुत्वा (śrutvā) - 聞くこと:これは師から聖なる教えを聞く段階(シュラヴァナ、śravaṇa)に相当します。
  2. सम्परिगृह्य (samparigṛhya) - 深く受け容れること:単なる知的な理解ではなく、教えの真義を熟考し、自らのものとして深く把握する段階(マナナ、manana)です。
  3. प्रवृह्य... आप्य (pravṛhya... āpya) - 選び取り、到達すること:これは瞑想的な実践(ニディディヤーサナ、nididhyāsana)を指します。प्रवृह्य (pravṛhya)とは、移ろいゆく身体や心、感覚といった非アートマンの中から、永遠不変のアートマンを明確に見極める「弁別知(ヴィヴェーカ、viveka)」の働きです。探求者は、この弁別を通じて、万象の根源にある「धर्म्यम् (dharmyam)」—法そのものである微細な実在、すなわちアートマンに「आप्य (āpya)」—到達するのです。

このプロセスを完遂した者に、何がもたらされるのでしょうか。ヤマ神は「स मोदते मोदनीयं हि लब्ध्वा (sa modate modanīyaṃ hi labdhvā)」—その人は、歓喜すべきものを得たがゆえに歓喜に満たされる、と語ります。この「歓喜 (मोदते, modate)」は、前節で「捨て去る」とされた相対的な喜び(हर्ष, harṣa)とは本質的に異なります。これは、喜びと悲しみという二元的な対立を超越した、アートマンの本質である絶対的な至福(アーナンダ、ānanda)です。歓喜の「対象」ではなく、歓喜の「源泉そのもの(मोदनीयम्, modanīyam)」と一体となることで、存在そのものが歓喜に満たされるのです。

そして詩は、ヤマ神からナチケータへの、感動的な宣言で結ばれます。「विवृतं सद्म नचिकेतसं मन्ये (vivṛtaṃ sadma naciketasaṃ manye)」—我は思う、ナチケータには、解脱の館が開かれたと。सद्म (sadma)とは、単なる住まいではなく、魂の聖域、そして「解脱」という究極の目的地を象徴します。その扉が、ナチケータの純粋な求道心によって、今まさに「विवृतम् (vivṛtam)」—開け放たれたのです。死の支配者であり、法(ダルマ)の化身であるヤマ神が、この若き探求者の霊的成熟を認め、その資格を保証するこの言葉は、この上ない重みを持っています。

この詩節は、ナチケータがもはや単に問い求める者ではなく、真理を体得する覚醒の入り口に立ったことを示す、物語の決定的な転換点です。師の祝福を受け、彼の心という館は、これから明かされる最も深遠な真理を受け入れるための、開かれた聖域となったのです。

第1篇 第2章 第14節

अन्यत्र धर्मादन्यत्राधर्मा-
दन्यत्रास्मात्कृताकृतात् ।
अन्यत्र भूताच्च भव्याच्च
यत्तत्पश्यसि तद्वद ॥ १.२.१४॥
anyatra dharmādanyatrādharmā-
danyatrāsmātkṛtākṛtāt |
anyatra bhūtācca bhavyācca
yattatpaśyasi tadvada || 1.2.14||
法を超え、非法を超え、
この為されたものと為されざるもの(因果)を超え、
過去と未来をも超えて存在する、
あなたがご覧になるその実在を、我に語りたまえ。

逐語訳:

  • अन्यत्र (anyatra) - 〜とは別に、〜を超えて。(副詞)
  • धर्मात् (dharmāt) - 法(ダルマ)から、善行とその結果から。(dharmaの奪格)
  • अन्यत्र (anyatra) - 〜とは別に、〜を超えて。
  • अधर्मात् (adharmāt) - 非法(アダルマ)から、悪行とその結果から。(adharmaの奪格)
  • अन्यत्र (anyatra) - 〜とは別に、〜を超えて。
  • अस्मात् कृताकृतात् (asmāt kṛtākṛtāt) - この、為されたもの(原因)と為されざるもの(結果)から。すなわち因果の法則から。(指示代名詞idamの奪格 + kṛta-akṛta「為・不為」の複合語、奪格)
  • अन्यत्र (anyatra) - 〜とは別に、〜を超えて。
  • भूतात् च भव्यात् च (bhūtācca bhavyācca) - 過去(すでに在ったもの)から、そして未来(これから在るであろうもの)から。(bhūta「過去」の奪格 + ca「と」、bhavya「未来」の奪格 + ca「と」)
  • यत् तत् पश्यसि (yat tat paśyasi) - あなたがそれとして見るものを。(yat 関係代名詞「〜するもの」 + tat 指示代名詞「それ」 + paśyasi あなたは見る(√दृश् dṛś「見る」の現在2人称単数))
  • तत् वद (tad vada) - それを語りたまえ。(tad 指示代名詞「それ」 + vada 語れ(√वद् vad「語る」の命令法2人称単数))

解説:
前節において、死の神ヤマはナチケータの純粋な求道心を讃え、「お前のために解脱の館は開かれた」という最高の祝福を与えました。この言葉に勇気づけられ、自らの問いが正当なものであると確信したナチケータは、いよいよ核心へと迫ります。この詩節は、彼の問いが単なる知的好奇心ではなく、人間の認識の根源的な枠組みそのものを超えようとする、魂の深い渇望から発せられていることを見事に示しています。

ナチケータは、「अन्यत्र (anyatra)」—「〜を超えて」という言葉を力強く四度も繰り返すことで、彼が求めるものが、いかなる相対的な概念にも束縛されない絶対的な実在であることを、すでに深く直観していることを表明します。

第一に、「धर्मात् (dharmāt)」と「अधर्मात् (adharmāt)」—法と非法を超えたもの。これは、善と悪、徳と不徳といった、人間社会や宗教が定める道徳的な二元性を指します。彼が求める真理は、そのような相対的な価値判断が及ばない、清濁併せ呑む源泉そのものです。

第二に、「कृताकृतात् (kṛtākṛtāt)」—為されたものと為されざるものを超えたもの。これは、単なる行為の有無を指すのではありません。「為されたもの (kṛta)」は原因を、「為されざるもの (akṛta)」はその結果を象徴し、合わせて「因果律(カルマの法則)」そのものを意味します。私たちの経験世界はすべて、原因と結果の連鎖によって成り立っています。ナチケータは、この因果の鎖に縛られた世界そのものの彼方にある、自由な実在について問うているのです。

第三に、「भूतात् च भव्यात् च (bhūtācca bhavyācca)」—過去と未来を超えたもの。これは、私たちの意識を絶えず規定し続ける時間という制約を指します。アートマンは過去の記憶や未来への期待といった時間の流れの中に存在するのではなく、時間そのものがその中で生起する「永遠の現在」です。

このように、ナチケータは道徳、因果、時間という、私たちの経験世界を成り立たせる三つの根本的な座標軸をすべて挙げ、それらによって描かれる地図の外にあるものを指し示せと求めているのです。

そして、その問いは「यत्तत्पश्यसि (yat tat paśyasi)」—あなたがご覧になるその実在を、という言葉でヤマに向けられます。ここで使われる「見る (पश्यसि, paśyasi)」という動詞は、肉眼による知覚ではなく、霊的な直観を意味します。ナチケータは、その超越的な実在が哲学的な概念ではなく、ヤマ神によって直接的に「見られている」生きた真実であることを確信しています。だからこそ、彼は「तद्वद (tad vada)」—それを語りたまえ、と力強い命令形で懇願するのです。これは、概念的な説明ではなく、その体験的な知恵を分かち与えてほしいという、魂からの切なる叫びです。

この一節は、真の弟子がいかにして師から深遠な教えを引き出すか、その理想的な姿を描き出しています。完璧に準備され、研ぎ澄まされたこの問いによって、ウパニシャッドの物語は、いよいよ最も奥深いアートマンの秘儀へとその扉を開くのです。

第1篇 第2章 第15節

सर्वे वेदा यत्पदमामनन्ति
तपाꣳसि सर्वाणि च यद्वदन्ति ।
यदिच्छन्तो ब्रह्मचर्यं चरन्ति
तत्ते पदꣳ सङ्ग्रहेण ब्रवीम्योमित्येतत् ॥ १.२.१५॥
sarve vedā yatpadamāmananti
tapāṃsi sarvāṇi ca yadvadanti |
yadicchanto brahmacaryaṃ caranti
tatte padaṃ saṅgraheṇa bravīmyomityetat || 1.2.15||
すべてのヴェーダが宣揚する、かの境地、
すべての苦行が語り示す、かの境地、
それを願い求め、人々が梵行に励む、その境地を、
汝に要約して語ろう——それは「オーム」である。

逐語訳:

  • सर्वे वेदाः (sarve vedāḥ) - すべてのヴェーダが (sarvaḥ, 男性複数主格; vedaḥ, 男性複数主格)
  • यत् पदम् (yat padam) - かの境地を (yat, 関係代名詞, 中性単数対格; padam, 中性単数対格)
  • आमनन्ति (āmananti) - 宣揚する、伝統として伝える (ā-√man, 現在3人称複数)
  • तपांसि सर्वाणि (tapāṃsi sarvāṇi) - すべての苦行が (tapas, 中性複数主格; sarvam, 中性複数主格)
  • च (ca) - そして
  • यत् वदन्ति (yat vadanti) - かの境地を語る (yat, 関係代名詞; vadanti, √vad, 現在3人称複数)
  • यत् इच्छन्तः (yat icchantaḥ) - それを願いながら (yat, 関係代名詞; icchantaḥ, √iṣ, 現在分詞, 男性複数主格)
  • ब्रह्मचर्यं चरन्ति (brahmacaryaṃ caranti) - 梵行を修める (brahmacaryam, 中性単数対格; caranti, √car, 現在3人称複数)
  • तत् ते पदं (tat te padam) - その境地を、汝に (tat, 指示代名詞; te, 2人称単数与格; padam, 中性単数対格)
  • सङ्ग्रहेण (saṅgraheṇa) - 要約して、凝縮して (saṅgrahaḥ, 具格単数)
  • ब्रवीमि (bravīmi) - 私は語ろう (√brū, 現在1人称単数)
  • ओम् इति एतत् (oṃ iti etat) - それは「オーム」である (oṃ; iti, 引用; etat, 指示代名詞, 中性単数主格)

解説:
前節でナチケータは、法と非法、因果律、そして過去と未来という、私たちが世界を認識するための根本的な座標軸そのものを超越した絶対実在について、鋭い問いを発しました。この上なく純粋で、本質を射抜いた問いに対し、死の神ヤマは今、その究極の答えを明かします。その答えは、複雑な哲学理論ではなく、宇宙のすべての真理を内包する一つの聖なる音—「ॐ (oṃ)」として示されます。

この詩節の前半は、霊的探求における三つの偉大な道筋が、すべて同じ一つの目的地「पदम् (padam)」へと収斂していく様を荘厳に描きます。पदम् (padam)とは、「足跡」「道」「場所」そして「到達すべき境地」を意味する多義的な言葉であり、霊的な旅路の究極のゴールを象徴します。

第一に、それは「सर्वे वेदा यत्पदमामनन्ति (sarve vedā yatpadamāmananti)」—すべてのヴェーダが宣揚する境地です。これは、聖典の学習と思索を通じて真理に迫る「知恵の道(ジュニャーナ・ヨーガ)」を指します。古代の聖仙たちが感得し、代々受け継いできた神聖な知識の全体が、この一つの目標を指し示しているのです。

第二に、それは「तपाꣳसि सर्वाणि च यद्वदन्ति (tapāṃsi sarvāṇi ca yadvadanti)」—すべての苦行が語り示す境地です。तपस् (tapas)とは、欲望を制御し、精神を集中させ、内なる炎を燃え立たせる一切の修養を意味します。これは、行為とその結果への執着を手放す「行為の道(カルマ・ヨーガ)」や、心身を制御する「瞑想の道(ラージャ・ヨーガ)」など、あらゆる実践的修行の到達点を示唆します。

第三に、それは「यदिच्छन्तो ब्रह्मचर्यं चरन्ति (yadicchanto brahmacaryaṃ caranti)」—人々が願い求め、梵行に励むその境地です。ब्रह्मचर्यम् (brahmacaryam)とは、単なる禁欲ではなく、「ブラフマン(最高実在)の中を歩む」という語義の通り、生活のすべてを神聖な探求に捧げる生き方を指します。これは、純粋な愛と献身によって神へと至る「信愛の道(バクティ・ヨーガ)」の究極の目的でもあります。

このように、知恵、実践、信愛という人類の霊性のすべての道が、この一つの「पदम् (padam)」に帰結します。そしてヤマ神は「तत्ते पदꣳ सङ्ग्रहेण ब्रवीमि (tatte padaṃ saṅgraheṇa bravīmi)」—その境地を、汝に要約して語ろう、と宣言します。ここでの「सङ्ग्रहेण (saṅgraheṇa)」は、単に「簡潔に」という意味以上に、「すべてを一つに集め、凝縮して」という深い響きを持ちます。無限に広がるヴェーダの教えと無数の修行法、その広大な全体像を、一つの凝縮された本質として提示するのです。

その本質こそが「ओम् इत्येतत् (oṃ ity etat)」—それは「オーム」である、という言葉です。ॐ (oṃ)は、ナチケータが問うた、あらゆる二元性を超えた実在そのものの音による表現(シャブダ・ブラフマン)です。それは、アルファベットでも単語でもなく、存在の根源的な振動です。A-U-Mの三音は、創造・維持・破壊の宇宙のリズム、そして覚醒・夢・熟睡という意識の状態を象徴し、その後に続く深遠な静寂は、それらすべてを超越した第四の純粋意識(トゥリーヤ)を表します。

この詩節は、ナチケータの抽象的な問いに対し、ヤマ神が具体的な体験への道筋を示した、物語の重大な転換点です。聖音ॐ (oṃ)は、究極の真理そのものであると同時に、その真理を自らの内で体感するための、最も強力な実践の道具でもあるのです。

第1篇 第2章 第16節

एतद्ध्येवाक्षरं ब्रह्म एतद्ध्येवाक्षरं परम् ।
एतद्ध्येवाक्षरं ज्ञात्वा यो यदिच्छति तस्य तत् ॥ १.२.१६॥
etaddhyevākṣaraṃ brahma etaddhyevākṣaraṃ param |
etaddhyevākṣaraṃ jñātvā yo yadicchati tasya tat || 1.2.16||
まことに、これこそ不滅の言葉、ブラフマン。
まことに、これこそ至高の不滅の言葉。
この不滅の言葉を真に知る者は、
彼が望むもの、そのすべてが彼のものとなる。

逐語訳:

  • एतत् हि एव (etat hi eva) - まさにこれこそが。(etat「これ」+ hi「実に」+ eva「まさに」の連声(サンディ))
  • अक्षरम् (akṣaram) - 不滅なるもの、音節、言葉。(形容詞/名詞、中性単数主格/対格)
  • ब्रह्म (brahma) - ブラフマン、最高実在、聖なる力。(中性単数主格)
  • परम् (param) - 最高の、至高の。(形容詞、中性単数主格/対格)
  • ज्ञात्वा (jñātvā) - 知って、悟って。(√ज्ञा jñā「知る」の絶対分詞)
  • यः (yaḥ) - (〜である)その人は。(関係代名詞、男性単数主格)
  • यत् इच्छति (yat icchati) - 何を望むか。(yat「何を」+ icchati「望む」)
  • तस्य तत् (tasya tat) - その人のものとなる、それが。(tasya「彼の」+ tat「それは」)

解説:
前節でヤマ神は、ヴェーダの知識、苦行、梵行というあらゆる霊的探求の道が帰結する究極の境地を、聖音「ॐ (oṃ)」として凝縮して示しました。この詩節は、その聖音の本質と、それを体得した者に与えられる果実について、さらに深く、そして力強く説き明かします。

詩は「एतत् हि एव (etat hi eva)」—「まさに、これこそが」という、三つの言葉が一体となった強調表現で始まります。एतत् (etat)「これ」、हि (hi)「実に」、एव (eva)「まさに」という、意味の近い言葉を重ねることで、ヤマ神の言葉には揺るぎない確信と、これから語られる真理の絶対性が込められています。これは単なる哲学的な説明ではなく、宇宙の根本原理を知る者からの、荘厳な宣言です。

その宣言の対象となるのが「अक्षरम् (akṣaram)」です。この言葉は「滅びざるもの、不壊なるもの」を原義とし、ウパニシャッドの文脈では極めて多層的な意味を持ちます。それは「不滅の音節」、特に聖音ॐ (oṃ)を指すと同時に、すべての言葉と知識の源泉である「文字」を意味し、そして究極的には、生滅変化を超越した「不変の実在」そのものを指します。聖音ॐ (oṃ)は、このअक्षरम् (akṣaram)という一つの言葉の中に、音、意味、そして存在の三つの次元を完全に内包しているのです。

ヤマ神はまず、この不滅の言葉が「ब्रह्म (brahma)」—最高実在そのものであると断言します。これはॐ (oṃ)がブラフマンの単なる象徴なのではなく、音として顕現したブラフマン(シャブダ・ブラフマン)であることを示します。続けて、それが「परम् (param)」—至高のものであると強調します。世に無数の言葉や音が存在する中で、ॐ (oṃ)だけが、それらすべてを超越し、根源となる絶対的な地位を占めるのです。

そして詩の後半は、この深遠な知識がもたらす実践的な結果を明らかにします。「ज्ञात्वा (jñātvā)」—「知る」とは、頭で理解することではありません。それは、瞑想を通じて自らの意識をॐ (oṃ)の振動と完全に一つにし、その本質を自己の存在として体験的に悟ることを意味します。この境地に至った者には、「यो यदिच्छति तस्य तत् (yo yadicchati tasya tat)」—彼が望むもの、そのすべてが彼のものとなる、という約束が与えられます。

この言葉は、世俗的な欲望が何でも叶うという魔法の呪文ではありません。ॐ (oṃ)の真理と一体化した人の心からは、利己的な欲望(カーマ、kāma)は消え去ります。その人の願いは、もはや個人的なエゴから発せられるものではなく、宇宙の法(ダルマ、dharma)と調和した、純粋で聖なる意図(サンカルパ、saṅkalpa)となります。そのとき、彼の意志は宇宙の意志と一体化し、その願いが実現することは、あたかも川が海に注ぐように、宇宙それ自体の自然な働きとなるのです。「तस्य तत् (tasya tat)」—「それが彼のものとなる」とは、彼がもはや宇宙の法則に翻弄される客体ではなく、宇宙の創造的な力と一体となった主体そのものになることを示唆しています。

この詩節は、ナチケータが求めた「あらゆる二元性を超えた実在」への、完璧な答えを提示しています。その答えは、ॐ (oṃ)という究極の真理そのものであると同時に、その真理を自らの中に実現するための、最も力強い道でもあるのです。

第1篇 第2章 第17節

एतदालम्बनँ श्रेष्ठमेतदालम्बनं परम् ।
एतदालम्बनं ज्ञात्वा ब्रह्मलोके महीयते ॥ १.२.१७॥
etadālambanaṃ śreṣṭhametadālambanaṃ param |
etadālambanaṃ jñātvā brahmaloke mahīyate || 1.2.17||
これこそは最上の支え、これこそは至高の支え。
この支えを真に識る者は、ブラフマンの世界にて讃えられる。

逐語訳:

  • एतत् आलम्बनम् (etadālambanam) - これこそが支え。(連声形 etad + ālambanam
  • एतत् (etat) - これ(聖音を指す)。(指示代名詞、中性単数主格)
  • आलम्बनम् (ālambanam) - 支え、依り所、瞑想の対象。(名詞、中性単数主格/対格)
  • श्रेष्ठम् (śreṣṭham) - 最上の、最も優れた。(形容詞、中性単数主格/対格)
  • परम् (param) - 至高の、超越した。(形容詞、中性単数主格/対格)
  • ज्ञात्वा (jñātvā) - 識って、体験的に悟って。(√ज्ञा jñā「知る」の絶対分詞)
  • ब्रह्मलोके (brahmaloke) - ブラフマンの世界において、ブラフマンの次元にて。(brahmalokaの処格)
  • महीयते (mahīyate) - 讃えられる、偉大とされる、栄光を得る。(√मह् mah「崇める、偉大とする」の現在受動態3人称単数)

解説:
前節(1.2.16)で、聖音ॐ (oṃ)が不滅の実在(ブラフマン)そのものであり、それを知ることであらゆる願いが成就されるという、その本質が説かれました。この第17節は、その教えをさらに一歩進め、ॐ (oṃ)が私たちの霊的な旅路において、どのような実践的な役割を担うのかを明らかにします。

ここで中心となる言葉は「आलम्बनम् (ālambanam)」—「支え」または「依り所」です。これはヨーガや瞑想の実践において極めて重要な概念です。私たちの心は移ろいやすく、絶えず外界の刺激や内なる想念に流されています。その散漫な心を一つの対象に結びつけ、安定させるための「支え」がālambanamです。それは、呼吸であったり、神の姿であったり、特定の聖句であったりします。ālambanamは、嵐の海で船が流されないように下ろす錨にたとえることができます。

ヤマ神は、この聖音ॐ (oṃ)こそが、数ある「支え」の中で「श्रेष्ठम् (śreṣṭham)」—最上のものであり、かつ「परम् (param)」—至高のものであると、二つの言葉で力強く断言します。この二つの形容詞は、単なる同義語の繰り返しではありません。श्रेष्ठम् (śreṣṭham)は、相対的な世界における「最良の手段」を意味します。つまり、心を統一し、ブラフマンへと向かうための最も優れた道具として、ॐ (oṃ)は他のどんなālambanamよりも優れているということです。一方、परम् (param)は「彼方の」「超越した」という意味を持ち、絶対的な「目標」そのものを指します。これは、ॐ (oṃ)が単なる手段に留まらず、ナチケータが探し求める究極の実在、ブラフマンそのものであることを示しています。このように、聖音ॐ (oṃ)は、目的地へ至るための最上の道であると同時に、その目的地自体でもあるという、類まれな性質を持っているのです。

この二重の性質を持つ「支え」を「ज्ञात्वा (jñātvā)」—体験的に識る(知る)者はどうなるのでしょうか。ヤマ神は「ब्रह्मलोके महीयते (brahmaloke mahīyate)」—ブラフマンの世界にて讃えられる、と答えます。ब्रह्मलोक (brahmaloka)とは、死後に訪れる特定の天界というよりも、ブラフマンという真理が支配する普遍的な存在次元そのものを指します。そして「महीयते (mahīyate)」という言葉は、√मह् (mah)「崇める、偉大にする」から派生しており、「崇敬される」「讃えられる」という意味に加え、「偉大な存在となる」というニュアンスを含んでいます。つまり、ॐ (oṃ)と一体化した人は、個としてのエゴを超え、ブラフマンそのものとして偉大になり、その栄光を体現するのです。それは他者からの賞賛を求めることではなく、その人の存在自体が真理の輝きを放ち、自ずと周囲から尊ばれる境地です。

この詩節は、ॐ (oṃ)という一つの音の中に、霊的探求の出発点(支え)、道程(瞑想)、そして最終的な到達点(ブラフマンとの一体化)のすべてが凝縮されていることを見事に示しています。それは、彷徨える心を繋ぎ止める確かな錨であり、究極の故郷へと導く羅針盤であり、そして帰り着くべき故郷そのものなのです。

第1篇 第2章 第18節

न जायते म्रियते वा विपश्चि-
न्नायं कुतश्चिन्न बभूव कश्चित् ।
अजो नित्यः शाश्वतोऽयं पुराणो
न हन्यते हन्यमाने शरीरे ॥ १.२.१८॥
na jāyate mriyate vā vipaści-
nnāyaṃ kutaścinna babhūva kaścit |
ajo nityaḥ śāśvato'yaṃ purāṇo
na hanyate hanyamāne śarīre || 1.2.18||
かの叡智は生まれず、また死ぬこともない。
これは何処より生じたのではなく、何ものかになったのでもない。
不生、常住、永遠にして、この原初なるものは、
身体が滅ぼされるとき、滅ぼされることはない。

逐語訳:

  • न जायते (na jāyate) - 生まれない(na 否定辞 + √jan, 現在受動態3人称単数)
  • म्रियते (mriyate) - 死ぬ(√mṛ, アートマネーパダ現在3人称単数)
  • वा (vā) - あるいは、また
  • विपश्चित् (vipaścit) - 叡智あるもの、智者、遍知なるもの(名詞/形容詞、男性単数主格)
  • न अयम् (nāyam) - これは〜ない(na + ayam の連声)
  • कुतश्चित् (kutaścit) - どこかから、何らかの原因から(不定副詞)
  • न बभूव (na babhūva) - ならなかった、生じなかった(na + √bhū, 完了3人称単数)
  • कश्चित् (kaścit) - 何かが、誰かが(不定代名詞)
  • अजः (ajaḥ) - 不生の(a-jaḥ、形容詞、男性単数主格)
  • नित्यः (nityaḥ) - 常住の、永遠の(形容詞、男性単数主格)
  • शाश्वतः (śāśvataḥ) - 恒常の、不変の(形容詞、男性単数主格)
  • अयम् (ayam) - これは(指示代名詞、男性単数主格)
  • पुराणः (purāṇaḥ) - 原初の、太古からの(形容詞、男性単数主格)
  • न हन्यते (na hanyate) - 滅ぼされない、害されない(na + √han, 現在受動態3人称単数)
  • हन्यमाने शरीरे (hanyamāne śarīre) - 身体が滅ぼされる時に(絶対処格:śarīra の処格 + √han の現在受動態分詞の処格)

解説:
これまでの詩節で、ヤマ神はナチケータの問いに応え、あらゆる探求の帰結点であり、瞑想の至高の支えとなる聖音ॐ (oṃ)を提示しました。この第18節からは、その聖音ॐ (oṃ)が指し示す究極の実在、すなわちアートマン(真我)の本質そのものが、力強い詩的言語をもって詳細に説かれます。これは、ナチケータが発した「死んだ後、人間はどうなるのか」という根源的な問いに対する、ヤマ神の直接的な答えの始まりです。

詩の冒頭で語られる「विपश्चित् (vipaścit)」は、単なる「賢者」以上の深い意味を持ちます。それは「遍く見る者」「隅々まで照覧するもの」を意味し、あらゆる事象を対象として認識しながら、それ自身は対象化されることのない、純粋な観察者であり、根源的な叡智そのものです。この「かの叡智」こそが、私たちの真の自己、アートマンにほかなりません。

ヤマ神はまず、このアートマンが「न जायते म्रियते वा (na jāyate mriyate vā)」—生まれることも死ぬこともないと断言します。インド哲学では、あらゆる現象的存在は六つの変容(ṣaḍ-bhāva-vikāra)を経るとされます。すなわち、生誕、存在、成長、変容、衰退、そして死滅です。この詩句は、そのサイクルの始点と終点である生と死を明確に否定することで、アートマンが一切の変容を超越した存在であることを示します。

続く「नायं कुतश्चिन्न बभूव कश्चित् (nāyaṃ kutaścinna babhūva kaścit)」は、アートマンがこの世界の因果律を超えていることを明らかにします。アートマンは「何処からか」生じた原因を持つものではなく、また、それ自身が変容して「何ものか」という結果に「なった」のでもありません。それは原因と結果の連鎖の外にある、他に依存しない、自存(svayambhū)の絶対実在なのです。

そして第三句は、四つの力強い形容詞によって、アートマンの性質を積極的に描きます。「अजः (ajaḥ)」は「不生」、नित्यः (nityaḥ)は時間の流れに影響されない「常住」、शाश्वतः (śāśvataḥ)はいかなる変化も受け付けない「永遠・不変」、そしてपुराणः (purāṇaḥ)は時間の始まりをも超えた「原初」の存在であることを示します。これらはすべて、私たちが経験する移ろいゆく世界のあり方とは全く逆の特質です。

この教えの核心的な帰結が、最終句「न हन्यते हन्यमाने शरीरे (na hanyate hanyamāne śarīre)」に凝縮されています。「身体が滅ぼされるときも、これは滅ぼされることはない」。死とは、あくまで身体という物質的な乗り物に起こる出来事であり、その乗り手であるアートマンは、いささかも傷つけられることはありません。それは、役者が舞台衣装を脱ぎ捨てても役者自身は変わらないように、自明の理なのです。

この詩節は、ウパニシャッド思想の中核をなすものであり、後に『バガヴァッド・ギーター』(第2章第20節)にもほぼそのまま引用されています。それは、死の恐怖からの完全な解放をもたらす智慧であり、ナチケータの探求に対するヤマ神の荘厳な答えなのです。真の自己は、生と死のドラマが繰り広げられる舞台そのものであり、その上で演じられる役柄ではない、という深遠な真理がここに明かされています。

第1篇 第2章 第19節

हन्ता चेन्मन्यते हन्तुँ हतश्चेन्मन्यते हतम् ।
उभौ तौ न विजानीतो नायँ हन्ति न हन्यते ॥ १.२.१९॥
hantā cenmanyate hantuṃ hataścenmanyate hatam |
ubhau tau na vijānīto nāyaṃ hanti na hanyate || 1.2.19||
殺す者が殺せると思い、殺される者が殺されたと思うならば、
その両者ともに真に識ってはいない。
これは殺すことなく、また殺されもしない。

逐語訳:

  • हन्ता (hantā) - 殺す者、殺害者。(√हन् han「殺す」の行為者名詞、男性単数主格)
  • चेत् (cet) - もし〜ならば。(条件を表す接続詞)
  • मन्यते (manyate) - 思う、考える、思い込む。(√मन् man「思う」の現在アートマネーパダ3人称単数)
  • हन्तुम् (hantum) - 殺すことを。(√हन् han「殺す」の不定詞)
  • हतः (hataḥ) - 殺された者。(√हन् han「殺す」の過去受動分詞、男性単数主格)
  • च (ca) - そして、また。(接続詞)
  • हतम् (hatam) - 殺されたと。(副詞的に使用される過去受動分詞、対格)
  • उभौ तौ (ubhau tau) - その両者ともに。(ubhau「両方」+ tau「その二人」の双数主格)
  • न विजानीतः (na vijānītaḥ) - 識別しない、正しく知らない。(na「〜ない」+ √वि-ज्ञा vi-jñā「識別する」の現在パラズマイパダ3人称双数)
  • न अयम् (nāyam) - これは〜ない。(na + ayam「これ」の連声)
  • हन्ति (hanti) - 殺す。(√हन् han「殺す」の現在パラズマイパダ3人称単数)
  • न हन्यते (na hanyate) - 殺されない。(na + √हन् han「殺す」の現在受動態3人称単数)

解説:
前節(1.2.18)において、ヤマ神はアートマン(真我)が不生不滅であり、身体の死によって滅びることはないと荘厳に宣言しました。この第19節は、その形而上学的な真理を、私たちの経験の最も根源的な場面、すなわち「生と死」の行為そのものに引き寄せて、その教えがもたらす深遠な帰結を明らかにします。

詩の前半は、「हन्ता (hantā)—殺す者」と「हतः (hataḥ)—殺される者」という、行為の主体と客体を鮮やかに対比させます。しかし、ヤマ神がここで問題にしているのは、殺害という行為の事実そのものではなく、その行為を巡る両者の「मन्यते (manyate)—思い込み」です。この動詞は、客観的な認識ではなく、無知(अविद्या, avidyā)に根ざした主観的な判断や誤解を意味します。殺す者は「私が殺す」という行為者意識(कर्तृत्व, kartṛtva)に、殺される者は「私が殺される」という被影響者意識(भोक्तृत्व, bhoktṛtva)に、それぞれ囚われています。これらは、現象世界における私たちの日常的な認識そのものです。

しかし、ヤマ神はこうした二元的な認識を、明快な言葉で退けます。「उभौ तौ न विजानीतः (ubhau tau na vijānītaḥ)」—その両者ともに、真に識ってはいない。ここで使われている動詞「वि-ज्ञा (vi-jñā)」は、単に「知る」のではなく、「識別して、明確に知る」という意味を持ちます。彼らが知らないのは、表面的な事実ではなく、物事の背後にある究極の真理(पारमार्थिक सत्य, pāramārthika satya)です。その真理とは何か。それが詩の最後の一句に凝縮されています。

नायँ हन्ति न हन्यते (nāyaṃ hanti na hanyate)」—これは殺すことなく、また殺されもしない。この「अयम् (ayam)—これ」が指すのは、前節から語られてきたアートマンです。アートマンは行為の主体(कर्ता, kartṛ)として何かを殺すこともなく、また行為の客体(कर्म, karman)として殺されることもありません。それは、あらゆる行為や変化が生じる舞台を、ただ静かに照らし出す純粋な意識、ヴェーダーンタ哲学で言うところの「観照者(साक्षिन्, sākṣin)」なのです。

この詩節は、『バガヴァッド・ギーター』(第2章第19節)にもほぼ同じ形で引用され、戦場で親族を殺すことへの苦悩に打ちひしがれる王子アルジュナを、クリシュナ神が諭すために用いられました。それは、この教えが単なる哲学的な思弁に留まらず、死の恐怖や行為への罪悪感といった、人間存在の根源的な苦しみを超越させる実践的な力を持つことを示しています。

ナチケータが求めた「死を超えた真理」に対し、ヤマ神は「死」という現象がアートマンの次元には全く及ばないことを、この詩句をもって決定的に示しました。私たちの本質は、生と死のドラマの登場人物ではなく、そのドラマ全体を静かに見守る、傷つくことのない永遠の光なのです。

第1篇 第2章 第20節

अणोरणीयान्महतो महीया-
नात्माऽस्य जन्तोर्निहितो गुहायाम् ।
तमक्रतुः पश्यति वीतशोको
धातुप्रसादान्महिमानमात्मनः ॥ १.२.२०॥
aṇoraṇīyānmahato mahīyā-
nātmā'sya jantor nihito guhāyām |
tamakratuḥ paśyati vītaśoko
dhātuprasādānmahimānamātmanaḥ || 1.2.20||
微なるものよりも微に、大なるものよりも大いなる
アートマンは、この生きとし生けるものの心の洞窟に秘められている。
意志と欲望を離れ、憂いを去った者は、諸器官が清澄になることにより、
そのアートマンの栄光を観る。

逐語訳:

  • अणोः अणीयान् (aṇor aṇīyān) - 微小なるものよりも、さらに微小な。(aṇu「原子、微小」の奪格 + その比較級 aṇīyas の男性単数主格)
  • महतः महीयान् (mahato mahīyān) - 広大なるものよりも、さらに広大な。(mahat「偉大、広大」の奪格 + その比較級 mahīyas の男性単数主格)
  • आत्मा (ātmā) - アートマン、真我。(名詞、男性単数主格)
  • अस्य जन्तोः (asya jantoḥ) - この生き物の。(idam「これ」の属格 + jantu「生きもの」の属格)
  • निहितः (nihitaḥ) - 置かれている、秘められている。(√नि-धा ni-dhā「置く」の過去受動分詞、男性単数主格)
  • गुहायाम् (guhāyām) - 洞窟において。(guhā「洞窟」の処格)
  • तम् (tam) - それを、そのアートマンを。(指示代名詞、男性単数対格)
  • अक्रतुः (akratuḥ) - 意志や欲望なき者。(a「無」 + kratu「意志、欲望、計画」、複合語、男性単数主格)
  • पश्यति (paśyati) - 観る、直観する。(√पश् paś「見る」の現在パラズマイパダ3人称単数)
  • वीतशोकः (vītaśokaḥ) - 憂いを去った者。(vīta「去った」 + śoka「憂い」、複合語、男性単数主格)
  • धातुप्रसादात् (dhātuprasādāt) - (心身の)諸器官の清澄さによって。(dhātu「構成要素、器官」+ prasāda「清澄、平静」の複合語、従格)
  • महिमानम् (mahimānam) - 偉大さ、栄光。(名詞、男性単数対格)
  • आत्मनः (ātmanaḥ) - アートマンの、自己の。(ātmanの属格)

解説:
前節でアートマンが生死の行為を超越することを示したヤマ神は、この第20節で、その本質と、それをいかにして認識しうるかという、探求の核心に迫ります。この詩節は、ウパニシャッドの中でも最も有名で、深遠な真理を凝縮した美しい詩として知られています。

詩の前半は、アートマンの性質を鮮やかな逆説で描き出します。「अणोरणीयान्महतो महीयान् (aṇoraṇīyānmahato mahīyān)」—微小なるものよりも微小であり、広大なるものよりも広大である。これは、アートマンが私たちが知覚する物理的な次元、すなわち大小や遠近といった相対的な尺度を完全に超越していることを示しています。それは、物質の最小単位である原子よりも微細にその内側に浸透し、同時に広大な宇宙全体をもその内に包み込む、絶対的な存在なのです。

そして、この無限ともいえるアートマンが、どこにあるのか。ヤマ神は「अस्य जन्तोर्निहितो गुहायाम् (asya jantor nihito guhāyām)」—この生きとし生けるものの心の洞窟に秘められている、と説きます。गुहा (guhā)とは文字通りの「洞窟」ですが、ここでは私たちの心臓の奥深くにある霊的な中心(हृदय-गुहा, hṛdaya-guhā)を象徴します。広大無辺なる真理が、外なる世界の果てではなく、私たち自身の最も内奥に秘められているというこの教えは、霊的探求のベクトルを外から内へと劇的に転換させます。

しかし、この内なるアートマンを誰もが容易に観ることはできません。詩の後半は、そのための条件を明示します。まず「अक्रतुः (akratuḥ)」であること。क्रतु (kratu)とは、個我の「意志」「計画」「欲望」を意味します。アートマンを観る者は、個人的な利害や目的意識から完全に自由でなければなりません。次に「वीतशोकः (vītaśokaḥ)」であること。शोक (śoka)とは一時的な悲しみではなく、輪廻の根源にある分離感や欠乏感といった、存在論的な憂いを指します。この憂いから解放された、静かで満ち足りた心を持つことが求められます。

この心の状態は、どのようにしてもたらされるのでしょうか。その鍵が「धातुप्रसादात् (dhātuprasādāt)」—諸器官の清澄さによって、という言葉にあります。偉大な註釈家シャンカラは、このधातु (dhātu)を身体や感覚器官、そして心(मनस्, manas)や理性(बुद्धि, buddhi)といった内的な器官全体と解釈しました。そしてप्रसाद (prasāda)とは、その全ての器官が欲望の波から解放され、澄み切った水面のように静かで清らかになった状態を指します。ヨーガや瞑想の実践を通して心の働きが静まり(चित्तवृत्तिनिरोध, cittavṛttinirodha)、身心全体が清浄になったとき、その恩寵として、人は自己の「महिमानम् (mahimānam)—栄光、偉大さ」を観るのです。この「観る」とは、目で対象物を見るのではなく、自己の本質がアートマンそのものであると直観的に覚知する体験です。

この詩節は、究極の真理が抽象的な概念ではなく、私たちの内に秘められた生きた実在であることを教えています。そして、その発見への道は、欲望と憂いを手放し、心を静寂と清澄へと導く実践のうちにあることを、明確に示しているのです。

第1篇 第2章 第21節

आसीनो दूरं व्रजति शयानो याति सर्वतः ।
कस्तं मदामदं देवं मदन्यो ज्ञातुमर्हति ॥ १.२.२१॥
āsīno dūraṃ vrajati śayāno yāti sarvataḥ |
kastaṃ madāmadaṃ devaṃ madanyo jñātumarhati || 1.2.21||
座していながら遠くへ赴き、臥していながらあまねく行き渡る。
この、歓喜にして非歓喜なる輝ける神(デーヴァ)を、
私をおいて他に誰が識(し)りえようか。

逐語訳:

  • आसीनः (āsīnaḥ) - 座していながら。(√आस् ās「座る」の現在分詞、男性単数主格)
  • दूरम् (dūram) - 遠くへ。(副詞)
  • व्रजति (vrajati) - 赴く、行く。(√व्रज् vraj「行く」の現在3人称単数)
  • शयानः (śayānaḥ) - 臥していながら。(√शी śī「横たわる」の現在分詞、男性単数主格)
  • याति (yāti) - 行き渡る、行く。(√या 「行く」の現在3人称単数)
  • सर्वतः (sarvataḥ) - あらゆる所へ、あまねく。(副詞)
  • कः (kaḥ) - 誰が。(疑問代名詞、男性単数主格)
  • तम् (tam) - それを、その者を。(指示代名詞、男性単数対格)
  • मदामदम् (madāmadam) - 歓喜にして非歓喜なる者を。(mada「歓喜」+amada「非歓喜」の複合語、男性単数対格)
  • देवम् (devam) - 輝ける神を。(deva「神、輝く者」<√दिव् div「輝く」より>、男性単数対格)
  • मदन्यः (madanyaḥ) - 私以外の者が。(mat「私から」奪格 + anyaḥ「他の者」主格 の複合語)
  • ज्ञातुम् (jñātum) - 識ることを。(√ज्ञा jñā「識る」の不定詞)
  • अर्हति (arhati) - 〜するに値する、〜しうる。(√अर्ह् arh「値する」の現在3人称単数)

解説:
前節(1.2.20)において、ヤマ神はアートマンが微小にして広大であり、心の洞窟に秘められていることを説きました。この第21節では、さらに詩的で逆説的な表現を用いて、そのアートマンの神秘的な本性と遍在性を描き出すと共に、この深遠な真理を語りうる師の存在がいかに稀であるかを暗示します。

詩の前半は「आसीनो दूरं व्रजति शयानो याति सर्वतः (āsīno dūraṃ vrajati śayāno yāti sarvataḥ)」—座していながら遠くへ赴き、臥していながらあまねく行き渡る、という美しい対句になっています。この一見矛盾した描写は、アートマンが私たちの知る物理的な時空間の法則を完全に超越していることを示しています。身体が静止している状態、それはヨーガや瞑想の実践において感覚や身体活動が静まった深い境地を象徴するとも解釈できます。そのような不動の状態にあって、意識はあらゆる束縛から解き放たれ、時間や空間を超えて普遍的に拡大するのです。アートマンは、場所から場所へ「移動」するのではなく、元々あらゆる場所に遍満している、その絶対的な性質がここで示されています。

詩の後半は、この神秘的な存在の本質をさらに深く掘り下げます。まず、アートマンは「देव (deva)」—輝ける神であるとされます。この語は「輝き」を意味する語根दिव् (div)に由来し、アートマンがそれ自体で光り輝く、他の何ものにも照らされる必要のない純粋意識の光であることを示唆します。そして、その性質は「मदामदम् (madāmadam)」—歓喜にして非歓喜なる、という驚くべき言葉で表現されます。मद (mada)とは世俗的な喜びや高揚感、個我が満足する陶酔状態を指し、अमद (amada)はその対極にある状態です。アートマンは、これら対立する二元的な感情の波をその内に含みながら、それらに一切汚されることなく、静かにそれらを超越しています。それは、前節で説かれた「憂いを去った者(वीतशोकः, vītaśokaḥ)」のみが観ることのできる、絶対的な平安の境地そのものです。

この深遠な真理を前に、ヤマ神は「कस्तं ... मदन्यो ज्ञातुमर्हति (kastaṃ ... madanyo jñātumarhati)」—この神を、私をおいて他に誰が識りえようか、と問いかけます。これは単なる自負の言葉ではありません。死の支配者として、生の喜びも死の静寂も、その両方の極みを知り尽くしたヤマ神だからこそ、この二元性を統合したアートマンの本質を語るにふさわしいという、師としての資格を静かに、しかし厳かに示したものです。

この詩節は、究極の真理が単純な言葉では捉えきれない逆説的なものであること、そしてその奥義を解き明かすためには、ナチケータが出会ったヤマ神のような、覚知に至った真の師の導きが不可欠であることを、私たちに教えています。

第1篇 第2章 第22節

अशरीरँ शरीरेष्वनवस्थेष्ववस्थितम् ।
महान्तं विभुमात्मानं मत्वा धीरो न शोचति ॥ १.२.२२॥
aśarīraṃ śarīreṣvanavastheṣvavasthitam |
mahāntaṃ vibhumātmānaṃ matvā dhīro na śocati || 1.2.22||
身体なきまま、滅びゆく諸々の身体に宿り、
うつろうものの中に、ゆるぎなく在る。
この偉大にして遍在するアートマンを悟りて、賢者は憂うことがない。

逐語訳:

  • अशरीरम् (aśarīram) - 身体なき(ものを)。(a「無」+ śarīra「身体」、形容詞としてātmānamを修飾、男性単数対格)
  • शरीरेषु (śarīreṣu) - 諸々の身体において。(śarīra「身体」の処格複数)
  • अनवस्थेषु (anavastheṣu) - うつろうものの中に、不安定なものの中に。(an「不」+ avasthā「状態、留まること」、処格複数)
  • अवस्थितम् (avasthitam) - ゆるぎなく在る(ものを)、安定して存在する(ものを)。(√अव-स्था ava-sthā「留まる」の過去受動分詞、男性単数対格)
  • महान्तम् (mahāntam) - 偉大なる(ものを)。(mahat「偉大な」の男性単数対格)
  • विभुम् (vibhum) - 遍在する(ものを)。(vibhu「遍在する、全能の」、男性単数対格)
  • आत्मानम् (ātmānam) - アートマンを。(ātman「真我」の男性単数対格)
  • मत्वा (matvā) - 悟りて、識りて。(√मन् man「思う、識る」の絶対分詞)
  • धीरः (dhīraḥ) - 賢者は、揺るぎなき者は。(dhīra「賢明な、堅固な」、男性単数主格)
  • न शोचति (na śocati) - 憂うことがない。(na「〜ない」+ √शुच् śuc「憂う」の現在3人称単数)

解説:
前節において、アートマンが静止と運動、歓喜と非歓喜といった二元的な対立を超越した、輝ける神秘的な存在であることが示されました。この第22節では、ヤマ神はその逆説的な表現をさらに推し進め、アートマンの最も根源的な存在様式と、それを悟ることによってもたらされる究極の境地を明らかにします。

詩の前半は、驚くべき対比構造で成り立っています。「अशरीरँ शरीरेषु (aśarīraṃ śarīreṣu)」—身体なきものとして、諸々の身体に宿る。アートマンは、生滅変化する物質的な身体とは本質を異にする、形も属性も持たない純粋な実在です。しかし、その非物質的なアートマンは、私たち一人ひとりの、そして生きとし生けるもの全ての身体の内奥に「宿り」、それを生かしめる根源となっています。これは、無限なるものが有限なるものの中に、超越的なるものが内在的なるものとして現れているという、ウパニシャッド思想の核心を示すものです。

続く「अनवस्थेष्ववस्थितम् (anavastheṣvavasthitam)」—うつろうものの中に、ゆるぎなく在る、という句は、この真理を存在論的な次元へと深めます。私たちの身体、感覚、感情、思考、そして私たちが経験する外界の全ては、「अनवस्था (anavasthā)—うつろうもの」であり、一瞬たりとも静止することなく変化し続けます。これは仏教で説かれる「無常」の教えにも通じます。しかし、この絶え間ない変化の流れのただ中に、アートマンは「अवस्थितम् (avasthitam)—ゆるぎなく在るもの」として、一切の変化に染まらず、影響されることなく、永遠に静かに存在し続けています。それは、荒れ狂う海の表面下にある、静寂で不動の深淵にもたとえられます。

そして、このアートマンは「महान्तं विभुम् (mahāntaṃ vibhum)」—偉大にして遍在するものとして認識されます。महत् (mahat)とは、あらゆる大小の尺度を超えた絶対的な「偉大さ」を、विभु (vibhu)とは、空間のあらゆる場所に遍満し、何ものにも束縛されない「遍在性」を意味します。個々の身体に宿りながら、同時に全宇宙を貫く普遍的な実在。それがアートマンの真の姿なのです。

この深遠な真理を「मत्वा (matvā)—悟りて」、人は「धीरः (dhīraḥ)—賢者」となります。この「悟る」という行為は、単に知的な理解を意味しません。それは、自己の本質がこの偉大にして不変なるアートマンであると、全存在をかけて直観する体験です。そして、その悟りを得た「धीरः (dhīraḥ)—賢者、揺るぎなき者」は、「न शोचति (na śocati)—もはや憂うことがありません」。ここでいう「憂い(शोक, śoka)」とは、日常的な悲しみや不安に留まらず、死への恐怖、喪失への怯え、そして自己が不完全で有限な存在であるという根源的な苦しみの全てを指します。自らが滅びゆく身体やうつろう心ではなく、永遠不滅のアートマンそのものであると悟ったとき、あらゆる憂いはその根拠を失い、消え去るのです。

この詩節は、変化と無常のうちに永遠と常住を見出すという、霊的探求の究極の目標を荘厳に謳い上げています。私たちの真の本質は、生と死のドラマが演じられる舞台そのものであり、決してそのドラマの登場人物ではないのだと、静かに、しかし力強く教えているのです。

第1篇 第2章 第23節

नायमात्मा प्रवचनेन लभ्यो
न मेधया न बहुना श्रुतेन ।
यमेवैष वृणुते तेन लभ्यः
तस्यैष आत्मा विवृणुते तनूꣳ स्वाम् ॥ १.२.२३॥
nāyamātmā pravacanena labhyo
na medhayā na bahunā śrutena |
yamevaiṣa vṛṇute tena labhyaḥ
tasyaiṣa ātmā vivṛṇute tanūṃ svām || 1.2.23||
このアートマンは、弁論によって得られるものではなく、
知力によっても、多くの聖典を学ぶことによっても得られるものではない。
ただ、このアートマンが自ら選ぶ者、その者によってのみ、それは得られる。
その者に対し、このアートマンは、自らの本質を開示する。

逐語訳:

  • न अयम् आत्मा (na ayam ātmā) - このアートマンは~ない。(na 否定詞 + ayam 指示代名詞 + ātmā 男性単数主格)
  • प्रवचनेन (pravacanena) - 弁論によって、教説によって。(pravacana「弁論、説法」の具格)
  • लभ्यः (labhyaḥ) - 得られうる、獲得されうる。(√लभ् labh「得る」の未来受動分詞、男性単数主格)
  • न मेधया (na medhayā) - 知力によって(~ない)。(medhā「知力、記憶力、理解力」の具格)
  • न बहुना श्रुतेन (na bahunā śrutena) - 多くの聴聞によっても、多くの聖典学習によっても(~ない)。(bahunā 形容詞具格 + śrutena 名詞具格)
  • यम् एव (yam eva) - まさにその者を。(yad 関係代名詞対格 + eva 強意詞)
  • एषः (eṣaḥ) - この(アートマン)は。(etad 指示代名詞、男性単数主格)
  • वृणुते (vṛṇute) - 選ぶ。(√वृ vṛ「選ぶ、好む」の現在アートマネーパダ3人称単数)
  • तेन (tena) - その者によって。(tad 指示代名詞、男性単数具格)
  • लभ्यः (labhyaḥ) - 得られる。
  • तस्य (tasya) - その者に、その者のために。(tad 指示代名詞、男性単数与格・属格)
  • एषः आत्मा (eṣaḥ ātmā) - このアートマンは。
  • विवृणुते (vivṛṇute) - 覆いを取り去る、開示する。(vi-√वृ vṛ「覆いを取り去る」の現在アートマネーパダ3人称単数)
  • तनूम् स्वाम् (tanūṃ svām) - 自らの身体を、自らの本質を。(tanū「身体、本質」の対格 + sva「自己の」の対格)

解説:
前節(1.2.22)において、アートマンが滅びゆく身体の中に宿る不変の実在であり、それを悟った賢者は憂いを超越することが示されました。この第23節は、その悟りがいかにして可能になるのかという、探求の核心に踏み込みます。この詩節は、人間の努力とそれを超えた神聖な恩寵との関係性を説き明かす、ウパニシャッドの中でも最も深遠で影響力のある教えの一つです。

詩の前半は、力強い三重の否定から始まります。アートマンは「प्रवचनेन (pravacanena)—弁論によって」は得られないとされます。これは、哲学的な議論や他者からの教説の伝達といった、外的な言葉のやり取りの限界を示しています。次に「मेधया (medhayā)—知力によって」も得られないとされます。これは、個人の持つ記憶力や分析的・論理的な思考能力、すなわち知性そのものの限界です。最後に「बहुना श्रुतेन (bahunā śrutena)—多くの聖典学習によって」も得られないとされます。श्रुत (śruta)は「聞かれたもの」を意味し、ヴェーダをはじめとする聖典の膨大な知識の蓄積を指します。これら三つは、世俗的な学問において最も価値ある能力ですが、ヤマ神は、それらがいかに優れていても、アートマンを「対象」として捉え、獲得することはできないと断言します。なぜなら、アートマンは認識の対象ではなく、認識する主体そのものだからです。

では、この知性と学識を超えたアートマンは、いかにして知られるのでしょうか。詩の後半は、私たちの常識を覆す、驚くべき真理を啓示します。「यमेवैष वृणुते तेन लभ्यः (yamevaiṣa vṛṇute tena labhyaḥ)」—ただ、このアートマンが自ら選ぶ者、その者によってのみ、それは得られる。ここで、探求の主導権が劇的に逆転します。「私がアートマンを求める」のではなく、「アートマンが私を選ぶ」のです。探求者の自我(अहंकार, ahaṃkāra)が前面に出る知的努力ではなく、アートマン自身の意志と選択、すなわち恩寵(अनुग्रह, anugraha)が決定的な要因となります。

そして、その「選ばれた者」に対して、「तस्यैष आत्मा विवृणुते तनूꣳ स्वाम् (tasyaiṣa ātmā vivṛṇute tanūṃ svām)」—このアートマンは、自らの本質を開示します。動詞विवृणुते (vivṛṇute)は「覆いを取り去る」という意味を持ち、アートマンが自ら、その輝きを隠している無知のヴェールを取り払い、その真の姿(तनू, tanū)を現すという、能動的な啓示の行為を示唆します。知識は、人間が努力して「掴み取る」ものではなく、神聖なる実在が自らを「与える」ものなのです。

この詩節は、霊的探求が単なる自己努力の道ではないことを教えています。人間の側でできることは、あらゆる世俗的な欲望を退け(1.2.1-3)、心を清澄にし(1.2.20)、この上ない真理への純粋な渇望を持ち続けること、まさにナチケータが体現したその姿勢です。そのような謙虚で献身的な器が整ったとき、アートマンは自ら恩寵の光を注ぎ、その本質を明らかにするのです。これは、後の時代のバクティ(信愛)思想の源流ともなる、大いなる実在への明け渡し(surrender)の重要性を示す、深遠な教えといえるでしょう。

第1篇 第2章 第24節

नाविरतो दुश्चरितान्नाशान्तो नासमाहितः ।
नाशान्तमानसो वाऽपि प्रज्ञानेनैनमाप्नुयात् ॥ १.२.२४॥
nāvirato duścaritānnāśānto nāsamāhitaḥ |
nāśāntamānaso vā'pi prajñānenainamāpnuyāt || 1.2.24||
悪しき行いをやめぬ者、情動の静まらぬ者、精神を集中できぬ者、
また、その意志が平安を得ていない者は、
たとえ叡智によっても、これを得ることはない。

逐語訳:

  • न अविरतः (na avirataḥ) - やめない者は。(na「〜ない」+ avirata「やめない者」主格)
  • दुश्चरितात् (duścaritāt) - 悪しき行いから。(duścarita「悪行」の奪格単数)
  • न अशान्तः (na aśāntaḥ) - 心静かならざる者は。(na「〜ない」+ aśānta「静かでない、情動的な」主格)
  • न असमाहितः (na asamāhitaḥ) - 精神が統一されていない者は。(na「〜ない」+ asamāhita「集中していない」主格)
  • न अशान्तमानसः (na aśāntamānasaḥ) - その意志が平安ならざる者は。(na「〜ない」+ aśāntamānasa「心が平安でない」主格)
  • वा अपि (vā api) - あるいは、さらにまた。(「または」+ api「〜でさえも」)
  • प्रज्ञानेन (prajñānena) - 叡智によって。(prajñāna「叡智、直観智」の具格単数)
  • एनम् (enam) - これを(アートマンを)。(指示代名詞、男性単数対格)
  • आप्नुयात् (āpnuyāt) - 得ることはないであろう。(√आप् āp「得る」の願望法・可能法3人称単数)

解説:
前節(1.2.23)において、アートマンは人間の知的な努力によってではなく、アートマン自らが選ぶ恩寵によってのみ得られるという、霊的探求の核心が示されました。では、その神聖な恩寵は、誰に、どのようにして注がれるのでしょうか。この第24節は、その問いに答えるべく、恩寵を受け入れるための「器」として、探求者に求められる内面的な資質、すなわち不可欠な準備について、力強い四重の否定をもって明らかにします。

この詩節は、アートマンの悟りに至らない者の状態を、四つの段階で描き出します。

第一に「नाविरतो दुश्चरितात् (nāvirato duścaritāt)」—悪しき行いをやめぬ者。これは、霊的探求の土台となる道徳的な清廉さを説いています。他者を害する行為や不正な行いに耽溺している心は、常に混乱と罪悪感に苛まれ、濁っています。そのような心では、最も微細で純粋な実在であるアートマンを映し出すことはできません。これは、ヨーガにおけるヤマ(禁戒)の実践の重要性にも通じます。

第二に「नाशान्तो (nāśānto)」—情動の静まらぬ者。これは、感覚器官や感情のレベルでの静寂を指します。欲望、怒り、恐怖といった激しい情動の波に心が揺さぶられている状態では、内なる静寂に耳を澄ますことは不可能です。この「静けさ(शान्ति, śānti)」は、外面的な静けさ以上に、内なる感情の嵐が鎮まった平安な境地を意味します。

第三に「नासमाहितः (nāsamāhitaḥ)」—精神を集中できぬ者。これは、精神の統一、すなわち集中力の欠如を指します。समाहित (samāhita)は「統一された、三昧の状態にある」ことを意味し、その否定形であるこの言葉は、心が散漫で一つの対象に留まれない状態を表します。これは、ヨーガのधारणा (dhāraṇā)ध्यान (dhyāna)といった、心を一点に集める実践が、アートマン探求に不可欠であることを示唆しています。

第四に「नाशान्तमानसो (nāśāntamānasaḥ)」—その意志が平安を得ていない者。これは、先の情動の静けさを、さらにमनस् (manas)、すなわち思考や意志の次元で深めたものです。偉大な注釈家シャンカラは、これを単なる心の騒がしさだけでなく、アートマンを悟りたいという切望そのものが生み出す焦燥感、つまり結果を求める心をも指すと解釈しました。真の平安とは、探求の結果にさえ執着しない、完全な明け渡しの境地にあるのです。

これら四つの条件を満たしていない者は、「प्रज्ञानेनैनमाप्नुयात् (prajñānenainam āpnuyāt)」—たとえ叡智によっても、これ(アートマン)を得ることはない、と結論づけられます。ここでいう「叡智(प्रज्ञान, prajñāna)」は、通常の知性を超えた直観的な識別知です。しかし、この詩節は、そのような高次の認識能力でさえも、道徳的・精神的な土台が浄化されていなければ、何ら効力を発揮しないと厳かに宣言します。

この教えは、霊性の道が知的な思索に留まるものではなく、行為、感情、思考、意志という、自己の全存在を懸けた変容のプロセスであることを示しています。前節で説かれた「恩寵」は、決して無作為に与えられるものではなく、自己を浄化し、心を磨き上げた純粋な器にこそ注がれるという、宇宙の霊的法則をこの詩節は見事に説き明かしているのです。

第1篇 第2章 第25節

यस्य ब्रह्म च क्षत्रं च उभे भवत ओदनः ।
मृत्युर्यस्योपसेचनं क इत्था वेद यत्र सः ॥ १.२.२५॥
yasya brahma ca kṣatraṃ ca ubhe bhavata odanaḥ |
mṛtyuryasyopasecanaṃ ka itthā veda yatra saḥ || 1.2.25||
その方にとって、祭司(ブラフマン)と王侯(クシャトリヤ)、その両者は糧であり、
死すらもその添え物となる。
かくのごときその方が、いずこに在るかを、誰が知り得ようか。

逐語訳:

  • यस्य (yasya) - その方にとって、その方の。(関係代名詞 yad、男性・中性単数属格)
  • ब्रह्म (brahma) - 祭司階級(ブラフマン)、聖なる力。(中性単数主格)
  • च (ca) - 〜と、そして。
  • क्षत्रम् (kṣatram) - 武人階級(クシャトリヤ)、王権。(中性単数主格)
  • च (ca) - 〜と、そして。
  • उभे (ubhe) - その両者が。(代名詞 ubha「両方」、中性双数主格)
  • भवतः (bhavataḥ) - 〜となる。(√भू bhū「なる、ある」、現在3人称双数)
  • ओदनः (odanaḥ) - 炊いた米、主食、糧。(男性単数主格)
  • मृत्युः (mṛtyuḥ) - 死。(男性単数主格)
  • यस्य (yasya) - その方にとって、その方の。
  • उपसेचनम् (upasecanam) - 副菜、添え物、味付け。(中性単数主格)
  • कः (kaḥ) - 誰が。(疑問代名詞 kim、男性単数主格)
  • इत्था (itthā) - かくのごとく、このように。(副詞)
  • वेद (veda) - 知る。(√विद् vid「知る」、現在完了3人称単数、現在形の意味)
  • यत्र (yatra) - どこに。(関係副詞)
  • सः (saḥ) - その方が、それが。(指示代名詞 tad、男性単数主格)

解説:
前節(1.2.24)では、アートマンを悟るために不可欠な道徳的・精神的な資質が説かれました。この第25節は、その流れを締めくくるものとして、アートマンがいかに人間の価値観や存在の限界を超越した、絶対的な実在であるかを、荘厳かつ衝撃的な比喩を用いて描き出します。

詩の前半は、当時のインド社会における二つの最高権威、すなわち祭司階級の聖なる力である「ब्रह्म (brahma)」と、武人階級の世俗的な権力である「क्षत्र (kṣatra)」を俎上に載せます。これらは、人間社会の秩序を支える精神的・物質的な力の頂点です。しかし、ヤマ神は、この聖俗両権威でさえも、アートマンにとっては「ओदनः (odanaḥ)—糧、主食」に過ぎないと断言します。この比喩は、アートマンが単にそれらを超えているだけでなく、宇宙のあらゆる現象を自らの内に取り込み、養分として「消化」し、ついには根源へと解消させてしまう、能動的な力であることを示唆しています。これは、宇宙の創造、維持、そして最終的な融解(प्रलय, pralaya)を司る究極の原理としての、アートマンの姿を浮き彫りにします。

さらに詩は、私たちの存在を根底から揺るがす「मृत्यु (mṛtyu)—死」を取り上げます。死は、すべての生命にとって最大の恐怖であり、究極的な限界です。しかし、その死でさえも、アートマンにとっては主食に添えられる「उपसेचनम् (upasecanam)—副菜、添え物」に過ぎないというのです。この言葉が、他ならぬ死の支配者であるヤマ神自身の口から語られることで、その表現は比類なき迫真性をもって響きます。生と死という二元論は、アートマンの永遠の光の前ではその意味を失い、死は存在を彩る一つの些細な現象へと変容します。

この二つの壮大な比喩の後、詩は静かな問いかけで結ばれます。「क इत्था वेद यत्र सः (ka itthā veda yatra saḥ)」—かくのごときその方が、いずこに在るかを、誰が知り得ようか。この反語的な問いは、二つの深い意味を内包しています。

一つは、「इत्था (itthā)—かくのごとく」知ることの難しさです。社会の最高権威や死への恐怖といった、私たちが深く囚われている価値観や概念を、あたかも食卓の糧や添え物のように見なすことができる—そのような根源的な視点の転換を伴った認識に至ることが、いかに稀であるかを強調しています。

もう一つは、「यत्र (yatra)—いずこに」という問いそのものの深遠さです。アートマンは特定の時空に存在する対象物ではないため、その「在り処」を問うこと自体が、私たちの通常の認識能力の限界を示しています。その答えは、アートマンが「どこ」にあるかを知ることではなく、自己の本質こそがそのアートマンであると直観することによってのみ見出されるのです。

この詩節は、霊的探求の道がいかに深遠であるかを力強く示すとともに、私たちが日常的に執着している価値や恐怖を相対化し、心を絶対的な実在へと向けるための、強力な瞑想の指針を与えてくれます。世界のすべてを呑み込み、死さえも超越するこの壮大なアートマンの姿を観想することによって、探求者の心は小さな自己への囚われから解放され、真の自由と平安への道が開かれるのです。

第1篇 第2章 奥書

इति काठकोपनिषदि प्रथमाध्याये द्वितीया वल्ली ॥
iti kāṭhakopaniṣadi prathamādhyāye dvitīyā vallī ||
かくして、カタ・ウパニシャッド第一の学習における、第二の蔓(章)は終わる。

逐語訳:

  • इति (iti) - かくして、このように(章や節の終わりを示す不変化詞)
  • काठकोपनिषदि (kāṭhakopaniṣadi) - カタ・ウパニシャッドにおいて(kāṭhaka-upaniṣadの処格単数)
  • प्रथमाध्याये (prathamādhyāye) - 第一の学習(アディヤーヤ)において(prathama-adhyāya「第一の篇」の処格単数)
  • द्वितीया (dvitīyā) - 第二の(序数詞、vallīを修飾、女性単数主格)
  • वल्ली (vallī) - 蔓(つる)、章(女性単数主格)

解説:
この簡潔な一句は、サンスクリットの聖典において伝統的に用いられる結句であり、一つの章の終わりを荘重に宣言するものです。これは単なる形式的な区切りではなく、これまでの教えのまとまりを示し、読者に深い内省を促すための間(ま)を与えてくれます。

ここで用いられている「अध्याय (adhyāya)」は「学習」や「篇」を意味し、「वल्ली (vallī)」は本来「蔓(つる)」を意味する言葉です。ウパニシャッドの教えが、あたかも蔓植物が一本の幹から伸び広がり、探求者を支えながら高みへと導いていくかのように、連綿と続くものであるという詩的な世界観が、この構造自体に込められています。私たちは今、第一の学習の幹から伸びる、第二の蔓の教えをたどり終えたのです。

この第二の蔓(章)は、ウパニシャッド全体の哲学的核心をなす、極めて重要な部分でした。その内容は、ヤマ神がナチケータの不退転の求道心を試すところから始まります。世俗的な快楽(प्रेयस्, preyas)を退け、永遠の善(श्रेयस्, śreyas)を選び取ったナチケータの純粋な器に、ヤマ神は深遠なるアートマンの教えを注ぎ始めました。

章は、アートマンの知識がいかに難解で、優れた師と弟子にのみ開かれる稀有なものであるかを説き、聖音ॐ (oṃ)こそがその究極的な象徴であり、到達すべき目標であると示しました。続いて、アートマンが不生不滅、常住不変であり、肉体の死を超越した実在であることが明かされ、その本質は微細にして広大、あらゆる二元性を超えていると語られました。

そして、この章の教えは一つの頂点を迎えます。アートマンは、人間の知性や学識といった努力によって「獲得」されるものではなく、アートマン自らがその本質を「開示」する恩寵によってのみ悟られる、という霊的探求の主客が転倒する深遠な真理が啓示されました(1.2.23)。しかし、その恩寵は無作為に与えられるものではなく、悪行を離れ、心を静め、精神を統一するという、倫理的・精神的な浄化という不可欠な準備を整えた者にのみ注がれることも、厳かに示されました(1.2.24)。

章の締めくくりとして、アートマンは社会の最高権威である祭司と王侯さえも「糧」とし、あらゆる生命の終焉である「死」すらも「添え物」として呑み込んでしまう、絶対的な超越者として描かれました(1.2.25)。この壮大なヴィジョンは、私たちの矮小な自己意識を打ち砕き、心を真の実在へと向かわせます。

かくして第二の蔓は、アートマンとは何か、そしてその悟りはいかにして可能となるのかという、形而上学的な問いとその答えを提示しました。この結句は、それらの教えを深く心に刻むための静寂の時を私たちに与え、次に続く第三の蔓で説かれる、より実践的な道筋—有名な「戦車の比喩」—へと私たちの意識を導いてくれるのです。

第1篇 第3章 第1節

ऋतं पिबन्तौ सुकृतस्य लोके
गुहां प्रविष्टौ परमे परार्धे ।
छायातपौ ब्रह्मविदो वदन्ति
पञ्चाग्नयो ये च त्रिणाचिकेताः ॥ १.३.१॥
ṛtaṃ pibantau sukṛtasya loke
guhāṃ praviṣṭau parame parārdhe |
chāyātapau brahmavido vadanti
pañcāgnayo ye ca triṇāciketāḥ || 1.3.1||
自らの善き行いの世界において、宇宙の理法を享受する二つのものがいる。
両者は至高なる心の奥の洞窟に入り、そこに住まう。
ブラフマンを知る者、五つの聖火を修め、三度ナーチケータの火を焚いた者たちは、
その二者を影と光のようであると語る。

逐語訳:

  • ऋतम् (ṛtam) - 宇宙の理法、真理、秩序を。(中性単数対格)
  • पिबन्तौ (pibantau) - 飲む(享受する)二つのものが。(√पा 「飲む」、現在分詞、男性双数主格)
  • सुकृतस्य (sukṛtasya) - 善き行いの。(sukṛta「善業」、中性単数属格)
  • लोके (loke) - 世界において。(男性・中性単数処格)
  • गुहाम् (guhām) - 洞窟に。(女性単数対格)
  • प्रविष्टौ (praviṣṭau) - 入った二つのものが。(pra+√विश् viś「入る」、過去分詞、男性双数主格)
  • परमे (parame) - 至高の。(中性単数処格)
  • परार्धे (parārdhe) - 最高の座に、優れた空間に。(中性単数処格)
  • छायातपौ (chāyātapau) - 影と光(のようである)と。(chāyā-ātapa「影と陽光」、複合語、男性双数対格)
  • ब्रह्मविदः (brahmavidaḥ) - ブラフマンを知る者たちが。(brahmavid、男性複数主格)
  • वदन्ति (vadanti) - 語る。(√वद् vad「語る」、現在3人称複数)
  • पञ्चाग्नयः (pañcāgnayaḥ) - 五つの聖火を修めた者たちが。(pañcāgni、男性複数主格)
  • ये (ye) - そのような者たち。(関係代名詞 yad、男性複数主格)
  • च (ca) - そして。
  • त्रिणाचिकेताः (triṇāciketāḥ) - 三度ナーチケータ(の火)を修めた者たちが。(triṇāciketas、男性複数主格)

解説:
この詩節は、カタ・ウパニシャッド第三の蔓(章)の荘厳な序幕であり、前章で説かれたアートマンの抽象的な本質から、自己の内で体験されるべき二元的な原理へと、教えの焦点を移します。これは、後に続く有名な「戦車の比喩」への、極めて重要な序章となるものです。

詩は「ऋतं पिबन्तौ (ṛtaṃ pibantau)—理法を享受する二つのもの」という、象徴的な描写で始まります。この「二者」とは、伝統的に個我(ジーヴァートマン)と最高我(パラマートマン)と解釈されます。ऋत (ṛta)とは宇宙の根本法則であり、ここでは個我が自らの行い(カルマ)の結果として経験する世界の秩序を指します。一方はその結果を「享受」し、もう一方はそれに触れることなく、ただ共に在るとされます。この構図は、ムンダカ・ウパニシャッドに描かれる「二羽の鳥」の有名な比喩—一本の木に棲む二羽の鳥のうち、一羽は甘い木の実を食べ、もう一羽は食べることなくただ静かに見つめている—を彷彿とさせます。

この二者が存在する場所は「सुकृतस्य लोके (sukṛtasya loke)—善き行いの世界」であり、かつ「गुहां प्रविष्टौ (guhāṃ praviṣṭau)—洞窟に入った」とされます。これは、この霊的なドラマの舞台が、外界のどこかではなく、善行によって浄化された個人の内なる世界、とりわけ「गुहा (guhā)—心臓の洞窟」と呼ばれる意識の最も深い聖域であることを示しています。霊的真理は、自己の最も内奥で発見されるのです。

この二つの原理の関係性を、賢者たちは「छायातपौ (chāyātapau)—影と光のようである」と表現します。この比喩は実に見事です。個我(ジーヴァートマン)は「影」にたとえられます。影は光なしには存在できず、光に依存していますが、光そのものではありません。影は移ろいやすく、形に縛られます。これは、輪廻のサイクルの中で苦楽を体験し、変化し続ける私たちの現象的な自己の姿です。一方、最高我(パラマートマン)は「光」です。光は不変であり、形がなく、影を生み出す根源でありながら、影のいかなる変化にも影響されません。それは、すべてを照らし出す純粋な意識、静かなる証人(साक्षिन्, sākṣin)です。この影と光が、別々の場所ではなく、同じ「心の洞窟」に共に存在しているという洞察こそ、内観修行の核心です。

この深遠な真理を語る資格を持つ者として、ウパニシャッドは三種類の人々を挙げます。「ब्रह्मविदः (brahmavidaḥ)—ブラフマンを知る者」は、ジュニャーナ(智慧)の道を成就した者です。対して「पञ्चाग्नयः (pañcāgnayaḥ)—五つの聖火を修めた者」と「त्रिणाचिकेताः (triṇāciketāḥ)—三度ナーチケータの火を焚いた者」は、カルマ(祭儀・行為)の道を究めた者たちです。これは、ウパニシャッドの教えが、ヴェーダの儀礼的伝統を土台としつつ、それを内面的な智慧へと昇華させるものであることを示唆しています。行為による心の浄化と、智慧による識別が両輪となって、初めてこの究極の真理は体得されるのです。

この詩節は、私たち一人ひとりの存在の内側に、現象的な自己(影)と、それを超越した真我(光)が常に共に在るという、霊的探求の根本地図を提示しています。この後の「戦車の比喩」は、この「影」である自己をいかに正しく導き、「光」である真我の王国へと至るかの、実践的な道筋を明らかにしていくのです。

第1篇 第3章 第2節

यः सेतुरीजानानामक्षरं ब्रह्म यत् परम् ।
अभयं तितीर्षतां पारं नाचिकेतँ शकेमहि ॥ १.३.२॥
yaḥ seturījānānāmakṣaraṃ brahma yat param |
abhayaṃ titīrṣatāṃ pāraṃ nāciketaṃ śakemahi || 1.3.2||
祭祀を修める者たちにとっての橋であり、渡り越えんと欲する者たちのための恐れなき彼岸、そして不滅なる至高のブラフマン—そのナーチケータの火を、我らは修め得よう。

逐語訳:

  • यः (yaḥ) - そのような(〜であるもの)。(関係代名詞 yad、男性単数主格)
  • सेतुः (setuḥ) - 橋。(男性単数主格)
  • ईजानानाम् (ījānānām) - 祭祀を修めた者たちの。(√यज् yaj「祭祀を行う」、完了分詞、男性複数属格)
  • अक्षरम् (akṣaram) - 不滅の。(中性単数主格)
  • ब्रह्म (brahma) - ブラフマン。(中性単数主格)
  • यत् (yat) - そのような(〜であるもの)。(関係代名詞 yad、中性単数主格)
  • परम् (param) - 最高の、至上の。(中性単数主格)
  • अभयम् (abhayam) - 恐れなき(境地)。(中性単数主格)
  • तितीर्षताम् (titīrṣatām) - 渡り越えたいと欲する者たちの。(√तृ tṛ「渡る」の願望分詞、男性複数属格)
  • पारम् (pāram) - 彼岸。(中性単数主格)
  • नाचिकेतम् (nāciketam) - ナーチケータ(の火、またはその智慧)を。(男性単数対格)
  • शकेमहि (śakemahi) - 我らは〜できるであろう、〜し得よう。(√शक् śak「できる」、願望法1人称複数)

解説:
この詩節は、前節で提示された「影と光」という内なる二元性—個我と真我—のテーマを引き継ぎ、その両者をつなぐ具体的な霊的実践とその本質を明らかにします。ここで語られる「ナーチケータの火」は、単なる外的な祭儀ではなく、究極的な実在へと至るための深遠な道筋そのものとして描かれます。

まず、このナーチケータの火は「सेतुः (setuḥ)—橋」とたとえられます。これは、「ईजानानाम् (ījānānām)—祭祀を修める者たち」が、輪廻という苦悩の大河(संसार, saṃsāra)の此岸から、解脱という安らぎの彼岸へと渡るための、確かな霊的通路であることを示しています。この橋は、ヴェーダの儀礼的伝統(カルマ)と、ウパニシャッドの哲学的探求(ジュニャーナ)とを結びつけるものでもあります。

さらに、この橋の本質は「अक्षरं ब्रह्म यत् परम् (akṣaraṃ brahma yat param)—不滅にして至高なるブラフマン」そのものであると宣言されます。これは、ウパニシャッド思想の核心を突く重要な教えです。外的な祭儀という「行為」は、それ自体が目的ではなく、その行為を通じて内なる「智慧の火」を点火し、自己が究極的実在であるブラフマンと本質的に一つであると悟るための手段なのです。行為は智慧へと昇華され、二つは分かちがたく結びつきます。

この霊的探求の目的地は「अभयं पारम् (abhayaṃ pāram)—恐れなき彼岸」と表現されます。彼岸とは、空間的な場所ではなく、「अभयम् (abhayam)—恐れなき境地」、すなわち、死への恐怖、存在への不安といった、あらゆる恐れが完全に消滅した心の状態です。これは、ナチケータがヤマ神に問いかけた「死後の真理」に対する、一つの実践的な答えでもあります。この橋を渡ることで、「तितीर्षताम् (titīrṣatām)—渡り越えたいと切に願う者たち」は、絶対的な安心と平安の境地に至るのです。

そして詩の結びで、賢者たちは「नाचिकेतं शकेमहि (nāciketaṃ śakemahi)—そのナーチケータ(の火)を、我らは修め得よう」と力強く宣言します。शकेमहि (śakemahi)という願望法の動詞は、単なる願望ではなく、霊的な資格と準備を整えた者にとって、この偉大な達成が可能であることを示唆しています。前節で言及された「त्रिणाचिकेताः (triṇāciketāḥ)—三度ナーチケータの火を焚いた者」のように、真摯な探求心をもって道を歩む者ならば誰でも、この橋を渡る能力を自らの内に見出すことができるのです。「我ら」という言葉は、この教えが師から弟子へ、そして未来の全ての求道者へと開かれている普遍的な道であることを伝えています。

この詩節は、解脱への道を単なる抽象的な理想としてではなく、具体的な実践(सेतुः, setuḥ)と、その先にある揺るぎない境地(अभयम्, abhayam)、そしてその道の根本にある究極の真理(ब्रह्म, brahma)として、一つの壮大なヴィジョンの中に示しています。そして次節から始まる有名な「戦車の比喩」は、この橋を渡るための、より詳細な自己制御の技術を明らかにしていくのです。

第1篇 第3章 第3節

आत्मानँ रथिनं विद्धि शरीरँ रथमेव तु ।
बुद्धिं तु सारथिं विद्धि मनः प्रग्रहमेव च ॥ १.३.३॥
ātmānaṃ rathinaṃ viddhi śarīraṃ rathameva tu |
buddhiṃ tu sārathiṃ viddhi manaḥ pragrahameva ca || 1.3.3||
真我をば戦車の主人と知れ、身体をば、まさにその戦車と。
理性をば御者と知れ、そして精神をば、まさにその手綱と知れ。

逐語訳:

  • आत्मानम् (ātmānam) - アートマン(真我)を。(男性単数対格)
  • रथिनम् (rathinam) - 戦車の主人を。(男性単数対格)
  • विद्धि (viddhi) - 知れ、理解せよ。(√विद् vid「知る」、命令法2人称単数)
  • शरीरम् (śarīram) - 身体を。(中性単数対格)
  • रथम् (ratham) - 戦車を。(男性単数対格)
  • एव (eva) - まさに、〜そのものとして。(強調の不変化詞)
  • तु (tu) - そして、また、しかし。(接続の不変化詞)
  • बुद्धिम् (buddhim) - 理性、識別知を。(女性単数対格)
  • तु (tu) - そして、また。
  • सारथिम् (sārathim) - 御者(ぎょしゃ)を。(男性単数対格)
  • विद्धि (viddhi) - 知れ、理解せよ。
  • मनः (manaḥ) - 精神、心を。(中性単数対格)
  • प्रग्रहम् (pragraham) - 手綱を。(男性・中性単数対格)
  • एव (eva) - まさに、〜そのものとして。
  • च (ca) - そして。

解説:
この詩節は、ウパニシャッド文学、ひいてはインド思想全体における最も有名で深遠な比喩の一つ、「戦車の比喩」の壮大な幕開けです。前節までで、解脱への道が「橋」や「ナーチケータの火」として象徴的に語られましたが、ここからは、自己の内なる構造そのものを戦車になぞらえ、より具体的で実践的な自己統御の道筋が示されます。この比喩は、単なる文学的装飾ではなく、自己変容のプロセスを解き明かす、完成された霊的心理学の体系です。

詩は「विद्धि (viddhi)—知れ」という、師であるヤマ神から弟子ナチケータへの力強い命令形で二度も語りかけます。これは単なる知識の伝達ではなく、自己の本質について深く瞑想し、その真実を自らの体験として悟れという、魂を揺さぶる呼びかけです。この呼びかけは、時代を超えて、私たち全ての探求者に向けられています。

まず「आत्मानं रथिनं विद्धि (ātmānaṃ rathinaṃ viddhi)—真我をば戦車の主人と知れ」と宣言されます。रथिन् (rathin)は単なる乗客ではなく、戦車を所有し、旅の目的地を知る、権威ある主人です。アートマン(真我)こそが、私たちの存在というこの旅の真の主体であり、その本質は静かで、純粋な意識そのものです。しかし、日常の私たちにおいては、この主人は自らの立場を忘れ、あたかも眠っているかのように、御者や馬の暴走に翻弄されています。霊的実践の第一歩は、この忘れられた主人を思い出し、その本来の座に据えることから始まります。

次に「शरीरं रथमेव तु (śarīraṃ rathameva tu)—身体をば、まさにその戦車と」と続きます。身体は、解脱という彼岸へと至るための、かけがえのない貴重な「乗り物」です。戦車が頑丈でなければ旅に耐えられないように、身体もまた健全に維持される必要があります。しかし、戦車はあくまで道具であり、それ自体が旅の目的ではありません。身体を自己そのものと同一視する誤り(देहात्मबुद्धि, dehātmabuddhi)から離れ、それを霊的成長のための神聖な道具として敬意をもって用いることの重要性が示唆されます。

そして、この旅の成否を決定づける重要な役割を担うのが、「बुद्धिं तु सारथिं विद्धि (buddhiṃ tu sārathiṃ viddhi)—理性をば御者と知れ」という教えです。御者(सारथि, sārathi)は、主人の意向を汲み取り、馬(感覚)の性質を熟知し、手綱(精神)を巧みに操って戦車を目的地へと導く、熟練の技術者です。ここでいうबुद्धि (buddhi)は、語源である√बुध् (budh)「目覚める、知る」が示す通り、単なる論理的思考力ではなく、真実と虚偽、永遠と刹那とを識別する、覚醒した叡智を指します。この御者である理性を磨き、鋭敏にすることが、ヨーガの道の核心です。

最後に「मनः प्रग्रहमेव च (manaḥ pragrahameva ca)—精神をば、まさにその手綱と知れ」と結ばれます。मनस् (manas)は、感覚からの刺激を受け取り、思考や感情、欲望を生み出す内的な器官です。それは絶えず揺れ動き、御者である理性の制御がなければ、馬(感覚)を暴走させる原因となります。手綱は、馬の力を抑えつけるためだけのものではなく、そのエネルギーを正しい方向へと導くための繊細な道具です。同様に、精神の働きを理性の下に置き、調和させることが求められます。

この詩節は、私たちの内なる世界に存在する様々な機能を、一つの有機的な全体像として見事に描き出しています。自己の内なる葛藤や混乱を、主人、御者、手綱、戦車という役割分担として客観的に捉え直すことで、私たちは自己統御への明確な道筋を見出すことができるのです。この比喩は、後の節で馬(感覚)と道(感覚の対象)が加わることで完成され、自己の本質へと至るための、時代を超えた普遍的な実践の地図となります。

第1篇 第3章 第4節

इन्द्रियाणि हयानाहुर्विषयाँ स्तेषु गोचरान् ।
आत्मेन्द्रियमनोयुक्तं भोक्तेत्याहुर्मनीषिणः ॥ १.३.४॥
indriyāṇi hayānāhurviṣayāṃ steṣu gocarān |
ātmendriyamanoyuktaṃ bhoktetyāhurmanīṣiṇaḥ || 1.3.4||
感覚器官を馬と呼び、その道筋を感覚の対象と(賢者は言う)。
アートマン、感覚、精神と結び合わされたものを、「享受者」と智者たちは語る。

逐語訳:

  • इन्द्रियाणि (indriyāṇi) - 感覚器官を。(indriya、中性複数対格)
  • हयान् (hayān) - 馬たちと。(haya、男性複数対格)
  • आहुः (āhuḥ) - (彼らは)言う、呼ぶ。(√ब्रू brū「言う」の完了形3人称複数)
  • विषयान् (viṣayān) - 感覚の対象を。(viṣaya、男性複数対格)
  • तेषु (teṣu) - それら(馬=感覚器官)の(ための)。(指示代名詞 tad、男性複数処格)
  • गोचरान् (gocarān) - 活動領域、道筋を。(gocara、男性複数対格)
  • आत्म-इन्द्रिय-मनो-युक्तम् (ātmendriyamanoyuktam) - アートマン(真我)・感覚器官・精神(マナス)と結びつけられたものを。(複合語、中性単数対格)
  • भोक्तृ इति (bhoktṛ iti) → भोक्तेति (bhokteti) - 「享受者」と。(bhoktṛ「享受者」+ iti 引用詞)
  • आहुः (āhuḥ) - (彼らは)言う、語る。
  • मनीषिणः (manīṣiṇaḥ) - 智者たちは。(manīṣin、男性複数主格)

解説:
この詩節において、前節から続く「戦車の比喩」は、その最後の構成要素を加えられ、ついに完成します。主人(アートマン)、戦車(身体)、御者(理性)、手綱(精神)に、ここでは「馬」と「道」が加わり、人間存在の全体像を解き明かす壮大な霊的心理学の地図が描き出されます。

まず「इन्द्रियाणि हयानाहुः (indriyāṇi hayānāhuḥ)—感覚器官を馬と呼ぶ」と語られます。この比喩は実に見事です。馬は力強く、世界を駆け巡る素晴らしい能力を持ちますが、同時に野性的で、制御されなければ乗り手を破滅に導きます。私たちの五つの感覚器官も同様です。それらは世界を認識するための不可欠な道具ですが、理性の制御を離れれば、際限のない欲望へと暴走し、私たちを本来の道から逸脱させます。

そして、その馬が駆ける道として「विषयान् गोचरान् (viṣayān gocarān)—感覚の対象を活動領域と(言う)」と続きます。गोचर (gocara)とは元来「牛が歩き回る場所」、すなわち「牧草地」を意味する言葉です。これは、色、音、香り、味、触感といった感覚の世界が、感覚という馬たちにとって、限りなく魅力的で、つい引き寄せられてしまう牧草地であることを示唆しています。この牧草地で草を食むことに夢中になれば、旅の目的地を見失います。真の探求とは、この道を通り抜けることであり、そこに留まることではないのです。

詩の後半は、この比喩全体の核心へと迫ります。「आत्मेन्द्रियमनोयुक्तं भोक्तेत्याहुर्मनीषिणः (ātmendriyamanoyuktaṃ bhoktretyāhurmanīṣiṇaḥ)—アートマン、感覚、精神と結び合わされたものを、『享受者』と智者たちは語る」。ここで示される「भोक्तृ (bhoktṛ)—享受者」とは、喜びや悲しみ、快楽や苦痛を体験する主体、すなわち私たちが日常的に「私」と認識している個我(ジーヴァートマン)のことです。

この教えが明かす深遠な真理は、この「享受者」としての私が、単一の実体ではないという点にあります。それは、本来は純粋な意識であり、行為も享受もせず、ただ静かに全てを照らす証人(साक्षिन्, sākṣin)である真我(アートマン)が、感覚器官や精神という道具と「結びつく(युक्तम्, yuktam)」ことによって、仮に現れている姿なのです。この結合こそが、世界の経験を生み出すのですが、同時に、アートマンが自らをこの移ろいゆく「享受者」と誤って同一視し、その経験に一喜一憂することが、輪廻の苦しみの根源となります。

智者たち(मनीषिणः, manīṣiṇaḥ)がこの比喩を語るのは、私たちをこの誤った自己同一視から目覚めさせるためです。自己を構成する各要素—主人、御者、手綱、馬、道、そして戦車—を客観的に見つめ、その役割を理解することで、私たちは初めて自己統御への具体的な道筋を見出すことができます。この比喩は、苦しみの体験者である「享受者」から、その体験を静かに見守る「証人」へと視点を移し、真の自己であるアートマンの不動の平安に帰るための、時代を超えた実践的な手引きなのです。

第1篇 第3章 第5節

यस्त्वविज्ञानवान्भवत्ययुक्तेन मनसा सदा ।
तस्येन्द्रियाण्यवश्यानि दुष्टाश्वा इव सारथेः ॥ १.३.५॥
yastvavijñānavānbhavatyayuktena manasā sadā |
tasyendriyāṇyavaśyāni duṣṭāśvā iva sāratheḥ || 1.3.5||
されど、識別知なく、常に調えられぬ精神を持つ者、
その感覚器官は、御者にとっての悪しき馬のごとく、制御しがたいものとなる。

逐語訳:

  • यः (yaḥ) तु (tu) - しかし、そのような(〜である)者。
  • अविज्ञानवान् (avijñānavān) - 識別知を持たない。(a-否定 + vijñāna識別知 + -vat所有、男性単数主格)
  • भवति (bhavati) - 〜である、〜となる。(√भू bhū「ある、なる」、現在法3人称単数)
  • अयुक्तेन (ayuktena) - 統合されていない、調えられていない。(a-否定 + yukta統合された、中性単数具格)
  • मनसा (manasā) - 精神(マナス)によって。(manas、中性単数具格)
  • सदा (sadā) - 常に。(副詞)
  • तस्य (tasya) - その(者の)。(指示代名詞 tad、男性単数属格)
  • इन्द्रियाणि (indriyāṇi) - 感覚器官は。(indriya、中性複数主格)
  • अवश्यानि (avaśyāni) - 制御不能な、従順でない。(a-否定 + vaśya従順な、中性複数主格)
  • दुष्टाश्वाः (duṣṭāśvāḥ) - 悪しき馬たちが。(duṣṭa悪い・堕落した + aśva馬、男性複数主格)
  • इव (iva) - 〜のように。(比較の不変化詞)
  • सारथेः (sāratheḥ) - 御者の。(sārathi、男性単数属格)

解説:
この詩節は、前節までに完成された「戦車の比喩」を現実に適用し、霊的探求における最も危険な状態、すなわち内なる秩序が崩壊した姿を鮮烈に描き出します。ここから次節にかけて示される対比は、自己統御の失敗と成功がもたらす結果を、暗闇と光の二つの道として示し、私たちに深い警告を与えます。

詩は「यस्त्वविज्ञानवान् (yastvavijñānavān)—されど、識別知なき者」という言葉で始まります。विज्ञान (vijñāna)とは、単なる世俗的な知識ではなく、永遠なるものと移ろいゆくもの、真実と虚偽とを明確に見分ける、覚醒した叡智を指します。これは、戦車の旅路を導く御者(सारथि, sārathi)である理性(बुद्धि, buddhi)の、最も本質的な能力です。この識別知を欠いた御者は、目的地を見失ったも同然であり、全ての混乱の根源となります。

さらに深刻なのが、「अयुक्तेन मनसा सदा (ayuktena manasā sadā)—常に調えられぬ精神を持つ」という状態です。युक्त (yukta)は「ヨーガ」という言葉の語源でもあり、統合、調和、結合を意味します。その否定形であるअयुक्त (ayukta)は、手綱である精神(मनस्, manas)が、御者である理性の制御から離れ、絶えず乱れ、散漫になっている状態を表します。「सदा (sadā)—常に」という一語が、これが一時的な心の動揺ではなく、常態化した深刻な無秩序であることを示唆しています。手綱を握る力を失った精神は、もはや感覚という馬を御することができません。

この内なる混乱がもたらす必然的な結果が、「तस्येन्द्रियाण्यवश्यानि (tasyendriyāṇyavaśyāni)—その感覚器官は制御しがたいものとなる」という事態です。अवश्य (avaśya)とは、従順でなく、手に負えないという意味です。感覚器官そのものに善悪はありませんが、理性の導きを失ったとき、それらは欲望の赴くままに暴走を始めます。

この破滅的な状況は、「दुष्टाश्वा इव सारथेः (duṣṭāśvā iva sāratheḥ)—御者にとっての悪しき馬のごとく」という、忘れがたい比喩によって締めくくられます。दुष्ट (duṣṭa)という言葉には、単に「悪い」という意味だけでなく、「堕落した」「破壊的な」という強い響きがあります。訓練されていない悪しき馬が、御者の指示を振り切り、戦車を道から外れさせ、乗り手を破滅に導くように、制御を失った感覚は、私たちを刹那的な快楽という崖へと駆り立て、戦車の主人である真我(アートマン)を忘却の淵へと沈めてしまうのです。

この詩節が示すのは、人間の苦しみの原因は、外的な環境や運命にあるのではなく、自らの内なる秩序の崩壊にあるという、厳しくも明晰な診断です。しかし、この診断は絶望の宣告ではありません。病の原因を正確に知ることこそが、治癒への第一歩であるように、この暗闇の描写は、次節で語られる光、すなわち真の自己統御によってもたらされる調和と平安への道を、より一層輝かせるための序章なのです。

第1篇 第3章 第6節

यस्तु विज्ञानवान्भवति युक्तेन मनसा सदा ।
तस्येन्द्रियाणि वश्यानि सदश्वा इव सारथेः ॥ १.३.६॥
yastu vijñānavānbhavati yuktena manasā sadā |
tasyendriyāṇi vaśyāni sadaśvā iva sāratheḥ || 1.3.6||
されど、識別知をそなえ、常に調えられた精神を持つ者、
その感覚器官は、御者の良き馬のごとく、意のままに従うものとなる。

逐語訳:

  • यः (yaḥ) तु (tu) - されど、しかしながら、そのような(〜である)者。
  • विज्ञानवान् (vijñānavān) - 識別知を持つ、叡智をそなえた。(vijñāna識別知 + -vat所有、男性単数主格)
  • भवति (bhavati) - 〜である、〜となる。(√भू bhū「ある、なる」、現在法3人称単数)
  • युक्तेन (yuktena) - 統合された、調えられた、結ばれた。(yukta統合された、中性単数具格)
  • मनसा (manasā) - 精神(マナス)によって。(manas、中性単数具格)
  • सदा (sadā) - 常に、いつも。(副詞)
  • तस्य (tasya) - その(者の)。(指示代名詞 tad、男性単数属格)
  • इन्द्रियाणि (indriyāṇi) - 感覚器官は。(indriya、中性複数主格)
  • वश्यानि (vaśyāni) - 従順な、制御可能な、意のままになる。(vaśya従順な、中性複数主格)
  • सत्-अश्वाः (sadaśvāḥ) - 良き馬たちが。(sat良い・善なる・真実の + aśva馬、男性複数主格)
  • इव (iva) - 〜のように。(比較の不変化詞)
  • सारथेः (sāratheḥ) - 御者の。(sārathi、男性単数属格)

解説:
前節が内なる秩序の崩壊という暗闇の道を描いたとすれば、この詩節はそこから抜け出す希望の光を、見事な対比をもって鮮やかに描き出します。「यस्तु (yastu)—されど」という一語が、破滅から救済への劇的な転換を告げています。これは絶望の淵から見上げる、解脱へと続く王道への入り口です。

詩の核心は、前節の否定的な要素をすべて肯定的な資質へと転換させる点にあります。まず「अविज्ञानवान् (avijñānavān)—識別知なき者」は、「विज्ञानवान् (vijñānavān)—識別知をそなえた者」へと変わります。このविज्ञान (vijñāna)は、単なる情報の集積ではなく、真実と虚偽、永遠と刹那とを明確に見抜く、覚醒した叡智です。それは、人生という大海原を渡るための、決して揺らぐことのない内なる北極星であり、御者である理性(बुद्धि, buddhi)が持つべき最も重要な能力です。

次に、「अयुक्तेन मनसा (ayuktena manasā)—調えられぬ精神」は、「युक्तेन मनसा सदा (yuktena manasā sadā)—常に調えられた精神」へと昇華されます。युक्त (yukta)とは、ヨーガ(yoga)の語源である√युज् (yuj)「結ぶ、くびきにつなぐ」から派生した言葉で、ここでは精神(マナス)が理性と完全に統合され、調和している状態を示します。それは散漫な思考や感情の波が静まり、内なる静寂と力が満ちている境地です。「सदा (sadā)—常に」という語が、これが一過性の体験ではなく、確立された心のあり方であることを強調しています。

このような内なる調和が確立されたとき、必然的に訪れるのが「तस्येन्द्रियाणि वश्यानि (tasyendriyāṇi vaśyāni)—その感覚器官は、意のままに従うものとなる」という状態です。前節の「अवश्यानि (avaśyāni)—制御不能な」とは正反対の「वश्यानि (vaśyāni)—意のままになる」という言葉が、自己統御の完成を宣言します。感覚はもはや暴れ馬ではなく、主人の意図を汲み取り、目的地へと向かう力強いエネルギーへと変容するのです。

この理想的な状態は、「सदश्वा इव सारथेः (sadaśvā iva sāratheḥ)—御者の良き馬のごとく」という、力強くも美しい比喩によって完璧に表現されます。「दुष्टाश्वा (duṣṭāśvā)—悪しき馬」が破滅へと暴走する破壊的な力であったのに対し、「सदश्वा (sadaśvā)—良き馬」は、洗練され、訓練された高貴な力です。सत् (sat)という語には「良い」という意味に加え、「真実の、実在する」という深い意味合いも含まれます。良き馬とは、その本質に忠実で、御者の意図と完全に一体化した、創造的なエネルギーの象徴なのです。

この詩節が描くのは、手の届かない理想郷ではありません。それは、自己の内なる声に耳を澄まし、日々の選択において理性の光を頼りとするすべての人が、一歩ずつ近づくことのできる、内なる王国の姿です。この内なる調和こそが、次節以降で語られる、輪廻を超えた究極の目的地へと至るための、唯一確かな道筋となります。

第1篇 第3章 第7節

यस्त्वविज्ञानवान्भवत्यमनस्कः सदाऽशुचिः ।
न स तत्पदमाप्नोति संसारं चाधिगच्छति ॥ १.३.७॥
yastvavijñānavānbhavatyamanaskaḥ sadā'śuciḥ |
na sa tatpadamāpnoti saṃsāraṃ cādhigacchati || 1.3.7||
されど、識別知を欠き、心定まらず、常に不浄なる者、
かの者はその境地に至ることなく、輪廻のただ中へと還りゆく。

逐語訳:

  • यः (yaḥ) तु (tu) - されど、そのような(〜である)者。
  • अविज्ञानवान् (avijñānavān) - 識別知を持たない者。(a-否定 + vijñāna識別知 + -vat所有、男性単数主格)
  • भवति (bhavati) - 〜である、〜となる。(√भू bhū「ある、なる」、現在法3人称単数)
  • अमनस्कः (amanaskaḥ) - 心が制御できない、心が定まらない。(a-否定 + manas心 + -ka形容詞語尾、男性単数主格)
  • सदा (sadā) - 常に。(副詞)
  • अशुचिः (aśuciḥ) - 不浄な、清らかでない。(a-否定 + śuci清浄、男性単数主格)
  • न (na) - 〜ない。(否定詞)
  • सः (saḥ) - その者は。(指示代名詞 tad、男性単数主格)
  • तत् पदम् (tat padam) - その境地を。(tat その + pada 境地・場所、中性単数対格)
  • आप्नोति (āpnoti) - 到達する、得る。(√आप् āp、現在法3人称単数)
  • संसारम् (saṃsāram) - 輪廻を。(saṃsāra、男性単数対格)
  • च (ca) - そして。(接続詞)
  • अधिगच्छति (adhigacchati) - 赴く、陥る、再び得る。(adhi + √गम् gam「行く」、現在法3人称単数)

解説:
この詩節は、前節までで示された二つの道の対比を、その究極的な結末という形で完結させます。第5節で「悪しき馬」に喩えられた内なる混乱は、ここで三つの致命的な欠陥として具体的に示され、その必然的な帰結として輪廻の苦界への転落が厳粛に宣告されます。これは単なる脅しではなく、霊的な旅路における因果の法則をありのままに説く、深い慈悲に満ちた診断書です。

詩の前半では、霊的な破滅を招く三つの根本原因が挙げられます。
第一に「अविज्ञानवान् (avijñānavān)—識別知を欠き」。御者である理性(ブッディ)が、永遠なるものと移ろいゆくものを峻別する叡智विज्ञान (vijñāna)を失った状態です。目的地を示す羅針盤を失った御者は、戦車をどこへも導くことができません。

第二に「अमनस्कः (amanaskaḥ)—心定まらず」。これは第5節のअयुक्तेन मनसा (ayuktena manasā)「調えられぬ精神」よりもさらに深刻な状態です。手綱である精神(マナス)がもはや理性の制御下になく、ばらばらに散乱し、一点に集中する力を完全に失っています。それは、ただ緩んでいるのではなく、御者の手から完全に離れてしまった手綱のようなものです。

第三に「सदा अशुचिः (sadā aśuciḥ)—常に不浄なる者」。शुचि (śuci)はヨーガの修練で求められる清浄性を指し、単なる外面的な清潔さではありません。貪欲、怒り、利己心といった動機や思考の汚れに、心が「सदा (sadā)—常に」支配されている状態を示します。このような不浄な心身では、高次の真理を受け入れることはできません。

これらの欠陥を持つ者に待ち受ける運命が、「न स तत्पदमाप्नोति (na sa tatpadamāpnoti)—かの者はその境地に到達することなく」という宣告です。この「तत् पदम् (tat padam)—その境地」とは、後に「ヴィシュヌの最高境地」(1.3.9)として明かされる、輪廻を超えた不滅の境地、解脱(モークシャ)の至福です。内なる秩序を失った者は、この究極の目的地へ至る道を自ら閉ざしてしまいます。

そして、その最終的な行き着く先が、「संसारं चाधिगच्छति (saṃsāraṃ cādhigacchati)—輪廻のただ中へと還りゆく」という悲劇的な現実です。संसार (saṃsāra)とは、生と死を果てしなく繰り返す苦しみの流れです。ここで用いられる動詞अधिगच्छति (adhigacchati)には、「(元の場所に)戻る、陥る」というニュアンスがあり、目的地に到達できないだけでなく、再び苦しみの渦へと深く沈んでいく様を描き出しています。

しかし、この厳しい宣告は、絶望の言葉ではありません。病の根本原因を明確に示すことは、治癒への道筋を照らし出すことに他なりません。識別知を磨き、心を制御し、内外の清浄を保つこと。この詩節が示す暗闇は、次節で語られる光の道がいかに尊いものであるかを、私たちに深く教えてくれるのです。

第1篇 第3章 第8節

यस्तु विज्ञानवान्भवति समनस्कः सदा शुचिः ।
स तु तत्पदमाप्नोति यस्माद्भूयो न जायते ॥ १.३.८॥
yastu vijñānavānbhavati samanaskaḥ sadā śuciḥ |
sa tu tatpadamāpnoti yasmādbhūyo na jāyate || 1.3.8||
されど、識別知をそなえ、常に心整い、清浄なる者は、
かの境地に到達する。そこからは、二度と生まれることはない。

逐語訳:

  • यः (yaḥ) तु (tu) - されど、しかしながら、そのような(〜である)者。
  • विज्ञानवान् (vijñānavān) - 識別知を持つ者。(vijñāna識別知 + -vat所有、男性単数主格)
  • भवति (bhavati) - 〜である、〜となる。(√भू bhū「ある、なる」、現在法3人称単数)
  • समनस्कः (samanaskaḥ) - 心が(理性と)共にあり、整った者。(sa-共に + manas心 + -ka形容詞語尾、男性単数主格)
  • सदा (sadā) - 常に。(副詞)
  • शुचिः (śuciḥ) - 清浄な、純粋な。(śuci清浄、男性単数主格)
  • सः (saḥ) तु (tu) - その者こそ、まさにその者は。(指示代名詞 tad、男性単数主格 + 強調詞)
  • तत् पदम् (tat padam) - その境地を。(tatその + pada境地・場所・足跡、中性単数対格)
  • आप्नोति (āpnoti) - 到達する、得る。(√आप् āp、現在法3人称単数)
  • यस्मात् (yasmāt) - そこから。(関係代名詞 yad、中性単数奪格)
  • भूयः (bhūyaḥ) - 再び、さらに。(副詞)
  • न (na) - 〜ない。(否定詞)
  • जायते (jāyate) - 生まれる。(√जन् jan「生む」、現在法3人称単数中動態)

解説:
前節が、内なる秩序を失った者が輪廻(संसार, saṃsāra)の渦へと沈みゆく暗闇の道を描いたとすれば、この詩節はそこから一転して、救済へと至る輝かしい光の道を宣言します。これは、カタ・ウパニシャッドが示す「二つの道」の教えの頂点であり、自己統御の完成がもたらす究極の希望を、見事な対比をもって描き出しています。

詩の前半は、前節で示された霊的破滅の三つの原因を、そのまま克服した三つの完成された資質として提示します。
第一に「विज्ञानवान् (vijñānavān)—識別知をそなえ」。これは前節の「अविज्ञानवान् (avijñānavān)—識別知を欠き」の完全な対極です。この識別知は、単なる世俗的な知識ではなく、永遠なる真我(アートマン)と移ろいゆく非我とを明確に見分ける、覚醒した叡智です。戦車の御者である理性(बुद्धि, buddhi)がこの不動の羅針盤を手にしたとき、旅路に迷いはありません。

第二に「समनस्कः (samanaskaḥ)—心整い」。前節の「अमनस्कः (amanaskaḥ)—心定まらず」とは正反対の境地です。समनस्कः (samanaskaḥ)とは、手綱である精神(मनस्, manas)が、御者である理性と完全に調和・統合されている状態を指します。散漫な思考や感情の波が静まり、一点に集中する力と内なる静寂が満ちているのです。

第三に「सदा शुचिः (sadā śuciḥ)—常に清浄なる者」。これは前節の「सदा अशुचिः (sadā aśuciḥ)—常に不浄なる者」からの完全な変容です。शुचि (śuci)とは、外面的な清潔さを超えた、心身における純粋性を意味します。貪欲や怒りといった心の汚れが浄化され、高次の真理を受け入れるための神聖な器として整えられた状態です。「सदा (sadā)—常に」という一語が、これが一過性の体験ではなく、確立された存在のあり方であることを力強く示唆しています。

これらの資質を完成させた者に約束されるのが、「स तु तत्पदमाप्नोति (sa tu tatpadam āpnoti)—その者こそ、かの境地に到達する」という厳粛な宣言です。ここでの「तु (tu)」は単なる接続詞ではなく、「まさにその者こそが」という強い強調を含み、前節の者との運命の決定的な違いを際立たせています。「तत् पदम् (tat padam)—その境地」とは、輪廻を超えた不滅の境地、次節で「ヴィシュヌの最高境地」と明かされる、至高の実在を指します。

そして詩の結びでは、その境地の本質が「यस्माद्भूयो न जायते (yasmādbhūyo na jāyate)—そこからは、二度と生まれることはない」という言葉で定義されます。これは、ウパニシャッド哲学が目指す究極の目標、解脱(मोक्ष, mokṣa)そのものです。生と死を果てしなく繰り返す苦しみのサイクルからの完全な解放、भूयः (bhūyaḥ)—「再び」生まれることのない、永遠の自由と平安がここに約束されるのです。

この詩節は、戦車の比喩を通じて語られてきた自己統御の教えが、どこへ至るのかを明確に示しています。それは単なる倫理的な完成ではなく、存在そのものの変容であり、人間の苦しみの根源からの解放です。この力強い宣言は、すべての探求者に対し、永遠の希望の光を灯しています。

第1篇 第3章 第9節

विज्ञानसारथिर्यस्तु मनः प्रग्रहवान्नरः ।
सोऽध्वनः पारमाप्नोति तद्विष्णोः परमं पदम् ॥ १.३.९॥
vijñānasārathiryastu manaḥ pragrahavānnaraḥ |
so'dhvanaḥ pāramāpnoti tadviṣṇoḥ paramaṃ padam || 1.3.9||
識別知を御者とし、精神という手綱を確かに握る者、
その者は旅路の彼岸に到達する。それこそが、ヴィシュヌの至高の境地である。

逐語訳:

  • विज्ञान-सारथिः (vijñāna-sārathiḥ) यः (yaḥ) तु (tu) - 識別知を御者とする、されどその者は。(vijñāna識別知 + sārathi御者、という複合語。yaḥは関係代名詞、tuは接続詞)
  • मनः-प्रग्रहवान् (manaḥ-pragrahavān) - 精神(という)手綱を持つ者。(manas精神 + pragraha手綱 + -vat所有、男性単数主格)
  • नरः (naraḥ) - 人は、人間は。(nara、男性単数主格)
  • सः (saḥ) - その者は。(指示代名詞 tad、男性単数主格)
  • अध्वनः (adhvanaḥ) - 旅路の。(adhvan道・旅路、男性単数属格)
  • पारम् (pāram) - 彼岸を、向こう岸を。(pāra彼岸、中性単数対格)
  • आप्नोति (āpnoti) - 到達する、得る。(√आप् āp「得る」、現在法3人称単数)
  • तत् (tat) - それ(は)。(指示代名詞、中性単数主格)
  • विष्णोः (viṣṇoḥ) - ヴィシュヌの。(viṣṇu、男性単数属格)
  • परमम् पदम् (paramam padam) - 至高の境地。(parama至高の + pada境地・場所。padaは中性単数主格で、tatの述語)

解説:
この詩節は、戦車の比喩を通じて展開されてきた自己統御の教えの壮大なる頂点であり、霊的な旅路の究極的な目的地を宣言する記念碑的なクライマックスです。これまで断片的に語られてきた御者、手綱、馬、そして道という要素が、ここで解脱という一つの輝かしいヴィジョンへと完全に統合されます。

詩の前半に示される理想的な探求者の姿は、「विज्ञानसारथिः (vijñānasārathiḥ)—識別知を御者とし」という荘厳な表現に集約されています。先の詩節では理性(बुद्धि, buddhi)が御者とされましたが、ここではその理性の本質がविज्ञान (vijñāna)、すなわち霊的な識別知であることが明かされます。これは単なる論理的な思考力ではなく、永遠なる実在と移ろいゆく現象とを明確に見抜く、覚醒した叡智です。この光に導かれてこそ、御者は戦車を迷いなく最終目的地へと進めることができます。

さらに、その者は「मनः प्रग्रहवान् (manaḥ pragrahavān)—精神という手綱を確かに握る者」です。これは、絶えず揺れ動く精神(मनस्, manas)が、識別知に導かれた理性によって完全に制御されている状態を示します。もはや感覚という馬に引きずられることなく、主人の意図に完全に従う、しなやかで力強い手綱です。これら二つの資質を兼ね備えた者こそが、真の意味で完成されたनरः (naraḥ)、すなわち「人間」として、この偉大な旅を完遂できるのです。

このような完成された者に約束される栄光ある運命が、「अध्वनः पारमाप्नोति (adhvanaḥ pāram āpnoti)—旅路の彼岸に到達する」という言葉で示されます。このअध्वन् (adhvan)「旅路」とは、生と死を果てしなく繰り返す輪廻(संसार, saṃsāra)という苦しみの海を渡る長大な道のりです。その「पारम् (pāram)—彼岸」とは、苦しみの此岸を渡りきった向こう岸、すなわち輪廻からの完全な解放、解脱(मोक्ष, mokṣa)の境地を指します。

そして詩の結びで、その境地の正体が「तद्विष्णोः परमं पदम् (tadviṣṇoḥ paramaṃ padam)—それこそが、ヴィシュヌの至高の境地である」と高らかに宣言されます。この「ヴィシュヌの至高の境地」という表現は、聖典リグ・ヴェーダにまで遡る、解脱を象徴する極めて神聖な言葉です。ここでいうヴィシュヌ神は、特定の神格という以上に、「遍く満ちる者(√विश्, viś)」という語源が示すように、宇宙全体に浸透する根源的な実在、すなわちブラフマンそのものを象徴しています。したがって、この境地に到達することは、有限な個我の意識が、無限の宇宙意識と完全に一つになる、非二元の究極体験を意味します。

この詩節が示すのは、自己の内なる秩序を確立するというヨーガの実践が、単なる心理的な安定や倫理的な完成に留まるものではないということです。それは、存在そのものの根本的な変容であり、有限な自我から無限の実在への、神的な次元への飛翔なのです。ナチケータの探求の旅が、ついにその最終目的地を指し示した、希望に満ちた輝かしい一節です。

第1篇 第3章 第10節

इन्द्रियेभ्यः परा ह्यर्था अर्थेभ्यश्च परं मनः ।
मनसस्तु परा बुद्धिर्बुद्धेरात्मा महान्परः ॥ १.३.१०॥
indriyebhyaḥ parā hyarthā arthebhyaśca paraṃ manaḥ |
manasastu parā buddhirbuddherātmā mahānparaḥ || 1.3.10||
感覚器官を超えて対象はあり、対象を超えて精神はある。
精神を超えて理性はあり、理性をも超えるは、偉大なる真我である。

逐語訳:

  • इन्द्रियेभ्यः (indriyebhyaḥ) - 感覚諸器官よりも。(indriya感覚器官、中性複数奪格)
  • परा हि अर्था (parā hi arthā) - 実に、諸対象は優れている。(hiは連声によりhyとなり、parāḥarthāḥの語末ヴィサルガは韻律の都合上脱落。parāḥparaの男性複数主格、arthāḥartha(男性名詞)の複数主格)
  • अर्थेभ्यः (arthebhyaḥ) च (ca) - そして、諸対象よりも。(artha、男性複数奪格)
  • परं (param) मनः (manaḥ) - 精神は、より優れている。(paramparaの中性単数主格。manaḥは中性単数主格)
  • मनसः (manasaḥ) तु (tu) - されど、精神よりも。(manas、中性単数奪格)
  • परा (parā) बुद्धिः (buddhiḥ) - 理性は、より優れている。(parāparaの女性単数主格。buddhiḥは女性単数主格)
  • बुद्धेः (buddheḥ) - 理性よりも。(buddhi、女性単数奪格)
  • आत्मा महान् (ātmā mahān) - 偉大なる真我は。(ātman、男性単数主格。mahān、男性単数主格)
  • परः (paraḥ) - より優れている、超越している。(para、男性単数主格)

解説:
この詩節は、前節で示された「ヴィシュヌの至高の境地」へと至る内なる道筋を、存在の階層構造として描き出す、ウパニシャッド哲学の核心をなす教えです。これは単なる概念の序列ではなく、粗大なものから微細なものへ、外なる世界から内なる根源へと意識を深めていく、瞑想的な旅路の地図そのものです。

この詩節を貫くキーワードはपर (para)です。この語は「より高い」「優れた」と訳せますが、それ以上に「超越した」「彼方にある」「より微細な」「より根源的な」といった深いニュアンスを内包しています。したがって、ここで示される階層は、単なる優劣関係ではなく、より微細で根源的なものが、より粗大で現象的なものを内側から支え、包み込んでいるという構造を示しています。

第一段階「感覚器官を超えて対象はあり」は、自己の内なる旅の出発点を示します。私たちの意識は、まず五つの感覚器官(馬)を通じて、外界の対象(道)に触れます。ここで教えられるのは、感覚器官という道具そのものよりも、それが捉える対象世界の方が、より広大で根源的であるという視点です。

第二段階「対象を超えて精神はある」は、意識が内側へと向かう次なるステップです。外界から入ってくる無数の感覚情報(色、音、香りなど)は、そのままでは単なる断片に過ぎません。それらを統合し、「これは美しい花だ」というような意味のある一つの経験へとまとめ上げるのが、精神(मनस्, manas)の働きです。この統合し思考する内なる働きは、外界の対象よりも、さらに微細で高次の次元にあります。これは戦車の比喩における手綱に相当します。

第三段階「精神を超えて理性はあり」は、旅の舵取り役の登場です。絶えず移ろい、感情に揺れ動く精神の働きを静かに見つめ、その中から永遠なるものと移ろいゆくもの、善と悪とを明確に「識別」する力、それが理性(बुद्धि, buddhi)です。この覚醒した識別知こそが、戦車を正しく導く御者の本質です。

そして、この内なる上昇の頂点として、「理性をも超えるは、偉大なる真我である」と宣言されます。個人の識別能力である理性さえも、究極の実在ではありません。その理性を成り立たせ、全ての精神活動の光の源となっているのが、「偉大なる真我」(महान् आत्मा, mahān ātmā)です。ここでमहान् (mahān)、すなわち「偉大なる」と形容されるアートマンは、個人の自己を超えた、宇宙的な広がりを持つ普遍的な自己を指します。これは、戦車の比喩における、御者をも超えた、戦車の真の「主人」に他なりません。

この詩節が描くのは、瞑想を通じて自己の深みへと分け入っていくプロセスそのものです。雑多な外界の対象から離れ、自らの心の働きに気づき、さらにその働きを静かに見つめる観察者(理性)を確立し、ついにはその観察者という感覚さえも溶け込んでいく、広大で静寂な真我の境地へと至る。この詩節は、その深遠な旅路を歩むすべての人々にとって、時代を超えた確かな導きとなるでしょう。

第1篇 第3章 第11節

महतः परमव्यक्तमव्यक्तात्पुरुषः परः ।
पुरुषान्न परं किंचित्सा काष्ठा सा परा गतिः ॥ १.३.११॥
mahataḥ paramavyaktamavyaktātpuruṣaḥ paraḥ |
puruṣānna paraṃ kiṃcitsā kāṣṭhā sā parā gatiḥ || 1.3.11||
偉大なる真我を超えて未顕現はあり、未顕現を超えてプルシャは在る。
プルシャを超えるものは何ひとつない。それこそが究極の到達点、それこそが至高の帰趨である。

逐語訳:

  • महतः (mahataḥ) - 偉大なるもの(前節のमहान् आत्मा, mahān ātmā)よりも。(mahat、中性単数奪格)
  • परम् (param) - 超越した、より微細な。(para、中性単数主格)
  • अव्यक्तम् (avyaktam) - 未顕現なるもの。(avyakta、中性単数主格)
  • अव्यक्तात् (avyaktāt) - 未顕現なるものよりも。(avyakta、中性単数奪格)
  • पुरुषः (puruṣaḥ) - プルシャ、純粋意識、至高の実在。(puruṣa、男性単数主格)
  • परः (paraḥ) - 超越した、より微細な。(para、男性単数主格)
  • पुरुषात् न (puruṣāt na) - プルシャより~ない。(puruṣātは奪格、naは否定詞。連声してपुरुषान्न (puruṣānna)となる)
  • परं (param) - 超越したもの。(para、中性単数主格)
  • किंचित् (kiṃcit) - 何ものも。(不定代名詞)
  • सा (sā) - それが。(指示代名詞tad、女性単数主格。後続のकाष्ठाを指す)
  • काष्ठा (kāṣṭhā) - 究極、頂点、到達点。(女性単数主格)
  • सा (sā) - それが。(指示代名詞tad、女性単数主格。後続のगतिःを指す)
  • परा (parā) - 至高の、最高の。(para、女性単数主格)
  • गतिः (gatiḥ) - 帰趨、行くべき所、境地。(gati、女性単数主格)

解説:
この詩節は、前節から続く存在の階層構造を、その荘厳なる頂点まで描き切る、ウパニシャッド哲学の精髄です。ここでは、内なる探求の道が個人の意識の領域を突き抜け、宇宙全体の根源へと至る壮大なヴィジョンが展開されます。それは、瞑想の深化とともに、粗大な現象世界から最も微細な実在へと意識が遡っていく旅路の、最終目的地を指し示しています。

詩の前半は、存在の階層をさらに二段階、引き上げます。
まず、「偉大なる真我を超えて未顕現はあり」と説かれます。前節の階層の頂点であった「偉大なる真我」(महान् आत्मा, mahān ātmā)は、個の意識が宇宙的な広がりを得た状態でした。しかし、それすらも究極ではありません。それを超える、さらに微細で根源的な次元として「未顕現」(अव्यक्तम्, avyaktam)が提示されます。これは、サーンキヤ哲学における根本原質(प्रकृति, prakṛti)の原初の状態に相当し、名と形を持つすべての現象世界が、いまだ分化せず可能性として眠っている、宇宙の種子とも言うべき状態です。個人の意識の顕現よりも、その源である未分化の宇宙原理の方が、より根源的であるとされます。

次に、「未顕現を超えてプルシャは在る」と、ついに階層の最高峰が宣言されます。変化し、展開していく宇宙の物質的・エネルギー的根源である「未顕現」を超えて、それを静かに照らし出す、永遠不変の純粋意識「プルシャ」(पुरुषः, puruṣaḥ)が位置づけられます。プルシャは、いかなる変化にも染まらず、ただ存在する純粋な観照者であり、すべての認識と存在の光の源です。ここでは、サーンキヤ哲学の二元論的な枠組み(プルシャとプラクリティ)を超え、プルシャが唯一絶対の最高実在、ヴェーダーンタ哲学のブラフマンに相当するものとして崇められています。

そして、この階層の頂点として、「プルシャを超えるものは何ひとつない」という絶対的な宣言がなされます。これ以上に探求すべき微細な次元も、超越すべき実在も存在しません。すべての探求の旅路は、この一点に収斂します。

この究極の実在の本質が、詩の結びで二つの力強い言葉によって定義されます。「それこそが究極の到達点सा काष्ठा, sā kāṣṭhā)、それこそが至高の帰趨सा परा गतिः, sā parā gatiḥ)」。काष्ठा (kāṣṭhā)とは、もともと「旅の道のりの果て」「木の先端」を意味し、これ以上進むことのできない最終地点を示します。またगतिः (gatiḥ)は「行くこと」や「道」を意味しますが、ここでは「帰り着くべき場所、究極の拠り所」を指します。「至高の帰趨」とは、生と死を繰り返す輪廻の旅路(संसार-गति, saṃsāra-gati)を終え、永遠の平安へと帰り着く、解脱(मोक्ष, mokṣa)の境地そのものです。

この詩節は、自己の内なる探求が、最終的には個人の枠を超え、宇宙の根源である純粋意識との合一に至ることを示しています。それは、人間の意識が到達しうる最も高遠な目的地を指し示す、希望に満ちた永遠の道標なのです。

第1篇 第3章 第12節

एष सर्वेषु भूतेषु गूढोऽऽत्मा न प्रकाशते ।
दृश्यते त्वग्र्यया बुद्ध्या सूक्ष्मया सूक्ष्मदर्शिभिः ॥ १.३.१२॥
eṣa sarveṣu bhūteṣu gūḍho''tmā na prakāśate |
dṛśyate tvagrayayā buddhyā sūkṣmayā sūkṣmadarśibhiḥ || 1.3.12||
この真我は、すべての存在の中に深く隠され、その姿を現さない。
されど、鋭く研ぎ澄まされた微細な理性によって、微細なるものを見通す賢者たちには観られるのである。

逐語訳:

  • एषः आत्मा (eṣaḥ ātmā) - この真我は。(eṣaḥ指示代名詞、男性単数主格。ātmāātman、男性単数主格。連声によりएष... गूढोऽऽत्मा (eṣa... gūḍho''tmā)となる)
  • सर्वेषु भूतेषु (sarveṣu bhūteṣu) - すべての存在(生きとし生けるもの)の中に。(sarva「全て」、bhūta「存在」、共に中性複数位格)
  • गूढः (gūḍhaḥ) - 深く隠された。(√गुह् guh「隠す」の過去受動分詞、男性単数主格)
  • न प्रकाशते (na prakāśate) - 姿を現さない、光り輝かない。(na否定詞 + prakāśate √प्रकाश् prakāś「輝く」の現在法3人称単数中動態)
  • दृश्यते (dṛśyate) तु (tu) - されど、観られる。(dṛśyate √दृश् dṛś「見る」の現在法3人称単数受動態 + tu接続詞)
  • अग्र्यया (agrayayā) - 鋭く研ぎ澄まされた、一点に集中した。(agrya「先端の、最高の」、女性単数具格)
  • बुद्ध्या (buddhyā) - 理性によって。(buddhi「理性、識別知」、女性単数具格)
  • सूक्ष्मया (sūkṣmayā) - 微細な。(sūkṣma「微細な、精妙な」、女性単数具格)
  • सूक्ष्मदर्शिभिः (sūkṣmadarśibhiḥ) - 微細なるものを見通す賢者たちによって。(複合語sūkṣma-darśin「微細なものを見る者」の男性複数具格)

解説:
前節において、存在の階層構造の頂点、すなわち究極の到達点として「プルシャ」(至高の実在)が示されました。この詩節は、その壮大な宣言を受けて、ではその究極の実在を、私たちは一体どのようにして認識できるのか、という根源的な問いに答えるものです。ここには、ウパニシャッド思想の核心をなす深遠な逆説が、美しく凝縮されています。

詩の前半が示すのは、その認識がいかに困難であるかという現実です。「この真我は、すべての存在の中に深く隠され、その姿を現さない」。このएषः आत्मा (eṣaḥ ātmā)、すなわち真我・プルシャは、特別な場所に限定されるものではなく、「すべての存在の中に」(सर्वेषु भूतेषु, sarveṣu bhūteṣu)遍在しています。それは、私たち自身の最も内なる本質であり、万物の核心に宿る光です。しかし、それほど身近でありながら、それは同時に「深く隠されて」(गूढः, gūḍhaḥ)います。私たちの日常的な意識は、感覚器官(馬)に引かれて絶えず外側の現象世界(道)へと向かっているため、自己の最も内奥に在るこの静かなる実在に気づくことができません。欲望や怒り、恐れといった心の絶え間ない波立ち(वृत्ति, vṛtti)が、鏡の表面を曇らせるように、真我の姿を覆い隠してしまうのです。この隠された状態こそが、霊的な無明(अविद्या, avidyā)の本質です。

しかし、詩の後半は、絶望の中に輝く一筋の光明のように、その認識への道を力強く指し示します。「されど、鋭く研ぎ澄まされた微細な理性によって、微細なるものを見通す賢者たちには観られるのである」。この隠された宝を観るためには、特別な「眼」が必要となります。それは、बुद्धि (buddhi)、すなわち理性です。しかし、それは日常的な思考や分析を行う知性ではありません。ここで要求されるのは、「鋭く研ぎ澄まされ」(अग्र्यया, agrayayā)、「微細な」(सूक्ष्मया, sūkṣmayā)理性です。

अग्र्य (agrya)とは「先端の」という意味が元にあり、一点に集中して他の何ものにも揺るがない、刃のように鋭い洞察力を指します。また、सूक्ष्म (sūkṣma)、「微細」とは、粗大な物質世界や感情の次元を超えた、より精妙で根源的な次元を捉える能力です。これは、瞑想の実践を通じて、心の波立ちを鎮め、内へ内へと深く沈潜していくことで初めて得られるものです。この研ぎ澄まされた識別知(ヨーガ哲学ではविवेकख्याति, vivekakhyāti と呼ばれます)を持つ者こそが、「微細なるものを見通す賢者」(सूक्ष्मदर्शिन्, sūkṣmadarśin)なのです。

この詩節は、真理の探求が、書物を読んだり思索を巡らせたりするだけでは完結しないことを教えています。それは、自己の内なる意識を浄化し、研ぎ澄まし、その最も精妙な次元へと分け入っていく、生涯をかけた実践の道です。戦車の比喩に重ね合わせるなら、御者たる理性が、外界の喧騒から注意を引き戻し、戦車の真の主人である真我そのものに、静かに、そして鋭く意識を向けた時にのみ、その姿は観られるのです。遍在するがゆえに誰の内にでも見出されうる可能性と、隠されているがゆえに純粋な探求者のみが見出しうる希少性。この美しい逆説こそが、古来、数多の求道者たちを魅了し続けてきた、ウパニシャッドの叡智の輝きです。

第1篇 第3章 第13節

यच्छेद्वाङ्मनसी प्राज्ञस्तद्यच्छेज्ज्ञान आत्मनि ।
ज्ञानमात्मनि महति नियच्छेत्तद्यच्छेच्छान्त आत्मनि ॥ १.३.१३॥
yacchedvāṅmanasī prājñastadyaccejjñāna ātmani |
jñānamātmani mahati niyacchet tadyacchecchānta ātmani || 1.3.13||
賢者は、言葉と精神を理性のうちに収めるべし。
その理性を、偉大なる真我のうちに収め、
その偉大なる真我を、静寂なる真我のうちに収めるべし。

逐語訳:

  • यच्छेत् (yacchet) - 収めるべきである、制御すべきである。(√यम् yam「制御する」の願望法3人称単数)
  • वाङ्मनसी (vāṅmanasī) - 言葉と精神を。(vāc「言葉」とmanas「精神」の複合語、双数対格)
  • प्राज्ञः (prājñaḥ) - 賢者は。(prājña「賢明な者」、男性単数主格)
  • तत् (tat) यच्छेत् (yacchet) - それを収めるべきである。
  • ज्ञाने आत्मनि (jñāne ātmani) - 知識の自己(=理性)のうちに。(jñāna-ātmanの位格。文脈上、前節までのbuddhi「理性」を指す)
  • ज्ञानम् (jñānam) - その理性(知識の自己)を。(jñāna-ātmanを指す、対格)
  • आत्मनि महति (ātmani mahati) - 偉大なる真我のうちに。(位格)
  • नियच्छेत् (niyacchet) - 深く収めるべきである、完全に制御すべきである。(ni(完全に)+ √यम् yamの願望法3人称単数)
  • तत् (tat) - それを。(mahān ātman「偉大なる真我」を指す)
  • यच्छेत् (yacchet) - 収めるべきである。
  • शान्ते आत्मनि (śānte ātmani) - 静寂なる真我のうちに。(位格)

解説:
この詩節は、ウパニシャッドの教えが単なる哲学理論ではなく、具体的な自己変容のための実践技法であることを示す、極めて重要な一節です。前節までで示された存在の階層(感覚→対象→精神→理性→偉大なる真我→未顕現→プルシャ)を、今度は逆の順序で、粗大なものから微細なものへと「内側へ折りたたんでいく」瞑想のプロセスとして、段階的に描き出しています。これは、戦車の御者が馬と手綱を巧みに制御し、意識を戦車の真の主人へと向けるプロセスを、ヨーガ的な内観の技法として明示したものです。

第一段階は「賢者は、言葉と精神を理性のうちに収めるべし」です。ここでいうवाच् (vāc)(言葉)は、外面的な発話だけでなく、内なる思考の働きをも含みます。मनस् (manas)(精神)は、感情や欲望、記憶といった絶え間なく揺れ動く心の働き全般を指します。賢者(प्राज्ञः, prājñaḥ)とは、これらの散漫になりがちなエネルギーを意識的に制御し、内側へと向け、ज्ञान आत्मन् (jñāna ātman)、すなわち前節までの文脈におけるबुद्धि (buddhi)(理性・識別知)の内に収める人のことです。これは、自己の思考や感情の乱れを、静かな観察者である理性の光のもとに置き、その支配から自由になる瞑想の第一歩に他なりません。

第二段階は「その理性を、偉大なる真我のうちに収め」と続きます。ここでは、識別する主体としての理性(ज्ञान आत्मन्)さえも、その源である「偉大なる真我(महान् आत्मा, mahān ātmā)」に収めることが求められます。これは、個としての「私が」識別し、制御している、という感覚を手放し、自己をより広大で普遍的な宇宙的意識の次元へと明け渡す段階です。ここで動詞がयच्छेत् (yacchet)から、接頭辞नि (ni)のついたनियच्छेत् (niyacchet)に変わっていることは、このプロセスがより深く、完全な帰入であることを示唆しています。

そして最終段階として、「その偉大なる真我を、静寂なる真我のうちに収めるべし」と、旅の終着点が示されます。宇宙的意識である「偉大なる真我」さえも、最後には、あらゆる活動が完全に静まり、分化する以前の究極の根源である「静寂なる真我(शान्त आत्मन्, śānta ātman)」へと収められます。この「静寂なる真我」こそ、1.3.11で「プルシャ(पुरुषः, puruṣaḥ)」として示された、絶対的な実在そのものです。そこには観る者も観られるものもなく、主体と客体の区別も消え、ただ純粋な存在の至福に満ちた静寂が広がっています。

この詩節は、ヨーガ哲学の中心的な実践である制心(चित्तवृत्तिनिरोध, citta-vṛtti-nirodha)のプロセスを、見事な詩的言語で表現したものです。それは、外向きの意識を段階的に内へと収斂させ、最終的には個の意識を絶対的な実在へと溶け込ませる解脱への道筋を、確かな地図として私たちの前に描き出しているのです。

第1篇 第3章 第14節

उत्तिष्ठत जाग्रत
प्राप्य वरान्निबोधत ।
क्षुरस्य धारा निशिता दुरत्यया
दुर्गं पथस्तत्कवयो वदन्ति ॥ १.३.१४॥
uttiṣṭhata jāgrata
prāpya varānnibodhata |
kṣurasya dhārā niśitā duratyayā
durgaṃ pathastatkavayo vadanti || 1.3.14||
立ち上がれ、目覚めよ。
優れた師たちに近づき、真理を悟れ。
剃刀の刃は鋭くして渡り難し。
その道は険しい、と詩聖たちは語る。

逐語訳:

  • उत्तिष्ठत (uttiṣṭhata) - 立ち上がれ。(ut-√sthā「立つ」の命令法2人称複数)
  • जाग्रत (jāgrata) - 目覚めよ。(√जागृ jāgṛ「目覚める」の命令法2人称複数)
  • प्राप्य (prāpya) - 到達して、近づいて。(pra-√āp「到達する」の絶対分詞)
  • वरान् (varān) - 優れた師たちを、最良の導師たちを。(vara「優れた」、男性複数対格)
  • निबोधत (nibodhata) - 理解せよ、悟れ。(ni-√budh「理解する」の命令法2人称複数)
  • क्षुरस्य (kṣurasya) - 剃刀の。(kṣura、男性単数属格)
  • धारा (dhārā) - 刃。(女性単数主格)
  • निशिता (niśitā) - 鋭く研ぎ澄まされた。(niśita、女性単数主格)
  • दुरत्यया (duratyayā) - 渡り難い、越え難い。(dur-atyayā、女性単数主格)
  • दुर्गं (durgaṃ) - 困難な、険しい。(durga、中性単数主格/対格)
  • पथः (pathaḥ) - 道。(pathin「道」。詩語的な用法で、文脈上「道は」と主格的に解釈される)
  • तत् (tat) - その(ように)。(指示代名詞、副詞的に解釈される)
  • कवयः (kavayaḥ) - 詩聖たち、賢者たち。(kavi、男性複数主格)
  • वदन्ति (vadanti) - 語る。(√वद् vad「語る」の現在法3人称複数)

解説:
前節までの静謐な内観の教えから一転し、この詩節は読者の魂を直接揺さぶる、雷鳴のような呼びかけで始まります。ウパニシャッドの中でも最も有名で、力強いメッセージの一つであり、哲学的な教えが、いかに実践的な行動へと結びつくべきかを示しています。

詩の前半は、三つの力強い命令で構成されています。「立ち上がれउत्तिष्ठत, uttiṣṭhata)、目覚めよजाग्रत, jāgrata)」。これは、霊的な無関心や怠惰という深い眠りから奮い立ち、現象世界を夢のように生きる無明の状態から覚醒せよ、という魂への檄です。それは、真理の探求が単なる知的好奇心ではなく、自己の存在そのものを変容させるための、決然とした意志から始まることを教えています。

続く「優れた師たちに近づき、真理を悟れप्राप्य वरान्निबोधत, prāpya varānnibodhata)」という言葉は、この覚醒した探求心をどこへ向けるべきかを明確に指し示します。ここでいうवरान् (varān)、すなわち「優れた師たち」とは、単に博識な学者ではなく、自らが真理を体得し、その智慧の光で弟子を導くことのできる真のグル(霊的導師)を指します。ウパニシャッドの叡智は、書物からだけでは得られません。それは、師から弟子へと直接手渡される生きた炎(गुरु-परम्परा, guru-paramparā)なのです。この道が独りでは歩み難いことを認め、謙虚に導きを求めることの重要性が、ここに込められています。

詩の後半は、この道のりが持つ本質を、鮮烈な比喩で描き出します。「剃刀の刃は鋭くして渡り難しक्षुरस्य धारा निशिता दुरत्यया, kṣurasya dhārā niśitā duratyayā)」。この「剃刀の刃の道」という比喩は、後世の多くの思想家や求道者にインスピレーションを与えてきました。この道は、二つの意味で険しいのです。第一に、それは極めて「細い」道です。世俗の価値観が示す富や快楽への道は広く平坦ですが、内なる真我へと至る道は、常に一点に集中する注意力(एकाग्रता, ekāgratā)がなければ踏み外してしまうほど微細です。第二に、それは「鋭い」道です。この道を進む者は、剃刀のような鋭利な識別知(विवेक, viveka)をもって、自我への執着、過去への後悔、未来への不安といった、自らを縛る一切のものを断ち切らねばなりません。

最後に、この道の険しさは、いにしえの「詩聖たちकवयः, kavayaḥ)」によって語り継がれてきた真実であると締めくくられます。कवि (kavi)とは、直観によって真理を観じ、それを詩的な言葉で表現する賢者のことです。彼らがこの道の困難さを語るのは、求道者を脅すためではありません。むしろ、それは深い慈愛から発せられる警告であり、この崇高な旅に挑む者に対して、相応の覚悟と真摯さを求める励ましの言葉なのです。この厳しくも美しい警告は、真理への道が安易な精神的慰めではなく、全存在を懸けた挑戦であることを、時代を超えて私たちに告げています。

第1篇 第3章 第15節

अशब्दमस्पर्शमरूपमव्ययं
तथाऽरसं नित्यमगन्धवच्च यत् ।
अनाद्यनन्तं महतः परं ध्रुवं
निचाय्य तन्मृत्युमुखात् प्रमुच्यते ॥ १.३.१५॥
aśabdamasparśamarūpamavyayaṃ
tathā'rasaṃ nityamagandhavacca yat |
anādyanantaṃ mahataḥ paraṃ dhruvaṃ
nicāyya tanmṛtyumukhāt pramucyate || 1.3.15||
音なく、触れることなく、形なく、朽ちることなく、
また味なく、永遠にして、香りなきもの。
始まりなく、終わりなく、偉大なるものを超え、不動なるその実在を、
見極めることにより、人は死の口から解放される。

逐語訳:

  • अशब्दम् (aśabdam) - 音なきもの。(複合語 a-śabda「非-音」、中性単数対格)
  • अस्पर्शम् (asparśam) - 触れることなきもの。(複合語 a-sparśa「非-接触」、中性単数対格)
  • अरूपम् (arūpam) - 形なきもの。(複合語 a-rūpa「非-形」、中性単数対格)
  • अव्ययम् (avyayam) - 朽ちなきもの、不変のもの。(複合語 a-vyaya「非-減衰」、中性単数対格)
  • तथा (tathā) - また、同様に。(副詞)
  • अरसम् (arasam) - 味なきもの。(複合語 a-rasa「非-味」、中性単数対格)
  • नित्यम् (nityam) - 永遠なるもの。(中性単数対格)
  • अगन्धवत् (agandhavat) - 香りなきもの。(複合語 a-gandhavat「非-香りを持つ」、中性単数対格)
  • च (ca) - そして。(接続詞)
  • यत् (yat) - 〜であるところのそのもの。(関係代名詞、中性単数主格/対格)
  • अनाद्यनन्तम् (anādyanantam) - 始まりなく終わりなきもの。(複合語 an-ādi-an-anta、中性単数対格)
  • महतः (mahataḥ) - 偉大なるものよりも。(mahant「偉大なる真我」、単数奪格)
  • परम् (param) - 超越した、至高のもの。(中性単数対格)
  • ध्रुवम् (dhruvam) - 不動なるもの、不変のもの。(中性単数対格)
  • निचाय्य (nicāyya) - 見極めることによって、直観的に把握して。(ni-√ci「識別する、見極める」の絶対分詞)
  • तत् (tat) - それを。(指示代名詞、中性単数対格)
  • मृत्युमुखात् (mṛtyumukhāt) - 死の口から。(複合語 mṛtyu-mukha「死の口」、単数奪格)
  • प्रमुच्यते (pramucyate) - 解放される。(pra-√muc「解放する」の現在法3人称単数受動態)

解説:
前節が「剃刀の刃」という鮮烈な比喩で真理への道の険しさを警告したのに対し、この詩節は、その困難な旅路の果てに待つ究極の目的地がどのようなものであるかを、荘厳な静けさをもって描き出します。それは、険しい道を踏破した者だけに与えられる大いなる報酬であり、ナチケータの根源的な問いに対するヤマ神の答えの核心部分です。

詩の前半は、感覚によって捉えられる世界のあらゆる属性を一つひとつ否定していくことで、究極の実在、すなわちアートマン(真我)の本質を明らかにします。これは、ウパニシャッドで頻繁に用いられる「ネーティ・ネーティनेति नेति, neti neti)」、すなわち「これではない、これでもない」という否定の道を通じたアプローチの美しい詩的表現です。音、触覚、形、味、香りといった五感の対象(तन्मात्रा, tanmātrā)を全て超えていると述べることで、アートマンが物質的・感覚的な次元の存在ではないことを示します。さらに、अव्ययम् (avyayam)(朽ちなきもの)とनित्यम् (nityam)(永遠なるもの)という言葉は、それが時間と変化の法則が支配する現象世界を超越した、不変の実在であることを強調しています。

詩の後半は、この実在の形而上学的な位置づけをさらに明確にします。「始まりなく、終わりなくअनाद्यनन्तम्, anādyanantam)」とは、それが世界のあらゆるものの根源でありながら、それ自体はいかなる原因からも生じていない、因果律を超えた存在であることを意味します。「偉大なるものを超えमहतः परम्, mahataḥ param)」という一節は、これまでの文脈で示された存在の階層(1.3.10-11)の頂点である「偉大なる真我(महान् आत्मा, mahān ātmā)」さえも超克した、究極の絶対者(पुरुषः, puruṣaḥ)であることを指し示しています。そしてध्रुवम् (dhruvam)(不動なるもの)という言葉は、北極星のように決して揺らぐことのない、万物の絶対的な基盤としての性格を象徴しています。

この詩節の頂点は、最後の宣告にあります。「これを見極めることにより、人は死の口から解放される」。निचाय्य (nicāyya)という言葉は、単なる知的な理解ではなく、直観による疑いのない直接的な認識、すなわち自己の最も深い本質としてのアートマンの体得(साक्षात्कार, sākṣātkāra)を意味します。そして、この体得がもたらす究極の果実が「死の口からの解放मृत्युमुखात् प्रमुच्यते, mṛtyumukhāt pramucyate)」です。ナチケータが今まさに死の支配者であるヤマ神自身の前でこの教えを受けているという劇的な文脈を思うとき、この言葉は一層深い響きを帯びます。死そのものが、死を超越する道を指し示しているのです。自己の本質が、死の影響を受けない永遠不変の実在であると悟る時、死はもはや終焉ではなく、肉体という束縛からの解放の扉となるのです。この詩節は、人間の最も根源的な恐怖に対する、ウパニシャッドの叡智が与える最も深遠で力強い答えなのです。

第1篇 第3章 第16節

नाचिकेतमुपाख्यानं मृत्युप्रोक्तँ सनातनम् ।
उक्त्वा श्रुत्वा च मेधावी ब्रह्मलोके महीयते ॥ १.३.१६॥
nāciketamupākhyānaṃ mṛtyuproktaṃ sanātanam |
uktvā śrutvā ca medhāvī brahmaloke mahīyate || 1.3.16||
死神が説いた、このナチケータの永遠なる物語を、
語り、また聞きし賢明な者は、ブラフマンの世界にて栄光を得る。

逐語訳:

  • नाचिकेतम् उपाख्यानम् (nāciketam upākhyānam) - ナチケータの物語を。(nāciketaは「ナチケータに関する」、upākhyānaは「物語、説話」。両方とも中性単数対格で、upākhyānaが本体)
  • मृत्युप्रोक्तम् (mṛtyuproktam) - 死神によって説かれた。(複合語 mṛtyu-proktaupākhyānamを修飾する形容詞、中性単数対格)
  • सनातनम् (sanātanam) - 永遠なる。(sanātana「永遠の」。upākhyānamを修飾する形容詞、中性単数対格)
  • उक्त्वा (uktvā) - 語り終えて。(√वच् vac「語る」の絶対分詞)
  • श्रुत्वा (śrutvā) - 聞き終えて。(√श्रु śru「聞く」の絶対分詞)
  • च (ca) - そして、また。(接続詞)
  • मेधावी (medhāvī) - 賢明な者は、知恵ある者は。(男性単数主格)
  • ब्रह्मलोके (brahmaloke) - ブラフマンの世界において。(brahma-loka、位格単数)
  • महीयते (mahīyate) - 栄光を受ける、偉大とされる。(√मह् mah「敬う、偉大にする」の現在受動態3人称単数)

解説:
前節が、感覚や思考を超えた究極の実在(アートマン)そのものを荘厳に描き出し、それを悟ることで死から解放されると説いたのに対し、この詩節はその教え自体の価値と、それを学び伝えることの功徳(फलश्रुति, phalaśruti)へと視点を移します。これは、ここまでのヤマ神の教えが一段落し、その神聖な価値を保証する、祝福に満ちた結びの言葉です。

まず、この教えは「ナチケータの物語नाचिकेतम् उपाख्यानम्, nāciketam upākhyānam)」と呼ばれます。उपाख्यान (upākhyāna)とは、単なる逸話ではなく、ヴェーダ聖典の中に挿入され、教訓や深遠な真理を明らかにするための神聖な説話を指します。これは、ここまでの対話が抽象的な哲学論議ではなく、一人の少年の純粋な探求と、それに応える慈悲深い神の導きという、生きた霊的体験の記録であることを示しています。

この物語の語り手は、「死神मृत्यु, mṛtyu)」です。死によって万物を終焉させる存在そのものが、死を超越する「永遠のसनातनम्, sanātanam)」教えを説くという、この深遠な逆説こそ、カタ・ウパニシャッドの核心をなすテーマです。死の恐怖に直面し、それを深く見つめることでしか、真の不死の智慧は得られないという真理が、ここに凝縮されています。सनातन (sanātana)という言葉は、この教えが特定の時代や個人に属するものではなく、時空を超えて存在する普遍的な真理であることを力強く宣言しています。

そして、この永遠の物語を「語り、また聞きし賢明な者उक्त्वा श्रुत्वा च मेधावी, uktvā śrutvā ca medhāvī)」は、大いなる報酬を得るとされます。ここで「語る(उक्त्वा, uktvā)」ことと「聞く(श्रुत्वा, śrutvā)」ことは、インドの霊的伝統における智慧の継承、すなわち師から弟子へと聖なる教えが手渡される系譜(गुरु-शिष्य-परम्परा, guru-śiṣya-paramparā)の根幹をなす行為です。特に「聞くこと(श्रवण, śravaṇa)」は、真理を学ぶ最初の、そして最も重要な段階とされます。この両方の行為を実践するमेधावी (medhāvī)、すなわち真理を保持し、体現する霊的な知恵(मेधा, medhā)を備えた人は、ただの学者ではなく、生きた伝統の担い手です。

その担い手が得る報酬は、「ブラフマンの世界にて栄光を得るब्रह्मलोके महीयते, brahmaloke mahīyate)」ことです。ब्रह्मलोक (brahmaloka)とは、特定の天界という場所を指すのではなく、究極の実在であるブラフマンと完全に一つになった意識の次元、絶対的な真理そのものの境地を意味します。そこで「栄光を得る」とは、世俗的な名誉や他者からの賞賛ではなく、自己の存在が宇宙の根本原理と完全に調和し、内側から真理の光を放つ状態になることを指すのです。

この詩節は、ナチケータの物語が単なる古代の記録ではなく、語り、聞くという神聖な行為を通じて、今この瞬間にも追体験され、その功徳が現在に生きる私たちにもたらされる「生きた叡智」であることを保証しています。それは、真理の探求と伝承に自らを捧げることの崇高さを讃える、力強い祝福の言葉なのです。

第1篇 第3章 第17節

य इमं परमं गुह्यं श्रावयेद् ब्रह्मसंसदि ।
प्रयतः श्राद्धकाले वा तदानन्त्याय कल्पते ।
तदानन्त्याय कल्पत इति ॥ १.३.१७॥
ya imaṃ paramaṃ guhyaṃ śrāvayed brahmasaṃsadi |
prayataḥ śrāddhakāle vā tadānantyāya kalpate |
tadānantyāya kalpata iti || 1.3.17||
この至高の秘義を、清らかな心で、ブラフマンを求める者たちの集いにて、
あるいは祖霊を祀る儀式の折に説き聞かせる者は、無限なるものとなる。
実に、その者は無限なるものとなる。

逐語訳:

  • यः (yaḥ) - 〜であるところの者。(関係代名詞、男性単数主格)
  • इमम् (imam) - この。(指示代名詞、男性単数対格。文法上は男性形だが、中性のguhyamを修飾)
  • परमम् (paramam) - 至高の、究極の。(parama、中性単数対格)
  • गुह्यम् (guhyam) - 秘義を、秘密の教えを。(guhya、中性単数対格)
  • श्रावयेत् (śrāvayet) - 説き聞かせるべきである。(√श्रु śru「聞く」の使役法・願望法3人称単数)
  • ब्रह्मसंसदि (brahmasaṃsadi) - ブラフマンを求める者たちの集いにおいて。(brahma-saṃsad、位格単数)
  • प्रयतः (prayataḥ) - 清らかな者として、心を整えて。(prayata、男性単数主格。主語yaḥを修飾)
  • श्राद्धकाले (śrāddhakāle) - 祖霊祭祀(シュラーッダ)の折に。(śrāddha-kāla、位格単数)
  • वा (vā) - あるいは。(接続詞)
  • तत् (tat) - そのこと(教えを語ること)は。(指示代名詞、中性単数主格。tādānantyāyaと連声する)
  • अनन्त्याय (ānantyāya) - 無限なるものとなるために、永遠性のために。(ānantya「無限性」、与格単数)
  • कल्पते (kalpate) - 適合する、ふさわしいものとなる、資する。(√कॢप् kḷp、現在法3人称単数アートマネーパダ)
  • इति (iti) - (章の結びを示す)と。このように。

解説:
第一章第三節、そしてナチケータがヤマ神から得た最初の教えの全体を締めくくるこの詩節は、前節までの崇高な教えの価値を保証し、その伝承がいかに行われるべきか、そしてその行為がもたらす偉大な功徳(फलश्रुति, phalaśruti)を荘厳に宣言します。

まず、この教えは「至高の秘義परमं गुह्यम्, paramaṃ guhyam)」と呼ばれます。गुह्य (guhya)という言葉は、心の奥深くにある洞窟(गुहा, guhā)という語源を持ち、単に隠された知識ではなく、心の最も清浄で静寂な場所で大切に守られるべき神聖な叡智であることを示唆します。それは、好奇心を満たすための情報ではなく、人格そのものを変容させる力を持つ、生きた真理なのです。

この秘義を説き聞かせるべき場として、二つの「聖なる時空間」が指定されています。一つは「ブラフマンを求める者たちの集いब्रह्मसंसदि, brahmasaṃsadi)」です。これは、真理への真摯な探求心を共有する人々が集い、聖なる叡智が共鳴し合う場を指します。このような場では、教えは単なる言葉としてではなく、生きた波動として伝わり、聞く者と語る者の双方を高めます。もう一つは「祖霊を祀る儀式の折श्राद्धकाले, śrāddhakāle)」です。श्राद्ध (śrāddha)とは、亡き祖先への敬意と感謝を捧げる儀式であり、生と死、此岸と彼岸の境界線が融け合う神聖な時です。死という究極の問いと向き合い、死を超越するこのウパニシャッドの教えを瞑想し、分かち合うのに、これほどふさわしい機会はありません。

そして、この神聖な行為を行う者は、「清らかな者としてप्रयतः, prayataḥ)」あることが求められます。これは、肉体的な清浄さだけでなく、精神的な純粋さ、すなわち虚栄心や利己的な動機から解放され、ただ真理への奉仕の心で教えを語る姿勢を意味します。この内的な準備が整って初めて、語られる言葉は真の力を持ちます。

このような条件のもとで教えを語る者は、「無限なるものとなるअनन्त्याय कल्पते, ānantyāya kalpate)」と約束されます。これはこの詩節の核心です。教えを語るという行為は、単なる知識の伝達ではありません。それは、語り手自身が真理を追体験し、その叡智と一体化していく霊的な実践(サーダナ)なのです。語ることを通じて、人は自らを縛る有限な自我の殻から解き放たれ、無限なるアートマンの本質へと変容していくのです。

最後の「実に、その者は無限なるものとなるतदानन्त्याय कल्पत इति, tadānantyāya kalpata iti)」という力強い反復は、この約束が絶対に違(たが)わぬ真実であることを保証する聖なる宣言です。それは、このナチケータの物語が単なる古代の神話ではなく、適切に語り、聞き、実践されることによって、今この瞬間に生きる私たち一人ひとりの中で永遠の生命を保ち続ける「生きた叡智」であることを高らかに告げ、第一章の幕を閉じるのです。

第1篇 第3章 奥書

इति काठकोपनिषदि प्रथमाध्याये तृतीया वल्ली ॥
iti kāṭhakopaniṣadi prathamādhyāye tṛtīyā vallī ||
ここにカタ・ウパニシャッド、第一の学びにおける第三の蔓は終わる。

逐語訳:

  • इति (iti) - このように、かくて。(節や章の終結を示す不変詞)
  • काठकोपनिषदि (kāṭhakopaniṣadi) - カタ・ウパニシャッドにおいて。(kāṭhakopaniṣad、位格単数)
  • प्रथमाध्याये (prathamādhyāye) - 第一の学び(章)において。(prathama-adhyāya「第一章」、位格単数)
  • तृतीया (tṛtīyā) - 第三の。(序数詞、女性単数主格)
  • वल्ली (vallī) - 蔓、つる。章、節。(女性単数主格)

解説:
この簡潔な一行は、サンスクリットの聖典に伝統的に見られるコロフォン(奥書き)であり、第一章第三節という一つの霊的な探求の旅路が、ここに静かに、そして完全に成就したことを告げています。しかし、この形式的な文言の背後には、このウパニシャッドの構造そのものを象徴する深い意味が秘められています。

ここで特に注目すべきは「वल्ली (vallī)」という言葉です。その文字通りの意味は「蔓」あるいは「つる」です。ウパニシャッドの編纂者たちは、なぜ章を「蔓」と呼んだのでしょうか。それは、植物の蔓が大地という根源から養分を吸い上げ、節を重ねながら着実に天に向かって伸び、やがて美しい花を咲かせ、豊かな果実を結ぶ姿に、霊的な智慧の展開過程を重ね合わせたからです。この「第三の蔓」は、まさにその見事な成長の軌跡を示しています。

この節は、自己という存在を「戦車」にたとえる有名な比喩から始まりました。それは、私たちが立つべき大地、すなわち自己分析の出発点です。そこから教えの蔓は、感覚という馬、精神という手綱、理性という御者、そして真我という主人へと、一つひとつ節を重ねるように意識の階層を登っていきました。さらにその蔓は、偉大なる真我(महान् आत्मा, mahān ātmā)、未顕現(अव्यक्त, avyakta)を経て、万物の究極の目的地である至高の実在(पुरुषः, puruṣaḥ)へと到達します。

そして、その蔓が天高く伸びきった先端に咲かせた荘厳な花こそが、「音なく、触れることなく、形なく、朽ちることなく」と詠われた、感覚を超えたアートマンの本質の描写でした。この花が結ぶ究極の果実、それこそが「死の口からの解放मृत्युमुखात् प्रमुच्यते, mṛtyumukhāt pramucyate)」という大いなる約束です。

さらにこのコロフォンは、この教えが単なる哲学ではなく、語り聞き、実践することでその功徳が現在に生きる私たちにももたらされる「生きた叡智」であることを、直前の詩節で保証した直後に置かれています。

最後に置かれた「इति (iti)」という一語は、単に「終わり」を示す印ではありません。それは「このように」「かくて」という意味を持ち、ここに記された教えが完全に展開され、その本質が余すところなく明らかにされたことを宣言する、力強い響きを伴います。ナチケータが命を賭して求めた第三の願い――「死後、人間はどうなるのか」という根源的な問い――に対するヤマ神の最初の深遠な答えが、この「第三の蔓」において一つの見事な完結を見たのです。この一行は、死の闇を見つめるすべての探求者に、死を超越する永遠の智慧の光が確かに存在することを告げる、静かながらも揺るぎない保証の言葉といえるでしょう。

第2篇

第2篇 第1章 第1節

पराञ्चि खानि व्यतृणत् स्वयम्भू-
स्तस्मात्पराङ्पश्यति नान्तरात्मन् ।
कश्चिद्धीरः प्रत्यगात्मानमैक्ष-
दावृत्तचक्षुरमृतत्वमिच्छन् ॥ २.१.१॥
parāñci khāni vyatṛṇat svayambhū-
stasmātparāṅpaśyati nāntarātman |
kaściddhīraḥ pratyagātmānamaikṣa-
dāvṛttacakṣuramṛtatvamicchan || 2.1.1||
自存なる者は、感覚の穴を外向きに穿った。
それゆえ、人は外を見つめ、内なる自己(アートマン)を見ない。
だが不死を願うある賢者は、視線を内に転じて、
内なる自己(アートマン)を観たのである。

逐語訳:

  • पराञ्चि (parāñci) - 外向きの。(形容詞 parāñc、中性複数対格。khāniを修飾)
  • खानि (khāni) - 穴を、感覚器官を。(kha、中性複数対格)
  • व्यतृणत् (vyatṛṇat) - 穿った、傷つけた。(√tṛd「穿つ、傷つける」+接頭辞 vi- の未完了過去3人称単数)
  • स्वयम्भूः (svayambhūḥ) - 自存なる者は。(svayam-bhū「自ら存在する者」、男性単数主格)
  • तस्मात् (tasmāt) - それゆえに。(指示代名詞、奪格)
  • पराङ् (parāṅ) - 外方を、外側へ。(副詞)
  • पश्यति (paśyati) - 見る。(√dṛś「見る」の現在形 paśya、3人称単数)
  • न (na) - ~ない。(否定詞)
  • अन्तरात्मन् (antarātman) - 内なる自己(アートマン)を。(antar-ātman、男性単数対格)
  • कश्चित् (kaścit) - ある者。(不定代名詞、男性単数主格)
  • धीरः (dhīraḥ) - 賢者は、勇気ある者は。(男性単数主格)
  • प्रत्यगात्मानम् (pratyagātmānam) - 内なる自己(アートマン)を。(連声 pratyak-ātmānampratyakは「内向きの」、ātmānamは男性単数対格)
  • ऐक्षत् (aikṣat) - 観た、見た。(√īkṣ「見る、観る」、未完了過去3人称単数)
  • आवृत्तचक्षुः (āvṛttacakṣuḥ) - 視線を内に転じた者。(複合語 āvṛtta-cakṣus「転じられた眼を持つ者」、男性単数主格。主語 dhīraḥ を修飾)
  • अमृतत्वम् (amṛtatvam) - 不死性を。(中性単数対格)
  • इच्छन् (icchan) - 願いつつ、求めながら。(√iṣ「願う」、現在分詞、男性単数主格)

解説:
カタ・ウパニシャッドの第二の学びは、この荘厳な詩節をもって幕を開けます。第一の学びが、ナチケータという一人の少年の物語を通して真理を説き明かしたのに対し、ここからはより普遍的で直接的な哲学的洞察が展開されます。この詩節は、その転換点として、人間存在の根源的な構造と、霊的探求の唯一の正しい方向性を鮮やかに描き出しています。

まず、私たちのあり方が、創造の原理に根差していることが示されます。「自存なる者स्वयम्भूः, svayambhūḥ)」、すなわち他の何ものにも依存せず、自らの力で存在する究極の実在が、私たちの「感覚の穴खानि, khāni)」を「外向きに穿ったपराञ्चि व्यतृणत्, parāñci vyatṛṇat)」と説かれます。खानि (khāni)は文字通り「穴」や「開口部」を意味し、眼・耳・鼻などの感覚器官が、意識が外界と繋がるための窓であることを象徴しています。व्यतृणत् (vyatṛṇat)という動詞には、「穿つ」と同時に「傷つける、害する」というニュアンスも含まれており、感覚が外に向かうことで、私たちの純粋な意識が外界の刺激に常に晒され、翻弄されるという根源的な苦悩の状態が暗示されています。

この創造の設計ゆえに、ほとんどの人は、意識のベクトルが自然と外側へ向かいます。「それゆえ、人は外を見つめ、内なる自己(アートマン)を見ない」。これは人間の普遍的な傾向です。私たちの目は外の世界の色や形を追い、耳は外の音を拾い、心は外の出来事に一喜一憂します。この状態にある限り、自らの存在の源泉である「内なる自己अन्तरात्मन्, antarātman)」に気づくことはありません。

しかし、この普遍的な流れに抗う、例外的な存在がいます。それが「不死を願うある賢者अमृतत्वमिच्छन् कश्चिद्धीरः, amṛtatvamicchan kaściddhīraḥ)」です。ここで用いられるधीर (dhīra)という言葉は、単なる知識人ではなく、世間の価値観や自らの感覚的欲求に流されることなく、真理に向かって不動の意志を保つ「勇気ある探求者」を指します。彼を突き動かすのは、अमृतत्वम् (amṛtatvam)、すなわち死を超越した永遠なるものの実在への渇望です。

この賢者がとる決定的な行動、それが「視線を内に転じるआवृत्तचक्षुः, āvṛttacakṣuḥ)」ことです。これは物理的に目を閉じること以上の意味を持ちます。それは、感覚器官から絶え間なく流れ込む情報の奔流から意識を意図的に引き離し、エネルギーの向きを180度転換させて、自己の内奥へと深く潜っていく霊的な実践を指します。この実践こそ、後のヨーガ哲学でप्रत्याहार (pratyāhāra)(制感)として体系化されるものの原型です。

この意識の劇的な転換の果てに、賢者は「内なる自己(アートマン)を観たप्रत्यगात्मानम् ऐक्षत्, pratyagātmānam aikṣat)」のです。प्रत्यक् (pratyak)は「逆向きの」「内向きの」を意味し、感覚の自然な流れに「逆行」して初めて到達できる意識の次元であることを強調します。それは、外の世界にではなく、自己の最も深い内側にこそ、真実の自己、永遠なるアートマンが存在するという、ウパニシャッドの中心思想を力強く宣言する言葉です。

この詩節は、私たち一人ひとりの前に二つの道を示しています。一つは、生まれ持った感覚の傾向に従い、外の世界に心を奪われ、生と死のサイクルをさすらい続ける道。そしてもう一つは、賢者のように勇気をもって意識の流れを逆転させ、内なる不死の泉を発見する道です。第二の学び全体は、この根源的な選択を私たちに促し、後者の道へと導くための、深遠なる手引きに他なりません。

第2篇 第1章 第2節

पराचः कामाननुयन्ति बाला-
स्ते मृत्योर्यन्ति विततस्य पाशम् ।
अथ धीरा अमृतत्वं विदित्वा
ध्रुवमध्रुवेष्विह न प्रार्थयन्ते ॥ २.१.२॥
parācaḥ kāmānanuyanti bālā-
ste mṛtyoryanti vitatasya pāśam |
atha dhīrā amṛtatvaṃ viditvā
dhruvamadhruveṣviha na prārthayante || 2.1.2||
幼き者たちは、外へと向かう欲望を追い求め、
広く張り巡らされた死の罠へと陥る。
一方、賢者たちは不死なるものを悟り、
この無常なものどもの中に、常住なるものを求めはしない。

逐語訳:

  • पराचः (parācaḥ) - 外向きの。(形容詞 parāñc、男性複数対格。kāmānを修飾)
  • कामान् (kāmān) - 欲望を。(kāma、男性複数対格)
  • अनुयन्ति (anuyanti) - 後を追う。(√i「行く」+接頭辞 anu-、現在法3人称複数)
  • बालाः (bālāḥ) - 幼き者たち、霊的に未熟な者たち。(bāla、男性複数主格)
  • ते (te) - 彼らは。(3人称代名詞、複数主格)
  • मृत्योः (mṛtyoḥ) - 死の。(mṛtyu、男性単数属格)
  • यन्ति (yanti) - 行く、陥る。(√i「行く」、現在法3人称複数)
  • विततस्य (vitatasya) - 広く張り巡らされた。(vitata、男性単数属格。mṛtyoḥを修飾、あるいは詩的許容としてpāśamの文脈を補強)
  • पाशम् (pāśam) - 縄を、罠を。(pāśa、男性単数対格)
  • अथ (atha) - 一方で、しかし。(接続詞)
  • धीराः (dhīrāḥ) - 賢者たちは。(dhīra、男性複数主格)
  • अमृतत्वम् (amṛtatvam) - 不死性を、不死なるものを。(amṛtatva、中性単数対格)
  • विदित्वा (viditvā) - 知って、悟って。(√vid「知る」、絶対分詞)
  • ध्रुवम् (dhruvam) - 常住なるものを、不変なるものを。(dhruva、中性単数対格)
  • अध्रुवेषु (adhruveṣu) - 無常なものどもの中に。(adhruva、中性/男性複数位格)
  • इह (iha) - この(世界に)おいて、ここに。(副詞)
  • न (na) - ~ない。(否定辞)
  • प्रार्थयन्ते (prārthayante) - 求める、願う。(√prārth「願う」、現在法3人称複数アートマネーパダ)

解説:
前節で示された「視線を内に転じる賢者」と「外を見つめる人々」という根源的な対比を、この詩節はさらに深め、二つの生き方の本質とその結末を、鮮烈な言葉で描き出します。

まず、大多数の人々の生き方が「幼き者たちबालाः, bālāḥ)」という言葉で表現されます。これは肉体的な年齢ではなく、真実と非真実、永遠と束の間を識別する力(विवेक, viveka)を欠いた、霊的な未熟さを指します。彼らは、前節で示された創造の理のままに、自らの意識を外に向け、「外へと向かう欲望पराचः कामान्, parācaḥ kāmān)」をひたすらに追い求めます。この欲望は、感覚的な快楽、富、名声といった、常に自己の外にある対象に向けられたものです。これはまさに、第一章でヤマ神がナチケータを試すために提示した、快楽の道(प्रेयस्, preyas)そのものに他なりません。

その道の行き着く先は、恐ろしくも必然的な結末として描かれます。彼らは「広く張り巡らされた死の罠へと陥るमृत्योर्यन्ति विततस्य पाशम्, mṛtyoryanti vitatasya pāśam)」のです。この「死の罠मृत्योः पाशम्, mṛtyoḥ pāśam)」は、単に肉体的な死を意味するのではありません。それは、欲望に駆られて行為(カルマ)を積み重ね、その結果として再び生と死を繰り返す、終わりなき輪廻のサイクルそのものを象徴しています。विततस्य(広く張り巡らされた)という言葉は、この罠が目に見える危険ではなく、むしろ人々が追い求める魅力的な対象の内に巧妙に仕掛けられていることを示唆します。欲望を追い求める行為自体が、私たちを死の束縛へと導くという、深遠な逆説がここにあります。

この暗い運命とは対照的に、「一方、賢者たちअथ धीराः, atha dhīrāḥ)」の道が光り輝くように示されます。धीर (dhīra)とは、世俗の価値観や内なる衝動に揺らぐことなく、不動の決意をもって真理に立つ人々です。彼らの際立った特徴は、「不死なるものを悟っているअमृतत्वं विदित्वा, amṛtatvaṃ viditvā)」ことです。विदित्वा(知って、悟って)という言葉は、単なる知的な理解や信仰ではなく、前節の「内なる自己を観た」という直接的な霊的体験に基づいた、確固たる叡智を意味します。彼らは、自らの本質が、生と死を超越した不死なるアートマンであることを、疑いようもなく知っているのです。

この揺るぎない悟りの結果、賢者たちの生き方は根本から変容します。彼らは「この無常なものどもの中に、常住なるものを求めはしないध्रुवमध्रुवेष्विह न प्रार्थयन्ते, dhruvamadhruveṣviha na prārthayante)」のです。ध्रुवम्(常住なるもの)とअध्रुवेषु(無常なものどもの中に)という鮮やかな対比は、賢者の境地の核心を突いています。彼らは、絶えず移ろいゆくこの現象世界(富、健康、人間関係など)の中に、永続的な安らぎや幸福を見出そうとする根本的な誤りから解放されています。なぜなら、真にध्रुवम्(常住なるもの)であるアートマンを、すでに自らの内奥に見出しているからです。この態度は、虚無的な諦めとは全く異なります。それは、求めるべきものを正しく求め、求める必要のないものを手放す、究極の自由と満ち足りた心の現れなのです。

この詩節は、私たち一人ひとりが、日々の選択においてどちらの道を歩んでいるのかを鋭く問いかけます。それは、意識を外に向け、移ろいゆくものを追い求めて死の罠に陥る道か。あるいは、勇気をもって内に向き、不死なるものを悟って真の自由を生きる道か。ウパニシャッドの賢者は、その答えが私たちの生き方そのものを決定すると、静かに、しかし力強く告げているのです。

第2篇 第1章 第3節

येन रूपं रसं गन्धं शब्दान् स्पर्शाꣳश्च मैथुनान् ।
एतेनैव विजानाति किमत्र परिशिष्यते । एतद्वै तत् ॥ २.१.३॥
yena rūpaṃ rasaṃ gandhaṃ śabdān sparśāṃśca maithunān |
etenaiva vijānāti kimatra pariśiṣyate | etadvai tat || 2.1.3||
それによって人は、形を、味を、匂いを、音を、そして触覚と交わりの歓びを識別する。
その認識の主体を離れて、ここに一体何が残り得ようか。
これこそが、まさしくかの「それ」である。

逐語訳:

  • येन (yena) - それによって。(関係代名詞 yad、中性単数具格)
  • रूपं (rūpaṃ) - 形を、色を。(rūpa、中性単数対格)
  • रसं (rasaṃ) - 味を。(rasa、男性単数対格)
  • गन्धं (gandhaṃ) - 匂いを。(gandha、男性単数対格)
  • शब्दान् (śabdān) - 音を。(śabda、男性複数対格)
  • स्पर्शान् च (sparśān ca) - そして触れられる対象を。(sparśa、男性複数対格 + 接続詞 ca
  • मैथुनान् (maithunān) - 交わりの歓びを、性的快楽を。(maithuna、男性複数対格)
  • एतेन एव (etenaiva) - まさにこれによってこそ。(指示代名詞 etad、中性単数具格 + 強調の不変化詞 eva
  • विजानाति (vijānāti) - 識別する、明確に知る。(vi-「明確に」+ √jñā「知る」、現在法3人称単数)
  • किम् (kim) - 何が。(疑問代名詞、中性単数主格)
  • अत्र (atra) - ここに、この中に。(副詞)
  • परिशिष्यते (pariśiṣyate) - 後に残される、残存する。(pari-「完全に」+ √śiṣ「残る」、受動態3人称単数)
  • एतत् (etat) - これが。(指示代名詞、中性単数主格)
  • वै (vai) - まさしく、確かに。(強調の不変化詞)
  • तत् (tat) - かの「それ」。(指示代名詞、中性単数主格)

解説:
前節までで、賢者は内なる不死性を悟り、無常な世界に永遠を求めない境地に至ることが示されました。この詩節は、その「内なる不死なるもの」とは一体何なのか、という問いに答えるべく、私たちの最も身近な日常体験そのものを分析の対象とします。これは難解な哲学の提示ではなく、誰にでも検証可能な、体験的真理への荘厳な誘いです。

まず、ヤマ神は人間の感覚体験のすべてを俎上に載せます。「形、味、匂い、音、触覚」という五つの感覚対象(五境)に加え、「交わりの歓びमैथुनान्, maithunān)」が挙げられます。これは、単なる肉体的快楽という以上に、生命の根源的な創造エネルギーの現れであり、感覚的経験の頂点としてここに置かれています。この網羅的な列挙は、私たちが「世界」あるいは「私」として認識しているものの全体が、これらの感覚経験によって成り立っていることを示唆しています。

しかし、詩節の核心は、これらの経験内容そのものではなく、それらを可能にしている根源へと私たちの注意を向けさせることにあります。「それによってयेन, yena)」「まさにこれによってこそएतेनैव, etenaiva)」という、具格(〜によって)を用いた二重の強調は、すべての感覚体験の背後に存在する、単一の認識主体を力強く指し示します。色を見ているのは眼球ではなく、音を聞いているのは鼓膜ではありません。それらは情報を伝えるための「窓」に過ぎず、真に「識別し、知るविजानाति, vijānāti)」のは、それらすべての経験を統一する純粋な意識、すなわち前節まで「内なる自己अन्तरात्मन्, antarātman)」と呼ばれてきたアートマンです。このアートマンは、私たちの内側から世界を照らし出す、不変の光のような存在なのです。

この洞察を確固たるものにするため、ヤマ神は鋭い論理的な問いを投げかけます。「その認識の主体を離れて、ここに一体何が残り得ようかकिमत्र परिशिष्यते, kimatra pariśiṣyate)」。感覚の対象である色や音は、絶えず変化し、やがては消え去る無常なものです。しかし、それらが変化し消滅する間も、それらを「知っている」という意識の光そのものは、一貫して存在し続けています。あらゆる経験内容を取り去った後に残るもの、それこそが、経験内容から独立した純粋な意識、アートマンに他なりません。これは、変化するもの(अध्रुव, adhruva)の中から不変なるもの(ध्रुव, dhruva)を識別する、賢者の智慧(विवेक, viveka)そのものの実践です。

そして詩節は、ウパニシャッド哲学における最も深遠な宣言の一つをもって締めくくられます。「これこそが、まさしくかの『それ』であるएतद्वै तत्, etadvai tat)」。この短い句は、二つの偉大な概念を一つに結びつけます。「これएतत्, etat)」が指すのは、今この瞬間に、私たちの内で「知る」という働きをしている、この身近な意識です。そして「かの『それ』तत्, tat)」が指すのは、宇宙の森羅万象を生み出し、その根底に横たわる究極的・絶対的な実在、ブラフマンです。この二つが「まさしくवै, vai)」という言葉で結ばれるとき、個人の内なる本質(アートマン)と宇宙の根源的実在(ブラフマン)が、本質において完全に同一であるという、ヴェーダーンタ哲学の最高峰の真理が輝きを放ちます。これは、チャンドーギヤ・ウパニシャッドで説かれる大いなる句(マハーヴァーキヤ)、「汝はそれであるतत् त्वम् असि, tat tvam asi)」と響き合う、魂を揺さぶる宣言です。

ナチケータが命を賭して求めた「死を超えたもの」の正体は、遠い天上の理想などではなく、今ここで私たちのあらゆる経験を成り立たせている、この純粋な意識そのものでした。この詩節は、感覚の対象物に心を奪われる生き方から、その感覚を可能にしている内なる光へと意識を転換することこそが、不死に至る道であることを、静かに、しかし決定的に教えているのです。

第2篇 第1章 第4節

स्वप्नान्तं जागरितान्तं चोभौ येनानुपश्यति ।
महान्तं विभुमात्मानं मत्वा धीरो न शोचति ॥ २.१.४॥
svapnāntaṃ jāgaritāntaṃ cobhau yenānupaśyati |
mahāntaṃ vibhumātmānaṃ matvā dhīro na śocati || 2.1.4||
夢のうちなる領域と、目覚めのうちなる領域、
その双方を、人はそれによって観照する。
その偉大にして遍在なるアートマンを悟り、
賢者はもはや悲しむことはない。

逐語訳:

  • स्वप्नान्तम् (svapnāntam) - 夢の領域を、夢の状態を。(複合語 svapna-anta「夢の領域」、中性単数対格)
  • जागरितान्तम् (jāgaritāntam) - 覚醒の領域を、覚醒の状態を。(複合語 jāgarita-anta「覚醒の領域」、中性単数対格)
  • च (ca) - そして。(接続詞)
  • उभौ (ubhau) - 両方を。(ubha、男性/中性双数対格)
  • येन (yena) - それによって。(関係代名詞 yad、中性単数具格)
  • अनुपश्यति (anupaśyati) - 観照する、見届ける。(接頭辞 anu-「沿って、後に」+ √paś「見る」、現在法3人称単数)
  • महान्तम् (mahāntam) - 偉大なる。(mahat、男性単数対格)
  • विभुम् (vibhum) - 遍在なる、広大なる。(vibhu、男性単数対格)
  • आत्मानम् (ātmānam) - 自己(アートマン)を。(男性単数対格)
  • मत्वा (matvā) - 悟って、観じて、認識して。(√man「思う、知る」、絶対分詞)
  • धीरः (dhīraḥ) - 賢者は。(男性単数主格)
  • न (na) - ~ない。(否定詞)
  • शोचति (śocati) - 悲しむ、嘆く。(√śuc「悲しむ」、現在法3人称単数)

解説:
前節が、あらゆる感覚体験の背後にある単一の認識主体、アートマンを示したのに対し、この詩節はその探究をさらに深め、意識が経験する異なる状態そのものを貫く、アートマンの不変性へと私たちの目を向けさせます。

ヤマ神は、私たちの意識が経験する二つの主要な領域、「夢のうちなる領域स्वप्नान्तम्, svapnāntam)」と「目覚めのうちなる領域जागरितान्तम्, jāgaritāntam)」を提示します。覚醒時の私たちは、五感を通して物理世界と関わります。一方、夢の中では、感覚器官の助けなしに、心が生み出す内的世界を体験します。この二つは、体験の内容も質も全く異なりますが、ウパニシャッドの賢者は、その両方に共通する一つの真実を見出します。

それは、「それによって人は…双方を観照するयेन अनुपश्यति उभौ, yena anupaśyati ubhau)」という事実です。夢の中で喜びや恐怖を感じているのも、目覚めて現実の出来事に対処しているのも、そのすべてを「知っている」という意識の光は、常にそこにあります。अनुपश्यति (anupaśyati)という動詞は、単に「見る」のではなく、「沿って見る」「見届ける」という深いニュアンスを持ちます。これは、アートマンが夢や覚醒といった体験の内容に巻き込まれることなく、常に一歩引いた視点から、それらが現れては消えていく様を静かに見守る「証人साक्षिन्, sākṣin)」であることを示唆しています。

そして、この不動の証人であるアートマンの本質が、「偉大にしてमहान्तम्, mahāntam)」「遍在なるविभुम्, vibhum)」という二つの言葉で讃えられます。アートマンは、個人の肉体や心に限定される小さな自己ではなく、時間と空間を超えてすべてに浸透する、宇宙的なスケールを持つ「偉大なる」実在です。この洞察は、マーンドゥーキヤ・ウパニシャッドで詳述される、覚醒・夢・熟睡、そしてそれらを超えた第四の境地(तुरीय, turīya)という意識状態の分析の先駆けとも言えるでしょう。

この根源的な真理を、単なる知識としてではなく、「悟ったमत्वा, matvā)」賢者の内なる境地が、詩節の結びで示されます。それは「もはや悲しむことはないन शोचति, na śocati)」という、究極の平安です。悲しみ(शोक, śoka)の根源は、移ろいゆく現象世界(身体、富、人間関係、心の状態)を自分自身と同一視し、その喪失を恐れることにあります。しかし賢者は、夢と覚醒という根本的な変化の中ですら決して揺らぐことのない、偉大にして遍在なるアートマンこそが自らの本質であると悟っています。この不変の実在に自らの根拠を置くとき、あらゆる変化や喪失は、意識の表面を通り過ぎる波に過ぎなくなり、心の奥底にある静寂が乱されることはなくなるのです。

この詩節は、自己の内面を探るすべての人に、深遠な道筋を示しています。日々の生活の中で、変化し続ける思考や感情、そして体験そのものに没入するのではなく、それらすべてを静かに観照している「内なる証人」の存在に気づくこと。その気づきこそが、あらゆる悲しみを超越した、揺るぎない自由と平安への扉を開く鍵なのです。

第2篇 第1章 第5節

य इमं मध्वदं वेद आत्मानं जीवमन्तिकात् ।
ईशानं भूतभव्यस्य न ततो विजुगुप्सते । एतद्वै तत् ॥ २.१.५॥
ya imaṃ madhvadaṃ veda ātmānaṃ jīvamantikāt |
īśānaṃ bhūtabhavyasya na tato vijugupsate | etadvai tat || 2.1.5||
この、行為の蜜を味わう者、生命として間近にあるアートマンを、
過去と未来の主宰者たるその本質として悟る者は、
もはや何ものをも畏れ、厭うことはない。
これこそが、まさしくかの「それ」である。

逐語訳:

  • यः (yaḥ) - ~する者は。(関係代名詞 yad、男性単数主格)
  • इमम् (imam) - この。(指示代名詞 idam、男性単数対格)
  • मध्वदम् (madhvadam) - 蜜を食む者を、行為の甘き果実を味わう者を。(複合語 madhu-ada、男性単数対格)
  • वेद (veda) - 知る。(√vid「知る」、完了法3人称単数。現在時制的に「知っている」の意)
  • आत्मानम् (ātmānam) - アートマン(真我)を。(ātman、男性単数対格)
  • जीवम् (jīvam) - 生命(ジーヴァ)を、個我を。(jīva、男性単数対格)
  • अन्तिकात् (antikāt) - 間近から、すぐ近くに。(antika「近く」、奪格。副詞的に使用)
  • ईशानम् (īśānam) - 主宰者を、支配者を。(īśāna、男性単数対格)
  • भूतभव्यस्य (bhūtabhavyasya) - 過去と未来の。(複合語 bhūta-bhavya「過去-未来」、男性単数属格)
  • न (na) - ~ない。(否定詞)
  • ततः (tataḥ) - その(認識の)後では、それ故に。(副詞)
  • विजुगुप्सते (vijugupsate) - 嫌悪する、避けようとする、畏れ隠れる。(√gup「守る、隠す」に接頭辞vi-がついた動詞の願望法。嫌悪・忌避の意)
  • एतत् वै तत् (etadvai tat) - これこそが、まさしくかの「それ」である。

解説:
前節まででアートマンが夢と覚醒を貫く普遍的な証人として示されたのに対し、この詩節は、そのアートマンが私たちの「個」の経験といかに深く結びついているかという、より親密で実践的な次元へと探究を導きます。ここに、ヴェーダーンタ哲学の最も深遠なパラドックスの一つが、美しい詩的言語で明かされています。

まず、アートマンは「行為の蜜を味わう者मध्वदम्, madhvadam)」として描かれます。このमधु (madhu)「蜜」とは、私たちの行為(カルマ)が生み出す結果、すなわち喜びや悲しみといった経験の果実を象徴しています。つまりアートマンは、この世界で様々な経験を積み重ねる主体、すなわち個我(जीव, jīva)としての一面を持つというのです。これは、アートマンが遠い彼岸の抽象的な実在なのではなく、今この瞬間に私たちの生命活動の中心で、生き生きと経験を味わっている「生命として間近にあるजीवमन्तिकात्, jīvamantikāt)」存在であることを示しています。

しかし、ヤマ神は同時に、この同じアートマンが「過去と未来の主宰者ईशानं भूतभव्यस्य, īśānaṃ bhūtabhavyasya)」でもあると宣言します。これは、アートマンが、個々の経験に没入する個我(ジーヴァ)であると同時に、時間そのものを超越して森羅万象を統べる、普遍的で絶対的な主宰者(ईश्वर, īśvara)としての一面をも併せ持つことを意味します。限定された経験者である「私」と、無限なる宇宙の支配者が、本質において同一であるという、驚くべき真理がここに提示されているのです。

この二つの側面を分かちがたい一体のものとして悟った賢者の境地が、「もはや何ものをも畏れ、厭うことはないन ततो विजुगुप्सते, na tato vijugupsate)」という言葉で示されます。विजुगुप्सते (vijugupsate)は、イーシャー・ウパニシャッドでも用いられる重要な語で、「嫌悪する、避けようとする、隠れようとする」というニュアンスを持ちます。なぜ賢者は嫌悪や恐怖から解放されるのでしょうか。それは、自己が単なる移ろいゆく有限な個我ではなく、時間そのものを統べる不変の主宰者でもあると悟る時、変化や喪失、そして死に対する根源的な恐怖がその根拠を失うからです。もはや、何ものからも身を隠したり、何かを厭い避けたりする必要がなくなるのです。すべての経験は、普遍的な自己が演じる戯れとなり、他者との分離感も消え失せ、嫌悪の対象そのものが存在しなくなります。

そして、この詩節もまた、力強い宣言「これこそが、まさしくかの『それ』であるएतद्वै तत्, etadvai tat)」で結ばれます。ナチケータが求めた「死後の秘密」の答えは、私たちの最も身近な「経験する私」という感覚の奥にありました。この個の経験者こそが、宇宙の根源的実在(ブラフマン)に他ならないというこの悟りこそが、私たちをあらゆる束縛から解放し、絶対的な自由と恐れのない境地へと導くのです。

第2篇 第1章 第6節

यः पूर्वं तपसो जातमद्भ्यः पूर्वमजायत ।
गुहां प्रविश्य तिष्ठन्तं यो भूतेभिर्व्यपश्यत । एतद्वै तत् ॥ २.१.६॥
yaḥ pūrvaṃ tapaso jātamadbhyaḥ pūrvamajāyata |
guhāṃ praviśya tiṣṭhantaṃ yo bhūtebhirvyapaśyat | etadvai tat || 2.1.6||
タパス(創造の熱)より先に生まれ、原初の水より先に現われ出でた、かの者。
彼は心の洞窟に入りて留まり、諸々の被造物と共に在って万象を観る。
これこそが、まさしくかの「それ」である。

逐語訳:

  • यः (yaḥ) - かの者。(関係代名詞 yad、男性単数主格)
  • पूर्वम् (pūrvam) - ~より先に。(副詞)
  • तपसः (tapasaḥ) - タパス(創造の熱)よりも。(tapas、中性単数奪格)
  • जातम् (jātam) - 生まれた者を。(√jan「生む」、過去分詞、男性単数対格。この詩節が観照すべき「対象」を示すため対格形が用いられている)
  • अद्भ्यः (adbhyaḥ) - 原初の水よりも。(ap「水」、女性複数奪格)
  • पूर्वम् (pūrvam) - 先に。(副詞)
  • अजायत (ajāyata) - 生まれた、現れ出でた。(√jan「生む」、アオリスト中間態3人称単数。主語は yaḥ
  • गुहाम् (guhām) - (心の)洞窟に。(guhā、女性単数対格)
  • प्रविश्य (praviśya) - 入って。(pra-+√viś「入る」、絶対分詞)
  • तिष्ठन्तम् (tiṣṭhantam) - 留まっている者を。(√sthā「立つ、留まる」、現在分詞、男性単数対格)
  • यः (yaḥ) - かの者。(yo のヴェーダ語形。一つ目の yaḥ と同じ存在を指す)
  • भूतेभिः (bhūtebhiḥ) - 諸々の被造物と共に、諸々の元素を通して。(bhūta、中性複数具格、ヴェーダ語形)
  • व्यपश्यत (vyapaśyat) - 観照した、見分けた。(vi-apa-+√paś「見る」、アオリスト能動相3人称単数。主語は yaḥ
  • एतत् वै तत् (etadvai tat) - これこそが、まさしくかの「それ」である。

解説:
この詩節は、アートマンの探究を、前節までの「個」の経験の次元から、一気に宇宙創造の壮大なスケールへと引き上げます。ここで描かれるアートマンは、単に個人の内なる本質に留まらず、宇宙そのものの根源であり、最初の顕現であることが荘厳に語られます。

まず、「タパス(創造の熱)より先に生まれ、原初の水より先に現われ出でた」という句は、ヴェーダの宇宙論に基づいています。ヴェーダの創造神話において、तपस् (tapas) は宇宙を生み出す原初的なエネルギーや熱を意味し、आपः (āpaḥ)(水)は万物がそこから生じる根源的な要素と見なされます。アートマンがこれらの創造原理そのもの「よりも先に」存在したということは、彼が被造物ではなく、創造に先立つ根源的な実在、すなわち創造の主体であることを示唆しています。この「最初に生まれた者」は、しばしばヴェーダ哲学における宇宙的第一原理、हिरण्यगर्भ (hiraṇyagarbha)(ヒラニヤガルバ、「黄金の胎児」)と同一視されます。彼は、宇宙の知性そのものの最初の顕現です。

次に、この宇宙的な存在が、私たちの最も身近な場所へと結びつけられます。「心の洞窟に入りて留まりगुहां प्रविश्य तिष्ठन्तम्, guhāṃ praviśya tiṣṭhantam)」という描写は、ウパニシャッドを貫く中心的な比喩です。この गुहा (guhā)「洞窟」とは、私たちの心臓の奥深くにある霊的な中心を象徴します。宇宙の根源であるヒラニヤガルバが、同時に個人の「心の洞窟」に宿るアートマンであるというこの思想は、大宇宙(マクロコスモス)と小宇宙(ミクロコスモス)が照応するという、インド思想の根幹をなす壮大な世界観を美しく表現しています。

さらに、このアートマンは、「諸々の被造物と共に在って万象を観る」と述べられます。भूतेभिः (bhūtebhiḥ) という言葉は、私たちの身体を構成する諸元素から、世界に存在するあらゆる被造物までを包含します。アートマンは、それら全ての存在の中に浸透し、それらと共にありながら、一切の現象を静かに観照する「証人साक्षिन्, sākṣin)」なのです。व्यपश्यत (vyapaśyat) は過去形ですが、これは宇宙創造の始まりにおける原初的な「観照」の行為を指し、その行為が今なお続くアートマンの永遠不変の性質であることを示しています。

この詩節の文法は難解で、जातम् (jātam)(生まれた者)や तिष्ठन्तम् (tiṣṭhantam)(留まっている者)が対格で記されています。これは、この詩節全体が、賢者が観照すべき「対象」として提示されているためです。つまり、この宇宙的なスケールを持つ壮大な存在こそが、私たちが内面に発見すべき真の自己なのです。

そして再び、「これこそが、まさしくかの『それ』である」という力強い宣言が響きます。ナチケータが求めた「死を超えたもの」の答えは、ここに一つのクライマックスを迎えます。私たちの本質は、単なる有限な個我ではなく、宇宙の創造に先立ち、今も全ての被造物の中に宿って世界を観照し続ける、永遠にして普遍的な実在に他ならないのです。この深遠な自覚こそが、私たちを死の恐怖から完全に解放する智慧の光なのです。

第2篇 第1章 第7節

या प्राणेन संभवत्यदितिर्देवतामयी ।
गुहां प्रविश्य तिष्ठन्तीं या भूतेभिर्व्यजायत । एतद्वै तत् ॥ २.१.७॥
yā prāṇena saṃbhavatyaditirdevatāmayī |
guhāṃ praviśya tiṣṭhantīṃ yā bhūtebhirvyajāyata | etadvai tat || 2.1.7||
生命(プラーナ)によりて現れ、神々の霊威に満ちる女神アディティ。
かの女神は、心の洞窟に入りて留まり、諸々の被造物と共に生まれ出でた。
これこそが、まさしくかの「それ」である。

逐語訳:

  • या (yā) - かの(女神)は。(関係代名詞 yad、女性単数主格)
  • प्राणेन (prāṇena) - プラーナ(生命エネルギー)によって。(prāṇa、男性単数具格)
  • संभवति (saṃbhavati) - 顕現する、生じる。(sam-+√bhū「存在する」、現在法3人称単数)
  • अदितिः (aditiḥ) - アディティ(無限なる女神)は。(女性固有名詞、主格単数)
  • देवतामयी (devatāmayī) - 神々の霊威に満ちた、神性そのものから成る。(複合語 devatā-maya、女性主格単数)
  • गुहाम् (guhām) - (心の)洞窟に。(guhā、女性単数対格)
  • प्रविश्य (praviśya) - 入って。(pra-+√viś「入る」、絶対分詞)
  • तिष्ठन्तीम् (tiṣṭhantīm) - 留まっている(女神)を。(√sthā「立つ、留まる」、現在分詞女性単数対格)
  • या (yā) - かの(女神)。(関係代名詞、女性単数主格)
  • भूतेभिः (bhūtebhiḥ) - 諸々の被造物と共に。(bhūta、中性複数具格、ヴェーダ語形)
  • व्यजायत (vyajāyata) - 生まれ出でた。(vi-+√jan「生む」、アオリスト中間態3人称単数)
  • एतत् वै तत् (etad vai tat) - これこそが、まさしくかの「それ」である。

解説:
前節が、宇宙の根源的実在を「पुरुष (puruṣa)」、すなわち男性的な観照原理として描いたのに対し、この詩節は、同じ究極の真理を、壮大な母性原理として描き出します。ここに、実在は静的な意識であると同時に、生命を生み育む動的な創造力でもあるという、インド哲学の非二元的な世界観が美しく表現されています。

詩の中心に現れるのは「अदितिः (aditiḥ)」です。ヴェーダにおいて神々の母と讃えられるこの女神の名は、अ-दिति (a-diti)、すなわち「分割されないもの」「無限なるもの」を意味します。彼女は単なる神話上の存在ではなく、ここでは万物を生み出す根源的で無限な母体、宇宙的な創造エネルギー(シャクティ)そのものの象徴として描かれています。

この母なる原理は「प्राणेन संभवति (prāṇena saṃbhavati)」、すなわち「生命エネルギーによって顕現する」と述べられます。प्राण (prāṇa) とは、単なる呼吸ではなく、宇宙全体に浸透し、あらゆる生命を活気づける根源的な力です。アディティがプラーナによって現れるということは、彼女が抽象的な理念ではなく、今この瞬間に私たちの内なる生命の息吹として脈動する、実感可能な実在であることを示唆します。さらに彼女は「देवतामयी (devatāmayī)」、つまり「神々の霊威に満ちた」存在です。これは、彼女が個別の神々を超越した、あらゆる神性の源泉、神性そのものから成る力であることを意味します。

そして、この宇宙的な母性原理もまた、前節の観照者と同様に、「गुहां प्रविश्य तिष्ठन्तीम् (guhāṃ praviśya tiṣṭhantīm)」、つまり「心の洞窟に入りて留まっている」と語られます。宇宙の母が、私たちの最も内奥である霊的な心臓の「洞窟」に宿っているというこの思想は、大宇宙(マクロコスモス)と小宇宙(ミクロコスモス)が本質において同一であるという、ウパニシャッドの核心的なメッセージを力強く示します。さらに、彼女は「भूतेभिः व्यजायत (bhūtebhiḥ vyajāyata)」、すなわち「諸々の被造物と共に生まれ出でた」とされます。これは、彼女が被造物から分離した超越的な創造主なのではなく、創造された万物の中に浸透し、それらと一体となって現れる内在的な神性であることを示しています。私たち自身を含む森羅万象すべてが、この聖なる母の顕現なのです。

この詩節で、女神アディティの存在が तिष्ठन्तीम् (tiṣṭhantīm) と対格で示されている点は重要です。これは、彼女が瞑想によって「観照され、悟られるべき対象」として示されていることを意味し、前節の構造と完全に呼応しています。

最後に響き渡る「एतत् वै तत् (etad vai tat)」、すなわち「これこそが、まさしくかの『それ』である」という宣言は、ここに新たな深みを持ちます。ナチケータが求めた「それ」とは、前節で示された静的な男性原理と、この節で示された動的な女性原理が、分かちがたく結びついた一つの実在に他なりません。この両義的な真理の全体性を悟る時、人は自己を有限な個我と見なすことから解放され、万物を生み出し育む宇宙的な生命そのものと一体化するのです。この大いなる母への帰依と合一こそが、あらゆる分離感と恐怖を超越した、絶対的な安らぎへと私たちを導きます。

第2篇 第1章 第8節

अरण्योर्निहितो जातवेदा गर्भ इव सुभृतो गर्भिणीभिः ।
दिवे दिवे ईड्यो जागृवद्भिर्हविष्मद्भिर्मनुष्येभिरग्निः । एतद्वै तत् ॥ २.१.८॥
araṇyornihito jātavedā garbha iva subhṛto garbhiṇībhiḥ |
dive dive īḍyo jāgṛvadbhirhaviṣmadbhirmanuṣyebhiragniḥ | etadvai tat || 2.1.8||
二本の火鑽木に秘められしは、ジャータヴェーダス(一切を知る者)。
妊婦に慈しまれし胎児のごとく篤く守られ、
日々目覚めたる供物を捧げる人々により讃えられるべき、火(アグニ)。
これこそが、まさしくかの『それ』である。

逐語訳:

  • अरण्योः (araṇyoḥ) - 二本の火鑽木の中に。(araṇi「火鑽木」、女性双数処格・属格)
  • निहितः (nihitaḥ) - 置かれた、秘められた。(ni-+√dhā「置く」、過去分詞男性単数主格)
  • जातवेदाः (jātavedāḥ) - ジャータヴェーダス(『生まれたものをすべて知る者』の意を持つアグニの古名)。(jātavedas、男性単数主格)
  • गर्भः (garbhaḥ) - 胎児。(男性単数主格)
  • इव (iva) - ~のように。(不変詞)
  • सुभृतः (subhṛtaḥ) - 篤く養われた、慈しみ深く守られた。(su-+√bhṛ「養う、支える」、過去分詞男性単数主格)
  • गर्भिणीभिः (garbhiṇībhiḥ) - 妊婦たちによって。(garbhiṇī、女性複数具格)
  • दिवे दिवे (dive dive) - 日々に、来る日も来る日も。(div「日」、与格の反復形。副詞的用法)
  • ईड्यः (īḍyaḥ) - 讃えられるべき、崇拝されるべき。(√īḍ「讃える」、未来受動分詞、男性単数主格)
  • जागृवद्भिः (jāgṛvadbhiḥ) - 目覚めている者たちによって、霊的に覚醒した者たちによって。(jāgṛvas、完了分詞、男性複数具格)
  • हविष्मद्भिः (haviṣmadbhiḥ) - 供物を持つ者たちによって。(haviṣmat「供物を持つ」、男性複数具格)
  • मनुष्येभिः (manuṣyebhiḥ) - 人々によって。(manuṣya、男性複数具格のヴェーダ語形)
  • अग्निः (agniḥ) - アグニ、火。(男性単数主格)
  • एतत् वै तत् (etad vai tat) - これこそが、まさしくかの『それ』である。

解説:
この詩節は、ナチケータが求める究極の実在を、きわめて象徴的で力強い第三の姿、すなわち聖なる火「アグニ」として描き出します。前節までで示された、静的な観照原理(ヒラニヤガルバ)と、動的な母性原理(アディティ)に続き、ここでは霊的実践の中心に据えられるべき神聖な炎として、同じ真理が語られます。

まず、アグニは「二本の火鑽木に秘められたअरण्योर्निहितः, araṇyornihitaḥ)」と述べられます。古代インドの祭祀において、聖なる火は二本の木अरण्योः (araṇyoḥ)を擦り合わせることで生み出されました。これは、アートマンという神聖な光が、私たちの存在の奥深くに潜在的に秘められていることの美しい比喩です。それは普段は隠れていますが、霊的な探求という「摩擦」、すなわち真摯な修行と努力によって、必ずや顕現する力であることを示唆しています。

この火は、ヴェーダにおけるアグニの古い称号「ジャータヴェーダスजातवेदाः, jātavedāḥ)」、すなわち「生まれたものをすべて知る者」と呼ばれます。これは、彼が単なる物質的な火ではなく、万物を照らし出す宇宙的な智慧の光であることを意味します。第6節で語られた「万象を観る」観照者の性質が、ここでは火神の全知性として表現されているのです。

さらにこの聖なる火は、「妊婦に慈しまれし胎児のごとく篤く守られगर्भ इव सुभृतो गर्भिणीभिः, garbha iva subhṛto garbhiṇībhiḥ)」と詠われます。この感動的な比喩は、霊的探求の道のりにおいて求められるべき態度を教えてくれます。私たちの内なる神性の火花は、非常に繊細で、母親が胎児を慈しみ育むような、献身的な愛と注意深い配慮をもって養われなければなりません。前節の宇宙的な母アディティが、ここではより身近な「妊婦」という象徴で現れ、内なる神性を育むことの尊さを物語っています。

そして、このアグニは「日々目覚めたる供物を捧げる人々により讃えられるべき」存在です。「目覚めたる者 (जागृवद्भिः, jāgṛvadbhiḥ)」とは、単に眠りから覚めた人ではなく、世俗の迷いから覚醒し、内なる神性に意識を向け続ける修行者を指します。彼らが日々 (दिवे दिवे, dive dive) 欠かさず、祈りと供物という具体的な実践を通して内なる火を讃えるとき、その神性は輝きを増すのです。霊的な成長は、一度きりの体験ではなく、たゆまぬ日々の実践によって育まれることを、この詩節は教えています。

この詩を通して、アートマンは潜在的な力(火鑽木)、慈しみ育むべき生命(胎児)、そして日々の実践によって輝きを増す礼拝の対象(アグニ)という、多層的な姿で示されます。そして締めくくりの「これこそが、まさしくかの『それ』である」という宣言は、私たちの内に秘められたこの聖なる火こそが、死すべき肉体を超えて永遠に燃え続ける不滅の光であり、ナチケータの問いへの深遠な答えそのものであることを力強く示しているのです。

第2篇 第1章 第9節

यतश्चोदेति सूर्योऽस्तं यत्र च गच्छति ।
तं देवाः सर्वेऽर्पितास्तदु नात्येति कश्चन । एतद्वै तत् ॥ २.१.९॥
yataścodeti sūryo'staṃ yatra ca gacchati |
taṃ devāḥ sarve'rpitāstadu nātyeti kaścana | etadvai tat || 2.1.9||
太陽の昇り来たり、また沈みゆく、かの根源。
すべての神々はそこに帰依し、何人たりとも、それを超えること能わず。
これこそが、まさしくかの「それ」である。

逐語訳:

  • यतः च उदेति (yataścodeti) - そして、そこから昇る。(yataḥ「~から」+ ca「そして」+ udeti「昇る」)
  • सूर्यः (sūryaḥ) - 太陽は。(男性単数主格)
  • अस्तम् (astam) - 日没へ、滅びへ。(副詞)
  • यत्र च गच्छति (yatra ca gacchati) - そして、そこへ行く。(yatra「~へ」+ ca「そして」+ gacchati「行く」)
  • तम् (tam) - かの者(アートマン)に。(代名詞 tad、男性単数対格)
  • देवाः (devāḥ) - 神々は。(男性複数主格)
  • सर्वे (sarve) - すべての。(形容詞、男性複数主格)
  • अर्पिताः (arpitāḥ) - 置かれている、捧げられている、帰属している。(√ṛpの過去分詞、男性複数主格。車輪の輻が轂に集まるように、依存・帰属する様を表す)
  • तत् उ (tadu) - まさしくそれを。(tat「それ」+ u 強調の不変化詞)
  • न अत्येति (nātyeti) - 超えることはない。(na「~ない」+ atyeti「超え行く」)
  • कश्चन (kaścana) - 誰一人として。(不定代名詞、男性単数主格)
  • एतत् वै तत् (etad vai tat) - これこそが、まさしくかの「それ」である。

解説:
この詩節は、アートマンの探究を、前節までの地上的・個人的な象徴から、一気に壮大な宇宙の次元へと引き上げます。究極の実在は、天体現象の根源、そしてすべての神々を超越した絶対者として荘厳に描き出されます。

まず「太陽の昇り来たり、また沈みゆく、かの根源」という句は、目に見える世界で最も強大な力を持つ太陽さえも、より根源的な存在の現れにすぎないことを示します。यतः (yataḥ) は「そこから」という起源を、यत्र (yatra) は「そこへ」という帰着点を意味し、この二つの言葉で、太陽を含む万物が生起し、そして還っていく究極の基体(substratum)、すなわちブラフマン・アートマンが指し示されています。私たちの日常を照らす太陽の運行という壮大なドラマの背後には、それを可能ならしめる、静かで永遠なる実在があるのです。これは、地上の聖火 अग्नि (agni) を讃えた前節から、天上の火である太陽 सूर्य (sūrya) へと視点を移し、さらにその背後にある究極の光明へと探求を導く、美しい構成になっています。

次に「すべての神々はそこに帰依し」という句は、ウパニシャッド哲学の核心をなす重要な宣言です。अर्पिताः (arpitāḥ) という語は、単に「捧げられる」だけでなく、車輪のすべての輻(スポーク)が中心の轂(こしき)に集まり、それによって支えられている状態を想起させます。ヴェーダの神々、インドラ、ヴァーユ、アグニといった宇宙の諸力も、すべてこの唯一の根源から現れ、そこに依存し、その一部として機能しているのです。これは、ヴェーダの多神教的な世界観を否定するのではなく、それをより深遠な一元論的真理のうちに統合し、昇華させる試みです。無数の神々は、唯一絶対なる実在が持つ多様な力の顕現にほかなりません。

そして「何人たりとも、それを超えること能わず」という力強い言葉が、その実在の絶対性を決定づけます。न अत्येति कश्चन (na atyeti kaścana) という表現は、神々を含め、いかなる存在もこの根源を超えることはできない、という究極的な超越性を示します。これは、力の優劣の話ではなく、すべての存在がその中に含まれる基体であるため、それを「超える」という比較自体が成り立たない、絶対的な次元を意味しています。

最後に繰り返される「これこそが、まさしくかの『それ』である」という断定は、ここに新たな深みを帯びます。ナチケータが追い求める「死を超えたもの」とは、宇宙の運行を司り、すべての神々を統べる、この絶対的な根源に他なりません。この壮大な宇宙観に自らを重ね合わせるとき、個人という小さな枠組みは消え去り、私たちは自らの本質が、この永遠にして無限なる実在そのものであることを悟るのです。この自覚こそが、あらゆる変化と消滅の恐怖から私たちを解き放つ、究極の智慧なのです。

第2篇 第1章 第10節

यदेवेह तदमुत्र यदमुत्र तदन्विह ।
मृत्योः स मृत्युमाप्नोति य इह नानेव पश्यति ॥ २.१.१०॥
yadeveha tadamutra yadamutra tadanviha |
mṛtyoḥ sa mṛtyumāpnoti ya iha nāneva paśyati || 2.1.10||
ここに在るもの、まさしくそれは彼方に在り。
彼方に在るもの、またここに在る。
この世に多様性があるかのごとく見る者は、死から死へと渡り歩く。

逐語訳:

  • यत् एव इह (yadeva iha) - まさにここに在る(もの)は。(関係代名詞 yad + 強調詞 eva + 副詞 iha「ここに」)
  • तत् अमुत्र (tad amutra) - それが彼方に(在る)。(指示代名詞 tad + 副詞 amutra「彼方に、あの世に」)
  • यत् अमुत्र (yad amutra) - 彼方に在る(もの)は。(関係代名詞 yad + 副詞 amutra
  • तत् अनु इह (tad anviha) - それが、同様にここに(在る)。(指示代名詞 tad + 接頭辞 anu「~に従って、同様に」+ 副詞 iha
  • मृत्योः (mṛtyoḥ) - 死から。(mṛtyu「死」、男性単数奪格)
  • सः (saḥ) - その者は。(代名詞、男性単数主格)
  • मृत्युम् (mṛtyum) - 死を、死へと。(mṛtyu、男性単数対格)
  • आप्नोति (āpnoti) - 得る、到達する。(√āp「達する」、現在法3人称単数)
  • यः (yaḥ) - (~である)その者は。(関係代名詞、男性単数主格)
  • इह (iha) - ここに、この世において。(副詞)
  • नाना इव (nānā iva) - 多様であるかのように。(nānā「多様な」+ 不変詞 iva「~のように」)
  • पश्यति (paśyati) - 見る。(√paś「見る」、現在法3人称単数)

解説:
この詩節は、前節で示された宇宙を統べる唯一の根源が、実はどこか遠い彼方にあるのではなく、私たちの認識そのものの中に遍在する真理であることを、力強く宣言します。ウパニシャッド哲学の根幹をなす不二一元論(アドヴァイタ)が、ここでは極めて簡潔かつ深遠な言葉で表現されています。

詩の前半「ここに在るもの、まさしくそれは彼方に在り。彼方に在るもの、またここに在る」は、私たちの思考が作り出すあらゆる二元的な対立を打ち破ります。इह (iha) すなわち「ここ、この世」と、अमुत्र (amutra) すなわち「彼方、あの世」は、本質において同一であると断言されます。これは、小宇宙(ミクロコスモス)と大宇宙(マクロコスモス)、個と全体、此岸と彼岸といった区別が、究極的には幻影にすぎないことを示しています。前節で語られた、太陽の運行を司り、神々さえも帰依する壮大な実在は、天上のどこかではなく、まさに「今、ここ」の私たち自身の内に、そしてあらゆる事物の中に、完全な形で存在しているのです。

しかし、なぜ私たちはこの偉大な統一性を見ることができないのでしょうか。詩の後半が、その理由と悲劇的な結末を明らかにします。「この世に多様性があるかのごとく見る者は、死から死へと渡り歩く」。問題は、私たちの認識のあり方にあります。नाना इव पश्यति (nānā iva paśyati) という句が核心です。これは「多様性そのもの」を否定しているのではありません。問題は、多様性を「इव (iva)」、すなわち「あたかもそれだけが実在であるかのように」見てしまうことにあります。唯一の海を忘れ、無数の波の生滅だけを追いかけるように、私たちは万物の根底にある一なる実在を見失い、現象世界の断片的な多様性に心を奪われてしまいます。この分離と対立を生み出す認識こそが、無明(アヴィディヤー)の本質です。

そして、この分別に囚われた者は、मृत्योः स मृत्युमाप्नोति (mṛtyoḥ sa mṛtyumāpnoti)、すなわち「死から死へと渡り歩く」運命を辿ります。これは単に肉体的な死と再生の輪廻(サンサーラ)を繰り返すことだけを意味するものではありません。それはより深刻な、霊的な死の連続です。自己の本質である永遠の生命から切り離され、絶え間ない変化と消滅の恐怖に怯え、一時的な存在として生まれ、そして死んでいくという苦しみのサイクルに捕らわれ続けるのです。

この詩節は、ナチケータの「死んだ後、人はどうなるのか」という根源的な問いに対する、極めて直接的な答えです。死を超越する道は、死後の世界を求めることにあるのではなく、ただ「今、ここ」において認識のあり方を変革することにあります。多様性の背後にある統一性、すなわちブラフマンでありアートマンである唯一の実在を悟ること。この悟りこそが、私たちを死の連鎖から解き放ち、真の不死へと導く唯一の道なのです。

第2篇 第1章 第11節

मनसैवेदमाप्तव्यं नेह नानाऽस्ति किंचन ।
मृत्योः स मृत्युं गच्छति य इह नानेव पश्यति ॥ २.१.११॥
manasaivedamāptavyaṃ neha nānā'sti kiṃcana |
mṛtyoḥ sa mṛtyuṃ gacchati ya iha nāneva paśyati || 2.1.11||
ただ心によってのみ、これは到達されるべきである。
ここに多様性は、何ひとつとして存在しない。
この世に多様性があるかのごとく見る者は、死から死へと赴く。

逐語訳:

  • मनसा एव इदम् (manasā eva idam) - まさに心によって、これが。(manas「心」、中性単数具格 + 強調詞 eva + 指示代名詞 idam「これ」、中性単数主格)
  • आप्तव्यम् (āptavyam) - 到達されるべき、得られるべき。(√āp「達する」、未来受動分詞、中性単数主格)
  • न इह (neha) - ここに~ない。(否定詞 na + 副詞 iha「ここに」)
  • नाना (nānā) - 多様性、種々様々なもの。(副詞的用法)
  • अस्ति (asti) - ある、存在する。(√as「在る」、現在法3人称単数)
  • किंचन (kiṃcana) - 何も、少しも。(不定代名詞)
  • मृत्योः (mṛtyoḥ) - 死から。(mṛtyu「死」、男性単数奪格)
  • सः (saḥ) - その者は。(代名詞、男性単数主格)
  • मृत्युम् (mṛtyum) - 死を、死へと。(mṛtyu、男性単数対格)
  • गच्छति (gacchati) - 行く、赴く。(√gam「行く」、現在法3人称単数)
  • यः (yaḥ) - (~である)その者は。(関係代名詞、男性単数主格)
  • इह (iha) - ここに、この世において。(副詞)
  • नाना इव (nānā iva) - 多様であるかのように。(nānā「多様な」+ 不変詞 iva「~のように」)
  • पश्यति (paśyati) - 見る。(√paś「見る」、現在法3人称単数)

解説:
前節が「多様性を見る者は死の連鎖を辿る」という根源的な警告を発したのに対し、この詩節はその教えを繰り返しながら、その連鎖を断ち切るための具体的な方法を明確に示します。それは、認識の変革という、極めて内面的な道です。

まず冒頭の「ただ心によってのみ、これは到達されるべきであるमनसैवेदमाप्तव्यम्, manasaivedamāptavyam)」という句は、究極の真理に到達するための唯一の道筋を指し示しています。ここでいう「心(मनस्, manas)」とは、日常の思考や感情に揺れ動く表層的な心ではありません。それは、ヨーガや瞑想といった霊的な修練によって不純物から清められ、一点に集中し、静謐になった心のことです。このような浄化された心は、もはや外界の断片的な情報を処理する器官ではなく、真理そのものを直接映し出す鏡のような、純粋な認識能力となります。この真理は、論理的な思考や言葉による説明を超えているため、この直観的な把握(आप्तव्यम्, āptavyam)以外に知る術はないのです。

次に「ここに多様性は、何ひとつとして存在しないनेह नानाऽस्ति किंचन, neha nānā'sti kiṃcana)」という言葉は、前節の教えを、さらに力強く、否定の余地なく断言するものです。私たちの感覚は、世界を無数の独立した個物からなる多様なものとして捉えます。しかし、ウパニシャッドの賢者は、その認識こそが根本的な誤りであると喝破します。この宣言は、現象世界そのものが存在しないと言っているのではありません。むしろ、私たちが多様性として認識しているすべてのものの本質は、唯一にして分割不可能な実在(ブラフマン)である、ということです。海の無数の波が、姿形は異なれども、本質においてはすべて「水」であるように、万物の根底には絶対的な統一性が横たわっています。この統一性を見ず、表面的な差異のみに囚われることが、苦しみの根源なのです。

そして詩の後半は、前節の警告を動詞を変えて繰り返します。「この世に多様性があるかのごとく見る者は、死から死へと赴くमृत्योः स मृत्युं गच्छति, mṛtyoḥ sa mṛtyuṃ gacchati)」。前節の動詞āpnoti(得る、到達する)が結果としての状態を示したのに対し、ここでのgacchati(行く、赴く)は、より動的で継続的なプロセスを暗示します。これは、多様性に固執する認識が、私たちを死と再生の終わりのない旅路(サンサーラ)へと、自ら歩ませ続けることを示しています。それは、絶え間ない変化と消滅のサイクルの中に、自らを能動的に投じ続ける悲劇的な行為なのです。

この詩節は、ナチケータの問いへの答えが、死後の世界の探求ではなく、今ここでの認識の変革にあることを、改めて力強く示しています。死を超越する鍵は、外にはありません。それは、浄化された自らの心によって、多様性の奥にある絶対的な一者を見出すこと。この内なる眼覚めこそが、私たちを死の連鎖から解き放ち、永遠の安らぎへと導く唯一の道なのです。

第2篇 第1章 第12節

अङ्गुष्ठमात्रः पुरुषो मध्य आत्मनि तिष्ठति ।
ईशानं भूतभव्यस्य न ततो विजुगुप्सते । एतद्वै तत् ॥ २.१.१२॥
aṅguṣṭhamātraḥ puruṣo madhya ātmani tiṣṭhati |
īśānaṃ bhūtabhavyasya na tato vijugupsate | etadvai tat || 2.1.12||
親指ほどのプルシャは、その身の中央に鎮座する。
過去と未来を統べる主、これを知れば、もはや何ものをも厭うことなし。
これこそが、まさしくかの「それ」である。

逐語訳:

  • अङ्गुष्ठमात्रः (aṅguṣṭhamātraḥ) - 親指ほどの大きさの。(aṅguṣṭha「親指」+ mātra「大きさ、尺度」の複合語、男性単数主格)
  • पुरुषः (puruṣaḥ) - プルシャ、内なる人、究極の意識。(男性単数主格)
  • मध्ये आत्मनि (madhye ātmani) - 身体の中央に。(madhye「中央に」、位格 + ātmani ātman「自己、身体」の単数位格)
  • तिष्ठति (tiṣṭhati) - 鎮座する、立つ、存在する。(√sthā「立つ」、現在法3人称単数)
  • ईशानम् (īśānam) - 支配者を、主宰者を(知って)。(īśāna「支配者」、男性単数対格。文法的には、puruṣaḥと呼応する主格 īśānaḥ が期待されるが、ここでは同格として扱われる)
  • भूतभव्यस्य (bhūtabhavyasya) - 過去と未来の。(bhūta「過ぎ去ったもの」+ bhavya「これから来るもの」の複合語、中性単数属格)
  • न (na) - ~ない。(否定詞)
  • ततः (tataḥ) - その(認識の)後、それ故に。(副詞)
  • विजुगुप्सते (vijugupsate) - 厭う、忌み嫌う、隠れようとする。(√gup「隠れる、守る」の強意形 jugups に接頭辞 vi がついた動詞。アートマネーパダ3人称単数)
  • एतत् वै तत् (etad vai tat) - これこそが、まさしくかの「それ」である。

解説:
この詩節は、前節までで示された「万物は一である」という壮大な宇宙論的真理を、劇的に個人の内面へと引き寄せます。宇宙の根源であり、神々さえも超える絶対者が、どこか遠い彼方ではなく、私たちの最も内奥、すなわち心臓の座に宿っていることを、鮮烈なイメージをもって描き出します。

まず「親指ほどのプルシャअङ्गुष्ठमात्रः पुरुषः, aṅguṣṭhamātraḥ puruṣaḥ)」という象徴的な表現は、ウパニシャッドにおいて繰り返し現れる重要なものです。これは、無限にして普遍なる究極の実在(プルシャ)が、人間の身体という有限な器の中に、完全な形で凝縮されて存在しているという深遠なパラドックスを示しています。この「親指ほどの大きさ」とは、物理的な寸法を意味するのではありません。それは、心臓の空洞(हृदय-आकाश, hṛdaya-ākāśa)に宿るとされる、感覚では捉えられないほど微細でありながら、全宇宙を内に含む霊的な中心点を象徴しています。このプルシャは、個人の人格を超えた純粋意識そのものであり、私たちの存在の不動の中心として「その身の中央に鎮座するमध्ये आत्मनि तिष्ठति, madhye ātmani tiṣṭhati)」のです。

次に、この内なるプルシャの驚くべき本質が明かされます。それは「過去と未来を統べる主ईशानं भूतभव्यस्य, īśānaṃ bhūtabhavyasya)」です。時間(過去と未来)は、変化、生成、そして消滅という、私たちが「死」と呼ぶ現象を支配する根源的な法則です。その時間を統べる主であるということは、このプルシャが時間という枠組みそのものを超越した、永遠にして不変の実在であることを意味します。これは、ナチケータが問いかけた「死を超えたものとは何か」という根源的な問いに対する、極めて直接的な答えです。真の自己は、時間の流れの中で生まれては死ぬ存在ではなく、時間の流れそのものを静かに見つめる、永遠の観照者なのです。

この偉大な真理を悟ったとき、私たちの心には根本的な変革が訪れます。「これを知れば、もはや何ものをも厭うことなしन ततो विजुगुप्सते, na tato vijugupsate)」。विजुगुप्सते (vijugupsate)という動詞は、単なる恐怖を超え、自己を守るために他者や状況を忌み嫌い、そこから隠れたり避けたりしようとする、深い次元の拒絶や嫌悪感を意味します。こうした否定的な感情はすべて、自己を脆弱で有限な肉体や心と同一視する誤解から生まれます。しかし、自らの本質が、全宇宙の時間を統べる永遠不滅の主宰者であると知るならば、一体何を恐れ、何を忌み嫌う必要があるでしょうか。脅かされるべき「自己」という分離した観念そのものが消え去り、自己と世界を隔てる壁は崩壊します。

この詩節は、死からの解放が、死後の世界を求めることによってではなく、今ここにある自己の本質の探求によってのみ得られることを教えています。瞑想や内省を通じて、この内なる「親指ほどのプルシャ」の静かな現前に気づくこと。それこそが、あらゆる恐怖と嫌悪を乗り越え、真の不死、すなわち永遠の安らぎへと至る道なのです。

第2篇 第1章 第13節

अङ्गुष्ठमात्रः पुरुषो ज्योतिरिवाधूमकः ।
ईशानो भूतभव्यस्य स एवाद्य स उ श्वः । एतद्वै तत् ॥ २.१.१३॥
aṅguṣṭhamātraḥ puruṣo jyotirivādhūmakaḥ |
īśāno bhūtabhavyasya sa evādya sa u śvaḥ | etadvai tat || 2.1.13||
親指ほどのプルシャは、煙なき光のごとし。
過去と未来の主宰者。彼はまさしく今日あり、そして明日もまた然り。
これこそが、まさしくかの「それ」である。

逐語訳:

  • अङ्गुष्ठमात्रः (aṅguṣṭhamātraḥ) - 親指ほどの大きさの。(aṅguṣṭha「親指」+ mātra「大きさ」の複合語、男性単数主格)
  • पुरुषो (puruṣo) - プルシャは。(puruṣaḥ のサンディー形。男性単数主格)
  • ज्योतिः इव (jyotir iva) - 光のように。(中性名詞 jyotiḥ「光」、主格 + 不変化詞 iva「~のように」)
  • अधूमकः (adhūmakaḥ) - 煙のない。(否定接頭辞 a + dhūmaka「煙のあるもの」。puruṣaḥ を修飾する形容詞、男性単数主格)
  • ईशानो (īśāno) - 主宰者。(īśānaḥ のサンディー形。puruṣaḥ と同格、男性単数主格)
  • भूतभव्यस्य (bhūtabhavyasya) - 過去と未来の。(bhūta「過ぎ去ったもの」+ bhavya「これから来るもの」の複合語、中性単数属格)
  • सः एव अद्य (sa eva adya) - 彼こそが今日(在る)。(代名詞 saḥ + 強調詞 eva「まさに」+ 副詞 adya「今日」)
  • सः उ श्वः (sa u śvaḥ) - そして彼こそが明日も(在る)。(代名詞 saḥ + 強調詞 u「また、そして」+ 副詞 śvaḥ「明日」)
  • एतत् वै तत् (etad vai tat) - これこそが、まさしくかの「それ」である。

解説:
前節が、内なる実在であるプルシャの「場所」(身体の中央)と「権能」(過去と未来の主)を明らかにしたのに対し、この詩節はそのプルシャの輝かしい「本質」と絶対的な「永遠性」を、極めて詩的な言葉で描き出します。

まず「親指ほどのプルシャは、煙なき光のごとし」という比喩は、ウパニシャッドの中でも特に美しく、深い霊的な洞察に満ちたものです。この「光(ज्योतिः, jyotiḥ)」は、物理的な光ではありません。それは意識そのものの輝きです。そして、その光を「煙なき(अधूमकः, adhūmakaḥ)」と表現することに、この比喩の真髄があります。私たちが知る地上の火は、必ず燃料を必要とし、燃焼の過程で煙という不純物を生み出します。それは原因と結果の法則に縛られた、条件づけられた光です。しかし、内なるプルシャの光には「煙」がありません。それは、いかなる原因にも依存せず、何ものによっても汚されることのない、純粋で自己完結した輝きです。この「煙」は、私たちの心を覆う無明、欲望、カルマといったあらゆる不純物の象徴と考えることができます。プルシャの本質は、そうした一切の曇りがない、清浄無垢な智慧の光なのです。この表現は、深い瞑想の中で修行者が体験する内的な光明とも深く結びついています。

続いて、前節の教え「過去と未来の主宰者」が繰り返され、その永遠性がさらに力強く宣言されます。「彼はまさしく今日あり、そして明日もまた然り」。ここには、अद्य (adya) すなわち「今日・現在」と、श्वः (śvaḥ) すなわち「明日・未来」という、時間の流れを象徴する二つの言葉が並べられています。しかし、プルシャは、この時の流れの中に在りながら、その流れによって一切変容することがありません。सः एव (saḥ eva、「彼こそが」)と सः उ (saḥ u、「そして彼こそがまた」)という二重の強調が示すのは、昨日も、今日も、明日も、このプルシャが絶対的に同一であり続けるという、その揺るぎない不変性です。それは単に長く続くという「永続性」ではなく、時間という枠組みそのものを超越した、真の「永遠性」を意味します。

この教えは、ナチケータが発した根源的な問い、「死んだ後、人はどうなるのか」に対する、核心的な答えです。死とは、変化するものの宿命です。しかし、私たちの真の自己、すなわちアートマンでありプルシャであるこの「煙なき光」は、いかなる変化にも染まらない不変の実在です。したがって、それは生まれることも滅することもありません。死の恐怖からの解放は、死後の世界を探求することによってではなく、今この瞬間に、自らの内にあるこの不変にして永遠の光に目覚めることによってのみ、もたらされるのです。この詩節は、その深遠な真理を、私たちの心に直接響く、忘れがたいイメージとして示しています。

第2篇 第1章 第14節

यथोदकं दुर्गे वृष्टं पर्वतेषु विधावति ।
एवं धर्मान् पृथक् पश्यंस्तानेवानुविधावति ॥ २.१.१४॥
yathodakaṃ durge vṛṣṭaṃ parvateṣu vidhāvati |
evaṃ dharmān pṛthak paśyaṃs tānevānuvidhāvati || 2.1.14||
険しい頂きに降った水が、山々を流れ散るがごとく、
そのように、諸々の性質を別々のものとして見る者は、まさしくその多様性の後を追い、惑い走る。

逐語訳:

  • यथा (yathā) - ちょうど~のように。(副詞)
  • उदकम् (udakam) - 水が。(udaka、中性単数主格)
  • दुर्गे (durge) - 険しい場所に、難所に。(durga「行き難い場所」、中性単数位格)
  • वृष्टम् (vṛṣṭam) - 降られた。(√vṛṣ「降る」、過去受動分詞。udakamを修飾)
  • पर्वतेषु (parvateṣu) - 山々を、山々において。(parvata「山」、男性複数位格)
  • विधावति (vidhāvati) - 流れ散る、駆け散る。(接頭辞 vi-「分離」+ √dhāv「走る」、現在法3人称単数)
  • एवम् (evam) - そのように、このように。(副詞)
  • धर्मान् (dharmān) - 諸々の性質を、個別の存在を。(dharma、男性複数対格)
  • पृथक् (pṛthak) - 分離して、別々に。(副詞)
  • पश्यन् (paśyan) - 見る者は。(√paś「見る」、現在能動分詞、男性単数主格)
  • तान् एव (tān eva) - それらをまさしく。(指示代名詞 tad、男性複数対格 + 強調詞 eva
  • अनुविधावति (anuvidhāvati) - その後を追って流れ惑う、追い求めて走る。(接頭辞 anu-「後に続いて」+ vidhāvati、現在法3人称単数)

解説:
この詩節は、前節までで示された「一なる実在」という深遠な真理から一転し、その真理を見失った心の状態を、極めて鮮烈で力強い自然の比喩をもって描き出します。前節の「煙なき光」が静謐な「統一」の象徴であったのに対し、ここでは「流れ散る水」が制御不能な「分散」の象徴として対置されます。

まず前半の「険しい頂きに降った水が、山々を流れ散るがごとく」という情景は、単なる風景描写ではありません。天から降る雨水は、本来は純粋で、どこにも偏らない一つのものです。これは、万物の根源である純粋な意識、ブラフマンの象徴と見なせます。しかし、その水がदुर्गे (durge)、すなわち「行き難い場所、険しい頂き」に降ると、その運命は一変します。この「険しい頂き」とは、私たちの心に存在する分別知、我執、そして物事を二元的に捉える習性といった、認識上の「障害物」の比喩です。一なる純粋な意識が、これらの障害にぶつかることで砕け散り、विधावति (vidhāvati)、すなわち無数の小さな流れとなって山々を駆け巡り、四方八方に分散してしまうのです。これは、唯一絶対の真理が、私たちの断片的な認識によって、無数の個別の現象として現れるという悲劇的なプロセスを見事に描き出しています。

そして後半は、この比喩が意味する霊的な真理を明らかにします。「そのように、諸々の性質を別々のものとして見る者は、まさしくその多様性の後を追い、惑い走る」。ここでいう「諸々の性質(धर्मान्, dharmān)」とは、私たちが世界の中で認識するあらゆる個別の存在や属性、例えば、幸福と不幸、自と他、善と悪といったものです。これらをपृथक् पश्यन् (pṛthak paśyan)、つまり互いに無関係な、分離した実体として見る者は、統一性を見失った心の持ち主です。

そのような人は、必然的にतानेव अनुविधावति (tāneva anuvidhāvati)、つまり「その(分離した)ものの後を追い、惑い走る」ことになります。この動詞は、前半のविधावति (vidhāvati)と巧みに呼応しています。水が自然の摂理に従って「流れ散る」のに対し、人間はその流れ散った個々の現象を、今度は自らの欲望や恐怖に駆られて「追いかけ回す」のです。これは、輪廻(サンサーラ)の苦しみが、単なる宿命ではなく、私たち自身の認識の誤りと、それに基づく終わりのない追求によって、能動的に維持されているというインド哲学の根源的な洞察を表現しています。

この詩節は、第11節の「多様性があるかのごとく見る者は、死から死へと赴く」という警告を、より動的で感覚的なイメージによって補強します。真理を知る者は、内なる不動の光に安らいますが、無明に囚われた者は、自らが作り出した多様性の幻影を追いかけて心身を消耗させ、死と再生の激流に翻弄され続けるのです。この詩は、認識のあり方そのものが私たちの運命を決定するという、ウパニシャッドの叡智を、忘れがたい詩的イメージとして心に刻みつけます。

第2篇 第1章 第15節

यथोदकं शुद्धे शुद्धमासिक्तं तादृगेव भवति ।
एवं मुनेर्विजानत आत्मा भवति गौतम ॥ २.१.१५॥
yathodakaṃ śuddhe śuddhamāsiktaṃ tādṛgeva bhavati |
evaṃ muner vijānata ātmā bhavati gautama || 2.1.15||
清らかな水が清らかなものへと注がれ、まさしくそれそのものとなるがごとく、
おおゴータマよ、識別知ある聖者のアートマンもまた、そのようになる。

逐語訳:

  • यथा (yathā) - ちょうど~のように。(副詞)
  • उदकम् (udakam) - 水が。(udaka、中性単数主格)
  • शुद्धे (śuddhe) - 清浄なもの(水や器)に。(śuddha「清浄な」、中性単数位格)
  • शुद्धम् (śuddham) - 清浄な。(śuddha、中性単数主格。udakamを修飾)
  • आसिक्तम् (āsiktam) - 注がれた。(ā-√sic「注ぐ」、過去受動分詞。udakamを修飾)
  • तादृक् एव भवति (tādṛg eva bhavati) - まさしくそれ(と同一)のようになる。(tādṛk「そのような」+ eva「まさに」+ bhavati「なる」)
  • एवम् (evam) - そのように、このように。(副詞)
  • मुनेः (muneḥ) - 聖者の。(muni「聖者、沈黙の賢者」、男性単数属格)
  • विजानतः (vijānataḥ) - (真理を)識別して知る者の。(vi-√jñā「識別する」、現在能動分詞、男性単数属格)
  • आत्मा (ātmā) - アートマンは。(ātman「真我」、男性単数主格)
  • भवति (bhavati) - となる。(√bhū「ある、なる」、現在法3人称単数)
  • गौतम (gautama) - ゴータマよ。(ナチケータの家系名、男性単数呼格)

解説:
この詩節は、前節が描いた「分散と流転」の暗い情景とは鮮やかな対照をなす、「合一と静謐」の輝かしい光景を、同じく「水」の比喩を用いて示します。前節では、純粋な水が険しい山頂という障害(दुर्गे, durge)によって砕け散り、多様性の幻影を追いかける苦しみの輪廻が描かれました。しかしこの詩節では、その悲劇が逆転し、至高の解放が実現する道筋が、静かで美しいイメージによって明かされます。

まず前半の「清らかな水が清らかなものへと注がれ、まさしくそれそのものとなるがごとく」という比喩は、ヴェーダーンタ哲学の核心である「梵我一如(ぼんがいちにょ)」の教えを、この上なく明瞭に表現しています。ここでいう「清らかな水(शुद्धम् उदकम्, śuddham udakam)」とは、瞑想や智慧によって欲望や無明といった不純物から浄化された、個人の内なる真我(アートマン)の象徴です。そして、その水が注がれる「清らかなもの(शुद्धे, śuddhe)」とは、一切の限定や属性を超えた、宇宙の究極的実在であるブラフマンの純粋性を指します。

この比喩の真髄は、तादृक् एव भवति (tādṛg eva bhavati)、「まさしくそれそのものとなる」という言葉に凝縮されています。これは、二つの異なるものが似るということではありません。注がれた水と注がれた先の水が、もはや区別できなくなるように、浄化されたアートマンは、ブラフマンという大いなる海に還り、完全に一つになるのです。そこには、もはや「個」と「全体」という区別も、見るものと見られるものの対立も存在しません。前節の山頂が「分別知」という障害の象徴であったのに対し、ここの「清らかな器」は、全てを受け入れ、一つにする「統一知」の象徴なのです。

この崇高な状態に達するのが、「識別知ある聖者のアートマン」です。मुनिः (muniḥ)とは、沈黙のうちに深遠な真理を瞑想する賢者を指し、विजानत् (vijānat)とは、現象世界の多様性の奥にある唯一の実在を明確に見抜く「識別知」を持つ者を意味します。このような賢者は、前節で述べられたように物事を「別々(पृथक्, pṛthak)」に見ることはありません。彼らは、全ての現象が一なるブラフマンの現れであることを直観し、自らの本質もまたそれと同一であると悟ります。その結果、彼のアートマンは、あたかも清らかな水が清らかな水に溶け合うように、その根源であるブラフマンへと静かに帰一するのです。

最後に、ヤマがナチケータを「ゴータマよ」と親しく呼びかけることは、この上なく重要な意味を持ちます。この呼びかけは、師から弟子への深い信頼と承認の証です。ヤマは、ナチケータがこの合一の真理を理解し、自ら体現するにふさわしい資質を持った魂であることを見抜いているのです。

この詩節は、私たちに、真の解放とは死後の世界に何かを求めることではなく、今ここで、自己の認識を浄化し、変容させることにあると教えています。多様性の幻影を追いかけ、惑い走る苦しみの道から、根源的な一者へと還り、静かな至福に溶け込む道へ。その荘厳な霊的旅路の終着点が、この詩節には美しく示されています。

第2篇 第1章 奥書

इति काठकोपनिषदि द्वितीयाध्याये प्रथमा वल्ली ॥
iti kāṭhakopaniṣadi dvitīyādhyāye prathamā vallī ||
カタ・ウパニシャッド、第二篇、第一章、ここに終わる。

逐語訳:

  • इति (iti) - ここに、このようにして(章や節の終わりを示す不変化詞)
  • काठकोपनिषदि (kāṭhakopaniṣadi) - カタ・ウパニシャッドにおいて(複合語 kāṭhaka-upaniṣad の女性単数位格)
  • द्वितीयाध्याये (dvitīyādhyāye) - 第二篇において(複合語 dvitīya-adhyāya の男性単数位格)
  • प्रथमा (prathamā) - 第一の(形容詞 prathama の女性単数主格。vallī を修飾)
  • वल्ली (vallī) - 章、蔓(女性単数主格)

解説:
聖典の詠唱において、一つの章の終わりを告げるこの一句は、単なる文章上の区切り以上の意味を持ちます。それは、語られた深遠な教えを心に深く刻み、静かに瞑想するための神聖な間(ま)であり、次なる智慧の扉を開くための準備を促す合図でもあるのです。

この第二篇第一章は、ナチケータが発した究極の問い、すなわち「死後、人はどうなるのか」という謎に、ヤマ神が本格的に踏み込んで答えた、極めて重要な章でした。ヤマ神はまず、人々の意識が生まれながらにして外側の世界に向かう性質(पराञ्चि खानि, parāñci khāni)を持つことを示し、そこから内なるアートマンへと視線を転じる「勇気ある者」(धीरः, dhīraḥ)の探求の道を明らかにしました。

そして、その探求の果てに見出されるアートマンが、「親指ほどの大きさのプルシャ」(अङ्गुष्ठमात्रः पुरुषः, aṅguṣṭhamātraḥ puruṣaḥ)として心臓の奥に宿り、「煙なき光」(ज्योतिरिवाधूमकः, jyotirivādhūmakaḥ)のように純粋な輝きを放ち、過去と未来を超越した永遠の主宰者であることを、詩的なイメージ豊かに説き明かしました。この章の教えは、二つの鮮やかな水の比喩によってクライマックスを迎えます。一つは、険しい山頂に降った雨水が砕け散り、様々な流れとなって迷走するように、多様性の幻影(धर्मान् पृथक्, dharmān pṛthak)を追いかける者は輪廻の激流に飲み込まれるという警告でした。それに対し、清らかな水が清らかな水に注がれて完全に一つになるように、識別知を得た聖者(मुनेर्विजानतः, muner vijānataḥ)のアートマンは、その根源であるブラフマンと合一し、絶対的な静寂と至福に帰するという、解放のヴィジョンが示されました。

この章を指す वल्ली (vallī) という言葉が、本来「蔓草」や「蔦」を意味することは、ウパニシャッドの構造を理解する上で非常に示唆に富んでいます。聖典全体が真理という一本の壮大な樹木であるとすれば、各章(ヴァッリー)は、その幹から伸び、それぞれが固有の葉や花をつけながらも、すべてが同じ根源的な生命に養われている枝や蔓のようなものです。この第一のヴァッリーは、アートマンの一者性と永遠性というテーマを見事に展開し、その教えは次の章へと有機的に繋がっていきます。この章末の一句は、私たちに対して、一度ここで立ち止まり、語られた智慧を深く味わい、次なる探求への心を整えるよう、静かに促しているのです。

第2篇 第2章 第1節

पुरमेकादशद्वारमजस्यावक्रचेतसः ।
अनुष्ठाय न शोचति विमुक्तश्च विमुच्यते । एतद्वै तत् ॥ २.२.१॥
puramekādaśadvāramajasyāvakracetasaḥ |
anuṣṭhāya na śocati vimuktaśca vimucyate | etadvai tat || 2.2.1||
不生にして、歪みなき意識を持つ者の、十一の門ある城。
これを観想する者は悲しまず、すでに解脱していながら、さらに(完全に)解放される。
これこそが、まさしくそれである。

逐語訳:

  • पुरम् एकादशद्वारम् (puram ekādaśadvāram) - 十一の門ある城を。(複合語 puramekādaśadvāra、中性単数対格)
  • अजस्य (ajasya) - 不生なる者の。(aja「生まれない者」、男性単数属格)
  • अवक्रचेतसः (avakracetasaḥ) - 歪みなき意識を持つ者の。(複合語 avakra-cetas「曲がっていない心」、中性単数属格)
  • अनुष्ठाय (anuṣṭhāya) - (そのように)観想して、瞑想によって統御して。(anu-√sthā「従い立つ」、絶対分詞)
  • न शोचति (na śocati) - 悲しまない。(否定辞 na + √śuc「悲しむ」、現在法3人称単数)
  • विमुक्तः च (vimuktaḥ ca) - そして解脱した者は。(vimukta「解放された」、男性単数主格 + ca「そして」)
  • विमुच्यते (vimucyate) - (完全に)解放される。(vi-√muc「解放する」、現在受動態3人称単数)
  • एतत् वै तत् (etad vai tat) - これこそが、まさしくそれである。(指示代名詞 + 強調詞 + 指示代名詞)

解説:
第二篇第二章は、この詩節から始まります。前章がアートマン(真我)の普遍的な本質と、それを見失った心の流転を説いたのに対し、ここからはその真我がいかに私たちの具体的な存在、すなわち身体と深く関わっているのかという、より実践的な教えへと進みます。

まず提示されるのは、「十一の門ある城पुरम् एकादशद्वारम्, puram ekādaśadvāram)」という、極めて象徴的な比喩です。この「城(पुर, pura)」とは、私たちの肉体を指します。インド哲学では、身体はしばしばアートマンが宿る神聖な館や城にたとえられます。「十一の門」とは、外界と繋がる身体の開口部、すなわち両眼、両耳、両鼻孔、口の七つと、下腹部の二つ(生殖器・排泄器)、そしてへそと頭頂の霊的中心(ブラフマランドラ)を加えた十一を指すのが一般的です。これらの門は、感覚情報を取り入れ、欲望を駆り立てる入口ともなりますが、賢者にとっては、意識を制御し、内なる真我へと至るための聖なる通路ともなるのです。

この城の真の主こそが、「不生にして、歪みなき意識を持つ者」です。「不生(अज, aja)」とは、アートマンが誕生と死というサイクルの外にある、時間を超越した永遠の実在であることを示します。この主人は生まれることがないため、老いることも滅びることもありません。そしてその本質は「歪みなき意識(अवक्रचेतस्, avakracetas)」です。「अवक्र (avakra)」は「曲がっていない、まっすぐな」という意味で、欲望や恐怖、怒りといった感情の波によって決して歪められることのない、完全な静寂と明晰さの象徴です。前章で描かれた、多様な幻影を追いかけて「流れ散り、惑い走る」心とは、鮮やかな対照をなしています。

このような城とその主人を正しく「観想しअनुष्ठाय, anuṣṭhāya)」、その真理に自らを合致させる者は、二つの偉大な果実を得ます。一つは、「悲しまずन शोचति, na śocati)」。これは、身体の変転や死への恐怖を含む、あらゆる苦悩からの解放を意味します。そしてもう一つが、「すでに解脱していながら、さらに(完全に)解放されるविमुक्तश्च विमुच्यते, vimuktaśca vimucyate)」という、深遠な解放のプロセスです。これは、ヴェーダーンタ哲学におけるジーヴァンムクティ(生前解脱)とヴィデーハムクティ(死後解脱)の教えを示唆しています。まず智慧によって生きながらにして心の束縛から解き放たれ(विमुक्तः, vimuktaḥ)、そして肉体という最後の制約が離れる時に、完全で絶対的な自由(विमुच्यते, vimucyate)へと至るのです。

最後に響く「これこそが、まさしくそれであるएतद्वै तत्, etad vai tat)」という力強い宣言は、この教えこそが、ナチケータが命を懸けて求めた「死を超えた真理(तत्, tat)」の核心であると告げています。真の解放とは、身体を否定することではなく、この身体という城の内にあって、その真の主人である不滅の意識として生きることにあるのです。この詩節は、私たち自身の身体を、霊的な探求の舞台となる神聖な聖域として捉え直すよう、静かに促しています。

第2篇 第2章 第2節

हँसः शुचिषद्वसुरन्तरिक्षसद्-
होता वेदिषदतिथिर्दुरोणसत् ।
नृषद्वरसदृतसद्व्योमसद्
अब्जा गोजा ऋतजा अद्रिजा ऋतं बृहत् ॥ २.2.2॥
haṃsaḥ śuciṣadvasur antarikṣasad-
hotā vediṣad atithir duroṇasat |
nṛṣad varasad ṛtasad vyomasad
abjā gojā ṛtajā adrijā ṛtaṃ bṛhat || 2.2.2||
かの者は、聖なる鳥として澄み切った天にあり、輝きとして中空にある。
祭壇に座す祭司であり、家に訪れる客人である。
人の中に、神々の中に、理法の中に、大空にある。
水より生まれ、地より生まれ、理法より生まれ、山より生まれる。
偉大なる理法、それそのものである。

逐語訳:

  • हंसः (haṃsaḥ) - ハーンサ(聖なる鳥、太陽、アートマンの象徴)は。(haṃsa、男性単数主格)
  • शुचिषद् (śuciṣad) - 清浄な場所(天)に座す者。(śuci「清浄な」+ sad「座す者」)
  • वसुः (vasuḥ) - 輝く者、善なるもの、ヴァス神群。(vasu、男性単数主格)
  • अन्तरिक्षसद् (antarikṣasad) - 中空に座す者。(antarikṣa「中空、天空」+ sad「座す者」)
  • होता (hotā) - ホートリ祭司(献供者)。(hotṛ、男性単数主格)
  • वेदिषद् (vediṣad) - 祭壇に座す者。(vedi「祭壇」+ sad「座す者」)
  • अतिथिः (atithiḥ) - 客人。(atithi「(定まった滞在日でなく訪れる)客人」、男性単数主格)
  • दुरोणसत् (duroṇasad) - 家に座す者。(duroṇa「家、住居」+ sad「座す者」)
  • नृषद् (nṛṣad) - 人の中に座す者。(nṛ「人」+ sad「座す者」)
  • वरसद् (varasad) - 優れた場所(神々の中)に座す者。(vara「優れた」+ sad「座す者」)
  • ऋतसद् (ṛtasad) - 理法(宇宙の秩序)の中に座す者。(ṛta「理法」+ sad「座す者」)
  • व्योमसद् (vyomasad) - 虚空(大空)に座す者。(vyoman「空」+ sad「座す者」)
  • अब्जा (abjā) - 水より生まれし者。(ap「水」+ 「生まれる者」)
  • गोजा (gojā) - 大地(あるいは光線)より生まれし者。(go「大地、光」+ 「生まれる者」)
  • ऋतजा (ṛtajā) - 理法より生まれし者。(ṛta「理法」+ 「生まれる者」)
  • अद्रिजा (adrijā) - 山より生まれし者。(adri「山」+ 「生まれる者」)
  • ऋतम् बृहत् (ṛtam bṛhat) - 偉大なる理法(それ自体である)。(ṛta「理法」+ bṛhat「偉大な」)

解説:
前節がアートマンを「十一の門ある城」の静かな主人として描いたのに対し、この詩節はその主人の正体を、宇宙的なスケールで、壮麗な讃歌として歌い上げます。この詩はもともと『リグ・ヴェーダ』(4.40.5)に登場する太陽神スーリヤへの讃歌であり、ウパニシャッドの賢者たちは、それを万物の内に遍在する究極的実在、すなわちアートマン(真我)を讃える詩としてここに引用しました。この引用によって、ウパニシャッドの教えがヴェーダの古層の智慧に深く根差していることが示されます。

詩の冒頭でアートマンは हंसः (haṃsaḥ)、「聖なる鳥」として象徴されます。ハーンサ(白鳥)は、泥水の中から清らかな蓮を咲かせるように、現象世界にありながらそれに汚されない純粋性の象徴です。また、呼吸における自然な音「ソーハム」(सोऽहम्, so'ham, 「我は彼なり」)が、逆から読めば「ハムサ」(हंस, haṃsa)となることから、アートマンが生命の根源である呼吸そのものに宿ることをも示唆します。この聖なる鳥は「清浄なる天にあり」、また「輝き(वसुः, vasuḥ)として中空にある」と歌われ、その存在が天上界の光そのものであることが示されます。

次に詩は、その神聖な存在が、どのようにして人間世界に関わるかを明らかにします。それは「祭壇に座す祭司(होता वेदिषद्, hotā vediṣad)」であり、聖なる儀式の執行者です。同時に「家に訪れる客人(अतिथिर्दुरोणसत्, atithir duroṇasat)」でもあります。インドの伝統では客人は神の化身(अतिथि देवो भव, atithi devo bhava)とされ、この表現は、アートマンが聖なる儀式の場だけでなく、私たちの日常の家庭に、客人の姿をとって現れる神聖さそのものであることを教えています。

詩はさらに、その存在の遍在性を、螺旋を描くように拡大していきます。「人の中に(नृषद्, nṛṣad)」、「神々の中に(वरसद्, varasad)」、「理法の中に(ऋतसद्, ṛtasad)」、そして「大空に(व्योमसद्, vyomasad)」。これは、アートマンが個人の内奥から神々の世界、さらには宇宙全体を貫く根本秩序 ऋत (ṛta) にまで、あらゆる領域に満ちていることを示します。

詩の後半は、その起源の普遍性を歌います。「水より生まれ(अब्जा, abjā)」、「地より生まれ(गोजा, gojā)」、「理法より生まれ(ऋतजा, ṛtajā)」、「山より生まれ(अद्रिजा, adrijā)」という句の連なりは、アートマンが生命の源である水、物質の基盤である大地、宇宙の秩序である理法、そして不動の象徴である山といった、万物を構成する全ての根源から顕現した存在であることを、リズミカルに宣言します。

そして、この壮大な讃歌は、ऋतं बृहत् (ṛtaṃ bṛhat)、「偉大なる理法、それそのものである」という荘厳な一句で頂点を迎えます。これまで「〜に座す者」「〜から生まれた者」と、属性をもって語られてきたアートマンが、ついに属性そのもの、すなわち宇宙の根本秩序である「理法」と完全に同一であると明かされるのです。これは、個人の内なる真我(アートマン)が、宇宙を貫く最高実在(ブラフマン)と何ら変わるところのない、絶対的な一者であることを、この上なく詩的かつ力強く宣言するものです。この詩節は、私たちの内に眠る小さな一点の光が、実は宇宙全体を照らす太陽そのものであるという、ヴェーダーンタ哲学の核心を鮮やかに描き出しています。

第2篇 第2章 第3節

ऊर्ध्वं प्राणमुन्नयत्यपानं प्रत्यगस्यति ।
मध्ये वामनमासीनं विश्वे देवा उपासते ॥ २.२.३॥
ūrdhvaṃ prāṇamunnayatyapānaṃ pratyagasyati |
madhye vāmanamāsīnaṃ viśve devā upāsate || 2.2.3||
かの者はプラーナを上へと導き、アパーナを内へと押しやる。
その中央に座す小さき者を、すべての神々がかしずき、仕える。

逐語訳:

  • ऊर्ध्वम् (ūrdhvam) - 上方に、上向きに(副詞)
  • प्राणम् (prāṇam) - プラーナ(上昇する生命エネルギー)を(男性単数対格)
  • उन्नयति (unnayati) - 導き上げる、上昇させる(ud-√nī「上に導く」、現在法3人称単数)
  • अपानम् (apānam) - アパーナ(下降する生命エネルギー)を(男性単数対格)
  • प्रत्यक् (pratyak) - 内方に向けて、逆方向へ(副詞)
  • अस्यति (asyati) - 投げる、押しやる(√as「投げる」、現在法3人称単数)
  • मध्ये (madhye) - 中央に、中心に(madhya「中央」の位格)
  • वामनम् (vāmanam) - 小さき者(ヴァーマナ)を(男性単数対格)
  • आसीनम् (āsīnam) - 座している者を(√ās「座る」、現在分詞男性単数対格)
  • विश्वे देवाः (viśve devāḥ) - すべての神々は(viśva「すべての」+ deva「神」、男性複数主格)
  • उपासते (upāsate) - 畏敬し仕える、礼拝する(upa-√ās「近くに座る」、現在中動態3人称複数)

解説:
前節がアートマンの遍在性を宇宙的なスケールで壮麗に歌い上げたのに対し、この詩節は、その視点を私たちの身体という小宇宙へと向け、アートマンがいかに生命活動の根源的な主宰者であるかを、ヨーガの実践的な洞察を通して明らかにします。

詩の前半は、生命エネルギー「プラーナ・ヴァーユ」の二つの主要な流れを統御する、アートマンの働きを描写しています。「प्राण (prāṇa)」とは、主に上半身で働き、吸気と共に上昇する生命エネルギーです。一方、「अपान (apāna)」は下半身で働き、呼気や排泄と共に下降するエネルギーです。アートマンは、この上昇するプラーナを「上へと導き」、下降するアパーナをその自然な流れに逆らって「内へと押しやる」とされます。これは、ヨーガにおける高度なプラーナーヤーマ(調息法)の核心を詩的に表現したものです。対極的な二つの生命エネルギーの流れを身体の中心で合一させることにより、眠れる霊的な力が覚醒するとされています。この生命力の根源的な制御は、まさに内なるアートマンの働きそのものなのです。

詩の後半は、このエネルギーが集約される中心に座す者の正体を明かします。「中央に座す小さき者मध्ये वामनमासीनम्, madhye vāmanamāsīnam)」、これは心臓の奥の聖なる空間に宿るアートマンを指します。「वामन (vāmana)」は「侏儒」や「小さき者」を意味しますが、これは決して卑小な存在ではありません。むしろ、無限の力が有限の肉体という一点に凝縮された姿を、逆説的に表現する言葉です。ヴィシュヌ神の化身であるヴァーマナが、矮小な姿で現れながら、わずか三歩で天と地とを覆い尽くした神話のように、この内なる「小さき者」こそが、全宇宙を内包するほどの絶大な力を秘めた主宰者なのです。

そして、この小さき主君に、「すべての神々がかしずき、仕える」と歌われます。この「神々(देवाः, devāḥ)」とは、遠い天上にいる存在ではなく、私たちの身体の諸機能を司る神格化された力、すなわち視覚の力(太陽神)、聴覚の力(方角神)、思考の力(月神)などを指します。私たちのあらゆる感覚や身体機能は、個別に働いているように見えて、実はすべて、中心に座す唯一の主人であるアートマンに仕え、その力によって養われているのです。「उपासते (upāsate)」の語源は「近くに座る」であり、これは神々がアートマンに近侍し、その威光のもとで奉仕するという、絶対的な忠誠と深い敬意を表しています。

この詩節は、私たちの身体が単なる物質の集合体ではなく、アートマンを王として戴き、すべての生命機能が神々として仕える、荘厳で神聖な宮殿(小宇宙)であることを教えています。前節の宇宙(マクロコスモス)の讃歌と、この節の身体(ミクロコスモス)の讃歌は完璧な対をなし、内と外の区別なく、アートマンがあらゆる存在の唯一の主であることを、深く静かに示しているのです。

第2篇 第2章 第4節

अस्य विस्रंसमानस्य शरीरस्थस्य देहिनः ।
देहाद्विमुच्यमानस्य किमत्र परिशिष्यते । एतद्वै तत् ॥ २.२.४॥
asya visraṃsamānasya śarīrasthasya dehinaḥ |
dehādvimucyamānasya kimatra pariśiṣyate | etadvai tat || 2.2.4||
この、崩れゆく身体に宿る主が、肉体から解放されるとき、
ここに何が後に残されるであろうか。
これこそが、まさしくそれである。

逐語訳:

  • अस्य (asya) - この(指示代名詞 idam、男性単数属格)
  • विस्रंसमानस्य (visraṃsamānasya) - 崩壊しつつある、解体しつつある(vi-√sraṃs「離散する」、現在中動分詞男性単数属格)
  • शरीरस्थस्य (śarīrasthasya) - 身体に宿る者の(複合語 śarīra-stha「身体に立つ/住まう者」、男性単数属格)
  • देहिनः (dehinaḥ) - 身体を持つ者、魂、身体の主の(dehin、男性単数属格)
  • देहात् (dehāt) - 身体から(deha、男性単数奪格)
  • विमुच्यमानस्य (vimucyamānasya) - 解放されつつある者の(vi-√muc「解放する」、現在受動分詞男性単数属格)
  • किम् (kim) - 何が(疑問代名詞、中性単数主格)
  • अत्र (atra) - ここに、その状況において(副詞)
  • परिशिष्यते (pariśiṣyate) - 残される、後に残る(pari-√śiṣ「残る」、現在受動態3人称単数)
  • एतत् वै तत् (etad vai tat) - これこそが、まさしくそれである。(定型句)

解説:
前節で身体の中心に座すアートマンの、生命の主宰者としての威厳が歌われたのに対し、この詩節は視点を転じ、その住処である身体が死によって崩壊するという、根源的な問いへと私たちを導きます。これは、ナチケータが最初に投げかけた「死んだ後、人はどうなるのか」という問いの核心に、ヤマ神が真正面から向き合う場面です。

まず、死の過程が विस्रंसमानस्य (visraṃsamānasya)、「崩壊しつつある」という言葉で生々しく描かれます。これは単に朽ちるのではなく、身体という統合体を成り立たせていた諸要素の結合が解かれ、バラバラに離散していく動的なプロセスを示します。死が、存在の構造的な解体であることを鋭く捉えた表現です。

その崩れゆく身体に宿っていた存在は देहिन् (dehin)、「身体を持つ者」あるいは「身体の主」と呼ばれます。この呼称は、アートマンが身体とは別の存在であり、一時的に身体を住処とし、所有していた主体であることを明確に示しています。

そして、その主が住処である身体から解放される(विमुच्यमानस्य, vimucyamānasya)とき—これは死を苦しみや終わりではなく、束縛からの「解放」と見るウパニシャッドの深遠な視点です—、ヤマ神は問いかけます。「ここにいったい何が後に残されるであろうか(किमत्र परिशिष्यते, kimatra pariśiṣyate)」と。

この問いは、表面的には「死後、すべては無に帰すのではないか」という虚無的な問いにも聞こえるかもしれません。しかし、その真意はまったく逆の方向を指し示しています。これは、変化し、移ろいゆくもの、私たちが通常「自分」だと思っている身体、心、感覚、経験のすべてが消え去った後に、なお「残る」ものは何か、という本質への問いかけなのです。あらゆる変化の観察者でありながら、それ自身は決して変化することのない、不生不滅の実在とは何か、と。

したがって、この問いそのものが、ナチケータが命を賭して求めた「死を超えた真理」、すなわち「それ (तत्, tat)」に他なりません。死によって失われるものは、本来の自己ではなかったものばかりであり、そのすべてが去った後にこそ、真の自己、アートマンの純粋な実在が光を放つのです。この詩節は、死への恐怖を、真理を発見するための最も鋭い探針へと転化させる、ウパニシャッドの智慧の極致を見事に示しています。

第2篇 第2章 第5節

न प्राणेन नापानेन मर्त्यो जीवति कश्चन ।
इतरेण तु जीवन्ति यस्मिन्नेतावुपाश्रितौ ॥ २.२.५॥
na prāṇena nāpānena martyo jīvati kaścana |
itareṇa tu jīvanti yasminnetāvupāśritau || 2.2.5||
いかなる死すべき者も、プラーナによって生きるにあらず、アパーナによって生きるにあらず。
これら二つが依りどころとする、かの別なるものによってこそ、人は生きる。

逐語訳:

  • न (na) - 〜にあらず、〜でない(否定辞)
  • प्राणेन (prāṇena) - プラーナによって(prāṇa、男性単数具格)
  • न (na) - 〜にあらず、〜でない(否定辞)
  • अपानेन (apānena) - アパーナによって(apāna、男性単数具格)
  • मर्त्यः (martyaḥ) - 死すべき者、人間(martya、男性単数主格)
  • जीवति (jīvati) - 生きる(√jīv「生きる」、現在法3人称単数)
  • कश्चन (kaścana) - いかなる〜も(不定代名詞、男性単数主格)
  • इतरेण (itareṇa) - 他のもの、別なるものによって(itara「他の」、男性単数具格)
  • तु (tu) - しかし、むしろ、実に(逆接・強調の不変詞)
  • जीवन्ति (jīvanti) - (人々は)生きる(√jīv「生きる」、現在法3人称複数)
  • यस्मिन् (yasmin) - その中に、それに対して(関係代名詞 yad、中性単数位格)
  • एतौ (etau) - これら二つが(指示代名詞 etad、男性双数主格)
  • उपाश्रितौ (upāśritau) - 依りどころとしている、依存している(upa-√śri「〜に頼る」、過去分詞男性双数主格)

解説:
前節において、死にゆく身体からその主(アートマン)が去った後に「何が残るのか」という、真理の核心を突く問いが投げかけられました。この第5節は、その問いに対する深遠な答えを、生命の本質を解き明かすことを通して与えます。ヤマ神はここで、私たちが自明のものとしている「生命」の概念を根底から覆す、力強い宣言を行います。

詩は「न प्राणेन न अपानेन (na prāṇena na apānena)」という断固たる二重否定から始まります。プラーナ(上昇気、吸気)とアパーナ(下降気、呼気)は、生命を維持する最も基本的なエネルギーの流れです。しかしヤマ神は、死すべき人間は、これらの生命力そのものによって生きているのではない、と断言します。これは、生命活動の現れである呼吸や代謝を、生命の根源と取り違えてはならない、という鋭い指摘です。プラーナやアパーナは、いわば楽器から奏でられる「音」であり、その楽器を鳴らし、音を生み出す「奏者」ではありません。

この衝撃的な否定の後、तु (tu) という一語が劇的な転換をもたらします。それは「しかし」「むしろ」と訳され、表面的な理解を退け、真実を指し示す役割を果たします。真の生命の源泉は、「इतरेण (itareṇa)」、すなわち「かの別なるもの」であると明かされるのです。この「別なるもの」とは、プラーナやアパーナといった生命現象とは質的に異なる、それらの活動の基盤であり、依りどころとなる存在、すなわちアートマン(真我)に他なりません。

詩の結び「यस्मिन् एतौ उपाश्रितौ (yasmin etau upāśritau)」は、この関係性を決定づけます。「उपाश्रितौ (upāśritau)」は、単に「依存する」という意味以上に、影がその本体に依り、光がその光源に依るように、存在論的に不可分な関係を示唆します。プラーナもアパーナも、アートマンという基盤なしには一瞬たりとも存在し得ないのです。それらはアートマンの存在の光によって輝く、生命の二つの現れに過ぎません。

この詩節は、私たちの自己認識に深遠な変容を促します。私たちが「生きている」と感じるその実感は、移ろいゆく身体機能に根差すものではなく、それら全てを背後で支える、不変不動のアートマンに由来するのです。ヨーガの調息法(プラーナーヤーマ)の究極の目的も、呼吸を制御すること自体にあるのではなく、呼吸という波を静めることで、その波が生まれる静謐な大海、すなわちアートマンの存在を直覚することにあります。死とは、生命機能という現象が停止することであり、生命の源泉そのものであるアートマンが消滅することではないのです。これこそが、「死の後にも残るもの」への、揺るぎない答えです。

第2篇 第2章 第6節

हन्त त इदं प्रवक्ष्यामि गुह्यं ब्रह्म सनातनम् ।
यथा च मरणं प्राप्य आत्मा भवति गौतम ॥ २.२.६॥
hanta ta idaṃ pravakṣyāmi guhyaṃ brahma sanātanam |
yathā ca maraṇaṃ prāpya ātmā bhavati gautama || 2.2.6||
さあ、ゴータマよ、汝にこれを説き明かそう。
かの深奥に秘められし、永遠なるブラフマンを。
そして、死を迎えた後、アートマンがいかなるものとなるかを。

逐語訳:

  • हन्त (hanta) - さあ、いざ(感嘆詞、聞き手の注意を促す言葉)
  • ते (te) - 汝に、そなたに(人称代名詞 yuṣmad、二人称単数与格)
  • इदम् (idam) - これを(指示代名詞、中性単数対格)
  • प्रवक्ष्यामि (pravakṣyāmi) - 詳しく説こう、明らかにしよう(pra-√vac「説く」、未来法一人称単数)
  • गुह्यम् (guhyam) - 秘められた、深奥の(形容詞、中性単数対格)
  • ब्रह्म (brahma) - ブラフマン、絶対実在(中性単数対格)
  • सनातनम् (sanātanam) - 永遠なる、常住の(形容詞、中性単数対格)
  • यथा (yathā) - いかに、どのように(関係副詞)
  • च (ca) - そして、また(接続詞)
  • मरणम् (maraṇam) - 死を(名詞、中性単数対格)
  • प्राप्य (prāpya) - 迎えて、到達して(pra-√āp「達する」、絶対分詞)
  • आत्मा (ātmā) - アートマン、真我(男性単数主格)
  • भवति (bhavati) - なる、ある、存在する(√bhū「存在する」、現在法三人称単数)
  • गौतम (gautama) - ゴータマよ(ナチケータの家系名、呼格)

解説:
前節において、生命の現象(プラーナやアパーナ)と、その根源であるアートマンとを明確に区別したヤマ神は、この詩節で、いよいよナチケータが命を懸けて求めた根源的な問いの核心へと、その教えを導きます。これは、ウパニシャッドの中でも最も深遠なテーマへの扉を開く、荘厳な宣言です。

詩の冒頭「हन्त (hanta)」という感嘆詞は、単なる話の始まりを告げる合図ではありません。それは師(グル)が、真理を受け取るにふさわしいと認めた弟子(シシヤ)に対し、秘奥の教えを授ける瞬間の、厳かで慈愛に満ちた呼びかけです。死の王ヤマ神が、ナチケータを彼の家系名である「गौतम (gautama)」と呼ぶことにも、少年を一個の求道者として深く認める敬意が表れています。

ヤマ神がこれから説き明かす「これ(इदम्, idam)」とは、二つの事柄を指します。一つは「गुह्यं ब्रह्म सनातनम् (guhyaṃ brahma sanātanam)」—深奥に秘められし、永遠なるブラフマンです。「गुह्य (guhya)」は「隠された」という意味ですが、これは誰かが意図的に隠している秘密なのではなく、その本質が極めて微細で深遠なため、通常の認識では捉えられないことを示します。それはしばしば、私たちの「心臓の洞窟(गुहा, guhā)」に宿るとされ、外的な探求ではなく、内なる静寂の中でのみ見出される真理です。「ब्रह्मन् (brahman)」は万物の根源である絶対実在、「सनातन (sanātana)」はその実在が時間の流れを超越した常住不変のものであることを示します。

そして、もう一つが「यथा च मरणं प्राप्य आत्मा भवति (yathā ca maraṇaṃ prāpya ātmā bhavati)」—死を迎えた後、アートマンがいかなるものとなるか、という問いへの答えです。これは、この物語の発端となったナチケータの第三の願い、すなわち「死んだ後、人間はどうなるのか」という問いに、ヤマ神が真正面から応えることを約束するものです。ここで重要なのは、死後にどうなるかの主体が、移ろいゆく人格や個我ではなく、不変の実在である「आत्मा (ātmā)」として語られている点です。これにより、教えの焦点が、現象世界の出来事から、存在の根源的なあり方へと定められます。

この詩節は、これまでに説かれてきたアートマンの普遍性や生命の主宰者としての働きといった教えと、この後に続く、死後の魂が個々の行いや知識に応じてたどる具体的な道筋(輪廻)の教えとを結ぶ、極めて重要な結節点となっています。それは、死への恐怖を、真理への純粋な渇望へと昇華させた求道者に対する、死の王からの最も荘厳な祝福の言葉なのです。

第2篇 第2章 第7節

योनिमन्ये प्रपद्यन्ते शरीरत्वाय देहिनः ।
स्थाणुमन्येऽनुसंयन्ति यथाकर्म यथाश्रुतम् ॥ २.२.७॥
yonimanye prapadyante śarīratvāya dehinaḥ |
sthāṇumanye'nusaṃyanti yathākarma yathāśrutam || 2.2.7||
魂のうちある者たちは、肉体を纏うべく胎へと赴き、
また他の者たちは、不動の存在へと帰する。
それぞれが自らの業に従い、自らの学びに従って。

逐語訳:

  • योनिम् (yonim) - 胎を、子宮を、生命の源を(yoni、女性単数対格)
  • अन्ये (anye) - ある者たちは、他の者たちは(anya「他の」、男性複数主格)
  • प्रपद्यन्ते (prapadyante) - 赴く、入る、到達する(pra-√pad「進み入る」、現在中動態3人称複数)
  • शरीरत्वाय (śarīratvāya) - 身体性を得るために、肉体を纏うために(śarīratva「身体であること」、中性単数与格)
  • देहिनः (dehinaḥ) - 身体を持つ者たち、魂たち(dehin、男性複数主格)
  • स्थाणुम् (sthāṇum) - 不動のもの、樹木や鉱物などを(sthāṇu、男性単数対格)
  • अन्ये (anye) - (また)他の者たちは(anya「他の」、男性複数主格)
  • अनुसंयन्ति (anusaṃyanti) - (~の状態に)至る、従い入る(anu-sam-√yā「共に行く、従う」、現在法3人称複数)
  • यथाकर्म (yathākarma) - 行為に応じて(副詞的複合語 yathā-karma
  • यथाश्रुतम् (yathāśrutam) - 学びに応じて(副詞的複合語 yathā-śruta、「聞かれたもの、聖典の学び」の意)

解説:
前節において、ヤマ神は「死を迎えた後、アートマンがいかなるものとなるか」という、ナチケータの根源的な問いに答えることを荘厳に約束しました。この第7節は、その約束を果たす第一歩として、死後の魂がたどる具体的な道筋、すなわち輪廻転生の法則を、簡潔かつ深遠な言葉で明らかにします。

この詩は、死後、身体という住処を離れた魂、すなわち देहिन् (dehin) が二つの異なる運命をたどる可能性を示します。देहिन् (dehin) とは「身体(deha)を持つ者」を意味し、身体そのものではなく、それを所有し、内に宿る主体としての魂を指す、きわめて重要な言葉です。

一つの道は「योनिम् प्रपद्यन्ते शरीरत्वाय (yonim prapadyante śarīratvāya)」—「肉体を纏うべく胎へと赴く」道です。योनि (yoni) は生物学的な子宮を指すだけでなく、神々、人間、動物といった生命が、それぞれの存在形態に応じた新たな生を開始するための根源的な場を象徴します。これは、魂が再び動的な生命活動のサイクルへと戻ることを意味します。

もう一つの道は「स्थाणुम् अनुसंयन्ति (sthāṇum anusaṃyanti)」—「不動の存在へと帰する」道です。स्थाणु (sthāṇu) は文字通りには「切り株」や「柱」を意味し、ここでは植物や鉱物といった、動きや意識の発露が極めて限定的な存在を指します。これは、生命の動的なサイクルから外れ、意識が深く潜伏した静的な状態への転生を示唆しており、一般的には無知や悪しき行為の結果と解釈されます。

そして、この二つの道を分かつ決定的な原理が、詩の結びにある「यथाकर्म यथाश्रुतम् (yathākarma yathāśrutam)」—「その業に応じて、その学びにに応じて」という言葉に凝縮されています。これは、インド哲学の根幹をなす宇宙の法則を端的に示したものです。
यथाकर्म (yathākarma) は「カルマの法則」として知られ、自らの意志によって行ったすべての行為(身体的、言語的、精神的)が、未来の経験や境遇を形作るという厳密な因果律です。
しかし、ウパニシャッドの叡智は、単なる機械的な応報論には留まりません。そこに यथाश्रुतम् (yathāśrutam)、「その学びにに応じて」という言葉が加えられることで、教えは飛躍的に深まります。श्रुत (śruta) は「聞かれたもの」を意味し、特に師から弟子へと口伝されるヴェーダの聖なる教えや、真理に関する智慧を指します。これは、行為の質だけでなく、世界の真理をどれだけ深く理解しているかが、魂の行く末を決定する上で等しく重要であることを示しています。

したがって、この詩節が描くのは、単なる死後の世界の空想譚ではありません。それは、私たちの「今、この瞬間」の生き方そのものに、計り知れない重みと意味を与える宇宙の法則の開示です。私たちの一つ一つの行為(カルマ)と、真理への探求(ジュニャーナ)が、自らの永遠の旅路を織りなしていくという、壮大な責任と可能性がここに示されています。死への恐怖は、この法則の理解を通じて、自己を変容させるための真摯な動機へと昇華されるのです。この法則を知ることは、輪廻の苦しみから抜け出し、究極の自由である解脱(モークシャ)を目指す、揺るぎない礎となります。

第2篇 第2章 第8節

य एष सुप्तेषु जागर्ति कामं कामं पुरुषो निर्मिमाणः ।
तदेव शुक्रं तद्ब्रह्म तदेवामृतमुच्यते ।
तस्मिँल्लोकाः श्रिताः सर्वे तदु नात्येति कश्चन । एतद्वै तत् ॥ २.२.८॥
ya eṣa supteṣu jāgarti kāmaṃ kāmaṃ puruṣo nirmimāṇaḥ |
tadeva śukraṃ tadbrahma tadevāmṛtamucyate |
tasmiṃllokāḥ śritāḥ sarve tadu nātyeti kaścana | etadvai tat || 2.2.8||
かのプルシャは、眠れる者たちの中にありて目覚め、
望むもの、望むものを次々と形づくる。
まさにそれこそが清浄なるもの、それこそがブラフマン、
それこそが不死なるものと呼ばれる。
その内にこそ、すべての世界は依り、
何ものもそれを超えることはない。これこそが、まさしく「それ」である。

逐語訳:

  • यः (yaḥ) - 〜である者(関係代名詞、男性単数主格)
  • एषः (eṣaḥ) - この、かの(指示代名詞、男性単数主格)
  • सुप्तेषु (supteṣu) - 眠っている者たちの中で、眠っている諸器官の中で(supta「眠れる」、男性・中性複数位格)
  • जागर्ति (jāgarti) - 目覚めている(√jāgṛ「目覚める」、現在法3人称単数)
  • कामम् (kāmam) कामम् (kāmam) - 望むものを、次々と(kāma「欲望、対象」、男性単数対格の反復)
  • पुरुषः (puruṣaḥ) - プルシャが、内的実在が(puruṣa、男性単数主格)
  • निर्मिमाणः (nirmimāṇaḥ) - 創造しながら、形づくりながら(nir-√mā「作り出す」、現在分詞中動態男性単数主格)
  • तत् (tat) - それが(指示代名詞、中性単数主格)
  • एव (eva) - まさに、こそ(強意の不変化詞)
  • शुक्रम् (śukram) - 清浄なるもの、輝くもの(形容詞、中性単数主格)
  • तत् (tat) - それが(指示代名詞、中性単数主格)
  • ब्रह्म (brahma) - ブラフマン、絶対実在(中性単数主格)
  • तत् (tat) - それが(指示代名詞、中性単数主格)
  • एव (eva) - まさに、こそ(強意の不変化詞)
  • अमृतम् (amṛtam) - 不死なるもの(形容詞 a-mṛta、中性単数主格)
  • उच्यते (ucyate) - 呼ばれる、説かれる(√vac「語る」、現在受動態3人称単数)
  • तस्मिन् (tasmin) - その内に、それの上に(指示代名詞 tad、中性単数位格)
  • लोकाः (lokāḥ) - 諸世界が(loka、男性複数主格)
  • श्रिताः (śritāḥ) - 依っている、依存している(√śri「依る」、過去分詞男性複数主格)
  • सर्वे (sarve) - すべての(sarva、男性複数主格)
  • तत् (tat) - それを(指示代名詞、中性単数対格)
  • उ (u) - 実に(強意の不変化詞)
  • न (na) - 〜でない(否定辞)
  • अत्येति (atyeti) - 超え行く、超越する(ati-√i「超えて行く」、現在法3人称単数)
  • कश्चन (kaścana) - いかなる者も、何ものも(不定代名詞、男性単数主格)
  • एतत् (etat) - これが(指示代名詞、中性単数主格)
  • वै (vai) - まさに、実に(強調の不変化詞)
  • तत् (tat) - それである(指示代名詞、中性単数主格)

解説:
前節で、死後の魂の行方がカルマ(業)とジュニャーナ(智慧)によって定まるという輪廻の法則が示されました。この第8節で、ヤマ神は視点をさらに深め、その輪廻の主体でありながら、本質的には輪廻に捉われない根源的な実在とは何かを、夢という身近で深遠な体験を比喩として解き明かします。

詩は「य एष सुप्तेषु जागर्ति (ya eṣa supteṣu jāgarti)」という、逆説的で力強い言葉から始まります。「眠れる者たちの中にありて目覚めている」存在。ここで「眠れる者たち(सुप्तेषु, supteṣu)」とは、感覚器官や心(マナス)といった、私たちの個我を構成する機能が活動を停止している状態を指します。身体が深い眠りについているときでさえ、その奥で絶えず「目覚めている(जागर्ति, jāgarti)」純粋な意識が存在するのです。

この目覚めた意識こそが「पुरुषः (puruṣaḥ)」、すなわちプルシャです。プルシャとは、身体や心という物質的な領域を超えた、純粋な観照者としての「内的実在」を意味し、ここではアートマン(真我)と同義で用いられています。このプルシャは、ただ目覚めているだけではありません。「कामं कामं निर्मिमाणः (kāmaṃ kāmaṃ nirmimāṇaḥ)」—「望むもの、望むものを次々と形づくる」のです。これは、夢の中で体験する人々、風景、物語といった千変万化の世界が、外部から来るのではなく、このプルシャが自らの内なる力によって、思いのままに創造していることを示しています。夢の創造主は、日常の私(個我)ではなく、その背後にあるアートマンなのです。

そしてヤマ神は、この夢の創造主の本質を、荘厳な宣言によって明らかにします。「तदेव शुक्रं तद्ब्रह्म तदेवामृतमुच्यते (tadeva śukraṃ tadbrahma tadevāmṛtamucyate)」—まさにそれこそが、शुक्रम् (śukram) すなわち純粋で汚れない光であり、ब्रह्म (brahma) すなわち宇宙の絶対実在であり、अमृतम् (amṛtam) すなわち死を超えた不滅の存在である、と。この三つの言葉は、一つの真実の異なる側面を照らし出しています。身体が眠り、心が活動を止める夢の状態においてさえ、創造の源泉として輝き続けるこの意識こそが、万物の根源であり、永遠なる実在なのです。

詩の後半は、この真理を宇宙的なスケールにまで拡大します。「तस्मिँल्लोकाः श्रिताः सर्वे (tasmiṃllokāḥ śritāḥ sarve)」—このアートマンという唯一の基盤の上に、夢の世界のみならず、私たちが現実と呼ぶ覚醒時の世界、神々の住まう天上世界、ありとあらゆる「すべての世界」が依拠している、と。さらに「तदु नात्येति कश्चन (tadu nātyeti kaścana)」—何ものも、この根源的な実在を超えて存在することはできません。それは、すべての存在と現象を内包する、究極のリアリティです。

この詩節の結び「एतद्वै तत् (etadvai tat)」は、ウパニシャッド全体を貫く決定的で凝縮された表現です。「これこそが、まさしく『それ』である」。これは、ナチケータが命がけで求めた第三の願い、「死んだ後、人間はどうなるのか」という問いに対する、ヤマ神からの直接的な答えです。死を超えて存続するものは、この不滅のプルシャ、すなわちアートマンに他ならない。汝が探し求めていた真理とは、まさに「これ」なのだ、という力強い確証が与えられています。この節は、死と生の根底に横たわる不変の意識の光を指し示すことで、私たちを輪廻の法則の理解から、解脱の智慧へと導くのです。

第2篇 第2章 第9節

अग्निर्यथैको भुवनं प्रविष्टो
रूपं रूपं प्रतिरूपो बभूव ।
एकस्तथा सर्वभूतान्तरात्मा
रूपं रूपं प्रतिरूपो बहिश्च ॥ २.२.९॥
agnir yathaiko bhuvanaṃ praviṣṭo
rūpaṃ rūpaṃ pratirūpo babhūva |
ekas tathā sarvabhūtāntarātmā
rūpaṃ rūpaṃ pratirūpo bahiś ca || 2.2.9||
あたかも唯一の火がこの世界に入り、
あらゆる姿に応じて、それぞれの形を纏ったように、
唯一なる、すべての存在の内なる真我もまた、
あらゆる姿に応じて、それぞれの形を纏い、そしてその外にも在る。

逐語訳:

  • अग्निः (agniḥ) - 火が、アグニが(男性単数主格)
  • यथा (yathā) - あたかも〜のように(比較の不変化詞)
  • एकः (ekaḥ) - 一つの、唯一の(男性単数主格)
  • भुवनम् (bhuvanam) - 世界に、この世に(中性単数対格)
  • प्रविष्टः (praviṣṭaḥ) - 入りて、遍在して(pra-√viś「入る」、過去分詞男性単数主格)
  • रूपम् रूपम् (rūpaṃ rūpam) - 個々の姿に、それぞれの形に(rūpa、中性単数対格の反復)
  • प्रतिरूपः (pratirūpaḥ) - 対応した姿となったもの(prati-rūpa、男性単数主格)
  • बभूव (babhūva) - なった、〜となった(√bhū「なる」、完了法3人称単数)
  • एकः (ekaḥ) - 一つの、唯一の(男性単数主格)
  • तथा (tathā) - そのように、同様に(副詞)
  • सर्वभूतान्तरात्मा (sarvabhūtāntarātmā) - すべての存在の内なる真我(複合語 sarva-bhūta-antar-ātmā、男性単数主格)
  • रूपम् रूपम् (rūpaṃ rūpam) - 個々の姿に、それぞれの形に(rūpa、中性単数対格の反復)
  • प्रतिरूपः (pratirūpaḥ) - 対応した姿となったもの(prati-rūpa、男性単数主格)
  • बहिः (bahiḥ) - 外に、外側に(副詞)
  • च (ca) - そして、また(接続詞)

解説:
前節において、夢の創造主としてのプルシャ(アートマン)こそが、万物の根源たるブラフマンであることが明らかにされました。この第9節では、そのアートマンがいかにして「一」でありながら「多」として存在するのか、その神秘的な様態を、火という身近でありながら深遠な比喩を用いて解き明かします。

詩の前半は「अग्निर्यथैको भुवनं प्रविष्टो रूपं रूपं प्रतिरूपो बभूव (agnir yathaiko bhuvanaṃ praviṣṭo rūpaṃ rūpaṃ pratirūpo babhūva)」という、見事な比喩から始まります。「あたかも唯一の火がこの世界に入り、あらゆる姿に応じて、それぞれの形を纏ったように」。ヴェーダの伝統において、火(अग्निः, agniḥ)は単なる物理現象ではありません。それは神々と人間とを結ぶ聖なる使者であり、生命力、意識、変容の力の象徴です。この詩が描くのは、一つの根源的な火が、薪の中では荒々しい炎として、祭壇では清らかな灯火として、蝋燭の中では小さな光として、燃える対象(रूपम् रूपम्, rūpaṃ rūpam)の姿に応じて、それぞれにふさわしい形(प्रतिरूपः, pratirūpaḥ)を取る情景です。姿形は無数に異なっていても、その本質はすべて、同じ一つの火なのです。

そして詩の後半は、この比喩を究極の真理へと適用します。「एकस्तथा सर्वभूतान्तरात्मा रूपं रूपं प्रतिरूपो बहिश्च (ekas tathā sarvabhūtāntarātmā rūpaṃ rūpaṃ pratirūpo bahiś ca)」。火がそうであるように、唯一なる「すべての存在の内なる真我(सर्वभूतान्तरात्मा, sarvabhūtāntarātmā)」もまた、個々の存在の姿に応じて、それぞれの形を纏っている、と。このसर्वभूतान्तरात्मा (sarvabhūtāntarātmā)という言葉は、ウパニシャッド哲学の核心を凝縮しています。それは、神々から人間、動物、植物、鉱物に至るまで、「すべての存在(सर्वभूत, sarvabhūta)」の最も深い「内(अन्तर, antara)」に宿る「真我(आत्मा, ātmā)」が、唯一無二の同じ実在であることを示します。

この詩節の最も重要な鍵は、結びの「बहिश्च (bahiś ca)」—「そしてその外にも在る」という一語にあります。これは、アートマンが単に個々の存在の内部に宿る魂であるに留まらないことを示唆する、深遠な教えです。アートマンは、個々の存在の中に限定される内在的(immanent)な実在であると同時に、それらすべての存在を外部から包み込み、支える超越的(transcendent)な実在でもあるのです。それは、波一つひとつの中に宿る水でありながら、同時にすべての波を生み出す広大な海そのものでもある、と譬えることができるでしょう。

この詩が描き出すのは、一元論でありながら多様性を豊かに肯定する、ヴェーダーンタの壮大な世界観です。この世界に現れる無数の差異や対立は幻ではなく、唯一なる実在が織りなす無限の表現です。この教えは、私たちを分離と孤独の感覚から解放し、自己の内にも、他者の内にも、そして森羅万象の内にさえ、同じ一つの神聖な光が異なる姿を纏って輝いていることを見出す視点を与えてくれます。それは、万物との根源的なつながりと調和を回復させる、時代を超えた智慧なのです。

第2篇 第2章 第10節

वायुर्यथैको भुवनं प्रविष्टो
रूपं रूपं प्रतिरूपो बभूव ।
एकस्तथा सर्वभूतान्तरात्मा
रूपं रूपं प्रतिरूपो बहिश्च ॥ २.२.१०॥
vāyur yathaiko bhuvanaṃ praviṣṭo
rūpaṃ rūpaṃ pratirūpo babhūva |
ekas tathā sarvabhūtāntarātmā
rūpaṃ rūpaṃ pratirūpo bahiś ca || 2.2.10||
あたかも唯一の風がこの世界に入り、
あらゆる姿に応じて、それぞれの形を纏ったように、
唯一なる、すべての存在の内なる真我もまた、
あらゆる姿に応じて、それぞれの形を纏い、そしてその外にも在る。

逐語訳:

  • वायुः (vāyuḥ) - 風が、ヴァーユ神が(男性単数主格)
  • यथा (yathā) - あたかも〜のように(比較の不変化詞)
  • एकः (ekaḥ) - 一つの、唯一の(男性単数主格)
  • भुवनम् (bhuvanam) - 世界に、この世に(中性単数対格)
  • प्रविष्टः (praviṣṭaḥ) - 入りて、遍く満たして(pra-√viś「入る」、過去分詞男性単数主格)
  • रूपम् रूपम् (rūpaṃ rūpam) - 個々の姿に応じて、それぞれの形に(rūpa、中性単数対格の反復)
  • प्रतिरूपः (pratirūpaḥ) - 対応する姿となったもの(prati-rūpa、男性単数主格)
  • बभूव (babhūva) - なった(√bhū「なる」、完了法3人称単数)
  • एकः (ekaḥ) - 一つの、唯一の(男性単数主格)
  • तथा (tathā) - そのように、同様に(副詞)
  • सर्वभूतान्तरात्मा (sarvabhūtāntarātmā) - すべての存在の内なる真我が(複合語 sarva-bhūta-antar-ātmā、男性単数主格)
  • रूपम् रूपम् (rūpaṃ rūpam) - 個々の姿に応じて、それぞれの形に(rūpa、中性単数対格の反復)
  • प्रतिरूपः (pratirūpaḥ) - 対応する姿となったもの(prati-rūpa、男性単数主格)
  • बहिः (bahiḥ) - 外に、外側にも(副詞)
  • च (ca) - そして、また(接続詞)

解説:
前節の「火」の比喩に続き、この第10節では「風」वायुः (vāyuḥ) という、もう一つの根源的元素を通して、アートマンの「一にして多」なる本性が重ねて説かれます。これは単なる繰り返しではなく、真理の異なる側面を照らし出すための、巧みで深遠な教授法です。前節の火が目に見える「光」や「変容の力」を象徴したとすれば、この風は目に見えない「生命力」や「維持の力」を象徴します。

詩は前節と全く同じ構造を保ちつつ、主語を「火」から「風」へと置き換えます。風は形を持たず、目に見ることはできません。しかし、木々の葉を揺らし、肌に触れ、そして何よりも「呼吸」として、その存在と働きは疑いようもなく感じられます。この不可視でありながら遍在する性質は、アートマンが感覚器官の対象ではないにもかかわらず、あらゆる生命活動の根底に確固として存在する様を見事に映し出しています。

インド哲学において、風 वायुः (vāyuḥ) は生命エネルギーである प्राण (prāṇa) と密接に結びついています。प्राण (prāṇa) とは、単なる呼吸の空気ではなく、すべての生命体を生かしめている宇宙的な生気です。この唯一なる生気が、人間においては呼吸として、鳥においては飛翔の力として、植物においては成長の働きとして、それぞれの生命体 रूपम् रूपम् (rūpaṃ rūpam) に応じた異なる現れ方 प्रतिरूपः (pratirūpaḥ) をするのです。火の比喩が祭儀や意識の光といった側面を照らしたのに対し、風の比喩は、より根源的で内的な、生命そのものの息吹としてのアートマンを指し示しています。

そして、この詩もまた、決定的な一語 बहिश्च (bahiś ca) —「そしてその外にも在る」— によって締めくくられます。アートマンは、個々の生命の内に宿る息吹(内在性)であると同時に、すべての生命を包み込み、支える大気のような普遍的存在(超越性)でもあります。私たちの内なる呼吸が、外なる広大な大気と一体であるように、個々のアートマンと宇宙の絶対実在ブラフマンは本質的に一つなのです。

ヤマ神は、火と風という二つの対照的な比喩を並べることで、一つの言葉やイメージでは捉えきれないアートマンの豊かさを示そうとしています。アートマンは光のように輝き、火のように変容させると同時に、風のように見えず、呼吸のように生命を維持するのです。この重層的な教えは、世界の多様な現れの背後に、常に静かに、しかし力強く存在する唯一の実在へと、私たちの意識を導いてくれるのです。

第2篇 第2章 第11節

सूर्यो यथा सर्वलोकस्य चक्षुः
न लिप्यते चाक्षुषैर्बाह्यदोषैः ।
एकस्तथा सर्वभूतान्तरात्मा
न लिप्यते लोकदुःखेन बाह्यः ॥ २.२.११॥
sūryo yathā sarvalokasya cakṣuḥ
na lipyate cākṣuṣairbāhyadoṣaiḥ |
ekas tathā sarvabhūtāntarātmā
na lipyate lokaduḥkhena bāhyaḥ || 2.2.11||
あたかも太陽が、すべての世界の眼でありながら、
見るものの不浄さに染まることがないように、
唯一なる、すべての存在の内なる真我もまた、
世界の苦しみに染まらず、それらを超越して在る。

逐語訳:

  • सूर्यः (sūryaḥ) - 太陽が(男性単数主格)
  • यथा (yathā) - あたかも〜のように(比較の不変化詞)
  • सर्वलोकस्य (sarvalokasya) - すべての世界の(sarva-loka、男性単数属格)
  • चक्षुः (cakṣuḥ) - 眼、見る力(中性単数主格)
  • न (na) - 〜ない(否定辞)
  • लिप्यते (lipyate) - 汚される、染まる、影響される(√lip「塗る、汚す」、受動態現在法3人称単数)
  • च (ca) - そして(接続詞)
  • आक्षुषैः (cākṣuṣaiḥ) - 眼に関する、視覚に関する(cākṣuṣa、中性複数具格)
  • बाह्यदोषैः (bāhyadoṣaiḥ) - 外的な欠陥や不浄によって(bāhya-doṣa、男性複数具格)
  • एकः (ekaḥ) - 一つの、唯一の(男性単数主格)
  • तथा (tathā) - そのように、同様に(副詞)
  • सर्वभूतान्तरात्मा (sarvabhūtāntarātmā) - すべての存在の内なる真我が(複合語 sarva-bhūta-antar-ātmā、男性単数主格)
  • न (na) - 〜ない(否定辞)
  • लिप्यते (lipyate) - 汚される、染まる、影響される(√lip「塗る、汚す」、受動態現在法3人称単数)
  • लोकदुःखेन (lokaduḥkhena) - 世界の苦しみによって(loka-duḥkha、中性単数具格)
  • बाह्यः (bāhyaḥ) - 外に在る、超越している(形容詞、男性単数主格)

解説:
火と風という根源的な元素の比喩に続き、ヤマ神はここで「太陽 सूर्यः (sūryaḥ)」という、さらに崇高で象徴的な比喩を提示します。これは、前二節で示されたアートマンの内在性と超越性を踏まえ、その本質の中でも最も重要とも言える「不染性 अलिप्तत्व (aliptatva)」、すなわち何ものにも染まらず、影響されない清浄性を明らかにするためのものです。

詩の前半「सूर्यो यथा सर्वलोकस्य चक्षुः (sūryo yathā sarvalokasya cakṣuḥ)」は、太陽を「すべての世界の眼」と讃えます。これは単なる詩的表現ではありません。太陽の光がなければ、地上のいかなる眼も見ることはできず、世界は闇に閉ざされます。その意味で、太陽こそが万物を照らし出し、見ることを可能にする宇宙的な「視覚の根源」なのです。しかし、この比喩の核心は続く句にあります。「न लिप्यते चाक्षुषैर्बाह्यदोषैः (na lipyate cākṣuṣairbāhyadoṣaiḥ)」—太陽は、眼が見る対象の不浄さや、眼自体の欠陥によって汚されることはありません。लिप्यते (lipyate) という言葉は「染まる」「付着する」という意味を持ちます。太陽は、地上の汚物や泥水を平等に照らし出しますが、その光が汚物に触れることで汚されることは決してありません。また、私たちの眼が病気や涙で曇ったとしても、天空に輝く太陽そのものが傷つくことはありません。

この「照らすが、染まらない」という太陽の性質こそ、アートマンの本質を解き明かす鍵です。詩の後半は、この真理を荘厳に宣言します。「एकस्तथा सर्वभूतान्तरात्मा न लिप्यते लोकदुःखेन (ekas tathā sarvabhūtāntarātmā na lipyate lokaduḥkhena)」—唯一なる、すべての存在の内なる真我もまた、「世界の苦しみ लोकदुःख (lokaduḥkha)」によって汚されることはない、と。私たちの人生において、身体は老いや病に侵され、心は悲しみや不安に揺れ動きます。これらが「世界の苦しみ」です。しかし、それら全ての経験を内側から照らし出す純粋な意識、すなわち観照者 साक्षी (sākṣī) としてのアートマンは、それらの苦しみによって染まったり、傷ついたりはしないのです。

そして、この詩は「बाह्यः (bāhyaḥ)」という一語で締め括られます。アートマンが世界の苦しみに染まらないのは、それが苦しみに満ちた現象世界の「外に在る」、すなわち「超越している」からです。この超越性は、物理的な距離を意味するのではありません。アートマンは、私たちの最も深い内にありながら、同時に、苦しみの原因となる心身の作用や因果の法則そのものに属していない、質的に異なる次元の存在なのです。この内在しながら超越するというパラドックスこそ、ウパニシャッドが示す真我の神秘です。

火(変容の力)、風(生命の息吹)、そして太陽(不染の意識)というこの三つの比喩は、一つの言葉では捉えきれないアートマンの多面的な輝きを、私たちの心に深く刻み込みます。それは、いかなる苦悩の渦中にあっても、自らの内に汚れなく輝き続ける永遠の光が存在することを教え、私たちを根源的な安らぎへと導く、究極の智慧なのです。

第2篇 第2章 第12節

एको वशी सर्वभूतान्तरात्मा
एकं रूपं बहुधा यः करोति ।
तमात्मस्थं येऽनुपश्यन्ति धीराः
तेषां सुखं शाश्वतं नेतरेषाम् ॥ २.2.१२॥
eko vaśī sarvabhūtāntarātmā
ekaṃ rūpaṃ bahudhā yaḥ karoti |
tamātmasthaṃ ye'nupaśyanti dhīrāḥ
teṣāṃ sukhaṃ śāśvataṃ netareṣām || 2.2.12||
唯一なる支配者、すべての存在の内なる真我は、
ひとつの姿を多様に顕す。
その、自己の内に在るものを直観する賢者たちにこそ、
永遠の至福はあり、他の者たちにはない。

逐語訳:

  • एकः (ekaḥ) - 唯一の(男性単数主格)
  • वशी (vaśī) - 支配者、自在なる者(男性単数主格)
  • सर्वभूतान्तरात्मा (sarvabhūtāntarātmā) - すべての存在の内なる真我(複合語 sarva-bhūta-antar-ātmā、男性単数主格)
  • एकम् (ekam) - ひとつの(eka、中性単数対格)
  • रूपम् (rūpam) - 姿、形を(中性単数対格)
  • बहुधा (bahudhā) - 多様に、様々に(副詞)
  • यः (yaḥ) - 〜するところの者、彼が(関係代名詞、男性単数主格)
  • करोति (karoti) - 為す、作る、顕す(√kṛ「為す」、現在法3人称単数)
  • तम् (tam) - その〜を(指示代名詞、男性単数対格)
  • आत्मस्थम् (ātmastham) - 自己の内に在るものを、自己に依拠して存在するものを(ātma-stha、男性単数対格)
  • ये (ye) - 〜するところの人々(関係代名詞、男性複数主格)
  • अनुपश्यन्ति (anupaśyanti) - 観る、直観する(anu-√paś「〜に従って見る」、現在法3人称複数)
  • धीराः (dhīrāḥ) - 賢者たち、智者たち(男性複数主格)
  • तेषाम् (teṣām) - 彼らのものとして、彼らに(代名詞、男性複数属格)
  • सुखम् (sukham) - 至福、幸福が(中性単数主格)
  • शाश्वतम् (śāśvatam) - 永遠の(形容詞、中性単数主格)
  • न (na) - 〜ない(否定辞)
  • इतरेषाम् (itareṣām) - 他の者たちのものとして、他の者たちに(代名詞、男性複数属格)。नेतरेषाम् (netareṣām)はइतरेषाम्の連声(サンディ)。

解説:
火、風、太陽という三つの壮大な比喩を通して、アートマンの遍在性、生命性、そして不染性を明らかにしたヤマ神は、ここでその教えを一つの哲学的頂点へと導きます。この詩節は、もはや比喩ではなく、真理そのものを直接的な言葉で宣言し、それを悟る者とそうでない者の間に存在する決定的な違いを荘厳に描き出します。

詩の前半は、アートマンの新たな側面を明らかにします。「एको वशी सर्वभूतान्तरात्मा (eko vaśī sarvabhūtāntarātmā)」—唯一なる支配者、すべての存在の内なる真我。ここで初めて用いられる वशी (vaśī)「支配者、自在なる者」という言葉は、極めて重要です。アートマンは、単にすべての内に静かに存在する傍観者なのではなく、万物を内側から統御し、その秩序を維持する能動的な主宰者なのです。この唯一なる支配者が、「एकं रूपं बहुधा यः करोति (ekaṃ rūpaṃ bahudhā yaḥ karoti)」—ひとつの根源的な姿を、多様な現象世界として顕現させます。この宇宙に広がる無限の多様性は、この唯一なる実在の創造的な戯れ लीला (līlā) に他ならないのです。

詩の後半は、この深遠な真理を体得するための道と、その結果を明確に示します。「तमात्मस्थं येऽनुपश्यन्ति धीराः (tamātmasthaṃ ye'nupaśyanti dhīrāḥ)」—その、自己の内に在るものを直観する賢者たち。ここで आत्मस्थम् (ātmastham) という語は、「自己に依拠して存在する」というアートマンの自存性と、「(賢者自身の)自己の内に見出される」という認識の場の両方を示唆します。このアートマンを、外的な探求ではなく、自らの最も深い内側において अनुपश्यन्ति (anupaśyanti) する、つまり師の教えと自己の修練を通して直接的に体験するのです。そして、この直観は धीराः (dhīrāḥ)、すなわち感覚の誘惑や心の動揺を超克した、静かで揺るぎない知性を持つ賢者のみに可能なのです。

そのような賢者たちが手にするものこそ、「तेषां सुखं शाश्वतं नेतरेषाम् (teṣāṃ sukhaṃ śāśvataṃ netareṣām)」—彼らにこそ永遠の至福はあり、他の者たちにはない、という究極の報酬です。この सुखम् (sukham) は、条件に依存する世俗的な快楽とは全く異なります。それは、存在の根源そのものから絶え間なく湧き出る至福 आनन्द (ānanda) であり、決して失われることのない शाश्वतम् (śāśvatam)「永遠」の平安です。

結びの नेतरेषाम् (netareṣām)「他の者たちにはない」という言葉は、厳粛な響きを持ちます。これは、真理から目を背け、現象世界の移ろいゆく姿に心を奪われている限り、真の幸福は訪れないという普遍的な法則を示しています。しかし、それは絶望の宣告ではありません。むしろ、私たちの探求心を奮い立たせ、一時的な満足を捨ててでも永遠の至福を求めるべきであると諭す、力強い呼びかけなのです。この詩節は、宇宙の究極的な支配者と自己の本質が一つであることを示し、その悟りの先にこそ、一切の苦悩を超えた絶対的な安らぎが待っていることを、明確に約束してくれるのです。

第2篇 第2章 第13節

नित्योऽनित्यानां चेतनश्चेतनानाम्
एको बहूनां यो विदधाति कामान् ।
तमात्मस्थं येऽनुपश्यन्ति धीराः
तेषां शान्तिः शाश्वती नेतरेषाम् ॥ २.२.१३॥
nityo'nityānāṃ cetanaścetanānām
eko bahūnāṃ yo vidadhāti kāmān |
tamātmasthaṃ ye'nupaśyanti dhīrāḥ
teṣāṃ śāntiḥ śāśvatī netareṣām || 2.2.13||
無常なるものたちの中の常住者、
意識あるものたちの中の、その意識。
唯一にして、多なるものたちの願いを満たす方。
その、自己の内に在るものを直観する賢者たちにこそ、
永遠の平安はあり、他の者たちにはない。

逐語訳:

  • नित्यः (nityaḥ) अनित्यानाम् (anityānām) - 無常なるものたちの(中で)、永遠なるもの(常住者)が。nityo'nityānāṃnityaḥanityānāmの連声(サンディ)。
  • चेतनः (cetanaḥ) चेतनानाम् (cetanānām) - 意識あるものたちの(中で)、その(根源的な)意識が。cetanaścetanānāmcetanaḥcetanānāmの連声。
  • एकः (ekaḥ) - 唯一なるものが(男性単数主格)
  • बहूनाम् (bahūnām) - 多なるものたちの(男性複数属格)
  • यः (yaḥ) - 〜するところの者、彼が(関係代名詞、男性単数主格)
  • विदधाति (vidadhāti) - (秩序立てて)授ける、満たす(vi-√dhā「配置する、満たす」、現在法3人称単数)
  • कामान् (kāmān) - 願いを、欲求を(男性複数対格)
  • तम् (tam) - その〜を(指示代名詞、男性単数対格)
  • आत्मस्थम् (ātmastham) - 自己の内に在るものを、自己に依拠して存在するものを(ātma-stha、男性単数対格)
  • ये (ye) - 〜するところの人々(関係代名詞、男性複数主格)
  • अनुपश्यन्ति (anupaśyanti) - 観る、直観する(anu-√paś「〜に従って見る」、現在法3人称複数)
  • धीराः (dhīrāḥ) - 賢者たち、智者たち(男性複数主格)
  • तेषाम् (teṣām) - 彼らのものとして、彼らに(代名詞、男性複数属格)
  • शान्तिः (śāntiḥ) - 平安が(女性単数主格)
  • शाश्वती (śāśvatī) - 永遠の(形容詞、女性単数主格)
  • न (na) इतरेषाम् (itareṣām) - 他の者たちのものとしてはない。नेतरेषाम् (netareṣām)はइतरेषाम्の連声。

解説:
前節がアートマンを「唯一なる支配者」として、その創造的な側面を明らかにしたのに対し、この第13節はその本質をさらに深く、哲学的な精度をもって定義します。これはウパニシャッドの中でも特に深遠で美しい詩節の一つであり、一なる実在と多様な現象世界の関わりを、見事な三重の対比によって描き出しています。

詩の前半は、アートマンの三つの根源的特性を、逆説的な表現で浮き彫りにします。

第一に「नित्योऽनित्यानाम् (nityo'nityānām)」—無常なるものたちの中の常住者。この世界に現れる万物は、絶えず生まれ、変化し、滅んでいきます。私たちの身体も、思考も、感情も、すべてはこの移ろいの法則から逃れられません。しかし、この絶え間ない変化の流れの根底には、何ものにも影響されず、時間そのものを超越した永遠不滅の実在、アートマンが存在しています。

第二に「चेतनश्चेतनानाम् (cetanaścetanānām)」—意識あるものたちの中の、その意識。これは極めて重要な教えです。人間をはじめとする「意識あるものたち」(चेतनानाम्, cetanānām)が持つ個々の意識は、それ自体が究極的なものではありません。それは、アートマンという唯一の純粋な「根源意識」(चेतनः, cetanaḥ)の光によって照らされることで初めて、認識や思考として機能するのです。あたかも月が自らは光を持たず、太陽の光を反射して輝くように、私たちの心(チッタ)は、アートマンという「意識の意識」によって照らされて初めて、意識として働くことができるのです。

第三に「एको बहूनां यो विदधाति कामान् (eko bahūnāṃ yo vidadhāti kāmān)」—唯一にして、多なるものたちの願いを満たす方。無数の個物として現れる「多」なる世界の背後には、それらを成り立たせている「一」なる実在があります。そしてこの唯一者は、静的な原理であるだけでなく、すべての存在が持つ生命の衝動や本性に従った「願い」(कामान्, kāmān)を秩序立てて実現させる、宇宙的な摂理そのものなのです。

詩の後半は、前節の構造を繰り返しつつも、その報酬を「至福 सुखम् (sukham)」から「平安 शान्तिः (śāntiḥ)」へと深化させます。「तमात्मस्थं येऽनुपश्यन्ति धीराः (tamātmasthaṃ ye'nupaśyanti dhīrāḥ)」—この深遠なアートマンを、自らの内なる存在として直観する賢者たち。この悟りは、感覚の惑わしや心の動揺を乗り越えた धीराः (dhīrāḥ)「賢者」だけが到達できる境地です。

そのような賢者にこそ、「तेषां शान्तिः शाश्वती नेतरेषाम् (teṣāṃ śāntiḥ śāśvatī netareṣām)」—永遠の平安があり、他の者たちにはありません。前節の「至福」が、アートマンの創造的な側面(一が多を顕現させる)を悟った歓喜を表すとすれば、この「平安」は、アートマンの不変・不動の本質(常住にして根源意識)を悟った時に訪れる、一切の対立と葛藤を超越した絶対的な静寂を意味します。それは外的な条件によって決して揺らぐことのない、存在の最も深い安らぎなのです。

この詩節は、世界の多様性の奥に秘められた、不動にして永遠の統一性を指し示します。そして、その究極の実在が、私たち自身の最も内なる本質と同一であることを知る時、人はすべての苦悩を超えた、真の平安へと至るのです。

第2篇 第2章 第14節

तदेतदिति मन्यन्तेऽनिर्देश्यं परमं सुखम् ।
कथं नु तद्विजानीयां किमु भाति विभाति वा ॥ २.२.१४॥
tadetaditi manyante'nirdeśyaṃ paramaṃ sukham |
kathaṃ nu tadvijānīyāṃ kimu bhāti vibhāti vā || 2.2.14||
賢者たちはそれを、言葉で表しえぬ最高の至福と観ずる。
その実在を、私はいかにして知ることができるだろうか。
それは自ら輝くのか、あるいは他に映じて輝くのか。

逐語訳:

  • तदेतदिति (tadetad-iti) - それがこれである、と (tat-etat-itiの連声)
  • मन्यन्ते (manyante) - (賢者たちは)観ずる、見なす、考える(√man、中動態現在法3人称複数)
  • अनिर्देश्यम् (anirdeśyam) - 言葉で指し示し得ない、表現不可能な(a-nirdeśya、中性単数対格)
  • परमम् (paramam) - 最高の、至上の(形容詞、中性単数対格)
  • सुखम् (sukham) - 至福を、幸福を(中性単数対格)
  • कथम् (katham) - いかにして、どうやって(疑問副詞)
  • नु (nu) - いったい、さて(疑問・強調の不変化詞)
  • तत् (tat) - それを(指示代名詞、中性単数対格)
  • विजानीयाम् (vijānīyām) - 私が知り得ようか(vi-√jñā「識別して知る」、願望法1人称単数)
  • किमु (kimu) - 〜であろうか、それとも〜か (kim + u)
  • भाति (bhāti) - (自ら)輝く、現れる(√bhā「輝く」、現在法3人称単数)
  • विभाति (vibhāti) - (他に映じて)輝く、照らし出す(vi-√bhā「輝く」、現在法3人称単数)
  • वा (vā) - あるいは、それとも(選択の不変化詞)

解説:
この詩節は、ウパニシャッドの対話における劇的な転換点を示します。前節まで滔々と語られてきたアートマンの深遠な本質を受け、ここで探求者ナチケータの内面から、最も根源的で切実な問いが発せられます。これは、師から教えを聞いた弟子が、それを自らの体験として掴み取ろうとする、真の探求の始まりを告げるものです。

詩の前半「तदेतदिति मन्यन्तेऽनिर्देश्यं परमं सुखम् (tadetaditi manyante'nirdeśyaṃ paramaṃ sukham)」は、前節までの教えの要約から始まります。「賢者たち (धीराः dhīrāḥ) はそれを、言葉で表し得ぬ最高の至福と観ずる」。ここで मन्यन्ते (manyante)「観ずる」の主語は、前節で言及された、アートマンを直観した賢者たちです。彼らは、アートマンを अनिर्देश्यम् (anirdeśyam)「言葉で表現不可能」な परमं सुखम् (paramaṃ sukham)「最高の至福」として体験的に知っています。ナチケータは、まずその賢者たちの境地を認め、敬意を払います。

その上で、彼は自らの立場から、認識論の核心を突く問いを投げかけます。「कथं नु तद्विजानीयाम् (kathaṃ nu tadvijānīyām)」—私はいかにして、その実在を知ることができるでしょうか。विजानीयाम् (vijānīyām) という言葉は、「識別して知る」というニュアンスを含みます。言葉を超えたものを、どのように識別し、確かに「これだ」と知ることができるのか。これは、あらゆる求道者が抱く普遍的な問いです。

続く「किमु भाति विभाति वा (kimu bhāti vibhāti vā)」という問いは、この詩節の真髄です。「それは自ら輝くのか、あるいは他に映じて輝くのか」。これは単なる詩的表現ではありません。インド哲学、特にヴェーダーンタにおける高度な問いかけです。

  • भाति (bhāti)「自ら輝く」とは、アートマンがそれ自体で光り輝く「自己照明的 (स्वयंप्रकाश svayaṃprakāśa)」な存在である可能性を問うています。もしそうなら、それは認識の究極の主体であり、太陽のようにそれ自体が光源であるため、他の何かによって照らし出される客体にはなり得ません。
  • विभाति (vibhāti)「他に映じて輝く」とは、アートマンが、例えば鏡に映る月のように、浄化された心や知性 (बुद्धि buddhi) という媒体を通して認識される対象となる可能性を問うています。

つまりナチケータは、「アートマンは、私たちの認識能力を完全に超越した、知ることのできない光源そのものなのですか。それとも、私たちの内なる知性に映し出されることで、体験的に知ることができる対象なのですか」と問うているのです。これは、究極の実在と人間の認識との間に、どのような橋を架けることができるのかという、極めて切実な問いかけに他なりません。

この純粋で鋭いナチケータの問いが、次の第15節における、ウパニシャッドの中でも最も有名で荘厳な答えを引き出すことになります。それは、この問いかけの深さがあって初めて開示される、究極の智慧なのです。

第2篇 第2章 第15節

न तत्र सूर्यो भाति न चन्द्रतारकं
नेमा विद्युतो भान्ति कुतोऽयमग्निः ।
तमेव भान्तमनुभाति सर्वं
तस्य भासा सर्वमिदं विभाति ॥ २.२.१५॥
na tatra sūryo bhāti na candratārakaṃ
nemā vidyuto bhānti kuto'yamagniḥ |
tameva bhāntamanubhāti sarvaṃ
tasya bhāsā sarvamidaṃ vibhāti || 2.2.15||
かの境地では太陽も輝かず、月も星も輝かない。
これらの稲妻も光を放たず、ましてこの地上の火が輝き得ようか。
万物すべては、ただその輝きに倣いて輝き、
その光によって、この一切は遍く照らし出される。

逐語訳:

  • न (na) - 〜ない(否定辞)
  • तत्र (tatra) - そこでは、かの境地では(指示副詞)
  • सूर्यः (sūryaḥ) - 太陽が(男性単数主格)。詩中ではसूर्यो (sūryo)と連声(サンディ)している。
  • भाति (bhāti) - 輝く(√bhā「輝く」、現在法3人称単数)
  • न (na) - 〜ない(否定辞)
  • चन्द्रतारकम् (candratārakam) - 月と星が(candra-tāraka、両合複合語、中性単数主格)
  • नेमा (nemā) - これらの〜もない。न इमाः (na imāḥ) の連声。इमाः (imāḥ)は指示代名詞、女性複数主格。
  • विद्युतः (vidyutaḥ) - 稲妻が(女性複数主格)
  • भान्ति (bhānti) - 輝く(√bhā「輝く」、現在法3人称複数)
  • कुतः (kutaḥ) - どこから、どうして〜あろうか、まして(疑問副詞)。कुतोऽयम् (kuto'yam)はकुतः (kutaḥ) と अयम् (ayam) の連声。
  • अयम् (ayam) - この(指示代名詞、男性単数主格)
  • अग्निः (agniḥ) - 火が(男性単数主格)
  • तम् (tam) एव (eva) - その〜だけを、まさにその〜を(तमेवは連声)
  • भान्तम् (bhāntam) - 輝いているものを(√bhāの現在分詞、男性単数対格)
  • अनुभाति (anubhāti) - 〜に従って輝く、模倣して輝く(anu-√bhā、現在法3人称単数)
  • सर्वम् (sarvam) - すべてが(中性単数主格)
  • तस्य (tasya) - その〜の(代名詞、男性単数属格)
  • भासा (bhāsā) - 光によって(bhās「光」、女性単数具格)
  • सर्वम् इदम् (sarvam idam) - このすべてが。詩中ではसर्वमिदं (sarvamidaṃ)と連声している。
  • विभाति (vibhāti) - 遍く照らす、輝き渡る(vi-√bhā、現在法3人称単数)

解説:
前節において、求道者ナチケータは「アートマンは自ら輝くのか、あるいは他に映じて輝くのか」という、認識論の核心を突く根源的な問いを投げかけました。この第15節は、その問いに対する死の神ヤマの答えであり、ウパニシャッド文学の最高峰に位置する、荘厳かつ深遠な啓示の詩です。この詩句の重要性は、ムンダカ・ウパニシャッド(2.2.10)やシュヴェーターシュヴァタラ・ウパニシャッド(6.14)にもほぼ同じ形で現れることからも窺い知れます。

詩の前半は、私たちの知るあらゆる光源を列挙し、それらが究極の実在の前では全く無力であることを、劇的な否定の連続によって示します。太陽(सूर्यः sūryaḥ)、月と星(चन्द्रतारकम् candratārakam)、稲妻(विद्युतः vidyutaḥ)、そして地上の火(अग्निः agniḥ)。これらは単に物理的な光ではなく、ヴェーダの世界観では神々として崇拝される神聖な力です。しかし、ヤマ神は、それら全ての輝きが失われる絶対的な次元、「तत्र (tatra) かの境地」が存在することを宣言します。このतत्रは物理的な空間ではなく、アートマンという純粋な存在意識の領域そのものを指します。その絶対的な光の前では、いかなる相対的な光もその輝きを失うのです。「कुतोऽयमग्निः (kuto'yamagniḥ) ましてこの地上の火が輝き得ようか」という反語は、この世の最高の光でさえ比較にならないという、アートマンの超越性を強調しています。

詩の後半は、その絶対的な実在と、私たちが経験する現象世界との関係を明らかにします。「तमेव भान्तमनुभाति सर्वं (tameva bhāntamanubhāti sarvaṃ)」—万物すべては、ただその輝きに倣いて輝く。ここで用いられるअनुभाति (anubhāti)という動詞が、この教えの鍵です。接頭辞अनु (anu)は「〜に従って、後を追って、模倣して」という意味を持ちます。つまり、太陽も月も、私たちの意識も、自らの力で輝いているのではありません。それらは皆、アートマンという唯一の根源的な光の「反映」であり、「借光」なのです。

そして、詩は究極の宣言をもって結ばれます。「तस्य भासा सर्वमिदं विभाति (tasya bhāsā sarvamidaṃ vibhāti)」—その光によって、この一切は遍く照らし出される。このアートマンの光भास् (bhās)は、物理的な光ではありません。それは、あらゆる存在を存在たらしめる「存在の光」であり、あらゆる認識を可能にする「意識の光」(चिद्भास cidbhāsa)です。

この詩節は、ナチケータの問いに見事に答えています。アートマンは、他に映じて輝く相対的な対象では断じてありません。それは、ヴェーダーンタ哲学でस्वयंप्रकाश (svayaṃprakāśa)、すなわち「自己照明的」と説かれる、究極の主体です。アートマンは、他の何ものにも照らされることなく自ら輝き、同時に、この宇宙の森羅万象を照らし出して認識可能にしている、唯一無二の光源なのです。この荘厳な詩は、真の光は外の世界に求めるものではなく、私たち自身の、そして万物の最も内なる本質として、永遠に輝き続けているという普遍の真理を、力強く啓示しているのです。

第2篇 第2章 奥書

इति काठकोपनिषदि द्वितीयाध्याये द्वितीया वल्ली ॥
iti kāṭhakopaniṣadi dvitīyādhyāye dvitīyā vallī ||
これにて、カタ・ウパニシャッドにおける第二篇、第二の蔓(ヴァッリー)は終わる。

逐語訳:

  • इति (iti) - ここに、このように(引用や章の終わりを示す不変化詞)
  • काठकोपनिषदि (kāṭhakopaniṣadi) - カタ・ウパニシャッドにおいて(kāṭhaka-upaniṣad、女性単数処格)
  • द्वितीयाध्याये (dvitīyādhyāye) - 第二篇において(dvitīya-adhyāya、男性単数処格)
  • द्वितीया (dvitīyā) - 第二の(順序数詞、vallīを修飾、女性単数主格)
  • वल्ली (vallī) - 蔓、章(女性単数主格)

解説:
この簡潔な一句は、単なる章の区切りではなく、カタ・ウパニシャッドの中でも特に深遠な教えが語られた第二篇第二ヴァッリーの完結を告げる、神聖な標識です。それは、これまで展開されてきた智慧が、一つのまとまりとして確立されたことを宣言するものです。

サンスクリットの聖典において、इति (iti) という語は「このように」「以上」を意味し、語られた教えがひとつの完結した真理として確立されたことを示します。また、章を意味するवल्ली (vallī) は元来「蔓(つる)」を指す言葉であり、ウパニシャッドの各章が有機的に連なり、一つの壮大な智慧の体系を形成していく様を象徴しています。

この第二ヴァッリーは、アートマンの本質を、息をのむほど美しく、かつ哲学的に精緻な言葉で解き明かしてきました。まず、身体を「十一の門を持つ都」にたとえ、その主であるアートマンを観想することが解脱につながると説かれました。続いて、火が様々な薪の形をとるように、風が様々な空間に入るように、そして太陽が万物を照らしながらもその汚れに染まらないように、唯一なるアートマンが、万物すべての内に宿りながらも、それらの性質や苦悩に束縛されないという、見事な三連の比喩が展開されました。

この教えは、アートマンを「唯一なる支配者」、そしてそれを観た賢者にのみ与えられる「永遠の平安」として語られ、その頂点に達します。この深遠な教えを受け、求道者ナチケータの内から発せられたのが「その実在を、私はいかにして知ることができるだろうか。それは自ら輝くのか、他に映じて輝くのか」という、認識の根源を問う切実な問いでした。

そしてこのヴァッリーは、その問いに対するヤマ神の答え、すなわち「かの境地では太陽も輝かず、月も星も輝かない。……その光によって、この一切は遍く照らし出される」という、ウパニシャッド文学の金字塔ともいえる荘厳な啓示をもって締めくくられます。アートマンこそが、他の何ものにも依存しない唯一の「自己照明的(स्वयंप्रकाश, svayaṃprakāśa)」な光源であり、全宇宙を成り立たせている根源的な光であることが宣言されたのです。

このように、本ヴァッリーはアートマンの超越性と内在性という、相反するかに見える二つの側面を統合し、その実在をいかに認識すべきかという問いに究極の答えを与えました。この後書きは、その偉大な智慧がここに一つの完成を見たことを静かに告げるとともに、探求の旅が最終章である第三ヴァッリーへと続いていくことを示唆しているのです。

第2篇 第3章 第1節

ऊर्ध्वमूलोऽवाक्शाख एषोऽश्वत्थः सनातनः ।
तदेव शुक्रं तद्ब्रह्म तदेवामृतमुच्यते ।
तस्मिँल्लोकाः श्रिताः सर्वे तदु नात्येति कश्चन । एतद्वै तत् ॥ २.३.१॥
ūrdhvamūlo'vākśākha eṣo'śvatthaḥ sanātanaḥ |
tadeva śukraṃ tadbrahma tadevāmṛtamucyate |
tasmiṃllokāḥ śritāḥ sarve tadu nātyeti kaścana | etadvai tat || 2.3.1||
上に根をもち、下に枝を垂らす、この永遠なるアシュヴァッタの樹。
それこそが純粋な光明、それこそがブラフマン、それこそが不死と呼ばるる。
すべての世界はそれに依りて存し、何ものもそれを超えることはない。
これこそ、まさしく「それ」である。

逐語訳:

  • ऊर्ध्वमूलः (ūrdhvamūlaḥ) - 上に根を持つ(ūrdhva「上方」+ mūla「根」、複合語、男性単数主格)
  • अवाक्शाखः (avākśākhaḥ) - 下に枝を持つ(avāk「下方」+ śākhā「枝」、複合語、男性単数主格)
  • एषः (eṣaḥ) - この(指示代名詞、男性単数主格)。詩中ではएषो (eṣo)と連声している。
  • अश्वत्थः (aśvatthaḥ) - アシュヴァッタの樹(インドボダイジュ)(男性単数主格)
  • सनातनः (sanātanaḥ) - 永遠の、常住の(形容詞、男性単数主格)
  • तत् एव (tat eva) - まさにそれ、それこそが。詩中ではतदेव (tadeva)と連声している。
  • शुक्रम् (śukram) - 純粋なもの、光明(中性単数主格)
  • तत् ब्रह्म (tat brahma) - それがブラフマン。詩中ではतद्ब्रह्म (tadbrahma)と連声している。
  • तत् एव अमृतम् (tat eva amṛtam) - まさにそれが不死なるもの。詩中ではतदेवामृतम् (tadevāmṛtam)と連声している。
  • उच्यते (ucyate) - 呼ばれる、言われる(√vac「言う」、受動態現在法3人称単数)
  • तस्मिन् (tasmin) - その中に、それにおいて(指示代名詞、中性単数処格)
  • लोकाः (lokāḥ) - 世界が(複数主格)
  • श्रिताः (śritāḥ) - 依っている、宿っている(√śri「依る」、過去受動分詞、男性複数主格)
  • सर्वे (sarve) - すべての(代名詞、男性複数主格)
  • तत् उ (tat u) - まさにそれを。詩中ではतदु (tadu)と連声している。 (u)は強調の不変化詞。
  • न अत्येति (na atyeti) - 超え行くことはない(否定辞 na + ati-√i「超えて行く」、現在法3人称単数)
  • कश्चन (kaścana) - 誰一人として、何ものも(不定代名詞、男性単数主格)
  • एतत् वै तत् (etat vai tat) - これこそ、まさしく「それ」である。(etat「これ」+ vai「まさに」+ tat「それ」)

解説:
第二篇の最終章である第三ヴァッリーは、ウパニシャッドの中でも極めて有名で、深遠な象徴をもって始まります。前章の終わりで、究極の実在は、太陽や月さえも照らし出す根源的な「光」として啓示されました。この詩節では、その同じ真理が、全く異なる、しかし見事に補完的な比喩、すなわち「逆さまの宇宙樹」として描き出されます。これは、抽象的な真理を、私たちの直観に訴えかける鮮烈なイメージへと昇華させる、ウパニシャッドの卓越した教授法を示すものです。

ऊर्ध्वमूलः (ūrdhvamūlo) अवाक्शाखः (avākśākhaḥ) - 上に根をもち、下に枝を垂らす」という表現は、私たちの常識的な世界観を根底から揺さぶります。通常の樹木が大地に根を張り、天空に向かって枝を伸ばすのとは正反対に、この神秘的な樹は、その根を天上、すなわち目には見えない超越的な次元に置いています。その根こそが、万物の源である最高実在ブラフマンです。そして、その根源から、私たちの経験するこの現象世界が、無数の枝葉として下方へと展開しているのです。この比喩は、私たちが探求すべき方向を示唆しています。目に見える多様な結果(枝葉)に惑わされることなく、その目に見えない唯一の原因(根)へと、自らの意識を遡らせなければならないのです。

この樹は「अश्वत्थः सनातनः (aśvatthaḥ sanātanaḥ) - 永遠なるアシュヴァッタの樹」と呼ばれます。अश्वत्थ (aśvattha)という語は、一説には「明日 (śvaḥ) まで存在しない (a-sthā) もの」、すなわち「無常」を意味するとされます。これは、現象世界としての宇宙樹が、絶えず変化し流転するサンサーラ(輪廻)の世界であることを示唆します。しかし、同時にそれは「सनातनः (sanātanaḥ) 永遠なる」と形容されます。なぜなら、その根は時間に束縛されない永遠の実在ブラフマンに他ならないからです。この逆説的な表現は、この宇宙樹が、無常なる現象世界と常住なる根源的実在という二つの側面を統合したものであることを巧みに示しています。この象徴は、後の『バガヴァッド・ギーター』第15章でも詳説される、インド思想における極めて重要な宇宙観です。

詩の後半は、この樹の本質を明確に宣言します。「तदेव शुक्रं तद्ब्रह्म तदेवामृतमुच्यते (tadeva śukraṃ tadbrahma tadevāmṛtamucyate)」—それこそが純粋な光明、それこそがブラフマン、それこそが不死と呼ばるる。शुक्रम् (śukram)は「純粋な」「輝く」を意味し、前章の光の比喩と響き合います。この宇宙の根源は、清浄な意識の光であり、それがブラフマンであり、それを知ることこそが死を超えたअमृतम् (amṛtam)「不死」の境地なのです。

そして、すべての世界 (लोकाः, lokāḥ) はこの宇宙樹に支えられ (श्रिताः, śritāḥ)、何ものもこの根源を超越することはできません。この絶対的な宣言の後、詩は「एतद्वै तत् (etadvai tat) - これこそ、まさしく『それ』である」という、確信に満ちた句で結ばれます。これは、師ヤマが弟子ナチケータに対し、「お前が問い続けてきた究極の実在『それ (tat)』とは、今私が説いた『これ (etat)』に他ならない」と、真理を指し示す力強い言葉です。この壮大な比喩は、探求すべき真理が遠い彼方にあるのではなく、この世界の構造そのものとして、私たちの眼前に開示されていることを教えてくれるのです。

第2篇 第3章 第2節

यदिदं किं च जगत् सर्वं प्राण एजति निःसृतम् ।
महद्भयं वज्रमुद्यतं य एतद्विदुरमृतास्ते भवन्ति ॥ २.३.२॥
yadidaṃ kiṃ ca jagat sarvaṃ prāṇa ejati niḥsṛtam |
mahadbhayaṃ vajramudyataṃ ya etadviduramṛtāste bhavanti || 2.3.2||
この存在する一切の世界は、根源なるプラーナより発出し、その力のうちに脈動する。
そは振り上げられし雷(いかずち)のごとき、大いなる畏怖の念。
これを悟る者らは、不死を得る。

逐語訳:

  • यत् इदम् किम् च (yat idam kiṃ ca) - この何であれ(関係代名詞 yat + 指示代名詞 idam + 不定を表す kim ca)。詩中ではयदिदं (yadidaṃ)と連声している。
  • जगत् (jagat) - 世界、動くもの(√gam「行く、動く」より。中性単数主格)
  • सर्वम् (sarvam) - 全て、一切(中性単数主格)
  • प्राणे (prāṇe) - プラーナにおいて、その力のうちに(prāṇa「生命力、根源力」、男性単数処格。場所・原因を示す)
  • एजति (ejati) - 脈動する、震える、振動する(√ej「震える」、現在法3人称単数)
  • निःसृतम् (niḥsṛtam) - 発出した、流れ出た(nis-√sṛ「流れ出る」、過去受動分詞。jagatを修飾、中性単数主格)
  • महत् (mahat) - 大いなる、偉大な(中性単数主格)。詩中ではमहद्भयं (mahadbhayaṃ)と連声している。
  • भयम् (bhayam) - 畏怖、恐怖(中性単数主格)
  • वज्रम् (vajram) - 雷、金剛(中性単数主格)
  • उद्यतम् (udyatam) - 振り上げられた(ud-√yam「上げる」、過去受動分詞、中性単数主格)
  • ये (ye) - 〜する人々は(関係代名詞、男性複数主格)
  • एतत् (etat) - これを(指示代名詞、中性単数対格)
  • विदुः (viduḥ) - 知る、悟る(√vid「知る」、完了法3人称複数。知っている状態を示す)
  • अमृताः (amṛtāḥ) - 不死なる者たち(形容詞、男性複数主格)
  • ते (te) - 彼らは(指示代名詞、男性複数主格)
  • भवन्ति (bhavanti) - 〜となる(√bhū「ある、なる」、現在法3人称複数)

解説:
前節において、宇宙は「上に根をもつ樹」という静的で構造的な比喩で語られました。この第2節では、その視点ががらりと変わり、宇宙を動かすダイナミックな「力」そのものへと焦点が移されます。静的な構造から、それを生み出し動かす生命的なエネルギーへと、教えは深められていくのです。

詩の前半、「यदिदं किं च जगत् सर्वं प्राण एजति निःसृतम् (yadidaṃ kiṃ ca jagat sarvaṃ prāṇa ejati niḥsṛtam)」は、この現象世界の本質を力強く宣言します。जगत् (jagat)という語は「動くもの」を意味し、この世界が絶え間ない変化と生成のうちにあることを示唆しています。その動的な宇宙のすべてが、唯一の根源力であるप्राण (prāṇa)から発出し (निःसृतम्, niḥsṛtam)、その力の中で脈動 (एजति, ejati) していると説かれます。ここでいうप्राण (prāṇa)は、単なる個人の呼吸や生命力ではありません。それは、前節の宇宙樹の「根」であるブラフマンの、宇宙を創造し、維持し、動かす「力の側面(シャクティ)」です。宇宙全体が、この根源的な生命力の息吹によって生かされているという、壮大なビジョンがここに示されています。

詩の後半は、この根源的な力の性質を、畏怖すべきイメージで描き出します。「महद्भयं वज्रमुद्यतम् (mahadbhayaṃ vajramudyatam)」—そは振り上げられし雷(いかずち)のごとき、大いなる畏怖の念。この表現は、プラーナという宇宙の力が、甘く優しいものではなく、絶対的で厳格な秩序を保つ、恐るべき威力を持つことを示しています。वज्र (vajra)はインドラ神が持つ、あらゆるものを破壊する金剛の武器であり、ここでは宇宙の法則の不可侵性と厳格さを象徴します。この法則の前では、何ものも例外は許されません(次節で、火や太陽さえもこの法則に従うことが語られます)。ここでいうभय (bhaya)「畏怖」とは、この計り知れない力と、宇宙を貫く絶対的な秩序の前に立ったときに人間が感じる、身の引き締まるような畏敬の念です。

しかし、この恐るべき力は、ただ恐れるべき対象ではありません。詩は希望に満ちた約束で結ばれます。「य एतद्विदुरमृतास्ते भवन्ति (ya etadviduramṛtāste bhavanti)」—これを悟る者らは、不死を得る。ここでいう「悟ること (विदुः, viduḥ)」とは、この宇宙を統べる絶対的な力と、自己の本質が別々のものではなく、根源において一つであると直観することです。その悟りは、変化と破壊に怯える小さな自己という幻想を打ち砕き、個人を宇宙的な生命の流れそのものと合一させます。そのとき、人は死の恐怖を超えた真の「不死 (अमृतत्व, amṛtatva)」の境地、すなわち永遠の平安に至るのです。この詩節は、宇宙の厳格な法則を恐れるのではなく、その法則と一体となることこそが、究極の自由と解放への道であることを、力強く示しています。

第2篇 第3章 第3節

भयादस्याग्निस्तपति भयात्तपति सूर्यः ।
भयादिन्द्रश्च वायुश्च मृत्युर्धावति पञ्चमः ॥ २.३.३॥
bhayādasyāgnistapati bhayāttapati sūryaḥ |
bhayādindraśca vāyuśca mṛtyurdhāvati pañcamaḥ || 2.3.3||
その畏れゆえに火は燃え、その畏れゆえに太陽は輝く。
その畏れゆえにインドラと風、そして第五の死は、疾走する。

逐語訳:

  • भयात् अस्य (bhayāt asya) - その畏れから。詩中ではभयादस्य (bhayādasya)と連声(サンディ)している。(bhayāt:「畏れから」原因を表す奪格 + asya:「その」指示代名詞属格)
  • अग्निः (agniḥ) - 火が、火の神アグニが。(男性単数主格)
  • तपति (tapati) - 燃える、熱を発する。(√tap「熱する、輝く」、現在法3人称単数)
  • भयात् (bhayāt) - 畏れから。(繰り返し)
  • तपति (tapati) - 輝く、光を放つ。(√tap「熱する、輝く」、現在法3人称単数)
  • सूर्यः (sūryaḥ) - 太陽が、太陽神スーリヤが。(男性単数主格)
  • भयात् (bhayāt) - 畏れから。(三度目の繰り返し)
  • इन्द्रः (indraḥ) - 雷霆神インドラが。(男性単数主格)
  • च (ca) - と、そして。(接続詞)
  • वायुः (vāyuḥ) - 風が、風神ヴァーユが。(男性単数主格)
  • च (ca) - と、そして。(接続詞)
  • मृत्युः (mṛtyuḥ) - 死が、死神ヤマが。(男性単数主格)
  • धावति (dhāvati) - 疾走する、駆ける。(√dhāv「走る」、現在法3人称単数)
  • पञ्चमः (pañcamaḥ) - 第五の。(序数詞、男性単数主格)

解説:
前節で示された「振り上げられし雷のごとき、大いなる畏怖」という宇宙の根源力が、この第3節において、宇宙の秩序を司る壮大な具体例をもって解き明かされます。これは、私たちが力と権威の象徴として仰ぎ見る神々でさえも、より高次の絶対的な法則の前では、その役目を果たすべく駆り立てられる存在に過ぎないという、深遠な宇宙観を提示するものです。

この詩節の力強さは、その構造自体にあります。「भयात् (bhayāt) - その畏れゆえに」という句が三度にわたって繰り返されることで、宇宙のあらゆる現象の根底に、この根源的な「畏れ」、すなわち絶対法則への畏敬が脈打っていることが、読者の心に深く刻み込まれます。この表現は単なる修辞ではなく、宇宙の森厳な秩序を体感させるための音律的な装置なのです。事実、ほぼ同じ内容の詩句が『タイッティリーヤ・ウパニシャッド』(2.8.1) にも見られ、この思想がウパニシャッド哲学においていかに中心的であったかを示しています。

ここで列挙される神格の選択と配列は、極めて象徴的です。まず、अग्नि (agni)「火」とसूर्य (sūrya)「太陽」が挙げられます。両者は宇宙における「熱」と「光」の根源であり、万物を生成し、照らし出す力を象徴します。次に、इन्द्र (indra)「インドラ」とवायु (vāyu)「風」が続きます。インドラはヴェーダ時代における神々の王であり、雷霆を振るう「力」の象徴です。風神ヴァーユは、宇宙に遍満する「動き」と生命力そのものを表します。光、熱、力、動き。これらは世界を構成する基本的なエネルギーです。

そして最後に、この四つの力の後に「मृत्युः पञ्चमः (mṛtyuḥ pañcamaḥ) - 第五の死」が登場します。この「第五の」という表現は、死が単に生命活動の停止ではなく、前の四つの根源力を統べる宇宙法則の最終的な執行者であることを示唆しています。このウパニシャッドの語り手である死神ヤマ自身でさえも、この絶対法則の前では、その役目を果たさざるを得ないのです。

特筆すべきは、死の働きを表す動詞が「धावति (dhāvati) - 疾走する」であることです。これは、死が静的な終焉ではなく、宇宙的なリズムの中で絶えず活動し、追い立てるダイナミックな力であることを示しています。火が燃え、太陽が輝き、インドラが力を振るい、風が吹くのと同じように、死もまた、ブラフマンという絶対実在の定めた秩序に従い、その役目を寸分の狂いもなく「疾走」しているのです。

この詩節は、ヴェーダ的な多神教の世界観を超越し、すべての神々や自然現象を支配する、唯一にして絶対的な実在の権威を確立します。そして、その畏るべき宇宙法則の根源と、自己の本質が同一であると悟ることこそが、ナチケータが求める「死を超えた境地」への道であることを、力強く示唆しているのです。この厳格な秩序への畏敬の念は、探求者を真理へと向かわせる原動力となります。

第2篇 第3章 第4節

इह चेदशकद्बोद्धुं प्राक्षरीरस्य विस्रसः ।
ततः सर्गेषु लोकेषु शरीरत्वाय कल्पते ॥ २.३.४॥
iha cedaśakadboddhuṃ prākśarīrasya visrasaḥ |
tataḥ sargeṣu lokeṣu śarīratvāya kalpate || 2.3.4||
もしこの世において、肉体が崩れ落ちる前にこれを悟ることができなければ、
その者は、創造の諸世界において、再び肉体を纏うべく定められる。

逐語訳:

  • इह (iha) - ここで、この世において(副詞)
  • चेत् (cet) - もし~ならば(条件を表す不変化詞)
  • अशकत् (aśakat) - (もし~)できたなら(√śak「できる」、アオリスト3人称単数)。詩の文脈上、否定的な帰結(輪廻)が続くため、「もし(悟ることが)できなかったならば」という含意で解釈されます。
  • बोद्धुम् (boddhum) - 悟ること、理解すること(√budh「覚醒する、知る」の不定詞)
  • प्राक् (prāk) - ~の前に(前置詞、奪格を支配)
  • शरीरस्य विस्रसः (śarīrasya visrasaḥ) - 身体の崩壊よりも前に(śarīra「身体」の属格 + visras「崩壊」の奪格)
  • ततः (tataḥ) - そのことから、その結果として(副詞)
  • सर्गेषु लोकेषु (sargeṣu lokeṣu) - 諸々の創造の世界において(sarga「創造」とloka「世界」の複数処格)
  • शरीरत्वाय (śarīratvāya) - 肉体を纏うために(śarīratva「身体性」の中性単数与格、目的を表す)
  • कल्पते (kalpate) - 定められる、適合する(√kḷp, 現在法3人称単数アートマネーパダ)

解説:
前節までで示された、宇宙を支配する絶対的な法則は、個人の魂の運命にも厳格に適用されます。この第4節は、その壮大な宇宙観から、探求者個人の解脱という課題へと視点を転換させ、その緊急性を突きつける厳粛な真実の教えです。死神ヤマは、今この瞬間を生きる私たち一人ひとりに対し、今生で真理を悟ることの決定的な重要性を、揺るぎない言葉で示します。

詩の前半は、人間存在に与えられた絶好の機会と、その時間的制約を明確にしています。「इह (iha) - ここで」という一語は、私たちが肉体を持ち、意識的に探求できる、この人間としての生を指し示します。この限られた生の中で、私たちは「बोद्धुम् (boddhum) - 悟ること」、すなわち、宇宙の根源であるブラフマンと自己の本質が一つであるという真理を、直観によって体得する機会を与えられています。しかし、その機会には「प्राक् शरीरस्य विस्रसः (prāk śarīrasya visrasaḥ) - 肉体が崩れ落ちる前に」という、逃れられない期限が設定されています。विस्रस (visrasa) は「崩壊」「解体」を意味し、死を感傷的にではなく、物質的な身体の不可避な終焉として、ありのままに捉えています。この詩句は、人間が有限の器である身体を通じてのみ、無限の真理に到達できるという、存在の逆説的な特権と責任を私たちに気づかせます。

もし、この貴重な機会を逸してしまったなら、どうなるのでしょうか。詩の後半は、その帰結を冷徹に述べます。「ततः सर्गेषु लोकेषु शरीरत्वाय कल्पते (tataḥ sargeṣu lokeṣu śarīratvāya kalpate)」—その者は、創造の諸世界において、再び肉体を纏うべく定められる。सर्ग (sarga) は「創造」、लोक (loka) は「世界」を意味し、これは魂が再びサンサーラ(輪廻)のサイクルへと投じられることを示します。そのサイクルには、人間界だけでなく、神々の世界から動物界に至るまで、無数の存在の次元が含まれています。ここで重要なのは कल्पते (kalpate)「定められる」という言葉です。これは、単に「再び生まれる」という事実以上の、宇宙の法則によってそのように運命づけられるという、抗いがたい必然性の響きを持っています。

この教えは、輪廻を罰として捉えるものではありません。むしろ、真理を悟るという究極の目的を達成できなかった魂に、再び学びと成長の機会が与えられる、宇宙の慈悲深い仕組みとも解釈できます。しかし、それと同時に、理性と意志をもって解脱を目指すことができる人間としての生が、いかに稀で貴重な機会であるかを、この詩は力強く訴えかけています。この詩節は、私たちに日々の営みの中に埋没することなく、今この瞬間の重要性を深く認識し、真理の探求へと向かうよう促す、力強い警告なのです。死は単なる終わりではなく、この世での機会の終了であり、悟りを得ていなければ、それは新たな束縛の始まりとなるのです。

第2篇 第3章 第5節

यथाऽऽदर्शे तथाऽऽत्मनि यथा स्वप्ने तथा पितृलोके ।
यथाऽप्सु परीव ददृशे तथा गन्धर्वलोके
छायातपयोरिव ब्रह्मलोके ॥ २.३.५॥
yathā''darśe tathā''tmani yathā svapne tathā pitṛloke |
yathā'psu parīva dadṛśe tathā gandharvaloke
chāyātapayoriva brahmaloke || 2.3.5||
鏡に映るがごとく、清められた自己の内に。
夢に見るがごとく、祖霊の世界に。
水面におぼろげに見ゆるがごとく、ガンダルヴァの世界に。
そして光と影のごとく鮮やかに、ブラフマーの世界に。

逐語訳:

  • यथा (yathā) - ~のように(関係副詞)
  • आदर्शे (ādarśe) - 鏡において(ādarśa、男性単数処格)
  • तथा (tathā) - そのように(指示副詞)
  • आत्मनि (ātmani) - 自己の内に、清められた理性(ブッディ)において(ātman、男性単数処格。ここでは個人の内なる認識能力を指す)
  • यथा (yathā) - ~のように
  • स्वप्ने (svapne) - 夢において(svapna、男性単数処格)
  • तथा (tathā) - そのように
  • पितृलोके (pitṛloke) - 祖霊の世界において(pitṛloka、男性単数処格)
  • यथा (yathā) - ~のように
  • अप्सु (apsu) - 水において(ap、女性複数処格)
  • परि इव ददृशे (pari iva dadṛśe) - あたかも周囲におぼろげに見られるように(pari: 周囲に + iva: ~のように + dadṛśe: 見られる √dṛś 完了法3人称単数中動態)
  • तथा (tathā) - そのように
  • गन्धर्वलोके (gandharvaloke) - ガンダルヴァの世界において(gandharvaloka、男性単数処格)
  • छाया-आतपयोः (chāyā-ātapayoḥ) - 影と日なたの(chāyātapa、複合語の双数属格)
  • इव (iva) - ~のように
  • ब्रह्मलोके (brahmaloke) - ブラフマーの世界において(brahmaloka、男性単数処格)

解説:
前節で「肉体が崩れ落ちる前に、この世で真理を悟ること」の緊急性が説かれました。この第5節は、その教えを補強するために、真理であるアートマンの認識が、様々な存在の世界において、どれほど明瞭に、あるいは不明瞭に現れるかを、一連の美しい比喩をもって描き出します。これは、私たちがいるこの人間界こそが、解脱を目指す上でいかに貴重な舞台であるかを明らかにするための、深遠な比較考察です。

この詩は、四つの世界における真理認識の「解像度」を比較します。

第一に、「यथाऽऽदर्शे तथाऽऽत्मनि (yathā''darśe tathā''tmani)」—鏡に映るがごとく、清められた自己の内に。आत्मनि (ātmani)は、ここではヨーガの実践などによって浄化され、一点に集中した理性(ブッディ)を指します。人間として生きるこの世界において、清められた理性を通して真理を観る時、その姿は塵のない鏡に映る像のように、極めて明瞭であると説かれます。

第二に、「यथा स्वप्ने तथा पितृलोके (yathā svapne tathā pitṛloke)」—夢に見るがごとく、祖霊の世界に。पितृलोक (pitṛloka)は、死後に祖霊たちが住まう世界です。ここでの認識は夢のようです。夢は、目覚めている時の経験や記憶の断片から構成されるため、像は歪み、明瞭さを欠きます。これは、過去の行い(カルマ)の印象に影響され、真理が純粋な形では認識できない状態を象徴しています。

第三に、「यथाऽप्सु परीव ददृशे तथा गन्धर्वलोके (yathā'psu parīva dadṛśe tathā gandharvaloke)」—水面におぼろげに見ゆるがごとく、ガンダルヴァの世界に。गन्धर्वलोक (gandharvaloka)は、音楽や芸術を司る、快楽に満ちた天人の世界です。ここでの真理認識は、風に揺れる水面に映る姿のように、不安定でおぼろげです。感覚的な喜びや美は豊かですが、その輝きの中で、不変なる実在をはっきりと捉えることは困難です。

そして最後に、最高の認識状態が示されます。「छायातपयोरिव ब्रह्मलोके (chāyātapayoriva brahmaloke)」—光と影のごとく鮮やかに、ブラフマーの世界に。ब्रह्मलोक (brahmaloka)は創造神ブラフマーの住まう、輪廻のサイクルにおける最高の世界です。ここでは真理と非真理、実在と非実在の区別が、光と影のように絶対的に明確に認識されます。これは、あらゆる迷いが晴れた、最も明晰な認識の境地です。

この詩節が伝える最も重要なメッセージは、これらの比較の中にあります。最高の認識が得られるブラフマーの世界を除けば、真理を最も明瞭に認識できる場所は、天界であるガンダルヴァの世界や祖霊の世界ではなく、他ならぬこの人間界であるということです。前節の「この世で悟れ」という言葉は、私たちに与えられたこの理性が、解脱のための最高の道具となりうることを示す、力強い励ましなのです。天上の快楽は、むしろ真理から目を逸らさせる可能性があります。この詩は、はかない人間の生という舞台が持つ計り知れない価値と、そこに秘められた可能性を、私たちに深く気づかせてくれます。

第2篇 第3章 第6節

इन्द्रियाणां पृथग्भावमुदयास्तमयौ च यत् ।
पृथगुत्पद्यमानानां मत्वा धीरो न शोचति ॥ २.३.६॥
indriyāṇāṃ pṛthagbhāvamudayāstamayau ca yat |
pṛthagutpadyamānānāṃ matvā dhīro na śocati || 2.3.6||
感覚器官の、その別なるありようと、その生起と消滅を。
それらが(真我から)離れて生まれることを悟った賢者は、憂うことがない。

逐語訳:

  • इन्द्रियाणाम् (indriyāṇām) - 感覚器官の(indriya、中性複数属格)
  • पृथग्भावम् (pṛthagbhāvam) - 別個なるありようを、分離した本性を(pṛthak「別々に」+ bhāva「ありよう、本性」、男性単数対格)
  • उदयास्तमयौ (udayāstamayau) - 生起と消滅(という二つの状態)を(udaya「生起」+ astamaya「消滅」、男性双数対格)
  • च (ca) - そして(接続詞)
  • यत् (yat) - それが~であるということを(接続詞的に機能)
  • पृथक् उत्पद्यमानानाम् (pṛthag utpadyamānānām) - (真我とは)別個に生起する(感覚器官)の。(pṛthak「別々に」+ utpadyamāna「生起する」、現在分詞複数属格)
  • मत्वा (matvā) - 悟って、深く理解して(√man「思考する、知る」、絶対分詞)
  • धीरः (dhīraḥ) - 賢者は、不動の知性を持つ者は(男性単数主格)
  • न (na) - ~ない(否定詞)
  • शोचति (śocati) - 憂う、悲しむ(√śuc「悲しむ」、現在法3人称単数)

解説:
前節では、真理であるアートマンを最も明瞭に認識できる場所は、天界でも祖霊の世界でもなく、浄化された理性を備えたこの人間界であると説かれました。それはあたかも、塵ひとつない鏡に映る像のように鮮明であると。この第6節は、その教えを引き継ぎ、ではその「清められた鏡」である理性で、一体何を観るべきなのかという、実践的な問いに答えるものです。死神ヤマは、解脱へと至るための深遠な洞察の核心を、ここに示します。

この詩が教える第一の洞察は、「इन्द्रियाणां पृथग्भावम् (indriyāṇām pṛthagbhāvam) - 感覚器官の、その別なるありよう」を悟ることにあります。पृथग्भाव (pṛthagbhāva) は、単に眼や耳が別々の機能を持つということだけを意味するのではありません。より深く、それら全ての感覚器官が、自己の真実の本質であるアートマン(真我)とは全く「別個」のものであるという、根源的な分離の事実を指し示しています。アートマンは永遠にして不変の「観る者」であり、感覚器官は移ろいゆく「観るための道具」に過ぎません。この両者の本質的な違いを識別することこそ、智慧の第一歩です。

第二の洞察は、それらの感覚器官の「उदयास्तमयौ (udayāstamayau) - 生起と消滅」を観ることです。感覚による知覚は、常に現れては消える、一時的な現象です。心地よい音色も、不快な光景も、必ず生じ、そして過ぎ去っていきます。この無常の性質は、常住にして不変なるアートマンとはまったく対照的です。賢者 धीरः (dhīraḥ) とは、この絶え間ない変化の奔流の背後に、それによって決して濡れることのない、不動の観照者としての自己が存在することを、直観した人のことです。

この二つの洞察—アートマンからの「分離性」と、現象としての「無常性」—を「मत्वा (matvā) - 悟って」、賢者は「न शोचति (na śocati) - 憂うことがない」境地に至ります。なぜなら、人間の苦しみや憂いの根源は、移ろいゆく感覚体験や、滅びゆく肉体を「私」あるいは「私のもの」と誤って同一視することにあるからです。この誤解が解かれたとき、心は自由になります。感覚の快楽が去っても過度に悲しまず、苦痛が訪れても絶望しません。なぜなら、それらが自己の本質を何ら傷つけることのない、ただ過ぎ去る雲のようなものであることを知っているからです。

この教えは、感覚を否定し、禁欲的に抑圧することを勧めているのではありません。むしろ、感覚の真の性質をありのままに観ることによって、感覚の奴隷となることから解放され、真の主(あるじ)としての自由を回復することを説くのです。それは、感覚という荒馬を殺すのではなく、その性質を熟知した上で見事に乗りこなす、優れた御者の智慧に他なりません。この深遠な識別知こそが、私たちを日々の経験の浮き沈みから解放し、内なる永遠の平安へと導く鍵なのです。

第2篇 第3章 第7節

इन्द्रियेभ्यः परं मनो मनसः सत्त्वमुत्तमम् ।
सत्त्वादधि महानात्मा महतोऽव्यक्तमुत्तमम् ॥ २.३.७॥
indriyebhyaḥ paraṃ mano manasaḥ sattvamuttamam |
sattvādadhi mahānātmā mahato'vyaktamuttamam || 2.3.7||
感覚器官を超えて心はあり、心を超えては最上の理性。
理性を超えて大いなる自己はあり、大いなる自己を超えて未顕現なるものが最上である。

逐語訳:

  • इन्द्रियेभ्यः (indriyebhyaḥ) - 感覚器官よりも(indriya、中性複数奪格)
  • परम् (param) - 上位にある、超えている(中性単数主格)
  • मनः (manaḥ) - 心、思考作用(manas、中性単数主格)
  • मनसः (manasaḥ) - 心よりも(manas、中性単数奪格)
  • सत्त्वम् (sattvam) - 理性(ブッディ)の本質、純粋な知性(sattva、中性単数主格)
  • उत्तमम् (uttamam) - 最も優れた、最高の(中性単数主格)
  • सत्त्वात् (sattvāt) - 理性(の本質)よりも(sattva、中性単数奪格)
  • अधि (adhi) - ~の上に、~を超えて(副詞、奪格と共に)
  • महान् आत्मा (mahān ātmā) - 大いなる自己、偉大なるアートマン(mahat「偉大な」+ ātman「自己」、男性単数主格)
  • महतः (mahataḥ) - 大いなる自己よりも(mahat、男性単数奪格)
  • अव्यक्तम् (avyaktam) - 未顕現なるもの、未だ顕現せざるもの(中性単数主格)
  • उत्तमम् (uttamam) - 最も優れた、最高の(中性単数主格)

解説:
前節において、感覚器官とその働きが真我とは異なる無常のものであると見極める智慧が、賢者を憂いから解放すると説かれました。この第7節は、その洞察をさらに奥深くへと導き、自己の本質へと至るための、壮大な意識の階層構造を明らかにします。これは、探求者が内なる世界を旅するための、極めて重要で実践的な「地図」であると言えます。

詩は、私たちに最も身近な意識の領域から始まります。「इन्द्रियेभ्यः परं मनः (indriyebhyaḥ paraṃ manaḥ)」—感覚器官を超えて心はあります。眼や耳などの感覚器官は、外界からの情報を受け取る窓に過ぎません。それらの断片的な情報を統合し、思考や感情として意味づける働きをするのが、心(マナス)です。しかし、この心は絶えず移ろい、欲望や記憶に動かされ、ひとつの対象に留まることができません。

その不安定な心を統御し、正しい方向へと導く、より優れた力が存在します。「मनसः सत्त्वमुत्तमम् (manasaḥ sattvamuttamam)」—心を超えては最上の理性。ここでいうसत्त्व (sattva)は、ヨーガ哲学で説かれる三つの性質(グナ)の一つである純粋性を指すと同時に、その純粋性に満ちた識別知「ブッディ」を意味します。この澄み切った理性こそが、一時的な快・不快に惑わされず、永遠なるものと移ろいゆくものとを識別する力を持っています。उत्तमम् (uttamam)「最も優れた」という言葉は、このブッディが解脱を目指す上で不可欠な、最高の道具であることを強調しています。

しかし、探求の旅は個人の理性の領域で終わりません。詩はさらに深遠な次元へと進みます。「सत्त्वादधि महानात्मा (sattvādadhi mahānātmā)」—理性を超えて大いなる自己はあります。महान् आत्मा (mahān ātmā)(大いなる自己)とは、個人の理性を超えた、宇宙的な知性の次元です。これはサーーンキヤ哲学の「マハト」(偉大なるもの)に相当し、全ての個別の生命に遍在する宇宙的自我、あるいは「ヒラニヤガルバ」(黄金の胎児)とも呼ばれる存在の階層です。個の意識が、大海の一滴としての自覚から、大海そのものの意識へと拡大していく段階です。

そして、その宇宙的知性の根源にすら、究極の基盤が存在します。「महतोऽव्यक्तमुत्तमम् (mahato'vyaktamuttamam)」—大いなる自己を超えて未顕現なるものが最上である。अव्यक्त (avyakta)とは、あらゆる名前や形、属性が生起する以前の、未だ顕現していない純粋な潜在状態です。それは、全ての現象世界を生み出す、いわば宇宙の「子宮」であり、時間も空間も超えた静寂の源泉です。

この詩が示す「感覚器官 → 心 → 理性 → 大いなる自己 → 未顕現なるもの」という階層は、単なる哲学的な思弁ではありません。それは、瞑想を通して意識の源流へと遡っていく、具体的な実践の道筋そのものです。外へと向かう意識を内に向け、理性の光で心を静め、個我の殻を破って宇宙的意識に溶け込み、ついには全ての創造の起源である静寂へと還っていく。この内なる宇宙の地図を手にしたとき、私たちの探求は、確かな歩みへと変わるのです。

第2篇 第3章 第8節

अव्यक्तात्तु परः पुरुषो व्यापकोऽलिङ्ग एव च ।
यं ज्ञात्वा मुच्यते जन्तुरमृतत्वं च गच्छति ॥ २.३.८॥
avyaktāttu paraḥ puruṣo vyāpako'liṅga eva ca |
yaṃ jñātvā mucyate janturamṛtatvaṃ ca gacchati || 2.3.8||
未顕現なるものを超えて、しかし、至高のプルシャは在る。遍く満ち、そして、まさしく特徴なきものとして。
これを悟った者は解放され、不滅の境地へと至る。

逐語訳:

  • अव्यक्तात् (avyaktāt) - 未顕現なるものよりも(avyakta、中性単数奪格)
  • तु (tu) - しかし、されど(接続詞・強調詞)
  • परः (paraḥ) - 超越した、最高の(para、男性単数主格)
  • पुरुषः (puruṣaḥ) - プルシャ、至高存在、純粋意識(男性単数主格)
  • व्यापकः (vyāpakaḥ) - 遍在する、遍く満ちる(形容詞、男性単数主格)
  • अलिङ्गः (aliṅgaḥ) - 特徴なき、無相の(a-否定接頭辞 + liṅga「特徴、標識」、男性単数主格)
  • एव (eva) - まさに、実に(強調詞)
  • च (ca) - そして(接続詞)
  • यम् (yam) - その(プルシャ)を(関係代名詞、男性単数対格)
  • ज्ञात्वा (jñātvā) - 悟って、知って(√jñā「知る」、絶対分詞)
  • मुच्यते (mucyate) - 解放される(√muc「解放する」、現在法3人称単数受動態)
  • जन्तुः (jantuḥ) - 生まれし者、輪廻する存在(男性単数主格)
  • अमृतत्वम् (amṛtatvam) - 不滅性、不死の境地(中性単数対格)
  • च (ca) - そして
  • गच्छति (gacchati) - 至る、到達する(√gam「行く」、現在法3人称単数)

解説:
前節では、内なる探求の道筋が「感覚」から始まり、その究極の基盤として、万物が生じる以前の潜在状態である「未顕現なるもの」अव्यक्त (avyakta)が示されました。それはあたかも、探求の旅の終着点であるかのように説かれました。しかしこの第8節は、「तु (tu) - しかし」という力強い一語をもって、その頂点をさえ超える、真の究極実在を明らかにします。これは、ウパニシャッドの叡智が到達した、最も深遠な境地への扉です。

その究極の実在は、「पुरुषः (puruṣaḥ) - プルシャ」と呼ばれます。これは、単なる神格や霊的存在を意味する言葉ではありません。プルシャとは、インド哲学における純粋意識そのものであり、あらゆる現象世界を生み出し、維持し、そして帰滅させる根源でありながら、それら一切の変化に影響されることのない、永遠の観照者です。前節で示された「未顕現なるもの」が宇宙の「子宮」であるならば、プルシャはその子宮に宿ることも、そこから生まれることもない、それら全てを超越した絶対的な「存在」そのものです。

この至高存在の本質は、二つの言葉で示されます。第一に「व्यापकः (vyāpakaḥ) - 遍在する」。プルシャは、どこか特定の場所や天上に存在するのではなく、空間と時間を超えて、ありとあらゆるものに遍く満ちています。それは、大海とその無数の波の関係のように、全ての個物はプルシャの現れであり、プルシャから離れて存在するものは何一つありません。第二に「अलिङ्गः एव च (aliṅgaḥ eva ca) - そして、まさしく特徴なきものとして」。लिङ्ग (liṅga)とは、識別を可能にする「特徴」や「標識」を意味します。プルシャは、大きさ、形、色、性別、善悪といった、私たちの思考が捉えることのできるいかなる属性も持ちません。それは、あらゆる限定や定義を超越した、純粋で無限の存在なのです。

そして詩の後半は、この究極の真理を「知る」ことの帰結を説きます。「यं ज्ञात्वा मुच्यते जन्तुः (yaṃ jñātvā mucyate jantuḥ) - これを悟った者は解放される」。ここでいうज्ञात्वा (jñātvā)「悟る」とは、書物による知識や知的な理解ではありません。それは、自己の最も内なる本質が、この遍在し特徴なきプルシャと寸分違わぬものであるという、存在そのものによる直接的な体験です。この悟りによって、जन्तुः (jantuḥ)、すなわち「生まれし者」、生と死のサイクルに縛られ輪廻を繰り返す個我は、その根源的な無知と束縛から「मुच्यते (mucyate) - 解放される」のです。

最終的に、その者は「अमृतत्वं च गच्छति (amṛtatvaṃ ca gacchati) - そして不滅の境地へと至る」のです。この「不滅性」अमृतत्वम् (amṛtatvam)とは、肉体が永遠に生き続けることではありません。それは、生や死という対立概念そのものが意味をなさない、時間と変化の世界を超えた永遠の次元に、自己の本質が安らうことを意味します。ナチケータが死神ヤマに問いかけた「人が死んだ後、存在はあるのか、ないのか」という根源的な問いへの、これが最終的な答えです。死を超越する道は、死なない肉体を求めることではなく、もとより生も死も経験したことのない、永遠のプルシャとして自己を悟ることにあるのです。この詩節は、人間の探求が到達しうる、最も荘厳で平安に満ちたゴールを指し示しています。

第2篇 第3章 第9節

न संदृशे तिष्ठति रूपमस्य
न चक्षुषा पश्यति कश्चनैनम् ।
हृदा मनीषा मनसाऽभिक्लृप्तो
य एतद्विदुरमृतास्ते भवन्ति ॥ २.३.९॥
na saṃdṛśe tiṣṭhati rūpamasya
na cakṣuṣā paśyati kaścanaınam |
hṛdā manīṣā manasā'bhikḷpto
ya etadviduramṛtāste bhavanti || 2.3.9||
その御姿は、視界に留まることなく、
誰ひとりとして、眼でこれを見ることはない。
霊の中心と、智慧と、純粋な思惟によってこそ、それは明かされる。
これを悟りし者たちは、不滅となる。

逐語訳:

  • न (na) - ~ない(否定詞)
  • संदृशे (saṃdṛśe) - 視界に、見える範囲に(名詞 saṃdṛś の単数与格、ここでは処格的に使用)
  • तिष्ठति (tiṣṭhati) - 留まる、存在する(√sthā「立つ」、現在法3人称単数)
  • रूपम् (rūpam) - 形、姿(中性単数主格)
  • अस्य (asya) - その(プルシャ)の(代名詞 idam の男性単数属格)
  • न (na) - ~ない(否定詞)
  • चक्षुषा (cakṣuṣā) - 眼によって(cakṣus、中性単数具格)
  • पश्यति (paśyati) - 見る(√paś「見る」、現在法3人称単数)
  • कश्चन (kaścana) - 誰ひとりとして(不定代名詞、男性単数主格、naと共に強い否定を表す)
  • एनम् (enam) - これを、この(プルシャ)を(代名詞、男性単数対格)
  • हृदा (hṛdā) - 霊的中枢(ハート)によって(hṛd、中性単数具格)
  • मनीषा (manīṣā) - 智慧によって、深い洞察によって(女性単数具格)
  • मनसा (manasā) - (純化された)精神によって、思惟によって(manas、中性単数具格)
  • अभिक्लृप्तः (abhikḷptaḥ) - 明らかにされる、把握される(√kḷp「形成する」の過去受動分詞 + abhi、男性単数主格)
  • ये (ye) - (~する)人々は(関係代名詞 yad の男性複数主格)
  • एतत् (etat) - これを(代名詞、中性単数対格)
  • विदुः (viduḥ) - 悟る、知る(√vid「知る」、完了法3人称複数)
  • अमृताः (amṛtāḥ) - 不滅の者たち(形容詞、男性複数主格)
  • ते (te) - 彼らは(代名詞 tad の男性複数主格)
  • भवन्ति (bhavanti) - ~となる(√bhū「なる」、現在法3人称複数)

解説:
前節で、万物の根源である至高のプルシャが、遍く満ちながらも「अलिङ्ग (aliṅga) - 特徴なきもの」であると説かれました。この第9節は、その深遠な真理をさらに推し進め、「では、特徴のないものを、一体どのようにして知ることができるのか」という、探求者にとって最も切実な問いに答えるものです。ここでは、感覚的認識の限界と、それを超えた内なる認識の道筋が、鮮やかな対比をもって示されます。

詩の前半は、断固とした二重の否定によって、私たちの通常の認識方法が全く役に立たないことを宣言します。「न संदृशे तिष्ठति रूपमस्य (na saṃdṛśe tiṣṭhati rūpamasya)」—その御姿は、視界に留まることはありません。これは、プルシャが私たちの眼が捉えることのできる、いかなる形や姿も持たないことを意味します。続く「न चक्षुषा पश्यति कश्चनैनम् (na cakṣuṣā paśyati kaścanainam)」—誰ひとりとして、眼でこれを見ることはない、という言葉は、この真実を普遍的な法則として確立します。どれほど鋭い視力を持とうとも、どれほど優れた観察者であろうとも、肉眼という道具では、この無相の実在に触れることは不可能なのです。これは、真理の探求が、外なる世界への探査ではなく、内なる次元への回帰であることを力強く示唆しています。

しかし、この完全な否定は、絶望へと導くものではありません。むしろ、真の認識の扉を開くための、不可欠な序章です。詩の後半は、輝かしい肯定へと転じ、その扉を開く鍵が何であるかを明かします。「हृदा मनीषा मनसाऽभिक्लृप्तः (hṛdā manīṣā manasā'bhikḷptaḥ)」—霊の中心と、智慧と、純粋な思惟によってこそ、それは明かされます。ここに挙げられた三つの道具は、内なる認識の三位一体です。

  • हृदा (hṛdā) - 霊の中心によって: これは感情の宿る心臓ではなく、霊的な直観と叡智が湧き出る、自己の最も奥深い聖所を指します。真理は、まずこの場所で、言葉を超えた閃きとして感受されます。
  • मनीषा (manīṣā) - 智慧によって: これは、移ろいゆく現象と永遠の実在とを識別する、純粋な知性の働きです。हृद्(hṛd)で感受された直観を、誤りなく見極める光です。
  • मनसा (manasā) - 純粋な思惟によって: これは、欲望や雑念に乱された心(マナス)ではなく、先の二つによって浄化され、一点に集中された精神作用です。この澄み切った精神の鏡に、プルシャの真の姿が反映され、「अभिक्लृप्तः (abhikḷptaḥ) - 明らかにされる」のです。

このようにしてプルシャを悟った者の到達する境地を、詩は荘厳に宣言します。「य एतद्विदुरमृतास्ते भवन्ति (ya etadviduramṛtāste bhavanti)」—これを悟りし者たちは、不滅となります。ここで使われる「विदुः (viduḥ) - 悟る」という動詞は完了形であり、一度得られたならば失われることのない、確固たる体験知を示します。その結果もたらされる「不滅」とは、肉体の永続ではありません。それは、もとより生も死も経験したことのない、時間と変化を超越した自己の本質に目覚めることです。

この詩節は、感覚の世界に閉じ込められた私たちに、全く異なる認識の次元が存在することを教えます。それは、外を見る眼を閉じ、内なる智慧の眼を開くことによってのみ到達できる世界です。そしてその先に待つものこそ、ナチケータが命を懸けて求めた、死の恐怖からの完全な解放、すなわち永遠の平安と不滅の境地なのです。

第2篇 第3章 第10節

यदा पञ्चावतिष्ठन्ते ज्ञानानि मनसा सह ।
बुद्धिश्च न विचेष्टते तामाहुः परमां गतिम् ॥ २.३.१०॥
yadā pañcāvatiṣṭhante jñānāni manasā saha |
buddhiśca na viceṣṭate tāmāhuḥ paramāṃ gatim || 2.3.10||
五つの認識作用が、心と共に静止し、
そして理性もまた揺れ動かぬとき、
それをこそ、至高の境地と賢者らは言う。

逐語訳:

  • यदा (yadā) - ~の時に(関係副詞)
  • पञ्च (pañca) - 五つの(数詞)
  • अवतिष्ठन्ते (avatiṣṭhante) - 静止する、安らう(√sthā + ava、現在法3人称複数)
  • ज्ञानानि (jñānāni) - 認識作用、認識器官(jñāna、中性複数主格)
  • मनसा (manasā) - 心と(manas、中性単数具格)
  • सह (saha) - 共に(不変化詞、具格を支配)
  • बुद्धिः (buddhiḥ) - 理性、識別知(女性単数主格)
  • च (ca) - そして、~もまた(接続詞)
  • न (na) - ~ない(否定詞)
  • विचेष्टते (viceṣṭate) - 揺れ動く、活動する(√ceṣṭ + vi、現在法3人称単数)
  • ताम् (tām) - それを、その状態を(代名詞 tad の女性単数対格)
  • आहुः (āhuḥ) - (賢者らは)言う、呼ぶ(√ah、完了法3人称複数)
  • परमाम् (paramām) - 最高の、至上の(形容詞、女性単数対格)
  • गतिम् (gatim) - 境地、道、到達点(名詞、女性単数対格)

解説:
前節において、至高のプルシャは肉眼では見えず、「霊の中心、智慧、純粋な思惟」によってのみ明らかにされると説かれました。では、その内なる認識が可能となるのは、一体どのような精神状態においてなのでしょうか。この第10節は、その問いに答えるべく、瞑想の極致ともいえる意識の状態を、具体的かつ詩的に描き出しています。これは、哲学的な教えから、ヨーガの実践的な心境へと深く踏み込む重要な一節です。

詩はまず、意識の第一段階の静寂を描きます。「यदा पञ्च ज्ञानानि मनसा सह अवतिष्ठन्ते (yadā pañca jñānāni manasā saha avatiṣṭhante)」—五つの認識作用が、心と共に静止する時。पञ्च ज्ञानानि (pañca jñānāni)とは、眼・耳・鼻・舌・皮膚という五つの認識器官(ज्ञान-इन्द्रिय jñāna-indriya)が生み出す、視覚や聴覚などの認識作用そのものを指します。通常、これらの感覚は絶えず外界の刺激を追い求め、私たちの意識を外へと散漫にさせます。しかし、ここで描かれる境地では、感覚の働きは完全に内へと収められ、静かに安らっています。これは、ヨーガの八支則における第五段階「प्रत्याहार (pratyāhāra) - 制感」が成就した状態です。そして、感覚の働きが静まるにつれて、それらの情報をもとに思考や感情を紡ぎ出すमनस् (manas)(心)もまた、その絶え間ない活動を止め、深い静寂に包まれます。

しかし、探求はここで終わりません。詩はさらに深遠な静寂の次元を示します。「बुद्धिश्च न विचेष्टते (buddhiśca na viceṣṭate)」—そして理性もまた揺れ動かぬとき。感覚と心が静まっても、通常は「これは善、これは悪」「これは私、これは他者」といった二元的な分析・識別を行うबुद्धि (buddhi)(理性)は活動を続けています。この理性は、真理への道を照らす重要な灯火ですが、究極の境地においては、その光すらも源へと還り、その働きを止めます。विचेष्टते (viceṣṭate)という言葉が示唆するように、微細な判断や識別の「揺れ動き」さえも止んだとき、主観と客観、知る者と知られるものといった、あらゆる対立概念は消滅します。これは愚鈍な状態になるのではなく、分別知の限界を超越し、非二元的な真理が顕現するための、清浄な空間が生まれることを意味します。

この、あらゆる意識作用が完全に静止した状態を、古の賢者たちは至上のものとして讃えました。「तामाहुः परमां गतिम् (tāmāhuḥ paramāṃ gatim)」—それをこそ、至高の境地と賢者らは言います。परमा गति (paramā gati)とは、単なる「最高の状態」であるだけでなく、輪廻の旅路を終えた「究極の到達点」であり、魂が本来還るべき「至高の道」をも意味します。この完全なる静寂は、空虚な「無」ではありません。むしろ、それは全ての存在の源泉とつながり、無限の平安と叡智に満ちた、究極の「存在」そのものです。この静けさの中でこそ、前節で示された至高のプルシャが、思考の対象としてではなく、自己の最も内なる本質として、直接的に体験されるのです。次の節で初めて明かされる「ヨーガ」という言葉の、まさにその核心が、ここに美しく描き出されています。

第2篇 第3章 第11節

तां योगमिति मन्यन्ते स्थिरामिन्द्रियधारणाम् ।
अप्रमत्तस्तदा भवति योगो हि प्रभवाप्ययौ ॥ २.३.११॥
tāṃ yogamiti manyante sthirāmindriyadhāraṇām |
apramattastadā bhavati yogo hi prabhavāpyayau || 2.3.11||
その不動なる感覚の保持を、賢者らは「ヨーガ」と見なす。
そのとき、人は油断なくあるべきだ。ヨーガとは、現れてはまた消え去るものなれば。

逐語訳:

  • तां (tām) - それを、その状態を(代名詞 tad の女性単数対格)
  • योगम् इति (yogam iti) - ヨーガと(yoga、男性単数対格)して(iti、引用詞)
  • मन्यन्ते (manyante) - (賢者らは)見なす、考える(√man「思う」、現在法3人称複数アートマネーパダ)
  • स्थिराम् (sthirām) - 不動なる、安定した(形容詞、女性単数対格)
  • इन्द्रियधारणाम् (indriyadhāraṇām) - 感覚器官の保持を(indriya-dhāraṇā、女性単数対格)
  • अप्रमत्तः (apramattaḥ) - 油断なき、怠りなき(a-否定接頭辞 + pramatta「怠慢な」、男性単数主格)
  • तदा (tadā) - その時に(副詞)
  • भवति (bhavati) - (人は)あるべきだ、~となる(√bhū「なる」、現在法3人称単数)
  • योगः (yogaḥ) - ヨーガは(男性単数主格)
  • हि (hi) - まことに、なぜなら(強調・理由の不変化詞)
  • प्रभवाप्ययौ (prabhavāpyayau) - 生起と消滅である、出現と消滅を持つ(prabhava-apyaya「生起と消滅」、男性双数主格)

解説:
前節で、感覚・心・理性の全ての働きが静止した「至高の境地」(परमा गति, paramā gati) が示されました。この第11節は、その神聖な静寂の状態に、初めて「ヨーガ」という名前を与え、その本質的な定義と、実践者が心すべき極めて重要な注意点を明かします。これは、ウパニシャッドの中でも最も明瞭にヨーガを定義する一節であり、インド思想史における記念碑的な言葉です。

詩の前半、「तां स्थिरामिन्द्रियधारणां योगमिति मन्यन्ते (tāṃ sthirāmindriyadhāraṇāṃ yogamiti manyante)」は、ヨーガの核心を見事に捉えています。「स्थिराम् इन्द्रियधारणाम् (sthirām indriyadhāraṇām)」とは、「不動なる感覚器官の保持」を意味します。ここでいう「保持」(धारणा, dhāraṇā) とは、外の世界へと絶えず流れ出ていく感覚のエネルギーを、その源へと引き戻し、固く保持することです。そして、その保持がもはや揺らぐことのない「不動」(स्थिरा, sthirā) の域に達したとき、それを賢者たちは「ヨーガ」と見なすのです。これは単なる忍耐や我慢ではなく、意識のベクトルが完全に内へと向き、完全な安定を達成した状態です。後にパタンジャリが『ヨーガ・スートラ』で説く「心の作用の止滅」という有名な定義の、源流がここにあります。

しかし、この詩の叡智は、定義に留まりません。後半の「अप्रमत्तस्तदा भवति योगो हि प्रभवाप्ययौ (apramattastadā bhavati yogo hi prabhavāpyayau)」は、その境地に達した者への、深く実践的な警告です。「अप्रमत्तः (apramattaḥ)」とは「油断なき」「怠りなき」という意味であり、この至高の境地においてこそ、最大の注意深さが求められると説きます。なぜなら、「योगो हि प्रभवाप्ययौ (yogo hi prabhavāpyayau)」—ヨーガとは、まさに出現し(प्रभव, prabhava)、そして消滅する(अप्यय, apyaya)性質のものだからです。

この言葉には二つの深遠な意味が込められています。第一に、どれほど深い瞑想状態も、永遠に続くものではないという現実です。その静寂や至福に執着し、それが失われることを恐れるならば、その執着こそが新たな苦しみと束縛の原因となります。真の探求者は、ヨーガの状態が現れたときに驕ることなく、それが去ったときに落胆することなく、ただ油断なき意識でその過程を観照し続けます。

第二に、この「生起と消滅」は、ヨーガの状態だけでなく、宇宙のあらゆる現象に共通する根本法則です。ヨーガとは、この生滅変化する世界を超越するための道でありながら、その道筋自体もまた、生滅の法則の中にあります。この逆説を理解し、現れては消えるヨーガの体験そのものにさえ執着しないとき、人は初めて、あらゆる生滅を超えた不変の実在、すなわちプルシャの本質に触れることができるのです。

この一節は、ヨーガを単なる神秘体験や精神統一の技術としてではなく、覚醒した意識と不断の注意深さを要求する、厳粛なる「道」として位置づけています。その教えは、究極の解放を目指す全ての探求者にとって、時を超えた指針となるでしょう。

第2篇 第3章 第12節

नैव वाचा न मनसा प्राप्तुं शक्यो न चक्षुषा ।
अस्तीति ब्रुवतोऽन्यत्र कथं तदुपलभ्यते ॥ २.३.१२॥
naiva vācā na manasā prāptuṃ śakyo na cakṣuṣā |
astīti bruvato'nyatra kathaṃ tadupalabhyate || 2.3.12||
言葉によっても、心によっても、また眼によっても、
これを捉えることは決してできぬ。
「それは在る」と語る者によらずして、他にどうして、
これが把握されようか。

逐語訳:

  • नैव (naiva) - 決して~ない (na evaの連声)
  • वाचा (vācā) - 言葉によって(vāc、女性単数具格)
  • न (na) - ~ない(否定詞)
  • मनसा (manasā) - 心(精神作用)によって(manas、中性単数具格)
  • प्राप्तुम् (prāptum) - 獲得するために、到達するために(√āp + pra、不定詞)
  • शक्यः (śakyaḥ) - 可能である(主語であるアートマン/プルシャを指すため男性単数主格)
  • न (na) - ~ない(否定詞)
  • चक्षुषा (cakṣuṣā) - 眼によって(cakṣus、中性単数具格)
  • अस्ति (asti) - それは在る、存在する(√as「ある」、現在法3人称単数)
  • इति (iti) - と(引用詞)
  • ब्रुवतः (bruvataḥ) - 語る者の(から)(√brū「語る」、現在分詞男性単数属格)
  • अन्यत्र (anyatra) - ~以外では、他のところでは(副詞)
  • कथम् (katham) - いかにして、どのように(疑問副詞)
  • तत् (tat) - それは(代名詞、中性単数主格)
  • उपलभ्यते (upalabhyate) - 把握される、得られる(√labh + upa「得る」、受動態現在法3人称単数)

解説:
前節において、ヨーガの境地そのものが「現れては消える」という生滅の法則のうちにあることが示されました。この教えは、私たちをさらに根源的な問いへと導きます。すなわち、変化する体験の向こう側にある、不変なる究極の実在そのものを、一体どのようにして把握すればよいのか、という問いです。この第12節は、その問いに対する、ウパニシャッド哲学の最も深遠な答えの一つを提示します。

詩の前半は、私たちの認識能力の限界を、容赦のない三重の否定をもって断言します。「नैव वाचा न मनसा प्राप्तुं शक्यो न चक्षुषा (naiva vācā na manasā prāptuṃ śakyo na cakṣuṣā)」—これは、私たちが頼りとする認識の三つの柱、すなわち言葉による定義、心による思考、そして眼による感覚的知覚の全てが、究極の実在の前では無力であることを意味します。なぜなら、これらはいずれも、認識する「主体」と認識される「客体」という二元的な世界の中でしか機能しないからです。しかし、私たちが探求するアートマン(真我)は、認識の対象となる「何か」ではありません。それは、あらゆる認識活動の根底にあり、それらを可能にしている「主体」そのものの本質だからです。外なる道具で、内なる本質を掴むことはできないのです。

この徹底的な否定は、探求者を絶望の淵に立たせるかのようです。しかし、それは全ての誤った道を閉ざし、唯一の正しい道筋を指し示すための、賢者の慈悲深い導きです。詩の後半は、その唯一の道を示します。「अस्तीति ब्रुवतोऽन्यत्र कथं तदुपलभ्यते (astīti bruvato'nyatra kathaṃ tadupalabhyate)」—「『それは在る』と語る者によらずして、他にどうして、これが把握されようか」。

ここでの「अस्ति (asti) - それは在る」という言葉は、単なる存在の表明以上の、深い意味を持っています。それは、あらゆる属性や定義づけを超えた、純粋な「実在性(सत्, sat)」そのものへの言及です。それは「何であるか」と問われる以前の、ただ「在る」という揺るぎない事実です。

そして、最も重要な鍵は「ब्रुवतः (bruvataḥ) - 語る者」という言葉にあります。これは、概念としてそれを語る哲学者や学者を指すのではありません。ヴェーダの聖句(シュルティ)そのものであり、また、その真理を自らの存在の内に完全に体現した師(グル)を指します。究極の真理は、自らの論理や推論(तर्क, tarka)によって「発見」されるものではなく、すでにそれを悟った権威ある導き手から「受け取る」ものなのです。その師が「在る」と語るとき、それは知識の伝達ではなく、存在から存在への直接的な響きとなり、弟子の内なる真理を呼び覚まします。

この詩が示すのは、真理の探求における、知性から信仰(श्रद्धा, śraddhā)への、そして自己への依存から師への帰依への、決定的な転換です。反語的な問いかけ「कथम् (katham) - いかにして」は、この道以外に方法は絶対にないという、力強い確信を表明しています。ヨーガの静寂の中で心が静まったとき、師の言葉「それは在る」が深く浸透し、やがてそれが自らの内なる声となり、疑いようのない直接的な確信へと変わるのです。この節は、見える世界から見えざる実在へと橋を渡すための、信頼という礎の重要性を教えています。

第2篇 第3章 第13節

अस्तीत्येवोपलब्धव्यस्तत्त्वभावेन चोभयोः ।
अस्तीत्येवोपलब्धस्य तत्त्वभावः प्रसीदति ॥ २.३.१३॥
astītyevopalabdhavyastattvabhāvena cobhayoḥ |
astītyevopalabdhasya tattvabhāvaḥ prasīdati || 2.3.13||
「それは在る」と、ただそう把握されるべきである、
顕現せるものと、その根源なるもの、両者の実在として。
「それは在る」と、ただそう把握した者にこそ、
その実在の本質は、恩寵として明らかとなる。

逐語訳:

  • अस्ति-इति-एव (asti-iti-eva) - 「在る」と、まさに、ただ
  • उपलब्धव्यः (upalabdhavyaḥ) - 把握されるべき、認識されるべき(√labh + upa、当為未来分詞 男性単数主格)
  • तत्त्वभावेन (tattvabhāvena) - 実在性として、本質として(tattva-bhāva、男性単数具格)
  • च (ca) - そして、また(接続詞)
  • उभयोः (ubhayoḥ) - 両者の(代名詞ubhaya、男性双数属格)。ここでは顕現した世界(結果)とその根源である未顕現の実在(原因)の両者を指す。
  • अस्ति-इति-एव (asti-iti-eva) - 「在る」と、まさに、ただ
  • उपलब्धस्य (upalabdhasya) - 把握した者の、認識した者の(√labh + upa、過去分詞 男性単数属格)
  • तत्त्वभावः (tattvabhāvaḥ) - 実在の本性、本質そのもの(tattva-bhāva、男性単数主格)
  • प्रसीदति (prasīdati) - 明らかとなる、静かに輝きだす、恩寵として現れる(√sad + pra、現在法3人称単数)

解説:
前節において、究極の実在(アートマン)は言葉や思考といった通常の認識手段では捉えられず、ただ「それは在る(अस्ति, asti)」と教える聖典や師の言葉に信頼を寄せることでしか、その探求の道は開かれないと説かれました。この第13節は、その信頼がどのようにして直接的な悟りへと結実するのか、その内的な変容の深遠なプロセスを二段階に分けて描き出しています。

詩の前半、「अस्तीत्येवोपलब्धव्यस्तत्त्वभावेन चोभयोः (astītyevopalabdhavyastattvabhāvena cobhayoḥ)」は、探求者が取るべき第一の姿勢を明らかにします。それは、アートマンを「अस्ति इति एव उपलब्धव्यः (asti iti eva upalabdhavyaḥ)」—「『在る』と、ただそう把握すべき」という絶対的な確信の態度です。これは、論理的な証明を求めるのではなく、師の言葉を全存在で受け入れる信仰(श्रद्धा, śraddhā)の段階です。

そして、その把握の仕方は「तत्त्वभावेन च उभयोः (tattvabhāvena ca ubhayoḥ)」—「両者の実在として」なされるべきだと説かれます。ここでの「両者(उभयोः, ubhayoḥ)」とは、伝統的な解釈によれば、「結果としての顕現世界」と「原因としての未顕現の実在」を指します。つまり、アートマンは、この目に見える多様な現象世界の根底にある「原因」として、また、その現象世界に遍く内在する「本質」として、その両面において「在る」と認識されるべきなのです。それは、世界を超越した実在であると同時に、世界に内在する実在でもあるという、ヴェーダーンタ哲学の非二元論的な真理を示唆しています。

詩の後半、「अस्तीत्येवोपलब्धस्य तत्त्वभावः प्रसीदति (astītyevopalabdhasya tattvabhāvaḥ prasīdati)」は、この確信がもたらす恩寵的な結果を描き出します。前半の「把握すべき」という能動的な意志が、ここで美しい転換を遂げます。「『在る』とただ把握した者」に対して、今度は「その実在の本質(तत्त्वभावः, tattvabhāvaḥ)」の方が、自ずからその姿を現すのです。

動詞「प्रसीदति (prasīdati)」は、この詩の核心をなす言葉です。その語根 √sad は「座る、静まる」を意味し、接頭辞 pra は「前方へ、完全に」を意味します。ここから、「心が完全に静まり澄み渡る」「恩寵(प्रसाद, prasāda)として現れる」という豊かな意味が生まれます。探求者の心が、疑いや分析といった一切の波立ちから解放され、静かで清らかな湖面となったとき、真理の月は、何の努力もなしに、自ずとその輝く姿を映し出すのです。それは、人間的な努力によって真理を「掴む」のではなく、内なる準備が整った者に対して、真理そのものが恩寵として自らを「明かす」という、神聖な顕現の瞬間です。

この一節は、探求の道筋が「信頼」から「認識」へ、そして「認識」から「顕現」へと至ることを見事に示しています。それは、知的な理解を超え、存在そのものの変容を伴うプロセスです。師の言葉への純粋な信頼が、やがて疑いようのない自己の体験となり、内なる真我が静かに、しかし絶対的な確かさをもって輝き始める。ウパニシャッドが示す解脱への道が、ここに美しく凝縮されています。

第2篇 第3章 第14節

यदा सर्वे प्रमुच्यन्ते कामा येऽस्य हृदि श्रिताः ।
अथ मर्त्योऽमृतो भवत्यत्र ब्रह्म समश्नुते ॥ २.३.१४॥
yadā sarve pramucyante kāmā ye'sya hṛdi śritāḥ |
atha martyo'mṛto bhavatyatra brahma samaśnute || 2.3.14||
この者の心に根差す欲望のすべてが
解き放たれるそのとき、
死すべき者は不死となり、
この世にあってブラフマンを体得する。

逐語訳:

  • यदा (yadā) - ~するとき(関係副詞)
  • सर्वे (sarve) - すべての(形容詞 sarva、男性複数主格)
  • प्रमुच्यन्ते (pramucyante) - 完全に解き放たれる、解放される(√muc + pra、受動態現在法3人称複数)
  • कामाः (kāmāḥ) - 欲望たち(kāma、男性複数主格)
  • ये (ye) - それらの~(関係代名詞 yad、男性複数主格)
  • अस्य (asya) - この者の(代名詞 idam、男性単数属格)
  • हृदि (hṛdi) - 心に、心臓の奥に(hṛd、中性単数処格)
  • श्रिताः (śritāḥ) - 拠り所としている、根ざしている、巣くっている(√śri「頼る」、過去分詞男性複数主格)
  • अथ (atha) - そのとき、そして(接続詞)
  • मर्त्यः (martyaḥ) - 死すべき者、人間(男性単数主格)
  • अमृतः (amṛtaḥ) - 不死なる者(a-mṛta「非-死」、形容詞男性単数主格)
  • भवति (bhavati) - ~となる(√bhū「なる」、現在法3人称単数)
  • अत्र (atra) - ここにおいて、この(身体を持つ)状態において(副詞)
  • ब्रह्म (brahma) - ブラフマンを(絶対的実在、中性単数対格)
  • समश्नुते (samaśnute) - 体得する、完全に享受する、到達する(√aś + sam「完全に得る」、現在法3人称単数アートマネーパダ)

解説:
前節において、究極の実在は「それは在る(अस्ति, asti)」という師の言葉への絶対的な信頼を通じて把握され、その本質が探求者の内に恩寵として明らかになることが示されました。この第14節は、その神聖な顕現がもたらす最終的な成果、すなわち解脱(मोक्ष, mokṣa)の完成形を、簡潔かつ荘厳に宣言します。これはカタ・ウパニシャッド全体の教えが結実する、最も重要な詩句の一つです。

詩の前半、「यदा सर्वे प्रमुच्यन्ते कामा येऽस्य हृदि श्रिताः (yadā sarve pramucyante kāmā ye'sya hṛdi śritāḥ)」は、解脱が成就するための絶対的な条件を提示します。その条件とは、「心(हृदि, hṛdi)を拠り所とする(श्रिताः, śritāḥ)一切の欲望(कामाः, kāmāḥ)が、完全に解き放たれる(प्रमुच्यन्ते, pramucyante)」ことです。ここでいう「欲望」とは、単なる物質的な欲求に留まりません。それは名声や承認への渇望、他者を支配しようとする意志、さらには天界への生まれ変わりや、悟りそのものへの微細な執着さえも含む、自我を支えるあらゆる種類の心の動きを指します。「श्रिताः (śritāḥ)」という言葉は、欲望が単に心に浮かぶのではなく、自我がそれに「依存し」、心の奥深くに「根を張っている」という深刻な状態を示唆しています。

そして、これらの欲望からの解放は、「प्रमुच्यन्ते (pramucyante)」という受動態で語られる通り、意志の力で欲望を無理に抑圧する闘争ではありません。それは、前節で示された真理の光が心を照らすにつれて、欲望がその力を失い、まるで結び目が自然に解けるかのように、心から離れていく恩寵的なプロセスなのです。

詩の後半、「अथ मर्त्योऽमृतो भवत्यत्र ब्रह्म समश्नुते (atha martyo'mṛto bhavatyatra brahma samaśnute)」は、この内なる解放がもたらす奇跡的な変容を、二つの力強い宣言で明らかにします。

第一に、「मर्त्यः अमृतः भवति (martyaḥ amṛtaḥ bhavati)」—「死すべき者が不死となる」。これは肉体が永遠の命を得るという意味ではありません。「死すべき者(मर्त्यः, martyaḥ)」とは、自らを滅びゆく身体や心と同一視している限定的な意識状態のことです。その誤った自己認識の束縛から解放され、自己の本質が不生不滅のアートマン(真我)であるという真理を直接体験するとき、人は「不死(अमृतः, amṛtaḥ)」となります。死はもはや終焉ではなく、衣服を着替えるような自然な過程となり、死への恐怖は完全に消え去ります。

第二に、「अत्र ब्रह्म समश्नुते (atra brahma samaśnute)」—「ここにおいてブラフマンを体得する」。この言葉は、解脱の究極的な本質を示します。「अत्र (atra)」という副詞は、「今、この場所で」「この身体のうちに」という意味を持ち、解脱が死後や来世といった遠い未来に約束されたものではなく、生きている「今、ここ」で達成されるべき現実であることを力強く主張しています。「समश्नुते (samaśnute)」という動詞は、ブラフマンを客体として「獲得する」のではなく、自己とブラフマンが完全に一つであるという真理を「体得し、享受する」ことを意味します。個我の意識が、大海に溶ける一滴の水のように、宇宙的な実在であるブラフマンの意識へと還っていくのです。

この一節は、ナチケータが死の王ヤマに問いかけた「死後の謎」に対する、最も深遠な答えです。欲望という個我の牢獄から解放されるとき、人は死を超越し、この世にありながら、永遠にして無限なるブラフマンそのものとして生きるという、ヨーガとヴェーダーンタ哲学が示す最高の理想がここに成就されるのです。

第2篇 第3章 第15節

यदा सर्वे प्रभिद्यन्ते हृदयस्येह ग्रन्थयः ।
अथ मर्त्योऽमृतो भवत्येतावद्ध्यनुशासनम् ॥ २.३.१५॥
yadā sarve prabhidyante hṛdayasyeha granthayaḥ |
atha martyo'mṛto bhavatyetāvaddhyanuśāsanam || 2.3.15||
この世にあって、心の結び目のすべてが
打ち砕かれるそのとき、
死すべき者は不死となり、
これこそがヴェーダの究極の教えである。

逐語訳:

  • यदा (yadā) - ~するとき(関係副詞)
  • सर्वे (sarve) - すべての(形容詞 sarva、男性複数主格)
  • प्रभिद्यन्ते (prabhidyante) - 完全に打ち砕かれる、引き裂かれる(√bhid「砕く」+ pra、受動態現在法3人称複数)
  • हृदयस्य (hṛdayasya) - 心の、心臓の(hṛdaya、中性単数属格)
  • इह (iha) - ここで、この(身体を持つ)生において(副詞)
  • ग्रन्थयः (granthayaḥ) - 結び目たち、束縛(granthi、男性複数主格)
  • अथ (atha) - そのとき、そして(接続詞)
  • मर्त्यः (martyaḥ) - 死すべき者、人間(男性単数主格)
  • अमृतः (amṛtaḥ) - 不死なる者(a-mṛta「非-死」、形容詞男性単数主格)
  • भवति (bhavati) - ~となる(√bhū「なる」、現在法3人称単数)
  • एतावत् (etāvat) - これこそが、これだけが(指示代名詞)
  • हि (hi) - まさに、実に(強調の不変化詞)
  • अनुशासनम् (anuśāsanam) - 究極の教え、権威ある教訓(anu-śāsana、中性単数主格)

解説:
この第15節は、前節の教えを、より力強く、より決定的な比喩を用いて再確認し、カタ・ウパニシャッド全体の哲学を荘厳に締めくくる、総括的な宣言です。前節が「心に根差す欲望の解放」を説いたのに対し、この節は「心の結び目の断絶」という、さらに深いレベルでの内的な変容を描き出します。

詩の中心をなすのは、「हृदयस्य ग्रन्थयः (hṛdayasya granthayaḥ)」—「心の結び目」という力強い比喩です。これは単なる言葉のあやではありません。ヨーガやヴェーダーンタの哲学において、「結び目(ग्रन्थि, granthi)」は、無知(अविद्या, avidyā)に根差し、自我意識(अहंकार, ahaṃkāra)や執着、嫌悪といった根深い心の働きが、微細な心身のエネルギー体に形成する、実体的な「しこり」や「束縛」を指します。特に「心(हृदय, hṛdaya)」、すなわち心臓の領域は、感情と個我の中心と見なされており、ここに存在する結び目は、真我(アートマン)の光を覆い隠す最も根源的な障害と考えられています。

この固く結ばれた結び目が、「प्रभिद्यन्ते (prabhidyante)」—「完全に打ち砕かれる」と説かれます。動詞の語根√bhidは「砕く、裂く」を意味し、接頭辞praは「完全に、徹底的に」というニュアンスを加えます。前節の「प्रमुच्यन्ते (pramucyante) - 解き放たれる」という穏やかな解放のイメージとは対照的に、これは、長年の束縛が一気に、そして不可逆的に断ち切られる、ダイナミックで劇的な解放の瞬間を示唆します。この「打ち砕き」は、個人の意志の力による闘争ではなく、真理の智慧(ज्ञान, jñāna)の光が浸透することで、結び目がその存在基盤を失い、自ずと砕け散るという、恩寵に満ちたプロセスとして理解されます。

इह (iha) - ここで、この世で」という一語が、この体験の持つ現実的な意味を強調します。この究極の解放は、死後の世界や天界で約束されるものではなく、この肉体を持ち、この世界に生きている「今、ここ」で実現されるべきものである、というヴェーダーンタの理想「जीवन्मुक्ति (jīvanmukti) - 生きながらの解脱」を明確に示しています。

そして、この内なる革命がもたらす結果が、前節と同じ力強い言葉で繰り返されます。「अथ मर्त्योऽमृतो भवति (atha martyo'mṛto bhavati)」—「そのとき、死すべき者は不死となる」。この反復は、この真理の絶対的な確実性を宣言するものです。

この詩を真に特別なものにしているのは、最後の句、「एतावद्धि अनुशासनम् (etāvaddhi anuśāsanam)」です。「एतावत् हि (etāvat hi)」は「これこそが、これだけが、実に」という、他の可能性を一切排した強い限定と断定を表します。そして「अनुशासनम् (anuśāsanam)」とは、師から弟子へと連綿と受け継がれてきた、ヴェーダの権威ある究極の教え、その最終結論を意味します。つまり、この句は「心の結び目を断ち切ることによって不死を得る、これこそが、全ての聖なる教えの真髄であり、これ以外に教えるべきことは何もない」と高らかに宣言しているのです。

ナチケータが死の王ヤマに投げかけた「死を超えた真理」への問いは、ここに完璧な答えを得ました。それは、外的な何かを克服することではなく、自己の内なる最も深い束縛からの解放です。この一節は、哲学的な探求の終着点であると同時に、自己変容の旅路の輝かしいゴールを示しています。それは、人がこの世にありながら、死の恐怖から完全に自由になり、永遠の至福そのものとして生きるという、人間存在の最も崇高な可能性を、簡潔かつ荘厳な言葉で指し示しているのです。

第2篇 第3章 第16節

शतं चैका च हृदयस्य नाड्य-
स्तासां मूर्धानमभिनिःसृतैका ।
तयोर्ध्वमायन्नमृतत्वमेति
विष्वङ्ङन्या उत्क्रमणे भवन्ति ॥ २.३.१६॥
śataṃ caikā ca hṛdayasya nāḍya-
stāsāṃ mūrdhānamabhiniḥsṛtaikā |
tayordhvamāyannamṛtatvameti
viṣvaṅṅanyā utkramaṇe bhavanti || 2.3.16||
心より百と一本の生命路(ナーディー)が発する。
そのうちの一本は、頭頂を貫いて昇る。
その道を昇りゆく者は不死に至り、
他の道は、様々な離脱へと散りゆくのみである。

逐語訳:

  • शतम् (śatam) - 百
  • च (ca) - そして
  • एका (ekā) - 一つの
  • च (ca) - そして
  • हृदयस्य (hṛdayasya) - 心の、心臓の(hṛdaya、中性単数属格)
  • नाड्यः (nāḍyaḥ) - 生命路、ナーディー(nāḍī、女性複数主格)
  • तासाम् (tāsām) - それらのうち(指示代名詞 tad、女性複数属格)
  • मूर्धानम् (mūrdhānam) - 頭頂を、頭頂へと(mūrdhan、男性単数対格)
  • अभिनिःसृता (abhiniḥsṛtā) - 完全に抜け出ている、貫いている(√sṛ + nis + abhi、過去分詞女性単数主格)
  • एका (ekā) - 一本が(数詞 eka、女性単数主格)
  • तया (tayā) - それによって、その道によって(指示代名詞 tad、女性単数具格)
  • ऊर्ध्वम् (ūrdhvam) - 上方へ(副詞)
  • आयन् (āyan) - 行く者は(√i + ā、現在分詞男性単数主格)
  • अमृतत्वम् (amṛtatvam) - 不死性、不死の状態を(a-mṛta-tva、中性単数対格)
  • एति (eti) - 到達する、得る(√i、現在法3人称単数)
  • विष्वङ् (viṣvaṅ) - あらゆる方向に、四方八方に(副詞)
  • अन्याः (anyāḥ) - その他の(ナーディー)は(形容詞 anya、女性複数主格)
  • उत्क्रमणे (utkramaṇe) - (身体からの)離脱のために(ut-kramaṇa、中性単数処格)
  • भवन्ति (bhavanti) - 〜となる、〜のためになる(√bhū、現在法3人称複数)

解説:
前節が「心の結び目(हृदयस्य ग्रन्थि, hṛdayasya granthi)」の断絶によって不死を得るというヴェーダの究極の教えを宣言したのに対し、この第16節はその霊的達成が、ヨーガの霊的身体論に根差した、どのようなプロセスを通じて成就されるのかを具体的に明かします。これは、深遠な哲学を、体感しうる霊的な道程へと結びつける、極めて重要な詩句です。

詩はまず、人間の微細な身体構造の根幹をなす「霊的解剖学」の知識から始まります。「心(हृदय, hṛdaya)」から「百と一本(शतं च एका, śataṃ ca ekā)」の「ナーディー(नाडी, nāḍī)」が発していると説かれます。ここでの「心」とは、物理的な臓器としての心臓のみならず、意識と生命エネルギー(प्राण, prāṇa)が宿る霊的な中心を指します。そして「ナーディー」とは、肉眼では見えない生命エネルギーが流れる微細な経路のことです。この101本という数は、古代インドの霊性科学において伝統的に伝えられてきた、人間のエネルギー体の基本構造を示しています。

この無数の生命路の中で、ただ一本だけが特別な役割を担います。それは「मूर्धानम् अभिनिःसृता (mūrdhānam abhiniḥsṛtā)」—「頭頂を貫いて昇る」道です。この一本の特別なナーディーは、後のヨーガ文献において「スシュムナー・ナーディー(सुषुम्ना नाडी, suṣumnā nāḍī)」として知られるようになります。それは脊柱に沿って真っ直ぐに伸び、頭頂にある霊的な門「ブラフマランドラ(ब्रह्मरन्ध्र, brahmarandhra)」、すなわち「ブラフマンの門」へと至る、最も神聖な道筋です。

この詩の後半は、この一本の道と他の百本の道がもたらす運命の分岐を、鮮やかな対比をもって描きます。前節で説かれたように、智慧の光によって心の結び目が完全に解かれた者は、死の瞬間に、その意識と生命エネルギーをこの一本の道に集中させます。「तया ऊर्ध्वम् आयन् (tayā ūrdhvam āyan)」—「その道を上方へ昇る者」は、身体という個の限定性を完全に超越して、「अमृतत्वम् एति (amṛtatvam eti)」—「不死性に到達する」のです。これは、個我の意識が輪廻のサイクルから解放され、宇宙の根源であるブラフマンと完全に合一する、究極の解脱を意味します。

それに対して、残りの百本のナーディーは、「विष्वङ् अन्याः उत्क्रमणे भवन्ति (viṣvaṅ anyāḥ utkramaṇe bhavanti)」—「その他の道は、様々な方向への離脱のためとなる」と説かれます。これは、解脱に至らない通常の死のプロセスを指します。心の結び目に縛られたままの意識は、過去の行為(カルマ)と死の瞬間の想念に応じて、これらの様々なナーディーのいずれかを通って身体から離れ、再び輪廻の輪の中へと投じられます。それぞれの道は、異なる世界、異なる生へと繋がる出口なのです。

この一節は、解脱が単なる哲学的な観念や偶然の出来事ではなく、意識と生命エネルギーの制御という、ヨーガの具体的な実践と深く結びついた、再現可能な霊的科学であることを力強く示しています。生前の生き方と智慧の深さが、死の瞬間の意識の旅路を決定的に分け、一方は永遠の自由へ、他方は再び束縛の生へと導くのです。これは、ウパニシャッドが示す、厳粛でありながらも希望に満ちた、人間存在の究極の可能性の地図と言えるでしょう。

第2篇 第3章 第17節

अङ्गुष्ठमात्रः पुरुषोऽन्तरात्मा
सदा जनानां हृदये संनिविष्टः ।
तं स्वाच्छरीरात्प्रवृहेन्मुञ्जादिवेषीकां धैर्येण ।
तं विद्याच्छुक्रममृतं तं विद्याच्छुक्रममृतमिति ॥ २.३.१७॥
aṅguṣṭhamātraḥ puruṣo'ntarātmā
sadā janānāṃ hṛdaye sanniviṣṭaḥ |
taṃ svāccharīrātpravṛhenmuñjādi veṣīkāṃ dhairyeṇa |
taṃ vidyācchukramamṛtaṃ taṃ vidyācchukramamṛtamiti || 2.3.17||
親指ほどのプルシャ、内なるアートマンは、
常に人々の心の奥に深く鎮座している。
ムニャの草から芯を抜きだすように、
そのアートマンを、不動の心をもって、自己の身体から分離すべきである。
それを知るべし、輝ける不死なるものと。
それを知るべし、輝ける不死なるものと。かくの如し。

逐語訳:

  • अङ्गुष्ठमात्रः (aṅguṣṭhamātraḥ) - 親指ほどの大きさの(形容詞、男性単数主格)
  • पुरुषः (puruṣaḥ) - プルシャ、純粋意識たる霊的存在(男性単数主格)
  • अन्तरात्मा (antarātmā) - 内なるアートマン、内在する真我(男性単数主格)
  • सदा (sadā) - 常に、いつも(副詞)
  • जनानाम् (janānām) - 人々の(jana、男性複数属格)
  • हृदये (hṛdaye) - 心の奥に、心臓に(hṛdaya、中性単数処格)
  • संनिविष्टः (sanniviṣṭaḥ) - 深く鎮座している、完全に安住している(√viś + ni + sam、過去分詞男性単数主格)
  • तम् (tam) - それを(指示代名詞 tad、男性単数対格)
  • स्वात् शरीरात् (svāt śarīrāt) - 自身の身体から(sva 自分の + śarīra 身体。共に奪格。連声により स्वाच्छरीरात् (svāccharīrāt) となる)
  • प्रवृहेत् (pravṛhet) - (丁寧に)引き抜くべきである、分離すべきである(√bṛh「抜く」 + pra、可能法3人称単数)
  • मुञ्जात् (muñjāt) - ムニャ草から(muñja、男性単数奪格)
  • इव (iva) - ~のように(比較の不変化詞)
  • इषीकाम् (iṣīkām) - 芯を、茎を(iṣīkā、女性単数対格)
  • धैर्येण (dhairyeṇa) - 不動心をもって、沈着さをもって、慎重に(dhairya、中性単数具格)
  • विद्यात् (vidyāt) - 知るべきである、悟るべきである(√vid「知る」、可能法3人称単数)
  • शुक्रम् (śukram) - 輝けるもの、清浄なるものを(形容詞、中性単数対格)
  • अमृतम् (amṛtam) - 不死なるものを(形容詞、中性単数対格)
  • इति (iti) - ~と。かくの如し(教えの終わりと確認を示す不変化詞)

解説:
この第17節は、カタ・ウパニシャッド全体の教えが結晶した、最も美しく実践的な詩句の一つです。前節で示された解脱への道、すなわち頭頂を貫く一本の道(スシュムナー・ナーディー)を昇るための、具体的な霊的技術と心構えが、ここに集約されています。これは、ヤマ神がナチケータに授けた智慧の最終的な秘訣であり、哲学的な探求の終着点です。

詩の前半は、瞑想の対象となるアートマンの姿を描きます。「अङ्गुष्ठमात्रः पुरुषः (aṅguṣṭhamātraḥ puruṣaḥ)」—「親指ほどのプルシャ」。これは、遍在する無限のアートマンを物理的な大きさに限定するものではありません。むしろ、広大すぎて捉えがたい実在を、ヨーガの実践者が意識を集中できるよう、「心の奥(हृदये, hṛdaye)」という霊的中心に鎮座する、凝縮された光として観想するための方便(ウパーサナ)です。この「内なるアートマン(अन्तरात्मा, antarātmā)」は、常にそこに在り、揺らぐことなく鎮座していると説かれます。

詩の中心をなすのは、アートマンを体得するための内的なプロセスを指し示す、見事な比喩です。「मुञ्जात् इव इषीकाम् (muñjāt iva iṣīkām)」—「ムニャ草から芯を抜きだすように」。ムニャ草の硬い外皮は、肉体、感覚、心といった、アートマンを覆う粗雑な層(五鞘、パンチャ・コーシャ)を象徴します。そして、その中に隠された純粋で繊細な芯は、汚れなきアートマンそのものを表します。このアートマンを身体から「प्रवृहेत् (pravṛhet)」—「分離すべきである」と教えられます。この分離は、真我(アートマン)と非我(身体や心)を明確に見分ける「識別知(विवेक, viveka)」の確立を意味します。

この繊細な作業は、「धैर्येण (dhairyeṇa)」—「不動心をもって」行われなければなりません。धैर्य (dhairya)は単なる忍耐ではなく、識別知から生まれる静かな確信、沈着さ、そして勇気を意味します。力ずくで引き剥がすのではなく、熟達した識別と不動の心によって、丁寧に、しかし断固として、アートマンを身体という束縛から解放するのです。

そして詩は、この悟りの成就を、力強い反復によって荘厳に宣言します。「तं विद्यात् शुक्रम् अमृतम् (taṃ vidyāt śukram amṛtam)」—「それを知るべし、輝ける不死なるものと」。ここで「知る(विद्यात्, vidyāt)」とは、書物による知識ではなく、直接的な体験による完全な悟りを指します。分離されたアートマンの本質は、「शुक्रम् (śukram)」—汚れなく自ら輝く純粋な光であり、「अमृतम् (amṛtam)」—生と死のサイクルを超越した永遠不滅の存在です。この宣言の反復は、師から弟子への教えの絶対的な確実性を示すとともに、真理を体得した者の歓喜と確信を表しています。最後の「इति (iti)」は、これこそが究極の教えの結論である、と静かに締めくくります。

この一節は、深遠な哲学と具体的なヨーガの実践が完璧に融合した、ウパニシャッドの精髄です。それは、すべての人の内なる中心に鎮座する、輝ける不死なる光を見出し、それと一体となるという、人間存在の最も崇高な可能性を、簡潔かつ美しい言葉で指し示しているのです。

第2篇 第3章 第18節

मृत्युप्रोक्तां नचिकेतोऽथ लब्ध्वा
विद्यामेतां योगविधिं च कृत्स्नम् ।
ब्रह्मप्राप्तो विरजोऽभूद्विमृत्यु-
रन्योऽप्येवं यो विदध्यात्ममेव ॥ २.३.१८॥
mṛtyuproktāṃ naciketo'tha labdhvā
vidyāmetāṃ yogavidhiṃ ca kṛtsnam |
brahmaprāpto virajo'bhūdvimṛtyu-
ranyo'pyevaṃ yo vidadhyātmameva || 2.3.18||
かくしてナチケータは、死神より説かれた
この智慧とヨーガの法のすべてを得て、
ブラフマンに達し、塵を離れ、死を超えし者となった。
このように真我を知る他のいかなる者もまた、まさしく同様となる。

逐語訳:

  • मृत्युप्रोक्ताम् (mṛtyuproktām) - 死(ヤマ)によって説かれた(mṛtyu-proktā、過去分詞女性単数対格)
  • नचिकेतः (naciketaḥ) - ナチケータは(男性単数主格)
  • अथ (atha) - かくして、そして(接続詞)
  • लब्ध्वा (labdhvā) - 得て、受けて(√labh「得る」、絶対分詞)
  • विद्याम् (vidyām) - 智慧を(vidyā、女性単数対格)
  • एताम् (etām) - この(指示代名詞 etad、女性単数対格)
  • योगविधिम् (yogavidhim) - ヨーガの法を(yoga-vidhi、男性単数対格)
  • च (ca) - そして(接続詞)
  • कृत्स्नम् (kṛtsnam) - 全てを、完全なる(形容詞、男性単数対格)
  • ब्रह्मप्राप्तः (brahmaprāptaḥ) - ブラフマンに到達した者(brahma-prāpta、複合語、男性単数主格)
  • विरजः (virajaḥ) - 汚れ(ラジャス)なき者(vi-rajas、形容詞男性単数主格)
  • अभूत् (abhūt) - ~となった(√bhū「なる」、アオリスト3人称単数)
  • विमृत्युः (vimṛtyuḥ) - 死を超越した者(vi-mṛtyu、形容詞男性単数主格)
  • अन्यः (anyaḥ) - 他の者(代名詞、男性単数主格)
  • अपि (api) - もまた(不変化詞)
  • एवम् (evam) - このように(副詞)
  • यः (yaḥ) - ~する者(関係代名詞、男性単数主格)
  • वित् (vit) - 知る者、知者(√vid「知る」より派生した名詞、男性単数主格)
  • अध्यात्मम् (adhyātmam) - 真我について、アートマンに関する教えを(副詞的に用いられる中性名詞)
  • एव (eva) - まさに、実に(強調の不変化詞)
    *注: vidadhyātmameva は、vit + adhyātmam + eva が連声(サンディ)した形。

解説:
この第18節は、カタ・ウパニシャッド全体の物語と教えを荘厳に締めくくる、大団円の詩句です。純粋な探求者ナチケータと、死の支配者でありながら究極の師であるヤマとの長きにわたる対話は、ここに輝かしい成就を迎えます。この詩は、単なる物語の終結ではなく、すべての真理探求者へと捧げられた、永遠の希望の宣言として響き渡ります。

詩の前半は、主人公ナチケータの霊的達成を、簡潔かつ包括的な言葉で語ります。彼は「विद्याम् एताम् (vidyām etām)」—「この智慧」と「योगविधिं च कृत्स्नम् (yogavidhiṃ ca kṛtsnam)」—「そしてヨーガの法のすべて」を得たと説かれます。ここでいう「智慧(विद्या, vidyā)」とは、真我(アートマン)と最高実在(ブラフマン)が同一であるという、ヴェーダーンタ哲学の根幹をなす真理の直接的な体得です。そして「ヨーガの法(योगविधि, yogavidhi)」とは、その智慧を体得するために不可欠な、心の制御や瞑想といった、これまでに説かれた具体的な実践の道筋全体を指します。「すべて(कृत्स्न, kṛtsna)」という一語が、この教えが断片的ではなく、解脱に至るための完全で完璧な道であることを力強く保証しています。

この智慧と実践の道を完遂したナチケータに訪れた内的な変容が、三つの輝かしい言葉で示されます。「ब्रह्मप्राप्तः (brahmaprāptaḥ) - ブラフマンに到達した者」、「विरजः (virajaḥ) - 汚れ(塵)なき者」、そして「विमृत्युः (vimṛtyuḥ) - 死を超越した者」。この三つは、解脱という一つの究極的な状態が持つ、異なる側面です。まず、彼はブラフマンという宇宙の根源と一体となり、個我の分離感から完全に解放されました。その結果、すべての行為(カルマ)の種子や心の衝動(ラジャス)といった「汚れ」が完全に浄化され、そして最終的に、肉体の死という現象に何ら影響されることのない、永遠の境地に安住したのです。

この詩の真髄であり、最も感動的な部分は、後半に記された普遍的な約束にあります。「अन्योऽप्येवं यो विदध्यात्ममेव (anyo'pyevaṃ yo vidadhyātmameva)」—「このように真我を知る他のいかなる者もまた、まさしく同様となる」。この一句によって、ナチケータという一人の少年の物語は、時空を超えた人類全体の普遍的な可能性へと昇華されます。「अन्यः अपि (anyaḥ api) - 他の者もまた」という言葉は、このウパニシャッドを読む者すべてに、ナチケータと同じ道が開かれていることを宣言します。「एवम् (evam) - このように」とは、ヤマ神が説いた智慧とヨーガの法を指し、その道を真摯に歩む者は誰であれ、ナチケータと寸分違わぬ境地に到達できるという、絶対的な保証なのです。

この最終節は、一個人の英雄譚を、全人類への祝福と招待のメッセージへと変える、ウパニシャッド文学の真骨頂を示しています。ナチケータの問いから始まった死を超える探求は、すべての人が自らの内に輝ける不死の真我を見出し、永遠の自由を得ることができるという、壮大で希望に満ちた結論をもって、静かに幕を閉じるのです。

第2篇 第3章 第19節

सह नाववतु । सह नौ भुनक्तु । सह वीर्यं करवावहै ।
तेजस्वि नावधीतमस्तु मा विद्विषावहै ॥ २.३.१९॥
saha nāvavatu | saha nau bhunaktu | saha vīryaṃ karavāvahai |
tejasvināvadhītamastu mā vidviṣāvahai || 2.3.19||
共に我ら二人を護り給え。
共に我ら二人を育み給え。
我ら二人、共に力を尽くして励まん。
我らの学びが輝きに満ちたものとならんことを。
互いに憎しみ合うことが決してなからんことを。

逐語訳:

  • सह (saha) - 共に
  • नौ (nau) - 我ら二人を(師と弟子を。一人称双数対格)
  • अवतु (avatu) - どうかお護りください(√av、命令法3人称単数)
  • सह (saha) - 共に
  • नौ (nau) - 我ら二人を
  • भुनक्तु (bhunaktu) - どうか育んでください、お満たしください(√bhuj、命令法3人称単数)
  • सह (saha) - 共に
  • वीर्यम् (vīryam) - 力を、霊的な精気を
  • करवावहै (karavāvahai) - 我ら二人で奮い起こそう、実践しよう(√kṛ、命令法アートマネーパダ1人称双数)
  • तेजस्वि (tejasvi) - 輝かしいものに(形容詞)
  • नौ (nau) - 我ら二人の
  • अधीतम् (adhītam) - 学んだことが
  • अस्तु (astu) - なりますように(√as、命令法3人称単数)
  • मा विद्विषावहै (mā vidviṣāvahai) - 我ら二人が互いに憎しみ合うことがありませんように( 禁止 + √dviṣ 命令法アートマネーパダ1人称双数)

解説:
この第19節は、カタ・ウパニシャッド全体の深遠な教えを締めくくる、神聖な祈りの言葉です。これは「シャーンティ・マントラ(平安の祈り)」として広く知られ、教えの始まりと終わり、その両方で唱えられます。この反復は、霊的な探求という聖なる営みが、常に神聖な調和の中で行われるべきであることを示唆しています。学習の前に唱えることで、探求の場を清め、心を真理へと開き、そして学習の後に唱えることで、得られた智慧への感謝と、その智慧が世界に調和をもたらすことへの願いを捧げるのです。

この祈りは、師と弟子(नौ, nau - 我ら二人)の完全な調和と一体感を基調としています。最初の二つの祈り、「सह नौ अवतु (saha nau avatu) - 共に我ら二人を護り給え」「सह नौ भुनक्तु (saha nau bhunaktu) - 共に我ら二人を育み給え」は、神的なる至高の実在に向けられています。「護り給え」とは、学習を妨げる外的な障害や内的な心の揺らぎからの保護を求める祈りです。そして「育み給え」とは、学んだ教えが単なる知識に終わることなく、師弟双方の霊的な滋養となり、智慧の果実として豊かに実ることを願う言葉です。

続く「सह वीर्यं करवावहै (saha vīryaṃ karavāvahai) - 我ら二人、共に力を尽くして励まん」は、神への祈りから、師弟共同の決意表明へと転じます。ここでの「力(वीर्य, vīrya)」とは、肉体的な力ではなく、真理を理解し、自己を変容させるために不可欠な、霊的な活力や勇気、そして情熱を指します。真理の探求は、師からの一方的な伝達ではなく、弟子自身の真摯な努力と師の導きが一つに結ばれた、共同の営みであることを示しています。

そして、この探求の理想的な成果が、「तेजस्वि नौ अधीतम् अस्तु (tejasvi nau adhītam astu) - 我らの学びが輝きに満ちたものとならんことを」という祈りに込められています。学ばれたこと(अधीतम्, adhītam)が、師弟双方の内に「霊的な輝き(तेजस्, tejas)」となって現れることへの願いです。真の学習とは、記憶の倉庫に知識を詰め込むことではなく、自己の内なる光を点火し、叡智として輝かせる、生きたプロセスなのです。

最後に置かれた「मा विद्विषावहै (mā vidviṣāvahai) - 互いに憎しみ合うことが決してなからんことを」という祈りは、このマントラの核心とも言える部分です。真理の探求において最も陥りやすい罠は、意見の対立、知的な傲慢、嫉妬といった、エゴから生じる不和です。この最後の祈りは、師弟関係が絶対的な愛と信頼、そして相互尊敬に基づかなければならない、という揺るぎない戒めです。この調和がなければ、他のいかなる祈りも、いかなる努力も、その真の目的を達することはありません。

このシャーンティ・マントラは、ヤマ神とナチケータの対話全体を貫く精神そのものです。それは、古代インドの師弟関係の理想を描くと同時に、時代を超えて、真理を求め学ぶすべての者にとっての普遍的な指針を示しています。真の智慧は、静けさと調和に満ちた心の中にのみ、花開くのです。

結びの祈り

ॐ शान्तिः शान्तिः शान्तिः ॥
oṃ śāntiḥ śāntiḥ śāntiḥ ॥
オーム。平安あれ。平安あれ。平安あれ。

逐語訳:

  • ॐ (oṃ) - 聖音オーム、宇宙の原初音、ブラフマンの象徴
  • शान्तिः (śāntiḥ) - 平安、寂静、安らぎ

解説:
この三度にわたる平安への祈りは、カタ・ウパニシャッドの深遠なる教えの全てを、至高の静寂へと帰着させる荘厳な結びの言葉です。これは「シャーンティ・パータ(平安の誦句)」として知られ、単なる形式的な終わりではなく、教えの精髄そのものが凝縮された、力強いマントラです。

冒頭に置かれた聖音「 (oṃ)」は、ヴェーダの伝統において最も神聖な響きとされます。このウパニシャッド自身が、ヤマ神の口を通して「全てのヴェーダが説き明かすかの目標、全ての苦行が語るもの、それを求めて人々が梵行に励む、その言葉を汝に簡潔に教えよう。それは (oṃ)である」(1.2.15)と、その究極的な重要性を説きました。この一音は、宇宙の創造・維持・終焉の循環、そして覚醒・夢・熟睡という人間の意識状態の全てを内包し、それらを超越した根源的実在(ブラフマン)を象徴します。この教えの最後に再び (oṃ)を唱えることは、ナチケータが到達した境地が、まさしくこの宇宙的真理との完全な合一であることを宣言しているのです。

続く「शान्तिः (śāntiḥ) - 平安」の三度の反復には、極めて深い意味が込められています。これは、人間存在を苛むあらゆる苦しみを鎮めるための祈りであり、伝統的に「ターパトラヤ(तापत्रय, tāpatraya)」と呼ばれる三種類の苦悩からの解放を願うものと解釈されます。

第一の「平安」は、「アーディヤートミカ(आध्यात्मिक, ādhyātmika)」な苦しみ、すなわち自己の内側に起因する苦しみからの解放を祈ります。これには、肉体的な病や痛み、そして不安、怒り、悲しみといった精神的な苦悩が含まれます。

第二の「平安」は、「アーディバウティカ(आधिभौतिक, ādhibhautika)」な苦しみ、すなわち他の生物や外界からもたらされる苦しみからの解放を願います。他者との不和、有害な動物による危害、社会的な障害などがこれにあたります。

第三の「平安」は、「アーディダイヴィカ(आधिदैविक, ādhidaivika)」な苦しみ、すなわち人智を超えた天上の力や自然の摂理からもたらされる苦しみからの解放を祈ります。地震や洪水といった天災、運命的な不運など、個人の力ではどうすることもできない大きな力に起因する苦しみです。

この三重の祈りは、ナチケータが死の支配者ヤマに問い、そして得た「死を超える智慧」の究極の果実が、この完全無欠なる平安であることを示しています。内なる心の動揺、外なる世界の脅威、そして抗いがたい運命の力、そのすべてを超越した境地こそが、真我(アートマン)がその本来の輝きを取り戻した状態、すなわち解脱なのです。

したがって、この結びの祈りは、単にこの聖なる対話の終わりを告げるものではありません。それは、このウパニシャッドの教えに触れたすべての者が、自らの内外に存在するあらゆる不和と苦悩を乗り越え、ナチケータが到達した永遠の寂静と至福の境地に至ることへの、力強く、慈愛に満ちた祝福として、時を超えて響き渡るのです。

第2篇 第3章 奥書

इति काठकोपनिषदि द्वितीयाध्याये तृतीया वल्ली ॥
iti kāṭhakopaniṣadi dvitīyādhyāye tṛtīyā vallī ||
カタ・ウパニシャッド第二篇、第三の蔓の章、ここに終わる。

逐語訳:

  • इति (iti) - このように、かくして(テクストの終わりを示す不変化詞)
  • काठकोपनिषदि (kāṭhakopaniṣadi) - カタ・ウパニシャッドにおいて(kāṭhaka-upaniṣad、女性名詞単数処格)
  • द्वितीयाध्याये (dvitīyādhyāye) - 第二篇において(dvitīya-adhyāya、男性名詞単数処格)
  • तृतीया (tṛtīyā) - 第三の(数詞、女性単数主格)
  • वल्ली (vallī) - 蔓、章(女性名詞単数主格)

解説:
この簡潔な一句は、単なる章の区切りを示す標識ではなく、カタ・ウパニシャッドという偉大な聖典の荘厳なる完結を宣言する「コロフォン(奥書)」です。古代インドの聖典伝承において、このような結びの句は、教えの完全性と神聖な権威を保証し、後代の加筆や欠落からテキストを守るための極めて重要な役割を果たしてきました。

冒頭の「इति (iti) - かくして」という一語は、これまで展開されてきた全ての対話と教えを包括し、それに神聖な封印を施す言葉です。それは、父への純粋な献身から死の国へと旅立った少年ナチケータの問い、死の支配者ヤマが提示した「善(श्रेयस्, śreyas)」と「快楽(प्रेयस्, preyas)」の道の峻別、聖音 (oṃ)の秘義、ヨーガによる自己制御の道、そして真我(アートマン)と最高実在(ブラフマン)の不二一元という、ヴェーダーンタ哲学の深遠な智慧の全てを指し示します。ナチケータが智慧を得て死を超越し、その教えがすべての人に開かれた普遍的なものであると宣言された後、このइति (iti)が置かれることで、教えの体系は完璧に成就されたことが、静かに、しかし絶対的な確信をもって告げられるのです。

続く「काठकोपनिषदि (kāṭhakopaniṣadi) - カタ・ウパニシャッドにおいて」という句は、この教えが黒ヤジュル・ヴェーダのカータカ派に連なる、由緒正しい聖なる伝承であることを明示します。「ウパニシャッド」という言葉自体が「師の傍らに坐して授かる秘教」を意味するように、これは単なる哲学的思索の産物ではなく、数千年にわたり師から弟子へと、人格を通して手渡されてきた生きた叡智の結晶です。

द्वितीयाध्याये तृतीया वल्ली (dvitīyādhyāye tṛtīyā vallī) - 第二篇、第三の蔓の章」という区分は、この教えが持つ美しい構成を明らかにします。「蔓」を意味するवल्ली (vallī)という言葉は、極めて示唆に富んでいます。第一篇の三つの蔓の章では、物語の土台が築かれました。そして第二篇の三つの蔓の章では、その土台の上に哲学的な教えが見事に花開きました。それぞれの蔓は、一本一本が独立した教えを内包しながらも、互いに絡み合い、支え合い、究極の真理である「ブラフマン」という見えざる幹を、天に向かって登りつめていきます。そして今、六つの蔓すべてが一つにまとまり、智慧という大樹の完璧な姿を私たちの前に現したのです。

したがって、このコロフォンは、読者にとって単なる教えの終わりを意味するものではありません。それは、ナチケータが辿った霊的探求の旅路の終着点であると同時に、この智慧に触れたすべての者にとっての、新たな実践の旅の出発点でもあります。聖典の言葉はここで静寂へと帰しますが、その深遠なる響きは読者の心の中で生き続け、日々の瞑想と実践を通して体得されることを待っているのです。この簡潔な結びの句は、壮大な交響曲の最後の和音が静寂の中に溶け込んでいくように、深遠な教えの余韻を私たちの魂の中に永遠に刻み込む、祝福に満ちた宣言なのです。

シャーンティ・マントラ(平安の祈り)

ॐ सह नाववतु । सह नौ भुनक्तु । सहवीर्यं करवावहै ।
तेजस्वि नावधीतमस्तु । मा विद्विषावहै ॥
oṃ saha nāvavatu | saha nau bhunaktu | sahavīryaṃ karavāvahai |
tejasvināvadhītamastu | mā vidviṣāvahai ||
共に我ら二人を護りたまえ。
共に我ら二人を育みたまえ。
我ら二人、共に力を尽くして励まん。
我らの学びが輝きに満ちたものとならんことを。
互いに憎しみ合うことが決してなからんことを。

逐語訳:

  • ॐ (oṃ) - 聖音オーム、宇宙の原初音、ブラフマンの象徴
  • सह (saha) - 共に
  • नौ (nau) - 我ら二人を(師と弟子。一人称双数対格)
  • अवतु (avatu) - どうかお護りください(√av、命令法3人称単数)
  • सह (saha) - 共に
  • नौ (nau) - 我ら二人を
  • भुनक्तु (bhunaktu) - どうかお育みください、お満たしください(√bhuj、命令法3人称単数)
  • सह (saha) - 共に
  • वीर्यम् (vīryam) - 力を、霊的な精気を
  • करवावहै (karavāvahai) - 我ら二人で実践しよう、力を合わせよう(√kṛ、命令法アートマネーパダ1人称双数)
  • तेजस्वि (tejasvi) - 輝かしいものに、力強く効果的なものに(形容詞)
  • नौ (nau) - 我ら二人の(一人称双数属格)
  • अधीतम् (adhītam) - 学んだこと、学問が
  • अस्तु (astu) - なりますように(√as、命令法3人称単数)
  • मा (mā) - 〜するな(禁止の不変化詞)
  • विद्विषावहै (vidviṣāvahai) - 我ら二人が互いに憎しみ合わないようにしよう(√dviṣ、命令法アートマネーパダ1人称双数)

解説:
この聖句は、カタ・ウパニシャッドの教えが完璧な円環を成して完結することを荘厳に宣言する、シャーンティ・マントラ(平安の祈り)です。聖典の冒頭に置かれたのと同じ祈りが、この結びで再び唱えられることで、ヤマ神とナチケータの深遠なる対話全体が、神聖な調和の中に永遠に包まれていることが示されます。この反復は単なる形式ではなく、探求の始まりから成就に至る霊的な旅路そのものを象徴しており、教えが時を超えた普遍的な真理であることを物語っています。

後書きとしてこのマントラが再び現れる時、それは新たな意味の深みを帯びます。冒頭では「これから学ぼうとする者の謙虚な祈りと心構え」を表していましたが、ここでは「授けられた智慧への深い感謝」と「その智慧を生涯をかけて生き抜くという継続的な誓い」を表現しています。ナチケータが死の恐怖を克服し、不滅なるアートマン(真我)の真理を体得した今、この祈りは、悟りが終着点ではなく、より高い次元での実践への出発点であることを示唆しているのです。

最初の二行、「सह नाववतु (saha nāvavatu) - 共に我ら二人を護りたまえ」「सह नौ भुनक्तु (saha nau bhunaktu) - 共に我ら二人を育みたまえ」は、教えを授け終えた今、至高の実在への感謝の祈りへと昇華されます。それは、授かった智慧が失われることなく護られ、単なる知識ではなく、師弟双方の霊的な滋養として豊かに実り続けることへの願いです。

続く「सह वीर्यं करवावहै (saha vīryaṃ karavāvahai) - 我ら二人、共に力を尽くして励まん」という誓いは、その意味をさらに深めます。ここでの「力(वीर्यम्, vīryam)」とは、もはや真理を学ぶための力ではなく、学んだ真理を日々の生活の中で体現し、自己を変容させていくための、実践的なエネルギーと勇気を指します。真理の探求は、師と弟子の共同作業であり、その絆は教えの完了後も、共に歩む実践の道において続いていくのです。

तेजस्वि नावधीतमस्तु (tejasvi nāvadhītamastu) - 我らの学びが輝きに満ちたものとならんことを」という祈りは、この探求の究極の成果を明らかにします。真の学び(अधीतम्, adhītam)とは、記憶に知識を蓄えることではありません。それは、人格そのものを根底から変容させ、内なる霊的な「輝き(तेजस्, tejas)」として、その人の存在全体から滲み出るものとなるプロセスなのです。

そして、このマントラの核心とも言える最後の句、「मा विद्विषावहै (mā vidviṣāvahai) - 互いに憎しみ合うことが決してなからんことを」は、このウパニシャッドが示す最高の結論です。あらゆる深遠な哲学と教えの果実とは、究極的には、不和、嫉妬、傲慢といったエゴから生じる一切の対立を超克した、絶対的な調和と相互尊敬の境地です。ヤマ神の慈悲深い導きと、ナチケータの純粋な探求心とが織りなしたこの理想的な師弟関係は、真の智慧が必ず愛と平安をもたらすことを、力強く証明しています。

したがって、この結びの祈りは、カタ・ウパニシャッド全体の教えを凝縮した祝福の言葉です。それは、この聖なる智慧に触れたすべての者が、自らの内外に存在するあらゆる不和を鎮め、ナチケータのように死を超越し、永遠の平安(शान्ति, śānti)の中に安らぎを見出すことへの、時を超えた祈りとして、私たちの魂に深く響き渡るのです。

シャーンティ・マントラ(平安の祈り)

ॐ शान्तिः शान्तिः शान्तिः ॥
oṃ śāntiḥ śāntiḥ śāntiḥ ॥
オーム。平安あれ、平安あれ、平安あれ。

逐語訳:

  • ॐ (oṃ) - 聖音オーム、宇宙の原初音、ブラフマンの象徴。
  • शान्तिः (śāntiḥ) - 平安、寂静、安らぎ(女性名詞、単数主格)。

解説:
この三重にわたる荘厳な平安への祈りは、カタ・ウパニシャッドという壮大な霊的交響曲の、最後の静寂に満ちた和音です。それは単なる形式的な結びの言葉ではなく、ナチケータの問いから始まった深遠な対話のすべてを統合し、その究極の果実である至高の境地を体現する、力強いマントラです。このウパニシャッドは、師と弟子の理想的な関係を祈るシャーンティ・マントラ「सह नाववतु (saha nāvavatu)」で始まり、同じ祈りで教えの円環を閉じましたが、この最後の「शान्तिः (śāntiḥ)」の三重唱こそが、その円環の中心に静かに輝く、揺るぎなき到達点なのです。

冒頭に置かれた聖音「 (oṃ)」は、このウパニシャッドが、ヤマ神の口を通して「全てのヴェーダが説き明かすかの目標、……それは (oṃ)である」(1.2.15)と明かした、究極の実在そのものの音による顕現です。この一音は、これから祈願される「平安」が、単なる心の静けさではなく、宇宙の根源的真理(ブラフマン)との合一によってのみもたらされる、絶対的な境地であることを示唆しています。 (oṃ)が真理の宣言であるならば、続く三度のशान्तिः (śāntiḥ)は、その真理を体得した者に訪れる、完全無欠な調和の状態なのです。

शान्तिः (śāntiḥ) - 平安」の三度の反復には、極めて深い霊的な意味が込められています。これは、人間存在を苛むあらゆる苦しみを根源から鎮めるための祈りであり、ヴェーダの伝統において「तापत्रय (tāpatraya)」すなわち「三種の苦悩」として知られるものからの完全な解放を願うものです。

第一の「平安あれ」は、「आध्यात्मिक (ādhyātmika)」な苦しみ、すなわち自己の内なる領域に起因する苦しみからの解放を祈ります。これには、肉体的な病や老い、そして不安、怒り、欲望、悲しみといった精神的な苦悩のすべてが含まれます。アートマンの知識は、まずこの内なる世界の混乱を鎮めます。

第二の「平安あれ」は、「आधिभौतिक (ādhibhautika)」な苦しみ、すなわち自己の外部に存在する他の生物からもたらされる苦しみからの解放を願います。他者との不和や対立、有害な動物による危害、社会的な障害などがこれにあたります。真我の普遍性を知る者は、他者との分離感を超え、調和のうちに生きることができます。

第三の「平安あれ」は、「आधिदैविक (ādhidaivika)」な苦しみ、すなわち人智を超えた天上の力、自然の摂理からもたらされる苦しみからの解放を祈ります。地震や洪水、干ばつといった天災、抗うことのできない運命的な不運など、個人の力ではどうすることもできない宇宙的な力に起因する苦しみです。究極の平安は、これらの大いなる力とも調和し、その摂理を静かに受け入れる境地からもたらされます。

この三重の祈りは、ナチケータが死の支配者ヤマから授けられた「死を超える智慧」の究極の成果が、この完全無欠なる平安であることを示しています。内なる心の動揺、外なる世界の脅威、そして抗いがたい運命の力、そのすべてが、アートマンはブラフマンであるという不二一元の智慧の光の中に溶け去った境地こそが、解脱なのです。

したがって、この結びの祈りは、聖典の終わりを告げるものではありません。それは、この聖なる教えに触れたすべての者が、自らの内外に存在するあらゆる不和と苦悩を乗り越え、ナチケータが到達した永遠の寂静と至福の境地に至ることへの、力強く、慈愛に満ちた祝福として、時を超えて響き渡るのです。このマントラを唱えるとき、私たちは単に言葉を口にするのではなく、自らの存在そのものを、この宇宙的な平安の響きへと調律しているのです。

結句

ॐ तत् सत् ॥
oṃ tat sat ||
オーム。それこそが、実在である。

逐語訳:

  • ॐ (oṃ) - 聖音オーム。宇宙の原初音、ブラフマンの音による顕現。
  • तत् (tat) - それ(超越的な実在を指す代名詞、中性単数主格)。
  • सत् (sat) - 実在、存在、真実なるもの(√as「存在する」の現在分詞、中性単数主格)。

解説:
この簡潔にして荘厳な三語は、カタ・ウパニシャッド全体の教えを究極的に凝縮した、永遠なる真理の宣言です。それは単なる聖典の結びの句ではなく、ナチケータと死の支配者ヤマ神との深遠な対話が到達した、最高の悟りそのものを音として結晶化させた、神聖なる封印にほかなりません。

第一の聖音「 (oṃ)」は、このウパニシャッドの中でヤマ神自身が「全てのヴェーダが説き明かすかの目標……それは (oṃ)である」(1.2.15)と明かした、究極実在の音による完全な顕現です。この一音の中に、宇宙の創造・維持・破壊の全サイクル、そして時間と空間を超越したブラフマンの無限なる本質が包含されています。それは、ナチケータが命を賭して探求した「死後の存在の謎」に対する、音による絶対的な回答でもあります。

続く「तत् (tat) - それ」という代名詞は、言葉では表現し尽くせない超越的な実在への、最も純粋で敬虔な指示です。ヤマ神が教えたアートマン(真我)は、「見ることも、触れることも、語ることもできない」(2.3.9, 12)、あらゆる属性規定を超えた存在でした。この「तत् (tat)」という一語は、特定の名前や形を持つ人格神とは異なる、非人格的で、あらゆる限定から自由な究極の実在を、直接的に名指すことなく指し示す、聖なる沈黙にも似た表現です。それは、思惟が言葉へと堕する以前の、純粋な指し示しなのです。

そして、最後の「सत् (sat) - 実在である」という宣言こそが、このウパニシャッドの核心をなすメッセージです。それは、ナチケータが父への献身から死の国へと赴き、「人は死んだ後、存在するのか、しないのか」と問うた根源的な疑問に対する、最終的で完璧な答えです。この世界で我々が経験するものは全て、生じては滅びる非実在(असत्, asat)ですが、その背後には決して滅びることのない絶対的な「実在(सत्, sat)」があります。真の自己であるアートマンは、身体の死を超えて永遠に「在り続ける」不滅の本質であり、その「実在」こそが宇宙の根本原理ブラフマンと本質的に同一であるという、ヴェーダーンタ哲学の不二一元の究極真理が、ここに力強く宣言されているのです。

この「ॐ तत् सत् (oṃ tat sat)」という三重の表現は、後の『バガヴァッド・ギーター』(17.23)においても、ブラフマンを示す三つの名称として説かれています。 (oṃ)は音としての顕現、तत् (tat)は言語を超えた超越性、सत् (sat)は揺るぎない実在性を象徴し、この三つが渾然一体となって、人間の認識能力では捉えきれない絶対実在の全体性を指し示します。あらゆる祭儀や善行の始めにこのマントラを唱えることは、その行為を個人的なものから普遍的な真理へと結びつけ、聖化する力を持つと信じられています。

したがって、この結びの句は、カタ・ウパニシャッドという霊的交響曲の最後の荘厳な和音であると同時に、この教えに触れた者への永遠の招待状でもあります。それは、ナチケータのように純粋な探求心をもって真理を求める者は、必ずやこの絶対的な「実在」との合一に至ることができるという、力強い保証の言葉なのです。この三語を深く瞑想する者は、死という最大の謎をも超越した、永遠の平安と至福の境地への道が開かれていることを知るでしょう。

最後に

私たちは、本書を通じて、少年ナチケータの霊的な旅路に寄り添い、死の国という最も暗い深淵から、不滅の智慧という最も輝かしい光明へと至る、荘厳な対話を見届けてきました。父への純粋な献身から始まった物語は、やがて「善(シュレーヤス)」と「快楽(プレイヤス)」という人間存在の根源的な選択へと至り、ついには「人は死後、どうなるのか」という、究極の問いの核心へと迫っていきました。

死の支配者ヤマ神が、ナチケータの不退転の求道心に応えて解き明かした答えは、驚くほどシンプルでありながら、この上なく深遠なものでした。それは、私たちの真の本質であるアートマン(真我)は、生まれることも死ぬこともなく、肉体という「十一の門ある城」が崩れ落ちる時にも、何ら損なわれることのない、永遠不滅の実在であるという真理です。ヤマ神は、火、風、太陽といった壮大な比喩を用い、またヨーガの実践的な階梯を示すことで、このアートマンが、個人の内なる意識であると同時に、宇宙の森羅万象を貫く根源的な実在(ブラフマン)と寸分違わぬものであることを、繰り返し説き明かしました。

ナチケータの問いは、決して古代インドの神話の中だけの出来事ではありません。それは、現代を生きる私たち一人ひとりの魂が、心の奥底で抱き続けている問いそのものです。私たちは、移ろいゆく富や名声、人間関係といった「快楽」を追い求める中で、本当に価値ある「善」を見失ってはいないでしょうか。そして、自らを有限な肉体と心と見なすことで、老いや死への尽きることのない不安に苛まれてはいないでしょうか。

『カタ・ウパニシャッド』の教えは、こうした現代人の苦悩に対し、明確な処方箋を示しています。それは、外に向かう意識の流れを転換させ、自己の内なる世界を探求する「ヨーガの道」です。感覚という馬を、理性という御者が、精神という手綱で見事に制御する「戦車の比喩」は、自己の内なる秩序を回復するための、時代を超えた実践的な手引きです。この道を通して「心の結び目」が解き放たれるとき、人は死すべき存在でありながら、不死の境地を体得するのです。

本書を読了された今、願わくは、ナチケータの純粋な探求心と、ヤマ神の慈悲深い智慧が、皆様の心の中に長く留まりますように。そして、このウパニシャッドの叡智が、日々の生活の中で直面する様々な課題や苦悩を照らし出す灯火となり、皆様を内なる平安と揺るぎない自由へと導く、永遠の伴侶となることを、心より祈念しております。

【サンスクリット原文出典】
Sanskrit Documents. "Katha Upanishad"
https://sanskritdocuments.org/doc_upanishhat/katha.html

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