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インド音楽

89、インド科学音楽の将来: 樹を見て森を観ない「変質しつつある東洋医学(2)」

アラブ留学経験がおありの十年前の生徒さんが当時、と或ることで悲しみに在った時に、SNSで「我が家の猫にもそういうことがある」などで励まし感謝のお言葉を頂いたことがありました。それをこの度「個人の違いを理解して欲しい。認めない訳でも誤解している訳でもなく、共感出来ないことがある(例えば猫に対する想い)ということ」というテーマに於いて「実はあの当時、感謝の念の他に『私は猫じゃない!』という想いもあった。それも『猫に対する想い』が違うからだ」とおっしゃいました。「ごもっともの常識的正論」です。

また、私がここ七年以上、西洋化学製剤療法では改善しない様々な猫の病気を中医・漢方弁証論治と西洋ハーブ、そしてアーユルヴェーダの叡智と生薬で治して居ることについての「コラム原稿」を様々なインド文化関連、アーユルヴェーダ関連のサイト管理者さんに採用のお願いをしましたが、ことごとく却下されました。「猫が嫌いな読者も少なくない」「猫に偏っている」ということでした。

確かに、元生徒さんがおっしゃった「私の枝葉は『猫が好きじゃない』人間の枝葉」であり、「先生(筆者の私)の枝葉は『愛猫家』の枝葉」という解釈に間違いはありません。同様に「アーユルヴェーダの枝葉」「ヒンドゥーの枝葉」などなどが無数にある訳です。

また、或る時、私の音楽を高く評価し「大先輩」とおっしゃった若者が、西アフリカ太鼓「ジェンベ(彼らはジャンベと言いますが)」にハマった後、現地修行も頑張ったのですが、或る時「先輩(私のこと)がしばしば本に書き、語る『ジェンベのルーツはアラブ・ペルシアの........』の言葉に正直「カチン!」と来ている」とおっしゃいました。「ジェンベはジェンベ!」「理屈や歴史はそうかも知れないけれど」と。

「猫への想いの話し」「猫アーユルヴェーダ治療のコラムの不採用」「ジェンベのルーツの話し」「国際交流基金講座でのご感想」などなどの全てに共通していることが、「枝葉=個性=個人の感性=それを守り発表・主張する自由」が至上的・偏重しているというテーマであることと、「中枝・太枝では一緒。ましてや幹はひとつ」という「連帯・・共感論」は、前者「個人主義とその自由と権利」を「脅かすものである」かのような誤解~違和感・反発感を抱かれ易い、というテーマがあることです。

一足飛びに後者の仮説を受け入れ認めることは、中々出来にくいかも知れませんが、少なくとも「中枝は一緒、幹はひとつ」ということが「言葉では分かる」「頭では分かる」だがしかし「心や気分・感情は動かない」。つまり「観念にもなっていない」ということは言える筈で、ご理解頂けると思います。あたかも「絵に描いた餅」「仏作って魂入れず」のようなものです。

「森を観る」ということ
奇しくもこのテーマが、2017年4月26日放送のNHK「ガッテン」の主題として登場しました。それは、「いねむり運転ではないのに起る事故の原因」に、連続的で単調な動きや景色が続くと「網膜の周辺視が休止し、異変に気付かない」。それどころか、「中心視」は、「スピードが遅く感じる(見える)」からだ。というものでした。

逆に紹介されたのが「周辺視の使い方が卓越している例」でした。「周辺視」は、「動体視力に長けますから、「スピードや違和感」を鋭く察知するのです。

具体的な例として紹介された剣道歴50年の七段名士の場合、「(アイカメラで測定しても)中心視が動かないのに相手の動きを全体的に把握して察知出来る故に、無敵の強さを誇る」というもので、卓越した精密機械の部品をチェックする「検査技師」も同様であると紹介されました。本人弁として、後者は「一生懸命見るのではなく、何気なく見る中で違和感を感じる」と言い、前者は「遠山の目付」という伝統的な言葉を上げていました。

これは正に昔の「火の見櫓の番人の観方」に他なりません。言い換えれば「樹を見て森を観ない」習慣が強い人々は、或る種「近視眼的」と言わざるをえないのです。
ご不愉快に感じられる方も居るだろうと覚悟の上で極論的に呼称して、以下「樹を見て森を観ないタイプ」は、「近視眼的である」とさせて頂きます。そして逆の「連帯・共感力が高いタイプ」は、「俯瞰力・全体把握力・洞察力が高い」という意味で「視野が広い」とさせて頂きます。

ここに二つの問題が浮上します。そのひとつは「近視眼的」なタイプは、「視野が広いタイプ」の感覚や意見を中々聞き入れないというやっかいな問題です。「ガッテン」の番組でも、「安全運転歴に自信がある」という(前日充分に睡眠を取った)人が数名登場し、「シュミレーター・カー」を運転して事故を起こしました。逆に、「広い視野」を基本にしている人は、「違和感・異変」に気付けば、その「一点」にズーム・インして凝視することは日常的に行っていますから、「近視眼の問題性・危険性」は熟知しているのです。

例えは「視覚」という「或るひとつの感覚機能(Gnyana-Indriya)」の話しでしたが、それにこのような「特性(或る意味落とし穴)」がある以上、「近視眼的なタイプ」の人々は、必然的にその「認知機能」も同様であり、さすればその「思考も同様である」ということになる筈です。
そうなりますと,或る意味「当然」のように、「森を観る」という概念は、観念にもならない「言葉上のもの」「有名無実なもの」に陥ってしまうのでしょう。

図について
私が作図致しました今回の図は、「Ayurveda」と「インド科学音楽療法」そして「中医・漢方弁証論治」を大雑把にまとめたものです。いずれもかなり複雑な理論体系を持ち、更にかなり高度な「論理的理解」を求めるものですが、逆に「森全体を観る」感覚で俯瞰することによって、「本質的特徴」も見えて来る筈です。

例えば、最近でこそ、「ヨガに興味ある人がアーユルヴェーダにも関心を抱く」とか、「アーユルヴェーダがきっかけでヨガやインド占星術(Jotysha)にも興味を持った」などが増えて来ましたが、古代に於いていずれも「同時進行(同源同価値)」していたものが、日本では長年「分化」した感があります。少なくとも「体に入る食物など」には関心が高まっても、「心に入る言葉や音楽」に関してはまだまだ関心も理解も低いと言わざるを得ません。そのことからも、「総合的な科学」の本来の姿とはいささか隔たっていることは事実でしょう。
図の中程に示しました、「インド科学音楽」は、今回迄の数十回の連載でお分かり頂けたと思いますが「鑑賞音楽」ではない、と言い切れる程に「治療と精神修行」の為の音楽である訳です。当然、「季節や時間、環境、自然」の影響も大きく受けている筈ですが、「規定」は伝承されてはいても、その論理的概念は,殆ど廃れてしまっています。結果、「音楽」としてのみ、「聴いて受け止める」ということに偏ってはいます。

一方、「中医・漢方弁証論治」の場合は、「アーユルヴェーダ・ヨガ・瞑想・占星術」以上に分化が進んでいます。例えば「自然環境との関わり」に関しては、「中医・漢方弁証論治」とは、ある程度距離があるか、人によってはかなりかけ離れた感が否めないほど「風水」や「気功」に委ねてしまい「中医・漢方弁証論治」で関係させて語られることは殆どありません。

このことから分かるように、「中医・漢方弁証論治」の場合、少なくとも近代以降、「外部との関わり」は、もっぱら負の要素、つまり「外部から侵入する病気・病淫・病邪」に偏っており、逆の「有効なもの,治療に役立つもの」については殆ど語られません。

これは、「近現代のアーユルヴェーダ」も同様で、薬効に関しては「陰陽20種のGuna(薬味)」が語られているのに、「風景や森林浴、動物との触れ合い、新鮮な草木の香り、心地よい風」などは、20種の内のもっぱらたったひとつ「癒し」ばかりが取沙汰されています。

「医食同源」の意識によってようやく、「良薬口に苦し」も我慢・納得して摂っても、「言葉、音楽、風景、生き物」に関しては「甘いものばかりを求める」という偏りに、問題が無い筈はありませんが、それを説く人は殆ど居ません。

最後までご高読下さりありがとうございます。

You-Tubeに関連作品を幾つかアップしております。
是非ご参考にして下さいませ。

Hindu Chant講座Vol.1

Hindu Chant講座Vol.2

Hindu Chant講座Vol.3

Hindu Chant講座Vol.4

Vedic Chant入門講座(基本理解編)

Ayurveda音楽療法紹介(基礎理解編)

アーユルヴェーダ音楽療法 (実践編1)

アーユルヴェーダ音楽療法 (実践編2)

アーユルヴェーダ音楽療法 (実践編3)

「いいね!」「チャンネル登録」などの応援を頂けましたら誠に幸いです。

(文章:若林 忠宏

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