ヒンドゥー教の僧侶階級は、ご存知のように菜食主義者です。しかしインドの菜食は言わば「インド式」で、乳製品はOKというものであり、より厳格な「Vegan(ヴィーガン)」よりはかなり柔軟なことで知られています。
しかし、同じインドの菜食でも、乳製品はOKなのに、「根菜類はNG」という僧侶階級の人を多く見かけます。太鼓タブラの話しで述べました、僧侶階級なのに、太鼓奏者という友人自炊のカレーには、玉葱が入っていませんでした。
また彼は、他人が口を着けた食器やグラスは、それが家族であっても口に充てることはしないそうで、日本に来た時はどうにもならないので自分で洗って使ってました。最近日本でもちょっと有名になったインド人が1Lの紙パック飲料を見事に口に充てずに飲むのもそのような慣習が原点なのでしょう。
このテーマのインドでの想い出は、夜行列車の「チャイのための深夜の臨時停車」で味わった、後にも先にも「最高の美味しさ」の感動とともに蘇って来ます。
小さな素焼のカップに注がれたチャイを飲み干すと、インド人たちはカップを線路に投げつけていました。もちろん街の屋台やレストランでは使い捨てではないのですが、理想を言えば、駅の素焼カップや紙コップがありがたいということでしょう。紙コップは非エコですが、素焼カップは、枕木の下の砂利と同化してしまうようです。
かつて世界各地の楽器には、「誰もが自由に触れる奏でられる」ではない、厳しい掟やしきたりがありました。葬式音楽専用の楽器もあれば、女性が触れない楽器も多い。かと思うと、もっぱら女性用の楽器も無くもない。今日の日本では民芸品店で気軽に売っていても、本来は現地でも容易く触れなかったものも少なく在りません。高貴高尚であることと差別蔑視の両方の場合がありますが。
インドの僧侶階級は、横笛「Bansri(バンスリ)」を本来禁忌としていました。「本来」と述べたのは、またしても例の友人は、太鼓のみならずBansirも吹いていたからですが。逆にインドで初めてBansriで古典音楽を演奏し認められた演奏者がデビューした際には、けっこう物議を醸したと言われ、その演奏者は、古典声楽の技法をもってして民謡扱いのBansriの音楽性を高め次第に認知されたと言います。しかも彼は、民謡のBansriの数倍は大きいBansriを開発し、そのために指の間の皮を切って指が届くようにしたという噂さえあります。
奇しくも私の太鼓Tablaの師匠のひとりがその演奏者の甥っ子なのですが、噂は噂に過ぎず、生まれつき手が大きな人だったとのことでした。
「僧侶階級は竹を口に充てることをしないので、Bansriは禁忌である」は、私自身いまひとつ納得し切れていない観念なのですが、Bansriは、「民謡の楽器」という格下扱いであるからでなく、一説には、「竹が根菜であるから駄目なのだ」と言われます。
比較的厳しいインド菜食では、葉ものや果実はOKですが、芋や根菜はNG。玉葱のみならず、長葱も、「根っこ、幹、枝、葉、果実」と明確に分離されていないから駄目だと説いてくれた人も居ました。そう言われれば竹も確かにその類いではありそうです。
幾つかの文献には、「しかたなく鼻で吹いた僧侶が居た」とも書かれています。真剣な話しなのか、日本の一休さんのような話しなのか? 分かりきれないところがインド的でもありますが。ハワイにも「鼻笛」がありますから、古代人にとっては、何か意味深いものがあったのかも知れません。
(文章:若林 忠宏)
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